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ホテルの部屋で2時間ほど休憩した後に15時出発で『アンコール・ワット』の観光に向かう。バスに一番乗りしたが横に3座席の豪華なバス。私は最後部の4座席を一人占め。2007年にオープンした4つ星ホテル・PACIFIC HOTELの前を通過。そしてシェムリアップ空港前を通過。アンコール国際空港(Angkor International Airport)との愛称もある国際空港。日本の羽田、成田からの直行便もあるようだ。しかしながら空港前の道路には未舗装部分もあった。翌朝の気球による観光も客を待っている模様。英語とフランス語でWELCOM、BIENVENUEと。そしてアンコール・ワット手前の大型バス駐車場から徒歩にてアンコール・ワットに向かう。「果物の女王」と呼ばれるマンゴスチンであろうか?バナナ、スイカも売られていた。そしてアンコール・ワットが正面に。5つの尖塔のうち3っつが堂々と。大きなリヤカーに様々な生活用品を積んで移動販売中。西参道正面。西参道は修復工事のため、2020年頃までは閉鎖とのこと。日本の上智大学が遺跡を管理するアプサラ機構と共同で西参道の修復工事を行っていると。西参道の7つの頭を持つ巨大なナーガ(多頭の蛇神)。右手のシンハ像(獅子像)の頭が欠落。正面右側のナーガとシンハ像。アンコール・ワット(Angkor Wat)は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表する寺院。ヒンドゥー教寺院として作られたが、16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在も上座部仏教寺院となっている。サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれているのだ。修復工事中の為、通行禁止となっている西参道を斜めから見る。そしてこちらが仮設の浮き橋。西参道と右手に西塔門。西参道の約50m南に仮設された浮き橋。西参道の修復工事期間中はこの浮き橋を使ってアクセスするのだ。浮き橋の路面。西塔門前には椰子の木が。周壁の正面には3つの門があり、右側にある「ゾウの門」。「ゾウの門」から内部に入る。ゾウの門の柱には弾丸の痕跡が残されていた。1972年、カンボジア内戦によって、寺院はクメール・ルージュによって破壊されのだと。聖池に向かい経蔵を振り返る。当時『経蔵』には、聖典や書物が収められていたのだと。5塔がはっきりと。南側の経蔵を再び。聖池の水面に映るアンコールワット。十字テラスから正面参道に進む。更に進むと中央祠堂の3塔が見えて来た。第1回廊 西面南側。アンコール・ワット中心部の案内図。の図はアンコールワットの平面図で、下が西になる。第一回廊のレリーフが素晴らしいといっても、四周すべてが見どころかというと、そういうことではのようであった。西面(左:ラーマーヤナ、マハーバーラタ)と南面(下:スールヤヴァルマン二世の行軍)、そして東面の南側(右の下半分:乳海攪拌)は素晴らしいレリーフであると。逆にそれ以外は彫りが粗く、後日中国人に彫らせた部分があるとも言われているのだと。立体配置図。 【http://jiyuseikatsu.web.fc2.com/ang01angkorwat2.htm】より第1回廊の女神デバター。昔は人々が手で触って、その手の油で黒ずんでいるのであろう。こちらにもデバター。こちらも胸、胴体が黒く光っていた。アンコールワット 第一回廊の西面南側のレリーフは『マハーバーラタの戦闘場面』第一回廊は東西200メートル、南北180メートルで、多くの彫刻が施されているのであった。第一回廊の西面(南側)「マハーバーラタの戦闘場面」「マハーバーラタ」とは神々をもまき込んで展開するこの壮大なカウラヴァ軍とパーンダヴァ軍の王位継承をめぐる天下分け目の戦いの叙事詩。そのクライマックスの戦闘場面が94mに渡る壁画に描かれていると。左から攻めるカウラヴァ族と右から攻めるパーンダヴァ族の軍が細かく描かれているのだと。「マハーバーラタ」の壁画の横には長い回廊が続き、柱などに施されているレリーフも見応え十分。壁面に向かって左側から進軍しているのがカウラヴァ軍。両軍とも指揮官は馬車に乗り、その下に歩兵が描かれている。整然とした行進である。カウラヴァ軍の楽士が“ドラ”を鳴らしながら進軍中。指揮官の王子達は馬車(シャリオット)に乗り、片足で舵棒を操る横向きのポーズで。第1回廊 天井部。槍と盾を持ちゾウの上に立つ姿が。楯と槍を振りかざす。馬車に乗る指揮官の姿が至る場所に。両軍が、中央で激突している。まさに両軍入り乱れての大乱戦。迫力ある戦闘を描いたレリーフ。こちらにも楯と槍を振りかざす場面が。右側から進軍してくる「マハーバーラタ」の主役アルジェナ王子率いるパーンダヴァ軍。一緒に進軍している象もいきり立っているのであった。カウラヴァ軍の勇者ドロナの姿。右側から整然と進軍するパーンダヴァ族。勝利に酔う兵卒の隊列か?18日間の死闘はクリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)の力を借りたパーンダヴァ軍の勝利で幕を閉じたと。 ・・・その13・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.31
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『タ・ケウ』タ・ケウは、アンコール遺跡の1つ。「クリスタルの古老」の意味を持つ。10世紀末にジャヤヴァルマン5世により建設が開始されたが、王の死去により未完成のまま放置された。山岳型のヒンドュー教寺院で、構造は東西120m、南北100m、5層の美しいピラミッド型。未完成のまま放置された寺院の遺跡であるが、現段階で中央祠堂は地上20m以上の高さにあり、完成していればピラミッド型寺院の中では最大規模のものになっていた可能性が高かった寺院。『スピアン・トマ』スピアン・トマは、カンボジアのアンコール地域にある「石の橋」として知られる。現在に残るいくつかのクメール王朝時代の橋の1つであり、タ・ケウの西に位置する。『勝利の門』を潜る。アンコール・トムの東門は二つあり、死者の門と勝利の門。戦いに勝利した戦士たちが凱旋した時に通ったのがこの勝利の門。勝利の門の上には、アンコール・トムの他の門と同様、東西南北の四面に観世音菩薩の大きな顔の彫刻が。勝利の門を抜けると正面には『象のテラス』が見えて来た。象のテラスの中心で、王様のテラスと呼ばれている場所。 王様のテラスの部分は象ではなく、ガルーダが支えていた。 象のテラスに近づく。象のテラスの前で右折してまっすぐ進みと、アンコールトムの北門が見えて来た。北門を潜ると道路の両側には、阿修羅が大蛇(ヴァースチ)の胴体を引き合う姿が。そしてニャックポアンの人口池沿いを走る。ニャックポアン入口近くにバスを降り、ニャックポアンに向かう。両側には土産物売り場が並ぶ。何の種であろうか????NHAN (龍眼)の様にも見えたが。人口池に立つ木々。立ち枯れの木々?が幻想的な様子は上高地の大正池の如し。ニャックポアンに向かう木製の一本橋を進む。小さな白き花が一面に。ガガブタ(鏡蓋)の花。ガガとは鏡のこと。(ガガは影から来て鏡のこと)池の面を表していると。それにハート型の葉でフタをしてしまう。・・・で、ガガブタ(鏡蓋) と。 白い花弁の周辺は細かく裂けていて、もじゃもじゃ?の白い花を咲かせていた。一面に毛が生えたような見かけになっている花。花の中央部は黄色。枯れてしまった樹木なのであろうか?スイレンの白い花。池と石積みの遺跡が正面に。正面の北小祠堂の後ろに中央祠堂が立つ。ニャックポアン配置図。4つの結合する池は、水、土、火、風を象徴する。それら4つの癒しの池はそれぞれ中央の水源である主水槽と石の水路によって繋がれ、四大獣 (maha ajaneya pasu)、すなわちゾウ、ライオン(獅子)、ウマ、ウシ(牡牛)が、それぞれ北、南、西、東の方向をつかさどる。 【ウィキペディアより】 そして正面に中央祠堂が立つ。敷地には一辺70mの正方形の聖池「ジャヤタターカ」があり,その中央のあたかも宇宙に浮いているような島に円形の中央祠堂が建てられていた。 中央の聖池は,病を癒す不思議な聖水を湛えたといわれるヒマラヤの聖湖「アナヴァタプタ」(現在の西チベットの聖山,カイラス山の南に位置するマナサロワール湖を指すものと推測される)を象徴するものとのこと。 中央聖池の水は,人間(東),獅子(南),牛(西),象(北)の頭部の彫刻を通って27m四方の正方形の池に流れ出る構造になっている。 これら4つの彫刻は,聖湖から流れ出るインドの四大河(諸説あるが, 現在のインダス川,ガンジス川,パキスタン領内を流れるサトレジ川,アッサムからバングラデシュに流れるプラマプトラ川などが有力)を象徴したものと。アンコール朝最盛期のジャヤバルマン7世が作った当時の病院ニャック・ポアン。観世音菩薩の化身、ヴァラーハ(Balaha)。天を駆ける神馬の下部には18人がしがみついていると。水位が高く、神馬の下部にしがみついている18人の姿は見えなかったが、水位がないと下の写真の如く見えるようだ。人食い鬼女から逃げる船乗りらを救おうとする彫像であると。 【http://www.ja6ybr.org/~jf6dea/hsrpt/xu/xurpt310.htm】より。北小祠堂を横から。東の小祠堂中央祠堂を斜めから。基壇の周りを取り囲むヘビ(ナーガ)の頭だけが水面から頭を出していた。円形の基壇の東側で分かれる2匹が、西側で尾を絡ませているようだ。neak(ニャック)はサンスクリットの naga のクメール語訳であるとのこと。よってニャック・ポアンとは「絡み合う2匹のナーガ(蛇)」という意味。西の小祠堂方面を見る。小池の横の林の中にも祠が。祠の内部。再び一本橋を戻る。1本橋からの風景を楽しむ。大量の椰子の実が。そしてバスに乗り、オールドマーケットに向かう。バスの窓からパゴタ・Wat Damrei Sencheyが。その先には最近建てられたであろう四面仏が。ズームで。四面仏の門を潜り左折して進む。窓から観光用の気球か?。街の中に入っていく。1991年よりスイス人のリヒナー医師によって再建された子供のための病院がカンタボパ小児病院。施設はプノンペンに四箇所、シェムリアップに一箇所あり、カンボジア人だけでなく外国人を含むすべての16歳未満の子供を無料で診察し、その運営費の多くは寄付金で賄われていると。リヒナー医師は、スイスで小児科医の免許を取得後、1947年にスイス赤十字を通じてプノンペンのカンタボパ小児病院に派遣された。しかし、クメール・ルージュのプノンペン占拠により強制帰国を余儀なくされた。その後、内戦が終了した1991年、ノロドム・シアヌーク前国王とカンボジア政府の要請により、リヒナー医師は再びプノンペンに戻ることになり、病院の再建にあたったと。CAMBODIA Beer の文字が。アンコール国立博物館。シアヌーク元国王像。シェムリアップ川沿いを走る。寺院:Wat Preah Prom Rath(ワット・プリア・プロム・ラス)入口。1915年建立、古いお寺である。そして『オールドマーケット』につき散策開始。肉類、海産物、フルーツなどの食料品や衣類、食器などの雑貨類など現地の人々の生活に密着したものを売っている市場。また観光客向けの土産類もたくさん売っていた。魚肉の干物売り場。衣服売り場。SILK製品売り場。香料やドライフルーツ売り場。カンボジアは世界有数のコメどころだけあって、たくさんの種類が売られていた。衣類や様々な土産物も。広島カープの大ファンの旅友の土産に真っ赤な帽子を購入、私用は同じ柄の黒の帽子を購入。オールドマーケット前のシェリムアップ川。そしてこのひの昼食は『Tropical Restourant』で。この日のメニューはタイスキ。暑いカンボジアで鍋料理とは不思議でしたがなかなかの味。店のスタッフが鍋に具材をどんどん入れてくれた。野菜、肉、きのこ類、つみれ、豆腐、ビーフンのような物など具たくさんの鍋。まずは肉類を入れて。野菜も豊富な鍋料理。ビールも飲みながら。そして〆には卵、ごはんを入れて雑炊にして。デザートはマンゴー。そして1km程離れた我がホテルに戻り2時間ほどの休憩タイム。 ・・・つづく・・・
2018.10.30
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デバター像をカメラで追いかける。浸食に負けずに。微笑みのデバター。樹木の隙間からデバター像が覗く。ズームで。チラリと覗く女神デバターのレリーフ。祠堂の中の回廊を歩く。上部から多くの根がぶら下がり血管のように絡まる根そして木。彫りが深く、妖艶なデバター。こちらも。中央祠堂の近くには、スポアンの根の上にさらに別の植物の根が張り巡らせ毛細血管の如し。この周辺にには彫りの深い数々のデバターが。こちらの祠堂、塔の下部は比較的保存状態が良く。ひたすら祈るデバダー。塔とガジュマルを再び。中央祠堂の南西側の回廊を踏みつけ今にも押しつぶしそうな光景が。太い根っこが複数垂れ下がり、今にも動き出し遺跡を食い尽くそうとするかのように、絡まり、枝を分け、立ちそびえる巨大樹。遺跡とのコントラストが何とも言えない風景。こちらは清楚なデバダー。こちらは瞑想にふけって?。この一角は中庭の如し。再びデバダーを追う。見事な冠のデバダー。添乗員がここを見ろと。古代の恐竜「ステゴザウルス」?の彫刻であると。この時代に「ステゴザウルス」が生きていたのか?、はたまたこの時代にはすでに恐竜の事を知る術があったのか?、全く違う動物なのか?。今となっては誰も知ることができないが、そんな神秘がたまらないのであった。「ステゴザウルス」の上には「人」「牛」、下には鳥、右には「鹿」らしき彫刻も。こちらは獅子?ヒンズー教徒によって彫られたのであろう、祈る姿が再び。東門の北東面にあるレリーフ。阿修羅が瞑想するお釈迦様の邪魔をするので、ロムサイソーという名の長い髪の女の子が、池の水を長い髪の毛で吸い上げその水を瞑想場所の周囲に移して、阿修羅が入ってこられないようにしたと言う伝説があるのだと。上座の位置に、蓮に乗る長い髪の女の子。上空には、飛天が舞う。再び東側の入口の東門に戻る。壁の上には砲弾の如きものも。そして修復工事の過程を説明するパネルが。修復前(上)の修復後(下)の写真。東側入口の塔門への参道の修復前(左)の修復後(右)の写真。 ・・・その11・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.29
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3日目の最初の観光場所はタ・プロム寺院。バスにてチャールズ・デ・ゴール通りを走る。途中、右手に昔のアンコール・ワットのチケット売り場が残されていた。昔はこんなに小さかったのだと添乗員が。途中、小型のマイクロバス2台に乗り換えて更に進む。左手にアンコール・ワットの外堀を見ながら進む。そして右手にタ・プローム寺院の周壁が見えて来た。そしてタ・プローム寺院の『東塔門』前に到着しマイクロバスを降りる。タ・プロームの意味は梵天の古老(ぼんてん:仏教の守護神)とのこと。タ・プローム寺院はアンコール遺跡群と呼ばれる多くの寺院や宮殿などの遺跡群の内のひとつで、12世紀末に仏教寺院として建立され、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている遺跡。創建したのは、クメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤーヴァルマン7世が母の冥福を祈るためにと。入口にはカンボジア国旗と共に、タ・プロームの修復を担当しているインドの国旗が示されていた。『東塔門』を見上げる。東塔門を潜る。崩壊した物を復旧したとのことで、支保工パイプが所狭しと。そして東塔門を出て振り返る。塔の面に彫られている人面像バイヨンの四面像人面像は観世菩薩像を模しているというのが一般的な説である。しかし戦士をあらわす葉飾り付きの冠を被っていることから、ジャヤーヴァルマン7世を神格化して偶像化したものであるとする説も存在する。また21世紀に入り、3次元化と解析によりヒンドゥー教の神々を表しているという説も出たのだと。タ・プローム配置案内図。タ・プロ-ム寺院はアンコール・トムの東側に位置する寺院遺跡。東西1000m、南北700mという広大なラテライトの壁に囲われた中に建っていた。大木の中を現地添乗員の後を進む。ここでは当初、5000人近い僧侶と600人近い踊り子が住んでいたのだと。仏教寺院として建てられたが、後にヒンドゥー教に改宗したものと考えられていると。カンボジア語でスポアンという木(ガジュマル)。東門が正面に見えて来た。東門を潜りながら上を見上げる。美しい彫刻が。両脇にナーガそして前方に『前柱殿』その先に東側入り口の塔門。ナーガの胴体を支える柱にも彫刻の跡が。胴体も修復が繰り返されていることが理解出来た。東側入口の塔門。塔門の右手。東門の壁面に立つ美しいデバターに感動。左手は崩壊していた。振り返る。左方面に進むと巨大木が途中から伐採されていた。この大木は弱っており強風等で倒れると、この根と共に石積みの遺跡が崩壊する可能性があるために伐採したのだと。見事な彫刻がここにも残っていた。合掌する多くの仏が並んでいた。植物や動物の姿も。遺跡の上にスポアン(ガジュマル)が。そして遺跡は多くのパイプで支えられていた。壁を飲み込む巨大木出現。崩壊が刻々と進んでいるのであった。インドによる復旧、復元作業が行われていた。巨木の根が遺跡を締め付けているが如し。熱帯の巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論があるのだと。現在、この遺跡の修復方針をめぐって、ユネスコを中心とした活発な議論が継続中であるとのこと。懸命に耐えている祠堂。デバター像。正面の祠堂の中を潜る。塔が姿を現す。こちらは遺跡を覆うように根が生えていたのであった。苔も生えて。タ・プローム寺院には39の祠堂(しどう)、塔がある。その中のここ中央祠堂北東側に建つ祠堂内では、合掌の後に胸を叩くと反響してエコーが響くのであった。旅友もTRY。胸以外のところをたたくとひびかないのが不思議。低音に反応する部屋の構造となっているようであった。悩みがあるときに人々が来て胸をたたいたとか、病気かどうか調べたとか、うそをついていないか調べたなどいろいろと説があるのだと。完全に呑み込まれた遺跡。建造物を自然の力が押しつぶしていく過程をまざまざと見ることが出来たのであった。真に大木が遺跡を侵食している光景そのもの。美しいデバター。 ・・・その10・・・その戻る ・・・つづく・・・
