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集談会の森田理論学習がマンネリ化しているという話を聞くことがあります。これは今は理論学習がマンネリ化して面白くないが、以前は新鮮で積極的に取り組んでいた時期があった。その時は学習する喜びを心の底から享受できていたということだと思います。ところが森田理論学習の要点の読み合わせをして、みんなから感想を出し合うという学習に慣れてくるとまたかという感じがするようになった。飽きがきたということだと思います。精神が緊張状態から弛緩状態に移行してきたということです。その状態は信号でいえば黄色や赤信号が点灯していたわけですが、それを無視してきたということです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という方向に流されてしまった。鍋に飛び込んだカエルがお湯が温まり、温泉気分を味わっているうちに茹でガエルになって命を落としてしまうという笑うに笑えない話になってしまったのです。森田先生は、同じことを長時間続けていると、身体や頭の特定の部位だけを使うことになり、その部分に疲労がたまってくる。また目新しいことがなくなり、惰性で取り組むようになると飽きがくる。精神の張りを失い、情熱や意欲が減少してくる。しだいに無気力、無関心になる。そういう場合は、それらを中止して、別の課題に取り組む。頭を使い過ぎたときは、身体を動かすようなことをする。別の興味や関心のあることに手を出す。家事に手を出す。風呂に入る、散歩に出かける事でもよいのです。森田のキーワードとしては、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」ということです。これを森田理論の学習にも応用することをお勧めします。当面は「森田理論学習の要点」を読み合わせて、感想を述べあうという学習を中止する。特に初めての参加者がいない場合は、完全に中止する。10年以上の人は耳にタコができるほど繰り返してきているからだ。得るものよりも、マンネリ化を促進する最大の原因となっている。ただし、完全に無視することだけは避けたいところです。要点は先輩たちが作り上げてきた貴重な財産であることをお忘れなく。ただ物は使いようで、有効活用する必要があるということです。・幸い、現在「学習会シリーズ」という副読本が出ているのでこれを使う。有効活用するためには幹事会でどう使うかを議論する。・つぎにミニ体験発表を年間2回程度は入れる。・年に2回くらいは、森田全集第5巻、「現代に生きる森田正馬のことば」の中からテーマを選ぶ。・森田関係の図書で優れたものがあるので、その中からテーマを選ぶ。・優れた発見誌の記事を取り上げて学習をおこなう。・森田理論の活用・応用の具体例の発表を行う。「応用森田・生活森田」のことです。たとえば、家庭菜園、加工食品、料理、楽器演奏、スポーツ、一人一芸、スマホの活用方法、ペットのしつけ、盆栽や観葉植物の手入れ、優れたテレビ番組の紹介、介護、子供の教育、会社での人間関係など取り上げたい話題は無尽蔵だ。・派遣講師の講話、ズームを活用した学習会の企画、森田関連の優れたDVDの視聴、you tubeの活用。まず自分なりに、無理しても、学習内容の提案を一つや二つ見つけることだ。それをみんなで出し合って、大まかに年間計画を立てる。偏らないほうがよいと思います。毎月、学習内容が変わると楽しみが持てませんか。みんなで学習内容を工夫すればやりがいにもつながります。森田理論学習は通り一遍の学習で満足していると、すぐにマンネリに陥ります。それを見逃して、参加者全員にマンネリ化が蔓延してしまうと手が付けられなくなります。
2021.04.30
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97歳まで開業医として、診療に当たられていた貴島テル子さんの話です。会うと嫌なことを言われたりする、とにかく困った人がどこにもいるでしょう。社会に出ると、嫌なことを避け続けたり、一生会わないようにするということはできないもの。けれど、時には対人ストレスが原因で病気になってしまうことだってあるんです。これをどう乗り越えたらいいのでしょう。避けられないのなら、相手の長所は何か、客観的に見ていくことを心がけましょう。短所だけの人もいなければ、長所だけの人もいないもの。長所も短所も見方によっては逆になったりするから不思議です。口うるさい人は、几帳面ではありませんか。何か頼みごとをするときっちりこなしてくれるかもしれません。他人に厳しい事ばかりを言う人もいるでしょう。でもそれはあなたのためになる人ではありませんか。イザというときは頼もしい存在なのかもしれません。子供の自慢ばかりする人は、愛情深く生真面目な母親ではありませんか。そして、意地悪なことばかり言う人は、幸せではないのです。大きな問題を抱えて辛い状況にいるのかもしれませんよ。愛されることばかり願うより、自分から進んで愛するように努めてみては。そうすれば他人の長所がもっと見えやすくなるかもしれません。(人は好奇心の数だけ生きられる 貴島テル子 講談社 152ページ)この話は、森田理論の「両面観」の考え方にあたります。人間には誰しもだらしない、醜悪な面を持ち合わせています。そこまでいかないような人でも、弱みや欠点を持っています。元々生まれつき頭の回転の悪い人もいます。能力面で劣り、人並みの仕事ができない人もいます。また、ミスや失敗をしたことのない人は、この世に存在しません。そんな人間はどうしようもない存在なのか。そんな事はありませんね。それはあまりに一面的な見方です。でも、そういう人を見つけたとき、嫌悪感が湧き上がり、その人を避けるようになる人は多い。エネルギーのある人は、あからさまにその人を批判、否定するようになります。その上、悪い風評をそこら中にまき散らすようになります。会社などでは利害関係が複雑に絡み合い、他人の不祥事を大いに喜ぶような人もいます。森田では、そういう一面を見つけたとき、それらは横において、その人の強みや長所を見つける努力をしなさいと言います。両面観、多面観の考え方です。そうしないと決めつけや先入観に流されてしまいます。上から下から、右から左からよく観察して、事実を掴む努力を惜しんではならないというのが森田理論の立場です。そういう努力が欠かせないとみているのです。マイナス面の数と同じくらい、プラスの面も持ち合わせているという前提に立つことが必要です。その数や量のバランスが整った時、初めてその人を理解できたということになるのです。どちらかに片寄っていると問題が発生します。一般的には非難、否定、叱責する方に片寄っている場合が多い。「かくあるべし」の押し付けになります。すると人間関係はすぐに壊れてしまいます。こうしたネガティブなものの見方をする人は、他人だけに向けられているわけではありません。自分自身にも向けられています。これを見落としてはなりません。自分自身を嫌悪し、否定しているために、生きづらさを抱えることになるのです。他人を血眼になって批判、否定している人はほとんどそうなっていますので、観察して確かめてみてください。自分に折り合いをつけるためには、両面観を身につけることです。森田理論の両面観の生き方は、バランスや調和を目指している理論です。バランスを破壊する行為は、人間関係を悪化させます。それだけにとどまりません。自分自身の存在価値さえも、一瞬で吹き飛ばしてしまうという恐ろしいものなのです。神経症も欲望と不安のバランスが崩れていく中で生み出されます。欲望、課題、目的、目標を明確にさせて、不安を適宜活用して、欲望と不安のバランスをとりながら注意深く前進していくという態度が身についてくると、神経症の苦しみは霧散霧消していくはずです。「不安を抱えたままなすべきをなす」という考え方は、バランスを回復させる理論として理解するとすっきりと整理できます。
2021.04.29
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藤沢周平さんの小説に「三屋清左衛門残日録」というのがあります。この小説は、藩主の側近を務めていた清左衛門が、先代藩主の死去をきっかけにして、息子に家督を譲り隠居するところから始まります。のんびりと散策や釣りをしながら、悠々自適の生活を送ることを心から望み、胸をときめかせていました。ところが、国元に帰って隠居暮らしを始めた彼を待っていたのは、言いようのない寂寞感だったのです。長年、賑やかな江戸屋敷で生活していた清左衛門にとって、国元の生活は静かすぎました。夜中に一人で過ごしていると、「突然腸をつかまれるようなさびしさ」に襲われ、自分が「暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように」感じられる。隠居の身を待ち受けていたのは、忙しい勤めからの開放感ではなく、「世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情」だったのです。清左衛門は、隠居することを、世の中から一歩しりぞくだけだと軽く考えていた節がある。ところが実際には、隠居はそれまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのです。勤めていたころは、朝目ざめたときにはもうその日の仕事をどうさばくか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、隠居してみると、朝の目覚めの床の中で、まずその日一日をどう過ごしたらいいかということから考えなければならなかった。君側の権力者の一人だった清左衛門には、藩邸の詰め所にいるときも藩邸内の役宅にくつろいでいるときも、公私織りまぜて訪れる客が絶えなかったものだが、いまは終日一人の客も来なかった。清左衛門自身は、世間とこれまでにくらべてややひかえめながら、まだまだ対等につき合うつもりでいたのに、世間の方が突然に清左衛門を隔ててしまったようだった。多忙で気骨の折れる勤めの日々。ついこの間まで身をおいていたその場所が、今はまるで別世界のように遠く思われた。この小説は会社や役所勤めをしていた人が、引退するときの心構えについて問題提起されているように思う。当然それまでの利害関係にどっぷりと漬かった人間関係はなくなります。ヤレヤレと胸をなでおろす人は多いようです。対人恐怖症の人は一旦解放されます。退職後は利害関係のない、気の合う人たちとの交流が始まります。それも避けたいと思う人は、一日中人との会話なしで暮らすことになります。家族とも会話がなくなれば、全く孤立した生活を余儀なくされます。そして一般的には退職金が入ります。それに家のローンが終わっている。親の遺産を受け継いだ。子供たちもみんな独立して家を出て行った。そのうち年金が満額出るようになった。こうなりますと贅沢をしなければ、仕事をしなくても生きていけるという状態になります。他人との交流が激減する。仕事をする必要がなくなる。毎日車に乗って買い出しに行く。いつも家にいて、テレビを見ている。パソコンでゲームをし、株取引や競馬を楽しんでいる。ネットで買い物を楽しんでいる。骨董品のオークションに参加している。疲れるとすぐに横になって昼寝をする。夕方は早くから相撲や野球を見ながら飲酒をしている。一見何も問題のない豊かな生活のように思えます。藤沢周平さんは、そんな生活は人間らしい生活と言えるのだろうかという問題提起をされているのではないかと思います。問題や課題のないない生活、夢や希望のない生活、日常生活を他人に依存する生活、億劫なことやしんどいことは回避する生活に甘んじて、ただ命を延命させるだけで人間は幸せになれるのだろうか。藤沢周平さんは「たそがれ清兵衛」という時代小説も書いておられます。映画にもなりましたのでご存じの方もおられるでしょう。井口清兵衛という海坂藩に勤める役人のお話でした。この人は、仕事が終わるといつもすぐに家に帰る人だった。同僚から誘われても赤ちょうちんに行くことはなかった。それは年老いた母親と母親を亡くした2人の娘が首を長くして待っていたからである。家に帰ると洗濯や掃除や食事の準備、畑仕事が次から次へと待ち構えていたのである。その上、妻は労咳に罹り亡くなったのですが、その時の薬代や葬式費用の返済もしなければならなかった。そのために内職をして現金収入を得る必要があった。この映画を見る前は、日常生活に淡々と取り組む生活は、単調で味気ないという先入観を持っていたが、そういう生き方にこそ人間の幸せはあるのではないでしょうかと語りかけてくれていたように感じた。たそがれ清兵衛は、戊辰戦争で亡くなったが2人の娘たちは立派に成長した。森田理論も規則正しい生活、凡事徹底をお勧めしています。そういう生活の中で、小さな幸福のかけらをたくさん見つけて、人生を楽しみましょうという理論となっています。
2021.04.28
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神経質性格の人は不安にとらわれやすいという特徴を持っています。これは高性能のレーダーを標準装備しているようなものですから喜ばしいことです。ただ、あまりにも不安の種が増えすぎて、不安に振り回されて憂うつになるのも事実です。そのかわし方がありますので、早速ご紹介しましょう。否定語やネガティブ言葉を使わないようにするというものです。ダメだ、悪い、悪いのも程がある、最悪だ、困ったものだ、治しようがない、お先真っ暗だ、打開策がない、あきらめるしかない、無理だ、できない、うまくいくはずがない、きっと失敗するに違いない、難しすぎる、荷が重い、疲れた、やる気がしない、もう限界だなどというネガティブな言葉が口癖になっている人に効き目があります。ためしに、誰かにこんな言葉を使っているかどうか聞いてみてください。自分では無自覚ですが、こんな言葉を連発していることが多いのが事実です。家族や同僚、友人などとの会話を録音して後で聞いてみると、驚くほど否定語やネガティブ言葉を使っていることに気づくでしょう。これをできるだけ封印する。そして肯定語、ポジティブ語を使うように心がける。これだけのことですが、不安に振り回されことが少なくなると信じる事です。そのためには、普段から用意しておく必要があります。これはよい、出来過ぎだ、これは面白い、解決策はきっとあるはずだ、未来はある、展望が開けて来るぞ、やりがいを感じる、合格点だ、素晴らしい、よくやった、あんたは天才だ、できた、できるはずだ、きっと成功する、再度チャレンジだ、改善点があるはずだ、出直そう、興味がある、関心がある、あんたは偉い。こんなポジティブな言葉だけを使っていると、なんだか将来に希望を持てるような気がしてきます。実際はそんな心境でなくてもよいのです。それでもあえて肯定語、ポジティブ語を使うというのがポイントになります。森田では、気分はそうでなくても、形から入りましょうと言いますね。森田理論学習の要点の行動の原則10では、「外相ととのえば内相自ずから熟す」とあります。これを生活面に応用すると、こんな感じになります。否定語を使うことが習慣化している人は、大きく変われるチャンスですよ。
