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朝日新聞の今日の記事である。死刑反対であった、千葉法務大臣が死刑を執行した。死刑執行に考え方が変わったということだろう。彼女には、「どんなことがあっても命の尊厳は保障されねばならない」というような死刑制度絶対反対という主体が確立していなかったのだと思う。かつて法務大臣で、大谷派の僧侶がいた。彼は、信仰上の理由で死刑が出来ないといっていた。本来、死刑執行は法務大臣の職務である。死刑反対なら、法務大臣を受けずに、死刑制度の廃止に向けて活動すればよかったのだ。千葉法務大臣にしてもそうだ。死刑に代わる終身刑の導入を考える。万人の限りない更生、人間変革の可能性を信じたいがゆえに。終身刑は、それこそ、修道僧のような、厳しい修養が一生課せられるべきであろう。
2010.07.29
今日の朝日新聞、オピニオンの記事で感動した。44年前の袴田事件で、当時、裁判官の熊本さんは、犯人はシロと判断していたのに、多数決で犯人はクロで死刑が決まった。悩み抜いた末、辞職し、上級審でシロとなることに託した。しかし、最高裁でもクロであった。被告は再審請求し、今も獄中で戦っている。熊本さんは、罪の意識で酒におぼれ、家族との別れ、自殺の試みと自分を追い込んだ。3年前、思い切って、被告の死刑判決にいたる評議の秘密を公表。被告の第二次再審請求支援活動に加わった。被告はまだ獄中、自分は世間で生きているということの苦悩。評議の秘密を守るより、当時の不本意な出来事を公表し、被告を助けることが社会正義にかなうと考えたのだ。
2010.07.28
朝日新聞に6回シリーズで掲載された。自分の息子の脳死から、 『死を待っているだけではかわいそ過ぎるやん。 何ですべて灰にせなあかんのん。 息子を何とか残してやりたい』との母親の思い。息子もドナーカードで臓器提供を希望していたことがわかり、臓器移植に踏み切られた事実の報道。残された8才の子どもも父の臓器移植を受け入れた。二度の脳死判定があった。私は、自身、ドナーになることをためらっていた。なぜなら、脳死判定への不信、意識の復活、痛覚への疑問があったからである。二度の脳死判定で痛覚検査をすることがわかった。脳死となったとして、脳死判定も厳密で、意識も回復せず、痛覚もなく、やがて心臓死するのなら、ドナーになろうかと思っている。5回シリーズとも涙した。母は息子の臓器移植を詰問する身内に、「ほかの誰かを助けたいんやない。 この子を助けたいんや」との強い言葉。8歳の子は、無事移植が済み、父の心臓が誰かの体の中で動いていると言う報告を受け、作文を書いた。『とうちゃんのいしょくをうけた人はもうすぐたいいんします。ぼくはそれをきいてなみだがすこしでました。』と。悲喜こもごもの、なんともいえないいたいけな8歳の子よと思う。
2010.05.30
5月28日の朝日新聞ニュースから顔の傷の災害補償で、女性よりも男性のほうが軽くしてあった、しょうがい等級基準は法の下の平等に反するという違憲判断が京都地裁で下った。やはり評価すべき判決と思う。なんとなく、一般的に、女性の顔の傷のほうが男より大変だと思うが、しかし、一般論ではいけないだろう。男性だって、顔の傷でひどく痛む人もあるはずであり、しょうがい等級も補償も、男女平等であるのが妥当であろう。私自身、外形にこだわる悪弊を反省する。
2010.05.28
警察官との話である。彼は犯人を逮捕に行った。そのことを話すときの彼の言葉である。彼は、犯人を手錠と腰縄で新幹線で連行するとき、手錠が人目につかぬように手錠の上に衣類をかぶせてあげたといった。その犯人に衣類をかぶせてあげたといったその犯人への敬語に感動したのである。普通一般には、衣類をかぶせてやったという表現ではないかと思っていた。そう思った私の差別性を慙愧する。彼は、犯人にかぶせてあげたと言う敬語を使ったのだ。それこそ、罪を憎んで人を憎まずだ。彼に敬服した。
2010.05.26
朝日新聞「声」欄から犯人とされた石川一雄さんの47年の暗雲を晴らさねばと思う。これで再審無罪にしなければ47年前の事件犯人とされた石川一雄さんの無罪を早く決着させたい。石川さんどんなにか無念であったことか想像を絶する東京高検が22年ぶりに36点の証拠開示を行ったという今まで証拠開示、事実調べはなかったと言うなんということだったのかと思うこれも政権交代の効果か無罪のトップ記事の早からん事を期する
2010.05.25
民主党政権に変わった。鳩山首相は、世界に、日本の炭酸ガス90年度比25%削減という目標を掲げて訴え、世界から評価を受けた。炭酸ガスは世界の課題だ。もはや、国際時代である。日本にもたくさん外国人が来ている。元号は、日本だけの暦であり、しかも、天皇の死によって、明治とか大正、昭和、平成と突然年号が変わる。これは混乱でもある。年齢を計算するのに、元号ではややこしい。国際暦のほうが計算しやすい。すでに、国民主権の時代である。特権身分で、国税で保護され、選挙、居住、職業、信教の自由など市民的権利の不自由な皇室のためにも、天皇制は人権に悖る制度ではないか。民主党は、今までの自民党時代のような、元号一辺倒でなく、公文書でも国際暦を優先してもらいたい。元号は、日本の暦だというなら、天皇の死に関係なく、50年単位、100年単位で変えたらどうか。
2009.10.03
アウン・サン・スー・チーさん襲撃疑惑の翼賛組織のトップを外務省が招待したことに抗議 22日の朝日新聞記事に、ミャンマー(ビルマ)のアウン・サン・スー・チーさん襲撃疑惑の翼賛組織のトップを外務省が招待したとあった。この組織は、軍事政権の翼賛組織『連邦団結発展協会』(USDA) で、アメリカもEUも同協会幹部は制裁対象といい、入国ビザ発給禁止、資産凍結の対象という。このような人物を国税で招待したという。外務省、小野課長は、日本の農業視察という。アメリカも、EUもアウン・サン・スー・ちーさんの襲撃疑惑で制裁対象の人物を国税で招待することに不信感がある。日本の農業の情報提供なら、ビデオを送るだけで事足りると思う。
2009.08.23
19日朝日新聞社説の靖国神社に代わる追悼施設の記事について この社説に、『靖国神社に参る人々が、戦争で命を落とした兵士たちを追悼し、敬意を払いたいと思うのは自然な感情だ。』とあります。私は果たしてそうだろうかと思いました。私は、追悼するということはわかりますが、敬意を払いたいと思うのは自然な感情だというところに疑問を感じます。靖国神社に参る人々の中には、敬意を払うより、アジア侵略に駆り出されて、加害者になり、又戦死ということで、国家による被害者になられたという二重の悲惨をもたれる戦争犠牲者として、痛みわびる人々もかなりあるのではないかと思うのです。