2018.10.28
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3日目のこの日も元気に起床。時間は6時前。3006号室の部屋のカーテンを開けると、東の空が赤く染まっていた。前の建物を入れて。そしてこの日の太陽が姿を現した。時間は6:02。私の部屋の絵画のスイレンの花に私の影が映って。6:30からの朝食に向かう。中庭のプールの横を歩く。MEALEA SPA & FITNESS CENTER は ホテル内のスパ。ヨニ台に立つ『リンガ』。円柱形のリンガはヒンズー教の神シヴァ(男性)の象徴、 台座のヨニはシヴァ神の妃ドゥルガー(女性)の象徴といわれ、この2つの組み合わせは、繁栄や豊かさ、平和、不死などを意味しているのだと。男性のシンボルの如き先端に仏の姿が。プールサイドには、 山頂や登山道などの道標となるように石を円錐状(ピラミッド型)に積み上げたケルンの如きものが。シュロの実であろうか?蓮の花。そしてホテル内のレストランで朝食を楽しむ。この朝もフォーを楽しむ。パンと果物。ドラゴンフルーツ、スイカ、miniバナナ。そしてホテルの外に出て散策。早朝のスコールも幸いにも既に止んでいた。ホテルを正面から。正面にライオン像が狛犬の如きに。大蛇ナーガヴァースキの長い胴体を引っ張りあう神々の姿。この日訪ねた世界遺産である石造伽藍アンコールワット遺跡の第一回廊におよそ百mに及ぶ「乳海撹拌」の壁面彫刻に似た姿。横から。先頭の4面仏。その後ろに続く神々達。ライオンの像。横から。中央に鎮座する仏様。愛くるしい象の姿も。『EMPRESS ANGKOR HOTEL』。象の姿と中央の仏様を斜めから。これもナーガのレリーフか?仏様が多くの場所に鎮座。こちらにも鳥と仏様の姿が。美しい黄金色のデバターの像。ロビー横に安置された神棚。部屋に戻る途中に再びプールを。庭には椰子の木が。ここにも仏様が。壁面に飾られているのはアンコールワットのレリーフであろうか?こちらにも。前国王のシアヌークとシアヌーク妃そして現国王の写真も飾られていた。部屋からフロントへの回廊には壷を抱えた多くの女性仏像が。正面から。フロント前の像。ロビー内のソファーも立派。フロント。フロントの後ろの壁にはアンコールワットの姿が。 ・・・その9・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.27
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サンボープレイクックを後にし、約100km先のスピアン・プラップトゥフへ向けてバスはひたすら走る。6号線に戻り、Prey Pros湖に架かるPrey Pros橋を渡る。そしてクメールレストラン:Somros PreyPros Restaurantにてトイレ休憩。湖畔には植物の葉で造った屋根のあるユニークな形状の小屋がウッドデッキで繋がれてレストランになっている様子。プルメリアルブラの真っ赤な花。そしてバスにてシェムリアップ方面に向かう。サトウキビを運ぶ簡易トラック車を追い抜く。多くのツアー仲間は爆睡中のようであったが、私は最後部席から車窓の景色を楽しむ。パゴダ・『Wat Bakong』。そして100kmを走り抜き『スピアン・プラップトゥフ』に到着しバスを降りる。時間は15:34。国道6号線を東に進んだコンポン・クディという町に位置する、何と1000年の歴史を誇る、アンコール王朝時代に作られた石の橋。スピアンとはカンボジア語で「橋」という意味なので、直訳するとプラップトゥフ橋。クメール王朝時代の道の遺跡で最も保存状態が良いのはコンポンクディにあるこのスピアン・プラップトゥフ遺跡。ここは未だに現役の橋として活躍中。橋に至るまでの赤い土の道も残っていて、両側には食堂や飲み物を売る店、そして小さな宿屋が並んでおり、さながら日本の旧街道の様相を呈していた。橋の両側はナーガの神(蛇神・9頭)が、そしてその胴体部分が橋の欄干ともなっていた。石像の前にお線香が手向けられていることから、現在でも、地元の人にとっては信仰の対象になっているのであった。スピアン・プラップトゥフは全長が約90m、幅約16m、高さ約10mある大きな橋。シェムリアップからプノンペンへと続く道の途中にあるこの橋は、通行のためだけではなく、下を流れるチクレン川の水位を調整する機能も果たしていたとされているのだと。2006年以降車での通行は禁止されているが、バイクや自転車での通行は可能。今でも生活の為の重要な橋になっている事が解るのであった。地元住民が橋でくつろいでいる姿も見ることが出来たのであった。橋の黒い部分までチクレン川の水位が上昇することがあるのであろう。現地では一般的に『スピアン・コンポン・クディ(Spean Kompong Kdei)』と言われていると。よってコンポン・クディ橋と。地球の歩き方 P,130-131(2018-2019)にも載っていたが、名前の記載は「スピアン・プラップトゥフ」になっている。橋の右側から。ナーガ。橋の左側から。川の水量が少ない時期(乾季)には、下まで降りて行くことが出来、1960年代にフランスによって修復された跡や、橋の構造などをじっくりと観ることが可能とのこと。しかしこの日は残念ながら時間が無く、季節も雨期の最後の10月中。こちら左側の橋の袂から。フランスによって、修復されたとはいえ、700年以上も昔に造られた橋が現在でも利用できるということは、当時のクメール人の技術の高さを物語っているのであった。そしてバスはシェムリアップに向かって進む。途中バスが、路上屋台の横で一時停車した。現地ガイドがバスを降りて何かを購入。買った物は、30cm程の長さの竹が蒸し焼きされている物。バスに戻り現地ガイドが、中に入っている物が出てくるまで竹を裂いて。前方に座っていたツアー仲間が車窓から見つけ購入を依頼したようであった。添乗員から『クロラン』と言い、クロランとは、カンボジアのおやつで、竹筒にもち米とココナッツミルクと小豆を入れて炭火で蒸し焼きにした甘さはほんのりでおいしいと。カンボジアでは名物のおやつであると。旅友のご厚意でご馳走になったが、予想外に旨かったので合った。そしてバスは更にこの日のホテルのあるシェムリアップに向かって進む。バイクには4人家族が乗って。アンコールワットの入口に近づくと、道端には多くの露天商が店を出していた。こちらは靴売り場。翌日予定されているアンコールワット遺跡群を見学するためにはアンコールパス(Angkor Pass)と呼ばれる入場券が必要とのことで、翌朝の混雑を避けるため、この日にチケット・オフィスに入場券を購入に立ち寄る。写真入りのアンコールパス(Angkor Pass)販売場所に並ぶ。予約済みであったのか、それともツアー専用の窓口なのか列には我々のみ。横には個人購入の長い列が。我々が購入する3日券は、購入日から10日間以内の任意の3日間で有効で62ドル。1 DAY PASS は37ドル、7 DAY PASS は72ドル。いずれにせよ極めて高い金額。私のチケット。首からぶら下げる事が出来る黄色の紐が付いていた。(この写真は、翌日に入場時にパンチ穴が付いた後の物)そしてホテルに向かう。車窓からは果物の露点商が。途中、ラウンドアバウトの交差点の角にあった石像。翌日に訪ねたアンコール・ワットの第1回廊のレリーフ・乳海攪拌の一場面か?シェムリアップの小さな寺院・Preah Ang Chek Preah Ang Chorm。建築中の建物。日本では考えられない仮設足場。バイクのカオスが始まっていた。時間は17:15。そしてシェムリアップ郊外にある、この旅で3連泊するホテルに到着。ホテル名は『EMPRESS ANGKOR HOTEL』。到着時間は17:21。私の3連泊の部屋。枕が7個と多さにビックリ。一人でどの様に使えというのか?違う硬さや高さの枕が置いてあって、好みに合わせて変えたりできるのであろうが。そういう「不特定多数の人が泊まるところ」で、お客さんの好みに合わせるために幾つか枕があるのは解らないではありませんが。ベッド上のベッドスローの上にはWELCOME GOODSが。中に入っていたのは、粒コショウがビニール袋に入って。そしてホテルのレストランで夕食。時間は18時過ぎ。こちらは4人でシェアー。スープ。メインディシュは撮り忘れていました。デザートはカボチャプリン。この日のカボチャは甘く美味しかった。中庭には大きな屋外プールが。バスルーム。洗面台、シャワー室、トイレ。バスタブも大きく。そしてこの日もテレビそして撮った写真を確認しながら、ウィスキー片手にしばしの一人反省会を。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.26
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王宮&シルバーバゴタの観光を終わり、バスに乗り約200km、3時間半の移動を開始する。左手に先程訪ねた王宮の『チャンチャーヤの館』をバスの車窓から。昨夜宿泊したホテルの前を通りトンレサップ川沿いを上流に向かって走る。モスク・Masjid Nurunnaim (K.M 8 Cambodia)トンレサップ川に架かるプレップ・ポブ橋を渡る。トンレサップ川の水上住宅。こうした水上コミュニティには実はカンボジア人ではなくベトナム系の住民が多いと。国道6号線の湿地帯を北に向かって走る。このカンボジアの国道6号線は、首都プノンペンからタイ国境に至る全長447kmの主要幹線道路。しかし、一部の区間では維持管理が十分ではなく、舗装がはがれた部分もあるなど、緊急的な改修が必要となっていたのだと。2000年以降に未改修となっている約17.5kmの区間において道路の改修と3橋梁の架け替えを日本がODAとして支援したのだと。プノンペンのガソリン価格。レギュラーガソリンは4200リエル、×0.028=118円/L。日本より35円/L程度安かった。カンボジアのガソリンスタンンド?ペットボトルやビンに入れて、道端で販売。 プラスチックは静電気が発生しやすいので危険なはずだが。最初はハチミツか飲料を販売していると見ていたのですが・・・・。この辺りは多くの石仏が。石材屋の多い部落か。現代のシャカの生地はネパールのルンビニではなく、この村であると添乗員から。様々な形状の門が道路脇に。セン川を渡る。カンボジア中部を流れる全長約 320kmの川。同国北部、タイとの国境をなすダンレク山脈に源を発しメコン川とほぼ並行してその西を南流し、トンレサップ湖南東端部に注ぐ。この日は長距離移動のため昼食はおにぎり入りの和風弁当をバスの中で楽しむ。そしてサンポープレイクックに到着。時間は12:58。チケット売り場で添乗員が入場チケットを購入。入口の湿地帯には紫の小さな花が一面に。アンコール(クメール)王朝から遡ること数百年、古代国家「真臘(しんろう)」時代の遺跡であるサンボープレイクック遺跡群。森の寺院と称されるサンボープレイクック遺跡群は、数々の貴重なレリーフと共に木々のなかで今もひっそりと佇んでいた。「真臘(しんろう)」とは6~8世紀頃に存在した古代国家で、7世紀初頭に「イシャナプラ」を首都として栄えたといわれ、サンボープレイクック遺跡群はその当時の建築物と考えられていると。古代国家「真臘(しんろう)」はカンボジアでは、「チェンラー」と呼ばれていたと。この時期、日本では飛鳥時代にあたり、聖徳太子の政治や法隆寺建立(607年)、さらに大化改新(646年)などがあった頃。日本が律令国家に向けての国造りに邁進していた時代、カンボジアではのちの東南アジア最大の国家建設につながる道程にあり、それまでに類を見ない大都城が出現していたのだ。入口で現地説明員がバスに乗り込み説明してくれたが、我が添乗員がクメール語を日本語に通訳。「豊かな森の寺院」を意味するサンボープレイクックは大きな3つの遺跡群「プラサット・サンボー」、「プラサット・タオ」、「プラサット・イエイ・ポアン」とその周囲に散在する100を超える遺跡からなるのだと、現地説明員から。世界遺産登録証。アンコール遺跡群、プリア・ヴィヘアに続き2017年7月にカンボジア第3の世界遺産となったプレアンコール遺跡。7世紀頃にイサンバルマン一世王により建造。広さは25平方キロメートル、中心部と多くの寺院が壁に囲まれ、そのうち10個は東南アジア特有の八角形をしている。また、敷地内の砂岩はアンコール時代の装飾を象徴し、サンボープレイクックのスタイルとして知られると。ここでの芸術や建築が、他の地域のモデルとなり、アンコール時代に特徴的なクメール様式の土台となったと。サンボープレイクックの発見から世界遺産に登録されるまでの経緯が説明されていた。サンボープレイクック遺跡群の全体配置図。遺跡には木の根っこが絡みつき樹木の力を物語る。石や煉瓦の隙間に入った種子が成長し、大樹となって遺跡を包み込んでいるのだ。樹木は、本当は遺跡の破壊者なのかも知れないが、同時に、今にも崩れそうな構造を辛うじて支えているのも事実であろう。樹木の根が包み守っているようでもあり、中の遺跡が見えなくなるほどに、がんじがらめに締め付けているようでもあった。人間の創造と自然の営みとが、争いと和解の末に渾然一体となって存在するかの如き姿に、不思議な畏敬の念を覚えたのであった。仮設のトタン屋根で保護された遺跡。雨から守ることで崩壊を防ぐのが目的なのであろうか?この遺跡を後ろ半分が無いことが分かる。なんでもヘレニズム文化に影響された彫刻があるので特別に保護しているとのこと。レンガ造り主体の祠堂が多数残っており、その中でも「空中宮殿」と言われる美しいレリーフが残っていた八角形の遺跡。宮殿と思われるレリーフの一番下、床を支えるようにグリフォンが支えていることから「空中宮殿」と呼ばれるようになったとか。このレリーフは遺跡の入場チケットにもプリントされているのであった。貴重なレリーフ「空中宮殿」。直射日光があまり当たらない北面側の保存状態が比較的良いと。サンボールプレイクックの幾つかの煉瓦造りの祠堂には、「空中宮殿」の彫刻によって壁面が飾られていた。宮殿の一番下では、羽のついた人や馬などが宮殿を支えて様に見える。宮殿の中央には印を結んだ人物が上半身を覗かせている。彫刻の一部には、漆喰の跡や彩色の跡があり、建設当時は外壁に漆喰が塗られ、彩色されていたのであろう。四角形の塔。塔入口。塔入口の彫刻。上を見上げる。内部の神棚。そして下にある四角形の横にあるのが『リンガ』?。その横にあったのが『ヨニ』。中央にあるべき『リンガ』自体はこの場所からは失われていたが。ヒンズー教の象徴で、リンガとヨニと呼ばれている。<br>中央にあるべき円柱形のリンガはヒンズー教の神シヴァ(男性)の象徴、 台座のヨニはシヴァ神の妃ドゥルガー(女性)の象徴といわれ、この2つの組み合わせは、繁栄や豊かさ、平和、不死などを意味していると。四角いヨニの真ん中に、リンガが嵌まり込むように正四角形の穴が下まで突き抜けてあいているのだと。また、穴の周りは、儀式の際にリンガに注ぐ聖水を流す溝が掘りこんであり、四辺の一箇所は、溝がついた突起部があった。男性のシンボルの形をしたヨニの先から流れ落ちて聖水となった水を使って、身を清めたのだと。この塔の壁面のレリーフもしっかり残っていた。帰国後調べたら、この遺跡のレリーフが一番保存状態が良いのではと書いてあるページが。盛り上がった場所に立つ遺跡。観光客もまだまだ少ないこともあり、未だ森の中に眠り続けているような神秘性をも感じさせる、いにしえの都・ サンボープレイクック。屋根の部分には雑草が生い茂っていた。プラット・タオ(Cグループ)の遺跡群の説明板。前方に塔が姿を現す。中央エリアのプラサット・タオ。正面入口の両脇に立つライオン像。クルクルとした鬣(たてがみ)で大きく口を開けて叫んでいるが如し。土台の石と一体構造。C1塔内部。黄金の神棚。塔内部から上を見上げる。天井に向かってぎっしりと積み上げられたレンガは、現代のサイズよりもずっと大きく、製造方法には謎が残るのだと。ライオン像を後ろから。尾を頭の後ろまで上げていた。扉の閉まられた塔。入口上の見事な彫刻。正面から。四角形の塔がここにも。プラサット・チュレイ(「N18」)Nグループ(プラサット・サンボ―)の北側にある建物。樹齢約200年の木の根が絡み付いていたのであった。N17の建物は新しく見えるが、初期に造られたとされていると。爆弾により?かなりの崩壊が進んでいた。弾痕とのこと。内部の像。そしてサンボープレイクックからの帰路に、添乗員から今通過している村に「アツ小学校・中学校」があるのだと。日本の中田厚仁さんは、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC )の下で厳戒下のカンボジアがはじめて民主化に向けた総選挙が予定されていた。その選挙監視員としてボランティアとして活動中、何者かによって銃撃されて1993年4月8日25歳という若さで死亡したのであった。中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地であったが総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々を統合して新しい村が作られたと。彼らは、1995年この村を「ナカタアツヒト・コミューン」と名付けた。村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいると。この村が1998年に洪水により水没した時、中田厚仁さんの父、武仁さんは募金を募り渡そうとしたが村長は「私達は作物が水に浸かってしまい、食べる米が欲しい。しかし、今食べる事よりも将来のためにそのお金で学校を作ってください。」と希望され小学校が建立されたのだと。現在では中学校も併設されて村の生徒がここで勉強に勤しんでいるのだと。そして中田厚仁さんの残した言葉の一つに『だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。』と添乗員から。「アツ小学校・中学校」そして中田厚仁さんの墓も校庭奥にあるとのことで是非訪ねたかったが残念ながら・・・。 【http://roots-osaka.com/action/guest-house/blog67-atsuhitonakata/】より ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.25
