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いつもいつも「そうだ坊主になろう!」を読んでいただいてありがとうございます。「ラジオデイズ」の立ち上げと運営に忙殺されたあっという間の一年間でしたが、真夏37度の猛暑の中、全身汗でずぶ濡れになって歩いた秩父観音霊場巡礼が遠いとおい昔のように思い出されます。一年間、無事息災で公私にわたって活動できたことは、神仏のご加護だけでなく、多くの縁ある方々のお陰様であると、あらためて感謝、感謝、感謝の大晦日です。ほんとうにお世話になりました。来年があなたにとって幸せな年でありますように!では、良いお年を!合掌 観学院称徳
2007年12月31日
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クリスマス。キリスト教徒が祝うイエス・キリストの降誕祭を、世界で最もキリスト教徒の人口比率が少ないレベルと言われる日本で盛大に祝っています。たとえ教会へ行かなくてもおかまいなく、街でも家庭でも祝っています。これは現代世界では珍しい八百万の神、多神教的な宗教観によるものです。日本人には唯一絶対神を崇拝する宗教の神を、阿弥陀様や観音様、帝釈天や天照大神、天神様と同列に並べて何の違和感もないのです。たいへんおめでたい、真の世界平和をもたらすことができる宗教観であります。しかし、日本人がこぞってユダヤ教やイスラムの祭日を祝うという話は聞きません。何故でしょうか?それはキリスト教とクリスマスに、ある秘密が隠されているからなのです。第一の疑問、キリスト教は一神教であるという前提です。これはその源流であるユダヤ教から受け継いだ大前提です。しかし、これはすぐに破綻(悪い意味ではありませんよ)します。イエスが神の子であり神である、とした途端に世界に神が二人存在することになるからです。初期キリスト教の一派で後に異端とされたものの中にはそうした教義を持つものもあったようです。イエスの母であるマリア様も後に神格化されましたし、このイエスの洗礼に当たって聖水を注いだ天使たちだって神からつかわされた人ではない何ものかであり、イエスの弟子たちも後に神格化されて聖人となり、崇敬の対象とされています。聖人は仏教で言えば菩薩にそのまま当てはまります。これって、当然一神教ではありえないわけで、同じ唯一絶対神を信仰する同根の親戚関係にありながら、ユダヤ教や後のイスラムとの対立原因となっています。もちろん皆さんご存じのようにキリストの弟子たちは、この矛盾を一挙に解決したのです。そう以前にもお話しした三位一体ですね。父と子と聖霊とを一体とみるあれです。父なる神とその子イエス、沢山登場する天使や聖人たちを聖霊として、すべてを唯一絶対神の現れであるとするものです。聖人は神ではないと言う人もおりますが、ローマカトリックの国ですら崇拝対象とされているのですから、神の化身と考えても間違いではありません。もちろんこれは彼らの発明ではなく、すべては大日如来(法身仏)の現れであり、阿弥陀如来や観音菩薩などを報身仏、人でもあったお釈迦様を応身仏とする、三身一体の思想と同じもの、ヨーロッパ人の源流であるインド・アーリア語族の神話世界に一般的な宗教観でありました。直接的にはローマ帝国の国教であるミトラ教とローマ神話、その元はペルシャのゾロアスター教などにみられる、多神教的世界に三角形という安定的な構造をもたらすアイデアなのでした。この三位一体の教義を確立することによって、一神教であるキリスト教がローマ帝国という多神教世界に浸透していき、やがてその国教となって世界宗教へと発展していくことになるのです。自由な考え方の好きなローマ人がキリスト教に馴染んだのは、唯一絶対神を重んじる教えに惹かれたのではけしてなく、三位一体の多面神への信仰に慣れていたからだと言うことができます。そしてその過程において、当然の流れとして多神教ヨーロッパの神々やその祭日を取り込み体系化していくのですが、その大きな祭日のひとつに本日のタイトルであるイエス・キリストの生誕日クリスマスがあるのですよ。クリスマスの秘密。それは実は、イエス様の誕生日ではないのです。新約聖書にイエスの誕生日の記載はありません。では、何故12月25日なのか?