2009.08.22
27日の朝日の社説に、なんと一日100種の生物が絶滅しているという記事があった。速度は過去の1000倍という。その原因は人間の仕業というもの。いずれその罪が降りかかって、人類の生存に危機が来るのでは。一茶の、「すずめの子、そこのけそこのけ、お馬が通る」とか、「やれ打つな、ハエが手をする足をする」といった、どんな生命にも命を共感する感性を失いたくないものだ。この感性こそ、戦争や差別を解放する鍵ではないか。
2009.07.27
7月8日、朝日新聞の記事に、アーミッシュのことがあった。アメリカ、カナダの、キリスト教の一派で自動車、電気を拒み、非暴力を貫く。2006年秋、アーミッシュの学校にアーミッシュでない男が襲い、女児5人を射殺し、5人の子に重傷を負わせ、犯人は自殺した事件があった。ところがその事件の夜から、何人かのアーミッシュが犯人の家族を訪ね、犯人を許すと伝え、犯人の葬儀には大勢のアーミッシュが参列した。アーミッシュの被害者の家族の何人かは、殺された娘の葬儀に犯人の家族を招き、数週間後には、加害者、被害者双方の家族が一堂に会して悲しみを分かち合ったという。犯人を、どう許すか?彼は、生まれながら、根っからの悪人では決してない。彼は、彼の生い立ちの中で、不遇にも、人間性が蝕まれたか、精神に混乱をきたしたか、罪を犯した。彼は、この冷たい社会の、悲しむべき被害者なのだ、との犯人への慈しみが、憎しみの中にさえも生まれているのであろう。こういう崇高な精神があることを忘れまいと思う。
2009.07.09
小沢氏は、記者会見で、「私は政治資金の問題について一点のやましいところも無い云々」と述べた。これはうそではないか。もしやましい事がないのなら、辞める必要はないのだから。逮捕されている秘書も含めて、堂々と疑いを晴らせばよい。やはり、西松建設との癒着があったから、そのことは、知っている人は知っているがゆえに、辞めざるを得なかったと思える。
2009.05.12
麻生首相が、靖国神社の春季例大祭に、総理大臣名で、 真榊を奉納した。 そして、小泉元首相も使っていた、戦死者に、感謝と敬意を表するといった。個人名で個人的に参拝するのは個人の自由である。いくらポケットマネーでも、内閣総理大臣名を使って奉納したのは、個人行為でなく、公的行為である。公人の特定宗教への関与は、憲法20条違反と考える。 又、私は、戦死者を悼むことはあっても、感謝や敬意をささげたいとは思わない。かつての戦争は、アジア始め欧米諸外国とお互いに尊敬し合い、助け合うといった関係ではなく、軍事力による、支配、略奪、殺戮であったことを思うと、国策の過ちと考えている。戦死者に、感謝や敬意をささげたいと思わないわけは、戦死者は、その過った国策や軍国教育の被害者であり、諸外国には加害者であった二重の悲惨を思うからである。私には、戦死者には、謝罪しかないと考えている。
2009.04.23
88歳の精神病者が亡くなった。精神病院で。人生の大半を精神病院で。子供のころ、気の毒に思いながらも、忌避観を持っていた。不遇な御一生を思う。兄弟はほとんど亡くなられた。両親は、気にかかりながら亡くなったのだろう。本人の気持ちを思う。無念でもあっただろう。お手紙や、寺の新聞を贈りだして、何年になるだろうか。3度か4度おうかがいした。初めてのおうかがいのとき、恥ずかしいからと面会されなかった。2度目のときか、玄関まで見送ってくださった。だんだん年をとられた。時々、鉛筆のはがきをいただいていた。私の母と同い年だった。いとしい。精神病者への偏見・差別は根深いと思う。通院してもいいのに、状況が整わず、仕方なく入院せざるを得ないのを社会的入院という。悲しいと思う。しかし、何もしていない。懺悔あり。合掌
2009.04.08
朝日新聞、4月6日のグローブに阪大、堂目教授の記事があった。それによると、アダム・スミスは、今言われる、「人間の顔をした経済」ということを課題にしていたらしい。記事に、「冨や地位への野心は放任されるのではなく、正義感によって制御されなければならない」とある。やはり、経済も、人間性を原理にしなければならないということか。やはりそうかと再確認した。
2009.04.06
45年前の三月11日だった。石川一雄さんの、今も憤怒のいかばかりかと、他人事の自分を恥じる。石川さん、予断と偏見で被差別部落に白羽の矢を立てられ、だまされ続けられて今がある。わずかな勉強を恥じるが、石川さんを犯人に仕立て上げた、検察、警察、裁判官その奥に法務省もあるかもしれないが、その非道な大罪を思う。今まで、石川さんを犯人に仕立て上げた関係者の中に、きっと不審を抱いた人はあったはずと思う。保身ゆえか上司に逆らわず、良心を裏切って黙殺したのかと思う。偽の万年筆等、証拠品をでっち上げ、工作した人たち、良心のうずきは全くないのか。
2009.03.12
経済評論家の内橋克人さんの、朝日新聞、本日版の「資本主義はどこへ」を読んだ。最後に、「人間を第一義とする共生経済を目指す」とあった。獣の顔をした、弱肉強食・格差当然といった新自由主義、グローバル、規制緩和経済でなく、人間の顔をした経済という論調を最近よく聞く。これは、資本主義だろうと、社会主義だろうと、どちらにも基本的に基調とすべき、人間の復権ということではあるまいか。この人間の復権ということが、あらゆる人間・国家社会・世界の問題の解決への鍵のように思える。
2009.02.23
取り違えた医師の失敗、自分でさえも、万全を期しても過つかも知れぬと思う。取り違えに気がついた医師の苦悩、過ちを告白したことは是とするも、それまでに、隠しておこうとの思いはよぎらなかったかと思う。両方の親へのお詫びに、ギリギリと苦しまれたことと思う。切なくも、中絶した奥さんの苦悩に心を寄せる。他人の受精卵(子)とは言え、中絶に申し訳なさもあっただろう。中絶せずに、代わって産んであげようかとの思いもよぎっただろうか?受精卵の本当の親も悲しいだろう。やむを得ぬとはいえ、自分の子が流されたのだから。中絶された受精卵、その不運を不憫に思う。それぞれ、人間の苦悩を思った。
2009.02.21
イスラエルが悪いか、ガザのハマスが悪いかという考え方がある。アメリカの議会では圧倒的にイスラエルを認め、ハマスを批判した。イスラエルの中で、イスラエルの武力攻撃を批判し、ハマスのロケット攻撃をも、抗議の手段として容認できず、非暴力協調路線をとろうとする人はいないのだろうか?又、ハマスの中で、イスラエルの爆撃を批判しつつ、ハマスの抵抗は認めても、ロケット攻撃という方法を認めない、ガンジーのような非暴力、不服従という抵抗運動は無いものだろうか?
