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湧き上がってくる感情はいろんなものがあります。うれしい、楽しい、愉快だ、爽快、気持ちよい、心地よい、幸せ、満足、達成感などは、他人と共有できればこんなに素晴らしいことはありません。次に、私たちが、問題にしている心配、恐れ、おびえなどの不安の感情があります。イライラして、何も手につかなくなります。すぐに逃げ出したくなります。相手の存在、言動に対して腹立たしく思ったり怒りを感じることもあります。例えば相手にからかわれる。無視される。軽蔑される。批判される。否定される。こき使われる。服従させられる。脅迫される。指示や命令を受ける。また仲間はずれにされると、寂しくなり悲しくなります。憂鬱で苦しみます。身内の人が亡くなった場合も同様の感情が湧き起こります。それ以外にも、自分自身のふがいなさで、自己嫌悪に苦しむこともあります。他人との勝負に負ければ、くやしくなります。罪悪感で過去の不祥事で苦しみこともあります。自分の考えているような結果がでなくて、欲求不満に陥ることもあります。肉体的、精神的に落ち込んで無気力、無関心、無感動になることもあります。このように、好ましい感情、ネガティブな感情が次から次へと湧き起こっているのが現実です。森田理論では、感情は自然現象であってコントロールできないものであるといいます。台風が来た時の柳の枝のように素直に認めて受け入れるしかないと学びました。好ましくないと思う感情をごまかす、隠す、抑圧する、無視する、拒否する、いいわけをする、否定する、取り繕う、責任転嫁などの対応は、森田理論でいえば間違った対応となります。「かくあるべし」を持ちだして、是非善悪の価値判断をしてはならないものです。素直に認める。そのままに受け入れる。じっくりと味わうことが大切です。この方向を目指すことは、「事実本位の生活態度を養成する」ことだと思います。森田理論の核心部分です。すると「感情の法則」通りに、好ましくない感情も変化していくのです。どんなネガティブな感情であっても、時間が経てばどんどん小さく変化してきます。対応はオレオレ詐欺やワンクリック詐欺の対応と同じだと思います。基本的には何もしないで放置しておくことが正解です。ネガティブな感情をなくしようとしたり、逃げていては、逆に火に油を注ぐようなことになってしまいます。
2019.07.31
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薬物依存の人、風俗依存の人、ネットゲーム依存の人、ギャンブル依存の人、アルコール依存の人は、元々人間に備わっているといわれている精神拮抗作用が機能しなくなっている。これは正常な人でもちょっとしたきっかけで依存症に陥り、次第にのめりこんでゆき抜けられなくなる。快楽神経が一旦活性化すると、脳がその快感を覚えている。次第に依存を繰り返すようになる。暴走を繰り返すようになるのだ。暴走を始めると、悪いことだからやめようと思っても、自分の意志の力では制御できなくなる。ブレーキの効かなくなった車を運転しているような状態になりとても危険である。これには、耐性と離脱現象が絡んでいる。最初は少しだけの依存で済んでいたのだが、次第に効き目が弱くなり量が増えていく。またその時点でやめようとすると、精神的なイライラや混乱が引き起こされていく。それを抑えるためにまた依存度を加速させてしまうのである。依存なしには生きていくことができなくなってしまうのだ、最初は、興味本位、ストレスの発散、生きづらさの解消で深く考えることもなく手をつけたものだ。それがこんなことになり、自他ともに苦しむようになるのだ。そして経済的な破綻、家族の崩壊、社会から排除されることになる。特徴としては、すべての分野に依存が及んでいる人はまれである。多くの分野に依存している場合も、メインの依存症を抱えている。神経症で苦しむような人は、心配性で不安に取りつかれるような人だから、制御機能が働き、依存症に陥ることはないと考えがちだが、現実は違うようだ。神経症という面では、制御機能が働きすぎる。(反面目の前のやるべきことや生の欲望には無頓着になっている) そこでは、不安や恐怖が実態以上に肥大化している。その大きな精神的な葛藤、苦悩、生きづらさを解消するために、依存症につながる快楽で埋め合わせをせざるを得ない状況に追い込まれている。だから、神経質性格者は様々ある依存症と無縁だとはいいがたい。むしろ神経質者が依存症を抱えると2つの大きな症状で苦しむことになる。神経症と依存症は全く人種が違うと考えるのは早計である。一旦依存症に陥った人は、ブレーキの壊れた車を運転しているのだという認識を持つことが大切である。多少なりとも自己統制力が働く人は、そういう場には絶対に近づかないという姿勢を崩してはならない。そして依存対象から次第に遠ざかっていく。でもこれはとても至難の業である。次善の策としては、第3者と一緒に行動して、失われた制御機能を果たしてもらう。自分一人の単独行動はとても危険である。配偶者や親しい友人と行動することだ。その人たちの忠告は素直に聞かなければならない。そして依存症仲間とのつきあいは依存に拍車をかける。普段の生活では距離を保つことだ。現在依存症からの回復に向けての医療の介入もあり、それぞれに自助組織もある。最終的には依存症回復のための医療に頼る。また自助組織に参加して、お互いに情報交換して助け合う。なにも恥ずかしがることはない。これは依存症という脳の病気なのである。治癒すればまともな社会生活が可能となるのだ。神経質者の場合は、ストレスや生きづらさの解消のために、森田理論を学習して、その対応方法を学んでいくことも大切である。ストレスがなくなれば依存症からも回復しやすい。何よりも早く取り組まないと手遅れになることを肝に銘じることが大切である。
2019.07.30
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吃音の人たちの自助組織「言友会」というのがあります。1976年5月1日、創立10周年の記念大会を開き、「吃音者宣言」を発表しました。私たちは、長い間、どもりを隠し続けてきた。「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた。「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」と考えられ、「どもらずに話したい」という吃音者の切実な願いの中で、ある人は職を捨て、生活を犠牲にしてまでさまざまな治すこころみに人生をかけた。しかし、どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家、研究者、教育者などの努力にもかかわらず、十分に報われることはなかった。それどころか、みずからの言葉に嫌悪し、みずからの存在への不信を生み、深い悩みの淵へと落ち込んでいった。また、いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生のたびだちを遅らせてきた。私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を。そして、言友会10年の活動のなかからも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた。全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢見るより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりをもったままの生き方を確立することを、社会にもみずからにも宣言することを決意した。どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである。そして、私たちはこれまでの苦しみを過去のものとして忘れ去ることなく、よりよい社会を実現するために生かしていきたい。吃音者宣言。それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人と連携していこうという私たちの吃音者の叫びであり、願いであり、みずからの決意である。私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。全国言友会連合協議会(新装版 心配性を治す本 青木薫久 ベスト新書 129ページより引用)これは優れた宣言だと思います。どもりを横において、あるいは抱えたまま社会に飛び込んで自分に与えられた役割を果たしていこうというところに感動しました。ただこの宣言を採択するにあたっては、相当激しい議論が展開されたそうです。特に、どもりを治す努力を放棄するは納得できないと主張をする人も多数おられたのです。これは森田理論と同じ考え方だと思います。森田先生は、「神経症が治るか治らないかの境目は、苦痛をなくしよう、逃れようとしている間は10年でも、20年でも決して治らないが、苦痛はこれをどうすることもできない。仕方がないとあきらめ往生したときはその日から治るのである。すなわちやりくりをしたり逃げようとするのか、あるいは我慢して耐えて踏みとどまるのかが、治ると治らないの境である」といわれています。
2019.07.29
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心の病気になる人は、脳内のセロトニンの量が減退しています。セロトニンとは「幸せ物質」と呼ばれている神経伝達物質です。主な働きは歓喜や快楽を伝えることです。セロトニンが不足するとイライラしてキレやすくなります。精神的に不安定になり、無気力、無関心、無感動にもなります。セロトニンは脳で作られるのではありません。すべて腸で作られるものだということを知っておいたほうがよいと思います。最近SSRIというあたかもセロトニンを増やすかのようなようなイメージを与えている薬があります。決してセロトニンを新たに作りだしている薬ではない、少ないセロトニンが再吸収されてしまわないように再吸収を阻害するだけの薬なのだ。これが夢のような薬だと宣伝するのは何か違和感がある。人体のセロトニンの量は全体で約10mgあります。セロトニンの前駆体は腸で作られます。そのうち9割はセロトニンとなって腸内にとどまります。残り1割が脳や他の臓器へと送り出されます。脳にあるセロトニンは、全体量のわずか2%にすぎません。この2%のセロトニンが脳内で働き、人間の精神活動に大きく関与しているのです。うつ病を治すには、脳内のセロトニンの量を回復させ、精神を安定させる必要があります。そこで、うつ病になると「乳製品や玉子。肉、魚、大豆製品を多く食べましょう」と食事指導されます。セロトニンはタンパク質に含まれるトリプトファンという必須アミノ酸(人間の体内では作りだすことのできないアミノ酸で9種類ある)を原料にして作られるからです。しかし、実際にはそれらを食べるだけでは脳内のセロトニン量は上昇しません。タンパク質がトリプトファンに分解され、そこからセロトニンの前駆体が合成されるまでには、ビタミンCや葉酸、ナイアシン、ビタミンB6などのビタミン類が必要だからです。ところが人間の腸自体はビタミン類を合成する能力を持っていません。このビタミン類を合成しているのが実は腸内細菌です。問題なのはその中身です。腸内の日和見菌、悪玉菌、善玉菌のバランスが良好に保たれていなければ、腸内のビタミン合成能力は著しく低下するという悪循環を招いているのです。うつ病の人の食事を調査すると、加工食品、ファーストフード、コンビニ弁当、スナック菓子、甘いケーキなどで手軽でかたよった食事を好む傾向が見られます。好きなもの、手軽なものばかりを食べていると腸内環境のバランスが乱れて、悪玉菌優勢の腸になるために、セロトニンの合成力が衰えます。これによって精神が安定せず、うつ状態が引き起こされることになるのです。精神障害の原因は脳にあると思いがちですが、よく考えてみると腸にあります。さらに詳しく見てみると、2万種類、1000兆個あるという腸内細菌の働きにあります。その腸内細菌のバランスが人間の精神生活に大きな影響を及ぼしているのです。(人の命は腸が9割 藤田絋一郎 ワニブック 106ページより要旨引用)
