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大原健士郎先生のお話です。動物は仮面をつけて仲間と接することはありません。人間は仮面をつけて人前に出ることが必須となります。すっぴんのまま平気で顔をさらす人は滅多にいません。女性は人前に出る時はそれなりに化粧をします。男性は無精ひげをそり、髪形を整えて、その場に合った服装で出かけます。また赤の他人と会話する時は、家族や友達とは一線を画し、言葉使いや振る舞いについて細心の注意を払います。大人の対人関係は、人格と人格との付き合いです。人格を英語で表すと、パーソナリティとなるが、このパーソナリティの語源は、ラテン語の「仮面」(ペルソナ)である。ギリシャ劇で俳優たちは仮面をつけて演技したといわれている。日本の能なども仮面をつけて演技している。心の中は大荒れでも、表面上は穏やかに取り繕っているのである。素の自分をそのまま人前に晒すことは、分別のつかない幼児並のふるまいです。顔色の悪い女性は頬紅や口紅をつける。葬儀に参列する人は喪服を着用する。あれもこれも仮面の一つである。「仮面を拒否する」生き方は、人間関係を険悪にし窮屈にするだけだ。自分の心をむき出しにするのではなく、隠してくれる「仮面を認める」ことで、人間関係はスムーズに運ぶのである。(「不安な心」と上手に付き合う本 大原健士郎 PHP 参照)とても参考になる話です。我々は人生という晴れの舞台で、仮面をつけて演技をしていると考えるのは如何でしょうか。大根役者と言われるよりも、拍手喝さいで味のある役者と評価されたいものです。そのためには、すっぴんで観客の前に姿をさらすことはできない。きちんと化粧をして、それなりの衣装を着けて、役になりきることが大事になります。森田理論に「感情と行動は別もの」として取り扱うというのがあります。人間関係に問題を抱えている人は、感情の赴くまま、不快の感情や気分に振り回された行動が顕著です。森田理論は「感情と行動を分離する能力の獲得」を目指しています。その方法はふんだんに用意されています。このブログでも再三取り上げています。みんなで切磋琢磨して、幼児から大人の人間へと脱皮していきましょう。
2025.11.24
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王貞治氏は、「悔しいという感情は味わうもので発散するものではない」と言われている。よくありがちなのは、チャンスで三振したとき、バットを叩きつけたり、ダックアウトに戻ってイスなどを蹴飛ばすような選手がいる。悔しい気持ちを自分では処理しきれないで、周りの人や物に吐き出して精神的に楽になろうとしているのである。こういう人は大成することはない。三振した原因を分析して次に活かすことをしないからである。王貞治氏は、チャンスで三振しても、まったく気にしない人も問題であるという。クールで冷静な人であるが、ある意味鈍感な人ともいえる。普通の選手はチャンスで打てないときは心中穏やかではない。悔しいという感情が湧き出てこないということは、怒り、不甲斐なさ、悲しみ、喜び、楽しさなどの感情に対しても鈍感ということになる。感情が活発に動き出さない人は、気づきがない、発見がない、問題や課題の発見能力に問題があると言わざるを得ない。王貞治氏は、自分に対して「あえて悔しがる」「敢えて怒る」ということが必要になるという。つまり悔しいという感情を自ら作り出し、それをじっくりと味わうことである。ただしそれを短絡的に外に向かって発散してはいけない。他人から軽蔑されるだけで何の効果ももたらさない。悔しさを次の対戦で絶対にリベンジを果足したいと考える人は、打てなかった原因を整理して研究する。さらに相手の配給を研究する。次は狙い球を絞って打席に入ることができる。悔しさを次に生かすことができる人は、プロ野球の世界で飯を食っていけるのである。「感情は味わうものであって、発散するものではない」というのは、感情の取り扱い方に問題を抱えている人にとっては耳の痛い言葉である。
2025.11.23
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集談会の世話活動を頼む場合、普段から忙しくしている人と暇を持て余している人がいる場合、どちらの人に頼んだ方がよいと思われますか。暇を持て余している人の方が頼みやすいと考えてしまいますがそれは考えものです。身体面、精神面の両方が弛緩状態に陥っているために、エネルギーか枯渇気味な人なのです。たとえ引き受けてくれたとしても、見るべき成果は期待できないと考えた方が無難です。イヤイヤ仕方なく引き受けているので、きちんとその役割を果たして、他の人から感謝されることは期待できません。世話役を引き受けることで、弛緩した身体・精神状態を、いきなり緊張状態に切り替えていくことは至難の業なのです。どちらかというと身体の廃用性萎縮現象が進行し、認知症などで会話能力が衰えてくるのです。そういう人に世話活動を頼むというのは本人も依頼する人も疲弊してきます。世話活動は神経症のアリ地獄から地上に這い出し、ある程度生活の好循環が戻ってきた人に頼む方が効果が期待できます。普段から仕事や日常生活で忙しい人は、生活の発見会の仕事を依頼しても、あまりにも忙しい人なので依頼してもどうせ断られてしまうだろうと思いがちです。確かにキャパオーバー気味の人は難しいでしょう。でもよく考えてみると、集談会や発見会活動で大きな成果をあげて貢献している人は、それぞれみんな忙しく生活している人達ばかりです。介護や子育て中の人も難しいかも知れません。そもそもそういう人は毎月集談会に参加することが困難です。でも例えば定年退職した人はどうでしょうか。その後仕事を始めても、フルタイムでなく負荷を落とした仕事をしている人もいます。また病気療養中の人や家事専業の人はどうでしょうか。そういう人たちの中で、身体面や精神面で緊張感を持続して取り組んでいる人は、いったん引き受けるとみんなから頼りにされるようになります。それはいったん引き受けたからには、なんとかみんなの役に立ちたい。気づきやアイデアを活かして、問題点の解決や改善点、改良点が次々に見つかり行動に弾みがついてくるからです。緊張感を持った生活のことを森田では「無所住心」と言います。気づきや発見をすぐにメモして、自分の目標や課題として取り組む人は、神経質症状でのたうち回っている人ではありません。神経症を克服して、神経質性格のプラス面を仕事や生活の中で開花させている人です。そういう人はますます人間として魅力にあふれた人になることができます。今年の秋冬野菜の収穫が始まりました。鍋料理や大根サラダが楽しみです。
2025.11.22
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森田理論に、変化を予測して、すばやく身体や精神をその変化に対応させるというのがあります。森田先生は絶えずその気合で生活されていました。例えば自動車に乗ったとき、くつろいでユッタリとするのではなく、事故が起きた時のことを想定して身構えていたというエピーソードが残っています。そういう気持ちで生活していると、絶えず他人の動向や目の前の出来事に注意や意識が向くようになります。過度の自己内省がなくなり、物事本位への対応力が鍛えられます。精神状態は弛緩状態から緊張状態に切り替わり、自己肯定感が持てるようになります。変化に対応するために、「生活リズム」「体内リズム」を意識して、その流れに乗るように心がけたいものです。「生活リズム」作るためには、起床、身支度、食事、子育て、排泄、入浴、労働、運動、学習、交流、就寝などを毎日きちんとこなすことを言います。そのためには、毎日決まった時間に決まったことをこなすようにすると、「さて、この次に何をしようか」などと考えることはなくなります。つまり規則正しい生活習慣を作ることは、「生活リズム」を作り上げる上での大事なポイントとなります。その際、感動や感謝、問題点や課題の気づきや発見、改善点や改良点などを見つける気持ちで取り組むと生活そのものが活性化してきます。