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今日の屋久島は、一日中、晴れていた。気温も高く、朝からTシャツで過ごせた。栗生に行ったら、泳いでいる人たちもいた。志戸子の集落には、夏祭りの幟(のぼり)が立っていた。屋久島は夏へ向かっている。今日から6日連続で仕事。ここのところ仕事がなかったので、仕事が気分転換という感じ。少なくとも日記を書くよりは、楽?9時半にグリーンホテルに、お客さんを迎えに行く。女性の二人連れ。最近は、このパターンが多い。今日の予定は、屋久島半周。グリーンホテルから、永田のつわのやホテルまで。この区間に見るべきものは集中しているので、何も問題はない。最初に龍神の滝へ。次に千尋の滝。それから、モッチョム岳を眺めて、平内海中温泉へ。知り合いの地元のガイドが、一人温泉に入っていた。三人で、しばらく足湯。その間に、かなりの人が訪れた。次に、湯泊の海浜温泉へ。ちょうど奥の海際の温泉が空いており、また三人で足湯。しばらくすると、男の外人さんがやって来た。カナダから来た人で、今は大阪で英語の先生をしているらしい。さすがにわかりやすい英語。きれいな英語で、しばらく英語の授業?カナダには、5~6ヶ所しか温泉はないらしい。しかも、プールになっており、浄化した温泉とのこと。日本のように自然のまま裸で入れる温泉はないようだ。スプリング(温泉)は好きかと英語で聞いたら、夏は嫌いだけどスプリング(春)は好きだという答が返ってきた。まったく同じスペルで同じ発音らしい。もっとも、カナダでは温泉はホットスプリングと言うらしいが。付け加えると、ボールペンの中に入っているスプリングも、同じスペルで同じ発音らしい。さすが英語の先生!最後に駐車場で、オオバライチゴを一緒に食べて別れた。彼は6日間ほど屋久島に滞在するらしい。気軽にいろんな人と知り合いになれるので、旅は楽しい。ナヌ?旅?仕事ではなかった?黒毛和牛の牧場を見学に行ったら、白鷺が数羽遊んでいた。でも、白鷺はすぐに遠くへ去ってしまう。超ナイーブか、超臆病。飛んでいる写真を撮りたいのだが、なかなか近くで撮れない。子牛がたくさん生まれていて、とてものんびりしている。幸せそうな牛たち。それから、栗生の海岸へサンゴ拾いに。これまでに見たことがないくらい、たくさんの車が止まっていた。さすがにゴールデンウイーク。東屋の中は人でいっぱい。やむなく外で昼食。少しは風もあったが、とても暑かった。ものすごく焼けた感じ。暑くて、あまりサンゴを拾う気にもならず、これまで来た中で最小の数。サンゴより、海で泳ぎたかった。あまりにも暑かったので、急いで大川の滝へ。マイナスイオンのシャワーを浴びて、生き返る。今日ほど滝が気持ちよかったこともない。あまり人もいず、ゆっくり楽しめた。帰り際に団体さんが来た。立神岩を見て、西部林道へ。何度か車から降りているうちに、シカの群に出会う。一頭の雄と何頭かの雌と子供たち。全部で10頭ぐらいはいたのではないだろうか。とても可愛かった。今日はシカをたくさん見かけた。サルはいないのかと話していた時、群のサルがいた。生まれて何日もしない子ザルを母ザルが大切そうに抱いていた。しかも、珍しく写真を撮らせてくれた。普通はこのくらいの子ザルだと、母ザルがすぐに隠してしまう。但し、逆光だったため、あまりパッとした写真は撮れなかった。それよりも、瞬間的に撮ったシカの写真の方がすてきだった。狙って撮ったものより、サッと撮ったものの方がいいということも間々ある。途中から他の人たちも加わって、長時間写真を撮っていたら、一匹の猿が怒り出した。 ボスザルも出てきて、ヤバイ雰囲気に。恐る恐る後ずさり。なんとか無事に車に辿り着く。なんとも怖い体験だった。長い時間お邪魔し過ぎたようだ。サルにとっては迷惑だったのかもしれない。それでとうとう怒り出した?ごめんなさい、サル様!これからは時間制限を設けます。それでも、お客さんは大満足。シカもサルも満喫できた感じ。やれやれ・・・今日は普段の何倍も西部林道を車が通った。でも、ほとんどの観光客は通り過ぎるだけ。下車する観光客は、ほとんどいない。他の観光客とは違う体験をしてもらわないと、わざわざガイドを雇った価値はない。という訳で、いろいろ違いを出すのに苦労する。今日はバッチリだろう。西部林道で、これほどの体験をした観光客は、まずいないだろう。少なくとも今日に限っては。何度も何度も写真を撮るために西部林道で下車。記念写真を撮るのが大好きな二人だった。屋久島灯台を見て、永田いなか浜と前浜を見る。最後に、永田岳が見えた。珍しく、今日は全貌がきれいに見えた。日頃の行いが、よほど良いのだろうか。見るべきものは、ほとんど見た感じ。9時半から5時半過ぎまで、十二分に楽しめた屋久島半周だった。明日は、木霊の森ともののけの森へ行くことになっている。昨日の日記に対して、次のようなコメントが届いた。「何度かお聞きした意識の層のこと、漸く受信できたようです。どうも、判断が極端になるところがあって、自分色を捨てなきゃいけないかと思ったりしてたのですが・・・・。自分色は、自分で楽しむファッション。おしゃれを楽しむのは悪くない。流行など気にせず、人の評価も関係なく、ましてや、人と比較する必要も無く、自分らしいと、今!思えるおしゃれを、固執することなく楽しむ。そして、>無色透明の意識というのは、ハイアーセルフや魂の意識をも超えている。・・・ということに目覚め、自分の無色透明な意識に立ちもどり、そこから全てを見極める。そういう生き方をすれば、そしてより多くの人がそう出来れば、すばらしい世界が開かれる・・・新しい世界が花開く・・・そういうことなんですね。」肉体も人格も魂も、それぞれに個性がある。それを楽しめばいいのかもしれない。あたかもファッションを楽しむように。そんなに難しく考えることはないのかもしれない。肉体を楽しみ、人格を楽しみ、魂を楽しむ。それぞれの違いが、宇宙の存在意義。みんな同じでは、宇宙が存在する意味がない。みんな同じは、宇宙誕生以前。違いがあり、個性があって、初めて宇宙の存在意義がある。バラエティこそが創造。但し、自我の自己主張では混乱してしまう。今の世の中のように。自我の自己主張は、排他的。自分さえよければいい。それでは、結局、自分もよくはならない。そのことに、まだ人類は気づいていない。それでは美しい地球は生まれない。調和され、バランスのとれた宇宙とはならない。個性があり、同時に全体も調和されている必要がある。それには個の意識だけでは足りない。全体の意識も必要となる。バラエティに富んだ個性と共に、全体も調和している。それが美しい宇宙。そのためには、個であると同時に全体である意識が必要となる。個に固執する自我ではなく、個であると同時に個を超えた意識。それには、自分の意識の奥を感じることが必要になってくる。自分と一緒にいて、自分の中を深く感じる。その時、個を超えたものに気づく。個を超えた意識が明確に自覚される時、個であると共に全体でもあるという意識が生まれる。多くの人がそのような意識状態になる時、地球は調和された状態になる。 調和へ向かって自分自身を深く理解する。そういう方向へ地球は進んでいる。このサイトも、そういう方向へ流れている。『いにしえの 十二単(じゅうにひとえ)を 着るように 人の意識は 多重構造』『いろいろの ファッションをして クリエイト 楽しみながら 調和をめざす』『自分さえ わからないまま 人類に 平和をもたらす ことはできない』『真実の 地上の平和 築くには 自分自身を 理解すること』『自我のまま 自分を理解 しないまま 地上の平和 できるはずない』『心から 地球の調和 望むなら まずは自分を 理解すること』これが484日目の心境です。
2006.04.30
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今日の屋久島は、曇。ゴールデンウイークの始まりにしては、いまいちの天気。山の方は雨かもしれない。昨日のコメント欄に次のような書き込みがあった。「記憶を選択する時の資質みたいなものはないのだろうか?子供を育てている時、この子達は私の分身でなく別の存在だとよく感じました。私が思う反応、対応、思考・・・そしてその記憶・・全然違うのです。何故???と思うくらい、私が生んで、私が育てているのに私の想いと、反応、思考、記憶が想像を絶するくらい異質なのです。もちろん、後天的なものは変幻自在なものを選択して、不確定な思い込みの記憶の人となっていくとしても、そのもともとで、選択する傾向、質自体が、あるように思えるのです。生まれ出た時すでにあるタイプは、お腹で、または魂の生まれ出るまでの待ち時間に、たまたま形成されるのでしょうか?前世があればその古記憶を引きずっているのでしょうか?そういう刷り込みをすでに持って生まれるからでしょうか?生まれ出た赤ちゃんは、すでに無色透明ではないということでしょうか?とにかく、私が出会った時すでに、私と違う資質を持っていました。これはどうしてなのでしょう?」生まれ出た赤ちゃんは無色透明ではない。既に色がついている。赤ちゃんには、それぞれ個性がある。みんな同じではない。それは胎内でできたのだろうか。そうではなくて、胎内に入る前に準備されている。今生はどんな人生を生きるか。そのプログラムは、この世に来る前に計画される。生まれ出て来る時には、西洋占星術で言うような性質が既に潜在している。つまり、ある磁力を持って今生に誕生して来る。その磁力に引き寄せられて、周りでいろんな出来事が起きる。それを記憶していくことになる。結果的に、その人が持っている元々の磁力=今生のプログラムに応じた記憶が形成されていく。もちろん、今夜の夕食のおかずやデザートまではプログラムして来ない。最後の晩餐のような重要なものしか計画は立てない。日常的なものは、その時の状況に応じていろいろ変化する。どの程度まで計画してくるかは個人差がある。いずれにしても、幼少期には過去世に似た状況を再体験するようなプログラムが多い。過去世といっても数え切れないほどの過去世がある。その中から今生と関わりの深い過去世を選んで、疑似再体験をする。それは今生でクリアーしなければならない課題の場合もあるし、今生で花開かせようとする才能の場合もある。生まれてくる時に、今生の目標を設定して来る。その計画に必要なものを幼少期に体験することになる。それら幼少期の体験をベースに、今生を生きていく。幼少期の体験によって、今生の人格の基本パターンが形成される。それが今生を生きていく上での意識の乗り物となる。もちろん、それは成長と共に変化する。しかし、基本的な人格のパターンは維持される場合が多い。人の意識は、自分が持って生まれた磁力と、その時代の環境とによって形成される。磁力と時代と環境が出会う。その出会いの結果が、記憶として蓄積される。そのため、意識は時代と環境に条件づけられる。人の意識は自由ではない。まず自分自身の磁力。次に時代と環境の影響下にある。そのことに気づかない限り、人は持って生まれた磁力と時代と環境の産物に過ぎない。もう一度自分自身を見つめ直さない限り、人は条件づけられていることにも気づかず、一生を終わる。物質次元で生きていく中で、人は物質の虜になる。肉体ベースの自我に囚われ、自分に固執する。自分の周りに、ありとあらゆるものを寄せ集め、更に自我を強化する。自我に囚われる中で、本来の自分を見失う。過去の記憶に縛られ、やがて身動きが取れないようになる。今生のプログラムを完全に忘却する。このサイトで書き続けているのは、過去からの自由。条件づけられた意識からの自由。時代と環境に縛られた意識からの自由。それらを超えない限り、本来のプログラムは自覚されない。物質に拘束され、意識の自由はないに等しい。無色透明の意識というのは、ハイアーセルフや魂の意識をも超えている。魂でさえ色がついている。そうでなかったら、個々の魂の違いがわからない。それぞれの魂の存在意義もない。魂にも、各自個性がある。各人格に個性があるように。各々の魂に元々固有の磁力があり、それに伴う経験も異なるので、個性ができる。それは人格と異ならない。意識の構造は、十重二十重(とえはたえ)の同心円。無色透明の意識から人格まで、波動の違いによって多層の同心球となっている。その意識存在のすべてに、無色透明の意識が浸透している。生命のすべてに、いのちが浸透しているように。元の元の元は、ひとつ。多次元に存在するものは、波動のバリエーション。ひとつの波動が遅くなり、多様化したもの。肉体の中に人格意識が入っているように、人格意識の中に魂意識が入っている。その魂意識の中には、無色透明の意識が入っている。つまり、肉体の中には人格も魂も無色透明の意識も、すべて入っていることになる。多層的に浸透し合っている。人という存在は、単純ではない。肉体意識を含めた幾つもの意識の層の総体。そのトータルが人間存在。生まれて来る赤ちゃんは、既に自分の磁力を持っている。親や周りにいる人は、その磁力に沿って育ててあげるといいだろう。自分の子供をこのように育てたいというのもいいが、子供には子供のプログラムがある。それを尊重するしかない。そのプログラムの達成をサポートするのが、親の役割ではないだろうか。子供の持つプログラムを信頼し、子供と共に生きることだろうか。『透明な 元の光は 星々の 色とりどりの 光と変わる』『透明な 意識も徐々に 色がつき 個性という名の 人格となる』『何層も 意識の層を 超えて来て 人の意識は 虹の七色』『色がつく 以前の意識 純粋に 透明なまま 浸透している』『透明な 意識と共に 愛もある いのちもそのまま 煌(きら)めいている』『霊(0)という 意識の元は 何もない いのち以前の すべての源』これが483日目の心境です。
2006.04.29
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今日の屋久島は、今にも雨が降り出しそうな曇。裏の森で盛んにウグイスが鳴いている。今夜は新月。新しいスタート。あなたは何をスタートさせるのだろうか。車の運転をする。周りの景色を一々覚えてはいない。特に通い慣れた道なら、何か目新しいものがない限り、ほとんど記憶には残らない。ところが、虹が出ている。車を止めて写真を撮る。それは明らかに記憶される。日常的なものは記憶に残らないが、インパクトの強いものは記憶に残る。人はすべてを記憶している訳ではない。選択して記憶している。その選択された記憶から、自分というイメージが形成される。自分というイメージは、無選択に決まったものではない。無意識あるいは意識的に選択されたものだ。選択したつもりはない?しかし、見たすべてが記憶されている訳ではない。同じ景色を見ても、同じ状況に出会っても、みんなが同じものを記憶するとは限らない。明らかに記憶内容は異なる。なぜなら、自分の見方と共に記憶されるから。記憶される対象も違えば、記憶の内容も異なる。それぞれが自分で選択している。自分で選択した記憶の中から、自分というイメージを創り上げる。それは事実からではなく、主観的記憶から創り上げられる。主観的な記憶から、更に主観的に選択されたもので自分というイメージができあがる。人生のいろいろな出来事の中から、自分のチョイスで記憶する。それらの中から、自分というイメージを創り上げる。自分とは、自分で創り上げたもの。ということは・・・いかようにも創り変えることができるということでもある。自分とはイメージであり、思い込みだから、それを変更すればいいだけ。ポジティブな記憶だけを集めて、自分というものを創り上げてみる。ネガティブな記憶だけを集めて、自分というものをイメージしてみる。ポジティブな自分になったり、ネガティブな自分になったりする。普通はポジティブとネガティブをミックスして自分というものを創り上げる。その割合が人によって異なる。それによって、自分はポジティブな人間とかネガティブな人間とか思い込んでいる。その調合の割合を変えれば、自分というものも変わる。自我という実体はない。記憶の集合体。思い込みの集合体。その反応の集合体に他ならない。ベースに自己保存の本能というものはある。それに思考が絡まって、いろんなイメージを創り上げる。そのイメージの自分をベースに生きるようになる。「私はこうしたい」「私はこう思う」『私』の実体は不明のまま、『私』に翻弄される。『私』とは何だろう?記憶ベース。過去ベース。思い込みベース。反応ベース。それ以外に『私』がいるだろうか。選択された記憶の中から、更に選択された自己イメージ。それは自己増殖する。自己イメージから、また記憶するようになる。自己イメージから、記憶を選択する。自己イメージが好む記憶のみが記憶される。自我とは記憶の集大成。自我とは過去の集大成。自我とは思い込みの集大成。自我とは反応の集大成。自分とは何か。『私』とは何か。何によってできているのか。それらが真に理解される時、自分からの自由がある。過去からの自由。記憶からの自由。反応からの自由がある。それらが理解されるまでは、過去に縛られ、記憶に翻弄され、反応のままに生きる人生となる。記憶は記憶。それが絶対ではない。単なる記憶。記憶と離れた意識というものもある。記憶のない意識。記憶以前の意識。記憶と自己同一化していない意識。思い込みのない意識。そういう意識がベースにあって、記憶を活用する。自己保存の本能と共に、それに支配されることなく生きる。自分というものの成り立ちを理解し、自分に振り回されないで生きる。感覚や感情や思考の性質を理解し、それらと共に生きる。記憶のメカニズムを理解し、記憶に翻弄されないように生きる。記憶からの解放。記憶からの分離。記憶の理解。記憶に左右される人生からの離脱。記憶依存。記憶ベースの生き方を問い直す必要がある。『私』とは、記憶なのだから。自分とは、記憶なのだから。記憶から離れた時に、何があるだろうか。それは自分で見出すしかない。『ネガティブに 受けとめ記憶し 蓄えて ネガティブ人生 満喫する人』『ポジティブに 受けとめ記憶し 蓄えて ポジティブ人生 満喫する人』『ネガティブに 受けとめるのも ポジティブに 受けとめるのも あなたの自由』『ポジティブも ネガティブもない 人生は 事実と共に 生きてゆくのみ』『何であれ イヤと思えば イヤになり 好きと思えば 好きになるもの』『好きになり 嫌いになって 好きになる 好きも嫌いも 決まっていない』『好きと言い 嫌いと言って 選り好み 好きも嫌いも 過去の反応』『人生は どのようにでも 生きられる 自分しだいの 自分の人生』『過去という 記憶の枠に 縛られて 自由に生きる ことができない』『いつまでも 過去にこだわり 縛られて 自縄自縛の 人生となる』『過去は過去 記憶は記憶 それはそれ 記憶は使い 活用するだけ』『記憶から 離れて記憶 活用し 記憶のままに 翻弄されない』『記憶から 自由になれば 今ここで 自由そのもの 束縛はない』『無意識に 記憶と意識 一体化 すぐに記憶が 反応してくる』『記憶との 自己同一化 外す時 記憶ではない 意識芽生える』『暗闇に 独り静かに ある時は 記憶ではない 思考でもない』『記憶でも 思考でもある 本能も 感覚・感情 すべてでもある』『何もない 意識がすべてに 浸透し 多様な人生 生きているだけ』『最奥の 意識の色は 何もない いのちの色が ないのと同じ』『存在の 元をたどれば みな同じ 無色透明 ひとつの意識』『霊は0(れい) 無色透明 何もなし すべてにあって すべての源』これが482日目の心境です。
2006.04.28
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今日の屋久島は、朝方の雨があがって、晴に変わった。川の水は、淀みなく流れているから川と言える。流れる水が淀めば、腐ってしまう。自我とは、意識の淀み。意識の流れがゆるやかになった部分。所有し固定することによって、意識の流れは阻(はば)まれてしまう。流れている意識が、何かに囚われ、何かに拘り、何かに執着する。その途端、意識の流れが滞(とどこお)る。いのちは、流れ。生命とは、変化。それを留めれば、いのちが息苦しくなる。赤ちゃんや幼児は囚われが少ない。生命力がいきいきと活性化している。大人になると、それが滞る。余計なものがいっぱい詰まってしまう。肉体には贅肉(ぜいにく)。血管にはコレステロール。精神には執着。流れが速ければ速いほど、生命は活性化する。たくさんの堰(せき)ができると、生命力は弱る。血液が末端までスムーズに流れなくては、健康は維持できない。お金が隅々まで回らなければ、経済は活性化しない。囚われや拘りが多くては、しなやかに生きることはできない。部屋を片づけ、掃除して、常に新鮮な気が流れるようにする。お金も溜め込んでばかりいないで、流す。体も食べてばかりいないで、動かす。精神も知識を記憶するだけでなく、活用する。すべてのものを固定させないで、生かして使う。自分のものとして所有してしまうと、すべてが滞る。ありとあらゆるものを動かす。動かすことが止めば、過去だけに囚われ、今を見失う。所有し、固定させようとすれば、今の瞬間が消える。今を生きることができなくなる。所有し、固定することが、安定に繋がると思い込む。しかし、動かない肉体は退化する。働かない脳も退化する。動かない部屋の気は退気となり、動かない水は腐る。動かないものは、生命から遠くなる。生命とは、動き。活発な動きこそ、生命力。その動きに付いていけない精神が、固定=所有を求める。今を生き切れない精神のみが、記憶に依存しようとする。それが執着となり、過去に生きる精神となり、苦しみを生み出す。所有し、執着することは、変化を拒否すること。変化がなくなれば、やがて生命は枯渇する。老化し、腐敗し、退化する。時に取り残され、過去の遺物と化す。今を生き切れないいのちは、どんどん波動が落ちていく。やがて、いのちの波動が乏しくなる。本当に安定を願うなら、すべてのものを動かすしかない。すべてが活性化する時、心身の安定が確保できる。コマは動いていなければ、倒れてしまう。いのちは動いていなければ、死んでしまう。速い動きの中でコマは安定する。遅い動きではコマはふらつく。人の肉体も精神も、それと同じことが言える。動かすこと。流すこと。滞らせないこと。掴まない。所有しない。すべて回す。生かして使う。自分が必要と思うのであれば、いくら所有してもかまわない。使い切ることができるのであれば、物も記憶も制限はない。所有することで混乱するようなら、持ち過ぎということになる。釈迦もイエスも、ほとんど着の身着のままだった。悟るのには何もいらない。むしろ、ある方が邪魔になる。所有は更なる所有を生み、欲望は果てしない。欲望の連鎖の中で、人は自分を見失う。本当に必要なものは少ない。所有するよりも、すべてのものを生かして使う方が何倍も難しい。記憶するよりも、記憶しないほどに生き切る方が遙かに難しい。所有物は少なければ少ないほど、楽に生きられる。物質的にも、肉体的にも、精神的にも。持てば持つほど、詰まってくる。家の中に物がいっぱいあったのでは、息苦しくなる。必要以上のカロリーやコレステロールは肉体の負担となる。囚われや執着や拘りが多ければ多いほど、あちこち引っかかる。必要以上のものは人を幸せにはしない。重たい荷物を背負って生きる必要はない。重たいものは一見安定しているように見えるけれども、甚(はなは)だしいエネルギーロス。ただ辛く苦しいだけ。物も体も心も、必要最小限で生きる方が楽に生きれる。それがこれからの生き方となる。今を生き切る。記憶に残す必要がないくらい、今を生き切る。記憶が残らないくらい、全力で今を生き切る。それが瞬間・瞬間生きるということ。それが真の意味の無所有ということ。何も持たない。空っぽで生きる。水のように透明に生きる。何も所有しない時に、無限のものがやって来る。小さな所有にこだわると、無限のものは遠ざかる。『所有する ものが増えれば 増えるほど 幸せ遠く 不自由になる』『持つものが あればあるほど 重くなり 波動は遅く 淀んでしまう』『持つという 体験をして 十分に 味わい切れば 手放すしかない』『量よりも 質が問われる 人生は 今この時を 味わい生きる』『精神も 肉体もまた 物質も 所有しないで 回転させる』『必要な ものはそれほど 多くない 意識の質を 高めて生きる』『持つものが 何もない時 すみやかに 意識は流れ 記憶されない』『人はみな 小さなものに 執着し 大きなものを 見失うもの』『いにしえの 釈迦もイエスも 空海も 何も持たずに 歩き回った』『釈迦・イエス 何も持たずに あるなれど 何を持つより 豊かなりけり』『刻々を 記憶に残す 必要が ないほど強く 今を生き切る』これが481日目の心境です。
2006.04.27
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屋久島は一日中雨だった。雨の中でもウグイスが鳴いていた。せっかく所有したものも、死ぬ時にはすべて置いていくことになる。お金も財産も、地位も名誉も、家族も友人も、この肉体でさえ。この世のものは、すべてこの世に置いていく。あの世には持って行けない。唯一あの世に持って行けるのは、心だけ。心は死んでもすぐに変わりはしない。しかし、その心の記憶もやがて色褪せてゆく。結局、残るものは何もない。所有したものは、すべて奪われる。何も所有できない。すべては仮のもの。一時(ひととき)の所有。この世で生きることによって、自分の周りにいろんなものを身につける。知識や技術や楽しい思い出や辛い思い出。お金や財産や地位や名誉。シェイプアップした肉体や魅力的なファッション。家族や友人や知人。生きるとは、これらのものを身につけ、やがて失うこと。それでは虚しい?あまりにも儚(はかな)い?虚しいと思うのは、所有できると思い込んでいたから。儚いと思うのは、所有したものが持続すると勘違いしていたから。元々何も持っていなければ、虚しさも儚さもない。所有するが故に、虚しさが生まれ儚さが生じる。いくら所有しても、いつかは消えていく。所有し続けることはできない。それはこの世であれ、あの世であれ、変わらない。なぜなら、生命とは変化だから。生きているとは、変化していることだから。変化しなければ、死を意味する。宇宙は生きている。故に変化している。この宇宙に変化しないものはない。故に、所有すれば、必ず奪われる。所有し続けることはできない。固定は死を意味する。変化こそが生。美しい地球。いのち溢れる地球。煌めく星々。無限の宇宙。その美しさを楽しむ。その神秘を楽しむ。人生において、いろんなことを経験する。知識を身につけ、技術を磨く。マイホームを築き、会社を興し、財をなす。家族をつくり、友人知人と交わる。そのどれも所有しないで、ただ楽しむ。何をしてもいい。どんな経験を重ねてもいい。すべて望みのまま。しかし、それらを所有すれば、苦しみや悲しみがやって来る。所有した途端、苦しみと悲しみの虜となる。変化するものは所有できない。生命とは、変化。存在とは、変化。すべてが変化する。変わらないものは存在しない。変化するものを所有すれば、苦しみと悲しみが人生の伴侶となる。すべての所有は、仮初めのもの。永続する所有はない。ただ記憶の中でのみ所有が持続する。喪失の苦しみや悲しみと共に・・・この世の無常をありのまま受けとめる。無常こそが生命そのものであることを理解する。無常に反し所有すれば、苦しみと悲しみが生まれる。自然に移りゆくものを止めようとすれば、その摩擦により苦しみ、悲しむしかない。移りゆくものと共に生きていく。いのちと共に生きていく。変化と共に生きていく。何ものも所有しない。何ものも自分のものと思わない。今あるものを感謝して楽しむ。サラサラと水のように生きるしかない。所有すればするほど、苦しみや悲しみが増す。囚われや拘りや執着が多ければ多いほど、失意の人生となる。ただ流れゆく。いのちと共に流れゆく。それが生きるということ。『何であれ 自分のものと 思うから 苦しみ生じ 悲しみ生まれる』『所有する ものが奪われ なくす時 苦しみ悲しみ 押し寄せて来る』『囚われて 執着すれば 苦しみに 翻弄されて 非苦の人生』『移りゆく ものを堰(せ)き止め 所有して 自分のものと 思う錯覚』『何気なく 所有しながら 生きる時 遅い波動に 非苦が寄り添う』『真剣に 生きねば非苦は 超えられない 今この時を 全力で生きる』『何であれ 掴めるものは 残り滓(かす) 生きてるものは 所有できない』『所有した つもりが実は 所有され 持っているのは 死んだものだけ』『何であれ 所有するのは 後ろ向き 常に前向き 体験しきる』『結果より 今を楽しみ 味わって 所有しないで サラサラ生きる』 『あるものを 楽しみ味わい 感謝して 日々を暮らせば 苦しみはない』『何もかも 移りゆくもの 掴まずに ながめて楽しみ 味わい尽くす』『目の前の 移りゆくもの 愛でながら 今を味わい 今を楽しむ』『仮初めの ものと思えば 何もかも 美しくあり すばらしくあり』これが480日目の心境です。
2006.04.26