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王宮とシルバーパゴタの間の小路を進み、シルバーパゴタへ。シルバーパゴダ。王宮の南側に隣接する壮麗な仏教寺院。今から約100年前に建立された王立の寺院で、伽藍(がらん)に銀のタイルが敷き詰められていることから、こう呼ばれる。内部には、数千個のダイヤがちりばめられた黄金の仏像やエメラルドの小さな仏像、仏陀の聖骨が納められているという精密な彫刻が施されたストゥーパ、仏陀の生涯を表した小さな黄金像、聖牛ナンディンの像などが安置されている。1902年に王室の菩提寺として建立。1962年に大理石の柱をもつ現在の建物に再建された。名称は、床面に5000枚以上の銀のタイルを敷き詰めていることに由来する。スイレンの青き花。シルバーパゴタ 配置図。敷地をぐるりと囲んでいる回廊には、東南アジア一帯に伝承されてきた叙事詩「ラーマーヤナ」のフレスコ画が642メートルに渡って描かれていた。ラーマーヤナとは、魔王に攫われ(さらわれた)たシーター姫を勇敢なラーマ王子が救い出すというインド発祥のラブストーリー。回廊手前で、補修中なのかシルバーパゴタ側は黒いネットで覆われていたが奥の方は観ることが出来た。図書館(右)とシルバーパゴタ。巨大なストゥーパ。図書館。ノロドム王の騎馬像が中央に。ノロドムはカンボジアの国王(在位:1860年10月19日 - 1904年4月24日)。カンボジア近代史の始まる時期に在位したが、治世の初めは隣国シャムとベトナムから圧迫を受けた。その防御のためフランスに保護を求めた結果、カンボジアはフランス領インドシナに組み込まれることとなったが、ノロドム王のとった行動は、隣国に呑み込まれて消滅する危機からカンボジアを守ったと国民には信じられているとのこと。ノロドム王の騎馬像を横から。ズームで。シルバーパゴタよりノロドム王の騎馬像と両サイドにストゥーパを見る。靴を脱いでシルバーパゴタの中へ。エメラルド製の仏像や等身大の黄金のブッダ像、宝石を散りばめたシャンデリアが内部空間を彩っていたが、残念ながら中は撮影禁止。内部の見学を終え、靴置き場に。再びシルバーパゴタの外観。カンボジアの首都プノンペンのシンボルとも言われる「シルバーパゴダ 」は、王宮とともにカンボジアの紙幣にも描かれていたのであった。大理石の柱がクメール様式の屋根を支え、床は銀のタイルが敷き詰められていた。カンタ・ボーファ王女のストゥーパ。王家式典の館。スラマリット王のストゥーパ。カンタ・ボーファ王女のストゥーパ。アンコールワットの模型。反対側から。シルバーパゴタの出口に向かう。2つのストゥーパを。樹木を囲んで多くの石仏が。別の角度から。沙羅双樹の花。クメール王朝の地図。クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。伝統音楽の演奏が行われていた。ジャヤーヴァルマン7世は、クメール王朝の国王。クメール王朝初の仏教徒の国王であり、仏法で国を統治する転輪聖王となることを志して、戦乱で荒廃した国の復興を目標としていた。 彼が行った慈善事業は高く評価され、また数々の軍事遠征を実施する好戦的な性格も持ち合わせていた。寺院だけあって、敷地内にはノロドム王、アンドゥオン王など歴代の王様を祀ったストゥーパや仏像も建てられていた。仏像の四肢が欠けているのは、神仏像に高価な宝石を埋め込む習慣があったことから本来は崇拝の対象である神像が盗掘行為の対象になり、金儲けの盗人によって持ち去られてしまったかららしい。腕無し足無しはまだしも、首だけ仏像や首無し仏像など、日本では不気味がられて敬遠されるような形のものもこの地では信仰の対象になるのだと。沙羅双樹の花を手に持つ石仏像。こちらにも小さな社?王家の写真展示館に向かう。多くの末社の如き建物が並んでいた。王家の写真展示館。王家の写真。若かりし頃のシアヌーク殿下。象の像が。そして王宮、シルバーパゴタの見学を終え、出口から駐車場へ。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.24
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プノンペンの『ワット・プノン』の観光を終え、次の観光地の『王宮』にバスで向かう。メコン川とトンレサップ川が合流地点にある『ソカ プノンペン ホテル&レジデンス(Sokha Phnom Penh Hotel & Residence)』を再び左手に見ながら進む。『Botumvatey Pagoda』王宮南のワットボトムパークのすぐ横にある寺院が右手に。旅行ガイドブックではワット・ウナロムと表示されていた。ワット ウナロムはカンボジア仏教の中心的役割を果たす寺院。1440 年代に建立されたワット ウナロムは、プノンペンに現存する 5 つの僧院の一つ。カンボジアのマハ ニカーヤ派の総本山であり、国内でも最も重要な高僧が在職していると。ウナロム寺院は合計 44 の建物で構成。かつてここには 500 人の僧侶が生活し、仏教研究所の図書館には 3 万冊を超える書籍が所蔵されていたのだと。ところが、1974 年にクメール ルージュが首都プノンペンを陥落させた際に、ワット ウナロムも大部分が破壊されてしまったと。現在、この寺院は見事に修復されていたのであった。そして『王宮』の『チャンチャーヤの館』をバスの車窓から。1913年に建立されたかつての木造寺院。壁を使わない構造で、夜には月の光が奥まで差し込んで来るので別名“月光殿”。王宮のランドマーク的な存在で、バルコニーからはソティアロス通りが望まれると。国王が演説する際の演壇に使われることもあると。『チャンチャーヤの館』の前の公園には元国家元首のシアヌークの奥様のノロドム・モニニヤット・シハヌーク妃の写真が飾られていた。年齢 82歳でご健在とのこと。王宮の駐車場に到着しバスを降り入口へと向かう。金属製の門には象の姿も。王宮の塀沿いを進む。屋根の先がここでも天に向かっていた。死者の魂が天空に上がって行くのであろうか?王宮にはシルバーパゴダ前にある共通の入り口から入場。フランス人の建築家が関わっているためか西洋風。扉には合掌する仏の姿が。『王宮(THE ROYAL PALACE)』の配置図。膝が見える短パンやスカート、タンクトップやノースリーブシャツ、大きなリュックや危険物の持ち込み、着帽での入場は不可と。多くの白の仏像が迎えてくれた。ドヴァラパーラ(門番)の如き像も後ろに。沙羅双樹の木。沙羅双樹の赤い花。熱帯の花らしく、派手な赤い色をしていた。そして王宮の中でもひときわ目立つ黄色い屋根の建物の『即位殿』の姿が現れる。『宴会ホール』。王宮・即位殿に近づいて。即位殿の尖塔。即位殿は幅約30m、長さ約50mあり、黄金の尖塔は59mの高さ。四面仏顔がはめこまれた尖塔。四方を見渡す観世音菩薩。「哀れみ」「慈悲」「情け」「平静」を表していると。即位殿の左に『宝庫』と『国王の執務室』。国王執務室のガルーダ。ガルーダはインド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する神鳥。ガルダがサンスクリットやヒンディー語による名称で、英語やインドネシア語などではガルーダというのだと。再び即位殿を。『勝利の門』。即位殿の正面。現在のシハモニ国王の即位式も、ここで行われたという。靴を脱いで中に入ることができ、内装やシャンデリアなどは豪華なものだったが、写真撮影は禁止なので内部の写真はない。ナーガ。柱の上部にも像が。即位殿の周囲の廊下。『ゾウ舎』を斜めから。王の乗るゾウがここで飼育されていたのであろうか?ゾウ舎を正面から。面白い形の苅込の柘植の木?と宝庫。即位殿とゾウ舎の間からは王様の住む宮殿の門が見え、写真の右側には旗を掲げるポールがあったが、ここの旗は王様が宮殿にいるときに掲げられることになっていると。旗が揚がっていないときは王様が不在であるというという印しであると。この日は旗が棚引いていたが、写真には写っていなかった。タビビトノキ(旅人の木、学名Ravenala madagascariensis)は、マダガスカル原産のバナナに似た植物。名称の由来は、葉柄に雨水を溜めるため、乾燥地帯の旅行者の飲料水供給源として利用されたとも、また高木は葉が東西方向へ扇状に広がることから旅人に対するコンパスの役割を果たすからともいうが、ともに確かな定説ではないとのこと。青空と黄色のベストマッチ。ナポレオン三世の館は工事中。ナポレオン三世の妻から贈られ、フランスから移築された建物だそうで、これは現物を見たかったが・・・・。ゾウ舎と即位殿。日陰で休憩する観光客。シルバーパゴタへの連絡門に向かう。赤い花の咲く木が右手に。イクソラ(和名:サンタンカ)の花。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.23
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観光2日目の朝は7:40にホテルを出発し、最初の観光地『ワッ・プノン』を目指してトンレサップ川沿いの前日の道を反対に再び走る。暫く走ると小高い山の下に花時計と馬、犬?の像が見えて来た。ワット・プノン (「山の寺院」の意)はカンボジアの首都プノンペンにある仏教の寺院(ワット)。1373年建立。標高は27メートルでプノンペンでは一番高い位置にある宗教建築である。バスを降りると多くの鳥が籠の中に。買ったスズメ?は逃がしてあげるのだと。捕われている鳥を逃がしてあげるという行為が「徳を積む」ことになり、次に生まれ変わったときに幸せになれるように祈るのだと。カンボジアだけでなく、タイやラオスなど、小乗仏教(上座部仏教)を信仰する人が多い国では寺院周辺や境内などでよく見られる光景なのです。かごの小鳥はスズメの他にツバメもよく見ます。ツバメの方が値段が高く、徳をより高く積むことができるのだとか。蓮の花も売られていた。伝説によれば、ダウン・ペンという裕福な未亡人が川に流れ着いた大きな流木の中に4体の仏像を見つけ、その仏像を祀るために、丘の上に小さな寺院を築いたことが元となっている。「プノンペン」の名前の由来になったペン夫人が1372年に建立したと。後にこの寺院は参拝客を集め、多くの人が祈りを捧げる聖域となった。その後、1437年の巳年のとき、クメール王朝最後の王であるポニャー・ヤットがプノンペンに新しい王宮を建てた際に、大臣のデチョー・スレイに丘をより高くするように命じた。王の死後は、聖域の西にある著名な仏塔に王とその一族の遺灰が納められた。ワット・プノンは、クメール暦における新年と亡人節(日本のお盆にあたる)の間、カンボジアにおける祈りの中心となっているのだと。ワット・プノンの登り口の階段の両脇にはナーガ像が。ナーガは現世と異界をつなぐ存在として見なされており、クメール建築の入り口には必ずこいつがどーんと現れたのです。下からナーガ(蛇)、ドヴァラパーラ(門番)、シンハ(獅子)を横目に階段を上って行った。ワット・プノンは鮮やかなピンクが印象的な建物。そして前には対のシンハ(獅子)が。シンハとはサンスクリット語でライオンを意味すると。古く仏教発生の地インドでは野生のインドライオンが跋扈していたようで、絶対的な力の象徴として、インドでは広く神格化されて来たのだと。しかしインド以東の地域ではライオンは生息していないので、その形態は徐々に狛犬の様にデフォルメされて、今日の様な彫刻に至っているのだと。デヴァダー(女官)のレリーフ。幟。お線香と燭台。デヴァダー(女官)のレリーフがここにも。靴を脱いで中に入る。境内は蛍光灯で明るく照らされ、仏像は電飾で光り輝く。こちらが本尊の黄金仏で、予想以上にきらびやかなものであった。祈る人々の姿。我がツアーの旅友の姿も。黄金仏を斜めから。壁面の絵は仏陀の一生を描いたもので、こちらも見事なもの。本堂内に数人いた欧米人観光客も、感動したように眺めていた。 外に出て再びワット・プノンを見上げる。太鼓が納まった建物。仏塔の傍らの祠に祭られたペン夫人の像を窓越しに。本堂の背後にはストゥーパがあり、四隅にはここにもシンハ(獅子)が置かれている。 更に上にはドヴァラパーラ(門番)の像も四方に。直径12mの巨大な芝生時計。時間は8:15。オウコチョウ(黄胡蝶)のオレンジの花。群れ咲く様はまさに蝶が舞う如くで、華やか。花弁は5枚。10本ある濃い赤色の長い雄しべは、鳥が花粉を媒介しやすいようにできているのであろう。沖縄でこの花に訪花する蝶と共に見た記憶が。六角形の休憩場所?と仏塔。国営企業である電力会社・EDC(Electricite du Cambodgeがワット・プノンの前に。再びワット・プノン正面入口に戻りバスに乗り込んだのであった。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.22
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2日目の朝は5時に起床。未だ外は暗く、部屋からのトンレサップ川とCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)。部屋のテレビのチャンネルリスト。世界各国63局の放送が視聴可能。58番にNHK(JAPAN)と。部屋のMINI BAR のAngkor Beer 330ml は$2.5、そしてTiger Beer 330ml は$4.0。水はEvian Water 330mlがAngkor Beerと同じ値段の$2.5。私たち日本人は普段、水道水は飲めて当たり前のものだと思っています。最近ではミネラルウォーターやウォーターサーバーの水を日常的に飲んでいる人も多いですが、水道水も日常的に飲んでいても問題ありません。しかし、日本のように水道水が安全なもので、飲んでも問題のない国は本当に少ないのです。水道水が飲めるかどうか不明な国もあるそうですが、一般的には大体15カ国くらいだと言われています。人間の身体はほとんどが水でできていますので、水って体づくりには非常に重要なものなのです。生きていく上では必要不可欠な水ですから、水道水の浄水レベルが低い国では、水道水ではなく、必ず販売されている綺麗な水を飲むことがMUSTなのです。安全な水を飲むということも、旅を快適に満喫するためには必要なことなのです。外がだんだん明るくなる。時間は5:27。そして東の空がみるみる赤く染まって来た。時間は5:35。トンレサップ川の川面も朱に染まって来た。そして雲の上にこの日の朝日が姿を現す。時間は5:58。トンレサップ川の川面も光り輝く。この日も好天で暑くなったのであった。川には小さな浮き船に乗った釣り人の姿が。網を仕掛けていた場所のようであった。そして6:30に朝食会場に。ホーも美味。ホテルのフロント。そして朝食後は、旅友Uさんと共にホテルの前の道をしばし散策。朝から多くのバイクが。ホテルの入口にはホテル名が黄金の文字で。ホテル前のバス停の案内板。停留所番号や路線番号はカンボジア語表記しかなく、車内アナウンスがないとのことなのでプノンペンの土地勘がない人、カンボジア語が読めない・話せない私にとってはバス利用はかなりハードルが高く感じてしまったのであった。トンレサップ川に架かるCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)の上に行ってみる。まだ交通量は比較的少なかった。道路の横には狭い歩道が。橋を渡り対岸まで歩きたかったが、チョット危険そうなので諦める。店の前に安置されている神棚。五路財寶 四方金銀?の文字が。道端では肉も売られていた。何の肉なのであろうか?トラックには多くの氷が。道には多くの穴ぼこや水溜まりが。15分ほどの散策を終え、部屋に戻り、無料で置いてあるペットボトルに入った水をリュックに入れ、出発のための準備をしたのであった。 ・・・その3・・・にもどる ・・・つづく・・・
