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ネタバレしてますので、映画を見てから、読んでください。みていると思いっきりチョコレートが食べたくなりますね。だから、ダイエット中は見ないほうがいいんだよね。とろーりとろけたチョコレートが川になり、滝になって工場の中を流れているなんて、こないだ、テレビでみたプリンセステンコーのチョコレートフォンデュの泉よりすごいよね。チョコレートはこどもにとっても大人にとっても魅力的なお菓子だから、そんなものをつくっている工場のなかにある秘密ってなんなのっと思わずみたくなるタイトルはさすがだ。しかし、チョコレートの色はいいとして、工場の中のものは全てお菓子でできているのだけけど、その毒々しいまでの色はさすがにちょっと…。アメリカに行くと実際ああいういかにも体に悪そうな着色料をたっぷり使いましたという感じのお菓子がいっぱい売っているので劇中のお菓子の色はかなりリアルなんだよ。見ていて気持ち悪くなってくると言うか、どうみてもおいしそうに見えなくてファンタジーというより、アメリカのなまなましい現実をみているようで。ゴールドチケットを当てた五人の子供達を見ていても、子供の幸せは親の財力でほとんどが決まるんだといわんばかりですよね。本来運の良さだけで引くはずの公平に手に入れる事ができるように思えるゴールドチケットは実際には金に糸目をつけずにチョコレートを買い占めることで、手にいれていたりする。後は本当に抜群頭のいい男の子。頭のよさを使って見事にゴールドチケットを手にいれています。頭の良さはこんな風に人生のラッキーを導くことが出来る。そして最後のひとり、チャーリーはまさに運のよさだけで、ゴールドチケットを手に入れていて、世の中にはやっぱり運も馬鹿に出来ないなあと思わせてくれる。それにしてもチャーリーは拾ったお金で買ったチョコレートでチケットを当てている。世の中馬鹿正直だけではわたっていけないんだぞと言わんばかりである。拾ったお金は交番へ届けるべしとは言ってもこんな小額のお金を本当に届ける人はいるんだろうか。ある程度の高額ならわかるとして、ここまで小額なお金を届けられても交番は迷惑なだけだし、届ける人もほとんどいないだろう。拾ったお金でためらわずにチョコレートを買うあたり、やはり世の中をわたっていく周到さをちゃんとチャーリーは身につけていると言うことだろうか。しかし、親の力や頭脳や運によって工場の中に入る権利を得る事は出来たとしても、その先はやっぱり子供自身の実力がものをいうわけですね。工場の中で見学しながら、子供達の一人づつが自分達の未熟さやいやしさや幼さや判断力のなさを露呈して、順番に脱落していく。素直に「チョコレートが好きだよ」というチャーリーは目の前の誘惑に惑わされることなく、他の子供達が脱落して行く中で思慮深く謙虚な態度でとうとう最後の一人となり、ウイリー・ウォンカからチョコレート工場を引き継ぐ権利を獲得することが出来る。それにしても、ゴールドチケットをあてたのは嘘だったというエピソードに使われているのがロシア人。子供向けの映画のこんなところですでに幼少期から、ロシア人にたいして悪いやつだと言う意識を知らず知らず植え付けようとでも、いうのだろうか。なんともアメリカ的でいやらしい事この上ない。日本もふくめ世界中に売られたはずのチョコレートのチケットを当てているのが全て白人種なのもいただけない。原作では世界中なんて考えてなかっただけ?そしてチャーリーも家族が大事だから、と工場はいりませんと断りながら、最終的には工場もらってるし。家族は大事なんだよという最終テーマのわりにアメリカ人て現実には離婚ばっかりしていそうだ。大人になっても離婚なんかしないで家族を大事にしてほしいというメッセージなのだろうか。なんだかんだ言いながら最後にはチャーリーは工場をもらっていて、ラストでは家族で豪華な食卓をかこんでいる。前半父親や祖父が一生懸命働いていながら、結局ずっと貧しいままの一介の労働者である事や、最後にチャーリーが工場経営者という資本家サイドに転換してハッピーエンドとなるということは、やっぱりまじめに労働者やるより起業して資本家になったほうが人生断然いいんだよっと言わんばかりのアメリカの資本主義を、こんな子供向け映画の中にもたっぷりと表現してあって、アメリカってこんな小さいうちからすでにこうやって子供達を洗脳していくんだろうか。そしてその映画をありがたく輸入して我が子にみせている日本もやっぱり、アメリカ的思想にどっぷりと使って生きていて、特に疑問もなく映画を見ちゃっているんだよね。ちなみにうちも子供に見せちゃいました。昔、ディズニーランドにはじめて私の父と行った時、ディズニーランドの中を見て父が、「資本主義のいやらしさがたっぷりだ。」と言った数十年前の事を思い出してしまった映画でもあります。ディズニーランドを見て、父はわくわくするような楽しさや夢やファンタジーなんてものは感じなかったと言うことだろうか。まあ、娯楽として単純に気楽に楽しむ分にはよく出来た映画であります。
2006年03月31日
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いやー。ブログをはじめてしばらく休んでたけど、またゲームはじめちゃいました。そして、やっとクリアー!『ワンダと巨像』はあの『ICO』と同じスタッフなんだそうで、雰囲気もそっくりで世界観もにてますね。『ICO』も、『ワンダと巨像』もゲームオブザイヤーというありがたーい賞をいただいちゃってる名作ゲームなんですね。 茫漠たる荒野を黒い愛馬で駆け抜ける。本物の馬そっくりの動作のひとつひとつ。すごいね。最近のゲームは。失われた恋人の魂を取り戻すために「いにしえの地」を訪れた主人公ワンダ。恋人の魂を取り戻すためにはこの地に眠る十六体の巨像を全て倒さなければならない。というのでアクションゲームに近いけど、あまりハードなアクション系ではなかったので、なんとか私でも、クリアーする事が出来ました。 まったく、春休み子供が宿題やってるその横で母はこんなことしている。いいのかなあ。 巨像を倒しながらプレイヤーはみんな、本当にワンダはこんな事していいのか?とか思ったはずです。もしかして封印された悪の存在を開放しちゃってるんじゃないのか?もしかしてラストはバッドなエンディングなんじゃないのか。最後にワンダはどうなるの。もしかして死んじゃったりしないのかな。なんて事を考えながらラストクリアーそしていよいよ感動のエンディング。 思いがけないエンディング。いいようなわるいようなよくわからないエンディング。とにかく含みが多くてこれっていったいどう解釈するの?とみんな考えたみたい。まあいい結末ではあったけどね。 それで攻略サイトの掲示板では、エンディングの自己流解釈が花盛り。ってわけで、私も自分なりのエンディングを考えてみました。 その1十六体にも分けて封印したのに、今回なぜ剣を落とすだけと言う結構楽そう?な方法でやっつけることができたのか。実は前回封印した時より、司祭エモンの魔力が封印していた年月の間にレベルアップしていたから。前回は力不足のためドルミンを完全に倒す力がなかったので、やむおえず十六分割して巨像に封印する事で、とりあえず事をおさめた。今回レベルアップした司祭エモンは完全にドルミンを倒すために一度封印を解く必要があった。そこで、内密にワンダに(真意は告げずに)ドルミンの封印をワンダが解いてくれるように、恋人モノの命をとりもどせる場所がある事を教えた。ワンダが旅立った後、村の精鋭のメンバーを集め、今度こそ本当にドルミンを完全に倒すために、エモンもまたいにしえの地にやってきた。到着したまさにその時、封印が解かれ、再生したドルミン。そしてパワーアップした魔力によってこんどこそ本当にドルミンを倒すことができたのです。ドルミンがたおされ、呪いの解けたモノは魂を取り戻して生き返る。しかし、あまりにも激しい魔法のためワンダはエモンの力でぎりぎり消えずにすんだ。本来この世にいないはずの二人は村に戻る事はできない。そして二人は楽園で暮らす事を許される。さらに、ラストでの階段で初回クリア時は無理でも、タイムアタックで手に入れた強化アイテムを装備していればもしかして、剣による封印時に耐え切る事ができれば、ワンダの中のドルミンだけが泉に吸収されて完全に封印され、ワンダは人に戻る事ができて、いきかえったモノと再会できたかもしれません。こうなればほんとにハッピーエンド。 その2司祭エモンは悪者だった。実は司祭の姿をした悪魔であるエモンによって生贄にされた村人達の魂の一つ一つが、封印されているのが巨像なのである。その最後の一つになるはずだったのがモノの魂であった。十六の魂を集める事で何かをしようとしていたエモン。巨像に封印されていたはずの者達が人の形をしているのはもとは人間だったから。しかし生贄として殺された彼等には自分がだれなのかわからない。だから真っ黒。自分達を殺したエモンへの怨念によって黒い人影のみとなったかつての村人達の怨念はワンダによって開放された。そしてエモンへの復讐という共通の意志によって一つの終結した形をとり、ワンダの体をかりてドルミンとなって司祭エモンを殺そうとする。ゲーム初回クリアの時点ではまだ無理なのだが、ここのシーンでうまくエモンをやっつけられれば、そして、タイムアタックによって入手できる数々のアイテムを装備できれば、エモンをたおす事ができるかもしれなかったかもよ。そして、ホントにハッピーエンド。悪魔エモンを倒し、村人達の魂は浄化されて、昇天し、闇の魂にとらわれたワンダはもとのワンダに戻り、最後の十六体目の巨像となるはずだったモノの魂はまだ闇にとらわれていなかったので、彼女の肉体に戻る。実はワンダにこのいにしえの地の事を教え、そっといにしえの剣を渡したのはエモンをいつかは倒そうと考え、弟子のふりをしてエモンに従っていた村人のひとりだった。悪魔エモンを倒し、恋人モノはいきかえって、無事ハッピーエンド。というアナザーエンドを想像して見ましたが、アナザーエンドはないらしい。でも、プロデューサーは考えてなかったかもしれないけど、ポケモンのミューのように製作スタッフの人がそっとプログラムをしこんでいたりするかもよ。ラスト、ドルミンとなった時にエモンをぶったたくんだ。そうすればグッドエンディング。なんてのを用意してくれてもいいじゃんか。 とにかく終わった。でも、今二週目やってます。はい攻略サイトその1攻略サイトその2
2006年03月30日
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子供を生むということはやはり女と生まれたからには、あるいは結婚したからにはこなさねばならない、あるいはぜひこなしたい命題だ。 しかし、実際には子供ができないという残酷な現実もあるものだ。私のしりうる御夫婦でも、大体十組に一組くらい不妊に悩む夫婦がいるかなというのが現在の私のリサーチ結果である。 だから子供を授かる事の出来た幸運を私はつねづね感謝している。子供を産んで育てるというのはしんどい事ではあるけれどもやはりこの上なく楽しい。 そして女にとって子供が出来ないということは他者には想像できないほど、辛い事だろうと思う。 ところでこの本の作者の新井素子さん。不妊で悩んでおられる様子。エッセイを読むと明るく書いてはあるんだけれど、やっぱり子供が出来ない辛さが書いてあって、どうにもならない事に気にするまいと思いつつ、エッセイの表面に出てこない長い苦悩の日々があったのだろうと思う。 しかし、作家と言うのはすごいもので、そういう自分自身の人生の苦悩を作品創造の源泉にしてしまうのである。転んでもただでは起きないというか。 で、この『チグリスとユーフラテス』という話は、移民惑星における移民、人口増加、人口減少、移民した人類の移民星においての滅亡、を書いたものなんだけれど、作者に不妊の問題がなければ、この物語は生まれなかっただろうと思う。 私はすでに作者が不妊に悩んでいる事を知っている状態でこの本を読んだので、小説の中の随所に作者の苦悩と苦痛の思いが物語の形をとってあるいは登場人物達の語りや表現や行動によって、語られているのである。 男性がこの物語を読んでその作者の思いがどこまで理解出来るだろうかとも考えてしまうのだけれど。 移民してきた人類はだんだんと星に生活の根をおろし、人口は増加していく。子沢山と人口増加による過酷な労働の疲れから我が子を失う母親。自分の生きた証を残そうと必死に絵画制作にとりくむ女性。 そしてやがて人口減少へと移民星の歴史も進んでいく。少子化にあせりはじめる政府。やがてどんどん減り始める人口に、政府は子供を生める女性に対して政府を挙げて援助しはじめる。それでも止まらない人口減少に子供を妊娠していると言うだけですでにVIP扱いにさえなりはじめるのだが、やがて子供は惑星最後のひとりとなっていく。全ての人類が死に絶えていき、星に残った移民団の最後の一人もすでに老年期となり、死を待つばかり。誰もいない惑星でたったひとりですごさなければならなかった人生はなんとさびしく悲しいのだろう。 自己存在の表現のための絵画などすでにその存在すらむなしく、人類が絶えてしまった先にそんなものに何の意味があるだろう。子供を残すためにひっしになったかつての母親達も、人口減少に歯止めをかけようとした政府もいまはなにもかもその意味もない。 たとえ一言だけの会話だけの出会いでも、あるいはまったく接点のない人間関係であろうとも、ただ、惑星上に同じ人類として存在してくれるだけでも、よかったのに。 すでにこの惑星には誰もいない。たった一人最後の人類である、主人公を除いては。 私達女性が今持っている数々の女としての人としての悩みの一つ一つが、どんな意味を持つのかこの小説は語っているのです。 そして、作者の「子供が出来ない。それがだからいったいなんなんだよ」という声のない叫びが物語の中から聞こえてくるようなのです。 さて、ネタバレしちゃいましたが、たかが記事一つですから、全てを書けるわけもなく、本を読んでいただければ作者新井素子が語ろうとしたたくさんの思いに出会うことができると思います。 ずーっと書きたいと思っていたネタでした。やっと書けました。すっきり
