inti-solのブログ

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2023.08.27
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テーマ: 戦争反対(1190)
カテゴリ: 戦争と平和
近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、 ホームページ を閉鎖することになりそうです。
古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。

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抗日運動で逮捕されて  シンガポール石油会社張宗植の生きざま

「戦争の世紀を生きた男たち-『普通の人』の個人史」林健生著 芙蓉書房出版の未掲載原稿より

洪水が怖くて泣き出す子

県立中等学校の入学申し込みのとき、父が一緒にきてくれた。書類に記入する段になって、宗植は自分がいつ生まれたのか知らないことに気づいた。それまで誕生日のことなど用もなかったからだ。父のほうを見たが、やはり困った顔をしている。戸籍というものがないし、四歳のときに母が亡くなって祖母に育てられていたので正確な誕生日がわからない。生まれ年だけは1914年に間違いない。父は考えて、旧暦の3月晦日ということにして、新暦に直して5月1日を彼の誕生日と決めた。それからは、公式にもずっとこれを使っている。
張宗植の生まれた江蘇省宜興県爵?村は、上海の西450キロ、南京からもほぼ同じ距離にある長江流域の米作農村だ。村は川に面していて背後に田んぼが開けていたが、どっちに行っても川にぶつかるという水郷だった。どの家にも舟があって、農作業や近くへ行くときに使った。遠出には運送屋の大きな舟を利用した。

子どものころの遊びといえば、自分で舟を漕いだり、家の人といっしょに舟に乗ったりすることだった。ときにはロバの背にゆられて半日かけて山に登り、そこからの格別な眺めを楽しんだ。家は裕福な大百姓で、田んぼを小作にだしていた。当時は収穫の三割が小作料だった。母方の実家も元来は農業だが、耕作をすべて小作させて自分たちは町に住んで材木屋を営んでいた。

数え6歳、満で五歳のとき小学校に入る。同年齢の子はクラスに3人だけで、あとはみな歳上、最年長は15歳の男の子だった。宗植はいちばん年下の小柄な、可愛らしくて学校のできもよい利発な子どもだったために、担任の女の先生にとてもかわいがられた。あるとき学校の授業中に洪水が起こった。

たちまち村中に水が溢れ、家々が水に漬かってしまったのを見て、急に怖くなって泣き出した宗植をなだめて、15歳の同級生が家までおぶって送ってくれた。日々起伏はあったが、平和でのどかな子どもの生活が繰り広げられていた。入学したときは学校ごと男女に分かれていたのが、宗植が四年生になったとき男女共学制になり、それまで別のところへ行っていた妹が同じ学校へ通いはじめた。

小学校5年の10歳で県立中等学校の入学試験を受けて合格し1年間通った。上海や杭州、南京では教育に熱心で、当時も上の学校にいく子が少しはいたが、全国の進学率はきわめて低い時代だった。小学校の費用は半年に2元、県立中学では入学のとき父が30元納めていたのを目にした。かなりの出費だ。
北京大学を卒業して南京の国民政府財政部(大蔵省)の局長をしていた母の兄(張は親しみを込めて「大伯父ちゃま」と呼んでいる)が、県立中学の卒業では将来の展望がないからよい学校に入りなおせと、上海の有名な4つの私立中学のひとつ民立中学を紹介してくれた。この伯父の手回しで名目的な試験を受けて合格し、上海での宗植の生活がはじまった。学校は全寮制で4人から6人が同部屋だった。

そこは英語中心の、現在の日本流にいえば中学・高校の6年間一貫教育で、中国語(張にとって国語)の時間以外の授業はすべて英語で行われた。中国人の先生も大勢いたが、みな達者な英語で授業をした。田舎の中学では英語が弱かったので、民立中学で張は結局1年からやりなおすことになった。しかし授業の中身はすでに一度勉強しているから、彼にとって学校は楽なものだった。中国語はクラスで一番を通したが、数学だけは不得意だった。週に2回修身とでもいうか道徳の時間があった。
そのころ、中国の政治・経済状態はますます悪化していた。独立国とは名ばかりで、実態は半植民地。長江を上海から南京まで行き交う船はイギリス船がいちばん多くて立派で、日本の船も幅をきかせていた。中国の船はといえば、みすぼらしくて、酷く肩身の狭い思いをさせられた。中学6年の1931(昭和6)年に満州事変が勃発した。日本に対してはっきりとした抵抗行動をとろうとしない中華民国政府に「ただちに抗日行動をとるべし」と申し入れをするために、上海の中学生は大挙して南京に押しかけ、政府要人に面会を求めた。蒋介石に代わって直属の部下が大講堂に迎え入れたが
「中学生諸君、そんなに急ぐな。国民党政府は実力をつけて必ずや対日抗戦する」
というだけで結論は出なかった。

南京行きの中学生のなかに同県人のSがいて、のちのち印象深い関わりができる。張が卒業するころ、上海には革命の機運が横溢していた。若い宗植の胸も、国の将来を憂えて胸が高鳴ることが多かった。そんな雰囲気のなかで、ある人に聞かれた。
「将来、君は何をやるの」
「歴史です」
「民立中学で教えているのは洋奴の歴史ですね」


学校が租界から近かったのでよくいった。イギリス租界にはインド人警官がいた。ベトナム人警官がパトロールするフランス租界は規模は小さいが、街並みがもっとも整った贅沢な高級住宅地につくられていた。中国人も租界の中の大きなレストランに入れたが、ボーイがやってきて外国人とは別の席に通された。外国人は中国人にぶつからんばかりに威張って横柄な態度だった。店で中国人と間違われた日本人が
「俺は日本人だぞ」
と気色ばむと、ボーイは平身低頭して日本人を外国人席に案内する。

イギリス租界の中の黄浦公園は「中国人と犬入るべからず」の立て札があって、中国人を犬と同列において辱めたとして日本でもよく知られているが、張の解釈によれば、こうしておかないと犬や中国人が公園を汚してしまうことを恐れたイギリス人のきれい好きからきたのであって、とくにそれ以上の意味はないという。
民立中学校を卒業すると、4分の1ほどが北京税務専門学校か、イギリスがバックアップしている上海税関有弁事務専門学校にいった。学費、寮費、食費すべてを国費でまかなってもらえたからである。競争は厳しくて2~300人の募集に対して1500人も志願者がある。


