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久しぶりに庭をゆっくりと歩いてみた。しばらく忙しくてほったらかしにしていたので、すっかりジャングルと化してしまっているが、そんな中でも元気に咲きまくっている花や、ぐんぐん背丈を伸ばす植物達を見ていると、なんだか元気が出てくる。オレガノはピンクも咲き始めた。こちらはドライフラワーにするともう少し濃い色に変わるので気に入っている。葉っぱは白い花のもの同様、ドライにしたほうがスパイシーで良い香りになる。ラベンダーはまだまだ元気に咲いている。今年は花が大きいが、色は例年よりも薄い気がする。ここ数日良いお天気なので、香りが強くなったようだ。今が見ごろのペニーロイヤル。香りは少々きつい気がするが、こんなに面白くてかわいい形の花のハーブは珍しいと思う。ここ数日、庭中がこのピンクがかった紫色に染まっている。ぐんぐん育つパイナップルセージ。この葉っぱの色も形も大好きだ。若い枝にびっしりと生えているふわふわの産毛もかわいい。もうすぐ咲き始めるサルビアそっくりの赤い花も、満開の時は見事だ。でも、なによりもこのハーブの魅力は香りの良さである。葉っぱをちぎってもむと、本当にパイナップルそっくりの香り。遊びに来る子供達にいつも大人気のハーブなのだ。ずいぶん熟してきたブルーベリー。今年の実は大きい。今日、二つほどつまんで食べてみたら、すごくいい香りがして甘味もたっぷりだった。ビルベリーはまだ全然熟していない。ミントも咲き始めた。普段は雑草扱いのミントだが、花の時期だけは家族に大事にされている。ただのススキかカヤみたいに見えるけど、レモングラス。タイ料理に使われるものは盛り土して根元の太いところを軟白栽培したものらしい。トムヤンクンの柑橘の香りはこのハーブでつけるのだ。とにかくレモンよりもレモンの香りの成分が多いので、この葉っぱでいれたハーブティーはものすごくレモンの香りがする。(酸っぱくはない)お風呂にいれても良い香りがするので、我が家では毎年株分けして、たくさん育てている。ワサワサ茂ってきたら根元から刈り取って冷凍保存しておくと、いつでもフレッシュレモングラスティーが飲める。だいぶ実が大きくなってきた。たくさんなっているので楽しみだ。今年はゆずはちみつドリンクを作ってみたい。殿が昨年末、きれいな形に刈り込んだ栗の木。でも、あっという間にまたぼさぼさに枝葉が伸びた。今、小さな栗の実が鈴なりになっている。ちょっとおまけ。庭の砂をつんである小さな山に、奇妙な丸い穴ぼこがいくつも開いている。ちょうど野球のボールくらいの、きれいな丸い穴。何かお分かりだろうか。実はこれ、スズメたちの砂浴びのあとなのだ。雨が続いて体が痒いらしく、入れ替わり立ち替わりやってきては、砂の中に体をうずめるように羽をバタバタさせる。体についた虫もこれで落とすらしい。さて、明日から私と子供達は、しばらく大阪へ行くことになっている。次に日記が更新できるのは8月4~5日ごろの予定だ。いろいろなお土産話をどっさり抱えて帰ってきて、またぼちぼちと書くつもり。楽しみに待っていてくださるとありがたい。
2006年07月28日

私の英会話の先生はオージーなのだが、先生のお父様はニュージーランドの先住民マオリである。その先生のお父様がニュージーランドの伝統的な手法でMANAIAのペンダントを木彫りで作ってくださった。彼は毎年、夏に一ヶ月ほど日本に遊びに来られる。そして特別レッスンとして、様々なニュージーランドのお話やマオリの文化、歴史、風習などについてのお話をしてくださるのだ。マオリというと、日本ではあまり知られていないが、祖先はどうやら日本人の祖先と同じ、大陸から移動した人々らしい。日本人の祖先はおそらく大陸から直接やってきたが、ニュージーランドの祖先になった人は、いったんポリネシアを経由し、その後ニュージーランドに大移動したらしい。大陸人がポリネシア人となり、その後ニュージーランドに移り住んだ人がマオリとなったわけだ。マオリは男の人も、グリーンストーンと呼ばれる緑の石(そのまんまやん!)や木や骨をカービング(彫刻)したアクセサリーを身につけている。特にグリーンストーンは、先生のお父様によると「ダイアモンドの固さを10とするとこの石は8くらいの固さ」があるらしく、少し大ぶりのデザインのものは1~2年もかけて彫るらしい。そして、祖父から父へ、父から息子へと手渡され受け継がれていくのだという。釣り針や二重螺旋などをデザインしたものがよく見られるが、中でもMANAIA(頭が鳥で体が人間、しっぽが魚のデザイン)はとても人気のあるデザインで、魔よけと幸運を呼ぶ力があるそうだ。目の部分はabalone(アワビ)の内側の光沢のある部分を埋め込んであるとおっしゃっていた。日本にも螺鈿(らでん)という、まったく同じ技法の細工がある。同じ祖先が同じような島国に暮らす民族となって、それぞれがやはり同じような技法の細工を伝統として残している。ところで、日本で一番有名なマオリの文化というと、ラグビーチーム"オールブラックス"が試合の前にやるhaka(ハカ)ではないかと思う。ちょっとプリミティブなニオイのする歌を大声で唱和しながら踊る勇壮な男たちのダンスに、なにか特別な思いを感じてしまうのは、私の中に残っている祖先のDNAのカケラが同じ血を感じるからだろうか。また英語やヨーロッパの言語に比べると、マオリの言葉の音は日本語の音に非常に近い。カタカナで表記してそのまま呼んでも、あまり違和感のない音なのだ。(例えばさっき書いたhakaは、そのままハカという音で発音される。イントネーションに違いはあれど、日本の「はか」という音とほとんど同じ音のようだ。)そして、日本の神社にある鳥居にそっくりな門がマオリの風習にも見られる。ただしマオリの場合は神社ではなく、学校などの門にも使われるという。カヨリと呼ばれる特殊な木で作られるその門のてっぺんには、日本の古代の土偶を髣髴とさせる人の形のオブジェがのせられている。そのオブジェはちょんまげを結っているのだ。門を入ると手洗い場があるところも、鳥居にそっくりだ。こんなに様々な部分で似た風習をもつ日本人とマオリなのに、その面白さは学校の社会科ではだれも教えてくれなかった。こういうことを知って世界に興味を持てば、世界地図だってもっと楽しく見ることができるように思う。幸運を呼ぶMANAIAは、私に、世界地図を見る目を変えるきっかけをくれた。この歳になって、世界のことをもっとを知りたいと思えること自体が、もうすでに幸せなことだと思う。あとはMANAIAの力で、私の英語力がもう少しなんとかならないものかと…。