2006年03月29日
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読売新聞でくれるうすーい雑誌の中のエッセイを読んでいたら、なんとフランスでは最近出産が増えているんだそうだ。で、なんでかっていうと国が大々的に補助し始めたらしい。結婚しない事実婚の母がどんどん子供を産み始めたらしいのだ。そして、子供を四人産むと働かなくても、充分暮らせるくらい国が経済的に補助してくれるらしい。さすが恋愛最先端の国、フランス。よくわかってらっしゃる。でも、経済的に国の予算が破綻をきたしたりしないのかな。 少子化問題はわが国でも、いま政府が必死になっているテーマだけどね。 でもまあ、子供が減る最大の理由はやっぱ一夫一婦制の完全固定化でしょうね。 だって一人の男と一人の女がペアになって二人の収入、基本的には男の収入で子供を育てなきゃいけないんだもの。でも、実際には男の収入ってのはぴんからきりまであって、金持ちの男の家庭は教育費かけられるけど、教育費かけられない稼げない男だっている。稼ぎのある男から、稼ぎのない男までいる。それが全部同じ条件つまり夫婦二人で子供を育てるとする。必然的に収入の少ない家庭はどうしても子供を多くは作れない。じゃあ金持ちの家がその分子供をたくさん生むかといえば、そんなことはない。というか金持ちの家庭と言うのは結構子供が少ない。一人というところも多い。収入があっても子供は少ない。それで、収入がないと子供は多く育てられないから、当然産めない。これでは子供が減っていくのは無理ありません。普通の家庭だって多くは産めません。だって子育てって本当にお金かかりますからね。 それで昔は一夫多妻制だったわけだ。金のあるかいしょうのある男が女を多く引き受けて養って、子供もつくっていたわけだ。いやでも、昔はビンボーニンも子沢山でしたね。教育にお金かけようとか考えてなかったから。だけど、今は子供にお金かけなくていいやなんて親は減ってきたわけで。でも、だからといって、いまさら一夫一婦制から一夫多妻制にするわけにもいかないでしょう。道徳心とか、プライドとか、倫理観とかもう一夫一婦制でできあがっちっゃてますからね。 そうなると結局金のある男がかつて女をたくさん引き受けて養っていたように、その多くの収入を子育てにまわしてもらうしかない。奥さん無しで。で、税金をとおして子供を育てている保護者に回していただくしかありません。 これがつまり社会全体で子供を育てるということで。フランスがやってるのもつまりはそういうことなわけだけれど。 よく、アジアとか、アフリカ、南米の奥地の未開に近いようなところにある村なんかが、村じゅうで子育てしてますよね。子供を実質育てるのは母だとしても、経済的な補助、食料や住居の提供は村全体でしているようなところがありますね。 こういう事を国単位でやるしかない。倫理観と一夫一婦制を守った上で子供を増やすにはやはり独身税なりなんなり子育てしてないところからまわしてもらわないと実質無理なんですね。 そんな事言ったって好きで独身なわけじゃない。とか、言われそうですが、それとこれとは別。だって独身のあるいは子供のいない方達の老後を支えるのは子供達なんだから。将来の年金稼ぐのも将来の社会を支えるのもこの子供達なんだから。子供なしでも、老後の面倒は誰かに見てもらわなきゃならないでしょ。 もし、みんなが子供をつくらずにただ働いているだけでは将来どうするのでしょうね。子育てに使う労力を全部労働にまわせば確かに今の税収は増えるかもしれないけどさ。世界中から子供がいなくなったらば。というわけでお国も必死なわけだけど、高校生だろうと独身だろうと子供が出来たら、産んでもいいよ、あとは面倒みるよ、というところまで行くとちょっと極端かもね。でも、いつかそんな時代がくる可能性はありありだ。 実際小学校から大学まで一切授業料がかからなくなったらほんと助かります。出産とか食事とか衣類はなんとかなるとして学校代だけははんぱじゃないからね。それはいい学校に要れて将来稼げるようにしたいからとかいうレベルじゃなくてとりあえずとにかく学校出さないとぐらいでも、それでもとにかくお金かかるんだよね。社会全体で教育費の負担をしないと無理だって言いたいんだ。 ところで国家が全部子育てをめんどう見ようとしたら、やっぱお金持ちから税金はらってほしいんだけど、お金持ちから税金とろうとすると、お金持ちって外国に逃げ出しちゃうんだよね。 あるいは資産を外国に移しちゃったり。 だから日本国籍であるかぎり、外国にいようと、外国に資産があろうと納税しなきゃいけないとか、日本に滞在しているときの所得には課税するとかとにかく外国逃げをさせないようにしないと無理だろうな。でも、それって国際レベルでやらないとならないし、世界的な協力が必要ですね。 ちなみに世界が一つの国ならば、外国逃げによる納税逃れはできなくなるのになー。 世界統一と出産増加の道のりは遠い。 ところで消費税上げたいそうですね。そんなことするとますます少子化になるよ。
2006年03月28日
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こないだも『女王の教室スペシャル』なんかやっていて、もう盛り上がっていますね。 誰も言わない本音をズバズバ言ってくれるところがもちろんうけた理由なんだけどね。 でもね、このドラマ、マヤが悪魔のように見えて、すごーく怖いわけなんだけど、じゃあホントにこわいのかっていうと、いやそれがね。このドラマを最後まで見てると学校という枠の中でだれが一番こわい存在かっていうとやっぱりなんといっても保護者だ。というのがとーってもよくわかるドラマですね。あれだけこわーいマヤが結局いつも一年もたたずに教職をクビになってしまう。 とにかくなにかあるとすぐ文句を言いにのりこんでくる母親達。普段仕事だとか言ってろくすっぽ保護者会にでてこないくせに、子供がちょっといじわるされたとなると待ってましたとばかりに苦情をいいにやってくる、保護者たち。そのくせ学校運営にはちっとも協力しないし、役員決めには知らん振りをきめこむし。子供が忘れ物をしてても授業を邪魔していてもクラスを荒らしていてもまったく気づかない親はホントに見事に気づかない。それでも、苦情のためには仕事も休んで学校にやってくるわけだ。今の学校においてなにが怖いって保護者ほど怖い存在はない。 保護者に詰め寄られて苦情に顔をひきつらせるマヤ先生。 どんなに一生懸命仕事をしても、子供のためといろいろやっても保護者のツルの一声でオシャカにされる今の学校教育と、先生達。 子供を学校に通わせてなんども先生と話をしていると、先生達はとにかく親の機嫌を損なわないように怒らせないように気を使っているのが分かります。 もちろんこのドラマのように母親達が徒党を組んでどどっと学校におしかけるなんてほどひどい状況はさすがにまだ経験ないですが。 ところで今どきの親はどうして大事な我が子を預かって面倒見てもらっているにもかかわらずこんなに学校を目の敵にするんでしょう。結構先生なんてきらいという人多いですね。 そして昔の親は「とにかく先生の言うことは聞け」と言ったのが今の親は…という批評が多いですが、本当でしょうか。私の親は戦時中世代ですから、学校教育すらままなりませんし、その前の世代は大卒は珍しいですから学卒であるだけで先生は尊敬しうる存在でした。 でもね、今の親って言うのは、今の学校教育を受けて育った世代。つまりその前の親の世代とは違う。学校の裏を知りぬいているんだよね。先生と言うものがそれほど尊敬できる人間じゃないことも、学校の頃に数々の我慢を強要されてきた事も、ものすごく理不尽な事を言われ続けてきたことも。 先生の態度に腹立たしい思いをしながらも、ただその時さからうと言うことを思いつかなかっただけで、親に言われておとなしくいうこと聞いていたわけじゃないんじゃないのだろうか。 そして、いざ自分が親になって我が子を学校に通わせる段になった時なにしろ学校の事情をよーくわかっているのですから、「先生の言うことはきちんと聞くんですよ。」なんて白々しくて言えません。 そして、数々の昔の苦痛の日々はまだまだ覚えていますから、保護者という権力を握って見た時、かつてのただの子供だった自分とは違う先生に向かってたっぷりと文句も言えて昔の屈辱とうらみを仕返し出来ちゃうという今の自分の立場にきづいちゃったのですね。 先生の質が昔とかわったかどうか、でも、仕返ししてるはずの相手は昔の先生達ではなく自分達と一緒に学校のクラスの中にいた同胞だったはずなんですけどね。 ところでイマドキの公立学校の保護者会。ほんとーに出席率悪いです。 普段あまり学校に参加せずに何もしらない状態でいきなり怒鳴り込む前に学校をよく見て実際のところどうなのか、考えてからにして見て欲しいです。せめて、母親を雇っている会社側は、社員やパート職員から保護者会の出席やそのほかの教育のための行事への参加のための休みを要求されたら、きちんと休ませて欲しいです。 あるいは政府も子育ての施策として保育園や出産補助金も結構ですが、親が我が子の教育のために仕事先の休暇を取らせなければならないとき、取りやすくなるように政策を考えていただきたいと思います。 そして社会の世論も、仕事の効率以上に教育のための休暇に理解を示してほしい、あるいは休みを取って当たり前、と言うような世の中なるように変わっていくように手伝ってください。今回ちょっときつめの書き方多いです。不愉快な部分もあると思います。わかってるんだけど、書いちゃいました。御容赦ください。
2006年03月27日
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今の世の中なんでも、数字なんだなあとため息がでてくる最近。 なにしろ先日、中学校の個人面談でイマドキの高校受験の話を聞いていても、教科以外の部分まで数字に変換するのである。英検三級で一点プラス、漢検でも、一点プラスとか、生徒会長やっても大して加点されませんよとか、普段の行動もABCで判定されるし、忘れ物もうかうかできないらしい。部活の態度とか出席率もやっぱり評価されるんだろうか。昔の生徒達が学力だけで評価されたくないといった結果がこれ。人間性も努力も道徳観も良心もみーんな点数に換算されて受験で評価されるらしい。これじゃ学力試験で選抜されていた昔と何が違うのか。相変わらず数字で人を評価しているんだからぜんぜん変わんないジャン。と思ってしまったのでした。 会社なんかの経営でも、よく対前年度比数パーセントアップなんていってるけどそんなにえんえんえんえんあげていくの無理じゃないとか思う。利益が多いからいい会社なのかな。給料多いからいい男ですね。 今は随分科学技術も進んできたし、だいたい食品の生産も追いついてきて、それなのにどうして、なんでもかんでも数字で考えないと気がすまないのかなぁ。無理があると思うよ。 GNPやGTPもあげ続けてなんかいいことあるの。 給料上がっても、物価も上がるから意味ないし。 最近は給料下がってて、しかも、物価だけあがりそうな気配。 こわいっすね。
2006年03月26日