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今日の屋久島は、晴れてはいるけれども霞んでいる。黄砂だろうか・・・昨夜、NHKハイビジョンで「百仏巡礼・アジア仏の美100選(前)、至高の名宝を訪ねる」というのをやっていた。仏教発祥の地インドから、セイロンやアンコールワットのある東南アジアに広がった小乗仏教。ガンダーラから中国、朝鮮を経て日本へやって来た大乗仏教。それぞれの名仏を紹介していた。2時間番組だったが、20分ぐらいで消してしまった。仏像は場所や時代によって姿が異なる。時間の経過と共に、ご当地化される。当初は、仏像というものはなかった。お釈迦様は、日輪や菩提樹などで象徴的に示されていた。しかし、異民族に仏教を広めるため、徐々に仏像というものが作られるようになった。やがて、それは美しい仏教芸術となっていった。特に大乗仏教では、釈迦如来の他に大日如来や阿弥陀如来、弥勒菩薩や観音菩薩、不動明王や毘沙門天など、たくさんの仏像が建立された。人々は、それらの仏像に救いを求めた。苦界である娑婆世界から西方浄土に思いを馳せた。それはあまりにも苦しみの多い現実からの逃避だった。信仰とは、すがること。救われるために、何かを信じること。信仰する姿は美しい。信仰のために命をなげうつ姿は尊くさえある。でも、何かが違う。お釈迦様は、自分を信仰しろと言っただろうか。釈迦入滅の際の言葉は、「これよりは法によって生きよ」ではなかったのだろうか。法とは、真理。釈迦が説いた真理を理解し、真理を生きよというのが釈迦の教えではなかったのだろうか。それがいつのまにか仏像を信仰するようになってしまった。真理の理解は、お経を唱えたり写経をすることにすり替わってしまった。過去世でさんざん信仰してきたように感じる。仏教もキリスト教も神道も・・・でも、今生では信仰はしない。現実から逃げない。西方浄土に救いを求めない。来世に逃避しない。今ここでの救いを実現する。何かにすがるというのは、やはり心の弱さではないだろうか。世の中が混乱すればするほど、宗教に走る人が増える。それは歴史的事実。人は混乱からの救いを求める。人は混乱のままではいられない。人は混乱した現実に素手では対応できない。社会の混乱の中で自分まで混乱し、混乱していないものを求める。それにすがって自分の混乱を収束させようとする。それが信じるということ。人は心のやすらぎ、心の安定を求める。人は混乱と共に生きられない。それは人の弱さだろうか。混乱と共にあって、混乱を見極め、混乱を収束させる。信仰に逃げない。揺るぎのないものに逃げない。自分の外に確固としたものを想定し、それに依存して生きることをしない。何ものにも頼らない。そういう生き方が可能だろうか。何かにすがり、何かを信じている限り、人は自立してはいない。信じるものに依存している。その拠り所によって、人は自分を維持しているだけ。それが宗教であれ信念であれ、金銭や財産であれ地位や名誉であれ・・・何であれ、何か依存するものがある限り、人は自立してはいない。その依存するものが脆(もろ)くも崩れる時、人は自分を見失う。自分とは何かが、再び問われることとなる。すべては移り変わる。この世に変わらぬものはない。信仰だけが変わらずにあり続けることはできない。信仰は常に現実から試される。結果は、信じることよりも、現実の方が強い。なぜなら、現実は事実だから。信仰は、思い込みだから。チベット密教では、何かの儀式に際して砂で曼陀羅を作る。何人もの僧がお経を唱えながら、長い時間をかけて作る。祈りを込めて作られた曼陀羅は、すばらしく美しい。しかし、儀式が終わる時、それは無惨にも壊されてしまう。膨大な時間と労力の結晶が、惜しげもなく無に帰す。それはこの世が無常であることの象徴でもある。無常を深く自覚するために、曼陀羅は即座に破壊される。瞬々刻々の無常の変化と共に生きるのと、何か変わらぬものにすがって生きるのとでは、まるで波動が異なる。一方はビデオの早送り、他方はスローモーションぐらいの差がある。瞬々刻々に生きるのは厳しい。細やかで精妙な波動が必要となる。何かにすがって生きるのは、イージー。他者依存は、そんなに速い波動を必要としない。千変万化の無常の世界と共に生きることができるだろうか。変わりゆくものに囚われず、変わりゆく事実と共に生きることが可能だろうか。この世は波動が遅い。だから何かにすがっていられるような気になる。しかし、事実は動いている。遅いながらも変化していないものはない。結局は、思いだけが取り残される。それが執着となる。三次元は波動の遅い世界。だから、一見固定しているように見える。固定しているように見えるものを十二分に味わう世界。ゆっくり体験する世界。それでも変化していない訳ではない。ただ遅いだけ。信仰も信念も、いかなる思い込みも現実から取り残される。それが執着となり、囚われとなり、こだわりとなって残る。そこから苦しみが始まる。現実と思い込みとのギャップ。事実ベースで生きないが故のギャップと苦しみ。リアリティの世界に依存はない。事実と共に生きるだけ。極めてシンプル。神も仏もない。キリストもハイアーセルフも想定しない。もちろん、いかなる信念もない。自分の内にも外にも何も依存するものを想定しない。ただ事実と共に生きる。事実から逃げない。何も思い込まない。何も信じ込まない。何も想定しない。ただ目の前の事実と共に生きる。その時、リアリティがある。思い込みではないリアリティがある。あらゆる依存、あらゆる思い込みを排除した時、リアリティが現れる。思い込みの世界にいる限り、見ているものは自分の思いを通したもの。けっしてリアリティではない。静かに心を落ち着けて、ただ事実と向き合う。いかなる思いも付着させないで、ただ事実と向き合う。その時、すべてがシンプルになる。そうなれば、もう仏像は必要ではなくなる。何にも依存しない心には、仏像もキリスト像も聖書もコーランもいらない。信念も信仰も価値観も、何もいらない。依存する何ものも必要とはしない。孤独に耐えられない?何か拠り所がほしい?やさしく抱きしめてくれるものが必要?それは子供の頃の思い出だろうか。母の胸のあたたかさの名残だろうか。人は独りでは生きられないのだろうか。母親のような依存するものが必要なのだろうか。人はパートナーが必要なのだろうか。家族や友人や会社や社会に、なんとなく依存していないと生きられないのだろうか。宗教や信念や価値観がないと、自分を維持できないのだろうか。何もなしで、人は独りで生きられるだろうか。何も持たないで、何ものにも依存しないで、人は生きられるだろうか。瞬々刻々に変化する無常の世界で、人は何ものにも依存せずに生きられるだろうか。その答は、自分自身で見出すしかない。『現実に ついてゆけずに 信仰や 過去や未来に 逃げようとする』『信仰は 信じたものに 依存して 自分の責任 放棄すること』『現実の 厳しさ辛さ 避けるため 救いを求め 信じ込むだけ』『美しい 仏の像も キリストも 人の思いが 為せる代物(しろもの)』『方便が いつのまにやら 信仰の 対象となり 拠り所となる』『イージーに 自分以外に 依存して 逃げて生きれば 波動は落ちる』『いち早く 思いの世界 抜けないと どこまで行っても 幻想世界』『これからは 変化がますます 速くなる 自分の波動 高めるしかない』『どこまでも 求め続けて 真実を 自分自身で 把握すること』これが479日目の心境です。* 今夜9時からNHKハイビジョンで、「百仏巡礼・アジア仏の美100選」の後半が放送されます。
2006.04.25
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屋久島は、朝から晴れている。少し風がある。朝、どこかの民放テレビが屋久島から生中継していた。知り合いから電話があったので、少し見た。今日は安房と縄文杉からのライブ中継だった。その放送の中で、世界遺産の中で行ってみたいところのアンケート結果が発表された。オリコンで1000人に聞いたらしい。屋久島はエジプトに次いで2番目だった。この分では、当分、お客さんが絶えることはないだろう。昨日のコメント欄で、瞑想の入門コースのリクエストがあった。瞑想について、基本的なことを書いてみる。そもそも瞑想とは何だろう?瞑想というと、座禅を思い浮かべる人も多いだろう。最近はスポーツ選手のメンタルトレーニングでも瞑想とかを用いる。瞑想にもいろいろあるのだろうか・・・自分自身の中に、宇宙の始まりも終わりもある。自分自身の中に、すべてのすべてがある。愛も光もいのちも、自分自身の中に満ちている。宇宙の本質が自分自身の中にある。そのことを真にわかるための方法が瞑想なのかもしれない。つまり、瞑想とは、自分自身を深くわかること。深く、深く、自分の本質を実感すること。それが瞑想ということではないだろうか。自分自身を深くわかるには、自分自身と一緒にいなければならない。自分自身を深く、深く感じていかなければならない。そのプロセスが瞑想とも言える。それは自分自身とひとつになる道。真の自分自身へ還る道。真の自分を自覚する道。瞑想は難しくはない。ただ自分自身と一緒にいればいいだけ。深く、深く一緒にいればいいだけ。自分の中に深く入り、自分自身を体験する。自分の奥の奥は、宇宙に繋がっている。そこは自他の分離のない世界。無限の無限の世界。瞑想のための方法は、たくさんある。ヨガ、仏教、道教、他の宗教にもある。オーソドックスなもの以外でも、瞑想法の本はたくさん出ている。しかし、基本を間違えないことだろうか。超能力や神秘体験をめざす瞑想は、自我を強化してしまう。瞑想は、自我からの自由を意味するとは限らない。最初の目的を間違えれば、深い闇の世界に入り込むこともあり得る。最初の一歩が、最後の一歩。自分自身を深く深くわかるというベースを忘れないことだろうか。ロウソクの炎を見つめたり、呼吸に意識を集中したり、マントラを唱えたり、イメージを思い浮かべたり、音楽に集中したり・・・瞑想のためのメソッドはたくさんある。しかし、メソッドを実行すると、テクニックに気を取られ、瞑想そのものが表面的なもので終わりやすい。意識が外に向くので、深く内面に入れなくなる可能性が高い。足を組むとか目を半眼にするとか、形式に囚われると目的を忘れてしまう。背骨が真っ直ぐであれば、後のことは自由でいい。静かに目をつぶって自分自身と一緒にいる。但し、途中で誰かが邪魔することのないように、事前に話しておく必要がある。静かなところで、一人座る。座布団でもイスでもかまわない。自分自身と一緒にいる。自分の中から、いろんな思いが浮かんでくる。それを静かに見守る。一切、判断も解釈もしない。ただ出て来るものを静かに見守る。見守ること以外は何もしない。それが瞑想。最初は、5~10分ぐらいから始めればいい。長ければいいというものでもない。気がついたら眠っていたということもあるかもしれない。眠り込むほど長くやらないことだろうか。短めに背骨を延ばして座ればいい。無念無想になるということは、当分期待しない方がいい。普通は、表面意識が静かになれば、潜在意識の中に溜まっていたものがどんどん出てくる。それは果てしないほど出て来る。しばらくは、それを見守るしかない。それが何年続くか、何十年か何生か、なんとも言えない。それは個人差があるので、短くて済む人もあるかもしれない。今生は出続ける人もあるかもしれない。やってみなければわからない。何も保証のない世界。一人一人の人生が異なるように、潜在意識の中にあるものも異なる。その量も質も異なる。それは自分自身で確かめるしかない。いずれにしても、静かに自分自身と一緒にいる。そうすることによって、これまで溜め込んでいたものが解放される。解放されるにつれて、普通は楽になる。しかし、出て来るものに囚われれば、苦しくなることもある。そこで瞑想をやめてしまえば、苦しみが続くことになる。パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。箱を開けるまでは、なんとか誤魔化して生きていくことができた。でも、パンドラの箱の中身を見てしまうと、恐怖に襲われる。瞑想を始めるなら、自分の中にあるものを洗いざらい直視し、すべてクリアーにするくらいの覚悟はいるかもしれない。その覚悟がないのなら、最初からやらない方がいい。やらなくても、日常生活の中で、いやでも出て来るから・・・瞑想というのは、座ってやるだけのものでもない。日常生活も、基本的に瞑想と変わらない。いろいろな状況(縁)にふれ、潜在意識に溜まっていたものが反応として出て来る。瞑想しようとしまいと、出て来ることに違いはない。出てきた時に、反応に呑み込まれて更に潜在意識の蓄積物を増やすか、それとも、その反応を見切って、囚われから解放されるか。それは基本的に瞑想と変わらない。日常生活でも出てくる反応を、瞑想の中でも出しているだけのこと。瞑想の中で出していけば、それだけ日常生活のトラブルが防げる。瞑想の中で潜在意識が解放されれば、日常生活は楽になる。瞑想中の見守る意識は日常生活でも持続するようになる。やがて、常住坐臥が瞑想となる。何も難しいことはない。気張ってやることもない。瞑想とは、リラックス。緊張の逆。頑張ろうとすれば緊張する。楽にやることだ。自分と一緒にいて、どんどんリラックスしていく。自分自身をどんどんゆるめていく。静かに見守りながら。ただただ自分自身と一緒にいる。ゆっくり背中や後頭部の方から自分を見守る感じ。意識を背後の方へ持っていく。最初から長くやることはない。短めで持続する方がいい。だんだんやり方がわかってくる。決められた時間帯というものもない。静かな時間であれば何時でもいい。ただ時間帯によって感じるものは違ってくる。時間帯のエネルギーというものがあるから、自分で注意してみるといいだろう。以上だけれども、基本は自分自身と一緒にいるということ。それは瞑想中も日常生活も変わらない。静かに自分自身を見守っている。それが大原則。ゆっくり、楽にやればいい。瞑想は集中ではない。集中は緊張。緊張していては、潜在意識はほぐれない。潜在意識がほぐれなければ、その奥にあるものは出て来ない。背骨を真っ直ぐにして、後は楽に自分自身を見守っていればいい。ゆっくり、楽にというのも、日常生活と異ならない。瞑想と日常生活というのは別々のものではない。基本的に違わない。生きるスタンス。静かに自分自身を見守りながら生きる。それが次の時代の生き方。自我オンリーの生き方から、”個であり全体であり”という生き方へシフトするためのスタンス。まず自分自身を見守る。自分自身を見守ることによって、意識のポイントが自我から見守る方へシフトしていく。瞑想も日常生活も同じ。見守ることによって自我を超えていく。瞑想は、それを集中的にやるだけのこと。日常生活でも必要なこと。両方やれば相乗効果がある。より早く潜在意識が浄化される。それは、人生を楽に生きれるということを意味する。生きるスタンス=見守りスタンス。瞑想も日常生活も変わらない。見守り続けていくしかない。その先に真実の自分自身が待っている。『瞑想も 日々の暮らしも 変わらない 自分自身を やさしく見守る』『難しい ことはいらない 瞑想は 自分自身と 一緒にいるだけ』『瞑想は 溜まりに溜まった チリ・ホコリ 見極めながら 掃除する道』『真実を 探し求めて 瞑想は 自分自身の 中へ分け入る』『真実は 自分の外に ありはせぬ 自分自身の 中にこそある』『瞑想は 自分自身の 闇を超え 闇の彼方の 光に出会う』『瞑想は 自分の中へ 分け入って 自分を超えて 広がりゆく道』『瞑想は 自分の中に 真実も 愛もいのちも あると知ること』これが478日目の心境です。
2006.04.24
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屋久島は、雨が止んで曇っている。山は雲に覆われ、海には靄(もや)がかかっている。はっきりしない天気。昨日、次のようなコメントが届いた。「何もしない事が...それがどうしてもできない。見極めているつもりでも実は『思考』が働いています。瞑想していても『思考』しているようです。いったいどうしたら『思考』をコントロールできるのでしょうね?」思考をコントロールすることはできない。なぜなら、コントロールしようとしているのも、また思考だから。それでは思考の堂々巡りになってしまう。思考のコントロールは諦めるしかないだろう。思考が動いている間は、動いているままにしておくしかない。もし、思考を無理に止めようとすれば、必ず反動が起きる。無理に抑圧すれば、潜在意識の中に歪んだ形で蓄積される。それはかえって意識のクリーン化を難しくしてしまう。抑圧し続ければ、無気力になるか、気が狂うか・・・いずれにしても、よいことはない。思考は使うこと。そして、マスターすること。そして、囚われないこと。抑圧しても、思考力が減退するだけ。抑えない、けれども負けない、理解するだけ。感情を扱うのと同じ原理原則。自分の中に、たくさんのこだわりや囚われや執着がある間は、いろんな反応が起きてくる。思考が自動的に反応する。まずは、それを認めるしかない。常に事実と共に生きる。出て来るものは、出してあげるしかない。但し、出て来るままに翻弄され、自分を見失うことのないように。見守りながら出していく。それをやり続けていると、気がつかないうちに見守る意識が働くようになる。無意識のうちに見守っている状態になる。自宅に帰って、静かに今日の自分の反応を反芻(はんすう)する。どうしてあのような反応が出てきたのか、もう一度冷静に振り返る。自分の状態をフィードバックする。客観的に見つめ直す。そして、その原因を突き止める。そういう作業を繰り返していく間に、見る意識が育っていく。その作業中に思考が動いてもかまわない。あれこれ考えて、気づく。それでいい。思考は道具。使いこなせばいいだけ。ポイントは、見つめながら思考を使うこと。思考の独り歩きをさせないこと。つまり、考え過ぎて自分を見失いそうだったら、見つめていないということ。それは思考の空回り。それでは永遠に思考から自由にはなれない。見つめながら考える。常に自分自身を見つめるという姿勢が必要になる。瞑想中も思考が動く?動く思考を見つめていればいい。最初から無念無想になれるわけがない。潜在意識に溜まっていた、いろんな思いが雲霞(うんか)の如く出て来る。それが普通。問題は、そういうものが出てきた時にどうするか。出てきたものを一々払い除けようとしてもキリがない。それではまったく瞑想にならない。出てきたものに呑み込まれてしまっても、瞑想とは言えない。それでは瞑想のつもりが迷走になっている。出て来るものは、出て来るもの。そのまま認めるしかない。ただそれを眺めている。見守っている。見守る以外のことをすれば、それは思考が動いていることになる。それでは瞑想にはならない。動く思考を見守る。その動きが止まろうが止まるまいが、見守る以外の方法はない。呼吸法をやる?マントラを唱える?そういうテクニックもある。それはそれなりの効果はある。でも、所詮、テクニック。テクニックなしでは瞑想できない、テクニック依存症をつくることになる。心が落ち着く静かな音楽を使ったり、それなりの工夫をするのもいいかもしれない。最初は自分がやりやすいようにアレンジするのもいいだろう。でも、テクニックはテクニック。それぞれの限界がある。最後の最後は、いかなる方法もない。ただ静かに見守る。それしかない。まずは、潜在意識に溜まっているものを解放する。それには静かに見守ること。思考が動けば、それを見守る。思考に囚われず、ただ流すように見守ればいい。要は、意識のポイントが思考にあるか、見守る方にあるかということ。簡単には意識のポイントは移動しない。日常生活は思考のポイントで生きている。それが瞑想した途端、見守る方のポイントへ移行するはずがない。意識は普段と同じように思考のポイントにある。それを見守る。パッと切り替わるものでもない。自然と切り替わるとしか言いようがない。いつのまにか自然に見守っているようになる。いつのまにか自然に見守る意識が働くようになる。それは瞑想中だけに限らず、日常生活の中でも働くようになる。瞑想の時だけ瞑想していても仕方がない。常住坐臥(ざが)瞑想状態というのが望ましい。少なくともどんな状況であれ、見守る意識が常に働いているようになる必要がある。そのような状態には一朝一夕にはなれない。いつのまにか・・・なっている。だから、焦らず、ゆっくりやればいい。ゆっくり自分自身を見守り続ければいい。そうすれば、徐々に見守る意識が育っていく。やがて、いつのまにか思考も静まっている。思考を鎮めようとしない。思考を鎮めようとすれば、思考が思考を鎮めようとする泥沼にはまる。ただ静かに見守る。それが唯一の方法。思考を使わない唯一のやり方。そうやって見守っている間に、自然に意識のポイントが切り替わる。思考から見守る意識の方へ移行する。自然に移行する。それが一番無理のない方法。焦らない。慌てない。落ち着いて、ゆっくり見守ればいい。絶えず自分自身を見守っている。必死に頑張るのではなく、おおらかに、やさしく・・・必死で頑張ろうとするのは、思考。見守る意識は、ゆったり、おおらかにすべてを包み込んでいる。すべてに浸透している。だから、ゆったりと見守った方がいい。『静まらぬ 思考をなんとか せんものと 思う心が 思考そのもの』『何であれ 思考は思考 動くまま 少し離れて 静かに見ている』『抑えない けれども負けない 感情や 思考をそのまま そっと見守る』『おおらかに やさしく包み 見守って 出て来るものを 解き放つだけ』これが477日目の心境です。☆ 携帯で日記をご覧の方のために、モバイル表示をしました。 トップページの右側の一番下=BBSの下です。 これまでよりも見やすくなるようです。
2006.04.23
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今日の屋久島は、雨。気温も低い。朝、ウグイスが鳴いていた。他の鳥の声も遠くに聞こえるが、ウグイスの声が一際響き渡る。森の中に入ると、シンプルになる。余計な思考が落ちていく。何もなく生きている感じになる。見極める。ギリギリまで見極める。そして、手放す。野球にしても名選手と言われるような人は、ギリギリまで球を見極めて、最期の一瞬で全力で振り抜く。どこまで球を見極められるかが、打率三割を打てるかどうかに繋がる。空手もボクシングも、いかに相手の攻撃を見極めるかにかかっている。見極めて、見極めて、見極め抜いて、瞬間的に相手の攻撃を外して、反撃する。見極めが甘いと、倒されてしまう。合気道も、いかに見極めるかの世界。見極めて、見極めて、相手の力を利用して回転させる。見極めが悪いと、共倒れになる。自分の心の状態も、ギリギリまで見極める。見極めて、見極めて、はっきり見抜く。見抜いたら、ゼロになる。そこで手放す。いつまでもそれに執着しない。次々に見極めて、手放していく。リセット、リセット、リセット・・・ただそれだけ。極めてシンプル。何も掴まない。何も所有しない。何も自分のものにしない。見極めた瞬間、手放す。自然に記憶されるのは別に問題はない。頭の片隅に記憶していればいい。ただ事実のみを記憶する。思いと共に記憶しない。ただ事実だけ、見たままが自然に記憶される。記憶がなければ、それでもいい。記憶が残っていれば、それでもいい。こだわらない。単なる記憶。記憶こそが自我。だから、みんな記念写真を撮ろうとする。しっかり自分を所有しようとする。それも悪くはない。でも、執着すれば、その程度に比例して苦しみが伴う。何も所有しない。透明な意識があるだけ。自然に記憶されているものはある。記憶は必要に応じて使えばいい。記憶に振り回されない。記憶ベースで生きると、記憶に振り回される。新鮮な出会いができなくなる。すべてを過去の目で見てしまう。何もないシンプルな意識だけが、日々、新しいものに出会える。見極める、見極める。何事も見極める。見極めて、リセット。見極めて、リセット。何も掴まない。何も所有しない。ゼロ、ゼロ、ゼロ・・・常に透明な意識でいる。外は、雨。かなり激しく降っている。それも悪くはない。シンプルに雨だけを感じていると、何も問題はない。遠くで雷鳴がしている。風も強くなってきた。それでも、心は乱れない。『見極めて 見極め抜いて ゼロにして 即座に手放し 何も掴まず』『所有した つもりが逆に 所有され 手にしたものに 振り回される』『愛でるだけ 愛でたら終わり いつまでも それにこだわり 執着しない』『見極めて ゼロに戻して 手放して 所有しないで 自由に生きる』これが476日目の心境です。
2006.04.22
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朝から快晴の屋久島。でも、風が強い。高速船トッピーは、朝の便が欠航になった。先日の事故以来、かなり慎重に運行しているようだ。連日、森の中を歩き、たくさん汗をかき、新鮮な水を飲んだ。自宅にいる時より、断然、体調が良くなっている。さすがに昨日はホッとして疲れたという感じだったが、一晩寝たら元気になっていた。特に目に溜まっていた疲れが一掃されている感じ。森の中を歩いていると、余計な思考はほとんど起きない。注意深く周りや足元を見つめながら歩く。自然の美しさに見とれながら、ただ自然を愛でる。帰宅した後も、人間的なことは、あまり考えられなくなる。その結果、日記も自然描写が多くなる。注意深さが、自我を追いやる。神社で参拝している時も、そんな感じだろうか。自分は脇に置いて、ただエネルギーを感じている。瞑想の時も同じ。何もなく、ただ意識だけがある。意識は極めてクリアー。余計な思考がクリアーな意識を曇らせているだけ。余計な思考がなければ、意識は青空のように澄み渡っている。本当に透き通るように何もない。ただ透明な意識があるだけ。自然の中に入っていると、意識はどんどん透明になっていく。自然には思考がない。自然の中にあるのは、いのち。すべてを生かすエネルギー。そのいのちを感じる。何とも言えない心地よさ。特に鳥の声の響きがすばらしい。花の香りも何とも言えない幸福感をもたらす。風の音も、沢のせせらぎも、心をやすらかにしてくれる。里に帰れば、人間的な意識が待っている。でも、意識の透明感はしばらくは続く。あまり人間的なことは書きたくなくなる。ただピュアーな意識が気持ちいい。自我がない訳ではない。意識の一部にある。その自我が出て来る時もある。でも、透明な時の方が圧倒的に心地よい。自我は、即、欲望という感じ。我欲。何でも自分のものにしたいという感覚。自分が握っていたいのだ。所有=自我。何もない意識もある。自我ではない意識もある。いろんな意識がある。それが人間存在。どの意識にフォーカスして生きるかということだろうか。自我の混乱した意識か、自我を超えたクリアーな意識か。どちらでも可能なのだが・・・落ち着いて、ゆっくりと自分を見極めるといい。落ち着いて、ゆっくりと見極めること自体が、クリアーな意識へ導く。深く穏やかな、やすらいだ意識。深い意識と共にあれば落ち着くし、表面の意識と共にあれば活気づく。どちらでも、その時その時の感覚で生きればいい。静かに無時間の時間が過ぎていく。『何もかも 自分のものに してしまう 自我という名の 支配と所有』『自分との 関わりだけに 還元し すべてのものを 自我は見ている』『自我という 自己中毒の 意識こそ ピュアーな地球を 破壊し尽くす』『傷ついて 傷に負けずに 乗り超えて ピュアーで強い 意識が育つ』『何もない 透明感が 自我のない 差別を超えた 意識の状態』これが475日目の心境です。
2006.04.21
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朝7時過ぎに、天候不良のため高速船トッピーが全便欠航するという放送がある。お客さんは夕方のトッピーで帰る予定。もう一つの高速船ロケットに電話すると、こちらも欠航。とりあえず、天然村へ電話する。お客さんも放送を聞いたらしく、飛行機の予約を取ったところだった。トッピーより出発が1時間早くなるが、1便だけ空席があったとか。早めに手配して正解。もう少し遅れると、今日は帰れなくなったかもしれない。天然村に別れを告げて、屋久島一周へ。まず龍神の滝を見て、千尋の滝へ。千尋の滝からモッチョム岳がよく見えるところへ移動する農道で、お目当てのものが飛んでいた。それはツマベニチョウ。羽の両端が紅色をしている蝶。もう少し暖かくなると、どこでも飛んでいるが、この時期では暖かい南の方にしかいない。この蝶が見れるところへ連れて行ってほしいと言われていたので、蝶が見れてよかった。今回のお客さんの一人は高校時代に生物クラブにいたそうで、植物や鳥や蝶に詳しい。コンタクトをはめているが、動態視力がよく、動いているものをすぐにキャッチする。ガイドの方が教えてもらう感じ。これまでで最もたくさんの花や鳥を見ることができた。ぽんたん館でお土産を見る。屋久島産の酵素が売っていた。屋久島の多種類の植物から造ったらしい。屋久島の植物で酵素を造れば、さぞかしパワフルなものができるだろう。そのうちに造っている所へ行ってみたいものだ。屋久島の花々をデザインしたオーダーメイドのTシャツも置いてあった。自分の名前を入れてくれるそうで、こちらもそのうちに作っている所へ行ってみたい。”屋久島ナチュラルヒーリング”のロゴ入りのTシャツを作ってもらおう。鳥の形をした校舎の”おおぞら高等学校”を見に行く。生徒は誰もいなかった。ここは名古屋の出版社が運営している。名古屋ではテレビCMを流しているほどメジャーらしい。今回は名古屋のお客さんなので、よく知っていた。海と山の景色は最高だが、風が強かった。黒牛の牧場を見学して、サンゴ拾いへ。こちらも強風のため、ものすごい波。あまりゆっくりしていると風で体が冷えてしまう。そこそこに拾って、大川の滝へ。こちらは風が吹かない谷間にあるので、ゆったりできた。立神岩では、砕ける波のライトブルーが美しかった。西部林道では、雄のヤクジカが二頭で仲良く舐め合っていた。まだ角が生え始めたところで、先が丸い。雌よりも体が一回り大きい。水を汲んだり、ガジュマルを見たり、静かな西部林道を車から降りて楽しむ。永田いなか浜も波がすごかった。裸足で波打ち際を歩く。あまり海に近づくと波に呑まれそう。ゆっくり貝殻拾いをする予定だったら、強風のため30分ぐらいで引き上げる。知らないガイドが、一人で貝殻を拾っていた。お客さんにサービスするのだと言う。海岸で屋久杉を拾って、それを磨いてプレゼントするとも。なかなか営業熱心なガイド。HPがないので、来たお客さんを大事にするしかないと。(少し爪の垢でも煎じて飲むべき?)でも、今年はお客さんが少ないと嘆いていた。車に乗って少し進むと、道路際に何か動物が・・・よく見るとイタチだった。キツネ色で、尻尾がふさふさ。このイタチはトロく、しばらく右を見たり左を見たりしながらウロウロ・・・どうも道路を横断したい様子。おかげで、何枚か写真を撮ることができた。やっと念願のイタチの写真が撮れた!三度目の正直?(この写真は近々HPのトップに掲載予定)しかし、昨日見たイタチとは形が違うと元生物クラブのお客さんが言い出し、確認のため環境文化村センターへ行く。センター所蔵の本で調べたが、チョウセンイタチに似ている?程度しかわからなかった。なにしろ昨日のは早く動いたので、形がはっきりしない。今日のは間違いなくイタチ。2日続けて稀少動物を見てしまった?環境文化村センターでも、お土産を追加購入。更にトビウオのつけあげを買いに行った観光センターでも、お土産を購入。行く先々で買っている感じ。風が強いので、心配しながら空港へ向かう。飛行機は10分遅れで屋久島空港に無事着陸。出発便は全便満席。高速船が欠航のため、お客さんが溜まっているのだろう。なんとか飛行機に乗れて3泊4日の旅が終わった。今回の旅では、いろんな花が咲いているのに気がついた。鳥の声もたくさん聞けた。ツバベニチョウやイタチにも会えた。ほとんど晴れていたが、半日ぐらいは雨の屋久島も体験できた。新緑も巨木も温泉も満喫できた。屋久島の豊かな春だった。『蝶が舞い 花々が咲き 鳥が鳴く イタチも見れた 屋久島の春』『深き森 幾千年の 時を経て 静かに佇(たたず)む 屋久島の杉』これが474日目の心境です。
2006.04.20