「あのころ大学にいかれていたなんて、お家はずいぶんお金持ちだったんですね」
といわれて、改めて自分が恵まれていたと思った。

当時の政財界には、北京の大学を出て北京と強い絆をもつ京派と、上海との関係が深い海派があって、北京大学出の大伯父ちゃまはもちろん京派で、宗植に「上海の大学ではなくて、北京大学か清華大学を受けなさい」といっていた。清華大学に在学中のいとこが勧めるので宗植は清華大学を選んだ。ところが学力試験の1日前の身体検査で、目と肋膜が悪いから大学に受け入れられないといわれて途方に暮れてしまった。とにかく頼りになるのは大伯父ちゃまだけなので、すぐに電報を打った。大伯父は北京大学に鞍替えできるように八方手を尽くしてくれたが、2つの大学の入学試験が同じ日なのでどうしようもなかった。それから大伯父が親しかった文学部長と2人の教授にたのんで、特別な方法で北京大学の聴講生になった。学生寮だけは正規の学生でも入れない人がいるくらいで、聴講生の入寮は無理だという。しばらく下宿に入って様子をみることになった。

ところが、聴講生ならば清華大学でも受け入れる、ということをいとこが調べてきて
「宗植さん、僕が手続きしますから北京大をやめて清華大にきてください」
という。冬に向かって下宿は炭暖房で寒いし、お金がかかるし、第一めんどうだ。清華大の寮ならば暖房完備で安いという魅力もあって、結局清華大学の歴史学部に聴講生の手続きをとった。1932年のことだった。

大学の講義は英語と中国語で行われていたが、高校まで英語の授業を受けてきた張にとってはまったく問題がなかった。古典関係には優秀な教授がそろっていたし、何よりも図書館は全国で最高だった。友達がいた上海の交通大学の図書館を見たことがあるが、清華大のほうがはるかに充実していた。学生寮も文句なしだった。一年間は楽しい学園生活を満喫した。

抗日運動で官憲に逮捕

張は2年生の春から学生運動に関わるようになる。学生運動の主要なメンバーは、のちに12・9運動のリーダーとなっていった。学生寮で同室のいとこが社会科学研究会の会員で共産主義青年団に入っていて、同県出身の学生を紹介してくれるという。会ったとたんに
「Sさん、どこかで一度会ったことがありますね」
「僕も張さんに会ったこと覚えてますよ」
あの南京で会ったSだった。彼は現代読書会に参加していてその後共産党に入党し、党の北京西郊地区責任者として学生新聞「清華週刊」の編集長をしていた。
「張さん、ぼくは時間がないので、ぜひあなたに清華週刊の編集をしてもらいたい」
と強く頼まれて、もともと文を書くのが好きだった張は編集を引き受けた。編集の相棒は2年上の山西省出身の同姓の学生で、周りの人は2人の張を区別するために宗植を小さん、もう一人のほうを老さんと呼んだ。新聞の編集をはじめて、張の学生生活は一変した。

1935年の1月、寒い冬の朝だった。少し前から官憲に追われて学生寮に寄りつかなくなったSの部屋を、張は編集の仕事場として使っていた。前の晩はずいぶん遅くまで作
業をしたので、そのままその部屋で寝入ってしまった。突然部屋のドアが激しく叩かれた。
「誰ですか」
誰とも名乗らずにただ
「開けてください」
「着替えますからちょっと待ってください」
洋服を着ながら扉を開けると、間髪を入れずに2人の国民党軍憲兵が室内に体を捻じ込んだ。
「あなた、張宗植でしょう。はやく服を着てついて来なさい」
部屋が違うのに、張宗植だということがちゃんとわかっている。
「どういう容疑ですか」
と聞くのがやっとだった。答えはなかった。オーバーを着て外に出て運動場を通って門のところに来ると、憲兵隊の無蓋トラックが止まっていて、すでに3人の学生が荷台のベンチに座らされていた。

しばらくすると、別の憲兵に連れられたいとこが見えた。運動場の端まできたとき彼は突然逃げ出したが、たちまち追いかけられてまた捕まってしまった。運転手をいれて憲兵は6~7人で、なかの隊長と思われる人物が念を押す
「まだ他にいないか」
「これでお終いです」
8人が逮捕された。みな知り合いだったが、あとで互いに迷惑がかかるのを恐れて知らん振りしていた。車が走りはじめた。これからどうなるのかぜんぜん予測できないのに、街中の様子だけが異常に鮮明に目に焼きついた。道には人通りも少なく車もほとんど走っていなかった。白菜を積んだロバがゆるゆると脇を通っていく。木々にまといついた霜には薄明の光が射して、朝のカンバスに見事なまでにキラキラと輝く純白の世界を描きだしている。
逮捕者は、北京のあちこちの警察署に分散留置された。刑事犯との雑居房だったが、知識人の張は、同房者から好意と尊敬をもって大事に扱われ、下に敷く藁をもらったりした。政治犯同士は同じ房には収容されなかった。

張とSは中心的なリーダーとみられ、2日経って憲兵司令部での尋問がはじまった。ただ「吐け」と迫られるばかりで、何を自白させようとしているのかわからなかった。同時に逮捕されたKによれば、両手の親指を細紐で束ねてつま先立ちの高さまで引き上げ、長時間その姿勢を強制する拷問があったという。張自身は、取調べのことがほとんど記憶に残っていないが、生命の危険を感じたことはなかったと思っている。張の筆名が便所の壁に書いてあるのを見たとき、はじめて仲間が同じところに囚われていることを知った。後年中国政府の文部大臣になったSの話では、面会も食べ物の差し入れも許可されなかったという。

張の場合は少し違っていた。ひと月ほどすると南京の大伯父から手紙が届いた。達筆に書かれた国民政府財政部宗という差出人名が、蒋介石の娘婿の財政部長宋と紛らわしかったのかもしれない。親戚がきて、手が絶対に触れ合わない構造になった窓を隔てて面会することができ、20元差し入れてくれた。それ以後、面会も差し入れも自由になった。古典ならば何も問題がないと思って史記を差し入れてもらい、15~6日で読み上げてしまった。それから漢書、後漢書と読みすすんだところで三月経ち、北京から南京の憲兵司令部に移送されることになった。下腕は自由がきくが上腕から背中へかけて何重にも厳重に縄をかけられ、2人の憲兵がついて夜汽車で南京へ向かった。憲兵たちは個人的にはよい人間で、役割りとはいえ嫌な顔もしないで張の重い書物を持ってくれた。

そのころ憲兵司令部の組織改変があった。大伯父の親戚が南京の新しい参謀に着任して、何かやり取りがあったのだろう。大伯父が保証人になって刑を決めないで、北京追放を条件に釈放された。もう北京には戻れなくなった。しかし張宗植たちが拘留されている間に、彼らが身を捧げてきた学生運動は1935年12月9日の北京での抗日運動(12・9抗日運動)となって燃え上がり全国へと広がっていった。1933年以来の日本軍の華北侵略とそれをカモフラージュするための分離自治工作に対して、蒋介石の国民政府は妥協を重ね、中国民衆の抗日運動を弾圧した。当時の日本の新聞はほとんど日本側の視点で報道しているが、それでも運動の激しさが伝わってくる。