2009.02.20
核軍縮を言うなど、元、ブッシュ大統領よりは少しましだと思っていたオバマ新大統領が、アフガニスタンへ米軍を増派するという。緊張が高まり、さらに戦死者の拡大とならぬよう、イラクの二の舞にならぬよう懸念する。タリバン側にも言い分があろう。ベトナムのようにならぬよう願う。アメリカが突出せず、せめて国連でアフガニスタン関係諸国でフェアに究明してもらいたい。
2009.02.19
死生学というのがあるらしい。そこに体験を寄せた人がいる。癌になって、初めて、生きるということに本気でぶちあったらしい。そして、考えた挙句、結局、生きるということの大事なことは、誰か、他者のために何かを尽くそうとすることということだったらしい。やはりそうかと思った。自分のためだけの生き方では、充足しないのだ。やはり、人間は、欲望のためだけの衝動に生きる、単なる動物ではなくて、精神的な動物だったのだ。
2009.02.16
たいていどこの国も、国民を国家に向けさせ国家をあがめようとさせ、国家の政治に従順にさせ、国民を精神的にも、政治的にも支配し、統合させようとするもののように思う。だから、国家は、国旗や国歌や、国王というものをあがめさせようとするものだろうと思う。国民を精神的・教育的に支配するのが国家の学校というものだろう。だから、学校で国歌や国旗や、国王など国家の権威の象徴をあがめさせるようにするのだろう。日本の場合、憲法9条を変えて、自衛隊を正式な軍隊として、戦争の出来る国づくりをしょうと思えば、当然、国家をあがめ、国家を愛し、国家のために命をささげるような国民精神を増強しなければならない。そのために、近来、学校で、国旗国歌の強制が強まっているといえよう。その違反者は処分というのは、思想信条の自由の侵害で、憲法違反と思う。かつての戦争を悪く言いたくない教科書を広げようとする動きや、戦死者を顕彰する、靖国神社を国家護持しょうとしたり、総理、閣僚、公務員の公式参拝をすすめようとする動きもつながっていると思う。そういう動きを当然とする人もあれば、いやだと思う人もある。思想、価値観の違いだろう。
2009.02.14
「私の体は、癌に侵されているけれど、私の心までは、癌に侵されない」すごいなあと感動。癌になったら、すべて、絶望、駄目になったと、多くの人はいや、私も落ち込むだろう。でも、この人は、癌になっても、人間としての自覚と誇りを失わなかった人だろう。いや、どんなに、癌によって、体は蝕まれても、やさしさや、思いやりなど、人間としての自覚と誇りの魂、精神は失ってはいけないと思い定めた人だったのだろう。いや、元々、癌になる以前、平素から、人間の大事なものは、健康、財産、能力等より何より、人間であることの、人間であろうとすることの、自覚と誇りだと思い定めて生きてきた人だったのかもしれない。私も、これから、癌になったとき、不治の病になったとき、絶望的な状況になったとき、この言葉を思い起こしたいと思う。忘れたくないと思う。
2009.02.13
死生学という授業があるという。学生に、まず、大事なものを何枚か紙に書かせるという。そして、自分の入院とか手術とか、発癌とか、死への段階を想定させ、その度ごとに、次々に捨てるものを選ばせ、その紙を破り捨てさせるという。その過程で、学生は、生きるということ、大事なものというものを考えるという。そして、たいてい最後は、「母」とか「愛」というものが残るらしい。そして、先生が、「さよなら」と号令をかけて、最後に残った一番大事なこの「母」「愛」と書いた紙を破るのだそうである。やはりそうか一番大事なものは、金や、名誉や欲ではないんだなあと思う。この母、愛というものに込められたもの、すなわち、包むもの、はぐくむもの、やさしさ、思いやりといったものこそ命にとって大事なものなのだろう。
2009.02.02
今日の朝日新聞の「こころのページ」に「宗教は個人的苦悩への杖」ということで、宗教団体が直接社会改革に乗り出すことは許されないとあった。これに違和感を覚えたのである。宗教団体にも色々あろうが、活動は自由だと思うので、直接社会改革に乗り出すのも自由と思う。文中に宗教は、生き方を説き広めるものとあった。生き方には、対個人の生き方もあれば、対国家社会の生き方もある。国家社会が、戦争や差別を拡大しょうとするとき、それに否とする生き方を広める宗教団体もあるはず。その宗教団体が、反戦、反差別の直接社会改革に乗り出すのも自然とおもうのである。文中に、宗教団体と政治が一体になると、その宗教は、横暴になるものだという論調があったが、当然、そういう宗教や政治権力はいただけない。それこそ、信教の自由の侵害であるからである。
2009.01.31
裁判員の指名が来たら断ろうと思う。なぜなら、罪の量刑を判断しなければならないからだ。というのは、死刑制度に反対であり、死刑という量刑を選ぶことが出来ないからである。もし極刑にしなければならないとしたら、終身刑なら認めることが出来ると思っている。しかし、今、まだ終身刑は認められていない。
2009.01.29
オバマ大統領が誕生した。その就任式に、聖書に手を置いて、宣誓した。又、その就任式のはじめと終わりに、牧師が挨拶したようだ。つまり、重要な国家行事が、キリスト教と関与しているということだ。歴代の大統領就任式の伝統とはいえ、重要な国家行事が、多民族、多宗教の国民がいるにもかかわらず、特定の宗教を用いたということに、厳密な意味の政教分離違反・民主主義違反を感じる。これが、新大統領の個人の宗教を尊重して行われるとしてもどうかと思う。厳密な政教分離から言えば、特定の宗教色を外し、大統領は、憲法か国旗に手を置いてでも宣誓すればよいのだ。日本の歴代の総理大臣が、毎年正月に伊勢神宮に参拝している。これは、公式参拝でなく、私的参拝だという。私的といっても、公務扱いではないのか、公用車を使っていないか、そのときは、公務を休む扱いにしているのだろうか。かつての天皇代替わりの神道儀礼にしても、公私の別があいまいであったと思う。国家は、いかなる特定の宗教にも関与してはならないというのが、民主主義の原則と思う。
2009.01.23