2018.10.21
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王宮の前のトンレサップ川沿いの道路を進む。川沿いの公園では、バドミントンのように羽を蹴り合う「ダーカウ」というスポーツを楽しんでいる姿が。この遊びは以前にベトナムや中国でも見たのであった。左手に翌日に訪ねる王宮が見えた。王宮の後ろに沈む夕陽。王宮のトンレサップ川対岸には大きなホテルが建っていた。メコン川とトンレサップ川が合流地点に建設された『ソカ プノンペン ホテル&レジデンス(Sokha Phnom Penh Hotel & Residence)』。体操?をする人々。椰子の木がトンレサップ川に沿って。トンレサップ川にかかる長さ719メートルの橋は、Cambodian-Japanese Friendship Bridge(カンボジア-日本友好橋)。その隣にはCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)が。そして前方右手にこの日のホテル『RIVER PALACE HOTEL』の姿が見えてきた。バスを降りて。ホテル全景をネットの写真から転載。 【https://www.booking.com/hotel/kh/river-palace.ja.html】よりホテルの1階ラウンジ。1Fのラウンジでウェルカムドリンクをいただく。2Fの私の部屋205号室。ベッド。「ベッドスロー」。本来の目的は家の中でも靴を脱がない欧米で、ベッドに靴のまま足を投げ出して座ったときにベッドが汚れないようにガードするための物であると、以前何処かの添乗員から。ベッドメイキング済みって意味もあるのであろうか?つまりトイレのペーパーの三角折りとか、便器に巻いてある「消毒済み」と同じ意味か??Welcomeバナナは緑色。でも美味しかった。日本で売られているバナナとは種類が違うのか?部屋はバスタブ付き。シャワー室の隣に便器。そして我が部屋からCambodia-China Friendship Bridge(カンボジア-中国友好橋)が見えた。18:20からホテル内のレストランで夕食。まずは Angkor Beerを楽しむ。シチュー。メイン ディッシュ。デザートはカボチャの上に乗ったプリン。パンプキンプリン?ココナッツ風味のプリンがカボチャの上に。そもそも「カボチャ」という名前は「カンボジア」が由来。日本への渡来については諸説あるが、ニホンカボチャは天文年間(1532年-1555年)に豊後国(現在の大分県)にポルトガル人がカンボジアから持ち込み、当時の豊後国の大名であった大友義鎮(宗麟)に献上したという説が有力であるとのこと。当初 は「カンボジア」がなまって「かんぼちゃ」や「かぼちゃ瓜」~最終的には「カボチャ」になったのだと。プリンは美味しかったが、カボチャは味が全くなく水っぽく旨くなかった。夕食後は部屋に戻り、この日はシャワーで汗を流す。そして成田空港で買って持ち込んだウイスキーを片手に日本NHKBS放送を画面のきたないテレビで見たのであった。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.20
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待っていてくれたバスに乗り込み、カンボジアでの最初の観光場所を目指す。プノンペン国際空港の有料駐車場の出口ゲートへ。今回のツアーバスは2席+通路+1席の豪華バス。そして参加人数は13人+現地添乗員。流暢な日本語を喋る添乗員のトゥーンさん。そしてプノンペン国際空港を後にし一般道路へ。ビルの外壁には、漢字、ハングル語、英語、クメール語が氾濫。民間航空庁(State Secretariat of Civil Aviation (SSCA))の入口には多くのカンボジア国旗がはためいていた。『カンボジアの国旗は、上から青・赤・青が用いられた旗の中央に白いアンコール・ワットを配置した旗。 現行の国旗は、1993年の王政復古の際に制定されたもので、青は王権を、赤は国家を、白は仏教徒を表している』とガイドブックより。カンボジアの車両のナンバープレート。登録場所(クメール語とローマ字表記)、車両区別の1~4の数字、ローマ字、数字4桁で構成されていると。ローマ字は現在は車の数が増えて2文字になっていると。普通自動車は2、オートバイ、トゥクトゥクは1、大型バスは3そしてトラックなどは4という区別であると。カンボジアと言えば世界遺産「アンコールワット」。そしてその国の有名ビールと言えば「アンコールビール」なのだが、最近結構ライバル会社も増え、様々なプロモーションを行っているのだと。そのうちの一つが、缶ビールのプルトップ部分の裏側に「当り」や「外れ」が印刷されており、写真のような印刷が出るとお金がもらえると言うモノ。一等賞はなんと、5,000,000リエル(約9万円)なのだと。道路には多くのバイクが走っていたが、ベトナムほどではなかった。バスの最後部に席を確保し、右に行ったり左に移動したりと、バスの車窓からの風景を楽しむ。父親が運転し後部座席に母親、そしてその間にアカチャンの姿が。道路の入口にある門。こちらには黄金の門が。「天恩彌勒佛院」と書かれた寺院の立派な門。ネムノキの大きな長い実が。政府機関の建物であろう。入口には元カンボジア国王・シアヌークの肖像が。尖塔が。ユニークな外装の建物。プルメリアには白い花が。トゥクトゥクには多くの客がすし詰め状態で。高層ビルディング。左手はホテル・Rosewood Phnom Penh、右手は プノンペンの銀行・Canadia Bank Tower。Monorom Gardenの中のユニークな像。『ガネージャ』という太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもった神で、4本の腕をもつヒンドゥー教の神。障害を取り去り、また財産をもたらすと言われ事業開始と商業の神・学問の神とされると。黄金の外壁の建物が夕陽を浴びて輝く。ズームで。元国王・シアヌークの写真がカンボジア国内には溢れていた。こちらにも。『独立記念塔』旧宗主国であるフランスから1953年に独立したカンボジア。これを祝って1958年に建てられたのがこの。蛇の姿をした守り神「ナーガ」が取り囲むデザインは、アンコールワットの塔を模したものと。塔の周りの広場は公園へと続いていて、早朝はジョギングや体操を楽しむ人が集まり、夜はライトアップされて地元の恋人たちのデートスポットとしても人気があると。市民が公園を憩いの場として楽しむ、プノンペンの日常風景を肌で感じることのできるスポッ。シアヌーク前国王の像を訪ねる。NET情報によると『1941年、18歳で国王に即位、フランスからの独立運動の先頭に立つ。独立後の55年、父に王位を譲り政党を結成、議会選挙に勝利し首相となった。60年の父王の死去に伴い、王位空席のまま国家元首となる。非同盟を方針としつつ、中国、ソ連、ベトナムに接近し「左寄りの中立外交」を追求。しかし米国の支援を受けたロン・ノルのクーデターで国家元首の地位を追われると北京に亡命政権を樹立、ポル・ポト派と組んで反ロン・ノル運動を展開した。75年、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が政権をとると、帰国はしたものの王宮内に幽閉された。78年12月、ベトナムのカンボジア侵攻でクメール・ルージュ政権が倒れ、シアヌークは再び北京に亡命。ポル・ポト派、ソンサン派(旧ロン・ノル派)と共に反越三派を結成、米国、ASEANなどの支援を受けた。91年、帰国し、93年の「カンボジア王国」樹立で国王に就任。内政への影響力を保持していたが、2004年10月7日、高齢と健康問題を理由に退位を表明。王室会議でシアヌークの実子、シハモニ殿下が新国王に選出され、同月29日に即位した。』と。激動のカンボジアの歴史を生き抜いた人物。今も国民の尊敬の念は衰えていないと。2012年に亡くなった元シアヌーク国王。2013年10月11日、シハヌーク前国王の一周忌を前に、高さ4.5mのブロンズ像が完成したとのこと。総工費は約120万ドルだったと。シハヌーク前国王像を覆う建物の尖塔。フンセン公園。カンボジアのフン・セン首相にちなんで名付けられた「フンセン公園」は、地元の人たちが集う憩いの場であると。公園にはウォーキングができる道が整備されていた。水の象徴であり豊穣を司る七つ頭の蛇ナーガ(蛇神)は一年に一度脱皮する不老不死のシンボル。若かりし頃のシアヌーク殿下。ロータリー交差点に故シアヌークの王妃の写真が。なお、現シハモニ国王は65才で独身との添乗員の説明に旅友のUさんの顔が輝くのであった!!元NHKアナウンサー・有働由美子の強力なライバルの出現なのであった!!。仏像のお姿を背中側から。ホテル カンボジアーナ。トンレサップ川沿いにそびえ立つ6階建ての大型ホテル。トンレサップ川沿いをこの旅の最初のホテルに向かって進む。プノンペンの会議場・Chaktomuk Conference Hall(チャクトマック会議場)第6回世界仏教徒会議の会場として建設されたとのこと。ココヤシの実が道沿いで売られていた。カンボジアでは欠かすことのできない重要な果実。タックドーンと呼ばれる実の中のジュースは栄養価が高く、特に病中・疲労時、妊娠中等に良いとされる。内側の柔らかい白い果肉部も食用で料理やデザートに使われるのだと。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.19
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク10月12日(金)から6日間の日程でカンボジアに観光旅行に行って来ました。参加したツアーは阪急交通社trapicsの『ANA往復直行便利用(成田⇔プノンペン)!カンボジア縦断満喫周遊6日間』NETで『地球の歩き方』と中古本の『アンコール・ワット』を購入し予習する予定でしたが、なかなか・・・・・・・。市立図書館からも。世界遺産に登録されている、アンコールの巨大遺跡群があることで有名な人気観光地、カンボジア。世界中の観光客を魅了するアンコール・ワットをはじめ、『天空の城ラピュタ』の世界を彷彿させる遺跡や湖上生活をする人々の暮らしを見たり、首都プノンペンでは王宮巡りなど、魅力的な観光スポットを巡る旅なのであった。今回もいつもの年季の入ったトランクとリュックで。出発の朝は、起床時には雨音が。前夜に天気予報で早朝の雨の予想を知り、慌ててタクシー会社にTELするも既に遅しで3社とも全て予約済みで配車出来ないとの返事。雨の中15分ほど小田急線の駅までトランクを転がして行くことを決断しトランクにビニール袋を被せ、リュックも雨カバーで覆い出発時間を待っていたが、突然に雨が止んだのであった。時間は30分近く早かったが慌てて自宅を出発し、駅まで必死に歩く。そしてなんとか雨を避け駅に到着することが出来たのであった。当初は始発の次の電車を利用する予定であったが始発の5:19発に乗車し藤沢駅へ向かったのであった。そして予約しておいた成田空港行きの高速バスに乗車。時間は6:05。茅ヶ崎始発で藤沢、戸塚駅を経由し湾岸線、東関東自動車道を利用して約2時間15分で成田空港に到着するバス。金額も3000円と大船駅からのJR成田エクスプレスよりは格安。茅ヶ崎駅からは5名が乗車、そして藤沢駅からは4名が乗車し国道1号線を利用して戸塚駅へ定刻に。そして戸塚駅からは6名が乗車し出発。湾岸線の長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)、横浜ベイブリッジが斜め前方に見えて来た。しかしこの辺からノロノロ渋滞が鶴見つばさ橋付近まで。大黒ふ頭を通過。右手に海浜幕張のビル群が。そして定刻よりやや遅れて8:40に成田国際空港第1ターミナル4F出発ロビーに到着。集合時間は8:50、南ウィングKカウンターの阪急交通社のカウンターに到着。ここでカウンター説明員からチェックインやカンボジア・プノンペン空港までの旅程の説明を受ける。今回の格安ツアーは日本からの添乗員はなしで現地添乗員のみのツアー。今回のツアーは、約10年前のスペイン旅行でご一緒し、その後も中欧や国内紅葉巡り等にも一緒に旅行している横浜にお住まいのUさん、愛知県にお住まいのKさんと3人で参加を申し込んでいたがKさんは私用で残念ながらキャンセルされたためUさんと二人での参加。予めANAオンチェックインを済ませていたため、短時間でチェックインも完了し、ドルへの両替を済ませて、出国手続きも順調に進み出発ゲート・52に到着。途中、カンボジアのホテルの部屋で楽しむウィスキーを免税店で購入。利用便はANA直行便・NH0817便 10:50発 カンボジア・プノンペン(PHNOM PENH)行き。予めネットで座席指定して窓側からの並び席を確保していたが、通路側は空席であったのでUさんは通路側に移動。約10分遅れで離陸に向けて搭乗口を離れる。そして11:27に成田空港を離陸し、カンボジア・プノンペン国際空港に向かって飛び立つ。成田(東京) - プノンペン間の距離は約2,780マイル、約4,470Km。フライト時間は6時間20分とのこと。成田市街地が眼下に。利用便はボーイング787。離陸後30分ほどでビールを。そして昼食。離陸から約1時間の11:27。B:シーフードのトマト煮込み バジル風味 を楽しむ。そしてバニラアイスクリームも。遠方に大きな島が見えた。フィリピン ルソン島か?ベトナム都市『クイニョン』上空。ベトナム中部,ビンディン省の省都。ホーチミン市の北東約 400km,南シナ海沿岸の港湾都市で,南から北に向って細長く湾入するクイニョン湾の湾口部西岸に位置する。ベトナム南中部の海岸沿いに位置するフーイエン省。世界的にも名高い美しい湾や、断崖絶壁のGành Đá Dĩa(ガン・ダ・ヂァ)などの景観を誇り、かつての「海上のホーチミン・ルート」のなごりを残すなど、観光名所も多い。そしてベトナム国土を横断しカンボジア上空へ。蛇行する川。メコン川。メコン川沿いに拡がる水田地帯。プノンペン空港に向けて着陸態勢に。トレン・サップ川に架かるブレック・ボフ橋。Koh Dach(コーダッチ)はメコン川の中州。そしてプノンペン国際空港に着陸。時間は15:20。プノンペン空港はプノンペン市街から西に約7kmに位置し、首都の空の玄関口として機能。1995年からフランス(ヴァンシ・エアポート)・マレーシアの民間共同体の手でBOT方式による空港施設の近代化が図られ、2001年の完成後は大型旅客機の就航も可能となったと。利用便 B787。そして空港ロビーで待っていてくれた現地添乗員 Mr.MOUNG BUNTHOEUN(ブントゥーン)氏に合流。トゥーンと呼んでくれと。今回のツアーは女性5名のグループと御夫妻1組そして個人参加男性5名、女性個人参加1名の合計13名と判明。空港ロビー正面。空港前にはカンボジアの伝統舞踊であるアプサラ・ダンスを踊る姿の像が。雲一つ無い青空。 ・・・つづく・・・
2018.10.18
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我が菜園の冬野菜の状況です。今年も全て、ネットで種を購入し種蒔きしてここまで育ててきました。台風24号の強風と潮風にかなりやられましたが、予備の苗を植えたり台風通過後に苗に水を掛け、潮抜きしたことが効果があったのか大夫、大きくなってきました。まずは我が家の横の菜園のカリフラワー。ここまで葉が大きくなれば一安心。日一日毎に大きくなっていくことが実感できるのです。そしてブロッコリー。カリフラワーに比べて葉に縮れ感があるのです。そして白菜。やや葉が虫に食べられてしまいましたが、消毒後は元気を取り戻しました。今、食べても美味しそうな緑の濃い葉です。キャベツも中心が丸まり始めました。そしてこちらは芽キャベツ。芽キャベツは妻の好物。そしてホウレン草も発芽し大きくなってきました。こちらはニンニク。昨年のニンニク球を保存し、鱗片にばらして植え付けました。数日で発芽し元気に育っています。そしてこちらは養蜂場のある菜園。こちらにも色々な冬野菜を植え付け育てています。リーフレタス。大根も種蒔きし、おろ抜き現在2本師立ての状況。あと1週間ぐらいしたら、最後のおろ抜きを行い1本にしたいと考えています。大根は聖護院大根も育てているのです。春菊。そろそろ先端を切り、脇芽を出させなければなりません。こちらは正月飾り用の、紅白の縮れ葉牡丹です。そしてカブ(蕪)も種蒔きし、成長して来ましたので、おろ抜きが必要です。我が養蜂場を見張ってくれているマネキン・案山子です。台風で何回も倒れましたが・・・頑張ってくれています。こちらはミツバチ嬢のの見張り役のボーイッシュな案山子です。チョット胸が先日の台風の強風で開けて(はだけて)いますが・・・・。そしてミツバチの巣箱の一つです。このファミリーの巣箱は2階建て。入口の箱は、オオスズメバチが巣箱の入口に近づくのを防ぐためのオオスズメバチトラップです。この日は、雨も上がり晴天でしたので、砂糖水を与えました。あっという間に、ミツバチ嬢達が巣箱から出て来て、砂糖水を一生懸命に吸っていました。こちらは別の群のミツバチ嬢達です。今年の危険な猛暑は、ミツバチ嬢達にも危険な猛暑だったのです。巣箱の内部温度が39度を超えると幼虫や蛹が危ないので、巣箱の換気の為に多くのミツバチ嬢が入口に出て来て羽を振るわし換気を行って頑張ってくれたのです。そして再び我が家の横の菜園に植えてあるミカンの木です。苗を購入してから3年目で20個近くの実を付けてくれました。そろそろ、収穫時期でしょうか。この写真の撮影後に、防鳥対策に網を被せたのです。
