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今日も屋久島は、晴れ渡っている。明日以降も天気予報は晴マーク。今日も泳ぎに行きたいな・・・昨日は木霊の森へ行った。森の中は、まったく暑くない。最高にさわやか。そよ風がこの上なく心地いい。木霊の森は、とてもクリアーなところ。人がいないからか、いつも澄みきっている。お客さんがお昼寝している間、こちらは瞑想した。そうすると、木霊の森がまるでヒマラヤ水晶のような感じがした。それも最高品質のヒマラヤ水晶。その透明感。その質感。それがヒマラヤ水晶と似ていた。但し、ガネーシュヒマールの最高級のもの・・・ヒマラヤ水晶と言っても、ピンキリ。取れる場所によっても違うし、同じ場所でも品質の違いは歴然。これまで自分が知っている中では最高のものと、木霊の森の質感は似ていた。そこには明らかに透明なクオリティがあった。それがまるで手に取るように感じられた。木々や岩がある。沢があり水が流れている。それを取り囲む空間。その空間の透明感。普通、人は物を見ている。今なら、目の前のディスプレーを見ているだろう。机やイスやその周りにあるものが目に入ってくる。空間を感じている人は少ない。人の目は、普通は物に焦点が合うようにできている。色の世界のものだから。いろんな物に囲まれて暮らしている。それを識別し、認識するために目はある。しかし、目に映るのは、この世のものばかり。三次元の物質ばかり。これでは意識が全体から分離してしまう。物は、それぞれバラバラのように見える。個々に繋がりがないように見える。色の世界だけで生きていると、分離の空間で孤独に生きることになる。時には、物ではなくて、空間を感じてみるといい。空間の質感。空間のエネルギー。空間の響き。それが、いのちや愛に繋がっていく。それらのものは、空間のようなもの。あるようで、ないような・・・目には見えない。でも、ないと生きてはいけない。いのちや愛の世界は、分離がない。ひとつの世界。ひとつだけの世界。世界中の空気が繋がっているのと同じ。空気はひとつしかない。それが仏教的に言う、空の世界。物の世界は、色の世界。個々別々の世界。ひとつと別々。個と全体。この両方の感覚がないと、トータルに生きることはできない。満たされて安心して生きることはできない。瞑想とは、この空の世界に遊ぶこと。現実とは、この色の世界を生きること。実際は、色即是空、空即是色。色と空は分離したものではなく、ひとつのもの。ひとつのものの現れの違い。波動のバリエーション。肉体の目で見ているから、目の識別範囲のものが見えるだけ。肉体の耳で聞いているから、耳の可聴範囲のものが聞こえるだけ。人は、肉体の感受性の範囲内で生きているだけ。限られたスペースで生きているだけ。それが肉体人間。しかし、肉体人間を超えれば、認識範囲は飛躍的に拡大する。物質の制限を受けなくなる。限りなく宇宙に開かれる。多次元宇宙に・・・実際は、自分の中にすべての領域が浸透しているので、どれだけ感受できるかというだけの問題。ひとつ=空の領域まで感じられる人は、幸せかもしれない。個であり全体であるという感じで生きていける。意識の空間は限りなく広がる。それを明確に自覚できなくても、なんとなく感じていればいい。この肉体意識だけではないことを感じているだけでも、人生は違ってくる。トータルに生きれるようになっていく。元の元の世界。分離のない世界。何もない世界。何もないけれども、すべてがある世界。それをなんとなく感じていればいい。自分の周りの空間を感じることが、そのきっかけになるかもしれない。物だけではなく、その周りの空間も感じてみよう。都会の狭い空間の中にいると、意識もだんだん狭くなる。時には広々とした自然の中に行くといい。大空を見、大海原を見るといい。大きな大きな自然に包まれるといい。その自然を包み込んでいる透明な空間を感じるといい。『透明な 空間森に 広がって 木々や苔岩 やさしく包む』『透き通る ヒマラヤ産の 水晶は この世に満ちる 空の結晶』『物だけを 見ている時は 空間は 意識されない 三次元だけ』『目に見える 色の世界は 移りゆく 流れのように 変わらざるなし』『流れゆく ものに囚われ 棹(さお)させば 抵抗生じ 悩み苦しむ』『流れゆく ものはそのまま 流すしか 生きる道なし 流れと共に』『一時(ひととき)の 仮の姿が 色という 空の現れ やがて消えゆく』『移りゆく 現象世界の 物事は 空の現れ やがて無に帰す』『移りゆく 色の世界は ただ波が 流れているだけ 仮初めのもの』『形ある ものは一時の 仮姿 常に移ろい 変わらざるなし』『移りゆく 色の世界は 形なき 空の世界の 仮の現れ』『万華鏡 見ているごとく 現世(うつしよ)を 眺め楽しむ ゆったり生きる』『何もない 無限の中に 有限の ものを創って 遊び楽しむ』『目に見える ものはいのちの 現れで 色とりどりの 衣装着ている』『浸透し すべてを生かす 源の 名前はいのち 愛の別名』『現実の 色の世界に 足をつけ 意識は空の 世界を駆ける』『境目が ないのが空気 途切れなし ひとつの意識 空気と同じ』『元の元 すべてのすべて 源は 空気のように 在りて在るもの』『キラキラと いのち煌(きら)めき 移りゆく 色も変われば 空も生きてる』 『目に見える ものも変われば 眺めてる 自分も変わる すべて移ろう』 『見るものも 見られるものも 同じもの 光り輝く 光そのもの』『煌めきの ただ煌めきの ある世界 森羅万象 すべて煌めき』 これが576日目の心境です。* 7月も全日、完璧に書くことができました。 とても充実した日記になったと思います。 仕事が少なかったから? それも少なからずあります。 幸か不幸か、日記最優先のこの1年です。『このところ どうしてこんなに たくさんの 短歌できるか 不思議でならない』『7月は 何個短歌が できたやら このままいくと 数え切れない』
2006.07.31
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屋久島は、今日も晴。天気予報では、今後もずーっと晴。雨はどこへ行ったの?昨日は久しぶりに泳ぎに行った。今年初めて。夕方5時近く、泳いでいる人は誰もいなかった。釣りをしている人が何人かいた。ここは遊泳禁止のところなので、めったに人はいない。しかし、熱帯魚はたくさんいる。ところが・・・どういう訳か熱帯魚がいない!代わりに透明なクラゲがたくさん! ???しかし、深いところへ行くとクラゲが姿を消し、代わりに熱帯魚が現れた。水深3~5mぐらいだろうか。色とりどりのたくさんの熱帯魚が泳いでいた。一番大きいので70~80cmぐらいはあるだろうか。太っていて体重は10キロ以上はあるだろう。一番小さいのは、2~3cm。ブルーで美しい。紫色の珍しい熱帯魚が近寄ってきた。50cmぐらいまで近づいてくる。彼等は存在感がある。自分達のエリアなので、マイペースで泳いでいる。こちらは異邦人という感じ。深いところで全身の力を抜くと、まるで無重力空間にいるような感じになる。波と共に浮いているだけ。下の方で熱帯魚たちが自由に泳ぎ回っている。突然、熱帯魚でない魚たちが顔のすぐ近くを横切った。10cmぐらいで、元気、元気。普通の魚は、もっと大きいのもいた。50cm以上はあるだろう。白銀色に光っていた。群で泳いでいた。小一時間ぐらいで引き上げる。あまり長いこと泳いでいると、後で皮膚がめくれてしまう。少しずつ太陽に慣らす必要がある。でも、泳ぐのはいい。全身運動なので、体全体が気持ちがいい。膝にもいいような気がする。暇な時は泳ぐに限る。夜は安房の花火大会だった。花火の音で、花火大会だったことを思い出す。最初の2年間は行ったが、去年は行かなかった。最初は何でも珍しく、何でも体験してみようという気になった。しかし、今はもう落ち着いている。花火の代わりに星空を見上げる。天の川が雲のように白く流れている。空気が澄み渡り、すばらしい星の数。屋久島は冬よりも夏の方が星がよく見えるような気がする。空気がきれいなので、対岸の種子島の灯りもはっきりと見えた。昼間は九州本土も見えた。連日晴れている割には、靄(もや)っていない。風が強いせいだろうか。なにしろクリアーな一日だった。コメント蘭に次のような書き込みがあった。【わかっているのですが、どうしてもできない・・・自我の自分を否定してしまって、愛のない自分を裁いてしまって。自分はなんて冷たい人間なんだろうって愛想をつかしてしまって・・・私は今死んだら、そのまま地獄へ行きそうな気がする。】地獄への直行便?地獄へ行くのは怖いよ。真っ逆さまに頭から落ちて行くから。しかも、行き先は真っ暗。体験者は語る。それでも、地獄行きを希望する?自由選択だけど。無理に天国へ連れて行くこともできないけど・・・どうして地獄へ行くのか。それは、自分を否定し、裁き、愛想を尽かしているから。自我の自分よりも、冷たい人間である自分よりも、それを否定し、裁き、愛想を尽かしているから。たとえ自我でも、冷たい人間でも、それをありのまま認めれば、地獄へは行かない。ありのまま認めることは、自我でも、冷たいことでもない。しかし、否定し、裁き、愛想を尽かしているということは、自我が自我を、冷たい人間が冷たい人間を否定し、裁き、愛想を尽かしているということ。自我の空回り。自我の独り芝居。自我の自作自演。自我のオンパレード。事実をありのままに認めないということは、事実と違う自分を装っているということ。 事実とは違う自分でカモフラージュしているということ。人に良く見せよう、人から良く思われよう、それしか関心がないということ。素直に生きていないということ。どうして自我で冷たい人間なんだろう?それはそういう自分を選んできたから。最低の自分だけを寄せ集めてきたから。問題の部分をすべて持ってきたから。なぜ?それは今生が総決算だから。これまでの懸案事項を一気にクリアーする時だから。だからこそ、最悪の自分を集めてきた。最悪の自分を集めてくれば、苦しくなるのは当たり前。嫌いになっても無理はない。もう見たくもないような自分ばかり集めてきたので、目を逸らしたくなるのも無理からぬこと。でも・・・それでは、クリアーすることはできない。それでは、今生、生まれてきた意味がない。直視し、クリアーしないことには。幸いなことに、最悪の自分を集めてきただけではない。最悪の自分をクリアーするためのプログラムも同時に設定してある。そのためのいろんな仕掛けがつくってある。まず第一に、最悪な自分だけではなく、最高の至福感も体験できるようにセットしてある。至福感を体験できる人が、どれだけいるだろうか。そんなにいるはずはない。それを忘れないことだろうか。第二に、すばらしい家族。怒ることを知らない夫に、天使のような息子。これ以上の家族が望めるだろうか。最後に、この日記。自分自身を見守り、理解する場と繋がるように計画してある。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPを管理し、写真ブログ「いのちの島=屋久島」を開設するように準備している。これ以上、何を望むというのだろうか。困難があれば、困難を乗り越えるようなセッティングもある。困難だけがある訳ではない。ちゃんと困難を乗り越えられるようなプログラムを設定している。自分自身で。生まれてくる前に。これだけの準備があって乗り越えられなかったら、怒るよ!たまには弱音を吐くのもいい。本当に行き詰まることもあるだろう。でも、でも、でも・・・今生、あなたが生まれてくるために、どれだけのエネルギーが準備されたことか。今回の人生のために、どれだけの存在が、どれだけのエネルギーを注いでいることか。 そして、今もどれだけ多くの存在が、あなたを見守っていることか。それはあなたの想像を遙かに超えているだろう。幾多のエネルギー存在が、あなたを見守り、エネルギーを注ぎ続けている。それらの存在に対して、あなたは何と言うのだろうか。地獄へ行きます?そんなことが本当に言えるのだろうか。そんなことが・・・どれだけの準備をし、どれだけのエネルギーを注ぎ、これまであなたを見守り、育ててきたことか。それがわかっているのだろうか。たぶん、わかってはいないだろう。わかっていたら、そんなことが言えるはずがない。ゆっくり、静かに自分自身と一緒にいればいい。自分自身をよーく見つめてみればいい。否定的な側面だけでなく、肯定的な側面も。あらゆる側面を、そのまま見つめてみればいい。逃げない!負けない!戦わない!ただ一緒にいる。共にいる。ゆっくり、ゆっくり見守る。心から見守る。心を込め、魂を込めて見守る。見守ることの中で、すべては溶けていく。溶けないものはない。あたたかさの中で溶けない氷はない。愛の中で溶けないわだかまりはない。どんなに冷たく固まった凍土も、太陽の光の中で自然に溶けていく。内なる光が当たる時、溶けない心のシコリはない。いかに恵まれているか。いかにみんなに見守られ、応援されているか。異次元の存在だけでなく、今、生きている人たちからも。よくよく感じてみるといいだろう。冷たい自分がいるのも事実。自我の自分がいるのも事実。そういう事実があるからこそ、今生、生まれてきたのだから。それらをクリアーするために。それらから目を逸らしていたら、クリアーすることはできない。生まれてきた意味がなくなってしまう。苦しくても、辛くても、目を逸らさないで生きるしかない。それが生まれてきた目的だから。それらをクリアーして、晴れて光の中で抱き合うために生まれてきたのだから。愛に満たされて生きる喜びを味わうために生まれてきたのだから。だからこそ、逃げないで直面してほしい。一緒に、ゆったりと見守ってほしい。それがあなた自身の幸せであり、最愛の息子の幸せであり、優しい夫の幸せであり、あなたを取り巻く多くの人たちの幸せなのだから。どうぞ、何のために今回生まれてきたのかを、よくよく思い出してほしい。そして、逃げないで真っ直ぐに生きてほしい。心から、そう願っています。『逆さまに 落ちてゆくのが 地獄界 お先真っ暗 背筋が凍る』『未熟から 理解できずに 誤解して 囚われ・こだわり 執着つくる』『身を守る ために心を 固く閉じ 孤独の中で 一人固まる』『良く見せて 良く思われて 認められ 良い子ぶりっ子 演じているだけ』『否定して 裁き愛想を 尽かしても 自我が冷たく 凍りつくだけ』『最悪の 自分を見れば イヤになり 苦しくなっても 無理からぬこと』『最悪の 自分集めて くる時は それに負けない 設定もある』『幾重にも 過去のカルマを 解くための 愛の気づきを 用意してある』『一人だけ 頑張っている 訳はない 多くの存在 応援している』『山もあり 谷もまたある 人生の 総決算を 今はやる時』『何回も 過去世と同じ 過ちを 繰り返さない これで打ち止め』『最低の 自分を全部 寄せ集め 体験しきって 手放してゆく』『魂の 懸案事項 総結集 すべて見きって クリアーにする』『今の世を 愛の世界に 戻すため 敢えて苦しみ 体験してゆく』『これまでの 苦しいことは 体験し 理解するため 用意したもの』『これまでの 地球でつくった 魂の 闇をまとめて 光に変える』『魂の 代表として 今生は 過去世をすべて クリアーにする』『目を逸らし 見て見ぬふりを していても 何も問題 解決しない』 『直視して 逃げない負けない 抑えない 事実と共に 見守り生きる』『逃げないで 一つ一つを クリアーし 晴れて光の 世界へ帰る』『ありのまま 何も言わずに 寄り添って 黙って包んで 見守ればいい』『固まった 心は愛で 包み込み ゆっくりやさしく あたためるだけ』『ゆっくりと すべてやさしく 包み込み 共に寄り添い 溶かすしかない』『心込め 魂込めて 見守れば 心の氷 やがて溶けゆく』『ありのまま 見ることこそが 愛である 悲しみあれば 慈しみ湧く』これが575日目の心境です。
2006.07.30
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屋久島は、今日も晴。もう何日晴れが続いているだろう。たぶん20日ぐらいにはなりそう。これでも屋久島?という感じ。夏はいつも天気が安定するのだが、これでは安定し過ぎ?屋久島らしくない屋久島になっている。世界中が異常気象。地球の変わり目?地球自体が新しく生まれ変わろうとしているのだろうか。昨日の日記を書きながら思った。世の中が逆転する。物質主体の世の中から、スピリチュアルがメインの世の中になる。物主霊従の社会から、霊主物従の社会になる。光一元の世界から何層もの次元を経て、この物質次元にすべてが結集している。すべての次元が肉体に浸透している。それぞれの次元に個性がある。その総結集が、人=霊止(ひと)。各次元の個性の集合体。個性というものがない次元から、だんだんと色濃くなる個性群。もっとも濃いのが肉体。そして、人格。それらを通して、この物質次元に個性の花が開く。全宇宙の総結集の花が。しかし、残念なことに、これまでは三次元バージョンの花がほとんど。物質的な花が大多数。スピリチュアルな花を咲かせた人は、ほんの一握りに過ぎない。これまでは物質を体験し、学習する期間。これから、その学んだことをベースに真の花を咲かせる時。宇宙的なスピリチュアルな花を、この地上に咲かせる。天にあるごとく、地にも神の世界を実現する。これまでは試行錯誤。体験学習期間。これからが本番。霊主物従の個性の花を、これから咲かせていく。みんなが物主霊従という錯覚から目覚める。自分の真実に気づく。そして、その気づきをベースに新しい地球を創っていく。それがアセンション。人が真実の自分に目覚めること。物質ではなく、スピリチュアルな自分に目覚めること。それが新しい時代をもたらす。そのためには、思い込みを外す必要がある。単に自分をスピリチュアルな存在だと思い込んでもしかたがない。そんなものは何の役にも立たない。それでは、これまでの世界と変わらない。思い込みを外し、リアリティに目覚める。思考の性質を理解し、思考を超える。思考を十分に使いこなし、思考に使われない。スピリチュアルな主体性を確立する。肉体にも感情にも振り回されない。それらのものも大切にするけれども、それらの奴隷にはならない。スピリチュアルな精神性を確立する。そのためには思い込みではなくて、事実ベース、リアリティベースで生きる必要がある。思い込みベースで生きれば、これまでと同じ自我の世界。自我を超えるためには、自分自身を理解すること。自分自身を理解するためには、自分自身を正面から見つめること。ありのままの自分を直視し、理解し、超えていく。それ以外に自我を超える道はない。思い込みが外れれば、自分の内側からスピリチュアルな光が溢れ出す。内なる光は雲に覆われているだけ。思い込みという雲。思い込みが内なる光が現れるのを妨げているだけ。人は思い込みワールド=幻想ワールドに生きている。リアリティの世界には生きていない。事実ベース、ありのままベースに真剣に取り組まない限り、思い込みワールドから抜け出ることはできない。ボンヤリ生きていては、これまでと同じ人生が続く。しっかりと足下を見つめ、真剣に生きていく必要がある。物主霊従から霊主物従への転換が、アセンション。しっかりと自分の内なる光に目覚める。内なる光をベースに生きていく。外の現象に振り回されるのではなく、内なる光を外に表して生きる。大元の光を個性を通して表現する。大元の光は、みな同じ。個性を通すことによって、虹の七色となる。