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今日の屋久島は、曇っている。明日からまた雨になりそう。昨日は日記が早く書き終わったので、裏の海岸へ行った。久しぶりの海岸。歩いて5分ぐらいのところだが、最近はあまり行かなかった。途中は、白いノイバラが満開だった。海岸と言っても、実際は断崖絶壁。景色はいいが、かなり危ない。どうしてそこへ行ったかというと、懸案の水晶採掘のため。あるのはわかっていたが、タイミングが合わなくて・・・海の向こうに種子島がボンヤリ見えていた。海には船が2~3隻。釣り船だろうか。そんなに波はなく、海は穏やか。しかし、海岸は岩がかなり崩落していた。ゆっくり水晶をさがす。小さいのはあるが、大きいのは見つからない。ここは屋久島ではかなり知られているところなので、大きいものは既に誰かが持ち去った後。身長5mmほどのクラスターなら、そこそこあった。しかし、岩が大きすぎてどうにもならない。一応、カナヅチを持っていったが、ビクともしない。目を皿のようにして水晶をさがす。よーく注意してみると、石も単純ではない。いろんな成分が混じっている。水晶でなくても美しいものもある。しかし、大きな岩の一側面で、持ち帰りは不可能。やっと身長10mmほどの水晶を発見。慎重に周りの岩を崩していく。これがなかなか難しい。岩は思うように崩れてくれない。眼下は海。心臓に悪い。石切ノコがほしい!やっと10mmほどの水晶をゲット。幅は4mmぐらい。超小さい。でも、かわいくて美しい。2時間ぐらいで、9個の水晶をゲット。一番大きいのは、縦15mm、横5mm。これは母岩も一緒に取れたので、まあまあの感じ。この水晶はとても美しい。もちろん透明なのだが、それだけではなく、照りがきれいなのだ。テカテカした艶がある。母岩の方には、もう一つ小さな水晶もついていた。ハーキマダイヤモンドと呼ばれる水晶がある。ダイヤのように美しい水晶なので、この名が付いたらしい。その形は、普通の水晶のような六角柱ではなく、ダイヤモンドのような菱形をしている。どうしてこんな形になるのか不思議だった。水晶のクラスター(群晶)とかを見ると、母岩から多数のポイント(単結晶)が延びている。当然、下の方は六角柱状態。それが、どうして上も下も六角錐みたいになるのだろうか。それがずっと疑問だった。その疑問は、あっさり解けた。少し太り気味の水晶の周りをカナヅチで叩いていると、水晶が突然飛び出した。その形が、ハーキマダイヤモンドそっくり。上下とも六角錐。縦9mm、横6mm。あまり母岩に密着していないようだ。きれいに抜けてしまった。赤い成分がインクルージョンされた水晶もあった。水晶の成長過程でいろんなものが混じることがある。それがルチルクオーツやガーデン水晶と呼ばれるもの。水晶を現場で見ると、その理由が自然にわかる。どういう場所に水晶があるのかというのも、よくわかった。屋久島は花崗岩の島。その中に縦横に石英の白い線が走っている。実は、これは自然のエネルギーライン。光ファイバーと同じ原理。光ファイバーも石英の線らしい。レイラインが、地球の中を走っている。ところどころに、その集合点=ポイントがある。体のツボのようなところ。その一つが屋久島。この石英のラインの中に水晶はある。きれいに結晶している。小さいけれども、実に美しい。島の他の場所をさがせば、もっと大きいのもあるに違いない。暇な時にさがしてみよう。水晶探索は面白い。自然は豊か。でも、ほんの少しだけ「これって自然破壊ではないの?」と思った。自然に落ちているものならまだしも、カナヅチで壊すのは・・・どんなものだろう?その場にあるのを眺めて楽しむのがいいのだろうか。でも、大きいのがあれば、すぐに誰かに持って行かれて楽しむことはできないだろう。秘密の場所を発見するしかない?うーん・・・よくわからない。あまり自然破壊しないように、落石している岩から取り出すとか。断崖絶壁の、人が行かないようなところから掘り出すとか。水晶自体は小さなものなので、多少取っても屋久島はビクともしないだろうが・・・ここは、やはり屋久島の神様と相談するべきだろうか。神様の許可を得てということだろうか。なにしろ神々の息づく島だから・・・屋久島の神様にお願いして、なんとか水晶を取らせていただこう。どうか美しい水晶をお恵みください・・・アーメン!では、おかしいよね。よろしく!という感じかな?しかし、目の前にある水晶のベービーたちは、とても美しい。自分でゲットしたものは、また格別。しばらくは、屋久島水晶にはまるかも・・・『屋久島の 水晶見れば 美しい ただ美しい 言葉はいらない』『エネルギー 凝縮されて 石となり 強い波動を 長く維持する』『花は花 石には石の 美しさ 自然が創る 至上の芸術』これが515日目の心境です。
2006.05.31
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今日は梅雨の中休み。屋久島は、薄日が差している。今、写真ブログの”いのちの島=屋久島”で、「魂」というのが連載されている。これを読むと、なんとなくウルウルしてしまう。涙なしには読めないという感じ。自分で書いたものだけれども、なぜか感動してしまう。魂サイドから見た人間のあり様。読んでいると、魂が喜ぶのだろうか。魂にとっては、この世的な富や栄誉は、まったく何の価値もない。あの世に戻れば、何の役にも立たないものばかり。それよりも人生経験。思いっきり生きること。物質に囚われず、魂として生きること。スピリチュアルな世界を物質次元に実現しようとトライする。調和、美、愛・・・それが何よりも尊い。物質次元を経験し、学び、マスターし、クリエイトする。それが地球に降り立った目的。しかし・・・肉体という物質の衣を着てしまうと、魂の記憶は朧気(おぼろげ)になってしまう。物質に取り囲まれて肉体と共に成長する中で、魂の記憶はすっかり忘れ去られる。気がつけば、物質に囚われ、肉体に執着している。自分のことしか見えず、人類全体のことを考える余裕すらない。肉体という個別化したものの中で生きることによって、人の意識も個別化される。自分という個別化した意識を持つようになる。肉体をベースとして個としての経験を積む。肉体次元は、そういう場。しかし・・・個の意識がすべてではない。個を超えた意識もある。魂の意識は遙かに個を超えている。個の集合体と言ってもいいくらい。個の意識は、魂意識のほんの一部でしかない。魂のほんの一部の意識が物質次元へ投影されているだけ。肉体を纏(まと)うと、そのことを忘れてしまう。個の経験にこだわり、肉体に溺れ、物質に固執する。肉の身の快楽を求め、自己の安全だけを追求する。無常という現実に翻弄されながら、必死に不滅のものを求める。しかし・・・この世に永続するものはない。生あるものは必ず滅す。肉体は老化し、物質も朽ち果てる。盛者必衰(しょうじゃひっすい)、毀誉褒貶(きよほうへん)は世の習い。我が世の春は続かない。「ひとつ」から、小さな肉体へ。無限の意識から、物質に限定された自我の意識へ。意識の細分化。意識の断片化。肉体自我にこだわっている限り、人生は虚しい。最後は滅ぶしかない。厳密に言うと、瞬間・瞬間滅んでいるのだけれども、誰もそうは思っていない。死ぬ時に消えると思い込んでいる。それは波動が荒いだけ。波動が荒いから、瞬間・瞬間が見えないだけ。一枚一枚のフイルムが、繋がれば映画になるみたいなもの。実際は不連続。でも、目には連続しているように映る。人は死ぬ時まで人生が連続していると思い込んでいる。しかし、実際は瞬間・瞬間消滅している。映画は目の残像現象による錯覚。人生は記憶による思い込み。波動が遅いだけ。この世の根本的な問題は、自分を肉体人間だと思い込んでいること。完全に物質バージョンの意識になってしまっていること。全体を忘れ、個別化した意識になりきっていること。ここがクリアーされない限り、人生のありとあらゆる問題は解決しない。肉体にあっては個だけれども、肉体を超えれば個ではなくなる。限定され制限された個の意識から、全体的な意識へシフトする。そうしない限り、この世の問題は解決しない。自分さえよければいいという自我の意識を超えない限り、地球に平和はやって来ない。個の意識を超える道は、個の意識を理解すること。個の意識と共にあって、個の意識の成り立ちを理解する。深く深く個の意識の奥へ入っていく。そこには個の意識を超えた領域が広がっている。そこにベースを置き、肉体人間を生きる。個であり全体であるという意識領域で、現実を生きる。個だけの意識領域で生きる限り、自己の快楽に囚われる。肉体の安全を優先するために、どうしても自己中心的になってしまう。肉体意識を超える。個別化された自我を超えないことには、真の平和は遠い。『肉体の 快と不快に 囚われて 意識の自由 制限される』『人の世の 目先の利害に 囚われて 本質的な ことを忘れる』『目の前の 現象だけに 囚われて 意識の源 思い出せない』『目先だけ 取り繕って 生きてても 人生の意味 何もわからず』『個の意識 成り立ち深く 理解して 個別意識の 限界超える』『個を超えた 意識の奥の 広がりを ベースにしないと 先が見えない』『ゆったりと 自分自身の 奥に問い 行くべき道を 静かに決める』『落ち着いて 自分自身と 共にいて 深い意識と 共に生きゆく』これが514日目の心境です。
2006.05.30
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朝方、夢を見た。白馬の夢だった。イエス・キリストと同じ波動を持つ馬だと言われた。近寄ってみた。白馬も近寄って来た。触ってみた。なんとなく頬ずりしてくれる感じ。その感触は・・・もう最高に幸せという感じ。これがイエス・キリストの波動なのか・・・やわらかくて、やさしくて、何とも言えない気持ちよさ。これでは、みんなが幸せになるはずだ。鬣(たてがみ)の感触がフアフアしている。まるで長い毛足の絨毯に包まれたよう。本当に幸せそのものという感じ。たまにはこういう夢もいい。無条件の幸せ。満たされて、やすらいで、もう何もほしいと思わない。子供時代に帰ったような満ち足りた感じ。昨夜は、ほとんど一晩中、エネルギーを入れていた。それでこんな夢を見たのだろうか。これなら毎晩エネルギーを入れてみようか。そんな気にさせる夢だった。まだ夢の余韻が残っている。ふんわりとした幸せ感に包まれている。恋愛でもない、親子の情愛でもない、もっとピュアーな感じ。天使の愛に近いだろうか。神馬という感じだった。乗るというより、見るという感じ。たまには無上の幸せ感に満たされるのもいいものだ。『ふんわりと やさしく包み 受けとめて 何も言わずに 抱きしめている』『幼子(おさなご)の 無邪気な笑顔 そのままに 天使のような 微細な波動』『心配も 不安もなくて 満ち足りた 幼い頃の 幸せ想う』『言葉より 言葉以前の エネルギー 存在自体が 周りを癒す』これが513日目の心境です。* 今日は2日分アップしました。 よろしかったら、512日目の日記も読んでください。
2006.05.29
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朝、水を汲みに行く。先日来の大雨で、水汲み場のガケが少し崩れていた。大きな石が上から落ちてきていた。自宅近くの道路も、舗装されていないところは大雨で道がえぐられている。大雨が降ればいつものことだが、かなりひどく道が荒れている。私道の部分は舗装されていない。屋久島でも舗装されていない道路は珍しい。しっかり自分自身にグランディングしていないと、相手に振り回される。相手に迎合して、自分を見失うことにもなる。いつも自分自身であることがポイント。しっかり自分にグランディングしていないと、相手に合わせることもできない。無理に合わせると疲れてしまう。まず自分にグランディングして、それから相手に合わせる。しっかり自分自身にグランディングすることが何よりも大切。自分を見失っては、人生が虚しくなる。できるだけ、お金のために働かない。できるなら、お金のために自分を売らない。もっと自分を大切にする。自分を生かす人生。収入は少なくても、お金のために自分を磨り減らす人生を生きない。自分のことは自分で大切にする。他人は大切にしてくれない。自分の人生を生きる。納得できない人生を生きない。いつも自分自身でいる。自分にしっかりグランディングできていないから、相手に振り回されて欲求不満になる。まず自分自身にグランディングする。それから相手と歩み寄る。共に生きる。自分にグランディングできていないと、やがて自分が空中分解する。しっかりベースを自分自身に置く。そこからすべてが始まる。落ち着いて安定した人生は、自分自身にグランディングしない限り実現しない。しっかり自分自身と一緒にいる。自分の中にグランディングする。ベースを自分の内側に置く。ゆったり、しっかり自分にグランディングして何事も行う。あたふたと自分を見失った状態で生きない。大地に足を着け、一歩一歩着実に歩む。一つ一つ確認しながら、丁寧に生きる。生き急ぐ必要はない。むしろ丁寧に一つ一つ確認しながら、慎重に生きた方がいい。しっかり自分で確かめる。一つ一つ納得して生きる。自分の気持を大切にする。粗雑に生きない。精妙(こまやか)に生きる。しっかり自分にグランディングして、自分に誠実に生きる。自分の人生を大切にする。それが生きるということ。自分を生きるということ。周りに振り回されない。自分を生き切る。自分自身を生き切る。しっかりと自分自身にグランディングして、自分を生き切る。『外側に 振り回されずに 内側に しっかり根を張り 自分を生きる』『しっかりと 自分ベースで 生きないと 気づいた時は 自分がいない』『他ならぬ 自分を生きる ことなしに 何の人生 虚しくなるだけ』『しっかりと 自分自身に ベース置き 自分自身の 人生生きる』これが512日目の心境です。
2006.05.28
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梅雨入りして、本格的な雨のシーズンを迎えている。アジサイが日毎に大きくなっている。雨のシーズンにふさわしい花。『紫陽花(アジサイ)の 青紫は 雨の色 露(梅雨)に包まれ 豊かに育つ』ホームワークを見ることにしよう。テーマは次のようなものだった。【安定と自由のシーソーゲーム。安定を得ると、自由が恋しくなる。自由になると、不安になって安定がほしくなる。その繰り返し。何度も何度も繰り返す。同じようなことを繰り返す。それは恋愛や結婚や宗教に限らない。人生のありとあらゆることに当てはまる。アストロジー的に解釈すれば、星の影響によって説明がつくのかもしれない。しかし、説明されて納得しても、根本的な解決にはならない。それは宗教の思い込みと異ならない。単なる解釈。根本的な解決は?この無限螺旋のような繰り返しから抜け出る方法は?安定と自由を共に手に入れるには?】まず木の葉さんですね。【 home workの答えを自分なりに考えてみました。「安定と自由」はともに得られると言うのが私の回答です。ではその方法は?と言われると。。結婚、宗教、親からの庇護等、自己をとりまく環境からの庇護等「他者への依存心」から来たものであれば繰り返しは続くでしょう。それは回りに全ての答えを求めるからであり、「今の自分、いやなところも良いところも含めてのありのままの自分」をまるごと受け入れてあげること全ての答えは自分の内にあるんだという認識ができれば「自己の劣等感、欠落感」がなくなって周りの環境に左右されることがなくなるのではないでしょうか?で、そうした自分を発見すると不思議なことに自分をとりまく環境がいつのまにか心地よいものに変わっていったりすることもありますよね。すべては鏡、こうでなければならないという執着心をなくせばなくすほど心が自由になって楽に呼吸ができるのでしょうね。(なかなかに難しいことではありますが。。)というのが私なりの回答です。 】安定を外に求めないということでしょうか。すべての答が自分の中にあるという自覚が得られれば、周りに左右されないということでしょうか。執着が外れれば外れるほど、心は自由になるということのようですね。安定と自由という一見相反するものを両方とも手に入れるには、自分自身にグランディングするしかないでしょう。自分の深い意識にフォーカスすることでしか、安定と自由の両方は得られないでしょう。自分の外に求めている限り、周りに振り回されて、安定も自由もありません。ただ自分の中に深くグランディングした時にのみ、安定と自由という相反するものが両立する可能性があります。深い意識にフォーカスできれば、そこには執着や囚われはありません。安定があり、自由があります。でも、深い意識だけで生きることはできません。肉体を持つ身としては五感も必要ですし、潜在意識も働きます。これまで潜在意識に溜まっていたものが、深い意識の安定と自由を邪魔するのですね。潜在意識を理解する必要があります。自分の無意識のパターンを。そうでない限り、深い意識へのフォーカスは持続しません。自分自身を見守り、気づき、手放すという作業が必要になってくるのですね。まあ、ゆっくり自分自身とお付き合いしましょう。次は、たろうくんですね。【『根本的な解決は?』 今の状態を、”安定”や”自由”という言葉に当てはめ判断してしまうと、 その状態に囚われてしまうのかもしれません。 今の自分を何の判断もせずに、ただ目の前の事実を見つめることが、解決の道へと繋がっていくのかなと思いました。『この無限螺旋のような繰り返しから抜け出る方法は?』 気づきのチャンスから逃げないで、その時の自分をいっぱい感じて気づいてあげる。『安定と自由を共に手に入れるには?』 共に手に入れるという意識を持つと、シーソーゲームになってしまうのだと思います。 欲の意識を解放し、心静かに何の判断もせずに今を見つめる意識でいると、 言葉を越えた深い意識を感じれるのかなと思います。】安定と自由のシーソーゲームから抜け出るためには、そういう自分に気づくということでしょうか。