2018.10.17
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今年も我が家の駐車場の横の『ミズヒキ』が小さな花を開き出しました。雨の翌朝、茎の節部に宿る水滴の姿も。長さ20〜40cmになる花穂を出し、それに小花がまばらに咲く。小花の色は上半分は赤色、下半分は白色なのです。和名『ミズヒキ(水引)』は、正月飾りや祝儀袋などに使う「水引」の名のとおり、紅白に見える花が水引に似ていることに由来するのです。タデ目タデ科タデ属の多年生草本(宿根草)です。花は夏の終わりから晩秋にかけて長く咲きますが、ひとつひとつの花が小さいせいか郡植しないと存在感が出ません。妻が何故か大切にしていますので、群勢が大きくなり赤が目立つこの頃なのです。あまり庭にこの花を植えている方はいないのではないでしょうか。花穂に宿る水滴を狙いまし浮いたが、我がデジカメではなかなかピントが合わないのです。翌日の好天時に再びミズヒキの撮影を。やはり日光が当たると赤が輝くのです。ズームで花を狙ってみました。何枚かのうちの一枚です。旨く撮れました、いや撮れていました。そして何年か前に金沢に妻と旅行した時に、伝統工芸の『加賀水引』の店を訪ねた折りの写真です。この水引とは、和紙のこよりに水糊をたくさんつけて引っ張り、乾かし固めた細い飾り紐のことで、これが名前の由来と教えていただきました。日本における水引は、遣隋使あるいは遣唐使らが持ち帰ってきた献上品に、紅白の麻紐が結ばれていたことが始まりだとか。長い歴史の中で贈る人と贈られた人を結ぶ日本独特の水引折型(ラッピング文化)へと発展して来たのでした。ヨーロッパではすぐに開封できるような結び方でリボンが結ばれているのに対し、日本の水引は180度意味合いが異なるのだと。未開封であり、封印していることを示し、両端を引くほどによりきつく結ばれるのです。それは、贈り手が「あなたとの縁を結びたい」という大切な思いを、水引を用いて表現しているのだと。1本の紐にそんな意味が込められているのは日本人としてそして日本文化の誇りなのです。水引の花に雨粒やどりおり・・・・詠み人知らず
2018.10.16
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名古屋城の天守閣に向かう。左に小天守、右に天守閣。天守閣(5層5階地下1階付)は、南側の小天守(2層2階地下1階付)とそれぞれの地階を橋台で結ぶ連結式天守閣の形式。出入り口は厳重を極め、天守閣へは小天守を通らなくては入ることが出来ないのだ。天守閣、小天守とも入口は上部の石落しと総鉄張の扉を備えた門となっている。天守閣木造復元事業に伴う調査及び工事により、名古屋城天守閣は平成30年5月7日(月)から入場禁止(閉館)となっているのです。現在の天守閣については、戦後、市民の多大な寄附により再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の建造物だが、再建から半世紀が経過し、設備の老朽化や耐震性の確保などの問題が発生していた。そのような課題を克服するとともに、特別史跡名古屋城跡の本質的価値の理解を促進するため、「金城温古録」や「昭和実測図」「ガラス乾板写真」など、現代に残された豊富な資料に基づく天守閣の木造復元を進めているのだ。なお、木造復元された天守閣の竣工時期は、4年後の2022年12月を予定しているのだと。石垣は全て足場パイプで覆われていた。『不明門(ふめいもん)』に向かって足場パイプで出来たトンネルを進む。天守閣の東から北へ抜ける門。不明門とはユニークな名称だが、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門で、常に鍵が厳重にかけられていたことから「あかずの門」とも呼ばれていたようです。この門の塀外部軒桁には防護機能として、忍び返しにした「剣塀(つるぎべい)」が設けられているのだ。『御殿椿』。名古屋城の不明門の近くに植えられている御殿椿。本丸御殿の南にあった銘椿「御殿椿」の生き残り。空襲で焼けた幹から新芽が伸び接ぎ木によって現在の姿に至ると。内堀。名古屋城の石垣には、様々な刻印があると。丸に九?であろうか?石垣の足場の中に見学者の姿が。『天守礎石』。名古屋城には1945年(昭和20年)に焼失した旧天守の礎石が残っている。現在ある天守を再建する際に、大天守の北側、御深井丸の東側に移築し、もとのとおりに整列させ保存展示されているのです。『石棺式石室』。島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。古墳時代後期のもので、出雲地方独特の横穴式石室であると。この地に移設された理由は?石垣が足場に覆われた天守閣を見上げる。足場パイプで出来た階段も。『剣塀』。大天守と小天守を結ぶ橋台を剣塀と呼ぶと。石垣を築き、左右両側は土塀を設けて通路の防備として、さらに外部の面する西側には、軒桁に30センチメートル余りの槍の穂先を並べて、“忍返し”として外敵に備えた。又、天守の石垣積みは、上部で外部に反りだした「扇勾配」と呼ばれる技法が取り入れられたが、これは石垣を内面に湾曲させ、石の重みと内側の土圧による力を分散させることで、はらみを避けるためで、天守台は加藤清正が担当して築いたので、特に「清正流三日月石垣」と称されていると。再び天守閣を。『鵜の首』。鵜の首とは、堀を内側に入れこみ道幅を狭くした部分だと。先程訪れた『東南隅櫓』。名古屋城の特徴はとにかく大きい、そして(戦に)強い城ということ。天守の延床面積は日本一、高さも姫路城をしのぐと。大きいのは天守だけでなく、この『東南隅櫓』は東西11.6mで南北13.6m、高さ13.5m。 一重目の屋根がないので、外観は2階建ての如く見えるが、内部は3階建ての『東南隅櫓』。国宝の彦根城の天守が16・3mですから、櫓だけで普通の城の天守に匹敵するスケール。そして、かつては隅櫓と隅櫓が多門櫓という長屋のような櫓でつながっていたのだと。『なんじゃもんじゃ』。西之丸梅林の中で「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)」の木が。名古屋城 正門。明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたのだが、第2次世界大戦により焼失したため昭和34年、天守閣と共に再建されたのだと。名古屋城 天守閣の『金の鯱』をズームで。向こう側(北側)が雄、手前(南側)雌で高さも重量も微妙に雄の方が大きいのだと。名古屋おもてなし武将隊は別名「イケメン武将隊」とも呼ばれていると。「武将都市ナゴヤ」をPRするために結成された名古屋市の観光PR部隊。正門横の実物大のレプリカの大きさは高さ約2m。ネット情報によると「他にも天守に金鯱を冠した城はありましたが、ほとんどが金箔貼り。名古屋城は贅沢に約200㎏分もの金の板を使っていました。江戸城や大坂城にも同様の金鯱があったとされますが、いずれも江戸初期に焼失しているので、近代まで金板の金鯱が守られてきたのは名古屋城だけでした。これほどのお宝ですから泥棒にも何度も狙われていて、昭和12年にはウロコが58枚も盗まれています。江戸時代の大凧に乗った大泥棒・柿木金助の伝説は歌舞伎にもなっています。ただし凧に乗ってというのは伝説です」と。名古屋の代名詞「金シャチ」が鎮座する名古屋城天守閣は老朽化もあり、2018年5月6日限りで閉鎖。木造天守閣復元工事完成は2022年12月頃。観光客の犬と戯れる名古屋おもてなし武将隊?正門から遠く南東隅櫓を観る。道の左右には菊花展の小屋の準備がされていた。『西南隅櫓』。未申櫓ともいわれ、屋根 2 層・内部 3 階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けている。大正10年(1921)の暴風雨により石垣とともに崩壊したが、宮内省によって修理復旧されたため、現在は鬼瓦などに菊花紋が見られる。平成22年度(2010)から柱の軸組みのみを残して屋根や壁、床などすべて取外す半解体修理を実施し、平成26年(2014)に完了し、平成30年(2018)9月より内部を公開中。再び『本丸表二之門』を観る。ここには外堀が。こちらは内堀。加藤清正が見送ってくれた。名古屋城二之丸にある『那古野城跡』今川氏親(今川義元の父)築城。織田信長生誕の城とされる。16世紀前半に30年ほど存続した後に廃城となるが、旧城地は廃城から半世紀ほど後に再び城地に取り立てられ、名古屋城になったと。『名勝 名古屋城 二之丸庭園』と刻まれた石碑。藩主の住まいだった二之丸御殿の庭園として初代藩主・義直が造営し、10代・斉朝(なりとも)が大改修した。藩主の御殿に付随する庭園としては全国最大級のスケール。儒教に傾倒していた家康の影響を受け、義直の造営した庭園は儒教の祖である孔子を祀る孔子廟があるなど、大名庭園としては異質の様式を取り入れているのが特徴。見事な枯山水回遊式庭園。土産物屋『金鯱の館』。東門に向かって進む。下水道マンホール。中心の円には、名古屋市のシンボル「名古屋城」。そして左の円から順に見ていくと、①名港トリトンに名古屋港ポートビル②新幹線、宮の渡し公園③名古屋テレビ塔④東山動物園(キリンも発見!)に八事興正寺⑤国際会議場と、名古屋港に広がる巨大工場群でしょうか。その隣には、海をイメージする波と船も描かれています。円と円の間には名古屋市の花であるユリもあしらわれ、よく見るとテレビ塔の円の上には「N」のマークが。名古屋城から見て、どの方角に何があるということも一目瞭然なのです。東門石垣。『金シャチ横町』そして再び名古屋市本庁舎及び愛知県庁舎を観て、地下鉄への階段を下ったのであった。 ・・・完・・・
2018.10.15
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本丸御殿を一端外に出て、玄関前、書院横を通り奥に向かう。湯殿書院、黒木書院の案内板が。表書院の最奥。そして上洛殿とその奥に小天守、大天守が姿を現す。表書院と上洛殿、小天守、大天守をズームで。上洛殿の西側。湯殿書院、黒木書院の見学は予約制とのこと。次の日本語の案内では15:30から可能と。英語の説明であれば15:05から可能とのことで。待ち時間がもったいないので15:05を申し込み、予約チケットを入手。20分ほど時間があるので、『西南隅櫓』の見学に向かう。未申櫓ともいわれ、屋根 2 層・内部 3 階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けている。大正10年(1921)の暴風雨により石垣とともに崩壊したが、宮内省によって修理復旧されたため、現在は鬼瓦などに菊花紋が見られると。平成22年度(2010)から柱の軸組みのみを残して屋根や壁、床などすべて取外す半解体修理を実施し、平成26年(2014)に完了し、平成30年(2018)9月より内部の公開をしているのであった。『西南隅櫓』入口。『西南隅櫓』2階から正門方面を観る。2階内部。3階への階段には多くの人が列を作っていたので諦める。展示収蔵施設工事現場。名古屋城の展示品・収蔵品を展示、収蔵する施設の工事現場。名古屋城天守閣の木造復元工事中はこの建物に収蔵し展示するのであろう。『西南隅櫓』を下から。そして階段を下り、湯殿書院、黒木書院の見学受付場所に戻る。そして15:05になり、湯殿書院に向かい進む。湯殿書院の奥に小天守、その奥に大天守が。一之間に入ると、説明員のオジサンが英語で説明を始めた。8人ほどのグループで会ったが、見たところ皆日本人ではと?私が、『日本人の方手を上げて下さい』と言うと全員が手を上げたのであった。そしてそれからは、オジサンが日本語で説明してくれたのであった。ズームで。湯殿書院二之間。ここはお風呂から出てくつろぐところ。この奥の一段高い場所が上段之間。上段の間は未完成のため非公開。こちらの障壁画は歴史を感じさせるようにわざと古さを再現していると。それは、復元模写ではなく、重要文化財障壁画のデジタル複製との事。風呂屋形。蒸し風呂で、下女のサービスで殿様が洗ってもらったのだと。紀州藩では下女に手がついて徳川吉宗が生まれているのです。風呂屋形の消失前の写真。復元と違い左上に窓が映っているのが解る。『湯殿書院 風呂屋形』説明案内書。風呂屋形の下にかまどがありここで湯を沸かし、その蒸気を風呂屋形内に導入する、所謂サウナなのであった。風呂屋形内部は密閉された部屋。扉を開けてもらい風呂屋形の中を撮影出来たのです。そして次に『黒木書院』に向かう。本丸御殿のほかの部屋は総檜造りであったのに対し、この部屋には良質な松材が用いられ、その用材の色により黒木書院と呼ばれたのだと。また、清洲城内にあった家康の宿舎を移築したものとも伝えられていると。一之間と二之間。襖絵もぐっと色味を落とし風格のある水墨画で、「山水図」や「四季耕作図」「梅花雉子小禽図」などが配されていた。松の木が新しいので、まだ柱や梁が白いのであった。斜めから一之間を。外観は我が家と変わらない?8畳間。二之間。こちらも質素で飾りもなく狭い部屋なので、落ち着けそうな部屋。そして20分ほどの、湯殿書院、黒木書院の見学を終え、更に天守閣方面に足を延ばしたのであった。 ・・・名古屋城・本丸御殿(その3)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.14
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対面所。次之間(手前)と上段之間(奥)。上段之間は十八畳、次之間も十八畳。上段之間の床の間は『愛宕山』。『愛宕山(あたごやま、あたごさん)』は、京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山。京都市街を取り巻く山の中で、比叡山と並び目立つ山と。『対面所上段之間』に描かれた、『加茂競馬(かものくらべうま)』の場面の、左側半分のズーム。京都の賀茂別雷(わけいかずち)神社で行われる5月5日の競馬神事。寛治7年(1093年)、堀河天皇の勅願により、天下泰平・五穀豊穣を祈願して始まった行事と。同じく『加茂競馬(かものくらべうま)』の場面の、右側半分のズーム。『印地打ち』と『田植え』の場面。和歌山の風物光景のようです。『印地打ち』は、五月五日に大勢の子供が集まり、二手に分かれて石を投げ合い、合戦の真似をした遊びとのこと。付書院の狭い横壁にも愛宕山の姿が描かれていた。鷺之廊下。対面所と上洛殿を結ぶ廊下で、名の通り鷺(さぎ)が描かれた障壁画が特徴的。太い柳の木にも鷺の姿が。上段の間の付書院。付書院の欄間は繊細な細工。六葉釘隠しと言って、六葉(ろくよう)の飾り金具を取り付けていた。この金具は長押(なげし)などの和釘を隠すために用いていると。上洛殿の廊下にはめ込まれた極彩色の欄間。見たことがある現存する欄間とはレベルが違う細工と色彩に驚愕しきり。ズームで。反対側も見事。上洛殿。寛永11年(1634年)の三代将軍家光の上洛に合わせ、新たに増築した建物。将軍の御座所として位置づけられたことから、御成書院とも呼ばれたと。室内は狩野派の手による襖絵・天井板絵や絢爛豪華な彫刻欄間、飾り金具等で彩られ、本丸御殿の中でも最も豪華に飾られた建物。とりわけ、幕府御用絵師の狩野探幽によって描かれた帝鑑図や雪中梅竹鳥図などが有名と。上洛殿の間取り図。一之間とその奥に上段之間。欄間(左)。更にズームで。欄間(右)。こちらも更にズームで。上段之間の東面。床の間と互い棚。上洛殿 上段の間の天井と欄間彫刻。上段之間・帳台構。見事な飾り金具。上洛殿一之間東側の襖絵は、将軍や大名の行動規範になる「帝鑑図」が描かれている。同じく狩野探幽の作。水墨の輪郭に緑や青などの色が付けられている。欄間彫刻(左)。欄間彫刻(右)。二之間。上洛殿の障壁画は狩野探幽の作で二之間に描かれているのは「琴棋書画図(きんきしょがず)」。二之間の床の間。ズームで。琴棋書画図[棋](二之間東側襖絵)の左部分。欄間彫刻。こちらも欄間彫刻。二之間の天井。三之間。上洛殿三之間の襖絵では、狩野派のシステムを作り上げたカリスマ、狩野探幽が手掛けた山水画「雪中梅竹鳥図」を見ることが出来た。原画には、梅の枝にとまる雉子には尾だけしか残っていませんでしたが、今回の復元画では雉子の姿が描き込まれたと。三之間 西面。欄間(左)。欄間(右)。三之間を斜めに観る。梅の間。将軍をもてなす上級家臣たちの控え場所であったとされている広間。上洛殿への控えの間です。 大きな床の間が作られている。梅の間の裏の空間。この部屋の襖絵は現在復元中であるとの説明板が。「上御膳所(かみごぜんしょ)」は下御膳所と同じく料理の配膳や温め直しのための場所ですが、上段之間、上之間、御膳場と呼ばれる3つの部屋がありより格式高いイメージ。『名古屋城本丸御殿 復元へのあゆみ パネル展』が開催されていた。テレビ画面でも復元への歩みが紹介されていた。部屋の中央には囲炉裏、天井には煙出しが。本丸御殿の復元は名古屋市の事業だが一般市民からの寄付も受け付けており、板戸に寄付者の名前が記されていた。『夢童由里子氏記念銘板』。夢童由里子氏は、京都市生まれの造形作家で、アートプロデューサーだった方。名古屋城本丸御殿の再建の立役者なのであると。 ・・・名古屋城・本丸御殿(その2)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.13