2019.07.28
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「人の命は腸が9割」(藤田絋一郎 ワニブックス)という本がある。これによると、私たちの腸には2万種類、1000兆個の腸内細菌が住んでいるという。驚くべきことですが、これは事実です。腸内細菌の組成は生後1年ですでに決まってしまい、一生を通じて変化しないという。腸内細菌の多くは日和見菌だそうだ。続いて多いのが悪玉菌。一番少ないのは善玉菌で10%以下だそうだ。ちなみに、悪玉菌にはウェルシュ菌、ブドウ球菌、大腸菌などがある。善玉菌にはビフィズス菌、乳酸菌などがある。興味深いことに、腸内細菌叢は毎日の生活習慣、食事内容、ストレスなどによって、その数とバランスにはわずかな変化が生じる。ここで森田理論で学習しているバランスが出てきました。ストレスでいえば、アメリカやロシアで宇宙飛行士の腸内環境の変化は詳細に調べてある。それによると、宇宙飛行士は過度の不安と緊張状態にさらされている。飛行前から悪玉菌が増加している。飛行中も異常なほど善玉菌が減り、悪玉菌が増加している。これは、ストレスを受けると、腸のなかで「カテコラミン」という神経伝達物質が放出されます。これに刺激されると大腸菌などの悪玉細菌が増殖を繰り返し、腸内に炎症を引き起こす。悪玉細菌の増殖はうつや不安障害などの精神疾患を引き起こすことも分かっている。我々が陥っている神経症も悪玉菌の増殖に影響を与えている。この絶妙なバランスがわずかに崩れるだけで、ガンなどの身体疾患やうつ病などの精神障害を引き起こすという。というのは、日和見菌は善玉菌が少し増えれば善玉菌に協力し、悪玉菌が少し増えれば悪玉菌に協力するという特徴を持っているからだ。日和見菌は優柔不断な菌だ。そのせいで、腸内環境のバランスがとれていれば益々健康になり、バランスが崩れていればどんどん不健康をおびき寄せてしまうのだという。腸内が悪玉菌優勢で、最大勢力の日和見菌が悪玉化していれば、例えばダイエットに励んでも「ちょっとしか食べていないのに太る体質」から抜けることはできないという。では腸内細菌(日和見菌、悪玉細菌、善玉細菌)のバランスをとるためにはどうすればよいのか。藤田さんの実践をいくつか紹介してみたい。1、食物繊維の摂取量を増やす。「食前キャベツ」をとる。2、日本古来の納豆や味噌などの発酵食品を毎食とる。3、砂糖、レトルト食品、コンビニ弁当は食べない。4、白米、パン、麺類など白く精製した主食を抜く。玄米食にする。5、必須アミノ酸をとるために週に2回は肉を食べる。6、マーガリン、フライドホテト、ショートニングは食べない。7、殺菌剤、抗菌剤など腸内細菌をいじめるような薬剤の使用を止める。8、下痢止め、下剤、抗生物質は極力飲まない。9、過度なストレスをため込まない。笑いのある生活を心がける。以上9つを実践するだけで、腸内環境は見事に整い、太らない体が築かれるうえ、免疫力も高まり、病気をしにくい体へと変わっていくはずだといわれています。詳しい説明は、この本に載っています。興味のある方はご覧ください。
2019.07.27
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森田理論は一言でいうとどんな理論ですかという質問を受けた。一言でいうのは大変難しいのですが、今後説明を求められた時のためにまとめておこうと思う。薬物療法にしろ、森田理論以外の他の精神療法と大きく違うのは「不安」についての考え方です。一般的な治療は「不安」を取り除いたり、軽減することを目指している。森田理論では、「不安は欲望があるから発生している。欲望がなければ不安は発生しない」という考え方である。人間は欲望を無くすることはできないわけですから、不安も無くすることはできない。無くそうとしてはいけない。無くそうとすることは、無駄な努力となる。ではどうすれば不安に対してどう対応すればよいのか。不安はとりあえず横に置いて置き、欲望を膨らませていくという考え方をとっているのです。不安との格闘がなくなり、目の前の目的、目標、課題があり、そちらに注意や意識を向けていくと、不安は小さく変化してくる。これは自動車のアクセルとブレーキに例えると分かりやすい。アクセルが欲望で、ブレーキが不安である。目的地に行こうと思えば、アクセルを踏み込んで車を前進させることが必須である。神経症で苦しんでいるときは、アクセル操作を一切行っていない状態である。車が動いていないにもかかわらず、さらにブレーキを強く踏み込んでいるようなものだ。傍から見ると実に滑稽な現象が起きているのだ。そのことに気づくと、生の欲望の発揮に目を向けることができると思う。一旦車を前進させることが最も大切なのだ。一旦車が動きだすと、欲望が暴走して事故を起こさないように、不安を活用して速度を制御していけばよいのである。そこで不安は大いに役立つ。不安には大切な役割があるのだ。一言でいえば、欲望を最優先させて、次に欲望と不安のバランスをとりながら生活するということが、森田理論の考え方なのだ。それから、もう一つ大切な考え方がある。これも森田理論の核心部分だ。森田理論では、自分という一人の人間の中に2人の人間が住みついているとみているのだ。その2人が険悪の関係で、対立して、喧嘩を繰り返しているとみているのである。一人は、弱点、欠点、ミス、失敗など様々な問題や課題を抱えながらもなんとか必死に日々生活している自分です。もう一人の自分は天高く雲の上にいる自分です。雲の上にいる自分が現実の世界で必死に生きているもう一人の自分を、上から下目線で、冷ややかに眺めていつも罵倒しているのです。力関係でいえば、雲の上にいる自分が、完全に主導権を握っており、現実の自分を服従させようとしているのです。現実の世界にいる自分はやることなすこと否定ばかりされているのでみじめです。苦しいです。さらに、このような対立関係は、他人や自分が管理を任されている所有物にも及んでいるのです。ですから葛藤や苦悩はあらゆる方面に拡散しているのです。人間関係で苦しい原因はここにあります。森田理論では、その対立関係を解消するための理論だといっても過言ではありません。森田理論を学習して実践することで、最終的には現実の自分に寄り添って1つになることができます。他人や自分が管理している所有物との関係も、客観的、肯定的に見れるようになるので好転してきます。この2つが森田理論学習と実践によって身についてくるのです。一口で説明することは難しいが、2口だったら説明できる理論だと思う。ぜひとも森田理論でものにしていただきたいと思っています。
2019.07.26
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盲目のランナーと一緒に走る伴走者は、お互いに綱の端を握って一緒に走ります。この時コツがあるそうです。伴奏者は盲目のランナーより前に行ってもいけないし、後でもいけない。くっつきすぎてもいけないし、離れすぎてもいけない。二人の間に適度な距離をとって、同じペースで走る必要があります。引っ付きすぎず、離れすぎず適度な関係を維持している状態です。この関係は変に気を使うことがありません。安心感があるので走りに集中することができます。この関係は、森田理論でいう「不即不離」の人間関係だと思います。森田先生は次のようら説明されています。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ピッタリ後ろからついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへついてくる人の気がしれない」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するとき、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが決して離れてしまうしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追いこしてしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったく寄り付かない。これは子供、夫婦、両親、上司と部下、友だちとの人間関係に応用できます。引っ付きすぎず離れずの人間関係を心がけることです。時と場合に応じて適度な関係性を維持する。それ以外の時は過度に引っ付きすぎないようにする。そうかといって全く離れるのではなく、遠巻きに見ている。またそんな時は自分の興味や関心のあることに取り組んでいる。これだと過保護、過干渉、放任による育児放棄、介護放棄に陥りません。また共依存で双方が泥沼の人間関係に陥ることを防止してくれます。自分も相手も束縛がないので自由が効き、見守ってくれるので安心感を持つことができるのです。
2019.07.25
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ここで今までの学習経験を踏まえて、「かくあるべし」を減少させるために役立つ方法についてまとめてみたいと思う。前提としては、「かくあるべし」で、自分、他人、身の周りの物を非難、否定することは、葛藤や苦悩を発生させて、生きづらさを抱えるようになるという認識をしっかりと持つ。そのための森田理論学習を継続することだ。またその弊害を仲間と話し合ってみる。これが希薄だと「事実本位」生活態度を目指すという出発点に立つことができない。1、普段の生活の中で「いいところさがし」をする。2、普段の生活の中で「感謝さがし」をする。3、必ず事実の裏付けをとる。4、事実に価値判断を持ち込まない。5、両面観で見る。6、「純な心」に立ち戻る。7、「私メッセージ」を活用する。8、win winの人間関係を目指す。1と2については、一昨日と昨日に投稿した記事をご覧ください。3については、事実に基づかないで決めつけることは間違いだらけになる。ある程度予測がついても、自分が現場に足を運んで、自分の目で確認する。刑事コロンボのように、「事実の検証こそが事態打開に結びつく」という気持ちで事実に向き合う。4については、事実はごまかす、隠す、逃げる、軽視する、責任転嫁、是非善悪の価値評価などをしてはならない。事実に正面から向き合う。事実は、具体的、赤裸々に取り扱う。NHKのニュースのアナウンサーのように事実だけを淡々と分かりやすく伝える。5については、ネガティブ、悲観的、マイナス思考に気づいたら、自分に対して「ちっと待て」という言葉をかける。多少無理してもポジティブ、楽観的、プラス思考の見方も取り入れるようにする。物事にはプラス面とマイナス面の両面が絡んでいることを肝に銘じておく。6については、感情には初一念と初二念があることをよく学習しておく。初一念から出発することが大切である。しかしこれは意識しないとすぐに忘却の彼方へ消えてしまいやすい。そして「かくあるべし」を含んだ初二念に振り回されることを肝に銘じておく。7については、「あなたメッセージ」は上から下目線で相手を自分の思い通りにコントロールすることにつながりやすい。つまり「かくあるべし」の押し付けになりやすいのである。「私メッセージ」の場合は、どう行動するかは相手に選択の自由が与えられている。8については、そもそも相手とは、何かにつけて考え方がずれているという前提に立つことだ。人間関係は面倒でもその溝を縮小してwin winの関係作りを築くことだと肝に銘じておくことだ。これらが私が考えている「事実本位」の生活態度を目指す人の取り組むべき課題となる。これ以外のことを思いついたり、実行しておられる方はぜひとも教えてほしい。次に取り組み方だが、これらすべてに取り組むと消化不良を起こしかねない。私の場合がそうだった。そこで提案です。1か月に自分が選択した1項目だけに意識的に取り組む。それを日記に書きつけていく。そして検討してみる。月が変われば、別の課題に取り組む。こうすることで意識的になり、マンネリに陥ることなく無理なく実行できる。全部の項目に取り組んだ場合、大きな変化に気づくはずです。学習会などで、取り組み課題と結果について発表するという習慣を作るとさらによい。