今日の朝日新聞記事。派遣打ち切りと退寮で絶望の中、東尋坊で自殺しょうとした人の記事。彼は30代、千葉出身の男性。5年前弟が事故死。残された弟の妻と子供に毎月15万円の仕送り。今春、子供が小学校入学し、仕送りはやめた。生活のたくわえは全く無かった。やがてネットカフェ暮らし。そこで、財布を盗まれ、支払い出来ず無銭飲食で警察に突き出される。同じ頃、親友が派遣契約を打ち切られた。連絡が取れず、実家に連絡すると「死んだ」と返事。理由を聞くと遺族は泣き出した。心に穴が開き「死んだほうが楽かもしれない」と東尋坊へ。在来線を二日乗り継いで福井駅へ。途中、白紙の履歴書に、両親宛の遺書を書いた。「親父おふくろ本当にごめん。仕事も探したけど何をやってもうまく行かなかった。これ以上は無理・・・・」等と。駅から30キロ、夜どうし歩いた。作業着にジャンパー姿、お金は300円だけ。死に場所を探していて、朝焼けに映える海の美しさに息を呑んだ。自殺をためらって体を休めていた時、地元で自殺を思いとどまらせる活動者に声をかけられた。「もう大丈夫、世話してやるから安心しなさい」の一言に相談所で泣き崩れた。「助けてもらった恩返しをしたい」と明日への希望を語った。彼は、今まで、人生に何を求めてきたのだろう?漠然とした、いわゆる幸せを求めてきたのだろう。自覚的にあえて、求める確かな何かは無かったのだろうか。もし、仮に、彼に、「どんなことがあっても、最後まで、終世、真実の自己と真実の世界の実現を求めて生きてゆくぞ」というようなものが、彼の信念として、自覚的に成立していたならと思う。それでもなお、過酷な現実に打ちのめされて、死を選ぶのだろうか。とにかく、「たとえ、孤独な、末期癌の死の寸前であっても、思いやりや、やさしさや、あたたかさの注げる自分であり続けたい。そして、そういう、思いやりや、やさしさや、あたたかさのある人間関係、国家、社会の実現のために生き続けていたい。何があっても、何にも無くても、これを一生忘れずに生きてゆきたい」という自覚、態度、姿勢が確立していてもなお、苦悩が勝てば、苦悩、苦痛ゆえに自殺はするものなのかと思う。又、誰かへの思いやり、やさしさゆえにこそ、自殺を選ぶということもありうるだろうかと思う。
2008.12.25
葬式の当家に、忌中と張り紙があった。別に何も張る必要は無いはず。昔の習俗の名残だろう。昔は、(死)を忌み嫌っていて、忌中の家に近づいたり、そこの人と接すると穢れが移るという迷信から来ていると思える。昔は、服忌令という決まりがあったようで、女は男より、忌み謹慎する時期が長いという資料を見たことがある。今の時代、わざわざ張り紙をして葬式を出した家ですと知らせる必要は無いと思う。ここ浄土真宗の土地では、この忌中という迷信性から、(還淨)という張り紙に変える動きがある。読んで字の如し、浄土に還ったということである。張る必要も無いが、張るとすれば、忌中よりいいということだ。浄土とは、無我、慈悲、利他、布施といったものの場所的象徴表現といえる。ついでに、仏とは、無我、慈悲、利他、布施といったものの人格的象徴表現といえる。浄土とは、真実の理想郷とも言えるし、真実の故郷ともいえる。還るべき、往くべき、踏まえるべき世界だ。真宗の教義で、浄土に還り、仏となってすぐさま、この世の自我、冷酷、利己、収奪の世界に還り来たって、みんなの過ちを導き続けるというものがある。自利即利他ということの象徴的表現だ。このことを感じる表現が(還淨)といえる。私は、(忌)を使わない。だから、三回忌・七回忌といわず、三周会、七周会と言い換えている。
2008.12.19
バスの運転手の上に、どこかの神社のお守りが取り付けてある。文字は、交通安全御守護だったか。公営バスなら、抗議するのだが、市営バスだから抗議したいが黙認している。今の科学時代に、迷信じみている。運転手さんに、「こんなことに金をつぎ込まずに、賃金上げてくれたらいいのにね。」「労働組合にでも言ったら?」と言って見た。運転手も、会社のつけるものだからといっていたが、どう思っているのだろう。マスコットだという人もあろうが、それにしてもと思う。
2008.12.17
日本に住む外国人が、日本国籍を取ろうと取るまいと、本来、自由であろう。外国人が永住の意思を持っている時、当然、同じ仲間として、自然に国籍が与えられてもよいのではないか。又、永住でなくとも、3年か5年か、日本に住めば、日本国籍が与えられるようになってもよいと思うのだ。自分の生まれた国の国籍と、永住する国の国籍と二重国籍を認めてもよいのではないか。もちろん、当人がいらないとする自由もある。今まで、ことに、永住外国人に選挙権としての、政治社会参加の権利を与えなかったというのは、人権侵害といえるのではないか。外国人も、永住であろうと無かろうと、税金は同等に払っているのだから。国籍をとらなければ、権利を与えないというのは、おかしいと思う。国籍を持とうと、持つまいと、この国家社会にともに生きている、義務も、権利も同等な同朋と見る視点を持ちたいものだ。今は、地方の選挙権を与えるという論議だが、上記の論から、国政選挙も与えられるべきだと思う。当人が、選挙権を拒否する自由も当然認められる。
2008.12.12
9日、朝日新聞によると、元大阪空襲被害者の人たちが国に謝罪と賠償を訴えた。そうだ。軍関係者だけが国家賠償を受けるのみならず、一般国民、戦時被害者も国家賠償を受けるべきだろう。どちらも、侵略戦争という、誤った国策の被害者である。イヤ、本当は、日本の戦争によって、被害を受けたアジア諸国の戦争被害者にこそ。それは戦後、政治決着で、賠償責任は問わないということだったというが・・・・。更には、米英他、対戦被害者にも加害責任を思う。国の罪責、民族の罪責ということを思う。古代から、朝鮮半島を侵略して来た。アイヌの人を蝦夷といって迫害してきた。徳川は、北海道のアイヌの人々を支配し、明治政府は、同化政策でアイヌの人々の権利、人権、文化を奪った。やっと今年、形だけ、アイヌの人を日本の先住民族と認定した。賠償にはすすんでいない。琉球王朝は、島津に侵略され、明治政府に統括され、戦後は、アメリカ支配を受け、今、米軍基地として提供させられている。アメリカは、原子爆弾を投下した。アフリカの黒人を奴隷化した。たいてい、どこの国も、どの民族も、国内でも、国外でも罪を犯してきたと思う。そのことを忘れず、隠さず、真摯に向き合い、人間として誠実性を回復したいと思う。観念論を恥じる。
2008.12.09
