全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()
なんとこんな昔の少女漫画が最近映画化されたんだって。 キリスト教による幼稚園から大学までの一貫教育を行う天下のお嬢様学校「聖ミカエル学園」に通う、ハグレモンの女の子三人のお話 ビックリ何ですけど、家捜ししてみたら、ちゃんと我が家にありました。三冊きちんとそろって。しかも、内容すっかり忘れてました。私が買った本なんだから、絶対読んでるはずなのに、ほんとに見事に内容覚えてませんでした。だから、読み直したんだけど。歳月とは恐ろしいものだ。なにしろ初版は、1989年ですからね。三十年近く前。なぜいまさら映画化なのだ。しかも、内容は原作とは別物に近いらしい。ま、所詮映画化なんてそんなもの。もう私は期待してません。 でも、原作を読み返してみると、これが結構馬鹿にできない。 川原泉といえば、おちゃらけ漫画ばっかり描いている楽しい漫画家さんだけど、でもこの作品。ぬぬ。おぬしできる。どうしてどうして、学のあるのがばればれです。おちゃらけたふりして、何してんですか。 だってね。イエス・キリストがユダヤ人の商人に税金払いたくないと聞かれたときの有名な名セリフのエピソード「カイザルのものはカイザルに」とか、サムソンとデリラの話とか、知の無知の話とか。 うーん。なかなかどうして。 映画見るより、原作読んだほうがいいよ。絶対。 それにしても、あんなお嬢さん学校、ほんとにいまだにあるのかしら。庶民の私なんかにわかるわけもない。 少女マンガ
2006年09月30日
コメント(8)
昨日本屋さんで『フラワー』を見たら、萩尾望都の短編が載っていたので、久しぶりに立ち読みしてしまった。 そうしたら、主人公の中学生の男の子が、未来の自分を見てしまう話。何回かふらっと見ることになる自分がどうも一、二ヶ月後に死ぬらしい。これはやばいと思った少年は今まで、消極的だった生き方を変え始める。そして、彼はみずからの死ぬ運命を変えることができたらしい。 うーん。なんか最近、こういう時間軸のネタの話が多くなった気がするんだけど、何ででしょう。いい話だったんだけど、イルマーレを見たばっかりだったので、「またかー」という感じしかしなかった。つまり、テーマは同じなんですよ。 ところで、未来から、過去の運命を変えるとその後どうなるのか。たとえば、未来で自分が死ぬことを知って、死なないように手段を講じて生き延びることができた場合、死んじゃった自分がいた世界はどうなるのか。 SF的に科学的には、もしそれをした場合、自分が死んだもうひとつの世界もそのまま存在している。パラレルワールドの自分が死なない世界に乗り換えただけだと説明される。つまり本当には、悲劇を回避できていないことになる。だってあっちの世界には、そのまま不幸な自分がいるわけだから。 だとすると、漫画の主人公や、イルマーレの登場人物ももうひとつの世界にずれ込んだだけということになる。 しかし、こういう科学的解釈は、理論的には納得できないこともないけど、文学的には、いりません、そんなものって言うか、そういうもうひとつの世界は、物語の中には、存在する感じを受けない。というか、なんというか。 ホーキンスによって時間が飛べないと証明されたんだから、もうひとつの世界もありえない。 時間軸はひとつしか存在しない。 過去を変えることも、未来を変えることもできたとしても、時間軸はひとつだけ。 たった一枚しかない、CDに、上から何度も情報を書き換えていくようなもの。かも知れない。 たとえばブログの記事を修正して、それを上書き保存していくのに似てる。 だとすると、未来を知って過去を操作するということは、どういうことになるんだろう。 もし、できたとしたら。いえね。時間は飛べないんだから、ほんとはそんなのもナシなんだけどね。そういえば、何度も、時間を操作して、過去の不幸な出来事を何とかしようとする話があった。萩尾望都の『銀の三角』なんだけど。これは今の自分たちとは全然別の世界に存在するものが、ゲームのように、いろいろと運命を変えようとする、まさに、サイエンスファンタジーだった。話がレベルが高くて、全部理解しきるのは難しいけれど、絵が美しくて、ストーリーに無駄がなくて、名作だと思うよ。時間とか、運命とかっていったい何なのだろう。
2006年09月29日
コメント(6)
![]()
輝くような素敵な未来に出会うために、今、何をしたらいいんだろう。 ラブストーリーではありますが、作品中に盛り込まれたたくさんのメッセージにどきどきしながら見てました。 特にすばらしかったのが、未来のケイト(サンドラ・ブロック)のためにケイトが住むマンションの玄関の前に、アレックス(キアヌ・リーブス)が苗木を植えるシーンです。アレックスの時代にはまだこのマンションは建設中なのですが。(だから、できるんだけど。)時を越えて手紙をやり取りする二人を表現する中で、二人が同じ場所にいるシーンが何度も出てくるのだけれど、特にこのシーンでは、アレックスが植えた次の瞬間に、マンションの前にいるケイトのすぐそばに一瞬にして成長して大きく葉を広げた木が映し出されるのです。こんな風にリアルタイムに見せられることで、現実には今植えた木が将来どのくらい育つのかわからなくても、未来のためにたくさんの木を植えたい、自然を大切にしたい、未来に生きる人たちのために。そんな思いにさせてくれる、素敵なシーンです。今自分がする行為が未来に生きる人にどんな風に影響するのか。とてもわかりやすい場面なんですね。 「タイムリープなんて普通のことだし」と語ったのは、アニメ『時をかける少女』の中に登場する和子おばさんですが、最近本当に、タイムリープや、タイムスリップや、タイムトラベルは、SFではなく、ごく普通のドラマに使われるネタになっていて、時間を飛ぶくらいじゃSFですとは言えなくなっているくらい、確かに普通のことですね。(現実ではもちろん普通じゃないけどさ。)本来SFであったはずのアニメ『時かけ』は、普通の青春ドラマとして作られていたし、昨年末に放送された戦争ドラマ『終わりに見た街』もタイムスリップしているのに、普通のドラマの扱いでした。 そして、アメリカの有名な物理学者ホーキンスによって、時間旅行や、タイムスリップがありえないことを証明されてしまった今、SFでは、禁忌であったはずのタイムパラドックスを破るような物語が出現し始めているのもまた、面白いなあと思う昨今です。どうしてタイムトラベルがありえないのかは私なんかには全然わかりません。証明の論文も当然読んでないし。てか、あるの、そんなの。でもとにかくできないんだって。ちょっとつまんない。がっかりだなあ。 なにしろ、今まで、SF小説ではタイムパラドックスを起こすような行為をすることは絶対禁忌でしたから。そのためにずいぶん悔しいような、苦々しい、いらいらする思いをタイムスリップ系の話で味わってきましたが。だから、この手のものは今までは、必ず悲恋だった気がします。 それが最近、逆にあえて、未来から過去の出来事に干渉するような、タイムパラドックスルールを違反するようなお話が作られ始めていて、面白い。ここでこうしていればうまくいったのに、ということを実際にやってみて、運命をいい方向に変えていこうとする物語ですね。 そして、そういうパラドックスをあえて無視することで展開していくこの物語に、見ている側は新しい発見と爽快感と心地よさを感じます。そして、そういう展開の中で、自分たちがどんな行動をとれば未来はよくなっていくのかを改めて考えさせてくれる物語といえます。 特にこの物語では、親子の関係が描かれています。すでにいない父をとても大切に思うケイト、父親と意見の対立に悩むアレックス。「どうして前の男性と別れて自分の父と結婚したのか」と、問うケイトに対して、「だから今あなたがいるのよ」と答える母。有名な建築物しか作らない父に対して、ごく普通の大衆向けの住宅作りにこだわるアレックスの行動は、暖かい家庭を与えてくれなかった父へのアンチテーゼなのか。心の叫びなのか。それでも、あえて、父が設計し、子供時代に暮らしていたかつての湖の家を、わざわざ購入して住んでいるということは、やはり彼は父からの愛を求めているのだろうから。ケイトの計らいによって父の愛を再確認して、湖の家の中で涙を流すアレックス。 お互いにお互いを思って、小さな気遣いを、二年という歳月を乗り越えて伝え合う二人の優しさをみせてくれるエピソードの一つ一つもまた、感動を誘うのです。 二年前。まだアレックスを知らないケイトに出会うアレックス。サプライズパーティーでケイトと踊るアレックスのいとしそうな表情はまるで、若紫を大切に育て、彼女が成長する日を待っていた光源氏のようでした。そう、二人は運命の恋人だけれど。やはり、くるべき時がこなければ結ばれることは許されない。もっとも、光源氏も我慢できなくて、ちょっと早めに手をだして、若紫の怒りを買っちゃってましたけどね。 本来出会うはずのない二人を出会わせたものは何なのでしょう。 それはアレックスの父が愛を込めて作った湖の家にこめられた力なのでしょうか。 人が愛して大切にしたものには魂が宿ると言います。 二人が別別に暮らしていた同じ一軒の家。アレックスの父が愛を込めてつくり、ケイトが大切に暮らした湖の家が父との心のずれに孤独を埋めきれないアレックスのさびしさとリンクしたのかもしれません。 自然も家も人もどれもみんな大切にして暮らしたい。 素敵な未来に出会うために。 ところで私はあの湖の家にはちょっと住みたくないなあ。だってものすごーく寒そうなんだもの。夏は涼しくていいとは、思いますけどね。前面ガラスぱりで、湖の上に立ってるなんて、絶対寒いよ。どんなに暖房入れたとしてもね。それに、前面ガラス張りなんじゃうっかり裸で家の中歩き回れないじゃん。いくら隣近所に一軒も家のない場所だといってもね。それになんか怖い。落っこちそうで。それにしてもこんな家の中にいるのにまるで外にいるような気がする家、流行ってますね。 私も自分の家を大切にしないといけないのかも。お掃除まじめにしませんと。片付けもね。と、思いつつ、ゲームに夢中でサボってます。すみません。 ちなみにラスト、泣きました。最近涙腺がゆるいのかなあ。 アクションものの多い二人ですが、しっとりとした恋愛映画、ぴったりはまって素敵でした。しょうゆがおのキアヌ・リーブスが素敵。『マトリックス』で有名だけど、私は彼の『雲の上で散歩』も好きです。いつもおてんばなサンドラ・ブロックも、聡明で心優しくて、ちょっとさびしがりの女医さんがかわいかった。イルマーレ公式サイト 予告編をご覧ください。
2006年09月28日
コメント(2)

FC2ブログを読みに行ったら記事一覧の機能ができていました。おお、ありがたい。 私が楽天を好きなのは、とにかくいろいろ不備はあるにしても、記事一覧があるからです。よそのブログをいろいろ見に行くととにかく過去記事を見るのが大変。映画ブログとか、検索機能がついていればまだ、なんとかなりますが、それでも、過去の面白そうな記事を見つけ出すのが大変。 一生懸命書いてるのに、一日ないしは数日で読んでもらえなくなっちゃうなんて悲しいじゃないですか。ブログってでも、所詮そういうものではあるけれど、ほかの人の記事だって過去の面白い記事読みたいです。でも、ほかのところはなにしろいろんなブログがあるので、それぞれシステムが違っていて、どこをどうしたら、過去記事が読めるのか、探し出せるのか、わからないことが多いです。 だから、記事一覧がある楽天はすばらしいと思うよ。ほかにこの機能のあるところって少ないんですよね。てか、この二つ以外知りません。場合によっては、月ごとに記事が数行出てくるものもあるけど。それでも、タイトルだけの一覧があるとすごく助かる。 過去の記事でも、コメントいただくとすごくうれしい。わたしは、全部見てますから、過去記事でよもろしかったら、気にせずコメントくださいね。ちなみにコメントつけても、お返事をぜんぜんいただけないところもある。ちっとさびしい。 ということで楽天さんこれからも、がんばってね。 ところで最近トラックバックがすごくつけにくいし、つきにくい。これは楽天のせいだけじゃなさそうだけど。それでも、何とかなんないですかねえ。トラバのURLをコピーすると、三つくらいつながってでてきたりとか、するし。 トラバは、もらうとうれしいので、早く何とかしていただきたい。 もらったトラバを張り返しに行くと、どうしても、トラバがつかないときもあります。何でなんでしょう。とにかく何とかなんないでしょか。 よろしくお願いしたいです。 『秋景色』
2006年09月27日
コメント(8)
![]()
