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スマホ用車載ホルダーを購入してみました。これは便利ですね。わたしの愛車プリウスも10数年経ち、純正のカーナビもソフトを書き換えしていないのでだいぶ支障も出てきました。新しい道路などは認識できない、目的地を設定するのも結構大変ですし、地域色の強い小さな名所旧跡は設定できないなどがあり、不便さを感じていました。(撮影筆者)<スマホの「マップ」のナビ機能が便利>最近では、わたしはスマホの「マップ」機能の経路、ナビ機能を使うことが多くなりました。とにかく、常に最新の道路情報を提供してくれますし、地域のマイナーな目的地の設定も「マップ」の検索機能で設定するので大変楽です。ただ欠点はナビ利用時にデータ使用量がかかること、右左折の指示がやや直前ということもありますが、結論としては、カーナビ機能だけならスマホのマップ機能だけで十分です。<問題はスマホホルダーの選定と取り付け位置>これまでは運転席と助手席の間のボックスの上に両面テープを貼り、そこにスマホをのせ、固定し使っていましたが、正面でないので画面が見れず、音声だけの指示でナビ機能を使っていました。安全面や利便性から適当なスマホ車載ホルダーを探していましたが、通販で2,000円前後のものを見つけました(ACMEZING)。これは、フロントガラス、エアコンの吹き出し口、ダッシュボードなどに設置できるもので、伸縮、角度などフレキシビリティに富んでいます。わたしのものは中国製ですが、最近の中国製の商品は安全面や商品性も優れており、なかなか良さそうです。他にも同じような商品がありました。特に、助かるのは、現在使用中のスマホケース付き(手帳型)でも簡単に取り付けができることですね。 スマホのインターネット技術やアプリの多様性など本当に便利なものが多くなりました。びっくりと感動の連続です。以上
2023.02.25
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リビングのテーブルをリニューアルしてみましたが、今回のリニューアルでわかったことに「紙ヤスリ(ヤスリ)がありました。うまく使いこなそうとすると、ちょっと理解が必要でした。そこで、大まかではありますが調べてみました。 (紙ヤスリ各種、出典:楽天市場)紙ヤスリの裏側をみると「#100」などの番号が書かれています。この番号のことを「番手」と呼び、「80番-2000番」くらいまでに分かれています。紙ヤスリの番手は数字が小さいほど目が粗く、数字が大きいほど目が細かくなっていきます。ちなみにこの数字は1平方センチメートルあたりの研磨剤の粒子数をあらわしています。● 研磨材の数が多い=細かい● 研磨剤の数が少ない=粗い <紙ヤスリの選び方と基本的な使用方法>紙ヤスリの番手は目の粗さによって大きく4つのカテゴリに分かれています。[1]粗目#40~#100までの番手を粗目と呼びます。日曜大工の木工作業のケバ取りなど、一番最初に使用する粗目のものです。[2]中目#100~#320までの番手を中目と呼びます。木工のニス塗り前や、塗装前の家具に使用します。[3]細目#320~#800までの番手を細目と呼びます。中目で研磨した後の仕上げや、ベニヤや白木の表面磨きなどにも使用されます。[4]極細目#1000~#2000までの番手を極細目と呼びます。ここまで細かいと下地が紙の紙ヤスリではなく、水をつけて使用するような耐水ペーパーになります。金属の研磨、陶器の水垢取りや車のボディなどに使用する方もいますね。※極細目よりも細かい番手もあります。単位がミクロンでプラスチックや石材、繊細な機械部品などの研磨に使用します。 <紙ヤスリ使用の順番について>日曜大工などで木製の家具などを研磨する際は、基本的に粗い順に紙ヤスリを使用します。ザラザラだったり凸凹の大きい面を綺麗に滑らかになるまで仕上げる為には、数種類の紙ヤスリが必要になります。<サンダーの種類と今回利用した電動サンダー>途中から電動サンダーを購入しました。通販で調べると、マキタやアイリスオーヤマ製は大体1万円前後でしたので、京セラ製の入門機の位置づけのMS-30Bを選択しました。これは5000円台価格的に安く、握りやすくて操作性がよさそうなので選びました。これは、力の入れ加減なども使いやすかったこと、サンドペーパーの脱着も簡便で大活躍でした。