2006年07月27日

久しぶりによく晴れて、庭のかなへびたちが朝早くから日向ぼっこに出てきていた。玄関先にも一匹のかなへびがのんびりとしていたが、良く見るとしっぽは切れているし、途中まで脱皮したところで、脱げた皮をぶら下げている。特に急ぐ様子もなく「今日はええ天気やから、まぁぼちぼち脱ぎますわ。」とでも言いたそうな顔つきである。私も、時々こうやって一枚ぺろりと脱いで、新しいワタシになれたらなぁ…。
2006年07月25日
以前にも日記に書いたことがあるのだが、うちの子供たちの習っているピアノの先生は、とてもゆる~い、優し~い先生だ。私の子供達の同級生のお母さん達が「子供の頃あの先生に習ってた」と言うくらいだから、子供を教えるキャリアはかなりのもの。いつも朗らかで、良く褒めてくださり、先生とおしゃべりするのを楽しみに通っている子供も多い。太郎はその先生にピアノを習い始めて、今年で8年になる。彼はずっと淡々と習い続けたような感じで、教則本の進み具合はびっくりするほど遅いが、それでもそこそこ自由にひけるようにはなってきている。そんな太郎が少し前、「ピアノをやめたい」と初めて本気で言い出した。理由を聞いても今ひとつはっきりしない。ピアノが嫌いになったわけでもなさそうだった。そしてよくよく聞いて見ると、どうやら教則本の曲の曲調がこどもっぽすぎてつまらなかったらしい。太郎はさっきも書いたように、教則本の進み方が人並みはずれて遅い。普通なら一ヶ月くらいで仕上げる曲も、彼にかかると3ヶ月も4ヶ月もかかる。だから、本来ならばもっと小さい頃に終わっているはずの曲を、中学生になった今、年齢にそぐわないほど子供っぽい曲を弾かなければならなくなってしまった訳だ。でも、そんなのは結局、自分の努力が足りなかったのだろうし、もっと難しい曲を弾きたければ頑張ってどんどん進めれば良いだけのことだ、と私は思った。太郎の言い分の身勝手さに、少し腹が立ちもした。ところが、ヤツの思いは少し違っていた。太郎は、クラシックの「いかにもピアノのエチュード」という曲ばかり弾くことに辟易していたのだ。ヤツは言う。「このままずっと練習しても、どんどん難しい練習曲を弾くようになるだけで、僕がやりたい音楽には行きつかへんと思う。」と。じゃあ、どんなのがやりたいのさ、と聞くと、太郎は一冊の楽譜を出してきて「これ。こんなのが弾きたい。」と言う。見ると、私が「いつかこんなのも弾けるようになるかな?」と買っておいた、久石譲のピアノ譜だった。「アンコール」というアルバムの曲集で、CMに使われていた有名な曲や、ジブリのアニメ映画の曲などが入ったベスト版で、太郎は気に入ってしょっちゅう聞いていたのだ。しかしこんなのやりたいっていっても、それを、先生に言ってもいいものだろうか…。それよりなにより、こんな難しそうな曲、教則本でさえイヤになってしまうヤツに弾けるのだろうか。私はピアノ中退組なので、何一つ判断がつかず、とても悩んだ。太郎ももちろん悩んでいた。しかし、二人してう~んう~んと悩んでいても仕方がない。よし、当たって砕けろだ。次のレッスンで先生に太郎が話してみて、それでうまく行かなかったら私が一度先生にお会いしてお願いしてみようということになった。そしてそのレッスンの日。とても緊張しながら「先生、ボク、やりたい曲があるんですけど…」と切り出した太郎に先生は「楽譜持ってきたの?」と聞かれ、そのままその曲の練習に入ることになった。あまりにもあっけなく希望を聞いてくださった先生にびっくりしながらも、太郎はさぞかし嬉しかったのだろう。レッスンから帰ってくるなり、またピアノの前に座って、そのまま一時間ほど練習していた。そして今、ヤツは私の「こんな難しいの弾けるようになるのか?」という心配を見事に覆した。はじめに弾きたかった「Summer」という曲はすっかり彼の十八番になり、「千と千尋の神隠し」に使われていた「One Summer Day」という曲に取り組んでいる。どうやらピアノは、太郎の本当の趣味の座を獲得したようで、どんなに疲れている日も必ず鍵盤を触るようになった。とにかくピアノを触っていれば気分がよくなるらしく、試験勉強の合い間にも「ちょっと気分転換」と言ってピアノを弾くようになった。それに触発されてか、花子も張り切って練習するようになった。面白いもので、一人がやる気をなくしていると、もう一人もあまり練習しようとしないが、一人がしょっちゅう弾いていると、もう一人も弾きたくなるらしく、一時は埃をかぶりそうだったピアノが今はすぐ取り合いになるほどの人気だ。このまま行けば、太郎は確実に「ピアノの弾けるおっちゃん」になれそうだ。それこそ、私がずっと心の中で狙っていたものなのだ。いつか、ピアノの弾けるおっちゃんになった太郎の伴奏で歌うおばあちゃんになれたら…と思う。
2006年07月24日