このことを一言で言うと「凡事徹底」です。「体内リズム」ですが、心臓の拍動、呼吸や消化器の活動、筋肉の運動などすべてリズム運動をしています。我々の精神機能も、知らず知らずの間に、緊張と弛緩都が交代してリズム運動になっています。無意志のうちに、強弱運動、規則正しいテンポ運動が繰り返されています。交感神経と副交感神経が体内のリズムを円滑にするために調整しています。体温は37度付近に保たれています。実際には早朝に低く、夕方に高いという「体内リズム」があります。細胞が活動する昼間は体温を高め、細胞が休む夜間は血流が少なくなり体温も低くなっています。「体内リズム」を乱すような生活習慣は病気を誘発します。例えば、夜間に食事をとると、血糖値が上がります。それを緩和するためにすい臓からインスリンが緊急出動します。インスリンは昼間に出やすくなっていて、夜間には休むのが普通ですが、夜間に無理やり働かせていると、そのうち機能障害を起こします。すい臓は沈黙の臓器と言われていて、痛みとして警告を発してくれませんので、病気に気づいたときは手遅れとなる場合が多いのです。脳の松果体から、夜になるとメラトニンという眠りを促すホルモンが出ています。これは昼間はセロトニンとして心の安定を保つ精神伝達物質が役割を変えているものです。昼間に寝て、夜間ゲームや仕事などをする習慣を続けている人は、その切り替えがうまくいきません。それが体調の悪化につながることは容易に想像できます。「体内リズム」の仕組みを学習して、生活習慣、食習慣の改善を図ることが心身の健康維持には不可欠になると思われます。
2025.11.21
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2025年9月号の発見誌に次のような記事がありました。森田先生の原著を読んでいるとき、掲載される箇所によって森田先生の言っていることが違う感じがして読む気がしない。具体的には次のようなケースです。とらわれたときはとらわれになりきればよいのです。悲しみは悲しいまま、苦しみは苦しみのままであるよりはほかに仕方がないように、とらわれはとらわれるより仕方がありません。(自覚と悟りへの道 白揚社 74ページ)別のところでは次のように話しされている。とらわれがなくなれば、神経症は全治する。とらわれから離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。(森田全集 第5巻 240ページ)これは不安などに「とらわれる」と神経症になるので、普段から「とらわれない」ように心がけて生活することが大事になりますというふうにとらえられます。森田先生の話は他にも矛盾しているのではないかと思われる箇所があります。しかしよく考えてみるとどちらも真理を突いておられます。「とらわれ」については次のように理解すると問題は発生しません。まず「とらわれ」ないようにするということですが、「とらわれない」というわけにはいきません。ただし、いつまでも不安や恐怖に注意や意識を向けていると目の前の肝心なことがおろそかになります。日常茶飯事に手を付けないと生活の悪循環が始まります。気になるものを一つ一つ解決した後で、次の不安案件に進むということは実用的ではありません。すぐに解決できる不安案件は、すぐに処理することがよいことは誰でもわかります。しかし実際には時間のかかるもの、自分一人ではどうすることもできないものもたくさんあります。それらはやむなく抱えたままで、とりあえず当面の「なすべき」課題に取り組むことが賢明です。森田先生が説明されているのは、不安を抱えたままの状態で、物事本位に行動しなさいと言われているのだと思います。つぎに「とらわれになりきる」ということですが、不安や恐怖を感じる場面は生活の中で次々と生まれてきます。苦痛を感じる場面から逃れたいと思うのは当然ですが、まず不安や恐怖にきちんと向き合うことが大事になります。「幽霊の正体見たり枯尾花」という句がありますが、夜道で慌てふためくと転倒して大怪我をしかねません。まずは事実にきちんと向き合うことが肝心です。事実を事実として認めて受け入れることが大事になります。その事実が良いとか悪いとか、正しいとか間違といった価値判断は不要です。事実を確認して、何ごともなければ注意や意識は、次の不安案件に速やかに移していくことが大事になります。これは車の運転をする人は誰でも無意識にやっていることです。交差点で右折する時は、信号、対向車、横断する人や自転車などの動向を慎重に確認しています。つまり注意や意識はどんどん移り変わっているのです。「とらわれになりきる」というのは、不安や恐怖と一つになって、不安の時は不安のままでやり過ごすということです。不安と格闘するとその不安はいつまでも頭の中に居すわり、昼夜強迫観念となって我が身を苦しめることになります。
2025.11.20
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過去の不祥事や失敗を思い出しては後悔や罪悪感で苦しんでいる人がいます。そういう人は悲惨で辛い人生で一生苦しんでいくしかないのか。ものは考えようです。そうではない人生を送ることはできます。そのためには、次のように考え方を改める必要があります。過去の実績が未来を決めるのではない。未来の実績が過去に対する評価を変えていく。つまり将来の運命を切り開いていくことで、過去の不祥事や失敗は問題視されなくなる。しかし、現状に流されて、後悔、反省、自己批判、自己否定ばかりしていると、一生涯悪夢でうなされることになります。私たちは神経症で苦しみました。不安にとらわれやすく、不安を何とかしようと思っているうちに、人間関係、仕事、日常生活に支障が出てきました。毎日雨が降る中で生きているようなものでした。時には土砂降りの線状降水帯の中で生きてきました。もがけばもがくほど、アリ地獄の底に落ちていくような状態でした。アリ地獄の中で苦しんでいるときに、一本の糸が目の前に差し出されました。必死になってその糸にしがみついていると、いつの間にか地上に引き上げてくださいました。それが森田理論でした。森田を学習している仲間でした。あれから40年。森田ともに人生の半分をともにしてきました。その結果、神経質性格の活かし方、不安との付き合い方、生の欲望の発揮、事実を大切にする生き方、感情と行動の分離の仕方、気分と行動の分離の仕方、凡事徹底、良好な人間関係の作り方、子育てのヒント、変化に対応した生き方、バランスや調和を大事にする生き方、すべてのものに居場所や活躍の場を与える生き方などを学ぶことができました。神経症で苦しんだことは神様から宿題を出されたようなものでした。四苦八苦しながらなんとか回答を出そうとしてきました。その目的はある程度達成されたのではないかと思っています。今度は今現在神経症で苦しんでいる人達に何らかの形でお返しをするという役割が与えられました。これが残された人生の中で取り組むべき課題となりました。これにある程度の目途を立ててみたいと思うようになりました。このように考えると、社会体験不足や後悔や罪悪感を感じる出来事は全て宝の山だったのではないかと考えるようになりました。そういうことがなかったら森田に出会うこともなかったし、神経質者の生き方を考えることもなかったでしょう。人生の醍醐味は味わうことはできなかったでしょう。今は後悔、罪悪感ではなく、貴重な体験をさせていただいたことに、ただただ感謝あるのみです。
2025.11.19