自分のパターンを深く理解する。外に安定と自由を求めて、右に行ったり左に行ったり・・・いつもふらついている自分。そういう自分を批判することなく、否定することなく、責めることなく、ただ認めるということですね。事実をそのまま直視する。そこからすべてが始まります。自分自身をいかに深く理解するか。それが自分の深い意識へ繋がる道ですね。今の自分に気づいている意識。不注意でない意識。無意識のままに突き動かされることのない意識。そういう意識を育てていく必要があります。自分自身を理解する必要性の深い自覚。自分を見守ろうという強い決意。実際に日々の自分自身のフィードバック。それらによって自然に見守る意識が働くようになっていきます。自分の中の余計なものが解放されるにつれて、深い意識が自覚されるようになります。その意識領域には、安定と自由という相反するものが共に存在します。すべて自分自身です。いかに深く自分自身にグランディングできるかですね。最後は、ぴあのさんですね。【安定と自由を手に入れるには 安定と自由を欲しがらないこと。手に入れたい ということは、手に入れられない自分がいる ということで何かを欲する ということは、それを追いかける自分が常にいるということ。ありのままの自分をきちんと受け止めて、現実から逃げないこと。どんなときも 自分と一緒にいること。安定を外側に求めるのではなく、自分の内を安定させること。自分の固定観念や条件付けを外して 何事に対しても柔軟な意識でいられること。私自身に関して言えば、自分の弱い心が 常に何かに頼ろうとします。今まで、宗教や、偶像崇拝や、精神世界のセミナー等、安定と自由を得たい と様々なものを外に求めてきました。ですが、自分の心が外に向いている限り、本当の自分はないがしろにされたままだということに、気づきました。それらからは、条件付けられた自由と安定しか得られませんでした。そしてそれは、自分の理想=イメージ、自分の中のイメージを満足させるだけのものでした。螺旋から抜け出るには それまでのパターンを もう止めること。私で言えば、弱い自分と一緒に留まること。逃げないこと。現実を直視すること。そして、すべてを認め 判断なく無条件に受け入れること。 ・・・だと思いました。】基本的には、書かれているとおりですね。表面意識で追いかけても、手に入れることはできないのですね。表面意識の領域では、安定と自由は矛盾するものです。ただ深い意識領域でのみ、それは一つのものになります。外に求める限り、一生かけても得られることはないでしょう。ただ深い深い自分自身の奥にのみ、安定も自由も存在します。それは既にあり、求める必要すらありません。自分自身が安定であり自由なのです。ただそれに気づいていないだけです。表面意識で生きているからですね。螺旋から抜け出るには、これまでのパターンを変える必要があります。これまでと同じパターンを繰り返していたのでは、何生かかっても安定と自由はあり得ません。外に求めない。ただ深く深く自分自身と一緒にいる。過去や環境や周りの人に振り回されない。静かに自分自身と一緒にいる。意識が外にばかり向けば、外のものに振り回されます。生きるためには外に意識を向ける必要もありますが、それだけでは安定も自由も得られません。内なる意識にベースを置く必要があるのです。どんな自分が出てきても、その自分と一緒にいる。その自分に振り回されないで、一緒に居切る。自分と一緒にいること自体が、安定をもたらします。安定は、反応している自分ではなく、見守っている自分の方にあります。見守りの奥に深い安定と自由があります。どうぞゆっくり実践してみてください。『自らの 外に求めて いる限り 自由もなければ 安定もない』『フォーカスを 外に置くから 現象に 振り回されて 自分忘れる』『しっかりと 自分自身に 軸足を 置いて生きれば 安定してくる』『ゆっくりと 見守る中で 安定も 自由も裡(うち)に あると気がつく』『内側の 奥深くには 既にある 求めなくても 存在している』これが511日目の心境です。
2006.05.27
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屋久島は、朝から激しい雨。まるでバケツをひっくり返したような雨が、一日中降り続いた。間違いなく今日から梅雨入り。屋久島の雨は半端ではない。ほとんどスコールと言っていい。当然、船も飛行機も欠航。衛星放送でさえ映らない。ヤクスギランドへ行く道路は、大雨のために通行止めになってしまった。普段でも雨の多い屋久島の、更に雨の多いシーズン。一ヶ月は雨とお付き合い。それでも、たまには止むこともあるのだが・・・最近は、時々、ゴールドルチルクオーツのネットサーフィンをしたりしている。でも、良いものはほとんど見当たらない。良いと思うものは売却済みか高額。残っているものは、とても買う気にならないようなものばかり。元々、ゴールドルチルが掲載されているサイトは少ない。そのうえ最近は産出量が減っている。質のいいものはあまり出てないらしい。つい最近、ゴールドルチルの原石が、いくつかのサイトで一斉に掲載された。同じところが卸しているという感じ。ネットを見ていると、時々、同じ種類の石が各サイトで一斉にアップされることがある。明らかに同じ仕入れ元だろう。しかし、値段はサイトによってまちまち。今回は期待して購入してみたが、失敗だった。まったく美しさがなかった。ネットでは、時々、こういうこともある。実物を見ていれば、きっと購入しなかっただろう。写真と実物の違い。ネットショッピングの難しいところだ。すてきなゴールドルチルクオーツをゲットするには、これまで良いルチルを販売した実績のあるところに毎日アクセスするしかない。アップされた直後に購入するしか可能性はないと言える。少しでもタイミングが遅れると、良いものはみんな売却済みになってしまう。次の日では、間違いなく手に入れることはできない。当日、しかもできるだけアップされた直後。ほとんど運のようなものだ。気長に新しいゴールドルチルがデビューするのを待つ一方で、これまで掲載されたすてきなゴールドルチルをプリントアウトして楽しんでいる。既にみんな売却済み。あるいは、高額で、とても手が出ないもの。それでも、プリントアウトして見るのは自由。いくらでも無料で楽しめる。最近は高額のゴールドルチルがよく売れるようになった。景気がだいぶ回復してきたのだろうか。これまで長い間売れ残っていた高額商品が、気がついたら売却済みになっているものが増えた。何十万円クラスのもの。つい先だっては、74万円の太陽ルチルが売れた。そのサイトでは、今度は600万円の商品を掲載している。買う人が現れるだろうか。以前に100万円以上の商品が売れたこともあるので、可能性がないこともないだろう。お金があるところには、あり余るほどあるのだから。日本では美しいゴールドルチルを見ることが少ないので、台湾の茶々さんに台湾のサイトを紹介してもらった。台湾ではパワーストーンのオークションサイトがいくつもある。日本では、ほとんどないに等しい。オークションには、たくさんのゴールドルチルが出品されている。しかし、日本よりは安いけれども、思ったよりは安くない。中国本土から輸入しているので仕方がないのだろうか。中国本土のサイトはもっと安いに違いない。今回紹介してもらった中に、とても面白いものがあった。ゴールドルチル5000個=36.5kgが、1200万円よりのオークションにかかっていた。すごい、すごい!まるで宝箱に入った宝石のよう。こんなにたくさんのゴールドルチルがあったの?あるところには、あるものだ。もう驚き桃の木山椒の木。みんな太いゴールドが入ったタイチンルチル。すばらしい!1200万円あったら、即、買いたいところ。幸か不幸か、すぐに出せるのは1200円。万が足りない。まるでマンガ(万画)?いや、頑張って12000円までなら出してもいい。いやいや、この際だから清水の舞台から飛び降りたつもりで120000円までなら・・・アー、それでも100分の1。(50個だけ譲って!)こちとら江戸っ子だい!宵越しの金は持たない主義だい!と、強がりを言ってみても、犬の遠吠え。軽くて、さわやかな懐具合ではある。なに?空(から)っぽじゃないって?この世は色の世界。空(くう)では空(食)っていけない。5000個で1200万円とすると、1個=2400円。安い!超破格値。日本に持ってくれば、少なくとも4~5倍では売れるだろう。5000万円近い儲け?それは「捕らぬタヌキの皮算用」というもの。いろいろ経費がかかる訳で・・・それでも、お金とやる気があれば、儲かるかもしれない。でも、自分ではやる気はない。今生は商売はやらない。今生はスピリチュアルということになっている。それにしては、ゴールドルチルが好きでは?ホント、どうして?基本は、見ていると美しいから。それに、どうも第七チャクらとも関係がありそう。宇宙的なエネルギーをチャージしてくれるらしい。もちろん金運やギャンブル運という、この世的な効用もある。それだからこそ、華僑の人たちに人気がある。日本でもニューリッチや投資をやる人たちが買っているようだ。毎日、たくさんのゴールドルチルを眺めていたら、そのうちにリッチになるだろうか。ならないという保証はない。スピリチュアルでリッチ?うーん、針の穴をくぐれるかな?ドラえもんのスモールライトで、ラクダを小さくするしかないか・・・お金持ちが天国へ行くのは、ラクダが針の穴をくぐるよりも難しいと、今話題のイエス様が言った。確かにイエスの弟子たちは、みんな貧しかった。住むところもなく、日々の食事の保証もなかった。ただイエスに付き従った。それはすばらしい!確かに信じる者は救われた!そういう時代もあった。しかし、時が経つにつれ、信じる者は救われなくなった。免罪符が売られ、金のあるものだけが救われた。教会は腐敗し、世俗と何ら変わらなくなった。そこから宗教改革が始まった。プロテスタントによって、カトリックも再生した。それでも、時間と共に、また形骸化した。形だけのものになり、心が失われてしまった。そして今、とどめの一撃が、イエスに愛人と子供がいたという事実。神の一人子から人間イエスへの変身。本来は、人間イエスであったればこそ、すばらしい業績だったと言える。肉の身をまとい、神の道を生きた。それがすばらしい!初めから神の一人子であれば、愛の人であって当たり前。人間イエスであればこそ、その生き様がすばらしい。苦しみ、悩み、悲しみ、そして悟った。その人間としてのプロセスがすばらしい。誰もが本質的には神の子。その潜在している可能性を花開かせたことが、すばらしい。だから、イエスを神のように称(たた)え祀(まつ)らない方がいい。同じ人間として尊敬した方がいい。そうでなければ、イエスが言ったことは敷居が高くなり過ぎる。イエスは、当時の無学な人でもわかるように喩えを多用した。けっして学者のように難しく言ったりはしなかった。やさしく、わかりやすく真理を説いた。それは肉の身を持つ人でなければできないことだろう。ゴールドルチルの話からイエス・キリストの話になってしまった。今日は少し気分転換にゴールドルチルのことを書くつもりだった。今生はスピリチュアルの人なので、どうしても落ちがスピリチュアルになってしまう。過去世で商売をしたこともあると思う。石に関わったこともあるに違いない。アストロジーもやったと思う。いろいろ経験してきた。でも、今生はスピリチュアル。だから、こうやって日記を書いている。生まれてこの方、延々と準備をしてきて・・・どういう訳か、この世の豊かさの象徴のようなゴールドルチルと、透き通るように美しい、この世とは懸け離れたヒマラヤ水晶を集めている。色と空の世界の象徴のような水晶たち。色は、豊かさ。空は、どこまでもクリアー。どちらもすばらしい!『キラキラと 光るゴールド ルチルこそ 見ているだけで ただ美しい』『水晶に 抱かれたゴールド 金よりも プラチナよりも なお美しい』『神にして 利用してきた 聖職者 自分の権威 高めるために』『人として 神の子として 真実に 生きた姿が ただすばらしい』『人の世の 色の世界は 万華鏡 空の世界は 無色透明』これが510日目の心境です。
2006.05.26
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屋久島は、午前中は青空が広がった。しかし、午後になって雲が多くなった。11時に空港に迎えに行く。そのまま白谷雲水峡へ向かう。今回で4回目の屋久島という女性。一週間滞在する予定。もののけ姫の森を越えて太鼓岩まで行ったが、雲がかかって何も見えなかった。時たま安房川が見える程度。こんなに見えないのも珍しい。彼女には自炊できる定宿があり、知り合いのガイドもいるらしい。明日はモッチョム岳、その後に太忠岳に行く予定とか。しかし、梅雨入りしそうで、天気がどうだろう・・・人を責めるとは、どういうことだろうか。あの人のせいで、こうなった。相手が悪い。自分は悪くない。相手が加害者。自分は被害者。自己正当化と責任転嫁。相手を悪者にして自分の正しさを主張しても、何の問題解決にもならない。自分を納得させるための解釈に過ぎない。解釈によって気に入らない現実を納得しようとしているだけ。事実は少しも変わらない。もしそれが望む現実でなかったら、行動して変えるしかない。他人のせいにして納得している場合ではない。自分の望む現実を創造する。それが一番シンプルで素直な生き方。行動しないで相手を非難するだけでは、何の問題解決にもならない。相手を批判して自分の責任を棚に上げても、現実は何も変わらない。非難や批判している暇があったら、現実を変えるための方策を考えた方がいい。何らかの行動をすることが、現実を変えることに繋がる。人はなぜ他の人を責めるのだろうか。幼児期に両親や家族から、いろいろ面倒を見てもらう。しかし、兄弟が増えたり、自分が成長することによって、やがて自分の望むようにはやってもらえなくなる。本当はこうもしてほしい。ああもしてほしい。でも、その願いが叶うとは限らない。そこから人を責めることが始まる。以前は当たり前にやってもらえたことが、やってもらえない。親ならば当然やると思っていたことを、やってくれない。周りの人も、こちらが期待するほどにはやってくれなくなる。冷たい。不親切。思いやりがない。自分勝手。私のことなんてどうでもいいんだ。みんな自分さえよければいいと思っている。ひがんだり、拗(す)ねたり・・・受け入れがたい現実に、無意識に人を責めてしまう。たぶん、周りにいた人たちも無意識に人を責めていただろう。幼児は無意識のうちに周りの人の反応パターンを吸収してしまう。気がつかないうちに、自分の気に入らない時は人を責めるようになっている。それはほとんど刷り込みに近い。不満=人のせい=人を責める。そういうパターンが無意識のうちに自分の中にできあがる。成長した後も、そのパターンは継続する。相手を責めることによって、不満を解消する。相手のせいにすることによって、現状を自分に納得させる。そこには甘えや思い込みや先入観や期待が、ない交ぜになっている。それらが裏切られる時、怒りや憎しみ、恨みや悲しみが生まれる。期待という思い込み。当然やってもらえるという先入観。こうあるべきだという固定観念。そういう思い込みが裏切られる時、自分の中で不満がつのる。そして、人を責めるというパターンに陥る。この泥沼から抜け出す道は、このプロセスを深く理解すること。自分自身を通して理解すること。すべての期待を外すこと。すべての思い込みを手放すこと。いかに自分が他人に依存して生きてきたかを深くわかること。他人が自分の期待に応えてくれない時、相手を責める。それが自分のパターンであることを理解する。真に自立している人は少ない。多くの人は、いつも誰かに依存している。その依存が裏切られる時、相手を責める。信頼という名の甘え、期待。そして、裏切り、失望。そういう自分のパターンを理解する必要がある。いかなる先入観も固定観念もなく人と接すれば、裏切られることはない。一切の思い込みがなければ、人を責めることも起きない。自分の中にある思い込みが、人を責めることに導く。それは無意識のパターン。気がつかない限り一生ついて回る癖。思い込みから自由になる時、初めて人は自立できる。それまでは思い込みという依存に振り回される。気づくこと、自覚すること。それなしには、本質的には幼児期のまま変わらない。自分をもう一度根本的に見つめ直さない限り、人は刷り込まれたままの人生で終わる。基本パターンは一生変わらない。それに気づかない限りは・・・『気にくわぬ ことは何でも 人のせい 自分はいつも 正しい原則(きまり)』『期待して 裏切られると 人を責め 自分のことは いつも棚上げ』『人を責め 自分のことを 正当化 しても心は 満たされぬまま』『無意識に 依存している ことにさえ 気がつかぬまま 人を責め出す』『依存する 自分のことは わからずに いつも他人の せいにしている』『刷り込まれ 気づかぬままに 人を責め 不快になって 終わる人生』『悪いのは みんな他人と 愚痴っても 問題解決 遠のくばかり』『責めるより 事態をいかに 変えるかを 検討するのが まともな生き方』『責めないで 事実を直視 することで イヤな現実 変革していく』これが509日目の心境です。
2006.05.25