2019.07.24
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昨日は、「感謝探し」を習慣化することが、「事実本位」の生活態度作りに役立つことを説明した。その方法がもう一つある。自分自身、相手、自分がとりあっ扱っている物の、「いいとこさがし」をすることである。恵まれているもの、持っているものを改めて見直すのだ。この世に生まれたこと、存在自体、容姿、配偶者、親や兄弟、友人、身体能力、潜在能力、神経質性格、強み、長所、環境、境遇、所有物などを見る場合に、プラス面に焦点を当てて評価をすることである。あらためて見直す。認める。評価する。賞賛する。励ますことだ。意識して見つけ出したら、口に出して表現する。相手に伝える。日記に書く。これを一日3個ぐらい見つける習慣を作る。これが1か月、1年と積みあがった時のことを想像してみてください。マイナス面は特に意識しなくても、「かくあるべし」の強い人は、そういう体質になっているので無視してもよい。今までは、拒否、無視、抑圧、否定、批判することが習慣になっていた。「いいとこさがし」に重点をおいて生活することで、プラス面の見方が徐々についてくる。つまりプラス面とマイナス面の調和がとれてくるようになるのだ。例えば神経質性格で説明してみよう。神経質性格のマイナス面にとらわれているとどんなことになるのか。神経質性格者は心配性である。少しの心配事がすぐに自分の一生を左右するほどの大問題に発展する。また嫌なこと、嫌いな人がいるといつまでもとらわれてどんどん増悪させてしまう。ねちねちして執念深いのである。相手はヘビににらまれたカエルのようになる。意識が物事本位・外交的にならないで、内へ内へと向かってしまう。そして始末が悪いことに、自己内省が悲観的、ネガティブ思考一辺倒に陥りやすい。理想主義、完全主義、目標達成至上主義、コントロール欲求が強く、思い通りにならない現実との間で葛藤や苦悩を抱えやすい。では、「いいとこさがし」をしてみよう。豊かな感性の持ち主である。感受性が強いということは、高性能のレーダーや魚群探知機を標準装備しているようなものである。小さなことでもどんどん反応する。感性が強いので、音楽、絵画、景色、演芸、歌謡、舞踊、小説、料理などもより深く味わうことができるのである。また、人の気持ちも機微にわたるまで感じ取ることができる。心配性で苦しいので、この機能を取り外してしまいたいと考えることは、実にもったいないことだ。むしろ感性をもっともっと磨いて、人生を謳歌するのがまっとうな考え方である。私たちは何か事故や問題が発生すると、その原因をとことんまで調べ上げるという特徴がある。いい加減に放っておくことはしないのである。少々のことではへこたれない。努力精進する能力が身についているのである。粘り強い。分析力がある。論理的である。こういう人がいるからこそ、社会は成長発展していけるのである。いけいけどんどんの人は、見境なく行動することは得意なのだが、失敗した時のことは無頓着である。発想力、行動力は素晴らしいものだが、それだけでは不十分だ。会社でも、それに異議を唱えて警鐘を鳴らす人は必ず必要とされる。財政面、経理面の手綱をしっかりと取れる人とタッグを組んで、初めて会社経営はうまくいく。私たちは自己内省力が備わっているのだから、それを自覚して役割を果たしていけばよいのである。神経質性格者は、目的、目標、夢、希望を持って努力することが好きな人が多い。特に男性の場合は当てはまる人が多い。女性の場合は、子供を立派に育て上げたいという気持ちを持っている人が多い。私は森田理論学習で、「理想や目標は大きく、実践目標は小刻みに、小さな成功体験を積み重ねること」と学んだ。岩登りでもそうだが、地上からコツコツと努力して目標を目指すことは、生きる喜びにつながる。そういう人は、精神的にとても安らかになれると思う。「感謝探し」と「いいとこさがし」は、ご自分にぴったり合う方法をどちらか選択して、とりあえず1か月だけ取り組んでみてください。きっといいことが起きますよ。
2019.07.23
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森田理論は、「かくあるべし」を減らして、「事実本位」の生活態度を身に着けることが大切なのですが、その方法がまた見つかったのでご紹介したい。感謝探しを心がけることだ。日記を書くときに一日を振り返る。その時に他人に親切にしてもらったことを書くようにするのだ。最初は、「○○さん、ありがとう」から始めるとよい。野菜や果物のおすそ分けをいただいた。読みたかった本を貸してもらった。缶コーヒーをいただいた。笑って挨拶をしてくれた。メールをくれた。電話をくれた。自分のことを誉めてくれた。バスや電車で小銭ないとき貸してもらった。今日もおいしい料理を作ってくれた。ベランダできれいな花を咲かせてくれた。今日も元気に過ごすことができた。今日も愛犬がなついてくれた。カラオケに誘っていただいた。イベントに招待された。野球の観戦チケットをいただいた。こういうことを日記に毎日5つぐらい書く。とりあえず1か月間続ける。目立つ感謝探しでなくてもよい。ごく小さな感謝探しで十分だ。最初はこじつけでもよい。多少無理してでも見つけようとしていると次第に本物になる。すると次第に体質が変わってくるのだ。いつも相手の言うことややることに対して、頭の中で批判や否定ばかりしていたのが、プラスの面に目が向くようになるのだ。「あなたがいてくれてありがとう」「私のために○○してくれてありがとう」「あなたとお話出るだけで楽しい。うれしい」他人に食事をごちそうになると、その場で「今日はありがとう」という。次の日に電話で「昨日はありがとう」という。次の週になったら「先週はありがとう」という。来月になったら「先月はありがとう」という。しつこいようだが、それぐらいの気持ちで、感謝探しをするのだ。感謝探しを心がけていると、自分自身にも自然に「ありがとう」といえるようになります。また、自分の身の周りのものに対しても、感謝できるようになります。そして他人も、自分も、身の周りのものも大切にとり扱うようになります。その存在価値を目いっぱい広げて、活かし尽くしたいと思うようになります。自分も、他人も、身の周りのものもみんなが次から次へと幸せを招いてくれます。こうしてみると「ありがとう」という言葉は、魔法の言葉ですね。
2019.07.22
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私の以前勤めていた会社に、お金にはだらしない人がいた。会社の宴会や社員旅行の幹事をさせると、収支報告書を出したためしがない。噂では、残金はすべて自分のものにしているということだった。その上タダ酒にありつくのがうまい。他人におごるということはしない人だった。すぐに酔っぱらって、他人の肩を借りないと歩けなくなることが多かった。顔色は肝臓が悪いのではないかと思うほどどす黒かった。いわゆる三枚目に分類されるような人だった。普通は、周りの人が敬遠して、他人が寄り付かなくなるのではないかと思うような人だ。ところがいろいろと問題を抱えている人ではあったが、不思議と周りに人が集まっていた。人望があるのか、いつも人の輪の中心にいた。特に次から次へと女性を口説いては、同棲を繰り返していた。腹違いの子供が3人もいる。どうして、お金にだらしない、女性にだらしない、酒にだらしない、パチンコ狂いの彼が人間関係に恵まれていたのか。そのヒントが分かった。下町の金型職人の岡野雅行氏が教えてくれた。スキを見せない人間はダメだね。「俺は絶対、人に付け込まれたりしないぞ」などと、バリアをがちがちに固めているのがいるだろ。そんな人の周りに人は集まってこない。孤独な人生を歩むしかない。スキは愛嬌なんだよ。「あのヤロウ、馬鹿だね」と思うから、何か言ってやりたくなるのだし、「あいつ、しょうがないな」と感じるから、何かしてやりたくもなるのじゃないか。女性だって、オツにとりすまして愛嬌のカケラもなければ、いくら顔やスタイルがよくたって、男は相手にしないだろ。ご面相は多少イケてなくても、愛嬌があって親しみやすい方が、ずっと心惹かれるものなんだ。(人生は勉強より「世渡り力」だ 岡野雅行 青春出版社)強力な「かくあるべし」を持っている人は、自分の弱みや欠点は決して許すことができないのですね。うまく隠して取り繕っていると思っても、周りの人はみんなお見通しなのに、自分一人だけが気づいていないのです。また仕事でミスや失敗をすると、ごまかそうとするんですね。隠す、報告を先延ばしにする、いいわけをする。他人のせいにする。追い詰められると開き直ってしまうのです。そんな人に誰が親身になって近寄ってくるというのだ。何をやっても裏目に出て、生きることがつらいというのはそんな人だ。悪いなら悪いなりにその事実を認めて受け入れる。自分の弱点や欠点、ミスや失敗を面白い話に仕立て上げて、みんなに積極的に公表していく。笑いを提供して、みんなを楽しませる。こんな人だったら、話をしてみたい。付き合ってみたいと思いますよね。自分も苦悩や葛藤とは無縁になりますし、人間関係が楽しくなりますね。こういう人が、事実の世界に根を張って生きているということです。知ってしまえば、「なんだそんなことか」と思います。「かくあるべし」で羽交い絞めにされている状態では、10人に1人いるかいないかの世界なのです。
2019.07.21
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下町の金型職人の岡野雅行さんのお話です。情報収集能力がないと、会社の将来のかじ取りを誤ることになる。ちなみに、岡野さんの会社は6人だが、小泉元総理大臣も視察に訪れたという。例えば、「あの企業は中国に工場を出す準備を進めていて、3年後には大幅な値引きを要求してくるだろう」「あそこの企業は10年先を見すえて、こういう技術を求めている。それを開発したら、いくら高価でも買う用意があるらしい」「あの業界では、この技術は10年後には陳腐化することが見えているらしい。もうこの商売は見切り時だ」こういう情報は自分一人でいくら考えていても、出てこない。どこから出てくるのか。まず、大企業の第一線にいる人たちが持っている。技術がどんな方向に進んでいるか、最新の素材開発はどんな段階なのか。大企業の切実な悩みなども入ってくる。次に同業他社と付き合いのある仲間からの情報である。だから普段から密な付き合いをしておくことだ。ほんとうに貴重な情報というのは、あらたまった場で出てくることはまずない。遊んだり、飲んだり食べたり、ワイワイガヤガヤやっているときにぽろっと出てくる。例えば、「そういえば、この間A社に納品に言ったとき、ちょっと耳に挟んだけどさ・・・」などと言う極上な情報が出てくるわけさ。だから曲がりなりにも会社経営をしている人は、いろんな人と幅広く付き合って、情報収集を怠らないようにしなければいけない。自分の頭の中でいくら試行錯誤を繰り返しても、変化には対応できないのだ。手考足考が大事なのです。事実、現場、現実を基本にして、会社の方針を見つめていかないとすぐに淘汰されてしまうのだ。この事実、現場、現実の出来事を最優先する考え方は、森田理論と一緒です。そういえば森田先生は自分で直接足を運んで自分の目で確かめる態度をつらぬかれています。例えば、五高時代の幽霊屋敷の探検、関東大震災の時の被害や流言飛語の記録は驚くばかりです。高知の「犬神憑き」の調査。よく当たるという占い師のところにも直接足を運ばれて確かめられています。熱湯の手を突っ込むという芸をみて自分でも実験されています。55度の熱湯は2秒しか耐えられない。23度の水に1分間手を浸して、その後挑戦すると4秒になった。0度の冷水に30秒手を浸したあとでは、熱さを感じず、6秒間耐えることができた。エーテルを散布した後は5秒間耐えることができた。ワセリンは少しも効かない。40度の湯から、55度のものに手を移せば、普通よりも高温に感じた。森田理論というのは、どこまでも事実を大切にする考え方なのです。「事実本位」の反対は、観念や理想の産物である「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることです。この辺りをよく学習して、実際の生活に応用できるようになるといいですね。