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娘をとりあえず春期講習に行かせることにした。 その後とりあえず数学だけでも行かせようかとも考えている。 塾を選んだ理由はとにかく近い事。送り迎えは出来ないし、夜遅くに帰ってくることを考えると遠くには行かせられない。 しかし、いざ塾に行かせる段になって、途方に暮れた。たいがい塾と言うのは小さいところは別としてレベル別に上と下の2コースがあるものだ。どうしますかと言われて微妙に悩んだ。 上にいれて難しかったり厳しかったりすると困る。かといって下にいれれば大体どこの塾でも、ベテランじゃないへたくそなあるいは新米の先生を担当させているものだ。それじゃあいったい何のために塾に行かせるんだか。 イマドキの公立中の世界はとにかく出来る子は私立に流れているので学校内の順位がいいからと言ってじゃあ子供が勉強の出来る子かというと怪しいのである。 明らかに出来る秀才じゃないのはわかるとしてそんなに馬鹿でもない。そこそこはいいらしいのだが、そればじゃあ全体値の中でどの程度のものか、とにかく分かりにくいのである。 公立はとにかく世の中の子供の全体の中でだいたい真ん中から半分くらいで構成されている。その中で出来ますと言ってもたかがしれているんだけども。 それはそれとして娘の塾コースをどうしようかと悩んでしまった。 もちろん公立にもダントツ頭のいい子も残っていて、そういう子はもう、難関私立向けのめちゃ難しい塾に行っているのだから、娘を入れた塾の上のコースのレベルなんてたかが知れている。 それでも、娘の能力値が微妙で親は悩むハメになっている。 受験が終わった後で塾に入れとけば落ちなかったかもとか、後悔したくないなと思う。んだけども、塾に行って落ちればなんだ行かせる事なかったかなとやっぱり後悔するんである。 結局落ちればどっちでも、後悔する。 ちぇっ。 親もらくじゃないな。 ところで私は知り合いのお母さん達、子育てがらみの友達とか、娘の友達の親とか、昔の友達とかとにかくいろいろなお母さん達に出会った時、お宅の子供の塾はどこかと聞く。 それから下の子は同じ塾に行かせるのですかとかも聞くんだけどもまずどのお母さんも下は別の塾に行かせる。どうも、上の子を行かせたところはよくなかったというのが彼女達の感想なのだ。 兄弟同じ塾に行かせたパターンはこれまでに一人だけ。そこだってそこそこの普通の大手だけどね。 じゃあ下の子を入れたところはよかったかと言うと結局上と変わらないという感想なんである。どこの塾も親が思うほど子供の能力をあげてくれるわけでもなくじゃあ行かせないでもいいかと言うと子供は家でごろごろしてゲームに時間を吸い取られるだけでやっぱり塾でも行かせといた方がまだましという程度のものかというところである。 塾なんて行かせてもトップクラスの子にはすごい気合でどう見てもやりすぎってほど宿題出して勉強させてるわりにそれ以外はどうでもいいのが塾の塾たるところである。それで今年も難関に入れてやったぞなんて感慨に浸られても、別に日本に塾なんてものが一切なければ子供は自分で勉強してやっぱり難関校に入っていたんだろうからただ、競争のためにやる勉強が増えただけだよなあと思う。学校やらせなさすぎ。塾はやらせすぎ。 まあ、そんなことはうちとは関係ないからいいとして塾に行っても行かなくても、結局子供の実際の能力とそこそこのところに決まるだけの話である。 ちなみにいろいろなお母さん達にリサーチした結果としては「あそこの塾はすごくいいわよ。絶対お勧め」なんて話をきいたことがない。 実際、塾なんていれても最低二、三ヶ月は通わせてみないと実際のところとか効果とか見えてこないし、中学は三年しかないからあっちの塾、こっちの塾なんていろいろ試してる余裕なんて現実になく、塾選びの実際なんて結局、近いとか、安いとか、たまたまいれようと思った時にチラシがあったとか、友達が行ってるとかそんな理由で決めるのがせいぜいなんだよなぁ。 その塾の真実とか実態とか、先生の力量なんてどうがんばっても親には見えてこない。探し回るわけにも行かない。実際そんないい塾先がいっぱいいたら、どの子もみんな勉強出来るようになって全員が上位校に行っちゃう。なんてありえない話。 塾を変えてもせいぜい三回くらいが限度でしょうねえ。 それでもすぱすぱ生徒がやめてつぶれる塾もあるんだけど、このあたりでまだそんな塾はみかけないなあ。 ところでよく聞くのが下手な大手のチェーン系の塾より地元でずーっとやってる小さ目の塾の方がいいよと言う話。 でも、このあたりにそんなものはないし、あっても遠くて通えない。あるいはここなんかどうかなーと思うんだけど、主婦が出歩く昼間ってのは塾は閉まっていて、暗い。こんな小さめのところが看板も汚かったり、階段もゴミがたまっていたり、窓ガラスがきたなかったりすると、まずそのドアをたたく勇気なんかでてこないし、どうみても危なそうにしか見えない。とてもじゃないけどこんなところに子供は預けられんと思ったりする。 模造紙に書いた看板を窓ガラスに貼ってあるところもよくあるけど、授業料はらった次の日にはなくなってたりしないのだろうかとやっぱり不安で、考えてしまうのである。 それにしてもイマドキの公立ってのは宿題ださなくなったな。塾に行かせる理由ってこのあたりにあるのかも。生徒の自主性なんていってもそんなの嘘。というか、理想の追いすぎ。っていうか、絵空事。 どこそこをいつまでにやってこいと命令されてやる勉強は気楽だ。だってなんにも考えなくていいもの。言われた事さえやってりゃいいのは楽だ。そんな風に生徒を甘やかし、やさしく指導してくれる温情のある先生が減ったね。 とにかくあと二年の辛抱だ。その先の事は…しらない。
2006年03月25日
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記事を書いた後で裏を取るような事をよくしている。姉歯事件の事を書いた時は、その後姉歯事件のニュースをせっせと見た。なんか馬鹿な事書いたかなとか多少のずれはしょうがないとしてあまりにずれた事書いてるとやばいなとか考えるわけだ。裏を取ってから書いていたのでは、ブログのようなリアルタイムがものを言う世界ではさっと他人に書かれてしまう。あるいは時期をはずしてしまう。それでニュースを見ながらまあいいかーとか、結構あたってるかもとか、やばいとか、そうだったのかとかいろいろあるんだけどね。 それで『地球幼年期の終わり』を読んだのは、今から二十年以上も前。実はあらすじ以外はすっかり忘れておりまして、いまさら本屋で買ってきて読んでいる。「今頃裏をとってどうする」と思うんだけど多少危うくても思いついた時に思いついた勢いで書かないと本読んでからなんてやってるとその気が消失しちゃうんだよね。 いま読んでる本はもちろん読み終わってから書きますが。読み終わんないと書けないからね。 それで書いた後であれーー?っていうので、ふっと「なさぬ仲」って正確にはどういう意味だったかなーと考え始めた。 映画『博士の愛した数式』の記事の中で使った表現だったんだけどもしかしてやばい? というわけで今になって意味を調べ直したりする。 『なさぬ仲』は、義理の親子のこと。血のつながりのない親子関係。「な(生)さぬ」は「出産しない」の意味。 なんだそうである。私の記事の中では わりない仲、分別を超えた親密な間柄、許されぬ仲、道ならぬ恋 のような意味合いで使っちゃったのである。 うーん。明らかに誤用である。しかしこの表現。イマドキはやっぱり道ならぬ恋愛関係の表現にも使われるパターンが増え始めているわけである。表現としての言葉のもつ雰囲気としてもなかなか道ならぬ間柄を表現する上で微妙にきわどくて雰囲気を伝えているんだよなあと考えてしまった。 正規の用法としてはもちろん私は誤用している。しかし。「言葉はナマモノ」である。生きた人間がリアルに現実の中でその感性とも相談しながら使っているのが言葉と言うもの。用法的にまさに変化の真っ最中にある言葉なのだろうか。 よくよく考えてみると『なさぬ』とはこの場合「成り立たない」とか、「成立しない」という意味を連想するからなんだろうなと思いついた。だから、『成さぬ』ということで、つまりは、恋愛関係、正しい人間関係、社会的に認知されうる正規の人間関係の成立が不可能、という意味合いになってくるのかな。なるほどだからこういう使い方したくなるんだ。 と言うわけで本文の方を直そうかどうしようかと悩んだのだけれど、こういう言い訳を書いて本文はそのままにすることにしました。 ブログを書いていて一番感じるのが自身のボキャブラリーの貧困ぶり。これを略して「ボキャヒン」といいますね。つくづく感じてます。 これは11巻だけど、12巻もでましたね。
2006年03月24日
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江戸末期貧しい極貧の一人ぶちの武家に生まれた江原素六は、その優秀な頭脳によってわずか二十歳の時には十人ぶちの稼ぎをするようになる。すでに親の十倍の収入である。これでもわずかな額であろうけれど、それでも、すごいと思う。そののち海外にも行っているし、起業家としての才能もある。かずかずの起業にもかかわらず、幕臣であるゆえに明治政府から圧力をかけられ、無念の思いでやめざるをえない。本気を出せば相当の資産家になれる素養を持っていたようなのだけれど、晩年は麻布学園の校長として薄給に耐え、清貧に甘んじて、ストイックな生活を送る。私立学校の給与は校長といえども、薄給である。その気になれば校長職をしながら起業して収入を増やすことはできたのではないだろうかと思う。それでも副業をはじめるでもなく、その生活の全てを学校運営に投じて、晩年を貧しいままに麻布学園のために使いきったのはなぜなのだろう。 イマドキでなくても優秀な頭脳と起業家としての才能を持ってすれば富裕な資産家になりうる。多くの優秀な人材が起業し、資産を増やすことがあたりまえで、豊かな食生活、衣服、住居、娯楽を獲得する事にやっきになっている現代にはすでにありえない価値観なのだろうか。 自らの能力を封印して、ストイックなまでの生活に江原を捕らえさせたものはなんなのだろう。 とりあえず衣食住にさえ困らなければという生き方すら否定されそうな今にあって、こんな人間が明治の黎明期にいたんだと言うのはとても嬉しい。 画家が絵さえ描ければ他になにもいらないと思うように。 その魅力にとりつかれた人間はもうそれ以外のなにものにも魅力を感じなくなってしまうのだろうか。 壮年期、静岡にあって沼津兵学校の創立にかかわり、あるいは、東洋英和学校の運営にもかかわりながら、われ知らず学校と教育の持つ魔力にとらわれてしまったのだろうか。 江原が麻布学園の校庭を歩くとき、生徒達が誰に言われるでなくわらわらと江原の元に集まって挨拶をかわし、数日校内で江原を見かけないだけでその所在を心配したと言う。 そんな教師に出会った事はありますか。 私が知っているのは娘の幼稚園の園長先生でしょうか。 毎年入園してくる全ての園児とその母の顔と名前を全て覚えておられていて、三歳児は本当にかわいいんですといつもそれはそれは嬉しそうに語っておられました。 ちなみに私はどっぷりと煩悩にひたって生きております。おいしいものもいっぱい食べたい。いろんなところに出かけて行っていろんなものをみたいです。映画もみたいし、本もマンガもよみたいですね。でも、衣と住はどうでもいいかな。でもね。贅沢って三日もやるとあきるんですね。旅先でどんな豪華なホテルに泊まっても二日ぐらいでどうでもよくなってきます。お金がなくて安い民宿に泊まると隣の豪華旅館がうらめしいのに。豪華な家も住んでしまえばただの我が家ですね。ぼろアパートに住んでいる時は恨めしいのに。 ストイックな生活や生き方って私は好きですね。極限にシンプルな食生活と、着るのに困らない最低限の衣と、とりあえず暮らせる家とがあればというようなそのくらいシンプルでストイックな暮らし。とてもすてきですね。 そして波乱万丈の人生の後半、あらゆる経験の末に人を育てる快感にどっぷりとひたって、本人にとってはこのうえなく贅沢な晩年を江原素六は送ったのでしょうか。
2006年03月23日
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塾や学校で一括購入しかできないちょっと違う問題集。 長男を塾に入れたとき渡されたのが、塾の特別な問題集とこれ。その時は小学生ですから、新小問。結局全然使いませんでしたね。 それから、中学に入って学校から渡されたのもこれ。「新中学問題集」の略ですね。だから、「新中問」。定期試験とか休みゴトに出された宿題がこの問題集ですね。ページ指定つきで。 それから娘が中学生になって通わせようかと見学に行った塾で入塾のさい買うはずになる問題集のリストに載っていたのもこれですね。 この問題集。一般の書店では売っていません。渡された問題集の後ろを見ても奥付なしです。出版社も不明。謎の問題集です。しかもどこの塾でも、学校でも、この問題集を買うのが好き。よっぽどプロの中で評価が高いのでしょうか。私はシロウトなので質の良さはわかりません。 中学生用の問題集は一般にあまりいいものは売られていないとどこの塾の先生も口をそろえて言う。そうなのか?シロウトにはわかりません。だから、塾に行かせるか、進研ゼミという家庭がほとんどですね。 公立中ではこの問題集は買いません。うちの学校ではね。 上位進学校のほとんどがこの問題集を使っているらしい。そして上位生を相手にする塾もこの問題集を使っているところが多いらしい。(塾専用の問題集を編纂しているところもありますがね) つまりはかなりレベルの高い問題集なのか。 だとしたらたいしてレベルの高くない我が子が塾か学校でこの問題集買わされているとしたら、その先生なに考えているのでしょうね。 普通の子供に向く問題集ほしいですね。 ちなみにこの新中問。ネットで出版社検索できれば買えるそうですね。 塾の先生はなぜこれを使うのでしょうか。ところでこれ、奥付本当はあるらしい。上に印刷したものを後ろに貼ってあるらしい。それを学校や塾で、生徒に配る前に剥がしているらしい。出版社がわからなければ解答を買えないですから、だから問題集のタイトルがこんなにシンプルなのでしょうか。