私と娘は月に一度、車で30分ほどの整体院に通っている。その整体院の先生は、普通の整体だけではなく、様々な治療法を学んだ方で、また在家の僧侶としての勉強や修行もされていて、いつも治療しながら色々なお話をしてくださるのだが、それがまたとても心に響く優しいお話で、心身ともに癒されるのだ。先生はいつも「人間は元々苦しみを背負って生きてくるのだから、人生には嫌なことや苦しいことがあって当然。その根本はみんな自分自身の中にあって、それをどう解決するかの修行が生きることなんだ。」とおっしゃる。結局、自分が変わっていくことだけが、苦しみや辛いことを解決する道なのだと。そしてまた「『たった一度の人生だから楽しまなくちゃソン』という考えは一見幸せいっぱいに聞こえるが、実は幸せであることや楽しい状態であることに基準を置いているから、少しの嫌なことにも耐えられない人間にしてしまう思想なんだよ。」とも。なるほど、基準のレベルが高ければ高いほど、幸せを感じられるものごとの範囲が狭まるのは当たり前だ。すし屋のカウンターやフレンチレストランでしか本当においしいと感じられない人よりも、ファストフードだって、ファミレスだって、立ち食いそばだっておいしいと感じられる感性を持っているほうが、人生でおいしいと感じるチャンスが多いのは当然のことだ。物が溢れかえった時代に生まれた私たちは、飢える事を知らないから、まさか「食べられるだけで幸せ」と毎日思う事はできないが、それでも、その考えの根っこは理解することができる。自分を高く評価しすぎると、幸せを感じるチャンスはおのずと少なくなっていくのだ。そう考えると、子育ての本当の役割は、子供に幸せを感じさせる何かをしてあげることではなくて、幸せを感じる場面の多い人間に育てることなのかもしれないと思う。ここまで考えてふと、整体の先生のお話がそのまま描かれている小説を読んだことがあると気付いた。先日映画を見てきたと日記にも書いた、宮部みゆきの「ブレイブストーリー」だ。映画では、主人公の冒険だけが切り取られてストーリーの軸にされていたが、実はあの原作は、そこに主軸を置いたものではない。この長い長い物語の中に、整体の先生のおっしゃったことが一人の少年の体験として描かれているのだ。今、太郎が一生懸命読んでいる。この小説に書かれた本来の意味を、ヤツがどれだけ読み取れるか楽しみだ。それは、夏休みの宿題として書かれる太郎の読書感想文にはっきりとあらわれるだろう。そしてそれは、とりもなおさず、私が太郎を本当の意味での「幸せな子供」に育てられているかどうかと言うことなのだ。少し不安、少し楽しみ。母は複雑な思いで、感想文が書きあがるのを待つことにしよう。
2006年07月22日

怒涛のような日々は少し落ち着き始めたので、夏休みが始まった子供達に久しぶりにおやつを作った。太郎も花子も大好きなフライドチキン。食べ盛りの子供のお腹を満たすボリュームおやつである。何の変哲もないフライドチキンだが、実は圧力鍋を使ってあらかじめ加熱する作り方で作っているので、揚げ時間が非常に短く、骨付きでも絶対に失敗がない。市販の唐揚げ粉を使うので、思い立ったらすぐに作れる手軽さも気に入っている。外側がカリッカリで中がジューシー、しかも身もナンコツも骨からきれいにほろりとはずれるフライドチキン。これは骨付きチキンの好きなご家庭ならぜひ試してみてほしい。<圧力鍋を使うフライドチキン>・骨付きチキン(ドラムスティック、ぶつ切りなど) ・唐揚げ粉(水に溶いて使うタイプのもの)1.水を1カップ半~2カップ入れた圧力鍋に蒸しカゴや万能蒸し器などを入れ、チキンをできるだけ広げて並べる。2.強火にかけ、沸騰して蒸気が出始めたら中火~弱火で7~10分加圧する。 (チキンの大きさによって加圧時間は加減する)3.火を止めて圧が抜けるのを待ってふたを開け(急ぐ場合は急冷などで圧を抜いて開けても良い)、取り出したチキンの水分をキッチンペーパーでふき取る。このとき、チキンの表面が加熱で少しぼろぼろに見えるが、衣をつけて揚げれば出来上がりはきれいなので気にしない。4.水で溶くタイプの唐揚げ粉を、規定の水分量より心持ち少なめの水で溶く。 (チキンについた水分でゆるくなるため) 少し多めにしっかりと衣を付ける。5.揚げ油を熱し、少し高めの温度でからりと揚げる。 チキンにはもう充分火が通っているので、唐揚げ粉がかりっとすれば良い。この方法で作れば、骨付きチキンも中が生だったり、揚げ過ぎて表面がこげて固くなったりする心配がない。下味をつけていないので、衣を少し濃い目に溶いてたっぷりつけてあげると良い。下味のついていないのがものたりない場合は、チキンに軽く塩コショウをすりこんでから圧力鍋に入れても良い。ハーブの香りをつけたい時は、唐揚げ粉を溶くときにハーブ(乾燥のものが使いやすい)を混ぜておく。また、揚げたてにハーブソルトやガーリックソルトなどをふってもおいしい。
2006年07月21日
むちゃくちゃ忙しい。小学校の鼓笛隊のトランペットの子供達の指導を引き受ける事になったら、楽譜の書き直しやら、子供達の吹けない部分のアレンジのしなおしやらをしなければならなくなり、そうこうしているうちに他の楽器の子供達も「教えて~」と音楽室にやってくるようになり、その子たちの楽譜のチェックやら、他の楽器との兼ね合いの調整やらで、てんやわんやだ。この夏休みには、実家の父の様子を見るのと、介護の疲れを溜めているであろう母のサポートのために大阪へ帰るつもりでいるので、今のうちに家の中を片付けておかねばならないのだが、この3連休もほとんど鼓笛の楽譜とにらめっこして終わってしまった。しかも連日、殿が早朝出勤と残業を繰り返しているので、朝は5時起き、寝るのは殿が帰ってきてご飯を食べたあと片づけをしてからなので、日付が変わってかなり時間がたってからだ。慢性的な寝不足がそろそろ辛くなってきて、スーパーで買い物しながら寝そうになることもしばしば。こんな状態なので今日は日記の更新もままならないが、ゆっくりとパソコンに向かう時間ができたらまたどんどん更新し、ここを訪れてくださる方々の所へもお邪魔したいと思う。頑張れ、ワタシ!(笑)