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屋久島は、久しぶりに晴れ渡った。一日中、さわやかな天気。家にいるのがもったいないような天気だったが、どういう訳か家にいた。日記を書くためと、お客さんが二人あったので。久しぶりに水晶を日光浴させたら、みんな元気になった感じ。天気の良い日を見つけて、浄化のために海に連れて行ってあげたいのだが・・・次のような質問の書き込みがあった。『いつも楽しみに拝見させていただいてます。ちょっと重い感じで申し訳ないのですが、質問させて下さい。よろしくお願いします。 >自分の中にあるものをよーく感じてみる。自分の中にある未完了感をよーく味わってみる。それを否定することも、抑圧することもなく、引き出して明らかにする。よーくよーくわかってやる。無条件に受けとめ、そのまま抱きしめる。自分の中にある未完了を感じてみると、まるでその時に戻ったかのように悲しみ、怒り、憎しみ、絶望感・・など、色んな感情が出てきます。そして、もうこの様な感情に飲み込まれたりその世界に生きたくないと思っていながら、私の中ではその時言えなかった事をその時の感情を、思いっきり表現したくなってしまう衝動にかられます。でも、イメージの中で相手に言いたい事をいったとしても私の中にある責めたい気持ちがある限り何の解決にもならない上に更にネガティブな思いが深まってしまう気がします。私は加害者や被害者になる生き方はもううんざりです。本当にもうそれは終わりにしたいと強く強く思っています。けれど、今は表現したがっている感情をいったいどうしたらいいのか・・かなり混乱している状態です。感じるとか味わうとか手放す解放する。。という感覚がよく分からない・・というかなかなかつかめません。「ありのまま認め、そのまま受け止め、エニルギー的に満たす、欠けているものをイメージの中で満たす・・」というのは具体的にどのようにすれば良いのでしょうか?』自分の中にある未完了を感じてみると、悲しみ、怒り、憎しみ、絶望感・・・などが出て来るのですね。出て来るということは、自分の中に溜まっているということですね。溜まったままにしておくと、苦しくなります。それは肉体的に言えば、便秘みたいなものです。溜まっているものは出してあげるしかありません。自分の中に溜まっているものをイメージの中で出してあげましょう。その時に大切なことは、見守りながら出してあげるということです。相手を責めたい気持があるのなら、思いっきり責めてみればいいでしょう。そうやって自分の中の感情を解放しながら、本当はどうしてほしかったのかよく見極めることです。何かが満たされないから、悲しみや怒りや憎しみや絶望感などが出て来るのです。本当に自分が望んでいたものは何でしょう。本当はどうしてほしかったのでしょうか。自分の気持ちをわかってほしかったのでしょうか。あなたの望みをかなえてほしかったのでしょうか。その辺りを感じてあげることではないでしょうか。自分の気持ちをよくよくわかってあげることです。本当はどうしてほしかったのか。何が満たされていないのか。どうして相手を責めたくなるのでしょう。自分をわかってくれないから?相手が我が儘だから?相手がひどい人だから?本質的なことは、相手がどうこうではなく、自分が満たされていないということです。 相手がどうであれ、自分が満たされていれば未完了感は残りません。相手の問題ではなくて、自分の問題なのです。自分の中の何が満たされていないのでしょうか。出て来る自分の感情や思いを見守りながら、わかってあげてください。自分は本当は何をほしいのか。どうしてほしいのか。いろんな感情が出て来る時に、感情に呑み込まれないで見守ることです。イメージの中で、それをやっていると、やがて現実の中でも、それができるようになります。感情を出してあげるとネガティブになる?別にネガティブになってもかまいません。それが自分のパターンなんですから。そういうパターンを理解することです。感情の解放をするとネガティブになるからやらない?それではいつまで経っても未完了の感情や思いは潜在意識に滞留したままです。それらのものは、きっかけがあれば、やがて爆発します。安全に解放したかったら、イメージの中でやることです。溜まっている感情を解放し、本当に自分が望んでいるものがわかったら、今度はそれを満たしてあげましょう。それもまたイメージの中でやることになります。本当は、やさしくしてもらいたかった。本当は、自分をわかってほしかった。本当は、押しつけないでほしかった。何であれ、自分の気持ちを大切にしましょう。そのまま受けとめ、そのまま受け入れます。そして、自分が望んでいたものが満たされているイメージを描きます。そんなことをしても意味はないと言わないでください。試しにやってみてください。自分の望みがかなえられると、どんな感じがするでしょうか。実験するつもりで感じてみてください。未完了感というのは、満たされていない思いです。満たしてあげるしかありません。現実の中で満たしてあげてもいいのですが、既に遠い過去になっているものもあります。 でも、イメージの中では時間は関係ありません。いつでも自由に望むものをイメージすることができます。そうやって満たしてあげるのです。イメージの中で十分に満たされれば、未完了感は消えます。溜まっていたのは、思いや感情です。物質ではないのです。思いや感情が溜まっているだけなのです。それを完了させるには、別に物質の現実社会は必要ではないのです。思いや感情の世界、つまりイメージの中だけで可能なのです。私達は物質の世界に生きていますが、実質は、その物質世界を縁として、思いや感情の世界に生きているのです。それはイメージの世界に他なりません。思いの世界なのです。その思いの世界にある未完了なものを完了させるだけです。自分は加害者であり、被害者でもあります。時と場合に応じて使い分けています。相手が自分より強ければ、被害者になることもあります。相手が自分よりも弱ければ、いじめてみたくもなります。両方を自分の都合のいいように使い分けているのです。いずれにしても自分本位、自己中心的に生きています。そういう自分をありのまま認めることです。そういう自分がイヤになる?イヤになるということは、ありのままを認めていないということです。自分はそんなイヤな人間ではないと、自己弁護しているのですね。自分を否定することによって、自己正当化しているだけです。ありのままの自分をそのまま認めてください。それがすべての始まりです。自分を直視することを拒否している限り、自分に正直に生きることはできません。ただ自己正当化と自己欺瞞の人生が続くだけです。醜(みにく)くても、ズルくても、自分勝手でも、それがありのままの自分です。それをそのまま認めない限り、醜くて、ズルくて、自分勝手な自分がそのまま持続します。本当にそういう自分がイヤだったら、直視して、やめるしかありません。感情に翻弄されないで、静かに直視し、見極めることです。静かにありのままの自分と対面し、そのまま認めれば、そこから変わる可能性が生まれます。真剣にありのままの自分と一緒にいれば、そこから変化するエネルギーが湧いてくるのです。自分を直視することを避けている限り、変化は起きません。自己欺瞞と未完了の人生が続くだけです。まず自分の中に溜まっているものを、そのまま出してあげてください。その時に、感情そのものにならないで、見守りながら出してあげてください。感情に翻弄され、自分を見失うことのないように注意しましょう。解放しながら、本当は何を望んでいたのかをよーくわかってあげてください。自分の本当の気持ちを理解してください。自分が本当に望んでいるものがわかったら、それをイメージの中でかなえてあげてください。自分の気持ちが本当に満たされるまで、イメージの中で十分に満たしてあげてください。 自分の気持ちが完全に満たされているイメージを描いてみてください。それで未完了のものは完了するはずです。もしそれでも完了しなかったら、もう一度何が満たされていないのかを感じてみてください。 よーくよーく自分をわかってあげてください。わかってあげて、満たしてあげて、完了させる。それを繰り返す必要があるでしょう。未完了のものは一つではないのですから。一つ一つやっていく中で、未完了のものは加速度的に解放されていきます。どんどん心が軽くなり、生きるのが楽になっていきます。そのうちに、未完了のものを完了させるのが楽しみになるでしょう。そうなれば、もうほとんど問題はなくなります。大切なことは、冷静に見守りながら、解放することです。解放している感情に呑み込まれないことです。呑み込まれて感情そのものになると、解放ではなくて、更に増幅することになります。 それでは堂々巡りです。くれぐれも心静かに見守りながらやってください。急ぐことはありませんので、一つ一つ丁寧にやってください。軌道に乗れば加速度がつきます。最初はゆっくり安全運転に徹しましょう。以上が質問に対する回答ですが、何かわからないことがありましたら、また質問してください。実際にやってみて疑問が出て来たら、いつでも質問していただいてけっこうです。人は未完了の塊(かたまり)です。解放して自由になってください。人は自由に生きられるのですから。『溜め込んで 重たくなった 心身は 解放したくて ウズウズしている』『縁に触れ 出て来るものは そのままに 見守りながら 解放するのみ』『満たされぬ 思いを感じ その奥の 真に欲する ものを味わう』『便秘して 気分重たく なるよりは どんどん手放し さわやかに生きる』『いつまでも 持っているから 重くなる 何も持たぬが 一番軽い』『何もかも 所有するから 重くなる その時その時 味わい手放す』『感情も 思いも何も その時に 味わい切って 後に残さず』これが508日目の心境です。
2006.05.24
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雨の中、朝9時にホテルあかつきへ。今日は下請けのガイド。予定では島内観光。お客さんは母娘。お母さんは名古屋の近く、娘さんはニューヨーク在住。海外在住の女性は3人目。島内観光ということで屋久島一周のつもりでいたら、大きな杉が見たいとのこと。そうなると山の方へ行くしかない。予定を変更して、ヤクスギランドへ。上に登るにつれて霧が深くなり、雨も激しくなる。ヤクスギランドを歩くのは後にして、樹齢3000年の紀元杉へ。紀元杉の前には観光バスが停まっていた。しかし、お客は5~6人しか乗っていなかった。雨が激しく、記念写真を撮って、早々に上へ向かう。川上杉は、元気に直立していた。紀元杉よりも遙かに若々しく美しい。宮之浦岳の登山口まで行って、折り返す。途中でシャクナゲが二本だけ咲いていた。今年は少ないのだろうか。昨年がすごかったから。しかし、その貴重なシャクナゲは、今咲いたばかりのように美しかった。ピンクというより赤に近く、雨に濡れて初々しい。お客さんは車から降りて写真を撮ったが、こちらはカメラが雨に濡れるので泣く泣く遠慮。本当に美しいシャクナゲだった。ヤクスギランドに戻って、50分コースを歩く。お母さんは70代だろうか。しかし、思ったより元気。初めは傘を差していたが、そのうちに小降りになり、傘はいらなくなった。ヤクスギランドの中は、どこもサクラツツジが咲き誇っていた。ちょうど今が満開だろうか。白谷雲水峡に比べると、2~3週間は遅い。こちらの方が100~200mぐらい標高が高いからだろう。雨に煙る仏陀杉は迫力があった。この杉はなかなか趣がある。仏陀のような風格があるから、この名が付いたのだろうか。帰りにトイレに寄ると、この辺りに住んでいるヤクジカがいた。ちょうど半分ぐらい角が生えかかったところ。雄だが人慣れしていて、とても可愛い。お客さんは盛んにシャッターを切っていた。ヤクスギランドから里に下りて昼食。あっさりしたものを食べたいとのことで、屋久島うどんへ案内する。屋久島のうどんはカツオダシではなくて、サバダシ。あっさりしていて美味しい。お客さんが食事をしている間、こちらは庭で花の写真を撮る。雨の滴が残っていて、みんな美しかった。ハイビスカスの中にバッタが留まっていた。とてもカラフルなバッタ。写真を撮っていると、レンズを避けるようにどんどん反対側へ移っていく。接写なので、気分を害したのだろうか。それとも、シャイなのか。いずれにしても、おかげでステキな写真が撮れた。そのうちに”屋久島ナチュラルヒーリング”のHPのトップを飾ることになるだろう。ハイビスカス以外にも、たくさんの花が植えられていた。写真を撮っていたら、そこのご主人が出てきた。意識的に屋久島の花を集めているらしい。一年中花の絶えることのないようにしたいとのこと。いろいろ珍しい花を紹介してくれた。しかし、熱心に話をされるので写真は撮れない。そのうちにお客さんが出て来てしまった。最高に美しい花たちを目の前にして、残念!仕事に戻らなくては・・・まだ時間があったので、大川の滝を見に行く。途中で、湯泊の温泉と黒牛の牧場を見学。牧場では、ちょうど母牛が子牛に乳を与える瞬間に遭遇。面白いことに、母牛たちはいっせいに母乳を与える。まるで時間が決まっているかのように。母牛が子牛に近づいていく。そして、モーと鳴く。するとそれまで寝そべっていた子牛が立ち上がり、母牛のオッパイに近づく。この町営牧場では今年は10頭ほどの子牛が生まれており、次々に母牛が母乳を与えていた。ここの牛は肉牛なので、牛乳を人間に搾取される心配はない。子牛専用の飲物。よかったね!大川の滝は午前中雨が降っていたので、水量が多かった。水量が多いと、あまり滝壺の傍までは近づけない。ミストというより飛沫という感じ。ちょっと多すぎ。それでも、自然の中で癒されたいようなので、しばらくマイナスイオンを浴びる。ニューヨークで働いていると、いつの間にか緊張してしまうらしい。癒されるために屋久島を選んだとか。二泊三日、実質2日の短い旅だけれども、ぜひ癒されて帰ってほしい。大川の滝からの帰り道、たくさんのサルが道路を歩いていた。その中に、お腹に赤ちゃんをぶら下げているサルが3匹いた。小さな赤ちゃんザルが必死に母ザルのお腹に掴まっている。まるでモンチッチそっくり。これだけ小さいと、ゆっくり写真を撮らせてはくれない。でも、お客さんは何枚か撮影に成功。こちらはサルたちと同じスピードで車を運転することに専念していた。実は、ヤクスギランドから帰る途中でもサルたちを見かけた。ところが、そこで信じられない光景を目にした。なんとレンタカーの中からサルに餌を投げ与えていたのだ。注意しようと思ったら、発車してしまった。確かに猿も喜ぶ。人も喜ぶ。一見何も問題はなさそうに見える。しかし・・・それはその場限りの楽しみ。その後にサルがどうなるかは、まったく配慮されていない。人間の食べものの味を知ったサルは、自分で餌を探さなくなる。最後は、人を襲うか飢え死にするしかなくなる。その場さえよければいいというものではない。自分さえよければいいというものでもない。無知なのか自分勝手なのか・・・いずれにしても近視眼的な見方は自他を滅ぼす。最後に千尋の滝へ行く。こちらも水量があった。ホテルへ帰る道すがら、龍神の滝を見る。こちらも、いつもは美しい滝壺が増水で濁っていた。そういえば、ヤクスギランドの川も濁流と化していた。いつもは透明に透き通っているのだが・・・わずか一日だけれども、お客さんにとってはメインの日。山と海と滝を堪能してもらえただろうか。いや、堪能とまではいかないだろう。もう少し時間がほしい。せめて白谷雲水峡の奥まで行けたら・・・雨と年齢的なものもあって、今日は無理。またの機会。今日は、牛とサルの母子を楽しんだ母娘だった。『シャクナゲの 蕾(つぼみ)ほころび ピンク色 開くにつれて 白くなりゆく』『オレンジの ハイビスカスの 花の中 シャイなバッタは レンズを避ける』『母と子の 交わり見れば あたたかい 本能のまま 愛が溢れる』『人の世は 母が子供を 殺したり その逆もある 本能忘れ』『自我という 思考が何より 強くなり 本能さえも 忘れてしまう』『動物に 備わる本能 生かしつつ 思考を理解し トータルに生きる』これが507日目の心境です。
2006.05.23