それが色の世界のすばらしさ。物質や肉体に溺れ、物主霊従、体主霊従で生きれば、これまでのような苦悩の人生となる。いつまで経っても人類の非苦は終わらない。それを終わらせる時が来ている。一人一人が目覚めない限り、新しい時代は開かない。それは自分の中に開くものだから。アセンションを外に求めていれば、アセンションが起きた時に混乱するだけ。自分の中でアセンションを起こさない限り、真のアセンションにはならない。自分の中で、自分の源に辿り着く。真の自分の本質に立ち返る。そこをベースに人生を生きる。それが思い込みにならないように、注意深く自分自身を見守る。見守ることの先に真実はある。自分の中に真実は生きている。今も生きて在る。ただ、今はそれにベールがかかっているだけ。何層にも渡る個性たちの願いが、実現する時を迎えている。これまで地球で数え切れないくらい生まれ変わってきた存在たちの願いが、これから実現しようとしている。霊主物従。真実の世界。すべてが逆転する。これまでの秩序が入れ替わる。物主霊従から霊主物従へ。それが新しい時代。これからの時代。『これからは 霊主物従 本来の 宇宙の摂理 生きる世の中』『これまでの 物主霊従 世の中が 逆転するのが アセンションなり』『外側に 振り回されて アタフタと 生きてきたのが 物主霊従』『内側の 光を外に 輝かせ 生きてゆくのが 霊主物従』『これまでは 顛倒(てんどう)妄想 すべて逆 物質世界に 呑まれていただけ』『物質の 呪縛を脱し 本来の スピリチュアルな 光に還る』『肉体の 恐怖に心 呑み込まれ 自分を守る だけの人生』『肉体に まつわる恐れ 人類を 奴隷のごとく 縛りあげてた』『肉体の 快や不快や 感情に 振り回されて 自分失う』 『有限の 物質世界で お互いに 争い合って 自分を守る』『外側に 翻弄されて 内側の 本質忘れ 生きてきただけ』『運命や 宿命などと 諦めて 自分の力 気づかないだけ』『思い込み 外さぬ限り 本来の 自分自身は 自覚できない』『肉体に 負けて生きてた これまでの 生き方変えて 光に還る』『恐れ超え 自我を超えねば 個性咲く 光の国は 実現しない』『目覚めれば 望む現実 創り出す 力は裡に 宿っているもの』『恐怖超え 苦悩を超えて 真実の 光り輝く 世界を創る』『源の 光そのまま 表して 光に満ちた この世創らん』『誠実な 真心外に 現れて 真実(まこと)の世界 地上に創る』『限りない 光を裡に 感じつつ 外なる世界 無限創造』『本来の 宇宙の秩序 現世(うつしよ)に 現成(げんじょう)するのが アセンションなり』 『自我という 器開いて しなやかに 宇宙の舞を 地上で踊る』『現世(うつしよ)に 光の世界 創るため 人格という 器を創る』『しなやかに 個性咲かせて 現世(うつしよ)に 光の国を 創るこれから』『真実の 世界が開く アセンション 宇宙の光 内より輝く』『新しい 時代は人が 本来の 自分自身を 取り戻す時』『内側に ベースを置けば 限りない 尽きせぬ光 湧いて来るもの』『軸足を スピリチュアルな ものに置き 地上世界に 光咲かせる』『内側に 尽きせぬ泉 湧いている 泉は無限に 溢れ出て来る』『内側の 創造力を 活性化 無限にいろいろ 創ればいいだけ』『創造の ベースは光 内側の 光を外に 表してゆく』『内側の 本質出して 生きるだけ 一番楽で 一番自然』『物質の 中で光を 輝かせ 物質次元に 光咲かせる』 『ゆるやかに 風にゆらいで 花々の 咲きにほいける 春はもうすぐ』『多次元の 個性の花の 総結集 それがこの世の 人の真実』これが574日目の心境です。
2006.07.29
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「573日目 - 自分とは-1」の続き円の内か、円の外か。円の内が、自我ということかもしれませんね。円の外に行けば、どんどん自分という意識は薄れていきます。全体に溶け込んでいくのですね。今生、生まれてから今日までつくってきた枠が、円の内でしょうか。人格とかパーソナリティの部分ですね。普通は、その意識だけで生きています。でも、人はこの世だけの存在ではありません。人は、多層的な多次元存在です。自分と一口に言っても、いろんな自分があるのですね。でも、表面意識は、肉体と共に成長してきたこの世的な意識です。肉体の自己保存ベースの囚われや執着がたくさんあります。それらを理解し、外していくことですね。自分とは、自分が自分と思っているものです。思い込みとも言えるし、定義とも言えます。しかし、事実は、多次元にいろんな自分が存在しているということです。そして、それらがこの肉体にすべて浸透しているということです。意識が精妙にならない限り、多次元の自分を感じることはできません。波動が荒ければ、表面意識が感じられるだけです。瞑想したりして意識が精妙になると、表面意識を超えた意識が感じられます。それもまた自分です。究極は、いのちであり、愛であり、霊であるということになります。その次元まで行けば、もう自分という意識はありません。自分という意識があるのは、自他が分離しているからです。分離がない次元では、自分も他人もありません。ただいのちがあり、愛があり、霊があるのです。固有名詞はない世界です。そういう世界もあれば、三次元の自我の世界もあります。個として孤立し、孤独の中で生きる世界です。クローズされた世界ですね。自我とは、他から自分を分離した意識ということになります。だからこそ、閉塞感があり、不安があり、恐れがあるのですね。全体から断絶し、孤立しているのです。絶海の孤島で一人でいるようなものです。それでは寂しいので、外に救いを求めます。そこから人生の様々なドラマが始まります。外に救いを求めている限り、孤独を埋めることはできません。一時的に孤独を忘れることはできても、最終的には死が待っています。それは一人でしか通れない関門です。自分自身を深く理解しないことには、クリアーできない関門なのです。オープンに生きることですね。クローズされた世界は苦しい。悩みと非苦の世界です。それを深く理解することですね。すべての自分と一緒にいる。自我とも、自我を超えた遙かなる意識とも。すべてを見守り、すべてと共に生きる。その中で刻々の調和を見出して生きることですね。円の内を否定し、そこから出ようともがけばもがくほど苦しくなります。すべてをありのまま認めることですね。円の内も、これまでの人生で自分がつくってきた世界です。それも否定しないで、そのまま認めることです。直視して、理解する。理解して、超えていく。目を逸らしている限り、逃げ腰である限り、いつまでも存在し続けます。ゆったりと、すべてを見守ることですよ。すべてのすべてと一緒に生きることですね。円の内の自分を否定している限り、周りの自我も認めることができません。それは常に周りと軋轢が生じることを意味します。自分自身をクリアーできない限り、周りとの調和もないのですね。自分も周りも一切否定せず、すべてをそのまま見守ることです。最後は、藍&aiさんですね。【ぎりぎりの書き込みです。。自分のことを思ってみましたが。。残念ながら、藍は自分に対してあまりよいイメージが湧きません。。時間がなくて、上手く書けないけれど。。。生まれてから。。様々なカルマに出逢い、自分が少しづつピュアでなくなってきたように思います。汚れや癖が、自分の周りに贅肉のようにこびり付き、ほんとうの自分?が、いまは真に感じられない状況かな~。。。あ。時間が過ぎちゃった。。。でわでわ☆】よいイメージが湧かない?ピュアーでなくなってきた?汚れや癖が贅肉のようにこびり付いている?本当の自分を見失った?生まれてこの方の、たくさんの思いや感情がこびり付いていることは確かです。それが靄(もや)のように自分を取り囲み、自分自身を見えなくしているのでしょうか。五里霧中?自分とは?別によいイメージでなくてもいいのですが。ありのままでいいのですが。事実ベースでいいのですが。今の藍さんは、何?少なくとも本当の自分ではなさそうですね。それでは、今の藍さんは、何?それは嘘の自分?本当の自分とは?具体的にありのままの自分を見始めなければ、何も始まりません。ありのままの自分から逃げていては、いつまで経っても本当の自分は現れないでしょう。 事実ベース、ありのままベースですよ。現実から目を逸らして本当の自分へ逃げても、何も生まれません。事実直視。それしか道はありません。瞬間瞬間のいのちの煌(きら)めきがあります。それは万象万物に共通するものです。そのいのちの煌めきが、いろんな意識の層を通って人間として立ち現れています。敢えて自分と呼ぶなら、それら意識のトータルが自分でしょうか。すべては刻々に変化していますが、あるエネルギー場ができあがっているのも事実です。 それは、顔は長期的に見れば変わっていきますが、短期的には同じ顔が表情を変えているだけのようなものです。各個人も刻々に激変している訳ではありません。ゆるやかに変わっているのですね。星々には名前が付いています。しかし、星自体はいつも同じではありません。絶えず爆発している星もあり、同じ形や色ではないのですね。それにもかかわらず、位置や動きから名前を付けて同じと見なしています。場所的には同じでも、中身は刻々に違います。人もそのようなものでしょうか。地上に存在するエネルギー場としての枠は変わりませんが、中身は刻々に変化しています。短期的に変化する感情みたいなものもあれば、ある程度長く持続する思い込みみたいなものもあります。肉体も急には変化しません。いずれにしても、それらのトータルを自分と仮に呼んでいるだけです。中身は絶えず変化しています。厳密に言うと、すべては刻々に変わっており、同じではありません。究極は、瞬間瞬間の意識があるだけです。自分は存在しません。でも、人間として生きている限りは、そこまで波動は高くならないでしょう。もうその段階は、光そのものという感じです。人間の段階では、人格や魂の傾向があり、それを個性や自分と呼んでもいいのかもしれません。但し、それも固定したものではなく、絶えず変化しています。ゆるやかに変わりつつある個性であり自分です。固定的な自分ではなくて、しなやかな自分です。取り敢えずの自分みたいなものです。仮の自分?魂でさえも変化していますので、みんな仮のものです。いのちや愛や霊の次元まで行けば、仮の自分もありません。自他の分離がないのです。自我に近づけば近づくほど、自分に対するこだわりが強くなります。個であり全体であるという意識場では、自分とは一つの意識の枠に過ぎません。エネルギー場です。人とは、宇宙のいのちが刻々に現れるエネルギー場です。多くの次元を超えて来るために、微妙に色が付いています。それが個性、あるいは自分でしょうか。しかし、その色は固定している訳ではなく、星々のように刻々に煌めいているのです。 人間存在というのは、かなり複雑ですね。じっくり真剣に自分自身を見つめていかないと、理解できません。事実ベース。ありのままベースです。そうでないと、観念の中で思い込みワールドにはまってしまいます。事実ベースで生きていけば、その先には自由という制限のない世界が広がっています。 そのためには、地道に着実に事実ベースで生きることではないでしょうか。『自分とは 何かと決めて しまう時 それ以外では 存在できない』『自分とは 自分が自分と 思ってる ものに過ぎない 固定してない』『多次元の どこに波動を 合わせるか それが人生 決めてゆくもの』『過去世から 培ったもの この世でも 楽しみ生きる 喜び持って』『内にある 美しきもの 魂が 長年かけて 培ったもの』『肉体と 共に成長 するために 個々別々と 思い込んでる』『肉体と 自己同一化 することで 自分自身を 孤立させてる』『自分さえ よければいいと 思う時 閉じた世界で 一人苦しむ』『心閉じ 一人孤独を 噛みしめる 自我とは自分 一人の世界』『思考とは 違いを比較 分析し 思い込みから 自我を生み出す』『物質を メインにすれば いつまでも 意識の世界 広がりはせぬ』『暗闇を 避けて通れば いつまでも 光は射さず 闇は消えない』『注意して 自分自身を 見守れば この世の仕組み 自ずとわかる』『不注意に 生きてる限り 肉体に 翻弄されて 終わる人生』『内面を 見つめて整理 する時に 別の次元の 空間できる』『受けとめて わかってあげて 抱きしめて 感謝と共に 手放してゆく』『感情も 記憶も思考も 肉体も すべてゆっくり 見守り生きる』『魂も 人格・肉体 みな器 いのちが宿る 個別の器』『それぞれの 個性の花を 咲かすため 魂・人格 肉体がある』『様々な 意識の層を 貫いて 個性通して いのち輝く』『それぞれが それぞれの花 咲かせんと 多次元通し 個性重ねる』『全体で あること忘れ 個性だけ 強調すれば 自我になるだけ』『しなやかに ゆらぐ個性の 花々を 愛(め)でて楽しみ 生きて楽しむ』『肉体を 自分自身と 思い込み 自分を狭く 限定している』『人格を 自分自身と 思い込み 自分を小さく 制限している』『魂を 自分自身と 思い込み いのちの本質 見失ってる』『自他という 差別があれば どこまでも 根源的な ひとつではない』『思考より 深い次元に 分け入れば 分離は消えて ひとつに繋がる』『内側に グランディングを するほどに 裡から光 湧いて来るもの』『しっかりと 自分自身に 根を張れば 裡から光 輝いてくる』『ありのまま 認めることが 真実の 自分自身に 辿り着く道』『しなやかに いろんな自分 見守って ゆらぎの中で ゆったり生きる』これが573日目の心境です。
2006.07.28
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今日も屋久島は、暑い。海は超ベタ凪。空が海面にそのまま写っている。ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは、次のようなものだった。【あなたにとって、自分とは何ですか。 自分自身をよーく見つめて、回答してください。 正解を求めてはいません。 自分自身に問いかけ、自分自身を真剣に見つめることです。】最初の回答者は、たろうくんですね。【今まで感じてきた自分というものは、生まれてから今日まで様々な環境を過ごし、色々な感情や価値観などを感じたなかで、長所・短所を含めて好きだと言えるのが自分だと思っていました。 でも、kimiさんの日記でたくさんのワークやメッセージをいただき見つめていくと、その長所や短所も、私の思い込みでつくりあげたものかなと思います。自分自身を守るためであったり、周りに反応していく中で作り上げた思い込み。自分とはこうだ!!と決め付けてしまうと、違った自分を感じたときに、今の自分は自分じゃないなんて感情も生まれたりして、自己嫌悪に陥ったりする。でも、そんな自分も全体の中の一つであり、その一つだけにフォーカスしてしまうと、 その自分に囚われて、別の意識にフォーカスしている自分を受けとめることができないように思います。 自分とは、今世に言葉を使う人間として生まれ、色んな自分を体験して見つめ、内側の意識に気づく、ひとつの中の一つの存在が自分かなと思いました。】自分とはこういうものだ!と決め付けてしまうと、後々問題が出てきます。別の自分が出てきた時に、これは自分じゃない!ということになってしまいます。厳密に言えば、意識は刻々に変化しています。しかし、あまりにも瞬間だけにフォーカスしすぎると、子供の母親はやれません。この子は誰?では、子供たちは困ってしまいます。記憶も必要です。でも、記憶ベースだけで生きると、今に生きられません。なかなか人生は難しいですね。記憶も、思いも、感情も、肉体も、みんな一緒に包み込んで生きていく必要があります。全体を見守りながら、自分自身を見守りながら生きていく必要があるのですね。自分とはこういうものだと定義してしまうと、窮屈になります。いろんな自分がいることを、先ずはありのまま認めた方がいいでしょう。そういう多面的な自分を見守りながら、多面的な自分と共に生きていくということでしょうか。一つの側面に囚われないことですね。多様な自分がいることを認め、それと共に生きることです。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【子供の頃の母に対する感情から出来上がった自我の部分があり、人の顔色をうかがうような揺れ動く感情を抱えていたり、自己否定をしたり、自己主張ができない内向的で、現実逃避タイプの性質だったりします。ただ、それだけではなく、芸術や伝統的なものが好きで、美しいものやバランスのいいものを好んだり、神秘的なものにあこがれたりする性質もあり、この部分にフォーカスされているときは調和や真理に意識があることも多いです。また、上記の自分に反発するようにアクティブで理想的な自分を想定している部分もあり、ここにフォーカスされているときには、一人で海外旅行に出てリセットや充電してみたり、みんなとわいわいがやがや派手な自分がいたり、チャレンジ好き、修行好きで、向上心旺盛な性質もあります。これらの3つの性質が自分の中で大部分を占めていて、自分がまだ地に足が着いていない、自分にグランディングできていないと思うのは子供の頃の自我にとらわれているときに多いように見られます。また、アクティブで理想的な自分のときは、心から楽しんでいるときと、自分の理想を 演じているときがあり、社交的な自分になりたいけれど本心から楽しんでいないときも ありますが、旅に出て思いがけない人との交流ができたりするときには、深く幸せを感じていたりもします。こうやって挙げてみたら、不可解な自分が少し整理されてすっきりしました。そして、これら全ての性質はどれも今の私にとって必要だから存在していると思えます。 ただ、子供の頃の自我は、自分を安定し保護するために必要であったのかも知れませんが今はもう必要ない部分があり、これをを見つめて手放していけば本来の自分の性質がより輝くように思いました。】自分とは何かを見つめていくと、今の自分が何によってできているのかがわかってきます。とてもきれいに整理されていますね。整理整頓すれば風通しがよくなって気持ちがいいのは、家も心も同じです。心の中に何もない空間があるといいですね。そういう空間がないと、自我を超えたものは入って来れません。そのためには、心の整理整頓が必要です。そして、不用なものは手放すことです。頭の中が思いや感情でゴチャゴチャしていると、自我を超えたものが入ってくる余地はありません。自分自身を見つめ整理整頓する時、自我を超えたものが入ってくるスペースができます。 ホームワークとは、そういうものです。答そのものよりも、その過程で頭の中が整理されることが重要なのです。子供の頃の自我は、もう必要ではありません。そういうものは、出てきた時によーく見つめて、わかってあげて、手放すことです。 否定しないで、嫌がらないで、事実を明確に見つめることです。自分を守ろうとして、過剰防衛になっているだけです。今の大人の冷静な目で見極めることですね。芸術や伝統的なもの、美しいもの、バランスの取れたもの、神秘的なものが好きだったり憧れたりするのは、過去世から来ているのでしょう。過去世で培ったものですね。それらは今生でも伸ばしてあげればいいでしょう。それが今生の個性を形作っていくことになります。本当にやりたいことを心から楽しめばいいでしょう。自分を見守りながらやれば、問題はありません。いろんな自分がいることを自覚し、それらと共に生きていくことでしょうか。次は、ぴあのさんですね。【小さな頃から、自分の存在に違和感がありました。それは今もずっと続いています。霊止(ひと)に書かれていたように、いろんな自分がいるのを感じます。今は、とても密度の濃い自分にフォーカスされていることが多く、固体としての自分に翻弄されています。この 翻弄されている自分がそのまま違和感です。この違和感を なんとか和に保とうとして、自分が様々な形=私を作ろうとします。ですが、それは自我の行為であるため、そこにまた違和感を感じます。いつも、この繰り返しをしているように思います。自分という存在が、延々円を描いて同じ道筋をぐるぐる回って堂々巡りしているように 感じますが、その円が少しずつ少しずつ外へ外へ大きくなっているのも感じます。そうして円を描きながら、私の意識が円の外へ 愛やいのちを見ているときには違和感は全くなく、まるで自分が消えてしまった (というより、どこまでも大きくなって 広がっていって、私という形がなくなってしまう=無限) そんな感覚を言いようのない心地よさと一緒に体感します。ですが、すぐに現象や過去のパターンに囚われてしまうときには、意識が円の内へ向かってしまい、まさに孫悟空の輪っかのような感じ、閉塞感、不安感、恐れの堂々巡りの中で苦しみます。自分を感じていて、昨夜は、円の内から出られず、意識が輪の中へ中へと向かいつらくて涙が出てくるし、違和感は最高潮に達し、最悪な自分に閉口してしまい、出口なし、の状態でした。昨日から昨夜まで自分を見つめて感じたことを 今朝(今) こうして文章にしようと 打ち込んでいくと、感覚的なことを言葉で表すのが難しいのをとても感じます。言葉にできない自分の感覚をどう表したらいいのか プチ瞑想をしながらもう一度自分を感じていくと、今度は無限に向かう自分がいて、昨夜の最悪な自分はどこにもいません。ということは結局、自分とは、自分だと思ったところのものなのですね。そして、宇宙から切り離されてしまっているように思う自分も 宇宙に抱かれているように思う自分も、その時々の自分を自分だと思ってしまったとたん、自分を枠の中に定義づけてしまうように思います。それがいつも感じる違和感なのかなあ・・・と、今思いました。閉塞感 という感じもあります。ここから出たい と強く願う自分がいて、それがまた自我を強めているのですね。最悪な自分も クリアな自分も どんな自分にも囚われず 自分という箱の鍵を開けて 外へだしてやれたら と思います。大きな扉を全開にして。・・・というより、壁のない状態がいいかな。】「573日目 - 自分とは-2」に続く