それは前述のローマ国教であったミトラ(ミスラともミトラスとも呼び、仏教の弥勒菩薩とも関連)教の主神、神話上の太陽神ヘリオスやアポロンとも密接な関係のある帝国の守護神ミトラの、まさに誕生日とされる日なのです。因みにローマカトリックの大本山があるバチカンの丘は、ミトラ神を祀る洞窟神殿のあった場所であり、法王をパパと呼ぶのは、ミトラ教の最高祭司の称号パテル・パトラムPater Patrumに由来し、マリア信仰は女神信仰が置き換わったものなのです。また、クリスマスは緯度の高いヨーロッパで古代から行われてきた冬至の祭りでもありました。それは一年で最も昼が短く夜が長い日であり、この日を境に昼が長くなっていくことから、新しい生命と太陽と男性豊饒神の誕生日という意味も併せ持っていました。異教の祭りを活用して民衆の支持を得たいというイエスの後代の使徒たちの明確な意志がそこにはありました。救世主イエスの誕生日がまさにこの時期以外には考えられないことがお分かりだと思います。考えてみればモミの木に多くの星々や色とりどりの玉を飾るクリスマスツリーは明らかに異教的であり、三位一体という教義を取らなければあってはならないものです。ツリーの頂上に輝く大きな星は不動の北極星としての神が大木に降臨したもの、梢に輝く無数の小さな星や玉たちはツリーに集まった精霊たちなのですから、これはヨーロッパの森に育まれた自然崇拝の多神教以外の何ものでもない精霊祭りのシンボルなのです。20世紀のはじめヨーロッパの教育学者であり、神智学者であったルドルフ・シュタイナーは、イエス様をお釈迦様の生まれ変わりだと考えました。キリスト教誕生からイスラムが覇権を確立するまでの間に西アジアに広がっていたマニ教は、ペルシャのゾロアスター教を中心に西の果てパレスチナのキリスト教と東の果てインドの仏教を習合した世界宗教を目指しました。当時は地中海沿岸のトルコやパレスチナから西北インドまでペルシャ帝国の領域でしたから不思議なことではありません。マニ教は一時ローマ帝国にも信者を広げていました。その野望は結局砂漠の中に潰えてしまいましたが、混迷する21世紀初頭の現代こそ、洋の東西を問わず人の心に巣くう病魔から世界の人々を救済する宗教世界の融合と共存体制の確立が求められている時代はないのではありませんか? 宗教宗派の枠を超えて世界の人々が手をつないでいく、新しい生命と太陽と人類の豊饒神の誕生日というのが、クリスマスの真の意味だと、拙僧は考えます。Merry X'mas!生きとし生けるものが幸せでありますように!合掌 観学院称徳 ご参考『三位一体』『対称性人類学』を読む 2006年12月09日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200612090000/真実の友情は慈しみから~弥勒菩薩 2005年07月13日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200507130000/スーパースター阿弥陀様 2005年08月28日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200508280000/阿弥陀如来の秘密!? 2005年08月29日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200508290000/最近の読書傾向と前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の偉大さ発見 2005年04月22日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200504220001/「神の名において殺すな」 ローマ法王の遺言 2005年04月05日掲載http://plaza.rakuten.co.jp/epub777/diary/200504050000/
2007年12月24日