2021.04.27
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深谷純子さんのお話です。ある経営者の話です。彼は幼い頃、継母から壮絶ないじめを受けて育ちました。いじめに耐えられなくなって、高校生の時に家出しました。着の身着のままで東京に出てくると、建設作業員や水商売などあらゆる仕事を経験しました。その間、彼の頭から離れなかったのは、継母に対する恨みです。「あの人さえいなければ、自分は家出することもなかったし、高校も卒業できたかもしれない。高卒であれば、仕事だってもう少しましなところにもつけた。ひとりぼっちの東京でこんなに苦労することもなかった・・・」しかし、あるとき、ふと気づくのです。そうやって恨んでいても苦しい現状は何も変わらない。恨んでいる暇があれば、未来のために努力すべきじゃないか。いつか成長して、あの憎い継母を見返してやるんだ。彼は歩合給の厳しいセールスの世界に飛び込むと、猛烈に働きます。トップセールスになるとヘッドハンティングされて、さらにキャリアを積み重ねていきます。最終的には自ら会社を起こして大成功しました。(ひきずらない技術 深谷純子 あさ出版参照)この話は森田理論学習を続けている人には教訓となるお話ですね。継母を怨んでいた時は、何ともやりきれない無為の日々を過ごしておられました。でもこの状態で生活していると、自分の将来はない。そうだ、理不尽極まる現実を認めて受け入れてみよう。そして誰もが嫌がる完全歩合制の飛び込みセールスの世界に入り、懸命に努力されました。まさに背水の陣を敷いて、不退転の覚悟で仕事をされたのです。この経営者は、いままで理不尽極まる現実を否定ばかりしていたのです。それをやめて、現実を受け入れる方向にシフトされたのです。そのとたんすぐに風向きが変わってきました。自分に運が向いてきたのです。下降人生から上昇人生、つまり逆転人生の幕が切って落とされたのです。この話は、「かくあるべし」振りかざして、他人への恨みを増悪されることは、何もよい事は起きない。事実を認めて受け入れると現状打破に向かっての出発点に立つことができる。エネルギーの無駄遣いがなくなり、未来に向かって建設的な行動がとれると、自他ともに幸せになれるということだと思います。幸せというのは、気持ちの持ち方を変えることで手にすることができるということが分かります。この経営者は、会社を成功させ、社会的な地位や名誉も得たとき、彼の中から継母への増悪がいつの間にか消えていったそうです。憎しみは、同情や共感に変わっていったそうです。いまでは、「あの継母がいてくれたおかげで、いまの自分があるのだ」と感謝の気持ちでいっぱいだと話してくれたそうです。あんなに嫌っていたのに、事実にしたがう事で人間は大きく変われるものなんですね。森田理論を深めて、事実本位の態度を身に着けていきましょう。
2021.04.26
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森田先生が入院患者の日記を紹介されている。「彫刻をしたいと思ったが許されなかった。それで靴下の修繕をした。自分はやはり何かに専念したい」これに対して森田先生曰く。「専念したい」という文句が、どうも面白くない。自分は絶えず何かをしていたい。そうでないと、迷いが出てきて困ると言っている。絶えず何かをしていたいなら、白鼠が車を回すような、あんな仕掛けでもするとよい。精神病者で、絶えず室内をグルグル回っていることがあるが、そんな真似でもしたらよいかも知れない。迷いを払いのけるために、何かをするとは、ちょっと面白い工夫のようではあるが、それはかえって精神錯乱法に過ぎない。ここでは迷いは迷い、疑いは疑い、苦痛は苦痛しなくてはいけないと言って教えるのである。(森田全集第5巻 659ページ)神経症で日常生活が後退していた人が森田理論を学ぶと、「不安を抱えたままなすべきことをなす」ことを実行することが大切なのだなと理解します。そして馬車馬のように変身してがむしゃらに行動するような人が出てきます。すると注意や意識が内向きから外向きに変わってきます。神経症の苦しみがすっとなくなってくるように感じるのです。これ自体は間違いありません。むしろその実行力に対して、最大限の拍手を送りたいと思います。普通は理解できても、ほんとにそうなのかなと頭の中で思考錯誤するばかりで、実行には至らない人も多いのです。神経症が治るということからすると、この段階は10段階の5ぐらいにあたると考えています。今まで0だったものがいきなり5に上がるのですから、たいしたものだと思います。しかしこのやり方は、自分を無理やり奮い立たせて行動に駆り立てていますので、自然に体が反応して、習慣化しているとはいいがたい。最初は規則正しい生活、日常茶飯事を丁寧に行うために、自分を行動に駆り立てていくことは必要になると思います。習慣化するまでは自分を叱咤激励することが肝心です。問題はある程度生活力が回復し、精神的に安定した時です。その時に行動の意味について考える必要があります。森田で理論では、不安を軽減するために実践や行動力をつけましょうと言っているのではありません。それは人間として生きていくためには、当然なことではありませんか。必要なことであり、人間であれば誰でもが取り組むべき課題です。それを今まで神経症を隠れ蓑にして、してこなかっただけのことです。必要なことに必要なだけ取り組むことが本来の旨趣なのです。白鼠が車を回すような行動で、不安を軽減させようとする過剰な行動は長続きしません。エネルギーを使い果たして、しんどいと思うようになると、元の木阿弥になる可能性もあります。つぎに、不安の役割や特徴、不安と欲望の関係、不安への対処の仕方を学習する必要があります。森田理論では、神経症のもとになる不安は、取り除いてはいけない。自然現象なので、取り除くこともできない。またイヤな感情から気分に振り回されて逃げ回るようなことは避けなければならないと言っています。不安との共存共栄を目指しているのです。このことが分かるようになると、不安を目の敵にしなくなります。今まで戦う相手として認識していたものが、実は自分の味方だったということが分かるということです。不安は信号機でいえば、黄色や赤色を点滅させて、注意喚起を促してくれているのです。それをありがたくいただいて、慎重に行動するようにすればよいのです。不安と欲望の関係では、欲望の暴走に歯止めをかけるという重要な役割を持っています。これらのことを森田理論学習で深耕して、不安への対処方法を誤らないようにする必要があるのです。
2021.04.25
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森田理論の眼目の一つは、「かくあるべし」を振り回さないということです。「こうであるべきだ」「こうでなくてはいけない」という観念主義の立場に身を置いて、目の前の現実、事実を批判、否定する態度を弱めていくことが肝心であると言っているのです。分かりやすく言えば、自分は空高く安全なところに身をおいて、現実や事実の価値判断を行っているのです。これは人間だけに見られる現象で、動物にはありません。大脳が高度に発達しているからこそではありますが、人間はその使用方法を間違えているのです。事実は観念によっていかようにも取り扱うことができる。そうしなければならないと思っているとすれば、甚だしい人間の思い上がりです。人間に葛藤や苦悩がつきものなのは、現実や事実をあまりにも軽視しているということになります。観念優先から事実本位の切り替えに成功した人は、人を引き付けてやまない魅力的な人になれます。また精神的にとても楽な人生に切り替わります。「かくあるべし」に取りつかれている人は、職業でいえば、横柄な裁判官のようなものです。自分が裁かれることはない。六法全書を手がかりにし、いつも人や物事の是非善悪の判決を下して、すべての人を納得させようとしているのです。国家権力というものを後ろ盾にしているので、その力は強大です。せめて大岡越前の「三方一両損」のような裁定をしてほしいものです。観念主義を打破し、事実本位の態度を意識づける言葉として、「それはさておき」があります。この言葉は、「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと水は流れる」という言葉に近い。いろいろと言いたいことはあるでしょう。批判、否定したいこともあるでしょう。でもそんな観念先行の言い分は封印して、まず現状や事実に向き合いませんか。そのためにはよく観察して、正確に現状や事実を掴むことが欠かせませんね。いままではほぼ100%、観念主義の立場にいたのでしたら、せめて20%くらいはその態度を改めませんか。最終的には事実を最優先する態度に切り替えることを目標にしましょう。そういう気持ちを持っていたとしても、常に観念優先に陥ってしまうのが人間の宿命です。でも努力するという気持ちがないと何も始まりませんね。天才バカボンは「これでいいのだ」が口癖でした。どんな弱みや欠点があっても、その自分を自己嫌悪、自己否定することはしない。自分はどんなことがあっても、自分自身を守り通してみせるのだ。自分は自分の最大の理解者なのだ。自分は自分の最大の味方なのだ。天才バカボンはステテコを履いて、腹巻をしてとんでもないキャラクターの人でしたが、その漫画を描いた赤塚不二夫さんの普段の人間関係を見ていると、事実本位に生きていた我々の手本とすべき人だったようです。事実本位の生き方は、人間本来の生き方を提案してくれているのです。
2021.04.24
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神経症で不安、恐怖、違和感、不快感で苦しんでいる人は、そんなものが一切ない状態を願っているのかもしれない。雲一つない日本晴れのような状態のことである。問題や課題が全くなくなり、身体的にしんどいことが何もなく安楽に生活していける。たとえば、仕事をしなくても、多額の年金や貯えを取り崩して豊かな生活を楽しむことができる。あるいは高額の宝くじに当たった。高額な立ち退き料が入った。びっくりするような生命保険金や損害保険金が入った。親が莫大な財産を残してくれた。街中に持っていた土地が高い値段で売れた。このような状況が突然やってきますと、仕事をする必要がなくなります。欲しいものは何でも手に入れることができるようになります。基本的な食べることことも外食や出前で済ますことを考えるようになります。そして、何しないので、心を痛める精神的な葛藤や苦悩も少なくなります。さらに人間関係のわずらわしさから解放される。つまり問題や課題、葛藤や苦悩がほとんど存在しない状態を願っているのです。一切の日常茶飯事のわずらわしさから解放されることを夢みているわけです。身体と頭を活動させないで休ませることが、最高の幸せだと勘違いしているのです。でも人間から問題や課題、目標や夢を無くしてしまうと、いったんは楽になりますが、人間という生き物をダメにしてしまうのではないかと思います。たとえば、コメが余るようになった時、減反政策というのがありました。農家の人は米を作らなくても、政府が補助金をくれる。最初はこんなにありがたいことはないと思っていました。それとともに米作りの意欲はどんどんなくなってしまいました。その後、減反奨励金は徐々に減らされてなくなりました。農業に意欲をなくした若者が田舎から都会に移り住み、年老いたお年寄りたちが残されました。自然循環や自給生活が破壊され、過疎地帯、限界集落の出現によって共同体が破壊されました。農家はしんどい思いをしながら、米や野菜つくりに精を出していたからこそ、身体が鍛えられ、精神的にも健康てあったのです。地域のつながりも平穏な生活も自然循環も守られてきたのです。それらを密より甘いと言われる補助金政策が骨抜きにしてきたのです。野生のアオサギに人間がふんだんに餌を与えているとどうなるか。最初のうちは、極めて旺盛に繁殖活動に励むそうです。一時的には鳥の数が増えます。しかしそのうちブクブクと太り始める。運動不足になり、健康障害がでてくる。そしてなんと、しだいに子育てを放棄するようになる。子育ては煩わしく面倒以外の何物でもないと感じるようになる。自分たちの生活が豊かになると、今の何不自由のない生活をいつまでも享受したいと思うようになる。その結果、見る見るうちに鳥の数が減ってくるのだそうです。野鳥のアオサギは毎日60%から70%は餌をとってくるという生活をしている。その日常茶飯事の生活をやめるということは、もはや鳥として生きているとは言えない。人間が手助けしていると、アオサギの絶滅につながるということです。不安、恐怖、違和感、不快感、問題、課題、目標は神様から与えられた宿題のようなものではないでしょうか。あるいはギフトのようなものです。さあ、この宿題に対してあなたはどうしますか。スルーしますか。それとも解決に向けてチャレンジしますか。選択権はあなたに与えられています。スルーしたときは、生命体として生きていくことはなんとか補償します。一時的に楽になりますが、その代わり本来の人間としての生き方は放棄してください。それだけは了承してくださいね。一方、問題を真摯に受け止めて、その解決のためにチャレンジする道を選んだ人は、しんどい生活が待っています。あなたはそれに負けないように努力精進しなければなりません。葛藤や苦悩にまみれた生活が口を開けて待っています。それを了承してくれますか。とは言いましても、途中で逃げ出す道も残してありますから、どうぞ安心してください。どちらの道を選択しようともあなたの自由です。人間らしく生きていきたいのか、ただ延命だけを目的として生きながらえたいのか。普通の人間は、最初は人間の宿命に従って、人間らしく生きていきたいと思っていると思います。ところが、豊かな将来が確保されたとき、すぐにその目的を見失ってしまう。その落とし穴に落ち込まないために、森田理論学習を続ける意味があると考えています。
2021.04.23