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「これでいいと」と心から思える生き方(野口嘉則著)にこんな逸話があります。ジャナカ王の家臣にアシュタバクラというものがいました。その男は、王様から「これについて、おまえはどう思う?」と聞かれると、いつも決まって、「起こることは、すべて最高でございます」と言いました。王様からは信頼されていましたが、他の家臣たちからは嫉妬されていました。ある日、王様が手にけがをしたとき、ワナにはめられました。家臣たちが、アシュタバクラに「王様がけがをされたことを、どう思う?」と聞いてきたのです。これに対していつものように「起きることは、すべて最高でございます」と答えました。すぐに家臣たちは王様に告げ口をしました。怒った王様は、アシュタバクラを牢屋に入れてしまいました。そして、王様が狩りに出かけたある日のこと、王様は「人食い部族」に捕まってしまったのです。その部族は儀式のときに人を生贄として火あぶりにします。王が火あぶりになる直前、彼らは王の手にケガがあることに気づきます。この部族には、傷ものは生贄にできないというしきたりがあったので、「もうお前に用はない」と王様は放免されました。無事に帰って来ることができた王は、アシュタバクラを牢獄から出してあやまりました。「わしが手をケガをしたのは、おまえの言う通り最高の出来事であった。どうすれば、この過ちを償えるだろうか?」これに対して、アシュタバクラは、「もしも、私を牢屋に入れてくださらなかったら、私はいつも狩りでは王様の側から離れないので、一緒に捕まっていたことでしょう。そして、ケガをしていない私は、生贄となっていたことでしょう。だから、私は牢屋に入れていただいて最高だったのです」アメリカの成功者たちのアンケートを見ても、そのことが分かります。彼らがあげた成功した理由のベスト3は、「病気」「倒産」「失恋」です。これらはいずれも不幸で辛い出来事です。しかし、彼らはこのつらい出来事を、「自分を深く見つめ直す機会」に変えて、生き方を改めたのです。すると、災いは転じて福となったのです。(犬のウンチを踏んでも感動できる人の考え方 ひすいこたろう 祥伝社 251ページ)人間誰でも立ち直ることが難しいような試練に直面します。がんに侵される。交通事故に遭う。財産を失う。戦争に巻き込まれる。配偶者や子どもを失う。子どもが不祥事を起こす。リストラに遭う。巨大地震に巻き込まれる。そんなとき自分の境遇や運命を呪い、自暴自棄になるのが普通です。現実や事実を否定している限り、どんどん落ち込んでいきます。そして一生を終えるときに、私の人生は何だったのか後悔し、もう二度と人間に生まれ変わりたくないと思うようになります。片や不幸な人生を受け入れて、どこに問題があったのかを反省して、逆転人生の出発点にした人は輝かしい人生の幕が切って落とされます。もし神様がおられるならば、どんなに不祥事や失敗の連続であっても過去は問われないでしょう。不遇や不幸を素直に受け入れて、課題や目的や目標を追い求めていく人を高く評価されるのではないでしょうか。
2025.11.18
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結星蓉子さんのお話です。 一人娘の里紗さんはプロジェリアという病気で、8歳で亡くなられたそうです。プロジェリアという病気は400万人から800万人に一人がかかる病気です。1年で10歳ほど老化が進むそうです。原因はLMNA遺伝子のわずかな変化だそうです。現在治療法は確立されていません。その後、結星蓉子さんは右手が強ばり思うように動かなくなりました。ピアノの講師をしていたので仕事に支障が出てきました。その後心臓の脈が極端に低下してしまう病気に罹り、ペースメーカーなしでは生きられない体になりました。どうして神さまは私から大切なものをすべて奪ってしまうのかいくのかと憤慨しました。うつ病になり、一家心中を考えるようになりました。 今はなんとか乗り越えて、自分の体験を語るセミナーや講演を行っておられます。以前の私は、娘を難病で亡くした自分を心のどこかで不幸な人、可哀相な人だと感じていました。ですから何に取り組んでも苦しく、うまくいきませんでした。自分に貼ったレッテルが、そのとおりの現実を引き寄せていたのです。そうではなく、不幸と思うその経験があったら、得られたものは何かと考えてみることにしました。この視点に立てたとき、見える景色が一変しました。何年たっても、娘との日々を思い返すと涙が溢れます。それでもあの体験がなければ、自分の心と向き合うこともなく、今の私はなかったでしょう。すべては必然で、偶然ではないのだと思います。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 12月号 50ページ) 不幸というのは、地震とよく似ていて一つだけでは終わらないことが多いように思います。それに耐えきれず、自暴自棄になってしまうのは残念なことです。私は神経症で長い間苦しみました。やることなすことがすべて裏目に出ていたように思います。幸い37歳の時に森田に出会い、神経症を克服するとともに、神経質性格者としての今後の生き方を確立することができました。今後は、その経験を現在神経症で苦しんでいる方や生きづらさを感じている方に還元してゆきたいと考えています。
2025.11.17
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自分の感情や思考を客観的に見ることができるようになると人間関係はかなり改善できます。今日はその方法の一つとして、「エンプティ・チェア」というイメージワークをご紹介します。まずは、イスを2つ用意して、少し離して向かい合わせにして並べます。ひとつにはあなたが座り、目の前のもうひとつのイスには、イヤな人をひとり思い浮かべてその相手をイメージの中で座らせます。まずは、あなたが相手に対して、感じてることを全部ありのままに伝えてみてください。ここは本音で、悪口だってOKです。今度は相手のイスに座り、相手になったつもりで、相手の視線からあなたはどう見えているか感じてみます。そして相手の立場からあなたに伝えたいことをすべて伝えてください。次は、あなたは横から、2つのイスを眺めてみてください。客観的にあなたと相手のことを眺めると、どのように感じますでしょうか?最後は、もう一度、ご自分のイスに座ってみてください。さまざまな立場を経験したうえで、再度、自分の視点から見ると、相手の方への印象はどんなふうに変化しましたか?関係を改善するうえで、あなたから相手に何を伝えられそうですか?何ができそうですか?実際の相手に、それを伝えてみてください。もしくは、気づいたことを行動に移してみてください。立場とは、文字通り、立っている場。立つ場を変えると見方が変わるんです。(犬のうんちを踏んでも感動できる人の考え方 ひすいこたろう 祥伝社 73ページ)これは森田理論でいうと自分の感情や思考を客観化し自覚するということです。このブログでも、脱同一化、メタ認知、脱中心化などについて説明しています。同じことです。全て自分の感情や思考を別の立場から眺めてみるということです。具体的には、自分専用のアナウンサーを作り、現場に急行させて、感情や思考の事実を伝えるようにします。その際、自分の考えをくり返したり、解説者のように論評しないことです。是非善悪の価値判断をしないで、事実を事実のままに眺めることが大事になります。
2025.11.16