北平で華北自治反対の学生デモ〔東京朝日新聞、1935年12月10日、北平特派員9日発〕北平大学、清華大学、燕京大学及び中等学校男女学生500名は9日午前10時頃、居仁堂前の広場に参集してデモを行い、北支防共自治反対、打倒帝国主義のビラを撒布し、その内の学生数人は激越な口調にてアジ的演説をなし、大挙して学生群は何応欽氏に面会を求めた。何氏は門を閉ざし学生団を居仁堂に入れず、現場に急行した公安当局は指導的学生を片っ端から検束し始めたので、ようやく午後1時に至り解散した。
我が出先官憲は排日的色彩濃厚な右学生運動を重大視して、北平市長秦徳純氏に対して厳重抗議を発し、これが十分なる取り締まりを要求した。
〔北平特派員九日発〕新華門付近の学生群解散後間もなく午後3時頃、輔仁大学生約500名は北平目抜きの大通り王府井大街に現れ、防共自治反対のビラを撒布、打倒日本帝国主義を叫んで喊声を揚げつつデモを敢行した。公安当局の一隊はついに消防用ホースで冷水を浴びせかけ、小競り合いを演じ検束者を出し、間もなく解散した。
女学生が先頭〔北平9日発電通〕北平市中到(ママ)至るところで学生示威運動団と巡警との小競り合いが起こり、消火ホースや銃剣で追い散らされてはまた集合し、半数を占める女学生が先頭に立って「打倒日本」を絶叫している光景は、二十一ヵ条問題当時に彷彿たるものあり、裏面に共産党の煽動あること十分に観取される。

学生運動全国に拡大〔1935年12月12日、東京日日(夕刊)〕〔上海11日発連合〕北平諸大学の華北自治反対運動に呼応、9日、南京各大学の教授、学生は自治反対の声明書を発表したが、更に10日、浙江大学学生は全体会議を開催、全国各学校に対し北平大学に呼応せよとの通電を発し、同時に宣伝隊を組織、自治運動の排撃に乗り出すに決定した。武漢大学も国民政府並びに何応欽氏に自治反対の通電を発し、一時屏塞していた学生運動は往年の意気を恢復、漸次全国に波及する形勢である。

広東で4000人デモ〔1935年12月13日、中外商業〕〔広東12日発連合〕中山大学生、同附属中学生を中心とする広東市内の各校学生団およそ4000名は12日午後1時、突如華北自治運動反対の一大示威運動を起こした。学生団は5~600名の女子学生を交え、「抗日大示威運動」と記した大肺旆を先頭に手に手に小旗をうち振りながら、蜿蜒長蛇のごとく広東全市を遊行した。学生団は租界沙面に添うた通りに出るや、リーダーの合図で各隊一声に、「華北自治反対」「奸官懲罰」「打倒帝国主義」「武力抗日」等々のスローガンを絶叫し、更に遊行を継続、到る処で交通を遮断しつつ中山公園に達するや、リーダーが相次いで激越な演説と「打倒日本帝国主義」を絶叫、午後六時に至りようやく散会した。

河相総領事、厳重抗議〔広東12日発連合〕広東駐箚河相総領事は12日午後5時半、広東省政府を訪問、主席林雲?氏不在のため代理主席区芳浦氏と会見、口頭を以って学生団の華北自治反対運動に対し厳重抗議し、左のごとく述べた。
最近支那の自治に関し、学生がしきりに反対の気勢を挙げて居るが、学生が抗日運動を起こす結果、日本に対する一般の空気は悪化し、延いては抗日救国会の再活動を惹起するかも知れない。省政府では這般の事情を考慮、学生運動を厳重取り締まられたい。追って公文書を提出、取り締まりを要求するが、とり敢えず口頭を以って学生運動の禁絶方を要請する。

この他にも、上海各大学長も華北自治に反対〔12月15日中外商業〕、上海の学生、救国連合会を組織〔12月16日東京朝日〕、中南地方の学生、南京へ請願に動く〔12月22日大阪毎日〕、上海停車場、一時占拠される〔12月24日大阪毎日〕、学生と警官隊衝突、数十人負傷〔12月25日中外商業〕、上海の学生運動、工場に飛び火〔12月25日東京日日〕、上海、南京、武漢に戒厳令〔12月27日東京朝日(夕刊)〕、商工業者が学生に合流、排日貨運動〔12月28日中外商業(夕刊)〕など多くの日本の新聞が、12・9運動の全国的、全国民的拡大の事実を報道している。

日本へ

父がすでに亡くなっていたので、宗植にとって大伯父だけが唯一の支えだったが、京派だったために、宗植が上海の大学へ入りなおすことを許さなかった。学業を続ける道として宗植に残されたのは日本留学だけだった。大伯父は、とりあえず膝元である武漢の中華民国財政部の職員の身分を用意してくれた。名目的な身分とはいえ、月給は1935年9月からきっちり支払われて月々80元の貯金ができた。これはほぼ80円に相当し、かなりの高級取りということになる。大伯父の周到なお膳立てで、宗植は次第に中国社会主義革命から遠ざかる環境に身をおくようになった。資金の面でも日本留学の準備が着々と整ってきた。

1936年7月、ほぼ1年間に蓄えた500元(525円)を持って上海から日本郵船の船に乗って長崎経由で神戸に上陸し、東京へきた。留学生活には年間に400円くらいは必要で、大伯父ちゃまに援助を請うこともできたが、どうしても自分の金で留学したかった。東京では高田馬場に下宿して神田にあった東和日本語学校へ通った。清華大学で1年以上日本語を勉強し藤村の小説や西田幾太郎の哲学書をある程度読むまでになっていたので、神田での日本語学習は順調だった。日本語の先生は一高に入って東大にいくように勧めたが、それでは卒業すると30歳になってしまうので、翌1937(昭和12)年4月、日大法学部に入学した。

夏休みになると、杭州の女子師範を出て上海の学校で教師をしていた妹が日本に遊びにきた。しかし7月7日に日中戦争の発端となった蘆溝橋事件が起こった。日本と戦争になれば帰国しようと思っていたが、蒋介石の態度がはっきりしないので、少し様子をみることにした。しかし戦火は拡大し、上海が攻撃され日本海軍陸戦隊が上陸する。2~3日おきに警察が下宿にきて本や持ち物を調べる状態が続き、張宗植はついにこれ以上日本にいても意味がないと、帰国を決心した。