2006年07月18日
私が日常生活で最も苦手なことの一つが、人の顔を覚えることである。とにかく人の顔が覚えられない。覚えられないというか、きちんと認識できないのだと思う。あまりにも覚えられないので、友達づきあいの上手な友人に相談してみると、その人の誕生日とか星座とか血液型とか、そういう周辺情報と合わせて脳にインプットするといいよ、とアドバイスをくれたのだが…いかんせん、その「人の誕生日」などを覚えるのが、これまた苦手なのだから始末におえない。私がどれくらい顔を覚えられないかと言うと…例えば、先日スーパーで「ののはなさん、こんにちは。花子ちゃんいつも元気そうに学校行くねー。今朝も挨拶してくれて…」と話しかけられたのだが、相手が誰だか分からない。必死に思い出そうとするが、さっぱりわからん。花子のことを知っているということは、花子のクラスの誰かのお母さんだろうか。いや、しかし今朝挨拶をしたということは、通学途中で会ったということだから、近所の人なのか?なんとなく、見たことのある人なのだ。どこかで少しは会話もしたことがある気がするが…。結局、その場は当たり障りのないちょっとした話をして別れた。そして夕方、裏庭から出てくると、うちの玄関にその人が立っていた。「ごめーん、今日あったときに言えばよかったんだけど、自治会の集金…」彼女は自治会のうちの班の今年の班長さんで、近所のおうちの奥さんだった。回覧板や集金や連絡で、もう数回は話しているはずなのに、いつものエプロンをしておられなかったというそれだけの理由で、私には誰か認識できなかったのだ。もう少し前には、大型ショッピングセンターを歩いていたら、向こうから知っている顔の男性が歩いてきて、にこっと笑いかけられた。誰だろう…と思いながら会釈すると、その男性は「最近はご無沙汰ですね。元気ですか?」と笑っておっしゃった。そして「じゃ、また」と去っていってしまった。最近はご無沙汰、とその人は確かに言った。ええっ?!それでは私は以前、その人にしょっちゅう会っていたのだろうか…。誰だろう…???と考えていると、娘が「先生もお買い物かな?」と言った。「え?あの人、学校の先生やった?」と聞くと、娘はあきれた顔で「お母さん、なに言うてるん。あれいつも行く病院の先生やんか」白衣も着ず、聴診器もぶら下げてなかったから分からないなんて…。これはもう、一種の病気なのではないかと、ちょっと自分でも心配になった。でもこれは今に始まった事ではないのだ。まだ大阪でプランナーをしていた頃、プレゼンテーションのためにお客さんの事務所へ急いでいたある朝のことだ。私の目的地の一つ手前のビルが、よく野球選手や芸能人の泊まるホテルだった。そのホテルの玄関前は、その日いつになくたくさんの人でごった返していて、時間に遅れそうだった私は急ぎ足でその人だかりを突っ切ろうとした。すると、その人ごみの中心に、なんだか見たことのある顔の男性が数人立っていたのだ。誰だか思い出せない。しかし、確かにとてもよく知っている人たちなのだ。話し声も知っている気がする。とっさに「仕事で関係のある誰かだろう」と思った私は、その人たちに「おはようございます!」と声をかけた。すると相手の男性達も私に「おはようございます」と口々に挨拶を返してくれた。やっぱり知っている人なのだ。挨拶しておいて良かった。しかし、プレゼンの間も、顔は知っているのに名前が出てこない彼らが頭から離れない。あーイライラする。いったい誰だったんだろう…う~ん、名前がどうしても思い出せない…頭に浮かんでくる名前は…す…すずき?いや、そんなありふれた名前ではない気がする。結局、思い出せないままプレゼンを終えてビルを出た私が隣のホテルの前で見たものは…。それはテレビ中継で新曲を歌う「ラッツ&スター」の姿だった。そう、私がその朝人ごみの中で挨拶を交わしたのは、ラッツ&スターのメンバーだったのだ。そりゃ、よく知っている顔のはずだ。みんな普通の服装で、顔も塗っていなかったから私には彼らだと認識できなかったのだった。こうして書いてみると、どうやら私は「いつもの格好」というものがある人の顔の認識がダメなようだ。顔よりも、そのコスチュームで人を認識しようという甘い脳みそなのだ。初対面の人の名前と顔をすぐに覚えられる人を、私は心から尊敬するし、うらやましいと思う。私の脳の中のメモリ容量は、人を認識するために使われることはないような設定になっているのかもしれない。誰か、うまく人の顔を覚えるコツなどご存知の方がいたら、ぜひ教えて欲しい。
2006年07月14日
英会話教室に新しい生徒さんが加わることになった。彼は学校の先生だそうで、新しく加わると言っても、別の曜日のクラスですでに何年も勉強している人らしい。今まで通っていた日の都合が悪くなり、私たちのクラスに転入して来たそうだ。先生は「ずっと固定メンバーでやってきたので、新しい人が入るとまた空気が変わっていいかもしれないよ」とおっしゃっていた。私も、人数が増えれば日々のトピックの種類も増え、新しい雰囲気になるかもしれないと期待していた。そして、その人を加えたメンバーでのレッスンが始まった。確かに新しい空気のレッスンとなった。いや、空気が変わってしまった、と言うほうが正しいだろう。彼はレッスン中、やたらと日本語で話す人だったのだ。これは大変困ったことになった。私のクラスは、みんな初級レベルで、たいして難しい会話ができるわけではないが、相槌や途中のちょっとしたことも極力、英語で表現するように努力している。レッスンの間、頭の中を英語で満タンにして集中するためである。そこにうかつに日本語を挟むと、たちまち集中力は途切れ、思考が日本語の言葉の組み立てに引き戻されてしまう。