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屋久島ではアジサイが色づき始めた。いたるところで青紫の花が咲き出している。夜空を見上げていると、時として流れ星が現れる。しかし、アッという間に消えてしまう。そして、もう二度と現れることはない。別の流れ星が現れることはあっても、同じ流れ星を見ることは二度とできない。なぜなら、大気との摩擦で燃え尽きてしまうから・・・人生は一回生起。二度と同じことは起きない。同じように見えることも、厳密に見ると微妙に違っている。ビデオテープを回せば、同じ映像が出て来る。しかし、実際は回を追うごとに劣化している。それに見ている本人の心理状態も異なる。その結果、映像から受ける印象は毎回違ってくる。地球の状態も日本の社会情勢も以前と同じではない。まったく同じことの繰り返しというのはあり得ない。すべての現象は一回限り。人生はすべて一回限り。今この瞬間がすべて。二度と同じことはない。今を大切に生きるしかない。人は生まれた時から両親や周りにいる人たちから保護されて成長する。子供時代は多かれ少なかれ保護されている。だんだんと自分で判断し、責任を持たなければならなくなる。それでも学校にいる間は何らかの形で保護されている。社会に出ても、上司や先輩に保護されている場合もある。しかし、子供の頃のような絶対的な保護は期待できない。そこで、不安になる。自分の責任でやることが増えるにつれて、心配も正比例する。子供の頃は安心していられた。両親や周りの人たちに守られて安全だった。そのような絶対的な安全を再び求める。結婚する。しかし、新しい家庭を作っても、そこに絶対的な安心は見出せない。心やすらぐ場ができるかもしれない。しかし、それでも心は揺れ動く。そのような時に、宗教の甘い誘いがやって来る。神や仏に縋れば救われる。メシアがあなたを救ってくれる。あの人こそが神の使い。あの教えについていけば間違いない。絶対の安心が得られる・・・不安定な心が、安定を求める。何か絶対的なものに縋って、自分を安心させようとする。しかし、不安定な心が得たものは、一時的な思い込み。自分を自分で納得させただけ。自分はもう安心だと思い込むことによって、自分が安心しているだけ。自作自演の安心劇。やがて現実と信仰の矛盾が出て来る。なんとか現状を自分のいいように解釈して納得する。しかし、それは単なる辻褄合わせ。そのうちに辻褄合わせではどうにもならない事態が起きる。その時、初めて疑問が生まれる。本当に自分の見方でいいのだろうか。これが真実なのだろうか。小さな疑問がどんどん膨らんでいく。周りからも自分が信じるものを批判される。最初は反発するが、やがて葛藤が起きる。そのうちに自分が信じたものを本気で疑い始める。最後は、思い込みから離脱する。人は保護されていた子供時代のような絶対的な安心を欲する。しかし、それは何かに頼っては見出せない。一時的には安心できるけれども、すぐに疑問が沸く。なぜなら、最初の不安な心はそのまま残っているから。その不安な心が根本的に解消されない限り、新たな宗教に走っても、また不安になる。不安な心は、完全に何ものにも頼らずに自立できるまで、精神世界をさまようことになる。最初は財物に頼ろうとする。しかし、この世は無常。財物は何の保証もしてくれない。いつ財産や命がなくなるかもしれない。いくら宗教を信じても、命がなくなる時はなくなる。それは信じる以前となんら変わらない。ただ人生の見方が変わるだけ。解釈によって、納得して生きているだけ。それが信仰の世界。宇宙は螺旋。同じように見えることも、まったく同じではない。一回りして次元がアップして、またやって来る。それが宇宙のリズム、天体の周期。以前失敗したことを、今度はクリアーする時。以前の失敗の経験を生かして、マスターする時。両親や家族に保護されて育つ。それは同時に両親や家族の束縛下にあるということでもある。両親や家族の保護がなくなるということは、同時に自由になるということでもある。両親や家族から解放され、自由を満喫する。しかし、一人では不安になり、宗教に走る。宗教でなくても、信念や信条や会社や組織に安住の地を求める。寄らば大樹の陰。しかし、大樹に寄りかかれば、大樹の支配下に置かれる。組織の中で再び自由はなくなる。それでも、不安に勝てず、自由よりも安定を選ぶ。しかし、やがてまた自由が恋しくなる。愛を求めて恋愛をする。しかし、傷ついて別れる。またさびしくなって、恋愛をする。また満たされないで別れる。安定を求めて結婚する。性格の違いから離婚する。一人ではさびしくて、再婚する。お互いの違いが見えて、また離婚する。安定と自由のシーソーゲーム。安定を得ると、自由が恋しくなる。自由になると、不安になって安定がほしくなる。その繰り返し。何度も何度も繰り返す。同じようなことを繰り返す。それは恋愛や結婚や宗教に限らない。人生のありとあらゆることに当てはまる。アストロジー的に解釈すれば、星の影響によって説明がつくのかもしれない。しかし、説明されて納得しても、根本的な解決にはならない。それは宗教の思い込みと異ならない。単なる解釈。根本的な解決は?この無限螺旋のような繰り返しから抜け出る方法は?安定と自由を共に手に入れるには?これは久しぶりにホームワークということにしよう。自分自身の心の中をよーく見つめてみるといい。それから、ゆっくり答えればいい。大切なことは、この機会を生かして自分自身を理解すること。深く理解されれば、自ずと答は出てくる。答を出そうとする必要はない。いかに深く自分を見つめられるか。ただそれだけに懸かっている。締切は5月27日(土)午前9時。書き込み場所は、BBS(掲示板)。具体的にわかりやすく書いてほしい。『保護されて 安心できた 幼児期を 再現したくて メシア求める』『依存して 自由をなくし 離れては 不安になって 依存求める』『揺るぎない 基準があれば 安心と 思う心が 信仰させる』『安定と 自由のどちらを 選ぶのか 両方かなえる 道はないのか』『頼らずに 独り自由に 生きていく そういうことは 可能だろうか』これが506日目の心境です。
2006.05.22
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家の前を白鷺が四羽低く飛んでいった。最近は田圃(たんぼ)でよく見かけるが、家の前では初めて見た。映画「ダ・ヴィンチ・コード」に対する欧米の反応は、アジアよりは冷静らしい。表現の自由が尊重され、宗教も例外とはされていない。イスラム世界の過激な反応に比べれば、ある程度成熟していると言えるのかもしれない。これまで「マリア」と言えば、聖母マリアを指すものと思われていた。ところが、映画「ダ・ヴィンチ・コード」によって、マグダラのマリアが一躍脚光を浴びることになった。なにしろ、イエス・キリストの子を宿したのだから。これまで、イエスの最愛の弟子は、黙示録を書いたヨハネであるとされていた。しかし、実際はそれ以上に愛された人がいた。それがマグダラのマリア。弟子たち以上の関係がマグダラのマリアとの間にはあったに違いない。逆に言うと、イエスの最大の理解者はマグダラのマリアであったのかもしれない。彼女と十二使徒のペテロは仲が悪かったと伝えられている。ペテロの方が毛嫌いしていたようだ。彼が初代のローマ法王になった時、マグダラのマリアは罪深き女=娼婦にされてしまった。当初は多くの種類の福音書が流布されていた。その中にはイエスとマグダラのマリアの関係を伝えるものもあった。しかし、やがて四種類だけに統一された。ローマカトリックにとって都合の悪い福音書は、すべて異端と見なされた。イエスは女性を抱き、子供をつくった。人間として生まれれば、当たり前のこと。クリシュナムルティも若い頃に女性と関係を持ったという本が死後に出版された。当の女性が公表した。イエスもクリシュナムルティも事実のほどは定かではない。しかし、セックスをしてもおかしくはない。肉の身を持つということは、地上で肉体や物質の経験をするということ。だから、何も非難されることはない。いろいろな経験をしないことには、この世はマスターできない。いくら過去世で学んでいても、今生は今生。ゼロからの再スタート。いろいろ学ぶことは多い。釈迦も妻や子供がいた。マホメットも女性関係があった。別に純潔である必要はない。いろんな経験をして豊かに生きればいいだけ。それよりも、こういうことをしてはいけないという枠を外した方がいい。こうあるべきだという先入観を取り払い、自由に生きた方がいい。原罪?キリスト教世界では多くの人が悩んでいる。しかし、幸いなことに日本では重要な問題とはなっていない。原罪もまた、子供の頃からの刷り込みに過ぎない。なぜなら、キリスト教を知らない間は、そのような意識はないのだから。単なる思い込み。ペテロがマグダラのマリアを否定することによって、長い間、欧米では男性優位の時代が続いた。ペテロは男性性の象徴であり、マグダラのマリアは女性性の象徴だった。マグダラのマリアの否定の延長線上に魔女狩りがあり、支配的キリスト教社会の確立があった。今回の「ダ・ヴィンチ・コード」の公開は、女性性の復活とも関係があるのかもしれない。左脳=思考=男性優位の社会から、右脳=感性=女性的全体性の回復。強さから優しさへの転換。絶対的な権威や価値観の否定。価値の多様化。ムーの時代の自然観や宗教観の甦り。一神教から八百万(やおよろず)の神々へ。これまでの縦社会から、横社会への変化。ピラミッド型のヒエラルキー社会から、みんなが対等なネットワーク社会へ。新しい時代へ向けて人の意識を変革するためには、最大の権威であるイエス・キリストを、神から人間に戻す必要があったのかもしれない。権威が崩壊し、組織が崩壊する。これまで絶対だと思い込んでいた価値観が崩れ、人々は路頭に迷う。縋(すが)ってきたものに縋れなくなり、人々は困り果てる。そこで新たな杖を求めてさまようか、それとも自分の足で立つか。岐路に立たされる時がやって来る。ソ連や東欧の共産主義が崩壊した時、ほとんどの人は驚いた。しかし、それらのことは何十年も前から預言されていた。日本の銀行が倒産するとは、夢にも思えない時代があった。しかし、それ以前から、やがてそうなると言われていた。イエス・キリストがマグダラのマリアと深い関係があり、子供もいたと、「ダ・ヴィンチ・コード」が出版される以前から精神世界ではささやかれていた。現実は突然、転換する。時代の潮流は底辺で人知れず変わっている。それが表面化する時には、もう誰も止めようがない。大衆には見えない。現象だけに囚われていると、何もわからない。ある日、突然、世の中が変わる。時代は確実に変化している。しかし、表面は変わらない。これまで通り戦争が続いている。事件は凶悪化している。一向に光は見えない。しかし、変わる時は一気に変わる。突然、世の中の流れが変わってしまう。共産主義が崩壊したのが、その最もよい例。原油は高騰し、金も暴騰している。上がるところまで上がれば、誰も買えなくなる。経済システムが崩壊する。一部に金銭が偏れば、経済は回らなくなる。既にその傾向が見える。石油や資源関連に資金が集まりつつある。一部メジャーに資金が集中すれば、経済システムは動かなくなる。そして、まったく違ったものに変わる。まだわからない。まだ何も見えない。アセンションの気配すらない。何もない。表面的には。でも、着実に変わっている。みんなが気がつかないところで何かが変わっている。時代は変化している。これまでの権威が崩壊する。これまでの価値観が崩壊する。新しい生き方が必要になる。『人知れず 時代は変わる 確実に ある日突然 世界が変わる』『人の世の 権威はやがて 崩壊する 自分自身に 依(よ)って立つだけ』『表面の 現象だけに 囚われず 意識の奥を 静かに見守る』これが505日目の心境です。
2006.05.21
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屋久島は、久しぶりに朝から晴。天気が良すぎたのか、疲れが出たのか、ほとんど一日寝ていた。起きている時は、ネットで水晶を見ていた。新しいゴールドルチル・クオーツをさがしたが、あまり見当たらなかった。今日、5月20日、「ダ・ヴィンチ・コード」が世界同時公開された。世界で6000万部が売れたというベストセラーの映画化。日本でもこれまでで最大の数の映画館で封切られた。最近はハリー・ポッターなど、ベストセラーも全世界的になってきている。地球がだんだん一つにまとまってきているようだ。しかし・・・アジア各地で反「ダ・ヴィンチ・コード」の動きが起きている。以下、朝日新聞の記事から引用。『国民の8割がカトリック教徒のフィリピンでは、映画の公開が始まった18日、マニラ市議会が「信仰を侮辱している」として、市内での上映を禁止するべきだ、との決議を採択。映画館に上映自粛を求めた。同国内では、映画は公開前から厳しい批判にさらされた。フィリピン・カトリック司教協議会は「映画に惑わされず、揺るぎない信仰を持つように」との声明を発表。政府当局は「事実と虚構を区別する必要がある」と、映画を成人向けに指定した。国営新華社通信によると、中国でも、一般公開を前に、政府公認のカトリック教会「天主教愛国会」が信者らに映画をボイコットするよう呼びかけた。当局は映画のノーカット上映を認めたが、同会は「映画の内容はカトリックの教えに反する」としている。韓国では、韓国キリスト教総連合会が、ソウル地裁に上映禁止の仮処分を申請。地裁は訴えを棄却したが、同連合会は信者らに映画のボイコットを呼びかけた。インドでは、ムンバイのカトリック系団体代表が上映禁止を求めてハンガーストライキを実施。AFP通信によるとストライキは2日で中断したが、カトリック司教協議会は「上映時に『作り話』であることを示すべきだ」と求めた。政府は18日、18歳以上を対象にしたノーカット上映を決めた際に、この要望を受け入れることにした。仏教徒が多数派のタイでも、キリスト教徒らが映画に反発。当局が一時、映画のラスト10分をカットして上映することを決めたが、配給会社などの強い要望でノーカット上映となった。』カトリック教会が反発するのは予想されたことだが、それにしても市議会が上映禁止の決議をするとは・・・もちろん、カトリックの聖職者は、原作の方も読まないことを薦めている。読まれては困るのだろうか。信仰が揺らぐ?人は自分が信じているものを否定されると、まるで自分自身が否定されたかのように思い、自動的に反発する。しかし、反対のことを繰り返し強く言われると、やがて信仰が揺らぐ。そのため、反対意見には耳を傾けないように聖職者は説く。自分の言うこと以外は信じるなと。それは科学的な態度とは、まったく逆。学校で科学的な態度を教えていることとは、完全に矛盾する。しかし、これが精神世界の現実。科学や経済は、科学的なスタンス。信仰や精神生活は、非科学的なスタンス。それで矛盾しているとは思っていない。ルネッサンス以前の中世では、学問も宗教の一部だった。宗教の一部門として知識は存在した。天動説が当たり前で、地動説を唱えれば処刑された。そこから、やっと科学が独立した。しかし、精神世界は取り残されたまま。旧態依然の信仰の世界。そこにやっと光が当たろうとしている。世界最大の信仰組織がキリスト教。信者は20億人を超えるとか。実に人類の三分の一に当たる。他の宗教を合わせると、軽く全人類の数を超えてしまう。公称だからアバウトな数には違いないが、それでも大きな影響力があるのは間違いない。ローマ法王が亡くなった時には、世界中の指導者が葬儀に参列した。その教えを真っ向から否定する本と映画が世に出てしまった。本を読まない人も映画は見るだろう。6000万以上の人が映画を見るに違いない。その影響は計り知れない。カトリック教会が躍起になって否定しても、一度疑いを持つと、それは燎源の火のように広がっていく。イエス・キリストは神の一人子ではなく、人間だった。マグダラのマリアは娼婦ではなく、イエス・キリストの愛人だった。二人の間には子供がおり、その子孫は今も現存している。キリスト教信者にとっては驚天動地のことばかり。まさに天皇の人間宣言に匹敵するものがある。天皇の場合は日本限定だが、イエス・キリストは世界バージョン。影響は比較にならない。絶対と思い込んでいた聖書でさえ、何度も改変されている事実。しかも、時の権力者に都合のいいように改竄(かいざん)されている。聖書絶対主義者=ファンダメンタリストにとっては、許し難いことだろう。もしこれがイスラム教の開祖モハメッドについての本や映画であったなら、命の保証はない。まだ穏健なキリスト教でよかった?いずれにしても信仰の世界は揺らぎ始めている。これから更に大波小波に揺さぶられ、組織宗教は崩壊していく。それはキリスト教に限らない。ありとあらゆる宗教が崩壊する。なぜなら、もう必要がないから。既に役割を終えているから。信仰から理解へ時代は流れている。科学のように真理を理解すればいいだけ。何も信じることはない。わからないから信じるだけ。信じることの内実は、単なる思い込み。もう思考の次元を超える時。信仰から理解へシフトする時。時代が既に信仰を許さなくなっている。事実を直視し、理解するように求めている。メシアに救いを求める時代は終わった。自分を救うのは、自分自身に他ならない。理解によって自我を超える。自我の軛(くびき)から自らを解放する。それが新しい時代の生き方。自然科学だけでなく、精神の領域も科学的スタンスで臨めばいいだけ。事実ベース。理解ベース。何も難しいことはない。時代の流れと共に生きていく。思い込みベースから事実ベースへ。信仰ベースから理解ベースへ。ゆっくり着実に進めばいい。『二千年 神と信じた キリストは 我らと同じ 人間だった』『深々と 誰かの前に ひれ伏して 救い求める 時代は終わった』『依存して キリストベースで 生きないで 自分ベースで 自分を生きる』『しっかりと 自分の足で 立ち上がり 理解によって 生きる時代に』『信仰は 事実によって 覆(くつがえ)る 事実と共に 生きるしかない』これが504日目の心境です。
2006.05.20
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夜半は激しい雨が降っていたが、朝になって落ち着いた。第一便から順調に飛行機が飛び、空席待ちの人も順次帰ることができた。地球交響曲第5番には、これまで映画に登場した人たちがたくさん出てきた。さながら同窓会の感があった。期せずして東京を訪れたようだ。既に第6番の撮影も始まっている。ガイア(地球)と共に生きるというスタンスが、多くの人に支持されている。自主上映会というスタイルも、これまでの映画のやり方とは異なる。手を繋いで共に生きるという映画の主旨に合致している。共同体の時代。そして、ネットワークの時代。地球という場で、お互いが手を携え、ゆるやかに連帯して生きる。束縛や拘束のない、自由な連帯。常時活動する組織ではなく、必要に応じて活動する繋がり。力を持つための組織ではなく、自分達の必要に応じたネットワーク。地球との共生。自然と共に人間らしく生きる。自然に感謝しながら、心豊かに生きる。奪うのではなく、生かし、活用して生きる。必要なものを必要な時に使う。必要でなくなったら、必要な人へ流す。物質を独り占めしない。次々と多くの人へ流す。お金のために働かない。自分のできることで周りに貢献する。お互いがそういう関係になれば、今の社会システムが変わる。徐々にそういう方向へ流れている。人類は、生き方を根本的に見直す時期に来ている。自然と共に心豊かに生きる。物質オンリーから、精神性をベースとした物質との関わり方に転換する必要がある。ガイアシンフォニーは、まだまだ続いていくだろう。人々の意識もその方向に流れている。精神性をベースとした地球との関わり。自然と共に、心を込め、誠実に生きる。ゆるやかに連帯しながら、自由に生きる。人類は、物質から飛躍する段階に来ている。精神性をベースとした物質。つまり、半霊半物質の次元へ。物質自体の波動がアップし、意識と連動する物質へ変質する。意識の影響を強く受けて、意識のままに変化しやすい物質となる。人の意識状態が今以上に重要となってくる。人生は意識しだいということが、更にはっきりしてくる。意識の波動が上がり、物質の波動も上がる。それがアセンションということ。それは連動している。人として為すべきことは、まず自分の波動を上げること。それが地球の波動を上げることに繋がる。それはリンクしている。同時進行。自分自身にグランディングして、しっかり生きる。周りに振り回されない。自分の深い意識にフォーカスする。自分を誤魔化さない。自分自身を生きる。本当の自分を生きる。その場限りの生き方をしない。目先だけの生き方をしない。本当に納得できる生き方をする。自分が本当に生きたいように生きる。自分に正直に生きる。自分に正直に生きないと、これからますます苦しくなる。自分を誤魔化していれば、苦しさは限りなく増えていく。もう誤魔化せなくなるまで苦しくなる。自分自身を生きる。当たり前のこと。それができないということは、世の中が狂っているから。物質に翻弄されて自分を見失っているから。もう一度本来の自分自身に還る必要がある。しっかり自分自身にグランディングして生きる!『自らの 波動を上げて 時来れば 地球と共に アセンションする』『外側に 振り回されずに しっかりと 自分自身に グランディングする』『自らの 波動を更に 上げるには 深い意識と 共に静まる』これが503日目の心境です。