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今日は「心機一転」という言葉が何を意味しているのか考えてみたいと思います。森田先生は、神経質者の経験する「心機一転」は、内向的な心が外向的に一転することでありましょうと言われています。それはたとえば、「今まで足元ばかり見、また自分の勇気の有無ばかりを考えてどうしても渡ることのできなかった丸木橋を、捨て身になった拍子に、前の方ばかり見つめてスラスラと渡ってしまった時のようなもの」であります。神経症で苦しんでいるときは、注意や意識が、内向的、自己内省的、自己防衛的に片寄ってっています。それが森田理論の学習と実践により、注意や意識の向かう方向が、外向的、生産的、創造的、物事中心に変化してくることが心機一転ということだと説明されています。別の言葉でいえば頓悟ということになります。これはキャッチボールについても言えます。目線は相手の構えたグローブをしっかりと見据えることが必要です。つまり目標物を絶えず意識することです。それを曖昧にして、注意や意識を自分の投球動作やボールのにぎりなどに向けていると、暴投が起きる可能性が高まります。心機一転で大事なことは、まず頭の中で理解することが大切です。でもそこに留まっては、絵に描いた餅になってしまいます。それを生活の中で実践してみることがかかせません。体験によって裏打ちされ、以後注意や意識の方向性が、外向き、物事本位に切り替わることが大事になります。これは口でいうのは簡単ですが、実行はかなり難しいと思います。「心機一転」で神経症を克服できるのは、不安神経症や普通神経症の人です。たとえば新幹線に乗れないという人や胃腸神経症で物が食べられないという人は、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められます。これ以上ない苦しい状態に突き落とされた人は、逃げ道がなくなるのです。こういう人は、森田理論学習により、認識や考え方の間違いに気づいたら、乗り越えるのが早い。気づいた瞬間から治る。さらに実行力が伴えば鬼に金棒です。問題は強迫神経症の場合です。不安に振り回されて、悪循環でのたうち回っている人です。不安の種をどんどん膨らませて、それを目の敵に祭り上げて、戦いを挑んでいるのですから、負け戦になることは勝負の前から分かっているのです。強迫神経症の場合は、別に神経症で命を落とすことは考えにくい。逃げ道がいくらでもあるわけです。逃避すれば一時的にはなんとか回避できる。葛藤や苦悩で大変ですと言っても、逃げ道がいくつも用意されている。この差が大きいのです。ですから、対人恐怖症や強迫行為の人の場合は、心機一転、頓悟という治り方は難しいと思います。そういう人は、「漸次」という治り方を目指すことをお勧めします。一般的には、タマネギの薄皮をはがすような治り方を目指すことです。時間がかかります。ただし時間をかけて治していくと、再発することは起こりにくい。「漸次」というのは、段階を踏んで少しずつ治していくということです。たとえば、次のような目標を設定して、二歩前進一歩後退の繰り返しの生活を続ける。1、まず不安を抱えたままなすべきことができることを目指す。2、その次に、観念主導の行動を少なくしていく。3、「かくあるべし」で自分や他人を否定しない。4、事実を事実のままに素直な気持ちで受け入れる。5、事実に対して安易に是非善悪の価値批判をしない。6、生の欲望の発揮に邁進する。1から6まで基準点を超えるようになれば神経症は克服できます。おおむね、50点を超えると、その人は大きく成長しているはずです。これらを1年ごとに自己採点するか、集談会の仲間に採点してもらうのです。現在神経症の真っただ中にある人は、1にフォーカスしてみることをお勧めします。
2021.04.22
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阿久悠さん作詞の「北の宿から」を、森田理論を踏まえて考えてみたい。あなた変わりは ないですか日毎寒さが つのります着てはもらえぬ セーターを寒さこらえて 編んでます女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿吹雪まじりに 汽車の音すすり泣くよに 聞こえますお酒ならべて ただ一人涙唄など 歌います女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿あなた死んでも いいですか胸がしんしん 泣いてます窓にうつして 寝化粧をしても心は 晴れません女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿この歌詞について、歌手の淡谷のり子さんが怒っていたという。「何なのよ、あれ、別れてしまった男のセーターをまだ編んでるなんて、みっともないでしょう」辛口審査員として鳴らした淡谷のり子さんらしいコメントです。阿久悠さんは、このコメントを聞いて、全く反論しなかったという。普通この歌詞を見ると、別れた男性に未練たらたらで、なんとかよりを戻したいという耐える女性を連想させます。私の思いを推し量ってどうか私のもとに戻ってきてください。私はどうしてもあなたのことをあきらめきれないのです。どうか私の願いを聞き届けてください。私はいつまでもあなたが私のもとに戻ってくるを待っています。この見解に対して、阿久悠さんは「饒舌の世代と寡黙の世代」と題するシンポジュームで反論している。この女性がセーターを編むのも、寝化粧をするのも、徳利を並べるのも、すべてセレモニーなのだ。一時は分かれの悲しみに身をやつそうとも、セレモニーを終えれば、悲しみと決別して新しい人生に旅立っていく。すべてこの女性は自分で判断し決断し、過去の人生をリセットするのだ。この歌詞の中で、「女心の未練でしょうか」とは書いていません。「女心の未練でしょう」と書いている。ここがポイントです。歌詞に「か」があるのとないのは大きく違う。歌詞に「か」が入ることで他者に答えを求める依存する女になるが、「か」がなければ自己判断する女性になる。ここでは、「女心の 未練でしょう」と自己判断する自立した女性をイメージしているのです。一度でも心を通い合わせた男女が分かれることは、辛いことだと言っているのです。特に女性の場合はそうです。阿久悠さんは、この女性を決して過去の男性に未練たらたらで、悲壮感に満ちた女性として描いているのではない。セーターにしたところで、編み上げたらポイとだれかにあげて気持ちにケリをつけることを想定していた。心の整理をつけ、けじめをつけたいという女性を想定していた。今までの楽しかった彼との生活にきっぱりと決別するためにはセレモニーが必要だったということです。すべての過去を断ち切って、新たな人生を切り開いていくための儀式を一人で行っていたということです。彼女の頭には、いまだに断ち切りがたい思いも確かにある。しかしそれにすがってばかりでは、自分の人生は終わってしまうかもしれない。切なく苦しいけれども、彼との関係は終わったという事実を改めて受け入れて、明日からは新たな旅立ちにしたい。そういう内容の歌詞なのです。淡谷さんのように表面的なところだけ見ていると、この歌詞に含まれた深い内容は分からないのです。森田理論と突き合わせてみましょう。彼とはどういう理由で分かれることになったのかはわかりません。性格の不一致、自分勝手な行動、金銭トラブル、生活の行き詰まり、相手の背信行為など様々な原因が考えられます。このような場合、普通は相手の非を訴えて示談にする。あるいは家庭裁判所の審判を仰いで、慰謝料で解決という流れになるかもしれません。自分のことは棚に上げて、相手の上げ足をとって、自分の有利な展開に持ち込むことばかりを考えるようになります。最終的にはそういうことも必要になるでしょう。ただここで森田が言いたいことは、別れることになったという事実にどう立ち向かっているかということです。将来の生活や子どものことを考えると、受け入れがたい事実かも知れません。でもそういう現実をつけつけられたとき、覚悟をきめ、けじめをつけて、その理不尽な事実を受けいれることができるかどうか。ここが運命の分かれ道です。その事実を受けいると、相手を罵倒し続け、いつまでも相手に未練を抱いたりすることはなくなります。そのエネルギーを自分の将来の生活設計、子供の養育などに振り向けることができるようになります。離婚という試練を乗り越えてもう一回り器の大きな人間として成長できることになります。下降ばかりの人生が、事実にきちんと向かい合うことで、上昇に転じるというきっかけとなります。反対に事実に反旗を翻すことになりますと、自分の人生は恨みつらみで暗澹たるものになります。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会 159ページ参照)
2021.04.21
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宮本武蔵の五輪書にある言葉である。10年くらい一つのことにわき目もふらずに取り組んでいくと、その道では誰もが容易に会得し得ない高みに到達する。そういう地点に到達した人の話は、全く違う職業を生業としている人をも「なるほどそういうことか」と得心させるだけの内容のある話ができるようになる。私は「一芸万芸に通ず」という言葉を、このように理解しています。イチローさんや王貞治さんの対談などを聞いていると、野球への取り組み方や技術論の話をされているのですが、味わいのある人生を送るために、人間はどういう心構えで生活していけばよいのかを話されているように感じる。木の棒を振り回すことに賭けた人は、実は人生の洞察力を高めておられたということです。私がこのブログを始めたのは高良武久先生のある言葉がきっかけでした。「10年間何か一つのことに真剣に取り組んでみなさい。そうすればその道のエキスパートになれます。他の人がすぐに会得できない能力や技術を身につけると、対人恐怖症の葛藤や苦悩はいつの間にかなくなるはずです」時間をかけて身につけた能力や技術はその人の器をいつの間にか大きくしている。自分はこの道では誰にも負けない。この道で生きていけると思えるようになる。請われればこのコツを人に教えることができるような知識を集積できる。一人の人間として生きる自信が芽生えてくる。それがどんどん大きくなり確信に変わってくる。少々の乗り越えることが困難や壁にぶち当たっても、乗り越えたいという意欲の方が強くなってくる。挑戦へのエネルギーがほとばしり出てくるのだ。私はこの話を聞いて、10年くらいかけて、一つのことを極めていく人生はうらやましいと思いました。また、神経症を克服するために、こんな方法があったのかと思いました。この言葉にかけて見ようと考えました。そしてこのことを自分の実践で検証してみようと思ったのです。実際にこのブログを始めて8年と4か月になりますが、原稿用紙2枚から3枚の文章を書くことが完全に習慣化しました。原稿を書くことが苦にならない。1日何も書かない日はない。書かないと気の抜けたビールを飲むような気持になる。森田理論を自分なりにどんどんと深耕していくうちに、人生についての洞察力がついてきた。それを基にして、仕事をするとはどういうことか、人間教育、社会教育、人間関係、欲望と不安の関係、欲望の暴走社会の危険性、日本の自立、外交、防衛、政治、自然と人間のかかわり方などについて自分の意見が打ち出せるようになった。対人緊張の方は死ぬまで取り除くことはできないことが分かった。また気分本位で逃げることは、自分をみじめにするばかりだと気づいた。今では、対人恐怖症は自分の個性と捉えることができるようになった。これがなくなると自分が自分でなくなるような気がする。自分の持ち味だ。現在は治す必要がない。それよりは対人恐怖症はむしろ自分の強みではないのか。対人恐怖症を目の敵にしていたのが、今では無二の親友になったような気がする。死ぬまで対人恐怖症と手を取り合って生きていきたいと考えるようになった。まだまだ森田理論の深耕の余地は残されていると思う。森田理論の深耕へのエネルギーはかなり残っているので、これから先、10年、20年、30年と努力精進してゆきたい。その途中でこの世から去ることになるかもしれない。それでもよい人生だったと納得して、感謝の気持ちをもって旅立つことができるのではないかと思っている。今の願いは、森田理論を日本中、世界中の人に分かりやすく紹介することです。森田理論の普及は、人類の将来にかかわる大切な活動になると思う。
2021.04.20
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通勤途上で苦手な上司、同僚、異性を見つけた。電車の4人掛け椅子で見知らぬ人と同席する羽目になった。花見や会食の場でよく知っている人を見つけた。エレベータに乗ると苦手な人が乗っていた。朝のゴミ出しに行くと、不愛想な人と出くわした。こういう時、居てもたってもいられない、居心地の悪い感情が湧き上がってきます。このような状況に陥ったときどうするか。見て見ぬふりをして離れる。下車するふりをして、車両を移る。無視する。これで万事うまくいくのでしょうか。確かに一時的にはうまくいくでしょう。しかし次にまたこのような感情が湧きおこった時、同じような対応をします。イタチごっこになります。つまりこうした感情に対して、いつもやりくりをして逃れようとしているということになります。感情の事実をやりくりして楽になろうとすると、心身ともに疲れるだけです。また相手に負けたように感じて、自己嫌悪に陥ることもあります。こういうことが度重なると、なんとか対策を考えないといけないと思うようになります。つまり居心地の悪い感情に対して、その感情を避けるような工夫を考えようとするのです。こうした悩み相談が寄せられることがあります。この問題を森田理論で考えてみましょう。感情の法則では、感情は自然現象であるといわれています。天気や自然災害などと同じ自然現象だというのです。もともと人間の意志の自由が効かないものだというのです。このような居心地の悪い感情に対しては、仕方なくその感情を抱えたままにしておくしか他に方法はありません。イヤだなと思いながら会社に行く。いやだなと思いながら、本を読む。スマホを見る。寝たふりをする。軽いあいさつ程度をして、目の前の目的を果たしていく。この対応方法は、森田理論学習の中でしっかりと学んだはずです。ところが実際には応用・活用できていないということが問題です。居心地の悪い感情は、少し耐える、我慢することが鉄則です。時間が経ち、場面が変わればその感情は速やかに変化していきます。これも森田理論で学習しました。それを信じて従えば何ら問題は起こりません。少しの時間も耐えることができない。我慢できないという人は、幼児が駄々をこねているように見えます。今すぐに欲望が満たされないと、精神錯乱状態になって泣きじゃくる幼児と本質は変わりません。これも森田理論は理解できたが、応用・活用できていない場合があります。居心地の悪い感情に振り回されている人は、本来のなすべき目的のすり替えが起きています。つまり仕事をするために会社に行く。必要な場所に行くために電車に乗っている。食事や懇親会を楽しむ、ごみを出すという目的を見失っている状態にあります。こうした本来の目的の達成はどうなってもよい。それよりも居心地の悪い感情を消し去りたいという課題に注意と意識が向いている。森田理論ではこのことを手段の自己目的化と言います。本来の目指すべき目標をすっかり忘れて、別の目標を追い求めているのです。「二頭を追うもの一頭も得ず」という言葉があります。安易な目的のすり替えはあってはならないものです。ころころと目的や目標を変更していると、右往左往するばかりになります。迷路に入ってします。神経症を引き起こしてしまうということです。野球でもボールを投げる時には、最後までキャッチャーミットから目を離さないことが鉄則です。森田理論の感情の法則、生の欲望の発揮の注意点は実生活に存分に応用・活用することが大切になります。学習して分かったつもりで満足していては、実生活に活用できません。これは基本的には自分一人で身に着けることは難しいと思います。集談会に参加して、他人の援助を受けながら、軌道修正しながら、徐々に身に着けていくものです。何回も失敗しながら、そのたびに態勢を整えて、時間をかけて身に着けていくというものになります。習慣というのはコールタールが体にまとわりついているようなもので、自分一人の力で簡単に取り除くことは難しいのです。