感動しちゃった。ネタバレしつつ書きますが。 母は強しデスね。 飛行機の内部構造をこんなに見事に見せてくれた映画って初めて。フードサービスの一部にあんなエレベーターがあるなんて予想だにしていませんでした。本当にあんなところにあんなものがあるのでしょうか。それとも映画のための丁稚上げなのだろうか。本当だとしたら、すごいですが、あんなにいろいろな飛行機の中の内部事情を公開しちゃっていいのでしょうか。これから飛行機に乗る人がまねしちゃったりしないのですか。心配であります。だって、トイレの上にも天井裏に抜けられるドアがあるなんて。 もっとも、アクション映画によくででくる、普通のビルに設置されたエレベーターの天井部分の脱出ドアだって、本当はないそうだから。やはりあれはあくまで架空の構造なのでしょうか。誰か教えてほしいよ。 ただ、あの構造が本当だとしたら、すごいなっと思いつつ、手に汗握ってみてました。だって、天井裏やら、貨物室やら機械室やらあっちからこっちまで行くのに、いくらでかい巨大旅客機とはいえ、閉鎖された限界のある密室空間の中を駆け巡りまくりの映画ですからね。 それにしても、子供のいない人とか、まだ若い人だと、ただのヒステリーばあさんにしか見えないだろうな。 スタートからすでに死んでるだんなの遺体なんか出てきて、なにやら異様な雰囲気です。ぴりぴりした感じのヒロイン(ジュディフォスター)ですからね。そして、さらに六歳の子供にしてはやけにおとなしくてびくびくしてるヒロインの娘。いくら父親が亡くなったばかりとはいえ、不思議な感じをあおるわけです。その上すぐ前の席にやたらにぎやかでやんちゃな子供が登場してくることで少女の違和感はなおさら。タクシーに乗る時も、飛行機に乗る時も、誰も見てないような状況作りからして、見ているこちら側は、もしかしてこの少女は主人公の意識の中にだけ存在する幻影なのか。ヒロインはちょっとおかしいのかな。という展開だと、信じ込みそうになってきます。もちろん、作る側はそれが狙いなわけだから。でも、中盤に差しかかるあたりで、あまりにそれらの設定がありすぎなので、これはもしかすると、少女は生きて現実に存在してるんだろうなと想像するちょうどそのあたりで、実際に誘拐され、貨物室に隠されている少女の姿が映し出されるわけです。やっぱりー!とみてるこちらもうなる。そこからストーリーの流れが一気に変わり、全体にアクションものになり始める。母は強し。ここではやり、子供をもつ母だからこその切迫感なわけで、これが父親とか、だとどうでしょうね。子供を奪われているという設定ゆえにこそ、主人公の必死さにみてるこちらも必死になってみてしまいました。 私も娘が誘拐されたら、命がけで助けるぞー。 「娘なんていなかった。」「すでに死んでるんだ。」「飛行機に乗った記録はありませんよ」なんて言われちゃうと果たして人間はどこまで自分を信用できるものなのか。説得する側は、保安官、キャビンアテンダント、機長と、飛行機の中では絶対信用できるはずの人たちなのだから。「絶対安全で信用できるやつが一番危ない」と言うのは、推理小説の常道なんだけど、もし、現実にこんな状況下におかれたら、はたしてどれくらいの人間が、自分の記憶の方が正しいと信じきれるか。そして、相手に主張しきれるか。 私わかんないです。その場になってみたいと。でも、他のことならいざ知らず、わが子のことに関しちゃ、やっぱりがんばっちゃうかもしれない。 それにしても、自分が設計したゆえに知り抜いているであろう機内を縦横無尽に移動し、ハイジャック犯と戦うジョディフォスターは圧巻です。 同じ設定でちょっと前に作られた映画、『フォーガットン』の駄作ぶりと、ネットのナカの評判ではあまりいい作品じゃないみたいなので、見るのをためらっていました。でも、やっぱり結末の謎がどうしても知りたいという欲求に、つまんないかもしれないのを覚悟の上で借りてきましたが、傑作じゃないかー。だれだ、つまんないとか書くやつ。 ただ、ハイジャック側の計画ってホントにこんなにうまくいくんですかね。もし、ヒロインがもっと気弱な人物だったら、どうなのかなとか。本当に誰にもきずかれずに、女の子を誘拐して隠したりできたものかなとか。ちっと疑問が残るんですけど。 「密室殺人」ならぬ、「密室ミッシング」の映画ですね。 これから、こういうカテゴリーが推理小説の中に確立すると、おもしろいかもしれない。殺人と違って、最後は必ず生きてどこかに隠れてる、ないしは隠されてると言う話も面白いじゃないか。
2006年09月26日
コメント(6)

先週に引き続き今週の日曜日も高校の文化祭見学してきました。 先週見たところがいいところなら今回の学校は別に行く気なかったんだけどな。 東京ナカの学校なので結構派手。しかも、よその高校の生徒が結構来てる。ヤマンバっぽい高校生もいたし、どれが、本生徒なんだか、わからない。よくあるパターンの制服なので見分けつかないし。 お行儀悪いというか、はじけちゃってるのは、まあイマドキの高校ならどこでもおんなじなんだろうな。だから、きちんとして、礼儀正しいことを要求して高校生を見ようとすると、見誤ってしまいそうで、文化祭を見極めるのは難しい。でも、あの学校は果たしてうちの娘にあうのかなあ。 娘の意見としては「食べるものがおいしかったから、結構よかった」ですと。おい、違うだろ。 でも、チアガールのダンス、なんとなく、時間があったので見てしまいましたが、よかったです。きちんとそろっていて、これは相当練習しただろうなというのがわかります。高校生ってかわいい。そんでもって、男子高校生が応援してて、若い子達は元気だなあ。他校に見学に来て、かわいい子いないかなと思ってみてるんでしょうか。女の子のミニスカートといい、エネルギーむんむんで有り余ってますね。若い子が元気なのは国に活力があるってことでいいことだと思うよ。お下品だけど。 ただ、美術作品を見ると、先週の学校のものの方がいい作品が多くて、質がよかった。技術的にも先週のほうがレベル上です。こういうところでちょっと考えてしまいます。 先週見た学校よりは気合があったけど、どうでしょう。もう少し近いところにレベル同じの高校がもうひとつあるんだけど、娘は制服がいやだって言うしね。 毎週文化祭で疲れましたが、この後いろいろと学校説明会もある。来年は忙しくなるから、今年いけるところは今年行ったほうがいいのです。 なんかめんどくさくて、受験生の母も大変です。しかーし、その横で娘は遊んでて、勉強しとりませんがな。 『奥入瀬 晩秋 』
2006年09月25日
コメント(6)
EBさんのブログで玉の井部屋のブログが紹介されていました。 いやー。このティーシャツすごいよね。 てか、英語がね。 NO CHANKO NO LIFE だって。 直訳すると、ちゃんこはいや。生きてるのもいや。 となるのかなと思ったら。 ちゃんこのない人生なんてありえない と訳すんだって。 この言葉は、某レコード会社のNO MUSIC NO LIFE ってのがネタモトらしいです。 音楽のない人生なんてありえない。おお、すばらしい。しかし、 英語って…わからん。 日本語と基本構造とかがそもそも違うんですね。 がーーーーん。そんでもってうーーーーーーん。 というかんじでしょか。 ところでこんなティーシャツ自分もほしいとか思いませんか。 CHANKO の部分に自分の好きな言葉を入れるといいわけですね。 NO CHOCOLATE NO LIFE とか、 NO RAKUTEN NO LIFE とか、 … これはちがうか。 ところでそんな自分だけのティーシャツが作れるところがあります。 ちなみに専門用語で、ドロップシッピングというんだそうだ。ますます英語ってわからん。 自分が着たいティーシャツをつくったり、自分で考えたデザインのティーシャツを作ってブログやネットで売ったりできるらしいです。ただのイラストだと売れないけど、ティーシャツにすると、以外に売れちゃうデザインてあるでしょ。楽天のフリマなんかで、自分のブログを介して、売ったりもできるわけだし。自分ちの猫ちゃんの写真をティーシャツにしちゃつたっていいもんね。 ちなみに私は以前ホワイトハウスで記者会見の時に後ろにかかってるホワイトハウスの絵をデザインしたトレーナーがほしいと思ったことあります。きれいなブルーだと素敵だろうなっと。でも、一枚だけなんて作ると高いし。 いまのパソコンて技術的には、自分でも、できるんですよね。でも、それにはいろいろ機会も必要だし、技術も学習しなけりゃなりませんしね。 でもって、もっとらくーに作れるらしいですよ。ここのサイトだと。私はまだ、作ったことないけどさ。 で、よくわかんないけど、普通の商売のように、在庫の心配とかはないらしいです。ま、一枚から作れればそりゃそうだよね。 場合によると、発送や代金回収もやってくれるそうだ。ま、商売もいいし、自分が着たいティーシャツを一枚だけ作るのもいいですね。
2006年09月24日
コメント(4)
![]()
武器商人といえば、映画では、悪役のはずなのに、この映画では、武器商人が主役です。ねたばれありありですからね。武器商人である主人公ユーリーの仕事ッぷりは見事なのものです。いくら主役でも、悪者なんだから、と思いつつ、コミカルで面白いシナリオにみているこちらはついつい主人公に味方して、気持ちも同調してみてしまう。インターポールのバレンタインに追われているユーリーが捕まりそうになると、はらはらし、うまく逃げ切るとやったーとつい応援してしまう。 しかし、ラストでいよいよ捕まってしまったユーリーが上からの圧力で釈放される。ここにいたって武器商人なんて所詮大きな力に使われる子飼いに過ぎない。と監督は語る。 戦争は儲かる。武器を売りさばくことはそれ以外のどんな商売より利ざやがいい。戦争より儲かる商売ができない限り、地球上から戦争がなくなることはないのだ。毎度何度も書いていることだけれど、戦争に頼らずになりたたせることのできる経済システムを作り出さない限り、世界から戦争がなくなることもない。その呪縛は国家すら、解きほぐすことができずにあえいでいるのだから。平和を訴え、国連軍を作りながら、その裏で武器商売をする現実を、じゃあいったいどうすればいいんだろうかと、映画を見終わった時、考えてみてほしい。 映画の冒頭でユーリーが言う、「地球上のすべての人間一人に一丁の銃を売るんだ」という言葉は、実はそれくらいになるまで世界の先進主要国はどこもみんな、平和と国連を言いながら、影で武器を売りさばいて儲け続けていることを、指摘しているわけだ。 ロシア人でありながらアメリカに亡命したユーリーは武器商人となる。タイミングよく、ソ連崩壊のチャンスに自身のロシア語とロシア国内の人脈を使ってかつてのソ連軍の武器をいち早く買い付けることに成功する。ここにいたって、なぜ彼が、ロシア人という設定だったのか納得なのだが。アメリカに住むロシア人とはなんとも皮肉なそして、絶妙な設定だ。 かくて、金持ちになった彼は雲の上の存在だと思っていた憧れの美女を妻にする。 美しい妻のために命がけで仕事をする男。 彼の現実に気づかないフリをして、画家や、女優を目指して自己実現に忙しい妻。 女の自己実現が男の命がけの仕事の上にあるという皮肉さは、なんともはや。 自分の人生を生きようとしながら、所詮夫の手のひらで踊っているに過ぎない女。 妻のために命がけで働き、あるいは妻の望みで武器商売をやめても見る。その夫もまた、国家という大きな力の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。 それは、正義を目指して自分の仕事に忠実に生きるインターポールのバレンタインもまた同じだ。 みんな自分の人生を必死に生きようとしながら、他者に踊らされているに過ぎない。それでも、必死に生きているんだ。 夫の仕事の真実を知って、「やめてほしい」と願う妻が、かつてモデルとして、夫の行く戦場のあらゆるとこに貼られていた彼女のポスターは、彼女もまた、戦争の上がりでその収入を得ていたという皮肉なのだろうか。 戦争の皮肉も、個人の人生の真実の皮肉も、いろんな意味合いで描かれていて、見終わってうーんとうなりつつ、納得する映画です。 そして、普通の人が普通に見て解りやすい。 ニコラス・ケイジ。相変わらず渋い。 ロード・オブ・ウォー@映画生活
2006年09月23日
コメント(2)