2019.07.20
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誰でも気の合わない人やイヤな人はいます。自分のことを批判、否定、拒否、無視、からかう、自在にコントロールしようとする人です。森田でいえば「かくあるべし」を押し付けている人です。こういう人と良好な人間関係を作る努力はしなければならないのでしょうか。「さしみ」の法則を理解して応用すればよいと思います。3、4、3の法則のことです。これは元々会社の中で仕事に積極的に取り組む人が3割ぐらいいる。積極的になったり消極的になったりする人が4割ぐらいいる。消極的で仕事に対する熱意がない人が3割ぐらいいるというものです。そこで、消極的な人を排除してしまえば、会社の業績が上がるはずだと思ってリストラする。これで万事うまくいくようですが、実際には残った人がまた3割、4割、3割に分かれてしまう。つまりいつまでも「さしみ」の法則は生き続けるというものです。これは人間関係の場合にも同じようなことが言える。3割の人は自分に好意的に接してくれる。4割の人はどちらでもない。残り3割の人は自分を、非難、否定、粗末に扱う。この割合が、2割、6割、2割という説もあります。この法則が言いたいことは、すべての人から好かれることはないということです。猛烈に支持してくれる人がいる場合は、その反対に猛烈に毛嫌いしている人が同じ割合で存在しているということです。「さしみ」の法則がどこまでもついて回るのです。この法則が分かっていれば、どう活かしていくかということになります。私は2つの会社に在籍しましたが、OB会のお誘いは基本的にお断りしています。会社では利害関係の対立で人間関係が悪かったのです。また自分は対人恐怖で自己中心的な面が強く、みんなに迷惑をかけることが多かったのです。そんな場で、昔を思い出して楽しめるとは到底思えません。ただ気の合う仲間とは、数名ですが今でも親しく個人的な付き合いをしています。その他多くの人とは現在生活上の付き合いはないわけですから、自分の気持ちを優先しているのです。またこのブログを7年間もやっていますと、批判的なコメントやプライベイトメールがときどきあります。これは、熱烈な読者がいる反面だと思っています。毎朝早くから投稿したとたんにアクセスしてくださる方がいます。その反対に何らかの不快感を持っている人も同じ数だけいるのでしょう。それは「さしみ」の法則が働いているからだと思います。臨床心理士さんにこの話をしましたら、「それはしかたないことなんです。無視していればよいのです」「仮に誤解を解こうとして対応していると、身が持たなくなりますよ。続かなくなります。」「あなたがやるべきことは、このブログがよいとも悪いとも思っていない人に対して、このブログのよさを分かってもらう努力をすることです。それだけの内容があるので支持しています」といわれました。私たちはすべての人に好かれたいという気持ちを持っています。この「さしみ」の法則は、そんなことは観念や理想の世界ならあり得るかもしれない。実際の泥臭い現実の世界ではなりえない。その中では、自分に好意を持ってくれている人とどちらでもない人と交流を深める。自分に批判的な人には距離をとって様子をみる。強いて近づかないようにする。会社などでは、定年退職、リストラ、転勤、移動、結婚、家庭の都合などでどんどん入れ替わっているのです。イヤな人との人間関係が永遠に続くかのように感じているのは、錯覚です。それなのに、そんな人に嫌われては会社に居場所がなくなるといってしまうとのたうち回っているのは、お門違いだと思います。必要最低限の付き合いだけにとどめておくことです。その分、家族との団欒、趣味、地域社会とのつながり、親しい友人との交流などを充実させたいものです。
2019.07.19
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昨日の臨床心理士さんのお話の続きです。守、離。破、立派という話があった。武道、華道、茶道、舞踊、将棋、囲碁などを始めたときは、まず型を学ぶことが大切である。型を身につけないと、型なしになる。型がないと次に進むと破れかぶれになる。型は長い歴史の中で、先人の極意が詰まっている。素直な気持ちで型を身に着けることが肝心です。これだけでも相当な努力と時間が必要になります。型が身について、免許皆伝になると、先生のもとから離れていく。人に教えたり、客観的な立場から自分が身に着けた型を眺めるようになる。その先に行くと、身につけた自分の型に創意工夫を加味して、元の型とは違う新しいものを生みだす。そして自分流の派を立ち上げて、師匠として後進の指導に当たる。森田理論学習の場合も、最初は型を理解していく段階がある。森田理論の全体像がよく分かるようになると森田理論を客観的な立場から分析してみる。生活面に応用できるようになると、理論からは一旦離れる。そして森田を元にした自分なりの生き方の極意をそれぞれの立場で作り上げていく。その確立された人生観を周囲の人たちにも伝えていく。その他に印象に残った話があった。あるがままというのは、放っておくことではない。そんなことをすると、畑は草ぼうぼうになる。症状はほったらかしにしておいたほうがよい。しかし日常茶飯事や仕事は、イヤイヤ仕方なしにでも、手をつけていかないといけない。努力即幸福というのは、努力すると幸せがやってくる。目標が達成できるということではない。成功しなくても、目標の達成ができなくなっても、努力している状態に、命の発現がある。努力しているときは、試行錯誤しているときです。思うようにいかなくてイライラします。でもそういう時は一心不乱になって、命が光り輝いているのです。そういう努力している状態を保っているということが、人間が生きているということです。生きがいを感じていることが大切です。それは幸福以外の何物でもありません。
2019.07.18
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先日地元の臨床心理士の講話を聴いた。その中で印象に残ったことを取りあげてみたい。傾聴、来談者中心のカウンセリングを受けている人がいる。そういう人が、物足りなくなって私のもとを訪れる場合がある。そのカウンセラーが言われるには、信頼関係を作るには大切だがそればかりでは物足りなくなる。同時にアドバイスをすることも必要である。ただアドバイスにはコツがある。アドバイスには4つのパターンがある。1、I am OK You are OK2、I am OK You are not OK3、I am not OK You are OK4、I am not OK You are not OK1の場合は、私は神経質の症状はあっても、素晴らしい人生になりました。森田で症状を克服できました。今のあなたも、今は苦しくても、大丈夫ですよ。心配いりません。あなたも、発見会で学んだ多くの先輩方と同じように素晴らしい人生が展開できますよ。多くの事例(事実)がそれを証明しています。私たちと、一緒にやりましょう。2の場合は、私は神経質の症状はあっても、素晴らしい人生になりました。森田で症状を克服できました。だから、あなたも、ああしなさい。こうしなさい。ああ考えなさい。こう考えなさい。なぜやらない?(できないのは、あなたが未熟でダメだからです。)3番、4番のパターンは大きな問題があります。1の場合は、相手の現実を受け入れて、寄り添っています。現状を踏まえて、どこから一歩目を踏みだして入れるとよいのか、一緒に考えてみましょうという態度です。そのためのヒントをいくつか紹介してあげる。相手はその中から取り組みやすいものを選択して、実際に行動に移してみる。その結果が思わしくなければ、また別の提案やアドバイスをして、相手に考えてもらう。こういう関係がカウンセラーとクライアントの間で繰り返されれば、満足度が高くなります。2の場合は、私は神経症を克服しました。克服するためのノウハウは持っています。だからあなたは私の指示通りに実行すればよいのです。そうすればおのずと神経症は克服することができます。指示通りやらないと、「本当に神経症を治したいという気持ちがあるんですか」「真剣に取り組まない人は、何をやらせてもろくなことにはなりませんよ」これは相手に寄り添っている態度ではありません。自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、自己満足している態度です。自分の思い通りの展開にならなくてストレスが溜まりイライラしてしまいます。相手が本心から納得して取り組んでいるわけではないので、本音では反発心を抱いているわけです。これでは双方の思いに溝ができて、それがどんどん拡がっていく運命が待っています。プロ野球では、「名選手、必ずしも名監督・名コーチにあらず」といわれます。名選手は自分の成功スタイルを新人に教え込めれば、相手は成長するはずだという強い信念を持っているのです。ところがそういう指導法は、意に反して挫折することが多いのです。相手にいつも寄り添ってよく観察して、自分なりの改善点はいくつか持っている。でもそれをいきなり相手に押し付けるようなことはしない。機が熟するのをじっと待っている。選手が最後に困って聞いてきた時は、その中から改善点をいくつか提案する。そして選手の取り組みに付き合う。選手と一緒になって考えたり、工夫していく。その成長を見守っていくという態度です。少しでも結果が出てくればともに喜ぶ。私たち先輩会員が森田理論学習を始めたばかりの人に対しても、このような態度で接することが大切になります。ましてや相手の現状から離れて「かくあるべし」を押し付けていては、学習運動は成り立たなくなります。
2019.07.17
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論語の中に「六十而耳順」(ろくじゅうにしてみみしたがう)という言葉があるそうだ。60歳になると人のいうことを逆らわずに聞くことができるという意味だそうだ。人の言うことを、是非善悪の価値判断なしに素直に聞くことができるということだ。あるいは、先入観や決めつけることなく、謙虚な気持ちで相手の話に耳を傾けることだろう。これは森田理論の目指しているところと一致している。そういう人の周りには、自然に他人が集まってくると思う。自分も60歳を超えているが果たしてそのように変化してきているだろうか。森田理論学習のおかげで近づいている面もあるが、どうもそうではない面が多い。死ぬるときまで修業がつつくような感じだ。これはその方向を目指すことを意識していないと、すぐに挫折してしまうのではないかと思う。またすぐに後戻りしてしまう。それは「かくあるべし」があまりにも肥大化しているからだ。放っていても自然にそのような状態になるとは到底思えない。私の場合は、生涯森田に取り組んで学習を継続する。1か月に1回は学習会に参加して、1か月間の生活のまとめをする。それを体験交流の場で発表して、他の人のアドバイスを謙虚に聞くようにしたい。そういう気持ちを持ち続けて、「耳順」の気持ちを忘れないようにしたい。私のような高齢者はこれまでの人生の中で、修羅場をくぐって様々なことを経験している。失敗や後悔していることも多い。それらを乗り越えたり、抱えたまま現在に至っている。そういう話は、これから人生の荒波に向かって舟を漕ぎ出していく人にとっては参考になることが多い。人生の最終章にあたって、それらの対応方法を若い人たちに伝えていくことは大切だと思う。これは私たち高齢者のできることであり、使命であると思う。そのためには、前提として「耳順」(じじゅん)の態度が欠かせないと思う。いつまでも自分の「かくあるべし」を相手に押し付けているのでは、煙たがられるばかりだ。他人が近くに寄ってこなくなれば、いくら役に立つものを持っていても、宝の持ち腐れになるばかりである。そのうち何もすることがなくなり、無為な人生で幕引きになってしまう。私は中学生のころから対人恐怖症でのたうち回ってきた。その間37歳の時に森田療法と自助組織に出合い、森田理論学習と学習仲間との交流を続けてきた。そのおかげでほぼ定年まで仕事を続けることができた。森田理論の神髄も理解できるようになった。神経質性格の活かし方も分かった。不安と欲望の関係もよく分かった。「かくあるべし」の弊害と事実に立脚した生き方も理解できた。理解しただけではなく、生の欲望に沿った実践や応用もできるようになった。これらのことは残された人生の中で、神経症で苦しんでいる人や対人恐怖で苦しんでいる人たちに伝えていきたい。そして多くの人に楽な人生に転換してもらいたい。そのためには「耳順」の態度を忘れないように自分に言い聞かせたい。