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朝から雨。宿の天然村では、かなり激しく降っていた。でも、白谷雲水峡へ向かう道路では、ほとんど止んでいた。途中で、雨の滴に濡れる野生の藤を写真に撮る。山々には谷から霧が登り、新緑と白い霧の組み合わせが美しかった。木霊の森へ歩く途中で、イタチのような生き物を見かける。しかし、すぐに岩陰に隠れてしまったので、写真に撮ることはできなかった。黄色と茶色の中間のような明るい色。山でイタチを見るのは2回目。なかなか珍しい。木霊の森では雨が上がったので、マットを敷いて昼寝。(正確に言うと朝寝?)お客さんが大きな岩の上でリラックスしている間、こちらは肉体労働。自宅から持ってきたノコギリで道を塞ぐ倒木を切り、道路整備。最近の大風で、たくさんの木や枝が倒れた。そのままでもいいのだが、安全のために必要最小限の整備をする。ゆっくり時間をかけて、木霊の森を回る。秋は過ぎたが、いろんな種類のキノコが生えている。ほとんど木と同じくらい硬い。何層にもなったユニークな形のものもある。煎じて飲めば不老長寿?いや、精力絶倫?願わくば、女性にモテモテの妙薬であれかし・・・森の中へ行けば、いくらでもキノコはある。屋久島のキノコだから、霊験あらたかかもしれない。意識を覚醒させるマジックマッシュルームもあるかもしれない。でも、まだ飲む勇気がない。機が熟したら?飲む?かな?木霊の森からの帰り道に、サツマイナモリの白い花が群生していた。先日木霊の森の一番奥で見かけたのも、この花だった。駐車場には、ハイノキがたくさんの花をつけていた。雨に洗われた新鮮な白。こちらはきれいにカメラに収めることができた。不老長寿の水を汲んで、里に下る。遅い昼食は、屋久島ラーメン。2時を過ぎていたので、店は混んではいなかった。(その間、こちらは自然食の店でお買い物)それから、益救神社へ参拝。いつもの通り、左回りでお浄めされ、右回りで充電された。神社への参拝は、瞑想に似ている。自分を抜いて、すべてを神にゆだねる。惟神(かんながら)の道。今日は、とても大きなエネルギーを感じた。お土産屋に寄って、故郷で待つ人たちへのプレゼントを購入。それから、お待ちかねの抹茶のソフトクリームを食べる。今回も大好評。屋久杉の木工所へ行って、屋久杉の箸やネックレスなどを買い求める。こちらは、なんとなく屋久杉の小さな壷がほしくなり、買ってしまった。天気が持ち直したので、湯泊の海浜温泉へ行く。駐車場に紅色のオオバライチゴ(大薔薇苺)が、たくさん実をつけていた。誰も食べないのだろうか。それほど甘くはないが、ビタミンCがいっぱいある感じ。温泉には誰もいなかった。女性二人は、奥の海際の温泉へ。こちらは一人で手前の大きな温泉へ。ぬるいお湯にのんびり浸かって、なんとなく海を眺める。若い女の子が一人、運転手さんみたいな人に連れられてやって来た。隣の女湯に入るのかと思ったら、奥の温泉へ行ってしまった。せっかく話し相手ができるかと思ったのに・・・そのうちに地元の人たちがやって来た。交代に、こちらは上がる。駐車場で女性陣を待つ間、オオバライチゴを食べる。風呂上がりは一段と美味しい。無人市で、季節外れのタンカンを買って、天然村へ帰る。3日目終了。UFOで別の星へ連れて行ってもらっても、あまり意味はない。ただ地球が恋しくなるだけ。地球を体験し尽くし、完了しない限り、どこへ行っても同じ。すべては心しだい。心が創り出す世界に過ぎない。自分の心が創り出す現実を見ているだけ。自分が見たい現実を創り出しているだけ。三界は唯心の所現。この世の現象は心の現れでしかない。自分の心の中にあるものを外に見ているだけ。自分の心の中を映し出すことのできない別の星では、心は満たされない。今の心にとっては、この地球が一番心を反映させやすい。今ここ。今ここを生き切る。結局は、それしかない。今ここを生き切って、生き切って、心を満たして、満たして・・・超えていくしかない。どこへ行こうと、この心がある限り同じこと。心が納得し、心が静まるまでは、心の願いを実現するしかない。心の声に耳を澄ませ、心を満たしてやる。心が満足できるようにしてあげる。体験したいものを体験し、味わいたいものを味わう。それが、この世。三次元の物質世界。心を理解し、心の仕組みを自分で納得する。深く深く理解されれば、心はひとりでに静まる。何の無理もなく、心は自然に静かになる。それが一番無理のないやり方。体験し切る。味わい切る。理解し切る。そして、自然に静まる。どこへ逃げても心は付いてくる。どこにも逃げ場はない。今ここ。今ここを生き切るしかない。どこにも動く必要はない。今ここに居切ればいいだけ。『UFOで どこへ逃げても 同じこと 心は後から 付いてくるだけ』『今ここで 生きるしかない 全力で どこへ行っても 変わりはしない』『目の前の 心に写る 現実は 心が創る ものでしかない』『何事も 心の反映 人生は 心しだいで 世界が変わる』『生き切って 味わい切って 理解して 心静まる 時を待つのみ』これが473日目の心境です。
2006.04.19
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屋久島は、さわやかな日が続いている。安房の里から、遠くに天柱石が見えた。今日は、あの近くまで行く。ヤクスギランドは、まだ早い時間にもかかわらず、貸切バスが何台か停まっていた。吊り橋を渡って、河原へ下りる。すばらしく透明な水が流れている。心が開く。すべてを洗い浄めてくれるような透明感。木々の緑が反映してか、緑色に見えるところもある。川の水でお浄めを済ませ、森へ入る。森の奥へ入るにつれて、巨木が増えてくる。日本本土では見られない深い森。150分コースを超えて、更に奥へ。いろんな鳥たちの囀(さえず)りが聞こえる。小さな鳥の姿が見える。でも、すぐに動いてしまう。それにしても鳴き声の美しいこと。沢の流れだけがする静かな森に響き渡る。奥へ奥へと進んでいくと、屋久島で2番目に美しいと言われる天文の森へ出る。江戸時代の天文年間に屋久杉が切られたことから名付けられたところ。ほとんどの巨木は切られているが、それでも大きなものが幾つか残っている。それらの杉は、各々(おのおの)が2000年以上の風雪に耐えた存在感に満ちている。時々、紅色のリンゴ椿の花が顔を出す。咲いていたものは先日の大風で落ちてしまい、新しく咲き出した新鮮な紅が目に鮮やか。他にも名前を知らない黄色がかった白い花が咲いていた。強いすてきな香り・・・更に奥へ進んでいくと、今日のゴールである通称”釈迦杉”と呼ばれる巨木に出会う。この杉にはたくさんの瘤(こぶ)があり、なかなか風格がある。いつ見ても、何度見ても、すばらしい杉!すぐ下の沢の水も、苔の上を流れていて絵になる。しばらく佇(たたず)み、落ちている杉の皮や花など触って楽しむ。少し引き返して、風のない日だまりで昼食。林野庁のレインジャーが通りかかる。まだ若い人。自然が好きな人にとっては、たまらない職業だろう。屋久島の90%は国有林なので、たくさんの営林署の職員がいる。ほぼ2年ぐらいのサイクルで交代する。ゆっくり下りながら、天柱杉、母子杉、三根杉、仏陀杉などを見る。会う人もなく、静かな森が満喫できた。駐車場に戻って、車で紀元杉を見に行く。身近で見ると、さすがに大きい。更に奥へ行って、川上杉も見る。こちらは元気がいい。道路工事の際に、川上さんという人の主張によってルートが変更され、伐採を免れたので、この名が付いた。すばらしい!宮之浦岳へ登る淀川登山口まで行って引き返す。駐車場は、かなり混んでいた。貸切バスが停まっていて、団体さんが山から下りてバスに乗り込んでいるところだった。今日はJRホテルの温泉へ。入った時は空いていたが、だんだん人が多くなった。夕陽には早く、モッチョム岳がきれいだった。脱衣場でcellist.mayumi♪さんのご主人に会う。彼は毎日ここへ来ているので、JR温泉へ行くと会うことが多い。露天風呂で、屋久島が10回目という人と話す。山登りと海釣りを一日置きにやっているとか。一週間ぐらい安い民宿に泊まって楽しんでいるらしい。大阪の人だったが、そのうちに屋久島の人になるのだろうか。天然村へ送って、2日目の旅が終了。帰宅後に、”コクーン2”を見る。しかし、”コクーン”ほどのインパクトはなかった。星へ移住した30人の老人のうち、6人が地球へ一時帰国。5年ぶりの地球生活を楽しむ。全員がパワフルになっており、若者たちとバスケットの試合をして勝ってしまうほど。 ところが、一人が子供を車から守ろうとして交通事故に遭う。昏睡状態の彼女を救うため、夫は自分の全生命力を注ぐ。その結果、妻は回復するが、夫は亡くなってしまう。妻は子供たちの世話をする仕事を続けるため、地球に残る決心をする。老人にとって、自分を必要とされることが何よりも嬉しいようだ。もう一組の夫婦も孫の成長を見守るために地球に残ることに。残る一組の夫婦も本当は地球に残りたかったのだが、妊娠してしまったので星へ帰ることに。地球に残れば子供が成長する前に自分達が死んでしまうので、苦渋の決断といったところ。 (70歳前後で妊娠? ギネス級?)要するに、永遠の生命よりも地球の方を選んだことになる。戦争も病気も貧困も死もないところより、生老病死がある地球の方が魅力的ということだろうか。元々、地球を選んで生まれてきているので、地球に惹かれるものがあるのだろう。肉親の情や人間関係に弱いようだ。どのような人生を選ぶかは一人一人の選択。意外と地球は魅力的なところなのかもしれない。思いを物質化して、はっきりと確認することができる。愛でさえ、肉体や物質を媒介にして確認できる。確かめたい人向き?はっきりした形にして楽しみたい人には、地球は向いているのかもしれない。『永遠の 平和・やすらぎ 命より ダイナミックな 地球が魅力?』『これほどに 変化に富んだ 星はない 地獄極楽 望みのままに』『何もかも 心一つの この世界 思いしだいで 現実変わる』『大胆に 望みのままに 悲喜劇を 演じて楽しむ 地球劇場』これが472日目の心境です。
2006.04.18
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今日も屋久島は快晴。11時に、今日から3泊4日のお客さんを空港へ迎えに行く。たくさんの乗客が降りて来た。こちらのお客さんは、女性の二人連れ。昨日と同じパターン。天気が良いので白谷雲水峡の太鼓岩をめざす。駐車場はあまり混んではいなかった。この時期、サクラツツジと共にマムシグサがあちこちに咲いている。あまり本土では見かけないユニークな花なので、人目を惹く。ヤクジカが親子でのんびり食事をしていた。逃げないシカに、ほとんどのお客さんは驚く。ゆっくり近づけば5mぐらいまでは十分接近できる。もののけ姫の森の前で昼食を摂ろうとしたら、次々に人が来る。うるさいので、少し上の誰も来ないところへ移動して、森を見ながら食べる。二本足で立っている木があったり、抱き合っている木があったり、いろんな木のバリエーションがある。屋久島で多く見られるのは、切り株の上に種が落ちて、そこから二代目が成長する二代杉。倒れた木の上に種が落ちて成長する倒木更新。苔の上に落ちた種は、ちょうどよい湿気のために発芽しやすくなる。それが屋久島の自然更新を支えている。辻峠に着くと、新しい看板が立っていた。太鼓岩へのルートが説明してある。これまで地元の人だけが使っていたルートが、登り専用になっていた。一般的に使われていたルートは、下り専用にされていた。これまで使っていたのと逆。どうしてこういうふうに林野庁は決めてしまったのだろうか。これまで下りに使っていたコースは、ほとんど直線。登るのは超ハード。下りに使うと急すぎてケガ人が出たら困るということだろうか。以前から使っていたコースの方がなだらかで、誰でも登りやすい。従来通り緩やかなコースで上り下りすればいいものを。なぜ?看板は無視して、これまで通り緩やかなコースで登る。下りに急コースを使った方が楽しいに決まっている。(登山の常識?)太鼓岩はちょうど人が下りたところで、混んではいなかった。風もなく、ほぼ全体が見渡せた。宮之浦岳も翁岳も天柱石も見えた。遠くに安房の海の波まで見えた。眼下の新緑が、すばらしく美しかった。こんなにきれいな太鼓岩は初めてかもしれない。周りの景色を楽しんでいると、小さな虫たちがたくさん寄ってきた。ちょっと煩わしいので、下の方の岩へ移動。そこでしばらくお昼寝タイム。気がつくと、また虫たちが集まってきていた。どうも汗の臭いで集まってくるようだ。これではどこへ避難しても意味がない。十分楽しんだので、太鼓岩を下りる。下りは直線コース。両手両足を使って、まるでサルになった気分。アッという間に辻峠に着く。このコースを登ってきたら、さぞきついことだろう。とても林野庁の指示に従う気にはなれない。緑の世界を楽しみながら、ゆっくり駐車場へ向かう。帰りに不老長寿の水を汲んでいたら、ゲンさんに会う。屋久島在住の知り合い。彼は”GO!GO!屋久島”というHPを開設している。その彼が、なんとタクシーの運転手の姿。「いつから運転手になったの?」「最近ですよ」彼は既に屋久島に土地を買っているが、まだ家は建てていない。仕事が見つからなくて、いろんなアルバイトをしていた。タクシーの運転手も完全歩合制とかで、なかなか厳しそう。三日間、毎日、違う温泉に入る予定。今日は楠川温泉へ行く。小さな温泉なので混んでいるとアウトなのだが、幸いなことに誰もいなかった。しかし、すぐに人が来たので、早めに出る。それから、今日の宿、”まんまる”へ向かう。ここはご主人が元板前なので、食事が美味しいことで有名。かなり混んでいる民宿。すぐ目の前が海で、朝陽が正面に見える。久しぶりに行ったら、ずいぶん周りに家が増えていた。移住者の住宅という感じ。最近は屋久島へ移住する人が増えている感じがする。これから団塊の世代がリタイアすると、更に増えるだろう。屋久島の人口は増加するに違いない。民宿が自宅から近いと楽。明るい間に家に帰れた。ハードデスクに録画してあった「コクーン」という映画を見る。かなり以前のものだが、なかなか面白かった。宇宙人と老人ホームの老人たちとのふれあい。宇宙人が生命エネルギーを注いだプールに入った老人たちが、みるみる元気になり若さを取り戻す。最終的には集団でUFOに乗って別の星へ移住してしまう。そこまでが第1話。「コクーン2」というのもできており、それも録画してあるので、明日の夜見る予定。映画の中で、宇宙人の女性と地球人の船長が親しくなる。そこで愛の交歓となるのだが・・・宇宙人の愛の交歓は、エネルギー交流。地球人の船長には、それだけでは物足りない様子。肉を持つ身としては、やはり肉体を抱きしめたいところだろうか。そうでないと愛が確かめられない感じだろうか。精神の交流だけでは満足できないのが地球人という感じだった。アメリカ人は親しくなると、すぐにディープキスをしたりセックスしたりする。実際のところはわからないが、少なくとも映画の上ではそうだ。肉体の交わりによって確かめるというのが地球的なやり方。三次元物質世界のシステム。そうでないと、子供もできない。しかし、それが全宇宙共通かというと、そうでもない。それぞれの次元で、それぞれの愛の交流の仕方がある。地球は、思いを物質化して確かめるところ。はっきりした形にしないと納得できない人が、地球へやって来ているのだろうか。具象から抽象へというプロセスの一環だろうか。その星では永遠の生命が与えられるというので、老人たちは地球を去ることを決意する。しかし、その星では子供や孫は持てないらしい。永遠の生命なので、それでは人口過剰になってしまうのだろうか。そのため、地球との別れが孫や子供との関係性の別れをも意味する。そのような特別な関係は別の星では望めないのだ。そういうふうに考えてみると、地球もなかなか捨てたものではないのかもしれない。でも、宇宙人のピュアーな感覚と地球人のドロドロした感覚では、宇宙人の方に親近感を覚えた。地球人も悪くはないが、もうそろそろいいかなという感じ。宇宙人に比べると、地球人はかなり遅れている。まだお互いに殺し合ったりしているのだから、野蛮人の域を出ていない。これから太古の文明が明らかになると共に、宇宙からの文明も知らされてくるだろう。地球オンリーの意識が薄れていくに違いない。地球のみの価値観に縛られていた意識が、広く宇宙に開かれる。狭い領域に限定されていた意識の波動の幅が広がる。地球人から宇宙人への仲間入りが始まるだろう。もう地球だけの狭い意識に縛られている時代ではない。意識をオープンにして、宇宙に開く時代だ。無数の星たちが瞬(またた)く宇宙は、広い広い意識の領域。肉体に縛られた意識から脱皮して、宇宙へ羽ばたく時だろう。地球のサナギから、宇宙の蝶になる時が近づいている。『はっきりと 形に現し 確かめて 納得するのが 地球のやり方』『物質の 小さなサナギ 脱皮して 広い宇宙へ 蝶は羽ばたく』これが471日目の心境です。
2006.04.17
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朝から青空が広がった屋久島。11時に空港へ迎えに行く。今日は団体さんが乗っていて、飛行機は混んでいた。こちらのお客さんは、一番最後に出てきた。女性二人。最初にカッパをレンタルするため、中川スポーツへ。ついでに、隣へ寄って屋久島水晶を見る。以前に見た時は大きいのが二個だけだったが、今回は小さいのも二個置いてあった。一個は透明感があって、とてもきれい。まだ非売品で、販売開始は先になるらしい。いろいろ話をしていたら、益救(やく)神社へも行ってみたいということになり、ご挨拶に。屋久島の神様に挨拶しておくと、その後の旅がスムーズにいくだろう。スーパーへ寄って昼食の弁当を購入。それから、木霊の森へ向かう。途中で、野生の藤を見る。今が盛りだろうか。車から降りて藤の蕾を触ると、まるで綿毛のようにフワフワした感触。最高に気持ちがいい。この5cmぐらいの蕾から、たくさんの花が開いていく。開きかけの蕾もあって、途中経過がよくわかる。野生の藤は、庭にあるものより花の長さが短い。原種に近いからだろうか。もちろん藤棚などはなく、木に絡まっている。木霊の森へ行く道路沿いには、サクラツツジが美しく咲いていた。今の時期は、屋久島で最も花の多い時。新緑と相まって、ドライブも楽しい。白谷雲水峡の駐車場は満員状態だった。先週までとは雰囲気が変わっていた。これからゴールデンウイークにかけて、かなり混みそうな感じ。それでも、木霊の森は誰もいない。天気も良く、とてもさわやか。大きな岩の上で昼食。こちらは古くなって木に食い込んでいるテープを剥がして回る。以前から気になっていたもの。誰が巻き付けたのか、相当古い。もうボロボロになって美しくないし、このままでは木の成長が止まってしまう。こちらが森を歩いている間、一人の女性は食後のお昼寝。もう一人は裸足になって沢の中を歩き回っていた。オイオイ、頼むから滑らないでくれよ。保険には入っていないんだから。それから、ゆっくり木霊の森を歩く。天気が良いので、今日は木霊ちゃんは写真には写らないだろう。その代わり、お昼寝ができる。一長一短。彼女たちは、樹齢2000~3000年の屋久杉の切り株に登った。木登りは子供の時以来とか。子供時代に帰って、とても楽しそう。すぐ近くに、何層にもなったユニークな形のキノコがある。木のように硬い。取ろうとしたが、取れなかった。もう一度、景色の良いところでマットを敷いて横になってもらう。今度は腹這いになれば、両手を沢につけることができる。日差しも水量もちょうどいい。ただ、先日来の大風で落ちた枝が、あちこちに散乱している。誰も掃除する人はいないので、かなり荒れている感じ。歩く人もいないので、きれいになるのには時間がかかる。邪魔な枝を片づけながら歩く。天気が良いので、数日前に行った時よりも更に奥まで行ってみる。一番奥に花が咲いていた。名前はわからない。白い小さな花が群生していた。まるでジャスミンみたいとお客さんの声。香りを嗅いでみると、驚くほどすばらしい香り。本当にジャスミンのような香り。原種だろうか。こんな奥に咲いていたら、誰も見る人はいないだろう。もったいない・・・というか、ラッキー!帰り道で、真っ赤なリンゴ椿の花を発見。先日の大風でも落ちなかったのだろうか。ちょうど風が当たらない場所のようだ。これから咲こうとしている花もあり、しばらくは楽しめそう。駐車場の近くで屋久島在住のプロの写真家、山下大明さんに会う。これから写真を撮りに行くと言う。こんな時間から?彼はなかなかすばらしい写真を撮る。この時間帯からしか撮れない写真があるのだろうか。最後に不老長寿の水を汲んで、宿へ送る。途中、永田いなか浜に寄る。かなり波があった。それがとても美しい。あまり時間はなかったけれども、彼女たちは裸足になって波打ち際を歩く。今日の宿には岩風呂がある。温泉ではないけれども、海が見えていい感じ。そのため、今日は温泉には行かなかった。その分、少し時間があったので、永田いなか浜をサービス?半日コースにしては、盛り沢山だった。本来は木霊の森だけなのだが、なんとなく流れで変わってしまう。貸切だから、どこからも文句は出ない。ご本人たちが満足すれば、それでいい。春の豊かな花たちを楽しめた半日だった。せっかく永田いなか浜まで来たので、本来なら夕陽を撮って帰りたいところ。でも、明日から3泊4日の仕事が入っているので、涙をのんで帰宅することに。(そのため、彼女たちも半日だけしかガイドできなかった)(暇な時はガラガラなのだが、混み出すとダブってしまう)(なんとも、もったいない・・・)今日の夕陽は口之永良部島の上に沈む感じだった。『新緑と サクラツツジと 藤の花 ウグイスも鳴く 屋久島の春』『水清き 木霊の森の 奥深く 誰にも見られず 白き花咲く』これが470日目の心境です。
2006.04.16
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NHKのBS-2で、「あなたが選ぶ寅さんアンコール」というのをやっていた。”男はつらいよ”48作品から、見たいものをリクエストするもの。ベスト5を順次放映してきて、今夜はベスト1の発表だった。ベスト1はダントツで第一作だった。”男はつらいよ”は、元々はテレビドラマとしてスタートした。それが好評だったので映画化された。そして、ギネスブックにも載るほどの長寿シリーズとなった。第一作ができたのは1969年。今から37年前。それから四半世紀の間、盆と正月の2回、毎年新作が上映され続けた。10年前に寅さん役の渥美清が亡くなって、それに終止符が打たれた。1969年というのは、東大安田講堂事件があった年。こちらは19歳の大学生で、テレビの実況中継で全共闘と機動隊の安田講堂での攻防を見ていた。その頃に寅さんシリーズが始まっていたとは・・・まさに隔世の感がある。第一作では、妹・桜役の倍賞千恵子が若々しい。最後の作品では50代半ばになっていた彼女も、この時は28歳。若さがはち切れそうだ。渥美清は42歳。最後は60代後半だから、もう寅さん役も限界に近かっただろう。裏のタコ社長も、まだ髪の毛がたくさんあった。お団子屋のおばちゃんは、あまり変わらない。おじちゃんは、その後、役者さんがチェンジした。寅さんの特徴は、早とちりと思い込み。善意の早とちりなのだが、それによっていろんなトラブルを巻き起こす。最後は、「どうせオレなんか・・・」と居直るか、プイと旅に出てしまう。責任や忍耐とは、まったく縁がない。旅から旅・・・それが会社人間に受けたのだろうか。最後には失恋するというのも、お定まりのコース。毎回、その当時の売れっ子女優と共演する。ある時、浅丘ルリ子演じるリリィが、本気で寅さんと結婚してもいいと言ったことがあった。いつも片思いなので、こんなことはめったにない。あわやと思えるシーンだったが、結局、寅さんは冗談だろうと相手にしなかった。後で妹の桜に問い詰められると、「オレなんかと結婚したら、幸せになれる訳がないじゃないか・・・」そんなことを思っていたら一生結婚はできないだろう。事実、寅さんはずっと独身だった・・・寅さん映画から”思い込み”を取ってしまうと、映画は成り立たない。ほとんどは寅さんの早とちり=思い込みから物語が展開する。寅さんが余計なお節介をする。別に悪気はないのだが、一方的な寅さん流の思い込み。それがまったく的外れなので、始末におえない。そこから大騒ぎとなって・・・それが寅さん映画の面白いところでもある。寅さんはほとんどの場合、いつも片思い。女性に親切にされると、つい自分に気があるのではないかと思い込む。もちろん、それは誤解。ただの親切。それで、寅さんは失恋。傷ついて旅に出ることになる。思い込みによってドラマがどんどん展開していく。それは映画に限らない。テレビも演劇も変わらない。実際の生活も、それらとたいして違わない。思い込みベース。もし、寅さんが事実ベースで生きていたら、”男はつらいよ”シリーズは成り立たなかっただろう。思い込みがなければ、ドラマは成立しにくい。事実ベースでは、淡々としたもの。もちろん感動や共感もあるが、思い込みによるハラハラドキドキはない。それではドラマとしての盛り上がりに欠ける。やはり、思い込みがないとドラマは盛り上がらない。恋にしても、お互いがストレートでは、すぐに成就してしまう。紆余曲折というものがない。それでは味気なくてドラマとは言えない。やはり、ドラマは思い込み?思い込みがないと人生面白くない?思い込みワールドこそが人生を面白くしている?もっとも、その結果、争い合ったり、戦争したり・・・非苦も生まれているのだが。誤解とすれ違いによって問題が発生し、その解決のために奔走する。ドラマとは、そういうものだろうか。うまくいけばハッピーエンド、そうでなければ悲劇。実際の人生もそんなものだろう。誤解を解くためにどれほどのエネルギーを費やすことか。何かを作り出すよりも多大のエネルギーがいるほどだ。何ともアホらしい限りだが・・・一人一人の生まれ育ちが違うので、どうしても誤解が生じてしまう。それぞれの思い込みから物事を見てしまい、またそれぞれに思い込む。思い込みの悪循環。誤解の連鎖。それが複雑に絡まった人生。思い込み人生。今はそういう世界に生きている。それもまたよし。でも、それだけが人生ではない。思い込みも誤解もない人生もある。今とは違う世界もある。今の人生は思い込みワールド。それとは別のドラマを生きる。思いに翻弄されないドラマ。それがこれから幕を開けようとしている。でも、その前に思い込みワールドを十分に体験し、理解する必要がある。味わい尽くし、卒業する必要がある。現実生活の中で、思い込みを意識して、自他を見つめているといい。面白いほど思い込みに満ちている。みんな思い込みワールドの中で必死に泳いでいる。思い込みワールドとも気づかずに・・・それが今の人生。死後も続く人生。今生で思い込みワールドから抜けられなかったら、死んだ後も抜けられない。死後も同じことの繰り返し。ハラハラドキドキ・・・それも否定することはないが、それだけが人生でもない。よくよく自分自身と周りを見つめて、生き方を決めればいいだろう。『これこそが 男と思う 思い込み 見栄を張ったら 男はつらいよ』『思い込み どんどん膨(ふく)らみ 恋となり 好きだ嫌いだ ドラマは尽きない』『思い込み 自分一人の 空回り 一喜一憂 ハラハラドキドキ』『日常の 思いの世界の その奥で 澄んだ意識は 静かに流れ・・・』これが469日目の心境です。
2006.04.15
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たまっていた新聞を2週間分ほど読んだ。その中で唯一興味を覚えたのは、”ユダの福音書”が発見されたというニュース。1700年ほど前のもので、パピルスに書かれていたらしい。現在の聖書にあるのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書だけ。ところが、実際はたくさんの福音書があった。しかし、それらはローマ・カトリック教会によって異端として退けられた。イエスには十二使徒以外にもたくさんの弟子がおり、多くの弟子がイエスの言行録を残した。その一つが、ユダが残した”ユダの福音書”。その存在自体は知られていたが、既に失われたものと思われていた。それが1970年代にエジプトで発見され、買い手が見つからないまま長い間金庫にしまわれていた。最近になり、やっと専門家が5年の歳月をかけて解読したところ、意外な事実が書かれていることがわかった。イスカリオテのユダは、イエスをローマの手先に売った裏切り者として知られている。ところが、この福音書の中では、イエス本人の指示により救済を完結させるために引き渡したことになっている。これでは裏切り者とは、まったく逆の立場になる。ユダはイエスの信頼の厚い忠実な僕(しもべ)であったことになる。もしこれが事実とすれば、聖書を信じている人々は事実とは逆のことを信じていることになる。新訳聖書に書かれているのは、イエスの誕生前後と伝道の歩みだけ。彼の幼少期や青少年期は書かれていない。彼はバプテスマのヨハネと一緒に育てられ、インドやエジプトで修行したらしい。エジプトの大ピラミッドで最終イニシエーションを受けたと精神世界の専門書にはある。最近話題になっているのは、彼には子供がいたという説。イエスはマグダラのマリアと特別な関係にあり、二人の間には子供が生まれ、今もその子孫がイスラエルで生きているという。ローマ・カトリック教会にとっては驚天動地の新説。なぜなら、ローマ・カトリック教会では、マグダラのマリアは娼婦となっている。神の一人子であるイエス・キリストが、こともあろうに娼婦と交わり、子供までつくっていたとなると・・・イエスに対する信仰そのものが崩壊しかねない。そのうえ、マグダラのマリアとローマ・カトリック教会の初代教皇であるペテロとは仲が悪く、いがみ合っていたとか。それ故に、マグダラのマリアを娼婦に貶(おとし)めた・・・?実際のところはわからないが、長年に渡って聖書が改編され、修正されてきたのは事実のようだ。現在の聖書が唯一絶対なわけではない。多種多様な福音書があり、それを教会の権力者が自分達に都合のよいように改編したり排除したりしてきた。支配と権力維持に都合のよいように作りかえられたものが今の聖書に他ならない。その聖書を何十億という人たちが信じている、この信じがたい現実。聖書の実態を知らずに、ただ信じ込んでいる世界。信じることによって、自らの安定を得たいと願う世界。信じる対象が事実であるかどうかは問わない。ただ自分が信じることによって救われればいいだけ。信じる者は救われる?今回の”ユダの福音書”のように、自分が信じたことと異なる現実が押し寄せてくる。その時にどうするか。しばらくは動揺する。誰かに相談もする。そして、最終的には自分流に解釈して納得する。これは神の試練であると。信仰が試されていると。それがこれまでの宗教のパターン。聖書という固定したものによって、自分の心の安定を得ようとする。固定しているものを信じることによって、揺れ動く心を安定させようと努める。それが信仰=信じるということ。しかし、現実は常に変化している。2000年前の聖書が現実に適応できるとは限らない。常に現実から揺さぶられる。その度に解釈で急場を凌ぐ。その繰り返し・・・固定したものを信じても、心のやすらぎは得られない。心は現実によって常に揺すぶられる。その度に心は動揺する。その心の動揺を鎮めるために、無理な解釈を重ねる。その繰り返しで人生が終わる。信じることによって、なんとか自分をキープしているだけ。何かを信じなければ、自分を維持できないだけ。移り変わる無常の世の中で、不動のものにすがりたい。すがることによって心の安定を得たい。信仰とは、弱い心の現れでしかない。しかし、動機が不安定であれば、結果も不安定になる。最初の一歩が最後の一歩。結果は初めからわかっている。何ものにも依存しない。何も信じない。ただ事実と共に生きる。それができるだろうか。それができないから、現実から逃避して何かにすがろうとする。不動であり安定していると思えるものにすがって救われようとする。不安定なままでいられない。不安定から安定へ移行したい。そのために何かにすがる。しかし、安定していると思ったものは、過去のもの。過去であるから安定しているだけ。つまり、死んだもの。死んでいるから動かないだけ。信仰とは、死んだものを信じているだけ?現実は刻々と動いている。何も固定していない。何の保証もない。保証があるのは、信仰の世界だけ。しかし、それは幻の保証。ただの思い込み。救われると思い込んでいるだけ。それが信仰。それ以外の何ものでもない。事実ベースで生きれないから、何かにすがっているだけ。祈り、寄付、奉仕・・・安定を得るためのギブ&テイク。自分の足で立ち、自分の手で創り上げる。しっかりと大地に根を張り、今のエネルギーを感じながら生きる。何ものにも依存する必要はない。何ものも信じる必要はない。子供がずっと親に依存していたら、大人になることはできない。親が死んでしまった時に、途方に暮れる。自分の足で立つしかない。試行錯誤しながら生きていくしかない。それが人生。何かに頼ったり、何かに依存したり、何かを信じたり・・・それは自分の弱さを証明しているだけ。聖書に限らず、紙に書かれたものに真理はない。真理は生きている。生きて今ここにある。真理は固定していない。いきいきと生きている。それは信じることによっては実感できない。信じること=思い込みを外さない限り、真理は体感できない。信じることは、思いの世界。思い込みワールドの中で、信じたり信じなかったりして動揺しているだけ。思い込みワールドの中にいる限り、真理は遠い。真理は、思い込みワールドの外にある。信じたければ、信じてもいい。それで救われると思うのなら、そうすればいい。でも、それは単なる思い込み。真実ではない。ただ幻にすがっているだけ。生きている真理は、人が書いた聖書の中にはない。真理は今ここに生きてある。『もしかして ユダはイエスを 裏切って いないとすれば 歴史が変わる』『宗教の 形式張った 型にはめ 救われている 気分に浸る』『何であれ 信じることは 思い込み 弱い心が 救い求める』『目の前の 苦難と共に いれなくて 信じるものへ 逃げているだけ』『外側に 救う何かを 求めれば いつまで経っても 救われることなし』『信じれば 信じたものに 縛られる 心の自由 即座に消える』『何であれ 思い込みから 信じても 心の不安 消えることなし』『今ここの 生きてあるもの 感じずに 過去の真理に 救い求める』『何ものも 信じなくても 生きられる 事実と共に 今ここを生きる』『しっかりと 自分自身と 共にいて 見守りながら 生きてゆくのみ』これが468日目の心境です。