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ひすいこたろう氏のお話です。僕らは、つながりのなかで生きている存在です。だから、「人間」と書きます。人と人との間(つながり)で生きているのです。そのつながりを再認識させてくれるのが、「自分は必要とされている」という思いです。この感覚が、男性の場合は、誰かの役に立っているという実感を求めることにあらわれ、女性の場合は、大切にされたい、愛されたいという思いにあらわれます。どちらにしろ、人と人とのつながりのなかに小さな幸せがあるのです。孤独とは、そのつながりを感じられない状況です。そんなときは、「役割」を思い出せばいいんです。家族のなかの役割、会社のなかの役割、友達のなかの役割、妻(夫)としての役割、両親への子どもという役割、植物に水をやる役割、犬を散歩する役割、パン屋さんのおばあちゃんに「おはよう」って声をかけてあげる役割、あなたの家の近くの道ばたにそっと咲いているお花にちゃんと気づいてあげることだってあなたにしかできない役割です。もしあなたがいなくなったら、そのお花はとても寂しがることでしょう。逆に負担に感じる役割があればそれをやめる自由だって僕らにはあります。(犬のウンチを踏んでも感動できる人の考え方 ひすいこたろう 祥伝社 174ページ)ここで言われていることは、世話をするものを身の回りにたくさん持っておくということだろうと思います。神経症で苦しい時は、苦しい時にとても人の世話なんてできるわけがないと思います。そして自分を責めてますます神経症を悪化させています。苦しい時こそ、人や物に対して積極的に役に立つことを実践していくことです。世話活動をすれば、内向きの感情や思考が外向きに切り替わります。森田に新しい行動を起こせば、新しい感情が生まれてくるというのがあります。不安や恐怖、不快感などは新しい感情が多少なりとも流してくれます。私の世話活動を考えてみました。・ベランダにある季節の花の手入れをする。・メダカにエサをやる。・集談会の世話活動をする。特に最近力を入れているのは集談会開催日の連絡係。・田舎で年間を通して自家用野菜を作っているのでその手入れ。・留守にしている田舎の家に風を入れる。田舎の畑や畔の草刈りをする。・田舎にある柿、栗、梅、ゆずの手入れ。シャクナゲなど庭木の剪定。・友人とのカラオケ会と飲み会の設定と連絡。・年間を通して老人ホームの慰問活動(楽器演奏、一人一芸)をしているのでその練習。・妻がいつも丁寧に料理、洗濯をしてくれているので、感謝の言葉がけをする。・マンションの管理人をしているので、居住者に笑顔で挨拶を心がける。隅々まで丁寧に掃除をする。・このブログを継続して、生きづらさを抱えている人に役に立つ記事を数多く投稿する。その他にもいろいろとあります。世話活動で気を付けていることは、「小さな親切、大きなお世話」ということです。また自分の活動内容を得意になってしゃべることは考えものだと思っています。
2025.11.15
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天才バカボンの口癖は「これでいいのだ」です。「これでいいのだ」と言っていると、愚痴を言わなくなり、不満がたまらない。「これでいいのだ」と言っていると、求めなくなる。「これでいいのだ」と言っていると、イライラしなくなり、怒らなくなる。「これでいいのだ」と言っていると、この世にイヤなことがなくなり、イヤな人がいなくなる。天才バカボンは、人と自分を比較して劣等感で苦しむことがない。また優越感で人を見下すこともない。愚痴を言わない。不平不満を口外しない。不都合な事実を隠そうとしない。事実をごまかそうとしない。言い訳をしない。責任転嫁をすることがない。すべての事実をありのままに認めて、受け入れることができる。自分の欠点、弱点、苦手、過去の不祥事、現在抱えている問題点、病気、恥部をうまくごまかして、他人につけ入るすきを与えないように細心の注意を払っている人にとっては信じられないことです。集談会でこんな話を聞きました。夜部屋の明かりをつけている(薄手のカーテンの場合)とき、外から部屋の中の様子がなんとなく分かります。ところが部屋の中にいる人は外の様子は全く分かりません。部屋内にいる人は、カーテンがあるのだから、自分のことは全く分からないはずだと思っています。これとよく似た現象が起きているのです。つまり、自分が隠そうとすればするほど、他人はその人の不自然な言動の中から、隠蔽しようとしていることをするどく見破ってしまいます。いったん見破ったらタダでは済みません。そのことを周りの人におもしろおかしく吹聴して笑いの種にします。さらにもっと悪いことが起きます。あの人は都合の悪いことは、すべてごまかす人であるという烙印を押して、絶えず警戒するようになります。交流することを避けるようになります。隠す、ごまかす、隠蔽するということは、本人もしんどい思いをします。隠すためにはいろいろと考えをめぐらします。その消費エネルギーはかなり大きなものです。またごまかしていると、ついほころびが出てきます。そのほころびをなんとか繕おうとすると、もう一つの別の隠蔽工作を画策するようになります。エネルギーを浪費し、心身ともに疲労困憊するばかりです。私の中学時代の同級生で運動は得意でしたが、勉強は苦手という人がいました。その同級生はどんなにテストの点数がわるくても、周りの人に平気で公開しているのです。みんなから、「こんなところを間違えたのか」とかわれても、ニコニコと笑いものになっているのです。勉強はできなくても、多くの友達に囲まれて楽しそうでした。その彼が東京からはるばる同窓会にやってきました。空港からタクシーを飛ばしてやってきたというのも驚きましたが、そのとき誰もが知っている大会社の部長をしているというのです。ガキ大将でいつも子分を束ねていましたので、人間性やマネージメント力が鍛えられたのだと思いますが、事実を隠さないで素直に認めて受け入れるという習性が彼の躍進を支えていたのかもしれません。
2025.11.14
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人間関係をよくするための方法はそれぞれの人からいろいろなことを教えてもらいました。例えば、次のようなことです。・笑顔でのあいさつを心がける。・傾聴、共感、受容、許容の気持ちを持って相手に寄り添う。・約束をきちんと果たす。・あなたメッセージを私メッセージに変える。・「ありがとう」「助かります」「おかげさま」という感謝の言葉を使う。・相手の役に立つことを率先して行う。それらはもちろん大事なことですが、私はその前に心掛けるべき大切なことがあると思う。①感情と行動を分離すること。②自分に与えられた役割について社会的責任と義務をきちんと果たすこと。この二つを無視していくら小手先で人間関係を改善しようとしても、ザルで水を掬うようなものでうまくはいきません。不快な感情は頻繁に湧き上がってきます。それに対してすぐに敏感に反応していると、「あの人は短気で気難しい人」「瞬間湯沸かし器のような人」「子供みたいな人」として警戒されるようになります。普通の人は不平や不満、愚痴を言いたいことがあっても、しばらく我慢することができます。腹の中が煮えくり返りそうになっても、売り言葉に買い言葉的な行動はとりません。人間関係では、適切な「間」や「車間距離をとる」ことができるのです。つまり森田でいう「感情の法則」通りのことができているのです。特に感情の法則1では、「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと登りひと降りして、ついに消失するものである」と言います。これを理解したうえで、実生活の上で不快な感情と行動をきちんと切り分けているのです。これは俳優が立派な役を演じているようなものです。実生活ではたとえ夫婦仲が破綻していても、ドラマのなかでは仲睦まじい夫婦役を演じなければなりません。感情と行動の分離ができないで、観客にすぐに見破られるような人は大根役者と呼ばれます。次に②ですが、気分に振り回されて与えられて社会的な責任と義務を果たさない人は、会社や社会のお荷物として嫌われるようになります。他の人が稼いでくれたものに依存する寄生虫のようなものです。一旦仕事に就いたら、どんなにやる気が湧き上がらなくても、最低限のノルマや責任を果たしていく覚悟が必要になります。仕事には、大きく分けると人間を相手にするものと物を相手にするものがあると思います。人間を相手にするものは、営業、先生、指導員、リーダー、経営者などの仕事です。物を相手にするものは、職人、農業、事務、研究職、刑事、鑑識、鑑定、分析化学などの仕事です。自分は果たしてどちらの仕事に向いているのかに気づくことが肝心だと思います。神経質者の場合、細かいことによく気が付いて、論理的、探究心、分析力に優れたところがあります。その特徴を活かした仕事を見つけることができると、自分の長所や強みや得意を活かして居場所を見つけて社会貢献ができるようになります。
2025.11.13