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今日から17日(水)までカンボジアへ観光旅行に行って来ます。予め準備しておいた『名古屋城・本丸御殿へ』を引き続きご笑覧下さい。------------------------------------------------------------------------------------表書院。正規の謁見に使用されたのがこの表書院。三之間。花鳥画が中心となっていた。三之間は39畳もの広さ。ツツジ、シラン、ハナカイドウの描かれた夏の光景。三之間正面襖絵の左二枚。描かれている動物は麝香猫(じゃこうねこ)であると。三之間正面襖絵 右側二枚。麝香猫。西面。麝香猫をズームで。表書院 二之間。ふすまの上部には、とても細かい格子がはめられていた。「格子欄間(こうし らんま)」といい、通気をよくするために壁ではなく格子になっていた。この細かい細工も見どころ。二之間と一之間の間の襖にはモミジと松が。手前には松が。表書院 一之間と奥が上段の間。格子欄間の先に上段の間の天井が見えた。上段の間の松。一之間。桜花雉子図。雉をズームで。一之間と上段之間の間の襖絵 左。西側から一之間、二之間、三之間を通して観る。今では花瓶や生け花、掛け軸、置物などが飾られる床の間ですが、かつては身分の高い人が座る場所であったと。その、床の間の横に出窓風に張り出しているのが付書院(出書院)。ここを机にして書物を読み書きしたようだが、窓のように書院の障子を開けて庭を眺めたり、装飾性としての要素の方が強く、格式高い場所に用いられたと。上段之間を西側に回って。天井は格式高い折上げ小組格天井で格式の高さを表現していると。重厚な造りの襖「松竹禽鳥図」が東面に。戻って一之間を通して。上段の間の松を西側から。襖「松竹禽鳥図」が何故かこの様な落ち着いた色の写真になりました。『本丸御殿の公開予定』はチョット古い?上段之間の裏の空き地は中庭ではなく部屋があった模様。次に対面所納戸一之間へ。24畳。西面床の間。床の間の松。南面。東面。ズームで。気がつけば対面所前の見学通路には多くの人が。『対面所を彩る風俗画』案内板。壁画の主要な10場面をピックアップした一覧図。タイトルは①田植え、②綱引き、③相撲、④万歳、⑤羽根突き、⑥吉田社、⑦和歌の浦天満宮、⑧鴨競馬、⑨ぎっちょう・ぶりぶりと、⑩塩づくり。①、③、⑥と⑧が京都で、それ以外が和歌山の光景であると。対面所次之間。この写真の正面の三区画の障壁に描かれた図は、『製塩、片男波、和歌浦八幡宮』の場面。次の間 左奥の北西面。西面の襖絵は右から、紀三井寺、塩釜神社と玉津島神社の光景。船遊びをズームしましたが、ピンボケ。右奥 北東面。左側は和歌浦天満宮。ズームで。右、紀三井寺と左、塩釜神社。対面所上段之間の床の間と北面・帳台構。洛中・洛外の年中行事や庶民の生活が描かれていると。右側北面と東面の襖絵。床の間。いろいろな風俗画をズームで。相撲の様子。細やかで、色鮮やかな着物や褌(ふんどし)の柄。綱引き。人数は関係なし?弓矢。 ・・・名古屋城・本丸御殿へ(その1)・・・戻る ・・・つづく・・・
2018.10.12
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本丸御殿 正面玄関。本丸御殿を訪れた人がまず通され、対面を待つ場所であり、古くは遠侍(とおざむらい)と呼ばれた殿舎。入母屋造の妻入で、入り口となる車寄は正面に突き出していた。杮葺(こけらぶき)の屋根を持つ車寄は、中央部に丸みを持たせた唐破風で弓形に美しく反り返った曲線が特徴。後ろの表書院は入母屋造の殿舎。破風(はふ)金具には、八双(はっそう)と三葉葵紋、懸魚(げぎょ)などが。漆を塗った上に金箔が施されている(漆箔)。懸魚は火除けの意味があったと。各部の名称は。八双(はっそう)とは八双金物の事で先端が二股に分かれ,または油煙形に突き出した形をした、門扉・板戸などに打ち付ける装飾金具のことを示し、形によって、入り八双・出八双・散八双(ちらしはっそう)などがあると。先端が二股に分かれた形状の場合は入り八双、油煙形に突き出した形状の場合は出八双と。また四隅に打たれる装飾金具は散八双と呼ばれると。 【http://haruhime.info/index.php/honmarugoten/genkan_omoteshoin】より。『名古屋城本丸御殿とは』案内板。かつて名古屋城の本丸には、天守閣の南側に本丸御殿があった。尾張藩主の住まいとして徳川家康の命により慶長20年(1615年)に建てられた。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作と言われ国宝に指定されていた建物で、現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と言われていた。勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成しており、1930年(昭和5年)に国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)5月、空襲により天守閣、本丸御殿ともに焼失した。戦後の復興にともない、1959年(昭和34年)に天守閣は再建された。本丸御殿についても、江戸時代の文献のほか、多くの写真、実測図が残されており、在りし日の姿を忠実に蘇らせることが可能であり、2009年(平成21年)1月に復元に着手し、2018年(平成30年)6月に完成公開したのだと。車寄せの後ろにある一般観覧入口から御殿内に。御殿東側中央、中之口部屋に入口が設けられていた。中之口部屋。本丸御殿の実質的な玄関。6部屋に区切られ、家老の詰所としても使用されていた。現在は受付、下駄箱ロッカーなどエントランスホールとして使用。靴をロッカーに預け観賞開始。『名古屋城 本丸御殿 完成公開 2018/6/8~』のポスター。本丸御殿 間取り案内図。今年6月8日(金)に完成公開した本丸御殿で、国指定重要文化財障壁画「竹林豹虎図」の模写ではなく実物の特別展示が行われていたのです。今回は、玄関一之間・二之間境の襖4枚(障壁画8面)全てを、初めて焼失前の本丸御殿と同じ場所にはめ込んで展示することによって、往時の様子を再現したのです。焼失前の本丸御殿の雰囲気を感じられるまたとない機会であると。期間は10月22日までとのこと。ふすま絵は17世紀初めに、日本美術史上最大の画家集団、狩野派の絵師が描いたとする説がある。正規の来客が通される通称「虎之間」を仕切る境にあり、1枚の大きさは縦約2m、横約1.5m。4枚をつなげると、金箔を背景にトラとヒョウが竹林に集う様子が描かれている。1945年の空襲によって本丸御殿は焼失したが、竹林豹虎図を含む障壁画計1047面は別の倉庫に移されており、無事だったという。大地と雲、背景の大きな面積を占める部分に贅沢に金箔があしらわれている。上段の襖絵は玄関一之間東側襖絵4面。下段の襖絵は玄関二之間西側襖絵4面。 【https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/02_events/30/300929/index.html】一之間。虎の間と呼ばれていた。全体を斜めから。ネットで調べてみると扇は向かって右側から左に向かって、第一扇、第二扇と数えるのだと。左2枚。よって4扇と3扇。豹は雌の虎だと考えられていたのだと。当時は本物の虎や豹を見ることは叶わなかったので、書物や毛皮などを参考に描かれた。1615年(慶長20年)制作。中央2枚。3扇と2扇。子どもをあやしたり、じゃれ合う様が描かれている。右2枚。2扇と1扇。反対側斜めから4枚全体を。玄関一之間東側壁に展示中。二之間。28畳の取次ぎ部屋。もう1隻(せき)の襖絵4面は玄関二之間西側に。右2枚。1扇と2扇。4扇。玄関一之間の正面(北面)床間と西面。藩主に謁見する者が取次ぎを待つ18畳の控室。滝と竹林。滝をズームで。一之間には床間と違棚が。玄関一之間の西面。東面。水を飲む虎。戯れる虎と豹。竹林。玄関二之間北面(正面)。左からズームで。その右。その右。正面と西面。コーナー部をズームで。西面。青の輝きが鮮烈。 ・・・つづく・・・
2018.10.11
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名古屋駅から地下鉄・桜通線に乗り3駅目の久屋大通駅で下車し名城線に乗り換えた。そして最初の駅、市役所駅で下車し7番出口を目指す。市役所駅の階段には名古屋城天守閣の姿、そして壁には天守閣の金の鯱(しゃちほこ)が描かれていた。名古屋城周辺の地図。この地図の左側が北方面。『名古屋城内郭絵図』が地下通路の壁に。尾張徳川家初代義直、寛永末期の1640年から尾張藩2代藩主の光友1670年ごろの名古屋城の状態とのこと。そして名古屋城 本丸御殿の案内も。そして階段を上り地上に出て、振り返ると、名古屋市役所本庁舎とその先に愛知県庁舎が。名古屋市役所本庁舎は三代目の庁舎であり、昭和天皇御大典事業として建設され、昭和8年9月6日に竣工。外観意匠は、近代的なビルに和風の瓦屋根を載せた「日本趣味を基調とした近世式」であると。外観の特徴は、中央にそびえる高さ53.5メートルの時計塔。二層の屋根を配した塔の最頂上には、四方にらみのしゃちを載せ、名古屋城との調和を図った意匠となっていると。地下鉄駅への階段の側には巨大な文字『@NAGOYA』が。『G』が黄色で傾いているコンセプトは?ここから先は2018年3月29日(木)にオープンした名古屋城の『金シャチ横丁』。この場所は以前は欅並木と駐車場があったと記憶している。「金シャチ横丁」は、尾張名古屋のシンボルともいえる名古屋城とその周辺の魅力を向上させ、さらに国内および海外からの来訪者に対して名古屋の魅力を発信することを目的とした施設。「金シャチ横丁」の2つの商業施設区域はそれぞれ異なるコンセプトで明確に分けられており、正門側は『義直ゾーン』、東門側は『宗春ゾーン』と名付けられていると。ここは名古屋城東門近くの「宗春ゾーン」。『宗春ゾーン』は、徳川家きっての派手好きで知られる7代藩主・徳川宗春にちなんで命名。そして名古屋城東門の案内に従い左折。名古屋城の出入り口は「東端の東門」と「西端の正門」の2つ。土橋を渡り、東鉄門に向かう。左手の外堀。幅は20mはあるでしょうか。大きな空堀が一直線に続いている。この空堀からも名古屋城の規模の大きさが判るのであった。左右に曲がる東門への通路。振り返る。奥に見えるのが二之丸東二之門跡の石垣。当時はこの石垣を跨ぐように櫓門が載っていたと。古くは冠木門(かぶきもん)といわれ、二ノ丸の東門で三の丸からの入口にあたっていた。門柱・冠木や扉などには帯鉄が打ち付けられており、用材は木割りが太く堅固に造られていた。昭和38年に愛知県体育館が建設されるに当たり解体され昭和47年に現在地に移設されているのだと。その後平成二十二年から二十四年にかけ解体修理されたと。この写真は以前訪ねた時の写真。左手にはその愛知県体育館が。大相撲名古屋場所はこの体育館で行われているのである。 名古屋城東門に向かう。『特別史跡 名古屋城』案内図。チケット(500円)を購入し城内へ。左手は東南隅櫓そして右側には天守閣が見えた。『清正公石曳きの像』。『天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。 』と。東堀りとその先に先程述べた、移設された旧二之丸東二之門の姿が見えた。東南隅櫓下の石垣では、石垣から延びた蔓植物の撤去作業が行われていた。自然の植物の生命力の強さに驚く。ロープ1本を頼りに上下左右に移動し、作業を進める職人さんの姿が。東南隅櫓。辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同じだが「落狭間」の破風の形を異にしていると。この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られるのだ。るのだ正面遠くに西端の『正門』の姿が小さく。内堀の奥の表二之門に向かって右折。古くは南二之門といわれ、門柱・冠木とも鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られている。袖塀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示していると。東南隅櫓とその下の内堀。本丸表一之門跡。枡形虎口を形成していたのが本丸表一之門。本丸表一之門跡解説板。1945年(昭和20年)の空襲で焼失したため、現在は石垣だけが残っていると。空襲による消失前の表一之門の写真を説明板より。入母屋造(いりもやづくり)・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落を設けていたと。1931年頃に撮影された枡形の解説板。そして本丸表一之門跡を通過し左に曲がると正面に見えたのが本丸御殿が姿を現した。そして今日10月10日は★目の愛護デー:「10 10」を横に倒すと眉と目の形になることから。★釣りの日:魚の幼児語から「ト(10)ト(10)」の語呂合せ。★銭湯の日:「せんとお(千十=1010)」の語呂合せ。★転倒防止の日:「てん(ten)とう(10)」の語呂合せ。★萌えの日:「十月十日」を組み合わせると「萌」の字になることから。★亀田の柿の種の日:「10」の「1」が「亀田の柿の種」の種で、 「0」がピーナッツに見えることから。まだまだありますが、切りがありませんのでこの辺で。 ・・・つづく・・・
2018.10.10
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この日(10/3)は三重県津市に仕事の応援に前夜泊で向かいました。東海道線で小田原駅に。小田原駅構内・JR東日本改札口の上にぶら下げられた巨大な『小田原提灯』。小田原提灯が生まれたのは、江戸時代中期と。東海道を旅する人々が箱根越えに携帯しやすいよう、使わないときは蛇腹をたたんでコンパクトに収め、懐や袂にすっぽりしまえるよう工夫されたのだと。懐中電灯の原型とも。直径2.5m、全長5mの巨大小田原提灯。改札口の手前にかっての『相州小田原停車場』の写真。昔の駅舎は三角屋根であったようだ。『歌川広重 東海道五拾三次 小田原』。『酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注ぎます。 春から夏にかけて増水する酒匂川には、客や荷物を担いで渡る人足(にんそく)がいました。 対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が 描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然のなかに埋没してしまうほど 雄大な風景が広がっています。』と。そして新幹線連絡通路を進む。『名古屋城 本丸御殿 「上洛殿」』のポスターが貼られていた。そして小田原駅 新幹線ホームへ。小田原駅に上りの新幹線が。下りホームからの窓越しの小田原城。A席を確保し新幹線の中で『小鯵 押寿司』を昼食代わりに。1903(明治36)年に国府津駅で誕生した伝統の駅弁。一口サイズのアジ押寿司が8個と、しそ巻き寿司が2個。ミニボトル入りの醤油と袋入りの甘酢生姜が添付されていた。富士川を渡る。大井川を渡る。天竜川を渡る。浜名湖を通過。浜名湖と東海道本線。スズキ 湖西工場と風力発電。豊川放水路を渡る。豊橋―三河安城間の昭和電線ケーブルシステムのCVタワーと御津風力発電所が遠く左手に。高 さ: 70m 定 格: 1670kW 。空にはうろこ雲が。秋の雲が上空一面に。矢作川を渡る。苅込前の稲田が拡がる。名古屋市内に。そして名古屋駅に到着。乗ってきた新幹線をズームで追う。そして、この日は途中下車し、『名古屋城 本丸御殿』に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2018.10.09
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再び久しぶりに仕事の支援で三重県の津に行って来ました。雄大な君ケ野ダムを通り過ぎ、ひたすらカーブの多い山道を道なりに進み、途中の川沿いの橋の袂にある広場の多くのかかし(案山子)に再会。『ようこそ下之川 交通安全 篠ヶ広 明日のかかし村』の大きな看板が。『夢ひろば』の文字の横で案山子のお嬢さんが花束を持って。前回訪ねた時は、確か黒い帽子にオレンジ色のジャケットを羽織ったオジサンいやお兄さんが座っていた記憶が。同僚の話によると、最近は台風等雨が多いため、案山子はビニールカッパに全て覆われているのだと。『八手俣川(はてまたがわ)の恵』と。清流・八手俣川が流れる津市美杉町の下之川は、静かで自然豊かな里山。前回は多くの牛の姿が見えましたがあの牛たちは何処に?前回、この案山子達を我がブログにアップしたところ、この部落の方から書き込みが。『住民総出で案山子を作り始めて1周年、9月24日が村の創立記念日です。 それを祝って9月23日24日にお祝いを兼ねて、「サロンおいその集い」の メンバーで案山子のリニューアルと何人かの可愛い案山子を作ります。 時間があったら一緒に案山子を作りませんか?』と。今回は、この里山で働く人々の姿と、元気に遊ぶ子供達の姿にリニューアルされた模様。テーブルで一休みするオバチャンもビニール袋を被って雨に耐えていました。こちらのオバチャンは、カッパも傘もささずにどっしりと。自転車で遊ぶ子供。残念ながら可愛い顔の表情は見られませんでした。こちらにも子供の姿が。そして可愛らしい足踏み自動車も。滑り台に上がる子供。そして滑り出す子供。農作業をするオバチャンの姿でしょうか??こちらは、腰が曲がりながら一輪車を一生懸命押して。こちらはエンジン式の草刈り機で雑草の除去中。残念ながら、多くの案山子がビニールを頭から被っていたために顔の表情が見えませんでした。そして近くの山には白き雲がモクモクと上って来ていました。今度訪ねるときには、素顔の見える案山子達に御対面できることを楽しみにして、この場を離れたのでした。
