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今話題のカード三井住友銀行・三井住友VISAカードの「OLIVEフレキシブルカード」の話しです。一番の魅力はコンビニ(FM除く)、マック等で「OLIVEカードタッチ決済」であればトータル5%、「OLIVEスマホタッチ決済」であれば7%のポイントが付与されることです。早速申し込みをし、カードを入手と共にとスマホのタッチ決済の設定をしてみました。(出典:三井住友銀行)既に、「三井住友カードNL」は保有し、コンビニでもタッチ決済でも利用していましたが、新カードやスマホのタッチ決済はしたことがなかったので、実際に使用することにしてコンビニに行きました。「自分でやってみないと、自信をもって使えない」ものですね。<実際に、コンビニセブンイレブンで使用した>⓵今朝、「セブンイレブン」にでかけ最も高いポイントを獲得できる「スマホタッチ決済」という方法で、、決済をしてきました。トータル7%(いつまでこの制度が続くかはわかりませんが)です。従来は、「三井住友カードNL(ナンバーレス)」のVISAタッチ決済で5%でした。ただこの高ポイントは、コンビニ(FMは除く)、マックなど対象の店は限定されていますのですべての店ということではありませんので注意が必要です。(出典:三井住友銀行「OLIVEフレキシブルカード」)②三井銀行・カードグループは「Vポイント」というポイント制度です。楽天ポイント、dポイントにくらべると正直なところ利用先がやや限定されています。また、通常の利用では0.5%のポイント付与ですので、高ポイントのつく店での利用やスマホOLIVEタッチ決済などの利用方法が求められます。③この「OLIVEフレキシブルカード」のちょっと便利な機能《4つの機能が集約》「キャッシュカード、クレジットカード、デビットカード、ポイント払い」の4つの機能が1枚に集約。いままでのように何枚もカードを持つ必要がないのは魅力です。《モード選択で》また、「クレジットモード、デビットモード、ポイント払いモードに」いつでもどこでも切り替えできるのは便利な一面、通常はよく使う「クレジットモード」などに設定しておくことがポイントのようです。<銀行・カードなど使い分けが求められる時代です>最近は、物価の上昇が激しく、生活面でもじわじわ影響が出てきています。円安による輸入原材料の高騰による「食品」、「生活必需品」、「家畜のえさ代」などの物価上昇やインフラたる公共料金の「電気代・ガス代」の値上げ、物流に関係に大きく影響する「ガソリン代」の値上げ、それに伴う「二次的な物価上昇」は大きいですね。この物価上昇について、あまり大きな声が報道されていないにはちょっと不思議な感じすらしています。消費者も利口なので実際に買い控えも起こっているようです。「物価上昇」VS「買い控え」の綱引きでいずれ安定していくものとは思われますが、しばらくは厳しい生活に中にありそうです。少し生活の実態を深掘りすると、通販、銀行、カード業界、各店舗などの競争は以前にも増して熾烈になっており、私たちの支出に伴うポイ活たる「ポイント獲得」面でもアンテナをはって、有利な活用をすることが求められています。「たかがポイント…」ではありますが、適当にゲーム感覚で「ポイ活」もすると情報収集や脳トレにもプラスになるので楽しくフットワークよくやっていきたいと考えています。以上
2023.08.22
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物価高など本格的な波がやってきました。一庶民の立場で感じていることをまとめてみました。 (出典:朝日新聞)<値上げラッシュが続く>この数か月の商品の値上げは、まさに「堰を切ったように」ほぼ全体的に実施されています。このような物価高には①高付加価値路線で高価格維持、②値段を上げる、③値段を上げない代わりに、量を減らすなど施策をとっているようです。ただ、「消費者不在」で「消費者の反発」を生じさせる「値上げ」を実行する企業は、「需要減」「売り上げ減」という形で、かならずしっぺ返しがあるものです。ある期間たてば少しずつ収まってくるものと思いますが、当面は支出面でやれる範囲で手を打つことが求められそうです。 <公共料金の値上げの影響は大きい>今回のポイントは政府による「公共料金などの値上げ抑制」のトリガーが弱まっていることです。公共料金の値上げはすべての価格にじわじわ影響が出るものなので生活面での厳しい方々には、影響が大きくなってきそうで心配しています。さらに、物流費用に関係するガソリン代の高騰もその影響は大きなものがありそうです。 <生活の自衛を>一方、最近は、物価高と並行して各経済圏の競争も熾烈になってきており、カード発行メリットやポイントの付与なども競争も激化しており、うまく利用しない手はありません。間違いなく「支出面」での影響は出てきますので、さらに支出を減らすか、可能な範囲ではたらき収入を増やすか、ポイ活や、財テクなどを駆使して生活の防衛(ちょっと大げさですが)することも求められそうです。なかなか簡単にはいきませんので、困ったものです。以上
2023.08.10