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岡田武史氏のお話です。以前、ライフル射撃の日本代表にうかがった話ですが、弾を的に当てるためには、銃の先端についている照準とずっと前方にある標的を一直線に結ばなくてはなりませんよね。そのとき、照準や標的ばかりを、銃の先をピタリと停止させることができないそうです。一点に集中しすぎると力が入って銃が停止しないんですね。どうするかというと、照準や標的の景色も視野に入れながら集中するんだそうです。つまり「全体に集中する」ことが大事なのです。普通頭の中で考えると、限りなく一点に注意を集中する方が、命中率が高いように思われますが実際は違うということです。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 75ページから要旨引用)ここでは過度に注意や意識を一点に集中することの弊害について説明されています。これは楽器の演奏の場合も一緒です。何回も練習をしているにもかかわらず、譜面どおりに演奏できないという場合があります。その状態で本番に臨むと、演奏する前から緊張して不安が膨れ上がってきます。その不安を払しょくするために、付焼刃的に気になる部分に集中して練習を繰り返します。これは逆効果です。不安が収まるどころが、益々膨れ上がってきます。森田理論の感情の法則4に、「感情は、その刺激が継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである」とあります。そんなときは、人という字を手のひらに書いて呑み込めば効き目があるという人もいますが、あまり効果はありません。ではどうすればよいのか。その部分は上手な人にまかせて、自分は休むという手があります。しかしソロ演奏の場合はそうはいきません。難しい部分はゆっくりと運指を確認しながら基礎練習をくり返します。何回も練習していると少しずつですができるようになります。この段階では人様に披露できるようなものではありません。次に全体の通し練習を行います。通し練習は459回を目標にします。正確にカウントしながら練習をします。そうすると成功確率は99%に跳ね上がるという法則があります。難しい部分も459回の練習の中で微調整を繰り返しながら、多少の違和感がありますが、何とかこなせるようになっていきます。不思議なことですが、練習を繰り返しているうちにいつの間にかできるようになっていたという経験は何度もあります。難しいところを無意識に演奏していたという状態になればほぼ大丈夫です。ちなみに100回の練習では、成功確率は64%ですから不安が残ります。459回の練習をこなし本番の時を迎えたら、胸を張って姿勢を正し、大きく深呼吸をします。「弱気は最大の敵、強気は最大の味方」という言葉を唱えます。不安は肯定語に切り替えるのです。うまく演奏できたら自分にちょっとしたご褒美を与えるのもいいですね。演奏のし始めは多少緊張しますが、しばらくすると指が勝手に動いてくれるようになります。観客の様子が観察できるようになると、自信が出てきて抑揚をつけることを考えるようになります。観客と一緒になって演奏を楽しむことができるようになります。
2025.11.12
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山崎房一氏のお話です。中学1年と小学5年の娘さんを持つSさんという女性のお話です。Sさんの姑は、Sさんの手料理や掃除、洗濯、2人の娘の教育のことまで細かく口出しされていました。夫に相談しても、どちらかと言えば姑の味方をするかのような口ぶりで彼女をたしなめてくる。姑と別居したい、それがだめなら離婚するしかないと思い詰めて、山崎さんに相談されました。山崎氏はSさんに次のような話をされました。「Sさん、おばあちゃんを殺したいといくら憎んでもいい。自分の気がすむまで、思う存分憎みなさい。いくら憎んでも、憎しみが心の中にだけある限り罪ではありません。しかし、黙っておばあちゃんに少しでも具体的な意地悪をすれば罪になるから、どんなにくやしくてもそればかりは絶対にやってはいけません。いいですね、今日帰るとき、私の言う通りにしてください」「何でしょう。私に出来ることならなんでもします」『渋谷で、おばあちゃんが一番好きなお菓子を買って帰ってください。こう言って、おばあちゃんに渡してください。「お留守番してくれて、ありがとう、おばあちゃん。いつまでも長生きしてくださいね」と、やさしく笑顔で言いながら、そのお菓子を差し上げてください。心とは裏腹なことをしても、愛には変わりないのです。或いは、これが本当の愛かもしれません」Sさんは、肚を決めて実行された。そのことがあってから、魔法にかかったように彼女は明るくて美しい女性に変身したのである。その彼女の変身によって姑の態度がすっかり変わったと、後で報告を受けた。(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 120ページ参照)不快な感情をそのまま口外している人にとっては耳の痛い話です。森田では「感情と行動は別物」(行動の原則の9)と言います。感情と行動は分離しないといけないものなのです。感情というプールなかではどんなに無茶なことをしてもよいのですが、不快感を持ったまま、行動というプールの中に飛び込むことは決して許されるものではないということになります。人を感動させる役者さんは、実生活では姑と犬猿の中であっても、ドラマの上では理想の嫁と姑の役をこなさないと話になりません。人間関係に問題を抱えている人は、不快な感情が湧き上がってくると、間髪を置かないでストレートに相手にぶっつけてしまう人です。我慢して耐えることができない人です。仮に一時的に我慢できたとしても、その後ダムが決壊するかのような悲惨な結果を招いてしまいます。第三者から見ていると、人間的には幼児と何ら変わりがないということになります。幼児なら許してもらえますが、大人の場合、不快な感情を抑圧できない人とみなされると、その噂が拡散されて孤立してきます。「感情と行動の分離」は、人間として生きていくときに、ぜひとも身につけなければならない能力となります。
2025.11.11
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山崎房一氏の詩のご紹介です。経済的に破綻すれば、誰も助けてはくれない他人に対する親切も、自分を確立してこそできる自分の人生は、自分のためにあるだからどんなに犠牲を払っても、自分の生活基盤は自分の力で確立しなければならないひとは、自分中心に生きるのが自然だ利己的に生きるのではない自分中心に生きないから集中力を失い他人の思惑に支配され、自己統一ができない自分中心に生きることが罪悪だと思っていた私は他人と自分との板挟みになって苦しんできたしかし、自分中心に生きるのは当たり前のことだと知って私はようやく自分をつかむことができたのです他人からも自由になって自立できたのです(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 151ページ)山崎房一氏は他人中心に生きるのではなく、自分中心に生きていくべきだと言われています。まずは自分と自分の家族の生命を維持し長生きすることが最大のミッションとなります。依存して生きていくのではなく、自立して生きていくことが肝心です。そのためには最低限の必要な食料を確保することが欠かせません。食料はできるだけ延命を図りたいと願っている動植物の命を頂くことです。命を奪われる動植物にとっては理不尽なことですが、すべての生き物は食うか食われるかというギリギリの攻防の中で生を紡いでいるのがまぎれもない事実です。そういう相矛盾する関係の中で、他人や他の動植物とどう折り合いをつけていくのか、人間に問われているのだと思われます。次に、他人の気持ちを思いやることは尊いことですが、その前に自分を思いやることが大事になります。自分の気持ち、感情、気分、思考、欲望、欲求、夢などにきちんと向き合うことが肝心です。