今から60年前の1月19日、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が日米地位協定とともに締結された。日本側で文書に署名したのは岸信介(総理大臣)、藤山愛一郎(外務大臣)、石井光次郎(法務大臣)、足立正(日本商工会議所会頭)、朝海浩一郎(駐米特命全権大使)だ。
1951年9月にサンフランシスコのプレシディオ(第6兵団が基地として使っていた)で署名された日米安保条約を失効させて、新たな条約として批准されたもの。1951年のものを旧安保条約、1960年のものを新安保条約とも呼ぶ。旧安保条約が署名されたその日、同じサンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」が結ばれている。
日本に限らず、アメリカが結ぶ軍事同盟の大きな理由はふたつある。相手国を侵略の拠点にすること、そして相手国を支配し続けることだ。
イギリスやハリー・トルーマン以降のアメリカはソ連/ロシアを侵略する動きを見せているが、これは本ブログで繰り返し書いてきた長期戦略に基づいている。その最終目標は世界支配だ。
これは制海権を握っていたイギリスが考えた戦略で、ユーラシア大陸の周辺部を支配して物流をコントロール、内陸国を締め上げていくというもの。
これをまとめ、1904年に公表したのが地政学の父とも呼ばれている地理学者のハルフォード・マッキンダー。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこの戦略に基づいているが、その後、この戦略が放棄された兆候は見られない。
それに対抗してロシアはシベリア横断鉄道を建設した。ロシアが建設しているパイプライン、中国が推進している一帯一路もそうした対抗策だと言えるだろう。
NATOの場合、加盟国には秘密工作部隊が設置されている。中でも有名な組織がイタリアのグラディオ。1960年代から80年頃まで「極左」を装って爆弾攻撃を続けた。狙いは左翼勢力に対する信頼をなくさせ、社会不安を高めて治安体制を強化することにあり、「緊張戦略」とも呼ばれている。
そうした秘密工作部隊は各国の情報機関が管理、その上にはアメリカやイギリスの情報機関が存在している。手先として右翼団体が利用された。
イタリアでグラディオの存在が浮上したのは1972年のこと。イタリア北東部の森にあった兵器庫を子供が発見し、カラビニエッリと呼ばれる準軍事警察が捜査を開始するものの、途中で止まってしまう。
再開されたのは1984年。事件は右翼団体ONがイタリアの情報機関SIDと共同で実施していたことが判明する。SIDは1977年に国内を担当するSISDEと国外を担当するSISMIに分割され、情報の分析を担当するCESISが創設されていた。
ジュリオ・アンドレオッチ首相は1990年7月、SISMIの公文書保管庫の捜査を許可せざるをえなくなり、同年10月に首相は「いわゆる『パラレルSID』グラディオ事件」というタイトルの報告書を公表した。グラディをの存在と活動を公式に認めたのである。
グラディオの創設に関わっていたフランチェスコ・コッシガは大統領を辞任するが、2007年に興味深いことを話している。2001年9月11日に引き起こされた世界貿易センターと国防総省本部庁舎への攻撃はCIAとモサドがアラブ諸国を非難するために計画、実行したことを欧米の民主勢力は知っていると書いたのである。(“Osama-Berlusconi? «Trappola giornalistica»,” Corriere, 30 novembre 2007)
アメリカと軍事同盟を結んでいる日本にも秘密工作部隊が存在しているのかどうかは不明だが、あっても驚かない。
1945年4月にフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、5月にドイツが降伏たが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はソ連への奇襲攻撃を目論んでいる。そして作成されたのがアンシンカブル作戦。これは参謀本部の反対で実現せず、アメリカでの原爆実験の成功で核攻撃へ彼の気持ちは移っていく。
アメリカでも好戦派がソ連に対する核攻撃計画を作成しはじめるが、そうした流れの中、1950年代に沖縄の軍事基地化が進んだ。沖縄を先制核攻撃の出撃拠点にしようとしたわけである。
沖縄で基地化が推進されていた1955年から57年にかけて時期に琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはアレン・ダレスたちとナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行した軍人で、1960年に統合参謀本部議長となった。
1954年にソ連を攻撃するための作戦を作成したSAC(戦略空軍総司令部)を指揮していたカーティス・ルメイもダレスやレムニッツァーの仲間で、1961年に大統領となったジョン・F・ケネディと対立する。
ダレスたち好戦派は1957年初頭にソ連を核攻撃する目的で「ドロップショット作戦」を作成。 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると
しかし、その前にはケネディ大統領という大きな障害があった。この障害が排除されたのは1963年11月22日。テキサス州ダラスで大統領は暗殺されたのである。
NATOにしろ日米安保条約にしろ、その目的は侵略と支配であり、防衛の要素があるとしても、侵略と支配を前提にしての話だ。