(購入した京セラ製電動サンダー)[電動ベルトサンダー]以前購入した「電動ベルトサンダー」がありましたが、久しぶりに使ってみましたが、未熟な成果平らに削れないことや、ベルトが切れたりで使いこなせず、今回は断念しました。[ハンドサンダー]そこで、Youtubeで拝見したある方が「ハンドサンダー」を使ってやっていたので、DIYエンチョーに行き購入してきました。やってみましたが、テーブルが縦×横が1.8m☓1mと大き目で、ハンドでの作業にはちょっと大変でしたので断念し、通販で京セラ(Kyocera) 旧リョービ サンダ MS-30Bを購入しました。(ハンドサンダー、出典:楽天市場) <紙ヤスリ使用の順番について>日曜大工などで木製の家具などを研磨する際は、基本的に粗い順に紙ヤスリを使用します。ザラザラだったり凸凹の大きい面を綺麗に滑らかになるまで仕上げる為には、数種類の紙ヤスリを使いながら均していきます。以上
2023.02.21
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次の挑戦は、日々お世話になっている「テーブル」の表面のニスのはがれを補修をすることにしました。このテーブルはwifeのご両親が今の家の新築を記念して購入してくれたもので30年以上年使い続けたものです。やはり、テーブルの表面の塗装がところどころ剥がれてきて、それなりに味わいや歴史を感じる一方でちょっと見栄えが今一になってきました。(出典:撮影筆者、現在のテーブル) ネットやyoutubeで調べたら手間は掛かりそうですが、出来そうなのでチャレンジすることにしました。ポイントはやすり掛けとニス塗り回数のようですが、特に、1回目のやすり掛けでいかに旧塗装を丁寧にとることと、平らにすることが必要のようです。色目をあわせてリニューアルしたいと考えています。面白そうです。<早速、DIYショップへ> 今日は午後近くのDIYショップジャンボエンチョーに行き、テーブルのリニューアルがらみの必要な品を購入してきました。木工に詳しい店員の方がいてその方に教えてもらいながら商品を購入してきました。まず聞かれたのは、天板が1枚板か、中が空洞のものか聞かれました。1枚板でないものは薄い天板に木目調など貼り付けたものは塗装剥がしリフレッシュはできないのようです。ネットなどで調べて行ったものの、①塗装も水性や油性(油性はシンナーで希釈)、②木工着色剤を使うか、着色ニスを使うか、③サンダーも電気、手動のものがある、④ヤスリも紙やすり以外にも種類あり、ます、⑤ヤスリも番号で粗さが異なる、⑥塗りもローラーかコテパテ、刷毛かなど。細かくは聞かないと分からないことも多く、だいぶ勉強になりました。この店員の方に出会ってきかなければ、ちょっとここまで用意できなかったと思います。良い方に出会いました。 (購入した品物、出典筆者撮影)<テーブルを外へ、作業準備完了>帰ってから、第1段階の表面塗装の剥がしを先ほどまでやりました。 (保有のベルトサンダー、使い方が難しい・・・)手間はかかりそうですが、かなりの勉強にもなり、新鮮な感動がありますね。何とかできそうです。ポイントは最初の塗装剥が丁寧に除去することと出来るだけフラット(でこぼこにならない)ことのようです。知らないことを知って、悪戦苦闘しながら実践するのは実に楽しいですね。完成できたらまた報告させていただきます。以上
2023.02.16
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今回は、「徳川家康公と磐田」(第2回)となります。NHK大河ドラマ「どうする家康」がスタートして、静岡県の磐田市以外の各市でも「家康展」が開催されています。<NHK大河ドラマ「どうする家康」がらみの催事、家康展など>【静岡市】「開館記念企画展 徳川家康と駿府」2023年1月13日(金)~2月26日(日)静岡市歴史博物館【静岡市】「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」2023年1月27日(金)~2024年1月28日(日)静岡浅間神社 境内(静岡市葵区宮ケ崎町102)【浜松市】「どうする家康 浜松 大河ドラマ館」プレオ―プン2023年1月22日(日)~2月28日(火)グランドオープン3月18日(土)~(2024年1月14日(日)まで)旧元城小学校跡地(出典:浜松市)【磐田市】「家康、磐田・中泉御殿」企画展2023年1月16日(月)~3月10日(金)磐田市歴史文書館2023年3月29日(水)~4月9日(日)磐田市立中央図書館 【袋井市】「徳川家康公と袋井ゆかりの武将・寺社」展袋井市歴史文化館 【掛川市】「家康と掛川三城ゆかりの武将」企画展2023年1月28日(土)~3月12日(日)掛川市二の丸美術館 【岡崎市】「NHK大河ドラマ特別展 どうする家康」2023年1月21日(土)~2024年1月8日(月・祝)岡崎市美術博物館(高隆寺町・岡崎中央総合公園内)<徳川家康公と磐田>(続き)⑤挑燈野(ちょうちんの)一言坂の戦いは徳川軍にとって負け戦だったが、退却戦として非常に巧妙なものであった。