たった1年の日本生活、ことに大学には3か月しか在学しなかったので、中国人留学生との交流はあったけれども、日本人学生の友人ができなかったのが残念だった。日本留学のひとつの目的であった「なぜ日本は軍国主義の横暴な国になってしまったかを自分なりに見究めること」もできなかった。ただ買い物などで東京の庶民と接するかぎり、中国で見る日本人とは異なってつき合いやすく警戒感がなかった。10年して再度日本にきたとき、敗戦という大きな歴史的転換をくぐっても、日本の庶民の雰囲気が変わっていないと感じた。張が中学時代を過ごした上海は商売の町なので「人を見たら泥棒と思え」といわんばかりに防衛本能が先立って、他人をなかなか信用しない気風がある。当時の東京は、これとは違った雰囲気だった。ただし、九段界隈にいくと軍人が多くて、彼らは一般の日本人とは別人のような感じを受けた。

古典に親しんできた張宗植からみると、古くからの中国文化、特に唐・宋代の文化の雰囲気は中国よりむしろ伝わった日本のほうが大切にされている。中国は自分でつくった古代文化なので、自分の手で破壊することにあまりこだわりがない。1938年8月15日、張はカナディアンエクスプレスの船便で上海に戻り、すぐ武漢に急いだ。

国共合作抗日総司令部へ

武漢には、南京を追われた国民党が主導して共産党と民主諸党が参加した国共合作の抗日総司令部がおかれ、日本の占領地域をはじめ中国各地から学生が集まっていた。彼らには、日本軍の占領下では生活したくないという思いが強かった。学生たちは接待所で登録すると少尉として任官し、後方の仕事をする者は戦闘勤務の将校の70パーセントの給与を支給された。政府の学生救済という一面と同時に、知識階級の取り込みでもあった。郭沫若が長を務めていた第三庁に配属され、電報の漢字訳の仕事をした。漢字は数字コード化して電報で送るので、届いた数字を漢字に戻す作業が必要だった。例えば張という字は偏の弓が34、旁(つくり)の長が56なので、全体としては3456が張のコードである。
漢字訳も3週間ほどでうまくいくようになった。

ある朝突然清華大学の哲学の教授に出会った。
「えっ、君どうしてここにいるの」
「日本に留学していましたが、戦争がはじまったので学業途中で帰国しました」
「私のところに来なさい。月刊誌『戦争文化』を編集しているので手伝ってほしい」
そんなわけで、また雑誌の編集に携わることになった。しかし1938年秋、武漢に日本軍が迫り編集の拠点を重慶に移すことになる。大きな書類箱3個といっしょに船に乗って長江を遡ったが、船が大きくて重慶までは行くことができないで途中で降ろされてしまった。そこから先は喫水の浅い船に乗り換えなければならない。書類箱は岸壁に置かれたままで、ただ便船を待った。毎日、民生という船会社の担当営業部長と交渉する。
「今日は乗せてもらえますか」
「いや、この軍需物資のほうが優先だから」
「もう、ずいぶん待ったんですが」
「あなたのは必需品でないから」
「雨でも降ったらおおごとだ。みんな駄目になってしまいますよ」
「油紙が被せてあるから大丈夫です。それに冬が近いから雨なんてありません」

いつまで経っても埒があかない。そのうちに船会社の人たちの仕事振りが嫌でも目に入るようになってむずむずしてきた。さまざまな機械部品、なかには飛行機もある。荷造りの上に英語の表記しかないものもあってよく読めないでうろうろしている。みんな仕事が遅い。張の持ち前の合理性と勤勉が鎌首をもたげてきて、とうとう「手伝いましょう」と口を出してしまった。この貨物は何立方メートルだからどこそこに積み込むといった手順を手際よく考えて、てきぱきと指示したので仕事が大いにはかどる。次ぎの日も手伝って営業部長に礼をいわれ、ついに自分の荷物のために2立方メートルのスペースを確保してもらうことに成功した。優先度の高い貨物が大きすぎて、2立方メートルでは不足だからという理由がつけられた。何日も時間を食ってしまったが、ここでの営業部長との出会いが張宗植の生涯を決定することになろうとは、彼自身まったく知るよしもなかった。
重慶での雑誌出版は困難をきわめた。ろくな印刷機がなく、まともな植字工もいなくて、活字を自分たちで拾う始末だし、2か月かけてできた印刷は誤植だらけで、教授も「ここでは無理のようだね」と諦め顔だった。国民党政府が置かれた重慶には、共産党も代表部事務所を設置し周恩来がときどき駐在していたし、街は非常に混乱していた。

重慶で船舶会社に就職

こんな毎日を送っていた1939年の夏のある日、重慶の街中でばったり舟運会社民生のあの営業部長に出くわした。
「やあ、奇遇ですね。ここであなたに再会するとは」
「私も驚きました。懐かしい感じです」
「ちょっと時間とれるんでしょう」
「はい、今はそんなに忙しくありませんから」
「じゃ、その辺でお茶でも飲みながらすこしお話しましょう」
営業部長は何かいいたそうで、2人は近くの喫茶店に入った。
「張さん、まだ雑誌の仕事やってるの」
「ええ、まあ・・・・、でも重慶では満足な印刷ができなくて」
「いくらもらっているの」
「35元です」
「実はね、秘書が一人欲しいんです。英語のできる人が欲しい。あなたの仕事振りを見ていてこんな人がいたらと思っていました。まさか舟のお客さんで抗日司令部の人にいきなり引き抜きを申し出るわけいもいかないで、みすみす取り逃した思いでしたよ」
「あのときは、自分の荷物をどうしたら安全に一刻も早く重慶に運ぶかで頭がいっぱいで無我夢中でしたから」
「いや、人間はそんな状態でこそ日頃もっている能力がそのまま出てくるものです」
「はあ・・・・」
「我が社にきてくれたら食事は3食とも会社負担です。制服も年に夏用2着、冬用2着支給します。給料は37元半出しましょう。どうですか、是非きてください」
「上司と相談しなければなりませんが、いつからですか」
「いつでもいいですよ。明日からでも」

民生での勤務が始まった。社長は若いとき中学校で国語の教師をしていたが、中国の内陸水運が外国船に支配されているのをみて、どうしても中国の船会社をつくりたいという思いで民生を設立した。国民政府と強いつながりをもって、政府の物資輸送について長江の水運とトラック便を一手に引き受けていた。民生には三峡より上流にいける底の浅い舟が60隻あるのが強みだった。政府に業務報告書を提出する仕事で営業部長が各部からの報告をまとめて、それをもとに社長自身が中国語の筋書きにし、張宗植が整理して文書にし、英訳も担当した。全部長が集められたなかで、張は社長じきじきに仕事の首尾を賞賛された。まるで中学生が先生から誉められるようで恥ずかしいといったらこの上なく、首まで真っ赤になった。