2018.10.08
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先日のNHKテレビ・サイエンスZEROの番組「不思議な図形で脳のナゾに迫る!」を視ました。多くのテレビ画面を撮影し、アップさせて頂きました。『描かれた物の大きさが違って見えたり、絵が動いて見えるなど、不思議な感覚をもたらす錯覚図形。この図形を人工知能に使うことで、脳の仕組みを解析しようという研究が進んでいる。直接、私たちの脳で調べられない脳の仕組みを、人工知能を通して理解しようという試みだ。動いて見える錯覚図形を人工知能に入力したところ、コンピューターもそれを動いているものと認識、錯覚を再現した。不思議な図形を使った最新の脳科学に迫る。』という興味はあったが難しい内容。図形を人工知能に使うことで、脳の仕組みを解析しようという研究内容の紹介番組でしたがやや私には難しく十分理解出来ませんでした。しかしいろいろな図形の、目そして脳の錯覚については面白かったのでここで紹介させて頂きます。マサチューセッツ工科大学のエドワード・エーデルソン教授が考え出した「チェッカーシャドウ錯視」。2個の青の矢印の部分は同じ色であると。上部の濃い灰色と同じサンプルを。右側の矢印部分に移すと同じ色。よって2つの矢印部分は同じ色。周囲の色が違うことで明るさが違って見えてしまうのだと。次はこちら。これはエビングハウス錯視と名づけられています。真ん中の円はどちらが大きいでしょう。左の方が大きく見えますが、正解は同じです。見える大きさが周囲の大きさに影響されてしまうのだと。文字Fが傾いて見えますが・・・。垂直線を引くと。文字Eも同様。渦巻きに見えますが・・・。実は同心円の集まり。下の図では黒いヒモと白いヒモをねじった紙縒(こよ)りのようなもの(ねじれヒモ)を円にして同心円に配列しているのですが、それらがゆがんで見えます。ねじれヒモは、ねじり方が違うと渦巻いて見えたり、ゆがんで見えたりするのだと。知覚心理学者、北岡明佳氏が制作した錯覚デザイン。幾何学模様のカラーパターンが回っています。青の模様が膨らんで行くように見える。上の方がどうしても長くみえてしまう画像。あり得ない形状。下図の長い直線も全て平行なのですが、それぞれが交互に傾いて見える。(ツェルナー錯視)灰色の斜線は水平に配列されているが、上から左・右・左・右・左・右に傾いて見える。円が上下左右の4点で圧迫されているように見える。中心へと伸びる線がグニャグニャ歪んでいるように見えるが、実はすべて直線。これはカフェウォール錯視というもので、傾きを判断する脳のメカニズムが、明るい色と暗い色によってかく乱されているためこのように見えるのだと。顔を画面に近づけたり遠ざけたりしてみてください。輪が回っている、そしてその方向は?両方ともハートの色は赤。下の絵の画面を上下すると黄色の棒が動いて見えます。中の正方形領域が動いて見えるのです。4個の円盤がそれぞれ回転している様に見える。まばたき、サッカード(目を動かすこと)、フリッカー(図を出したり消したりすること)によって、リングが回転して見える。波打って見える。眼を近づけて視ると動いているように見える静止画。真ん中が浮き上がって見えます。白い円の中に黒い点が見える。リチャード・ラッセルが考案したこの画像では、左は女性、右は男性に見える。だが、どちらも同じ顔で、色の明暗だけが違う。原因は皮膚の明暗が顔のコントラストを変化させる、すなわち最も暗い部分(唇と目)と最も明るい部分(皮膚)の違いの度合いに影響を与えると。アンソニー・ノーシア(Anthony Norcia)が考案したもの。長方形の模様が並んだドアパネルのように見える。が、しばらくすると16個の円が浮かび上がってくるのだ。そして最後に、サッカーでオフサイドの誤審が起こる原因として指摘されている『フラッシュラグ効果』。運動する光点の真下の位置で別の光点を一瞬点灯すると、実際には二つの光点が同じ垂直位置にあるにもかかわらず、運動する光点が運動方向に若干ずれた位置に知覚される現象。網膜に刺激が与えられてから知覚が成立するまでに約100ミリ秒の遅れがあるために起こる錯覚であると。説明用の動画がネットにありましたので、リンクさせて頂きます。同じ位置にあるにもかかわらず、動いている方が先に出ているように見えるのです。すなわち、これがオフサイドの誤審の原因であると。【https://www.youtube.com/watch?v=KJS4e0fr_Yg】まだまだ、色々な錯覚があるとのことですが、興味のある方は 立命館大学の『北岡明佳の錯視のページ』がありますのでアクセスしてみてください。
2018.10.07
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関東三大彼岸花の名所は日向薬師・彼岸花の里、日高・巾着田 、 幸手・曼珠沙華祭り とのことで、2つを制覇した後は、〆に幸手・曼珠沙華祭りの制覇に向かう。15号線を川越方面に向かい初めて直ぐにあった『麺や 一香』て昼食を。『こってり野菜中華そば』を注文。 具は キャベツ モヤシ ニンジン タマネギ ニラ 挽肉 そして埼玉県道3号さいたま栗橋線を利用し幸手に向かう。目的地の『権現堂公園』の案内板が見えて来た。そして無料駐車場に到着し散策開始。午后からの訪問なので渋滞を覚悟したが、スムーズに到着出来た。『第13回幸手 曼珠沙華まつり』のポスター。2018年9月8日(土)から10月1日(月)までの期間、埼玉県幸手市の権現堂堤(ごんげんどうつつみ)・県営権現堂公園で「第13回 曼珠沙華まつり(まんじゅしゃげまつり)」が行われていたのです。権現堂堤が曼珠沙華のじゅうたんで赤く染まっていた。『曼珠沙華まつり』は毎年9月中旬から10月上旬にかけて権現堂公園を会場に開催。桜だけではなく四季折々の花をと思い、平成12年より、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)を植栽したのだと。秋の訪れとともに土手一面に咲く曼珠沙華は、市民ボランティアの方たちが大切に育て、現在では約350万本にまで増えていると。緑の中に赤く咲く真っ赤な曼珠沙華は、まさに癒しの空間。幸手市のこの権現堂堤は、春は桜と菜の花が咲き、梅雨の季節には紫陽花、冬には水仙といった、四季折々の花が咲き誇ると。そして秋には、約350万本の曼珠沙華・彼岸花が見頃を迎え、権現堂堤の斜面に赤い絨毯が広がっていた。こちらも、巾着田と同様に、所々に白の彼岸花がアクセントに。2018年曼珠沙華まつりの日程は、9月8日(土)~10月1日(月)。毎年のように増えている彼岸花の咲いていた場所は、土手の斜面と堤の上の中央通り沿い。9月中旬~10月上旬に満開見頃になるよう、寒い時期から手塩にかけて育てているのだと。保存会の皆さんの努力により、彼岸花の本数は年々増加中。2000年は500本だった彼岸花が2017年から2018年には350万本に増えたと。権現堂堤は土手のため散策しやすいように丸太の階段を作ったり、滑って転びそうな所にはロープが張られていた。関東三大彼岸花の一つであるが、ここ幸手の彼岸花が一番色鮮やかに感じたのであった。彼岸花の英語名は何と言うのかネットで調べてみました。するとcluster‐amaryllis(クラスター・アマリリス)red spider lily (レッド・スパイダー・リリー)hurricane lily(ハリケーン・リリー)の3種類があるようです。「クラスター・アマリリス」は日本語に直訳すると「集団(群れ)のアマリリス」。彼岸花をよく見てみると、1本の茎の中に複数の花が咲いているのです。この姿が彼岸花の仲間のアマリリスが集団になっているように見えたことが「クラスター・アマリリス」の由来だと。レッド・スパイダー・リリーは直訳で「赤いクモのユリ」という意味。彼岸花をよく見てみると確かにクモに似ているのです。外国の方々が彼岸花を赤いクモに見えたから「レッド・スパイダー・リリー」と呼ばれる由来だと。ハリケーン・リリー」は直訳で「台風のユリ」という意味、これはおそらく彼岸花が咲く時期の9月は台風が訪れる季節から。台風が訪れる時期に咲く花として「ハリケーン・リリー」『権現堂堤トリムコース 案内図』往復で約1700mであると。桜並木の下の彼岸花の真っ赤な絨毯。権現堂堤に建つ明治天皇行幸堤の碑を背景に。県道267号線まで散策しUターンして反対側の堤防下を歩く。たくさんのコスプレ&撮影の若者達の姿が。鑑賞の仕方は、土手の上を歩いて眺める方法と、土手の下にある道から斜面の彼岸花見上げる方法が。行きは下から帰りは上からといった感じで両方試してみるのも良いですが、やはり土手の下から見た方が綺麗だと感じたのであった。巾着田の曼珠沙華まつりとは異なり、彼岸花が斜面に咲いているのです。そのため、立体感があって圧倒されるような美しさが。この辺はこれから年々球根が増える場所でしょうか。これぞ赤の絨毯。はるか遠くまで、途切れることなく彼岸花が群生。彼岸花は約1キロ、片道20分ほどの距離を咲いていたのであった。思いの外人の数は少なく、この様な場所を散歩できて最高の気分。土手の上ではジョギングをしている人を見かけ、人それぞれ異なるやり方で彼岸花を楽しんでいるのでした。白も存在感を多いに主張。休憩所のすぐ近くには「峠の茶屋」という食事処が。権現堂堤には食事ができる店がここしかないので比較的混んでいたのでソフトクリームは諦めたのであった。彼岸花の案内板。巾着田はクヌギの木、幸手曼珠沙華まつりは桜の木がアクセントに。アクセントの桜の木にズームして、今年の『彼岸花の赤のカオス』巡りは終わったのであった。そいて帰路も幸手ICから圏央道を利用。茅ヶ崎方面に。天候は回復し、一面の青空が。そして久しぶりの夕陽が顔を出したが、富士山の姿は見えず。そして寒川南ICで圏央道を下り、Sさんのご自宅に戻ったのであった。 ・・・聖天院(しょうでんいん)を訪ねる ・・・に戻る ・・・END・・・
2018.10.06
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高麗神社の後には聖天院を訪ねました。聖天院は、日高市にある真言宗智山派の寺院。武蔵野三十三観音霊場二十六番札所。高麗王若光の菩提寺として創建された。寺号は若光が高句麗より持参した歓喜天を本尊とすることから名付けられたと。1345年に法相宗から真言宗に改宗。天正18年に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592年)、寺領として高麗郷内に15石を寄進されたと。この境内にも将軍標が。山の斜面を利用して建てられている聖天院。『聖天院の由来』の説明板にはハングル語が。『高麗山聖天院勝楽寺』説明板。『真言宗智山派寺院の聖天院は、高麗山勝楽寺と号します。当地を開拓して亡くなった高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が751年(天平勝宝3年)創建、高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられます。その後僧秀海が法相宗から真言宗に改めて中興、江戸時代には54ヶ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していました。文応2年(1261)銘の銅鐘や鰐口など数多くの文化財を所蔵しています。』『高麗山聖天院の由来と文化財』説明板。聖天院 境内全景図。「高麗山聖天院勝楽寺」の山門(風神雷神門)。風神像(右手)。雷神像(左)。雷門と書かれた巨大な提灯。見事な龍の彫り物。本堂方面に向かう急な階段。階段の上にあるのが『中門』。階段下から先は拝観料が発生する「ここより有料」とあちこちに書かれていた。階段下には左右に石仏群が。山門(風神雷神門)を内側から。この日は時間の関係上、本堂を訪ねることは諦めた。急な階段を登る手前右側に「高麗王廟」が。多重塔の墓。社の中に高さ2・3mの石塔。登山道などでよく見かけるケルン(積み石)のように墓石の上に5石の石を積み上げた多宝塔だ。日本では見られない、高句麗ならではの墓標か。かつては墓標の下部に4体の仏が彫られていたというが、石の質が柔らかいものであったために、今ではそれらは判別できないのだと。「高麗王廟」の横には池のある和風庭園が。『高麗殿の池』と。山の中腹にある本堂をズームで。『聖天院』と書かれた扁額も確認出来た。再び山門(風神雷神門)を見る。山門と本堂を再び。 ・・・高麗神社(こまじんじゃ)を訪ねる・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.05
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高麗郷古民家・旧新井家住宅を後にし近くにある高麗神社に向かう。一ノ鳥居と社号標。扁額には「大宮大明神」と書かれていた。扁額「大宮大明神」は熊谷宿の野口雪江筆によるもので、寛政5年(1793年)作成の額の損傷が激しいので複製を掲示していると。「大宮」は地域の重要な神社に使用が許された称号なのだと。無料駐車場に車を駐め、散策開始。前方左手に二ノ鳥居が見えた。入口付近の敷地には、2005年10月23日に在日本大韓民国民団(民団)から寄贈された花崗岩製の将軍標(しょうぐんひょう)がある。将軍標(韓国語:장군표、チャングンピョ)とは、北朝鮮・韓国の村落に見られる魔除けのための境界標。かつての朝鮮半島では、疾病や災難をもたらす鬼神信仰があり、その魔除けのための木製標を村落の入り口に設置していたと。異形相の人面の下に漢字が刻まれた木柱がバラバラに設置されていたが、現在の日本国内に設置されているものは天下大将軍・地下女将軍と刻まれ、男女の標が対になったものとなっているのだと。ここのものは、1992年に設置された木製のものが破損し腐食したことから再寄贈されたものであるとのこと。二の鳥居に向かって進む。扁額『高麗神社』は59代宮司の高麗澄雄氏によるもので、歴代宮司は御祭神である高麗王若光の子孫が勤めているのだと。『高麗群建郡千三百年高麗王若光記念碑 解説』続日本紀によれば、今から1200年前高句麗滅亡によって日本に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国に住む高句麗人1799人を716年に武蔵国に移し、高麗郡を置いた。現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、1889まで高麗郡であった。「高麗王若光」は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに統治能力をきわめていた。勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年に建立したと。ざっと以下のことが書かれていると。【http://komagun.jp/2016/0504/4406】より『1、従五位下の高麗若光に「王」の姓を賜う ⇒ 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の誕生 2、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国から高麗人1799人を 武蔵野国へ遷し高麗郡を置いた ⇒ 高麗郡の誕生 これは、1300年前の716年(霊亀2年)に高麗郡が誕生したまさにそのことが書かれており、 これがこの地の歴史的始まりを意味しています。そして、100年後の建郡1400年、 いやもっともっと未来の人たちへとこの地の歴史を語り続けていってくれることでしょう。』 そして裏面には「この郡を開拓した先人の遺徳と悠久の歴史に思いを馳せ、未来永劫、 この地と東アジアの発展と平和を祈念する」といった石碑建立の趣旨と会員約200人の 名前が刻まれていると。神域俯瞰図。神社の経緯から英語・中国語の他ハングルでも記載されていました。高麗神社 案内板。ウィキペディアによると『668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させた。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっている。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されている(新編『埼玉県史』)。』手水舎にてお浄め。