2021.04.19
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生活の発見会から、初心者のための森田療法理論学習参考書が出版された。基準型学習会インストラクター・講師による「学習会シリーズ」(定価800円)である。生活の発見会には、すでに「改訂版 森田理論学習の要点」という冊子があった。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、欲望と不安、行動の原則、「あるがまま」と「純な心」、森田療法の人間観、治るとはどういうことか、「まとめ」のしかたがポイントをついて解説してある。集談会ではこの中から一つのテーマを取り上げて、読み合わせて学習を深めるという方法をとってきた。しかしこの本は要点だけであり、これに基づいて学習をさらに深めていく。あるいは各自の体験を織り交ぜて学習しないと、通り一遍の学習で終わっていた。マンネリ化してくると、理論学習と聞いただけでしり込みしたくなる。私は副読本が必要だと思っていた。待望の副読本が出版されたのです。内容は要点の項目に沿って、手取り足取り解説をされています。そして項目の最後には、読者に向けての課題が設定されている。ただ読むだけではなく、自分の場合どうなのか、まとめをするように促している。今までの要点の学習だけでは物足りなかった人に、大変役に立つ内容となっています。私は早速集談会の学習ツールとして注文した。この本は集談会に参加できない方で、個人で学習する場合に役に立ちます。また集談会に参加している方には、理論学習のコーナーで取り上げてみるのもお勧めです。使い方としては、それぞれが家であらかじめ決められた一つのテーマを読んでくる。そして課題に対して自分なりにまとめをおこなう。集談会ではそのまとめを発表して議論する。これだけで森田理論の基礎編の学習は大変深まると思います。もちろん集談会で読み合わせをして学習する手もありですが、読む時間がもったいない気もします。ところで、私は森田理論学習の工程は基礎編、応用編、活用編を考えています。これらを3年かけて行うというものです。先ほど紹介した学習は基礎編に当たるものです。これをおおむね1年かけて行う。この基礎編の学習がないと次に進んでもよく理解できないように思います。さらにこの本にはないのですが、「認識の誤り」は1項目設けた方がよいと思います。2年目は応用編の学習に移ります。この内容は、森田理論を俯瞰することから始める。森田理論学習の全体像の把握のことです。森田理論全体像の学習は目からうろこの学習内容となります。ここには4つの大きな柱があります。この4つの深耕と関連性を学ぶのが主眼となります。すでにこのブログで何回も取り上げていますので、ここでは詳しいことは割愛します。この学習を行う事で、森田理論は神経症を治すだけではなく、人生哲学を学ぶことなのだと気づくようになります。これからの人生に対して、希望が持てるようになります。3年目は森田の生活面への応用・活用に重点を移した学習をする。森田理論のどこをどういうふうに生活、仕事、人間関係に応用していけばよいのかを、具体的、実践的に解説した内容です。活用ノウハウはいろいろとあります。それらを一通り学ぶのです。例えば、不即不離を人間関係にどう活用するかといったようなことを学習することになります。基礎編の副読本は立派なものが完成したわけですから、次は応用編、活用編の副読本が待ち望まれます。この3部作をもって、森田理論学習テキストと呼びたい。これらは、例えば加除式かファイル形式にして、学習した内容をその都度付け加えるようにしたほうがよいと思います。つまり、自分独自の学習テキストに作り変えてしまうということです。
2021.04.18
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二宮尊徳の思想の一つに「積小為大」というのがある。この言葉は読んで字のごとくである。小さなことを積み重ねていくうちに大きなものになっていくという考えである。常に小さな目標、課題をもって生活する。そのためには、「かくあるべし」で事実の是非善悪の価値批判をするのではなく、事実、現実、現状に焦点を当ててよく観察する。その過程で、新たな気づきや問題や課題の発見がある。それらはどんな小さなことでも宝物として扱う。忘れないようにメモして持ち歩く。そして実行に移す。小さなことは、気分本位を排除すれば、誰でも実行可能なことばかりです。小さなことを丁寧に行う。手を抜かないで一心不乱になって行う。達成すればやり遂げた満足感を味わうことができる。そして小さな自信となる。それを積み重ねていく。それが土台となって次のステップに進むことができる。「積小為大」は、小さな課題、目標を持ち続けることがいかに大切であるかを教えてくれている。森田理論では、「生の欲望」を持ち続けるということが、最終目標となっています。これと同じことを二宮尊徳も提案しているわけです。欲望という言葉は誤解の多い言葉です。森田理論学習をしていると、欲望といわれてもよく分かりませんと言われる人がいます。欲望はありませんという人もいます。また欲望というと、本能的な欲望を思い出す人もいます。本能的な欲望や自己中心的や欲望が暴走すると、他人に迷惑をかけ、人間同士の醜い争いの原因となります。欲望という言葉は、本人が望む、望まないにかかわらず、そういう意味合いをもともと持っている言葉です。ですから「生の欲望の発揮」という言葉に、違和感を覚える人もいるわけです。森田ではそういう意味で「欲望」という言葉を使っているわけではないのですが、これが言葉の魔術にかかるととんでもないことが起きるのです。「生の欲望の発揮」も「積小為大」も言わんとする内容は同じ事です。それでしたら自分にとってピタッと納得できる言葉を使ったらよいと思います。私は「積小為大」という言葉がしっくりとくると思えば、「生の欲望の発揮」をこの言葉に置き換えても構わないと思います。「積小為大」をキャッチフレーズとして、日常生活や仕事などに取り組むことができるようになると、結果として「生の欲望」に向かって邁進しているということになります。要するに実践の中身が問題になるということです。
2021.04.17
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「症状不問」という言葉を聞かれたことがあると思います。神経症を治すためには、症状を治すという考え方をすっぱりと捨てる。そして、目の前のなすべき課題に取り組んでいくということです。薬物療法や他の精神療法では、神経症のもとになっている不安を軽減するか取り除いていくという対症療法が中心となっています。森田療法とは不安に対する考え方が、根本的に違います。森田療法では、不安はイヤなものであるが、生きていく上でなくてはならないものである。だから排除する。逃げまくるという方法は間違いですという立場に立っています。不安と共存して、不安の役割を正しく認識する。さらに「不安は安心のための用心」として日常生活に活かしていく。最終的には、不安を欲望の暴走の抑止力として活用していく。こういう立場にたっているわけです。この考え方に目覚めた人は、遠くにかすかな光明を見つけたような気持になります。問題は、「症状不問」を口にすればするほど、「症状不問」から離れていくということです。それは、「症状不問」に注意や意識が向いて、物事本位になり切れていないということだと思います。それを判断するには、その人の普段の生活を観察すればすぐに分かります。でも「症状不問」という森田の基本的な考え方に、心の底から賛同することができたというのは、とても素晴らしいことです。それを否定するものではありません。真理を発見したのですから、うれしさでむせび泣くような気持になることは素晴らしいことです。あとは、実践や行動の面で活用していくことが大切です。そのためには、いったん「症状不問」という言葉を封印することが必要になります。「症状不問」に注意を向けて、意識している状態から離れていくということです。では何をするか。規則正しい生活を徹底する。日常茶飯事を一心不乱になって丁寧に行う。つまり凡事徹底を実践するということです。これらを「症状不問」という言葉を忘れるほど徹底する必要があります。なんだそんな事か。つまらないと思われるかもしれません。私の見るところ、「症状不問」をことさらに唱える人は、意識してそれなりに努力をされています。行動面で目を見張るほどの実践をされています。素晴らしいことです。ただ意識して自分を叱咤激励して実践しているということが、後々問題になるのです。それは、「症状不問」という言葉を頻繁に使うことで、自分の実践の程度を推し量っているところがある。森田先生は、「あるがまま」を学んで、「あるがまま」になろうとしても、決して「あるがまま」にはなれないと言われました。事実として、「あるがまま」とは正反対になり、葛藤や苦悩が増えていく。それは、「あるがまま」というキーワードが、「かくあるべし」という観念として固着してしまうからです。実践や行動の後で振り返ってみると、いつの間にか「症状不問」になっていた。症状を治すということよりも、目の前の課題に向かって一心不乱に取り組んでいた。こういうことが日常生活の中で格段に増えてくる。まわりの人は、そういう人をみて、「症状不問」を身に着けて、森田理論を体得していると判断するのです。「症状不問」という真理を理解しただけでは、人は納得しない。日常生活に活かされていなければ、自己顕示欲が強く自己満足の人です。まわりの人は、実践によってオーラを放ち、周りに好影響を与えている人を称賛するのです。
2021.04.16
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元プロ野球の選手の高木豊さんのお話です。いまは、「長所を伸ばせ」「特徴を生かせ」という指導が主流になっていると思います。しかし、「欠点を強制しないと、長所も伸びない」というのが私の持論です。「長所を伸ばせ」というフレーズには、心地よい響きがあります。だから、人はその方向になびきやすいのです。しかし、そのフレーズは、往々にして、イヤなことはしない、楽な方に逃げる、と同意になりがちです。野球でも、苦手な部分から逃げるのは二流選手が多かったものです。それを、「長所を伸していく」というふうに、言い訳に使っていました。(父親次第 高木豊 日本経済新聞出版社 60ページ)今日はこの話を基にして、森田理論でいっている長所を伸ばすとはどういうことか考えてみましょう。神経質者は自分の欠点、弱みに注意を向けて、元々持っている長所、強みは放り投げている人が多いと思います。そして自己嫌悪、自己否定感で苦しんでいる。森田では、その態度は問題があるのではないですかと言っているのです。誰でも欠点、弱みと長所や強みは同じ数だけ持っているという前提に立っているのです。そのバランスの維持を目指していくことが肝心なのです。ですから、ここでは、欠点は治さなくてもよいとか長所だけを伸ばして突き進めばよいと言っているわけではありません。その視点から、神経質者を見た場合、欠点や弱みの方に比重がかかりすぎているとみているのです。放置すると、劣等感で、自分で自分を責めるようになります。苦しくて生きていくのが辛くなる。存在する事さえ危うくなってしまいます。このことに気づけば、早急にバランスを回復させる必要があります。そのためには、欠点や弱みは一時横において、あえて自分の長所や強みに注意や意識を向ける必要があります。自分にも長所や強みがあるということを自覚する必要があるのです。つぎに、その強みを普段の生活の中で活用していくことが重要になります。そうしますと、天秤に同じ重量のものをのせたときのようにつり合いが取れてくるということになります。この世で長生きしようとするならば、バランスを維持していくことに、エネルギーを投入することが肝心だということです。肉体的にも精神的にも調和を抜きにしては、すぐに行き詰まりますということを言っているのです。高木さんの指摘は、長所を伸ばすという言葉を隠れ蓑にして、「イヤなことはしない」「しんどいことは避ける」「楽な方に流される」人が後を絶たないと言われているのだと思います。このことを森田では、「気分本位」な態度と言います。目の前の日常茶飯事の問題や課題、仕事、勉強など当然手をつけなければならないことからすぐに逃げ出してしまうのは、犬食わない代物だということになります。誰でも行動する前は気持ちが乗らなくて、逃げ出したくなるものです。そうすれば、一時的に楽になります。しかし、後で倍返しの後悔が湧き上がってきます。一方、イヤイヤ仕方なしに行動したにもかかわらず、そのうち行動に弾みがついて、興味や関心が高まってきたという経験は誰でもお持ちだと思います。気分本位はワクチンの注射を打たれるようなものです。最近、テレビでワクチン注射のシーンをよく見かけます。筋肉注射は痛そうだからしませんというのは、幼児が駄々をこねているようなものです。森田を学習した人は、気分本位という悪魔の誘惑に同調しないように気をつけましょう。
2021.04.15