民生の輸送力が認められて、社長は国民政府の運輸副部長(副大臣)に就任した。そうなると民間会社の社長を兼任することができないで、代理人の副社長をおくことになった。上海の高名な弁護士でハーバード大学で法律を学んだ海上保険が専門の人で、英語が大変うまいI氏が選ばれた。彼は短い期間で社業全体を理解し社内を把握しようと考えて、よく社員のデスクを回っては話をした。張宗植のところにもやってきた。
「張さん、仕事はどうですか」
「うまくいってます」
「忙しいですか」
「いいえ、そんなに忙しくはありません」
ほかの人にはこんなこと聞いてないから、これは何かあるなと張宗植は思ったが、正直に答えた。勤務時間は午前9時から午後5時までで、朝一番にまずロイターの電報を中国語に翻訳する。これは20分ほどで仕上がってしまうのだが、その日のうちに会社の上層部が読めるようにしておかないと次の日では意味がない。営業部長が出す返信手紙のうち通常の決まりきったものは部長自身が書き、特別なものを張が担当することになっていて1時間ぐらいかかるが、そう毎日ある仕事ではない。あとは営業部の会議録づくりだ。
「1日の仕事量は何時間ぐらいですか」
「そうですね・・・・日によってちがいますが、忙しいと3時間、暇なときは2時間くらいです」
「余った時間はどうしていますか」
「本を読みます」
「どんな本ですか」
「いま読んでいるのは地形学の本です」
「自然科学が好きなんですね」
「いや、特にそういうことではありません。本当は人文科学を勉強しましたが、河川交通に関連してたまたまこの本を読んでいるだけです」
副社長とこんなやりとりがあって1週間も経たないうち営業部長がやってきて、
「張さん、頼みたいことがあるんだが・・・・。僕としては、あなたにこの部署にいて欲しいんだけど、社長と副社長が社長室で働いてもらいたいというんで。この話、とにかく断らないでください」
「部長にはお世話になりましたし、営業部のいまの仕事は気に入ってます。周りの雰囲気もよいので私もこの仕事を続けたいですが、部長の命令とあれば仕方ありません。社長室へいきます」
社長室にはすでに3人の秘書がいた。1人はオクスフォード大学出身の四十歳をこえた英語のための秘書、1人は60歳過ぎのおじいさんで文も字もとてもうまい、もう一人は船のデザイン管理をしている秘書だった。張だけが20代の若さなので、秘書の肩書きの代りに社長室主任という職名を与えられた。
1938年10月27日に武漢を占領した日本軍は、1939年5月には海軍の九六式陸上攻撃機をもって重慶の無差別爆撃を開始した。はじめのうち日本軍機を迎え撃って大きな損害を与えていた中国空軍機もやがて姿を消し、重慶は80回以上も空から日本軍に蹂躙されるようになった。とくに、重慶の市民に大きな苦痛を与えたのは2日にまたがる空襲である。日本軍は2機編隊で飛来して爆弾を投下して引き揚げるとまた別の2機がくるという具合に、少ない持ち駒で執拗に長時間にわたって空襲を続け、市民にいいようのない恐怖心と疲弊をもたらした。

民生会社の事務所は重慶城内とは嘉陵江を挟んで反対側、南側は長江、西側は嘉陵江に面した二つの川の合流地点に建つ倉庫の中にあり、建物の下の岩盤に防空壕がつくられていて、敵機がくるとそこに避難した。しかし日本軍は城内だけを爆撃目標としたので、会社は空襲を受けずにすんだ。長江の南岸にあった張の住まいも、爆弾の直撃は食わなかった。

最大規模の空襲のときには一般市民に多数の死者がでて、トラックが終日引きも切らず死体を埠頭に運び込み、そこから船に積み換えてさらに下流のどこかへ運んでいくのが事務所から見えた。多くの犠牲者は防空壕の中で窒息死したといわれている。張が会社の同僚と城内に見にいくと、町は至るところ瓦礫で、ときたま家の壁の一部分が残っていて、ガラスが吹き飛んだ窓から腕がぶら下がっていたり、長江の流れに首のない死体、足だけ、頭だけが浮かんでいた。マージャン牌を握った手だけが主の無念さを訴える光景もあった。哀れを誘ったのは頭のない子どもの死体、腸が破れた女性などだった。パールハーバー以後、日本が軍事力の重点を中国大陸から太平洋方面に移したので重慶空襲はなくなり、市民は緊張から解放された。一方、国民政府の軍事輸送を仕切っていた張の勤務する船会社民生としては仕事が減った。

ヨーロッパへ

1942年、I副社長は外国文献を調べて運輸に関する法律の本を書いて中華書店から出版することになった。当時国民政府支配の地域で文化関係の著作を出版しようとすると、すぐに共産党の嫌疑をかけられて困難に直面することが多かった。出版社もなかなか引き受けてくれなかったが、法律の本にはそういう厄介な問題がなかった。副社長とはとても馬が合ってうまくいっていた張は、原稿の校正を頼まれた。Iは英語に堪能だが、中国語と船舶運輸関係の張の知識を見込んだうえでのことだった。1944年には海上保険法の著作が同じように張の協力で出版され、かなりの好評を得て版を重ねた。

1942年ごろから民生と広大華行の2大会社が提携して民安という保険会社を設立する話がもち上がった。民生の元社長は国民政府運輸部副部長といってもそれは名目的で、実際は出身の民生の仕事をしているほど民生と国民政府の結びつきは強い。一方の広大華行は周恩来がバックアップしているといわれた。民安保険会社の会長は民生から、社長は広大華行から出すことになり、1943年に設立され、次の年から業務を開始し、張宗植は新しい民安保険会社に出向することになる。

ヨーロッパでドイツが降伏して戦火が収まり、アジアでも日本の敗戦によって15年戦争といわれた日中戦争とそれが行き着いた果ての太平洋戦争が終結して数か月後、1945年11月に戦時国際傭船決済事務会議がロンドンで開かれることになった。戦争中は各国で船腹が不足して外国の船を借り入れた。米国に借り上げられた中国船のなかには南米で就航したものもある。しかしチャーター料、修理費、営業費などの決済がまだ済んでなかった。国民政府は会議出席を民生に委嘱した。