2006.04.14
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朝9時に、お客さんを空港に迎えに行く。小さな機体のYS11が、お客さんを運んできた。この飛行機も、今年の9月末で日本の空から引退する。唯一の国産旅客機。乗客はそんなに多くなかった。今日のお客さんは、男性1人と女性3人のグループ。東京や北海道から来たらしい。阿蘇のヒーリングスペースに寄って、昨夜は鹿児島でキャンピングカーの中で泊まったとか。精神世界系の人たちらしい。以前、屋久島へ来たお客さんの知り合いだった。知り合いの輪が広がっていくのは、ありがたい。スーパーへ寄って、木霊の写真を撮るためのインスタントカメラを購入。木霊の森へ向かう。雨が降っていたけれども、それほどのこともなかった。途中の新緑がきれいだった。白谷雲水峡の駐車場は空いていた。管理人の話では、最近は観光客が少ないらしい。新年度になったばかりなので、旅行どころではないのだろうか。そういえば、ここのところレンタカーも車庫に収まっている。春休みが終わってゴールデンウイークまでの間は、わりと空いているのかもしれない。木霊の森は霧がかかっていた。木霊の写真を撮るのには最高のコンディション。デジカメを持ってきたお客さんがシャッターを押すと、木霊がたくさん写った。何枚撮っても、みんな写った。「いつでもこんなに撮れるのですか」と聞かれる。「そんなことはないよ」と答える。木霊と一緒の記念写真も簡単に撮れてしまった。これだけ撮れるのは、極めて珍しい。昨日は阿蘇で滝行をしてきたとのこと。それがよかったのでは?全員がお浄め状態なので、木霊ちゃんたちと波動が合ったのかも?これからは木霊の森へ入る人には、滝行をしてから来てもらうようにする?誰も来る人がいなくなる?さてさて・・・雨に煙り、苔や木々の緑も美しかった。ゆっくり木霊の森を回る。瞑想したいとのことで、沢の中の石の上で瞑想タイム。ここのところの雨で水量も多く、沢の流れで洗い浄められる。そのうちに霧が晴れ、木霊たちが写真に写らなくなる。簡単には写らないことが、やっと理解された。木霊の森の奥の方へ行くと、ヤクジカが二頭いた。珍しく逃げなかった。木霊の森のシカは、すぐに逃げる。ピーという高い鳴き声を残して。でも、今日のシカは、かなり近寄っても平気だった。時々、こちらをじっと見ている。とても毛並みのきれいな可愛いシカ。シカには邪念がまったくない。大きな瞳で見つめられると、なんとなく幸せを感じる。シカは、いい。何もないのがいい。10~15分ぐらいは一緒にいられただろうか。こちらがどんどん近づくので、最終的には山の方へ行ってしまった。木霊の森には誰もいない。奥に入っていくにつれて、雰囲気が深くなる。特に霧がかかると、神秘的になる。深山幽谷という雰囲気。だから、木霊がいるのだろうか。これまでで一番奥まで行った。一人では行ったことがあるが、お客さんを連れて行ったのは初めて。水量があったので、小さな滝ができていた。帰り道で、お客さんがキノコに触れると、簡単に取れてしまった。みんなが意識的に持って帰れば自然破壊だが、取れてしまったものは仕方がない。貴重な屋久島のお土産に、どうぞ!木のように硬いキノコなので、家に飾るのにはちょうどいい。それから白谷雲水峡に戻り、入口の近くで、昼食。相変わらず観光客は少ない。雨はいったん小降りになったが、また降り出した。それから、もののけ姫の森へ向かう。もののけ姫の森は、静かだった。美しい苔の緑が広がっていた。お客さんたちは、ことのほか感動した様子。静かなもののけ姫の森は、なかなかいい。観光スポットなので、静かな時は少ない。観光客がいないのは希だ。ゆっくりもののけ姫の森を味わって、帰途に就く。温泉へ行く途中で、抹茶のソフトクリームを食べる。これも大好評。なにしろ無農薬の屋久島の抹茶が入っている。食べた人は、みんな美味しいと言う。JR温泉で、1時間ほど入浴。残念ながら、夕陽が沈むのは見えなかった。しかし、天使の階段と呼ばれる光の線がきれいに現れた。その景色を露天風呂に浸かりながら眺めた。9ヶ月前に屋久島へ引っ越してきたという定年退職した人と、いろいろ話をした。露天風呂では、いろんな人と気楽に話ができる。最後に天然村へ送って行って、楽しい一日のツアーが終了。最近は、木霊の森+もののけ姫の森コースのお客さんが多い。一度に屋久島のエッセンスを体験してしまおうということだろうか。木霊の森も、だんだん奥の方まで行くようになってきている。かなり歩くので、少し体力がいる。でも、温泉に入って、美味しい食事をして、ぐっすり眠ると、疲れはあまり残らない。屋久島の森はパワーに満ちているので、意外と疲れない。不思議なところだ。木霊の写真を撮るのもいい。でも、それ以上に大切なのは、思いのない静かな空間を感じること。思考以前の”いのち”そのものに触れること。思いに翻弄されて見失ってしまった自分自身の原点に気づくこと。いのちの原点。それこそが、いのちの島=屋久島の存在意義。『霧の中 光に映えて 木霊たち 木霊の森で 遊んでいるの?』『何一つ 人の思いの ない世界 体験するため 自然に入る』『現世(うつしよ)の 人の思いが 何もない 自然の中は 異次元空間』『できるだけ 浮き世の邪気を 持ち込まず 自然の息吹 味わってみる』『邪気のない 大きな瞳で 見つめられ 何とも言えない 幸せ気分』『様々な 思いの中で 疲れ果て 癒しを求め 屋久島へ来る』『屋久島は 思考以前に 満ちている 自然のいのち 感じるところ』『邪気のない 静かな森の 奥深く 思考以前の いのちが宿る』『屋久島の いのちが宿る 森の中 思い以前の いのちそのもの』『屋久島の いのちを感じ 自(みずか)らの 思いを超えて いのちに還る』これが467日目の心境です。
2006.04.13
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「快・不快[2]」の続き最後は、小犬のロンさんですね。【>快・不快とは何でしょう?「快・不快」は「好き・嫌い」よりもより深いレベルにあると思います。意識の深層。好き嫌いが感情のレベルなら、快不快はより感覚的身体的なレベルで刻み込まれていると思います。酢牡蠣の話で、好き嫌いとしては明確に把握できると書きましたが、実はこれは、快不快の体験方着たものなんでしょうね。そして、わたしにとっては、「体質はなかなか変わらない」と言う諦観があったから、明解に思えていたのでしょう。でも実は、より根の深い問題ですね。>あなたにとっての快とは何ですか。自分が「これが自分」だと、さわやかに思える時。この自分は、自我でもありますが、自分より大きな何かに繋がっている感覚の持てる時です。自然の中に居たり、素晴らしい芸術作品に感動したり、子供たちと無邪気に遊んだり・・・。>あなたにとっての不快とは何ですか。自分が「自分と思えない」時です。自分を見失っている状態です。これが、わたしには、周期的にやってきます。現代医療では、[病気」と診断されています。いわゆる「気分障害」と言うものです。それもありなん、受け容れていますが、わたしのどこかでは「いや実はこれは病気と言うより私の気質なのだ」と思っています。>それはどこから出て来るのですか。快不快は、心身感覚的な領域から来ていると思います。たとえば、記憶を失っている頃の刻み。傷や痛みや悲しみや寂しさや、いずれにしても身体に刻み込まれているもの。いや、快の例もあるのですが。排便の快や、小便の快や、おっぱいの快や・・・。>快と不快を決めているものは何ですか。わたしは決めた覚えは無いのですが。忘れているところが、まだ未熟者ですね。それを思い出すために、生きているような気がします。いずれにせよ、いたずらに、快不快に振り回されたくないですね。】 好き・嫌いは、快・不快から出てくるのかもしれませんね。では、快・不快はどこから出てくるのでしょうか。まずは、本能から。次に、本能+経験から。最後に、経験+思い込みから。そんな感じでしょうか。そして、思い込みから出て来る快・不快が、今では大多数を占めているのではないでしょうか。思い込みを超えた快もある?自分より大きな何かに繋がっている感覚が持てる時?それは快を超えた快かもしれませんね。でも、快という認識が起きる時、思考の次元になります。自分を見失っている時、不快?自分を自分と思えない時?「これが自分だ」がない時?快の状態と逆の時ですね。「これが自分だ」依存症?「これが自分だ」願望?「これが自分だ」思い込み?「これが自分だ」という実体があったとしても、それを思いの次元で固定させないことでしょうか。その実体と共に生きることでしょうか。それを魂やハイアーセルフのようにイメージ化しないで、その時その時を生き切ることですね。「これが自分だ」とイメージ化すると、それが快=囚われとなり、逆に喪失感=不快が生まれる要因となります。何も所有しないことですよ。快・不快に振り回されないためには、その源を探る必要があります。でも、源を探ろうとして探れるものでもありません。やはり、快・不快が出てきた時に、その出自(しゅつじ)を見極めることでしょうか。原因となる思い込みが外れる時、その結果である快・不快も外れていきます。ずーっと探っていけば、どこまでいけるか、試してみてください。一つ一つ快・不快の原因を外していくと・・・全部なくなるのには時間がかかります。それまでは快・不快の感情が現れてくるでしょう。現れてきた時に、それに振り回されて自分を見失わないで、しっかりと見極めることでしょうか。ニュートラルな視点で見極めようとすれば、その瞬間、快・不快から自由かもしれません。ニュートラルな見守りの視点があれば、快・不快が出てきた直後に、またニュートラルに戻れるでしょう。そうすれば、あまり快・不快に振り回されることもないでしょう。すべてを見守るスタンス。それが快・不快からの自由をもたらすのではないでしょうか。『生来の 言葉にならない 快・不快 言葉になれば みな思い込み』『これからの 不快や嫌を 避けようと 恐れおののき 不安心配』『身に起きる 不快や嫌を 避けようと 逃げて隠れて ネガティブバージョン』『それぞれの 快や不快が 異なれば 少しの快と 多くの不快』『それぞれが 快や不快を 言い張れば いつまで経っても 収拾つかず』『快・不快 好きも嫌いも 自動的 反応のまま 自分失う』『見極める 快と不快の 出所(でどころ)を 気づかぬ限り 振り回される』『人生の 快も不快も 思い込み 好きも嫌いも また思い込み』『様々の 不快や嫌を 超えていく 見守りの道 理解深まる』『見守って 不快に響く 物事を 抱き参らせ 留まってみる』これが466日目の心境です。
2006.04.12
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「快・不快[2]」の続き次は、藍&aiさんですね。【一昨日徹夜してから、その日昼寝しないで頑張っていたのには、どうやら訳があるようだ。その日、夕方には限界になって仕方なく自分のベッドへ。。2世帯住宅で暮らしている義母と義姉の不快な声が階上から聞こえる。これがあるから昼寝できない。。(藍の寝室の上が姑たちのリビング)2人は大抵が、誰かの文句を言うような腹を立てているような苛立つ声で話を延々と続けている。藍のなかでは、大不快な2人の話し声一時は、ひとつの屋根で暮らしていた時に、姑たちと上手くいっていなかったからかその当時が甦るからかここには思い込みもある。「また藍の文句を2人で言っているのかな?」みたいなそれに妊娠中に昼寝していたら、実家にまで文句を言いに行った姑だから自分が抹殺されそうな不安感を感じる。もうひとつは、排泄の不快だけれど子供たちを育てている時は、そんなに苦ではなかった。下痢が続いた時以外は。父の介護でおむつを取り替えた時も排泄物に臭いとも思わなかった。きっと、実の母の時もそうなのだろうでも、義父の時は、正直とても臭く感じた。不快だった。吐き気を抑えながらだった。たぶん義母の時は、かなり苦痛に違いない。他人の子供のおむつを替えるときも臭く感じた。自分の旦那さまの時はどうなのだろう?ふと、そう思った。愛情の深さで変わるのでしょうか?でぶでぶで、いやらしそうな、しつこい感じの男性が、いつからか不快。この理由は、どこからくるのかな?とずーっと考えていたんだけれど解らない。でも、自分のことを否定するために言っていることって、藍は多いような気がするって昨日気がついたんだけれど。。自分の中にある部分で嫌なものが、他の人のなかに見えると不快になったり、嫌だな~って感じたりしているのかもしれない。だって、嫌なことって、自分の中にもあったりするんですもの。世の中でいちばん不快なのは、うじ虫とハエです。世界中のうじ虫とハエを抹殺したいくらいに嫌いだし不快です。これって、かなり深層心理に何かありますよね。よく戦時中に、亡くなった遺体にうじ虫が湧いたって言うでしょう。ハエが大量発生したって後から、ある漫画でそれを知って過去世のDNAが訴えているのかもしれない。そんな気がします。これだけは!快を感じる時。お部屋を隅々まで掃除して、すっきり綺麗になった部屋でお茶をするとき。お布団を干して、シーツも洗って、ふかふかお布団で寝るとき。これは自分がやったときほど快感。自分が、頑張ったことに自己満足?バイク(原付ですが)走っているとき快。風を感じるからです。子供のときから、風を感じるのが大好きでした。実は、台風の日はワクワクします。台風が過ぎ去った後の空や空気。。きれいです~。。これには理屈はありませぬ。他にも並べたらいろいろありそうですが、ここでやめておきます。】過去の記憶や思い込みから、快・不快が出てきます。親近感の違いによっても、快・不快の出方が違うようです。でも、今回は不快の根っこが少し見えてきていますね。自分の中にある嫌な部分を他の人の中に見る時、不快に感じるようですね。自分の中の認めたくない部分が他の人にある時、不快に襲われるのですね。それは相手の問題ではなく、自分自身の問題です。相手は自分の鏡に過ぎません。自分が見たくないだけです。自分を見たくないだけです。本当は自分が嫌なのに、それを認めたくないので、他の人を嫌と言っているだけなのでしょうか。自己正当化と自己欺瞞ということでしょうか。ウジ虫とハエについても、深いところに何かあるのかもしれませんね。拒絶している何か。自分が見たくない何か。隠していたい何か。直面したくない何かがあるのかもしれませんね。避けている何かですね。よくよく意識してみるといいでしょう。快・不快も、思い込みを外していけば、消えていくものもたくさんあります。不快が嫌だったら、自分の思い込みに気づくしかありません。思い込みが外れるにつれ、不快も減っていきます。逆に言うと、不快と感じるものは、自分の思い込みに気づくチャンスでもある訳です。不快と感じるたびに、この不快はどんな思い込みから来ているのだろうと自分の中を見つめるようにすれば、その度に不快が外れていきます。不快も生かして使えば役に立つものです。不快を気づきのチャンスにすることもできます。それは不快を気づきという快に変えることでしょうか。何事も楽しんでください。次は、mikken☆さんですね。【私にとっての快・不快とは自分の美意識(生きていく姿勢としての「美しさ」を含む)、価値観(自分の生涯に亘る目的に沿ったもの)、倫理観に合致するか否かですね。そして自分が認められているのか否か。例えば、前回のホームワーク。私なりに色々思うことはあってもその思考過程、自分の心の膿を羅列して文字にすることは自分自身の美意識に反していました。だから最終的に言葉に残したものは極シンプルなものに留まることになったわけですが、それを「手抜き」とか「真剣にトライしていない」というふうに受け取られたことはとても傷つきましたし「不快」でした。人の批評で傷つく自分自身の弱さにも「不快」を感じました。「不快」を避けたつもりが「不快」を被ってしまったわけです。kimiさんのコメントで「プロセスが重要」とあり、そこで初めてホームワークの意義がわかりかけた気がします。そうすると「無知」というのも快・不快に影響を及ぼすことになりますね。「無知を知らされる過程」は「不快」。この「ホームワーク」という「自分自身を見つめて見極める作業」というものも自分の中の未熟さ、他人に対しては勿論自分に対しての誠意のなさというものに直面する言ってみれば実に「不快」な作業。・・・でも、それを乗り越えて自分自身を丸ごと受け入れることによって手に入れるのが心を安らぎで満たされる「快」だと思うから、敢えて「不快」に向き合っている自分がいます。 また、私には知的障害を持つ息子とADHDの娘がいます。そうして社会の中で生きていくと、無神経な社会の仕組みや無理解で理不尽な人間の感情に不快を感じることは日常茶飯事です。この場合の「不快」は実情をわかってもらえない孤立感、疎外感、的外れな同情に対するうっとおしさ。こういう子供たちのありようを認めてもらえないことに対する悲しさ、辛さ、憤り。そして何より自分自身が無力であるという失望感も含まれます。それが人の心や感情のうちだけでの事ならまだ、こちらの感情をコントロールすることで受け流すこともできますが、相手が疎外的な行動を起こして、私たち家族の存在そのものを自分たちの目の前から消そうとまでするのならねその不快感は「怒り」に昂じるし、「怒り」の感情に翻弄される自分自身への嫌悪感はさらに「不快」を募らせます。さまざまに屈折する「不快」に比べたら「快」という感情はシンプルなもののような気がします。心が愛情で満たされている心地よさ。自分を見つめ自分を知り、丸ごとの自分を受け入れて認められる瞬間。人を見つめ人を知り、その人の在り様を丸ごと受け入れて認めることのできた瞬間。そうして自分を認めてもらい受けとめてもらう人、場所があることを知る瞬間。大地を感じること、風を感じること、光を感じること、陽射しを暖かいと感じること、涌き水を冷たいと感じること、野の花で季節を知ること、川の流れに心が洗われること・・・この星に生まれて生きている自分がこの星を愛し、自分はこの星に生きてあることを認められ愛されていることを信じられる瞬間。全ての「快」の感情は、愛情に満たされることが基になっているという気がします。あ、「ざまあみろ!」という感情がありましたね。思った瞬間は強い快感がありますが、直後にはそんなことを快感に思ってしまうことへの自己嫌悪で思いっきり「不快」になります。自他に限らず、期待した通りに物事が進んだ時の「快」。期待が外れた時の「不快」。結局のところ、自分自身の心の中に在る様々な「思い込み」が感情に作用し「快・不快」を決めているような気がします。】前回のホームワークの回答を「手抜き」とか「真剣にトライしていない」と受け取っている訳ではありません。もっと具体的にわかりやすく書いてほしかっただけです。今回の回答は、具体的でわかりやすいですね。自分が認められた時に、快を感じます。自分が認められないと、不快です。自分の思うようになった時に、快を感じます。自分の思うようにならないと、不快です。自分が肯定されると、快を感じます。自分が否定されると、不快です。赤ちゃんや幼児は、それがはっきりしています。それは人間に限らず、動物たちも同じです。ペットたちも、褒められると喜び、叱られるとションボリしています。自分の存在を肯定するエネルギーか、それとも否定するエネルギーかによって、出てくる反応は180度異なります。肯定されれば、喜び=快。否定されれば、悲しみ=不快。もちろん、それ以前に、肉体的、生理的な快・不快があります。赤ちゃんはオムツがおしっこで濡れると泣きます。それは不快だからです。自分が認められる・認められない以前の問題です。お腹が空くと泣き、満腹になると、やすらかに眠ります。それらは生理的な快・不快です。そういう肉体的な動物次元の快・不快が、まずベースにあります。その上に、心理的な快・不快が乗っかっています。お腹が空いた時に食べものにありつくと、満腹=快。美味しいものを食べると、満足=快。以前は美味しかったのに、今回は不味かったら、不満=不快。だんだん複雑になっていきます。みんなの前で褒められると、快。褒められすぎると、みんなから妬まれそうで、不快。単純ではありません。人生経験によって、微妙に快・不快の個人差が出てきます。しかも、それは一定せず、絶えず変化しています。愛に満ちた言葉でさえ、拗(す)ねて捻(ひね)くれている時は、不快に感じます。エホバの言葉を、イスラム教の人たちは不快に感じるでしょう。アラーの言葉は、ユダヤ教の人たちにとっては、これ以上の不快はないかもしれません。愛に満ちているものですら、自分がそれを認めない限り、快とはなりません。快・不快は、極めて主観的なものです。客観的な快・不快は、ごく一部の肉体的なものだけです。それさえ心理的なものが介入し、微妙に個人差が生じています。わかってもらえないと、不快。認めてもらえないと、不快。信じてもらえないと、不快。無視されると、不快。誤解されると、不快。不快の種はたくさんあります。お互いがお互いの視点で生きている限り、不快の種は尽きません。そういうことを理解するしかないでしょう。相手が悪いと、お互いに言い張っても埒(らち)があきません。お互いの快・不快を理解し、それらを見守るしかありません。自分を理解し、相手を理解する。両方を理解し、自分の偏った見方から距離を置く。自分だけの見方に固執すれば、不快の山となります。理解するしかありません。不快を超えていくものは、理解、そして、見守りです。愛だけでは超えられないかもしれません。深い理解がないと・・・「快・不快[3]」へ続く
2006.04.12
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今日の屋久島は、時々、陽が射したりする薄曇り。とても穏やかな感じ。以前は遠くで鳴いていたウグイスが、すぐ近くの森でも鳴き出した。(自宅から20mぐらい)春が本格化している。では、ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは、次のようなものだった。「快・不快とは何でしょう?あなたにとっての快とは何ですか。あなたにとっての不快とは何ですか。それはどこから出て来るのですか。快と不快を決めているものは何ですか。」最初は、えっちゃんですね。【まず香り・・においですね。香水等、濃厚な香りにすれ違いざま鼻先を襲われると不快となる。 けれど、濃厚な香水の香りに惹かれる人もいる。皮のにおいも苦手。革ジャンなんか着た人に近づきたくない。でも人のことは言えない。汗っかきの私の汗を拭いたタオルは、少し時間が経つと鼻がもげそう。最近の車のヘッドライト。目を射るようなビーム光に思わず目を閉じる。不快を超えて、危険。でも、車の持ち主にとっては視界が明るいらしいし、今まだ、先端的で優越快感もある。神戸にいた頃、近くの入り江に海洋体育館があって、気軽にヨットが楽しめた。のんびり風を感じながら帆走してると、海上バイクといった感じの乗り物が流行りだして、音をバリバリたてながら狭い入り江を駆け巡る。風も何もあったものではない。おまけに波を起こすので、操作の下手な私はヨットのコントロールが出来なくなる。おまけに入り江を囲むようにマンション群があるので、バリバリ音は迷惑だろう・・・で、私が一緒にヨットに乗っている友達にそう言うと彼らもこの入り江で遊ぶ権利がある・・・って言うのです。彼女は、オートバイでツーリングするのが趣味だから、エンジン音に寛大かも。彼らの快は、私の不快。快、不快もトラブルになりかねない。私にとっての快は、街中であっても風やほのかな香り、おいしい空気等の、自然と心地よく親しむ事・・・それを打ち破る音や、においや、空き缶やプラスティックなどのゴミは不快となる。森林ボランティアで、楽しくておしゃべりを弾ませる私。熊よけになるとか言って、面白がってくれる人もいれば、うるさいわ、大阪弁が耳障りだわ・・・・と思う人もいるようです。私にとっての快は、ある人には不快となる。これらは、単なる思い込みでは片付けられない生理的快、不快なので、思い込み、抱き参らせだと自分に言って聞かせても、事実でもあるわけで、好みの範囲を超えて、受け入れがたいこともある。生理的不快なことを、何処まで受け入れられるか?価値観や、思い込みの判断で、快、不快を感じる場合。それは、刷り込まれた判断。人種差別や、政治体制。そんな難しくなくても、私の大好きなヌカズケや、しょうゆの香りに欧米人は顔をしかめるとか。おいしい餃子を食べた後、しばらくは孤立状態となる。いわゆる嗜好も、刷り込まれた判断というわけです。それでいくと、バイクの騒音も好きになれる?う~~ん、全て後天的判断??生まれ持っての生理的なものもあると思うけど・・・ただ、大事な事は、自分と違うものの存在も認めるということ・・・不快なものの存在を否定しないということ・・・でも~~~静かに風を感じる自由はないのか・・・みんな同じ刷り込みをすればトラブルはなくなる?世界中が、くさやのにおいに快を感じるというような・・・・いつか、地球にやってくる宇宙人は鼻がもげるかもしれないけど。】快・不快には、個人差があります。ある人にとっての快は、別の人には不快になることもあります。欧米人には糠漬けのにおいは耐えられないのかもしれません。逆に、日本人にはチーズのにおいが耐えられない人もいます。生まれ育った環境によっても快・不快は異なります。同じ人にとっても、最初は不快だったものが、その後に快に変わることもあります。バイクの喜びを知る前は、その音が不快に思われたものが、自分がバイクに乗るようになったら、それが快感に変わったりします。最初は船酔いして不快に感じても、やがて船に乗る喜びがわかるようになれば快に変わります。当初は苦しくて不快に感じたものも、更に苦しい経験の後では、快に感じることさえあります。もちろん、その逆もあります。食べ過ぎれば、二度と食べたくなくなることもあります。快・不快は、一定したものではありません。個人にとっても、お互いにも、極めて相対的なものです。この相対的な快・不快を元に、好き・嫌いと判断されてはたまりません。まして、それをベースに行動されたのでは、周りは振り回されるばかりです。ところが、実は自分自身も気づかないうちに振り回されているのかもしれません。自分と違うものの存在を認める?不快なものの存在を否定しない?えっちゃんは、それができる?我慢の限度、不快の限度というのはないの?それもまた個人差があるでしょう。すべての快・不快は過去の経験から来ている?では、生理的な快・不快は?生理的と思い込んでいる快・不快もあったりして?簡単そうで、なかなか難しい快・不快です。次は、せきせきさんですね。【快、不快は自分で判断してから感じるもの。源は、環境と過去の経験に刷り込まれた体験記憶。私の快、不快は、その時、その状況を過去の体験と比較して、判断している。NY貧乏旅行。1つのベッドで、知らない男女ノミまで混ざって寝る。外は、パトカーと騒音と地下のにおい、『これがNYだあ』と思い、ワクワク。でも、これが普通の生活だとあり得ない。日常と、非日常のテンションの比較。中国では、隣のおばさんと、トイレすることが、中国の醍醐味みたいで、ワクワク。でも日本で、並んでトイレすることなんて考えられない。トイレは、個室という考えと、個室ではなくてもOKという考えの価値観枠に入った時の、自分の快不快の感じ方の違い。3年前まで、東京の電車の通る線路脇の揺れるアパートに住んでいたが、最初は電車の騒音と揺れに、ノイローゼになりそうだった。騒音が自分に危害を不快を与えていると認識したから。電車が夜中通ると、『お疲れ様、眠いだろうな~痴漢気をつけろよ~歯みがけよ~(ドリフ調)』と想像を楽しんだ。そこのアパート住人もそうだと知って驚いた。皆変?職場では、排泄ケアが日常。いい排泄ができると、『最高!』と皆で大喜び。でも、子供のケアは幸せお年寄りのケアは不快、職場ではいいけど、自宅では嫌だという方もいる。排泄物は、不快、汚いという認識、そして、自宅と職場、子供と、大人の両者のイメージの比較によって、自分の不快、快を決めている。選挙カー。痛みのピークで睡眠不足だと、たまらん!でも、政治に興味あれば(ある人いるのかな?)、聞くだろう。自分の息子の選挙演説だったら、最大音で流してもらいたいかも。うぐいす嬢の声が人それぞれおもしろい、と聞いている人がいて、最近驚いた。深刻度も捉われ度により人それぞれ。その時の状況を判断しコロコロ変わる。自分にコンプレックスや、価値観、美意識へのこだわり、トラウマ、安定への望み、そこに、ひっかかったものは、快、不快と判断している気がする。快があっての不快、不快あっての快。でも、不快を感じたら、不快ではないように頑張るのもしんどい。快、不快、どちらが良いのでも、悪いのでもないから。不快、快を超えたところから、それを見守る。不快と感じている自分を、柔らかく包む。不快なものまでも、包み込む。そうすると、無意識に不快と思っていることの中に、様々な思い込みが入っていることが、自分としては沢山あった。不快と感じることは、人間として当たり前だと思う。それで、生きてきた人生なのだし。でも、それを超えたもの、過去や未来のないまっさら意識で、不快と感じる自分を包むことは(なんとか)できる。そうすると、なんだか、私の周りに、不快に感じるものが少なくなって、実際なくなる感じ。不快がよいものに変わる感じ。そして、私にとっては、これが最高の『快』、不快、快の相対界を超えた、幸せ、うっとり、リラックスになる。たぶん、その快、不快を超えた見守りは、うっとりビーム、感謝が出ると思われる。人のありのままの姿に近いからかもしれない。】快・不快は相対的です。状況や環境によって、コロコロ変わります。まるで心のように・・・それは過去の自分の経験から判断しているだけでしょうか。過去の記憶があって、それと比較するから、快となり不快となるのでしょうか。それもまた刻々に変わっているのかもしれません。そういう相対的な快・不快を超えた次元から、それらを見守ると・・・これまでは快や不快に思えたものが違ってくるかもしれません。快・不快という感じ方そのものが変わってくるかもしれません。快・不快という価値判断がなくなるのでしょうか。もっとニュートラルになる感じでしょうか。自分の過去=記憶=自我ベースで対応すれば、自分の快・不快が生まれます。それは個人によって異なります。お互いが個人的な快・不快で生きていれば、そのこと自体が、またお互いの快・不快を引き起こします。その次元にいる限り、違和感はなくならないでしょう。もっとも、違和感があるということは、共感もあるということになります。ほとんどは違和感。ごく希に共感。だからこそ、それが快感?という世界でしょうか。自我の世界にいる限り、快・不快の世界です。自我の次元を超えない限り、快・不快からは自由になれないでしょう。快・不快に振り回されて生きるのも人生です。それを超えて生きるのも人生。それぞれの人生です。「快・不快[2]」へ続く