2006.07.28
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屋久島は、今日も美しい青空が広がっている。場所によっては、にわか雨が降ったらしい。今日は久しぶりに本を読んだ。基本的に本は読まない。読むのは年に数冊程度。特に精神世界系の本は読まないようにしている。クリシュナムルティを読み出すまでは、たくさんの精神世界の本を読んだ。しかし、クリシュナムルティを読み出してから、それ以外の本を読まなくなった。1994年末に「K-コミュニケーション」が終了してからは、クリシュナムルティの本も読まなくなった。最近は、たまに人からもらった本を読む程度。読むよりも、圧倒的に書くことに時間を使っている。精神世界の本を読むと、先入観や固定観念になる危険性がある。自分自身で真実を見出す。それが基本スタンス。別に本は必要ではない。しかし、たまには本を読むのもいい。普段とは違う刺激がある。今回も、少し考えさせられた。今の仕事は、ガイド。屋久島ナチュラルヒーリング。自然の中での、自然による、自然な癒し。それが基本コンセプト。そのベースは変わらないけれども、もう一つ付け加えようかなという感じになった。何を付け加えるのか。それは自分自身。自分自身の安定感。これまでは屋久島の自然をメインとして、自分は控えめに振る舞ってきた。これからも自分を全面的に売り出すつもりはないけれども、もう少しあり方を変えてもいいかなと思った。屋久島の自然は大きい。そして、安定している。その自然を体験することは意味がある。それに加えて、自分自身の安定性もアッピールしようかなということ。人間的な安定性。意識の深いところから来る安定性。そういうものと一緒にいることによる影響。白谷雲水峡やヤクスギランドなどは、誰でも案内できる。縄文杉や宮之浦岳も同じ。誰もできないことをやる。木霊の森など、こちらだけしか案内できないところも多少はある。しかし、もう少しオリジナリティを強化してもいいのかもしれない。自分自身にグランディングする。自分自身を生きる。そういうエネルギー場を体験する。それをもう一つ付け加えようかなと思う。これまでも一緒にいれば、お互いに有形無形の影響を与え合っている。それを、もっと意識した形でやる。安定性の体験。グランディングの体験。自分自身である体験。だからといって、これまでと特に変わったことをするつもりはない。ただ、はっきりと意識するということ。精神の安定性を。グランディングを。意識するとしないでは、天と地ほどの違いがある。明確に意識されれば、意識されたエネルギーが定着する。それを感じ、体験してもらう。しっかりとグランディングして生きる。自分自身で生きる。ただそれだけのことが、なかなか難しい。無理なく、ありのままで生きればいいだけなのだが・・・お金を払うということは、自分の安定をその分失うことだと本に書かれていた。確かにそうかもしれない。お金もエネルギー。与えれば減ってしまう。払ったものに見合うだけのものを得てもらう必要がある。なくした以上の安定を得てもらおう。それは自然からも得られる。それプラスαということだろうか。屋久島が持っているエネルギーは、第一チャクラ。即ち、生命力。いのちの島。古沢仁宏にあるエネルギーは、それ以外のものだろうか。それをトータルすれば、すばらしいことになるだろう。もっとも、押し売りする気はない。お客さんが望めばということ。自然だけの希望であれば、それでもOK。でも、それなら他のガイドでもいいかもしれない。これからは、そういう感じでやろうという気になった。支払った以上の安定を持って帰っていただく。トータルな安定。自然+スピリチュアルな安定。人間としての自分自身の安定。これからは、安定ということを意識しながらガイドをしてみようと思う。少しガイドが変わってくるかもしれない。屋久島+αのガイドになるだろうか。トータルな安定ということを感じて、帰っていただけるといいのだが・・・『屋久島の 大きな自然に 抱(いだ)かれて 自分の中の 安定感じる』『存在の 安定感を 体験し 自分自身に 深く根を張る』『トータルに 全存在で 生きること 自分の中の すべてで生きる』『しっかりと 自分自身に 根を張って 自分自身を 真に生き抜く』これが572日目の心境です。
2006.07.27
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明け方に激しい雨が降り、その後カラリと晴れ渡った。屋久島は、さわやかに青空が広がっている。昨日は、木霊の森へ行った。残念ながら、天気が良すぎて木霊は写真には写らなかった。その代わり、お客さんは誰もいない森の中で気功をしていた。天気が続いている割には、苔は思ったほど干からびてはいなかった。山の方は、時々は雨が降っているのだろうか。沢の水は少なかったが、新しいキノコが生えていた。いわさきホテルまで送ったついでに、久しぶりに尾之間温泉に入った。6時頃だったが、空いていた。日が長くなったので、地元の人が入る時間も遅くなっているのだろうか。それから、一昨日作ったポストカードを天然村へ持って行く。そこで、しばらくご主人と立ち話をした。今年は蓮の花はどうなの?今年はぜんぜん咲いていません。去年は?去年は小さいのが少しだけ。どうしたの?肥料を一切やってないので、咲かないんですね。?今、土を作っているんです。無肥料栽培をしようとしているの?そうです。蓮自体は、まだ生きてるの?生きてます。無肥料栽培は農業の究極だものね。米は、ほとんど肥料なしでもできるようになりました。それはすごい!でも、収量は半分ぐらいですけど。なかなか厳しいね。まだ土作りの段階ですから。雨の多い屋久島なら、無肥料でできるかもね。いえ、今は日本全国でできていますよ。エッ?青森ではリンゴの無肥料栽培もできてますから。リンゴが?最初の何年かは、ぜんぜんできなかったらしいですけど。それはすごい!「ナチュラル・ハーモニー」というのをネットで検索してみてください。そこに出てるの?ハイ、たくさん出てますから。という訳で、帰宅してから「ナチュラル・ハーモニー」をネットで検索する。すると・・・そこには無肥料栽培の世界が広がっていた。しかも、丁寧に無肥料農産物の宅配サービスまであった。リンゴを無肥料で栽培しようとした青森の方は、7年間リンゴが実らなかったらしい。その間は、出稼ぎで生活を凌いだとか。8年目に枯れた木とリンゴが実った木が現れた。その差を生じさせたものは・・・7年目に、一本一本の木に、これまで間違った栽培をしてきたことを謝り、元気に育ってくれることを祈って回ったらしい。ところが、人目が気になって、隣の家と接したところだけは回らなかった。その回らなかった木々が枯れてしまった。そして、謝り、祈った木々は次の年から実をつけるようになった。彼は、たとえ有機肥料であっても、肥料は毒だと言う。その毒が抜けるまで、麻薬の禁断症状のようにリンゴが実らなくなったと捉えている。天然村でも、その毒出しを今やっているところらしい。土ができるまで、じっとガマンが続く。農薬や化学肥料から無農薬有機肥料に切り替える際にも、土が復活するまでに、しばらく時間がかかる。しかし、無肥料栽培は、有機栽培を遙かに超えている。農業の究極とも言える。自然そのもの。肥料をたくさん与えることによって、作物は早く立派に育つ。それは化学肥料、有機肥料を問わない。しかし、早く育つということは、それだけ細胞が緻密ではないということでもある。はっきり言えば、中身はスカスカで粗雑になる。屋久杉は、成長スピードが超遅い。それは土地が岩だらけで痩せているから。そのため、木目は最高に緻密になる。そして、他の杉の何倍も長生きする。今の老人が長命なのも、幼少期に栄養が不足して成長スピードが遅かったから。人も動物も植物も、寿命は成熟するまでの期間の何倍とか決まっている。ゆっくり成熟すればするほど、長く生きることができる。それは、しっかりした基礎ができるから。商業ペースで肥料をたくさん与えれば、植物は早く成長する。しかし、間違いなく病気になる。それは、食べ過ぎれば人も病気になるのと同じ原理。そこで農薬という薬を使う。薬を使えば植物の生命力は弱まり、更に病気に罹りやすくなる。そこで更に大量の農薬を散布することになる。その農薬が植物に浸透し、人体に浸透し、病気をつくる。今の世の悪循環。化学肥料を使えば、当然、そうなる。しかし、有機肥料を使い過ぎても、同じような結果になる。最近のミカンは、皮がブクブクしていて剥きやすい。自然栽培のミカンは、皮と身がくっついていて剥きにくい。栄養過多で、皮膚だけが肥大したのが最近のミカン。味は薄く、まったく深みがない。一方、自然栽培のものは、味に深みがあり、生命力に満ちている。農薬や化学肥料で大量生産するところに、質や深みを求めることはできない。表面的な見せかけだけのもの。それが今の世の中。深みに欠ける大量生産の時代。しかし、次に出てきた有機栽培という形も、最終的なものではない。これも人為的なものであり、過度的なものに過ぎない。究極の姿は、自然そのものの無肥料栽培。これは時間がかかる。成長スピードが遅いので、商業ベースには乗りにくい。しかし、時代は本物志向へ向かおうとしている。本当のものに、やっと光が当たろうとしている。人間の都合ベースではなく、自然ベース。自然の生命力と共に生きる時代。無肥料で栽培するということは、結果的に、植物は養分を求め深く深く根を張ることになる。大地にしっかりと根を下ろした生き方となる。それは人の生き方にも通じる。外側からイージーに情報を得て、安易にうまく立ち回ろうとする。時流に乗った浅はかな生き方をしても、あまり意味はない。そうではなくて、しっかりと自分自身にグランディングして生きていく。自分の奥に深く深く根を張る。自分自身の内側から養分を汲み上げる。その時に初めて誰にも頼らないで生きていける。無限の源から無限にエネルギーが供給される。それこそが永遠に繋がる生き方となる。安易にイージーに生きている限り、この世限り。この世だけにしか通用しない生き方となる。根が浅い分、長生きはできない。しっかりと自分自身に根を張れば、死んだ後も、更にその後々までも通用する。永遠に通用する生き方となる。いのちが育つのは、肥料ではない。コミュニケーション。木とのコミュニケーションによって、木は実をつけてくれた。ふれあうことがなかった木は、枯れてしまった。コミュニケーションとは何か。それは単なる言葉のやりとりではない。お互いのふれあい。いのちの交流。その時に初めてお互いが活性化する。それが肥料に優る。それがいのちを育む。いのちを育むものは、肥料ではない。いのちを育むものは、いのちといのちのふれ合い。それはなにも木に限ったことではない。人を育てるのも同じこと。人はパンのみにて生きるものにあらず。心と心のふれ合いが何よりも大切なのだ。人を生かし育てるものは、心と心のふれあい。いのちといのちのふれあい。愛と愛とのふれあい。それらのものが、人のいのちを育み、愛を育てる。しかし、ふれあうことは簡単ではない。なぜなら、人は自分ワールドに生きているから。本当には他の人とふれあってはいないから。ただ自分の思い込みワールドで生きているだけだから。自分を生かし、関わる人を生かすためには、自分の思い込みワールドから出るしかない。そうしない限り、人との真のふれあいはできない。真のふれあいができない限り、人を生かすこともできない。お互いに生かし合うということができない。真にふれあうためには、思い込みワールドの外に出るしかない。その時に初めて、人は生かし合う世界に出会う。いのちといのちがふれあい、生かし合う。それが真実の世界なのだ。すべてのものが、ふれあうことによって生かし合う。それが真実の世界。お互いがふれあうことによって活性化し、いきいきと輝く。それこそが真実の世界。思い込みワールドの外は、生かし愛の世界なのだ。殺し合うのは、思い込みワールドだけ。真にふれあう時、殺すことなどあり得ない。無肥料栽培に挑戦している人たちは、注意深く生きている。自然のシステムを注意深く観察し、それと共に、それを生かしながら生きている。安易に誰かに聞くのではなく、注意深く刻々に自然から学んでいる。その注意深さが、革命的な無肥料栽培を可能にしている。リンゴは、完全無農薬で作ることは不可能と言われてきた。どんなに精魂込めても、最小限の農薬は必要ということになっていた。それを無農薬だけでなく、無肥料で作るとは驚異的なことなのだ。時代は着実に自然指向へ、本物志向へ向かっている。まだ小さな流れだけれども、やがてこれが本流になるだろう。そうでなければ地球の未来はない。今のように資源を無駄に使い、地球を汚染していて未来があるはずがない。地球と共に、自然と共に生きるしかない。しっかりと自分自身に根を張って・・・『無農薬 だけではなくて 無肥料で 作物作る 自然のままに』『何年も 自然に実る 時を待つ 自然と共に 自然に生きる』『屋久杉の あの質感は ゆっくりと 時間をかけて できあがったもの』『肥料では なくていのちの ふれあいが リンゴ実らす 真の源』『表面の 意識で生きて いる限り 真のふれあい 起きてはこない』『生かし愛 それがこの世の 真実と わかれば深く 生きるしかない』『お互いに 心開いて 生かし愛 会うたびごとに 幸せになる』これが571日目の心境です。* ナチュラル・ハーモニーのHPは、http://www.naturalharmony.co.jp/trust/index.html HPを読むだけでも参考になるでしょう。 食べものだけでなく、衣類や住宅などについても書かれています。 また、無料の小冊子なども送ってくれるようです。 別に宣伝している訳ではありません。 こちらも、まだHPの全部は読み切れていません。 農産物の購入等は、自分で判断してくださいね。
2006.07.26