会社は英語担当の秘書にロンドン行きを相談したが、行きたくないと拒否された。誰も戦争が終わってすぐのヨーロッパなんか嫌だという。社長は会社の接待所に泊まり込んで社内のいろいろな人に当たったが、うまくいかなくてだんだん不機嫌になった。金曜日のことだった。社長に会った張は、好機到来とばかり社長にロンドン行きを売り込んだ。
「私なら二つ返事でいきます。海外は日本以外にいったことがないので、ロンドンはいってみたいです」
「ふーむ、でも君は若すぎるな」
次ぎの週の月曜日、代理社長が張の席にきて
「あなた、本気でロンドン行きを社長に申し入れたんですか」
「もちろん真剣です」
「社長も真に受けていますよ」
「そうだったんですか。感謝します」
張のロンドン会議出席が決まった。外交官旅券をもって、連合軍輸送部隊のDC3に乗ってカルカッタ、カラチ、カイロ、パリ経由でロンドンまで丸1週間かかった。たった1人で中華民国大使館にいき、打ち合わせをして会議に出ると、もう結論が決まっていてサインしろというばかりだった。会議とは名目だけの形式で、実質は大国が事前に決めていた。さらに、十二月のコペンハーゲンの国際海事会議に出席するためにパリで副社長と落ち合った。今度は、代表として出席するのは副社長で、張は秘書・顧問という肩書きである。空港は冬の深い霧に包まれていていつまでたっても晴れない。その日の昼まで待って、結局宿舎に引き揚げた。

次の日もさんざん待たされていると、突然隣の男が英語で大声を出した。
「特別機を出せ!」
どうもコペンハーゲン行きのアメリカ代表で、上院議員らしい。これを聞いて英語がひじょうに堪能な副社長がこれはしめたと頼み込む。
「もし特別機が出るなら、我われ中国代表も乗せてもらえないでしょうか」
「かまわんよ。同じ戦勝国じゃないか」
たちどころにOKの返事だった。

小一時間して司令部から、ドイツまでなら特別機を飛ばせてもよいという許可が出た。ただしフランクフルトまでで、あとはそのときの天候状態で決めるとのことだった。戦争直後の破壊され尽くしたドイツも少しばかり見て、それからコペンハーゲンに向かった。会議が終わってスエーデンとノルウェーを回ってロンドンに戻り、船舶運輸と保険のことを研修するためにしばらく滞在することになった。政府代表としての国費による滞在費が切れたら会社が負担するという条件だ。
翌1946年6月にコペンハーゲン会議の続きがシアトルで開かれるので、代表の副社長の随行員として参加するためにニューヨークに渡った。今回は米国政府の招待で東海岸から西海岸のシアトルまで各地を視察した。そのころ設立されたばかりの民生と広大華行のニューヨーク事務所に張が立ち寄ったのは当然である。シアトル会議が終わってイギリスに戻って研修を続け、1947年5月に上海の本社に帰任するはずだったが、彼を待っていたのは広大華行ニューヨーク支店行きだった。広大華行の対米貿易が猛烈な勢いで拡大していて、人材が至急求められていた。張にすれば、当面の助っ人なのでその年の暮れには帰国できると思っていたが、八月に日本の貿易再開が発表されると状況が変わってしまた。

日本との貿易

東京の連合国総司令部は、日本との貿易に参加できる事業所を各国ごとに108と制限した。中国では共産党と国民政府の内戦が拡大し、共産党のバックアップがある広大華行は蒋介石を支持するアメリカに睨まれていたので、中国の108社の中に入れてもらえなかった。広大華行本社はそれならばと、ニューヨーク支店をアメリカの対日貿易108企業に潜り込ませようと作戦を立てた。張はニューヨーク支店長とは重慶時代からの知り合いだし、戦前日本にいたことがあって日本語もできる。担当者に最適だと本社は判断した。日本派遣は寝耳に水だった。支店長に話を聞いて張は驚いた。

「民生でも社内の仕事ばかりで、貿易や商売はしたことがないので勘弁してください」
「私としても、張さんがいいと思うけど」
「他の人を推薦してくださいよ」
「支店長の分際じゃどうしようもない。いま本社に電話入れるから直接社長と話したら」
ほどなく電話がつながり広大華行のR社長がでる。
「社長ですか、張です。支店長にも話したんですけど、私は適任ではないです。どうか誰か他の人にしてください」
「もう民生の社長にも話してあります」
「日本へ行っても商売のこと何もわかりませんけど」
「商売なんて簡単です。商売の道に入るときは誰でも素人だけれど、3年たって素人はいないんです。張さん、あなたのことは重慶のときからよく知ってます。冗談いわないでくださいね。どんなに商売が上手な人も、あなたには及びませんよ。もう決まったことですから、国には帰って来ないでください。」
「社長にそうまでいわれては仕方ないです。承知しました」

すぐにワシントンの弁護士を訪ねて手続き代行を依頼すると、「難しいことを頼まれたようで、望みは少ない」と宣告された。八月十五日に受付が始まって月末までにもう5~600社が申請するという盛況で、あとはキャンセル待ちで2年はかかる状況のようだ。超大企業のGMですら同じことらしい。「気長に待ってください」と気休めともつかないことをいわれ、ともかく写真とパスポートを添えて書類だけは提出した。
ところが9月20日ごろ弁護士から手続きすれば10月には日本に行けると連絡してきた。
事情を聞くと、コカコーラやマクドナルドを含む第一次決定の各社が大挙して日本を視察したところ、ほとんどが失望して帰国した。日本は、もちろんアメリカの物が欲しいが外貨がない。アメリカが日本の物を買ってくれさえすればドルが手に入るから、それで米国の物を輸入できるという理屈だが、肝心の売り物がない。日本にあるのは焼け跡ばかりで、アメリカの会社が買い付けたいようなものはない。そんな判断を下して対日貿易参入のキャンセルを記者発表した。

1947年10月、張宗植は広大華行の日本駐在員として赴任した。GHQ(連合軍総司令部)の指定によってパレスホテルが住居、いまの住友信託ビルのある東京ホテルの四階の一室に事務所を構えた。USスチールの紹介でGHQの科学技術担当官を訪ねると、アメリカの会社が日本に進出しないのはアメリカ人の理解不足によるものだ。戦前のような絹などはないけれども、日本は有望な貿易市場だという話を聞いた。張が真っ先に手がけたのは中華料理の食材だった。ニューヨークのチャイナタウンで干貝柱や寒天が大量に使われていて、日本も生産していることをよく知っていたので、これなら必ずアメリカが日本から買うことができて商売になると考えた。住友商事を窓口に東北と北海道で仕入れてアメリカに輸出した。来日して三か月たらずで日本から米国への輸出が18万ドル、米国から日本への輸入が二万ドルの実績をあげて周囲を驚かせた。