だから、恥ずかしくても照れくさくても、とにかくなんでも英語で表現する。どうしても理解できないニュアンスの解説の話し合いや、逆に先生に日本語の解説をする時だけ、緊張感を持って日本語で話す。こういう暗黙の了解ができていたのだ。私は、日本語と英語はまったく違う成り立ちの言語で、英語で話すときには、脳みその中を英語人(英語を話す人々)の脳みそにしなければ、うまく会話として成り立たないと思っている。いわゆる「英語脳」「英語耳」「英語舌」というヤツである。元来、日本語は流れを大切にする言語であり、話し始めのきっかけとか、間の開け方とか、そういうプロセス自体にも大切な意味が含まれていて、最後の最後まで聞かなければ結果の分からない話し言葉である。それだけに、話のオチへの持って行きかたによって、その人の個性や品性があらわれたりする。しかし、(今、私が理解している範囲での)英語は、とにかく何を伝えることが最終目的かということを最も重んじる、合理的な言語であると思う。伝えたいことのキモを初めにはっきりと持ってくることによって、その後につながる言葉を理解しやすくしているという部分もある。要するに、英語を話す人たちは言語の性質がせっかちなのだろうと思う。(ちょっと違うかな?…笑)これほど違う言語なのだから、一度日本語の文章を考えて、頭の中で英語に並べ替えて…なんてことをやっていると会話は成立しない。とにかく自分の思いの重要部分をぱっと口に出して、それからぼちぼちとそれにまつわる周辺を話す、という風にしないと、せっかちな人たちは痺れを切らして、向こうから「○○かい?」「~~なんでしょ?」と先に言われてしまう。なにしろ英語人の言語はせっかちなのだ。そういうわけで、この新しいお友達のレッスンの受け方に、私は困惑した。彼は、自己紹介のときも、途中から「ちょっと緊張していまして…」と日本語の説明をお入れになり、相槌も「う~んなるほど」「へえ~、そうですか」「あー、そうそう」などとおっしゃる。どうやら彼は、レッスンの主要箇所以外まで英語を使うなんてばかばかしいと思っているらしい。英語で冗談を言うと、ちょっと鼻で笑うように苦笑するか、または反応なし。それではいつまでたっても英語を話せるようにはならないのじゃないか、と私は思うのだ。第一、ちょっとした事を英語で話すのを恥ずかしがっているなんて、英語人に失礼じゃないかと思う。英語はハズカシイ言語などでは決してないのだ。疲れた。本当に、あんなに長く感じたレッスンは今まで一度もなかった。頭の中がごちゃごちゃしていて、言いたいことの半分も話せなかった。(いや、これは彼のせいではなく、私のスキルのせいか…。)なんだかレッスンに通うのが憂鬱になった出来事だった…。
2006年07月12日

殿が大事にしているセイヨウニンジンボクがそろそろ満開になる。小さなポット苗から育てて、5年ほどで私の身長を超え、たくさんの花を咲かせるようになった。葉や花の雰囲気がレモンバーベナを大きくしたようだと思っていたら、同じクマツヅラ科だそうだ。一応ハーブの仲間で、母乳の出を良くしたりする効果があり、実はコショウの代わりに使うことができるらしい。私は使ったことはないが、そういえばちょうどホールのブラックペパーのような形の実がなっているのを見たような気がする。今年は一度、コショウひきでひいて、香りを確かめてみようと思う。
2006年07月11日

花子が自分の花壇に植えているサザンクロスが、また咲き始めた。春先に少し咲いた後しばらくあまり元気がなかったのだが、最近またつぼみをつけ、咲き始めたのだ。ピンクの星型の花が愛らしい。昨年植えたアメリカンブルー。今年はすっかり忘れていたのだが、オレガノの株元から人知れず枝を伸ばしていたらしく、突然花を咲かせて私たちを驚かせた。「すっかり忘れていてごめ~ん」と言って周りの草を抜き、お日さまが当たりやすくした。ツユクサは夏の花の中でもとても好きな花の一つだ。しゃんとした葉っぱの形も、涼しくなるようなこの青も、短時間でしぼんでしまう潔さも好きだ。ここの庭を作るようになってすぐに、あちこちから生えはじめたモジズリ。細い茎に小さな花がねじれた形に並ぶので「ネジバナ」の名のほうがよく知られているようだ。一つ一つは蘭の花のような形をしていて、少し甘い香りもある。今年はなかなか見られないので「異常気象でみんな枯れてしまったのかも」と心配していたのだが、やっと一つ見つけた。お天気が悪くてなかなか庭仕事ができない。早くスカッと晴れた青空を見たい。そして思い切り洗濯物を干したい。久々にてるてる坊主など作りたくなる気分の毎日である。
2006年07月10日
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本屋に行くと、数回に一回くらいの頻度で、必ず本に呼ばれる。この話をすると、家族はちっとも信用していない半笑いの顔で「へー」とか「ふ~ん」とか言ってバカにするのだが、これは本当の話だ。本当に、離れた棚から「おい」と呼ばれたり、その本が妙にこちらを見ているような印象を受けたりするのだ。本屋には本屋の神様がいる。その神様は、あまり親切ではなくて、よっぽど本屋に通うような人間にしか興味がない。なにしろ「本の神様」や「活字の神様」ではなくて「本屋の神様」だから、本を買う目的でしょっちゅう本屋を長時間うろうろするようなヤツしか見ていない。(ちなみに、図書館に通い詰める人は図書館の神様に見られているし、古本屋には古本屋の神様がいるのだろうと思う。)そして、本屋の神様は非常にいたずら好きなのだ。私のような活字中毒者は、3日とあけず本屋をうろうろし、常にその時に心に持っている何かを解決する本がないかを無意識に探している。