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火曜日に戻ってきました!ここに行ってました。ここ・・・タヒチです。新婚旅行で南の島に行くのが夢でした。旦那さまと一緒に新婚旅行でダイビングをするのも夢でしたが、残念ながらダイビングは主治医の許可が出なくてダメでした。でもシュノーケリングでも充分なくらいたくさんの色とりどりの魚がいてまるで水族館のようでした。大好きな旅行も、今までは直前になって肝機能が悪化してキャンセルすることも多く、行けてもその後に入院したり、と国内旅行でさえきわどいことが多かったのです。それが、移植後初の海外旅行に行ってこれました!「タヒチに行くまでは死ねない」行く前にこういう話をしていたら、旦那は「じゃあ、行かない」と言いました。大丈夫だよ。行ってきたけど死なない。もっと、もっと、行きたい。もっと、もっと、生きたい。あなたをおいては死ねません。結婚って、そういうことなんですね。最後に、こんな写真も撮りました。結婚式の2次会で着た自分のドレス、持っていったんです。移植してるなんて全然わからないでしょ?今ではこんなに元気になりました私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月30日
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今日からしばらく新婚旅行に出かけます!座っているのさえしんどかったあの頃のことを考えると、こうやって元気に海外へ行けるようになるなんて夢のようです。今まで頑張った自分へのご褒美だと思って楽しんできます!なのでしばらく更新できませんが、許して下さいね(*^_^*)ふうこ私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月20日
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でも私は、その時のことをしっかり聞いておかなくてはいけないと思い、泣きながらも「それでどうなったの?」と続きを聞くことにした。その後、私は透析の機械に繋がれた。体内に回った毒を除去するため、一時的に血液濾過透析を行ったのだろう。(→こんな機械です)このような処置をするということは、この時はもうすでに肝不全だったに違いない。異変に気付いてから数時間で、あっという間に肝不全になってしまったのだ。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月19日
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怖い!そこまでの話を聞いて、私は涙が出てきた。あまりにもショックで、衝撃的なその内容に、体が震える思いがした。…怖かった。大声で泣いた?病院中に響き渡るような声で?苦しそうに嘔吐物を…?どれもこれも私にはまったく記憶のない出来事だった。内心「記憶がなくてよかった…」と思ったが、その状態を目の当たりにしていたお母さんはどんな思いで必死に私の看病をしていたのだろう?お母さんも泣いていたのだろうか?それとも涙が出るのを通り越して、とにかく必死だったのだろうか?それを考えると、さらに涙が溢れてきた。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月17日
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その後、私はナースステーションの横の処置室のようなところに運ばれた。お母さんが言うには、私は顔面蒼白で嘔吐を繰り返し、何か茶色いものをゲボゲボ吐き出していたそうだ…。とても苦しそうに…何度も…何度も。涙を流しながら、私は不気味な色の嘔吐物をいっぱい吐き続けていた…。血が混じっていたのだろうか?お母さんは、私がその嘔吐物で窒息しないように、体を横に向けたりして必死だったようだ。病院のスタッフは近くにいたのだろうが、その極限状態の中、お母さんは一人で、「ふうこ!ふうこ!」と叫びながら必死に私の背中をさすったりしていたのだろう…。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月15日
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お母さんが仮眠室に戻って、再び休もうとすると、私はまたさっきと同じようにむくっと起きて、大声で泣き出した。「わーん、わーん!!」という泣き声とも「うわー、うわー!!」と苦しんでいるようにも聞こえる声で…。同じ病室の人たちはさぞかしびっくりしたことだろう。昼間は静かに過ごしていた私が、急にそんな大きな声で泣き出したのだから…。びっくりしたと同時に、私の身に何かが起こっていることを察して恐ろしかったことと思う…。お母さんはまた私の病室にやってきてなだめたというが、さすがにこれはおかしいと思ったらしく、医者や看護師に伝えたのだろう。その後からだった。私が本当に急変したのは…。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月13日
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病院にトンボ帰りしてきたお母さんは、いったんおばあさんと交代し、その日は私の会社の寮には泊まらずに、病院のどこかにある仮眠室のようなところに泊まった。その病院も完全看護だったが、何かの勘が働いたのか、その日はついていたほうがいいと思ったのかもしれない。その勘は当たった。夜、静かな院内で、私は急に大きな声で泣き出したのだった。それも、病院中に響き渡るような大きな声で…。その泣き声を聞きつけたお母さんは、仮眠室から慌てて飛んできて、大声で泣く私をなだめたという。お母さんもその時はまだ“肝性脳症”の知識も何もなく、ただ単に、私が急に不安になって泣き出したのだと思ったそうだ。(病院からの“劇症肝炎”とか“肝性脳症”とかの説明はまだなかったものと思われる…)お母さんが「大丈夫、大丈夫!」となだめると、私はまた「うん、うん」とうなずいて再び眠ったという。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月12日