2006年03月22日
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どうして塾ってのは夜なんだろう。子供は二時半くらいには帰ってくる。それから夕方の六時までたっぷり三時間はあるのに。帰宅部はひまなんだよ。なのになんでわざわざ塾ってのは夜なの。男の子のお母さんと女の子のお母さんていうのは微妙に感覚がちがう。女の子を夜出かけさせるのはいや。とーってもいや。どんなに遅くても九時にはちゃんと帰ってきて欲しい。いまの塾が夜なのは多分イマドキの中学が部活に気合をいれているせい。運動部なんて活動日数多いし、夜じゃないと時間ないものね。で、なんで帰宅部と文化部の生徒まで運動部の生徒の時間にあわせさせられるんだか。運動部の部員が全体の半分だとしてなぜ塾までそれにあわせなきゃいけないのか。男の子はいいよ。所詮男だし、将来は家族養わなきゃならないし。がんがん勉強していい学校いけよって思います。でも、女の子はねー。それもキャリアーに成りそうな賢い子なら別だけど普通の女の子の母としては別にがんがんのトップ校に行かせたい訳でもない。だって無理だし。でもね。あんまりレベルの低いところは行かせたくない。だってがらわるそうだもの。それで少しはいい成績取らせてそこそこいい学校行かせたい。でもね。イマドキの塾はなぜこうも夜のお仕事なのか。女の子用に、も少しあかるい時間にやってください。昼専の塾ありませんか。四時から七時くらいのところがあったら行かせたいです。 こどもがへろへろになるまでなんてやんなくていいです。だって受験が終わったとたんに勉強やるのいやになりそう。能力以上のところに自分の能力以上の勉強して入っても、高校の勉強はレベル高いですからついていけないとこまります。女の子は理系はあんまりいかないだろうし。数学は程ほどでいいから英語をしっかりやらせるのがいいですね。 実際女の子はものすごくできる子以外はたいして変わんない。そう思う。あとは本人の好きなように生きろよ。
2006年03月21日
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スパゲッティをゆでていたらついうっかり指を軽く火傷しちゃいまして。痛いんで指を入れて冷やすために氷をいれた水のコップを食卓に置いていたら、長男が飲んじゃった。「あ、それ、私が指いれてたのに」ゲロゲロー 「だって普通の水と氷入りだったら氷入り選ぶでしょ。普通。」と長男の言葉。このとき私が飲むために普通の水も置いてあったのだ。 「なにいってんのよ。すずめのお宿のお土産だって小さいつづらの方に金銀財宝が入ってたじゃん。」(見た目にだまされちゃいかんと私は言いたかったのだが)と言ったら、 「いや、あれは爺さんが年寄りで体力なかったから、小さいほう選んだだけだ。」だそうです。 「あらあ、大きい方選べば届けてくれたかもよ。大物買いすればどこのスーパーだって宅配してくれるじゃない。すずめの宅急便だよー。」というところでスパゲッテイ食べ終わって、長男は逃げてしまった。 チッ でも、化け物いりの大きいつづらを宅配されるのもちょっとなぁ。
2006年03月20日
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読んで見て、麻布学園にに対しての印象が変わりました。ものすごく自由な学校。というのは変わらない。でも、麻布中学にも新興の学校としての時代があったのですね。郁文館や錦城や、正則を目標として創立した当時。明治33年。わずか数名で開校した開校式。そして府立一中(後の日比谷高校)を乗り越えようとしていた時代。今の新興私立のように、進学実績を上げる事に躍起になっていた時代があったのです。上級学校の推薦枠を取るために校長として人脈やあらゆるつてなどを使ってたのみこんでいたことも。驚きでした。大学への推薦枠を増やすことや進学実績を上げることが学校の生徒の確保と存続のための至上命令であることが、名門といわれる麻布でさえ必要だったのです。そして、かつての麻布には補習などの勉強面でのフォローの厚かった時代もまた、あったようです。それにしても、今ではどんな名門校でも、東大の推薦なんてありえないのにかつてはそんな推薦枠すら存在したというのもまた、以外でした。 麻布のリベラルな校風は江原素六が創立した時、すでに江原によって麻布学園に根付いたもの。そして百年以上もの長い年月の間、その間何人かに校長職が引き継がれたにもかかわらず、途絶えることなく続いて来たと言うのはすごいです。長い歴史の中で気づかれたものではなく、創立者江原が麻布をつくった時すでに江原によって必然のごとくつくられたものだというのもまたすごいです。 最近、私立中学ブームが騒がれていますが、明治の学校創設の時代からすでに、公立と私立のせめぎあいがはじまっていたようです。学歴競争は今にはじまったわけでも、この数年あるいは数十年で、はじまったものでもないのでした。すでに明治の時代からはじまっていたのです。そして学校というものはその誕生からすでに進学校をめざす宿命を持っているものなのですね。 この本は麻布の歴史を語ると共に、明治に始まる日本の学校史もまた、詳しく書かれています。今の受験界や、学歴社会、そして明治の開国にはじまる英語の重要性がいまにつづく受験界の英語の重要度として続いてきた事もとてもよくわかりました。いまだに残る大学受験における英語の占める重要度の高さの理由もわかります。開国そして外国の技術を導入していく上でまず英語力が問われた時代の名残であったのですね。 自由を謳いながら麻布学園はその歴史の中で、なんどもその危機に出会います。自由を維持する事はとても難しい。いつのまにか怠惰に流れ、そしてまたゆり戻そうと生徒も先生も自らに問いかけます。なんども、なんども。自由を維持するための戦いはとても壮絶ですらあります。 厳しい規則をきめ、疑念を無視して、黙々と規則に従うようなあり方の方がずっと楽なのです。それでも、厳しさ規律という安易な方向に落ちる事なく自らを律して自由を守り続けようとした麻布学園の生徒と先生達。 「私たちは、自由という名の下に怠惰でした。そして、先生方も、自由という名の下に怠惰でした。この過ちをもう繰り返さないために、是非とも、授業を改善するための機関が確立され、生徒も先生方も、しっかりと高校教育というものを見つめ、この学園が、ゆがんだ教育体制の中で、少しでも正しい姿を取り戻すことを願ってやみません。」という昭和44年の卒業生の答辞が印象的です。
2006年03月19日
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昨日ジャスコに行ったら、売ってましたね。『FF12』もとうとう発売されましたが、高いのでまだ買えない。早く安くならないかな。 ところでポーションの味は、飲んで見ると栄養ドリンクの味なのよ。 ローヤルゼリーが入ってるせいですかね。ほかにも体によさそうなものいっぱい入ってますよ。 プロポリス、エルダー、カモミール、セージ、タイム、ヒソップ、フェンネル、マジョラム、マンネンロウ、メボウキ、めりっさ、なんかがはいってます。半分はなんなんだかわかりません。 ほらー、体によさそう。 でも、青色一号とか、リン酸塩、安息香酸Na(なにこれ)、なんかもはいってます。 ほらー体に悪そう。 ちなみにこれ、飲んだら胃が痛くなったのよ。カフェインもはいってるしね。 受験生とお疲れのサラリーマンのお父さん、効きますよ~。HP100回復ですね。 次回はエリクサー飲みたいですね。 ところで、これ飲んでいて、「どうしてモンスターがこんなもの持ってるのかなあ。」と言ったら、(ゲームをした事のある全ての人がいつも不思議に思いつつ、無視してゲームしている共通の謎ですが) 長男が言うには、「それはモンスターの体液なのよ。倒した後、主人公が体液からつくってるんでしょ。」と言う。なるほど。「でも。ケ゜ームが進むにつれて、ポーションのレベルもあがるじゃん。」と言ったら、「それは精製能力が上がるから」だって。うーん。ゲームの勇者はアイテムの精製もできなきゃいけないのか。 それってアイテム製造能力 ケ゜ームにそんなステイタスないですね。 ほら、『アイテム士』なんて職業がでてくるFFシリーズのゲームもある。でも、あれはあくまでお店で買ったか、モンスターを倒した時モンスターが落としたアイテムを使うだけ。アイテム製造なんて能力あったかな。 とにかく使い勝手悪いんだよね。『アイテム士』って。私はほとんど使わない。と言うわけでそれ以降あまりこの職業でてきませんね。 胃が痛くなるのでもうポーションはいらん。 これだ
2006年03月18日
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映画ななめ読み 私がナルニアを読んだのははるか昔。高校生の頃です。学校図書館にあったんですね。だから内容はきれいさっぱり忘れてしまった。ただ四人兄弟が洋服ダンスの中のナルニアに入っていくという設定だけは覚えています。 全七冊ありますね。一冊ずつはちゃんと話が完結していてナルニア国の年代記と言う感じです。そしてナルニア国の大事件の時にちょうど四兄弟がナルニアを訪れる。その事件ごとに一冊ずつの物語になっているのですね。だから次にナルニアに行くときは何年もの歳月がたっているのです。 時は第二次大戦下のイギリス、ロンドン。ドイツ軍の空襲をのがれるため、田舎に疎開していった四兄弟。彼等が住む事になったお屋敷にあった洋服ダンス。その扉の向こう側にあったのがナルニア国。 当時戦争にあけくれる毎日。必死に戦っている大人たち、父や母を目の前でみている子供達にすれば、歯がゆかったんだろうと思う。父も母も必死にがんばっているのに子供である自分達には何もできない。そんな子供達の気持ちをルイスは物語りにしたのだろうかと、映画を見ながら考えてしまった。現実の世界で子供達が戦争に参加する事はありえない。けれど幻想の世界でなら。子供である君達だってほらこんな風に戦えるんだよ。そんな思いで書かれた物語なのだろうか。 一般にファンタジーの物語と言うのは子供の主人公が多い。そして子供だてらに剣を使い、信じられないほど強い敵を倒す物語が多い。目の前で起きる戦争に何もできずにただ見ている、あるいは足手まといにさえなってしまう自分達のはがゆさ。C・S・ルイスはそんな子供達の気持ちをファンタジーとして物語にしてくれたのだろう。 しかし、そんなルイスの思いとはまた裏腹にどうもこの映画を見ながら、その裏を考えてしまう。なにしろこの作品。原作と舞台はイギリスなんだけど、映画制作はディズニー。つまり、アメリカ。 ライオンであるところのアスランは戦時中「眠れる獅子」と言われたアメリカのことかな。それから魔女はソ連のこと。作中のナルニアが冬なのはまさに現実世界の戦争を物語っているようだった。それと、冬はイコールソ連、ロシア、戦争、社会主義を象徴しているようでもあった。それらのものからナルニアという世界を救おうとするライオン、アスラン。まさにアメリカそのもの。 そして、物語のラストでアスランは四人の兄弟をナルニアの王として、ナルニアの東つまりアジアを意味していると思えたのだけれど、ここをルーシーに、そして、南をスーザンに、西をエドマンドに、北をピーターにと言うように割譲する。 東の海すなわち、アジア。南の大地すなわちアフリカ。西の森すなわちヨーロッパ。そして北の空すなわちロシア。 を意味しているように思ってしまいました。 そしてユーラシア大陸を四人の王に割譲した後アスランすなわち獅子であるアメリカは新大陸である、自分の国へとかえっていく。物語でも、アスランは平和になったナルニアからどこかへ行ってしまうのです。 それにしても、なぜ、四人兄弟がナルニアに来たとたん春になっちゃうんだかわかりません。原作忘れちゃったし。だいいち、ストーリーを見ていても、この四人いなくても、アスランさえいれば話はすむような気がする。この四兄弟以外とたいした活躍してないんだよね。一番話を進める役にたったのが裏切り者のエドマンドだったりしてるしね。アスランだって死んじゃってルーシーとスージーがなき悲しんでいるのに、ひょっこり生き返ったりして、なんーかだまされたような感じですね。こんなにひょっこり生き返るなら、死ぬ事ないじゃんと思う。 女王に最後の止めをするのもアスランなのでピーター別に要らないジャン。ピーターのもってる剣もどーも安っぽくて軽そうで、ほんとーにこんなのでやっつけられるのかなーというかんじなのですね。要するに魔女をやっつける必然とか、強さとか説得力ないのですね。アスランだけいればよさそう。この四兄弟がなぜ王になれるのか映画では、まったく説得力ないです。 ファンタジーと言いながら当時の世相がリアルに物語の中に再現されている。それをまた、今の時代にみるとどこかチンプなのですね。 ただストーリー自体はまさにファンタジーの王道なので、単純にファンタジーとしてみれば、画面は美しいのですから、ファンタジー映画としてはそこそこにはよくできているのです。 そういう意味でファンタジーを全面に押し出すつもりだったのなら、序盤の空襲のシーンは本来ないほうがいいのです。すこしだけ、ナレーションで説明をいれて、田舎の駅に降り立った四兄弟のシーンからはじめればいいわけで、それがわざわざかなりの手間と時間をとって空襲のシーンをだしているあたりで、アメリカサイドの国策映画のようなのりを感じてしまわざるを得ないのでしょうね。 現実世界の戦争とファンタジー世界の戦争がリアルに表裏一体の姿で描かれてしまっているのであって、厳しい現実からのがれても、やはり幻想世界の中にすら戦争や争いや悪の存在があって決して逃れる事はできないし、勇気をもって戦っていくしかないのだと、そうとることもできるかもしれませんね。