しかし自分の気持ちなどを優先すれば、利己的で、自己中心的で、わがまま放題のことばかりして、人間社会は大混乱に陥ってしまうと考えがちです。歴史を振り返ってみると、人間は戦いや戦争を繰り返してきました。このままの状態が続けば、人類の滅亡から逃れることはできません。これについて森田理論では、両面観の考え方が重要になると言っています。いくら自分の気持ちを優先したいと思っても、目の前の相手を無視して押し切ることはできません。森田では自分の気持ちは「主観的事実」と言います。これに対して、他人の気持ちや考え方は「客観的事実」と言います。森田では主観的事実を大事に取り扱うことはもちろんですが、他人の客観的事実を無視してはいけない。両者の間に隔たりがある場合は、話し合いによって妥協点を探ることが必要になります。用意に溝が埋まらない場合は、性急に結論を出さない方がよい。時間の経過が薬になるという考え方をとったほうが賢明です。時には譲ったり、時には譲られたりの関係を築くことが肝心です。自分の気持ちを抑圧して、相手に合わせてばかりというのは、アドラーのいう支配ー被支配のタテの人間関係に陥ってしまいますので注意が必要です。森田の両面観、バランス、調和の維持という考え方は、森田理論の核となる考え方の一つです。
2025.11.10
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山崎房一氏の詩です。無目的でやった成功は、まぐれだと思うからその体験は身につかない無目的でやった失敗は自信を失い劣等感の原因となる人に言われた目的で成功した場合、人のせいだと思うから喜びや満足感が薄い人に言われた目的で失敗した場合は人を恨むようになる自分が設定した目的、たとえそれが小さくても成功した場合は喜びと満足感に溢れるから、自信となる自分が設定した目的で失敗した場合はそれは失敗ではなく、人生の貴重な体験として活かされるから宝となる。目的を持つと知恵が湧き、知識も知恵に変わるやる気が出てくる自分の目的は祈りと執念で必ず達成できる(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 156ページ)私が「目的本位」について森田理論から学んだことを整理してみました。目的は規則正しい生活中からいくらでも生まれてくる。いきなり大きな目的を持てと言われても実現不可能である。毎日のルーティンをこなす中から、小さな気づきや発見、改善点や改良点、目標や夢の卵が生まれてくる。宇野千代さんが、「幸福のかけらは幾つでもある。ただそれを見つけ出すことが、上手な人と下手な人がある」と話しされている。とるに足らないような小さなことで、無上の楽しみや喜び感じる人は幸せな人生を送ることができます。小さな気づきや発見は規則正しい生活を続けることで手にすることができます。まず起床時間を一定にすることから始めることです。そのためには起きてからすぐに手掛けることを持っておくことが有効です。仕事は生活の糧を得るだけが唯一最大の目的だというのはつらいばかりです。もちろんそれは大切なことですが、もう一つ目的を付け加えるとよい。仕事は上司や会社から指示されたことだけをイヤイヤこなすのではなく、仕事をする意義や目的を自分がやりたい目的に換えていくのです。例えば、人に役に立つ仕事をする。人から感謝されるような仕事をする。人を感動させるような仕事をする。すると仕事に工夫やアイデアが泉のように湧いてきます。こういう目的が持てれば、仕事に対するモチベーションは全く変わってきます。「その通りだ」と思った人は、実践あるのみです。
2025.11.09
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山崎房一氏のお話です。自分を100%肯定すると、誰でも人生の諸問題についての根本的解決の鍵が分かってきます。したがって、私たち社会人としての次の5項目さえきちんと守っていれば、別に自分がいい人間かどうかなど余計な心配をしたり、不安になったりすることはありません。安心して前向きに積極的に生きていけるようになります。1、法律を守る。2、税金を払う。3、他人に迷惑のかかることはしない。他人に世話になったら電話か手紙で必ずお礼の言葉を述べておく。4、経済的に自己を確立する。5、経済的、時間的余裕があれば、喜んで社会奉仕をする。(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所 221ページ)山崎さんは、他人や社会に受け入れてもらうために「自律」と「自立」が必要になると言われています。まず社会に対して自分に与えられた責任と義務をきちんと果たしていくことです。法律を守り、税金を支払い、自分に与えられた役割の義務と責任を果たしていく。社会的に迷惑をかけ、社会に依存する生き方は問題です。自立は人とのかかわりあいの中から可能となります。人間関係は、20:60:20の法則があります。馬の合う人20%、馬の合わない人20%、どちらでもない人60%の法則のことです。このなかでどちらでもない人は、自分の対応によって、馬の合わない人になる可能性があります。その結果80%以上の人、つまり大半の人と馬が合わない関係になりかねません。相手を無視してあいさつをしない。無視する。からかう。不快な感情のままに行動する。自己主張ばかりをくり返す。相手を非難、否定する。等々は問題です。これらは第一の関門です。この関門を無事に通過できると、自由に行動する権利を手に入れることができます。次に自分の能力や関心に応じて適職を見つけて経済的に自立していく。ただ、経済的自立はとても大切なことですが、それだけでは仕事を続けることは困難です。仕事の目的をいかにすれば他人のお役に立てるか、他人に喜んでもらうにはどうすればよいのか。他人に感動を与えて仲間とともに喜び合いたいという目標を持つことができれば、仕事そのものが天職となります。仲間同士で感動や感謝を味あうことは、良好な人間関係を築く基になります。
2025.11.08
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帝京大学の佐藤典宏氏のお話です。ガンになる原因は、遺伝的要因と習慣的要因の二つです。遺伝的要因は、遺伝子の変質、異常によるものですがガン全体の10%程度です。環境的要因のうち、生活習慣に端を発する例は全体の40%から60%に達するとされています。私はこれまで1000例以上のガン手術を行い、治療を続けてきました。その中で、同じような治療をしても、すぐに再発してしまう人がいる一方、再発せず平穏な生活を取り戻す人がいました。また、すでに全身に転移して手術ができないほどなのにずっと元気に外来に通って来られる人、進行ガンを克服する人も一定数いました。ガンを遠ざける人は、少しの間落ち込んでも引きずらず、前向きに治療に臨んでいます。例えば、病院の治療を受けつつ、その効果を高めるために自分でできること、変えるべき生活習慣、セルフケアを探していく。そうした姿勢が身体によい影響を及ぼしていることは否定できません。佐藤典宏氏は、「食事の見直し」について強調されています。ガンのリスクを高めてしまう食品に、「超加工食品」があります。コンビニでいつでも手に入るインスタント食品、消費期限の長いお弁当やお惣菜、菓子パン、アイスクリームなどです。これらの「超加工食品」には、添加物(着色料、乳化剤、人工甘味料等)が多く含まれ、これが蓄積すると腸内環境を乱すのです。次に人に対して明らかな発がん性を認めた数少ない食材に「加工肉」があります。加工肉とは基本的に、香りや保存性を高める処理が施された肉を指します。具体的には、フランクフルト、ハム、ソーセージ、サラミ、コンビーフ、ビーフジャーキーなどがあります。肉自体が問題というよりも、製造過程で使われる「亜硝酸ナトリウム」など一部の添加物に発がん性が認められています。三番目にお伝えしたいのは、油について、ラードやバターに含まれる「飽和脂肪酸」、またはマーガリンに含まれる「トランス脂肪酸」です。ガンのリスクが指摘されていますので、できるだけ避けた方がよいでしょう。ガンのリスクを下げるという意味では、野菜に勝るものはないでしょう。特に、キャベツ、ブロッコリー、ごぼう、長いも、玉ねぎ、にんにく、トマト、キノコ類です。野菜を摂ることが、なぜガンを抑制することにつながるのか。その答えは、何と言っても「腸内環境の多様性が保たれる」ことです。腸には善玉菌、悪玉菌、日和見菌が存在し、微妙なバランスを保って私たちの健康を支えてくれています。このバランスを整えてくれる食物繊維が豊富な野菜、それも先ほどの8つを摂っていただければ、ガンに限らず全身の健康、長寿が実現できるはずです。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 10月号 128ページ)