2019.07.16
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プロ野球の打者の場合、140キロ台のストレートがくるとあらかじめ分かっていればほぼ打ち返すことができるという。だから投手が内外角、高低と投げ分けたとしても、ストレートだけで勝負することは難しい。またそんな投手はいない。必ずいくつかの変化球を持っている。カーブ、シュート、フォーク、チェンジアップ、カットボール、ツーシームなどである。スピードを抜いたり、球に変化を与えながら、打者のタイミングを外すことに神経を集中させている。打者は投手ごとに、持ち球や配球の癖、投球動作の癖まで今までの対戦経験と球団から与えられるデーターであらかじめ分かっている。それに今日の対戦投手の調子やカウント、試合展開、天候や風の強さや向きを考慮しながら1対1の勝負をしているのだ。双方の状態が万全ならば投手7割、打者3割で勝ちがつくのが野球というスポーツなのだ。ところが人間のやることだから、自分の考えているようなわけにはいかない。投手でいえば、球のスピードがない、キレがない、制球力がない場合がある。勝負以前の問題だ。打者でいえば、球種やコースの予想が当たっても、打ち返す技術がなかったり、相手投手の力がそれ以上だとすると簡単に負けてしまう。これらは普段の練習で鍛えていくしかない。安易な妥協ではなく、真剣に練習に取り組む必要がある。お互いに切磋琢磨した者同士の勝負だから、見る人をハラハラさせているのだ。また、その時の投手や打者の精神状態が勝負を大きく左右しているという。野球の場合は、相手に「考えさせる」「迷って判断がつかない」状態に持ち込めば、勝負に勝つ確率が格段に上がる。打者でいえば、内角に来るのか、外角に来るのか、ストレートか変化球がくるのが見当がつかない。そこで迷う。対応方法を決めることができない。考えているだけで、いずれかに決断して対応の準備ができていない。こういう状態だとシビアな勝負の世界だと簡単にねじ伏せられてしまう。足の速い選手が一塁に出ても、投手がポーカーペースで何を考えているのか分からない。牽制のタイミングや癖も分からない。そうなると、盗塁するかどうか様々な雑念でいっぱいになるのだ。意識や注意が分散される。本来ならば、投手の動作、カウント、キャッチャの動向などに集中しなければならない。迷いや思考は行動の邪魔になっているのだ。これは森田理論でいうところの、精神拮抗作用が発動しているのである。欲望が強くなれば、不安や恐怖などの感情も同時に湧き上がってくるようになっているというものだ。どう対応すればよいのか。車の例で話すると分かりやすい。欲望はアクセル。不安や恐怖はブレーキととらえる。どちらもなくてはならないものだ。使い方はどうするのか。目的地に向かうためにはアクセルを踏み込むことが必要だ。事故を恐れて、アクセルを踏み込まないようでは、前に進まない。これを第一優先しなければならない。そしてスピードが出過ぎたり、カーブに差し掛かったときは適宜ブレーキを活用する。そして欲望と不安のバランスをとりながら、慎重に運転すればよいのである。では打者の場合はどうすればよいのか。打席に入る前はヒットやフォアボールを選んで塁に出たいのである。でも7割は失敗する。3回に1回、あるいは4回に1回塁に出ることができれば、プロ野球の世界で飯が食っていける。それをしっかりと自覚する。次に、狙い球を想定する。間違うことは多いだろう。でも今までの経験やその場の状況を考慮して、行動のために自分の態度を決断することが必要だと思う。外れれば相手にねじ伏せられてしまう。それは7割は失敗するという想定の範囲内だ。その決断がたまたまあたって、高い確率でしとめることができたならそれで十分なのではないか。だから迷ったときは仮に一つの決断をして、実行に移す。多くの場合、失敗することは織り込み済みにしておくのだ。失敗しても、その経験は後で生きてくる。ここでのポイントは仮に間違っていてもよいので、行動のための一つの決断をして実践してみるということだ。自分の決断がどういう結果をもたらすのか、確かめてみようという態度で取り組んでみることだ。そうすればミスや失敗で再起不能なほど打ちのめされることはなくなる。反対にミスや失敗は次の成功のための反省材料となる。次の成功のための糧にすることができる。打者の場合は7割の失敗は許されている。そのマイナス面に焦点を当てて、事実を否定することは、百害あって一利なしとなる。3割成功すれば超一流打者といわれるのがプロ野球の世界なのだ。私たちもプロ野球の選手に学ぶことがある。不安や恐怖は自然に発動してくるので、そこに意識や注意を向けるのではなく、行動への選択と決断、そして実行に移すことに焦点を当てていくことが肝心である。そしてそれを継続することだ。
2019.07.15
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次のように言う人がいる。「理想の自分ばかり見て、現実の自分を裁いていました」「頭では理解できるのですが、かくあるべしがとれません」「どうすれば自己肯定感がもてるのですか」この方は、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害について理解されたのだと思います。現実や事実を把握する前に、是非善悪の価値判断をして自分を裁いていた。観念や理想通りの人間にならなければならないと叱咤激励していたのです。上から下目線で現実の自分を否定するのが常態化していたことに気がついた。それが葛藤や苦しみを生みだして、神経症へと陥っていった。なんとか「かくあるべし」を自分に押し付ける態度を改めなければならない。そして現実や事実に寄り添って、事実本位の生活態度を身につけていきたい。そうすれば、ありのままの自分を受け入れることができる。自己肯定感が生まれてくれば、自分の中で思想の矛盾が解消されるので、楽に生きていけるようになる。でも「かくあるべし」を減らすために具体的にどう行動すればよいのか皆目見当がつかないという悩みを抱えておられるのだと思います。私は次のようなことをお勧めします。・森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害は常に意識していく。・「かくあるべし」を少なくするよりは、事実本位の生活態度の養成に力を入れる。そのために以下のことに注力していく。・事実を先入観や決めつけによって軽々しく扱うことを止める。過去の経験で事実の予想ができることでも、改めて事実確認を行う。観察に徹することである。・事実を口にするときは、具体的、赤裸々に話すようにする。抽象的、隠しごとをしてはならない。・事実を見て是非善悪の価値判断をしない。事実を認めて、そのまま受け入れるように心がける。・感情の事実はマイナス面が出てきたら、プラス面からも見るようにする。これは森田理論の両面観の応用である。・他人から温かい言葉をかけもらったときや何かをしてもらったときは、「ありがとう」と感謝の言葉を口にする。これを習慣づける。・「あなたメッセージ」から「私メッセージ」の発信に切り替えていく。「私」を主語にして話すことだ。「私はこう思う」「私はこうしてくれたらうれしい」など。・森田理論の「純な心」を自分の生活の中に取り入れる。初二念の感情が湧き起こったときに、「ちょっと待て」と自分に声掛けをして初一念に立ち戻ることだ。・他人は決して自分の思い通りにコントロールできないことを肝に銘じておく。その溝を少しでも埋めるために、歩み寄ったり、妥協していくのが対人関係のコツだ。これ以外にも、それぞれ心がけておられることがいろいろとあると思う。森田理論の学習会の場などで話し合ってみてもらいたい。そして、これはと思うものをぜひとも実行してほしい。これらを実行することで、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責することが少なくなり、自己受容、評価、感謝の態度が増えてくれば、事実本位の生活に着実に近づいているのです。
2019.07.14
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他人に「かくあるべし」を押し付けて、批判や否定を繰り返しているパターンを見てみましょう。1、能力を否定する。「あの人にできるわけがない」「失敗するに決まっている」「任せも無駄だ」「なにをやらせてもダメなやつだ。それよりも自分が片付けたほうが早い」2、人格や存在を否定する。「あの人がいなければいいのに」「生きていても価値がない人だ」「辞めてしまえ」「死んでしまえ」「産まなければよかった」3、人と比較してダメ出しをする。能力や容姿などでマイナス面をことさら強調して劣等感を意識させる。4、動作や身体的な面を取りあげて否定する。「もたもたするな」「のろま」「デブのくせに」「チビのくせに」「ブスのくせに」「ハゲのくせに」5、からかい、皮肉、蔑視の言葉。「あなたができるとは思わなかった」「あなたにしては上出来だね」「あんなみっともない容姿で平気で生きていられるものだ」「こんな簡単なこともできないの。バカじゃないの」6、無視する。仲間はずれにする。孤立させる。人間一人では生きてゆけない。周囲の人に悪評を広めて兵糧攻めにする。7、相手の意見や考え方は、聞く耳を持たない。ことごとく反発、否定する。森田理論で学習したように、上から下目線で相手を見ていると、ついこのような他人嫌悪、他人否定の言動をとってしまいます。「かくあるべし」を他人に押し付けて、他人を自分の思い通りにコントロールしようと思っている人は、いつも周囲の人と対立関係を招いてしまいます。最初は、自分が相手を非難、否定していたのですが、そのうち立場が逆転して、相手や周囲の人から同じような仕打ちをされてしまうようになります。こうなると注意や意識が内向化して、自己防衛に走らざるを得なくなるのです。次第に目の前の日常茶飯事、勉強や仕事に集中できなくなるのです。「かくあるべし」を他人に押し付けることは、簡単に強迫神経症に陥ってしまうのです。また、他人に「かくあるべし」を押し付けている人は、自分自身に対しても同様のことを行っているのです。自分という一人の人間の中で、絶えず戦闘を繰り返しているようなものです。それが精神的な葛藤や苦悩を生みだしているのです。どんな状態であっても、命のある限り、あなたに寄り添って生きていきます。いつでも私はあなたの味方です。あなたを愛しています。このように自分の中で折り合いがつけられるようになると、生きる勇気が湧いてきます。持てる能力を精一杯活かして、人生を謳歌したいと考えるようになります。これは森田理論でいう「事実本位」の生き方につながるのです。ぜひとも「事実本位」の生活態度を身につけて、味わい深い人生を歩んでいこうではありませんか。
2019.07.13