この地域は、湿地帯で川があり石動(ゆるぎ)といわれた湿地だった。 (出典:筆者撮影) (出典:磐田市)⑥ 中泉御殿・陣屋中泉御殿は、将軍の旅行や外出の際の宿泊・休憩施設として全国に90箇所ほど設けられた御殿のひとつです。元々軍事的な施設で、関ヶ原の戦いのときにも立ち寄っています。御殿の敷地は約1万坪と伝えられ、絵図等によると、敷地の北側に土塁と水堀を築き、南側は湿地に臨む要害の地であった。(出典:磐田市、中泉御殿ジオラマ)⑦宣光寺(家康寄贈釣鐘)宣光寺の釣鐘は地蔵菩薩のため徳川家康が寄進したもので、鐘の胴部には「大旦那 源家康」と天正15年(1587年)の銘文があります。(出典:筆者撮影)⑧酒井の太鼓三方ヶ原で敗れ浜松城へ逃げ帰った酒井忠次は城門を開け、櫓門の太鼓を打ち鳴らし、味方の帰城を助けたと言われています。これが「酒井の太鼓」で、現在は磐田市の文化財に指定され「旧見付学校」に展示されています。 (出典:撮影筆者)⑨見付豪商見付の本通り(旧東海道見付の宿)を歩いていて、「安間平治弥邸跡」の碑がたてられています。どういう方かよくわからないでいましたが、今回の一連の「家康」関連の学びの中で、やっとわかってきました。当時の見付の宿の豪商に二人の方がおり、そのうちの1名の方でした。二人は名字帯刀が許され、ともに家康を助けました。その豪商の方々は①安間平治弥(あんまへいじや) 岡崎時代から「家康」を高く評価し、懇意、家康の磐田での陣屋とした、②上村(植村)清兵衛(うえむらせいべい) 冷や酒清兵衛、「徳川」のために情報収集をしていた。(出典:撮影筆者)⑩ 一言観音徳川家康と武田信玄との戦いで、家康が武田軍に追いつかれ、戦況不利とみた家康が立ち寄り、勝利を祈願したといわれている。この観音は一生に一度だけ願いをかなえてくれると伝えられており、徳川軍は戦いに敗れたが、無事退却に成功した。(出典:撮影筆者)<「二人の豪商の貢献」>二人の豪商は「家康」協力者で、その大きな貢献の中には、両軍の戦いの中で圧倒的に不利であった「徳川方」が容易に退却できるように、両名で示し合わせ、見付けの家屋に火をはなったという逸話があります。他の住民にも被害がでるので簡単なことではなかったと思います。 <「家康」は磐田に来ていたか>徳川軍率いて「家康」みずからが、天竜川を渡り磐田にきていたかどうかの史実は諸説あります。兵力差がある中での戦術として「偵察」とか「奇襲」が目的だったと言われています。徳川方武将の「本多忠勝」の「一言坂の戦い」など殿軍として、家康に天竜川を渡らせ浜松城に退却をさせるべく、命がけで闘ったことの史実などを考えると、「武田軍」に打撃を与えるべく「家康」みずから磐田に来ていたという説に賛同しています。 <郷土史家が「家康」と「磐田」との関係を自費出版>磐田市の郷土史家の「岡部英一」氏が令和3年12月に「一言坂の戦い」(静岡新聞社)が発売され、続いて磐田市職員でもある「冨田泰弘」氏が昨年10月に「徳川家康公と磐田~遠州に見える天下人の足跡~」が自費出版で発売されました。「一言坂の戦い」は読ませていただきましたが、冨田氏の「徳川家康公と磐田~遠州に見える天下人の足跡~」を是非読んでみたいと思っています。 ~あとがき~<学び活かすことの楽しさ>自分のことで恐縮ですが、日々「学び活かす」ということを心がけ、「知らないこと、知りたいこと」を調べて自分なりにまとめています。まとめたものをブログやLINEなどで、発信させていただくことが活かすことにもなると思う気持ちもあり勝手ながら友人・知人に発信しています。ここ数年は、NHK大河ドラマと並行して、その関連を調べたり、旧跡等をwifeと二人でドライブ旅行したりしています。「麒麟がくる」では戦国城めぐり(安土城、佐和山城、彦根城、長浜城、小谷城、関ヶ原、岐阜城)、昨年「鎌倉殿の13人」では伊豆の国市頼朝・北条めぐり(北条館跡、関連寺院、伊東祐親関連、しとどの窟 、石橋山古戦場など)などをしてきました。ある意味で、wifeと気兼ねない二人の旅行を兼ねています。二人の貴重な時間であるとともに、歴史の原風景を自分たちの目で、足で歩いてその体験を二人で共有することも長い人生の中で貴重なものと思っています。今年の「どうする家康」でその家康の一生はいろいろなエピソードもありますが、三河時代、浜松・磐田時代が若き家康の苦難の歴史でもあり、ある意味で一番面白い時期でもあります。また磐田との関連もいろいろあり、楽しく調べてまとめています。お時間のある時にご覧一読いただければ幸いです。以上