2006.05.19
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午後から天候が荒れ、飛行機が二便着陸できなかった。そのため、今日屋久島を離れる予定の人が、帰れなくなってしまった。ガイアシンフォニー第三番は、故・星野道夫氏に関わった人々が登場した。北極圏で暮らす人たち。素朴で自然の叡智に満ちていた。星野道夫がいかに深く彼等に愛されていたかがよくわかった。深く愛されていたということは、彼自身も深く愛していたということ。多くの人と深い関わりを持って生きたようだ。最後は樺太でシロクマに襲われて亡くなった。熊の魂を持つ彼が熊に食べられるというのも不思議な感じがする。肉体を熊に捧げ、魂は熊の故郷へ昇華したのだろうか。ボブ・サムというアラスカ先住民の神話の語り部が登場した。若い頃は麻薬に走ったりして精神が荒廃した時期もあった。しかし、語り部に選ばれて生き方が変わったようだ。太古のムーの流れを汲む木訥(ぼくとつ)とした語り口。しっかりと大地にグランディングした安定感。ムーの時代の人々を彷彿とさせるものがあった。自然と共に生きていたムーの時代。神々や先祖を畏れ、敬った。自然との分離感がなく、自然の一部として存在していた。科学文明はなくても、幸せだった。幸せは物質の多寡では決まらない。幸せを決めるものは、精神の豊かさ。豊かな精神と地球との出会い。まだ妖精たちが自然の中に普通に存在していた時代。それら異次元の存在たちとも一緒に暮らしていた。そういう豊かさが甦ろうとしている。今の科学技術は更に発展させる。それと共に地球の深い自然ともふれ合う。星や月とも語り合い、意識を宇宙に広げる。地球をベースに宇宙へ飛び立つ。科学と自然の融合。物質と霊性の融合。右脳と左脳。肉体と精神。それらを理解し、統合し、更に超えていく。それがこれからの人類の課題となる。自然を感じ、自然と共に生きる。同時に、内なる霊性を感じ、スピリチュアルに生きる。肉体は限りなく活性化し、元気に生きる。精神は限りなく深まり、静かに生きる。そのバランスと調和。活動と休養。創造と破壊。能動と受動。得ることと手放すこと。それらのバランスと調和。物質だけに偏らず、精神だけに偏らない。左脳だけに偏らず、右脳だけに偏らない。科学だけに偏らず、自然だけに偏らない。それらすべてのバランスと調和。必要最小限のものを所有し、すべてを生かして使い、循環させる。移りゆくものを掴まない。執着しない。囚われない。その時その時を楽しみ、手放す。自己所有の意識が薄ければ薄いほど、すべてが自分のものになっていく。自己所有の意識が強ければ強いほど、すべてが自分から分離していく。所有の意識が薄れる時、意識は自由になる。自我の囲い込みが弱まる時、意識はゆるやかに広がっていく。手に握っているものが自分。それだけの小さな自我。小さなものを掴めば、残りの膨大なものが自分から離れていく。何も掴まなければ、自分から分離するものは何もない。『ゆるやかに 繋がっていた ムー時代 大地にしっかり グランディングして』『自我という 小さな塊(かたまり) 自己所有 所有するから 分離が起きる』『極大の 神から分離 独立し 極小となり また神へ戻る』『分離して 分離の意味を 理解して 分離を超えて 統合していく』『融合と 分離を共に 体験し それらを超えて 統合してゆく』『個の意識 持ちつつ常に 全体を 感じて生きる それが統合』これが502日目の心境です。
2006.05.18
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ガイアシンフォニー第四番には、名嘉睦稔(なかぼくねん)さんも登場する。彼は沖縄の離島出身の版画家。極めて情熱的な人。ほとんどムーの感性と言っていい。彼は鳥の鳴き声の意味がわかる。風からシベリアやポリネシアの自然のメッセージをキャッチする。言葉で表現できないものを版画や音楽で表す。彼は左脳で意識的に記憶はしていない。右脳で無意識的に記憶したものを版画として表現する。少年時代から自然と共に暮らし、自分の中に自然が息づいている。沖縄は神々と共に暮らす島。それは自然の中に神々を見る八百万の神々の世界。縄文のエネルギーそのもの。ムーや縄文時代は右脳系の文化で、人々は自然と共に暮らしていた。神々を畏れ敬い、神々を身近に感じていた。神々と交信できる人も多かった。人々はエネルギッシュで、情熱的に生きていた。音楽や踊りなどの芸術も盛んだった。それは古い日本の姿に似ている。ポリネシアやハワイやバリなどの文化の系譜。科学的であるとは言えないが、太平洋を自由に航行する技術も持っていた。星の位置や潮の流れ、風の向きなどを熟知することによって、小さな船で大洋に漕ぎ出した。意外に広い範囲を自由に航海し、交易していた。自然と共に生きてきたムーや縄文のエネルギーが、今また復活しようとしている。ムーや縄文時代に戻るというわけではない。既に忘れられてしまったけれども、人類にとっての大切なことを思い出そうとしている。ムーや縄文の時代に発達させた右脳系の感性。芸術的、情熱的、自然的、霊的感性。それが科学文明と調和して、これからの新しい文化を創っていく。アトランティスや弥生系の科学技術とムーや縄文系の自然や霊的感性が調和する。右脳と左脳のバランスがとれ、それらが統合されて更に発達していく。脳はこれから飛躍的に進化する。まだ使われていない90%以上の脳細胞が活性化する。地球的な脳から宇宙的な脳に飛躍する。これまでの人類史が統合される。科学と宗教が統合され、真理をベースに生きるようになる。信仰するまでもなく、真理をダイレクトにわかるようになる。ムーや縄文よりも精神文明は、更に深化する。科学は、アトランティスを超えていく。欲望によって何度も海底の藻くずと化した文明が、再び甦り、更に進化する。そのキーになるのは、自分自身の理解。人の意識が真に理解されない限り、新たな飛躍は起きない。自我の構造がみんなに理解され、乗り超えられる時、新しい時代が始まる。自分自身の理解なくして、新しい時代はない。いくら科学技術が発達しても、今のままでは人類は滅びてしまう。欲望のなかでアトランティスのように科学技術によって自滅するしかない。ムーや縄文の文化がいくら復活しても、自己中心的に生きれば黒魔術になってしまう。いずれにしても、自我の壁を超えられるかどうか。それが人類の運命を決める。新しい人類に生まれ変わるには、自分自身を理解し、新しく生まれ変わる必要がある。それがアセンションの真の意味。新しい時代とは、自然と科学の調和。物質と霊性のハーモニー。ムーとアトランティスの統合。人が自我をクリアーして、新人類として生きる時代。意識が宇宙に開かれる時代。そういう方向へ向かって、地球は進んでいる。このサイトも、その流れの中にある。『欲望に 溺れて霊性 見失い 文明自体を 崩壊させる』『人類の 右脳と左脳の バランスが 科学と宗教 統合していく』『地球から 宇宙に意識 開くには 右脳と左脳 統合すること』『感情と 思考を共に 理解して ダイナミックに 静かに生きる』『人生は 情熱的に 冷静に 見守りながら 激しく生きる』『肉体の 中で霊性 煌(きら)めかせ 地球と共に 豊かに生きる』『新しい 時代のキーは 自らの 意識の構造 理解すること』これが501日目の心境です。
2006.05.17
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今日は屋久杉で仏像を彫る人の家に行った。70代の男性で独り暮らし。屋久島で本格的な仏像が彫れるのは、この人ともう一人だけ。自宅には見事な屋久杉の仏像が並んでいた。仏像もすばらしかったが、自宅のロケーションも最高。モッチョム岳の麓、森に囲まれた一軒家。道の行き止まりにあり、目の前には海が広がっている。どうしてこのような土地を手に入れることができたのか聞いたら・・・そんなに簡単な話ではなかった。ボランティアをしたりして人間関係というか信頼関係ができた結果。縁を待つしかない。今は地元の人が習いに来ており、弟子ができたとご満悦だった。生活に困っている様子はなく、最近は頼まれれば彫っているとのこと。屋久杉のすばらしい原木が手に入ったので、当分は楽しめると嬉しそうだった。屋久杉の高級な原木は、新車が買えるくらいの値段らしい。きれいな柾目(まさめ)の原木は、なかなか少ないとか。屋久杉のことや屋久島事情について、いろいろ話してくれた。屋久島に住む前に横須賀から100回以上通ったらしい。屋久島でもいろんな場所に住み、島の事情に詳しい。屋久島にはユニークな人が多い。ガイアシンフォニー第四番には、サーファーのジェリー・ロペスが登場する。23歳でハワイマスターズ優勝。冬のハワイ・ノースショアの巨大な波を自在に乗りこなす彼を、人々は「パイプライン・キング」と呼んだ。母は日系三世で、本人もイタクラ・ケンという日本名を持っている。彼がすばらしいのは、サーフィンを単なるスポーツではなく、スピリチュアルなものにまで高めたこと。大きな波がやって来る時、水は動いていない。ただエネルギーが動いているだけ。そのエネルギーに乗る。巨大な波のトンネルは異次元空間。時間がゆっくり流れ、音が消える。全身の感覚が研ぎ澄まされ、意識がピュアーになる。トンネルの中の記憶は残っていない。まるで禅で言う空の世界。記憶の次元を超えるサーフィン。最初は海や波などの自然との調和。それから自分との調和。サーフィンとは、ハーモニー。実にすばらしい!彼は若い頃からヨガをやっていた。霊性に目覚めることを人生最大の目標にしている。自然とスピリチュアリティの調和。地球に生きるものの理想的なあり方だろうか。自然と霊性のバランス。そして、調和。それがこれからの人類の向かう方向。自然も科学も霊性も、それぞれを大切にして調和させる。それが地球で生きるということ。人類の地球での体験期が終わり、地球にユートピアを創る段階に入ろうとしている。長い永い試行錯誤の結果、地球上でいかに生きるべきかがやっとわかってきたようだ。学習の時代から、創造の時代へ移行しようとしている。人類は、これから裡なる創造力を発揮して、地球と調和しながら、すばらしい世界を創っていくことになる。それがアセンションの真の意味だろう。『霊性と 豊かな自然が 調和した 新たな地球 創り出す時』『人類の 試行錯誤の 時期が過ぎ 調和の地球 創造する時』『霊性と 地球のいのちの ハーモニー きらめく波と たわむれながら』これが500日目の心境です。
2006.05.16
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3泊4日の旅の最終日。天気は、まあまあ。4日間の中では一番いい。平内海中温泉で足湯をして、黒牛の牧場へ。ちょうど地元の家族連れも来ており、牛に草を食べさせていた。牛は牧場の草より道路際の雑草の方を食べたいようで、モーと鳴いては催促する。しばらくみんなで牛に餌をやって楽しむ。子牛が10頭近く生まれており、いつ来てものんびりしている。それから栗生の海岸でサンゴ拾い。ここでは日差しが出て、暑くなる。みんな熱心にサンゴを拾う。いろんな形のサンゴを拾っては、見せ合って楽しむ。暑くなったので、次は大川の滝のミストで体を冷やす。とても気持ちがいい。珍しく、お寿司屋さんが昼の弁当を売っていた。最後の二箱を買って、西部林道でみんなで食べる。とても美味しかったとのこと。西部林道では、サルが木に登って小さな実を食べていた。その下にたくさんのシカがいて、サルが落とす木の実を食べていた。サルは時々木を揺すって、シカ達のために実を落としてやっている感じ。彼等は友達なのだろうか。永田いなか浜で波打ち際を歩き、足を砂に埋めてお昼寝。のんびりペースでゆったりしていたら、宮之浦の街に着いた時には3時を過ぎていた。レストランはどこも閉まっており、スーパーで食べ物を調達する。水をオーダーしたい人がいて、屋久島縄文水の工場へ。手続きをしている間、他の人は湧き水を飲む。お土産や屋久杉の木霊のストラップを買って、空港へ。5時を過ぎていたので、抹茶のソフトクリームは食べられなかった。5寺55分発の最終便で、鹿児島空港から名古屋空港へ。今回は天気に恵まれ、予定を完全消化という感じ。初日の木霊の森では、たくさんの木霊の写真が撮れた。ものすごく光っている木霊もいて、全員が木霊の写真が撮れたようだ。モッチョム岳ではサクラツツジの満開にも出会えた。7人のすばらしい旅が終わった。ガイアシンフォニー第二番では、佐藤初女さんも登場した。彼女は青森の岩木山の麓にある「森のイスキア」というスペースで、心を病む人を癒している。彼女が心を込めて作る食事を共にすることで、自然に癒される感じ。彼女の食事は、自然の素材を生かして作られる。それに真心がプラスされて、すばらしい食事となる。生き方も自然な感じ。肩に力の入らない、季節と共に生きる生き方。日本の伝統的な食文化を大切にしている感じ。質素に慎ましく、心豊かに、まさに日本女性の典型のような生き方。自然と共に生きてきた日本女性の究極みたいな人。自然と共に心を込めて作れば、それを食べただけで癒されていく。自然と人のコラポレーション。自然の持つエネルギーを生かし、真心を込める。日本的生き方の一つの典型。自然のすばらしさ。人のすばらしさ。それが一つに調和された時の更なるすばらしさ。自然も人もすばらしい。自然と共に生きる人はすばらしい。自然から強奪せず、自然からいただく。自然と共に生きる。それがこれからの生き方。科学と共に自然を大切にする生き方。人と自然が調和する生き方。それがこれからの時代の生き方だろう。『自然から 離れることで 不自然な 心と体 つくられていく』『真心を 込めて作れば 病む人の 心を癒し 体を癒す』『自然から いただきながら 感謝して 真心込めて 生きてゆく道』『これからは 人と自然が 調和して 心豊かに 自然に生きる』これが499日目の心境です。
2006.05.15
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今日は、モッチョム岳に登った。標高は1000m弱だが、屋久島では最もきつい山と言われている。天気は、曇。一時的に小雨が降ることもあったが、全般的には風もなく、暑くなくてちょうどよかった。朝9時半から登りだして、山頂に着いたのは1時半。頂上で昼食。1時間後に下山開始。急なので下山にも時間がかかる。登り4時間、下り3時間半。合計7時間半の山歩きだった。途中の万代杉で、朝から宮之浦岳に登って、モッチョム岳は今日二番目の山という超人的な人に出会う。既に日本百名山を90以上登っているとのこと。すべて日帰りで、地図にあるコースタイムの約半分で登るとか。こちらの2倍以上のスピード。我々がまだ頂上に着く遙か前で、引き返してくる彼に出会う。現在53歳。孫がいるとは思えない元気さ。沖縄に仕事で来たついでに一泊二日で屋久島に寄ったとのこと。昨夜は登山口でレンタカーの中で眠ったとか。寒くてよく眠れなかったと言っていた。世の中には本当にいろんな人がいる。ちなみに彼のHPは、「錆(さび)鉄人」で検索すれば出て来るとか。こちらは8人のメンバーで登り初めて、途中で2人がリタイア。これは最初から予想されていたものなので、驚きはしなかった。最後の方になると、垂直に上って垂直に下ることの繰り返し。確かに宮之浦岳よりも辛い。今日のメンバーの中の3人は、昨年宮之浦岳の縦走に参加している。いかにモッチョムがきついか、よくわかったようだ。万代杉から上は、サクラツツジが満開だった。さながらお花見気分。アリドウシの小さな白い花も咲いていた。山頂付近ではスミレが群生しており、少しだけシャクナゲの花も見られた。シャクナゲはまだ初々しいピンク色で、まるで少女のように可憐だった。山頂は風もなく、見晴らしは最高。苦労して登ってきた甲斐があるというもの。360度の大パノラマは達成感バツグン。疲れが一気に吹き飛ぶ。しかし、帰りはきつかった。濡れた木が滑り、とても危険。下りの割にはスピードが出ない。駐車場に着いた時には、フラフラ。いかにラインホルト・メスナーがすばらしいかがわかる。たぶん、錆鉄人の何倍ものスピードと耐久力があることだろう。人間の常識を遙かに超えている。地球交響曲(ガイアシンフォニー)第二番でインパクトが強かったのは、ダライ・ラマ14世。現在はチベットを追われ、インドのダラムサラに亡命政府を樹立している。彼には若い頃から西洋人の家庭教師が付いており、英語はペラペラ。癖のある早口で喋る。きっと頭の回転が速いのだろう。意外だったのは、よく冗談を言って笑うこと。極めて明るい人。とても亡命中の人とは思えない。彼はチベットの人々に、征服中の中国に暴力で対抗しないように呼びかけている。平和的な話し合いによる解決をめざしている。それはたぶん歴史的な意味があるだろう。暴力に対して暴力をもって対抗するのではない新しい生き方の提示。どうして平和的なチベットが中国に暴力で侵略され、支配されているのだろうか。これまでは、いまひとつピンとこなかった。でも、ガイアシンフォニーを見て、なんとなくわかるような気がした。もし中国に支配されず、彼がチベットにいたままであったなら、今のように世界中の人々に知られることはなかっただろう。