2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全11件 (11件中 1-11件目)
1
人生がプラモデルのようであれば設計もできるだろう。設計はしてみようとは思ったこともあるけれど部品がまったく足りないことに気がついてもいた。そもそも人生って設計できるのか?人生が設計できるものだとしたら僕はもう少しましな人生を送れてきたはずだなどと思う。
2006.08.29
コメント(0)
そのうち誰かに「生きてて楽しいの?」なんて聞かれそうだ。そんなときは問い返すだけだ。「生きるって楽しいことなの?」楽しいから生きるというわけでもなかろう。堂々巡りだ。「何のために生きている?」何のためでもないという結論は出している。けれど何度だって繰り返しこの問いに返ってしまう。いつか抜け出せると思っていたのだが・・・思いつづけて約20年?長いトンネルだ。いや,これはきっとトンネルではない。トンネルなら入口と出口があるだろう。トンネルに入った覚えはないからはじめから単に暗い世界だったということなのかも知れない。「もっとひかりを!」とはゲーテだったか。“もっと”ならまだいい。「“せめて”足もとにだけでもひかりを・・・」
2006.08.26
コメント(0)
無駄な努力無駄じゃない努力どうやって見分けようか。
2006.08.26
コメント(1)
部屋の網戸にかえるが白い腹をみせてへばりついている。かれらは球状の指先(?)を網に引っ掛けてしがみついているのだった。平面ならその球状の指先が吸盤のような働きをしているのだろう。なつかしい風物。僕はそれをじっと見ている。夏の間だけだけどふるいともだち。
2006.08.26
コメント(2)
ホームシックかもしれぬ。ホームとはどこか?今いる場所は物心つく頃から20歳まで過ごしてきた土地である。通常ならここが「故郷」 ホームというべきところであろう。しかし僕はここを一度は捨てた。今回戻ってきたといっても心の拠り所がここには存在しない。かといって東京に心の拠り所があるかといえばない。ただ人的ネットワークはあった。友人・知人はいまや東京にしかない。東京に出た頃ホームシックなどというものが理解できなかった。今はなんとなくそれがわかるような気がする。東京がいいということではない。たまたま東京で暮らしてきたというだけであってそれが東京でなく他所であればそこだっただろうということである。
2006.08.25
コメント(0)
地元のちょーローカルな花火大会が始まった。19:30近所でわーきゃーという声が聞こえる。近くに大きな河が流れていてその中州から花火は打ち上げられる。近くで行われるから川まで出なくとも建物などの障害物がなければここからでも見ることができる。もちろん音もじゅうぶんにうるさい。十何年ぶりに聞く地元の花火の音である。見ようとは思わない。尺玉の音は大きいし突然なので心臓に悪い。花火を見に行くというのは楽しいことだろうか。僕にはもの悲しく感じられる。以前からそうだった。「今年の夏も終わる・・・」そんな気持ちが強く沸いてくるのだった。特に今回はこの小さな田舎の花火大会がよりいっそうもの悲しくさせるのである。
2006.08.25
コメント(0)
親がいなかったための不幸はよく論じられるだろうが親がいたための不幸はあまり取り上げられない。「親がいるだけありがたいとおもえ!」とは一概にいえなくて親がいるためにおおいにその子どもが苦しむケースがあるということはどれだけ世間に認識されているのだろうか。
2006.08.24
コメント(0)
蝉の声も遠くから聞こえてくるのなら聞けたものでそれがたくさんの蝉が一度に鳴いているようないわゆる蝉時雨であってもうるさいという感じではないのだが一匹だけ目の前でジリジリと鳴かれるとなかなかにうるさいものであった。東京では蝉時雨はもちろん単独の蝉の声もなかなか聞かない。意識していなかったからかもしれないが。蝉時雨といえば藤沢周平の小説である。原題は「蝉しぐれ」とひらがなである。テレビでのドラマ化や映画化などで知った人も多いだろう。周知のとおり素敵な小説である。この「蝉しぐれ」タイトルどおり要所要所で蝉しぐれを背景とするシーンが現れる。よければ何度でも読み返してもらいたい。間違いなく一読で済ます類の小説ではない。派手さはない。むしろ地味。しかし時間をおいて読み返させる魅力がある。別に「蝉しぐれ」藤沢周平を紹介しようと思っていたわけではないがこの方向で頭が回り始めたのでこうなってしまった。暦のうえでは残暑だがまったくもって暑さは今がピークではないかい?ということを言おうと思っただけだったのだが。残暑お見舞い申し上げます。
2006.08.16
コメント(0)
なにかが網戸にぶち当たる。蝉が体当たりしていた。地面に落ちたと思いきや落ちきらずに網戸の最下辺でふんばってけたたましい鳴声を上げはじめた。蝉からの残暑見舞い。
2006.08.16
コメント(0)
10年以上振りに会ったいとこが及川奈央に似ていたので驚いた。今は子持ちでその子が2歳くらいの女の子でとてもかわいらしかった。もちろん僕は現代的なあぶない意味で幼児に興味があるのではない。この場合「小さきものはみなうつくし」のあれである。「美し・愛し」と書く。あらためて日本語は美しいと思う。あれほどかわいらしい生き物を見たのはとても久しぶりだったように思う。「生き物」というのは適切ではないのだろうが・・・そのままにしておこう。深い意味はない。人間の子供にあるいは自分の子供にペット的なかわいらしさを求めるのであれば子供など作らないほうがいい。社会のためにも。そういうかわいらしさはまさにイヌやネコなどのペットに求めるべきで人間に対して求めるべきものではないし求められないだろう。
2006.08.15
コメント(0)
とりあえず更新。久しぶりに更新。頭の中身断片を載っけていく。文章にするのは面倒だ。重複、繰り返しけっこうだ。某作家や某心理学者だって同じことを言い方をかえて、ひどい時には装丁だけが違っているのではと思わせるくらい同じような内容の本を繰り返しいくつも著すことで稼いでいるではないか。売り物にしてそうなのだから僕がここでそうすることになんの問題もない。最近の再発見。月明かりで自分の影が確認できたこと。知っていた田舎の夜空のはずだったのにとても新鮮だった。というわけで僕は故郷に戻った。(そこが故郷と呼べるのなら)約15年におよぶ東京暮らしで得たもの(そんなものが存在したのか?)をまたすべて手放して必死に捨て去ろうとしてきた東京暮らし以前の過去に戻ろうとしている自分がいる。人生ぼろぼろだ。なにがいろいろだ、と思う。八つ当たりである。それまでの過去を捨て新しい自分を。そしてそれまでの自分を捨てまた違う自分を。こういった自分の過去が積み上げられてきていないことから生じる自分自身の不確実性。自分の拠るべきもの・ことがなく不安定な自分という存在。インチキ臭くいえばアイデンティティの不確かさ。常に今ある自分を否定しながら生きてきたことの付けが大いに回ってきているのかもしれない。でもそれは今になって気が付いたことでもない。塔は下から組め、という。差し詰め僕の人生というのは人生という塔の、基礎・土台のないものであるといえるのかもしれない。そんな前提でいくら日々経験してきたとしても人生という塔はうまく積みあがっていかない。基礎工事があまく、土台がしっかりしていなければその上に建てた建物もピサの斜塔のごとくである。いやピサの斜塔ならばまだいい。形を成しているのだから。
2006.08.14
コメント(1)
全11件 (11件中 1-11件目)
1
![]()
