小学校の総合学習のテキストづくりをしています。
調べてみると、私自身がいろんな発見をさせてもらうものです。
地元の川がテーマなのですが、
この川は、歴史的な由緒もさることながら、
伊達藩の農業振興策と結びついていました。
伊達62万石は、実質100万石とも200万石とも言われています。
江戸の市中の米の半分は、仙台から送られたものだとも。
それだけの米どころ、農業の国が、
なぜ、庶民がお米を食べられなく、
雑穀しか口にできなかったのか?
天明・天保の飢饉のとき、全国でも、筆頭の
何十万人もの餓死者を出したのか?
これは、為政者が、無為無策だったからか?
酷薄非道だったからか?
これが、疑問でしたが、
少し見えてきました。
伊達藩が、もともと、経済的にピンチだったことが、発端ではあります。
しかし、その解消策を、マジメに、米の増産に求めたのです。
そのために、素晴らしい治水工事をします。
新田開発も急速にすすめます。
大阪での米取引にも、積極的に参入し、
為替取引もいち早く導入し、
一時は、莫大な利益を上げ、
財政破綻を乗りこえるのです。
しかし、その成功体験から、さらに、米への傾斜が激しくなり、
まず、農民の米を年貢以外にも、あらいざらい、全部に近く
買い上げてしまうに至ります。
それでいて、市中に金が出回って、市場経済が発達しないよう
入念に、勝手な物資の移動を禁じます。
これは、市場相場から切り離され、不当に安い価格で
買いたたかれることになります。
そして、米だけを作らされます。
米は他の作物に比べても、手間のかかるものです。
農民は、多様な農業をする余裕が無くなります。
豊作のときは、まだ良かったのですが、
凶作のときは、この単品経済は悲惨です。
植民地でのモノカルチャーと同じです。
人口が半分近くになった村もいっぱいあります。
結局、この飢饉で民力が低下したことが、致命傷で
伊達藩は、没落をたどります。
現在、米どころとして、胸を張っている当地ですが、
先人の浅智恵がもたらした人災への記憶が、薄れているのではないか
と心配になりました。
どんなことでも、多様性への配慮を欠いてはいけない。
心の余裕が必要です。
もし、他の作物を研究してみる余裕があったなら。
また、民力の大切さと、藩内の市場経済への見通しがあったなら。
とにかく、一つの側面からだけ、追求してはいけない。
特に、それをマジメにしてはいけない。
先日、農への思い入れをもちながら、生活する大切さを学びましたが
単に、米づくりが大切だ、ということだけを思い続けると
大きな落とし穴に入ってしまいます。
人間のアタマが及びも付かない、豊かな多様性を
忘れないようにしたいものです。
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