それは深刻な悩みの時もあれば、「あーなんかこう、ワクワクするような本かじーんとするような本が読みたいなあ」と言うときもあるし、なにか新しいことを始めたいと思っている時も、今夜のメニューに困っている時も、掃除がきれいにできなくてイライラしている時もある。本屋の神様はそういったことをお見通しなので、時々いたずらをして、心に思っていることとぴったり合致するような本や、時にはちょっとひねって解決の糸口を見つけられるような本に、私たちに向かってアピールさせるのだ。そして、その本を偶然手に取ったと思った者が「おお!これやんか!!」と驚いたりするのを眺めて喜んでいるのである。偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎた偶然を、私は本屋でなんども経験している。以前、庭の本のことを書いたときにも少し触れたが、殿と私がたまたま同じ日に、同じ出版社の同じジャンルの本を買って来て、中を見たらそれぞれの本の著者がお互い友人であったり、ふと手にとって読んだエッセイに、ずっと知りたかったレシピがあったり。先月などは、何気なく芸術関係の雑誌を棚から引っ張り出したら、隣の本が少し飛び出してしまったので、押しもどそうとしたのだがなかなか入らない。仕方なく一度取り出して入れなおそうと思い、引っ張り出してみたら、そこには遠くで芸術活動をしている古い友人の活動が載っていたのだ。もっと昔には、太郎が4~5歳の頃に、当時大好きだった鉄道の写真集を買ってくれとせがまれ、それじゃ私もハーブの本を、とその2冊を買って帰ったら、ハーブの本の著者と鉄道の本の写真家がご夫婦だったこともあった。ハーブの本の写真はそのご主人が撮られたものだった。これらの、ちっちゃくて楽しい神様のいたずらは、私をますます本屋に通わせることになる。しかし、これは誰にも起きることではないらしい。本屋にいるとなんとなく落ち着かなくてトイレに行きたくなるようでは、まだまだ本屋の神様の目にはとまらない。で、今回ワタシにだいぶ離れた棚からしきりに「おーい、おーい」と呼びかけていたのはこの本。大きなやかんは沸くのに時間がかかるから『格闘詩』と名づけられたこの詩集には、頑張ってもなかなかうまく行かなかったり、なにか凹んだりしたときに、読みたい言葉がぎっしり詰まっている。実は私は、このところ「こんなに一生懸命勉強しても塾に行っているヤツらには勝てないのか」「頑張っても才能のない者は勝てないのか」「自分はなんのために頑張るのか」などと、少し行き詰っていた太郎に読ませる本を探していたのだった。私は、勉強の効率を上げるための参考になる何かがないか探し、最終的には「ドラゴン桜」でも読ませようかと浅はかな考えでいたのだが、この本は全く違う角度から太郎の心にアプローチするものだった。太郎ははじめのうち黙って読んでいたが、突然にっこり笑って「これ、ええこと書いてあるわー。」と言って嬉しそうにしていた。子供の時に良い文章をたくさん読んでいれば、めちゃくちゃな人生を選択することはないと思う。そしてもし一時期、間違った方向に行ってしまっても、ちゃんと戻ってくる道を探すことができると私は思っている。だから、私は子供達に多くの本を読ませ、読み聞かせ、自分の呼んだ本の話をする。もちろんこの本には、子供や学生以外でも、日常生活の中のいろいろなフラストレーションを抱えた時に読みたい詩がたくさんある。私は「おしぼり」という詩を読んで、ちょっと泣いてしまい、太郎に笑われたのだが、その後なんともハレバレとした気持ちになった。ちょっと心を軽くしたい時にぜひオススメの一冊だ。
2006年07月09日
ブレイブストーリーが封切られたので、家族で見てきた。我が家はよく子供連れでレイトショーに出かける。たいてい夜の9時ごろに始まって11時過ぎくらいに終わるのだが、車で出かけて終わったらすぐにまた車で帰ってくるので、小5の娘もなんとかギリギリ楽しめるのだ。仕事が忙しくて家族となかなか出かけられない殿も、これなら早めに(と言っても7時頃)帰ってくるようにすれば、みんなでご飯を食べ、ゆっくり映画を見られる。それに、レイトショーなら料金も安いし、とても空いていて、静かに落ち着いて見られるのだ。さてこのブレイブストーリー、原作を読んだのは私だけだった。しかし、それももうずいぶん前で、細かいエピソードなどは忘れているものが多かった。原作は非常に長く、宮部みゆき独特の、登場人物の性質や背景を細かく緻密に書き込むミステリーの手法がとられているため、これを全て映画に詰め込むことは無理だろうと思っていた。やはり映画は冒険ストーリーの部分をメインにしたもので、若干子供向けにしすぎた感も否めないが、それでもうまくまとめてあり、なにより映像がとても凝っていて美しかった。声優陣は女優・俳優・お笑いタレントなどが多く出演していたが、主人公を演じた松たかこや爬虫類系キャラを演じた大泉洋などは、良い出来だったのではないかと思う。キャラクターは原作を読んだイメージよりは子供ウケを狙ったデザインとなっているが、花子などは何度も何度もクスクス笑っていたし、キャラクターのかわいらしさがストーリーに入り込みやすくしているという部分もあるようで、ずいぶん熱心に見ていた。太郎は映像の面白さに感心して見入っていた。家族がそれぞれ別の部分で感心したり楽しんだりしたわけだが、それはそれでファミリーで楽しめる良い作品といえるのではないかと思う。原作は、ごく普通のありふれた現実の世界で生き、様々な悲しいことに押しつぶされそうになっていく主人公が、現実世界ではない世界での体験を通して、現実世界での生き方を悟るものとなっていて、その二つの世界観の対比がはっきりと描き分けられている。映画では描かれていない、悲しい現実の世界での主人公の苦しみが、原作にはじわじわと、そしてくっきりと形を見せていて、それはエンディングでの主人公の選択の意味をより一層、意味深いものにしている。