それにしても、岩波ホール入ったの初めてです。若い頃はしょっちゅう神保町あたりうろついてて、ここのことは知ってたんだけど、入ったことなかった。そして、いまだにプライド高い映画館だなあ。イマドキどこでもやってる水曜サービスもないし、整理券の配布もないし、席は高低差がほとんどなくて、すこぶるみにくいし。劇場は小ぶりなままですし。そして、自分たちがいいと思う上作しか上映しないその独自路線はいまだに変わらない。岩波ホールなら、まずはずれはないんでしょうね。名だたる単館上映館です。もっとも映画を見た帰りに「整理券配ってほしい」と他のお客さんが怒ってたけどね。 ちなみに今の時期はすでに以前ほど混んでいないと思います。ホームページには混んでますと書いてあるけど、休日以外は普通に行って、普通に座って見られます。それでも、平日でも、あの入りはすごいですね。満席まではいきませんけど。シネコンが当たり前の昨今。逆に単館上映の映画が新鮮であります。ところで、劇中に見合いの席に出すためにおはぎが作られます。戦中のもののない時代に、いくらやりくり上手な兄嫁とはいえ、小豆なんて、ずいぶん贅沢だなと思ったのですが、よくよく考えてみれば、おはぎというのは、春と秋の彼岸に作られる食べ物です。死者への弔いの食べ物なのですね。ここまで考えるにいたって、監督は戦争で死んでいった当時の兵士たちへの慰霊の気持ちも込めて、登場人物たちに劇中で、おはぎを食べさせたのだなと思いました。悦子の見合いの席で、明石と永与と、悦子がお膳を囲んで、おはぎを食べるシーン。何気ないもてなしのシーンだけれど、この中に監督は太平洋戦争で死んでいった人たちへの慰霊の思いを込めて、彼らにおはぎを食べさせたのですね。 静かで何気ない映画ですが、その何気ない描写の一つ一つに、監督の語ろうとするものが多くひそんでいる映画でもありました。 明石が特攻として飛び立っていったこともそののち死んでしまったことも、永与の言葉で語られるだけです。今までの映画であれば、戦闘機に乗っている明石とそのそばで別れを告げる永与。明石の最後の言葉、うなづく、永与。飛び立っていく戦闘機。太平洋上で撃ち落されるシーン。そんなのが画面にあったと思うのですが、この作品では、そういうような描写はあえて、一切なしなのです。 戦争を娯楽映画にしたくない。監督の作品は一貫して、静かに反戦映画なのだそうです。 もうひとつ、ところでですが、兄嫁役の本上まなみ。正統派の美人で原田知世と好対照でした。知世ちゃんかわいいけど、ちょっとしたすきにビンボーくさいところあるんだもの。そして、あの時代に珍しくかなり自分の気持ちをストレートにいうタイプ。現代っ子代表という感じで、あの時代の理不尽を現代人が見る時の違和感を見事に代弁してくれているのですね。「戦争なんて負けてさっさと終わればいいのに」とか、「悦子ちゃんが好きだから、悦子ちゃんと一緒暮らせると思って悦子ちゃんのお兄さんとと結婚した」とか、自分の本音をためらいなく、語る。とにかくよく喋ります。明るくてとても活発そうです。時代に泣かされない女性を対称的に描いてあるのもまた、計算されたシナリオの見事さなのでしょうか。 そして、彼女によって悦子が同姓にも好かれるような女性であり、明石少尉を慕っていることも語られて、見ている側は、すんなりと悦子の心の中に入っていくことができるのですね。 映画の中のおはぎがあんまりおいしそうだったので、私も始めておはぎを作ってみたけど、難しい。ラップのない時代に美しいおはぎを作るのは大変そうだよ。昔はみんな手作り。安くて、安全でとても、おいしい。今はネットのおかげでレシピにも苦労しないですむし。ちょうどお彼岸ですからね。
2006年09月22日
コメント(4)
![]()
願わくは花の下にて春死なん ヒロイン紙屋悦子の思う人は、紙屋家の前に咲く満開の桜の下を去って行った。紙屋家で悦子に最後の別れを告げた後に、戦地へとおもむいて行った。おりしも4月10日。沖縄特攻の直後である。 「昭和20年は確か、終戦の年だったよなあ」と乏しい知識を振り絞って見てるものだから、情けないです。あと数ヶ月で戦争は終わるはずなのになとか。 戦闘機乗りである自分は戦地で死んでしまうだろうことを考えた時、明石少尉は自分の思う女性を信頼できる友に託すことを決める。 惚れているはずの相手が見合いの話を持ってくる。 悦子は一度も明石少尉に好きだと告げたことはないし、明石もまた、彼女に告げたことはない。はっきりとした意思表示の言葉のほとんどないままに、登場人物たちはそれぞれに相手の本意を知り、相手の心を察して、ほとんど直接の会話のないままに、物語は進行する。 シナリオはとてもよくできていて、見事でした。 そして、まるで舞台のように、物語はほとんど、紙屋家の茶の間、客間、台所、玄関の前の桜の道だけで進んでいく。シナリオはとてもよく書き込まれていて、登場人物たちはとてもよくしゃべる。ほとんど、動的な演出のないまま、セリフがえんえんと続く。にもかかわらず、肝心なヒロインと二人の少尉の心中を語る言葉はほとんどない。しいていえば、見合いの席で、永与少尉が自分の本意をつい漏らしてしまうくらい。それすらも、会話の中にかき消されてしまう。 語ってはならないそれぞれの思い。 くしくも、『男たちの大和』の沖縄特攻のその直後に、明石少尉はその命を絶つのだけれど、『大和』や、それ以外の多くの戦争映画のように、血しぶきの飛ぶような残酷なシーンはない。ただ、ヒロイン悦子とその家族とその友人との、ごく静かな日常が描かれているにすぎないようでありながら、会話の端々に戦争の現実が語られる。 戦争の激しい描写を一切せずに、戦争の悲惨を語ろうとする監督の描写は見事である。 平和な時代であれば結ばれたかも知れない二人が、戦争ゆえに結ばれない悲しさは、物語の進むにつれて、切なく心にしみてくる。 自分のいなくなった後に、愛する人が幸せに過ごせるようにと、信頼できる友人を彼女に引き合わせるために、友と二人で紙屋家を訪れる明石少尉。 明石が悦子と永与のためにそっと紙屋家を去っていたことを、玄関先で知った悦子のせつなさと心の動揺がほんの数秒の時間の中で、原田知世の表情の微妙な変化だけで描写される。 そののち、特攻の前日に紙屋家を訪れた明石と悦子がお互いの思いを伝えないまま、お互いの思いを再確認する。明石が去った後の悦子の慟哭に涙がこぼれてしまった。 映画が始まった時、なぜヒロイン役に原田知世なんだろうと思ったのだけれど、映画を見終わった時、彼女だからこそ演じられた役どころなんだなと思った。 確かもう、三十は超えているはずなのに、彼女の少女のような笑顔は十代のデビューの頃と変わらない。そして、こんなに清らかな少女のままの笑顔がいやみなく、自然にできる女優さんも珍しい。というよりもこれは彼女の素地そのままなのだろうけれど。彼女の明るい、邪気のない、少女のままの笑顔ゆえになおさら、恋人と結ばれない女の悲壮が浮き上がってきわだつ。彼女でなければ、女の色気が表に立ちすぎてしまわない彼女だからこそ、見せることのできる演出なんだなと。 この映画で原田知世の演技はとても、見事だった。彼女がうまくなったのか、監督の技量なのか。この映画で始めて、原田知世らしい無理のない美しい演技を数十年ぶりに見た気がする。初めて、原田知世のもつ良さを前面に映し出して、原田知世ならではの演技と原田知世ならではの役を演じさせた監督はお見事。彼女のためにある映画だったと思う。 この作品は女がたってしまったら、ただのイヤミな作品に成り果ててしまうのだから。 言葉を語らずに心が語られる映画。久しぶりに見ました。チャン・ツイィーの『初恋のきた道』以来です。 願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃追記があります。『紙屋悦子の青春』公式ページ
2006年09月21日
コメント(4)
![]()
我が家にも庭はあるんだけど、花を植えようとか、花壇作ろうとか、そんな気にならない。 我が家はだんなの実家のそばなんです。姑が時々やってきて、庭の雑草も取ってくれます。結婚して、何十年、ずーっと。ところがその時に私が植えた花もとっちゃうんだよね。かつてはラベンダーを植えて薄紫の花を楽しんだりもしました。パセリも植えて見ました。どんどん増えてくれました。 ところが、姑の雑草刈りの時に「これは抜かないでね」と頼みもしましたが、気がつくとどんどん刈り取られてしまう。ちょっと気を抜くと、私が植えたいろんな花が抜かれて、刈り取られてしまう。 うちの母が植えた花も「これ嫌いなんだけど、抜いていいかしら」といって抜かれてしまったし。私もそれはまあ嫌いだったからいいんですけどね。 ちょっときれいな花を咲かせる雑草もぬかれちゃうし。 その上私の母は母で、勝手に花や木を買ってきて家主である私の意志を無視して、植えちゃうんですね。母が植えた最大の木は柿木三本。これがね。ものすごくよく虫がつくんだ。 毎年夏になると、急に暑くなった翌日にブワッと毛虫が増殖してる。鳥肌をたてながら、それを高枝切はさみで切って、殺虫剤をかけて、ゴミ袋に入れて捨てるのです。大変です。これは、山茶花にもつくな。 私が唯一やるのが毎年秋に植えるチューリップの球根。これだけは、やってます。何にもしなくても、翌年にはきれいな花が咲くし、所詮一年ものなので、姑に抜かれる心配もない。 ちっちゃなものは、いつ抜かれるか判らないし、庭木の大きなものは、私の趣味とは、ぜんぜん別物なので、毎年植木屋さんがやってきて、切っていきます。もうぜんぜん自分の庭じゃない。 たとえ私が自分で庭の雑草を刈ったとしても、私程度のやり方だと、てぬるいから、姑は気に入らなくて、やっぱり雑草とりにくるだろうし。何しろ姑は完ぺき主義のきれい好きなので、雑草は庭の隅の隅まで徹底的に抜いていきます。天晴れです。姑がいずれ、できなくなった時、我が家の庭はどうなるんでしょうね。 やっぱり、いざ雑草がもうもうとしてきたら、蚊が増えていやなものなのかな。 私はあんまり雑草を徹底的に抜いたりしたくないんですけどね。端っことかは残しといたり、本当はワイルドフラワーとかやりたい。 でも、当座はもう庭に関しては、私のものじゃないので、花を植える気もなーんにも起きない。 もっとも私はこの手のことは面倒です。好きじゃないだけかもね。だって抜かれちゃうなら、花壇作ったり、植木鉢でも、できるしね。でもでも、目の前に土の庭があるのに、植木鉢で花なんて情けないし。いやいや毎日水やるのが面倒なだけだ。 もう少しすると、植木屋さんがやってきて、庭の木はばさばさ刈られちゃうんだ。だから、春に花が咲かないんですよ。アジサイとか。 金木犀とか。 いつか自分の好きな庭を作りたい。 それでもはボケやかいどうや、金木犀、アジサイ、銀木犀、ボタン、百合、水仙、山茶花、椿、薔薇、雪柳、なんかが咲いて、少しだけ楽しませてくれますけどね。 やっぱ贅沢か。 そういえば高層ビルの上で花や野菜を育てると、高いところだから、害虫が来ないんだって。だから、農薬とか殺虫剤とかいらないんだって。そこらじゅうのビルの上が畑や花壇になったら、いいね。 まさに空中庭園ですね。いいなあ。 ↑この映画の場合はそんな優雅なものじゃないらしい。 ↑植えるなら今です。
2006年09月20日
コメント(4)

まだまだ、現役の総理大臣が伝記ドラマになっちゃうんですか、という驚きを発したのはうちの息子です。いくらもうじき引退とはいえ、普通はあと何十年かたたないとドラマにはならんでしょう。 でも、純ちゃんのためのドラマというより、ここ五年くらいの政界の裏話、ニュースではわからなかった真実。というところでしょうか。私がびっくりしたというか、知らなかったのは、 阿部さんが純ちゃんの訪朝に同行していたということ。金さんが謝罪していたということ。 ニュース見てたけど、そのあたりってみてないんだな。記憶にありませんでした。 森さんの干からびたチーズの話がわざとやった演出だったこと。 森さんのチーズとビールの話はやっぱり、普通あんなものわざわざ持ち出さないはずだから、なんかわざとッぽいなとは思ってましたけどね。なるほど、あの会談では、解散の根回しの話してたんだ。 田中真紀子さんが外務省のトイレで立てこもったりまでしてたこと。 田中真紀子解任事件は有名だけど、結局どっちが悪かったのか。ドラマでは、純ちゃんは仕方なく免職にしたようにえがかれてますけどね。それにしても、真紀子さん役の女優さん。品よすぎ。 面白いのは、このドラマで悪役なのが、亀井静香だったこと。対抗してたのは、民主党でも、社会党でも、公明党でもなくて、内輪もめが一番の敵なんですね。亀井静香の役どころ、しきりに首動かしてて笑えますけど、本人はこれ見てたら不愉快だろうな。悪役としては、役不足ですしね。どちらかというと、道化役と取れないこともない。 それにしても、郵政民営化が遅れて、純ちゃんの任期が伸びちゃったのは、北朝鮮事件のせいなんでしょうね。 番組の最後で、安部、谷垣、麻生の三人に質問攻め。みてると、みんなしどろもどろで、もうじき総理になるかもしれないのに、なーんにも考えてないんでしょうか。せっかくの機会なんだから、いろいろと自分の考えてる政策とか、言えばいいのに。どうみても、どんぐりの背比べですね。 谷垣さんが結構しゃべってましたね。それで、負けたくなくて、阿部さんも途中から一生懸命しゃべってましたけど。 とにかくそれなりに面白かったし、ためになったし、知らなかったいろんな部分が埋まりました。いろいろ関係者に聞いて裏を取ったのでしょうか。 ただね。このドラマ。今語る真実っていう感じのつくりだけど、ホントーはどこまで真実なのか。ちっと疑問。全部信じていいのかな。どうでしょうね。