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屋久島は、今日も晴れている。しかし、風が強い。最近、アクセスカウンターが正常に機能していないようだ。7月20日頃に楽天の方で仕様の変更があったらしい。それ以来、アクセス数がこれまでの半分になってしまった。毎日、400~600あったものが、その半数ぐらいになっている。これが正しいのであれば、別にそれでいい。しかし、そうでないなら、アクセスカウンターの意味がない。楽天の担当者のブログのコメント蘭には、たくさんの苦情が寄せられている。しかし、それには一切答えない姿勢のようだ。カウンターがゼロになったという怒りの声も、かなりあった。誠実に対応しないと、楽天そのものが空中分解してしまうだろう。利益追求だけに向かえば、その企業は立ちゆかなくなる。世界中の経営者の意識が時代に追いついていない。組織が大きくなりすぎれば、やがて崩壊する。時代の精神と共に生きていないと、時代から取り残される。企業も人も・・・人は、多くの意識を自分の中に抱(かか)えながら生きている。誰の中にも子供時代の意識がある。いわゆるインナーチャイルドと呼ばれるもの。その意識は、けっして理知的ではない。まだ思考力が発達する前の意識なので、多分にイマジネーション的な意識。ボンヤリと思いに耽るような意識。客観的に自分を見つめることはできない。極めて主観的な、思い込みの世界に住んでいる意識。そういう意識はキャパシティが小さいので、周りから何か言われると、そのように思い込んでしまう。客観的に自分や周りを見れないので、すぐに思い込む。それが心の傷となって、成長した後も意識に影響を及ぼしたりする。人は多層的な意識で成り立っているので、成長した後も、そのような意識が潜在意識の中に残っている。それを理解しないと、今の自分の意識状態がわからなくなる。人は、まるで多層的な多面立方体の集合体のようなもの。何層にも何層にも、多面立方体が重なっている。その多面立方体のそれぞれの形が異なり、色が異なり、波動が異なる。外側のものは内側のものに浸透し、一番外側のものは、すべてに浸透している。その一番外側のものが、いのちや愛と呼ばれるもの。霊と言うこともできる。そして、一番内側のものが、肉体。この肉体に、何層もの多面立方体がすべて重なっている。一番外側のものと、一番内側のものは対極にある。外側のものは希薄。内側のものは濃密。一番外側のものは形がなく、無限に広がっている。一番内側の肉体は、しっかりとした形があり、ある程度固定している。その有様は、いろんな呼び名で表現されている。肉体、幽体、霊体、神体・・・フィジカルボディ、アストラルボディ、メンタルボディ、コーザルボディ・・・感覚、感情、思考、魂、神の子・・・そのいずれも、便宜的な区分に過ぎない。わかりやすい説明。肉体にも感情にも知性にも、それぞれのリズムがある。それがバイオリズムと呼ばれるもの。肉体、幽体、霊体、神体・・・それぞれに固有のリズムがある。それぞれが、それぞれの波動で振動している。そのトータルが人間。人=霊止(ひと)。肉体も器であり、幽体も器。霊体も器であり、神体も器。すべては器。霊の器。根元的な本質は、霊、いのち、愛と呼ばれるもの。それらは一番外側の存在。形のない無限の存在。すべてに浸透しているもの。それが究極と言える。しかし、それらのものには個性がない。無色透明。空の世界。それでは、みな同じ。肉体の中に、その外側のものがすべて結集される時、人は個性豊かに存在する。一人一人が違う。世界に同じ人は一人としていない。それが色の世界。それでは、自分とは何だろう?肉体?感情?思考?魂?内なるキリスト?どれが本当の自分なのだろうか。精神という言葉は、すばらしい。神の精髄。神のエッセンスこそが自分?しかし、その元を辿れば、無色透明になって自分は消える。では、自分とは?自分とは、肉体から一番外側のものまでのトータルだろうか。この肉体に結集されている総体。その総合体が自分というものだろうか。それ以外に自分があるだろうか。肉体だけが自分ではない。感情だけが自分でもない。もちろん、思考だけが自分でもない。では、魂?しかし、魂意識の他にも、感覚や感情や思考もある。気づきや閃きや洞察もある。インスピレーションや創造力もある。運動能力や音感もある。美的センスや叡智もある。自分の中には様々なものがある。そのどれか一つを取り上げて自分と言うことはできない。それらのトータルを自分と呼ぶしかない。ある時は、肉体の快楽の虜。ある時は、感情の虜。ある時は、思い込みの虜。ある時は、美意識の虜。ある時は、神意識の虜。そして、ある時は、悪魔意識の虜。それが紛れもない自分自身。時々によって意識は一定しない。どこに意識がフォーカスされるかによって、意識はどのようにでも変身する。改めて、自分とは?その時々の自分が、自分?不安定な自分?自分とは?何かに引っかかり、何かに囚われれば、それが自分となる。その時、その時の自分がありのままの自分。激情に駆られ自分を見失っているのも、自分。衝動のままに突き進んでいるのも、自分。快楽に溺れ刹那的に生きているのも、自分。いろいろな自分・・・インナーチャイルドだけに意識が行けば、インナーチャイルドに振り回される。恐怖だけに意識が行けば、恐怖に振り回される。ある思い込みだけに意識が行けば、その思い込みに振り回される。どこに意識が向くかによって、人生はまるで違ってくる。意識自体は、無色透明。それ故に、何色にでもなれる。どんな形にでも、どんな音色を奏でることもできる。意識には特定の形や色はない。それは水が方円の器に随うのに似ている。意識をどこにフォーカスするかによって、生き方は違ってくる。特にどこにフォーカスを合わせなければならないということはない。今の時代の多くの人は、思考に意識をフォーカスしていることが多い。しかし、その思考はけっしてクリアーな思考とは言えない。どちらかというと、思い込み的なイマジネーション的な思考が多い。感情にフォーカスしている人も、感覚にフォーカスしている人もいる。たまには魂にフォーカスしている人もいる。しかし、それらのフォーカスは一定している訳ではない。食事中は、多少なりとも感覚にフォーカスが移る。メロドラマを見れば、感情に移ることもあるだろう。受験勉強中は、知的思考にフォーカスが移る。いかように生きるのも、自由。しかし・・・それらすべてを抱き参らせ、トータルに生きることはできるだろうか。それらすべてが自分。どれか一つに偏らない。どれか一つに囚われると、自分を見失う。トータルな自分を忘れてしまう。目が点になり、それしか見えなくなる。誤解や行き違いが生じ、何かがアンバランスになる。ゆったりと見守る全体的な視点が、全体の調和をもたらす。しっかりと自分の全存在にグランディングする。表面だけの自分ではなく、自分の全存在で生きる。一部で生きれば、自分を見失う。自分とは、多面立方体のトータル。何層にも渡る多次元存在。肉体から神の次元に至る総体こそが、自分自身。そのトータルが、個性。個性とは、単なるこの世的なパーソナリティだけではない。魂としての経験。魂以上の経験。それらのトータルこそが、自分の個性と言える。肉体から霊の領域まで、それをトータルすることによって、真の個性が輝く。個性というのは、この世限りのちっぽけなものではない。それは今生の個性。表面意識だけのパーソナリティ。そうではなくて、トータルな全存在としての個性がある。肉体も感情も思考も魂も、それぞれに個性がある。しかし、更に大きく、その全体としての個性がある。そこにフォーカスして生きることだろうか。そこにフォーカスできれば、三次元の現象世界の些細なことに振り回されることはなくなる。もっと深い意識で生きられる。すべてを抱き参らせ、ゆったりと生きることだろうか。『いろいろな 意識自分の 中にある それらすべてを 抱(いだ)き参らせ』『内側の 意識を理解 せぬ限り 振り回されて 自分見えない』『一つだけ 何かに囚われ 生きる時 全体的な バランス壊す』『目の前の 些細なことに 囚われて 意識の総体 忘れないこと』『内側の ありとあらゆる 感覚を 粗末にしないで 味わい生きる』『個性とは この世あの世を 通しての 魂超える トータルなもの』『しっかりと 自分自身に 根を下ろし 全存在で 生きていくこと』『ゆったりと 抱き参らせ 生きる時 すべての意識 光り輝く』『見守れば 現象世界を 超えてゆき 意識静かに 浸透してくる』『ゆったりと 見守ることが 瞑想の 本質そのもの どこにあっても』『何層も 器重なり 浸透し 人は無限の 多次元存在』『肉体も 魂さえも 器なり 霊の器が 人というもの』 『精神は 神の精髄 エッセンス 神の宿れる 人は生き宮』『肉体に すべての意識 浸透し 全存在が 今ここにある』これが570日目の心境です。【ホームワーク】あなたにとって、自分とは何ですか。自分自身をよーく見つめて、回答してください。正解を求めてはいません。自分自身に問いかけ、自分自身を真剣に見つめることです。締切は、7月28日午前9時。BBS蘭に書き込んでください。参加は自由です。但し、自分の言葉で、自分の実感で書いてくださいね。できれば、読む人がわかりやすいように、具体的に書いてください。
2006.07.25
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今日も屋久島は、晴れている。でも、午前中に、ちょっとだけ雨が降った。しかし、ほんの1~2分であがってしまった。昨夜、買い物からの帰り道、自宅のすぐ近くでシカが飛び出した。大きな雌のヤクジカだった。たまに自宅近くでも遭遇することがある。夕方や暗くなってからが多い。昨日の書き込みに次のようなものがあった。【ひとつって本当にあるんだろうか? kimiさんがおっしゃっていることは本当なんだろうか。 心の中ではいつも疑っているけれど・・・。 性格悪いので・・・。】この日記に書かれていることは本当のことだろうか。それとも、間違ったことだろうか。それはどうやったら確認できるのだろうか。その答はどこにもない。誰かに聞いても、人によって答は違うかもしれない。また、誰かの答が正しいという保証もない。さてさて・・・ここに書かれていることが本当かどうか疑いだしたらキリがない。どんどん疑いが増幅されていく。最後は疑心暗鬼になるだけ。最終的には、自分で確かめるしかない。人の意見ではなく、自分自身の実感で確認する。すぐに確認できないものは、わからないということにしておく。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。プラス・マイナス・ゼロのままにしておく。疑うということは、マイナス。信じることの裏返し。むやみに信じる必要もないが、いたずらに疑う必要もない。信じることは、プラス。疑うことは、マイナス。けっしてニュートラルではない。既に予断を持って見ているということ。白紙ではない。信じて物事を見れば、何でもその通りのように思える。疑って物事を見れば、何でも間違っているように思える。白紙で事に望む時にだけ、ありのままがわかる。先入観があれば、先入観に沿って物事が見えてしまう。緑色のサングラスをかければ、すべてが緑がかって見えるように。ピンク色のサングラスをかければ、すべてがピンクがかって見えるように。事実は、わからない。わからないということは、プラスでもマイナスでもない。事実は、ニュートラル。プラス・マイナス・ゼロ。疑うことも、信じることも先入観。白紙の状態ではない。前もっての思い込み。サングラスをかけているようなもの。いかなる偏見もなく、透明な意識で物事に臨む。先入観や固定観念があると、事実をありのままに受け止めることができない。事実を事実のままに受け止めることができないと、すべてが歪んでしまう。自分の思い込みで受け止めれば、その先はまったくの自分ワールド。事実から離れてしまう。ただ白紙の状態で物事を見、話を聞く。それがいかに難しいことか・・・ただ見たり聞いたりすることの難しさ。これまでの条件づけが無意識のうちに先入観になっている。気づかないまま色眼鏡で見ている。事実をありのままには見ていない。そのことに気づけるかどうか。そして、更に注意深く物事を見、聞くことができるかどうか。事実かどうかを見極める。ただ、その意識だけが必要なもの。疑うことも信じることも必要ではない。そういう先入観を一切廃して、ただ事実と共に生きる。疑うことも信じることも、思考の産物。思考が働けば、思い込みワールドに呑み込まれてしまう。事実を見る。ただ見つめる。思考は動かなくていい。思考が動くことなく、ただ見、ただ聞く時、ありのままの事実が感じられる。そこから、どういうふうに行動したらいいかが自然にわかる。わからなければ、その事実と共に留まる。わかるまで、事実を感じている。最初の一歩が最後の一歩。それは心の状態。先入観なく、予断なく、白紙で物事に当たれる意識の状態。それが最初で最後の一歩。その先は、事に当たって、その都度、自然な対応が湧いてくるだけ。思考を超えた意識の状態。見栄や外聞、先入観、固定観念、偏見、思い込み・・・そういう一切のものを脇に置き、ただ白紙で事に臨む。事実と共に、事実ベースで生きる。事実には、プラスもマイナスもない。ただ、ありのままの事実があるだけ。プラス・マイナスは思考の結果。信じることも疑うことも思考の産物。ただ事実を見、見切り、行動する。思い込みを介在させない。事実ベース。もちろん、いろいろ考えてもいい。但し、そこに見守る意識がないと、思考の渦に呑み込まれてしまう。思考は道具。しっかりと見守りながら使う必要がある。そうでないと、気づかないうちに思考に使われている。あれこれ考えているうちに思考の虜になり、自分を見失う。思考の中でもみくちゃにされるだけ。何がなんだか訳がわからなくなる。自分がわからなくなってしまう。しっかり見守っていること。肉体の感覚や感情、思考をゆったりと見守っている。そういう意識がないと、感覚や感情や思考に呑み込まれる。気づいたら、自分を見失っている。感覚の奴隷。感情の奴隷。思考の奴隷。のめり込み、呑み込まれ、自分を見失う。そんな時のなんと多いことだろうか。しっかりと、すべてを見守れている時の何と少ないことだろうか。食欲に溺れ、性欲に溺れる。喜怒哀楽に溺れ、一喜一憂に溺れる。過去の栄光に溺れ、未来の成功に溺れる。感覚、感情、思考の奴隷。気をつけて生きていないと、肉体に溺れ、過去に溺れる。思い込みに溺れ、自分ワールドに溺れる。今の事実ベースで生きることは、簡単なことではない。このすべてを理解することだろうか。理解すること。信じることでもなく、疑うことでもなく、理解すること。理解すれば、後は自然な行為が起きて来る。何をやるべきか、いかに生きるべきかを考えている間は思考の世界。自然な行為のみが思考を超えている。自然にわかる。そこから自然に行為が起きる。そこに思考の介在はない。考えなくても、為すべきことはわかる。思考がすべてではない。思考を超えた意識もある。洞察や叡智によって生きることもできる。思考は道具。必要な時に必要なだけ使うもの。いつも使う必要はない。感覚も感情も思考も道具。この世を、よりよく生きるための道具。間違っても、それらに使われないこと。それらを使いこなすこと。しっかりと見守りながら生きること。感覚や感情や思考と共に、それらを超えて生きること。『本当の ことかどうかが わからねば わかる時まで じっと見守る』『疑えば 疑うほどに 何もかも わからなくなる 思考の虜』『疑えば 思考の中に 呑み込まれ 疑心暗鬼の 世界にはまる』『信じると 疑うことは 同じこと 思考の世界の 表と裏側』『信じれば すぐに何かに 騙される 疑い出せば 疑心暗鬼に』『信じるや 疑うではなく 理解する これが最も 必要なこと』 『良いように 見ようとするのも 思い込み 悪く見るのも また思い込み』『ただ事実 事実ベースで 生きるのみ 良いも悪いも 判断しない』『見ることの ただ見るだけの 難しさ 思い込みから すべて見ている』『色眼鏡 かけていること 気づかずに 先入観で すべて見ている』『見極める 徹底的に 見極める 事実と共に じっと留まる』 『考えて 考え過ぎて 見失う 思考の渦に 呑まれ埋没』『考える 時は必ず 見守って 思考の奴隷に ならないように』『考えて 出て来る行為 自己本位 利害得失 損得勘定』『事実から そのまま出て来る 行為こそ その場に適した 素直な行為』『プラスでも マイナスでもなく ニュートラル 事実と共に 白紙で生きる』『疑うな でも信じるな どこまでも 事実と共に 生きてゆくだけ』 『疑いも 信じることも ない意識 透き通るほど 澄みきっている』これが569日目の心境です。
2006.07.24
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「567日目 - 真の幸せ-2」の続き最後は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【<あなたにとっての幸せとは何ですか。>これまでは「幸福と感じること」と思っていました。どんな恵まれた状況にあっても、幸福と感じなければ不幸だしどんなに辛い状況にあっても、幸福と感じれば何より幸福…そう考えてきました。事実、そうしてきたことで私は幸福でした。不思議なもので…掌の中にある幸せに感謝する事で、増幅的に状況も好転するようで周囲からも、羨まれるほど恵まれた状況になっていく様でした。でも…恵まれた状況に、満たされない私が居るのです。嫉まれないように、言葉を選んだり…何かが窮屈。「幸福と感じること」とても大切だと今でも感じています。けれど、私は思考で感じてきたんです。これでもか思い込みワールド。思考で幸福を感じて、心で感じていたのか…大きな疑問です。「感謝しなければ…」そんな言葉が歓びを窮屈なものにしていく。無理やり感謝していても、心は虚しくなりますね。自分の色眼鏡や物差しで、わきあがる自分を抑えてきたのでしょうね。家族の笑顔が一番の歓びなのに、家族に対しても自分の物差しを押し付けて…。あるがままを受け入れられる私になりたいです。それが幸福かな?人の話も自分のフィルタを通して来たけれど、色眼鏡や物差しを持ち出さず、そのままの話を聴く事だけに集中する事が少しずつ出来るようになりつつあります。心が満たされます。これまで、何て勿体ない事をしてきたのだろうと面白くなります。<真の幸せとは、どのようなものでしょうか。>ずっと考えてきました。自分にとっての幸せさえも定かでない今、真の幸せなんて見えない現状。頭デッカチで、思考ばかりで歩いてきた私。思考フィルタを拭い去る事、少しでも出来たらいいと思っています。思考に走ってしまう自分が居ても、笑顔で「またまたぁ~」っと見守っていきたいと思っています。そしていつか、無色透明な私で居たい。輝かなくてもいい、優しい光がもてたら最高だと感じている今日です。】幸福と感じることが幸せ?確かに。そのように言えば、そのようにも言えますね。幸福と感じ、感謝することで状況も好転?確かにそうですね。「私は幸せです。ありがとうございます。ありがとうございます・・・」というような教えもあったような・・・でも、何かが満たされない?思考で幸福と感じ、無理やり感謝していた?幸せになるために感謝していた?そこにあるのは何?恣意?作為?少なくとも無作為ではなかった。自然ではなかった。何か不自然・・・ありのままではなくて、幸せを求めていた?ありのままではなくて、幸福な暮らしを求めていた?そのための手段として、幸福と感じ、感謝をしていた?どこか作為的だった?作為を外し、事実と共に生きることでしょうか。意識的に幸せになろうとするのをやめて、自然のままに生きることでしょうか。目的を持ち、それを達成する。それが幸せであるという考え方もあります。それも否定はしません。でも、達成して得られるものは、最初に設定したものです。その幸せは、自分の過去の経験から設定したものに他なりません。比較による思考の産物です。相対的で不安定なものです。思考がつくり出す幸せは、所詮、思考の範囲内のもの。それは比較、相対、恣意の世界にあるものです。どこまで行っても、その範囲を超えることはできません。どこまで行っても、条件つきの幸せなのですね。不思議なことに、幸せを求めている限り、幸せになることはできません。なぜなら、幸せを求める心は満たされていないから。満たされたら、もう幸せを求めることはないのですね。自分の中の満たされない部分と一緒にいて、それをよーく感じてあげることでしょうか。 ありのままの自分自身と一緒にいて、良くも悪くもなく、ただやさしく見守っていることでしょうか。幸せというのは、イメージです。世間一般で言われていることであり、自分が思い込んでいることです。その実体は、極めてこの世的なものです。思考が組み立てたフィクションです。幸せという幻想に溺れないで、事実と共に生きましょう。事実の先に、イメージの幸せを遙かに超えた世界が広がっています。事実ベース。ありのままベースに生きることです。『好きなこと やってる時が 幸せと 好きでないこと やりつつ思う』『美味しさに 心も体も 満たされて 味覚の喜び 浸る幸せ』『不味いもの 食えば途端に 不幸せ 時間損した 料金返せ』『大切に 育てた花が 咲いた時 嬉しさ喜び この上もなし』『大切に 育てた花が 枯れる時 寂しく悲しい 老いを感じる』『現象に 左右されてる 幸せは 今日は幸せ 明日は不幸』『幸せと 思っていたもの 消える時 同時に幸せ 消えてなくなる』『幸せは 消えてゆくもの いつまでも 続く幸せ 見当たりはせぬ』『外側の ものに幸せ 感じれば やがて消えゆく 諸行は無常』『いつまでも 変わらぬ幸せ 求めれば 意識の奥へ 向かうしかない』『外側の 心惑わす もののない 世界で静かに 暮らしてみたい』『外側の ものから逃げて 内側に 篭もってみても 内もザワザワ』『内側の 火種を整理 せぬうちは 内にも外にも 幸せはない』『不幸から 逃げているだけ 幸せに 不幸と共に いたくないから』『不幸から 逃げれば不幸 追ってくる 幸せ遠く 去ってゆくだけ』『ネガティブな 感情沸いて くる時に すぐに幸せ 壊れてしまう』『幸せは そんなに儚(はかな)い ものなのか 感情のまま コロコロ変わる』『感情に 左右されない 幸せは 感情よりも 深い領域』『経験を する度幸せ 模様替え 永久不滅の 幸せはない』『健康な 時に幸せ 感じずに 病気になって 初めてわかる』『幸せは 人工的な ものなれば 天然自然に 幸せはない』『幸せに なると言われて 感謝して 心の中は ギブ・アンド・テイク』『目的の ために感謝を 使う時 心からなる 感謝が消える』『下心 何も挟まぬ 行いが 言葉を超えた 幸せの元』『幸せを 求めることは 遠ざかる ことと知らずに 自我が求める』『求めない 達成しようと 思わない 思えばすべて 欲になるだけ』『理解する あとは自然に やって来る 求めることでは 何も掴めぬ』『恣意的に 求めて得られる 幸せは 思考がつくる 不自然なもの』『幸せは イメージであり 幻と 理解する時 思考を超える』『幸せと いう言葉さえ ない時に 幸せ感に 満たされている』『幸せと 感じる時に 幸せは 思考がつくる 幸せとなる』『美しき ものはあれども 美しき ものはそのまま 存在するだけ』『時々を 味わい楽しみ 喜んで 生きていけたら 幸せなのかも』『囚われを 外していけば その先に 囚われのない 世界広がる』『幸せも 不幸せもない 何もない ただ満たされて 言葉を超える』『何もない 空っぽの時 満たされて ただ在るだけで 何も要らない』これが568日目の心境です。