映画を見て、イマイチ納得できない部分がある大人は、ぜひ原作を読むと良いと思う。うちの場合は、太郎が「映像はすごく良かったけど、ちょっと『なんでそこまで?』と思うところがあった」と言うので、原作を読むように勧めた。さっそく読み始めているが、現実世界での描写の細かさに「う~、長いなぁ」「あーもー、イライラするな」などといいながら苦戦している様子。そう、この現実のじりじりとした悲しみをじっくりと読まなければ、長い原作の意味を理解することはできないのだ。本来ならこの原作は、アニメではなく実写で、大人向きに作るべきだったのではないかと思う。宮部みゆきが書きたかったのであろうと思われるこの物語の背景は、実は子供に簡単に理解できるようなものではないからだ。しかし「模倣犯」の映画化の時のようにひどくがっかりさせられることを思えば、このアニメ化は原作の流れを壊していない分、楽しめる。原作を知らない殿も、最初「えー、アニメかぁ…」と言っていたが、かなり楽しんでいたようだ。さて、今回は映画を見る前に、自宅で軽く(しっかり食べると眠くなってしまう)夕食を済ませていったのだが、映画が終わるとみな少しお腹が減っていた。そこで、殿が帰り道にあるレストランバーに連れて行ってくれて、そこで子供達も『はじめての夜中の食事』を楽しむことになった。そのレストランバーは夜中の1時まで開いていて、まあ、本来なら夜更けはカップルがお酒を楽しんだりする場所なのだが、料理もとてもおいしく、ソフトドリンクも充実しているので、子供達は眠い目をこすりながらも、とても喜んでいた。みんなでスパゲティを食べたのは日付が変わる頃。どう考えても健全な子供連れの遊びではないが、たまにはこういうのもいいんじゃないかと思う。バーテンダーがまん丸に削った氷を入れてくれたパイナップルジュースに、目をキラキラさせて感激する花子の笑顔が印象的だった。
2006年07月08日

ムクゲの花が咲き始めた。うちにあるのはこの2色なのだが、どちらも私が植えたものではない。そして、殿が植えたものでもない。これらはじーちゃんが、私たちの知らないうちにこっそりと植えていったのだ。さすが親子。そもそもここの家や庭の土地はじーちゃんのもので、それを「小さな家を建てる分だけ、土地を貸してください」と頼んで、私たちが借りて住んでいるのだが、私たちときたら微塵の遠慮もなく我が物顔でどんどん庭を広げ、とうとう敷地いっぱいいっぱい、全てを庭にしてしまったのだ。たぶんじーちゃんは、あれよあれよと言う間に広がっていく勝手気ままな庭に一抹の不安を感じ、このままではなし崩しに誰のものかわからなくされてしまう、と心配になったのだろう。時々ちょこっとなにか植えていくようになった。それは南天であったり、胡桃であったり、椿であったりと、必ず少し成長すると自己主張し、しかも私たちがおおよそ植えようと思いもつかない植物たちであったが、それらは不思議といつの間にかしっくりと庭になじんで「私らはじめっからここにおったで」という顔をしている。そしてこのムクゲたちも旺盛な成長ぶりを見せ、あっという間にたくさんの花を咲かせるようになったのだった。実は、私は若い頃あまりムクゲの花が好きではなかった。あの大きな花びらの素材感や独特の配色、葉っぱの造形などを見ると、南の暑い場所に咲く花のように思え、私の庭のような普通の場所で咲くべき花ではないのではないか…という落ち着かない感じがして、どうにも好きになれなかった。しかしええ歳の大人になった今では、落ち着かない感じは「きれいやん」というただの一言で払拭され、咲くのを楽しみにするようになった。これが大人の懐の深さというものだ。さて、じーちゃんの植えた木のなかで、今ものすごい自己主張をして、期待を集めているものがある。それはコイツ。ゆずである。毎年、たくさんの実をつけて、料理に、飲み物に、デザートに、お風呂にと、大活躍だ。今年もすでに鈴なりに小さな実をつけている。今年はゆずのマーマレードを作ってみたい。おいしくできたら、一番にじーちゃんに試食してもらおうと思っている。
2006年07月07日

ちょっと雨があがったので、久しぶりにデジカメ持って庭を散歩した。うちの庭のハーブの花は初夏に咲くものが多いので、今、庭のいたるところで花を咲かせている姿がみられる。オレガノ先日、五分咲きくらいの画像をアップしたオレガノは、満開を少し過ぎて、ところどころに青い種ができかけているのが見える。ヤロウヤロウもまだまだ咲き続けている。ビタミン・ミネラルが豊富に含まれており、浄化・殺菌・止血作用があるため、傷薬やハンドクリームの材料になるらしい。レモンバームシソの花にそっくりの地味~な花を咲かせるレモンバーム。この花の蜜は非常によい香りがして、ミツバチを集めるのでビーバームとも呼ばれるらしい。学名のMelissaは蜂蜜を意味するとか。古くは蜂蜜を集めるための植物として盛んに栽培された。スイートマジョラムたぶん、ハーブの花の花で、一番地味なのではないかと思うのがこのマジョラムの花。オレガノとは親戚のはずなのだが、この違いはいったい…。オレガノはイタリア料理に欠かせないスパイスとしてポピュラーだが、このスイートマジョラムはあまり知られていない気がするが、私は全てのハーブの中でこの香りが一番好きだ。レモン系やミント系の香りのハーブのお茶に少し足したりするのもおいしいが、私はスイートマジョラムだけでお茶にするのも好きなのだ。優しくて気持ちがほ~んわかしてしまうような香り。ちょっとおまけ…あまがえるくん梅雨から夏にかけての、庭の常連さん。(体長2~3センチ)多いときには何十匹もいる。えさになる虫もどっさりあるし、隠れるための葉っぱには事欠かないし、うちの庭はすこぶる居心地がいいらしい。雨が近づくと「ケロケロケロケロケロ…」としつこいほどに鳴いて知らせてくれて、にわか雨に洗濯物をぬらさずに済むのでありがたい。