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私の場合、そのような異常行動はなく、ただ単に眠りこけていただけだったので発見が遅れたのだろう。私自身、最後に覚えているのは、(→前記事参照)ポータブルトイレがベッドの脇にあって安心して「あ~、よかった」と思ったことで、歩いてトイレにも行けないほどだるかったのに、それを誰かに訴えたりするほど頭が回っていなかった。その後から、私の様子は急変したらしい。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月10日
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何よりお母さんは「数値がよくなってきている」と先生から聞いていたので、まさか急変するなんて思ってもいなかっただろう。その時点ではおそらく、病院の先生も急変することは予想がつかなかったのだと思う。私の病名“劇症肝炎”は、その名の通り、劇的に症状が悪化することを意味している。そして、なぜ、どういう患者がそのようになるのか原因がはっきりしない為、国の特定疾患として難病指定を受けている病気である。入院中、だんだん眠る時間が増えてきて、一日の大半寝て過ごすようになり、起きていてもぼーっとしていたのは、肝性脳症の症状が出てきていたためだった。“肝性脳症”とは、肝臓が働かなくなってきて解毒作用ができなくなり、毒(アンモニア)が体内に回ってそれが脳に達した時に起こるらしい。人によっては、化粧品をゴミ箱に捨てたり、変な行動を取ったり、肝性脳症特有の「羽ばたき振戦」という、手を羽のようにバタバタさせる行動をとったりするようだ。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月09日
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前にも書いたかもしれないが、そういえば、私はお母さんが帰っていったことをよく覚えていない。お母さんが言うには、「お母さんいったん帰るね」と声をかけると、私は、うんうん、とうなずいていたという。おそらくぼーっとした感じだったのだろうが、寝ていた私に声をかけて、単に寝ぼけていると思ったのだろう。2度お見舞いに来た、親戚のおばちゃんや同僚の酒田さんも、2度目は「なんだかぼーっとしているな」とは思ったものの、まさか症状が進んでいるとは思わなかったのだろう。その頃の変化といったらそれくらいしかなかった。素人目にはとても判断がつくようなものではなかったに違いない。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月08日
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私自身、自分の意識のない時のことは気になっていたが、おそらく肝移植をするくらいなので想像を絶する大変さだったのだと思う。それをお母さんに思い出させるのは申し訳ない気がして、なかなか自分から尋ねることはできなかった。お母さんはお母さんで、「徐々に話すね」とは言っていたものの、私がショックを受けるのではないかと心配して、少し落ち着くのを待っていたらしい。個室に移って、気持ち的にも少し安心したのか、お母さんはその時のことを話してくれた。 * * *川口の病院に入院してしばらくは、お母さんが私に付き添っていたが、私の様子が特に変わりなく、肝機能の数値も「よくなってきている」と聞いたので、少し安心して私の看病をおばあさんと交代し、お母さんはいったん名古屋の実家へ帰っていったのだった。しかし実際は、お母さんが帰った直後から私の様子はおかしくなり、お母さんが名古屋へ着くやいなや、病院の看護師さんから電話がかかってきて、「なんでこんな時に帰るんですか!?」と怒られたらしい。しかし、お母さんも、そんな大変な事態だと解っていたら帰るはずはない。その看護師さんの言葉を聞いて、一瞬何のことかわからなかったという。それもそのはず、お母さんは、“私の様子が特に変わりなく、肝機能の数値も「よくなってきている」と聞いた”から帰っていったのだ。お母さんは訳がわからなかったが、とにかく看護師さんがそう言うのでトンボ帰りで病院に戻ってきたそうだ。私はより多くの方々に臓器移植のことを知ってもらいたくてランキングに参加しています。ランキングが上がると多くの人の目に触れます。多くの人の目に触れると臓器移植に対する関心が高まります。臓器移植はみなさんの善意があってこそ成り立つ医療です。今すぐにでも移植しないと助からない命があります。クリックは一人につき一日一回有効だそうです。どうかよろしくお願いします! ↓ ↓
2006年06月07日
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それが個室に移って一日目のことだったのか、はたまた数日経ってからのことだったのかよく覚えていないが、「それ」は私にとって衝撃的な事実だった。個室に移って初めて、私は自分が意識のなかった時のことをお母さんの口から聞いたのだった。↑少しでも臓器移植について考えていただけたらクリックお願いします!