8日の朝日新聞「ひと」欄に、トーマス・バーゲンソールという戦時中、ナチスの収容所、アウシュビッツを生き抜いた国際裁判官が紹介された。1944年、10歳のとき、アウシュビッツへ送られた。両親と引き裂かれる。ガス室の恐怖などを体験。周囲が次々と命を落とす。自身、凍傷で足の指2本失う。母親とは再会できたが、父親は処刑死。収容所では、人を撃ち殺し、銃剣で赤ん坊を刺し、収容者も仲間を裏切る。なぜ人間が悪魔になるのか今もわからないという。それでも悲観しないという。あんな状態でも、気高く生きる人々はいたという。ここに感動する。自分も、そう在りたいとは思う。でも保身ゆえに、卑劣な振る舞いをしでかすかもしれない。彼は、残虐性は人間の本性ではなく、阻むことは出来ると信じるという。彼のどの報告書でも、(非人間的)という言葉は使わなかったという。それは、人間は本来、よいことをするものだという考えが前提だからという。この人は、性善説なのだろう。その反対に、性悪説がある。しかし、人間は、性悪と性善と両方を持つ存在と考えたい。100%の悪人もいなければ、100%の善人もいない。ただ、悪縁によって、悪に染まり、善縁によって善に染まるのではないか。一生、より質の高い善縁にふれ続けたいものだ。
2008.12.08
浄土真宗の学習会で、ある門徒さんが、「浄土真宗を一口で言えばどう言えばいいのか」と質問された。もっともな問いである。その人は、自分でも、まだ不確かな世界におられるのだろう。一人の僧侶が、阿弥陀さんの一人働きにおまかせというようなことを、勢い込んで言っていたが、どうも、自己満足の空回りのようだった。もう一人の僧侶は、「そんなに簡単に一発で、真宗を言い当てて、わかるようなもんではない」といった。これもどうかと思う。まず一口に言ってみればよいのだ。もう一人若い僧侶が言った。子供に、仏さんを説明するのに、先輩が『仏様は何事も、ひとごとにできないお方だ』と言ったといい、忘れられないという。そして、自己中心がぶち破られる世界だとも言い、戦争は、自己中心の最たるものというような説明で、これは伝わった。私も発言した。超越的な阿弥陀仏にお任せして安心するというのが大半だが、もう一つ、阿弥陀仏から、真実なるものにめざめ、反戦など、実践的な歩みの真宗ということを言った。そして、この両方を取り上げる人もあり、現代人に伝わる真宗ということで大きな課題だというようなことを言った。阿弥陀仏への実体信仰で、おまかせし、安心するという信仰を批判するところまでは言わなかった。本当は、『阿弥陀仏を実体的な実在として信仰し、お任せし、安心するというのは、時代遅れで、阿弥陀仏と象徴的に表現されたものから、真実なるものにめざめ、そこから、自己と社会の真実ならざることにめざめ、同時に、それゆえにこそ、真実の自己と社会の創造に向かって歩む教え』と言いたかったのだが、その結論までに、皆さんの論議を起こすべく、二つの真宗とその両方という事でとどめたが、それに誰も論議を続けず、論議は終わった。でもここが、肝心要の天下分け目の関が原のように思うのだ。
2008.12.02
私は行ったことが無いが、長野県の称名寺という寺の鐘撞き堂には、大きな石がぶら下げてある。だから石の鐘である。でも鳴らない。それは、戦時中、寺の仏具類まで戦争協力させられたその時、称名寺の有名であった鳴りのいい鐘も供出させられた。そのとき、屋根が飛んではいけないからと、石をぶら下げてある。もう戦争が済んだのだから、鐘を吊ったらという人もあったが、称名寺の住職は、世の中がほんとの平和にならない限り、鐘をつらない。づーっとそれまで石をぶら下げておくといわれる。敬服する。仏教も戦争と一体化した。戦争反対を信念を持って言った人はごくごく少数。当時私が生きていたらどうかと考える。そうだ、それは戦争であれ、死刑であれ、命を奪い、物を奪い、差別して、何が仏教というのだろう。だが現実のこの身は、恥ずかしいこと。いささかなりとも、ものを公平に分かち、殺さず、奪わず、差別せず、お互いに尊びあって生きられる人生と社会の創造に生きておきたいとは思う。
2008.12.01
阿弥陀経から、法話とした。若い人がいる。今、世界の問題の元凶は、人間性の喪失と思う。そこで、共命の鳥の話をした。この鳥は、浄土で、説法をしている。でもこの鳥は、浄土に往生する以前は、そうではなく、いつも争っていた。なぜなら、この鳥は、胴体は一つ。頭は二つという架空の鳥であった。お互い、頭の羽根毛の美を争ったり、鳴き声を争ったりしていた。あるとき、一方の頭が、もう一方の頭を苦しめ亡き者にしょうとたくらんだ。密かに、毒の実を、「うまいぞ」といって食わした。相手は苦しみだしたが、毒は全体に回るので、自分のほうも毒が回ってどちらも死んでしまったという。そして、仏に救われたというのか、今は浄土で、こう説法しているという。「相手を損なう道は、自分を損なう道、相手を生かす道は、自分も生かされる道」となかなか面白いたとえだ。ここに仏教の、万物の相関関係そして支えあい、尊重しあう考え方が示されている。建築、食品、偽装は、自分も破滅する。周りを破滅させるだけではない。たとえ発覚しなくても自分の心、人格、精神、魂を損なっているではないか。自己中心な道は獣の道、互いに敬い助け合う道は人間の道。どこの世界でも、人間を失ったら、破綻が来るということ。自ら慙愧を持って言う。
2008.11.29
生活保護を受けている人の投稿を読んだ。生活保護者の場合、少しでも収入があれば、生活保護費は、その収入分が差し引かれる。自治体からの福祉的な給付金などについては、一定額までの収入を認定除外することもあるらしいが、これが認められるかどうか不確かのようだが、投稿者は、ぜひ、この度の定額給付金は、生活保護費から、差し引かないで欲しいと訴えている。尤もだと思う。こんな配慮を政府はすることさえ念頭に無かったのだろうか。とすれば、怠慢な政治ということになる。ただ、この定額給付金というのは、選挙目当てのばら撒きのようで、あとで消費税を上げてそれ以上に吸い取る詐欺のような感じがしている。
2008.11.26