2006.04.12
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「排除[1]」の続き農作物を食い荒らす虫たちを害虫と認定して農薬で殺しまくる。それが近代西欧の文化です。東京で消費者センターで働いていた頃、有機農業講座というものを企画し、近隣の農家を回ったことがあります。ある農家では、畑の一部を収穫しないで鳥や虫たちのために残してありました。鳥や虫たちを害のあるものと認定しないで、共生しようとしていたのです。鳥や虫たちを殺す農薬は、結局、人間をも殺してしまいます。排除の論理は、最終的には排除しようとした側をも排除してしまうのです。排除はしない。極力、住み分けをするといった感じでしょうか。ところが・・・住み分けもしないという生き方もあるのです。それは自然農法という考え方です。雑草といわれるものと野菜を一緒に育てます。そうすると、見栄えの良いものはできませんが、生命力の強いものができます。雑草にも負けない強い生命力を持った野菜になるのです。まるで先祖返りするかのように原種に近づいていきます。雑草たちによって切磋琢磨されるのです。現代の化学農法では、虫食いの野菜はできません。なぜなら、虫を殺してしまうからです。また、虫も近寄らないほど不味いということもあるかもしれません。有機農法では虫食いだらけの野菜となります。虫も喜んで食べるので、一見、自然なように思えるのですが・・・自然農法の野菜は虫が食べません。有機農法でも大量の有機肥料を入れると、見栄えが良くなり味も美味しくなるのですが、栄養過多になって虫に食われてしまうのです。一方、自然農法は自然の肥料だけで雑草と一緒に育ちます。そのため虫にも負けない強い生命力を持つようになるのです。但し、自然農法はどこででもできる訳ではありません。それこそ自然なので、季節や気候に左右されます。北海道や東北で米を作ることは不可能です。適地適物となります。季節外れの果物や野菜などはあり得ません。自然農法は、毒をも血肉に変える不食の山田鷹夫さんのような生命力でしょうか。その次元では、草取りすら必要ありません。有機農業でも、草取りはします。栄養分を雑草に取られないために、草取りをするのです。それは排除の論理と言えないこともありません。農薬を使って、すべてを排除しようとする化学農法。できるだけ共生しようと努め、最低限の排除に努める有機農法。一切の排除を拒否し、自然に任せる自然農法。農薬や化学肥料を使う現代農法は、現代医学と似ています。現代医学は、抗ガン剤や放射線などを投与し、体内の有害細菌や細胞を殺そうとします。完全な排除の論理です。しかし、化学的な薬を投与し続けると、それによって体内の有益な細菌まで死滅してしまいます。そうなると、生命力そのものが弱ってきます。そのうえ、異物である化学物質は徐々に体内に蓄積されます。それによって、更に生命力が落ちていきます。生命力が落ちれば解毒できなくなり、更に体内に蓄積されるという悪循環に陥ります。最終的には、排除することによって、自分も排除されるのです。有機農法は、生体反応を大切にする東洋医学に似ているでしょうか。東洋医学は、生体反応を促進するような薬草を使います。体内に入った毒を体が自ら体外に排泄できるように、サポートするのです。排除の論理に違いはありませんが、生命力を強めるという自然のシステムに沿っています。体内に入った異物を排除するのは、生命を維持するための自然のシステムです。それは生牡蠣を食べて、食中毒になり、毒を体外に排泄するのと同じ原理です。ところが、自然農法は、その毒をも血肉に変えてしまう不食の世界です。次元が違います。そこでは一切の排除がありません。排除しなくても生命維持に支障がないのです。排除しなくても同化できるだけの生命力があるのです。肉食動物が草食動物に変身するみたいな次元でしょうか。生命力によって毒をいのちに替えてしまうという世界です。完全玄米菜食、いわゆる正食を厳密に実行すると、蚊にも刺されなくなると言われています。蚊は体内の毒のある血を吸っています。完全に健康な身体になれば、蚊も近寄ってこないのです。濁った血がある時に、蚊は近寄って来ます。嫌や嫌いというのも排除の論理です。自分の意に添わないものは排除して、自分さえよければいいという世界です。農業も医療も人の意識の反映です。すべての現象は自分の意識の反映でしかありません。東洋では古来から自然と共生するように生きてきました。ところが、近代西欧文明が浸透するにつれて、排除の論理がまかり通るようになりました。今、再び大和心が復活しようとしています。すべてを抱き参らせ、排除しない心です。内戦や戦争があるところでは、地震や干魃(かんばつ)、イナゴの大発生などの天変地異が頻発します。日本でも戦国時代は、天変地異が続発したのです。自然現象も人の意識と無関係ではありません。邪魔なものは排除するという発想自体が、自然災害を引き起こすのです。人の意識が変われば、一切の排除なく生きることが可能となります。一匹の虫も殺さずに済むようになる可能性があります。光でできた体であれば体重がないので、虫を踏んでも無視できるレベルでしょう。ワープできるようになれば、歩く必要さえなくなります。そうなれば、虫を踏む心配もありません。意識に応じた現実が現れます。それだけのことです。意識が変われば世界も変わります。今の条件づけられた頭で考え過ぎても、あまり得るものはありません。もう少しシンプルに生きましょう。今、自分ができることと、できないこと。頭の中をもう少し整理しましょう。自分の中の混乱と錯綜を見つめてください。物事を複雑にしているのは、思考です。考え過ぎです。過度の思考は、思考の空回りを呼び起こします。必要な時に、必要なだけ考えればいいのです。しっかり見極めて、シンプルに生きましょう。思考に使われずに、思考を使いこなしましょう。『排除して 自分一人の 幸せを 願うことから 混乱起きる』『排除した つもりがやがて 排除した 人まで排除 することになる』『できるだけ 殺さぬように 心がけ 生きていくのが いのちの自然』『できるなら 排除しないで 万物を 抱き参らせ 共に生きたい』これが465日目の心境です。
2006.04.11
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今日の屋久島は、二日間続いた嵐が止んで、静かになっている。一昨夜から今朝まで、ずっと台風並みの風雨が吹き荒れていた。今日の明け方、突然、それが止んだ。その時、ものすごく静かな時間があった。まるで真空状態のような不思議な感覚だった。屋久島が嵐の頃、日記のコメント欄でも嵐が吹き荒れていた。それは次のコメントから始まった。そして、えっちゃんのコメントで落ち着いた。「もしかして、皆さんは服を着ることに、罪の意識はないの?むむ?怒られると、罵倒されると傷つくというパターンはそれでもだいぶ超えられたのに、というか、これが根本?でも、まだあるような。。。気が。私、思い込みキング?いつも審判にあっているようで、許可が必要であり、理由づけが必要だった。懺悔の人生。虫を踏んだ時、もっと殺したい気分と、虫が土にかえるまでついていなければいけない気分と、自分を殺したい気分と見失う気分。どこまでなら許されるの?自分の歩く道なら?OK?車の歩く道として、道路を覆って虫を殺すけど?戦争は国の歩く道として、国の人を殺すけど?虫はどうして、死ぬようにできているの?ずっと疑問だった。人間はどうして死ぬの?どういう理由をつけて、死んでいくの?教えて?子供の疑問です。。アホです。私は何をするのにも、理由づけを確認しないと生活できなかった。泣いても笑ってもどちらでも、いけないと思っていた。服を着ても着なくても、食べても食べなくてもいけない。何をしても、『いけない』という自分で作った強行ルール。否定のルール。それは人から攻撃されたら、傷つくと同じパターン。そのルールを出たら、傷つけられると信じ込んでいた。(たぶん)傷つけられたくないだけ?虫を踏む現象に罪悪感を持つということは、私、殺す側でひどい人、虫、殺される側でかわいそう、相対の世界じゃないか。人殺しを責めるのと、ルールを守らない人を責めるのと一緒じゃないか。自分は人のこと思っていると疑わず、相手にこうしたらと物申すことと一緒じゃないか。(私これ、よくやります)その人が現象に向き合う姿勢を奪っているだけ。そんなこと、今まで延々世の中やってきたことじゃないか。自分のことしか考えていない。虫のこと考えていない。私は、殺す。理由つけをして。鳥インフルエンザにかかったら、人間に危ないから。蚊が血を吸うから。病気を媒介するから。食べるために、飼っているから。人を何人も殺したから。なんで?自己を守りたいから。正当化する。理由づけをはずしたら、もしかして殺すことなんてうまれるのだろうか?私狂っていますかね。やばかったら、軌道修正を。虫と向き合ってみるしか。。。殺す、殺さないを超えて。あぁああ~嫌だなあ。セックスがだめなら、子供がいないじゃないか。?ん、もしかしてセックスで子供ができるという思い込み?・・・???う、嘘だよね。でも、もしかして、他の方達にも同じようなものがある?服を着る捉われから、露出狂になったり、着飾ることに依存したり、服の会社を立ち上げたり。食事だって、極端に食べたり、食べなかったり、(無食は、その世界を愛で、超えた自由??)グルメに走ったり、捉われている人がいるかもしれない。自殺する方だって、『理由づけ』をして死ぬことを選ぶものね?(自殺者を批判している訳ではありません。私も何回もはまりそうになったし、身近にもいます)自殺者を見る側も、酷だからしょうがない、とか私、かわいそうとおもったり、こんな理由でと、私の方が大変だよとか、人事だったりする。それは、自分の過去の様々な思考パターンから出ているだけ?あの、もしかして死も理由付けして死んでませんか?病気だから、事故だから、脳死だから、心停止だから、血液がなくなったから、5日寝てないから、寿命だから、それはkimiさんの言う、ナチュラルではないような?私変?。極力普通の会話しているつもりなのですが、ど、どうしよう。破門されない?でも、山田さんも変といえば変のような?また無粋な言葉を・・・。でも毒を力にするって、すごいような、もしかしてただの思い込みのような。」服を着ることに罪の意識?罪悪感を感じながら服を着ている人がいる?アダムとイブの感じ?自分を意識したということ?つまり、自我の始まり=原罪?体を洋服で隠すことが自分の恥部や秘密を隠しているような感じ?審判、許可、理由づけ・・・そこから罪悪感が生まれてくるのでしょうか。枠にはめられた中で暮らしてきたということでしょうか。管理されているうちに、気づいたら自己管理していた?無意識のうちに刷り込まれたり、思い込まされたり・・・思い込みワールドから罪悪感は生まれます。ライオンがシマウマを襲う時、罪悪感を感じているでしょうか。ヘビが卵を呑み込む時、罪悪感を感じているとは思えません。彼等は何も考えていません。本能のままに生きているだけです。それで何も問題はありません。それが自然のシステムです。思考がなければ、罪悪感もありません。草食動物は食べられてもいいように、強い繁殖力を与えられています。逆に、肉食動物は弱い繁殖力しか与えられていません。それでバランスがとれているのです。草食動物だけでは草木を食べ尽くし、自滅してしまいます。ある程度、肉食動物に食べられた方が種の保存にはいいのです。しかし、肉食動物も必要以上の殺戮(さつりく)はしません。満腹であれば、近くでシマウマが遊んでいても襲うようなことはありません。それが今の自然のシステムです。でも、それが永遠に続く訳ではありません。人類の意識が変わる時、自然のシステムも変わるでしょう。肉食動物が姿を消します。草食動物だけになるでしょう。アセンションのずっと後で・・・それから、またまたずーっと先になると、草木を食べる動物さえいなくなるでしょう。動物たちも光で生きるようになるでしょう。何かを犠牲にして自分を維持するというシステムがなくなるでしょう。これは相当先の話だと思いますが・・・今は何でもありの時代です。人殺しも強姦も、戦争も原爆もあります。農薬があり化学肥料があり、森林破壊があり大気汚染があります。肉食動物は草食動物を食べています。人間も動植物を食べています。そういうシステムの時代です。太古、人は死ななかった時代もあるようです。寿命が何千年、何万年という時代もありました。死ぬ時は、自分からこの世を去るという時代もあったようです。そういう場合は、自殺とは言いません。この世を十分に体験して、別の世界へ移行するだけです。物質世界に囚われるようになって、徐々に寿命が短くなってきました。そして、輪廻転生するようになったのです。現代の自殺は、この世の苦しみからの逃避がほとんどです。だから、死ぬ理由がいるのです。死を正当化する必要があるのですね。最後の最後まで自我にこだわっているのです。こだわりがなければ、自殺する必要もありません。虫にしても、花にしても、殺さないに越したことはないでしょう。虫を潰しても、花を切っても、切ない気分になります。生命を絶つというのは、避けられるものなら避けたいものです。でも、そればかり気にしていたら、道も歩けません。苔を踏むことを気にしていたら、屋久島ではガイドは勤まりません。もちろん、極力踏まないようにはしますし、お客さんにもそのようにお願いします。それでも、完全に踏まないことは不可能です。いくらでも道の上に生えているのですから。屋久島は高温多湿のため、虫もたくさん発生します。ゴキブリや蚊も部屋の中へ入ってきます。こちらは住み分けしたいのですが、あちらはそうでもないようです。アリもたくさん入ってきます。アリがた迷惑?同居はしたくないので、申し訳ないのですが外に出てもらうことになります。できるだけ殺さないで窓の外に出すようにしていますが、いつもそうできる訳ではありません。捕獲されるのを拒否して逃げまくれば、救助拒否と見なされて殺されることになります。相思相愛とは、なかなかいきません。もっとも、東京にいた時は、自宅でゴキブリを見ることはほとんどありませんでした。部屋を整理整頓し、清潔にしておくと、そんなにゴキブリはやって来ません。東京にいた35年間を通して、自宅でゴキブリを見るのは、年に数匹程度でした。(ネズミは皆無でした)ゴキブリは、不潔で波動の低いところを好みます。自宅を整理整頓し、生ゴミや食べもののカスをできるだけ少なくし、清潔で高波動にキープできれば、かなり減らすことができるでしょう。ゴキブリも蚊も自分の波動と無関係ではないのです。部屋が整理され、風通しが良く、いつも新鮮な気が流れている家は、風水的にも幸運の家となります。そういうところへはゴキブリも寄りつきません。自分の気と家の気を良くすることは、最高のゴキブリ対策です。「排除[2]」に続く
2006.04.11
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今日の屋久島は、非常に風が強い。ほとんど台風並み。昨夜から一晩中、家が揺れていた。今年は、特に風が強いように思う。これまで溜まっていたものを一掃しようとしているのだろうか。一昨年は、長い期間に渡って何度も台風がやって来た。自然がだいぶ壊れたけれども、かなりきれいになった感じもした。今年も、更に浄化が続いているということだろうか。日本は世界の雛形(ひながた)。屋久島は日本の先駆け。屋久島がどんどん浄化され、やがて日本も浄化される。そして、世界も・・・昨日の夕方、九州本土に入る直前の海上で海難事故が発生した。屋久島発の高速船トッピーがクジラと衝突したらしい。重軽傷者が80人以上も出た様子。高速船は時速80キロで走る。一般道路の車よりも速い。そのスピードでクジラとぶつかると、大きな衝撃がある。クジラの方は大丈夫だろうか。クジラも被害者だ。地上で野生動物が車に轢かれるのと似たようなものだろうか。最近、クジラと高速船がぶつかる事故が、韓国と福岡を結ぶ航路でも続発している。「潮を吹く時は、よく上を見て、周りを確認してから海面に出るようにしましょう!」春の交通安全週間が今日からスタートしたけれども、クジラにも周知徹底してほしいものだ。体を光化(ひかりか)したいと、最近強く思うようになってきた。56年間生きてきて、体がだいぶくたびれてきている。同年代の人に比べれば、遙かに元気な方だろう。屋久島に住み、自然のガイドをしているのだから、それなりの体力もある。心は今でも少年のような気分。それでも、若い頃に比べれば、明らかにいろんなところに支障が出ている。最も意識されるのが、右膝。これは20代の後半に写真を撮りに行った時に痛めたもの。登りはケーブルカーで行った。ところが、夕陽を撮っている間に終電は発車してしまった。やむなく暗くなった線路を長時間歩いて下りたら、右膝を痛めてしまった。その右膝が、ハードな山登りをすると痛み出す。サポーターを巻けば、仕事に支障はない。でも、山から下りて車で温泉に行く時に、また右足でアクセルを踏む。温泉から宿、宿から自宅でもアクセルを踏む必要がある。それが応える。東京で車に乗っていた時から、右膝の違和感はあった。今に始まったことではないが、だんだんひどくなっている。このままではガイドができなくなる?なんとかしなくては・・・歯の方も、だいぶガタがきている。みんな自分の歯だけれども、あちこち修理の後がある。これもなんとかしないと・・・次は、髪の毛。これがだいぶ少なくなってきている。50代になって、急に少なくなったように思う。屋久島へ来てからは、増えたり減ったり。なんとか現状維持という感じだけれども、今度は白髪が出てきた。白髪は、まだ自分の中では公認されていない。出てきたら抜かれる運命。しかし、出て来る頻度が増え、このまま抜いていたら・・・ただでさえ少ない貴重な髪の毛が、風前の灯火?髪の毛が薄いのは、遺伝。父親も薄かった。禿げることはないのだが、何と言っても絶対数が足りない。なんとかしないと・・・それから、目。これは酷使している。まだ裸眼で運転できるけれども、毎日、相当の時間をパソコンとにらめっこしている。その後に衛星放送の映画を見る。目にはかなりの負担となる。日々、目のケアーはしているけれども、それでも慢性的に疲れている状態。これもなんとかしないと・・・最後は、腎臓。これも遺伝。母親は急性腎不全で亡くなった。享年、29歳。美人薄命滑り込みセーフ!?おかげで、こちらは生後36日目の乳飲み子のまま取り残されてしまった。どちらが薄幸?日常生活にはまったく問題はない。正確に言うと、セックスをしない限り問題はない。セックスを知るまでは腎臓を意識することさえなかった。やりすぎると、腎臓が痛くなる。腎虚?つまり、精力絶倫ではないということ。まあ、よくて人並み?もっとも、屋久島では腎虚になる心配もないのだが・・・でも、たまに腎臓が硬くなっているのを感じる。普通の人より弱いのは間違いない。これから子供をつくるつもりもないけれども、これもなんとかしないと・・・肉体的に問題があるのは、このくらいだろうか。日常生活には何の支障もない。医者には40年近くかかっていない。屋久島では風邪も引かない。もちろん、病気もしない。ついでに、健康診断もしない。(医者に行く気がまったくないから)自分の健康は自分で守る。その姿勢は若い頃から一貫している。それでも、右膝、歯、髪の毛、目、そして、腎臓。それらを、なんとかしないと・・・そこで、これらの問題を一気に解決する切り札が、体の光化ということになる。なぜ光化すると問題が解決するのか・・・光化するということは、肉体の波動が速くなるということ。波動が速くなれば、意識が肉体に現象化するスピードが速くなる。つまり、自分の思うとおりの肉体に変身できるという訳。それを狙って肉体の光化をめざしているのだが・・・なかなか一気には光化できない。時間がかかっている。光化できれば、念願のワープもできるようになる。行きたいところへ瞬時に行ける。本気でそうしたいと思っている。ヒマラヤやアフリカやカナダや南米へ行ってみたい。それもパスポートなしの日帰りで。かつ、無料で・・・それは絵空事ではなく、実現可能だと思っている。これから地球の波動は急速に上がっていく。そうなれば、肉体の波動も自動的に上がっていく。すべての波動が上がっていく。それに上乗せすればいいだけ。相乗効果で楽に光化できるようになる。猶予期間は、あと6年。この間に肉体の波動を急速に上げていく。光化していく。今も、ものすごい風が吹き荒れている。風よ吹け!吹いて、吹いて、吹きまくれ!積もり積もった塵や垢を吹き飛ばせ!心身に溜まりに溜まったものを一気に解放しろ!屋久島でも指折りの風の強いところに住んでいるのも、偶然ではないだろう。重たいものを吹き飛ばして、光化していく一環だろうか。手放して、手放して、どんどん軽くなる。軽くなれば、波動は更に速くなる。波動が速くなれば、自分の望むままに現実を創造できる。波動が速くなればなるほど、すべてが望むようにクリエイトされていく。カルマもある。過去世から持ち越してきたものが現れることもある。しかし、現れる時は、消える時。出てきたものに囚われないで、即座に手放す。手放して、手放して、どんどん軽くなる。現象に囚われなければ、軽くなるだけ。所有しない。キープしようとしない。その時、その時を楽しむ。何もない時が、一番軽い。何も持っていない時が、一番自由。人は持っているものに縛られる。所有することは、所有されること。所有するものが多ければ多いほど、波動は遅くなる。波動が遅くなれば、現実化するスピードも遅くなる。心身を光化し、望む現実をクリエイトする。クリエイトして楽しむだけ。所有しない。どんどん新しいものをクリエイトして楽しむ。それがアセンション後の生き方。これからの方向。『吹き荒れる 嵐のような 突風は 溜まっていたもの 吹き払うため』『風よ吹け 嵐よ来たれ 心身に 溜まったものを みな吹き飛ばせ』『何もかも 所有しないで 手放して 速い波動で 現実創造』『心身を 光と化して 自(みずか)らの 望む現実 クリエイトする』これが464日目の心境です。
2006.04.10
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「嫌と嫌い[2]」の続き最後は、小犬のロンさんですね。『わたしは酢牡蠣が嫌いです。その要因はかなりはっきり判明しています。過去に2度、生牡蠣に食中りして、胃の中をすべて吐いた苦い体験があるからです。それは、成人してからのことですから、はっきり意識していることです。2度目以来、生牡蠣だけでなく牡蠣料理に遭遇したら、丁寧にお断りしています。食中りのさらに過去にも、何かあったのかもしれません。しかし今はここまで。身体の反応は正直です。こんな「嫌い」は他愛の無いものです。それほど不自由はしていません。でも、この先酢牡蠣に遭遇したら、冒険心で挑戦してみようかと思っています。どうして生牡蠣にあたってしまうかが、わかるかもしれませんから。先のことは分かりませんが、そのくらいの冗長度は持ちあわせています。以上はほんの一例ですが、やはり過去の体験が今に食い込んできているように思います。 それより、いまだに不明な「嫌い・嫌」をあやふやなままに持ち合わせています。それは、かなり厄介です。食の嫌いではなく、心の嫌いだからです。心は身体より厄介です。特に、無意識に「嫌い・嫌」がやってくる時です。わたしの「嫌い・嫌」。わたしは「争いや」「ルール違反」に「嫌」を感じます。「争い」世界各地の戦争はもちろんのこと、争論や、ちょっとした言い争い、ちわ喧嘩、に至るまで。わたしは恐妻家です。自分本位なことをしては、いつも妻に叱られます。「自分勝手で、思いやりが足りないんじゃない!?」と。黙り込むわたし。知らず知らす、妻の心を逆なでしないようにと、ビクビクしている自分がいたりします。 そんな自分も「大嫌い」です。その背景には、やはり親との関係があるように思います。叱られるのが大嫌いな子供でした。縛られるのが大嫌いな子供でした。いまだにそうです。そして、それに対抗して、面と向かって「争いあう」事が嫌いなのです。これでは何も、埒が開きません。冷たい冷戦状態が続くだけです。源は「向き合うこと」への恐怖でしょうか。やっぱり仲良く楽しく居たいもの。でもそれが、うわべだけでは、偽の平和です。「向き合うこと」で、「言い争いも」「喧嘩」もあるのは当たり前です。それでこその、寄り添いあい、和解、融合が得られるのでしょう。わかっているけど実際は、なかなかそうはいきません。しかし、最近、少し変わって来たのも事実です。「争い」が「向かい合い」を生み、お互いの「寄り添い合い」を生むことも幾つか体験しました。そう考えると、「争い」も、満更捨てたものじゃないと思います。「嫌い」も「嫌」も必要なのだと思えてきます。必要だからこそ、湧き上がってきた、痛み・不快・感情なのだと思えてきます。そうすると、「嫌い」にも「嫌」にも、感謝したい気持ちになります。「ルール違反」これは、わたしと社会との軋轢です。「自由」が好きで「束縛」を嫌うわたしは、しょっちゅう社会や組織とギクシャクした関係を演じてきました。たとえば企業人時代、「遅刻」「無断欠勤」「無断残業」Etc.と。そして、いい様のない「息苦しさ」を心のどこかで感じていました。企業を卒業してからも、社会一般に対して、どうも不具合を感じるのです。ちょっと気を抜くと、社会の「ルール」を踏み外してしまう自分に気付きます。すると襲ってくるのは「罪悪感」。それの源には、幼い頃の体験があるのだと思います。どうにも、わたしには、社会の中で組織の中で生きていくのは無理なのかと、本気で悩んだこともあります。しかし、一方で、達観した楽天さをも持ち合わせていられたので、なんとか生き延びてこられたように感じます。それもこの世の試練だと。やがてわたしも塵になるのだと。そういったことで、「ルール違反」にも最近は、だいぶん素直に「向き合える」ようになりました。「あっ、そうですか、こりゃまた失礼しました」と。正直に謝れる時には、不思議に「罪悪感」も消えています。その時、同時に社会と自分を許したのでしょう。以上、総括して、わたしなりの答えはこうです。「嫌い」や「嫌」は、過去の失敗体験からの過敏反応。親との関係や、社会との関係、に素を置くものの、その奥には、記憶にない、生れたばかりのこの地球世界との関係にも素を置くものと思います。冗長となりました。テーマから外れた横道・反れ道・脇道は、お許しください。「嫌い」「嫌」それは決して不必要なものではなく、今に飛来した過去からのメッセージと思います。 「こんどは、上手く抜けられるかな?」と挑戦状をたたきつけられたようなもの。過去からの、実は、愛に満ちたメッセージなのだと思い至ります。天から与えられた僥倖にも思えてくるのです。再び行き直す、巻き返しのチャンスに思えてくるのです。わたしたちは、何度失敗してしまっても、また何度でも行き直す機会に恵まれています。 生のある限りは、刻々のこの今に、過去も未来も両含め、しっかりと課題を生きて往きたいです。』生牡蠣(なまがき)に関しては、「不食」の著者の山田鷹夫さんが書いておられましたね。 わざわざ生牡蠣を腐らせてから食べてみたと。でも、彼は食中毒を起こさなかったのですね。すばらしき消化力!人間の体の可能性!すごいですよね。食中毒を起こすこと自体は、自分の体を守るための生体反応です。毒に対して拒絶反応を起こすのですね。それは自然で必要なことです。そうでなければ、毒が体内に回って生命の危険に見舞われるからです。それは正当防衛みたいな体の反応ですね。ところが、山田さんの体は、それを超えている。毒をも自分の血肉に変えてしまう。驚異的な肉体です。それはぴあのさんのところでも書いたのですが、心理的なことについても言えるのかもしれませんね。こちらの存在を否定するような攻撃的な言動や波動(=毒)に対して、私達は自然に身構えます。それは動物たちもそうです。ほぼ本能的にそうします。それは食中毒レベルです。でも、その攻撃的な言動や波動に対して、抱き参らせて見守ることは、食中毒レベルを超えています。毒でさえ血肉に変えるレベルです。それが大調和=大和心です。嫌や嫌いも、それを生かせば、過去からの愛に満ちたメッセージになるのかもしれません。恐れないで向き合うことができれば、お互いの心のしこりを解くことができます。嫌や嫌いという違和感こそが、お互いの溶け合いを生むきっかけになるのです。何でもそうですが、生かすか殺すかですね。生かして使うか、殺してしまうか。それによって人生がまるで違ってきます。嫌も嫌いも、お互いの違和感を知るための信号になります。その時に恐れないで向き合うことができれば、心を開いて話し合うことができれば、事態は一変するでしょう。自分を守ろうとして小さく縮こまるか、逃げないで立ち向かうか。ネガティブバージョンで生きるか、ポジティブバージョンで生きるか。生かすか殺すか。生き方が問われるのですね。小犬のロンさんは、長い間逃げていたのですね。恐怖から、向き合うことを避けてきた。でも、最近変わった。きちんと向き合うようになった。自分自身をごまかさないで、ありのままに向き合う。相手のありのままにも向き合う。お互いの違い、違和感、嫌や嫌いの感情、争いにも正面から向き合う。その時に何かが変わるのですね。お互いが逃げないで正面から向き合う時・・・すべてが溶け合っていきます。大調和=大和が実現していくのです。すべてを抱き参らせ、見守りながら、ありのままと向き合う。逃げない、避けない、目を逸らさない。事実と共に居切る。それがこれからの生き方でしょう。『手抜きして 楽をしようと 思っても 抜くに抜けない ホームワーク』『完璧な あるべき姿 描くから 罪悪感は 消えることなし』『存在を 否定されては 嫌になる そういう自分も やさしく見守る』『存在を 否定されても 否定せず 抱き参らせ いのち見守る』『負けないで 否定しないで そのままを 抱き参らせ じっと見守る』『逃げないで 拒絶しないで 避けないで 嫌や嫌いと ちゃんと向き合う』『好き嫌い みんな生かして 使う時 嫌い転じて ひとつに溶け合う』これが463日目の心境です。【ホームワーク】快・不快とは何でしょう?あなたにとっての快とは何ですか。あなたにとっての不快とは何ですか。それはどこから出て来るのですか。快と不快を決めているものは何ですか。これが今回のテーマです。締切は、4月12日午前9時9分9秒まで。(せきせきさんのたっての願いにより、秒まで書き込みました)誰でも参加できます。記入はBBS欄に。自分自身を見つめて、自分自身の言葉で具体的に書き込んでください。
2006.04.09