2006.07.23
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「567日目 - 真の幸せ-1」の続き次は、ぴあのさんですね。【私にとって幸せとは、不安や恐れなどのマイナス感情がなく、愛と光を感じて至福感に満たされている 常にそういう意識状態でいられること。時折、この至福感に満たされ天を舞っている私ですが、いつもすぐ不安と恐れに襲われ、地上へ落ちてしまうこと多々、その上さらに闇の世界に入ってしまうことも。至福状態のキープは 本当に難しい・・・夜中にふと目覚めた時に、いいようのない不安感に包まれていることがよくあります。朝、目覚めた時も、不安と共に目覚めているのかしら私・・・ と思うほど目覚めたと同時に 訳のわからない不安感が一緒にやってくることがよくあります。子供時代の緊張した生活がそうさせるのか 過去世のつらい経験が尾を引いているのか・・・あれ?なんだか不安のワークになっていっていますが、私の奥にいつも不安ベースがあって、すぐ不安にひっぱられるため、なかなか幸せは持続しません。真の幸せとは、上に書いたような私の意識、思考や想いの世界をはるかに越えた次元、 幸せという概念さえ存在しない世界に住むこと。すべてが調和され、愛に包まれ、絶対の信頼感で満たされた次元に心が住むこと。そのような状態でいられることなのではないかと思います。】至福感。ぴあのさんは知っているのですね。すべてが調和され、愛に包まれ、絶対の信頼感で満たされた次元・・・確かにそういう次元はありますね。そこにいれば無条件で満たされている。それを幸せと言えば言えなくもありませんね。でも、それは不安や恐れの状態と比べてということかもしれません。至福感だけの世界にいれば、特に幸せとも感じないでしょう。それが当たり前なのですから。子供時代と過去世の辛い経験が尾を引いていますね。それは本質的には同じことでしょう。心が何かに囚われて自由ではないのですね。それが足を引っ張って至福感に浸れない。至福感を思う存分味わうのもいいでしょうが、それがすべてではありません。至福感から起きる行為というのも、またあるのですね。至福感に逃げないことでしょうか。事実ベース。至福感も不安も恐れも、共に一緒に生きることですよ。至福感も不安も恐れも宇宙の一部。それらを見守り、味わい、体験し、進んでいくのですね。至福感に逃げている限り、不安や恐れはクリアーできませんよ。次は、やちよさんですね。【「わたしにとって、幸せとは」それは心も身体も「健やか」な時です。心が開いていて、愛が満ちて、感謝に満ちて、ただ在るだけの時です。でも...そうでない時はすぐにやってきます。起こった出来事、またはまだ起こっていない出来事に対し、ネガティブな感情が湧いた瞬間、健やかでなくなります。「健やか」と「健やかでない」の分離がまだまだあります。「真の幸せとは」「幸せだ」という感情さえ無いことだと思います。「幸せ」があれば「幸せでない」が存在するから。でもこの答えは、完全な自分の言葉ではないかな...すみません。※今回「幸せ」について、自分を見つめ始めたら涙が止まらなくなりました。なぜだろう...やはりみんな幸せを外に求めて求めてさまよっている...そう思うとなんだか哀しさでいっぱいになったのだろうか。】心が開いていて、愛が満ちて、感謝に満ちて、ただ在るだけの時?ほぼパーフェクトな答ですね。これでは何もコメントすることはありませんね。でも、残念ながら、この状態は長くは続きません。そこでコメントできる訳ですね。ネガティブな感情が湧いた瞬間、幸せでなくなる?儚(はかな)い幸せですね。それは病気のようなものでしょうか。健康の間は、何も問題はない。ところが、病気になって初めて自分が不自由なのを知るのですね。まだまだ病気が多いようですね。今は病気からの回復途上?せっかく病気になったのだから、病気の原因を見極めて、二度と病気に罹らないようにしましょうね。真の幸せについても、その通りですね。比較・相対を超えた次元ですね。そうなると、もう言葉で表現するのが難しくなります。存在のあり様(よう)なのですね。生きている状態そのもの。今回は、なかなかクリアーなやちよさんでしたね。次は、木の葉さんですね。【ホームワーク参加させてください。よろしくお願いします。「私にとって、幸せとは」一番に思いついたのは「美味しいものを食べているとき」「温泉につかってゆったりしているとき」「ベットでごろごろしているとき」でした。基本的に怠惰な性格です。 心が満たされ、安心感、開放感が一杯の時なのでしょうか?自分が幸せだと感じるときは感謝の気持ちが生まれて不安や恐怖は払拭されすべてがうまく行くような気がしてしまいます。で、ここまで考えている時にふと「それ以外の私は幸せでないの?」ということに。。条件付けがある幸福感ではそれ以外は不幸になってしまう?でも、私は「それ以外」を不幸だとも思わないし。。相対の世界ではいつまでたっても幸不幸が隣り合わせ。私が幸福だと思っているそのものが「思い込み」なのかも?東洋医学の考え方に平を保つというのがある。人間みなバイオリズムがあるので、当然起伏はあるその中でバランスを保つこと。上へいっても、下へ落ちても揺るがない。ただただそれを感謝してそのまま受け止められたら、心の平安=私(個人)の幸せなのかもしれません。「真の幸せとは」体感していないのでなんとも言えないのですが、個を超えたところ。私がないところ枝葉の私が大本の木の根っこしっかりとつながった感覚が常にあること。ひとつが全体、全体がひとつのところ。。っていうイメージがあります。】美味しいものを食べている時?温泉に浸かっている時?ベッドでゴロゴロしている時?それらに共通するのは?それは、リラックスでしょうか。日常の緊張から解放されて、のんびりしている時ですね。その時に、安心感や開放感があるのでしょうね。それは、どちらかと言うと、緊張の裏返しとしての幸せと言えないこともないような気がしますが・・・いつもいつもベッドでゴロゴロしていたら、幸せ?ずーっと温泉に浸りっきりだったら、幸せ?美味しいものばかり食べ続けていたら、幸せ?そのうちに飽きて、幸せではなくなりそう・・・その時、その時を楽しむことですよね。比較ではなく、そのものを味わう。恣意的に選択するのではなく、目の前のものを楽しむ。それができれば、本当に幸せかもしれませんね。確かにいろんなリズムがありますね。体のリズム、感情のリズム、精神のリズム・・・それに様々な自然のリズムが付加され、宇宙のリズムも加わってきます。人はいろんなリズムの集合体です。当然、アップダウンがあります。そういう時に一緒にアップダウンしていたのでは、躁鬱病になってしまいます。様々なリズムを見守りながら、自分を見失わないことが必要です。それを東洋医学では、平を保つと言うのでしょうか。心の安定を保つのですね。それが幸せ?それもまた心の不安定との比較から来るものでしょうか。でも、実際的には、心が安定しているというのは、とても安心できることですよね。悪い状態ではありません。ただ、その深さのレベルがあるのかもしれませんね。真の幸せについてのイメージは、ピンポーン!という感じですね。木全体に繋がっている枝葉というのは、いいですよね。その実感があれば揺るがないでしょう。その時には、もう自分が枝葉であるとか木全体であるとかいう感覚はないのですね。ひとつなんですね。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【ありのままに見つめ、ありのままに感じて、その存在を受け入れられるとき、深い幸せに満たされるのではないかと思います。まだ私にとっては経験として、感覚としては、わかりません。相変わらず思考の世界にいて、思考に翻弄され、自分というものを見つめられていない状態です。ただ、自分という存在を十分に理解してクリアーになるとき、自分の魂そのものの声を聞くことができるとき、いとおしい大切ないのち、かけがえのないいのちである自分という存在をありのままに全肯定できて、まばゆい愛情に包まれるのではないかと思います。自分自身を見つめることが、自分の周りのものをも見つめることになり、いのちの存在を深く感じることができれば比較や思い込みのない真の幸せにつながるように思えました。相変わらず思考の世界で、自分の過去の幸せを書き出してはみたものの、どれも一時的、比較の幸せにすぎなくて、思い込みワールドからのものだと気づき、具体的な自分自身の経験からの真の幸せは見つけることができませんでした。】心を開いて、ありのままと共に生きる時、自分の中に不安や心配はないのですね。不安や心配がないところには、別の何かがあります。言葉で表現すれば、安心感ややすらぎということになるのですが、それをも超えたものですね。それは一般的に言うところの幸せではなくて、別の次元の意識の状態ですね。でも、そういう状態を実現するためには、自分の思っていた幸せが比較による一時的なものであったという自覚が必要なのですね。それは思考がつくり出す思い込みワールドでしかなかったという明確な理解が必要なのですね。そういう意味では、過去の幸せを書き出してみたことは無駄ではなかったでしょう。その事実をはっきりと理解することが、次へのステップに繋がるのですね。思考の塊である自分も否定しないで、ゆっくりとあたたかく見守っていってくださいね。 「568日目 - 真の幸せ-3」に続く
2006.07.22
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屋久島は、今日も蒸し暑い日が続いている。まったく雨が降らない。九州南部では大雨が降っているというのに・・・しかし、暑いにもかかわらず、虫が鳴き、鳥がさえずっている。その澄んだ声が静かな空間に響き渡る。ホームワークを見ることにしよう。テーマは次のようなものだった。【あなたにとっての幸せとは何ですか。 真の幸せとは、どのようなものでしょうか。】最初は、藍&aiさんですね。【藍のしあわせは。。ささやかなしあわせです自分が好きなことに没頭している時。。陶芸をやっているときはこころが無心になれて、作品のでき不出来に関わらずそんなときの自分にしあわせだな~と感じます。バイクを走らせて風を感じている時。。そこが森林の近くだと、森の霊気を感じられて、よりしあわせを感じます。空を見あげている時or。。夜空を見上げているとき。。流れ星に出逢えたときはあなたは、このままでいいんだよ。。と無言の激励を貰えたようでしあわせ。。森の中の。。名も知らぬ花に出逢えたとき。。美味しいものを食べた時。。生きているんだな~としあわせな気持ちになる。。大切に育てている花が花開いたとき。。子供たちの成長をみるとき。。成果ではなく頑張っている姿そのものを見るとき深い愛を感じるとき。。藍の真にしあわせだと思えるときは。。たぶん、自分の一生の使命。。役割を果たせている時かな。。でも、正直、いまの藍には、自分の使命が何かが分からない藍が生まれてきた意味。。果たすべき使命が何か。。何かに役に立ちたい。。誰かの役に立ちたい。。自分の生きている意味。。それに目覚めることを含めて】自分の好きなことに没頭している時に幸せを感じるのですね。陶芸、バイク、空や夜空、流れ星、花、美味しいもの、開花、子供の成長・・・そのものを愛し、そのものを楽しんでいれば、何も問題はないでしょう。その瞬間を歓びと共に生きていれば、それで必要十分でしょう。ただ、それらのものがなくなった時に、どのように感じるか・・・喪失感があるかどうか。喪失感があると、幸せとは言えませんね。依存や執着の問題が出てきます。また、好きなことをやっている以外の時間と比較して、好きなことをやっている時は幸せ?というのも、比較による幸せですね。そうなると、好きなことをやっている以外の時間が不幸せということになってしまいます。純粋に今やっていることが楽しめたら最高ですね。一生の使命や役割については、かなり観念的な感じがします。突然目覚める人もあるかもしれませんが、多くは日常の地道な積み重ねの中で閃くものです。生まれてきた意味や使命がわかったら・・・というのは、たぶんに現実逃避的な印象を受けます。生まれてきた意味や使命がわかるまでは?人生の浪費?そんなことはありませんよね。今ここを真剣に生きることですよね。そうでないと、いつまで経っても生まれてきた意味や使命や役割はわからないでしょう。 そういうものは、日々の真剣さの中で自然にわかるものですから。次は、えっちゃんですね。【私の場合、心が騒がない事。平穏無事であること。つまりは、心がゆったりしている事が幸せということです。最近、少しそうかな?って思っていたけど、まだまだ根本的には幸せになっていなかった。以前、心騒がした感情がまだどこかにくすぶっていて、一陣の風ひと吹きで噴煙をあげた。感情は言葉で表現すると、とても一面的になる。「憎しみ」というと、もう解決している事だったはず。でも「批判」という形で燃えあがった先日の感情は根が同じでした。まだ爆発物が完全処理されていなかった。私に内包されている引火物を一掃したいと思ってますが、やはり、燃え尽きさせる以外にないのかも知れない。真の幸せとはこういうすべての爆発物が心から消え去った状態のこと?そうだろうか?私には、目的地が何となく感じれて、それに向かって課題にぶち当たり、kimiさんや色々の人の言葉に気付き、自分をクリアにしようと出来る、少しばかりの余裕のある日々を過ごしている今が、一番幸せなような気がします。試験のある学生時代が結局一番のんびりした時代だったように。課題といえば、私の火山が時折噴火する火種をくれた人がいる。それまでもあったかも知れない気付きのチャンスから、私はいつも見ないふり、感じないふりで、逃げ切ってきたのかも知れない。関係ないと思ってきた子供時代。いつもトラブル飛び交う家族の中で、末っ子の私は、ひとり関わらないで、見て見ぬフリ、感じないフリをしていた事は、私の生き方に影響があったようです。そんな私の元に、火種さんは不自然なほど降って湧いたように現れ、自分を開放していいんだよと言った。何故か言われるままに無防備になって鎧兜を脱いだら表にほっぽりだされて、課題だけ背負う羽目になった。でも、これは神様からのプレゼント。何故なら、課題だけでなく救世主をセットで用意してくれていた。私は幸せ者かも知れない。屋久島の自然を感じながら、救世主に光への道案内をしてもらっている。救世主は現れないってkimiさんはおっしゃるけど、私には現れましたよ。(みなさんにもかな)私の場合、メシアじゃなくて、めし屋かも知れないですね。示してくれるの精巧な生き方サンプル。材料持込で自分で作るめし屋。でも気のいい板さんが、調味料や、隠し味をしっかり教えてくれる。それに甘えて、のらくらしてたら、いい加減にしてほしいと板さん自我がぼやいた。イエスキリストは何故磔になって見せたかわかったような気がする。いくら愛を教えても、自分の欲得に明け暮れる弟子にしっかり気付かせるためだった? イエスがいなくなって、一番辛かったのはユダかも知れない。わが救世主がいなくなっては寂しいので、しっかり火種撲滅に専念せねば・・・・課題さんへの感謝の気持ちも交えながら。】心が騒がないこと?平穏無事?心がゆったりしていること?それが幸せ?真の幸せとは、すべての爆発物が心から消え去った状態?確かに・・・確かにそうだけれども・・・それは、心が騒がしかったり、心が忙しかったりのアンチテーゼでは?そういう状態に比べると、平穏無事な方が幸せ・・・それは、病気になって初めてわかる健康のありがたさみたいなものでしょうか。健康の時は何も感じない。でも、病気になって、何も抵抗がないことのすばらしさがわかる。それは、やはり比較から来る幸せではないでしょうか。健康な時、健康と感じるでしょうか。一度病気を体験すると、健康のありがたさがわかります。でも、健康な子供は、そんなことを感じたりはしません。健康というのは、本来、自然なことだから、特に幸せを感じるものではありません。病気になってみて、初めて健康のありがたさがわかるのですね。本当は、幸せもそういうものではないでしょうか。意識的に幸せと感じるのは、すべて比較の産物かもしれないですね。何も抵抗がない状態では、特に何も感じません。ただ目の前のものがクリアーに感じられるだけ。花のいのちが直に感じられるだけ・・・目的地?メシア?そんなものはありませんよ。今は囚われを外しているだけ。それが自分を苦しめているから。その先?その先もあるけれども、またその先もあって・・・目的地はないのですよ。それはその時、その時に便宜的に設定しているだけのもの。ただ限りないものがあるだけですね。それが真の幸せ?・・・・・・次は、優しい気持ち2005さんですね。【以前から考えていたんです、幸せってなんだろうって。過去の記憶で、幸せとイメージした状態。なにかと比較した結果の、表層心理的に満足な状態。思考を活用し想定した、一時の安定。そんなところに幸せのようなものがあるように思います。すべてが思考による条件つき。外界の刺激があっての幸せ。真の幸せ、何でしょうか。そのすべての条件から解放されて、なにもないあるがままの状態でも豊かさを感じられることでしょうか。心理的に不安定でも、それをただ不安定のままで心を解放した状態でいられること。なんだか、ちょっと違うかな。難しい。。。素直に今、僕が望むことは・・・自分を見守る意識を育てて、外界の喧騒に左右されずに他人の感情や言動からも自由になっていつも自分のままでいること。そして、深い意識といつもつながっていられること。幸せというより、望みのような回答になってしまいました。】一般的な幸せについては、ここに書かれているとおりですね。それは比較に基づく思考の産物です。思考が過去の経験と比べて、幸せと認定したに過ぎません。それは表層的であり相対的です。では、真の幸せとは?敢えて言えば、感受性豊かに、共感共鳴しながら生きている状態でしょうか。囚われがなく、静かに見守っている状態ですね。特定の状態ではなく、普段の心の状態ですね。青空が美しいと感じるのは、曇り空や雨の日があるからでしょう。毎日が青空では、特に何も感じないでしょう。青空だけがある状態では、特に幸せとも感じないのですね。幸せと感じないで、幸せに生きているのです。それが幸せというものではないでしょうか。「567日目 - 真の幸せ-2」に続く