2006年06月06日
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昨日、お通夜に行ってきました。同じ時期に会社に入社した同期の男の子が亡くなったのです。急性骨髄性白血病だったそうです。。。一度は回復に向かったものの、再発してしまったとか…。彼にはもう数年会っていませんでした。会社に入社した当初は仲間内でよく飲みに行ったり、わりと仲良くしていたのですが、部署が変わり、みんなバラバラになって連絡を取らなくなってしまいました。30前後といえば、男の子なら一番いい時期です。これから結婚もして、子供も作って、幸せな家庭を築くこともできたでしょうに…。私は彼が亡くなるまで、病気のことも全く知りませんでした。せめて生きている間に会えたなら…。もし病気のことを知っていたらお見舞いに行きたかった…。闘病中の苦しさ、死への恐怖は誰よりもわかっているつもりです。彼は再発してからもそのことを周囲には言わなかったそうです。周りのみんなを悲しませたくなかったのでしょう。一人で死への恐怖に耐えていたのでは、と思うと胸が締め付けられます。言えば周りはどう接すればいいのか困り、離れていくかもしれない…。言わなければ自分の心の中に閉じ込めておくしかない…。家族には悲しませたくないので言えない…。彼は芯の強い人だったので、きっと泣き言は言わなかったことでしょう。死と向き合うような病気は孤独との戦いでもあったのではないでしょうか?彼がどんな思いで最期の時を向かえたのかわかりません。とにかく会社に復帰するため頑張っていたそうです。働きたくても働けない、生きたくても生きられない…。それに比べて今の私たちは贅沢だとは思いませんか?私はずっと彼のことを忘れないでいたい。優秀な、優しく穏やかな人でした。どういう因果か私は今日も生きています。彼の分まで頑張って生きていきたいと思います。心からご冥福をお祈りいたします。↑少しでも臓器移植について考えていただけたらクリックお願いします!
2006年06月04日
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つけっぱなしのテレビでは、朝から延々とテロのニュースをやっていた。初めは画面を凝視して見ていたが、何度も同じ映像が流れ、どのチャンネルをつけてもそればかりで、テレビを見る以外何もすることのなかった私はだんだん飽きてきてしまった。私はすでにそのニュースにも飽きてきていた(不謹慎にも…スミマセン!)というのに、南田先生は、朝個室にやってきたとき、「なんかアメリカですごいことになってるね!」と興奮気味に話していた。「そんなの昨日から知ってるよ~」と答えたが、先生はニュースを見る暇もないほど忙しかったのかな、とも思った。↑少しでも臓器移植について考えていただけたらクリックお願いします!
2006年06月02日
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個室でも重湯にちょっと固形物が混じったような食事が出たが、最初にICUで食べたほどの感動はなかった。人間とは贅沢なもので、「食べたい、食べたい」と思っていてそれが達成された時はとても満足するのだが、いったん満足するとそれ以後同じものが出ても、慣れてしまってさらに上のものを求めるのだな、と思った。もう重湯にはおいしさを感じられず、食欲もさほどなく、少し食べただけで残してしまった。朝のバタバタが過ぎ去って、お昼すぎになると、少し静かな時間がやってきた。ICUでは外の景色がまったく見えなかったので、個室に移れば見えるかと思っていたが、私がベッドに寝た状態では、窓は見えるが空しか見えなかった。早く起き上がれるようになって外の景色を見たいと思った。↑少しでも臓器移植について考えていただけたらクリックお願いします!
2006年06月01日
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