小泉容疑者が出頭して逮捕された。彼の生い立ち、性向などが報道された。彼の闇を思い、又、彼の父や親族の人々の衝撃と苦悩を考える。保健所で、ペットを殺されたという。彼の孤独を思う。社会性の薄さを思う。周りの人も彼を疎んじたのか。優しさ思いやりが彼には一滴も注がれなかったのか。だから、いよいよ、人間不信になったのか。家族より誰より、ペットだけが親族だったのか。父へは10年も音信不通だったという。親子の縁も薄かったのだろう。大学まで行っている人だ。プライドと、劣等感と、人間不信などから、屈折し暴発したのか。逮捕された写真の顔を見て、彼の冷暗室の様な心を感じた。人間不信や劣等感、孤独感は世間への反抗となるのだろう。世間の幸せそうな日常への反感嫉妬もあったかもしれない。私の心の一面でもある。彼はもう一人の私でもある。彼はいつの日に、優しい自分を回復するのだろうか。彼を更生させる教誨師や、刑務官の真剣勝負の大変さを思う。又、彼の父や親族の悲痛を思う。この衝撃を超えてなお、前向きに歩んでゆかれねばならない。ご苦労を思う。願わくは、共によりよき自己と社会の創造へのより確かな自覚を思うのだが・・・。
2008.11.24
病院にお見舞いにいった。眠っておられたので、他にどなたが入院しておられるか部屋の前の入院患者の名前を見て歩いた。知人があれば声をかけようと思った。案の定、二人の知人に会った。少しでもお見舞いの中で、お互いに、人間として、苦悩の中にも、ともに、人間を高め、深め、前向きに、どんなことがあっても生きてゆこうというようなことを共感したいという思いではある。しかし、会話は、とりとめのないもので、そんな共感というところには行かない。説教ではない。高みのお仕着せでもない。自然な共感を得たいのだ。しかし、どうでもよさそうな話で終わる。それでもいいのか。かえって迷惑だったのかもしれない。ともかく、こちらに、真実なるものの熱も意欲も自覚も薄いからであろう。義務感では駄目だ。それはうそだ。三人のお見舞いに電池切れだ。放電して、充電できていない。そんな体たらく。もうあと何人かお見舞いをと思ったが、エネルギーが沸いてこない。達人は、人と出会って、自然体で、そよ風のように相対し、どちらも気持ちが豊かに生きる意欲が充実し、いよいよ充電でき、疲れるということが無いとなるべきだろうに。どこまで人間的力量が高め深められるか、一生の課題だ。
2008.11.23
又、門徒さんの葬式を勤めた。一体なん十回の葬儀を勤めたのか。しかし、その葬儀の法話で、何を訴えたのか。死ということ、生きるということ、別れてもいつも一緒であることなどをいつも語っている。しかし、語る私も、聞かれる人も本当に実感して、ともに生きるエネルギーを得ているだろうか。いや、まだ観念論なのだ。こうして自分を反省している。真実とは簡潔なものではないかと思う。阿弥陀様とか浄土とか本願とか教義はあるがその本質は理屈ではない。そこからの命の深い感動だ。南米だったか、先住民の人が、幸せとはなんですかという文明人からの問いに、「そういう言葉はありませんが、ただみんなに食べるものがあって、みんなが仲良いことです」と語ったという話を聴いた。「オーそうだ。それこそ真実」と思った。又、末期がんになった井村さんという医師が、自分の二人の子へ書いた遺書のことをブログで見た。このブログは、私が色々参考に学ばしてもらっている、野口嘉則さんのブログで、2005年11月15日のブログである。野口さんのブログは、http://coaching.livedoor.biz/である。それは「思いやりのある子に育ってほしい。 思いやりのある子とは、まわりの人が悲しんでいれば共に悲しみ、 喜んでいれば、いっしょに喜べる人のことだ。 思いやりのある子は、まわりの人を幸せにする。 まわりの人を幸せにする子は、まわりの人々によって、 もっともっと幸せにされる、世界で一番幸せな人だ。 だから、思いやりのある子に育ってほしい。 それが私の祈りだ。 私はあと、いくらもそばにいてあげることができない。 だから、おまえたちが倒れても手を貸してあげることができない。 お前たちは倒れても自分の力で立ち上がるんだ。 お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。 父より」あー、そうだと思う。ここにこそ、簡潔な真実というものが示されてあると思う。こういう命の真実を伝え、私も共感すべきだったのだ。これが伝わらない限り、葬儀でも、法事でも、法話でも、しょせんはない。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.22
オーッつ、なぜだと思った。というのは、警察白書をみても、最近は、犯罪全体が低下しているからである。実は、実際の警察白書とは違って、犯罪は凶悪犯罪も含め増大していると勘違いしていた。この勘違いは、ニュース報道で、犯罪が多いに違いないと思い込んでいたのだ。実際は、警察白書のとおり、最近は犯罪は低下しているのが事実だ。ところが、小中高生では、実際に過去最多の暴力という。このことは、いかに、学校というところが、生徒を追い込んでいて、子供たちが精神的に圧迫され、それが暴発しているのではないかと思える。世界で、日本の子供の学力が低下しているということで、文部科学省は、学力アップということで、全国学力調査などで、現場の先生も圧力を受け、学力向上最優先でゆとりが無くなり、先生もそのために忙殺され、子供に向き合う時間が無いとも聞く。管理職の上意下達で、今までのような先生同士の協議ということがなくなっているとも聞く。そんな先生同士でも連帯が薄れ、ただ、学力向上に向けて締め付けられるようでは、その鬱憤が子供たちにたまり、暴力発散となっているのではないか。先生も生徒も、余裕の無さで、人間性が荒廃しているのではないか。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.21
社会保険庁の膨大ずさんな事務ミスや不正、毒入り米騒動他食品不正への管理責任などへの反感か。更に、貧富の格差の増大、生活不安、孤独、劣等感、世間へのイライラ、不満、鬱憤というものもたまっていたのか。批判は当然としても、テロで殺傷というその非道を思う。連れ合いの婦人には罪は無いはず。アメリカのケネディー大統領もテロに遭った。今度のオバマ大統領もテロの危険があるという。テロリストという人たちの、人間性の荒廃、人格の屈折、破綻を考える。テロリストを生み出す、社会、政治の貧困を思う。その元の、宗教、教育他精神文化の不毛を思う。死者には ただ、お気の毒でならない。被害婦人、被害者の家族の救いを、そしてテロリストはいかにして救われるかを思う。被害婦人は、恨みの中にありながらも、至難ながら、なお、犯人へのいとしみが生まれて来てこそではないだろうか。テロリストは、やはり自ら、人間としての、まことの慙愧が生まれぬ限り、救いは無いのだろう。加害者も、被害者も、人間誰しも、人間性の原理に覚醒し、自己と世界の最高の創造に向かって生きてゆこうとする人生に対する姿勢が確かに成立しない限り、救いは無いということか。おぼつかない私を思う。どんなに心の破綻し、屈折した人であっても、その人に、人間性を回復せしめられるほどの人間的力量の深まりをはるかに憧れる。 in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.20