2006年09月19日
コメント(4)
![]()
こまった。 昨日は都立高校の文化祭でした。娘の第一志望ですから、めんどーと思いつつ見に行きました。ところが。 去年見に行ったB校に比べて、というか、今までいろいろ見てきた中で一番ちゃっちい。つまんない。せこい。偏差値的には、今日みたA校の方が高いのです。去年みたB校の方が偏差値低いのに、文化祭はずっとよかった。活気があった。 今日見たA校は食品扱ってるお店も少ないし、イベントも少ない。生徒も内側しか見てない。学校外の人間が見に来てるのに、そういう外部者に気を配るとか、道を譲るとか、ぜんぜんありませんでした。普段学校はしつけとか、道徳的な教育の部分を育てていなさそうだなと。もちろんしつけは家庭でするものだし、すべて学校に頼って言い訳はない。でも、学校で過ごす時間は長いし、学校できちんとした教育してくれてるのがわかる学校もあります。ここの学校は、ちょっとどうだろう。偏差値は高いのですから、それなりにがんばらないと入れないはずだけど、がんばってここの学校入れるのかな。 とりあえずしょうがないからやってますという、そんな文化祭。文化祭が学校のすべてを語るわけじゃないし、文化祭がよかったからという理由で選ぶのはもちろんよくありません。 でもねー。やっぱり、文化祭で生徒がどんな行動をとるか、どんな内容の文化祭を企画できるか。そういうのって、普段どんな生活を送っているか、生徒の覇気がどの程度のものか、やはり語っているように思うのです。 A校を第一志望にするのを考え直そうかなとちょっと思ってしまった。どうしよう。 来週はC校の文化祭なんで、また、見に行くしかないのかな。それにしても、疲れました。普段運動してないので、この程度でも、ばてばてです。ぴやあ。
2006年09月18日
コメント(6)
![]()
カップヌードルのアメリカ進出の話だとばっかり思っていたら、どうも「マルチャン」がモデルらしい。そして、プロジェクトXばりのアメリカへの企業進出の苦労話とか、思ってたのですけど、ちょっと違ったみたい。確かに、アメリカにつくった工場の苦労話ですけどね。 結局買収とか、大量注文なのに、調理のための油が足らなくて調達しようとする話、自由の国アメリカの底辺の貧しさから抜け出せない現地の従業員と、現地に来た日本人正社員、結局は人の情と誠意がものを言う。 それなりに感動ものの物語ではある。世界に日本のカップメンを売ろうとした当時の企業の社員たちの苦労もわかる。しかし、現在そうして苦労して作り上げてきたカップメンの容器のせいでおきている環境ホルモンの問題と、それによる不妊症の増加などなどの現在の社会問題の出発点なわけであるのだから、単純に感動できない。 当時はもちろん、まだ、環境ホルモンなんて、想像もしていなかった時代だから、手軽で安価でおいしいカップメンを必死に売ろうとがんばった社員の人たちには、頭がさがるのだが、かれらの努力によって、環境ホルモンは振りまかれ、不妊症が増えていることをおもうと、その皮肉な状況になんとも複雑な気分になった。 おりしもこのビデオを見た、同じ日の午前中に民放テレビでやっていた「不妊症」の実体験ドラマ特集なんかみてたから、なおさら。原因は女にも男にもある。それらの悲壮さもプラスアルファであった。 がんばってきたその結果が逆に他人の不幸も呼んでしまう場合もある。つくづく運命は皮肉なのか。マーガリンの問題もあわせて、次はロハス、スローフードに目を向けるべきなのか。 そう思いつつ、時々カップメン買ってしまいます。食べてしまいます。でも、子供には極力食べさせたくないです。 うーん。この記事はタイトルは、映画なんだけど、内容は映画をきっかけに考えたことですね。とりあえずこんな映画です。
2006年09月17日
コメント(2)
![]()
尾木直樹氏の『子供の危機をどう見るか』のごく一部を読んでみたのだが、どうにも納得がいかない。違うじゃん。尾木先生の意見は結構好きだったのだが、これはどうにも納得いかない。 子供を育てる上で家庭のもつ役割は大きい。しかし、現代その家庭のあり方が大きく変容し、子供を正しく育てる機能が失われつつあるのではないかというのは、この著者のみならず、現在多く言われていることでもある。 その理由として、あげられるのが、 携帯の普及。子供部屋の充実。朝食の孤食化である。 そして、家庭のホテル化であると、尾木氏は述べる。その結果、家族のコミュニーケーション不全に陥っていると言うわけである。 しかし、この文章を読んでいくうちに、なんとも理想化された幻影とも言える家族像にいささか不可解なものを感じざるを得なかった。この中にそして今世間一般に語られる、「家族が仲良く、みんなでそろって食事をし、楽しく会話をする家庭。」こんなものは、昭和中期のごくわずかな期間にしか存在しなかったのではないのか。とも思う。 かつて、たとえば江戸時代であれば、子供は十歳前後で丁稚奉公に出されたのだから、家族どころではないだろう。あるいは、極貧の農村では、女の子は売り飛ばされたわけだし、農家だって仕事に忙しくて、家族でいつも楽しくにこやかに食事をとっていたとも思えない。あるいは、一家の主人だけは奥の間で一人だけ食事を取っていたりもしていたろう。 ちなみにどうして著者はこんなに朝食にこだわるのだろう。イマドキ朝食を家族と一緒に食べているサラリーマンなんているんだろうか。あるいは、朝練で早い中学生や、高校生。むりじゃないですか。 朝食がだめでも、夕食さえ、一緒ならよろしいのではないかと思いますが、もっとも、今は、それすら怪しい。父親は残業で、子供は部活や塾でやっぱり家にいないからだ。最も尾木氏は、同じ家の中にいながら、家族が別々に別々のものを食べていることを嘆いているのだが。 しかし、これだけ食品が豊富になってくると、家族全員が同じものを食べようとすることすら難しい。ちなみに私も家族全員の食の好みのずれに毎度四苦八苦である。誰か一人が嫌いなものはどうしても食卓に出しにくいし、好みが見事に全員違うからだ。それでも何とか一人が我慢することでメニューを組み立てるしかないこともある。 『子供たちの物に対する判断基準』を育てているのは、『物欲をあおる消費文化』であるその以前に、それらの消費文化に洗脳されて、ためらいもなく、子供に携帯やゲームを買い与え、子供部屋にテレビやパソコン、暖房器具まで完備して、物欲を当然のこととして教えてしまう親にこそあるのではないのか。 かつての親には、子供の欲望に対して、「そんなものはいらん」と毅然と拒否しうる強さがあったように思う。 この問題は、一見人間だけの問題のように見えるのだが、実は、気づかないうちに、資本主義と物質文明が家庭の中にまで浸透し、家族という人間関係を崩壊しはじめていることに、誰も気づいていないというところにある。 『物欲をあおる消費文化』の中に生きているからこそ、それらに洗脳されずに自身の意思で選びとっていく判断力、意志力を育てる立場にあるのがまさに親であると思うのだ。しかし、それが親の仕事であるはずのものでありながらに、実際には物を与えてしまっているというそのあたりのいい加減さゆえにこそ、家族関係の希薄、家庭のホテル化が起きるのではないのか。 時代の文化を否定する以前に、その世界で生きていかなければならない子供たちに対して、その処世術、自身の欲望との向き合い方を教える事こそが現代の親の務めといえると思うのだが。 安易に時代を批判してみても始まらないのではないか。それは、どんな時代であっても、常に生きていくのは困難で、待ってましたといわんばかりに生きやすい、都合のいい社会なんてものは、有史以来ほとんどなかったのではないのだろうか。 ちなみに、我が家には、子供用寝室はあっても、子供部屋はない。パソコンはリビングに一台きりで、家族共用。携帯は一台きりで、子供は持っていない。当然テレビを子供部屋に設置するなんてこともない。でも、実は家の中にテレビは三台ある。やはり、信じられないほど安価になったテレビは、一家庭にこれだけ存在する。つくづく物質文明を感じないわけにはいかない。 ついでに書くと、この文章の中で尾木氏はテレビ礼賛の文章を書いている。かつては、一台しかないテレビによって家族が同じ時間、同じ空間、同じ話題を共有できたということだ。一昔前、教育関係者、評論家、専門家が口をそろえて非難し続けたテレビというものが、時代が変わると、懐かしがられ、その価値を評価されているとは、なんとも、お笑いな話である。こののち、家庭のホテル化がさらに進み、家族という顧客がホテルにとまりに来ることすらなくなって、外に常泊の『自宅』を作り始めてしまったら、現在非難の的となっている家庭用ゲーム機は、「とにかく子供を家庭にとどめていてくれたのに」と、礼賛されるようになるのだろうか。なんとも、皮肉な話である。 さて、子供の欲望との対峙もまた、親に求められる重要な仕事である。てか、その辺りが一番重要事項ですね。 ところでこの本は全部読めば、尾木氏なりの結論が書いてあるかもしれませんね。全部読んでませんので。
2006年09月16日
コメント(7)
![]()
職業体験も今日で五日目。ラストです。 初日は友達とバス停で待ち合わせ。友達は来てないし、バスはちっょくり来ない。で、家に戻ってきて「間に合わないから、タクシーでいく」とまで言い出しました。冗談じゃないです。こんなことでいちいちタクシー代なんか払ってられません。ただでさえ、職場までの交通費払わされてて馬鹿にならないのに。というので「駅まで歩いていけば」と言ったら、ホントに歩いていった。でも、途中で来たバスに乗ったらしいけど。 遅刻するのも勉強ですから。待ち合わせた友達は反対方向のバスに乗ってたらしい。つくづく働きに行くというより、遊びの乗り。おいおいおい。 と思いました。 所詮、三、四時間程度の仕事。その上たいしてやることもないらしい。それでも、掃除したり、ビラ配りしたり、未経験の世界。ビラがなかなかうけとってもらえなかったり、とにかくはじめは恥ずかしかったりしながら、少しづつ慣れてきて、「恥ずかしくなくなったよ」なんていってました。さすがに五日間ともなると、やはり、試行錯誤や慣れて行ってできるようになってくる部分や、わかってくる部分もあるようで、去年までの二日間だと判らないまま終わってたろうなと思います。今日で五日目。職業体験も終わりです。五日間お弁当もって、がんばったようです。そういえば最初のうちは「外食なの?」なんて馬鹿なことも言ってました。中学生が仕事して、外食なんて馬鹿言ってんじゃないよ。当然、お弁当でしょう。作ったのは、私ですけど。 少しは得たものあったのかな。 それにしても、今回のことでとにかく交通費が馬鹿にならなかった。都バスと都営地下鉄なので一日乗車券を五枚購入。しめて、3500円。馬鹿になりません。学校では後で全員のかかった分を足して、学年の人数で頭割りにして、全家庭で同額負担にすると言ってましたけど、ほんとにやってくれるのかな。近場のおうちが文句言いそうな気がしますけど。それにしたってお給料でないし、この交通費は要するに教材費のくくり。高かったなあ。こういう部分、職業体験を企画する段階で、文部省は考えなかったのでしょうか。しかも、学校のイベントなので、働くところまで、または、駅まで、自転車使っちゃいけないんだよね。だから、普段なら自転車で行くところにバスを使うか、歩きで行くしかない。こういうところ考えてもらってないんですよね。バスもなくて、歩きしか方法がない場所もあったのではないでしょうか。 こういう企画に対しては、乗り物のフリーパス券とか、発行してほしいと切に願います。役に立たないけど、それでも将来社会の人材、資産となる中学生なんですから。だって、高校生の通学なら、定期も学割きくのにね。お年寄りなら、フリーパスとかあるのにね。 それにしても、役立たずで、お邪魔だったのではないでしょうか。五日間も面倒見ていただきまして、ありがとうございました。来年もまた、よろしくお願いします。うちはもう、関係ないけどね。
2006年09月15日
コメント(6)

