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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
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巌不動尊を後にし、江の島道を更に南に進むと、妻の母校片瀬小学校が左手に。

その先の敷地の一角に庚申塔が左右に2体と、その間に恐らく双体道祖神と
思われる石碑が1体、そしてその後ろに説明札が竹垣に囲まれた中に安置されていた。

右から「元禄六年(1693年) 庚申供養塔。」
六腑合掌青面金剛+三猿 舟形光背碑。

真中は「年銘欠・道祖神塔」。

左は「文化二年(1805年) 庚申供養塔」。
合掌青面金剛+三猿 笠塔婆石塔。

そして近くには「江の島弁財天道標」が。
この道標は江の島弁財天を深く信仰した江戸時代の鍼医杉山検校が八王子から
随所に立て、藤沢から江の島道には一丁目(約109m)毎に立てたうちの現存する一基。
向かって左側面には「一世安楽」(道標は「一」の字の上にもう一本横棒が
彫られ「二」になってしまっていた)。
正面「ゑのし満道」。

泉蔵寺(せんぞうじ)の入口にある石碑には「戦勝開運 弘法大師」と彫られていた。
戦勝とは何の戦い?

泉蔵寺の門前、道に面した所には、6体の庚申塔と1体の馬頭観音が祀られていた。

泉蔵寺山門。
山門の柱に高野山片瀬山真言宗大聖院泉蔵寺と大書した木札が掛かっていた。
北条泰時が開祖と伝えられている寺。

本堂。本尊は不動明王。
屋根には後北条氏の家紋が。

弘法大師像。

水子子育地蔵尊。

本堂裏の山の斜面は、片瀬小学校のグランドを臨むように
墓地が大きく拡がっていた。
江の島の海と富士山が眺められる墓地ではあるが、グランドの子ども達は、
この緑なきこの斜面の光景をどの様に感じているのであろうか。

諏訪神社まで歩を進める。
諏訪神社社号標の石柱と石の大鳥居。

諏訪神社 大鳥居扁額。
昭和15年建立 一の鳥居 御影石製社号額。

石灯籠、二の鳥居前から。

二の鳥居前から拝殿が見えた。

巨大なひのえ申の絵馬。

手水舎。

片瀬諏訪神社下社拝殿。
由緒書きによると、創建は養老七年(723)信濃国諏訪大社を勧請したのがはじまり。
かつて、このあたりには大きな湖があり、それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地に
良く似ていることからこの地が選ばれたのだと。
諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは
信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とこの片瀬の諏訪神社のみであると。

社務所。

そして諏訪神社へ案内に従って進むが判りにくかったのであったが。

諏訪神社上社は、江の島道沿いに建っていた。
急な長い階段を上る。

石段を上り詰めた場所にある片瀬諏訪神社上社の社殿。
上社の御祭神は,諏訪大社上社の祭神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)。
この日は柵があって、境内には入れなかった。

社殿手前左側の狛犬の後ろには石碑が。

表面には震災記念碑と刻まれていた。

背面には
・大正12年(1923年)9月1日11時58分 未曾有の大震(関東大震災)があった。
・天皇より1千万円をいただいた。
・神社も拝殿や御神輿などが倒壊したので直ちに修理した。
・大正13年1月5日には大きな余震があり、破損個所を再び修理した。
・氏子の被害も大きく、家屋の全壊、半壊、全焼、流出多く、負傷者52名
そして33名の死者を出した。
流出の文字には大津波の襲来もあったのでであろう。
・慰霊祭を行った。
・災害を後世に伝えるために記念碑を建立した。
・死亡者の氏名など。
ここ片瀬の街の惨状が刻まれていた。

諏訪神社上社からの江の島方面の展望。
マンションが邪魔をして江の島シーキャンドル (江の島展望灯台)は完全に隠れていた。

カメラの望遠で江の島の瑞心門、朱塗りの大鳥居が見えた。

江の島灯籠 2024へ(その7) 2024.08.30
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