2006.07.22
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「566日目 - 思い込みワールド-1」の続き『思い込み ワールドこそが 自分だと 思い込んでる 問うこともなく』『思い込み こそが自分と 思い込み 傷つき悩み 痛み苦しむ』『思い込み あるから出てくる 反応を 自分自身と 誤解している』『感情を 自分と思う 思い込み 自己同一化 しているだけを』『思い込み 中身と反応 違うだけ 構造自体は みんな共通』『思い込み 覆(くつがえ)されて 欺いた 欺かれたと 反応起きる』『こうあって ほしいと願う 思い込み 裏切られると 怒り憎しみ』『期待した ものが返って こない時 裏切られたと 期待が反発』『思い込み 肯定されれば 喜んで 否定されれば 怒り心頭』『思い込み 正しい基準と 思い込み 正邪善悪 すべて判断』 『話したい ことは何にも 聞かないで 思い込みから 反応するだけ』『本当の 相手の姿 わからずに 思い込みから 決めつけるだけ』『心から 聞こうとせねば 主張する 子供の奥の ものは見えない』『思い込み 外さなければ 言動の 奥にあるもの 感じられない』『冷静に 話し合ったら わかるのに 話し合わずに 反発するだけ』『よく聞いて わかってあげれば いいものを 反応のまま 反発するだけ』『聞くだけの ことができない どうしても 反応が出て 感情動く』『満足に 聞くことさえも できないで 相手をわかる ことはできない』『心から 聞こうとせずに 思い込み 反応してる だけに過ぎない』『反応に 反応重ね 反応の 奴隷となって 悩み苦しむ』『反応の 奴隷になれば 感情の 泥沼の中 生きる人生』『反応に 負けずに反応 見守って 静かにゆっくり 話し合うこと』『思い込み ベースに生きて いる限り 誤解・争い 絶えることなし』『思い込み ワールド内で 見るものは 自分自身の 投影したもの』『思い込み ワールドという 金魚鉢 狭い世界で 生きているだけ』『思い込み ワールド内に 届くのは 暗く澱(よど)んだ 歪んだ光』『光あり 生きようとする 光あり 光のままに 見守り育てる』『金魚鉢 飛び出す勇気 あるならば 異なる世界 自ずと開く』これが566日目の心境です。
2006.07.21
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屋久島は、今日もさわやかに晴れている。少し風がある。もっとも、風があるのはここだけかもしれない。ここは風の強いところ。夏場は涼しくて過ごしやすい。昨日、次のようなコメントがあった。【う~ん。。ただ唸って終わりそう 自分の中の 思い込みって何?>『思い込み 以外にあなたに 何がある あるならあるもの 示してごらん』思い込みも思い込み以外もよくわからん。。藍には、自分の中の思い込みもよくわからない。。いろいろなものに反応して現れてくる自分も自分だと思ってた。自分の描く思い込みワールドも自分のオリジナリティー。。自我とか思い込みとか言われても、いまだによく分からないよ~。。縁にふれて、ふらふら水槽の中を泳ぐ金魚じゃいけないの。。?やはり。。もっとひろい?大海を知らなくては、生きている意味がないというの。。?Kimiさんの言われている意味が、未だによく理解できない藍。。頭が悪いのかなあ~。。。(やっぱり。。アルツハイマー。。?)】反応している自分も自分?思い込みワールドも自分のオリジナル?確かに・・・個々の思い込みワールドこそが、世間では個性とかパーソナリティと呼ばれている。ふらふら水槽の中を泳ぐ金魚?金魚鉢の中でフラダンスでも踊っているのかな?別にそれではいけないと言っている訳ではない。本人がそれでいいとおっしゃるのなら、何も言うことはない。ただ、この数日前に次のような書き込みがあった。【『憎しみや 恨みの奥に あるものは 生きようとする 光そのもの』きょうも真ん中っ子のことで、びっくりすることがありました。またもや藍を欺く行為を平然とやったのです。もう、お手上げ状態。。。そんななか。。この言葉にハッとしました。息子は。。藍に憎しみや恨みを思いっきりぶつけますが。。その奥には。。生きたい。。自分らしく生きてみたい。。そんな想いがあるのかもしれない。。そう思いました。『生きようとする 光そのもの』。。そこにあふれるばかりの愛を感じます。。。もう少し。。気長に忍耐して。。息子を見守っていきます。。。自分のこころも見つめながら。。。ありがとうございます。。】この中に、「欺く行為」という言葉が出てくる。息子さんは本当に藍さんを欺いたのだろうか。欺くとは、どういうことだろう?それは藍さんの期待を裏切るということだろうか。藍さんにとっては、息子さんから思いもよらない言葉や行為が返ってきたのだろうか。だから、息子に欺かれたと思ったのだろうか。息子さんは本当に藍さんを欺いたのだろうか。彼にその意志があったのだろうか。母親の期待を積極的に裏切ろうとする息子がいるだろうか。彼は本当に藍さんを欺いたのだろうか。それとも、藍さんが欺かれたと思っているだけだろうか。彼に母親を欺く明確な意志があれば、欺いたということだろう。しかし、そうでなかったら?彼は欺いてはいないのかもしれない。藍さんが一人で欺かれたと思い込んでいるのかもしれない。息子が自分の期待通りのことをすれば、欺かれたとは思わない。ところが、彼が自分の期待とは異なることをすると、欺かれたと思う。ここには二重、三重の思い込みがある。最初の思い込みは、息子はこうあるに違いないという思い込み。二番目は、その思い込みが裏切られた時に、欺かれたという思い込み。最後は、思い込みが裏切られただけなのに、「自分が」欺かれたという思い込み。最初の思い込みがあることによって、二番目の思い込みは生じる。最初の思い込みがなければ、二番目の思い込みは生じない。最後の思い込みの中には、思い込み=自分という思い込みが見て取れる。三重の思い込みが、ご理解いただけただろうか。もし彼に母親を裏切るつもりはなかったとしたら・・・息子を裏切り者にしているのは誰だろう?彼は、ただ自分の思うところを述べただけ。ところが、母親によって裏切り者にされてしまった。どこかヘンなところがあるだろうか。どこか間違いがあるだろうか。これが客観的な事実ではないだろうか。事実ベースで見れば、息子さんは自分の意見を言っただけ。藍さんがそれを聞いて、彼は自分を欺いたと思い込んだ。そして、もうお手上げと言っている。もし藍さんに思い込みがなければ、どうなっていただろうか。彼は自分の意見を言う。それをよく受け止めて、藍さんも自分の意見を言う。お互いに相手が言いたいことを理解する。そこでわかり合えればいいし、わかり合えなければ、また別の機会にゆっくり話し合えばいい。ケンカ別れする必要はない。冷静に話し合えばいいこと。ところが、そこに思い込みがあると、その思い込みが反応する。どうしてそんなことを言うの!それが母親に向かって言う言葉!どうして私の言っていることがわからないの!あなたのためを思って言っているのよ!最初から冷静さの欠片(かけら)もない。ただ感情的に反発しているだけ。聞き分けのない子供と変わらない。それもこれも思い込みがあるから。思い込みが自動的に反応しているだけ。つまり、思い込みの奴隷ということ。冷静に話し合うということができない。ほとんどロボットに近い。反応ロボコン?反応ロボコンこそが、個性?その反応がオリジナリティ?そうでないとは言わないけれども・・・でも、多くの人に共通する個性であるのも間違いない。このように書くことができること自体が、一般的ということではないだろうか。誰にでも見られる現象。殊更に個性と言い立てるほどのこともない。自分の中に思い込みがあると、それが自動的に反応する。感情的になり、冷静に話し合うことを難しくする。それはお互いがわかり合うことを妨げる。最終的には、罪もない息子を裏切り者にしてしまう。これがもっと社会的に広がると、お互いに相手を非難し合うことになる。自分の思い込みは棚に上げ、相手が悪いと批判する。それが更に広がれば、戦争になるしかない。元々の発端は、自分の思い込みが裏切られたこと。思い込みがある限り、そんなことは珍しくもない。ところが、その度に感情的に反発し、相手を悪者にし、自分を正当化する。自分は常に正しい。自分の思い込みと違うことを言う人は、ヘンな人であり、間違った人であり、信頼していたのに自分を欺いた人ということになる。自分の思い込みが、すべての判断の基準。それによって様々な感情が沸いてくる。嬉しくなる時もあれば、悲しくなる時もある。楽しくなったり苦しくなったり、一喜一憂、喜怒哀楽の世界となる。それこそが人生?確かに。それこそがほとんどの人が生きている現実。しかし、それは反応人生。金魚鉢の中で反応しているだけの人生。自分の思い込みの世界に住んでいるだけ。本当の相手の姿はわかっていない。自分の思い込みと違えば、欺いた人にして納得しているだけ。彼は欺くつもりはなかった。彼は彼の思うところを述べただけ。それをあなたは認めない。自分の思い込みから、自分を欺いたと判断する。このようなことが日常茶飯事に行われている。自分の思い込みから感情的に反発する。相手の真意は何もわかっていない。聞く耳を持たない。ただ自分の思い込みが反応しているだけ。相手を本当にわかろうとはしていない。相手の話を聞いて、すぐに頭が働く。判断し、解釈する。黙ってありのままに聞こうとはしない。聞きながら思い込みが反応している。あなたは、黙って、いかなる反応もなしに、人の話を聞けるだろうか。まず、聞ける人はいない。聞くことだけに集中しないと、そんなことはできない。自分が人と話している時に、よく注意して自分の態度を見てみるといい。あなたは、黙って人の話を聞いているだろうか。相手の話をわかろうとして、いかなる判断や解釈も差し挟まないで、真剣に聞いているだろうか。それとも、聞きながら、ああだ、こうだと判断したり、解釈したり、理非善悪を断じているだろうか。今度人と話す時に、よーく注意して見つめてみるといいだろう。いかに自分が真剣に人の話を聞いていないか、いかに黙って聞くことが難しいかがよくわかることだろう。ただ人の話を聞くということさえ満足にできない。すぐに思い込みが反応し、内心では感情的に反発したりしている。まったくの思い込みベース。事実ベースは微塵もない。人の話を聞くという基本的なことさえ満足にできないのが現実。ただただ思い込みの虜。思い込みが反応しているだけ。それが紛れもない自分自身ではないだろうか。そのどこが悪い?悪くはない。良くもない。事実を見つめてほしい。そういう自分であることを。思い込みが真のコミュニケーションを妨げていることを。思い込みが誤解を生み出し、お互いを遠ざけていることを。思い込みによって、どれだけの行き違いと諍(いさか)いが生じていることか。親しい関係であればあるほど、遠慮なく思い込みが反応する。その反応を超えるほどの信頼関係があれば問題はないが、やがて反応の方が信頼関係を凌駕していく。その結果、残るのは恨みと憎しみだけ。思い込みこそ自分だと言っていられるだろうか。思い込みワールドこそがオリジナリティだと言っている場合だろうか。思い込みから何が生まれるか、よくよく理解する必要がある。その理解が広まらない限り、今の世の中が続く。誤解と争いの世の中が・・・思い込みのある人を責めている訳ではない。ただ事実を理解してほしいだけ。思い込みがつくり出す結果をはっきりと認識してほしい。その上で、まだ思い込みワールドで生きたかったら、どうぞご自由に!何も言うことはない。ただ、ほとんどの人は、自分が思い込みワールドの中で生きていることさえ気づいていない。思い込みにどっぷりと浸りきっている。それが今の社会をつくり出している。良いも悪いもなく、それがありのままの事実。そこを理解し、そこを超えていかないと、新しい時代はやって来ない。そのために、この日記は存在する。彼の中にある生きようとする意志。生きようとする光がわかるためには、自分の思い込みを外す必要がある。思い込みがある限り、彼の光はわからない。ありのままを見る目がない限り、意識の奥にある光をわかることはできない。思い込みという色眼鏡をかけている限り、見えるのは自分の世界の投影したもの。真実は何も見えない。恐るべし、思い込み!思い込みを理解しない限り、真実の人生は開かない。ただ思い込みという狭くて暗い金魚鉢の中で生きているだけ。光は金魚鉢を通してしか射してこない。ダイレクトに光を感じるためには、金魚鉢の外に出るしかない。金魚鉢の外は思い込みワールドではない。リアリティの世界。あなたが、まだ知らない世界。未知との遭遇。未知への飛翔。あなたは、金魚鉢から飛び出せるだろうか・・・「566日目 - 思い込みワールド-2」へ続く
2006.07.21
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今日も屋久島は、晴れている。もう何日晴れが続いているだろうか。ぜんぜん雨が降らない。屋久島は極端。雨が降り出すと何日も続く。晴れると、毎日、晴。自宅から見える落(おとす)の滝も、ずいぶん細くなった。そろそろ雨がほしい。これでは苔たちが干からびているに違いない。事実ベースで生きると、余計な感情は沸いてこない。それでは心が冷たい人間になってしまうのだろうか。まるで冷酷な科学者のように。人体実験や毒ガス実験、殺人兵器を開発している科学者。血も涙もない、感情鈍麻したような科学者。確かに彼等は事実ベースで生きているかもしれない。但し、科学の分野に限って。人間的な分野については、事実ベースではない。明らかに思い込みベース。この実験が人類のために役に立つと思っているかもしれない。しかし、その人類のためは、自分を中心とした人類のため。それはアングロサクソンのためであったり、白人のためであったりする。けっして無条件に全人類のためではない。もっとはっきりと自分のためにやっている人もいるかもしれない。自分の業績のため。地位や収入のため。科学的興味を満足させるため。科学の進歩に人間性が伴わなければ、とんでもないことになる。クローン人間や殺人ロボットを大量生産するようになれば、アトランティスの二の舞になってしまう。欲望の部分だけが全開した心は危ない。新しい発見や発明をする人は、思い込みから自由である。先入観や固定観念があったのでは、新しい発見や発明はできない。そういう意味では、思い込みを外した自由なところで生きている。その分野に限っては、思い込みから自由と言える。斬新な創作活動をする人も、思い込みから自由と言える。そのような芸術家は珍しくはない。しかし、自分の専門分野では思い込みから自由でも、人生全般となると話が違ってくる。生き方も自由だろうか。思い込みから完全に自由に生きているだろうか。特殊分野については、思い込みから自由。しかし、生き方については旧来通り。そういう人が圧倒的に多い。生き方まで完全に自由な人は極めて少ない。たまに芸術家で、そういう感じの人もいる。しかし、それは我が儘勝手、自己中心と紙一重。自由とは、我が儘や自分勝手ではない。欲望のままに生きるのが自由ではない。真の意味の自由とは、思い込みから自由ということ。過去から自由。自我から自由。何ものにもこだわらない。完全に自由な心ということ。自由に生きるとは、すべての分野で思い込みから自由ということ。ある専門分野だけの自由は、完全な自由ではない。生き方全般が問われているのだ。事実ベースで生きる時、心は閉じてはいない。見たくないものから目を逸らすようなことはない。ありのままの事実と共に生きている。すべてをそのまま受け止めている。心が開いているということは、ハートも開いているということ。そのため、いろんなものがそのまま感じられる。悲しみも苦しみも、そのまま伝わってくる。心を開いていれば、そのまま伝わるしかない。喜びも悲しみも、楽しさも苦しさも、そのまま感じられる。心を閉ざして思い込みベースで生きているよりも、ダイレクトに感じられてしまう。そのため、一瞬、それらの感情に満たされる。しかし、それらに振り回されることはない。それらを受け止め、それらを十分に感じる。しかし、意識はクリアー。それらと一緒にいるだけ。感情そのものになって自分を見失うことはない。それらの感情をそのまま受け止めれば、同時にハートからあたたかいものが流れ出す。それは無条件に溢れ出す。思い込みによる反応ではない。痛むものを癒す自然なハートの発露。しかし、事実ベースに徹しきるのは、並大抵のことではない。自分の中に思い込みがあれば、自動的に思い込みが反応する。その反応に相手が反応すれば、それに対して、また自分の思い込みが反応する。その果てしない繰り返し・・・ただ思い込みが反応しているだけ。自分とは?思い込み?思い込み以外に自分は?気がつけば、過去ベース、記憶ベースで生きている。今ベースで生きている瞬間は少ない。何かあれば、すぐに思い込みが反応する。自分とは、思い込みの塊?それ以外に自分はあるのだろうか・・・膨大な記憶。その記憶が自動的に反応する。記憶ベース。過去ベース。それがありのままの自分。記憶を超え、過去を超えて生きることは可能だろうか。今のリアリティと共に生きることは可能だろうか。瞬間・瞬間を感じながら生きることは可能だろうか。それには思い込みを外すことだろうか。思い込みを外す中で、クリアーな意識を感じる。思い込みのない意識状態。思いや感情の次元を超えた意識状態。瞑想をすれば、それは可能かもしれない。しかし、瞑想が終わる時、また思い込みワールドへ戻ってしまう。思い込みワールドを終わらせない限り、思い込みワールドの自動反応はやまない。自分自身を見守り続け、見極めることだろうか。思い込みワールドを超えて生きることは、アートのようなものだろうか。鳥の声、山の緑、海の青それらがそのまま入ってくる。思い込みを通らずに。ダイレクトにそのものを感じる。言葉なく感じる。それは思い込みワールドの美しさを遙かに超えている。それはキラキラ輝く光のようだ。感情は反応しない。ただ美しさがある。クリアーな透明感の中に、美しさが生きているだけ。地球は美しさに満ちている。それをダイレクトに感じることを、思い込みが阻んでいる。思い込みの自動的な反応が、すべてを過去の記憶との比較に変えてしまう。今の目の前の美しさそのものを感じることができない。思い込みワールドとは、自分の世界に住んでいるだけのこと。そこには、真の意味での周りとの交流はない。ただ思い込みが反応しているだけ。反応としての感情があるだけ。それも悪くはない。それも否定はしない。それは事実。紛れもない事実。しかし、多くの人はその事実に気づいていない。気づかないまま反応の世界に埋没している。そして、反応の人生のままに一生を終わる。自分とは何かわからないまま・・・注意して生きないと、反応人生のまま一生が終わってしまう。思い込みの奥にあるものに気づかないまま、反応パターンだけの一生で終わってしまう。それがこれまでの人類の生き方。それを超えられるだろうか。思いを超え、感情を超え、肉体を超えて、遙かな意識の領域へ進めるだろうか。過去に制限された領域から、何の制限もない領域へ。思い込みに縛られた意識から、思い込みを超えた意識へ。有限から無限へ。色から空へ。『科学だけ 事実ベースで 進む時 アトランティスの 二の舞になる』『全体に 事実ベースで 生きる時 心は開き ハートも開く』『新しい 発明発見 する時は 思い込みとか 邪魔になるだけ』『我が儘や 自分勝手は 思い込み ワールド内で 生きているだけ』『痛むもの 苦しむものを 見る時に ハートは自然に 癒そうとする』『痛むもの 苦しむものを 見る時に 思考は自分に 置き換えて見る』『思考して 出て来るものと そのままに 出て来るものは 同じではない』『慈善とは 優越感の 裏返し 思考から来る 弱者救済』『思い込み 通して見れば 事実より 自分の思い 優先される』『思い込み 通してすべてを 感じてる フィルター越しに 感じているだけ』『過去ベース 記憶ベースで 生きる時 今の真実 感じられない』『思い込み 自分に自分 縛りつけ 自分の外に 一歩も出れない』『思い込み 自分の中で 空回り しているだけと 独り気づかず』『思い込み 自分と思う 思い込み 思いの世界で 生きているだけ』『実体は パターンだとも 気づかずに 感情のまま 翻弄される』『反応に 反応重ね 積み重ね 複雑怪奇 訳がわからぬ』『反応を 自分と思い 反応の ままに生きてる 反応人間』『思い込み ワールドという 宇宙では 反応だけが 生きてる証(あかし)』『刷り込みの ままに一生 過ぎてゆく 思い込みから 反応するだけ』『有限の 世界の中で 反応に 翻弄されて 終わる人生』『思い込み 以外にあなたに 何がある あるならあるもの 示してごらん』『反応を 見極め抜いて パターンの ままに翻弄 されずに生きる』『瞑想を しても一時の ことだけで 元に戻れば 何も変わらず』『思い込み 外さぬ限り 瞑想も 迷走となる 思いに呑まれ』『傷ついて 傷つけられたと 思い込み 傷の中身を 見ようとしない』『傷ついた 傷つけられたと 思い込む 自分自身は 傷つきはせぬ』『思い込み 傷ついている だけなのに 自分の傷と 誤解している』『注意して 事実ベースで 生きる時 余計な感情 沸いては来ない』『事実だけ 見つめていれば その奥の エネルギーまで 感じられるもの』『ありのまま 心開いて 生きる時 すべてのものが そのまま伝わる』『美しさ そのままやって 来る時に 言葉を超えた 至福もたらす』『人類の 非苦をそのまま 感じれば 何もしないで 過ごせなくなる』『冷静に 見極め抜いて 思い込み 外せば別の 世界広がる』『思い超え 感情超えて 肉超えて 遙か彼方へ 意識羽ばたく』これが565日目の心境です。