世界中に平和のメッセージを伝える機会がなかったはずだ。遠い秘境のローカル宗教で終わっていたに違いない。ダライ・ラマやチベット密教が広く知られるようになったのは、中国に支配されたからに他ならない。中国は悪者の役割を担っているに過ぎない。チベットの民は中国に弾圧され、虐待され、苦しんでいる。それは事実だけれども、実際にチベットに行ってみると、表面的にはそんな印象は受けない。首都のラサは都市化して、中国人がどんどん増えている。見た目には安定していて、不満があるようにも見えない。地方へ行くと、政治や宗教とは関係なく、のどかに暮らしている感じ。しかし、見えないところではチベット古来の文化が否定され、自由が奪われているのだろう。どんどん利益中心の中国化が進んでいる感じがする。チベット本来の人間性や平和の精神は、現在ではダラムサラの亡命政府の周りに存在している。多くのチベット人が危険なヒマラヤを超えて、ダラムサラの町に住んでいる。中国政府によって両親を殺された孤児たちのための学校もある。そこでは本来の人間性を重視した教育が施されている。地球の将来を担う人を育てている感じ。チベット在住の子供たちに比べ、ダラムサラの子供たちは、より素直に育っているらしい。すばらしいことだ。チベットに行った時も、子供たちの無邪気な笑顔に感動した。地方のチベット人の人間性にも深い感銘を受けた。その凝縮バージョンがダラムサラにある感じだろうか。もしかすると、チベット本来のものをより純化し、地球全体に広めるために、支配&亡命という悲劇が起きているのかもしれない。悲劇は単なる悲劇にあらず。深い叡智が働いているのかもしれない。将来的には、今のチベットが北極になるとも言われている。それはポールシフトが起きた後の新しい地球。つまり、アセンションした後の地球。表面だけを見て中国を批判し、暴力に暴力で対抗しても何も新しいものは生まれない。現象の深い意味を理解する必要がある。そうすれば、現象の奥に流れる叡智が感じられるだろう。地球には方向性があり、アトランダムに進行している訳ではない。その時代の流れを直に感じることだろうか。ダライ・ラマは、チベット文化の象徴に過ぎない。彼自身が重要なのではなく、彼が代表するチベット文化が重要なのだ。チベット文化の中に、これからの人類にとって必要な平和で宇宙的な人間観が存在する。それを理解することだろうか。そうすれば、チベットの人々の弾圧や抑圧による苦労が報われるというものだろう。それこそがチベットの人々が担っている役割なのだから。新しい時代を切り開く、一つの流れ。『人類の 向かう方向 指し示す チベットの民 悲劇を超えて』『現象は 悲劇のように 見えてても 奥に流れる 叡智の光』『チベットの 奥に流れる 人間の 平和と尊厳 理解すること』『ヒマラヤの 奥に抱かれる チベットの 永久(とわ)の霊性 人類救う』これが498日目の心境です。
2006.05.14
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早朝は、かなり激しい雨が降っていた。しかし、ヤクスギランドへ着く頃には、曇り空になった。150分コースから天文の森を歩いて帰る頃には、晴れ間さえ見えだした。雨上がりの美しい緑を堪能することができた。みんなでいろんなキノコを発見して楽しんだ。最後はJR温泉で汗を流し、今日の宿・天然村へ送る。ガイアシンフォニー第一番で、もう一つ印象に残ったのは、象。これまでイルカやクジラが高度な知性を持っているのは知っていたが、象にもあるということは知らなかった。象牙を獲得するためにアフリカ象の密猟が絶えない。親を殺されて孤児になった象を保護して育てているダフニー・シェルドリンクという女性が登場する。彼女は数十頭の子供の象を育てて森へ帰している。その象たちを受け入れ、更に育んでいるのが、以前彼女に保護されて成長した象。これまでに何頭も育てているらしい。それがすばらしい。自分の子供を育てるのであれば別に珍しくはないが、保母さんのような役割をする象がいるとは・・・たまに狼に育てられた少年とかが出現したりするけれども、母性というのは動物や人間に共通のものなのかもしれない。鳥たちも大切に卵を抱き、雛を育てる。多くの動物が長い間子供を外敵から保護し、大切に見守る。もちろん、人間も。母性という万物共通のエネルギーがあるのかもしれない。慈母観音的エネルギー。人類も動物たちも慈母観音的エネルギーに包まれて育つということだろうか。なんとも幸せなことではある。ところが、それだけではない。父性としての攻撃的な本能も、併せ持っている。動物の場合は、それによって自己保存ができるのだが・・・人間の場合は、いろいろ問題が起きてしまっている。サルの場合は母性と共に、雌を支配しようとする雄の本能がある。しかし、象の場合はそのような感じはない。もっと平和的に生きている。イルカもクジラも平和的。人間はサルの方に似ているのだろうか。干魃などで食料がなくなると、最初に影響を受けるのが大量の食料を必要とする象であるというのも驚いた。象はもっと強い生きものかと思っていた。自分の死が避けられないと知った象は、静かに死を受け入れる。自ら食べることをやめ、一日で死んでゆく。人間よりも遙かに高度な知性というか理性というか・・・人間は地球上では自分たちが最高の存在だと思っている。しかし、どうもそうではないようだ。他の動物たちから学ぶべきことが多々ある。いろんな存在形式があるが、人間の存在形式が最高という訳でもなさそうだ。イルカやクジラたちは、楽しそうに生きている。確かに物質文明はないが、高度な知的文明がありそうだ。少なくとも彼等はテレパシーで交信している。象もかなり遠くの仲間とテレパシー交信をしているらしい。人間よりも遙かに進んでいる。動植物の種が一つ絶えることは、地球にとっても人類にとっても多大の影響があるらしい。もっと地球の自然を大切にしないと、真に豊かに生きることはできない。まだまだ人類は未熟。発展途上。謙虚に学ぶべきなのだろう。それがガイアシンフォニーの象たちを見ての印象。『人よりも 平和に生きる 象たちを 殺して象牙 盗む人類』『共通の 母性を育て 人類の 恐怖が起こす 暴力超える』これが497日目の心境です。
2006.05.13
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今日の屋久島は、雨。窓を開けると、庭でテッポウユリが咲いていた。屋久島にはテッポウユリが自生している。屋久島から沖縄の間がテッポウユリの原産地らしい。今日から一週間ガイド。でも、天気は良くなさそう。雨だと山に登れないので、きつい。行っても何も見えないし、危ないだけ。滝も危険なので、森か海。野イチゴを食べに連れて行きたいのだが・・・地球交響曲(ガイアシンフォニー)のDVDが発売された。今はあまりお金がない時期なので、ちょっと買えないなと思っていた。すると、知り合いからDVDのセットが送られてきた。ぜひ見てほしいと。これまでどういう訳かガイアシンフォニーの映画は一度も見たことがなかった。見たいという気持はあったのだが、タイミングが合わなかった。屋久島でも上映会があり、監督も舞台挨拶に来たが、その時も仕事だった。ちょうどハイビジョンのTVとDVDレコーダーがそろったところで、タイミングが合ったようだ。子供の頃から映画館へ行くと、気分が悪くなった。映画が終わって外に出ると、しばらく頭がクラクラした。そのため、大人になってからも、あまり映画は見ていない。それに狭いシートに長時間同じ姿勢でいるのも苦しい。その結果、コンサートなどにもほとんど行くことはなかった。自宅でゆっくりくつろいでテレビを見るタイプ。そういうことなので、ガイアシンフォニーのDVDは助かった。一日一本ずつ、五番まで見た。仕事の時は、見ながら途中から居眠りしていた。2週間ほど借りて、転送した。映画にはユニークな人たちがたくさん出てきた。全体的に違和感のない人たちだった。しばらく仕事が続くので、あまり日記を書く時間がない。一週間ほど、ガイアシンフォニーの感想を書くことにする。第一番で最も印象に残った人は、ラインホルト・メスナー。世界の8000m級の山、全14座を単独で登った登山家。彼は現代的な重装備なしで、独りで山に登る。それがすばらしい。西洋的な山を征服するという登山ではない。もっと神秘的でスピリチュアルな登山。800mのガケを墜落した時、墜落する肉体を見ているもう一人の自分がいるのを体験した。それが人生のベースになっているとか。雪の山に登っている時、もうどうにもならなくなった時、この世の存在ではない少女と会話を交わし、山頂へ無事着いたこともあるらしい。通常の登山家ではない。登山を引退した今は、自然の中で自然な素材によるレストランを経営している。彼の自宅は、まるでチベット仏教の寺院。チベットの文物が溢れている。彼の考え方もチベット仏教の影響が大きく、この世だけという捉え方ではない。彼は登山に際して、もちろん肉体も鍛える。しかし、そのトレーニングは通常のものとは少し違うようだ。無限のエネルギーを自分の中に取り入れ、肉体が動けるように活用する。そんな感じだった。力を自分のものにするとか、所有するという感じではない。西洋の登山は、山を征服するというもの。征服するとは、自分のものにするということ。所有=自我。西洋の登山は、自我の登山。征服することによって自我を強める。東洋では、山は神聖なところ。聖なるものと交わる場所であって、征服する対象ではない。彼の場合は、山と共にいるという感じだろうか。山に抱かれて存在する。自然の一部。山と同質。極めて東洋的。肉体を極限にまで鍛えるということは、ボディビルダーのような筋肉マンになることではない。いかにエネルギー循環のよい体にするか、いかに効率のよい体にするかということ。余計なものを削ぎ落とす。シンプル。心も体も。そうでなければ8000mの酷寒と孤独には耐えられない。それには一般的な人間を超える必要がある。物質オンリーでは、重装備なしで8000mに独りで行くことはできない。物質を超えないと、8000mの神々の領域に独りでは行けないのだ。そういう意味で非常に魅力的な人だった。彼は山で弟を助けるために凍傷になり、足の指を6本なくしている。それにもかかわらず、8000m峰を単独登山している。超人的としか言いようがない。しかし、その登山を支えたのは、物質ではなくスピリチュアリティ。スピリチュアリティが物質を超えていく。常識を超え、不可能を可能にしていく。それはこれからの時代の象徴のようだ。肉体と共にスピリチュアルに生きる。肉体も大切にする。でも、意識は肉体を遙かに超えて存在する。軸足をスピリチュアルに置き、この世を生きる。けっして逆ではない。『不可能を 可能にするのは 肉体の 意識を超えた スピリチュアリティ』『征服や 所有ではない 山登り 自然と共に 山に抱かれて』『裡にある 無限の力 感じつつ この世の限界 ゆっくり超える』『自我を超え 世俗を離れ 山へ行く 直に何かに 触れる感じが』これが496日目の心境です。
2006.05.12
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今日の屋久島は、曇。なんとなく中途半端な天気。屋久島の一周道路沿いには、オオキンケイギクの黄色い花が咲いている。鹿児島県では、この花は特攻花と呼ばれる。特攻隊の基地に咲いていたからだろうか。赤ちゃんや幼児は、自分が気に入ると同じことを飽きもせず繰り返す。何回も何回も自分が納得するまでやる。それに大人が関わっていると、同じことを嫌というほどやらされることになる。大人はそんな単純なことはすぐに飽きてしまうが、赤ちゃんや幼児にとっては、とても新鮮。その繰り返しの中で徐々に成長していく。赤ちゃんや幼児が納得する前に強制的にやめさせると、泣き出す。それでもどうしてもやめなければならないこともある。しかし、それが度重なると、赤ちゃんや幼児の健全な発育に支障が出る。暴れたり、夜泣きしたり・・・余裕がない育児は、お互いにとって不幸となる。無理な強制終了が重なると、欲求不満になる。何か満たされない思いが残る。それらは記憶される。それは大人になってからの精神状態に影響を及ぼす。何をやっても中途半端。やり遂げることができない。はっきりしない不満がいつも潜在している。無意識層に刻み込まれた乳幼児期の記憶。もし自分の中に未完了の思いがあったら、それを完了させた方がいい。もちろん乳幼児期の記憶を一気に思い出すことはできない。もっと後年の欲求不満や中途半端に終わったことの記憶からスタートするしかない。自分の中に何かモヤモヤするものがあったら、そのままにしておかないで、それをよーく感じた方がいい。未完了の思いは、一つ一つ完了させる。実際に行動してもいいし、イメージの中でやってもいい。残っているのは記憶なので、実際にやる必要はない。中途半端な思いを満たせばいいだけ。満たされなかったものを満たしてやる。それによってモヤモヤは解消される。もちろん、モヤモヤは一つや二つではない。何層にも何層にも潜在意識の中に積もり積もっている。それらを上の方から完了させていくしかない。ありのままを認め、そのまま受けとめ、エネルギー的に満たしてやる。欠けているものをイメージの中で満たしてやる。自分の中から未完了感がなくなるまで繰り返す。もちろん、簡単に未完了感は終わらない。どんどん深いものが出て来る。出てきたら、満たしてやって完了させる。それをゆっくり繰り返す。完全燃焼しないものは、燃え滓が残る。それが未完了感という記憶。思い残し。乳幼児期から死ぬまで、未完了感の連続。それが積もり積もって、人は死後も幽界を彷徨(さまよ)う。成仏できない。この世への執着や囚われ。様々な思い残し。未完了感を残したまま死ねば、それらに押し潰される。不完全燃焼の山。記憶という重荷。別に死ぬのを待つまでもなく、生きているうちからそれらのプレッシャーを受ける。未完了の記憶に押されて、様々な行動を無意識のうちに取るようになる。安心できるものを求めたり、愛されることを求めたり。逆に、相手に暴力を振るったり、傷つけたり。自分では原因がわからないまま、満たされない思いに突き動かされる。何が?どこが?どうして?このようなことをするのか、自分でもまったくわからない。何か満たされないものがある。幸せとは言えない。自分の中にあるものをよーく感じてみる。自分の中にある未完了感をよーく味わってみる。それを否定することも、抑圧することもなく、引き出して明らかにする。よーくよーくわかってやる。無条件に受けとめ、そのまま抱きしめる。乳幼児期から積もり積もった欲求不満。満たされなかった様々な思い。多くがトラウマとなって潜在意識にこびりついている。それらのものを解放し、完了させない限り、真に満たされることはない。自分の中で燻(くすぶ)る煙を完全燃焼させるしかない。過去を完了させ、今を完了させる。何も残さない。いつまでも重荷を背負って生きることはない。いつも空っぽの状態で生きる。過去世から積もり積もった未完了のもの。今生で積み上げた未完了のもの。今も潜在意識に蓄積している未完了のもの。それらのものを、ぜんぶ完了させる必要がある。過去のものは解放し、今のものはその都度完了させる。これまで溜まっていたものは、感じてあげて、満たしてあげて、解き放つ。長い長い間潜在意識の中に淀んでいたものを、すくい上げ、解放する。何も思いを残さない・・・『満たされぬ 思いそのまま 留めずに 感じてあげて 満たしてあげる』『気がつかぬ ままに溜まった 数々の 思い残しを 解放していく』『満たされぬ 思い残して 旅立てば 未練に惹かれ この世さまよう』『何もかも きれいさっぱり 手放して 成仏しないと また生まれ変わる』『様々な 体験をして 味わって 未練な思い 後に残さず』『毎日の 思いと行い チェックして 感謝と共に 完了させる』『やりきって 後には何も 残さない 一つ一つを 完了させる』これが495日目の心境です。
2006.05.11