2006年03月17日
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このあたりはディズニーランドが近いので、小学校の卒業ごろに子供達だけでディズニーランドに行く話は前にも書いたんだけど、中学卒業となると卒業遠足がディズニーなんである。しかも、バスまでしたててなんである。 このあたりの公立中学はほとんど、どこも、三月にはいると、微妙に日をずらしてディズニー遠足。受験も終わり中学生たちは喜々としてディズニーに向かう。小学校はまだ個別個人でのグループで勝手にだったのに、豪勢だなぁと思っていたんだけど、よく考えると無理もない。子供達だけで勝手に行かせると学校間抗争になるからだ。 春休みあるいは土日にこのあたりの中学生がどどっとディズニーランドに押し寄せる。「あっ、あいつ。K中のだれだれだっ。今ぶつかったぞ」とか、目があったとかにらんでたっとかいって、喧嘩がはじまる。しかもたのしいディズニーランド内で、である。 休日だというのにそんなことがあるとわざわざディズニーランドまで先生もよびだされる。そんなことが春休み中ずーっと土日も、毎週なんて事になってはたまらない。かといってディズニーランド禁止なんてわけにもいかない。 だったら平日の他の中学が授業してていない時に、同じ日に全校の生徒をまとめて連れて行って、先生もディズニーランドの中で待機して巡回して見張っていたほうが楽なはず。ついでにたまたま同じ日になったよその学校の先生と話し込んで情報交換したり、顔広げといたり。おいしいものもいっぱい売ってるし、ディズニーランドは椅子も多い。 その日一日気をつければいいし、とにかく全員つれてっちゃえばもう行かないだろうし。親もそのほうが楽だし、安心だし。うーん。いいアイデァじゃん。 と言うわけで今年もこのあたりいったいの中学はどこもここもそこもディズニーランド遠足なんであーる。 ちなみに他の地区はどうなんだろう。
2006年03月16日
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私が文章書く時って文章の構成とかぜんぜん考えていません。思いつくまま気の向くままー。 とりあえずいろいろ考えた挙句、あっこのこと書きたい!ッていうのがあって、それからそのためにあれとこれとあれとそれを書きたいとかぼんやり考えてて、しばらく頭の中でもやもや。 それから書き出しを適当に考えて、一番最初に書きたかった事それから書きながら思いついた事、最後に書き忘れていたことがあったのを思い出してそれも、追加書きして大体完成。でも、文章ってきれいにまとめたいから、むりやり結論を書いちゃったりするんだけど最近そういうのはちょっとなーと思い始めて結論出さないまま終わりにしてみることもある。 私の場合かなり長い文章の記事もあるでしょ。計画立てて予定立てて書いてるかって言うと全然。きらいなの。そういうの。ていうか、めんどくさいの。それで適当に気分で書いていった挙句、気がついたらすごく長くなってたりして、こんな濃厚なの一日分なんてもったいないと思いつつ、続くなんてつけても読んでくれるかわかんないし、文章としての完成度と勢いが落ちるよなって思って一日分で全部アップだ。こんな長いの読む人いるのかなーとか思う。読んでくれているみなさんありがとー。それから自分で読んで楽しんで字の間違いを訂正して、自己満足にどっぷりとひたる。 ああ今日もネタがない。ネタがあってもまとめる気力がなくていまだにかけないネタがある。 それで、よそ様のブログを読みに行くとすごくまともで秩序があってきちんとした文章で、あっこれこれやっぱこうやってかかなくちゃとか思いながらやっぱり相変わらずこんな調子。 さあ、明日は明日の風が吹くな。
2006年03月15日
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なんとあの東京工業大学が数学特選を始めるらしい。今年からは特にセンター試験が易しくなったという話は巷でよく聞くんだけれど、さすがに東工大もコリャだめだと思ったんだろうか。 今までの国立の入試のような何でも程ほどにできる子がうかるような試験では、本当に数学のできる子は落ちる。若い頭が勝負の数学の世界を一番頭の使える十代前半に受験勉強でつぶすなんてもったいなさ過ぎる。そりゃーもちろんいろんな科目を勉強したバランスのとれた人間は理想だろうけれど。結局英語で勝負がきまる今の受験界。暗記のきらいな理系の子供達を落としていたんでは話にならない。 数学だけ五時間で、センターも面接も関係なしなんだそうだ。大体理系の人間なんてオタッキーで暗くて口下手。もちろんそうじゃない受験生もいるけどさ。面接での口の上手さや人あたりの良さでチェックされたんじゃたまらない。 数学特選は中学受験じゃすでに常識。とにかく算数のばりばりできる子をとって六年間育てれば大学受験のころには国語もできるようになるだろうという読みでおこなわれている。しかし現実には高校生になっても相変わらず国語のできないチョー理系人間がいるんである。私はいくらなんでも、六年もあれば成長すると思ったけどそうでもないみたい。たかだか高校生では国語の苦手な子は相変わらず苦手である。人の心情を読むなんてそんなに簡単にできるものじゃない。その一方でかなり若いあるいは幼いうちから驚くほど人の気持ちが読めたりさっする事のできる子がいるものである。これはもう年月というよりもって生まれた天性なのであろう。バランスのとれた人間をそだてるというコンセプトとその対象的な形として一つの分野に徹底的にうちこめる人間だっていたっていいかもしれない。それはいいとしてとにかく数学的センスのずば抜けた学生は現実問題としてやっぱり必要なんだろうと思う。単純に本音をいうとばりばり理系の学校なんだからばりばり理系の受験生が入れるような試験をやって欲しい。それだけのことなんだよね。 さて、どんな問題がでるのかな。どんな結果になるのかな。来年が楽しみ。
2006年03月14日
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四谷大塚のR4結果偏差値がとうとう出た。毎日毎日待っていました。自分のところの学校がどうなったかなーと思って。去年は2月24日にすでに出ている。しかし、今年はさすがに激変。四谷大塚もそうとう悩んだようである。なにしろ今年から都立中高一貫の入試がとうとう数校ではじまった。その影響もかなり大きい。しかも都立だけを受ける子は中学入試の模試はいっさい受けていない場合もあるのだから読めない。さらに私立受験でも、都立を受けていてそちらに流れた受験生もいるだろう。つまり、例年の状況とはかなり違う。さらに千葉の男子校の共学化によって偏差値はかなり上がっている。そして数年前と比べて多くの学校が全体的に偏差値をあげている。下手をすると昔ならトップレベルの学校に受かったであろう受験生が、中堅校にすら受からないというのもありえそうである。うーん。いったいこの先どうなっていくのかなあ。中学受験も高校受験も、大学受験もなにやら微妙に難しい。ブログルポ投稿中の記事★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年03月13日
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娘の期末試験が終わった。当案が戻ってき始めた。多分落ちていくだろうとは予想していたのだけれど、やっぱり数学の点が徐々に落ち始めている。他の科目はそこそこ健闘しているのだけれど、やはり彼女にとって数学は鬼門である。 学年の前半は塾にいって数学と英語をやっていたのだか、夏休みのあとやはり夜はいやだと言うことで退塾した。個別対応の塾なので娘が必要以上の事をしつこくしつこく質問していて、どうも娘にはあいそうにないのである。塾の先生も話をしていて、なにやらとんちんかんだったしな。やっぱり続けさせたほうがよかったかな。とりあえず自力で進研ゼミを始めはしたけれど、やはり数学だけはぬるい。なにしろ期末試験の前日に図形の定理の復習。定理なんてとっくの昔に覚えていなきゃ問題なんて解けないじゃんと思うんだけど、こんなずれた事をやっている。今回は葬式が入ってかなり時間を取られたし、疲れたろうからしかたないっちゃしかたないけど。母の目でみてもまあ、彼女なりにかなりがんばってはいるんだけど、数学の点を落としていくのは現実的にみてもかなーりきつい。もし、推薦に受からなかった場合一般試験で、数学の点を落とせばかなり痛いはず。実際にはここまでがんばっているのだし、娘なりの限界もあるのだからはたしてこれ以上を要求できるものかどうか。子供の能力にあった高校に行かせればいいんだろうけれど、現実いま低レベルの高校の生徒の質の悪さを思うとそうも言っていられない現実。どーしたもんかなー。女の子が数学苦手なのはいつの時代もかわらない。ただ、普段の様子を見ていても、かなり時間もいっぱいいっぱいで、どこに数学の勉強をする時間をいれこめるか悩んじゃうんである。昔私が中学生だった頃に比べるとイマドキの数学なんてスカスカである。こんなにやさしいのにどうしてできないんだろう。しかも、この内容で、30点代のやつまでイマドキの中学校には、いるのである。さらにイマドキの数学の授業は能力別編成で班ごとなのである。そんなちまちました授業より豪快に集団でびしーっといい授業をやってほしいものである。どうしてこんなに教師の質が落ちてきたんだか。昔の先生たちは公立といえども、授業うまかったなぁ。私の行ってた公立中は地域でも、評判の学校だったし。昔の事を考えても今の現実派変わらないので、とりあえず対策を考えるしかない。よし、春休みが勝負だ。でも、長期の休みになるとまた、宿題とか出てきていっぱいいっぱいになっちゃうんだよねー。ただ、塾だと結局数学と英語しか見てもらえないしね。それてまた時間とられちゃうし。個別指導なら昼間の時間に行かせられるけれど、できれば集団授業に行かせたい。近所の塾に入れようとちょっと考えたいたら、他の支店であんな殺人事件がおきちゃうし。 娘はどうしていまだに少数を分数にできないんだろう。もう、十回以上教えてるのに。 と言うわけでひさしぶりにビシーッときつく怒っちゃった。 「時間ないはずないでしょ。電車男のビデオを見てたりしてるんだから。やることやってから遊びなさい。そのぐらいの自制心なくてどうするの。口先ばっかりいい学校行きたいなんて言ってたって現実点取れなきゃ受かんないんだからね。なにかって言うとすぐ学校の名前出すのやめなさい。これ以上学校の事ばかり言うんならひっぱたくからね。数学がこんな点じゃ絶対推薦は無理だからね。」 ここで娘が泣きだした。そこで私が言ったセリフが「泣けよ!」 鬼のような母である。人間できないものはできない。どうしてもできないことだってある。どうしようかなぁ。しかし、こののち、この涙ははどこいっちゃったんだか、娘は平気のへいざであそんでいるのであった。 とにかく期末もおわったし、もうじき春休みだし、のんびりしよっかなーっと。あ、長男の試験は、これからだっけ。
2006年03月12日
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去年の今頃のことである。娘の同級生のAさんのお母さんが亡くなられた。 このとき娘は小学校六年生の最後あたり。 この話を伝え聞いた時、娘が言った。 「お母さん、Aさんが昔、四年生の時、 教室で授業中にないちゃった時、 M先生が言ったんだよ。『人前で泣くのは親が死んだ時くらいですよ。』って。」 Aさんはその当時ものすごくデリケートで、ものすごい泣き虫で、授業でも、しょっちゅう泣いていたらしい。 M先生は三年、四年の時の担任で結構厳しい先生だったのだ。 もちろんこの時M先生は道徳的な戒めのつもりで言ったのだろう。まさかわずか数年後におこる事態などもちろん想像もつかない。 娘に言われて、私もドキッとした。なかなか考えさせられる話だ。 それにしてもわずか小6で母を失うのは…。 うっかりした事は言えないものだ。たとえそれがどんなに正しいと思えることでも。