2025.11.07
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経営の神様と言われるドラッガーの教えです。ドラッガーは、「自分が適任で、しかも貢献できるもので、なさなければならないものは何か」を問うことが大事になると述べています。そのために、次のことを明らかにする。①私は何者か②私の強みは何か③私の得意なものは何か④私が不得手なものは何かそして常に「いいですか、弱みに立って考えていては、何事も成就しません。土台になるのは強みだけです」と言いつづけました。強みや得意なことによって「なされる」ことを徹底して教えました。人は、自分の弱みや不得意なことはよく知っていても、強みや得意なことはあまり知らないことが多い。「君子は多能であることが必要であろうか。いや多能なことなどいらない」(「論語」1日1言) 状況に適応し、自らを変えるとは、弱みや不得手なことを省き、強みや得意なことを磨き、世の中に役立てていくことです。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 10月号 113ページ)森田理論を学んでいるものとしてとても役に立つ考え方です。①は自分の神経質の性格特徴を理解することだと思います。性格にはプラスの面とマイナスの面の両面性があることを学びました。神経症で苦しんでいるときは、マイナス面ばかりを誇張して眺めています。これは飛行機でいえば片肺飛行しているようなものです。まともに飛ぶことは難しくなります。ドラッガーはマイナス面はそのままにしておいて、プラス面に焦点を当ててさらに鍛えて世のため、人の為に活用していくことが肝心であると述べています。「細かいことによく気が付く」というのは、神経質者の大きな特徴です。気づいたことをメモしておく。ストックしておくことが大事になります。面倒だと思って放置してしまうと、神経質性格はいつまでたっても活かすことはできなくなります。我々はマネジメントや統率力は見るべき点はあまりありませんが、その人を支えていくようなサポート的な役割を果たすことができます。組織というのは、営業や開発力が必要なのは言うまでもありませんが、財務、経理、資金繰り、人事管理などを疎かにしていると会社は成長できません。我々神経質者はそういう場所に居場所を見つけることができると、水を得た魚のようにやりがいを持てるようになります。その他、神経質者は好奇心旺盛、興味や関心の範囲が広い。論理的で分析力や探究心に強みを持っています。これらに焦点を当てて、実生活で活かすようにすれば、神経質性格は類まれな性格として脚光を浴びることができるようになります。
2025.11.06
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不平不満の感情が起きてきて、他人に八つ当たりしたり、愚痴をこぼすことがあります。感情は自然現象なので自然発動に任せるしか方法がありません。しかし不平不満のはけ口として、支離滅裂な言動は極力抑えたいものです。例えば、今の時代二人に一人がガンになる時代です。ガンにかかる人は年間100万人と言われています。ガンになるとどうして自分がガンになったのだろうと気が動転して投げやりな気持ちになります。そしてしかたなくガン治療に取り組みます。治ればよいのですが2024年は約393000人の人がガンで亡くなっています。そんななか、5年生存率は10%未満と言われた人が、奇跡的にガンが消えてがんを克服している人がいます。今の医学ではどうしてがんが完治したのかうまく説明できないようです。私の知り合いにも、そういう人がいます。スキルス胃がんの手術をされました。その方は術後19年になりますが、完全にガン細胞が消えました。その方を見ていて思うことは、愚痴や不平不満を封印して、フルマラソン挑戦の夢を持ち続けたことです。今までにフルマラソンを5回完走されています。もう一つは、自分の闘病体験を貴重な経験として、感謝の気持ちを持って、今現在ガンで苦しんでいる人達のボラティア活動をされていることです。その人が愚痴や不平不満を口にするのを聞いたことがありません。京都大学総長を務められた平澤興先生という方がおられます。この方は直腸ガン、皮膚ガンになられました。平澤興先生は、ガン細胞に対して「俺が死んだらお前も死ぬのだから、お互いに仲良くやっていこう」と、病を親友のように取り扱っていたそうです。死後ご遺体を京都大学の岡本道雄医師が解剖したところ、ガン細胞が腸全体に大きく広がっていたにも関わらず、発病には至っていなかったという話です。鈴木秀子氏は、ガン細胞が消えた人は、飲み薬やリンパマッサージをなどの治療を受けておられますが、それに加えて日常生活の中で「感謝」する習慣を身に着けていることが回復の後押しをしているのではないかと言われています。愚痴や不平不満を封印して、この試練は神様が私に何かを気づかせるためのギフトとして感謝の気持ちで受け取っているというのです。鈴木秀子氏は、愚痴や不平不満を言うよりも「意外と私は」というマジックワードを用いることを勧めておられます。自分を叱りつけたり、何でそんな馬鹿なことをしたのだろうと自分を責めたりしていると、必ず他の人との人間関係が悪くなります。「ああ、また自分を責め始めたな」と気づいたら「意外と自分は」と自身の心に語りかけてみてください。「意外と私は頑張ったじゃないか」「意外と私は皆に感謝しているじゃないか」そういう自分の良いところを引き出すことによって、心が解放されていきます。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 10月号参照)
2025.11.05
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昨日の続きです。4の「自省心」「反省心」ですが、うまくいかなかったことや、問題点を分析して次の成功のために、原因究明や分析をして改善や改良を加えることは大切なことです。これが上から下目線で現実や現状を否定し攻撃するようになると自己嫌悪、自己否定に向かいます。これは神経症発症の一つの原因となります。「自己内省性」というのは使い方によって諸刃の剣になることを認識する必要があります。5の自分の行動に責任を持つということですが、人間は社会的な生き物なので、他の人と協力関係を築き上げないと生きてはいけません。自分に与えられた役割については、いくらしんどいと思っても、社会的な責任と義務を果たしていくことが必要になります。ものそのものになりきり、問題点や改善点、課題や目標を見つけだすことが仕事を面白くするコツです。さらに、他人を喜ばせたい、感動させたいという目標を持つことができると、自分に与えられた役割を果たすことができるようになります。6ですが、目標を持って積極果敢に挑戦することができても、目の前には解決困難な壁が立ちはだかっていることがほとんどです。簡単に挑戦を諦めてしまうのは残念なことです。視点を変えて改めてゼロベースから見直すことが肝心です。自分一人の力だけではどうにもならないときは、友人、先輩、先生、コーチ、専門家の知恵を借りることです。私たちは人に相談しないで自分の殻に閉じこもってしまう特徴があります。パソコンがフリーズしたときに、詳しい人に助言してもらえばたちまち解決します。神経症も自分一人で治そうとしている人は多いのですが、なかなか思ったような成果には結びつかないことが多いようです。7のユーモアを解し、生活を楽しむことですが、川柳や面白小話やダジャレ作り、収集に挑戦する。その他時間を忘れて楽しむものを持っていることは生きる醍醐味です。これには2つあると思います。外部から与えられる娯楽などを楽しむこと。自分が手足を動かして楽しみを作り出していくこと。この二つは両方とも人生を豊かにしてくれます。外部から与えられる楽しみばかりを追い求めている人は注意したいものです。川柳やユーモア小話は、気持ちが内向きになっていると生まれてきません。外部に目を向けて観察を心がけることが肝心です。苦しい時に取り出して読み返すと、苦しい感情が流れていくのを感じます。