夜になるとすることがなく、時間を持て余していた。あるとき同じホテルに住んでいたヴィックス社の人とプレールームでトランプをしながら四方山話に花を咲かせていた。ヴィックスの喉飴の材料にするハッカを買い付けに来日したと聞いて、「ハッカはいけるぞ」という張の鋭い商売勘が働いた。戦前までは北海道の北見地方がハッカのメッカで世界中からバイヤーが集まり、ハッカ相場は北見で決まるといわれたほどだった。北見は戦争中に生産量が激減し、もうひとつの生産地である中国の長江北部も日本軍が栽培を禁止したために減少してしまって、世界中のハッカの需要と供給のバランスが崩れていた。

GHQの貿易局に対して、ヴィックス社は日本の輸出量のすべてを輸入したいと申請した。喉飴にハッカはどうしても必要で、いくら買い付けても十分ということがないほどだった。張も同じように全量輸入を申告し、ほかに数社が一定量の輸入を希望した。貿易局が決定した割り当ては、ヴィックス社と張の広大華行が日本の輸出量の三分の一ずつ、その他の申請者は合わせて三分の一というものだった。張の勘はまんまとに当たって、売り手市場のハッカを大量に手にすることができた

4800ポンドのハッカのアメリカ側引き受け窓口としてニーヨークの貿易商がすぐに見つかった。売りさばけなかったら知らせるように依頼した。張には「ヴィックス社に話を持ち込めば必ずいい値で買い取るはずだ。日本の輸出の全量が欲しかったのだから」という心算があった。
アメリカの広大華行の日本代表として、はじめは米国だけを取引き相手にしていたが、1949(昭和24)年から上海の本社とも直接取引きするようになった。中国とはバーター貿易しか認められなかったので帳簿で価格を調査するのも手間がかかったし、中国から日本へ先に品物が届かなければならないという、まるで中国が信用されていない貿易システムも問題を難しくしていた。それでも大豆、大豆かす、菜種かす、桐油、鉄鉱石などを日本に輸入した。1949年に中華人民共和国が成立し、翌年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると中国との貿易は禁止された。アメリカは中国との国交を開かなかったので、その年の暮れには広大華行もニューヨークから撤退したが、米国の広大華行にいた人たちはサミット・インダストリーという会社を設立して貿易業務を続けた。張はその会社の日本駐在員ということになった。

1952年4月28日の対日講和条約発効とともに、SCAP(連合軍最高司令官)が発行した身分証明書による張宗植の日本在住資格は消失した。代わって貿易業務の実績がある人に対する日本政府の半永久在住資格に切り換わった。台湾国籍でも中華人民共和国国籍でもない個人としての在住権である。1954年10月、彼は森美貿易株式会社を設立して独立した。とはいっても米国のサミット・インダストリーとの提携は続けた。森美というのも広東語の発音でサミットに通じるし、妻の旧姓杉森の一字と同じということでつけた社名だった。張宗植の日本名森宗一も妻の旧姓と本名から決めた。

張は中国で結婚して息子が一人いる。しかし単身で外国に赴任している間に祖国には革命を経て中華人民共和国が成立し、なかなか帰国できないでいた。中国の安定した状態を待つうちに、時が流れ帰国の機会を逸してしまった。当時は、夫が外国にいるというだけで妻はスパイとみなされて離婚を迫られた。日本から送金すればなおのことスパイの嫌疑が深まるばかりだった。華僑総会を通して連絡をとったりいろいろ努力したが問題解決は進展しなかった。家族を呼んだとしても言葉の壁、経済的リスクを考えるとなかなか踏ん切りがつかない、妻に相談したくても入国許可がおりない。

どんなに仕事に精をだして励んでも、このことは一時も頭から離れなかった。生きながら心臓に楔を打ち込まれて、その先に重い鉄塊を曳きずっているようだった。しかもそれをつなぐ鎖はあまりにも太く頑丈で絶対に切れることがない。こんな状況が続いて講和条約が締結される少し前1952(昭和27)年に突然、東京華僑総会から連絡を受けて、妻が党の方針に従ってすでに離婚届を提出し受理されたと知った。妻がいちばん夫の助けを求めて苦しんでいたときに何もしてあげられなかった悲しさ、悔しさ、空しさが張を苛んだ。彼は日本永住の道を選んだ。銀座八丁目のいまの全国燃料会館にあった張の事務所に杉森春江が入社したのは1949年だった。経理を担当した彼女は、このころすべてを失ったような張を見て、「私がいなければこの人はどうなってしまうだろう」と思ったという。彼女の胸に密かな愛が芽生えていた。2人はやがて結婚して、2人の娘をもうけた。

精油所輸出第一号

ベトナム戦争が激化するにつれて、米国はタイ国内の基地強化と、隣接するラオス、カンボジアとバンコクを結ぶ高速道路建設に乗りだした。ところがアスファルトがないというので、ニューヨークのサミット・インダストリーはバンコクに支店をつくってアスファルトの商売を手がけることにした。タイ国内ではアスファルトが生産されてないし、アメリカから輸入するのでは高くつく。張は日本国内を調べてみたが、日本も道路建設ラッシュで生産されるアスファルトはあらかた国内で消費されて、輸出のゆとりがほとんどない。それでもM石油に少し余裕があること、T石油が道路公団に納入しているが中間マージンをとられていることがわかった。森美はT石油から道路公団が買い入れるのと同じ条件で月に1000トンを買い付ける契約を結んだ。M石油の分も買うことにした。決済はニューヨーク経由で行った。

それでも毎月の買い付け量に変動があって、もっと安定したアスファルト供給が必要だった。台湾の石油会社のチーフエンジニアに依頼してニューヨークへ行って協議してもらったところ、タイ国内に精油所を建設してアスファルトを生産するのがよいという結論になった。エッソやシェルが中東で石油採掘を開始して精油が間に合わない時代で、新しくタイに精油所を建設しても十分採算がとれる見通しだった。ところが精油所は国防関連施設なので外国資本による建設は許可できないと、タイ政府から拒否された。頭のよい人がいて、それならアスファルト工場として申請して、主生産品の副産物がケロシンという手を考え出した。事実上は精油所なのだが、とにかく許可が下りた。25年間操業したあと、無条件、無償で経営権をタイ政府に引き渡すという約束だった。