2006年07月06日

昨日漬けた漬物も、おいしく出来上がった。かっぱ漬けはカリカリの歯ざわりがとてもおいしくて、ご飯のおかずにもなるが、ちょっと甘めに漬けておやつにつまむのも良い。暑い季節のおやつに、熱い番茶ときゅうりの漬物なんて、ちょっと洒落ていて良いと思う。(レシピは、ばばばあちゃんのブログの「かっぱ漬け」を参照のこと)しょうがはまだ少し辛味が残っているが、もう少しずつ食べ初めて、日に日にだんだんと辛味が抜けてくるのを楽しむのがいい。だが、うちの家族はみんな新ショウガが好きなので、ばばーんと買ってきて、一日がかりで漬けても、あっという間になくなってしまう。最近はかなり長い期間出回るようになった新ショウガだが、それでもやはり、辛味が少なく繊維が柔らかいのはほんの短期間。そういう季節感のある食材を楽しむのが好きだ。
2006年07月05日

これが昨日ブログに書いた、花子のリクエストで『宿無しハックかトム・ソーヤがはくような半ズボンの丈』に切りっぱなしたジーンズだ。これに、簡単なステッチで刺繍をしている。花子が描いた「コップマンと仲間達」(なんじゃそら)のイラストをそのまま写し取って、刺繍してみた。ずいぶんはき古して、洗いざらし感があるので、はっきりした色の糸が映えてかわいくなった気がする。(気がするだけかもしれないが)花子の話では、もう少し付け加えて欲しいキャラがいるそうで、今、その原図待ちの状態である。中学生くらいになってしまうと、こんなの嫌がるようになるのかもしれないが、今のところは喜んでいて、履く気マンマンである。「この半ズボンに白いランニング着て、麦わら帽子かぶってどこかにお出かけするわ!」なんていっている。しかしそれは宿無しハックというよりも、どちらかというと裸の大将に近いのではないか?リュックサックと赤い傘とおにぎりも持たせたい母である。
2006年07月05日
梅雨空はちっとも戻ってこずに、今日は真っ青な空。涼しい乾いた風が吹いている。今日は車を車検に出す予定になっているので、あまり遠くに出かけるのはやめて、うちでこまごまとした手作りをいろいろと予定している。今、こことリンクさせてもらっている「ばばばあちゃんのブログ」のレシピで、きゅうりのかっぱ漬けを作っているところ。前回5~6本のきゅうりで作ったら、きゅうり好きの娘が「おいしいー!」と、あっという間に食べてしまったので、それ以来ちょくちょく作っている。パリパリとした食感でとてもおいしいので、きゅうり好きの方や、家庭菜園できゅうりがたくさん採れると言う方は、ぜひばばばあちゃんのブログをチェックしてみてほしい。(ばばばあちゃん、勝手に掲載してごめんなさい。事後承諾でお願いします…笑)次に、新ショウガを甘酢につける予定。これは、おすし屋さんで食べる「ガリ」なのだが、うちで漬けると好みの甘さにできるので、毎年必ず作っている。夏の食欲のない時にも、コレさえあればご飯が食べられるのだ。今、生姜を薄切りにしてアク抜きをしながら、漬け込む甘酢を冷ましている。それから、庭のラベンダーがずいぶん咲いたので、ラベンダースティック(バンドルズ)を作ろうと、週末にリボンを買ってきた。今年は立派な花穂が非常に多いので、リボンもたくさんの色をそろえてみた。出来上がったら画像をアップするつもり。花子の背がまたぐんと伸びて、丈が短くなってしまったジーンズがたくさんあるので、娘のリクエストで丈を短く切ることにした。花子のイメージでは「宿無しハックやトム・ソーヤがはいているような丈にして欲しい」のだという。麦わら帽子の似合うラフな半ズボンが欲しいらしい。切りっぱなしもかわいいが、せっかくなのでちょっとイラスト風のステッチを入れて遊んでみようかと思っている。こちらも上手にできたらまた画像をアップする予定。他にもまだまだ手作りの予定は山盛りで、書ききれない。特に、こんなにいいお天気の、こんなに涼しい風の吹く日には、やりたいことがどんどん増えてしまう。こういう日があと一週間くらい続いてくれたらいいのに。
2006年07月04日

今夜はスペアリブを焼いた。このスペアリブは、私が若い頃に東梅田の地下にあったスパゲティレストランで食べた味を再現したもので、かなり近いところまでできたと思っている。それは私が生まれて初めてスペアリブというものを食べた店で、当時「こんなにおいしいものがあったのか!」と驚いた。今から20年くらい前の話だ。りんごや玉ねぎのすりおろしに、しょうが、にんにく、醤油、ケチャップ、オレンジマーマレード、パイナップルジュースなどで作ったタレに漬け込み、オーブンで焼く。豪華に見える割には安い材料でできるし、手間もかからないのでとてもいい。おもてなし料理にも、バーベキューの材料としても活躍する料理だ。今日はあまり大きく切ったものではなかったが、もっと大きな切り身の時も、そのまま漬け込んで焼く。骨の際の肉がおいしいということを、改めて感じさせられる。ビール片手に、豪快に手づかみで食べるのがいい。
2006年07月03日

ヤマモモの実が熟した。このヤマモモの木はまだ若くて、今年がはじめての結実だ。一見、まだ木になっているように見えるこの画像、じつはこのヤマモモの実は一つ上の枝からポロリと落ちてきてこの葉っぱの上にうまくころんと収まったものだ。ポロリと落ちてきたということは、きっと食べごろに違いない。デザートにちょっとそえるだけで、なんともいえない野趣溢れる雰囲気が出るのがいい。今年はまだたった二つしかなっていないが、来年からはもっと収穫量が増えることを期待しよう。
2006年07月01日
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