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「嫌と嫌い[1]」の続き次は、ぴあのさんですね。「私に、嫌(いや) 嫌いという感情が沸いてくるのは、やはり、自分の価値観、美意識(これも価値観ですが)にそぐわない現象が周りで起こったり 見たり、感じたりした時でしょうか。それと、一番嫌だ と感じるのは 愛が感じられない波動。現象でも、物でも、人でも、攻撃的なものや 罵倒するようなもの、低俗なもの。・・・実は左のような言葉、打っていても気分が悪くなってきて重苦しくなってきて、エネルギーが滞ってしまいそうになります。テレビも、そのような内容を扱ったものが非常に多くて、うちのリビングでは美しいものだけを厳選して見るのですが、別の部屋に入ると主人が見ている番組の波動に 息が詰まりそうになって苦しくなります。新聞も、開けば早速目に飛び込んでくるのは粗い波動のニュースばかり・・・いつの頃からか、清らかなエネルギーが感じられないものを受け付けられなくなってしまい、本当に気分が悪くなるので 実は 新聞を取るのもやめました。宗教団体の方が持ってきてくださる冊子なども、内容はどうであれ、愛が込められたもの、清らかな言葉で書かれたものは読ませていただきますが、攻撃的な言葉や 美しくない言葉で書かれたものは 見た瞬間頭が重くなって こちらも苦しくなってしまうので そのまますぐにゴミ箱へ・・・(配達してくださった方、また、ぜひ読んで と紹介してくださった方には申し訳ないのですが)人と話していても・・・先日 コメント欄でも書かせていただきましたが、私の人生、周りはいい人ばかりで、どんなシチュエーションの場でも、お互いが穏やかに調和できるような関係で接することができてきました。ですので、攻撃的な波動で接してくる方がたまにいらっしゃると、経験値不足により? すぐにエネルギーダウン。クリアなときは なんなく抱き参らせることができますが、そうでないときは、一気に自分の身体が重~くなって 悪?想念の世界に引きずり込まれそうになる感じ・・・すみません、昨日から自分を見つめいて、『嫌』 なことが多いことに気づきました。 でも、不思議と 『嫌い』 という感情はしっくりこないのです。『嫌い』 という感情は私の場合全くなくて、『嫌』 なのです。で、もっとクリアな回答を書きたかったのですが、上に書いたようなことに結構縛られている毎日が不自由で、『嫌』 で、 とても日々の私を制限しているので kimiさんにアドバイスいただきたい と思い、書かせていただきました。(私的なことを、申し訳ございません・・・)これらを見つめていて意識化できたのは、これらの感情は、「私の自由を奪おうとする」「これは私の自我の鎧(?)」「自分の身の安全を守ろうとしている」「保守」「枠」 「閉鎖的」ですが・・・そこから先が 「自分の源、ベース」 とは・・・と文章化できず、悪戦苦闘しています。『嫌』 というのは、結局自分を都合よく守りたいために起きてくる感情でしょうか・・・すべてを受け入れるハートがない というか、固定されたもの というか・・・囚われ。自分中心。(ああ~~(>_<) 支離滅裂な回答になってしまいましたあ~・・・)(頭が回らなくて・・・ すみません!)(ぎりぎりまで見つめて これでした・・・)(とっても後悔しながら提出)」確かに攻撃的なものや罵倒するようなものは、気分が悪くなりますね。その場から離れたくなります。存在を否定するような波動は、息苦しくなるのですね。でも、この世はそのような波動に満ちています。自己の利益最優先という経済社会です。自分の会社のためなら競争相手の会社を潰したり、乗っ取ったりしようとします。戦国時代とたいして変わりません。弱肉強食です。でも、動物の世界では、それがナチュラル。草食動物は肉食動物に食べられます。しかも、弱いものから順に食べられるのですね。それが結果的に種の保存に役立つのですが、残酷と言えば残酷です。でも、それがありのままの現実。良いも悪いもありません。好きや嫌いを超えた事実ですね。事実に目をつぶる?事実から逃げる?もちろん、そんなことをしても逃げ切れるものではありません。別に自分から近づく必要もありませんが、逃げる必要もありません。逃げれば、追いかけて来るだけです。逃げることや避けること自体が、既に意識しているということです。自分の中にこだわりがあるということに他なりません。ぴあのさんは周りの波動と同調しやすいのかもしれませんね。感じやすいというか、受け入れやすいというか。拒否することはないけれども、呑み込まれてはいけないということですね。拒否もしない、呑み込まれもしない、静かに見守る。ニュートラルなところにいられるかどうかですね。周りに影響されて自分を見失う?ノー!そういう自分も含めて、しっかり見守ってください。拒否しないで見守ってください。目を逸らそうとするから、呑み込まれるのですよ。その時に不注意になり、隙ができるのです。真っ直ぐに見つめてください。しっかり注意深く生きてくださいね。呑み込まれないで、見守ってください。ゆっくりやってください、大丈夫ですから。すべてを見守ろうと決めれば、見守れます。嫌というのは、拒絶。意に添わないものが自分の中に入ってくるのを拒否しているのですね。結局、嫌なものから自分を守ろうとしているのではないでしょうか。しっかり自分の価値観をキープしようとしているのではないでしょうか。低俗も高俗もありません。あるのは事実だけです。排他的になるか、ならないか・・・生かす波動か、殺す波動か。肯定的な波動か、否定的な波動か。否定的な波動は、本能的に拒否しようとします。自分を守るために。それは自然なことです。攻撃的なもの、罵倒するようなもの、侮辱したり軽蔑したりするようなもの、支配的なもの・・・要するに、こちらの存在を認めてくれないものには、自動的に拒絶反応を示すのですね。 それが、嫌とか嫌いとかいう感情です。ある意味、それは自分を守るために正しいとも言えるのですが・・・自分の存在を抹殺しようとする波動に拒否反応を示す自分。それは認めるしかありません。それはOKです。でも、だからといって、そういう波動を出す相手を拒絶することは、相手の存在を否定することになります。それでは相手と同じことをしていることになりませんか。それでは戦争になってしまいます。嫌というのは、相手から逃げようとしているのかもしれませんね。嫌いというのは、相手を攻撃しようとしているのかもしれません。逃避か攻撃か、反応パターンの違いです。でも、根っこは同じかもしれません。相手を認めないという・・・イエスは、右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいと言いました。そこまでできる人は少ないでしょう。でも、相手を拒絶しないで見守ることならできるのではないでしょうか。存在を否定するような波動を出している人をも、否定しないでそのまま見守る。自分を守るために相手を否定しようとしている”いのち”を、そのまま認める。認めるしかないでしょう。認めなければ、残るのは殺し合いしかないのですから。お互いが自分を守るために必死に生きています。それがありのままの現実です。それはそのまま認めるしかありません。そのまま抱き参らせるしかないのですね。抱き参らせることができなければ、大和の世は実現しません。なかなか厳しいですね。見守りベース、ハートベース。それだけが自分と異質のもの=自分の存在を否定するものでさえ、抱き参らせることができるのです。大きな広い心が求められています。自分の周りは良い人ばかり?ご心配なく。一歩外を見れば、地獄が待っています。生き地獄です。ハイ、目をつぶって見ないようにしているだけです。嫌だといって拒否しているだけです。いくらでも闇はあります。闇と一緒にいてください。闇から逃げないでください。闇に負けないでください。闇を見守り続けてください。闇から逃げていては、真剣さも、切実さも、切迫感も生まれては来ないのです。自分の中に闇がないなら、闇を恐れることはありません。闇を包み込めばいいだけです。闇を見守り、闇を抱きしめ、闇と一緒にいればいいのです。その時、闇は光に変わっていくのです。「嫌と嫌い[3]」に続く
2006.04.09
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今日の屋久島は、風が強い。でも、ほとんど雲はない。最高の洗濯日和。日記を書く前に洗濯をして干していたら、いつのまにか棹ごと落ちていた。それほど風が強い。屋久島でも、ここは特に風の強いところなので、強風には慣れている。しかし、棹が落ちたのは初めて。洗濯物がヨットの帆みたいになったのだろうか。ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「どこから嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかは出て来るのでしょうか。何が嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかのベースになっているのでしょうか。嫌(いや)や嫌(きら)いが生まれる源を発見してください。自分自身をよーく見つめて答えてくださいね。」最初は、藍&aiさんですね。「藍の場合は。。相手に嫌われたり嫌だと思われたりしたときから、自分のなかで相手のことを苦手だとか嫌いだとか思う傾向にあるようです。たいていは、自分のなかでは相手に対する最初の印象は、まっさらで。。どちらかと言うとすべて良い人に見えてしまう傾向にある。でも、人間関係を結ぶ間に、相手から自分に対しての軽蔑の言葉や嫌です的な態度が見えると、相手のことを嫌だな~と思ったり嫌いだと思うようです。だから相手の人が藍のことを好きだな~と思っていると、それだけで藍は、いっぺんにその人が好きになります~。。(爆)でも、そうではないときもありますね。非常識な行動をする人や いつも何かに腹を立てているような人は、不愉快だし嫌いです。それと影に隠れて陰湿な悪さをする人も嫌いです。お金に執着する人も嫌いですし、平気で嘘を言う人や弱いもの虐めをするひとも嫌いです。これは、自分のポリシーが許さないようです。ポリシー。。つまり価値観でしょうか。。?自分のことを好きな人は好き。。自分のことを嫌いな人は嫌い。。そして、自分のポリシーに反する行動をする人は嫌い。。と言うことでしょうか。あ。。でも、生理的に受け付けない。。嫌だな~と思うこともありますね。そういうときは。。そばにいるだけでも嫌悪感で鳥肌がたちそうになります。これには、あまり理屈はないようです。見ているだけで不愉快と言うか。。。これは異性に多いようです。一言で言って、しつこそうでいやらしそうな男性かな。。単純な答えすぎるでしょうか。。?ちょっと頭が固くて老化傾向にあるのかも。。?みなさんの回答を読むと、いつもそう思ってしまいます。」自分に好意的な人には、好意を抱く。自分に好意的でない人は、嫌い。単純ですね。子供みたい?いや、失礼。素直と言うべきでした。(あ~、軽蔑と受け取られて、嫌われるかも?)(好きですよ! 藍&aiさん、大好きです! いつも可愛いですよ!)(これで好かれるかな?)(こんなに単純で、人に騙されたりしないの?)でも、ポリシーもあるのですね。自分のポリシーに反する人は許せない。それから生理的に受け付けない人もいる。嫌や嫌いになる条件が書かれていますね。それは現状ですね。では、それはどこからやって来るのでしょうか。もっと深く自分を見つめることも可能かもしれませんよ。それはどこから来るの?どうしてそうなるの?他の人との違いは、その辺でしょうか。問題意識の深さ。見極める程度。更に深く自分の中を探っていくと、もっといろんなものが見えてくるかもしれませんね。それを繰り返していると、徐々に意識の網の目が精妙になっていくでしょう。自分の中をよく見つめてみると・・・軽蔑されたくないとか、嫌われたくないとか、そういう思いが見えてきませんか。だから、そういう態度を見せられたと感じると、嫌いだと思ってしまうのではないでしょうか。ここには二重の思い込みが隠れています。一つは、軽蔑されたり嫌われたくないという思い込み。もう一つは、軽蔑されたり嫌われたのではないかという思い込み。そこから嫌とか嫌いが生まれてくるのですね。ポリシーや価値観も、嫌や嫌いの準備をして待っているようなものです。嫌や嫌いの根本は自分のポリシーや価値観の方です。それが嫌や嫌いを生み出しています。ポリシーや価値観がなければ、嫌や嫌いもありません。それは自分のポリシーや価値観以外は認めないということでしょうか。ありのままを認めない。自分の思うようにならない人を認めない。本心は自分の思うようにすべての人を支配したい?トホホ・・・生理的に受け付けないというのは、どこから来るのでしょうか。過去の経験とか、幼少期の体験とかがあるのかもしれませんね。あるいは、それも自分を守ろうとする無意識から出ているのでしょうか。生理的に受け付けないことが多いと、なかなか不自由です。もっと深く見極めた方がいいかもしれませんね。次は、せきせきさんですね。「嫌なものが生まれる時は、思考が判断した時。自分を守りたくて、結局嫌と判断したものに捉われる執着。それは過去取得したパターンであり、価値観。自我思考ベース。嫌と決める思考のテキストは自我(損得感情)の入った記憶。そのテキスト通り思考が反応している。嫌=過去の自分からうまれる。今の出来事のようで、実は過去の投影。私は、見守りが少しできるようになり、嫌なものが前より減ったかも?見守っている時の意識は、何もない中で相手の行動や、現象に、自分を取り入れない感じ。なのにひとまとめになっている感じ。その瞬間、好き、嫌いの判断が生まれない。その瞬間と時間がないような区切りがないようなものがセットのような変な感じ?もし、嫌だな~と思っている気持ちが生まれたとしても、その自分の気持ちとともに、前よりも相手との間に違和感ない感じがする。大げさ?好き嫌いというものに左右されるより、大きなものに相手と私がいい感じでまとまり楽です。ワークで出てきたこと。私の嫌は=自分苦しむ自分、苦しまない自分。悲しむ自分、悲しまない自分。楽しむ、笑る、愛される、歩く、遊ぶ、寝ている自分、エンドレス。常に罪悪感を感じている。楽しい時も苦しい時も。罪悪感に見張られている位。守護霊は罪悪感?歩くと、土の下にいる虫を踏む。何かが蘇る。罪悪感に捉われる。これは、昔からの延々の捉われ。『嫌!!!』以外何もない。罪悪感、嫌、危機、混乱、逃避だらけ。思い込みが複雑に網羅されていて、現在混乱で。私は、罪悪の子、汚れと完璧に肉体と心?にしみこんでいる。何故か?絶対信じている。なので罪悪感を刺激するもの、生活は、全て「嫌」と感じる。最初、嫌なる源は罪悪感かと勘違いした。でも、罪悪感の源は自我だった。 嫌なものはハチャメチャですが、自分を意識すると、物事に私が入り込むと、全て『嫌』を感じ、強烈な恐怖と快楽と鈍磨と緊張を感じる。嫌なのは自我(罪悪感を呼び覚ます体験全て、生活全て。)嫌を意識しないのは自我の体験以外。見守り。楽しい時嫌なのは何故?見守りまでいかないと駄目なのだろうか。生活や動作が何もかも罪悪感なのは、自我で生きてきた肉体と思考だからなのだろうか。この先見つめます。ーーーーーーーーーーーー暗いワーク出してしまい本当すみません。混乱していたら、ごめんなさい。見つめて、提出すると、変化在るので。どうかどうか出させてください。 」最初は何もないですね。思考が動いて、初めて嫌や嫌いが出てきます。嫌も嫌いも判断です。自分の好みや損得や価値観を基準に判断しているだけです。自分に都合のいいものは、好き。都合の悪いものは、嫌もしくは嫌い。自己中心的な自我ベースの判断ですね。罪悪感というのは、どこから来ているのでしょうか。それは完璧なもの以外は認めないということでしょうか。ありのままの自分を認めない。汚れ、穢(けが)れた自分を認めたくない。事実から目を背け、理想の自分を追い求める結果でしょうか。あるべき姿ができると、同時に罪悪感も生まれます。あるべき姿自体が、今の自分からは懸け離れています。そうでなければ、あるべき姿とは言えません。その結果、あるべき姿と現実の自分との間にギャップが生じます。このギャップから必然的に罪悪感ができる構造になっているのです。真っ直ぐにありのままの自分に向き合わない限り、罪悪感はなくなることはないでしょう。ありのままの自分と生きることが、一番でシンプルで楽です。良いも悪いもない。事実と共に生きる。その時、好きも嫌いも、嫌も罪悪感もないでしょう。それらはすべて思いの世界。思い込みワールドの産物です。嫌や嫌いがどこから出て来ているのか、更に深く見つめてみるといいでしょう。次は、mikkenさんですね。「嫌や嫌いというのは快、不快の感情が決めるものですよね。源は自分自身の許容の度合いでしょうか。単純に不快であるという以外にも、嫉妬のように羨望が形を変えたものもあるようです。『手で触れたくないもの』と『まぶし過ぎて怖いもの』に心を乱されて『不快』だから『嫌い』。やっぱり自分自身の心が産むものですよね。…何だか至極当たり前な表層的な答えでしょうか(汗!)。 」快・不快の感情は、どこから出て来るのでしょうか。心から出て来るには違いありませんが、それだけではホームワークをやる意味が・・・?意識作用は、みんな心から出て来ます。でも、それでは何かに気づけたことに・・・?快・不快とは何でしょう?mikkenさんにとっての快とは何ですか。mikkenさんにとっての不快とは何ですか。それはどこから出て来るのですか。快と不快を決めているものは何ですか。そういうところを見つめてほしいのですが・・・これは、またホームワークにしましょうか。最近はホームワークラッシュですね。最後に締切とかを記しますね。もう少し深く自分を掘り下げてみるといいでしょう。頭で考えるだけでなく、自分自身を見守りながら掘り下げるのですね。そうすると、何かが違ってくるでしょう。それがホームワークの真の狙いです。答を出すだけがホームワークではありません。それは結果に過ぎません。プロセスが重要なのです。見つめる意識。見守る意識。見極める意識。それが時代を変えていくのです。「嫌と嫌い[2]」に続く
2006.04.08
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今日の屋久島は、雨が上がって、とてもさわやかな天気になっている。朝、水を汲みにいくと、薄紫のコバノタツナミ(小葉の立浪)が咲いていた。春先のものは、なんとなく小さくて初々(ういうい)しい感じがする。夏のものよりも心なしか色が薄いような・・・屋久島では、そうめんや麦茶がスーパーの安売りのチラシに出始めた。東京では梅雨明けからの商品だろう。屋久島では、冬が終われば、すぐに夏。もうすぐTシャツの季節になる。昨日、面白い書き込みがあった。「たまぁに、調子の良い時や悪い時だけチョロチョロっと参加している、皆様の中のひとりの、真剣さの足りないやちよでございます。が、今は真剣です!せきせきさん、私...kimiさんは、あなたに出逢うためにこのサイトを開いたのでは?と思っております。チカラをお借りしているのは、皆様、そしてkimiさんでもあると思います。自分を見失うことが多い?いいえ、最高に真摯に正直に自分をみつめていらっしゃいます。どうか、せきせきさんの思うまま、あるがまま発言してください。私も感謝しています☆」この書き込みをした彼女の発想は、ユニークだ。まるで写真ではなく、フイルムの方を見ている感じ。フイルムでは見える色が逆になる。まさに彼女の得意なネガの世界。彼女の投稿を別の角度から翻訳してみよう。「ある日、ネガティブ地獄に苦しんでいる民に、女予言者Yが次のように語りました。 真のメシヤはSさんです。Kさんは、その露払いに過ぎません。彼は3年間、日記を書くことによって、真のメシヤを目覚めさせるのが役目です。同じようなことが二千年前にもありました。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストをヨルダン川の水で洗礼しました。今回は何で洗礼するのでしょうか。屋久島の水?いえ、今回は光での洗礼となるでしょう。これによって真のメシヤが誕生し、地球が救われるのです。3年の任務が終わる時、Kさんはまるで巨人軍の長嶋茂雄のように宣言するのです。私はこれで引退しますが、真のメシヤであるSさんは永久不滅です!その後、記憶に残る人がSさんであることを自覚した彼は、せめて記録に残る人になるために、せっせと本作りに励みました。既に過去の人となっても、なんとしても自分の記録を地球に残しておきたかったのです。 実は、彼は自我を大切に保存していたのでした。彼が忘れ去られた頃、地上に現れた真のメシヤであるSさんは、闇の世界政府であるフリーメーソンとの戦いを開始しました。それは困難を極め、壮絶な戦いとなりました。しかし、やがて暁の時が訪れ、Sさんは真のメシヤとして地球に永遠の平和を確立したのです。その後、メシヤに飽きたSさんは、突然、みんなの前から姿を消しました。そして、長い流浪の末、誰も知らない土地に辿り着きました。そこで彼女は初めて自分が本当にやりたかったことを思い出したのです。それはメシヤではなく、メシ屋でした。食事を作り、みんなが美味しそうに食べるのを見るのが、何よりも好きでした。メシヤは苦しいことだらけでしたが、メシ屋は楽しいことだらけでした。ささやかな幸せが本当の幸せであることを発見した彼女は、死ぬまでメシ屋として幸せに暮らしました。これには裏話があります。彼女がメシヤになった訳は・・・彼女は勉強が嫌いで、メシ屋の屋という漢字が書けなかったのです。そこで、今生のプログラムを全部カタカナで記入してしまいました。それが間違いの元だったようです。本当はメシ屋をやりたかったのに、メシヤにさせられてしまったのです。もう一つ興味深い話があります。メシヤの出現を予言したYさんは、極端なネガティブ愛好家でした。そのため、まるでSMのような光と闇のハルマゲドンを演出しようとしたのです。そこで、同じようにネガティブ大好き人間だったSさんに目をつけたのです。その結果・・・地球人類は多大の犠牲を払いながらも、地上天国を完成させることができました。闇が深ければ深いほど、反転した時の光は強烈になります。光り輝く地球によって、Yさんの長く辛いネガティブ人生の労苦は報われました。涙に濡れた彼女の瞳に、美しく輝く地球の姿が映っていました・・・」マイナスの電気は、プラスの電気に引き寄せられる。ネガティブをたくさん所有しているということは、それだけポジティブが大きいということだろうか。強いポジティブがあるからこそ、強烈なネガティブを持つことができるのだろうか。もしかして、もしかして・・・百回ぐらい、もしかして・・・ネガティブいっぱいの人は、ポジティブいっぱいの人だろうか。ポジティブが強過ぎるから、ネガティブを引き寄せているのだろうか。もしかして、もしかして・・・ネガティブもポジティブも、たくさん体験すればいい。体験すればするほど、豊かになる。キャパシティが大きくなり、人間としての包容力が増す。ネガティブであれポジティブであれ、体験そのものはすばらしい。問題は、その後にある。たくさんのネガティブを体験する。いつのまにかネガティブに埋没し、自分を見失う。それが問題なのだ。ネガティブの泥沼の中にはまり、ポジティブを忘れ、バランスを崩す。ネガティブとポジティブのバランス、そして、調和。ネガティブとポジティブを十分に体験し、それを超えていく。そのことを忘れてしまう。ポジティブもネガティブも、思いの世界。いろんな思いがあること自体は豊かなこと。しかし、いつのまにか思いの世界に呑み込まれ、本来の自分の姿を見失う。もうそろそろ気づいてもいい頃だろう。思い込みワールドから足を洗う時が近づいている。思いを整理整頓する。複雑に錯綜した思いを、シンプルに整理する。思いの世界は体験すればいいだけ。いつまでも持っている必要はない。思いに呑まれ、思いに埋没し、見失っている自分を取り戻す。そのために自分自身の思いを見守り、思いを見極める。それが、このサイトでやろうとしていること。もしかすると、真のメシヤはSさんではなく、今この日記を読んでいるあなたかもしれない。あなたが目覚めるために、こちらは3年間日記を書くのかもしれない。やがて時が来れば、光の洗礼を残して、こちらは姿を消す。その時、あなたはメシヤとして立ち上がる。地球を救うためには、思い込みワールドを征服しなければならない。闇の世界政府とは、思い込みワールドに他ならない。フリーメーソンとは、元々は石工組合。石は硬い。所有し、固め、自分のものとする。地球を自分の支配下におく。それがフリーメーソンの望み。支配すること、所有すること、それこそが自我の本質に他ならない。闇の世界政府やフリーメーソンなどを自分の外に見ている間は、思い込みワールドの征服はできない。その根は自分の中にある。自分の中の所有欲=自己保存欲=自我。思い込みワールドを征服しない限り、真のメシヤにはなれない。まず自分自身のメシヤになることだろうか。自分自身を思い込みワールドから救い出す。それができれば、他の人を救い出すことも可能となる。それがメシヤへの道。頭の中をさわやかな風が吹き抜ける。まるで今の季節のように・・・そうなったら、メシヤは近い。今は、頭の中がごった煮状態。詰まり、固まり、隙間がない。さわやかな風が吹き抜ける空間がない。頭の中は蒸し暑く、まるでジトジトジメジメ梅雨状態。そのうえ都会の雑踏の中にいるように混乱している。屋久島の自然の中に、おいで!森の中は真夏でも、さわやかな風が吹いている。屋久島の空気は、どこまでもクリアー。水は清く、満天に星は煌(きら)めく。もういつまでも混乱している場合ではない。これまでの思い込みワールドの体験を総括し、整理整頓する。自分自身を見守り、思いによる混乱と錯綜を収束させる。頭の中をクリアーにする。スッキリと、シンプルに・・・そういう時に来ている。もう1年3ヶ月が過ぎてしまった。残りは1年9ヶ月。メシヤ誕生までのタイムリミットは迫っている。さてさて、あなたは地球を救う真のメシヤになれるだろうか・・・『他ならぬ 自分自身を 救い出す メシヤとなるため あなたは生まれた』『真実の メシヤをこの世に 送るため 毎日毎日 日記書き込む』『ネガティブを マイナスと思う 思い込み 豊かな体験 しているだけかも』『ネガティブを 体験しきって ポジティブに 変換すれば 地上天国』『ネガティブも ポジティブもない 体験を 味わい尽くし 超えてゆくのみ』これが461日目の心境です。【辞世の句】 『この世では メシヤになれぬ この身なら 死んで迷って うらメシヤー!』
2006.04.07
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今日の屋久島は、穏やかに晴れている。吹き荒れていた風も止んだ。今日は先日来、日記に登場していた中三のギャルが鹿児島の高校に入るために出発する日。海がシケてなくてよかった。今頃は高速船の上だろうか。屋久島には屋久島高校しかないので、半数ぐらいの子が中学を卒業すると鹿児島の高校へ行くらしい。もちろん、鹿児島に下宿することになる。今度帰ってくるのは、ゴールデンウイークか夏休み。高校を卒業すれば、更に遠いところへ就職することになる。屋久島に残る若者は少ない。仕事がないので、残りたくても残れない。ここのところ連日、ネガティブパターンについて書いている。しかし、かなり極端にデフォルメされているかもしれない。実際は、ネガティブだけ、ポジティブだけという人は少ないだろう。ほとんどの人は、ネガティブとポジティブの間で揺れ動いている。ネガティブだけでは苦しいので、たまにはポジティブになろうとする。でも、ポジティブだけでは疲れるので、またネガティブに戻る。その繰り返しだろうか。ある部分ではポジティブで、他の部分ではネガティブということもある。人それぞれ微妙にバランスを取っているのだろうか。でも、全般的にはネガティブパターンが多いように見える。但し、国柄や民族性というのもあるかもしれない。アメリカ人はなんとなくポジティブなイメージがあるけれども、実際はどうだろうか。ドイツ人は深く考え、イギリス人は落ち着いている?フランス人はオシャレで、スペイン人は情熱的?それらは先入観や思い込みかもしれない。実際のところはわからないが、日本人と同じでないことは確かだろう。自我の基本構造は、そんなに大きな違いがあるとは思えない。しかし、ネガティブ・ポジティブパターンにバリエーションの差があるのは間違いないだろう。こちらがよく馴染んでいるのは、昭和と平成の日本人の心理。それ以外は、実際のところよくわかっていない。一応、昭和世代の日本人向けに、この日記を書いている感じだろうか。今年は毎日、日記を書くつもりでいる。来年は週休2日ぐらいにはなるかもしれない。その後のことは、よくわからない。この2年間は、はっきりしている。その後は、できれば本にまとめたい。新しく本を書き下ろすのか、日記を再編集するのかはわからない。いずれにしても、人生について、わかりやすい本を作りたいと思っている。写真と文章をセットにした「いのちの島=屋久島」のような本も出したい。そして、可能であれば、ストーリー性のある本も出せればいいと思っている。小説とまではいかなくても、読みやすいショートストーリーができるといい。少なくとも漫画にはしたいと思っている。若い人は文章を読まないので、漫画の方がたくさんの人に見てもらえるだろう。理解されやすい方法であれば、何でもかまわない。ここ2年ぐらいは日記に集中して、その後の2年ぐらいは本の出版に集中して、最後の2年は山に入り写真を撮るかな・・・なんとなくそんなプランもあるけれども、はっきりしているのはここ2年間だけ。その先はあまりよく見えない。社会状況が激変して、また別の生き方が出てくるのだろうか。2年先は、今の時点ではお先真っ暗。何も見えない。ただ2012年から逆算して、あと6年間、どのように生きるか。とりあえずは、人間の意識構造を日記を通して見極める。そして、それを本にする。本がたくさん売れれば、広い土地を買って、コミュニティができるかもしれない。まずは日記を書き、本を出す。そのために生まれてきたように感じる。ここまでずーっと準備して来て、やっとこれから本番。いや、今も本番中?ここのところ、かなり真剣に生きている。日々、日記漬け。昼間はほぼ日記を書いている感じ。ホームワークがある時は、夜までかかることもある。なにしろ一日の大半は日記を書いている。ガイドの仕事がない時は、日記が仕事という状態。一日が、アッという間に過ぎる。パソコンに日記を打ち込み、プリントアウトして校正する。それを何回か繰り返す。最近は最後に短歌をつけるので、これを作るのにまた時間がかかる。途中でお客さんが来たりすると、すぐに夕方になる。洗濯する間も買い物に行く間もない日が多い。なにしろ屋久島は雨が多いので、洗濯できる日が限られる。天気の良い日にホームワークでも当たっていると最悪。何もできない。さわやかな日に一日中、家にこもることになる。今日こそ手抜きをしようと、時々思う。(実は、今日もそう)でも、書き出すと、いつのまにか長くなる。なかなか手抜きができない。そんなにしてまで日記を書かなくても、もっと気楽にやれば?とも思うけれども、一旦気が緩むと、書き続けるのは難しくなる。気合いを入れて書かないと・・・そのわりにはリラックスしているけれども。基本的に書くことは好きみたいなので、楽しみながら書いている。書くことによって今まで気づかなかったことがはっきりしてくるので、書いていて楽しい。好きでなければ、義務感や使命感では続かないだろう。なにしろ日記を書いても一銭の収入にもならないのだから。人の意識構造を見極めたいという気持がある。それによって、もっと自由に生きれる。人を不自由にしているものを見極めたい。人の幸せを阻(はば)んでいるものを見極めたい。そういう作業を日記を書きながら延々とやっている。昨日、次のような書き込みがあった。「自我について、改めて考えてみました。何と、意味がよくわかっていなくて、最近自我というとワガママと同義語という勘違いにはまっていました。自我を自分の中から追い出そうとしていました・・・。私が、私を私の中から追い出したら、空っぽではなく無です。自我を改めて検索したら、何処にもわがままなんて書いてない。自我を押し通そうとする、そこのけ、そこのけお馬が通る・・・の、そこのけ自我が困り者だし、自我のみに埋没する、自閉症自我もしんどい。ワ~~~~、自我ひとつでも、全然わかってなかった!!もう一度、噛みしめていかないとまいごになる!!」1年3ヶ月、延々と自我について書いてきた。この人は最初から読んでいるはずなのに、今頃になって自我がわからない?アレレ・・・とも思うけれども、まあ、そんなものかなとも思う。自分の切実な問題でない限り、日記を読んでも自分のものにはならない。ただ字面(じづら)を追っているだけ。文章が記憶されるだけで、本当にはわかっていない。切実に真剣に読まない限り、そのようになる。それでは単なる知識。真剣度に応じて理解が起きる。日記を読み、日常の中で自分自身を見守る。真剣に実践すれば、それなりの変化が起きる。問題意識の程度に比例するということだろうか。切実さの度合いに正比例するということだろうか。人それぞれだから、自分のペースでやるしかない。そういう意味では、彼女はやっと自我とは何かを真剣に見つめる段階に来たとも言える。これまではそれほどの切迫感がなかったのかもしれない。なんとなく読んでいたのかもしれない。でも、読み続ける中で気づきが起き、真剣に疑問が湧いてきたのだろうか。深く理解するにはエネルギーがいる。情熱、真剣さ、切実さ、切迫感・・・そういうものが理解を促(うなが)す。不思議なことに、そういうものは深く真剣に悩むことから生まれてくる。人生を真剣に生きようとする姿勢から生まれてくる。それが結局、人生を切り開く鍵になる。自分の人生は自分の生きる姿勢から開かれる。自分自身の人生に賭ける真剣さ。そのエネルギー。それが結局、人生を決めていく。人生を放棄したら、そこですべてが終わる。求め続け、探し続け、進み続ける。それによって人生は開く。それ以外で開くことはない。求めよ、さらば与えられん!それは変わらぬ真理。ここ2年、真剣に道を極めると思う。今はそのような時期。これからの新しい時代の生き方を決める時。いかに真剣に、いかに真摯(しんし)に生きるかが問われる。それによって、新しい地平が開く。これまでとはまったく違う生き方が・・・『今日もまた アッというまに 一日が 終わってしまう 日記書くだけ』『よくもまあ こんなに毎日 書くことが あり続けるのが 不思議でならない』『見て気づき 書いてわかって クリアーに 意識の掃除 整理整頓』『書くことで 気づいたものが 抜けていく 書けば書くほど 空っぽになる』『書くことで 意識の闇に 光当て 人類(ひと)の意識を 明らかにする』『人生に 向かう姿勢が 人生の 深まり味わい 決めてゆくもの』これが460日目の心境です。