2006年03月11日
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ブログを初めていいことがあった。なんと左手のガングリオンが治ったのであるたかがガングリオン。されど、ガングリオン。左手の手首のところちょうど、リストカットするのにちょうどいいところに、三つくらいの大きなパチンコ玉くらい(うーんもっと小さいかな)の脂肪の塊ができていて、邪魔だったし、ちょっとしたひょうしに痛かったし、そのままにしとくと癌になるよと脅されたりもしてたんだけど。 去年ずーつと接骨に通っていたのに直らなかった。しかも、接骨の先生に外科に行ったほうがいいと言われていたけどいやでいかなかった。だって切開手術なんて痛いじゃん。しかもこんな場所に傷をつくったらリストカッターとまちがわれそうだもの。(一部の方ごめんなさい)接骨に通うのもいやになって、行くのをやめてしまった。なのにブログをはじめたらゲームをする暇がなくて、ゲームをしないでいたら知らない間に直っていた!すごい。結局原因になってることをやめればいいだけのことだったんだ。 それで最近はあんまり医者や薬に頼りすぎないで、ちょっとスタンスを変えてみようかなと考え始めている。何かあるとすぐ医者とかすぐ薬だったけど、原因解明から始めるべきかもしれない。 頭痛薬は以前はかなりよく飲んでいたんだけど、飲むのを一切やめた。だから寝る。あとは疲れないように日々無理をしないでのんびり暮らす事にした。疲れると痛くなるので。 胃薬も飲んでいたけど、そもそも水をがぶ飲みしすぎていたんだなと思って。控える事にしました。水分を一度に大量に取るから胃液が逆流しちゃうんだよね。ウェストのきつい服も着ないようにしています。でも、まだまだ胃薬飲んでますけどね。おかげでコーヒーも控えめ。 そして後はとにかくまじめにそうじすることなんだよね。喘息のためには。うう、でも、できていません。 やっぱ薬よりもまず日常だよね。どんな病気も結局生活習慣病なのかもな。 そして、運動だ。腰痛も頭痛も結局は運動不足のせい。反省しよう。 長男の頭痛だって、今思うと、毎日何時間もゲームをやっていたせいかもしれない。しかしちっとも友達と遊ばなかったから困っていました。さそわれても、帰ってきちゃうんだものー。まあ、昔なのでどんな生活していたか細かく覚えてないけどさ。 最近は長期の休みというと夜更かしして昼過ぎまで寝ている。しかも、一歩も外に出ないで、家にいる間はずーっとパソコンしている。こんな事ではいけない。この春休みはもう少し早い時間にたたき起こして少しは外出もさせなければいけない。医者にばかり頼って薬を飲ませて安心していてはいけないのだ。母として少し反省する事にしました。 それにしてもいっさい薬を飲まずにすむ生活。夢です。
2006年03月10日
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今頃見に行ってるので、すでに楽天ブログの映画のカテゴリにはこのタイトルはどこにもない。そんなにずれてますかぁ。おかげでうちの近くのシネコンじゃ夜しかやってなかった。 しかたがないから東京のど真ん中銀座までちょっくら行って来た。「有楽座」さすが、銀座の映画館。すっごくきれいにリニューアルされていて、デザインがレトロなのですー。入り口のガラスの自動ドアも昔のガラスドア風デザイン。場内もレトロな内装で、やまぶき色が主体。シートも壁のカーテンもクリムゾンレッドのベルベットでできていた。 その劇場の満々中のシートに座って見てきましたー。かっこよかったー。ミラージュ2000が最初から最後までバーンバン飛びまくってて。人によってはいまいちって人もいるけどやっぱり私程度ならあれで充分です。ほんとーに戦闘機に乗ってる感じ。中からと外から映してくれて、しかもバックがフランスの美しい風景だったりするのですからアメリカ映画のがさつさにそろそろうんざりしかけてもうアクション系の映画はみたくないって思っていたところですが、そうかやっぱりいい映画ならアクションでも、まだまだ面白いし、やっぱり映画館でみなくっちゃと思ったのでした。この映画は自宅のテレビ画面で見るのはあまりにもったいなさすぎる。 「フランスの国策映画だ」という話をどこかのブログで読んだんだけど、そういう視点で見るとそれはそれで面白い。フランス空軍の全面協力っていう触れ込みだけど全面協力っていうよりフランス空軍のための映画だよね。ほらーフランス空軍てこんなにすごいんだよーとみせびらかされている感じでした。ちなみにミラージュは着陸時の減速のためのパラシュートが四つついていた。アメリカの場合は二つしかついていないんだそうだ。さすがフランスの戦闘機。金と手間がかけてあるね。というのがうちのダンナの意見ですさて、この映画を見て、世界各国の首脳陣は、どう評価したんでしょうね。ドシロートの私にはもちろんわかりませんが。私的にはかっこよかったですぜ。 そしてラストで悪役が乗ったフォルクスワーゲンが爆破されたりアイポッドというあだなの大尉が撃ち殺されちゃったり、テロの下っ端の乗ったトラックがトヨタだったりする。日本てテロのしたっぱですかぁ。日本は泥棒の下っ端あつかい。爆破されるよりましなのかなぁ。でもね。トヨタのトラック。あんなアフリカの砂だらけの原野でも、あんなおおざっぱでメンテナンスもやりそうにないところでも、ちゃんと役に立つんですよ、日本車は。こわれないんですよ。日本車ってすごいかも。ドイツは爆破され、アメリカは撃ち殺され、日本は泥棒の子分。そしてフランスの戦闘機はがんがんかっこよくとびまくって最後はテロまで撃ち落してやったーフランス万歳ってとこかな。 まあ、この手の映画にありがちなだらだらしやすい地上での人間ドラマの部分が少なくて、すっきりしててよかったけどさ。 ところでね。最初の方ででてくるセリフ。「女の影に男あり」だって。フランス映画だからあまりに当たり前なセリフと油断していたら、やっぱりばりばりに複線はってあるじゃん。いくらなんでも、新入りの女がなんてありえすぎーと思っていれば、裏の裏をかく当たり前すぎる設定。うーん。 まあ、戦闘機がばんばん飛ぶところを楽しむ映画なので、かっこよけりゃーいいんですよね。ただね。ストーリーがいい方がますますかっこよく見えるものなんですよね。でも、説明が足りなくてストーリーがわかりづらい。私もさすがに後半はちょっとよくわかんなかった。苦しい状況ですね。なにしろ謎解きのためのセリフが一瞬ぱっとしゃべられて終わり。ちょっとトイレでも、行こうものなら、どういう話だったんだ?ってことになっちゃう。絞りに絞ってあるので見るときはセリフ一つもはずさずに気合いれて見ませんとね。 さてー手取り足取り書きすぎなんだけど、ストーリー解説。 イギリス空軍の航空ショーからいきなり、どこかへとんでっちゃった戦闘機ミラージュ2000。たいへんだってんで、フランス空軍の戦闘機二機で追撃。これが主人公のマルシェリ大尉とその同僚のセブ。ところがミラージュ2000がこちら側を攻撃してくる。しかし、反撃の許可が降りない。このままではやられる。どうする。マルシェリ大尉。 実はこのミラージュはフランスの防空をチェックするための隠密指令によるものだった。だから攻撃許可が降りないんだけど、さらに実はミラージュに乗っていたのは乗る予定だったパイロットと入れ替わって乗っていたテロ側のパイロットだったのである。テロがミラージュを盗んで逃げていく途中だったわけなんだけど、本部はもちろんマルシェリ大尉もこの段階では何がなにやらぜんぜんわかっていない。許可は降りない。でも、やられる。って時このわずか数秒の時間でどのくらい正しい判断ができるか。相手は結局テロだったわけだし、テロが泥棒するところをぎりぎりでストップかけたんだからマルシェリ大尉の判断は、抜群にすばらしかったわけなんですね。中盤で裁判にかけられて軍をクビになったりしますが、結局事の真相がわかって復職できます。命令にさからえばどうなるかわかっていてなお、どこまでその先を見込んで瞬時に正しい判断ができるか。かっこいいぜ、マルシェリ大尉。 さて、ミラージュを盗みたいテロ側はまだまだ懲りない。武器商人に戦闘機を売り込みたいアメリカとフランスの戦闘機レースの情報を察知して、さらに計画をたててくる。戦闘機の空中燃料補給のための補給機のパイロットを射殺し、このあたりでミラージュの燃料が切れるだろうと予測してそこに一番近いど田舎の空港で待ち構えているテロ軍団。テロに捕まっちゃたマルシェリとセブ。しかしミラージュを持ち帰りたいテロのためにミラージュを操縦させられたマルシェリはテロの命令を無視して空港に戻ってくる。このときの着陸時にソニックブームを起こして見せてくれますね。画面にもはっきり映っていて、これってすごいんだそうだ。おかげで空港の建物は壊れるし、テロ軍団もやっつけられちゃうし、こんなことができるのはよっぽどすご腕のパイロットじゃないと無理なんだそうだ。フランス空軍でも、トップクラスの腕だってことですね。かっこいいぜ、マルシェリ大尉。 それにしてもマルシェリ大尉がクビになったとき一緒に空軍をやめちゃったセブ。クビを覚悟でセブを助けるためにテロの乗ったミラージュを撃墜したマルシェリ。二人とも戦闘機に乗るのが大好きだったのに、友達のためにこんな事できる二人ってすごい。友情っていいなあ。 さて、パリサミットを攻撃するためにしつこくミラージュ泥棒を繰り返したテロですが、なんとか一機泥棒するのに成功した。これに乗っているのがスパイとしてフランス空軍に入っていた金髪美女新兵のエステルですが。ラストはパリサミットを攻撃しにやってきたテロ戦闘機軍団ですが、当然マルシェリにバンバン撃ち落されまして、やっぱりかっこいいぜ、マルシェリ大尉。しかしなぜに生き残ったのかな。エステル。 パート2作れそうですね。 さあ、来週こそナルニア見なくっちゃ。日本の戦闘機マンガといえばやっぱりこれだね。ブログルポ投稿中の記事★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年03月09日
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受験も終わってこの時期になると話題になるのが寄付金を払うかどうかと言いやつである。でもね、私立中の経営って結構きびしいらしいよ。だから寄付金収入は貴重なのかも。もちろん払わなくたってどってことない。かもしれない。でも、みんながだんだん払わなくなっていくとどんどん払わない人が増えていく。そうすると収入が減るのでどうしてもその分学校運営に影響するのではないのかなと思うんである。するとだんだんだんだん気がつかないうちに教育の質が落ちていく。少しづつ少しづつ先生の質もおちていく。いい先生もいつの間にか減っていく。進学実績もわずかづつ落ちていく。学校の評判も知らないうちに落ちていく。いい学校を出たぞっと思っていたはずなのにいつの間にか人に言えない学校になっていく。これじゃあ高いお金払ってなんであの学校いったんだろうと思うことになっている。 なんてシミュミレーションしてみたけど。寄付金は入らなければ、結局その分学費や授業料や施設費が上がるんだろうな。そうするとホントに寄付金払えなかったようなおうちの子はもう無理ですね。すごーくいい子だったはずなのに。 というシミュレーションも考えて見た。いかがでしょうね。
2006年03月08日
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死者が出る家にはカラスが来るってほんとかなぁ。ダンナのおじいさんがなくなる数日前、カラスがいっぱい屋根にいたって近所の人に葬式の時に言われたことがある。ほんとかな。でも、それからカラスがくると追い払ったり、気をつけるようになった。そのままにしといて家族になにかあったら大変だ。 でも、先日母方の親戚の人が亡くなった時、その何日か前、朝方カラスが庭にやってきて、があがあとものすごく不気味な声で鳴いていたことがあった。私は急いで雨戸を開けて、カラスを追い払ったんだけど。死の知らせが来たのはその数日後。うちにもやってきたのかな。そんなに親しくなかったし、顔をあわせたのも一度だけの人だったんだけどな。 父の葬儀の前日に、父の棺の前でいとこやだんな様と数人でいろんな話をしていたら、部屋の電灯が突然一本だけ消えた。あっこれはもしやお父さんかな。父がわやわやにぎやかそうなので気がついて覗きにきたのかな。俺もここにいるぞーって言いたかったのかな。そんな気がして不思議だった。ただ電気が償却されきって壊れただけかもしれないけど。 親戚の人のお葬式で写真をとったら、なんだか白くてボケたものがいっぱい写っていたんだよって言う話も聞いた。俺が死んだら電気いっぱい点滅させていたずらしてやるぞーって予告してった人もいたよって話も聞いた。 通夜の晩にお寺に泊まっていたら、本堂の方でがたがた音がしてねっていう話もあった。 ダンナ様のおじいさんのお葬式の時は何にもしていないのに我が家のブレーカーが二回もあがってしまった時があった。あれおじいさんがうちのだんな様に会いたくて最後にやってきたのかなって思った。だってうちのだんな様の事すごくかわいがっていたんだもの。 母の兄が亡くなった時、これはちょっとわけありなんだけど、母の夢にやってきてなんとかしてくれって言われたんだって。一人暮らしだったので、その後様子をみに行ったらやっぱり亡くなっていたのだそうだ。 私のうちには来ないのかなぁと思っていた。昨日相続がらみの話をダンナとしていて、その後台所の電気をつけた時やっぱりぱちぱち点滅してしまって、あ、もう壊れちゃった。取り替えないと駄目だなって事ではずしたんだけど、もしかして、父が来たのかな。そういえば私が洗濯物を干していた時カラスが一匹飛んできて、しばらく屋根に止まっていてそれからふらっと飛んで行ってしまった。あの時も父が来たのかなと思った。もちろんただの思い込みで、カラスはただのカラスだったんだろうけれど。 幽霊の話はもう怖くて怖くて大きらいなのに親しい人の訪れはなんだか少し嬉しかったりする。 亡くなった人の魂は49日だけ地上にとどまっているんだそうだ。姿はぜんぜん見えないけれど、もしかしてここにいるのかな。最後に会いに来てくれたのかな。あともう少しで天国に行っちゃうんだろうけれど、もう少しだけ遊んでいってね。