先日の日曜日に、また、IKEAに行きました。前回のオープンの時は混んでいて、入るのに三十分以上も並びましたが、さすがに今回はすんなり入れた。それでも、結構混んでいて、そんなところなんですね。夏が終わって、少し家の中をきれいにしようとか、みんな思ったのだろうか。 オープンからずいぶんたったから、 すいたかもなんてトンでもでした。それでも、前よりまし。館内がかなり広いので、ウォーキングにはいいだろうとそんなつもりで行きましたので。 目的がはっきりしていて、それだけ買いたいと言う場合はちゃんと店内の定番コースをショートカットできるようになってますけど、それでも、店内の地図をよく見ないと何がなにやら、今どこにいるのかわからなくなってくる。二階から見始めて一階にいく階段のところにレストランがあるのでみんなここで一回休憩。よくできてますね。 しかし、イケアって安いって言うけど、ここのレストランでご飯食べると結構ばかにならないよ。私もだんなと二人で三千円かかったしね。遊びと暇つぶしで行ったからまあ行けど。そのうち、本気で家具買うときは、それだけ選んで終わりにしとくかなあ。 デザインもかっこいいって言うけど、たしかにお店で見てるといいんだけど、買ってきて家に置いてみると、我が家に似合わない。がーん。なんかぜんぜん違うんですけど。しゃれたデザインのものはやっぱし、洒落たマンションとかで使わないとダメジャン。それに、そんなに安いとも思えないんですけど。 それでも、今回一番ほしかったのは、パソコンをソファーで使うためのテーブル。てか机。 以前テレビの通販で見てたんだけど、ソファーにゆったり座りながら使えるテーブル売ってたんだよー。いいなほしいなと思ったんですけどね。高かったんですね。それにメモも取らなかったし。そのまま忘れたし。 でも、イケアにそれと同じものはなかったけど、それでも探したら、サイドテーブルで足がコの字型なら、ソファーで使えるので、少し小さかったけど、1900円で買ってきた。私がかったのは、リーアンの白い方。 以外と悪くないです。 パソコン用の普通のデスクってのならいくらでも売ってるけどね。 でも、文章入力するときはデスクでも、いいけど、ほかのブログ読んだり、動画見たりする時はソファーでゆったり座って見たいなあと、思うわけです。 もう少ししっかりしてて、台が広いとよかったんだけど、そうすると高くなるのか。 ↑あーこれこれ。これがほしかったんだわ。なんだ、楽天で買えるじゃないか。でも、高いなあ。今のがだめになったら、買おうかなあ。うーむ。高いといってもそう高いわけじゃないですけどね。 それから、停電とか地震の時のために100個450円の小ぶりのろうそくとそれを入れるランタンをかって、そのほかクッションとか、いろいろ買って帰ってきました。 ↑あ。これこれ。あるじゃん。楽天に。え?2200円?たっかーい!!イケアではもっとぜんぜん安かったですけど。変ですねえ。それに赤、黒、青、グレーと、いろんな色のものがありました。 結構金額いってしまいました。イケアが安いとは、思わないほうがいいかも。 でも、もちろん大きな家具は安いです。ただ品質はいまいちだろうなあ。安いからしょうがないけど。
2006年09月14日
コメント(6)
![]()
『時かけ』といえばふつー大体思い出すのは原田知世主演のやつだようです。二十年以上前のですね。注☆ネタバレあります。たぶん。 でも、私はもーっとずっと前にNHKでやった『タイムトラベラー』が基準点です。『原田時かけ』の時も、「あ、タイムトラベラーのやつだ」と思った。確か吉沢京子主演で、その当時はまだSF自体がきわものだったので、だから、民放だとそう気楽にSF番組なんて作ってない、そんな時代に、あんな先鋭のドラマ作ってたんですよね。NHKって普段評判悪いけど、時々民放じゃ作れないようないいもの作ってくれるんですよね。『プロジェクトX』とか、『その時歴史が動いた』とか。 それで、その当時もまだまだこれからの、日本のSF小説をテレビドラマ化してくれてて、『ねらわれた学園』とかね。いろいろ。 「タイムトラベラー』は連続ドラマだから、一回こっきりじゃない。そういうやつを、さらにばらばらに見てまして、通して見てないから話の筋もよくわかんないままでした。 その当時はまして、今みたいにハーブなんて流行ってないですから、「ラベンダー」ってだけですごく不思議。なにそれーということですね。まだ、見たこともかいだこともなかったんだもの。いまでも、ハーブの中で「ラベンダー」が一番人気なのってそのあたりが原点かもね。 そののち原田知世の『時かけ』が作られましたね。主演の二人があれだけ演技下手だったのに、名作としていまだに語り伝えられるあたり、やっはし監督の力量なんでしょうかね。 年だから昔話が多いなあ。 最近は、毎度、映画見るたびに原作と違うじゃんと思って不愉快だったんですが、今回は原作とはかなり変えてあって、オリジナルストーリーだったにもかかわらず、よかったです。この原作自体がすでに散々映画化ドラマ化されていることもありますが、今回の作品は、オリジナルストーリーではあっても、基本の部分はちゃんと原作の線を守っていたというのもあるからでしょうか。 それでもってこのシナリオが非常によくできていたというのが一番です。「アニメって絵さえよければいいってもんじゃないんだ」と言うのを『銀色の髪のアギト』を見てつくづく思いましたけど、今回の『時かけ』は、絵もすごくいいし、シナリオもすごくよかった。ストーリー上なんどもタイムリープをするんで、結構複雑なはずなんだけど、違和感なくすんなりわかりやすい。そうそうそう。こういう映画、見るだけで全部ちゃんとわかる映画。こういうの待ってたんですね。映画ってわかりにくいのが多くてね。 それにしても、主人公が信じられないくらいものすごく明るい。漫画本来の原点に返ったような話です。最近はねちねち悩んでるような主人公の話にうんざりぎみでしたからね。昔はこういう明るーい子が主人公ってのが普通だったんだけどね。 そんでもって主人公がよく動く。ちゃんとヒロインが活躍してるし、自分の意思で行動してるし、自分の頭で考えてる。少女漫画を描こうとすると、大体どんなに絵がうまくて、話がよくてもヒロインがちゃんと活躍してないと、「主人公がなんもしてないからダメです」って、編集者に言われるんだよね。今回の「時かけ」はそういう少女漫画の本筋をきちんと守ってます。考えてみれば原田の『時かけ』はヒロインなんにもしてないなあ。せいぜい時間を跳んで、好きな彼氏のところに行くくらい。 同じ話でも、こんなにヒロイン動かせるものだったんですねえ。 いやしかし真琴は、この状況で悩まないし、戸惑わないし、がんがんタイムリープしちゃうし。泣く時は人目も気にせず、ワンワン泣いて見せるし。とにかく自分の感情を表に出すことに戸惑いがない。 戦後アメリカナイズすることに夢中だった日本ですけど。結局アメリカナイズの究極ってこういうのでしょうか。 で、実際にはシャイな日本人にはそんなの無理だから、心身症とか、うつとか、引きこもりとか、結局目指すものと逆の方向に行っちゃったりする。無理しないほうがいいと思いますけど。 ほんとにこんなに明るい子っているのかなあ。 でも、だんだん世代が変わっていくとこんなタイプの子が出てくるんでしょうかね。 この映画説教くさいセリフぜんぜんないわりに、結構訴えること、語っていること多い。見終わって「うん、そうそう」って言うものがすごく多い。 だから、それをわざわざ文章にするのはやめとこっかなーとう言うくらい見ればわかります。ふつーの人間なら。って言うくらい、いい映画です。作品としての完成度がすごく高い。評判いいの無理ないです。そして、そういうテーマさぐりなん無視して単純に楽しんで見て、もうそれで十分といえましょう。 ただ、主人公が高校生なので、大人にはいまさらって部分あるし、じゃ当の高校生はこれ見るのかなっていいますか、これ見るくらいなら、ほかの普通の実写の映画選んじゃいそう。そのあたりがこの手のアニメ映画の問題点なんでしょうね。 お子様映画はうんざりだけど、アニメであんまりねちねちした話も見たくないな。 原田知世の『時かけ』は未来で深町君と再会できたみたいなフリがラストにあったけど、今回の映画に出てくる和子さんは、結局深町君に再会できてそうにない。とすると、真琴ははたして、将来千昭に会えるのか。千昭のいる未来は、とてもじゃないけど、真琴がいる今から数十年程度の未来じゃなくて、もっとずっとはるかな未来に思えるんですけど。だとしたら、作品のラストで語られる「未来でまってる」という言葉は、一見とても明るい未来へと誘うハッピーエンドに思えるけど、実をいうと千昭のいる未来はすごく暗くて悲惨で行き詰ってるんですよねえ。『ハウルの動く城』にでてくる「未来でまってて」の言葉は、実際未来でちゃんと再会して、二人は恋人同士になるけれど、『時かけ』の未来でこの二人が再会するとは思えない。 じゃこの「未来で待ってる」はどんな意味あいがあるんだ。一見明るく、行動的に思える言葉なのに、な-んかその場限りのごまかしといえなくもない。 二人がもう一度再会して、結ばれることがありえないのに、「まってるね」「うん走って行くから」という言葉はどうすりゃいいんだ。 明るくて前向きなはずの真琴が、千昭と出会うことで、ただ明るいだけの女の子じゃなくなっていくっていうそんな含みがありそうで。「自分が楽しいだけじゃだめなんだ」ということを語る部分があって、自分にとっていいことだけを追求していくそれだけじゃない生き方を意識するにいたって、ただ明るいだけの真琴が千昭の語る未来の中に潜む闇を意識し始める時、走るだけじゃなくて、立ち止まって少しゆっくり周りを見回しながら、よく考えて生きていくようになっていく一人の少女のやっぱり成長物語とも言えちゃうんだな。 たとえ、タイムリープをしないとしても、自分が楽しいとか、自分の都合だけ考えて行動していれば、知らないうちに周りの他人に不愉快な思いをさせたりしてることはもちろんあるわけで。そのあたりよく考えてください。とわたしなんか申し上げたい。いえ、それが描いてある物語なんです。 この作品では、明るいつくりなのであえて深町君や千昭がいるはずの未来の暗い部分は本編中には語られていないから、ちょっとそのあたりやっぱりよくできたシナリオだけど、わかんない部分が存在しちゃうんだな。 未来だけをみて走ってるだけじゃだめなんだよ。 でも、お話の中では、魔女おばさんと言われる和子さんが真琴に「あなたは待ってる人が来なかったら、走って迎えに行くような子でしょう。」といいます。 こんな、親にも相談しにくいし、友達では役不足なことを相談できるような人が身近にいたらいいよな。この「魔女おばさん」てフレーズに、最近読んだ『西の魔女が死んだ』を思い出しまして、ここからもらったアイデアなのかなっと。不登校になった中学生のヒロインに世間一般の常識的でお決まりのつまらない説教をするような大人とはちょっと違う、だから、魔女なんてあだ名がついちゃうような不思議なキュラクターのおばさんがでてきて、ヒロインの悩みをきいてくれるんだけど。 話戻ってこの和子さんて、話わかりそうだけど、いつも逆のようなアドバイスしてる。来ない人を走って迎えにいく前向きな明るさもいいけど、来ない理由をちょっと考えて待ってあげられる思慮深いやさしさもあっていいんじゃないかと思うし、多分、この物語の真琴も、このあとそんな風に変わっていくんだとしたら、このおばさんの語る言葉のパラドックス性もまた、面白いのかもしれない。 真琴の異様なまでの明るさもまた、ただ明るい女の子を描いただけじゃなくて、その先に変わっていく真琴を描く上での状況設定とも言える。 明るくて前向きで楽しいだけの話だと思って、この作品を見終わっちゃいけないんですぜ。
2006年09月13日
コメント(2)
![]()