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森田理論に「努力即幸福」という言葉がある。日常茶飯事、勉強や仕事、課題や問題点、興味や関心のあるもの、夢や目標に向かって、努力精進しているその実践・行動そのものが幸福な状態であるということだ。生の欲望が発揮されている状態は、生きがいを感じて、その人は光輝いている。森田理論はその態度をお勧めしていると思います。そのプロセスを軽視して、是が非でも成功しなければならない。目標を達成することにとらわれていては、そのプロセスを楽しむことはできない。思想の矛盾に陥って葛藤や苦しみが出てくるのです。この言葉と並行してよくつかわれる「感謝即幸福」という言葉もある。今日はこの言葉に焦点を当ててみたい。長谷川洋三氏は、入院して2度の手術をした時にそのことを感じたそうです。手術後は無力です。のどがカラカラになっても水が飲めない。食事もできない。一人でトイレにも行けない。看護婦さんが親切にやってくれるわけです。その時、なんといいますか、救われた思いがするんですね。同時に有難いと思うのです。それから背中が痒くなります。そうすると熱いタオルで拭いてくれるのです。これが何ともいえないいい気持ちなんですね。「ありがとう」と心から看護師さんにお礼を言いました。そういう経験をすると、こういうことも幸せなんだと思いました。元気な時にはそんなことは全く思わないのですね。家内は三度三度の食事を作ってくれます。それが当たり前になってしまうと、感謝しませんね。手伝おうともしませんね。ところが、これは考えてみると大変なことですよ。家内にいつも「ありがとう」「美味しいね」と感謝したいですね。私たちは人様からいろいろな恩恵を常に受けているのですね。そういうことは当たり前のこととして、普段は考えもしないのではないかと思うのです。「感謝即幸福」を実践していくと、幸せは自分の身辺にいくらでも転がっていることがよく分かります。(あるがままに生き心豊かに老いる 長谷川洋三 ビジネス社より要旨引用)これを「かくあるべし」を自分や他人に押し付けて、葛藤や苦悩で苦しんでいる人は、生活の中に取り入れてみてはどうだろうか。日ごろから感謝探しをするのだ。病気の人を見ると自分が健康で毎日過ごせているのは感謝そのものです。人から困っていた時助けていただいた。それも感謝です。挨拶や温かい言葉をかけてもらった。これも感謝です。飲み会やカラオケに誘っていただいた。自分で作った余りものの野菜をいただいた。可憐な花がベランダいっぱいに咲いて自分と家族の目を楽しませてくれている。などなどきりがないほど「感謝」の元はいくらでもありますね。意識して自分の身の周りを見渡せば、感謝することばかりです。それをしっかりとキャッチして日記に書いていくのです。日記に書かないとすぐに忘却の彼方に飛んで行ってしまいます。そしていつものように、自己嫌悪、自己否定、他人否定の「かくあるべし」の世界に戻っていってしまいます。たとえ1つでも日記に書いていけば1年で365個になります。そのうちに「ありがとうね」「ありがとうございます」が口癖になります。すると不思議なことに、いつのまにか有難いと感謝する人間に変身することができるのです。それは、これを実践していると脳の無意識の部分に感謝探しが刷り込まれてしまうのです。これは「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身につけるための一つの方法だと思います。この言葉を、自分にも相手にもできるだけ多く使うように心がけましょう。そうすると、自分から見ても、他人から見てもとても魅力のある人間になれると思いますよ。
2019.07.12
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京都の三聖病院の先代の院長であった宇佐玄雄先生は、森田療法は「自覚療法」であるといわれていました。自覚ということについて、水谷啓二先生の文章をご紹介します。この自覚とは、自分の日常生活そのものの事実、あるいはその時その場で自分が感じる感情の動きを、ごまかすことをせず、あるいは自らそれをなくしようとすることなく、ただそのままあることであります。たとえば、現在自分が恥ずかしいと感ずるならば恥ずかしいそのまま、めんどくさいと感ずるならばめんどくさいそのままにあることであります。あるいはまた、自分が自己をかえりみて、欲張りであるならば欲張りであると認め、虚栄心が強いならば虚栄心が強い、と事実の通りに認めつつ、今日のなすべき仕事は仕方なしにでもやっていくことであります。ここに、森田先生が教えられた、「自然に服従し、境遇に柔順」な生き方があります。これと反対に、勇気を出さなければならないとかいってカラ元気をつけたり、大いに努力しなければならないとかいって額は八の字のシワを寄せて、机にしがみついてみたりするのは、どうも不自然であります。不自然なことは長続きしないで、しまいには挫折することになります。挫折しますというと、「ああ俺は勇気が貧しい、ああ俺は意志が弱い」と悲観し、日常生活に対してまでも自信を失い、劣等感にもとらわれることになります。そんな、ムリな努力や力み方をする必要は一切ないのでありまして、自分自身のあるがままの事実を、あるがままに認めさえすればよいのです。もし、向上心のある人が、自分が怠けてきた事実を素直に認めるならば、「こんなことをしていてはとても一人前の人間になれそうもない」と感じて、なんだか心細くなり、力むということなしにひとりでに勉強をし、ひとりでに働くようになってきます。(2019年6月号の生活の発見誌8ページより引用)神経症の葛藤や悩み、人間関係の難しさ、生きることの苦しさは、観念や思想で作り上げた「かくあるべし」を振りかざして、事実、現実、現状を否定してしまうことにあります。私は森田理論学習によってそのことがよく分かりました。皆さんも森田理論学習をしてそのことに気づかれた人は多いでしょう。まだしっかりと理解できていない方は、理論学習でその弊害を自覚することが大切です。この自覚が症状を克服したり、生きづらさを解消するための出発点となります。自覚できれば、そこから事実に寄り添った森田実践に取り組むことが可能になるのです。事実本位の生活態度の養成は、それはそれでとても難しいものがありますが、その前に「かくあるべし」の弊害を理解しないと、その出発点にさえ立つことができないということを自覚する必要があります。
2019.07.11
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藤井輝明さんは2歳のころから、顔に海綿状血管腫というアザができました。それが大きくなるにつれてどんどん大きくなっていったそうです。右目の周りから右頬にかけてかさぶたのように腫れあがっているのです。子供のころはこの病気のせいで友達から「化け物」といわれていじめられていました。大人たちからはジロジロ見られたりしました。手術をしましたが治りません。大人になってからは、筑波大学や名古屋大学で勉強するくらいの秀才だったのですが、顔のアザを理由に50社から入社を断られたそうです。大手銀行では、成績は良かったのですが、その顔で顧客訪問や銀行窓口営業をされると銀行にマイナスになるといって断られたそうです。その理不尽な対応にとても憤りを感じたそうです。どんなに努力してみんなに受け入れられようとしても、やることなすことがすべて裏目に出てしまうのです。顔にアザがあってそれがどんどん悪化して治すことができないというのはつらいことです。普通の人でしたら自分の不幸を恨んで、投げやりになるのではないでしょうか。人生の理不尽さを嘆いて、引きこもったり、親を恨んで自暴自棄になったり、自殺を企てたりするようになるのではないでしょうか。私たちのように強い「かくあるべし」に振り回されている人は、自然にその流れに飲み込まれてしまうでしょう。自分に寄り添うことなんてできません。自分を自分で痛めつけてしまうのです。これでは不幸の連鎖で悪循環が永遠に繰り返されてしまいます。藤井さんは後に熊本大学医学部の教授になられました。さらに、顔に病気や傷を抱える人たちの差別や偏見をなくすために、学校や社会での講演活動も続けられています。「この顔でよかった」という本では、堂々と海綿状血管腫の顔を表紙に晒されています。副題は、「コンプレックスがあるから人は幸せになれる」です。これは森田理論でいうと、海綿状血管腫を持っている自分を認めて受け入れているということです。その現実を踏まえて、偏見や差別のある社会に身を置いて、自分のできることを着実に実行されているのだと思います。この病気になったからこそ、他人の温かさも人一倍感じることができるようになったといわれています。病気を糧にして、普通の人では経験できないようなこともたくさん体験できました。またこの病気は、人生についてもより深く考えることができるようなきっかけを与えてくれたのです。どうして私たちが目指している事実本位の生活態度を身に着けられたのでしょうか。私は両親の力が大きかったと思います。一時は一家心中を考えたこともあったようですが、基本的には親が常に子供に寄り添って温かく見守ったその成果だと思います。お母さんはこんなふうに子供を励ましています。「輝ちゃん、コンプレックスや悩み、ストレス、不安、悲しさに100%自分の心を支配させてはダメよ。誰しもコンプレックスや悩みがあるけれど、それらとうまく付き合いながら人間は成長していくもの。人と比較する必要なんてない。1年前、2年前の自分と比較して成長しているかどうかがポイントだよ」「輝ちゃんには魅力やチャームポイント、長所がたくさんあるから、欠点や短所ばかり気にしないで、長所もしっかり自覚して、いい面を伸ばしなさい」ここで分かることは、事実本位の生活態度を獲得するためには、周囲の人たちの強力なサポートが必要だということだと思います。私もそういう役割を果たしていきたいと思います。
2019.07.10
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佐藤富雄さんは、男の場合、幸・不幸を決定するポイントは「能力」だといわれる。ここでいう「能力」とは、何も、頭がいいとか、知能指数が高いとか、そういうことではないのです。自分だけが持っている自信とでもいったらいいでしょうか。例えば、パチンコをやらせたら負けない自信があるとか、釣りかけてはまかせろとか、コンピーターなら一日触っていても飽きない・・・など。何でもいいのです。要は、自分が「能力がある」と思いこむことが大事だということです。周りは誰もが認めなくても、本人だけがそう思っている。これがだいたい成功している人のパターン、ものごとをうまくやっていく人の発想なのです。女性の場合は、男性とは少し違います。男性は能力ですが、自分が「いい女である」と思いこむことが重要です。思い違いでも、勘違いでも、まわりが誰もそう思わなくても、自分自身が、「私はいい女だ」と思い続けていることが幸せを呼ぶのです。(運命は「口ぐせ」で決まる 佐藤富雄 22ページより引用)少し極論かもしれませんが、私は一理あると思います。ただし、この2つは男性、女性に限らず、人間である限り両方兼ね備えていることがポイントだと思います。というのは、この二つは森田理論が目指している人間像そのものだからです。男性の場合は、課題や目標、夢や希望に向かって情熱的に取り組んでいる状態です。努力即幸福、生の欲望の発揮に邁進している姿です。意識が内向化して、悲観、否定して神経症で苦しむことは少なくなります。最低限日常茶飯事、子育てなどは手を抜くことなく、真剣に取り組むことが大切になります。私の座右の銘である「凡事徹底」ということです。女性の場合は、いかなる状況、状態であっても、あるがままの自分を認めて受け入れるということです。自分に寄り添うことができる人です。自分自身を愛し続けることができる人です。これは容姿だけではないのです。丸ごとの自分をいとおしむということです。「かくあるべし」で自分を嫌ったり、否定することがありません。そういう人は他人に対しても、先入観や決めつけで否定的に裁くようなことがありません。事実、現実、現状を踏まえて、そこから目線を一歩前に向けて、行動を起こすことができる人です。こんな人と付き合いたいものです。自分も他人も幸せを引き寄せると思います。この2つの指針は、森田理論の根幹にかかわるものです。これを人生の指針として、しっかりと認識して、生活している人は素晴らしいと思います。このブログは、この2つの点に焦点を絞って、手を変え品を変えて説明しているようなものです。一人でも二人でもそのことに気づいてもらいたいと思っています。
2019.07.09