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イチローさんが王貞治さんに次のように質問している。「現役時代、選手の時に、自分のためにプレーしていましたか、それともチームのためにプレーしていましたか」これに対して、王さんは即答で次のように話している。「オレは自分のためだよ。だって、自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるのであってチームのために、なんていうヤツは言い訳するからね。オレは監督としても、自分のためにやっている人が結果的にチームのためになると思うね。自分のためにやる人がね、一番自分に厳しいですよ。何々のためにとか言う人は、うまくいかない時の言い訳が生まれてきちゃうものだからな」この意見にイチローさんも全面的に賛成しています。(イチロー・インタビュー 石田雄太 文芸春秋 283ページ)今日はこの話をもとにして、森田の理論学習でよく言われる「人の為に尽くす」を考えてみたいと思います。なおこの言葉は森田先生は使われていません。後世の人が言い出した言葉です。神経症で苦しんでいる人は自己内省が強くなり、周りが見えなくなる。注意と感覚の悪循環が起き、神経症の蟻地獄へと落ちていく。その解決策として提案されている言葉だと理解しています。つまり、目線を自分の症状に向けるのではなく、外向きに切り替えることが大切です。その手段として、他人のために尽くすことを見つけて実践すると効果がある。積極的に「人の為に尽くす」ことを見つけて、実践しましょう。人の役に立つことを見つけて行動することはよいことだと思います。ただし注意しなければならないことがあります。「人の為に尽くす」ということを優先するあまり、自分の素直な気持ちや感情、やりたいことや欲望を抑え込んでしまうことです。我慢する、抑えるという気持ちが前面に出て、自分の気持ちや欲望を抑圧してしまう事です。他人の考えや意見に反対してはいけない。自分の考えや意見、気持ちや欲望を前面に押し出してはいけない。先ず他人の意見を忖度する。それに合わせることが大切だ。相手と自分に相違があるときは、先ず相手の方に合わせる。結果として、他人の思惑に振り回されて、自分の気持ちや考えを抑え込んでしまう。自分のアイデンティティ喪失状態に陥ります。そうなるとストレスが溜まります。精神的な葛藤や苦悩が生まれてきます。またそういうことは長続きしません。途中ですぐにイヤになります。ここで大切なことは、人の気持ちや考え方を忖度する前に、まず自分の気持ちや考え方をはっきりさせることが大事になります。それが先に来ないとストレスで苦しむことになります。まず素直に自分感情や欲望に向き合うことが大事になります。イチロー選手は次のように説明されています。「自分が打てなくてもチームが勝てればよい。自分が出場していなくてもチームが優勝すればよいなどと思っているような人はいずれ契約解除されます。クビになって路頭に迷うことになります」「自分の生活のために取り組む。自分の目標を明確にする。日々愚直に、真摯に野球に打ち込む。技術を磨き、変化に合わせて進化していくことが大切だ」これはまず自分の「生の欲望」をはっきりさせることだと思います。目標を明確にして、一心不乱に取り組んでいくことが肝心であるということです。それをとことん追求していった結果、大いに他人に役立っていた。プロ野球でいえば、大きな感動を与えることになる。間違ってもいきなり相手のことを忖度して、自分をないがしろにしてはならないということです。自分の感情や欲望を棚上げにして、いきなり「人の為に尽くす」という言葉を持ち出すことは、自分の生き方自体が曖昧になっており、体のよい言い訳として使っているということかも知れません。そういう人はまず「自分の性をつくす」というところに立ち戻ってみることが大切です。
2021.04.14
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堀江貴文さんの話です。堀江さんのところに「こんな商品(サービス)を開発したのだが、堀江さんの知名度を活かして、拡散に協力してほしい」という依頼が舞い込むそうだ。見も知らずの人にこういう依頼を突然することは失礼なことではないか。他人に物事を頼むときに重要なことは、その人へ思いをぶつけるのではなく、その人に、「自分に協力するメリット」を感じてもらうことが重要なのではないか。そのためには、相手のことを徹底的に分析しなければならない。そのうえで、自分が相手に何を与えることができるかを考えないといけない。端的に言うと、まず「自分に協力して相手が得られるメリット」(相手が喜んでくれそうなこと)を5~10パターン考える。そして相手が喜んでくれるまでメリットをひとつずつ小出しにしてプレゼントする。10も候補を用意していれば、相手に何かしら響くものがあるだろう。お互いにメリットを与えあう関係は、「対等な関係になる」ということだ。(炎上されるものになれ 堀江貴文 ポプラ新書 176ページ)堀江さんは、ギブアンドテイクの対等な人間のことを言われているのだと思います。見も知らない人に突然協力依頼をするということは、自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けるという態度に近いと思います。強制や脅迫によって人を動かすことができると勘違いしているのかもしれません。そんな人間関係は、暴力、お金、物、食べ物などで一時的に自分の思い通りに、相手を動かせたとしても、隙を見せると猛反発されかねない。また、疑心暗鬼になり、防衛するための膨大なエネルギーが必要になる。この態度は、相手の気持ちや現状が全く把握できない。信頼関係はほとんど育たないと思います。むしろ、最初からすれ違っているために、いつか激しい争いになる可能性があります。元々自分と相手の気持ちや考えていることの間には、食い違いがあるのが普通です。それをどういう方法で埋めていこうかという発想が全くないのだと思う。こういう方向で良好な人間関係を維持することは難しい。他人と仲良くなりたい、他人に協力依頼を取り付けたいときはどうすればよいのでしょうか。まず最初に、相手とは、どこにどんな食い違いがあるのかを把握することが大切になります。元々食い違いがあるという前提に立つことができる人と、そんなものは全くないと思っている人では、次の展開が全く違ってきます。食い違いがあるはずだと思っている人は、まず相手の気持ちや考え方を理解しようとします。それが分からないうちは、何も始まらないと考えているのです。相手の気持ちや考えがある程度わかった段階で、今度は自分の気持ちや考え方を相手に伝えます。そして二人の間に存在する溝をどうしたら埋めることができるだろうかと考えます。目的達成のためには、話し合いや交渉で譲歩できるかどうかを探り合います。つまり妥協点を求めて話し合いや交渉を続けることになります。妥協できなくても力に頼って相手をねじ伏せるようなことをしてはいけません。どうしても和解や妥協点を見いだせない場合は、そのままにして、時間の経過を待つ。一時的に冷却期間を置くことになります。ここでの焦りは禁物です。堀江さんの言われているとことは、和解や妥協するための手段、方法について提案されていることだと思います。相手のメリットになることを10個くらい用意して、小出しにプレゼントする方法は特にセールスなどの場合は必須のテクニックとなります。ところで、対人恐怖症の人は他人とはもともと分かり合えないのが普通の状態だと思っている人が多いように思います。両親との関係が元々ぎくしゃくしていたので、他人は自分に危害を加える恐ろしい存在として認識しているのだと思います。ですから、いきなり先ほど述べた方向で動くことは、ハードルが高すぎるという面があります。岡田尊司さんが言うところの、心の安全基地、辛い時に立ち戻れる母港を持っていないので、まともな人間関係を築いていくのは大変なのだと思います。そういう方は、是非とも集談会に参加することで、先ず心のよりどころを見つけていただきたいと思います。私も対人恐怖症でしたが、集談会の仲間は暖かく受け止めてくれました。それが生涯の財産となりました。何か問題が発生したら、集談会の仲間に相談に乗ってもらえるという気持ちを持っていると、ある程度のことは、何とか乗り越えられるように思います。家族や会社や学校や友人関係がぎくしゃくしている人は、是非集談会の仲間に相談してみてください。きっと暖かく受け止めてくれるはずです。
2021.04.13
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35年も集談会に参加していると、相手の会話や生活ぶりを見て、その人の人間としての器や完成度がなんとなく分かるようになりました。これは事実を判断しているだけで、その人の人間性を叱咤激励しているわけではありません。またその必要もありませんし、価値判断することは、「かくあるべし」を相手に押し付けることになりますので、厳に戒めています。ただ、もっと人間として成長できるのに、現状維持にとどまっていることに対してもどかしさを感じているのです。具体的に言うと、その人の神経症の克服度合い、森田理論の理解、森田理論の生活面への応用、さらに森田理論を通じて人生に対する洞察力を深耕しているかどうか。私たちは、症状に陥って、森田療法に出会い、行動実践によって神経症を乗り越えてきました。その過程で、森田理論の持っている人間哲学の方面に注目するようになりました。このことが分かってからは、森田理論を生涯学習として学ぶことになりました。学んだことを、縦横無尽に仕事や日常生活に応用し活用してきました。そして、試行錯誤の中で、神経質者としてどう生きていけばよいのか、つまりそれぞれが人生観の獲得の段階に到達しました。望外の喜びを感じています。そして今では、森田理論の視点から、人間の幸せとは何か、人間関係、自助組織、共同体の在り方、自然と人間とのかかわり方、人間の自立、日本国の自立、子育てや教育の問題、政治、経済、外交などの面に対して、強い関心を寄せるようになりました。これを人間の一生に例えると、一つ一つ段階を踏んで、一人の人間として少しずつ成長発展してきたということではないかと思うのです。森田理論に出会った人は、多くの人がこのような段階を踏んで、人間として成長して欲しいというのが私の願いです。そういうレールにのって進んでいるかどうかが肝心です。こういう視点から観察していると、その人の現在地が分かるようになりました。この中で、特に問題だと思うのは、何年も森田とかかわってきた人で、全く症状から抜け出していない人のことです。10年以上も森田とかかわって来たのに、依然として症状と格闘の日々を過ごされている。あるいは、規則正しい生活ができていない。日常生活への応用が不十分である。凡事徹底を無視されている。あるいは、森田理論がおすすめしている方向とは、全く異質の生活をされている。たとえば、「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にある」「無所住心」「変化への対応」「物の性を尽くす」などの森田のキーとなる考え方とは真逆な生活をされている。あるいは、共感の気持ちが育たず、あらゆる場で平気で他人を批判し攻撃してしまう。そういう話を延々と集談会の場でされている。そういう言動は問題だという自覚がほとんど感じられない。一緒に森田理論を学ぶ仲間として、大変残念に思っているのです。森田先生は、きっとこういう人は意志薄弱性気質で、縁なき衆生と言われるだろう。私はたとえいまどの段階にいても、人それぞれの課題を持っているわけなので構わないと思う。問題は、自分に与えられた課題に真剣に向き合っているかどうかだと思う。自分の立ち位置をしっかりと自覚して、目指すべき方向性を見極める。そういう気持ちがあれば、例えば1年経てばその人は変化していくはずだと考えています。少しずつ変化し成長しているということが重要です。常に成長していきたいという気持ちをしっかりと持って生活しているかどうかが肝心なことです。そして、自分の今の段階を乗り越えた後には、次のステージが待っていることも考えてほしい。目標を自覚し、一層の努力精進していくことが大切であると思う。ちなみに、最後は森田理論の世界では、一生涯続く目標となります。人間はどんな状況に置かれても、課題や目標を持って挑戦していく中に、生きる意味が存在している。現状に胡坐をかいて、無為に命の延命を図るだけでは、そのうち後悔することになると思う。人それぞれ、抱えている問題や課題は違います。それから逃げないで、挑戦し続けている人をこれからも末永く応援していきたいと思います。
2021.04.12
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集談会で劣等感と優越感について話し合いました。人は様々な劣等感を持っていることが分かりました。・ハゲてきた。歯並びが悪い。虫歯や歯槽膿漏で入れ歯をしている。・シミやソバカスが目立ってきた。しわが目立ってきた。・太っている。腹が出てきた。・顔立ちが悪い。鼻の形が悪い。・仕事ができない。遅い。うっかりミスが多い。・根気がない。何をしても3日坊主になる。・昔は勉強ができないことが苦痛だった。・鉄棒で逆上がりができない。・人には言えない持病を抱えている。・実家がみすぼらしい。・財産がほとんどない。多額の借金がある。・車の運転ができない。・生活保護を受けている。我々神経質者の特徴として負けず嫌いというのがあります。人と争って勝ちたいという気持ちがとりわけ強いのが特徴です。すべての面で相手を上回っていて、相手を見下ろすような人間でありたい。でも現実は理想通りにはいきません。すると、ことさら劣等感が目についてくる。絶えず自分と他人を比較して、劣等感の原因を探し続けているようなものですから、すぐに見つかります。それも2つも3つも見つかる。芋づる式に増えていきます。一旦見つけた劣等感を、寛容な態度で許容するほどの包容力はありません。なんとか人並みのレベルまでに引き上げようと悪戦苦闘するようになります。そのためにかなりのお金をつぎ込んでいる人もいます。経済的に生活が立ちいかなくなっても、劣等感を解消することの方がより重要だ。そうしないと気になって仕方がない。不安で不快な気持ちになっていたたまれない。とりあえず劣等感を無くさないと生きていけない。その次に初めて勉強や仕事、家事に手を出そうと考える。どうにもならないと思えば、今度はそれを隠すようになります。人前に出ることを控えるようになります。隠蔽工作や偽装工作をするようになるのです。これは対人恐怖の人が、精神交互作用で神経症の蟻地獄に落ちてしまうのと同じことです。森田理論は劣等感についてどう考えているのか。まず劣等感のない人はいないと思います。海があり山がある。谷があれば山もある。それが事実です。自然界はほとんど凸凹しています。劣等感と優越感の関係も同じです。まずそれを認めましょう。劣等感だけをことさらに拡大して敵視することは百害あって一利なしです。人より劣ったところがあれば、反対に人よりも優れたところがあるのが普通なのではありませんか。森田理論では、精神拮抗作用や不即不離の考え方で、バランスや調和の維持をことさら強調しています。劣等感に苦しんでいる人は、自分の長所や強みを棚卸する必要があります。いくら考えてもそんなものは一つもありませんという人がいます。でもあなたは、神経質性格を持っていますよね。細かいことによく気が付く、感受性が強い。これはあなたの強み、長所ではありませんか。神経質性格には、生の欲望が強い、反省する力がある。分析力がある。真面目で努力家である。責任感が強い。生の欲望が強い。これらのプラス面について考えたことがありますか。自分の強みや長所のことは評価しないで、劣等感ばかりに関わっていることはおかしくないですか。人間は強みや長所に磨きをかけて、勝負しないと負け戦になると聞いたことがあります。劣等感でひどく苦しんでいる人は、強みや長所もそれなりに大きなものを持っている。バランスや調和の考え方を推し進めていくと、その関係は正比例していると考えるべきです。劣等感で悩むときは、私には人が欲しくても手に入らない、とびぬけた才能や能力を持ち合わせているに違いないと信じる事です。そうでなければ、バランスを欠いて存在することさえかなわないのだと信じる事です。強みや長所の面に光を当てて、それを育てていくことが、劣等感に振り回されず、自己を活かすことにつながります。つぎに劣等感は悪いことだと決めつけていますが、必ずしもそうとは言い切れません。たとえば、イケメンで絶えず女性問題を抱えている人がいます。浮気や不倫で家庭が崩壊して、離婚に至る人も身近に何人もいます。本人たちが苦しむだけではなく、子供の成長に暗い影を落としています。イケメンでない人は、自分にそんな気持ちがあっても、もともと向こうから誘惑の虫が近寄ってこない。その時は、欲求不満になるかもしれないが、後で考えると3枚目だったため軽率な行動に歯止めがかかっていたのだと気が付きます。これは助かります。劣等感は、本能的、刹那的、享楽的な欲望が暴走することに対して、抑止力として働いているという視点をしっかりと持つことが大切になります。