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またまた霊感商法が発覚しました。小学生の習字練習で失敗して捨てるようなものと書道の先生が評した書など二束三文の霊感グッズで3年間に100億円も荒稼ぎしていたということです。宗教の皮を被った詐欺師達にとっては、心の隙間を狙うのはいとも簡単なことなのでしょうね。今流行のヒーリングサロン200店以上を経営する4つの会社を傘下にして、そこに通ってくるお金のあるご婦人方や不安を持つ経営者を餌食にしています。これらの会社からの上納金は霊感グッズ売上の7割ということで、宗教団体ではないと言いながら教主(「てんしゅ」と呼ぶらしい)を中心に、ヒーリングや除霊のための宗教的な儀式も行なっていたようで、詐欺師達は宗教や信仰の持つ効用を十二分に悪用していたのです。宗教や信仰は個人の心の領域に属することであって公序良俗に反しないかぎり他人がとやかく言うことではありませんが、少なくとも後で後悔しないためには簡単な正邪の見分け方があります。以下に、以前にこのブログに書いた記事を再掲させていただきます。宗教は信仰ですから、信じることができれば良いも悪いもありません。「信ずるものは救われる」というのが昔から宗教の基本的な機能です。当時のバラモン教に疑問を感じて自ら悟った真理を入滅のその日まで布教し続けたお釈迦様でさえも、「どんな宗教にも良いところはある」とその存在そのものは肯定されました。オーム真理教のように公序良俗に反しない限り、信教の自由は認められています。しかし敢えて見分けたいというのなら、「何に付けても寄付やお布施など、お金を要求してくる」ような宗教は怪しいと思ってもいいでしょう。その上もう一つ「お金さえ払えば望みがかなう」「お布施をすれば救われる」というようなことを言う場合は、ますます怪しい。人は誰でもお金を要求されると、いったんは合理的な判断をしようとするものです。そこでこの手の悪い宗教は、必ず現世利益、それもどんな欲深い願いでもお金を対価として「叶えてしんぜよう」と言うのです。考えて見てください。どのような宗教でも人間を超越した存在を神や仏としているはずです。そしてその超越した存在である神仏が、人間界の価値基準であるお金を対価として、ましてその金額の多少を判断基準にして、願い事を聞いてくれたり聞かなかったり、救ってくれたり救わなかったりするでしょうか? 素直な佛弟子である私には、こうした宗教家は神仏の名を騙る詐欺師としか思えないのですが。。。 (2005年03月03日掲載「良い宗教と悪い宗教の見分け方」を再掲)これはヒーリングやスピリチュアルの世界でも言えることです。宗教という形はとらなくてもこうしたところに来る人は心に不安を抱えているのですから、詐欺師にとっては鴨ネギ状態、ヒーリングやスピリチュアルが悪いわけではありませんが、悪用しようと思う人もいると肝に銘じておくことです。ある時は甘い言葉で囁き、またある時は怖ろしい言葉で恫喝する。これは悪魔の常套的な手口です。もともと心に不安を持っていたり疲れて心の弱っている人が癒しを求めてくるので、「悪霊に取り憑かれている」「不幸になる」果ては「地獄に堕ちる」と脅かして、それから救うための高額な霊感グッズを売りつけ大金を巻き上げるのは、詐欺師にとってはいとも簡単なことでしょう。悪魔とはあの世の者でも想像上の者でもなく、あなたを不幸におとしめることで利益を貪るこの種の悪者のことなのです。つけ込まれないようご注意ください。お釈迦様は言われました、「すべては心が作り出す」。不安や恐怖を作り出すのは自分の心であり、自らの心をコントロールすることによって不安や恐怖を制することができる、と。また、他人を頼ることなく自らを頼りとして生きて行け、とも言い残されました。もちろん人生の道連れである家族や友人などを大切にすることも忘れてはなりません。一休さんの作った歌があります。極楽も地獄も我にあるなれば悪念起こるこころ制せよ(『一休和尚往生道歌百首』より)あなたの心が悪魔の攻撃に打ち勝つことができますように 合掌 観学院称徳
2007年12月23日