2006.04.06
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「ネガティブパターン[1]」の続き次は、Y@soleilさんですね。「自我はネガティブ、ポジィティブの価値意味づけをする。記憶、事実に色付けして価値付けする、動機づけ、理由付けして直視から身を隠すために利用する。前回のワークでも書きましたが、私は足りないと感じて在るもののように感じて。今の自分を感じると、飢えとか、不安感、何かからの一体感の喪失感、分離感。それからここにいる私は、これは私です!と。そのイメージが在るには、イメージを創り続けなければならない。そして、ここで言う、ネガティブもポジティブも、私の足りないワールドの世界の単なる状態の波に過ぎなくて、この宣言どおりの私感覚を感じるためにあるようなもののように感じてきました。だからその自我の動機からというか、一体感がない、不安という気持ちから、発生するものは、どんな状態であっても、足りないを再体験する、私にとっては飢えの苦しみ以外の何物でもなかった。そこから夢中で何をしても結論も同じで、一体感を求めても、ずっとそれが解らない世界の枠の中から抜けれなかった。ずっと求め続ける輪の回転の中にいたんです。自我の思い込みの空間の中で、自我がその宣言の通りあり続けるために、ネガティブ状態、ポジィティブ状態を、絶え間なくやっているに過ぎない。それだけのことではないのかな・・?と感じてきました。それを急き立てる者はいつも増殖したイメージの中に身を隠してなかなか現れない感じでした。それにことさらネガティブを掴むというのは何故なのだろう?ただ、自分のパターンを観てみると、どうもネガティブパターンが好みのように感じる。それに、ネガティブのほうが、感覚的には、重くて暗いから掴みやすい、粗雑で重力を感じる方が掴みやすいのだと思う。私にとってはポジィティブは過活動状態でもあったから、さらに余計なエネルギーが要る。何もしたくない、固まりたい私には、ネガティブが安住の地になりやすいです。まず、私は思い込みが外れて欲しくないんだと思う。私はイメージから生まれて、イメージの中でしか生きれない、そして、そう思い込んでいる。死にたくない。あの恐怖と不安の衝動は、まるで、イメージが崩壊したら、自分も死ぬって思い込んでるかのよう。死にたくない。消えたくない。在り続けたい。在るために存在感を沢山刺激したい。でも、本当のことは知りたくない、何もしたくない、このままでいたい、放っておいて。私のひそかな口癖です。独りにして。ほっといて。触らないで。私は無力、力が無い。何も変わりたくない。変わったら自分がどうなっちゃうんだろう?とても不安・・・。とてもネガティブな発想。ネガティブな状態は要するに目の前のあるがままの事実から逃避する状態でもあるということ。こんな姿を直視すことからの逃避。私、死にたくないんです。私を掴んでおきたいんです。私が私を掴むなんておかしいことだけれど。しっかり掴んで離したくない。掴んだものはなしたらどうなっちゃうのか怖い。だから、この私は、ネガティブイメージがいごこちが良いのです。苦しんでるけれど。あるために、延々、終わらない状態を続けたい。まるで感覚に埋没して中毒している状態みたい。ああ、もしかして、感覚が自我を創り出しているの? 私って感覚中毒?事実を恐れる自分がいます。」健康よりも病気の方が掴みやすい。平和よりも戦争の方が掴みやすい。幸せよりも不幸の方が掴みやすい。健康や平和や幸せは、抽象的で、わかりにくくて掴まえにくい。健康や平和や幸せは、動いている感じがして、不安定で掴まえにくい。その点、病気や戦争や不幸は、具体的で固まっている気がして掴まえやすい。不安、孤独、孤立感・・・自我で生きていると、いつもそれらのものが付いて回ります。だから、何かしっかりしたものに掴まっていたい。病気や戦争や不幸は、固定していて掴まりやすい気がする。でも、病気や戦争や不幸そのものは嫌い。病気や戦争や不幸ではない状態がいい。それであれば、積極的に自分から掴まなくても済む。なんとなく否定していればいい。逃避イージーラクチンパターン。要は、自分からは積極的に何もしなくても、しっかりと掴んでいられるものということでしょうか。それにはネガティブパターンが一番都合がいいのですね。「ほっといて」「独りにして」ネガティブパターンでしっかり掴まえているものを掻き回されたくはないのです。それによって不安定になるのはゴメンです。自分の世界に浸っていたいのです。しっかり掴めるものであれば何でもいいのです。亀さん状態で自分を守ろうとします。小さく小さく縮こまって完璧にガードして、自分の世界に浸るのです。自分をキープするには、ネガティブパターンが最も都合がいいのです。ネガティブに張り付く訳がわかってきました。自我を存続させるのに最も楽で簡単で何もしなくていいからです。怠け者パターン?お昼寝パターン?悲劇の主人公パターン?苦しくて悲しいけれども、一番自分が安定する?重たくて暗いけれども、一番安心できる?何だかんだ言っても、一番居心地がいい?ということでしょうか。ほとんど麻薬中毒の世界ですね。でも、法的には何ら咎(とが)められることはありません。いくらネガティブをやっていても何も問題はないのです。なぜなら、みんなそうしているから。お互いに傷の舐(な)め合い状態?お互いに裏でひそひそネガティブに非難することはあっても、表立ってポジティブに批判するようなエネルギーのいることはしません。あくまで密やかに楽な方を選びます。ハードコースは疲れるから、イージー専門に生きます。暗く小さく悲劇的に・・・そうこうしているうちに、何がなんだかわからなくなってきます。どうしてこんなに悲劇的なことばかりが周りで起きるのか?どうして私だけ?ネガティブ人生に恨み辛みが重なっていきます。雪だるま式に重たく暗くなっていきます。やがて、そのまま恨みや憎しみと共に、あの世に行くことになります。あの世に行っても思い癖は抜けません。ネガティブ地獄の中でのたうち回ることになります。神も仏もない!天を恨み、世を呪います。そのうちに、縁のある天使や神々が救いにやって来ます。しかし、眩(まぶ)しすぎて、とても側には近づけません。その結果、自分の方から救いから遠ざかってしまいます。孤独地獄に飽きるまでネガティブパターンが続きます。そういう存在が地獄の世界には五万といます。今も地上で再生産されています。そろそろ打ち止めにしないと・・・時代が変わり、地獄そのものが地球からなくなろうとしています。もう地球の非苦の時代は終わるのです。まだ非苦をやり足りない人は、他の星でやってもらうしかありません。それもまたそれぞれの選択です。ネガティブパターンで生きることは、嫌なことや嫌なものからの逃避の手段のようです。イージーな方へ、努力がいらない方へ、逃げて、逃げて、避けて、避けて・・・ネガティブパターンにはまってしまったのでしょうか。それは受け身の人生です。自分から積極的にクリエイトする人生ではありません。ネガティブパターンは後ろ向きです。それで本当に生きていると言えるのでしょうか。もしネガティブパターンをクリアーしたかったら、人生を生き直す必要があるでしょう。自分の人生を自分で切り開く。そういう生き方に切り替える必要があります。自己責任を取るのですね。みんな他のせいにしないで。自分の人生を自分で引き受けるのです。その時に、新しい人生が始まるでしょう。『難しい ことは見ないで 目をつぶり 傷つかないよう 逃げているだけ』『難しい ことはやらない 逃げまくる 子供のように 拗(す)ねているだけ』『困難を 避けられると 思うから ネガティブパターン 終わることなし』『逃げ隠れ 避けて逃(のが)れて 闇の中 暗くうつむき 独り安心』『ネガティブに 自分の世界に 浸りきり 言い訳をして 自分ごまかす』『逃げようと すればするほど 意識して 逃げたいものから 離れられない』『直視して 乗り超えていく エネルギー 足りないために 逃げているだけ』『イージーと 思ったことが 本当は ツケが溜まって 身動き取れず』『逃げまくり 自分の心 ごまかせば 幸せになる ことはできない』『逃げ回り 一生終わる その時に 何も得たもの ないのに気づく』『誠実に 生きるしかない 人生は ごまかすことは けっしてできない』『血を流し 涙を流し 汗流し この世のことを 学びて生きる』『ボロボロに なって初めて 目が覚める 傷つくことの ない状態に』『逃げないで 目を逸らさないで 避けないで 事実と共に 強く生き抜く』『責任は 自分で取って 前向きに クリエイトして 楽しく生きる』これが459日目の心境です。【ホームワーク】どこから嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかは出て来るのでしょうか。何が嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかのベースになっているのでしょう。嫌(いや)や嫌(きら)いが生まれる源を発見してください。自分自身をよーく見つめて答えてくださいね。締切は、4月8日午前9時。BBS欄に記入してください。誰でも参加できます。自分自身を見つめて、具体的に書き込んでください。
2006.04.05
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朝、たくさんのツバメが家の周りを飛んでいた。20羽近くいたのではないだろうか。上に下に、右に左に、まさにツバメ返しのように自由自在に、ものすごいスピードで飛び回っていた。東京にいた時はツバメを見た記憶はない。熊本にいた子供の頃はよく見た。なんとなく懐かしいものがあった。ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「人はなぜネガティブパターンを好むのでしょうか。人はなぜネガティブパターンを繰り返すのでしょうか。どうして殊更(ことさら)にネガティブなものを掴んでしまうのでしょうか。大多数の人は、ポジティブなものよりも圧倒的にネガティブなものを多く掴んでいるように見えます。それはどうしてでしょうか。自分自身を見つめて回答してください。」まず、藍&aiさんですね。「自分を見つめて思うには、ネガティブパターンでいるほうが楽だからです。ポジティブであると、そこにはそれ相応の努力が必要です。なぜ、そのほうが辛いかというと。。昔、ポジティブに頑張って頑張って、得るものどころか失うものも多かったし、周りとの摩擦も大きかった。なにより自分自身の神経が擦り切れて神経症にもなりかかった。。そのときの恐れの気持ちが強くて、いまもってネガティブパターンに安住しようとしている。藍の場合は、そういうことだと自分の過去を振り返って思いました。でも、自分のあるべき理想からは程遠い自分であるので、未だに自分のことを心から好きになれない。自分自身に納得していない生き方をしているのが現状です。理想と現実の間に、相当のギャップがあるのが今の藍であります。」非常にわかりやすい回答ですね。「ネガティブパターンでいる方が楽だから」まさにそうですね。何もしなくていいものね。ポジティブパターンでは、いろいろ努力する必要が生じてきます。でも、ネガティブパターンであれば、ただ否定していればいいのですね。捻(ひね)くれたり、拗(す)ねたりしていれば事足りる。努力のいらないイージーコースなんですね。ポジティブパターンをやると、周りとの余計な摩擦が起きます。傷ついたり、緊張したりもします。疲れるのですね。その点、ネガティブパターンはラクチンです。何もしなくていいのですから。ただ文句を言っていればいいのですから。ハー、こんな楽なことはない。だから、ついついネガティブパターンに安住してしまうのですね。でも、ネガティブパターンは楽なのですが、幸せではありません。充実感や躍動感はまったくありません。周りからは、怠け者と見られます。そこで言い訳を考えます。「こんな自分は嫌い!」これで好きでネガティブパターンをやっている訳ではないという自己正当化ができます。本当は今の状態から抜け出たいんだけど、なかなか抜けられなくて・・・無力で、かわいそうな自分ができあがります。こうしておけば責められることもありません。弱くて惨(みじ)めな人間を誰も責めることはできないからです。あるべき理想?それはありのままの自分から目を背(そむ)けるための隠れ蓑(みの)でしょうか。本当はこんな自分ではないんだけど・・・理想というのは、今の自分を直視したくない時に便利なアイテムです。意識を今から別のところへ逸らすことができます。今のありのままの自分と一緒にいるか、それとも、理想へ逃げ込むか。理想の方が安全です。非難されることも傷つくこともありません。誰も文句のつけようがないのが理想なのですから。それは最も安全な避難場所となります。安全なネガティブパターンに身を置き、自分を非難したり、周りを非難したりして一生を過ごすのも、また人生です。でも、それは自己欺瞞の人生かもしれませんね。自分に正直な人生とは言えないでしょう。自分をごまかし、妥協して生きる人生です。スーッとエネルギーが素直に流れる人生ではありません。屈折し、淀み、濁り、腐臭を放つ人生です。エネルギーロスの多い人生です。それでは、いきいきと生きることからは遠い人生となります。自分自身に誠実に生きているとは言えません。どのような人生を生きることも可能です。でも、自分に正直に生きないと、虚しい人生になります。人は何のために生きているのでしょうか。ただ自分を守るためだけに生きているのでしょうか。それではあまりにも虚しくはないでしょうか。それでは人生の花も実もありません。自己欺瞞の人生を生きたいのでしょうか。それとも、自分自身の真実を生きたいのでしょうか。それが問われてくるでしょう。次は、せきせきさんですね。「ネガティブパターンを掴んでしまうのは、それが自分に不利と思いこんでいるから。損得勘定。ネガティブパターンは、家庭、社会、伝統の価値観等ミックスされ、人生経験によって付加され続ける。ネガティブが何故悪いと思いこむのか。今の相対の世界の私の感じ方。病気があって健康がある。不幸があって幸せがある。戦争があって平和がある。死があって生がある。不完全があって、完全がある。前者にはなりたくない。でも、時々選びたい時もある。それは自暴自棄な時。前者、不幸を選ぶことを避けるために、ネガティブに反応しネガティブから逃げたいと思う。そのことが余計ネガティブを掴む。執着を生む。そして後者を求める心も執着になる。病気を経験したことにより、健康のありがたさを感じ、幸せに生きていく。それもすばらしいかも。でも、またあのような、病気になってしまったら?ならないように、食事等で、体を気遣う。その行動は、事実体にも良いこと。でも、前提がある。それは『もう苦しい思いをしたくない』また、具合が悪くなったら、『あの時の方が辛かったから、今度は乗り越えられる』そう思い込むことで、状態を乗り切ろうとする。それは過去という前提の生き方。病気と一緒にいる。病気は体を蝕む、死に近づく、痛みが私を恐怖に貶めていると思考を越えて。現在、前より病気を意識しなくなっている。『健康』という定義も人それぞれ違う。WHO、それも1つの定義価値観。私にとって、健康とは、食事や排泄ができ、外でお茶できる人(笑)でも、精神的に病んでいることに捉われていたら、精神が安定している人が、健康に見えて羨ましいかも。肝臓が悪くて酒を飲みたい人は、健康な肝臓だけがほしいかも。健康も価値観ベースでプライオリティをつける? 健康は、病気との対比の世界にいたらわからなかった。本当の健康は、『病気』に向き合った時、『健康』と向き合った時にわかったような・・。健康は、病気があって初めて生まれるものではなく、最初からあるもの。周りの目を気にする。人とぶつかっても、助けてくれない、席を譲ってくれない、悲しい私。東京は、人は冷たい、と。自分を意識するとは、『私』を、わざわざ周りから切り離しているという事。私自身を特別視してもらいたいということ。その結果、自分から孤独を選んでいる。自我をもつことによって、わざわざ傷ついている。東京から、大衆から、全体から、宇宙から、自分自身を切り離すことを選んでいる。戦争を意識すると、平和にいることが無意識に怖くなる。戦争になったら、前にこの国は攻めてきたから、核兵器を保有したから、と不安。だから、この国と外交を、基地をおくことを許そう。わざわざ日本を他国を切り離して意識する。そして傷つく、攻撃を受ける。次に戦争にならないために、今の平和を『守る』ために、装備するから。平和があって、戦争を意識するから。自分から、次の不幸認定を呼び寄せる、それは私のパターンと同じような気がします。私は、危機依存症である。ネガティブ、ポジィティブというパターンになじんでしまっている。恐怖を鈍磨させようと、ネガ、ポジパターンに逃げている。流れを固定しようと依存する。支配する。未知が、判断できないことが怖い。興奮と緊張の中で、鈍磨を求めている。結果さらに緊張しすぎの弛緩。機能していない。リラックスしていない。それが輪廻している。私は非苦の世界を作っている。病気も、戦争も、死も、不満足も。ネガ、ポジ観が刷り込まれた心が作り出している。」かなり複雑なネガティブパターンですね。ネガティブなことを避けようとして、ネガティブなことに意識がいってしまう。その結果、更にネガティブなものを掴んでしまう。そういう逆パターンですね。病気と健康があった場合、健康になろうとするのではなく、病気を避けようとするのですね。平和のための平和ではなく、戦争を避けるための平和。幸せのための幸せではなく、不幸にならないための幸せ。すべて相対的な価値観の中で、ストレートな肯定ではなくて、否定の否定という肯定の仕方ですね。それは、嫌なことを避ける、逃げるというパターンでしょうか。嫌なものから逃げるために、嫌なものを否定する。しかし、それは嫌なもののない世界に過ぎません。戦争がないだけの平和。病気がないだけの健康。不幸でないだけの幸せ。それは否定するものの存在を前提としています。ですから、すぐにでも反転しかねません。意識は嫌なものに向いているのです。嫌なものを否定することは、更に意識が嫌なものに向くことです。ネガティブなものに意識が行く二重奏です。嫌なものから逃げよう、嫌なものを避けようという意識が、ネガティブパターンに縛りつけている原因でしょうか。問題を自ら解決しようとしないで、ただ逃げまくる。それがネガティブパターンの元凶でしょうか。嫌なことから目を逸らし、逃げまくるというのも自分を守るための一つの方法です。しかし、それは極めてイージーなやり方です。その方が楽だから、そうしているだけでしょうか。ポジティブに問題解決に当たるよりも、できるなら避けたい、逃げたい、直視したくない。それがネガティブパターンの根本にあるものでしょうか。自分から逃げ、世間から逃げ、どこへ行くのでしょうか。何も問題のない世界?嫌なことの何もない世界?そんな世界があるのでしょうか。嫌という意識がある限り、それはどこまでも追っかけてくるでしょう。なぜなら、自分自身=嫌ですから。自分こそが嫌なものをつくり出している張本人なのです。結局、嫌なものから逃げることはできないのです。嫌と思うこと自体が、もうネガティブパターンなのかもしれません。そこから逃避行が始まります。困難を避け、楽な方へ楽な方へ行こうとします。行き着く先は、出口の見えないネガティブの泥沼です。しかし、その根本はネガティブな認識にあるのかもしれません。嫌(いや)とか、嫌(きら)いとか・・・不思議なことに、漢字が同じですね。これは次のホームワークにしましょうか。どこから嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかは出て来るのでしょうか。何が嫌(いや)とか、嫌(きら)いとかのベースになっているのでしょうか。嫌(いや)や嫌(きら)いが生まれる源を発見してください。自分自身をよーく見つめて答えてくださいね。締切とかは日記の最後に書きます。「ネガティブパターン[2]」に続く
2006.04.05
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今日の屋久島は、風が強い。天気は曇。海は白波が立っている。思い込みから感情が生まれると、昨日書いた。ところが、そんなことは改めて書くまでもなく、みんなが知っていることだった。なぜなら、それがわかっているから予防線を張ったりする。期待が大きいと、失望も大きくなる。だから、できるだけ期待を小さく設定しておく。そうすると、ダメだった時のダメージが小さくて済む。そういうことは、誰もが日常的にやっていること。ところが・・・ここまではみんなが知っている。しかし、この先がどうなるかまで気がついている人は少ない。気がつかないまま泥沼にはまっている人が意外と多い。「ダメかもしれないけど・・・」「うまくいかないかもしれないけど・・・」そう言っておけば、できなくても、後から責められることはない。予防線を張っておけば、自己正当化できる。自身のショックも少なくて済む。しかし、いつもこれをやっていると、いつのまにか、「ダメだと思うけど・・・」「うまくいかないと思うけど・・・」に変わり、やがて、「できっこないけど・・・」「無理に決まっているけど・・・」「不可能だとわかっているけど・・・」になって、最終的には、「何をやってもダメ」「どうせ私なんて・・・」ということになる。完璧なネガティブパターン。知らないうちにネガティブパターンが染みつき、ネガティブにどっぷりと浸かっている。そうなると、もうネガティブパターンから抜けられない。身動きが取れなくなって、ネガティブパターンに安住する。やがて、ネガティブでないと安心できないようになる。ポジティブでは、なんとなく居心地が悪い。ポジティブでは、どういう訳か不安になる。ネガティブパターンに戻って、ホッとする。「私なんか相手にしてくれっこない・・・」「何をやってもうまくいきっこない・・・」「さみしい、悲しい、虚しい・・・」弱者、被害者になりきる。悪いのは世間。みんな他人のせい。「私のことなんかどうでもいいのよ・・・」「自分さえよければいいんだから・・・」自分だけが落ちこぼれ、取り残された気分。うまくいっている人を羨(うらや)み、妬(ねた)む。やがて怒りが込み上げ、憎しみに変わる。「世間はみんな冷たい!」「どうして自分だけが、こんな目に遭うの?」運命を呪い、生んでくれた両親を恨(うら)む。「夢も希望もない!」「お先真っ暗!」そういう時に限って悪いことが重なる。事故に遭う。人に騙される。何をやってもうまくいかない。そこで、藁(わら)にも縋(すが)る思いで、宗教に走る。しかし、そこで待っているのは、先祖供養のための金銭要求と信者の勧誘。「どいつもこいつも・・・」残っているのは自暴自棄だけ。諦(あきら)めてホームレスになるか、水商売に身を落とすか・・・酒を飲み、クダを巻き、八つ当たりする。誰も相手にしてくれない。蔑(さげす)まれ、バカにされ、除け者にされる。「もうどうにでもなれ・・・」ヤケになって犯罪に走り、人生を呪って自殺に救いを求める。生きても地獄。死んでも地獄。暗い思いが、暗い現実を生む。暗い現実が、なおさら暗い思いを生む。やがて、更に暗い現実が・・・悪循環。二進(にっち)も三進(さっち)もいかない。どん詰まり。どうしてこうなったのかわからない。何が悪かったのか・・・どこで間違ったのか・・・何もわからない。完全に自分を見失ってしまう。元をたどれば、ささやかな予防線を張っただけ。それが気がつかない間に坂道を転げ落ちるように真っ暗闇の人生になってしまった。なぜ?どうして?ネガティブパターンが現実化しただけ。自分を守ろうとして後ろ向きに予防線を張ったのが、積もり積もってネガティブな現実となった。誰のせいでもない。自分が播いた種を自分で刈り取っているだけ。気がつかないうちにネガティブパターンにどっぷりとはまっていた。そこに安住し、安心しきっていた。それが思わぬ結果となってしまった。今は縺(もつ)れに縺れて、何がなんだかわからなくなっている。しかし、紐解(ひもと)いていけば、ささやかなネガティブパターンが始まりだった。それが雪だるま式に積もり積もっただけ。何も難しくはない。一つ一つ解(ほど)いていけばいいだけ。シンプルになればいいだけ。本来の素の状態に戻ればいいだけ。もう一度人生を見つめ直してみればいいだけ。思い込みが感情を生み出す。思い込みが現実をつくり出す。恐るべし思い込み。たかが思い込み、されど思い込み。思いの世界を理解しない限り、人生を自由に生きることはできない。思考の次元。それが今生きている次元。そこを深く理解しない限り、いつまでも同じパターンの繰り返し。思い込みから来る感情に振り回され、翻弄されているうちに自分を見失う。感情の泥沼に溺れ、埋没し、悲嘆に暮れる。同じパターンを飽きもせず延々と繰り返す。そういう自分に気づくことさえない。何も見えていない。何もわかっていない。ただ世間に流されているだけ。ただ人生を漂流しているだけ。精神世界の本を読む。宗教の話を聞く。なんとなくわかった気になる。しかし、それもまた思い込み。実際は何もわかってはいない。頭の中でわかったつもりになっているだけ。現実の自分の人生を理解しない限り、真実はわからない。本や人から聞いた知識では、真に救われることはない。自分自身の人生を通して、真理を理解するしかない。傷つき、血を流し、涙を流して、悟るといい。人生を生きて、その中から真実を悟るといい。難しいことはない。見守る意識さえあれば、真実がわかる。自分自身を理解しようという気持さえあれば、道は開ける。煩悩は菩提に通じる。非苦が慈悲をもたらす。今の自分自身を深く理解する。思考を、感情を深く理解する。思い込みがもたらす結果を真に深く受けとめる。それが自由をもたらす。非苦が光に変わる。『身を守る ための僅(わず)かな ネガティブが 積もり積もって 身動き取れず』『知らぬ間に 意識はすべて ネガティブの 思いに囲まれ 出口が見えない』『酒を飲み 演歌唄って 慰めて 一時しのぎを 繰り返すだけ』『運命や 世間のせいに してみても ネガティブパターン 変わることなし』『身の定め 嘆いてみても 始まらぬ 元をたどれば 思い込みから』『身に起きる 現実という 実の元は 自分が播いた ネガティブの種』『何もかも 自分が播いた 種が元 一つ一つの 種を取り去る』『ネガティブな 思いがつくる ネガティブな 現実・感情 今の境遇』『感情と 現実生み出す 思い込み 理解しないと 押し潰(つぶ)される』 『自(みずか)らの 思いがつくる 現実を 体験するのが この世の仕組み』『何もかも 自分の思いの 現実化 よくよく見極め 乗り超えていく』『人生に 正面切って 立ち向かい 自分の人生 花開かせる』これが458日目の心境です。
2006.04.04