2021.04.11
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森田先生は「不即不離」の説明を次のようにされています。犬を連れて散歩する時に、犬は主人のそばばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰って来て、主人の足元へからみついて来る。これが犬の自然の心で、いわゆる「不即不離」の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失いはしないかという事が気にかかるから、決して離れてしまう事はない。しかるに君らの如きは、先生の先へ追い越したら無礼か何かになるかと、理屈にとらわれて、あまりに即して少しも融通が利かない。今度はまた離れてしまえば全く寄り付かない。即けばつき、離れれば離れてしまって、少しも犬のような駆け引きができない。(森田全集第5巻 658ページより引用)不即不離は、その名の示す通り、引っ付きすぎず離れすぎずに行動するということです。べったりと引っ付きすぎてはいけない。そうかといって、相手を無視して離れすぎてもいけない。その時の状況を適切に判断して、目の前の状況に自分の方から合わせていくということです。この生き方は、言い換えると、自分の気持ちや考え、欲望を前面に押し出すのではなく、常に変化に対応していくことです。それ以外のことをしてはいけないということです。すばやく変化に対応することが肝心です。「かくあるべし」を自分や相手や自然に押し付けることとは、真逆な考え方のことです。変化に対応していくためには、目の前の出来事や他人の考え方や行動を正しく把握することが必要になります。観察によって事実、現状、実態をより正確につかもうとする態度が不可欠です。その中で、自分の行動が自然に調整されて、無理ない言動、態度や行動につながっていくのです。不即不離の態度が身についてくると、他人や自然の関係に調和が生まれて、無理のない付き合い方ができるようになります。「不即不離」と反対の態度をとると、相手や対象物のことが全く把握できなくなります。観察して、事実をつかむという態度が希薄なので当然のことです。これでは闇夜に鉄砲を放つようなものです。ピントが全くあっていません。調和が保てなくなり、相手と対立関係に陥ります。そして、元々強かった自己中心的な言動が目立つようになります。そのことを「我」を通すとも言います。「我」が強い人ということもあります。自分勝手な言動が多くなり、他人や自然との調和が崩れてくることになります。「不即不離」という考え方は、森田理論の中では重要なキーワードとなります。この考え方を日常生活の中で深耕していくことで、類まれなる「森田の達人」の域に到達することができます。この考え方に賛同できる方はぜひ取り組んでみてください。
2021.04.10
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考えただけでも怖いと思うことは誰でも持っています。これに出くわすと、すぐに目をそらす。絶対に避ける。早く逃げ出したい。先日の集談会で出し合ってみました。・歯医者に行くのが怖い。・獰猛な犬が怖い。蛇が怖い。特にアナコンダやハブやマムシが怖い。・クモが怖い。ムカデが怖い。猿が怖い。クマが怖い。カエルが怖い。・MRI検査で閉所に監禁されるのが怖い。胃カメラを飲むのが怖い。注射が怖い。・胃透し検査の時、ドロドロのパリュームを飲むのが怖い。・バリューム検査で、頭を下にして台を回されるのが怖い。・散髪屋、美容院に行くのが怖い。・自動車の運転が怖い。・バイクの運転が怖い。特にトラックが後ろから迫った時が怖い。・交通事故の現場に遭遇することが怖い。・高速道路でトンネルに入るときが怖い。・高速道路のトンネルの中で車が渋滞して止まるのが怖い。・上司が怖い。同僚が怖い。異性の社員が怖い。部下が怖い。・親や配偶者や子供の言動が怖い。・ホラー映画が怖い。戦争映画が怖い。テレビドラマで殺人現場のシーンが怖い。・カラオケでみんなの前で歌うのが怖い。・新幹線に乗るのが怖い。特急電車に乗るのが怖い。飛行機に乗るのが怖い。・バンジィジャンプ、ジェットコースターが怖い。・マンションの屋上に上がるのが怖い。・包丁を持つのが怖い。色々出てきました。これ以外にもあなた独自の怖いものがあるかと思います。人それぞれに恐怖の対象物が違うというのが面白いところです。そしてそれを精神交互作用で増悪して、信念として固着してしまっているのです。誰がなんと言っても、私は拒絶して逃げますという気持ちが強いのです。「私の怖いもの」の発言を聞いていて、「実は私もそうです」と共感する人もいます。特にあらゆることにとらわれやすい私たちには共通点があるのかもしれません。しかし共感できないという人もいます。他人の怖いという気持ちが、どうもよく分からない。そんなことにどうして恐怖を感じるのか不思議だというのです。そんなものを怖がらなくてもよいと言って、笑っている人もいるのです。あなたは頭が少しおかしいという態度がありありなのです。その人たちの言い分は次のようなものです。歯医者に行くことや検査をすることは、自分の健康に役立つことなのだから、それは進んで受けるべきことだ。診察台に固定されることぐらいは我慢しなさいよ。まむしドリンクやハブ酒は強壮剤ですよ。ニシキヘビの皮は三線になくてはならないものですよ。ドライブすることは楽しいことですよ。気分がすかっとします。飛行機の離発着の時は緊張するけど、水平飛行に入れば大丈夫ですよ。それよりも機内食が楽しみだ。酒もある程度は飲める。外の景色を見るのも楽しい。カラオケは無条件に楽しい。目標が持てるし健康維持には最適ですよ。他人と付き合うことは楽しみ以外の何物でもない。孤独で一人だけの生活は考えただけでもぞっとする。包丁を使わなければ、料理なんかできませんよ。この例から分かることは、自分が恐ろしいものは、他人も同じように怖いはずだと決めつけることは認識の誤りということです。みんなそれぞれに怖いものは、微妙に違っているということです。ただとらわれる対象が違うだけで、とらわれやすい体質を持っている点は共通性があると思います。神経質性格は、根本的なところはほぼ同じなのです。つぎに、自分の怖いものはどうして生まれたのでしょうか。何かのきっかけで恐怖の対象物に出くわした。その時確かに怖かった。あるいは他人からパニックになった時の話を聞いた。もし自分がそんなことになったらどうしようと考えた。そのとき、「そんなこともあるさ」とすぐに水に流せればよかったのだ。とらわれた人はそうはならなかった。それがトラウマとなって、逆に頭から離れなくなったのだ。そして注意と感覚の相互作用、つまり精神交互作用で、恐怖を恐怖するという強迫観念で苦しむようになってきたのです。始末が悪いことに、次から次へと予期恐怖するようになった。集談会で聞いてみると、パニック発作で救急車で病院に運ばれた人は数多いのが実態です。でも、パニック発作でそのまま入院したという人は一人もいませんでした。それこそ2時間から3時間後には、ウソのように収まっていたというのです。気分もうろうとなって、突然会社で倒れるのでないかと心配していた人もいました。でもそう思っていた人が、会社で倒れたことは一度もなかったといわれるのです。不思議なことですが、これが事実です。自分はパニック発作でいつか倒れる、死んでしまうというのは、ほぼ事実ではありません。それは自分が捏造して作り上げた「妄想」にすぎません。森田理論では気分や観念の世界で考えたこと、つまり妄想を優先してはならないと言います。倒れたことがないという確かな事実に気づいて、その事実を受け入れて行動することが肝心ですよと教えてくれています。森田を学習して事実の持つ重みに気づいた人は、パニック障害を克服しています。そして、さらに森田理論を深めた人は、その段階に留まってはいません。人生というのは、事実の上に成り立っている。事実に基づかないで、観念優先の態度や行動が、精神的な葛藤や苦悩の原因になっていたのだということをはっきりと自覚できるようになるのです。ここまでくると、目にする世界が全く違ってきます。例えていえば、霧の中でおっかなびっくりで車を走らせていた状態から、いつの間にか霧がなくなり、視界良好になり、安全運転ができるようになるようなものです。私は森田理論を学ぶ前は、事実の持つ重みに全く気が付きませんでした。森田理論に巡り合った幸せをしみじみと感じております。
2021.04.09
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最近作った川柳です。生活の発見誌に投稿するために、普段から溜めているのです。バレンタイン もらったはずが 食べられた妻がバレンタインでプレゼントしてくれたチョコを食べようと思ったら、「あれおしかったわ」と妻が全部平らげていた。「今度また買ってきてあげるわ」それはないでしょ。夕食は 半額シールの お惣菜田舎での農作業で遅くなり、今日はスーパーのお惣菜で済まそうと思って行ってみると、やけに人が多い。それもそのはず、店員さんがペタペタと2割引き、3割引き、極めつけは半額のシールをどんどん張り付けている。にぎり寿司の周りには、我先にと争奪戦が繰り広げられている。久しぶりになんか得をしたような気持になる。これを買い物上手、家計のやりくり上手というのだろうか。これの欠点は、夕方遅くに買い物に行く必要があること。あらかじめ献立が決められない。とにかく有無を言わさず、シールが張られたものがその日の夕食のメニューとなる。食生活のバランスが崩れるということです。続いて、サラリーマン川柳の本より、笑いを誘った面白川柳を紹介しておきます。何になる 子供の答えは 正社員お見合いの 決め手になった 正社員格差より 段差が気になる 歳になりビールより 家庭の方が 冷えている歳いくつ 思わず聞いた 同窓会メール打ち 着いたかどうか 電話する迷っちゃう 選べないわと みな食べるオレ無職 息子草食 妻美食父を追う 娘の手には ファブリーズ来た顔の まんまで帰る 美人の湯雪化粧 妻はこたつで 厚化粧妻の口 付けてみたい 万歩計非通知で かけたときだけ でる女房胸よりも 前に出るなと 腹に言うゴハンよ 呼ばれていけば タマだった
2021.04.08
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「神経症は治す方法はないが、治る方法がある」という言葉があります。現在、神経症で格闘している人は、何とも意味不明の、もどかしい言葉かもしれません。大体、神経症は治そうとしなければ、生活が行き詰ったままで時間ばかりが過ぎていく。生きづらさは一生ついて回る。そうなりますと、将来暗澹たる気持ちになります。生きる意欲がなくなり、無気力になってしまうかもしれません。薬物療法は、不安を軽減させてくれるじゃありませんか。認知行動療法は、神経症から逃げないように訓練して、生活が好回転を始めるじゃありませんか。カウンセリングは、まちがった考え方や思い込みを正してくれるじゃありませんか。それなのに、森田療法は神経症の治癒には役立たないというのですか。そんな気持ちになるかもしれません。どの意見も一理あります。森田先生は、神経質は器質的な病気ではありません。ですから、治癒する必要はありませんと言われています。つまり治す方法はないと言われているのです。神経症は、治しようがないという代物なのです。神経症は、頭に浮かんできた不安、恐怖、違和感、不快感に対して、なんとか取り除きたいと思ったときから始まります。できる限りの手を尽くして真面目に努力してきた人がかかります。神経症の方からしてみると、まんまと引っかかってきたと喜んでいるかもしれません。治す努力をすればするほど、神経症は悪化するという代物だったのです。裏を返すと、神経症は不安、恐怖、違和感、不快感に対して無頓着な人には縁がありません。発揚性気質でそんなものを無視して、笑い飛ばせるような人には無縁です。ただそういう人は、ザルで水を掬うようなもので、小さなミスや失敗で思わぬ不覚を取ることが発生します。石橋を叩いて渡るような気持がないのですから、別の意味で心配な人です。神経症は治すことはできないと覚悟した人は、治すための第一歩をすでに踏み出しているということになります。何とも酷な言い方ですが、それが真実なのです。でも覚悟するというハードルや壁を乗り越えることは非常に難しいのです。普通は大きな壁を目の前にして、右往左往してしまうのです。覚悟を固めるためには時間がかかります。森田理論学習によって、神経症のからくりを理解する必要があります。しかし一旦覚悟を固めると、後の展開はものすごく早くなります。森田理論学習では、不安、恐怖、違和感、不快感は取り除こうとしない。怖れをなして逃げ回ってはいけない。それらを持ちこたえたまま、目の前のなすべき課題に取り組みなさいと言います。それができるようになれば神経症は治ります。こうした態度が習慣化されれば、鬼に金棒です。実際、神経症を克服した人は、この関所を何とか通過しているのです。これができる人は、その方向で頑張ってください。森田先生の入院森田療法では、無理やりその方向に追い込んでいたのです。指導者からの強制力が働かないと、動き出すことが難しいということかも知れません。よいことは分かっているのだが、どうしても行動ができないという人によい提案があります。今現在、あなたにとって興味や関心があることはありませんか。なんでもよいのです。たとえば、コンサートに行く。楽器を始める。自家用菜園を始める。菊作りを始める。盆栽を始める。園芸を始める。お菓子つくりを始める。ペットを飼う。公民館の料理教室に通う。新作料理に取り組む。加工食品作りを始める。カラオケを始める。一人一芸を始める。釣りを始める。麻雀を覚える。発見誌の切り抜きをしてみる。森田全集第5巻を読む。工場見学をする。ハイキングを始める。水泳を始める。運動を始める。パソコン教室に行く。一言注意したいのは、自ら積極的に行動するものを選ぶことです。受け身になって他人から刺激を与えてもらうようなものでは、たいした効果が期待できません。たとえばテレビを見ることが好きなので、一日中テレビを楽しむといったようなことです。ここでお勧めしているのは、自分は何もしないで刺激や快楽を期待することではありません。できれば、やりたいことのリスト作りに取り組みましょう。これを少なくとも20個から30個程度見つけて下さい。つぎにそれらの情報集めに力を入れる。チャンスがあれば、すぐに手を出してみる。すると新しい経験ができるとともに、同好の仲間ができます。日常茶飯事や凡事徹底という方面には及び腰の人も、自分の好きなことには取り組みやすいのではないでしょうか。私は森田先生の「鶯の綱渡り」という宴会芸の話を聞いて、一人一芸に取り組みました。神経症は苦しかったですが、その練習をしている時は、一時的に神経症のことは忘れていました。それらが、積もり積もって神経症の解放につながっていったのです。次から次へと興味や関心のあることに、手を付けていると、弾みがついてきます。それが、最終的には「治す方法はないが、治る方法がある」ということにつながるのです。