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ラジオデイズ落語会(12月14日)は赤穂浪士討入りの日の開催、お待ちかね柳家喬太郎と隅田川馬石が登場。開口一番は柳家小三治門下三之助。長屋のガキ共と遊ぶお坊ちゃんが金の大黒様を拾うネタは「黄金の大黒」。祝いに駆けつける長屋の住人達の演じ分けはお見事。続いて喬太郎師匠登場。人だかりの中、粗忽な男が行き倒れを兄弟分だと錯覚、当人を連れて来ると飛び出す。茫然とする本人に「お前は死んでるよ」。柳家伝統の「粗忽長屋」で笑いの中にシュールな味を醸し出す。次は華がある二枚目馬石師匠。金が欲しいと寝言する船頭、娘連れの侍に酒手をはずむと頼まれ小雪降る大川に漕ぎ出す。ネタは「夢金」。実は侍、急な癪で倒れた娘を助けたが懐の大金に目が眩み船頭に殺しの手伝いを持ちかける。師匠雲助譲りのメリハリの利いた噺っぷり、良質な芝居を見るようだ。 仲入り後も馬石師匠。犬が願掛けして人になるが頭の中は犬のままという設定から話は妙な展開へ。ネタは「元犬」。軽い噺も上手いね、このしとは。トリはもちりん喬太郎師匠。ネタはこれも柳家伝統三代目小さんが有名な「うどんや」。しんしんと寒さが身に沁みる冬の夜、「なーべやーきうどん」と売り声が響く。情景と人物描写の細やかさに脱帽、江戸の街並みや見たこともない担ぎ屋台のうどんやが脳裏に浮かぶ。これも芸の力、恐るべし。 一方、オリンパスシンクる寄席は何とラジオデイズ落語会と同日開催。同時に見ることはできずライブ録音での鑑賞。ベテラン瀧川鯉昇と若手三遊亭天どんの対決。 創作落語の王者三遊亭円丈師匠の弟子の天どんさん、新作で不思議な境地を開く実力派。初めのネタは「再編家族」。世は企業合併再編時代、世間の荒波を乗り越えるため家族も合併再編に。父は副父さん、長男は次男から犬に降格? もう一つ「クリスマスの夜」。サンタクロースの扮装をした人のいい泥棒、一仕事を目論むが…。客は納得大笑い。 鯉昇師匠は「家見舞い」、惚けたマクラで笑いを誘い自然とネタに入ります。兄貴分の新築祝いに行きただ酒にありつこうという二人組、掘り出した肥瓶を買い水瓶と偽って持って行くが…。馬鹿馬鹿しくも強引な面白さ。トリも師匠で「二番煎じ」。火の用心の夜回りをするご近所同士、「火の用心」が売り声や小唄謡曲に。番小屋での楽しみ猪鍋で酒盛り中、役人が現れ大慌て…。抜群の表現力できっちり古典を味わえました。いやー落語は面白い。 以上、ヒロ伊藤が報告しました。「声」と「語り」のラジオデイズ
2007年12月22日
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他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みからまぬがれることができない。(『ブッダの真理のことば ダンマパダ』第291偈 中村元訳 岩波文庫より)イジメは人が自らを他人から区別し、そこに個性と優位性を見出そうとするとき、必然的に生まれる感情の発露のひとつの典型的な行動様式であり、従って誰の心の中にも芽生える可能性のあるものです。お釈迦様はそこで「自他不二」という考え方を私たちに提示されました。自分と他人は異なる二つの存在ではないというのです。生きとし生けるものは、命をもってこの世界に生まれてくる。この命というものの本質を考えるとき、生きとし生けるものは皆同じだということです。例えばDNAレベルまでミクロな現象に視点を据えるならば、現代の科学はこの考え方がけっして単なる思想ではなく、真理であることを実証しています。後世の仏弟子たちはこの同じ存在を仏性と考え、「一切衆生悉有仏性」すべての生きとし生けるものには悉く仏となる性質がある。さらには「山川草木悉皆成仏」すべての生きものは一木一草に至るまで悉く仏と成っている。山や川といった自然界の無生物でさえそのまま悉く仏と成っているのだ、ということです。これも地球そのものをひとつの生態系であり、生命体とみるガイア思想から考えれば現代の科学が実証済みということなのです。人の体だって数え切れない細胞やタンパク質などの物質が共同協創して創り上げている生態系であり小宇宙であると考えれば、生物も無生物も皆同じだと納得できることでしょう。お釈迦様の説いた絶対平等とは、実はこういうことでありだからこそ、あなたも私も、生きとし生けるもの、自然も、この地球もみんな上下の区別無く、そのままで尊いのだということなのです。生きとし生けるものが怨みの呪縛から解き放たれますように!合掌 観学院称徳
2007年12月15日