2006年03月07日
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地球幼年期の終わり 他 アーサー・C・クラーク人が生きていてつらいのは、結局、肉体があるからだと思います。肉体を維持するためには、ものを食べなければならない。そして食べ物を得るために働かなければならない。働くということは人間関係のこじれや上司からの怒声にも耐えなければならない。衣類や家がなければ寒くて病気になるから、そのためにも働かなくてはならない。あるいは美人でない事や背が低い事やそんな種々のコンプレックスが人を苦しめる。 もしも肉体がなかったら。あるいは肉体を自分の意のままにできたなら。 たとえばSFの小説とか、映画とか、マンガとかによくでてくるエスパー。超能力者、あるいはミュータントとか新人類。 こんな人たち。まずテレポーテーションができます。自分の意思で肉体を瞬間的に移動することができる。移動に時間の経過を必要としない。 この人たちがもう少しレベルアップしてくると、自分の肉体を意のままにできるようになってくる。たとえば顔を変える事ができる。他人の顔にすることもできる。さらに、自分の実年齢とは違う外見を維持することができる。実年齢が500歳なのに、見かけが20歳くらいだったり。 たとえば激しい戦闘の後に切り落とされた自分の手を再生させるシーンなんかもSF映画なんかによくでてきますね。 なくなった手を再生できるようになってくると、病気なんかも自分で治せますね。直せるということはそもそも病気にすらならない。となると熱さや寒さも平気になってきますね。火に焼かれてもやけどしないし、どんなに寒いところでも、風邪もひかなければ寒くもない。こうなると、衣類も家も暖房器具もいりません。 最終的に食事をとる必要すらありません。大気中にあるエネルギーを自らの意思で取り込んでしまえるのですから。つまり原子、分子、電子レベルでの操作すらできるようになってくるということでしょうか。そして移動において乗り物すら必要ありません。 と言うことは働く必要もありません。 働く必要もなく、顔の美醜も肉体の欠点も、病気の心配すらなくなってくると言うことは生きる上でのほとんどの苦痛から開放されていくということです。 お金がいらないのですから、私利私欲というものからさえ自由になることができます。 仏教の最終テーマが欲望からの開放ですから。 ところで孤独という悩みからは開放されるのでしょうか。テレパシーによって自分の意思を伝え、他人の気持ちも読み取れるとして、その先の人とのコミュニケーションは果たして潤滑にいくのでしょうか。これは欲望とは別の話とも思えます。とりあえずこのあたりの結論はまだでていません。しかし、SFの中には星の全ての住民が意思や感情の共有を行うシーンもでてきます。さて、人類はそこまでいくのでしょうか。 これはSFから考え始めた話ですから、超能力者の中には悪人もいます。 しかし、人間がこれからその能力を高い精神力や修行による鍛錬、自己統制、自己制御、高い道徳観や良心を育てていった先にあるとしたらどうなるのでしょうか。 今現在科学技術によって解決していこうとしている医療や、戦争回避、食料問題、人類が必要とするあらゆる物質の生産と供給、さらに宇宙への進出などは、人間が自らの肉体を自らの意思で制御管理できるようになったとすれば、別の方向に向かってしまうのでしょうか。 アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』はそんな話を書いたSF小説です。 ここからネタバレになりますが ある日地球に現れた大宇宙船団からの指令によって人類は戦争も人種差別もやめ、平和な世界では宗教すら消滅してしまいます。高い道徳観や精神性を手に入れた地球人の中からやがてあたらしいタイプの子供たちがうまれはじめます。彼等はすでに地球というわくにとらわれる必要すらなく、精神だけの生命体となって未知の宇宙へと旅立って行きます。 この場合人類の成長が宇宙人という外圧によってなされるというのはちょっとしゃくなのですが、小説としてはしかたないのかなと思います。自然な状態でも、いずれ人類はこんな風に進化していくのだろうと考えた上で、物語としてあえて外側からの力によって戦争や人種差別などいろいろな人類の課題を全て乗り越えていった時、人類はこんな進化を遂げるのではないかということをクラークは言いたかったのではないでしょうか。 人間の肉体というものは人類の進化のための一過程に過ぎなかったのではないか。人間の肉体は精神的な生命体を育てるための器に過ぎなかったのではないだろうかと言うのがこの物語のテーマなのではないかと思うのです。 ところで、大宇宙船団に乗っていた宇宙人の姿が実は西洋世界の悪魔そのものなのです。これはいったいなぜか。考えて見るに宗教と言うものは人間の苦悩を解消しようとするという本来のコンセプトとは逆に実際のところ、いろいろな戦争の原因になっていたりしています。 ルネッサンス文化にまで到達していたヨーロッパの科学文化を止めて中世の暗黒時代とまでいわれた時代をヨーロッパにもたらしたのも、キリスト教です。このせいでガリレオ・ガリレイはすばらしい功績を人類に残したにもかかわらず、生存中には悲惨な運命を与えられてしまいました。宗教は人類の科学の進歩と精神の進化をとめていた存在なのではないかと言っているのではないでしょうか。 『地球幼年期の終わり』の中で唯一消滅することなく残るのが仏教なのです。 仏教は宗教の中で唯一人間の精神的成長をさとすものだったからではないのでしょうか。 仏教的なものをすでに知っている私たち日本人にとっては精神的な成長により、自分の精神をより高い位置へと進めて行く悟りや解脱、俗世の欲にとらわれることのない脱煩悩の世界観は決して目新しいものではありませんが、知っていながらなお、現実の人生にとらわれて、すみやすい平和で不安のない世界や自分を作り出すこととはとても遠いところにいるのです。 さて、肉体という器から開放される日は来るでしょうか。最後に今日の記事のネタ元はこちらです。私の文章では、表現力にも限界があります。 この記事を評価する ブログルポ投稿中の記事★ 『地球幼年期の終わり』★ 映画原作の小説『博士の愛した数式』★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年03月06日
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先日映画を見に行った帰りに、劇場で『ナルニア国物語』のポスターのような新聞のようなものをもらってきた。家の中の壁に貼ろうと思ったのです。我が家の壁も全てアートです。で、いざ貼ろうと思ったらどこもここも貼ってあって空きがない!!唯一残っていたのがトイレの扉。洗面所の扉にはすでにカレンダーが。他の扉には中世の地図が。それで、貼りました。↓これです↓見事にぼけてますね。へたくそですね。 アップにすると↓それでー 扉を開けるとそこは…… トイレだった!! しかし、娘には不評だ。「お母さんきもいから早くはずして。怖くてトイレはいれないじゃん。」 と、言われた。ひゃひゃひゃひゃひゃ。『ナルニア国物語』早くみたいですね。
2006年03月05日
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旧岩崎邸といえばあの三菱財閥の人たちが住んでいたというおうち。すごいぜ。 明治初期に立てられた洋館。上野の不忍池のすぐそばです。前々から一度は見たいと思っていたのです。このてのお屋敷を見るのは好き。庭園美術館も二回いきました。これはかつての宮さまのおうち。 それで、旧岩崎邸ですが、ひろいですよ。敷地が。門から入ってかなり幅の広い坂道をしばらくのぼります。そして入館料を払ってからです。玄関の前にはロータリーもあり。このおやかたができた当時は車なんてないから馬車でここまできたのかな。お屋敷も広いしね。だって玄関に暖炉があって、廊下に暖炉があってもちろん各部屋にも暖炉があって、全部で十五もあるんだそうです。私は真冬に行ったから、寒いだろうなこんな広いお館っておもったんだけど。だって天井たかいでしょ。天井高いと熱はみんな上の方に行っちゃうから寒いんだよね。カリフォルニアならいざしらず。なかなかあったかくならないんだよね。しかも途中から暖炉はマキをやめてガス管通してガスバーナーによる暖房に切り替えたらしいのです。さむいよ。これって。いくら大きなおやしきでもね。寒いんじゃ住み心地悪いと思うよ。夏に見に行ったらぴんとこないけどね。それで岩崎一族はもうこういうところには住むのやめたのかしら。でも、広いから玄関も廊下も暖房入れなきゃいけないんです。光熱費馬鹿にならない。20畳はあるようなひろーい客室。室内全てにひかれたじゅうたん。レースのカーテン。豪華な壁紙。そうそうサンルームがありました。なるほどやっぱり寒いんだ。でも、ここでのーんびり読書したら気持ちよさそうです。そして豪華な中央階段。うーん。こんなすごいおうち。一生住む機会ないな。でも、大変だから住みたくないけど。だってここに住んでたとうの岩崎さんたちもこの館は接客用で実際には隣につなげて作った日本住宅に住んでいたらしい。っていってもこっちの和風住宅もすごかったけど。奥の座敷は十八畳はあったかな。そして床の間だけで四畳はあったもの。それでも、洋館よりは天井が低いし、やっぱり日本人は畳の生活の方がいいみたい。さらに地下室があってそこから離れのビリヤード専用のスイス風の別棟にいけたらしい。いやゴージャスゴージャス。でも、ほんと。私はこんなでかい家すみたくないな。だって掃除大変だし。人を雇うとめんどくさいし。だいいちちょっくらコンビニなんて気楽にいけない。門までが遠いので外出もめんどくさくなりそう。そうすると何日も家の外に出ないなんて、まるでヒッキー。でも、こんな強大なおうちに住んでたら、いくらおこもりしてても、ヒッキーなんて言われなさそう。環境は静かだし、読書進むかもしれませんね。 明治は遠くなりにけり。 そしてこの旧岩崎邸の横の坂がかの有名な「無縁坂」でした。ほー。こんなところに。 そこから車を止めた所まで戻ると、そこがなんと東大のまん前。東京に住んで何十年だけど、東大の敷地に入り込んだのは初めて。建物はりっぱだし、広いし、中まで都バスが入っていくし、都バスの停留所が東大の中にあるらしい。すごい。普通はせいぜい校門の前でしょう。うーん。東大ってすごい。私も東大生になりたーい。こーんなりっぱな大学、一度見たら確かに入りたくなるかも。それにしても確かに立派。いかに税金つぎ込んであるかわかろうというもの。他の大学もみたーい。上野から本郷まで歩いてちょっと。わずか五分くらい。このあたりほんとーに一等地なんだな。
2006年03月04日