2021.04.07
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先日プロフェッショナル 仕事の流儀という番組にサンドウィッチマンが取り上げられた。サンドウィッチマンは今やレギュラー番組を15本抱えている。そして「好きな芸人ナンバーワン」に3年連続で選出されている。どこにそんな人気の秘密があるのでしょうか。サンドウィッチマンは、伊達みきおさんと富澤たけしさんの2人でやっている。仙台商業高校のラグビー部で知り合ったという。高校卒業後伊達さんはサラリーマンをしていた。24歳の時富澤さんに誘われて漫才の道に入った。富澤さんが伊達さんを誘ったのは、高校時代のある体験がもとにあるという。部活の後、富澤さんは自転車を盗まれたことがあった。それを一緒になって探し回ってくれたのが伊達さんだったという。固いきずなでつながれているのは、この時からだ。二人は性格がまるで違う。伊達さんは人なつこい。他人とかかわることが楽しくて仕方がないという感じだ。漫才では絶妙なつっこみを入れる。食えない時代に営業担当をしていた。富澤さんは人見知りが激しい。ボケ担当だ。実は台本はすべて富澤さんが作っている。富澤さんは一つのミスを引きずるタイプだ。負けず嫌いの面も持っている。典型的な神経質タイプだ。二人はそれぞれ自分は半人前だという自覚がある。二人合わせて一人前という意味で、ニコイチだと言っていた。あいつがいれば大丈夫。あいつの分まで頑張るという気持ちが強い。24歳で漫才師になり、33歳でⅯ1グランプリで優勝するまでは極貧の生活だった。アルバイトの日々。でもライブに出ないと認められない。ひもじい。借金ばかりが増える。その時自分たちは世間から必要とされていないと感じていたという。30歳の時、富澤さんは、「もうだめだ。漫才をやめよう」と伊達さんに申し入れたという。伊達さんは、「もう1年間だけ必死にやってみよう。それでだめならあきらめよう」と返したという。伊達さんは、ここでやめたら富澤さんは自殺するのではないかと心配していたそうだ。いまは人気者になったが、いまでも生活は地味だ。いつまた売れなくなるか、危機感を持っている。つらい時期を経験しているので、後輩芸人に優しい。東日本大震災の復興支援ライブにも熱心だ。そして二人は性格は全く違うが、お互いに思いやりが深い。コンビの夢は解散しないことだと公言する。これが夫婦なら固いきずなで結ばれた素晴らしい夫婦になることだろう。お互いの違いを認めて、あいつの足りないところは自分がカバーしてやろうという気持ちを持っている。自分と違うという面を見つけると、「かくあるべし」を振りかざして、相手を誹謗中傷する人が多い。この二人を見ていると、足りないところがあるのが当たり前。それを非難するのではなく、補い合っていく方がよほど幸せになれるという信念のようなものを感じる。漫才をする時だけ一緒で、普段の行動は別々という漫才師が多い中で、この二人はいつも一緒である。不思議な感じがする。この二人は極貧の生活を9年間味わったことが、今の生活に生きている。私たちは神経症を抱えてのたうち回った経験がある。それが森田療法に出会うきっかけとなった。こんな幸運は神経症が取り持ってくれた縁である。有難いことだと思う。つらい経験は、森田療法によって一旦克服すると強みに変わる。人生に深みと味わいをもたらす。そこを出発点として、新しい人生に向き合えるようになるからだと思う。つらい経験は、他人の経済的、身体的、精神的な痛みを我がことのように感じることができる。こうしてみると山あり谷ありの人生だったが、あきらめないで生きてきて本当によかったと思う。集談会で、「60歳以上まで生きながらえた人は、100点満点の人生です」と聞いたが、まさにその通りだと思う。
2021.04.06
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競馬好きの友人に触発されて、競馬でいかにすれば勝つことかを考えてみた。つまり投資した金額に対して、それと同等かそれ以上にする方法はないかということです。以下の投稿は、馬券を買うことをお勧めするものではありません。トータルで利益が上がる方法はないか、神経質者の観察力、分析力を活用して試行錯誤を行うとこう結果になるという事例の紹介です。私のやり方は過去の結果を徹底して分析することから取り掛かった。大数の法則に基づいて、投資金額よりも回収額が多くなる方法を確立することです。私の検証作業のやり方は次のようなものです。1日36レースあります。例えば、中山競馬場、阪神競馬場、小倉競馬場などのように全国3か所で、それぞれ12レースずつ実施されることが多い。36レース×20日間のデータをとったのです。合計で720個のデータになります。私は、投票対象として、単勝(1着になる馬を一頭当てる)、馬連(1着と2着に入る馬を当てる。着順は逆になってもよい)、馬単(同じく1着と2着の馬を当てる。その通りの着順が求められる)、枠連(例えば16頭立ての場合8つぐらいにグループ分けされている。1着と2着に入るグループを当てる)、3連複(1着、2着、3着に入る馬を当てる。順不同でも構わない)を調べた。それ以外にも馬券の買い方はいろいろとあるが、配当が悪かったり、確率が悪く調べる気力がわかなかった。この検証作業は大変時間がかかった。条件をたった一つ変更すれば、また一から720回の検証をしなければならなくなるのだ。そうした作業を、条件を変更して何度も行ってみた。でもそれを続けなければ、自分に合った勝てるルールは永遠にできない。幸い神経質性格で、食いついたら離さない性格なので、根気よくチャレンジしてきた。結論から言えば「馬単」の検証結果が一番良かった。検証結果に基づいて、720個の「馬単」の配当の金額別分布表を作ってみた。その結果は以下通りとなった。1000円まで13.5%、1000円から2000円まで18%、以下3000円まで15%、4000円まで5.8%、5000円まで6.6%、6000円まで6.1%、7000まで5.8%、8000円まで3.6%、9000円まで1.6%、10000円以上の高額配当になるもの24%となった。この中で、1000円以下の配当では、当たり回数はある程度確保できるが、回収額が少なく、やればやるほど損失になる。10000円以上の高額配当は1つでも当てれば、凡ての損失を取り戻せるのだが、闇夜に鉄砲を撃つようなもので、ほぼ当てることは不可能だと判断した。1000円から3000円までの分布帯は比率も高く見込みがありそうに思えた。特に1500円から3000円台に狙いをつけて投票すれば利益が残ることが分かった。しかし実際に検証してみると、その配当帯にオッズ(人気)が集中しており、最終利益にはなっても最大9つのオッズの全部に投票することになり、結局は経費倒れになることが分かった。トータルで利益を出すことは無理だった。これも不発に終わった。配当の価格帯を上げて、オッズ数がおおむね4つ以下で、トータルでプラスになるものはないか。するとかろうじて、その条件に見合うものがあった。それが5000円台の当たり馬券であった。この価格帯をさらに詳細に調べ上げたところ、20日間720回で46回の当たり馬券があった。率でいうとわずか6.3%であった。(46回÷720回)この時の合計配当額は、251260円であった。さらに検証を続けた。5000円台の当たり馬券で、オッズが3つ以内に収まるかどうかが気になった。検証の結果はかなりばらつきがあった。0回から最大9回まであった。平均すると1レース3.5回であった。5000円台のオッズを全部購入すると、1日36回のレースで、12600円であった。(3.5回×36レース×100円 投票単位は最低額の100円として検証した)ということは20日間のトータル経費は252000円となる。費用対効果はほぼ同じであった。これでは挑戦する意味がないと判断した。別の要素を組み合わせてパフォーマンスを向上できないかと考えた。46回の当たり馬券を向上することはもはや不可能に近い。反面252000円の経費を削減していくことは可能かもしれないと考えた。そのためには、エントリーする馬券を効率よく選択する事が必要になる。5000円台にくる可能性が低い馬券は最初から除外できないかと考えた。人気が高い馬が、1着2着3着に入着する可能性はかなり高いことが分かっている。1000円までの配当が13.5%、1000円から2000円まで18%もあるのだ。この二つだけで31.5%もあるのだ。仮にこれらが選択対象から外れると、残り68.5%での勝負となる。720回×68.5%=493回での勝負となる。勝率が上がり、経費がかなり下がるのです。ではどうして選択対象から外すレースを決めるのか。これは非常に難しい。よい提案があれば教えてもらいたいところです。とりあえず私は、馬単で5000円台で入着する時、馬連や3連複のオッズはどうなっているか調べた。すると、馬連の1位のオッズは6倍から8.9倍以内、馬単の1位のオッズが8.4倍から16.4倍、3連複のオッズが7.9倍から21倍に収まっていることが多いことに気づいた。46回の当たり馬券のうち、実に20回はこの条件に当てはまっていた。この条件を使ってエントリー除外のレースを判断することにした。この条件で選別するメリットが大きい。1日36レースのうち、約28レースは除外できるのだ。つまり大きく経費の削減ができるのだ。しかも勝率が向上する。この条件で勝負が可能なのは、1日あたり8レース程度だった。多くても10レースに絞れる。その代わり46回の5000台の当たり馬券のうち26回はあきらめるしかない。残りの20回の当たり馬券にかけるということになります。つぎに5000円台に入るオッズは平均すると3.5回だった。収支はどうなるか。一つの投票に対して100円しか賭けないやり方です。経費は、1日あたり、3.5回×100円×8レースで2800円である。10レースとすると3500円の経費となる。これを延べ20日間おこなうと56000円から70000円の経費となる。先に紹介した20回の当たり馬券というのは、20日間の中での当たり回数です。平均すると1日1回ぐらいです。当然当たりがこない日もあります。逆に2つの当たりがある日もあります。平均当たり馬券を5500円とすると、回収額は110000円となる。しかしこんなうまい話があるでしょうか。どうも疑心暗鬼になります。ではこれを半分の10回の当たりとみると、回収額55000円となります。ここらあたりが損益分岐点となります。これ以下の場合は競馬をしないほうがよいということになります。土曜日と日曜日に16レースから20レース(56回から70回)の投票で、1回当たればよいということです。できれば2回当たれば申し分ない。これ以外に問題になるのは、馬券を購入できるのは出走1分前までです。しかしこのオッズはレース1分前までどんどん変化しているのです。いかにレース直前で多くの人が投票しているのかよく分かる。50倍台のオッズがレースが終わった後、よく調べてみると40倍台に落ちていたということが発生する。当初の狙いからずれてしまうのです。これでは目標管理ができなくなる。それをできる限り防止するには、エントリーはスマホで行う。出走3分前に条件の確認を行い、2分前から1分前までに手早く投票を行うことが欠かせない。それを過ぎると無情にも締め切り時間になりはじかれてしまう。この確率論に基づいた投票が吉と出るか凶と出るか紙一重のところだと感じている。そうはいっても宝くじよりは相当の確率が期待できます。友人にこの方法を説明したところ、そのやり方は邪道だと言われた。友人は競馬新聞を丹念に見て、軸馬を決めて流しで買っているので話がかみ合わないのだ。友人は競馬をこよなく愛していて、昔から楽しんでいる。そういうのもありかなと思っている。仮説を立てての検証作業はいくらでも工夫の余地が出てくるので、結構面白いものです。あまりにものめりこむことだけは避けながら、確率の世界を極めて楽しみたい。実際に買わなくても、土日楽しむことはできます。
2021.04.05