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「声」と「語り」のラジオデイズから今週も新しいコンテンツがリリースされています。持ち前の明るさと美声、テンポの良さが光る柳亭市馬師匠の古典落語「締め込み」と「目黒のさんま」大師匠文治譲りのとぼけた味が笑いを誘う桂平治師匠の「お血脈」「親子酒」異色上流講釈師、神田茜師匠の創作講談「あの頃の夢」「幸せの黄色い旗・ふとももムチムチ・いじめていじめて」笑点司会を長くつとめた三遊亭圓楽師匠、最盛期のNHK音源から「死神」「中村仲蔵」忘れられない昭和の名人のひとり故三笑亭可楽師匠の代表作「らくだ」「うなぎの幇間」「二番煎じ」爆笑トークに三味線の弾き語り。上野茂都の魅力を堪能できる「上野茂都の世界」話芸の魔術師、小沢昭一のご案内と朗読で「声のエッセイ14 下町 -粋と人情のワンダーランド(原作 芥川比呂志、小島政二郎)」どれも面白くてほろりとさせてくれる話芸の世界にひたれる一品です。まずは試聴から、その一端をお楽しみください。話芸の遊び人、ヒロ伊藤でした。
2007年12月09日
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破戒の沙門 八十年自ら慚(は)づ 因果撥無の禅。病は過去の 因果の果を被る、今何を行じてか 劫空の縁を謝せん。破戒に明け暮れた坊主の八十年だった自分でも恥ずかしいよ 因果というものを念頭に置かなかった禅に今の病は過去の因果の報いということか今何をすれば、人生というものの縁に感謝できるのだろう一休禅師、80歳頃の「病中」と題する二つの詩の一つです。さすがの一休さんも老境にいたり病に気持ちも沈んでいたのかもしれません。81歳で勅命により大徳寺第48世の住持となりますが、名誉職的なもので寺に入ることもなく直ぐに辞職しています。言論や自らの破戒的な行動で、堕落した当時の仏教界を批判し続けた一休さんですが、晩年は穏やかな境地を目指し、愛する森女との静かな暮らしを送ったようです。しかしそこで終わらないのが一休さんです。85歳頃から88歳入寂までの3年間、応仁の乱で壊滅した大徳寺の再興に最後の力を振り絞ったのです。人生を冥土への道と考えた一休さんですが、この世でもしっかりとした足跡を残されたのです。愚僧の及ぶところではありませんが、爽やかな人生、あやかりたいものですねえ。合掌 観学院称徳
2007年12月09日
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銀杏の葉 もみじ一葉を引き立たせそのまんまや博琳乎
2007年12月07日
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こんこんと大地の恵み塩原の湯もみじ葉に神々しくも光みつ博琳乎 温泉に浸かり、美味しい食事をいただいて、講談を聴くという、実にどうもおつな企画がありまして、友達を引き連れて参加してきました。初冬の那須塩原の自然に癒され、講談で楽しむ、極楽は地上にありということですねえ。講談の方は、中堅の中でも実力派No.1の神田愛山先生の源平盛衰記外伝の新作講談と講談ショートショート「賞味期限」、いつもながら切れ味鋭く迫ります。後は公開稽古ということで3人の方がそれぞれの持ちネタを披露しました。皆さん上手いのですが、中には「プロより上手い」といつもはほめない愛山先生も言われる強者もいましたよ。俗に講談調と呼ばれていますが、講談は聴いているだけでスウッと体の中に入って来て気持ち良くなる何か秘密がありそうですね。坊主の説教から始まったとも言われる歴史の長い話芸なので、仏弟子としては見習いたいところです。こちとらお気楽に聴くだけですから、なんとも心地のいい一日でした。ヒロ伊藤 お気楽日記
2007年12月02日
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木漏れ日に透けて光の山紅葉赤や黄にそれぞれの色輝けり小春日や那須野に名残りふゆ紅葉博琳乎
2007年12月02日
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