2006.07.20
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今日の屋久島は、雲が多い。それでも、まだ晴れている。でも、だんだんと下り坂のようだ。昨日、水を汲みに行ったら、不思議なトンボを見かけた。これまでに見たことのない形と色。しかも、二匹が繋がって飛んでいた。草の上に止まると、上と下のトンボが直角になる。シッポとシッポが繋がっているのではなく、頭とシッポで繋がっていた。全体的に細く、クリーム色と赤系の色で胴体はできていた。手元にカメラがないのを悔やんだ。めったに見れない光景ではないだろうか・・・カメラが手元にないのを悔いるというのは、ありのままの事実と共に生きていない証拠。手元にカメラがないというのが事実。それなのに、ついカメラがあったらなぁーと思ってしまう。この光景を写真に収められるのに・・・事実ではなくて、ありもしないことを想像する。何の意味もないのに・・・それが癖。人間の無意識のパターン。人はありのままの事実と共には生きていない。ありのままの事実を素直に認められずに生きているのが、大多数の人間。そこから、ありとあらゆる問題が生じてくる。不平不満、愚痴、怒り、憎しみ、恨み、妬み、寂しさ、辛さ、嘆き、苦しみ、悲しみ、悩み、心の傷、恐怖、取り越し苦労、後悔、現実逃避、自己否定・・・ほとんどの人間感情は、ここから出て来ると言っても過言ではない。ありのままの事実と共にいられない。目の前の事実をそのまま認められない。どうして事実を認められないのだろうか。自分の思い込みワールドが破綻するのを認めたくないのだろうか。最終的には事実を認めて、事実と共に生きるしかなくなる。しかし、ギリギリまで認めようとはしない。どうせ認めるのなら、早く認めればいいのに。そうすれば、そんなに苦しまずにすむのに・・・事実をそのまま認めないことから、人生の苦悩が始まる。人生が複雑になり、シンプルに生きることができなくなる。長年連れ添った夫が浮気をする。挙げ句の果てに、その女と結婚するから離婚してくれと言い出す。そんな・・・これまでの苦労は何だったの?そんなことが認められると思うの!子供たちも独立し、退職金と年金で、これから人生を楽しもうという時に、突然、妻から離婚を要求される。夫にとっては、青天の霹靂(へきれき)!なぜ?どうして?何を今さら・・・そんなこと認められるはずがないだろう!結婚を固く誓い合ったのに、新しい恋人ができて、婚約を解消したい?そんなバカな!そんなことが許されると思うの?許されるわけないでしょう!可愛い盛りの子供が、突然、交通事故で亡くなる。信じられない!目の前が真っ暗になる。そんなこと簡単に認められるわけがない・・・最愛の夫が癌の宣告を受ける。既に末期のため、手の施しようがない。余命3ヶ月。そんな・・・そんなことがあっていいの?そんなこと、私は認めない!これまで20年以上かかって会社を大きくしてきた。それなのに不渡りを食ってしまった。一度目はなんとか持ちこたえた。しかし、二度目は・・・もう倒産するしかない。こんなことが起きるとは・・・信じられない!信じたくもない!これまでの20年間は何だったのか・・・老後のために生活を切りつめ、長年、コツコツと貯金してきた。それなのに・・・必ず儲かりますからとしつこく言われ、まんまと騙されてしまった。全財産をなくし、これからどうやって生きていったらいいの?こんなことが許されていいの!家が全焼したり、強盗に入られたり、友人に裏切られたり、思いもよらないことが、この世には充満している。アンビリーバボー!神も仏もない!お先真っ暗!こんな現実認められない!絶対に許せない!こんなことが起きるなんて、信じられない!もう、いや!殺人、通り魔、レイプ、放火、詐欺、交通事故・・・この世は信じられないことだらけ。それが我が身に降りかかった時、そのまま認めるのは至難の技。唖然、呆然、愕然、騒然・・・ただただ幸せだった過去を思い出すだけ。楽しかったあの頃に帰りたい!今の現実なんか見たくもない!みんな目の前から消えてしまえ!ありのままの事実と共に生きる?何言ってるの?バカじゃない!こんな現実認められるわけないでしょう!こんなことが許せると思うの?絶対に許せない!認めがたい現実に感情が爆発する。誰の言うことも耳に入らない。もう頭の中は真っ白。何も聞こえない。何も見えない。浮かぶのは過去の楽しかった情景だけ・・・しかし、認められないのは自分だけ。離婚したい相手は、早くこの現実を認めてほしいと願っている。いつまで夢のようなことを言っているのかと、冷たく見ている。既に終わったことを認めろと迫るだけ。すべては自分の思い込みワールド。それが崩壊しただけ。その事実を認めたくない。どうしても認められない。事実を認めれば、自分の思い込みワールドが崩壊してしまう。それはまるで自分が崩壊するような感じ。それでは自分を保てなくなってしまう。自分を維持するためには、事実に目を背けるしかない。事実から逃げ回るしかない。そこから苦悩の人生が始まる。事実を直視できなくて、逃げ回る。しかし、逃げ切れるものではない。いつか事実に直面しなければならなくなる。事実は思い込みではないのだから・・・思い込みの数々こそが=自分そのもの。自分とは、思い込みの集合体。自分というイメージでさえ、思い込みそのもの。自分の中身は、思い込み以外に何もない。そんな・・・そんなことはないでしょう!自分が思い込みの塊なんて?そんなこと信じられない!そう言って、事実を認めようとしない。自分が思い込みの塊に過ぎないという事実から目を背けようとする。なぜなら、それは自分の思い込みに反するから。それでは自分の思い込みワールドが崩壊してしまうから。自分をキープできないから。自分とは何?思い込み以外に何かあると言うの?何?永遠の魂?それも思い込みではないの。神の子?確認したの?それは・・・思い込み以外に何があるの?すべては思い込み。思い込みと共に生きているのが現実の人間。そして、その思い込みが崩壊した時、ありのままの事実を認められないのも、またありのままの事実。そこから、ありとあらゆる葛藤や苦悩が生まれてくる。この事実を直視することだろうか。事実と共に生きていないという事実を認めることだろうか。思い込みの中で生きているだけということを認めることだろうか。そうしない限り、いつまで経っても思い込みワールドから抜け出すことはできない。思い込みワールドの中で、一喜一憂、喜怒哀楽を繰り返すだけ。人類の悲惨な歴史を繰り返すだけ。事実と共に生きれないから、ありとあらゆる感情が沸き出す。その感情が、また派生的な問題を引き起こす。そこからまた感情が生まれ、また別の問題が派生する。果てしない感情連鎖。カルマの輪廻が繰り返される。黙って事実と共に生きることができるだろうか。あらゆる言い訳、あらゆる解釈を排除して、ただ事実と共に。感情的にならずに、冷静に事実ベースで生きることができるだろうか。それができれば、人生は根底的に変わるかもしれない。人は思い込みと自己同一化している。思い込みを自分だと思い込んでいる。思い込みが否定される時、自分が否定されたような錯覚に陥る。思い込み=自分。それこそが、ありとあらゆる苦しみの源。その思い込みワールドが崩壊の危機に立たされると、人は事実を見なくなる。事実ではなくて、思い込みの方に浸ろうとする。その方が居心地がいいから。安心できるから。思い込みワールドが崩壊することは、心が傷つくこと。心が血を流すのを見たくないので、人は事実から目を背ける。事実を避けて思い込みワールドに浸る時、人は孤独の中で生きることになる。次々と問題のなかで苦しみながら・・・これまでのように思い込みワールドの中で感情に振り回されて生きる時代は終わろうとしている。クリアーな意識でピュアーに生きる時代になろうとしている事実ベース。ありのままの事実と共に生きる時代になろうとしている。『連れ添った 夫が浮気 するなんて 信じられない 信じたくない』『結婚を 固く誓った 仲なのに 裏切るなんて 信じられない』『最愛の 夫が癌に なるなんて 神も仏も 認められない』『積み重ね やっと掴んだ 幸せが アッという間に 崩壊してゆく』『こんなこと あっていいのか 神仏は どこにいるのか 認められない』『そんなこと 認めるよりも 死ぬ方が よほどましだと 思う現実』『目の前の 事実認める くらいなら 死んでしまった 方がラクチン』『起きたこと 認めたくない 認めない 自分の世界に 浸っていたい』『事実見る よりも自分の 思い込み 守ろうとする 傷つかぬため』『粉々に 自分ワールド 壊されて 事実そのまま 認められない』 『思い込み 崩れることは 他ならぬ 自分自身が 崩れ去ること』『思い込み ワールド破綻 することは 自分自身が 破綻すること』『思い出す 幸せだった あの頃を 今は消え去り 寂しさ残る』 『思い込み ワールド突然 破壊され 心の傷が 残っているだけ』 『認めない 代わりに怒り 沸いてくる 周りに当たり 不満を晴らす』『ありのまま 認めることが できなくて 不平不満で 怒り爆発』『現実を 認めることが できなくて 怒り憎しみ 恨み後悔』『ありのまま 受け入れられず 憎しみに 心はいつか 満たされていく』『認めない ただそれだけで 様々の 感情沸いて 自分失う』 『思い込み ワールド内で 生きる時 喜怒哀楽の 感情奴隷』『感情に 振り回されて 生きるのは 事実と共に 生きてないから』『事実から 目を逸らさずに 生きる時 よけいな感情 沸いては来ない』『嘆いても 後悔しても 何一つ 元の世界に 戻りはしない』『現実を 受け入れないで 逃げてても 現実変わる ことはあり得ぬ』『逃げるから 更に問題 派生する 複雑になり 苦しくなるだけ』『事実から 逃げて隠れて いる限り 苦しみ悲しみ 超えられはせぬ』『シンプルに 事実ベースで 生きないと 苦しみ悲しみ 尽きることなし』『目の前の 事実そのまま 認めずに あちこち逃げて 自分ごまかす』『目の前の 事実黙って 認めれば また別の道 自然と開く』『崩壊し 初めてわかる 思い込み 自分が思い 込んでいただけ』『思い込み ワールドという 幻の 自分の世界で 生きていただけ』『思い込み ワールド超えて ゆかないと 次の時代に 辿り着けない』『クリアーな 意識でピュアーに 生きる時 思い込みから 自由になれる』『逃げないで 事実と共に 留まって 徹底的に 見切るしかない』これが564日目の心境です。* 今日の日記を書きながら、 『苦しくて 寂しくなって 泣きたいと 自我がさんざん 文句言ってる』
2006.07.19
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今日の屋久島は、穏やかに晴れている。今のところ、ギンギンに暑くもない。今月は仕事が少ない。書き入れ時の夏だというのに・・・おかげで、たくさんの短歌ができている。これは時間がないとできない。仕事があると、こうはいかない。仕事になると、どうしても仕事モードになる。日記モードに戻るのに、少し時間がかかる。仕事がない日が続くと、日記に集中できる。特にホームワークの締め切り日は、一日中、日記漬け。それも悪くはない。しかし、それだけでは生活ができない。この世は命あっての物種。生活できなければ、日記も書けない。なかなか・・・今の世の中の幸せというのは、相対的なもの。周りと比較して、自分は幸せというだけのこと。体が不自由な人と比べれば、五体満足な自分は幸せ。難病の人に比べれば、健康な自分は幸せ。ホームレスの人に比べれば、住む所があるだけでも幸せ。子供がない家庭に比べれば、子供がいるだけでも幸せ。結婚できない人に比べれば、結婚しているだけでも幸せ。すべて周りとの比較。周りより優れていれば、幸せ。自分より不幸せな人を見て、自分の幸せを噛み締める。これって、何かヘン?周りに自分より不幸せな人がいないと、幸せにはなれない。周りのみんなが自分より幸せそうだと大変なことになる。同級生がどんどん結婚していく。同期がどんどん出世していく。ご近所がどんどんマイホームを建てる。ライバルたちがどんどん記録を伸ばす。周りの幸せは、自分の不幸せ。周りの不幸せは、自分の幸せ。何か、どこかが歪んでいる?でも、これが世間一般の幸せ。自分よりハイレベルを見るか、自分よりローレベルを見るか、それによって自分の幸・不幸が決まる。評価の基準は、自分と周りとの比較。幸いなことに、お金があると子供がいないとか、子供がいると病気がちとか、みんなそろっているところは少ない。どこか探せば、自分より劣るところがある。お金持ちだけど、夫婦仲は悪い。夫婦仲はいいけど、子供が勉強ができない。成績は優秀だけど、精神が不安定。どこか欠点を探そうと思えば見つけられないことはない。その欠点を強調すれば、優越感を感じることができる。圧倒的な劣等感を、ほんの少しの優越感でカバーする。かなり無理があるが、そうでもしないとやっていられない。なんとしてでも自分を不幸せにはしたくない。この世の幸・不幸は、すべて思い込み。周りと比較して、周りより優れていれば、幸せ。周りより劣っていれば、不幸せ。思い込みの幸せなので、すぐに変わりやすい。昨日まで幸せだったものが、今日は不幸せになる。隣の子は志望校に合格、うちの子は不合格。昨日までは、うちの子の方が成績がよかったのに・・・まぐれか運と自分に言って聞かせても、どうにも納得できない。相対的に自分を幸せと思うか、不幸せと思うか・・・ただそれだけのこと。比較こそが幸せの基準。私より幸せな人はいない。夫は優しいし、子供は勉強ができる。親は財産もあるし、社会的地位も高い。私以上に幸せな人はいないと思い込めば、世界一の幸せ者にもなれる。ところが、同じように夫は優しく、子供は勉強ができ、親には財産と地位があっても、不幸せな人もいる。夫が浮気をしないだろうか。子供は一番になれるだろうか。親が早く死にはしないだろうか。心配し出すとキリがない。傍目(はため)には何の心配もないような人が、心配の虜だったりする。心配の虜になれば、毎日が不安で心のやすらぐ時はない。思い込みワールドなので、客観的な基準というものはない。自分が幸せと思い込めば、幸せ。どんなに恵まれているように見えても、自分を不幸せと思えば不幸せな人生となってしまう。思い込みワールドは、思い込みしだい。いかようにもなる。幸せな状態が長く続くとは限らない。状況の変化によって、幸せはすぐに崩れる。優しい夫が癌になる。可愛い子供が交通事故で急死する。親が破産し、その負債が自分に降りかかる。幸せの絶頂は、不幸せのどん底と隣り合わせ。しかし、その不幸せのどん底と思えるような状況も、また幸せのためのきっかけとなる。 夫が病気になって、初めて夫との心の交流が持てるようになる。子供が亡くなって、人に心からやさしく接せられるようになる。親が破産して、お金よりも大切なものに目覚める。人生は一面的ではない。人生万事塞翁が馬。何がどうなるかわからない。禍福はあざなえる縄の如し。それを幸せと捉えるか、不幸せと捉えるかの違いだけ。単なる思い込み。事実は変わらない。しかし、解釈や思い込みによって、幸せにも不幸せにもなる。本当の幸せとは?少なくとも思い込みワールドの中では見つけられない。今日の幸せは明日の不幸せ。永遠の幸せはない。永遠に自分は幸せだと思い続けることは不可能に近い。天変地異に始まって、戦争や病気、交通事故に犯罪・・・不倫、浮気、離婚、倒産、破産・・・この世は幸せの思い込みを阻止するようなものに満ちている。この中で自分は幸せだと思い続けることは、ほとんど不可能に近い。時々、周りと比較して自分の幸せを確認するのが精一杯。思い込みワールドで幸せをキープするのは至難の技。それでも、不幸せな自分は惨めなので、更に不幸せな人を見つけて自分を慰める。相対的な幸せの中で、何とか自分をキープする。いや、絶対的な幸せがある!相対的な幸せではない、絶対的な幸せが存在する!と主張する人もいる。癌になる。余命いくばくもないと医者に言われる。最初は動揺する。しかし、やがて思い定める。今、生かされているこの瞬間を大切に生きようと。そうすると、今が無性に愛おしくなる。生きていることがすばらしい。ただ生きているだけで幸せという感じになる。このような心境は万人に絶賛される。精神世界でさえ、ここまでの心境になれる人は少ない。これこそが絶対的な幸せ?ところが・・・これもまた思い込み。思い込みワールドの中で生きているだけ。間近な死を前提とすることによって、今が輝いているだけ。死ぬことが延び延びになるに連れ、生きているだけで幸せという感覚は薄れていく。病気が完全に回復すれば、生きているのは当たり前。それだけですばらしくはなくなる。すぐに死ぬと思うから、残された時間がすばらしいと感じられる。