ネットの評判というのはすごいものだ。 評判どおりすごくよかった。今夏のアニメ映画作品としてダントツの好評価。確かにさもあり何という感じである。絵がものすごくうまくて、美しかった。なにしろあの崩壊した『ゲド戦記』を見た後なのでなおさらです。またまだ、アニメ界にはこんな絵が描けるアニメ監督がいるんじゃないか。私は今回始めて細田守という名前を認識したんですけどね。美大を出て、東宝に入って、そこから、ジブリに出向したんだそうだ。そこで途中までかかわったのが、『ハウルの動く城』だそうだから、作中にでてくる「未来でまってて」という言葉と、こちらの『時をかける少女』の作品の中の「未来で待ってる」という言葉がつまりおんなじわけでして、細田監督が『ハウル』でできなかったことをやっと完成してみせた映画なのかも知れませんね。 アニメ映画のこれからを考える時、アニメ映画がもつ最大の呪縛はその発端が漫画映画であり、とにかく子供向けでなければならないというところにあるんだろうなと思うわけだけど。 アニメが子供向けに作られるのは、子供という観客が必ず母親ないしは、付き添いというもう一人の観客をともなうもので、つまり普通の倍の観客数を見込める。その上、夏休みにやれば、ふだんすいててガラガラで困りものの平日に集客ができるという、映画会社にとってはこのうえなくありがたい条件を持ち合わせているところにある。だから、映画会社はアニメ映画が作りたいのではなくて、子供うけするアニメ映画が欲しいのである。子供うけするとなれば、やはり主人公は子供でなくてはならない。『ゲド戦記』が今回こんなストーリーになったのも、どうしても主人公を子供にしなければならないというシバリのせいもあるということだ。けれど、主人公を子供にすれば、どうしても、主人公の行動や考えることに限界が出てくる。所詮十歳前後の子供ができることなんて限界があるのだから、その条件下で躍動感のあるおもしろいアニメを作るのもつらいものがあるだろう。 その上アニメをみて育った世代が大人になってき始めていて、作る側もまた、アニメ技術、アニメ文化がレベルアップしていく中で、映画会社の求めるような従来の子供向け路線のアニメ映画を作り続けることにも限界が出始めているのだということに、はたして、映画会社側は気づいているのだろうか。 『ゲド戦記』や『ブレイブストーリー』が今ひとついい作品になりえない原因も実は作る側の力量だけではなくて、こういう日本アニメ界の現状にもあるのじゃないだろうかと、『時かけ』を見ながらつくづく思いました。 『時かけ』は主人公が高校生。原作のとおりです。前作原田知世の『時かけ』は角川がうまかったから、子供の集客ができたかもしれないけれど、アニメで主人公が高校生となると、子供の集客はちょっと苦しい。 しかしじゃあ現役の高校生が『時かけ』というアニメを見に来るものだろうか。アニメファンは除くとしても。一昔前なら、アニメやSFは、若者文化だったと思うけど、今の世代の若者はすでにアニメとか、SFとかに対しての興味は昔ほどではなさそうである。その一方で漫画アニメを育った世代が大人になっていて、漫画やアニメは昔よりはるかにその存在というか、社会的地位は高くなっている。 そして、作る側もまた、子供向けではない、普通の実写映画とかわらない大人向けのアニメーションを望み始めているのだとすれば、映画会社は今ここで、『ゲド戦記』の失敗もふまえて、アニメのあり方これからの対し方、観客をどのあたりに予想するか、考えたほうがいいんじゃないのかなと、そう考えました。 というわけで、今現時点では、難しい立場にある『時かけ』ですが、大人でも十分楽しめる非常にレベルの高い作品です。高校生はこれみてどう思うのかな。 つづきます。
2006年09月12日
コメント(6)
![]()
いろいろブログを読んでいたら、この土日で結構日本国中文化祭だった高校は多かったみたい。うちの長男の学校もこの土日でした。学校側は、やっぱり、夏休み気分の抜けていない九月そうそうにやっちゃって、早く受験体制にしたいみたい。最近は運動会とか、学園祭とか、受験に邪魔って雰囲気かんじるなあ。とにかく、さっさと済ませたい。そんな感じ。本当は日々の学校生活の中で少しづつ気持ちを持ち上げて行っての行事、毎日の平坦な生活だけじゃあきてくるから、っていう部分もあっての学校行事なはずなのに、とにかくとりあえず済ませちゃいたいって方向に変化してる感じがします。 今回は高校二年だし、これで最後だし、見に行こうかなどうしようかなと悩んだんだけど、結局めんどくさくなってきてやめてしまった。子供の学校となると、うっかりぼーっとしてられないし、そんなにラフな格好でもいけないし。気、使うものね。いい加減高校生だし。それと、こないだの麻布十番まつりで、出店とか素人料理を並んで買ってそこらにしゃがんで食べることに飽きちゃいまして。いまさら、高校生の親が生徒の作るものに並んでまってってのもいやなので、そういうのは、受験生の親子とか、中学生の親御さんあたりまでに譲って、ということでやめました。 でもほんとーは、子供のクラブでの様子とか、そーっとのぞきたかったんですけどね。だけど、私の面がわれてるから、見つかるとやだし。それ以外にも以前とかわってる部分があるみたいなので見たかったんだけどね。 とうとう高校二年生の学園祭もおわっちゃって、部活もこれで引退だし、これから受験一色になるのかなと思うとちょっと感慨深いというのとは、ちがうけど、不思議です。ずーっと先のことのように思っていたのに、六年間の中高生活もここまできちゃったんだなあ。ずーっとこのまま、高校いっててほしいなあとか、思っちゃいます。 この先はもう大学生になって、社会人になって、どんどん親から離れていくのかな。 もちろん、私の兄なんかは、いまだに実家に暮らしてて、ずーっと親と一緒にいるんだけど。もちろん、嫁さんと子供と一緒にだけど。 これから、一緒に暮らしていったとしても、やっぱり何かが変わっていくんだよね。 うーん。 もっともー、大学生になれりゃいいですけど。だいいち、子供は部活終わっても、今までとかわらずのへーッと暮らしていきそう。 受験勉強ってなにするかわかってないと思うよ。多分。中学受験みたいに塾行っていわれたことだけ勉強してればいいとか、勘違いしてそうだよ。 どうしたもんかなあ。
2006年09月11日
コメント(4)
![]()
映画館で買ったパンフレットを読破して、やっと映画の内容がわかりました。 こういう売りせんじゃない本気で作ってる映画っていうのは、というか、映画の多くは、見終わった後、いろんな解説とか、パンフレットとか読まないと結局どういう映画だったのかわからない。ということが多いなとつねづね思うんですけどね。本や漫画の場合ほとんどその作品内で説明されているので、そんなことはそうはないんですけどね。もっとも古典文学みたいにやっぱり解説が必要なもの、大学の先生が必死に研究してるものもあるけれど。でも、ふつーの漫画や小説はその作品読めばわかる。しかるに、映画ってのは、文章じゃないことと、時間制限があることなんかもあって、映画見終わった後にどういう話だったんだろう?とか、あの場面はどういう意味だったんだ?なんてのが、ごくふつーの映画でも結構ありませんか。 ましてこういうハイレベルの映画になるとなおさら。その上この映画はとにかく昭和天皇ヒロヒトがもそもそと小声でしゃべってるんで、何言ってるのかほんとーにわかんなくて。昨日パンフレットを熟読して、ようやくわかってきたというか。だって、パンフレットの中にシナリオのダイジェストが載ってまして。それを読んで初めてあーこんなことしゃべってたんじゃなーい。という感じです。しかも、このパンフ、1000円もするんですよ。レディースデーの入館料と同じジャン。 つまりこの映画を本気で鑑賞するには倍ないしは倍以上の金額がかかるということです。 それから、パンフの中の田原総一郎さんの文章?コメント?を読んでやっとわかってくる感じかなあ。やっぱ田原さんて頭いいわあ。 とにかくわかりにくいのよ。 映画ってさあ、もう少し見る人に親切に作ってもいいんじゃない。一応商売なんだしねえ。 ということで、結局、ヒロヒトは、自分を神だと思っていたのかいないのか。 そのあたりはっきりしないけど、それでも、神の末裔としてその存在意義を評価されている自分が、神じゃないと言ったら、自分の存在はどうなるのか。神として評価されている人間が、普通の人間になった時、どうなっていくのか。神の末裔としての自分。そうでない自分。自分の存在の意味を問うていく過程が第二次大戦下の日本という舞台設定と、神として扱われる人間という道具立てを使って、じゃあ人間の存在意義は何によって認められうるものなのかを問うている話なんだなあと、思いましたけどね。そういえば、神が人間になる話として、最近作られたもう一つの映画といえば、話題の『ダヴィンチコード』が、そうだよねえ。西洋世界の天孫ともいえるキリスト。キリストが結婚してて、子供もいて、ごく普通に人間ジャンという話。こっちはあくまで、事実をもとにして作ったフィクションですけどね。 で、実際に神様だって崇め奉られていた人間がいたねって話がこの映画ですし、でもってそんなわけないだろってことで、じゃ、神様でもその末裔でもなくて、ふつーにふつーの人間ですよっていうことになる過程を描いた話ですね。そして、その渦中にいる本人その人の内面の変化を追っかけて見ましたって話なので、だから、映画としては、実際の終戦や、戦場や、歴史的事実はあんまり表には書かれてなくて、セリフでちらっとでてくる部分だけで見てる側は判断しなきゃなりませんけどね。だから、知らないうちに終戦になってたり、いきなりマッカーサーが出てきたりして、見てる側は何で?と思う。 神様の末裔にかかわらず、マー自分って何なのっていう問いは人間なら誰でも持つわけだし、自分が今ここにいても生きてる意味ってあるのかなあという疑問と不安に戸惑う人間もまた、天皇陛下だけにかかわらず、ごくふつーにそこらにいる。そういうことで。 で、映画の結末としては、愛する家族がいるってことでヒロヒトさまはそのあたりに救いを見出してハッピーエンドに終わります。実際戦後の天皇家もそれまでの他人任せの子育てから、天皇や皇族であっても、親として自分でちゃんと子育てしよう、家族で仲良く暮らしていこうというスタンスに変っていくわけですから。 多くの人に崇め奉られるより、自分を愛してくれる人が誰でもいいから、一人いればそれで十分ですねってそう思って見終わればよろしいんじゃないかと、そういうことで。 というわけで、そこまで読み切れれば、もろチンいい映画なんですけど、一回たらっと見てもなかなかふつーはわかんないです。 でもやっぱりいい映画なんでしょう。ここまでわかれば。 『太陽』★その1『太陽』★その2
2006年09月10日
コメント(2)
![]()
いったい昭和天皇は自分が神だと思っていたのだろうか。『太陽』公式ページ 結局この映画の一番重要なポイントはここにあるのかもしれない。映画を見ながら一番不可解だったのはつまりこの部分なのだ。 というのは、私は日本史を学びつつ、昭和天皇が戦時中自分のことを本気で神だと思っていただろうなんて、夢にも思っていなかったからだ。あれはあくまで日本軍上層部がいいだした、キャッチコピーであり、日本人自身もはたしてどこまで信じていたのだろう。 今の日本人の中で昭和天皇が戦時中に自分を神の末裔だと信じていただろうと思っている人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。他人に聞いたことがないので、わからないけどね。 で、映画を見始めると、昭和天皇は自分が神の末裔かどうかしきりに悩んでいるのである。ここでまず、日本人としてうーんと、眉をよせた原因はこのあたりにあったのだ、と、つくづく考えてしまった。 ヒットラーとか、最近作られる映画のなかで、戦争責任のある当時の権力者を、ただの人間だったのだと、その弱い部分を描き出していて、それと同じように昭和天皇もまた、ただの普通の人間だったのだと、そう描き出そうというテーマ自体は結構だと思うし、その上で、自身の力では時代の動きをどうすることもできない権力者でありながら、国のトップでありながら、無力な人間であることに、ある意味喜劇を演じている喜劇役者にたとえるのもまた、ひとつのかたりかけではあるかもしれない。 しかし、昭和天皇はもちろん、権力者なんかじゃなかった。 この映画の中で天皇の意識は常に自分の内側にむかっていて、自分ははたして神なのか、神の末裔なのか、というところしか意識がいっていない。 私がこの映画に一番違和感を感じたのは実にこの部分なのであろう。 つまりは、西洋(ロシアが西洋に入るかどうかは疑問ですが)の価値観からすれば意識は自分にしか向かないし、自分の存在の意義、我の主張を中心として描かれているし、映画の結末でも、自分が神ではないことを己の内側への問いかけによって見出し、納得し、人間として生きることに目覚めていく昭和天皇を描き出している。 そういう西洋にとって、没我という価値観はおよそ想像のつかないものなのだろうか。 戦時中に昭和天皇がまったく権力のないまま、日本のトップという社会的位置とは裏腹に、戦争に突入していく日本、戦争によって命を奪われていく国民に対して、抱き続けていたであろう心の痛み、自分がそれを止めることもどうすることもできない痛み、天皇の意識は戦時中、己自身の意義ではなく、常に国民に対して向けられていただろうと思っていただけに、この映画における自分の内側に意識がむかっていく昭和天皇に、違和感があり、納得いかないものがあったのだと、思う。 それというのは、戦後、天皇が、自身の少ない私財をもってマッカーサーを訪れたというエピソードから想像しているに過ぎないのだけれど。