張は日本のエンジニアリング会社に精油所建設を頼みたかったが、ニューヨークのサミット・インダストリーは日本の技術を信頼しないで、アメリカの廃業精油所を解体してタイへ移築することを主張した。結局、解体と輸送コストがネックとなってこの案は中止になり、アメリカの設計で日本が加工、建設することになった。三菱商事のコーディネイトで八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、千代田化工、日本揮発油がプロジェクトに参加した。当時日本の精油所建設業界はほとんど仕事がなく、人件費も安かったので、コストを抑えることが可能で、日産3万バーレルの新しい精油所が米国の3.5万バーレルの廃精油所の移転より安くできた。

日本の精油所輸出第一号だったので、通産省への説明には、張も三菱商事の担当者に同行した。サミット・インダストリーとチェースマンハッタン銀行の関係からアメリカ側の資金調達も円滑にいった。日本でも大蔵省の許可が下りて生産開始から15年の返済を条件に輸出入銀行の融資が受けられた。原油も精製品が売れてから代金を支払うという破格の条件でエッソから入れることになった。精油所は一九六二(昭和三七)年に操業を開始し、1965(昭和40)年には三菱長崎造船所で専用タンカーが完成、1967(昭和42)年には日産17万バーレルに拡張された。

1963年にマレーシア連邦から分離独立したシンガポールには、エッソやシェルが経営する外国の精油所しかなくて、自分の国の精油所を求める機運が高まっていた。1969(昭和44)年にシンガポール開発銀行とサミット・インダストリーの半々出資で石油会社を設立し、精油所の建設にとりかかった。シンガポールは多民族国家だが中国人が多数を占めるので、ニューヨークの中国人の会社であるサミット・インダストリーはうまくいった。工事は日本の会社が請け負った。精油所の完成が近づくと会社に十万ドルを準備してもらい、「竣工が1日早まるごとに報奨金を1万ドル出す」といって急かせたので、予定より7日も前にでき上がり引き渡しが終わった。

はじめから日本との取引きは森美が独占的に取り扱う契約を結んで、1973年に対日輸出がはじまった。通常、重油の硫黄分は2.5から3.5パーセントだが、日本の発電用重油は1パーセント以下が要求された。シンガポールでは日本向けに当初から硫黄1パーセント以下の重油を精製し、東京電力と関西電力に納めた。ナフサはガソリンにしたほうが高値に売れるけれども、シンガポールではガソリンの需要が多くないので、石油化学製品の原料としてのナフサが不足している日本に輸出した。原油価格はアラビアなどとの長期契約で安定していたために、1974(昭和49)年の石油危機でも値上げ幅は大きくなかった。そのために通常の対日取引きを超える余剰分は1バーレル当たり200円から300円も儲かった。ケロシンは日本では主として暖房用の灯油で、夏場の需要が極端に落ちる。タイでは家庭の炊事用にプロパンガスではなく灯油が使われるためにケロシンは一年中売れるので、夏期には輸出先を日本からタイへ切り換えて、販売量の平準化をねらうなどいろいろ工夫を凝らした。
25年経って、バンコクの精油所はタイ政府に移管された。この5~6年石油業界はどこも経営状態がよくなくて赤字に悩んでいるなかで、シンガポールはまだ黒字を続けているとはいえ儲かっていない。

中国を思う

1977年に上海で画家をしている母の弟に会ったとき、張は中国に残した長男の子ども、つまり自分の孫が孤児になっていることを知って衝撃を受けた。その孫は、いま合肥の中国科学技術大学の教授である。上海で教師をしていた張の3つ下の妹は、1938年にインドネシアで私立の華僑学校を経営していた友人に招かれて校長を務め、当地の華僑と結婚した。しかし華人学校が一時禁止されたこともあって、夫の商売を手伝うようになった。3人の子どもも成長し、息子はディズニーキャラクターの陶器をつくって米国に輸出している。二人の娘も日本経由でアメリカに渡って教育を受けた。張の異母弟は中国に残っている。

中国の外資信託投資公司からサミット・インダストリーに中国国内3か所の石油探査の話があった。1980年1月にニューヨークからサミットのバックであるチェースマンハッタン銀行の人が、バンコクからは張が、それぞれ北京へ向かい、10日間滞在して話し合った。中国政府の華僑資本を歓迎する方針に沿って、サミットは石油探査に関心はなかったうえに、強いビジネス意欲をもつ精油所については当面計画がないという話だったにもかかわらず、長期的な視野にたって200万ドル投資して予備調査を専門会社に依頼した。しかし、有望な油田の可能性はなかった。

その中国訪問のとき、何人かの昔なじみに会いたいので段取りを依頼した。張が勤めていたときの広大華行の社長、大学の同級生で文部大臣のS、その他に2~3の人をあげた。10時にいとこの奥さんと一緒に文部省に行くつもりでホテルの自室にいると、9時にドアがノックされた。誰だろうと思ってドアを開けると
「張宗植さんですね。私、文部大臣のSです」
「えっ、いくら昔の同学でも、いまは文部大臣の地位でわざわざホテルに会いに来ていただくとは感激です。どうぞお入りください」
「噂で、日本にいるとは聞いていたけどね。会いたくて、役所にいても待ちきれないでホテルに来てしまいました」

大学時代の話が、あれやこれや止めどなく湧き出てたちまち時間が過ぎてしまった。
張宗植は85歳の今日まで30年間を中国で、2年間を欧米で、そして53年間を日本で生活してきた。彼はいう
「中国革命がなかったら中国に帰っていたでしょう。友人のなかには帰国した人が大勢います。また、もし日本で商売ができなかったら、状況は変わっていただろうと思います。とくに、文革がなかったら祖国に戻っていた可能性が高いですね。昔は台湾にたくさん知人がいましたが、いまは北京のほうに知った人が多いです。副総理など共産党の重要人物も友人です。トインビーの世界史に、かつて全世界の3分の1が中国だったと書かれています。それが清の時代にヨーロッパ帝国主義の植民地になって中国の没落がはじまり、1930年代になると中国人はまったく意気消沈してしまいました」

「何とかして、世界の人たちと対等に伍していきたかった。学生運動はそんな気持ちからだったのです。でも、現実には日本軍の侵略があり蒋介石は無抵抗でした。そこに毛沢東が出てきました。僕は1947年まで中国にいましたが、それ以後は中国に何も貢献してきませんでした。それが恥ずかしいんです。自分がかつて学生だったときの気持ちを思い起こして、中国の大学のために、学生のために何かをしたいと考えました」
そんな心境から、張は清華大学に「12・9奨学金」を、中国科学技術大学に「科学技術奨学金」を設立し、それぞれ40万ドルと20万ドル、合せて60万ドルの私財を拠出している。7時間にわたる話のくくりに張宗植はしっかりとした口調でいった。
「侵略戦争はだめです」





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最終更新日  2023.08.27 06:44:23
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