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今日の屋久島は、雨が降ったり陽が射したり・・・はっきりしない天気。でも、山の方は雲に隠れて、まったく見えない。見守る意識が育つためには、日頃から自分自身を見つめることだろうか。日常生活の中で何か心に引っかかることがあったら、もう一度フィードバックしてみる。別に反省することはない。ただもう一度ゆっくり前後の状況を振り返ってみる。自分の心理状態を検証してみる。何がトラブルの原因だったのか。どこに自分は引っかかったのか。どういう思い込みから、このような事態が起きたのか。よーく静かに振り返る。そして、はっきりとトラブルの原因を掴む。反省というのは、何か基準がある。基準に照らし合わせて、自分が正しいか間違っているかを判断する。同じ基準で周りの人も裁く。自他を裁けば苦しくなる。反省するたびに苦しくなり、そのうちに嫌になる。自分も相手も裁く必要はない。責めても何も生まれない。ただ事実関係を冷静に確認する。はっきりと明確に理解する。ただそれだけでいい。そうすることによって、次回から同じパターンは繰り返さない。少なくともブレーキがかかる。同じパターンに陥りそうになった時に、気づく。あるいは、直後に気づく。しばらくしてから気づく。いずれにしても気づくようになる。一つ一つ丁寧に自分が引っかかったことを整理していくにつれて、気づくスピードが速くなる。その積み重ねから、自然に見守る意識が芽生える。自分自身を理解しよう。自分の無意識のパターンに気づこう。そのような自分を見つめる気持があれば、やがて自然に自分を見守るようになる。日々、自分の想いと行いを確認することだろうか。何も抵抗がなければ、それでいい。でも、何か心に引っかかることがあったら、チェックした方がいい。何が心に引っかかっているのか。前後左右をよーく見返して、自分の心の動きに気づく。いつも自分を見張っている?それは疲れる。それは自我の見守り。それでは気づくことはできない。自我の見守りから起きることは、判断と解釈。自己正当化か自己批判。いずれにしても判断しているだけで、理解はしていない。判断はいらない。裁くことも責めることもいらない。ただ事実を確認する。自分の心の動きを振り返る。自分の心理状態に気づく。自分の中で何が起こっていたのかを理解する。どういう思い込みがあったのかに気づく。必要なのは、ただそれだけ。見守る意識というのは、自我を超えている。だから自我ではどうすることもできない。自我で一生懸命見守ろうとすると、見張りになってしまう。いい加減疲れて、そんなに長続きはしない。大切なのは、ゆったりと見守ろうとすること。おおらかに自分を包み込んでいようとすること。そういう気持。後は、自然に見守る意識が働くのを待つしかない。自我ではどうすることもできない。意識的にできることは、自分を理解すると決めること。そして、日々、自分を振り返って見つめること。その延長線上に自然に見守る意識が働くようになる。自分を振り返って見つめることなしに、突然、見守る意識が働き出すことはあり得ない。この日記を毎日読んでいれば、自分を見守ることの意識づけはできるだろう。しかし、実際に自分を見つめることをしないと、見守りの意識が働くようにはならない。自分を見つめ、気づくことから始まって、やがて、いつも見守りの意識が働いているようになる。それは自然にそうなるとしか言いようがない。なぜなら、見守りの意識は自我を超えているから。自我ではどうにもできないから。自分にできることは、自分を理解しようと決めること。そして、日々、自分を振り返り、見つめ、気づくこと。その結果として、自然に見守りの意識が働くようになる。だから、必死にやる必要はない。深く静かにやってほしい。ゆったりとおおらかにやってほしい。見守りの意識というのは、そのような包み込むような意識なのだから。『反省は 基準があって 判断し 裁いて責めて 苦しくなるだけ』『自我による 自我の見守り 自我のため 自分流儀に 解釈するだけ』『落ち着いて 静かに自分を 見つめれば 突然気づきは 現れて来る』『自分見る 必要自覚 する時に 深い意識が 働き始める』『見守りの 意識は自然に 働いて 深いやすらぎ 自(おの)ずともたらす』『日常の 日々の気づきが いつの日か 常に見守る 意識もたらす』これが494日目の心境です。
2006.05.10
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今日の屋久島は、明るい曇。でも、山の方は雲がかかっている。海の方も靄がかかっている。肉体は使い過ぎれば、壊れてしまう。使わなければ、退化する。ほどほどに使うことによって、健全に成長していく。脳も同じ。使い過ぎれば、ノイローゼーになる。使わなければ、ボケてしまう。ほどよく使えば、進化する。スピリチュアルなことも同様。スピリチュアルなことばかりやっていると、この世がお留守になる。この世のことばかりに関心が向くと、死んだ後で路頭に迷う。この世のこともスピリチュアルなことも、バランスよくおこなう必要がある。釈迦は、中道と言った。楽器の弦は、強く張り過ぎれば切れてしまう。弱くては音が出ない。ちょうどよく張って、良い音が出る。過ぎたるは及ばざるがごとし。やり過ぎれば、壊れたり、執着が残ったりする。十分にやらなければ、何も学べないし、何も完成しない。やり過ぎない、けれども、やり足りないということもない。そのバランス。これで十分というポイントは、人それぞれ異なる。中道というのは、客観的な基準がある訳ではない。バランスがとれている状態。調和されている状態。それは刻々に動くので、その感性を身につけるしかない。バランス感覚。偏らないという感覚。すべてを生かすという感覚。想いと行動のバランス。肉体と精神のバランス。物質とスピリチュアルのバランス。運動と休憩のバランス。男性性と女性性のバランス。いろんなバランス感覚を自分で身につけていくしかない。いろいろ試行錯誤しながら、自分で体得する。偏れば、アンバランスになる。人生が不安定になる。安定した人生を生きたかったら、中道のバランス感覚を磨くしかない。それは一度身につければ、それで終わりというものでもない。常に揺れ動いているのが現実。目の前に起きて来る事態に、その都度バランスを見出す必要がある。それはまるでサーカスの綱渡り。それを大変と捉えるか、面白いと捉えるか・・・生きるとは、バランスバランスが崩れれば、病気になったり、死を迎えることになる。仕事とプライベートのバランス。家族と自分のバランス。あらゆるもののバランスを整える。それが生きるということ。川の流れが激し過ぎては、すべてが流されてしまう。川の流れが淀んでは、水が死んでしまう。ほどほどに流れることによって、すべてが生かされる。川の流れが淀めば、時に激流となって溜まっていたものを一掃する。それが台風のようなもの。自然はそのような微妙なバランスの上に成り立っている。肉体を持って生きるとは、肉体だけに執着することでも、スピリチュアルだけにこだわることでもない。肉体とスピリチュアルのバランスを取ること。それがこの世で健全に生きるということ。想いと行いのバランスを取る。そのバランスは一人一人が自分自身で見出すしかない。やり過ぎれば、壊れる。やらな過ぎれば、退化する。ちょうどよくやれば、調和する。この大原則を忘れないことだろうか。人生とは、小さな舟に乗って川を下るようなものだろうか。常に舟のバランスを保つ必要がある。バランスを保ちながら、行き交う舟や景色との出会いを楽しむ。その楽しみも、度を越してはバランスが崩れる。意識が外のものにばかり向いても、意識が内にばかり向いていても、アンバランスとなる。右脳と左脳のバランス。右半身と左半身のバランス。肉体と精神のバランス。この世のこととスピリチュアルなこととのバランス。ありとあらゆるバランスがある。それら十重二十重(とえはたえ)のバランスの上で、人は生きている。陰と陽。プラスとマイナス。動と静。引力と遠心力。能動と受動。二つの力のどちらかに偏れば、動きが止まってしまう。微妙なバランスの中で、すべてが変化している。それが生命現象というもの。何重ものバランスによって、すべての生命現象が成り立っている。釈迦が見出した中道というのは、単なる真ん中というだけに留まらない。深い深い宇宙的な意味を秘めて、中道は存在している。それは生命の根源に関わる。バランスがなければ、生命現象は止む。限りない変化はバランスから生まれる。絶え間ないバランスのオーケストラによって、すべての生命現象は成り立っている。偏らないということ。囚われない、こだわらない、執着しない。偏れば、生命現象は継続できなくなる。バランス。調和。それが生命の源。それが生き方の基本。『偏れば 壊れてしまう 何もかも 固まらぬよう バランスを取る』『バランスが 壊れてしまえば 小鳥さえ 空も飛べない 生きていけない』『肉体や 精神だけに 偏れば 人のバランス 壊れてしまう』『甘いだけ 酸っぱいだけでは 美味(うま)くない 酸いも甘いも 共に噛みしめ』『やり過ぎも やらなさ過ぎも バランスが 壊れてしまう 調和見出す』『執着は バランス壊す 偏れば いのちの流れ 悪くなるだけ』『バランスを 取ることこそが 生きること アンバランスでは 生きていけない』『いのちとは すべてのバランス 保ちつつ 宇宙の中を 流れゆくもの』『刻々の バランスこそが いのちなり バランスなければ いのちまたなし』『いのちとは とどまることなき バランスの 果てしなく続く 変化の流れ』これが493日目の心境です。
2006.05.09
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今日の屋久島は、晴れている。久しぶりの青空という感じ。海もベタ凪。ゴールデンウイークが終わって、ホッとしている屋久島だろうか。人は肉体を持っている。肉体を持っているということは、肉体も使うということ。イメージや想いだけではなく、実際に肉体を使って行動するということ。思い描くことは実現する。ありありと思い描けば描くほど、実現する可能性は高くなる。それが時代の流れに沿ったものであれば、更に実現しやすくなる。思い描くのもいいが、肉体があるということは、肉体も使うということ。思い描き、そして肉体を使って行動する。その両方があると、更にスピードアップする。思い描くだけであれば、死んだ後でもできる。別の次元でも思い描くことが創造の源となる。しかし、この世は思い描くことに加え、行動することができるところ。物質的な肉体があるのは、この次元だけ。額に汗して働くのは、この世だけ。それは家を建てるのに似ている。まず設計図があって、それから建設に取りかかる。設計図だけでは家は建たない。設計図がなくても家は建たない。設計図があって、実際に建設に取りかかって、初めて家は完成する。想いと行いが一致する時、現実化が起きる。この世とは、そういうところ。せっかく肉体を持っているのだから、肉体生活も楽しむ。肉体を持っているからこそできることもある。山登り。海で泳ぐ。スポーツ全般。美味しいものを食べる。すてきな異性と夜を共にする。肉体は肉体。別に肉体を悪者扱いすることもない。もちろん、肉体に溺れることもない。肉体と共に生き、肉体と共に死ぬ。それがこの世。しかし、肉体だけに囚われると虚しくなる。肉体はやがて老いる。最後には死が待っている。肉体や物質オンリーでは、人生の意味が見出せない。肉体と共に精神も大切にする。精神の深まりは限りない。精神とは、神の精髄。自分自身のルーツに通じている。肉体にあっては行動し、想いにあってはイメージする。精神にあっては瞑想し、自らの源へ還る。この世は、想い描き、行動するところ。自分の想いを肉体を使って実現するところ。そのためには、肉体も精神も健全である必要がある。どちらかがアンバランスになれば、それがクリエーションの限界となる。肉体と精神の調和。どちらにも偏らず、バランスを取る。肉体にも感情にも思考にも囚われない。思考以上のエネルギーにも執着しない。それぞれの役割を理解し、有効に生かして使う。この世は肉体がベース。感情は行動の原動力。思考は方向性を決める。気づきは自分自身の再確認。見守りは永遠に通じる。この世は想いと行いによって現実をクリエイトするところ。自分の望むものを創り出し、楽しむところ。瞑想によって自分の本質に気づき、想いと行動によってこの世をクリエイトする。『この世とは 思い描いて 行動し 望む現実 創り出すとこ』『瞑想は 自分のルーツ 目覚めさせ 想いと行い 現実創造』これが492日目の心境です。
2006.05.08
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屋久島は、昨日から今日の午前中まで嵐だった。午後になって、やっと飛行機の音が聞こえた。第1便は欠航。第2便は大幅に送れて到着。ゴールデンウイークで屋久島へやって来た人が無事に帰れるといいのだが・・・心のやすらぎは、求めるものではない。それは在るもの。常に在るもの。ある次元に行けば、それは常に存在している。求める・求めないにかかわらず、それはそこに在る。そういうエネルギー場が存在する。そういうエネルギー場にいれば、やすらぎが満ちている。そのエネルギー場そのものが、やすらぎなのだ。そういうエネルギー場と共にあれば、殊更(ことさら)にやすらぎを求める必要はない。自分自身の意識が、その次元にあればいいだけ。意識の中に、そのようなやすらぎの次元がある。そこに意識がフォーカスできれば、やすらぎそのもの。何も難しいことはない。自分の意識の中に、宇宙の始まりから終わりまですべてが含まれている。ありとあらゆる次元が存在する。それを少しずつ感じていくといい。外に求めないで、内を感じる。心のやすらぎとは、自分の意識の中に元々存在しているもの。自分の外に存在しているものではない。ゆっくりとリラックスして、自分と一緒にいる。自分の中にすべてがあるのだから、何も焦ることはない。自分自身と一緒にいさえすれば、すべては内から湧き上がってくる。意識が自分自身から外れるから、真実が見えなくなる。意識が外のものに捕らえられると、自分がわからなくなる。外のものを見る意識と共に、自分自身を感じる意識が常に必要なのだ。自分自身にグランディングして、外を見つめる。自分を忘れて外だけに意識が行くと、大切なものを見失う。しっかり自分自身と共にいて、外を見つめる。内なる充実感と共に、外と出会う。その時に、外にあるものと内にあるものとの出会い=感動が起きる。自分自身にしっかりグランディングして出会う時、出会いの感動が自分の中で爆発する。自分自身が充実していない限り、感動の爆発はない。自分自身に深いやすらぎがある時、出会いの感動がやってくる。その時、内と外という境界はなくなり、ただ感動だけがある。自分はない。感動がある。やすらぎの空間に、自分はない。ただやすらぎがあるだけ。自分という意識は、もっと波動の低いところにある。やすらぎの空間では、自分ではない広がった意識があるだけ。そういう広がった意識もあれば、肉体意識もある。いろんな意識がある。その総体として今ここに生きている。しっかり自分自身にグランディングする。肉体にも無限の意識にも、その中間の様々な意識にも。そのトータルが自分自身なのだから。そうすれば、何も外に求めるものはなくなる。『目に映る ものはすべてが 変わるもの 変わらぬものは 内にあるもの』『やすらぎは いつも変わらず 在る次元 求める前に 気づけばいいだけ』『様々な 意識の層の トータルが 自分自身と 呼ばれているもの』 『肉体や 物質だけへの フォーカスを ゆるめ広げて ゆったり生きる』『精妙(こまやか)な 波動がすべてに 浸透し やすらぎ満ちる 空間となる』『やすらぎは すべての中に 浸透し 今刻々に 生きて在るもの』『やすらぎの 次元と共に 生きる時 求めるものは 何もなくなる』これが491日目の心境です。
2006.05.07
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屋久島は、朝から強風が吹き荒れていた。午後からは雨も降り始め、天気は完全に下り坂。山の方は厳しいかもしれない。今日から、しばらく仕事はお休み。少しのんびりしている。でも、疲れが溜まっているのか、ゆったりすると居眠りをしてしまう。仕事中はそうでもなかったのだが・・・感受性とは、単なる受け身ではない。単なる受け身状態では、ボンヤリしているだけ。心に隙があるので、簡単に傷ついてしまう。感受性が豊かであるということは、自分の波動が精妙であるということ。自分の波動が精妙であればあるほど、細やかに感受できる。自分の波動に応じたものが感受できるだけ。五感にしても、感度の違いがある。アフリカの原住民には、視力8.0という信じられない視力の持ち主もいる。聴力にしても、都会人では聞き分けられないものを遠くから聞くことができる。臭覚も、排気ガスで鈍感になっていなければ、微妙なものが嗅ぎ分けられる。味覚も、合成添加物や化学調味料に犯されていなければ、体に悪いものがわかるはずだ。皮膚感覚も、厚着をしていなければ、ぜんぜん違ってくる。誰もが持っている五感でさえ、かなりの程度の差がある。五感を超えた感受性となると、それこそ千差万別。敏感な人から鈍感な人まで、百人百様。食べ過ぎたり、疲れていたり、夜更かしすると、感受性は鈍くなる。思い込みが多くても、感受性は鈍る。思考が常時動いていても、感受性は鋭敏になれない。深い感受性のためには、頭がクリアーで静かである必要がある。自分自身がエネルギー的に充実していないと、高度な感受性は望めない。感受性とは、自分の中から精妙なエネルギーが溢れ出し、それが精妙なものをキャッチする感じ。自分の中が荒っぽくては、精妙なものを感受することはできない。いかに自分の波動を細やかにするか、いかに自分の心の中を静かにするか、感受性はそれにかかっている。肉体も感情も思考も浄化され、クリアーであることが求められる。あらゆる条件がそろわないと、深い感受性は期待できない。感受性は、まさに自分の意識の深さに比例する。精神が細やかであればあるほど、感受性も細やかになる。豊かな感受性を求めるのであれば、精神を研ぎ澄ます必要がある。クリアーで透明な精神状態の時、三次元を超えた豊かなものが感受できる。意識の広がり。自分から溢れ出すエネルギーが、いろいろなものを感受する。広がりゆく意識が、いろいろなものに出会い、感受する。その次元にいるということ。その次元にいるから、その次元のものが感受できる。すべては、自分の意識しだい。それは五感も変わらない。視力について言えば、車のヘッドライトが当たる範囲のものが見えるようなもの。自ら光を出して感受している。感受性とは、自らエネルギーを出して感受するもの。単なる受け身ではなく、内から溢れるエネルギーと外のものとの出会い。内なるエネルギーが充実し、それが自然に溢れ出す。それが様々なものと出会い、細やかに感受していく。感受性に必要なものは、精神の静かな充実。『溢れ出す 肌理(きめ)の細かな エネルギー 触れ合うものを 感受していく』『精妙な 内から溢れる 波動こそ 深い感受が 起きる源』これが490日目の心境です。
2006.05.06