手を洗うばかりでなく『心』も洗えと。郷土の木 クスノキ(楠)も奉木されていた。二の鳥居近くに立つ樹高20m、幹周4mのこの楠(クスノキ)は、「日高の古木・名木をたずねて」に選定されているのだと。巨大な石灯籠。狛犬(左)。狛犬(右)。祓所(はらえど)。拝殿への階段。御神門(ごしんもん)。扁額「高句麗神社」は明治33年当神社を訪れた朝鮮王朝貴族の趙重応の筆だと。御祭神の故国「高句麗」国と後に興った「高麗」国を区別するため、高麗の間に「句」文字が小さく入れているのだと。拝殿。祭神は高麗王若光、武内宿禰命、猿田彦命(こまのこきしじゃっこう、たけのうちのすくねのみこと、さるたひこのみこと)。拝殿内部へのガラスの扉は閉められていた。『高麗神社』と書かれた扁額がここにも。社務所入口。社務所内部。御朱印を頂きました。9月の花、秋明菊(しゅうめいぎく)の印が押されていました。『祝奉 天皇陛下御在位三十年』と記された幕。2017年9月20日・21日に、今上天皇、皇后が、在位中8度目の私的旅行として日高市や深谷市の渋沢栄一記念館に行幸啓し、その際にここ高麗神社にも親拝されたと。『行幸啓(ぎょうこうけい)』とは、天皇・皇后がご一緒に外出されることであると。恥ずかしながら、初めて知った言葉でした。宮内庁のホームページを訪ねてみるとこんなページが。『お出ましに関する用語』行幸(ぎょうこう):天皇が外出されること。還幸(かんこう):天皇が行幸先からお帰りになること。行幸啓(ぎょうこうけい):天皇・皇后がご一緒に外出されること。還幸啓(かんこうけい):天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。行啓(ぎょうけい):皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。還啓(かんけい):皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。お成り(おなり):天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出されること。ご帰還(ごきかん):天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方がお成り先から お帰りになること。いろいろと勉強になります。天皇の親拝は創建以来初めてで、韓国でも大々的に報じられたと。ほかに高麗家住宅・巾着田も視察されたのです。拝殿の裏には『高麗家住宅』が。手前には樹齢400年(推定)のシダレザクラが。住宅内部間取りは5室と土間で構成されていた。この日は11時から『高麗家住宅』で狂言が演じられると。整理券を配っていたので頂き20分ほど開演まで待機。『高麗家住宅』の裏手には「幽栖門(ゆうせいもん)」が。もとは「高麗家」の庭園だったらしいのだが、現在は建屋と別々に保存されていると。 庭園をのぞいてみると、裏山への細道が続いているのが見えたのであった。『高麗家住宅』に入ると土間が。そしてその奥に竈が置かれていた。部屋の内部には狂言の観賞者用に座布団が並べられていた。家の柱が真っ黒なのは、火を炊く場所は、かまどや囲炉裏で、燃料は材木や炭でありその煙で煤けて来る。それが黒い原因であるのだ。この家の構造上の大きな特徴は、大黒柱がない事と。大黒柱は江戸の元禄期より後に普及してくるということで、それ以前であることの証明になるのだと。『高麗家住宅』の間取り図を案内板より。天井裏にに梯子をかけて上ることが出来るのだと。大人が数人作業でき、養蚕をしていたと。川越から西のこの地域は養蚕地帯だったのだと。天井裏だけで間に合わなくなると、座敷、生活する場所を削って蚕を育てていたのだと。昔の方は、蚕のことを「お蚕さん」、「お子様」と呼んでとても大切にしていたと。嘗ての我が実家も縁側の隅に階段があり、天井裏では「お蚕さん」を飼っていたと祖母から聞いたことを想い出したのであった。そして11時から和泉流狂言師2名による狂言『清水』が『おもてざしき』で披露された。あらすじは、演者の事前説明もあったが『主人から、茶会で使う水を野中の清水へ汲みに行くように命じられた家来の太郎冠者は、面倒なので、七つ[午後4時]過ぎると、あのあたりは鬼が出るから嫌だと断ったが、主人は承知せず家宝の桶を持たせて追い出した。太郎冠者が鬼に襲われたふりをして帰ってくると、主人は家宝の桶を惜しみ、みずから清水へ行くといいだした。先回りした冠者が鬼の面をかぶって脅すと、主人は命乞いをして逃げ出したが、冠者に都合のいい事ばかり言う鬼の言葉や、冠者そっくりの鬼の声など不審な点が多いので、もう一度清水へ確かめに行ったのだ。冠者はもう一度鬼に扮して脅すものの、今度は鬼の面も外され正体を見破られ、主人に追われて逃げて行ってしまった。』と。そして鬼に化けるのに用いていた面は、ぎょろっとした目に大きい鼻、歯をむき出しにしたいかめしい顔つきでしたが、どこか愛嬌があったのです。狂言の実演時の撮影は禁止されていたのでした。帰路の左側には、古き朝鮮のレプリカ衣装?がレンタルできるブースも。高句麗壁画から再現した美しい古代衣装であるとのこと。多くのレンタル衣装が並んでいた。奈良時代に高句麗(こうくり)からの渡来人が絹織物の技術をもたらしたとも。『斎館(さいかん)』。斎館とは神職などが神事に携わる前に心身を清めるためにこもる建物。 ・・・高麗郷古民家 (こまごうこみんか)・旧新井家住宅を訪ねる・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.04
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巾着田曼珠沙華公園を県道15号線を挟んで向かい側に一際目立つ古民家、旧新井家住宅を訪ねる。高麗川沿いの通路を通り、県道15号線の下を潜り旧新井家住宅に向かう。道沿いに築かれた長い石垣積みが目を引く存在。坂道を上る。坂道の左手には彼岸花が雨に濡れて。石垣には濃いピンクの萩の花が覆っていた。敷地内には母屋と客殿を中心に、納屋、ふたつの土蔵、築地塀、石垣、井戸などの付属屋が建てられていた。旧新井家住宅 間取り図。客殿。木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、平成10年に瓦を葺き替えたと。梁行(けたゆき)12.8m、梁間(はりま)5.5m。建築年代は新井家に残る古文書と建築様式から明治39年に建築されたと。1階中央に式台を設け、屋根は伝統的な式台や車寄せに見られる向唐破風(むこうからはふ)で、彫り物を配して格式高い構えを造っているのだと。南側には客間を設けて、床(とこ)、違棚、付書院の座敷装飾を施している。本格的な書院造りを意識した造作となっていると。母屋(もや)。木造の入母屋造(いりもやづくり)の2階建で、平成5年に茅葺きから瓦葺きにこちらも改修。桁行(けたゆき)23.2m、梁間(はりま)8.2m。旧新井家住宅は巾着田を望む小高い場所に位置していた。高麗川の流れの奥に巾着田の一面の赤が。『登録有形文化財』の銘板。手前が『出居(でい)』とその先が『奥』。平安時代、寝殿造りに設けられた居間と来客接待用の部屋とを兼ねたもの。のち、客間をいうのだと。出居の床の間に掛けられた書。『扶桑正是秋光好 枫叶如丹照嫩寒 却折垂杨送归客 心随东棹忆华年』調べてみると、魯迅の詩であるようだ。『扶桑は正にこれ秋光好し、楓葉は丹の如く嫩寒に照る。 却て垂楊を折り帰客を送る、心は東掉に随って華年を憶う。』日本の風光をしのび、東へ帰る友を見るにつけても、自分の日本での若かりし日のことを憶う、というもののようだ。式台構え(痕跡)と納戸。手前の『座敷』と奥の『茶の間』。旧住宅の中に入る。土間からの『座敷』。平成29年9月20日に天皇皇后両陛下が、私的旅行の旅行先として日高市を訪れ、高麗神社を参拝された後、曼珠沙華が咲き誇る巾着田を散策されたのだと。囲炉裏端。土間の隅にあった焼き物の水桶。風呂場。竈(かまど)。裏にあった井戸。土間の天井には燕の巣が。南土蔵には井上家の家紋が。土蔵内部では写真展が。巾着田の写真も。辺り一面に金木犀の香りが。オレンジ色の花びらと濃い緑色の葉っぱのコントラストは鮮やかで印象的。納屋。 ・・・巾着田(きんちゃくだ)の彼岸花へ(その2)・・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.10.03
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更に巾着田の散策を続ける。この辺は密度が比較的小さかった。廻りの彼岸花と背比べ中か?1本だけニョッキリと。ここにも白が孤独に。クヌギやニセアカシアの樹木とのコントラストも最高。赤い炎が河川敷を覆い尽くすが如くに。朽ちた古木もアクセントに。これ以上、私の貧しい辞書には彼岸花を形容する言葉は持ちあわせません。今年の巾着田曼珠沙華ポスターも真っ赤っか。広場の横にあったログトイレ。ログトイレの壁は写真館の如し。出店も賑わって来ていた。狭山茶 詰め放題の出店。『ようこそ 遠足の聖地 日高へ』のポスター。昨年・平成29年4月8日に日高市は『遠足の聖地』を宣言したのだと。日高市のホームページには『日高市の巾着田を中心とした高麗郷一帯に、より多くの皆様に訪れていただけるよう PRしていくため、「遠足の聖地プロジェクト」をスタートしました。 第1弾として巾着田菜の花まつりにおいて「遠足の聖地」を宣言しました。 さらに多くの皆様に日高市を訪れていただけるよう、整備・PRをしていきます。』と。ポスターには、中央に巾着田、左に高麗川そして右にはこの後訪ねた高麗神社、聖天院の写真が。右上には日高市のマスコットキャラクターの男の子「くりっかー」、女の子「くりっぴー」が。「くりっかー」と「くりっぴー」のデザインは、日高市の鳥「カワセミ」をモチーフに、特産品の「栗(くり)」の形をした体、頭には「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」の花をあしらったものであると。下流に向かって引き返しながら赤い絨毯を楽しむ。先日も書きましたが彼岸花には毒があると聞いています。彼岸花の球根の中にはリコリンという有毒成分が入っているのだと。分析してみると、球根一つに15mgのリコリンが入っており、ネズミだと1500匹の致死量に相当するというのです。実は彼岸花は、動物や虫から球根を守るため有毒成分を持つようになったと。彼岸花を探してみると、ここ巾着田の如くなぜか川の堤や田んぼのあぜ道に植えられている事が多いのです。その理由はなんとネズミやモグラよけになるからだと。墓場にヒガンバナが多いのも、昔の土葬の時代には、異臭や有毒性を利用して遺体を動物から守るためだと。彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味もあると。その一方で、彼岸花の球根にはデンプンが含まれ、水にさらして食用となり、昔は飢饉(ききん)に備えて田んぼのあぜ道に植えたとも。昔(明治から昭和初期)は、このデンプンを製造する会社もあったとのこと。食用とするには、すりつぶし、充分に水でさらして毒抜きをすることが肝心であると。ネット情報では「7回ほど水洗いして除けば食用となる」と。どなたか食べた経験のある方はいらっしゃいますか?再び濡れた彼岸花の花を追う。そして下流部の出口付近まで戻る。あいあい橋を渡るには外に出てから。木造トラス構造の美しい橋。開花も終盤の花は白い縁取りが。今年の巾着田の彼岸花ともお別れ。炎のカオスの世界が拡がっていたのであった。彼岸花の茎にも水滴が。そして駐車場に戻る途中には酔芙蓉の花は、酔いが回ってピンク一色に。美しく酔いが回り出来上がった姿に。そして駐車場に入る車の大渋滞を横目に、次の高麗神社に向かったのであった。 ・・・巾着田の彼岸花へ(その1) ・・・へ戻る ・・・つづく・・・
2018.10.02
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この日(9月22日)は今年の彼岸花観賞の〆に埼玉県日高市にある『巾着田』そして幸手の曼珠沙華祭りに旅友Sさんと向かいました。いつものように早朝6時にSさん宅を車で出発し寒川南ICから圏央道を利用。海老名南JCTを直進し圏央道を進む。途中、八王子JCT手前から中央自動車道に入る車輌の渋滞に巻き込まれるが何とか通過。そしてひたすら圏央道を走り、『狭山日高IC』で下り一般道へ。県道262号線を走ると、巾着田まで3.2kmとの表示板が。そして巾着田駐車場に到着。時間は7:48。『巾着田曼珠沙華公園 散策マップ』。今年も9月15日から9月30日まで日高市巾着田曼珠沙華公園にて曼珠沙華まつりが開催中。所狭しと咲き乱れる500万本の曼珠沙華の姿は壮観そのものであると。日高市内を流れる清流、高麗川(こまがわ)の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることから、巾着田(きんちゃくだ)と。直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地に拡がる曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようであると。毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れるのだと。有料駐車場(500円)に車を駐め散策を開始。駐車場入口の黄花コスモスそして彼岸花が迎えてくれた。そして巾着田の赤い絨毯が始まる。祭りの期間中はカメラの三脚等の使用は禁止と。ネット情報では9時からの入場とあったが、幸い8時前から入場可能であった。群生地への入り口は5箇所あるようであった。入園料は300円。当日の出入りは、チケットがあれば可能ここは下流側の末端の入口。500万本の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲き誇る、日本最大級の群生地。この日は花の最盛期、なるほど、まるで赤いじゅうたんを敷き詰めたような光景が一面に拡がっていた。まだ蕾が多い場所も。これぞ日本一のヒガンバナ群生地。地元では川原田と呼ばれている場所と。8世紀にこの付近に移り住んだ高句麗からの渡来人が、大きく湾曲した高麗川を利用してこの地を開墾して田を作り、稲作を伝えたと言われていると。昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模な曼珠沙華の群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなったのがはじまりと。雨に濡れた真っ赤な彼岸花にこの日もズームイン。高麗川のせせらぎに囲まれるかたちで、赤い曼珠沙華が群生している花スポットとして有名。蕾も開花の準備中。は、巾着田の高麗川に架かる歩行者専用橋で、1996年(平成8年)3月には日本一の木製トラス橋が完成。全長91.2メートルで、同年11月には「彩の国さいたま景観賞」を受賞していると。上流側から散策すると2kmにも及んだ散策路の終端がこの『あいあい橋』。球根からアスパラガスのような芽が伸びてくれば、1週間程度で深紅の花を咲かせ、個々の花は5日程度美しさを保つのだと。『あいあい橋』をバックに。『あいあい橋』は日高市の市民憲章に唱われている「いこいある緑と清流を愛します」の”愛”と、「笑顔あるふれあいの輪を広げます」の”あい”に由来していると。『あいあい橋』を見上げる。高麗川には釣り人の姿も。午前中の陽光が差し込むタイミングを狙い、曼珠沙華が光に溶け込んで見えるような構図で撮影すると柔らかい雰囲気の写真が撮れるとのことだが、この時間には日射しは未だ・・・。巾着田の周囲を流れる高麗川と同じようにぐるりと、ヒガンバナ畑の中には数え切れないぐらいクヌギの木が。花に宿る水滴をズームで。しかしなかなか・・・・・・。赤と緑の織成すコントラストで不思議な雰囲気の景色が延々と。すっと伸びた茎から、まず花だけが咲く不思議さ。白の花も存在感を。この様な景色が続く広い群生地。『巾着田河原の保全に関する要綱』この要綱は、巾着田河原の利用に関し、景勝の保全を図るとともに、訪れる人々が自然に親しみ、子どもたちが遊びながら自然環境を学ぶことができる水辺環境を整え、ひいては市の観光振興に資することを目的としていると。巾着田河原での直火によるバーベキューや、巾着田河原への自動車の乗り入れを禁止(4月から10月)していると。途中の広場には多くの食べ物のテント売店が。まだ早朝の為か人の数も比較的少なかった。そして更に上流側に向かって進む。クヌギの木が赤い絨毯の中でアクセントに。再び水滴を。こちらは、年々球根が増えて真っ赤な絨毯が生まれていくのであろう。通路も上手く彼岸花の群生地の周りにあるので、わりと人が入らない写真を素人でも撮りやすいのであった。木漏れ日の下の曼珠沙華も撮りたいと欲張って待ったが・・・・。そして旅友のSさんと彼岸花に宿る水滴に拘り・・・・・。帰宅して写真を見てみると・・・。いろいろ撮影モードを変えて見ましたが。フラッシュも利用して。やはり、かなり遠くからズームで狙うのが我がデジカメではBETTERと。しかし水滴に彼岸花の姿や風景を納めるのは我がデジカメでは??やはり一眼レフカメラやマクロレンズが必須で、更に映り込む時間が重要か? ・・・つづく・・・
2018.10.01
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