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6月下旬に、家内が休みを取れたので、二人で「長篠・設楽原古戦場」「桶狭間・古戦場」「清州城跡」「名古屋城」「小牧長久手古戦場」などを1泊2日でみてきました。歴史の推移のなかで「家康公」を見ていると、やはり大きな転機は「桶狭間の戦いに今川方としての従軍」から「岡崎城」に入城したことがあったと思われます。三河周辺は家康の主要な戦いでもあった「桶狭間」「長篠」その後の「小牧長久手」などの三大古戦場があります。 (「桶狭間」古戦場、撮影筆者)<「戦国めぐり1」に続いての旅>今回の旅は、2020年10月に実施した「戦国めぐり1」に続いての旅でした。今年2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の放映とともに、「家康公」が地元の「磐田市」とも深いかかわりがあったこともあり,「家康公」の歩みを追体験してみたいと思いました。具体的には、① 今回のテーマは戦国めぐりⅡして位置づけ、目玉は「桶狭間」「長篠」とする② 旅程は1泊2日、名古屋市内周辺(清州城、名古屋城、徳川美術館・徳川園)、熱田神宮(今回は割愛)、桶狭間古戦場跡・公園、大高城、小牧長久手古戦場、長篠城・古戦場、吉田城などです。旅行計画は作るのはちょっと手間ではありますが、あれこれ考えて「オリジナルの旅行プラン」を考えてみました。<戦国時代を集約に導いた「桶狭間の戦い」から大きく動いた>桶狭間以降の「信長」「家康」の歴史的なできことを振り返ってみましょう。・「桶狭間の戦い」は「信長の登場」と、「天下統一への動き」につながったもの・「徳川」と「武田」の関係は、武田が圧倒的な軍事的に優勢であった→清州同盟への動きへ (出典:「決戦!桶狭間」講談社)1560年-1580年過ぎの期間は、「家康」にとっての苦難の連続で主要な出来事をみてみると、◎1560/6/12.永禄3年「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を討ち、勝利。信長軍4,000人 /今川軍25,000人)※織田家臣毛利新助、服部小平太が義元を討つ※松平元康19歳、大高城へ兵糧の運び込みに成功、義元亡き後、岡崎城へ帰還◎1562/1/15・元康が清洲城に赴き、信長と会盟(清洲同盟)石川数正の献策で、元康は家臣に命じ三河西郡城主の鵜殿長照を攻めさせる(2月) ◎1563(20歳)・今川義元の偏諱をうけた「元康」という名から「家康」に改名(松平家康と改名)、三河で一向一揆が勃発、家臣団の分裂と抗争 ◎1568/1/11・家康、遠江へ侵入する(武田氏と遠江・駿河を分割)・掛川城の今川氏真を攻めるため、見付城へ移る武田信玄が駿河に南下し、今川軍と戦う(薩埵峠の戦い)・織田信長が足利義昭を奉じて上洛 ~「武田」と「徳川」の激しい攻防戦の歴史がはじまった、単独では武田軍とは対峙できない時代◎1572(元亀2年)・信玄が遠江に侵攻、「三ヶ野・一言坂の戦い」で徳川軍が武田軍に敗れる(10月)二俣城が武田軍に落とされる(11月)・織田の援軍(3000人)あるも、三方ヶ原の戦い(12/22)で武田軍に敗れ、家康は浜松城に敗走、もし武田軍が浜松城を攻めていたら、その後の徳川家、江戸時代へつながったか?◎1573年武田軍が野田城を落とす、武田信玄が甲斐への帰還の途で死去家康、長篠城を攻略※家康が長女亀姫を奥平信昌に嫁がせる◎1574/1/5家康、奥平貞能らを味方につける、武田勝頼が高天神城を攻略※第一次高天神城の戦い(武田に奪われる(勝頼)◎1575/5/21天正3年1575武田勝頼が長篠城を攻撃(4月)「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍を撃破(5月)織田、徳川vs武田勝頼(29歳)、織田、徳川38,000人、武田軍15,000人武田四天王の山県昌景、内藤昌豊、馬場信房が討死酒井忠次の献策、足軽鳥居強右衛門の殉死 ◎1579年信康と、家康の妻築山殿に武田と内通しているという嫌疑をかけられる(7月)家康が信康を二俣城で自害させる、※築山殿の死(1542-1579/9/19) ◎1581年家康が武田勝頼に奪われていた高天神城を奪還 ◎1582年甲州攻め(織田・徳川・北条による武田氏への攻撃)始まる(2月)武田氏滅亡(3月)へ ◎1584/3〜10、天正12年「小牧・長久手の戦い」羽柴秀吉vs織田信雄、徳川家康、羽柴軍100,000人、織田信雄、徳川家康30,000人※本能寺の変1582/6/21.天正10年歴史には、「もしも〇〇だったら・・・」という「選択」があります。史実とは違う「選択」がなされていたら、その後の歴史はどうなったか興味は尽きないところです。~あとがき~歴史探訪は楽しみだった「桶狭間古戦場」は周辺地域にビルや建物が林立し原風景から昔の状況を想像しがたく、ちょっと残念でしたが、この地で歴史上有名な合戦の地と思うと感慨深いものがありました。(桶狭間の戦いの深堀)「桶狭間の戦い」について経緯についてわかりやすい記述がありましたのでご紹介させていただきます。戦国大名は戦乱の中にあって互いに全国統一を目指し、しのぎを削っていた。相模の北条、越後の上杉、甲斐の武田、駿河・遠江・三河の今川、尾張の織田等々が勢力を得て、常に領土の拡大、天下支配の野望に燃えていた。今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。 織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。 今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人 ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事であった。以上
2023.08.01
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