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屋久島は、一日、良い天気だった。今日のお客さんは、若い彼と彼女。20代のお客さんは珍しい。まず木霊の森でリラックス。天気が良いので、大きな岩の上にマットを敷いて寝てもらう。二人が横になっている間、こちらは少し上で瞑想。それから、ゆっくり歩き始める。屋久杉の巨大な切株の前に来ると、二人とも切り株に登った。元気、元気。それから、もう一度岩の上にマットを敷いて、今度は腹這いで寝てもらう。そうすると、ちょうど両手を沢に浸けられる。沢を楽しんでもらっている間に、こちらは流木を撮影。ヤクゴンがたくさんいた。ゆっくり一番奥まで行く。今まで行ったことのない場所で休憩。今日は水が少なかったので、ここまで行くことができた。普段は行くのが難しい場所。とても見晴らしが良く、原始の森を静かに楽しめる。それから、白谷雲水峡のもののけ姫の森へ向かう。今日もまた、ものすごい人。昨日は入場者が1000人を越えたらしい。ヤクスギランドは400~500人と言っていたので、圧倒的に白谷雲水峡の方が多い。これは明らかに”もののけ姫”効果。”もののけ姫”が上映されるまでは、こんなに混んではいなかった。今では屋久島へ来る人の多くが、もののけ姫の森へ行きたがる。縄文杉並みの人気スポットになっている。ガイドも縄文杉と白谷雲水峡に集中している。ヤクスギランドでは、あまりガイドの姿は見かけない。ランドという名前が付いているので、ディズニーランドと似たようなイメージを持つのだろうか。しかし、実際は奥へ行くと白谷雲水峡よりも森は深い。苔を見たかったら、白谷雲水峡へ行くといい。杉林を見たかったら、ヤクスギランドの方がお薦め。ヤクスギランドの150分コースの先まで行くと、静かな森を体験できる。行く人が極端に少ないので、屋久島の深い森を堪能できる。人が多いと、人のエネルギーに邪魔されて、屋久島の森が本来持っているものが感じられなくなる。人がいない森というのは格別。そこで屋久島のエネルギーを感じるといい。そのうちに白谷雲水峡はガイドをするのをやめてもいいかなとも思う。ガイドをする人はいくらでもいるので、別に自分がやることもない。できるだけ競合しない方がいい。人のいないところへ連れて行くのを専門にする?少し危険だが。初めて屋久島へ来た人には、基本的なところを案内するのもいい。でも、二回目以降の人には、スペシャルなところを案内したい。他のガイドが案内していないようなところを。もう少し新しいコースを開拓する必要がありそうだ。彼女は島が好きらしく、伊豆七島や小笠原へも行っていた。小笠原もよかったらしいが、屋久島の方が観光地化していないとのこと。屋久島の9割は国有林なので、観光地化しにくいのだろうか。里の方も歓楽街もなく、静かなものだ。世界自然遺産なのだから、これからも静かな屋久島であってほしい。彼女は、「屋久島」+「ヒーリング」のキーワード検索で、こちらのHPを発見したらしい。屋久島でヒーリングをメインにガイドしているのはここだけなので、まずヒットするだろう。最近は、ほとんどのお客さんがネット経由。ますますインターネットの時代になってきている。最後に抹茶のソフトクリームを食べて、”四季の宿・尾之間”へ送る。ここもモッチョム岳が真正面に見えるので、ネットで選んだとか。確かにすばらしい景観。屋久島に住む前に一度泊まったことがある。当時は老夫婦で切り盛りしていた。久しぶりに行ったら、二棟建て増ししてあった。老夫婦では手に負えなくなったようで、息子夫婦も来ていた。孫もいて幸せそうだった。屋久島は、これから人が増えるだろう。今も個性的な人たちが来ているが、更にユニークな人たちが来るに違いない。どんどん豊かになっていく。それは都会的な豊かさではなく、自然と共生する豊かさ。自然と精神の豊かさ。これからの地球は、そういう時代になっていく。それが新しい時代の豊かさだ。『精神と 自然の豊かさ 美しさ それが次代の 地球の流れ』これが489日目の心境です。
2006.05.05
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朝8時にホテルあかつきへ。お客さんは、70歳前後のご夫婦。希望は、ヤクスギランドの150分コース。様子を見る限り、ちょっと厳しそう。歩いてみるしかない。しかし、実際に歩いてみると、思ったよりも早く歩けて、まあまあのペースで楽しめた。 途中の仏陀杉で、昨日ガイドをした中年の夫婦と出会う。二人で楽しんでいる感じ。その後、駐車場で抹茶のソフトクリームを売っている場所と、屋久杉の木工所の場所を聞かれる。ブログ日記を読んでいるようだった。無事に150分コースを歩き終えた頃、次は白谷雲水峡へ行きたいと言われる。歩きながら、白谷雲水峡はサクラツツジが満開という話をした。それで見に行きたくなったようだ。普通であれば一日に2コースはあり得ないのだが・・・白谷雲水峡はヤクスギランドと違って、ものすごい人。ヤクスギランドの150分コースでは、そんなに人に会わなかった。普段よりは多いけれども、気になるほどの数ではなかった。しかし、白谷雲水峡は人ばかり。駐車場に入りきれない車が、延々と路上駐車。これまで見た中で最高の数。サクラツツジは今日もきれいだったので、とても満足してもらえた。もう歩くのは限界に近かったので、少しだけ歩く。帰りに抹茶のソフトクリームを食べて、ホテルへ送る。過去の楽しかったことを思い出して楽しむのもいい。もう一度、ゆっくり噛みしめる。それも悪くはない。楽しいことも苦しいことも、喜びも悲しみもあった。それらのことを思い出し、もう一度味わう。それも否定することはない。それが自分の人生だから。時には過去を振り返って楽しむのもいいが、いつも過去だけに意識が行ってしまっては、老人ホームの老人と変わらない。最近は老人ホームの老人でも、恋をしたりしている。過去の楽しい思い出は変わらないので、思い出すたびに楽しめる。映画やテレビと同じで、安全なところから眺められる。しかし、楽しかった過去と今を比較すると、途端に苦しくなったり悲しくなったりする。過去にはあったものが、今はないものもある。若さ、体力、親しかった人、スタイル、髪の毛、お金、地位、名誉、財産・・・なくしたものに意識がいくと、さびしくなる。過去を楽しむだけであれば何も問題はない。でも、今と比較すると、惨(みじ)めになる。映画やテレビを見ていても、見ているだけであれば純粋に楽しめる。しかし、ひとたび自分の身の上と比較すると、悲惨なことになる。あんなにすてきな恋人はいないし、極上の車もない。広い庭のある家もなければ、きらびやかな宝石もない。スターたちのように美しくはないし、筋肉モリモリでもない。もう少し上手に歌えたり、気の利いたセリフが言えたらいいのに・・・比較を始めたらキリがない。不満だらけになってしまう。ただそれだけを楽しむ分には、何も問題はない。比較から様々な問題が起きてくる。別にスターと比較しないでも、身近な人との比較でも簡単に惨めになれる。比較すれば、不満や怒りや憎しみさえ生まれる。もちろん、逆の満足や優越感も生まれてくる。しかし、自分は万能選手ではないので、不満の方が圧倒的に多くなる。それでは自分が苦しくなるので、諦めることで自分を納得させる。あの人たちは特別・・・でも、周りの人は特別ではないので、本当には納得できない。要領がいいだけ。本当は自分と能力は変わらない。いろいろ言い訳を考えて自分を納得させる。あるいは、時に自棄(やけ)酒を飲む。隣の家と自分の家を比較すると、惨めになったり優越感に浸ったり。外観で負けていたら、中身で勝負。外観も中身も負けていたら、学歴で勝負。学歴も負けていたら、健康で勝負。健康も負けていたら、孫の数で勝負。それでも負けていたら、髪の毛の数で勝負?何か勝っているものを見つけようとする。ホリエモンには財産や才能では勝てないが、自分は法に触れるようなことはしていないとか・・・思考とは、比較。思考力が発達すると、何でも比較しようとする。比較して優劣を競う。もちろん、優を尊び劣を嫌う。それによって一喜一憂、喜怒哀楽が起きる。比較を楽しむのもいい。優劣を競うのもいい。でも、それに溺れると、苦しくなる。比較・優劣の泥沼に足を取られ、自分を見失う。比較が優劣を生み、優劣が喜怒哀楽を生むことを自覚する。喜怒哀楽の虜にならない。喜怒哀楽を楽しむ。今がどんなに惨めでも、比較をやめれば、即座に惨めさは消える。惨めというのは、それ自体では存在しない。比較するから惨めになるだけ。過去との比較、周りとの比較。多くの感情が比較から生まれる。比較をやめれば、消える感情は少なくない。自分が嫌いな感情があったら、その源である比較をやめればいい。そうすれば、即座に嫌いな感情は止む。科学には比較が必要だし、識別するのにも比較が必要となる。比較自体を否定することはない。ただ比較の性質を理解する必要はある。比較に振り回されない。比較をマスターして、有効に使いこなす。その扱いは思考の場合と変わらない。性質を理解して使いこなす。比較しないで、そのもの自体を味わえば、何も問題は起きない。今この時のそのままを味わう。比較・競争・優劣から、いろんな不満が生じる。そのことをよくわかって、楽しむことだろうか。理解すれば楽しめるし、理解していないと振り回される。人生は物事を深く理解し、楽しむことだろう。『過去と今 比較するから 淋しさや 惨めさ辛さ 生まれ出てくる』『比較から 生まれる一喜一憂に 振り回されず わかって楽しむ』『比較なく ただ目の前の そのものを そのまま楽しみ そのまま味わう』『どのような 状況・事態に なろうとも その時々を そのまま楽しむ』これが488日目の心境です。
2006.05.04
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天気予報では一日中晴の予報が、完全に外れた。午前中は雨。午後も曇、時々雨。”いのちの島=屋久島”を見て、すぐに予約したというご夫婦と、木霊の森、もののけ姫の森へ行く。小雨と霧に煙る木霊の森は、とても幻想的で美しかった。特に霧の中から現れるサクラツツジは、この世のものとは思えないような風情があった。 ヤクジカも出てきて、しばらくお見合い?若いシカで、長い間、ジーッとこちらを見ていた。なんとなく、もう少しでコミュニケーションができそうな気もしたが・・・彼女は、言葉ではなく、声の響きに反応した。こちらが声を出した時、2~3歩近づいて来た。もう少し近づくかと思ったが、そこまでだった。希望としては、ヤクジカをナデナデしたい。将来的には、そのような関係になりたいと思う。人間的な気持以前の感覚で呼びかければ、反応すると思うのだが・・・木霊の森では誰にも会わなかった。ゆっくり歩き回っていたら、気がつくと1時近かった。白谷雲水峡の入口でお昼を食べて、もののけ姫の森へ向かう。今日は朝の7時半には駐車場が満杯になったらしい。よほど混んでいるかと思ったら、それほどでもなかった。時間をずらしたのがよかったようだ。満開のサクラツツジとハイノキなどを見ながら、もののけ姫の森まで歩く。今日は団体さんが多かった。屋久島では見ない顔のガイドもいた。島外のガイドも団体と共に来ているようだ。もののけ姫の森に着いた時には、20人近い人がいた。でも、しばらくすると数人になった。時間の許す限り、ゆっくり苔の森を眺める。木霊の森からもののけ姫の森まで、ずっと感動しながら歩いた気がする。普通のガイドのように自然解説をしても、あまり面白くはない。説明する方も面白くないし、聞いている方もじきに忘れてしまう。それよりも、一緒に感動した方が楽しい。それではガイドではなく、ただの同行者だけれども、できればそちらの方を選びたい。 単純素朴。ただ一緒にいる。一緒に感動する。屋久島のいのちを共に感じる。そういうガイドをしたいと思う。『説明は 必要最小限にして 共に感動 共に楽しむ』『鳥の声 沢のせせらぎ 風の音 緑の空間 響く静けさ』『屋久島の 緑の世界に 溶け入って いのちの響き 共に感じる』これが487日目の心境です。
2006.05.03
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朝8時にホテルあかつきへ。知り合いのガイドの下請け。今日のお客さんは、三十代の夫婦。大阪から来たらしい。ホテルが満室で二泊しか取れなかったとのこと。昨日は午後から自分達で屋久島一周。明日は午前中の飛行機しか予約できなかったそうで、今日が屋久島でのメインの一日。白谷雲水峡へ着くと、早い時間にもかかわらず駐車場は満車状態。知り合いの係員の話では、今年のゴールデンウイークは全般的に観光客は少ないものの、白谷雲水峡だけは多いらしい。ゆっくりサクラツツジと、同じく満開のハイノキを見ながら、もののけ姫の森へ向かう。所々に、まるで緑の苔から直接花が咲いたかのように、白いハイノキの花が落ちている。たまに紅いリンゴ椿の花も緑の苔の上に形を留めている。今が花の真っ盛り。屋久島の森は春爛漫。もののけ姫の森で、しばらく緑の世界を楽しむ。時間の余裕があったので、太鼓岩へ登る。360度きれいに見渡せた。但し、人が次から次とやって来るので、なんとなく落ち着かない。早々に下りて、辻の岩屋で昼食。まだ初々しいマムシ草がたくさん生えていた。近くの湧き水が美味しかった。それにしても観光客が多い。ガイドもたくさん見かける。屋久島中のガイドが総出という感じ。まあ、夏休みと並ぶ書き入れ時ではある。それにしても人が・・・次のようなコメントが届いた。「調和は程遠く・・・ 」というタイトルが付いていた。 「楽しめない・・・ど~しても楽しめないのですよね・・・今年に入ってから、闇が多すぎな私です。クリアと闇の割合が、去年と逆転してしまった感じ。なぜ~~!?自分が二人いるみたいです。クリアになった と思ったら すぐ闇に引きずり込まれます。サイトからこぼれそう・・・」光が強くなれば、自分の闇がはっきりしてくる。これまでは、光が弱かったので闇に気づかなかっただけ。だから、何も心配することはない。出て来るものは、見切ればいいだけ。くれぐれも闇に呑み込まれないように。クリアと闇の割合が去年と逆転?クリアーな時もあるのだから、別に問題はない。闇が出て、クリアーになっているだけ。それを繰り返しているだけ。潜在意識の闇は、自分が思っているよりも深い。数え切れないほどの過去世がある。その時に、自分では納得できない体験も多々ある。自分で自分が許せないようなことも、たくさんしている。不本意なまま終わったことも少なくはない。それらのことを、今生こそはクリアーしようと決めて来ている。そういう闇が順に出て来る。出て来た時は、気づく時。静かに見守るしかない。自分自身を見守る。自分の状態を見守る。以前にも同じようなことがなかったか見守る。自分のパターンに気づく。闇は自分のパターンに気づく機会。チャンス以外の何ものでもない。すべては前向きに捉えるしかない。出て来るものは拒まない。去るものは追わない。自然のままに見切るしかない。ゆったりと構えて、深く静かに見守る。日常的に見ている。落ち着いて、自分の状態に気づいている。自分を見失わない。闇が出て来ようと、出て来まいと、スタンスは変わらない。静かに見守る。自他を静かに見守る。それ以外にスタンスはない。喜怒哀楽を感じながらも、ベースでは常に見守っている。何をしていても、心の奥では見守りの意識が働いている。そういう状態になればいい。目の前の現象に囚われない。それが自分の外側の現象であれ、内側の現象であれ。闇が出ようが光が出ようが、出て来るものにこだわらない。静かに見守る。光が価値があって、闇が劣るということでもない。クリアーな状態がよくて、クリアーでない状態がよくないということでもない。そういう価値判断はいらない。どのような状況であれ、自分を見守る以外にない。見守る意識が深いところで常に働き、それが表面意識でも日常化するように見守り続けるしかない。闇が出てくること自体は何も問題はない。出てきた時に呑み込まれないこと。自分を見失わないこと。静かに見守っていること。少なくとも、直後に気づくこと。あるいは、しばらくしてから気づくこと。闇は闇。光が強くなればなるほど、深い闇が出てくる。それを一々気にしていては、先へ進めない。出て来るものは、出て来ればいい。出て来れば出て来るほど、軽くなるだけ。出て来るものに囚われない。出てきたら、そのまま手放す。ただそれだけ。光が強くなれば、闇も強くなる。しばらくは光と闇のシーソーゲームが続くかもしれない。しかし、出てきた闇は消えていく。やがて闇の種は尽きる。最終的には光一元になる。何も恐れる必要はない。闇の根底にあるのは絶対の光。愛に包まれて闇は存在する。そのことを忘れないことだろうか。静かに見守っていれば、何も問題はない。『闇は闇 出て来るものは そのままに 囚われないで 手放してやる』『絶対の 光に抱かれ 闇がある 闇の中にも 光が見える』『現れる 光も闇も そのままに もっと深くで すべて見守る』これが486日目の心境です。
2006.05.02
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屋久島は、一日、曇っていた。昨日のお客さんと、木霊の森、それから白谷雲水峡のもののけ姫の森へ行った。行ってみて驚いたのは、どちらもサクラツヅジが満開だったこと。もう数え切れないほどのサクラツツジが咲いていた。特に白谷雲水峡は、入口からもののけ姫の森まで、ほとんど途切れることなく咲いていた。こんなにたくさんのサクラツツジがあったの?初めて見る満開のサクラツツジ。まさにお花見気分。吉野の桜も、かくばかりやあらん?サクラツツジと言うだけあって、色も薄いピンク色。高さも山桜と変わらず、桜と見間違えるほど。咲きも咲きたり。満満開の花の宴。本当に花見ができそうなくらいのサクラ(ツツジ)並木。緑の森の中に淡いピンクの美しいこと!もう頭の中までピンク色?何も考えられない状態で、頭の中は桜気分。サクラ、サクラ・・・ガイド中も歌い出しそうになった。お客さんに止められたような気がする。でも、何と言って止められたのか、フアフア状態で記憶にない。なにしろ、こんなにピンクな屋久島は初めて。ピンク色というのは、心を陽気にしてくれるのだろうか。ガイド中も冗談ばかり言っていた。オヤジギャグ?ノー!「サムイ!」とは一度も言われなかった。サクラツツジに誘われて、なんとなく心も体もフアフア状態。たまには花に浮かれるのもいいだろう。『フアフアと 花に浮かれて 春気分 右も左も サクラ・サクラ・・・』『森の中 淡いピンクの 花盛り サクラツツジの お花見気分』『花や花 花に誘われ 花やかに 花の浮き世を 花と楽しむ』これが485日目の心境です。
2006.05.01
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