台湾がアメリカとの軍事同盟を強めようとしている という。蔡英文が総統に就任にした2016年以降、台湾は中国との関係を悪化させる一方でアメリカとの関係を強化してきた流れをさらに推し進めるということだろう。ロシアや中国を屈服させるために恫喝を続けているアメリカにとっては願ってもないことだ。
中国にとって台湾がどのような位置にあるかは、アメリカがキューバに対してどのような行動を取ったかを思い起こせば理解しやすい。アメリカとキューバとの距離は中国と台湾との距離は比べて遠い。そのキューバへアメリカが敵と見なしていたソ連の軍隊が入り、ミサイルを配備したところからキューバ危機は始まった。アメリカは軍事的に解決しようとしたのだ。アメリカ政府は自分たちの台湾、韓国、日本における行動が中国やロシアを刺激すると理解しているだろう。
アメリカの偵察機U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのは1962年8月のこと。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明している。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)
当時、アメリカの軍や情報機関にはソ連や中国を先制核攻撃するべきだと考えるグループが存在していた。カーチス・ルメイ空軍参謀長もそうしたグループの一員で、彼らはジョン・F・ケネディ大統領に対して10月19日に空爆を主張する。キューバを空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。
10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。アメリカの好戦派は政府の命令を無視して挑発を繰り返したわけだ。
同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。
この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたならカリブ海にいたアメリカの艦隊は全滅、米ソは全面核戦争へ突入した可能性が高かったが、核魚雷は発射されなかった。ソ連の潜水艦にたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)
ルメイたちは大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否されている。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除してソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。
ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に主張していたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)
そして1963年11月22日にケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。
ソ連がキューバへミサイルを運び込んだ背景にはアメリカやイギリスの軍事強硬派の計画が存在していた。例えば1945年8月末にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対してソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出、9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計、ソ連全体を破壊するためにアメリカが必要とする原爆の数は446発、最低でも123発だと算出されていた。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと書かれている。1952年11月には初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てていた。
実行を想定していたと考えられる1957年作成の「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
これが1950年代に沖縄の軍事基地化が進められた背景であり、そうして建設された基地は中国やソ連を攻撃する拠点。核兵器が持ち込まれるのは必然だった。勿論、「核の傘」ではなく「核の槍」だ。沖縄にアメリカの海兵隊が駐留しているのも必然。屁理屈をこねる必要はない。
テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、 アメリカの先制核攻撃は1963年後半に実行されることになっていた が、大きな障害が出現していた。ソ連との平和共存を訴えていたジョン・F・ケネディが大統領に選ばれたのだ。そのケネディは暗殺され、その責任をキューバやソ連に押しつけ、ソ連との戦争を始めようという動きがあったが、これは挫折した。(つづく)