円高、株暴落で、輸出企業が利益を減少させているという。ことに、トヨタ、など車企業の売り上げ減少で、非正規雇用者を首切りという。まさしく、非正規社員は経済の動向いかんによる、調節弁ということだ。景気がよければ雇い、景気が悪くなれば首を切る。雇うのも首を切るのも自由ということだ。非正規社員の不遇。今労働者の約30%が非正規という。労働者派遣法が決まってからだ。これは、世界大競争のための、大企業などの策ということだろう。派遣会社が出来れば、企業の人事採用の手間が省け、人事課の職員を減らすことが出来るのも企業の合理化ということか。正規の職員は責任を担う職務につかせて遇する。しかし、単純労働者のような立場の労働者は、派遣会社から雇う。人件費が安上がりだから。というのは、有能な人間は、報酬も、生活も高くてよいが、そうでないものは、報酬少なく、したがって、生活も低くてよいというような考え方が元にある。規制緩和だとか、合理化というが、それは、人間らしい、あたたかい、おもいやりのある考え方とはいえない。世界中がそうなったようだ。そこに、不満がたまり、暴発もするし、様々な社会問題の元凶があるのではないか。競争は自然であろう。でも、フェアな競争でありたい。人間を道具化し、序列で差別することなく、人間として尊重するということを忘れたくない。この不景気で、たくさんな首切り、失業者が増えるのだろう。傍観者であることを恥じる。社会主義であれ、資本主義であれ、人間としてのやさしさ、思いやりを失いたくない。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.08
7日の朝日新聞に、アメリカ・カリフォルニア州の住民投票で、過半数が、同性愛結婚に反対したという。反対52,5%、賛成47,5%だ。州の最高裁では、同性愛結婚は認められていたのにである。すでに、カリフォルニア州では、同性愛結婚者が一万八千組あるという。こんなにもあるのかと認識を新たにした。最近インターセックスといって、生まれながら、体に、男性と女性の性を両方持つ人が有るということを、改めて思った。当事者の人々の苦悩ははかり得ない。天のいたずらというのか。天の過ちというのか。創造神というものがいるのなら、その創造責任ということを問いただしたくなる。同性愛者という人たちにしてもそうだ。一般的に、生殖は、異性同士の結びつきによる。ところが、同性愛者は、異性に関心が持てず、同性に性的に惹かれるという。これも、天のいたずら、天の過ちか。神がいるなら、創造責任を問いただしたい。同性愛者の人々の苦悩も聞いた。最近、カミングアウトされるほどに、理解が高まったかと思う。同性愛の当人同士にとってみれば、異性愛と同じ恋愛心情であろう。恋愛は理屈ではないはず。本人同士の親愛の情は、他者がとやかく言えないはず。尊重したい。一般的な、異性愛から言えば、不自然といえようとも、心情は、尊重したい。私は、第三者の観念論かもしれない。もし、私の親族に同性愛者がいたとして、結婚願望があるなら、認めたい。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.07
オバマに敗れたマケイン。マケイン陣営のニュースがあった。マケインは、支持者に、「オバマに電話で、お祝いをした」というようなことを言うと、支持者は、ブーブーとブーイングをした。わからんではないが、負けたものは、即座に勝った相手に電話することになっているのかどうか。マケインは、その支持者たちのブーイングを静め、オバマをアメリカ大統領として応援するというようなことを言った。ブーイングはなりを潜めた感あり。朝日の6日のニュースでは、マケインはオバマに電話で「これは歴史的な選挙だ。オバマ氏は偉業を達成した。私は彼が国を率いるのを助けると誓う」と語ったとある。天晴れと思った。マケインは、内心は悔しいだろうが、こと決着がつけば、後は、よりよいアメリカのため、決して、オバマに追従、ということではなく、是々非々でともにアメリカのよりよい進展に力を尽くすというメッセージだと思う。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.06
オバマ大統領が決まった。今までのアメリカ式グローバリズムが転換されて、貧富の格差が緩和されることを望む。彼の生い立ちの苦労が、政治にそして、冷えたアメリカ社会をあたたかい人間の血の通った社会にしてくれることを望む。演説で、(どんなに意見などが違った異質の人であっってもその人を尊重するということをモットーとし、こういう考え方が大きくアメリカに広がって欲しい)というようなことを言っていた。感動した。今後、どのようにアメリカが変わるか見ものである。演説は何か格調高かったような気がする。日本の小泉、安倍、福田、麻生総理には人類普遍的な格調高さが感じられなかったと思う。マスコミは、黒人大統領などと強調するが、アメリカでは、黒人扱いかもしれないが、事実は、白人黒人混血系アメリカ人というのが正解ではないか。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.05
浄土は往くのか?還るのか?。どちらでもいいと思う。浄土の本質は真実。真実とは、究極の無我・慈悲・利他・布施の世界。これは、目標とすれば高いところにあるといえる。しかし、命の深い願いともいえるし、そうなれば命の本質・命の真実とも言え、命の深い底にあるともいえる。浄土は、経典作者の象徴的表現。つまり、真実の象徴表現。往くべき世界。又還るべき世界とも言える。親鸞さんは、往生といって浄土に往くといい、又、法性の都にかえるとも言った。真実、それは願いの故郷。命の故郷。人間には、でも、真実への願いと同時に、相反する、自己中心な欲望もある。どちらも命の両本質だ。でも、動物性の本質なら、自己中心性かもしれないが、人間性の本質なら、真実への願いといえる。だから、真実は命の本質といったが、つきつめれば、人間性としての命の本質ということ。だから、浄土は往くべき世界とも言えるし、還るべき世界とも言える。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.04