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この世に生を受けているものは、与えられた命を大切にして、できるだけ長生きをして生を全うしたいという意志を持っている。これは人間だけではなく、すべての動植物も同じ意志を持っている。その目的を達成し命をつないでいくためには、好むと好まざるにかかわらず、他の命をいただいてエネルギー源とせざるを得ない。根源的に自己中心性を前面に押し出して生活しないと、命をつなぐという目的は達成できないのだ。すべての動植物の、できるだけ生きたいと思う気持ちは、無残にも他者によって簡単に奪われてしまうこともあるのだ。自己中心的な生き物同士が絶えず緊張関係、対立関係を作りだしながら、その勝者が生き残るという宿命の中で生きている。すべての生き物は、このような矛盾を抱えて存在している。また人間の場合は、社会の中で他の人間と協力関係を構築していかないと、自らの生存や安全が保障されないという側面を持っている。決して一人では生きていけない。他人の力に依存して初めて自分の命を守り抜くことができるということだ。このような矛盾を抱えた人間はどう生きていけばよいのだろうか。与えられた生命、境遇、運命、性格、能力をあるがままに認めて受け入れる。そしてそれらをできるだけ活用して、生命のある限り引き延ばして生を全うしていくこと。これが基本だ。しかしその宿命、目標達成のために、他の人間や動植物の命を自由自在にコントロールしてはならない。他の生きとし生けるものも、私たちと同じ宿命や目標を持った生命体であるという気持ちをしっかりと持つことが大切である。この気持ちがしっかりしていると、欲望の暴走に歯止めがかかる。自分の欲望が暴走することを抑えることができる。また人間の欲望のみが暴走することを抑えることができる。現代社会は、欲望が欲望を生みだして、自分たち以外の生き抜きたいという意志を無残にも踏みにじっていることが大きな問題となっている。これを森田理論の立場から説明してみよう。森田理論では、生の欲望の発揮をことさら大事にしている。不安に振り回されている人は、不安は横において、生の欲望の発揮に邁進することが大切であるという。そして最終的には、欲望と不安のバランスを意識した生活を目指すことを勧めている。しかしここでは、生の欲望は無制限に追い求めてもよろしいとは言っていない。生の欲望の発揮は、不安を活用して適度に制御しながら取り組むほうがよいと言っているのだ。その機能は、精神拮抗作用として説明されている。普通の人間に元々備わっているものだ。過度の欲望が湧き起これば、後ろめたい気持ちが自然に出てくる。そして適度に欲望を制御するのだ。車のアクセルとブレーキの働きと同じことだ。生の欲望を前面に押し出す際には、不安の機能を活用して、欲望を暴走させないという気持ちを持っておくことが極めて大事になる。
2019.07.08
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私はマンションの管理人を始めて10年を超えた。今まで3つの仕事に就いたが一番のお気に入りの仕事である。その理由は、冷暖房完備でトイレ付きの管理人室が自由に使える。毎日棟内を巡回して身体を動かすので運動になる。階段の上り下りを繰り返しても、居住者に不審がられない。受付業務の時、特にやることがないときに本が読める。昼食後、30分から40分仮眠がとれる。残業が全くないので、定時にはすぐに帰ることができる。次々と仕事の工夫ができ、やりがいを感じる。今日は工夫の数々を投稿してみたい。1、居住者から1年に数回玄関のカギを無くしたという相談がある。今のカギはギザギザのあるカギではない。ドット打ちの特殊なカギである。これは品番をメーカーの代理店に連絡してメーカー直営工場で作ることになる。納期は約2週間かかる。この代理店は市内に11ある。私はその代理店すべてに電話して、製作費を調べた。すると値段に大きな差があった。最も安いのは税別1350円、最も高いのは6000円だった。居住者にどこに依頼すると安上がりになるかを教えてあげると大変感謝される。2、玄関のドアクローザーの開閉速度のトラブルの相談もよくある。これはドアクローザーに速度調整弁というものがある。私の勤務棟はそれが第一調整弁から第三調整弁まであるドアだ。それはドアの開き具合によって調整する弁が異なっているのだ。調整は特殊工具を使って調整する。ビスのような弁を時計回りに回すと開閉速度は遅くなる。反対に回すと、開閉速度は速くなる。そのさじ加減が微妙で難しいのだ。これは理屈の分かっている人がやるとたちまち調整ができるが、知らない人は悪戦苦闘する。第一ビスを回すための工具を持っていない人がほとんどだ。ここで私が活躍しているのだ。管理人さんに頼めばよいというのが棟内で周知されている。3、小学生は集団登校している。物騒な事件に巻き込まれないためだ。エントランスに全員が集まってから登校する。ところが登校時間になっても、なかなか全員がそろわない。遅れている子供は、玄関のインターフォンから上級生が連絡をとる。ところが時計がないので、連絡をとるタイミングがつかめない。そこで私の家で眠っていた目覚まし時計を持ってきてよく見えるところに設置した。子どもや親御さんから感謝され、子供たちがなついてきた。4、その他、掃除の時天井をよく見て、蜘蛛の巣を取り除くように注意している。蜘蛛の巣を嫌がる居住者がとても多いのだ。また雨が降ると、地下駐車場に水たまりができる。すぐに水切りドライヤーのような道具を使って、水たまりを無くしている。また国道端にある棟なので、雨降りの翌日は側溝が煤煙で汚くなる。雨降りの次の日は必ずモップ掛けをしている。こういう仕事は目立つし、居住者はよく見ているんですね。ちょっとしたことをメモして、ゆとりのある時に実行するだけで、居住者に信頼される。親しく声をかけられたり、おすそわけをいただいたり天国のような職場である。
2019.07.07
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自分の周りに、すごい資格を持って事務所を構えて、人がうらやむ人がいる。あるいは、名前の通った会社や役所に勤めている人もいる。しかし人望がないのか、周りの人が近づこうとしない。あるいは配偶者や子供が寄り付かなくなっている人もいる。こんな人間関係はできれば避けたいと思う。一度きりの人生、みんなと和気あいあいで楽しく交流していきたいものです。他人や家族から煙たがられて、敬遠されている人は次のような特徴があるという。(感性がもっと鋭くなる本 福島哲史 三笠書房 116ページから118ページょリ要旨引用)1、自分のためだけを考えて、保身に走る。2、やるべきことがあっても手を抜く、要領よく逃げる。3、隠しごとをする。4、他人を裏切る。5、自己顕示欲を出す、見栄をはる。6、すぐにあきらめる。7、他人の悪口をいう、けなす。8、いいわけをする。9、いうばかりで実行しない。10、その場逃れの弁解をする。これを見ると、森田理論学習をしている人はピンとくるのではなかろうか。他人を上から下目線で見下して、「かくあるべし」押し付けている人である。批判、説教、命令、指示、禁止、叱責、拒否、無視、抑圧している人です。前頭前野が高度に発達した人間は「かくあるべし」をなくすることはできないと思います。その流れで自分の考えと反対のことをしている人を見るとつい否定してしまうのだと思います。しかし否定するばかりでは人間関係は悪化するばかりです。もう一つ問題なのは、自分自身に対しても「かくあるべし」を押し付けて、葛藤や生きづらさを抱えているということです。最大の理解者であるべき自分が自分のことを否定しているのですから苦しいはずです。そういう人は、事実や現状を受け入れることができません。事実を認めて受け入れて、そこを起点にして行動するという気持ちが持てず、否定しているのです。言い訳ばかりをする、行動しないですぐに逃避する、隠しごとをする、事実をごまかすようなことになってしまうのです。他人との関係も自分自身との関係も負のスパイラルにはまっているのです。ここで反対に自分の周りに人だかりができている人を見てみましょう。1、自分は苦しくても、他人のために頑張る自己犠牲的な行動をとる。2、結果を問わず、一生懸命同じことを繰り返す、必死にやる。3、他の人の欲しいもの、知りたいことを苦労して手に入れ、笑って差し出す。4、他人のできないことをやる。5、難しいことにチャレンジする。6、時間をかけてやる。7、手間をかけてやる。8、言ったことを守り抜く。9、堂々とふるまう。正義感にあふれる。10、人を立てる。認める。こういう人はどんな理不尽な出来事が発生しても、事実を認めて受け入れることができる人だと思います。一旦事実を受け入れるとその状況を少しでも改善しようと立ち上がることができます。すぐに事実を否定して、自己嫌悪、他人批判を開始するのとえらい違いです。森田理論は事実に寄り添う態度を身につけて、精神的に安定した生き方を目指しているのだ思います。そういう覚悟を決めて、少しでも近づくために努力するようになれば、味わい深い人生に変化していきます。
2019.07.06
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古田敦也さんのお話です。高校生で甲子園で活躍した投手がいるとします。そういう選手がプロ野球の世界に入ってきて、「僕の得意なボールはストレートだ。だからストレートでどんどん押していきたい」などと言います。その選手のストレートが140キロそこそこだったら、プロの打者ならすぐに打ち返します。プロの世界で生活している人は、打撃のレベルが高校時代とは雲泥の差があるのです。そこでどうするのか。自分の今までのスタイルを変化させていくことが大切なのです。一つには自分の持っているストレートをもっと速くしていく。145キロ後半から150キロ台になればプロの世界で通用するようになります。もしそこまでのレベルアップができない場合は、他の抑え方を考えないといけないのです。制球力、変化球、球のキレなどの方法を工夫してみる。そういうまわりの環境に対応してやっていく能力がないと、プロ野球の選手としては生き残っていけないのです。ところが投手の場合、例えば「フォークボールを身につけるとよいのでは・・・」と提案をすると、「フォークボールは得意じゃないから投げたくない」と固辞する人も多いのです。自分のスタイルにこだわりすぎることは、自分の成長を止めてしまうのです。そしてプロの世界からはじき出されてしまうのです。棋士の谷川浩司さんは、羽生善治さんの強さの秘密を次のように見ています。先手であっても後手であっても、得意戦法が3つか4つぐらいあるような感じなんですね。将棋界広しといえども大変珍しい人で、羽生さんの右に出る人はいないと思います。一時期の羽生さんは、全くどう変化されるか分からない予想もつかないような手でこられるので、事前に作戦を立てておいても全く歯が立たないのです。相手の戦法に合わせて、自分のスタイルをどんどん変化させるのでついてゆけない感じです。お二人の話を聞いてみると、いつまでも自分のスタイルに固執することは、それ以上の発展は見込めないということだと思います。カメレオンのように周囲の環境、状況に合わせて、自分のスタイルを変化させていくことが大切なのだと思います。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。では最も頭のいいものか。そうでもない。最後まで生き残るものは、変化に対応できる生き物である」と言っています。このことを臨床心理士の岩田真理さんが分かりやすく説明されています。 サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。 人生の波に乗るとは、結局、毎瞬毎瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察し、そのときそのときで適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。流れに乗る、ということです。流れに乗るとき、人は注意を一点に集中したままではいられません。四方八方に目を向け、状況を考え、自分の姿勢を判断しバランスをとっていくのです。いわゆる「無所住心」の状態です。 (流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページより引用)感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2019.07.05