マッカーサーはその時、昭和天皇が自分の命乞いにきたのだと思ったのだそうだ。けれど、天皇はマッカーサーに、「これら、自分財産をすべてわたすから、どうか国民を救ってほしい」と頼みにきたのだそうだ。 だから、昭和天皇は戦時中、己のことよりも、終始、国民のこと、戦争をしている日本のこと、をずっと思い続けていただろうと私は思うのだ。 天皇が天皇でありながら、政治的実権を持たないという事実は、何も第二次大戦下に始まったわけではない。はるか昔、多分蘇我氏が政治の実権を握りだしたあたりから、始まっているように思う。けれど、そののち、大化の改新によって政治の実権を取り返した、天智、天武天皇という実例はあるけれど、それ以降、藤原氏、平氏、室町、鎌倉、徳川と、実際の政治の実権は時の実力者にうばわれ、権力をとりもどそうとした天皇たちがほとんど、失敗に終わって悲惨な結果を残している。 天皇家は連綿と日本の王家として存在し続けてはいるけれど、その政治の実権から離れてすでに長い時を過ごしてきている。日本の天皇家とは、そういうものだ。そして、世界でも、類をみないほど、長くつづいている理由もまた、そのあたりにある。実権がなくなればとたんに崩壊していったのが、普通の世界各地の王室だったからだ。 天皇家はその実権を時の権力者に渡し、自身はただ、日本の王族としてのみ、存在し続けた。 だから、第二次大戦下の昭和天皇もまた、権力も決定権も発言権ももたないまま、い続けたに過ぎない。 そういう、他人を、国民を、思いつつ生きた、没我の精神というものを描いていないということに対して、私はこの映画に対して、違和感と不快感を感じたのであり、世間一般、世界の映画界がこの映画に与えた賛辞に対しても、共感しえないという感想にいたったのだろうと思う。 この映画に描かれているのは、昭和天皇の真実ではなく、監督が思い描いた昭和天皇像にすぎないということだからだ。所詮映画なのだから、それはそれで、結構なんですけどね。ただね。外国では、これを昭和天皇の真実としてみちゃうだろうなと思うわけですね。 現代社会の価値観から言えば王室の存在自体、意味のないものと認識されながら、それでも、その存亡にはらはらするのはなぜだろう。 たった一つの命の誕生に世界中が騒ぐのもまたなぜだろう。 そこに意味はあるのか。そこに意味があるのかもしれない。 存在しないと知りつつ、畏怖の念をいだく、神というものに対して。 自分たちと同じ人間にすぎないと知りつつ、敬意と愛情を感じ、その存在の継続を願う自国の王家に対して。 その不可解といえる感覚はなんだろうと考えてみたことはありますか。 ところでまだ続きます。続きは明日ね。 『太陽』★その1『太陽』★その3 太陽@映画生活
2006年09月09日
コメント(2)
![]()
とうとう来週から、娘の中学校も職業体験です。今年から五日もやるんだよ。五日も。 ただでさえ、授業が削られているというのに、その上五日もこんな事させられて親はたまったものじゃないです。その上ベントー持参ですと。せっかく来週の月曜はにーちゃんが休みで、ゆっくりできるという日に限ってなーんで下の子にベントー作るハメになるのだ。なぜかいつもこの絶妙のタイミングで私の安息はつぶされるんだわ。 しかも、ですよ。昨日は、その職業体験のために前もって職場にご挨拶があるということで、授業の時間だというのにうちの娘ともう一人の子だけで、出かけて行ったらしい。ただでさえ、五日もつぶれるのに、なんで更にそれ以外の時間までつぶさせるかなあ。だって、午前中の10時だそうですよ。週に一回しかない貴重な美術の時間だったのに。 せめて放課後の時間にすればいいじゃん。なんで先生はそのあたり、相手方にいいださないのかなあ。先方さんだって、生徒なんだから、せめて午後にしようとか考えてくれてもいいじゃん。 ちきしょー。次の個人面談で先生にクレームつけてやるう。ま、いまさらクレームつけたって、来年はもううちは関係ないし、意味ないんだけどねえ。 あー。来週は毎朝二個オベント作らなければなりません。 どうなるのかなあ。せめてなんか得るものがありますように。 ちなみに百人以上もいる生徒の受け入れ先を見つけていただいてご苦労さまです。おばかな中学生を受け入れてメンドー見ようという殊勝な全国の受け入れ先の皆々様よろしくお願いいたします。
2006年09月08日
コメント(2)

跡継ぎ問題で日本中があーだこーだと言っていた時、「だったら私が産みます。」と宣言し、本当に妊娠して、本当に男の子を産んで見せるあたりお見事。いやさすがの私もこのニュースには、うるうるしました。 イマドキ、王室だの天皇だのって、そんなものいるの?とか、こだわる意味あるの?とか、科学と合理主義から言えばそうだけど、それでも、これだけ、連綿と続いてきたからには、やっぱり理屈で説明しきれないものがあるんでしょう。いえ、もう少しで理屈は説明できるところまで来てますけどね。 おめでたいのはいいんですげと、このニュース見ながらつくづく思ったのは、今の皇太子が天皇になったそのあとの天皇って誰がなるんだろうってことです。 本当は、皇太子様に男の子がいればその子がなるからいいんですけどね。 しかし、秋篠宮家の子供となると、今の皇太子様の後に秋篠宮様が天皇になって、そのあと、今度の新宮様がなるんでしょうか。順番を素直に考えればそうなるけどね。 それとも、秋篠宮様はおいといて、秋篠宮家の男の子をもうすぐに次の皇太子にしちゃうのかな。 新宮さまがお父さんの秋篠宮様を飛ばして、天皇になっちゃうのでしょうか。 ま、どっちにしても、今の皇太子様が天皇にならないと、次の皇太子は決めないけどね。 どうするんだろーと、ちっと考えてしまった。だって、皇太子→秋篠宮→新宮の順番だと、即位式とか回数増えてお金かかるし、めんどくさいじゃん。 どっちにしても、次の皇太子妃様はたいへんだなあ。 今回みたいに次男坊がいればいいけど、きこ様ももう出産は無理そうだし、次の皇太子妃様以外跡継ぎ生む人いないじゃん。しかも、上手く男の子産んでも、その後はどうなんでしょう。 なんかやっぱり綱渡り。 とりあえず、問題は先送りですね。
2006年09月07日
コメント(4)
この春に父が亡くなったので、当然のごとく遺産相続というものをやらなければいけない。 しかし、私も兄も何にもしようともしなければ、催促も話し合いもしないので、母ははらはらして、どうするのどうするのと、仕方なく仕切らなければならない。 母が動かないとあっという間に期限の十ヶ月がたちそうである。 だってなんだか、やなんだもの。父の残した財産をみんなで分けると、父を切り刻むような、そこまでいわなくても、父を分解するような、父がいなくなるようで、いやもういなくなってますけど。そんな感じがするのだもの。もうちょっと生きててくれたら、こんな事まだしなくてすんだのになあとか、このまんまにしといちゃあだめかなあとか、思ってたりする。でも、私なんにも要らないから勝手にやってと言えるほど太っ腹でもない。 仲良く暮らした兄弟家族でそんな事をやるのがいやで、私も兄も何にも言い出さない。いや兄は忙しくて面倒なだけかなあ。 見かねた母が、いくらなんでも何とかしないといけないということで、何度か話をして、先日やっと遺産相続の協議書を作るに至った。相続税もかからないようなわずかなものなんですけどね。 それにしても、相続というのは、父の財産を被相続人である妻や子供のものとして名義がえをしなければならないのだけど、そのための書類として、実印を押した協議書、謄本、印鑑証明がいる。 しょうがないからこれらの書類を渡したけれど、内心いやだなというか、怖いなと思った。 これらの書類によって勝手に相続が決められないよう、被相続人全員の合意によって相続がなされるように、法的な規制がはいっているのだが、一昔前には、確かにこれでよかったけれど、ですよ。 コンピュータが普及し、印鑑の印影さえあれば簡単に普通の人間が印鑑を作り出せてしまう今の世の中に、印鑑証明のような、実印の印影とその持ち主の名前が明記された証書を他人に手渡すという事自体がすごく怖いと思うんだけど、誰もなんにも感じないのかなあ。銀行通帳なんかは既に世間で騒がれたので、通帳に直接印影を貼らなくなったけど、相続の場合はめったにあることでないし、事件とかおきないと、改正はだめでしょうかね。 印鑑証明一枚あれば、コンピュータで、実印をつくりだし、勝手に書類を偽装できる。 相続手続きや印鑑証明というシステム自体を変えるべきではと、今回思ったわけです。 お役所様なんとかして。
2006年09月06日
コメント(4)
![]()
下手な先生に教えられる生徒はたまらない。そして、そんな下手な授業に対して、授業料払う親はもっとたまらない。お金返して。 最近はひどい先生も増えたという事でニュースにもなる。そして、先生に対して生徒が評価をつける学校も出来てきて、そのことに対しても、賛否両論ありますが。私はいいんじゃないかと思うよ。 十段階評価くらいで、査定してみる。その逐一を先生に伝えるのではなくて、ですね。評価させてみると、他の先生たちと比べて余りにもひどい場合にのみ知らせる。10点満点でほとんどが1、ないしは2、良くて3か4がいくつかある程度。もし、このくらいひどい評価をもらう先生がいたら、やはりその先生に対しては、本人に告げる。学校側も注意して観察する。ひどい評価が続くようなら、雇用の継続をみあわせる。くらいのことはしてもいいんじゃないですか。それ以外のごく普通の平均値の評価の先生がたに関しては、別にいちいち良かった悪かった、もっと上げるべきだなんて細かく気にしなくてもいい。これは、あくまで特にひどい先生をピックアップするためのものだからです。 どんな学校にも必ず下手な先生はいるもので、だけど、その実態は生徒にしかわからない。それを子どもからきいた親が学校側に伝えるくらいしか、今の手段はないし、伝えたとしても、それで何らかの対処をしてもらえる事はほとんどない。悪評価のまま、先生は、い続ける。 先生という、尊敬すべき、敬意を払うべき存在に対して、生徒が評価するなんてことをするから良くないなんて、反対論がありますが、そんな事をいう人は、それは、実際に子供がいないか、子育てにタッチしていないか、運良くひどい先生に当たった事がないからなんではないでしょうか。私は先生を採点するって必要だと思います。やはり、明らかに下手でほとんど何を言ってるかわからない、説明が下手、教え方がものすごく下手、声が小さくて聞こえない、そういう先生に習う羽目になった事ありますけど、ほんとーに何がなにやらわからなかったもの。大概の先生は新人を除けば、いや新人といえども、それなりの授業はしてくれるんですけどねぇ。
2006年09月05日
コメント(14)
![]()
お兄ちゃんがこないだ受けた塾の実力テストの結果が返ってきた。惨憺たるものだ。試験の日は旅行の後の数日後で、暑い夏の盛りで、夏休みの真っ最中で、しかも、当日まで忘れてて、本人はやるきなしの雰囲気でしたからね。それにしても、根気と努力と根性と日々の蓄積で決まる英語はガタガタ落ちていく一方。どうしたものでございましょう。数学も高校になってからは、二人教わってる先生のうちの一人が教えるのがすごい下手で、去年も息子が数学の授業がよくわからないと言っていたし、他のお母さんの話でも、その先生は下手だということで、でも、それを学校に言っても、その先生はいなくならないし、あいかわらず、下手なまま教えている。いくら学校の出す課題をまじめにやってても授業が下手だと、やっぱり成績は落ちていくもののようです。おかげで高校になってから、数学の成績が落ちた。テスト前勉強をしないもう一方の数学のテストの方が点数いいんですからね。課題だ、面倒見の良さだというよりまずいい先生に教えてもらうこれこそが基本中の基本であり、いい学校というのは、いかにいい先生の数が多いかがまさに勝負の境目なんじゃないだろかとつくづく思う。いい先生に教えてもらえれば生徒の負担は減ります。下手な先生のわからない授業を我慢して聞いた挙句、それ以外の時間で下手な授業でわからなかった部分を自力でフォローするか、塾で習い直すしかないからです。でも、受験のために学校見学や説明会に行ったって、なかなかそのあたりの内実はどうしてどうしてわからないものです。実際子供をその学校に通わせてる親御さんに運良く聞いてみるチャンスがあったとしても、その親御さんだって子供を行かせてる学校一校しか知らないのだから、いいのか悪いのかなんてそうそう判断のつくものでもありません。 私立ってのはよく面倒見のよさなんて売りにしてるけど、実際のところはやたら、課題宿題、小テストがあるだけで、それをまじめにやる分には、まだましだけど、子供によってはそれをろくすっぽやらなかったりするから、成績は図他ぼろ。でもそれで、どうなるかっていうと、平常点落とされるだけだし、その場合補習やってますなんていうけど、対応が甘いから、実際にはその補習にちゃんと生徒がこなかったりして、ますます図多ボロになっていく。じゃあ、まじめに課題等ちゃんとやってればいいかというと、みんな同じ事やってるんだから、それでやっと真ん中へんになる程度。やはり、成績のいい子は、自分でそれ以外の勉強もしてるわけです。さもなければせっせと塾通いをしています。そして、兎に角まじめに一生懸命勉強している。 ま、そんな実態と現実を知った上で、まあ兎に角子供にせっせと説教する。でも、その説教に成功しても、子供はどう勉強したらいいいのか、ぜんぜんわかっていない。わかったとしても、そのための時間の確保、精神力、やる気の立ち上げと維持はそんなに簡単なものではないようです。出来る子は出来るんだけどね。そのあたりのことが。そして、目の前の娯楽に流されていく。 ま、頑張ってくれ。