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今日の屋久島は、快晴。山は青く、海は碧い。空気は限りなくクリアー。次のようなコメントが届いた。「しょっちゅう悲劇の主人公していて、ぐずぐず言ってた私が言うのも変ですが、非苦って何かなって考えてしまいました。五体満足な私より、五体不満足な方の充実したパワフルな生き方をよく聞きます。最近では、パラリンピックで片足で競技されてる方のすばらしい滑りを見せていただいたし、上半身だけで、すばやくプレイするアイスホッケーも見事でした。不幸だと思うか思わないか・・かなあ。でも、思い方というのは揺らぎやすいし、非苦って、ありそで、なさそでって感じですね。でも、非苦真っ最中で、逃れようが見えないってこともありますよね。そういう非苦も越えられるのかなあ・・・時と場合によってころころ変わる非苦。思い込みの生み出す非苦。越えられると思考が答えても解決しないんですよね。」非苦とは何だろう?思うようにならないと、苦しみが生じる。大切なものをなくすと、悲しみが生じる。しかし、それには個人差がある。同じ状況であれば誰もが同じように非苦を感じるというものではない。同じ人でも状況によって非苦の感じ方は異なる。同じ学校を受験し、同じように不合格になった三人がいた。一人は、最初から合格は難しいと思っていたので、不合格になっても、まったくショックはなかった。二人目は、滑り止めのつもりで受けたのに不合格になってしまったので、大きなショックを受けた。三人目は、受かるかどうか半信半疑だったので、不合格でも、ただ納得しただけだった。同じ学校に不合格になっても、自分の持つ思い込みによって、出て来る感情は明らかに異なる。感情は思い込みからやって来る。小さな子供を亡くした親も、長い病気の末に亡くすのと、交通事故で突然亡くすのとでは、出て来る感情がまったく違う。長い病気の末であれば、それなりの諦めもついている。しかし、突然の事故では、悔やんでも悔やみきれない。もう亡くなるのを予想しているのと、これからの成長を楽しみにしているのとの差。思い込みの差異によって、出て来る感情の違いは歴然としている。戦時中と平時の感情も異なる。戦死であれば、お国のためによく死んだという感情が沸く場合もある。平時であれば天を恨むものを、国のために死ぬのは美徳であると思い込めば、出て来る感情も自(おの)ずから別のものとなる。一億円の宝くじが当たれば庶民は大喜びするが、ホリエモンでは喜びも少ない。一億円当たった人が次に一千万円当たっても、それほどの喜びとはならない。最初に一千万円当たるのと、一億円の次に当たるのとでは、同じ一千万円でも価値が異なる。お金の価値も、それに伴う感情も、思い込みによって左右される。よからぬ噂を聞く。自分に敵対的な裏工作をしている人がいると。やがて人事異動で閑職に飛ばされる。彼のせいだと思う。そう思うと、怒りや憎しみや恨みの感情が沸いてくる。ところが、それは間違いだったという話が伝わってくる。裏工作をしていたのは、噂を流した本人であったと。それを聞いて、前者に対する感情は消える。しかし、今度は後者に対して驚きと怒りの感情が起きる。それだけでなく、自己嫌悪の感情が追い打ちをかける。思い込みによって、起きる感情も対象も違ってくる。詐欺は、思い込みを利用して成り立つ。儲かると思い込ませて、投資させて損させる。このままでは立場が危ないと思い込ませて、振り込め詐欺をやる。このままでは家が壊れると思い込ませて、高い修理代を請求する。信じれば救われると思い込ませ、高い壷を買わせる。それらの思い込みが裏切られて、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ・・・感情のオンパレードとなる。思い込みは日常生活にも浸透している。こんな人とは思わなかった。こんな結婚生活のつもりではなかった。裏切られた!騙された!見損なった!信じた私がバカだった!思い込みが崩壊することによって、ありとあらゆる感情が吹き出す。思い込みがなければ、怒りも憎しみも、恨みも苦しみも、悲しみも虚しさもない。すべて思い込みから生じる感情・・・しかし、感情が思い込みから生じるのであれば、思い込みを変えれば、出て来る感情も違ってくる。みんな人生勉強。失敗して賢くなる。高い授業料を払っただけ。そのように思い込む時、怒りや憎しみや、恨みや苦しみや、悲しみや虚しさは消える。逆に、感謝の気持ちが湧いてくる場合さえある。感情は、思い方しだい。ということは、感情はコントロールできることになる。つまり、非苦はどうにでもなるということになる。すべてをプラスに思い込めば、非苦はなくなる。起きたことによって事態は良くなると思い込めば、ネガティブな感情の出る余地はない。すべてをポジティブに思い込めるだろうか・・・失敗しても失敗してもポジティブであり続けられたら、きっといつか成功するだろう。周りから何と言われようと自分を信じ続けたら、信じたものが実現するだろう。それがポジティブシンキングの世界。そのように思い続けられる強い意志があれば、それもまたいいかもしれない。しかし、それもまた思い込みワールドには違いない。ポジティブな思い込みワールド。思考の次元を超えてはいない。その次元では、絶対的な平和は存在しない。心のやすらぎもない。ポジティブ思考とポジティブ思考がぶつかり合う時、争いは避けがたい。その争いから起きる悲劇をも、ポジティブに捉えることができるだろうか。肉親の死や親しい者の死・・・裏切りや策略や陰謀・・・神経をすり減らす日々。それに耐えられる人は、たぶんいないだろう。体は病み、心は老いる。自分が求めていたものは、やがて形を変えていく。そういう時に、最後までポジティブでいられるだろうか。虚しくならないだろうか・・・最後までポジティブでいられる人は限られる。老いるにつれて神に救いを求めるようになる。宗教書や哲学書から心のやすらぎを見出そうとする人も出てくる。最後の最後まで非苦を感じずに生きれる人は、まずいない。思い込みでは限界がある。ポジティブだけを演じることは自己欺瞞に等しい。最後はアルツハイマーに逃避するしかなくなる。感情は、犬にもある。赤ちゃんや幼児にもある。それは肉体感覚の快・不快と共に発達する。思考が発達することによって、更に複雑な発達を遂げる。単純な感情から錯綜した感情まで、複雑に感情は発達する。しかし、その原理は単純。快と不快に基づいている。肉体的な快・不快。精神的な快・不快。そこからいろんな感情が複雑に派生していく。美味(おい)しいものを食べれば嬉しくなり、不味(まず)いものを食べればイヤな気分になる。そういう肉体次元の単純な感情は少ない。多くの感情は、様々な思い込みから生じる。思い込みの程度によって、出て来る感情も多種多様。自分の思い込みを理解することによって、感情に振り回されない人生が可能になる。たぶん、事実と共に生きることだけが、非苦を超える道だろう。感情を理解する。感情の出てくる元を見つけ出す。自分の思い込みに気づく。非苦を味わい、理解し、超えていく。思考ベースからハートベースへ移行していく。それが自然な道ではないだろうか。『沸々(ふつふつ)と 滾(たぎ)る感情 よく見れば 思い込みから 沸(わ)いているだけ』『感情を 生み出す元は 思い込み 触発されて 沸いてくるだけ』『様々に 沸き出す思い 感情も 元をたどれば 思い込みから』『変わらぬと 思い込むから 奪われる 奪われるから 非苦が生じる』『人生の 非苦を生み出す 大元は 自分自身の 思い込みのみ』『感情が 出てきた時に 負けないで その源を 突き止めてみる』『感情の 出てくる元は 思い込み 出てきた時は 気がつくチャンス』『感情に 酔わず溺れず 冷静に その源を 突き止めるのみ』『流行の ドラマのように 感情を 味わい演じ 楽しみ超える』『時来れば 思考ベースの 感情が ハートベースの 感情になる』これが457日目の心境です。
2006.04.03
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昨夜は嵐だった。早く寝たら、深夜に目が覚めた。そのまま瞑想状態で横になっていた。心身がリラックスすればするほど、意識は宇宙に溶け込んでいく。ゆったりすればするほど、宇宙と一体になっていく。個から全体へ溶けていく。難しいことは何もない。ただリラックスすればいいだけ。落ち着いて、ゆったりとくつろげばいいだけ。気がつくと、ハートが開いている。ハートが開けば、感動が待っている。エネルギーが満ちたところで、知り合いのエネルギー状態を感じてみる。いい感じだった。こちらのエネルギーがスムーズに溶け込んで広がる。今頃は夢の中で光の爆発を体験しているだろうか・・・今度は別の知り合いと一緒にいてみる。こちらは頭が緊張していた。それも尋常の緊張ではない。まるで孫悟空の輪っかのようなものが頭を締めつけている。こちらまで頭がコチコチになってしまった。気がつくと、こちらのエネルギーは吸収されて空っぽ。残ったのは激しい頭痛だけ。ハー、これは重症だ。仕方がないので、この頭痛の中身を感じてみる。それは孤独感だった。宇宙から分離された孤独感。宇宙と溶け合うのと逆の状態。全体から分離した個の孤立。それが恐れをもたらしていた。宇宙に対する信頼の欠如。不安。一人で途方に暮れている感じ。一人でさびしいのだ。だから、コチコチに緊張している。それは自我の緊張。宇宙と繋がっていない限り、人は孤独。孤独だから人と交わろうとする。酒場へ行ったり、セックスしたり・・・しかし、いくら人と交わっても孤独感は解消しない。それは一時(ひととき)の気まぐれ。結婚しても、子供ができても、それは基本的に変わらない。いくら親しい関係であっても、死ぬ時は一人。最終決断は一人でしなければならない。宇宙から切り離されている限り、人は孤独。全体から分離した自我は、孤独を宿命づけられている。それを乗り越えるには、宇宙と繋がるしかない。全体と溶け合うしかない。それ以外に孤独地獄から抜け出る道はない。それ以外のあらわるものは、一時しのぎに過ぎない。祭りが終われば、よりさびしくなる。一時の興奮の後は、更なる孤独が待ちかまえている。それは男女関係でも親子関係でも超えられない。それは一人で超えなければならない道。誰も助けてはくれない。自分自身で超えるしかない。しかし、それを超えることは、そんなに難しい道ではない。静かに自分自身と一緒にいて、逃げなければいいだけ。自分自身を深く深く感じていけば、その先に宇宙はある。人は本質的に宇宙と繋がっている。切り離されていると思っているのは自我だけ。それは自我の思い込み。その思い込みの次元を超えればいいだけ。思考の次元を超えていく。そうすれば分離のない世界に巡り会える。元々誰の中にもある意識の領域だから、そんなに難しいことではない。一時的に、それとの繋がりを自ら遮断しているだけのこと。個を十分に体験するために、宇宙との繋がりを切断している。それを復旧すればいいだけ。それには自分自身と一緒にいることだろうか。ありのままの自分から逃げないで、自分を見守る。やさしく、ゆっくり見守る。そうしていると、やがて気づくだろう。見守る意識こそが宇宙に繋がっていることを。宇宙と溶け合う意識であることを・・・難しいことは何もない。やさしく、あたたかく見守っていればいいだけ。自分を。周りを。そうすれば、自然にハートも開いてくる。なにしろ、ゆったりとした感じ。ゆったりと宇宙と溶け合っていく。境界線がなくなるように・・・頭に輪っかがはまっていた人の、輪っかの外側は目を見張るほどクリアーだった。すばらしくピュアー。時としてその人に起きる、スピリチュアルな体験や至福感の訳がわかった。輪っかの外側に飛び出していたのだ。肉体次元ではわからないことが、エネルギー次元で見ると、よくわかったりする。別にプライバシーの侵害ではないだろう。自我の秘密に入り込んでいる訳ではない。そういうものに興味はない。たまたまエネルギー状態をチェックしてみただけ。全体的なエネルギー状態がわかっていると、アドバイスもしやすくなる。頭の輪っかは、大なり小なり誰にでもあるものかもしれない。それは自我の輪っか。全体から自分を分離している、思い込みという輪っか。とりあえずは、その輪っかと共にいて、それを十分に体験し、理解するしかない。深く、やさしく、あたたかく見守りながら理解するといい。ゆったりとやるのがコツ。それが宇宙と溶け合う入口だから・・・気がつけば、コチコチになっていたこちらの頭の緊張が、いつのまにか溶けていた。『緊張を 生み出すものは 宇宙から 分離している 孤立と孤独』『自我という 宇宙の孤児に なる時に さびしさ不安 恐れに孤独』『壁を立て 孤立している さびしさを 酒や異性や 友と紛(まぎ)らす』『壁のない 溶け入るような 微細(こまやか)な やさしい意識 宇宙と溶け合う』『トンネルを 抜ければそこは 別世界 分離なき世の 幸せ満ちる』『心身の 緊張感を ゆるめれば 宇宙の中に 溶け込んでゆく』これが456日目の心境です。
2006.04.02
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「守ろうとしているもの[1]」の続き次は、ぴあのさんですね。「あらゆる自分を見つめてみたけれど、自分が守ろうとしているもの・・・この言葉がピンとこなくてわかりませんでした。守ろうとしているもの・・・家族とか、今の生活とか、今の私とか?その他、自分を見つめる中で様々なことが見えるには見えましたが 『守ろう』 という意識、感情には どうもぴったり当てはまらない というか・・・大切にしたい という気持ちはあるけれど、大切にしたい と 守りたい は違うのだろうか?紙一重?逆に、『守る』 って何だろう?それがわからなくなってきました。バリヤーを張る というのもわからなくて・・・なぜバリヤーなんか張るのでしょう・・・ すみません、全然回答になりませんね。もしかして、私にとって今までで最高に難しいワークなのかしら・・・(~_~)余計なこと、考えなければいいのではないかな と思いました。ただ事実だけをそのまま見て、流す。思考に翻弄されないで・・・そしてハートベースで生きること。(・・・と、書きましたが私がそれをできているのでもないのですが・・・)回答がズレてしまいまして、すみません。見つめ足りなかったのかもしれません。よくわかりませんでした。(伏)」何も守ろうとしているものはないのかな?それとも、自分が見えていないのかな?他の人の回答を参考にして、もう一度自分自身を見つめてみてください。最後は、Y@soleilさんですね。「自分が守ろうとしているものはなんでしょう?改めて問い直されるとよく解らない自分に気付く。何を守っていたのかすらよくわかっていなかった。それほど、反応が無意識的で自動的だった。そして、それを直視したくない自分に気付く。なぜなら、まずそれに触れると、傷ついたと感じて閉じ込めた痛みやあらゆる感情が蘇ってしまうと、とたんに感じるから。まず、それを感じることが怖い。普通に立っていられないと感じるほど怖い。私がぐらついて大変な気持ち。自分?守らねばならない自分?それってなんだろう?皆、過去の記憶。それは愛?安心を失ったと感じている・・。喪失感。それから出来上がった無力で不完全だと信じている自分のイメージ。不完全で弱いと信じるから、簡単に傷つくことが出来る。そのイメージから生まれる自分の恐れ、感情、反応の全て。ほとんどそれに占められていると感じる。この自分イメージは、どのように生まれたのだろう、いつからだろう?かなり奥に閉じ込められて、触れることが難しいものと、後で自分で信じ込み受け入れてさらに大きく作ったイメージがあるよう。離別、喪失、無力さ、防御を受け入れる反応がとても自動的になっているようです。私は何かから切り離されて、存在することが自体が不安で、足りないと感じています。とても飢えて。また虐待も経験した。ここの私が意識された時点でもう、迫ってくる外側が出来ていて、それから自分を守らねばと感じていた。弱い私を攻撃してくると感じる他者?自分は自分の力で立つ力のない弱いものと信じ、そして、庇護を受けなくては生きていけないと信じて、色んな形の侵入、暴力、過干渉、支配を受けいれてた。皆傷ついて愛が足りないと感じている人たちがやってくる。私にそういう準備が出来ていたんだと感じる。それを信じることで、それがやってくるみたい。そうして、また私は深く傷ついた気持ちになる。心も体も痛む。誰かを傷つける・・・。記憶が蘇って、苦しむ。そして、さらに感覚を麻痺させる色んなものが必要になってしまう。物でも、考えでも、あらゆる善と悪判断、それも常習しているうちにこれも、自分を守ろうとするものになったと感じる。私に欠けていると感じる、価値を感じるあらゆるものが対象かも・・・。本当の自分を見たくない、隠しおおさねばならないと信じる。なぜなら、傷つくと感じて生まれる感情、怒りや悲しみが暴走しないように、しっかりと心に鍵をかけ閉じ込めようとしていたから。私の心の中に暴力が満ちてしまったのは、そのせいもあると感じて・・。記憶、感じたあるがままをしっかり感じることを恐れてしまったことで、皮肉にもそれが延々繰り返されるとになってしまったと感じる。そうやって、巧みに自分を、自分が投影されてしまう他者や世界を支配しようとていた?そして、感じきることをどうしてこんなにも恐れたの?私はこの過去の反応から生まれた私イメージを手放したくないのかもしれない。傷つく自分を、痛む自分、私はそれから逃げて、それを守ろうとしていたかもしれない。 いずれにしても自分を守ろうと信じることで生きることをとっても複雑にしているんだなとかんじます・・・。この守らなくてはならない私の世界は巧みに矛盾しあって、相克しあっています。やはりこれを超える世界に生きないとなのかもしれません。それはどんな生き方・・・・?いずれにしても、見つめられて良かったです。どうもありがとうございました。」自分がこれ以上傷つかないように、必死に自分をキープしていたのでしょうか。以前の傷を思い出さないように、少しでも痛い目に遭いそうになると、すぐに心をブロックしていたのでしょうか。そこまでして守ろうとしたのは、結局、弱い自分?心が動揺し、不安定になるのが怖かった。もう自分が自分でいられないような、あんな心境は二度と体験したくない?自分を弱者のイメージで固定し、必死にそれを守ろうとしていたのでしょうか。守ろうとしていたのは、心の安定?心が動揺させられないように必死にブロックしていた?でも、そうすることで、逆に心が動揺した?安定を保とうとすると、不安定になる?不安定を防ごうとすると、更に不安定になる?ナーバスになり、神経質になり、必要以上に過敏になる?自分を守ろうとすればするほど守れなくなるパラドックス・・・自分を弱者、被害者、庇護されるべき者とイメージして、そこからすべての行動パターンが生まれていた?過去の自分をベースに生きていた?過去の自画像を守ろうとしていた?それが行動原理だった?自分を改めて振り返ることがないまま、自動的に反応していたのかもしれませんね。無意識に過去の自分を守ろうとしていた。弱い不安定な自分。そういう思い込みですね。自己イメージ。それを必死に守ろうとしてきた人生・・・その行動原理は、心の傷でしょうか。もう二度とあんな辛い思いはしたくない・・・自己保存。自己ガードの人生ですね。でも、そのように自己保存に意識が向いていると、自分が傷つきそうなものが次々と目につきます。意識がそういう方向にあるので、自分で呼び寄せているとも言えます。その結果、意識していない時よりも更に傷つくことになります。まさに悪循環です。それを無意識に繰り返してきたのですね。そういうことに気づかないままで一生を終わる人も珍しくありません。どちらかというと、そういう人の方が大多数かもしれません。自分が何を守ろうとしているのか。自分が何から逃げようとしているのか。そういうことに気づかないまま、一生同じパターンを繰り返します。それが多くの人がやっていることです。そこで次のホームワークがあります。人はなぜネガティブパターンを好むのでしょうか。人はなぜネガティブパターンを繰り返すのでしょうか。どうして殊更(ことさら)にネガティブなものを掴んでしまうのでしょうか。大多数の人は、ポジティブなものよりも圧倒的にネガティブなものを多く掴んでいるように見えます。それはどうしてでしょうか。自分自身を見つめて回答してください。締切は4月5日午前9時です。BBS欄に記入してください。参加は自由です。自分の言葉で具体的に書き込んでくださいね。人は自分を守ろうとします。しかし、自分とは何でしょう?何を守ろうとしているのでしょうか。心の安定?自己のイメージ?それらはいずれも過去からつくられたものです。心の安定とは、自己の価値観の体系です。自己イメージとは、自分という思い込みです。人は自分の過去を大切に守ろうとしています。しかし、それは過去なので、今とぶつかってしまいます。そこから苦しみが生じます。自分の中身をよーく見つめてみるといいでしょう。過去、過去、過去・・・みんな過去です。自分を構成しているものは、みんな過去。過去を後生大事に守ろうとして苦しんでいるだけです。今は空っぽです。今には何もありません。守ろうとするものは、過去。自分がしっかりと握っているものです。自分が所有しているものを守ろうとしているだけです。それが自我です。人は自我を守ろうとして苦しんでいるのです。過去=自我=苦しみの元。今に生きるか過去に生きるかが問われています。『守ろうと すればするほど 揺れ動く 揺れないために なおさら揺れる』『傷つくと 信じているから 傷ついて 周りも傷つけ 自分も傷つく』『傷つくと 思い込むから お互いに 傷つけ合って 非苦の人生』『傷ついて 傷に囚われ もう二度と 傷つかないよう 恐れて生きる』『被害者や 弱者と自分を 思い込み 過敏になって 更に傷つく』『これ以上 惨(みじめ)めな思い したくない それが怖くて 怯(おび)えて生きる』『もう二度と 辛い思いは したくない そのためだけに 構えて生きる』『守ろうと しているものは これまでの 傷つき痛んだ 弱い自分』『傷つくと 思い込むから 傷ついて 心も体も ボロボロになる』『何よりも 傷つくことに 殊更(ことさら)に 意識が行って 更に傷つく』『ボロクソに 言われぬために 周りから 自分のイメージ 必死に守る』『守ろうと しているものは 自画像(イメージ) で 壊れることを 恐れているだけ』『自分とは イメージだとも 知らないで 傷つくことだけ 恐れて生きる』『気づかずに 過去のパターン 繰り返し 気がつくまでは 変わることなし』『守ろうと すればするほど 心閉じ 愛は遠くへ 離れてゆくだけ』『守ろうと すればするほど 苦しくて 生きる喜び 薄れゆくだけ』『無意識に 傷つくことから 逃げないで 傷つくものを 見極めてみる』『守ろうと しているものは すべて過去 今この瞬間 守るものなし』『今ここを 生かして使えば 何ものも 守るものなし 回転(まわ)して使う』これが455日目の心境です。
2006.04.01
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今日の屋久島は、今にも雨が降り出しそうな天気。でも、予報では夜までは保つらしい。海はベタ凪。静かな日。ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「何を守ろうとして人はバリヤーを張っているのでしょうね。自分?これ以上傷つかないように?守ろうとしている自分とは何でしょう?その辺りを深く理解しないことにはバリアーは外れないでしょう。バリアーが外れない限り、自由に自分の花を咲かせることはできません。社会が真に調和することも望めません。自分が守ろうとしているものは何でしょう?」最初は、優しい気持ち2005さんですね。「自分が守ろうとしているもの・・・他人が投げかけてきた言葉に怒りで反応してしまうもの、その人もその言葉も反射的に否定しようとするもの、これらによってわかります。過去において、嫌な感情、苦しい思いを味わった、その感情や思いを再び味わうのが嫌で、自分を守ろうとしてしまう。というのがまず思い浮かびました。つまり守ろうとしているものは、過去の苦しみにふたをすることができた思考パターン。表面的に安心・安全をもたらしてくれる価値観。自分で弱点だと思っている性格・精神面の癖。不安や恐怖にとらわれないよう、他人の目を気にして取り繕ってきた自画像。こんなところでしょうか。自我が幅をきかせて反応するものは。自分本位で感情的に相手を責めるとき、自他が完全に分離して相手を拒否するとき、大きなストレスを感じます。逆に冷静に受け入れることができたときは心の自由を感じます。」守ろうとしているものについては、確かに怒りや否定の感情が反射的に出て来ますね。 そういうものが出てきた時に、それに気づくといいですね。それが自分が大切に守ろうとしているもの。自分の反応から気づくとそうなりますが、では、その中身は何なのでしょうか。過去のイヤな感情や苦しみを再体験したくないために、そのようになりそうな状況を避けたいということでしょうか。そのために価値観や取り繕った自画像を守りたいのでしょうか。自分の弱点が周りに知られることを避けたいのでしょうか。弱点をさらけ出すことによって自分がどのように思われるか・・・それが耐えられないということでしょうか。守ろうとしているもの---他の人に知られたくないもの?自分の弱点や欠点。自分の醜いところやイヤなところ。暴かれては困るもの。自分で見たくないもの。自分が混乱するもの。偽善。ウソ。心の秘密・・・それは自分自身=自我でしょうか。何だかんだ言っても自分をキープしたいのでしょうか。今の自分が壊れるのが怖いのでしょうか。周りから自分が壊されるのが怖いのでしょうか・・・次は、せきせきさんですね。「守ろうとしているものは、過去からの所有イメージ。自我。守りたいと思う時点で、相手の攻撃をスタンバイ。ハリネズミのようにハリを立てる。ハリ同士が当たって、『痛い』と思い込み、相手のハリをなんとかしようと思っている。 本当は自分がハリを立てているだけ。『守りたいもの』は価値観。老人施設で、プライバシー強化により一人部屋になった。でも、カーテンで仕切ると泣き出し、皆で集まって寝る人もいる。12畳を8人で暮らしていた時、私は自由だった。それよりもプライベートスペースの広い所に行った時、スカートの中まで知られるような、細かさに自分をなくしそうだった。居住空間の広さではない。自分の傷つく所を守りたいのがプライバシー。プライバシー、守りたいもの=自分と思っている。自分に自分で、鍵をつけて、出入り不自由にしている。転んだ傷と、人に付けられた傷と、手術の傷と、感情と思いは違う。鍵をつけたい位置が違う。合意のセックスはよくて、合意ではないものは傷つけられた?『私』の感情や、思考、肉体、物が入り、それらを、自分なりに関係付けると、守りたいものが生まれる。守りたいこと=許せないこと。私としては、傷つけられる肉体。大切な人からもらった物を故意に壊される。部屋の中を探し出される。プライバシーがないと、私という自我が認定したこと。でも、もし自分の子供が私に対して同じことをやったら、子供を抱きしめる。人によって違う。私は小さい頃の捉われが余りに強くて、同じような環境を延々自分で作り出していた。 心と肉体への土足侵入を守りたくって、恐怖に怯えていた。それ自体が相手の攻撃を予測したイメージ。それが現実化していった毎日だった。侵入や、知らない人からのつきまといが多かった。このサイトにきてから、最近解決したことがあった。アパート住まい時、近所の紹介の方で体調に余裕がない中、車を出してくださるのがありがたかった。いつの間に、玄関で待ち、電話が絶えず、来る日も来る日も、言葉と態度で、倒れこんでいる隙をついて、近所の方と出入りなど1年続いた。信頼ある方のようで、信じてもらえず、私と同じ様な目にあった方の協力もあったが、事態は変わらず。でも、最近違うのだ。たまに、会うこともあるが、全然平気なのだ。体は変わっていないのに。私は守りたいものが減ってきたから?一応、抱き参らせの心意気だから?守ろうとすることに捉われると、反対のことがおきる。奪われることを想定して、守るから。そして、その辛さにさらに、守ろう=攻撃しようとする。延々続くアラブとイスラエルの争いのように。プライバシーが生まれたからこそ、その中身を知ろうと、大衆紙がありますよね。そして、プライバシー侵害の事件が生まれる。お互い同じ土俵。私的には、人の隅々まで知りたい、土足で入り込みたいと思いは、相手の全てをわかりたい=自分をわかって、の愛に飢えていた気持ちからの行動でした。弱みを見つけて、相手を支配できるという刷り込まれたパターン。自分のハリをとると、自然に自分の自由な空間が増えてくる。相手も自由になり安心するようだ。ハートベースの大事さがわかる。」守りたいものは、所有イメージ、価値観、プライバシー、許せないこと・・・それが自分=自我ですね。守りたいものが多いと、傷つくことも増えますね。そして、不自由になります。自分のものだと思うと守ろうとします。しかし、守ろうとすればするほど、守れなくなります。守ろうとすること自体が守れなくしてしまうという矛盾。守ろうとすることから攻撃が生まれます。果てしない争いの連鎖です。結局、守ろうとすればするほど、苦しくなります。それがこれまでのパターンですね。逆に、守ろうとしなくなると、守る必要も減ってきます。守ろうとして身構えることが、守る必要性を呼び寄せるようです。守ろうとすればするほど、守る必要性を強く感じる事態が頻発します。まるで強迫神経症です。キリがありません。守るべきものがなければ、守る必要性はまったくありません。自分で決めているだけです。守る必要性があるかどうかを・・・守る必要性があると思えば思うほど、雪だるま式に守るべきものは増えていきます。逆に、守る必要性がないと思い出すと、逆雪だるま式に守るべきものがどんどん減っていきます。すべて主観なので、思いしだいなのです。思い込みが現象化し、更に思い込みが強化される思い込みの泥沼。その泥沼から抜け出るか、泥沼の中でのたうち回るか・・・守ろうとすればするほど、深みにはまってしまいます。次は、えっちゃんですね。「何だろう?って考えなきゃいけないようなものなら、守るほどの事はないかなって言いたいところだけど・・・どうやら支配される事から、自分自身を守っている。自我を含む自分自身を。私の職場の苦手な先輩は、とてもワガママな人と、口うるさい人。ワガママな人に対しては、いい加減にしてよ!と心で叫んでも、かなり従順にわがままを聞いてあげられる。ところが、口うるさい人は、自分の思い通りに私を支配しようとするので、それが仕事として妥当なら聞けるのだけど、単に自分の思いに従わせようとするところが見え見えだと、私はアドレナリンを大噴火させて身構える。最近少々、不納得でも従順になってみようとしていますが、まったくの個人の優越感のためと感じると、アドレナリンを抑える事が出来なくなります。これはプライドを守っている事になるのでしょうか。それとも、支配というものへの嫌悪が自分自身をバリアの中にかくまうのでしょうか。 後者であると思うのですが・・・」考えなければわからない?無意識に自分を守っているのですね。相手は優越感のために人を従わせようとする。そうするとアドレナリンが抑えきれなくなる。ということは、支配されたくないのですね。だから、支配されそうだと自分が感じるとアドレナリンを奮発してしまう。支配されることから自分自身を守っている?守らなければ支配されてしまう?ホント?相手が支配しようとしても支配されないことはできないの?支配しようとするのは相手の自由。でも、残念ながら、こちらは支配されませんよ。そのように冷静に対応することはできないの?絶対に冷静に対応してはいけない理由でもあるの?そこで、「またか」とか「イヤだなぁー」とか思考が自動的に動いてしまう?反射的に反応する?過去のパターンの繰り返し?どうだろう?支配されるのがイヤだから反発しているだけ?相手の優越感を認めたくないだけ?自分が支配されるというのは思い込み?心は支配されたりしないかも?相手と関係なく自分しだい?相手の自由を認めれば、自分も自由?さてさて、よくよく自分の心の中を覗いてみてくださいな。「守ろうとしているもの[2]」に続く
2006.04.01
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