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今日は感性を鍛えることについて考えてみたい。感性は物事や出来事に直面したときに、どんなことを感じるかということである。これは、見る、聞く、匂う・臭う、味わう、触れるという五感によって発生する。その時に大切なことは、最初に感じたことである。これを直感という。森田理論では「純な心」と言って、ことさら重要視している。感じから出発すると間違いがない。感じを無視、軽視して、観念や「かくあるべし」を優先していると間違いだらけとなる。ハンバーガ屋に一人でいって、「ハンバーガー10個ください」と注文する。店員が、「全部お持ち帰りですか」と聞いてくれるならよい。「店内で食べられますか、それともお持ち帰りですか」などと聞いてくる。誰が10個も店内で食べるのだと反発したくなる。店のマニュアルどうりに対応することを強制されて、自分の感性は抑圧・無視しているのだろう。これではロボットと話をしているようなものだ。テレビでサスペンスドラマを見ていると、感性の鋭い刑事が出てくる。その人たちの特徴は、安易に観念や先入観で犯人を決めつけない。どう見てもあの人が犯人だと思っても、丁寧に本当の事実はどうだったのか検証していく。事実を丹念に洗っていって、少しのほころびから、真犯人の特定に結びつけている。事実こそが神様であるといった態度である。事実を確かめる態度が、感性を鍛えているのだ。感性の弱い刑事は、最初に観念や先入観で犯人を決めつけて、それを証明するような事実を恣意的に集めようとする。それはほとんど間違っている。安易な決めつけは、誤認逮捕につながる。感じる力は人によって差がある。神経質性格者は、もともと感じる力が鋭いようだ。鋭いレーダーを標準装備しているようなもので、普通の人が感じられないようなことでも、感じることができる。この鋭い感性のおかげで、芸術や文化をより深く鑑賞して感動を味わうことができる。また、仕事や生活場面では、気づきや発見、興味や関心が次々と生まれてくる。神経がピリピリとアンテナを張って絶えず、周囲を観察しているようなものである。これが高まってくれば、自然に動きだしたくなってくる。好奇心に沿って、行動するようになれば、自己内省するよりも、外向きの気持ちが強くなってくる。そういう態度で生活していると、感性はどんどんと鍛えられていく。神経質者が元々持っている感性は、どんどん鍛えていくようにしたほうがよいと思う。そのためには、先入観で決めつけたり、「かくあるべし」を前面に押し出す態度ではダメだと思う。事実を徹底して観察するという態度が、感性を鋭く鍛えているということを忘れてはならない。
2019.07.04
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私は仲間5人で老人ホームや地域のイベントで、昔懐かしいチンドンミュージックを披露している。この度、大阪ラプソティ、河内おとこ節、アリランプラストラジの3曲を演奏曲に加えることになった。私はアルトサックスを担当している。楽譜が渡されると、全員が家で個人練習をする。その成果を全体練習で改善して完璧に仕上げるのだ。小節ごとに区切って、問題がないかどうかを確認していく。グループの中に音感の優れた人がいる。まあ音楽の先生のような人だ。その人が全体の仕上がり具合を調整してくれる。間違って解釈しているところはすぐに指摘される。テンポ、リズム、休止符、入り方の間違いはすぐに分かるようだ。難しい指使いで何度やってもうまくいかないところは、楽譜を書き換えることもある。先生に加えて、演奏仲間からのアドバイスもある。これも貴重である。私の場合、音感の能力がないので、個人練習の段階では間違いに気づくことがない。自分勝手な演奏で、一応演奏できるようになると「できた」と言って一人で満足している。しかしそんな状態で人前で演奏すれば恥をかくだけだ。他人に客観的な目で出来栄えを判断してもらって、問題がない状態に持っていく必要がある。お墨付きを思えれば、疑心暗鬼になることはなくなる。あとは、数多く練習して、楽譜がなくても暗譜で、指先が正確に演奏できるまでに高めていくだけだ。このやり方が、演奏技術を高める最短の道であることはよく分かっている。これは森田理論を理解して実践する場合も同じことが言えるのではないか。例えば、森田理論を長く学習しているのに、パチンコ三昧の人がいる。外食三昧の人もいる。過保護、過干渉、放任の子育てをしている人もいる。ネットゲームにはまって夜更かしをしている人もいる。日常茶飯事にはほとんど手を付けない人もいる。そして、「かくあるべし」を自分にも他人にも押し付けている人もいる。不安が抜けきらない。生きづらさがなくならないという人もいる。そういう生活にどっぷりは待っていると、井の中の蛙のようなもので、自分ではそれが当たり前だと錯覚してしまう。そういう生活でよいのか悪いのかの判断能力は働かなくなっている。そういう人は、まず他人の前で普段の生活ぶりを具体的に詳しく報告することだ。生きづらさを解消して、人生観を確立したいならば、これが肝心である。集談会の先輩会員の中には、森田理論を掘り下げて学習して、実際の生活に応用している人がいる。そういう人の考え方を聞いてみることだ。反発しないで素直な気持ちで聴くことだ。本人が気づいている以上に、そういう生活の問題点や弊害について十分な説明をしてくれるだろう。それがきっかけとなって、自分の生活を見直して、森田的な生活に転換することができる可能性がある。私の場合を振り返ってみれば、神経症で苦しいばかりの時、集談会の中で、愚直に森田に取り組んでいる人との出会いがあった。その人の側に陣取り、自分の生活ぶりを包み隠さずに話していた。するといろんなアドバイスをいただくことができた。励ましもいただいた。また、森田実践の見本が目の前にあるので、どん欲に自分の生活に取り入れていった。それが、神経症の克服と森田的人生観の獲得に結びついたのである。今何となくもやもやしている人は、自分の生活ぶりを赤裸々に告白して、森田を極めた人の見解を素直に聞いてみることをお勧めしたい。
2019.07.03
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今日は「境遇に柔順なれ」について考えてみたい。野球選手でも、「私は先発しかやりません」「100球以上は投げません」「中6日はあけないと投げません」という選手がいます。ましてや、「中継ぎをやってくれ」「抑えをやってくれ」といわれると、監督に反発して受け入れない人もいます。どこまでも我が道を行くという感じです。それでも成績を残せる選手はプロ野球の世界で生きていけるでしょう。でもほとんどは辞めていくことになるでしょう。また一般的には煙たがられます。そういうスタイルを押し通されると監督やコーチは、その選手を使いにくくなります。個々の選手の性格や長所を見極めて、今の戦力の中でいかに適材適所で成果を出してもらおうかと考えているのに、融通が利かなくなってしまうからです。他の選手との関係も悪くなります。ですから、選手は自分の与えられた状況を素直に受け入れて、その中で精いっぱいの努力をすることしか道はないのだと思います。その状況を受け入れないで、反発や反抗にエネルギーを投入していると、練習への情熱が失われ、パフォーマンスはどんどん落ちてしまいます。会社でも大きなミスや失敗、あるいは担当部署の業績が低迷していると、左遷や出向させられることがあります。ラインの役職を外され、以前の部下が上司になり、そのもとで働くこともあります。みじめな現実が待っているのです。この場合も理不尽な仕打ちに反発して、すっかり仕事に対する意欲をなくしてしまう人がいます。現実を受け入れられない人です。以前とは人間性そのものが変化して、昔の面影がなくなります。ところが反対に、左遷や出向先で組織を立て直し、業績を伸ばしていく人もいます。仕事にも積極的、他の社員や取引先との関係も良好で、水を得た魚のようです。そして数年後、その手腕が認められて、本社に呼び戻されて、重要ポストを与えられ、中には取締役に抜擢されるような人もいます。この人たちは、左遷や出向の現実を一旦は受け入れることができた人だろうと思います。境遇に反発しないで、与えられた環境、境遇の中で精いっぱい生きていこうとした人です。これが森田理論でいう事実を受け入れ、「自然に服従して、境遇に柔順に生きる」を実践した人だと思います。私たち人間は、生まれた家、経済環境、身体的欠陥、精神的欠陥、両親や家族、神経質性格、生まれた国、生きている時代は、どうあがいてもコントロールすることはできません。火山の噴火、地震、津波、台風、土砂災害などと同じ自然現象です。そうなら、上から下目線で、自分の運命や境遇を批判・否定しないで、素直に受け入れたほうがよほど得策です。どんなに受け入れがたい境遇であっても、現実にしっかりと足をついて、一歩一歩階段を登って行くという覚悟を決めて実行に移すことが大切です。そのほうがよほど意味のある生き方をすることができます。森田理論では、「自然に服従し境遇に柔順」な生き方を強くお勧めしているのです。
2019.07.02
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人間の脳は二つのことを同時に考えることはできない仕組みになっている。これは、楽器の演奏会やスポーツの本番でいつもプレッシャに押しつぶされてしまう人に考えてみてもらいたいことだ。さらに不安に振り回されるという人にも参考になる。前提として、本番前の練習では100%の出来に仕上げなければ話にならない。練習を積み重ねて、本番を想定して10回予行演習を行えばほぼ完璧にこなせるように仕上げる必要がある。練習で50%、60%、70%、80%、90%しかできないのに、本番でうまくやろうとするのは虫がよすぎると思う。予期不安も普段以上に強まるだろう。第一不完全なものを観客の前で披露するということは失礼なことだ。プロの演奏家、プロのスポーツ選手は、時間をかけて徹底的に不安を取り除く練習を繰り返している。そして手足や身体が意識しなくても、間違うことなく正確に演奏や演技ができる状態に仕上げている。練習の成果がそのまま本番で出せれば、成功はほぼ間違いないだろう。でも、そうはならないことが多いのだ。思わぬミスや失敗を招くことが後を絶たない。上手に演奏して観客を感動させたい。一番良い成績を出して優勝したい。などの欲望が強ければ強いほど、「もし失敗したらどうしよう」という予期不安が大きくなるのだ。この不安のために、手足や身体が金縛りにあったような状態になるのだ。これは森田理論でいう「精神拮抗作用」です。人間に元々備わっているものです。なくしてしまうことはできない。また大切な機能ですので、上手に活用していく必要があります。神経症に陥る人は、その不安に振り回されてばかりで、欲望の発揮が蚊帳の外になっているのです。プロの演奏家やプロスポーツの選手はどうしているのか。「人間は同時に2つのことを考えることはできない」という人間の特徴を活用しているのです。具体的には、目の前の行動に没頭するようにしているのです。身体運動に没頭することによって、不安を生じさせる前頭前野の働きを弱めようとしているのです。これはプリショット・ルーティンと呼ばれています。イチロー選手がバッターボックスに入る動作は、毎回同じ動作を繰り返しています。バッターボックスの土を足でならす。同時に右手でグルッと1回転させる。その後、バットをピッチャに向けながら、左手でユニフォームの右肩をつまんで構えに入る。それ以外にも、試合に臨む前の準備や行動は寸分の違いのないようなルーティンが貫徹されています。これはフィギアスケートの羽生結弦選手も同じです。私たちもこれに倣って、不安やプレッシャに押しつぶされそうになったとき、目の前の日常茶飯事を淡々とこなすという姿勢を堅持したいものです。
2019.07.01
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