2023.02.05
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今回は、「徳川家康」と自分の住んでいる「磐田市との関係」をまとめてみました。浜松城、三方ヶ原古戦場、犀ケ崖(さいががけ)などの浜松地区との関係も興味は尽きませんが、次回以降にまとめてみたいと思います。今回のブログは《武田軍の遠江侵入・戦いと磐田の旧跡》(磐田に絞ってみました)です。(出典:磐田市)<当時の時代背景>1542年12月 家康誕生・・・1560年5月 桶狭間の戦い(織田信長VS今川義元)家康が岡崎城に帰還した1561年1月 信長と「清州同盟」を結ぶ1570年、家康、岡崎城から「浜松城」に移る1572年、武田軍、遠江に侵入し、磐田市の「三ヶ野・一言坂」で徳川軍が武田軍に敗れる(10月)、二俣城が武田軍に落とされる(11月)・三方ヶ原の戦い(12月)で武田軍に敗れ、家康は浜松城に敗走する1573年、武田信玄甲斐への帰還の途で死去1575年、長篠の戦い(織田徳川連合軍、武田勝頼軍を撃破(5月)・・・ (出典:「一言坂の戦い」岡部英一著)<「家康」と「磐田市」の関連>わたしが、調べ、確認できた範囲では「家康」と磐田市の関係は、以下の事柄が考えられますが、そのうちの「見付豪商」についてちょっと深堀してみます。出典:「家康と磐田」(磐田市パンフレット)「家康ゆかりの地を訪ねて」(磐田市観光ボランティア)「一言坂の戦い」(岡部英一著)① 見付の町 1572年武田軍と徳川軍が戦闘の場三ヶ野と一言坂の間にあり、三方ヶ原の戦いに先立ち、遠江の各所で徳川家康と武田信玄の戦いが行われた。袋井市木原に本陣を置いた武田方と、三ヶ野に偵察に出た徳川方の間で小競り合いから、見付の町を経て一言坂での戦いが行われた。② 三ヶ野(ものみの松など) 三ケ野台の上に平地があり、当時はここに古墳(円墳)があって、広場にはなっていませんでした。(出典:磐田市)周りの木は無く、大きな松の木が1本だけありました(本多平八郎物見の松)。平八郎は三ケ野台にある松の木に登って偵察します。2万数千の武田軍の大軍が三ケ野川越しの袋井一帯に展開していましたが、信玄の本陣位置は遠くて見極めることが出来ません。そこで、地理に詳しい内藤信成選抜隊が12日の夜、夜陰に紛れて三ケ野川を渡って、木原付近まで侵入したとき、武田の警備兵に発見されて「木原畷の戦い」になった、と推定されています。信玄の命令で、先陣として川向こうの西島に陣を構えていた馬場信春勢3000が一斉に三ケ野台に押し寄せた。③ 一言坂 三ヶ野での小競り合いのあと、浜松へ撤退する徳川方と武田方が一言坂で戦火を交えました。(出典:筆者撮影)この合戦を、「一言坂の合戦」と呼んでおり、このとき家康の家臣本多平八郎忠勝が奮戦し、武田方の進軍を防いだといわれています。このときの平八郎の活躍は武田方にも称賛され、信玄の近習が「家康に過ぎたる物は二つあり、唐の頭に本多平八」と落書きしたと伝えられています。④池田の渡し(船頭)1000年も前から続いていたと記録される、天竜川で行われていた池田の渡し。徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示され、池田の渡船の歴史が分かりやすく紹介されています。徳川軍は武田方からの退却戦でこの付近からは天竜川を渡ったと思われ、史実を探しましたが明確に記載されたものは見つかりませんでした。 (出典:磐田市)今回の第1回はここまでとさせていただきますが、第2回目には挑燈野(ちょうちんの)、中泉御殿・陣屋、宣光寺(家康寄贈釣鐘)、酒井の太鼓、見付の豪商、一言観音などについて触れてみたいと考えています。以上
2023.02.01
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