2006年09月04日
コメント(8)

ゲームをはじめてしまいました。 ゲームの恐ろしいところは、ブログがかけなくなることです。ブログのネタもアイデアも文章書く時間も確保できなくなる。ゲーム以外の全てのことがメンドーで、おっくうで、どうでもよくなるし、考え事も出来ないし、本は読みすすまなくなるし、家事はおろそかになるし、外に出る時間も惜しくなってくる。ゲームが人間の頭と体と生活にいかに良くないものかつくづくよくわかります。RPGっていうのは、とにかく時間がかかるので、もう、終るまでは、映画も見ない。テレビも面倒。ですね。 て、それくらい面白い。今回は久々のファイナルファンタジーですから。FF12ですから。やっぱりおもしろいです。システムもかなり改良されていて、遊びやすくなってるし、序盤の判断を誤ると後々まで影響するというような事もなく、修正のきくつくりです。しかも、六人のキャラクターすべてどういう人材にでも、育てる事が出来る。見るからに戦死系のやつを魔法使いにしたりとかね。 いえでもやっぱり私は素直に、バッシュは戦死系に育ててるし、パンネラは魔法使いに育ててます。 とにかく、画面がすごいきれい。コンピューターグラフィックもここまで来たんだなあと感心仕切りであります。初期のものは人物とか、気持ち悪かったからね。スタート画面を毎回ずーっと眺めてしまいます。スタートボタン押せば本当はすぐに始められるのですけど。 FF11はネットものだったので、あきらめましたので、FFの新作は久しぶりです。FFといえども、はずれはありますけど。 多分今中盤あたり。これから、アルケィディアスに行くところ。横道それて、モブハントやってます。モブの方がボスモンスターより強いってどういうことでしょ。そこがおもしろいのですよ。このゲーム。 全体にスターウォーズを彷彿とさせる。ストーリー設定とか、出てくる敵見方の飛行戦闘艇なんかがね。ムービーでは、ものすごく美麗。 そして、普通の世界中を歩き回るその景色の美しい事、美しい事。きれいな川、そそり立つ山、雪山の絶景、密林、草原、砂漠。本当に自分で旅をしているような美しさと、リアルさで、あっちこっち歩き回るのがすごく楽しい。でもって、強くなってくると、モンスターがばんばんやっつけるのが楽しい。ストレス解消にね。 それと、今回倒したモンスターはギル持ってません。その代わりにモンスターが落とすいろいなアイテムをショップに売るとお金になるという、かなりリアル感のある設定でした。いろいろ考えてるんですねぇ。 夏休みも終って子供もいなくなるし、あしたから、もっとゆっくりあそぼーっと。ゲームクリアするまで、家事も映画も二の次です。
2006年09月03日
コメント(2)
![]()
イッセー尾形は日本のチャップリンなのか。映画『太陽』公式ページ 映画ランキングの一位だというのでどんな映画かと思ったら、昭和天皇の終戦前後を描いたものらしい。へー。面白いネタだなーと思ったので、はるばる銀座まで見に行きました。混んでました。ものすごく。席は前と後ろしかありませんよとキップ買う時注意がついてたくらい。しかも、見終わって外に出たら、入口前の階段は整理券もらって並んでる人でいっぱいでした。 マニア向けのマイナーな作品なので、都内でも、数えるほどしか上映してないのです。それなのに、ランキング一位になったりするものだから、その数少ない劇場が超満員でした。収容人数も少ないアングラなので。 私も映画通なわけではないので、ちっとわかりずらかった。この手のものは画面がしずかで、動きが少なく、ほとんどの役者がもそもそとセリフをしゃべる。通の間では、評価高くなりますが、ふつーの人間にはあんまりよくわからない。最近売らんかな系の底の浅い映画にうんざりぎみだったのですけれど、マニア系のものもそれはそれでつらいな。 いやあ。昭和天皇ヒロヒト役がイッセー尾形なんですよね。かなり、似てるし、雰囲気や立ち居振る舞いもそれなりに研究して演技してるのでしょうが、それでもやっぱりイッセーさんの個性が余りにも強いので、やはり、昭和天皇というより、イッセー尾形に見えてしまう。 天皇役がコメディアンというのは、日本人としては、ちょっと不愉快だなあとこう感じたわけですよ。 監督はロシア人。映画はきちんと日本語で作られているし、ちゃんと日本人に見えるのですが、それでも、やっぱ私たちがイメージする昭和天皇とは、ちがう。 この映画では、ヒットラーのことををチャップリンが映画『独裁者』の中で揶揄しているように、日本という国のトップにたつ昭和天皇という存在を「喜劇役者だ」と、揶揄した表現を狙った部分もあるので、コメディアンであるイッセー尾形を起用したのでは、ありましょうが。 日本人として、ちょっと不愉快だったのであります。 近年アドルフ・ヒットラーを一人の人間として描き出した映画がつくられ、公開されていますが、日本人として、外国が昭和天皇を描いた映画に対して、違うんじゃないかという違和感と、コメディアンとしてえがかれる不快感を感じるとしたら、ドイツの人々は、ヒットラーを描いた映画にたいして、どんな感情を持ったのだろうと、考えてしまった。 ただ、ヒットラーと、天皇はあきらかに、ポジションも、戦争に対しての責任も、関わり方も、国民からの意識も違うので、同じようには考えられないだろうけれど。 戦後、ドイツ国内では、ヒットラーはタブーであったというし、ドイツ人自身、嫌悪を感じている人間だけど、天皇は戦前も戦後もやはり、国民の崇拝の対象であり続けたわけだし。もちろん、現代人で、戦後の人間である私なんかは、天皇陛下様なんていうほど、崇拝も、尊敬もしてるわけではなくて、あくまでふーんという程度ではありますが、それでも、嫌悪感をいだく対象ではありえないわけだから。 わたしは、この映画に天皇が戦後マッカーサーを訪れて、自分の私財を全て渡すから、国民を助けてくださいと頼みに行ったエピソードが描かれているのだろうかと、その部分を期待して見に行ったのですが、ぜんぜんそんなシーンはなくて、後半、ヒロヒトとマッカーサーが何度か会って話し合いをしていくのです。 で、この映画では、ヒットラーを描いた映画と同じように、『現人神』といわれていた、天皇もまた、ただの弱い普通の人間であり、戦争を止める力も、起こす力も、なんにもない無力で存在感もないただの人間として、描き出そうとしているものではありますがね。 終戦直後の話であり、映画の作風として、直接東京の空襲シーンをいれるわけにいかないので、あるいはいれたくなかったのかもしれないとして、天皇の夢として、戦闘機を巨大な羽をもった空飛ぶ魚として、表現してあります。 天皇のしゃべっているセリフは聞き取りづらいし、終戦前から始まったはずのストーリーがいつのまに戦争が終わったのかもわからないうちにいきなりマッカーサーとの会見になったりして、あ、もうふつーの人間にはわかりにくい事この上ないのではありますけどね。 だから、ランキング一位になった作品だからといって面白いに違いないなんて期待して、ふつーの人間が見にいったりしないほうがいい映画ですねぇ。 それでもロシア人が作ったというのは絶妙な感じ。 ただね。この作品に描かれた昭和天皇を、全世界が、天皇の本当と思ってみてしまう可能性大だなと思うとちいっと心配。どーしたものかな。 まっそれなりに見に行っただけのことはあったかもしれないという映画ではあります。 ところで今回見に行った、この劇場。銀座シネパトス。 この立地がね。すごいんですよね。なんと天下の銀座の真ん中を東西に走る晴海通りの真下にあるんですよね。しかもそのさらに下には、日比谷線「東銀座駅」がある。劇場は六車線の大通りと地下鉄にはさまれた真ん中にある。サンドイッチの具のようだ。映画を見ながら、時折、なにやらすごい音がなんとなーく聞こえる。映画の邪魔になるほどじゃないけど、あ、電車通ってるのかなと、映画を見ながら想像したりする。 それで、晴海どおりの両側から通りを渡る地下道のようになっていて、しかもその両側にシネパトスのチケット売り場と劇場入り口と、ちょっとしたお店がある。居酒屋とか、定食やとか、そのたたずまいがまるで、昭和中期そのまんま残ってるのですね。店舗はすごく狭くて、六畳一間くらいのスペースかな。とにかくちょっと面白いところだ。 ところでその中にイマドキ珍しい牛かつ屋さんがあった。なんと松坂牛使用なんだって。一枚7百円。定食セットでプラス350円。うーん。食べてみたかったんですけどね。でも暑かったので、ちょっとひきました。そのうち食べたいなあ。お店の名前は忘れてしまいました。いやでも、おいしくなかったら、どうしよう。 最近はシネコンの流行で銀座のような映画館は生き残りをかけて、いろいろやってるみたいですね。こんな、シネコンではまずかからないような名作物を上映するのも一つの手ですね。すごく混んでましたし。いろんな割引とかも考えてるみたい。 劇場によっては、シネコンにくらべようもないくらい、豪華な劇場もあって、たまにいくと楽しいです。昔は映画といえば、銀座で見てたものなんですけどね。 とにかくそれでも、まあまあの映画だったと思います。 『太陽』★その2『太陽』★その3
2006年09月02日
コメント(2)
![]()
ブログバトンとはなんでしょう。 ブログをはじめてみたら、バトンなんていう面白いものがありまして、へーーと思ったんだけど、でも、これって悪く言えばチェーンメールとおなじ。昔の不幸の手紙とか。どよどよどよ。 でも、実際には結構面白いですし、ネタぎれの時には結構いいですけどね。 ただ、実際には、次の人の負担になりそうだし、受け取ってもらえないかもしれないしなという事もあって、途中でまわすのをやめてしまう事もあります。だから、それほどには、ひろがっていきませんけどね。 ところがですよ。『ウェブ進化論』を読んでみたら、なんと、バトンとは、企業が市場調査のためにまわしているものなのだそうだ。がびーん。えっ? ブログで、アンケート調査そんな事考えても見ませんでした。でも、バトンだと、誰がどんな人が答えたかもわかるし、バトンを作ってまわしさえすれば、後はなにもしなくても、どんどんまわっていって、それを追いかけて情報を拾っていけばいいのですから、かなり、楽で効率よくてらくちんないいほうほうかもしれません。 こんなところでも、ブログは企業世界に利用されているということなのでしょうか。 実際私は、何度かバトンを遡っていった事があるのですが、書かれてすぐのバトンをたどっていっても、必ずどこかで途切れてしまって、発進元にたどり着けた事がありません。バトンというのは、頼まれたら、大概は数日中に書いて次の人に回しますから、それをすぐにたどっていけば、スタート地点を見つけ出せそうなものなのですが、必ずどこかで途切れてしまいました。大概はバトンを誰からもらったかそのもらって人の名前が書いてあるものなのですが、その名前でのリンク先がはっていない。ブログのなかを探してもどうしもてない。その名前のリンクがブログ内のどこにもない。バトンをもらう場合、普通ある程度は親しいはずですから、リンクがあるか、どこかにコメントが書いてあるものですが、どうしてもない場合。リンクをたどると既に閉鎖されている場合。など。バトンを回したそのすぐ後にブログを閉鎖しているのも不思議な話です。 さて、バトンが企業の市場調査だという話は本当に本当なのか。疑問ですが、なんだか、気楽にバトンがしずらくなってしまいました。 ブログっていろんなものが潜んでいるんですねぇ。ううむ。
2006年09月01日
コメント(4)
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()
![]()