本日の朝日新聞による。他母神氏は、航空幕僚長に就任して、空自の隊内誌、(鵬友)の去年5月号に掲載された文に、「日本人としての誇りを持とう」と題し、「戦後教育の中で、わが国の歴史と伝統はひどい無実の罪を着せられてきた。その代表的なものが、日本は朝鮮半島や中国を侵略し残虐の限りを尽くしたというものである」とし、「ウソ、捏造の類であると証明されているが、多くの日本国民はそれを事実として刷り込まれている観がある」と書いたようだ。こういう考え方の人は、日本のかつての戦争を悪く言いたくない人たちで、教科書もかつての戦争を悪く言わない、新しい教科書を作ろうという人たちと連動していると思う。だがしかし、一応の政府見解としては、敗戦50年、村山談話にあるように、かつての戦争を公式に謝罪している。これはその後の総理大臣に受け継がれている。政府の公式見解といえる。しかし、他母神氏の見解は、この政府見解に反している。こういう見解を持つ人を航空自衛隊のトップに置く、防衛省にも責任があるとおもう。他母神氏はどうして、このような見解を持つにいたったのかと思う。個人としてはどういう考え方を持つかは自由である。しかし、公務員の上級幹部として、政府見解に反する考え方の人は、幹部に登用されてはならんだろう。遅きに失したとはいえ、更迭されたのは当然であろう。しかし、最近の小泉、安倍、麻生総理にしても、村山談話を踏襲しているとはいえ、どこまで本気かと思う。それは、政治家のみならず、多くの国民、市民もである。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.03
9条の会事務局長・小森陽一さんの講演を聞いた。500人以上の参加のようだ。民主党の小沢一郎は、アメリカの軍事戦略に日本も加わることを推進してきた人であるから、一番要注意人物であるとの考えが伝わってきた。アンケートで護憲派が改憲派を上回っていることに、全国7000からの9条の会が立ち上がっているということが、その推進力との事。中曽根元総理が、この草の根の護憲9条の動きに対して、改憲・草の根運動をするといっていた。その中に、民主党の鳩山議員がいることを考えねばならぬ。確かに、自民党との連立を働きかけたのも小沢一郎だった。小沢は、国連のお墨付きを得るなら、自衛隊は武力行使できるという考えだ。小沢は、9条の改憲、アメリカの戦略と一体化をづーっと狙っている政治家だったのか。読売のアンケートで、15年ぶりに、護憲派が改憲派を上回ったという。その15年前は、小沢は、当時自民党員で、アメリカから、自衛隊が海外派兵できるために明文改憲をと願われ、それに応えようと自民党を割って出て、政界再編し、細川連立政権が誕生し、55年体制が崩壊した年だったという。元は、湾岸戦争のとき、日本は、金は出したが、血と汗を流していないという批判で、日本の、武力貢献が取りざたされたことから始まる。そのときの海部総理のとき、自民党幹事長だったのが小沢。こうしてみると、小沢の元からの考えが、戦争の出来る日本の政治体制ということかと思う。今度行われる総選挙で、民主党にやらせてみても、小沢に幻想は抱かれぬ。眉唾物ということか。こんなことを講演で感じた。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.02
浄土真宗遺族会代表・菅原龍憲さんらが、2年前、靖国神社と国を相手取って、自分の戦死した父親の合祀取下げの訴訟を起こしている。菅原さんの場合、住職であった父親は、南方で戦死された。その父親は、戦後、靖国神社に神、命として合祀された。菅原さんは、今まで何度も、父親が神格扱いされ、讃えられていて、戦死を崇高なものとされる考え方に利用されているような現状に、忌避感を持たれ、合祀取下げを申し入れてこられた。ところが、靖国神社は、いったん祀ったものは取り下げられない、こちらにも祀る自由があると取り下げ拒否。ついに訴訟となった。靖国神社は今も、戦争を謝罪する神社ではなく、戦死をあがめる思想である。そして、今後も、国のために命をささげ、戦死することを名誉とする考え方を推進する役目を果たしている。つまりは、英霊と讃えられる、戦死者は、今後の戦争に精神的な推進力となるということでもある。戦死者は、侵略された、アジア諸国にとっては、加害者であり、国家によって死地に赴かされた戦死者は、国家によって讃えられるべきでなく、本当は国家によって、謝罪されるべきはずのものと考える。戦死をたたえられることに忌避観を持ち、靖国神社の国家神道思想に相容れない、考え方の遺族が訴訟を起こされた。靖国神社としては今までの伝統から、取り下げられないというのであろうが、ことは、取り下げないということで、大事な思想信条・個的心情を侵害しているということではないか。そこのところを靖国神社はわかってもらわねばと思う。戦前は、靖国神社は、国家の神社であった。戦後、政教分離で、国家から離れ、靖国神社は宗教法人になった。しかし、合祀において、国が合祀に関与していることがあり、政教分離違反として、国の責任も問うている。靖国神社から、戦死者の名簿を調べさせて欲しいという依頼があれば、閲覧に供することは国として、拒否するまでのことは無いと思う。しかし、国のほうから、積極的に靖国神社に英霊として神格化し、靖国神社の合祀に関与したとすれば憲法違反・政教分離違反といえる。in_uid = '185096';in_templateid = '12002';in_charset = 'UTF-8';in_group = 'DefaultGroup';in_matchurl = '';in_HBgColor = 'CCFF99';in_HBorderColor = '578A24';in_HTitleColor = '00008B';in_HTextColor = '000000';in_HUrlColor = '00008B';frame_width = '468';frame_height = '60';
2008.11.01
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