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観念哲学を唱えたヘーゲルというドイツの哲学者がいます。ヘーゲルは、止揚(アウフヘーベン)という概念を作り出しました。どんなものかというと、先ず、ここに、ある考え方が一つあるとします。ドイツ語でいうと、テーゼ(正)です。一方、反対の考えがあります。アンチテーゼ(反)です。そして両者の対立が生まれて、どちらかがどちらを打ち破る、というのがそれまでの構図でした。でも、ヘーゲルは違います。対立するのではなく、それぞれが止揚(昇華)して新しい考えを生む、と考えたのです。分かりやすく言うと「正・反・合」の三角形をつくるといってもいいでしょう。それがヘーゲルのいう「止揚(アウフヘーベン)の考え方です。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 39ページより引用)これは森田理論でいうと精神拮抗作用のことだと思います。人間にはある欲望が起きると、それに従ってそのまま突っ走るのではなく、それを制御する考えが同時に湧き上がってくるというものです。たとえば食べ放題飲み放題の居酒屋での宴会に参加するとき、「今日は思い切りビールや日本酒を飲みたい」と思ったとします。「でも二日酔いになって、明日苦しむのは困るなあ」と欲望を制御する考え方も同時に起きてくるというものです。この制御機能が壊れると、双極性障害の人のようになります。うつ状態の時は家に閉じこもり、不安や恐怖で身動きできなくなります。反対に、躁状態の時は別人のように変身します。つぎつぎと高額商品を買う。壮大で実現不可能に思えるようなことを、自信満々で行動を起こそうとする。とにかく思いついたことを、深く考えないで発言する。発言だけならよいのですが、周りの人を巻き込んで行動に移す。そして財産を失い、人の信用を失ってしまうのです。反動で今度はうつ状態へと落ち込んでいくのです。普通の人はもともと精神拮抗作用が標準装備されています。車でいえばアクセルとブレーキが同時に標準装備されているようなものです。それがないともはや車とは言えません。問題はその機能を、状況に応じて適切に使うことができているかどうかです。たとえば、対人恐怖症の人は人を見ると自分に危害を加えるようで怖い。そのために言いたいことも言えなくなる。我慢する。耐える。そんな人を避けて話しもしなくなる。営業の人は、新規開拓の場合、断られて自尊心を傷つけられることを危惧して、手も足も出なくなり、仕事をさぼることが習慣になる。これらは不安に振り回されて、みんなと仲良く和気あいあいと仕事をしたい。営業で成果を上げて評価されたい。収入を増やして豊かな生活を送りたい。ライバルたちに勝って営業成績を上げたいという欲望という面を無視しています。不安に圧倒されて、欲望がある事さえ感知できなくなっているのです。これでは、双極性障害で苦しんでいる人と何ら変わりがありません。双極性障害は薬物療法で治すことができますが、対人恐怖症の場合は不安を軽減することは可能ですが、根本的な解決策にはなりません。どうすればよいのか。森田理論でいうバランスや調和を意識することです。この場合は、不安に手を付けないで、生の欲望を活性化させることで、少しづつバランスが回復してきます。一旦回復基調に入ったら今度はそれを維持する努力を日々積み重ねることです。私がいつも説明しているサーカスの綱渡りの話を思い出してください。意識づけとして目の前に天秤やヤジロベイを飾ってください。私たち神経質者は意識しないと、すぐにバランスを崩して、不安や恐怖に振り回されるという人種なのです。この調和やバランスの維持は、森田理論の核の一つとなる考え方です。
2021.04.04
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相手を自分の意のままに取り扱うことが習慣化している人は、「かくあるべし」が強い人です。相手はこうすべきである。こうしなければいけない。などと言う考え方で付き合っていますので、相手はたまったものではありません。夫婦でしたら家庭内別居、離婚につながります。それは子どもにも悪影響を与えます。相手の存在、やることなすことを非難、否定、軽蔑、無視している人は、相手を上から下目線で見下ろしてコントロールしようとしているのです。こういう態度で生活している人は、反対に他人から非難、否定、軽蔑、無視されることにとても敏感になります。生きることがつらくなります。どちらにしても、人間関係は対立関係に陥り、自分を護ることにエネルギー投入せざるを得なくなります。神経質性格者の持ち主でしたら、容易に神経症の発症につながります。この征服欲、コントロール欲求は、完全主義、完璧主義、理想主義、目標達成第一主義などと同じようなものです。観念の世界を優先して、それを現実に当てはめていこうという態度です。森田理論ではこのようなかくあるべしを前面に押し出すことが、思想の矛盾(頭で考えていることと現実や事実に乖離が生まれること)を招いて、神経症の発症に結びついているとみなしているのです。この弊害から抜け出すためにはどうすればよいのか考えてみましょう。普段の生活の中で、一つには、他人に役立つことを見つけて実践することだと思います。溺れている人を助ける。線路から落ちた人を助ける。生活に困っている人に援助する。こうした大きな事ばかりではなく、できるだけ小さなことを見つけて実践するという習慣を作ることが大切だと思います。生きがい療法の岡山県の伊丹先生は次のように言われています。1、他人に言葉をかける。挨拶をする。2、自分の持ち物を貸してあげる。3、労力を提供する。例えばごみを拾うとか。4、自分の持っている知恵、情報を提供してあげる。5、他人の話を聞いてあげる。6、暖かい言葉をプレゼントする。日常生活の中で、相手を非難、否定することをぐっと抑える。そして反対に相手に役立つことを絶えず探しているという態度に切り替えるのです。集談会でこんな話を聞きました。バスに乗るとき小銭で支払う人は、事前に小銭を用意しています。あたりまえのことですが、これも人に役立つことだと思います。確かにそうです。高額紙幣では支払えないことがあります。酒屋からビールを配達してもらっているが、そのとき「よく冷えています」というシールが2本張ってあった。これも小さな親切ですね。そんなサービスをしている店がないので余計に感動を与えたのでしょう。サービス業についている人からこんな話を聞きました。一度来てくれたお客様が、何度も来店してくれないと店はつぶれてしまいます。リピーターを増やすことが商売をするうえで大切になるのです。相手の期待値以下の品ぞろえ、鮮度、雰囲気、価格、清掃、接客、駐車場、駐輪場しか提供できないと、リピーターにはなってくれません。当然と言えば当然のことです。消費者は他店のサービスや接客内容などと厳しい目で比較しているのです。反対に悪い噂を近所に拡散するので、やがてお店は立ち行かなくなります。相手の期待を裏切らないサービスを提供していると、なんとか次も来てくれます。しかし、競合店が多いと、他の店で自分の店よりも魅力のある品ぞろえ、接客態度、低価格、鮮度、店の雰囲気、駐車場、駐輪場、清潔感などで差を付けられるとこれまたじり貧になってきます。だから当たり前のサービスの提供だけでは、生き残っていけない時代になっているのです。そこでいかにお客さんにとって魅力のあるサービスを付け加えることができるのかと考え続けることが大切になるのです。イヤイヤではなく、いかに差別化を図り、自分の店の独自性を打ち出すことに情熱を傾けることができるのか。これが勝負の分かれ目となります。従業員のすべてがサービス精神であふれている店が繁盛店となるのだそうです。それらすべてを満たすことは難しいので、この1点だけはどの店にも負けていない。独自で他店がまねができないオリジナリティを打ち出しているかどうかが問題になるのです。むしろそのサービスが抜きんでていて、お客様から感動の言葉をかけていただける。できれば感動で目頭を熱くされるようなサービスを作り上げていきたい。期待値を大きく上回る感動を与えられる店にすることが目標だというのです。こういう気持ちで仕事をしていると、相手に「かくあるべし」を押し付けることはなくなると思います。相手の気持ち、要望に応えていると、相手は気分をよくするので、人間関係が対立することがありません。私たちも相手を意のままにコントロールしたいという気持ちを封印して、何か人様に役に立つことはないか、感動のおすそ分けができないかと考えることで、人間関係は大きく改善できるのではないでしょうか。幸い私たちは小さなことによく気づくという長所を持っています。それを人間関係の面に活用して、人の役に立つ人間になりませんか。
2021.04.03
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冨山真由さんの本から、行動するときに役に立つ話を紹介します。この投稿は「めんどくさがる自分を動かす技術」 冨山真由 永岡書店を参照しています。まずデスクの上の状態は、頭の中の状態と同じです。身の回りが整理整頓されていないと、頭の中も整理整頓されていないと言われています。交通量が多くて、信号機のない交差点に進入したような状態に陥ります。我々神経質者は、発想力、創造力、分析力、鋭い感性の活用などで勝負しなければならないのに、頭の中がすっきりと整理されていないと死活問題になります。宝の持ちぐざれとなる可能性が高くなります。たとえば、机の上には他社の資料やメモ、新聞、雑誌、携帯などが雑然と置いてある。あなたはA社の企画書をまとめながらも、「○○さんにメールしなければ・・・」「経費の精算はまだだった」「この雑誌の記事、面白そう」「今日の飲み会のお店を検索して探そう」などと、余計なことを考えてしまう。集中力が途切れたところでメールの着信に気づき、返信を開始。けっきょく、企画書作りは一向に進まない・・・。机の上が整理されていない人は、バックの中、パソコンのデータ、メールの整理なども不十分の可能性が高い。家庭内でも、冷蔵庫の中、キッチン回り、洋服ダンス、押し入れ、書籍、雑誌や新聞、文房具、領収書類、請求書類、年賀状、郵便物などもきちんと整理されていないのではないでしょうか。それを放置すると、頭の中が混乱していて、必要な情報をすぐに取り出せなくなる。つまり日ごろから整理されていないので、新しいアイデア、気づき、発想力は眠ったままになることが多くなります。神経質性格をプラスに活かすことができなくなるのです。たとえば生活の発見誌ですが、過去のものが山積になっていませんか。配偶者から場所をとるので何とかしてくださいと苦言を聞くことはありませんか。貴重な記事はノートに書き写したり、切り抜いて項目別にファイルして、不要なものは処分する方がよいのではありませんか。その方が、よほど生活の発見誌を活用できるようになります。私はそのファイルを利用して、このブログに取り上げることがあります。テーマ決まれば、そのファイルを取り出して、さらに深く頭の中を活性化することができるのです。何もないところからブログの記事は投稿することはできません。今まで読んだ本や発見誌を項目別に整理して、自分なりに考える習慣を作り上げていることで可能となっているのです。資料を整理することが、頭の中を整理することにつながっていることがよく分かります。ですから、頭の中を整理整頓しようと思っている人は、身の回りを片づけて整理整頓することから始めることが大切になります。まず取り組むことは、不用品を処分することだと思います。とりあえず、もう5年以上活用していないものは、人にあげる。集談会で不用品のリストを公表する。欲しい人にあげる。あるいは交換会をする。バザーやメルカリを利用して処分する。あるいは資源ごみに出す。これらは一挙に行おうとすると、パニックになります。今月は洋服ダンス、来月は本箱、再来月は下駄箱という風に場所を決めて行う。保存しておくといつかは役に立つかもしれないと思っているもので、もう3年以上手付かずというものは、今後も放り投げたままの可能性が大です。そういうものがどんどんと溜まっていくのです。便秘を起こしているようなものです。これをとりあえず1年間かけて行ってみませんか。身の回りがすっきりと整理できた時、あなたの頭の中もきちんと整理整頓できているはずです。すると神経質性格がプラスに発揮され始めるということです。
2021.04.02
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小宮一慶さんのお話です。散歩の途中で富士山に登った人はいない。散歩の途中で、「そうだ、富士山に登ろう」と思いついて、そのまま富士山に登る人はいませんし、登れません。散歩のスタイルだとサンダルばきかもしれませんし、犬を連れているかもしれません。富士山に登るには、それなりの装備や準備が必要です。富士山の頂点に立つ人は、みな「富士山に登ろう」と思って、一歩一歩、歩いてきた人たちばかりです。でも「歩いている」という行為自体を見れば、富士山に登る人も、ぶらぶら歩いている人も、みな同じ歩き方に見えます。みな同じに見える、というところが落とし穴です。隣の人と同じように歩いているからといって、安心してはいけません。その人は富士山を登る人かもしれないのです。富士山の頂上に立つ人は「富士山に登ろう」と思って歩いているから、頂上に行けるわけであって、何も考えていなければ、たいした場所には行けません。人生も同じです。どこかに行こうと思わなければ、ただの散歩のようにぶらぶら歩いて、どこに着いたか分からないうちに、やがて死に至ります。だから目的や目標を持つことが大事なのです。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 114ページより引用)私は、この考え方に同感です。集談会で大きな目標を持てる人は持てばよいし、そうでない人は持たなくてもよいと聞いたことがあります。その考え方には、多少違和感がありました。人間には、他の動物や植物と違うところがあります。大脳が高度に発達しているということです。どんな人間も、生まれながら「考える力」が備わっています。問題点や課題が見えてくる。あるいは興味や関心が湧き上がると、自然に大脳が活動を始めます。問題点や課題を解消したい。興味や関心のある事に挑戦してみたいと考えるようになることは、あたりまえのことです。つまり人間は、大脳を活用し、目的や目標を持って生きることが宿命づけられている生命体であると言えます。目的や目標がなくただ生命を維持しているというのは、人間の宿命に反した生き方をしているということになります。もし人間という生命体の創造主が存在しているとしたら、今度また生命体としてどこかの惑星に生まれるチャンスを与えるとき、現在目的や目標を見失っている人に、人間のような知的生命体に生まれ変わらせるチャンスを与えるでしょうか。犬や猫、猿や蛇のような生命体として、地球のような命に満ち溢れた別の惑星に送り込んでしまおうと考えるのではないでしょうか。つまり人間は、この地球上でいかに高度に発達した大脳をフル活用しているかどうかを試されているのだと思います。ですから、生きている限り目的や目標を持ち続けることは大切だと思います。いきなり大きな目標、夢や希望を持ちなさいと言ってもそれは無理です。森田では行動の基本は、日々の日常生活に丁寧に取り組むことの中にあります。そして規則正しい生活を維持していくことです。一言でいえば「凡事徹底」です。その中で小さな気づきや発見、自信や達成感、感動や喜びをいかに多く積み重ねることができたかが勝負のしどころです。森田理論に沿った生き方を愚直に続けていきたいと考えています。
2021.04.01
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