2025.11.04
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昨日の続きです。1、社会生活や日常生活に目が向かないということですが、神経症で苦しい時は手足が動かないで頭の中でネガティブなことばかり考えています。私が症状でのたうち回っていたころ、集談会で「実践課題」を作って取り組みなさいとアドバイスされました。「布団上げ」「部屋の掃除」「整理整頓」「風呂の掃除」などです。身体が動かない人はこれが有効だと思います。それが軌道に乗ってきたら、今度は仕事や日常生活の中で気づいたことをメモ帳に書いていくことに取り組むことが有効です。最終的には「規則正しい生活習慣」を作り上げることです。同じ時間に同じことをする習慣ができると、「次に何をしようか」と思い悩むことはなくなります。まずはタイマーをかけて起床時間を一定にするところから始めるとよいでしょう。2、他人や物事を上から下目線で眺めて事実を否定するということですが、森田でいうと「かくあるべし」を自分を含めて周りの人に押し付けるというということになります。これは事実を受け入れて、下から上目線で目的や課題を見上げるようにするとよいのです。取り組み方法を逆転することになりますので、相当な覚悟が必要になります。これには様々な手法があります。まず事実を先入観、思い込み、決めつけ、早合点しないで正しく見るということです。人のうわさ話を信用して、自分の行動を決めてしまうことは避ける必要があります。次に、その事実を良いとか悪いとか価値評価しないということも大事なところです。そのためには、生身の自分とは距離を置いたもう一人の人間を作っておくことが役立ちます。不快な感情にラベルをつけて、テレビリポーターのように実況中継するのです。感情の事実を客観的に眺めることができるようになると、感情と行動の分離ができるようになります。3、感謝の気持ちを持つということですが、「いまは当たり前のことがもし当たり前でなくなったとしたらどうなるか」と考えてみることが有効です。今は自由に使えている水道、ガス、電気が自然災害などで止まったらどうなるか。今はお金を出せばなんでも食べている食料がなくなったとしたらどうなるか。これらは食糧の自給率が低い日本では起こりうることです。感謝される人間を目指すことも大切です。世話をするものを持つ。世話活動をして感動や喜びを与える行動をとることで感謝の気持ちが湧いてきます。仏壇がある人は毎日ご先祖様に感謝し、その日の日記に感謝の出来事を一つは書くようにする。4以降については、明日の投稿とさせていただきます。
2025.11.03
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生活の発見誌2025年9月号に、高良武久先生が神経症が治った状態を7つ挙げておられます。1、建設的作業ができるということ。2、物ごとをあるがままに認識すること。3、他人に対して愛情を持つことができること。4、自省心、反省心というものを持っていること。5、自分の行動に責任を持つことができるということ。6、精神的弾力があって融通がきく。7、ユーモアを解し、生活を楽しむことができるということ。この部分は集談会などで読み合わせをして深耕してみる必要がありそうです。神経症で苦しんでいるときは次のような特徴があると思います。1、社会生活や日常生活には目が向いていない。いつも症状のことばかり考えている。2、物ごとを上から下目線で眺めて、非難、否定、言い訳、弁解、隠蔽、ごまかし、責任転嫁している。3、相手に対して感謝の気持ちを持っていない。相手は自分のことを無視していると思っている。人の役に立つこと、世話活動などには興味がない。4、自己内省が強すぎて、自分を責める道具として使っている。自省心や反省心を、今後に活かすことを考えていない。5、気分本位で行動するために、社会的責任や義務を果たすことを放棄している。6、両面観の考え方ができない。先入観、思い込み、決めつけで行動して墓穴を掘っている。7、いつもしかめっ面をしている。人生を楽しむことには縁がない。投げやりな人生を送っている。私の場合、自助組織の生活の発見会に関わり続けて40年くらいですが、神経質者としての今後の人生の指針を見つけることができました。それまでは自分自身を受け入れることができず、父親を毛嫌いし、他人を恨みながら生きてきました。今では人間としてこの世に生を受けたことに心から感謝しております。現在は瀬戸内支部での「100歳以上まで生きる情報交換会」に参加して、そのノウハウを身につけたいと考えております。参考までに、その経過を明日の投稿でご紹介します。広島の宇品港から松山観光港に向かう高速船
2025.11.02
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2025年9月号の生活の発見誌からの引用です。高良武久先生は神経症の治癒の段階を5つ挙げておられます。①症状がまったく消失して社会的、家庭的生活が可能である状態。②症状が多少あるけれども、社会的生活、家庭的生活にまったく支障がない状態。③症状のために社会的、家庭的に多少の支障がある状態。④症状のために社会的、家庭的生活にはなはだしい支障がある状態。⑤症状にために社会的、家庭的生活がまったく不能である状態。①の人はほとんどお目にかかりません。それはささいなことが気になるという神経質性格は変えられないわけですから、何かにつけて不安にとらわれてしまうという傾向は一生続くからです。厄介なのは、自分は完治したという成功体験を基にして、飛ぶ鳥を落とすような勢いで突進しているような人です。集談会に参加して、自分の成功体験を声高に述べて、苦しんでいる人を叱咤激励しているような人です。半治りの状態を受け入れて、社会生活や家庭生活のなかで改良・改善を目指し、集談会では苦しんでいる人に寄り添い、傾聴、共感、受容、許容の態度の人は魅力があります。④⑤の人は神経症のアリ地獄に落ちているような状態です。こういう方は、森田の協力医や協力臨床心理士の方が全国に多数いらっしゃいますので、アリ地獄から地上に這い出ることを優先した方がよいと思われます。生活の発見会のホームページなどで確認すればすぐに分かります。その際、生活の発見会のベテラン会員の情報も加味するようにした方がよい。②③は神経症を克服した人の普通の姿です。「症状が多少残っているけれども」「社会的生活、家庭的生活に多少の支障はあるけれども」何とか生活をこなしているというのが我々が目指している理想の状態です。神経症はケガや病気が完治するというような治り方はしません。不安や気分や症状に振り回されるときがしばしば訪れるものだと思っていればよいのです。完治を目指すと神経症は治りません。一旦治ったかのように思ってもまた再発します。症状の完治を目指すことを中止して、仕事や家事や趣味や子育てなどに精を出していくことです。完全に神経症を治すことよりも、後悔のない味わい深い人生を送ることの方に照準を合わせていくほうが賢明です。広島県宇品港から見た似島
2025.11.01
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