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頭痛は風邪と同じに万病の元ともいえるかなりポピュラーな病気だと思っているんだけど、世の中あんまり頭痛に縁のない人もいるらしくて、頭痛の話をしても、あまり通じない場合がある。ポビュラーな割りに頭痛になる人間はしょっちゅうだけど、関係ない人はほとんど関係なしで暮らしている。 しかし、風邪がいろいろな病気の初期症状と似ているために万病の元といわれるように、頭痛もまたその原因は多岐にわたり、場合によっては死にいたるような深刻な病気が原因だったりする場合も多い。 にもかかわらず頭痛の原因も治療法も改善法もいまだに解明されていないし、あまり研究されているようすもない。 癌治療は医療界の花形のような病気だけれど、水虫とか頭痛は難病よりずっと悩まされている患者が多い割りになおざりにされている感じである。 風邪もまだまだ研究の余地はたっぷりあるらしい。しかしとりあえず、風邪にかかったら、風邪薬はあるし、寝てればいつかは直るということでまわりにも大目に見てもらえるからいい。けれど、頭痛と言うのはどうもひと癖も二癖もあってめんどくさい。 昔、たしか「カネボウヒューマンスペシャル」のドラマだったんだけど、布施博主演で、その奥さん役が藤田朋子で、主人公が脳腫瘍で死んじゃう話。たしか脳腫瘍だったと思うんだけど、ちがうかもしれない。とにかく脳の病気。このドラマの最初がニューカレドニアに新婚旅行に行くシーンで、ニューカレドニアの海の上に一つづつコテージがあってそこに主人公夫婦がとまるんだけど、このホテルがすっごいすてきで、私も一度行きたいと思ったのですよね。いやこれは関係ないですね。とにかくその後、新婚生活が始まるんだけど、ある日ダンナが頭痛を訴え始める。しかし、原因は不明。それでも、ダンナの頭痛は毎日続いていっこうに直らない。原因不明と言う事で神経科だか精神科だか、心療内科だかの医者に行くとそこの医者が「急激な環境の変化のせいでしょうから、ご主人が嫌がっても会社に行かせるように」って言うんだよね。急激な環境の変化って言ったって結婚したってことですよ。新婚が何で頭痛につながるんだかわかんないですけど。それでそうこうしているうちに、病状はどんどん悪化していって、実は脳の病気だったって事がわかって、結局治療も間に合わずに死んじゃうんだよね。 うーん。つくづく病気って怖い。そんでもって医者ってのも怖い。 医者の判断が必ずしも正しいとは限らないって事さ。だから最近はセカンドオピニオンも社会的に認知されてきたし、医者のはしごもした方がいいと言われ始めている。 うちの長男が喘息になったときも、何軒も医者にかかって見たけれど、なかな喘息の診断が出なくてはっきり喘息と言われるまでかなりの日数が必要だった。その間長男はずっと苦しいままだったのだから、本当にかわいそうである。 喘息はかなり微妙な病気なので、専門でない限り医者サイドは専門の薬を処方したがらない。だからとりあえず、吸入だけして軽めの薬だけ出してあいまいに診療を終わらせる。とりあえず医者なんだし、可能性があるなら病名を言ってその手の医者にかかって見てくださいぐらいいえばいいのに、本当に医者ってのは何を考えているんだか。 この時私はつくづく「わかんないなら、わかりません。すいません。て言えよバカヤロー」って思った。さもなきゃ「他の医者に行って見てください」とか、とりあえず自分が考えられる自分の専門外の病名を患者に情報提供するくらいして欲しい。医者ってのは知りすぎているから、患者も当然わかっているだろうとでも、思っているのだろうか。自分の所に来たと言う事で今現在自分がやっている専門科目内でしか患者の病気をしらべない。大学ではちゃんと一通り勉強してるはずなんですけどね。その知識はどこいっちゃったのかしらねー。 医者ってのはプライドが高いらしくてわからなくてもわからないとはまず言わない。だから診察して原因がわからない時はまず、痛いと言ってる患者の気のせいだとか、大げさだとか、まるで患者が悪いようなものいいをする医者がいる。その次が精神的な理由じゃないですかというやつである。病気の原因がわからないのは、現在できる医療の限界を超えているからであって、まだ判明していない病気だからという場合もある。にもかかわらずとりあえず、調べてわからないんだから病気じゃないという判断をするってのはどういうことだ。謙虚さがたりないんじゃないの。いくら医療の最前線なんていったって今現在の最前線なのであって、百年いや五十年たてば今現在2006年の医療知識や常識なんてむかーしのフルーイものでしかなくなるのにさ。 というわけで患者としては医者をまんま信じているわけにもいかないので、自分で情報収集するしかないのである。しかし、こうなってくると、今度は中途半端にネットや本なんかで知識を仕入れてきた患者に医者の方が閉口していたりするわけでありまして…うーん。 と言うわけで長男が頭痛の時もCTスキャンだか、MRIだかと、脳波の検査をして原因がわからず、「じやあ原因はわかリません」と最後の診察で言われて終わり。原因わかんなくても今現在頭痛いわけでして、「そっちの方はどうしてくれるのよ」と言ったのだけど、それ以上の対処はまるでなし。相変わらず腹のたつM病院なんだけど、この地域ではやっぱりあそこしかないしくっそー。しょうがないからいつもの主治医のセンセーところでいろいろ訴えた挙句じゃあ「起立性調節障害」でしょうと言う事で、血の巡りのよくなる薬?かしら。とにかくそんな薬を出してもらって半年ほど飲ませていたら直ったみたい。 私も頭痛もちなのでちょっと疲れてくるとすぐ頭痛になるので一粒飲んだらバシーっと効くような頭痛薬はないものかと思うんだけどいまだにそんなものはでてこない。寝不足が続くとなるのが偏頭痛ってやつでこれはとにかく寝れば治る。しかし、最近は肩こりのせいで頭痛になるので寝てると体が固まってますます頭痛になるので困る。これはパソコンのやりすぎとか、ゲームのやりすぎとか、よく考えれば馬鹿みたいな原因だったりもする。ほどほどにしよう。ダンナは最近肩もみしてくれなくなったし、あのアンマ椅子買いたいなー。でも、ほかにも歯が原因だったり脳腫瘍が原因だったり、血流内の脂肪が多すぎるせいとかいろいろあるみたい。他にも歯科矯正の器具があっていない場合なんかもあるよね。あれは何年もかかるしねえ。 頭痛は神経内科に行くらしいんだけど、そんな看板だしてるお医者さんてなかなかないし、頭痛の専門医なんてめったにいない。名医なんかなおさらいない。しかも、名医名鑑なんてのもおよそあてにならないし。 あーいっぱい書いたら少しすっきりしたー。 あんまり肩がこるんで久しぶりに磁気ネックレスをつけたら一日でなくした。私ってただの馬鹿?
2006年03月03日
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昨日見に行った『THE有頂天ホテル』。ナルニアを見たいと思ったら来週からだったので、やむなくこっちにした。日がたつとどうでもよくなってきたのと、ブログでの評判がいまいちだったのでどーしよーかなーと思ったんだけど、他に見たいのは『ナイトオブスカイ』。これは今行くのはだめ。と言うわけで後回し。他にないのでやっぱり有頂天ホテルにしたのでした。 結構おもしろかったですよ。笑えたし。やっぱり三谷幸喜はすごいなあ。コメディって悲劇よりむずかしいんだよね。悲劇は主人公をいじめたり、不幸にしたり殺しちゃったりすれば大体泣いてくれるけど、人を笑わせるのってむずかしい。でも。三谷さんはウイットのあるセンスのいい笑いがかける日本人には珍しい逸材だなーっと思ったんだけど。落語のような趣味のいい笑いは近年減った。くそまじめなつまらない日本人が増えて下品なテレビのバラエティー番組の中でコメディアンにひどい事をさせてコメディアンがひいひい言って泣きそうな顔をするのを見て笑うなんていう下品この上ないようなものが増えた。あるいは相方の頭をしょっちゅうひっぱたくような漫才は私にはどうみても不愉快なだけでちっとも面白くない。と言うわけで私の権威によって我が家ではあまりバラエティは見ない。 そんなことはいいとして、素直に上品な笑いです。楽しくきもちよく見れました。 でも、ステージマスターとスタッグマスター(このあたりよく覚えてないのでまちがってるかもー)をひっかけてるのはちょっと苦しかった気がするのですけど。鹿の交配くらいでその専門の業界が「マン・オブ・ザ・イヤー」を選んで大手ホテルをかりてパーティーまでやるなんてことあるのかなー。どーもこのあたりの設定苦しいですね。 それと、松たか子がうそをつき続けて、金持ちの愛人のふりをしたままなんだけど、別にその場で違いますって謝っちゃえば済みそうな気がする。私生児の我が子の父親である佐藤浩一演じるところの政治家兼元恋人に対してのあのセリフも今一説得力も迫力も感動も感じないし、あの程度でころっと気が変わる政治家もなんだかなー。政治家武藤田にとって篠原涼子演じるコールガールと元恋人松たか子の二人はどっちがいい女なんだろう。 巨大ホテルのはずなのに結局総支配人は仕事らしい仕事もしてないし、お部屋係りは二、三人しかいないし、ベルボーイも一人しか登場しないので(実際にはもっといるんだろうけど)、ラストの頃にはだんだん中小レベルのホテルのように気がしてきて、最後のカウントダウンパーティーもなんかいまいち地味だったしね。 それにしても真吾ちゃんは、あのでっかいカフェオレ結局飲めたんだろーか。 くそー映画予告に「ゲド戦記」がなかった。くやしいよー。見れるのはもっと先かしら。
2006年03月02日
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長男に「アメリカの問題点てなに?」って聞かれた。そんな事私は今まで考えた事もなかったよ。うーん。しばし考えて「やっぱ黒人問題かな。」と答えた。 昔アレックス・ヘイリー原作の『ルーツ』が話題で、しかも放映されたのが夜中だったので、無理して夜更かしして見ていたものですが。当時はビデオもDVDもなかったもの。だから録画しといて、昼間見るなんてできませんでしたから。白人がアフリカ大陸に行って、黒人であるアフリカの原住民を捕獲して、アメリカ大陸までつれてきて、奴隷として働かせるところから物語りは始まる。それでこの時の黒人の主人公がヘイリーのご先祖さま。そこから現代に至るまでの話が語られている。ヘイリーはずーっと自分の先祖(つまりルーツ)をたどって調べていって、自分の先祖がどんな風にしてきたかを小説にした。その小説のドラマ化されたものである。 リンカーンの奴隷解放宣言や人種差別の排除は随分語られてきているけれど、実のところやはり現代社会においても、現実として人種差別は相変わらず存在しているのであろう。アメリカには公的に健康保険は存在していない。アメリカ社会の中での貧困層への待遇はかなりひどい。日本の場合生活保護や国民のほぼ全員が加入している健康保険、年金などがあるが、アメリカにはほぼないらしい。社会の上層部においてはかなり充実した保護システムがあるが、貧困層をフォローするシステムはあまりない。アメリカで生活しようとすればマイカーを持たないかぎりちょっとした移動すらままならないらしい。日本のように鉄道が普及していないし、あまりにも国土がひろすぎて、国内の鉄道の充実はとても望めないように思える。 アメリカという国は金のあるものにはかなり居心地のいいところなのだけれど、ビンボーニンにはやさしくない。いい思いをしたければ自力でのしあがれということらしい。アメリカは今、ごく一部の富裕層に国のほとんどの富が集中しているらしい。 去年のカテリーナ台風事件といい、多分アメリカの国政をにぎるエリート層は、社会の底辺部の貧民層を何とかしようという気はないのだろう。日本のように公的な健康保険や年金、教育などの社会保障を充実させれば、貧民層を救い上げる事はできる。しかしそれをすれば莫大な金がかかるということ以上に、アメリカの中の黒人層の社会的な地位があがってしまうかも知れない。そしてアメリカ社会における黒人が社会の上部に入りこみ、白人とフィフティあるいは黒人の方が多く社会の上層部に食い込んでしまったとしたら…。多分アメリカは黒人にアメリカ社会の上位の地位を奪われることが恐ろしいのだろうと思う。だからアメリカはいまだに公的社会保障は充実させようとしない。しかし。現在アメリカでは黒人だけではなく、白人の中にも貧困層が増え始めている。一部の人間が社会の富のほとんどをしめるような社会はあやうい。しかし、白人だけに社会保障をするわけにもいかない。それは明らかに人種差別になるからだ。 どんなに人種差別を否定しても、理屈で理解しても、白人の中にある黒人への蔑視はそう簡単にはなくならない。白い透き通るような肌、小さい唇、金色の髪などが美の象徴である中で、その対極にあるような黒人の容姿は彼らの中の黒人蔑視の意識をそんなに簡単にはぬぐえない。 白人だけを貧困から救い上げることができない以上、黒人を社会的に同じアメリカ合衆国の国民として同胞として認めない限りアメリカはすくわれない。このままで行けばアメリカのほとんどが貧困層へと落ちていくかもしれない。そしてそうなれば富裕層もまた、自分たちの富を維持できなくなっていく。SF映画や小説の中で未来のアメリカが貧困にあえぐ姿はけっして製作者の頭の中だけでの想像では終わらない。 それ以外の解決策としてはアメリカを完全に二分して白人の国、黒人の国、をつくりあげるしかないかもしれない。しかしそれはそれで新しい問題が出現しうる可能性もまた多い。 ところで、日本も他人事ではないですね。黒人はいないけど。あいかわらず薄識な思い込みで書いてる長文。ごめんなさーい。
2006年03月01日
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