しかし、普通に生きている人は、そんなことは思いもしない。生きていることは当たり前。当たり前のことは、特段すばらしいことではない。生きているだけで幸せとは、限られた時間の中だけで思えること。いかなる前提もなく生きる。いかなる思い込みもなく生きる。その時に、相対の幸せを超えたものに出会えるかもしれない。変わりやすいこの世の幸せではないものを見出せるかもしれない。しかし、それは思い込みワールドにいる限り、わからない。思い込みワールドで手にすることができるものは、すべて相対的なもの。絶対的なものは、思い込みワールドにはない。なぜなら、思い込みワールドの原点は思考。思考は比較によってできているから。比較相対の世界から抜けたければ、思考=思い込みワールドの外に出るしかない。その時にのみ相対ではないものに出会える可能性が生まれる。幸せは、掴んだり、自分のものにしたりできるものだろうか。それとも、幸せは自己所有することはできないものだろうか。努力すればできる?一生懸命努力すれば幸せになれる?幸せを追求すれば必ず幸せになれる?追い求めることができるものは、思考がつくり出したものだけ。形やイメージがなければ、何も追い求めることはできない。イメージは、過去の記憶から思考がつくり出したもの。追い求めて掴んだものは?それは思考がつくり上げたもの。イメージを掴んだだけ。幸せというイメージ。相対的で次の瞬間には脆(もろ)くも崩れ去る幸せ。真の幸せとは?それを追い求めるには、真の幸せのイメージがいる。しかし、イメージされた途端、それは真の幸せからはほど遠いものとなる。それは思考がつくりあげた幸せ。真の幸せというイメージ・・・では、真の幸せとは?これ以上書くのはやめよう。この先はホームワークということにしよう。自分で見つめてみない限り、本当のことはわからない。ゆっくり幸せ探しをするといい。『見るだけで ウンザリするよな 和歌(うた)の数 ウンザリしないで 読んでください』 『思い込む ことで生まれる 幸せは すぐに不幸に 変わってしまう』『比較して 他の人より 幸せと 思って自分 慰めるだけ』『幸せと 思い込むのは 比較して 不幸な人より まだましなだけ』『努力して 幸せを得た つもりでも 相対的に 幸せなだけ』『幸せは 思いの世界で 幸せと 思い込んでる だけに過ぎない』『幸せは 周りの人を 見回して 不幸なところ 見つけるゲーム』『幸せの 裏にあるのは 自尊心 優越感で 自分を満たす』『自分より 幸せそうな 人いたら 欠点ないか 必死で探す』『幸せも 不幸もみんな 思い込み 自分が思って いるだけのこと』『幸せと 思い続ける ことなんか 簡単そうで なかなかできない』『どう見ても 幸せそうに 見えるのに 本人不幸と 思い込んでる』『見せかけの 幸せ演じ 自己顕示 待っているのは アルツハイマー』『幸せと 思えばそれで 幸せで 不幸と思えば 不幸になるだけ』『思い込み 以外にどこに 幸せが あるのだろうか 教えてほしい』『思い込み ワールド超えた ところには どんな幸せ 待っているのか』『限られた いのちと思う 思い込み 思えば世界 輝いてくる』『いつまでも この世にいると 思うから 平々凡々 輝き出さぬ』『すぐ死ぬと 思えば今を 大切に 生きるしかない 命惜しくて』『幸せも 不幸もみんな 思い込み 思いの世界で 生きているだけ』『真実の 幸せあると 思い込み 自分の思い 追いかけるだけ』『努力して 得られるものは 相対の 幸せという 思い込みだけ』『いかように 思い込むのも みな自由 思い込んでる だけの世の中』『比較して 幸せなりと 思い込み 自分のイメージ 守っているだけ』『内側が 寂しい時に 周りとの 比較によって 自分を満たす』『内側が 満たされる時 周りとの 比較が止んで 静かに生きる』『手に入れる 手に入れたいと いう次元 超えねばやすらぎ 感じられない』『やすらぎを 追い求めれば やすらぎは 掴む苦闘に 変わってしまう』『やすらぎを 追い求めれば やすらぎは 思考がつくる イメージとなる』『思い込み 超えてゆかねば 真実の 心のやすらぎ 感じられない』『やすらぎは 追い求めるのが 止んだ時 いつのまにやら そこにあるもの』これが563日目の心境です。【ホームワーク】あなたにとっての幸せとは何ですか。真の幸せとは、どのようなものでしょうか。締切は7月22日午前9時。BBS蘭に記入してください。参加は自由です。誰でも参加できます。但し、自分の言葉で、具体的にわかりやすく書いてくださいね。
2006.07.18
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「562日目 - 憎しみと寂しさ-3」の続き最後は、ぴあのさんですね。【すみません。どんなに見つめても全然わかりませんでした。私の憎しみや寂しさは先日のワークで書いたとおり。憎しみと寂しさの根底にあるものは、苦しいほどの愛を得たかった、認められたかったという想い。そして、さらにその憎しみ、寂しさの奥にあるものを感じてみる。どう感じようとしても、きっちり頑丈な鍵がかかったようにその奥へ進めません。私は、憎しみ、寂しさをずっと持っていたいのだろうか・・・あまりに長い間、過去世からずっと この憎しみと寂しさを後生大事に持ち続けてきてしまいすぎたような・・・だから、手放したくないような、ある種マゾ的なそんな感覚さえ感じています。昨夜、鍵を開けるために瞑想してみました。心の奥へ沈んでみようと思いました。瞑想中に見えたもの(感じられたもの)は、『みんなが私をおいていく』一人ぼっちにされた言いようのない苦しみと寂しさ。一緒に行きたかったのに、なぜ私はおいていかれなければいけなかったの?なぜ連れて行ってくれなかったの?今、これを打っていて、「ごめんなさい」 という感情がすごく湧き上がってきます。許してほしい とう感情がすごく湧き上がってきます。私が何か悪いことをしたのだろうか・・・私は 『罪の子』 だと どこからか聞こえてきます。思えば私をずっと萎縮させてきたのは 『罪の子』 という意識だろうか・・・そんな気がします。監禁されている過去世が見えます。(13~15歳くらいで女の子です)私は 『罪の子』 だから、外へ出してもらえないのです。一生懺悔をしながらその牢獄(屋敷内です) の中で暮らさなければならないのです。神父さまがきて 私に正しい神の道を説きます。『罪の子』 をなんとかして悔い改めさせ、社会に復帰できるように と毎日のように神父さまが来ます。でも、氷のように冷たく、すべての愛を拒み、恨みと憎しみで心が占拠されてしまった私の心は、何も受け付けません。私は、愛を拒み、愛を知らず、呪いにも似た感情を持ち続けたまま若くして死んでいきました。あまりにも今回のワークが難しく、何も見えてこず、これでは提出できない とにかく少しでも感じたものを打っていってみよう と打ち始めました。『ごめんなさい』 という感情の段落から 愛を知らず死んでいった過去世の自分までこれは少しチャネリング状態のような感覚で ビジョンが見え、感情、想いが今ここで体験されているようにリアルに感じました。打ちながらつらくて、つらくて、涙がたくさん溢れ出ました。(監禁された女の子の過去世は、以前に一度見たことがあります)昨夜、ベートーヴェンの交響曲が演奏されているのをテレビで見ていました。フルートの数小節の旋律に、一瞬、”愛” を感じ取り、一瞬、私が愛になりました。ほんの一瞬、愛の感覚を垣間見ました。ワークをずっと考えながら演奏を聴いていたので、その時、憎しみや寂しさの奥の奥には、もしかしたら ”愛” が ”絶対の愛” が 行き着く先のないほどの大海のように静かに波打っているのかもしれない と思いました。 ほんの一瞬。何か、すごくズレた回答を書いているのかもしれません。もう、頭がパニックでよくわかりません。すみません。ヘンな回答ですが、投稿します。私信:『この人、精神状態大丈夫?』 と思わず、アドバイスお願いします。kimiさん。(伏)】この文章であれば、精神状態は大丈夫でしょう。絶対の愛に見守られて、すべては存在している。というのは、間違いないでしょう。でも、何か囚われがあると、全体が見えなくなってしまうのですね。それが若くして亡くなった女性の過去世でしょうか。まだ憎しみや寂しさの奥にあるものが明確には見えていませんね。その前に、この女性の心の状態を深く理解する必要があるのかもしれませんね。愛がほしい、認めてほしいと切に願っているものは何でしょうか。それがどうして憎しみや恨みに変わってしまうのでしょうか。願っても満たされないから?現状を認められないから?自分の思う通りにならないから?「かわいさ余って憎さ百倍」という諺があります。これまでは、かわいい、かわいいとかわいがってきたのに、自分の思う通りにならなくなると、逆に憎くなってしまうのですね。かわいければかわいいほど、憎さも強くなっていきます。近親憎悪も、この類ですね。いずれも自分の思うとおりにならないと、これまでの愛情が憎しみに一変するのですね。これは恋人に裏切られたりしても起きます。要は、自分の思うとおりに支配したかったということですね。それができなくなると、愛が憎しみに反転する。それは所有の愛ですね。自分のものにしたいという愛。自分の思うように支配したいという愛ですね。どうして自分の思うようにならないと、憎しみに変わるのでしょうか。憎しみとは何でしょうか。子供を殺された親の多くは、犯人を憎みます。ほとんどの人は、それを当然のことと受け止めます。なぜでしょうか。なぜ当然であり、なぜ犯人を憎むのでしょうか。それは許せないから?何が許せない?子供が殺されたことが。つまり、現実が。現実が認められない。事実を認めたくない。認めがたい現実。だから、犯人を憎む?犯人のせいでこうなった。犯人がいなければ、幸せな暮らしが続いていた。許せない。行為が許せない。犯人が許せない。許せないというのは、認められないということ。その事実を認められない。自分の世界が壊されるのが認められない。壊す行為も、壊す犯人も認められない。だから憎む?不思議なことに、動物の世界には復讐というようなことはありません。復讐している動物というのは聞いたことがありません。復讐というのは、どうも人間特有の現象のようです。許せないというようなことは、動物にはないのですね。動物は事実ベースで生きています。事実を認めない。自分の世界を破壊する者を否定しようとする。それが憎しみということでしょうか。自分が愛されない、自分が認められない。その原因と思えるものを否定しようとする。その存在を認めない。それが憎むということでしょうか。つまり、自分ワールドを維持したいということでしょうか。自分の世界を混乱させる者は、その存在を認めないということでしょうか。自分の世界というのは、自分が思い込んだ世界のことです。つまり、思い込みワールドの破壊者は許せない。その存在を認めないというのが、憎しみということでしょうか。破壊された過去の思い込みワールドにこだわることが、憎しみを生み出します。今の目の前の事実を認めたくないのですね。それは後悔と似ています。事実と共に生きていない。過去ベース、思い込みベースで生きているのですね。別に子供を殺した犯人を肯定している訳ではありません。事実を認め、犯人を理解することでしょうか。憎んでも、恨んでも何も生まれません。ただ憎しみの連鎖が、破壊の連鎖が続くだけです。犯人を理解し、何が犯行に至らせたかを理解することでしょうか。それによってのみ、悲惨な事件の再発が防げるでしょう。犯人とは、この日記を読んでいるあなたです。なぜなら、人類の一人一人の中に犯罪の芽が隠れているからです。人を憎み抹殺しようという思いが、誰の中にもあります。自分の思い込みワールドが破壊される時、破壊した者を破壊したくなるのですね。重要なことは、犯人を憎むことよりも、自分自身を理解することです。いくら犯人を取り締まっても、その原因がそのままでは根本的な解決にはなりません。自分の中の暴力、自分の中の憎しみや恨みを理解することです。事実と共に生きるというのは、とてつもないことです。そのためには深い理解と莫大なエネルギーを必要とします。人類の思いや感情の次元を超えるためには、巨大なエネルギーが要るのです。時代のエネルギーがバックアップしているとはいうものの、最後は一人一人の意識しだいです。焦らないで、ゆっくり進んでいきましょう。ありのままの事実を見つめ、事実と共に生きていきましょう。『両親の 愛に包まれ 育つ時 そこが心の 故郷(ふるさと)となる』『両親の 愛が確認 できる時 子供は 人生信頼できる』『頻繁に 愛していると 言うことは 子供の心 安心させる』『永遠に 満たし続けて くれる人 待てど暮らせど 現れはせぬ』『いつまでも 満たしてくれる 人を待つ 甘えがあれば 寂しさもある』『両親に 依存しながら 育つため 誰かに依存 したくなるだけ』『依存して 生きれば常に 寂しさが 追いかけてくる 一人になると』『寂しさを 外の何かで 満たそうと すれば寂しさ 沸いてくるだけ』『外側に 愛求めれば 内側の 愛の泉は 枯れるしかない』『思い込み 自分の中に ある限り 愛の流れを 歪めてしまう』『認められ 立派な子供に なりたいと 努力するほど 苦しくなるだけ』『認められ 気に入られたいと 思うほど ありのままでは 生きられなくなる』『無理をして いい子ぶりっ子 してみても 苦しくなって 辛くなるだけ』『完璧で あろうとすれば できなくて 罪悪感の 虜になるだけ』『完璧に できない自分 処罰して できないことを 自己正当化』『複雑に 言い訳をして 生きてきて 自分の本心 わからなくなる』『ありのまま 事実のままに 生きないと 心は歪み 捻(ねじ)れてしまう』『逃げ回り 事実を見ない ようにして 恐れと共に 生きているだけ』『目の前の 事実と共に 立ち止まり 踏みとどまって 見切るしかない』『所有して 支配したいと 願う愛 裏切られれば 憎しみとなる』『許せない 認められない この事実 だから相手が 憎くてならぬ』『現実を 認められない 思いから 恨み憎しみ 生まれ出てくる』『現状を 過去に戻せと いう思い 恨みとなって 憎しみとなる』『大切な ものを奪われ 許せない 過去の自分に 戻してほしい』『許せない 認められない 思い込み ワールド壊す ものは何でも』『思い込み ワールド壊され 傷ついて 怒り憎しみ 恨み暴力』『壊された 自分ワールド 嘆いても 憎んでみても 何も変わらぬ』『心閉じ 自分の世界 守ろうと すればするほど 苦しくなるだけ』『目の前の 事実そのまま 認めれば 憎しみが沸く ことはあり得ぬ』『目の前の 事実そのまま 認めずに 許さなければ 憎しみとなる』『延々と 引き継がれゆく 憎しみの 連鎖断ち切る 時は今なり』『憎しみの 連鎖断ち切る 方法は 憎しみ深く 理解すること』『もう二度と 悲劇起こさぬ 方法は 悲劇の元を 理解すること』『人類の カルマ断ち切る 方法は カルマの中身 見極めること』『過去は過去 今の事実を 直視して 理解と共に 生きてゆくのみ』『傷ついて 辛い思いを すればこそ 人生深く 理解もできる』『憎しみや 恨みの奥に あるものは 生きようとする 光そのもの』これが562日目の心境です。
2006.07.17
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「562日目 - 憎しみと寂しさ-2」の続き「子は親の鏡」とは、よく言ったものですね。不思議なことに、人は自分ではなくて、鏡の方をなおそうとします。鏡がなおるわけがないですよね。映っている自分の方をなおすしかありません。ホームワークが出ている時に、このようなことが起きてよかったですね。そうでなければ、自分の憎しみを見れないまま終わっていたことでしょう。ちゃんと守られているのかな?本気でホームワークに取り組む気があれば、これからもこういうことが起きて来るでしょう。藍&aiさんは、もしかしたら先祖代々の期待の星かもしれません。藍&aiさんで憎しみの連鎖を断ち切ってほしいと、先祖たちは切に願っているのかもしれません。そのための今生の状況設定かもしれません。親や姑や子供たちとの、憎しみ連鎖断ち切りゲーム?家族総出のゲームですね。いや、一族総出かもしれない。いや、本当は人類総出のゲームかもしれません。人類が過去のカルマを断ち切れるかどうかの瀬戸際なのですね。暴発は止められない?しっかりしてくださいね。藍&aiさんは、感情の奴隷ですか。藍&aiさんの主体性はどこにあるのですか。しっかり踏みとどまって見極めてください。憎しみも言葉の暴力も自分の中にあるものです。その延長線上に戦争があるのですよ。自分のことを棚に上げて戦争に反対しても何の意味もありません。先ず自分自身が心から平和にならなければ・・・それが今の人類の課題でもあるのですね。子供の親殺しが頻発しているのも、自分の中の憎しみや暴力に気づくためです。よそ事ではないのですね。真剣に生きないと、子供の心から憎しみの刻印を取り除くことはできなくなりますよ。手遅れにならないうちに、目覚めてくださいね。先祖代々の憎しみの連鎖を、藍&aiさんで終わらせてください。今の私達の世代で終わらせる必要があるのですよ。そうでない限り、新しい時代は来ないのですから。アセンションは遠いところにあるのではありません。一人一人の心の中にあるのですね。一人一人の心がシフトしないことには、何も始まらないのですよ。これまでの人類のカルマの連鎖を断ち切る時なのですね。シフトするためには、これまでと同じ次元で生きていたのでは無理なのです。ありのままの自分自身と一緒にいて、ギリギリまで見極めてください。憎しみに負けないでください。繰り返し見つめている間に、憎しみもだんだんと弱まっていきます。それは結婚当初に、毎晩のように殺されそうな夢を見たのと似ています。最も幸せで心が安定している時期に、最悪のものを解放していたのですね。今もこのサイトに関わっていることによって、解放する準備は整っています。参加しているのは、同じような気持の人ばかり。応援してくれることはあっても、足を引っ張られる心配はありません。安心して自分を解放できるスペースです。あとは、藍&aiさんしだいですね。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【姉が結婚して側にいなくなると分かった時、とても寂しい気持ちでした。もちろん結婚を祝福する気持ちで一杯でしたが、愛が溢れる祝福とはいきませんでした。いつも側にいて溺愛してくれた姉。心細いとき、母と対立したとき、慰めあい、寄り添い、お互いに離れないようにしっかりとしがみついていました。私にとっては、なくてはならない存在でした。そんな姉が側にいなくなる。遠く離れたところにいく。とはいっても新幹線で2時間。そんなに遠いところでもない距離。電話もあるし、会おうと思えばすぐに会える距離。なのに私にとっては心にぽっかりと穴が開いたように寂しい気持ちで一杯。今まで離れたことがないわけではないのです。学生のとき、私自身1年半ほど家を出ていたことがあり、そのときのほうが距離的にはよほど遠く離れていたにもかかわらず、私の心の中は、夢や希望に満ちていたので、寂しいという感情は生まれませんでした。どこが違うのだろうか。不安な気持ちを感じるとき、自分以外の何かに頼ろうとして姉にしがみついていた。側にいなくなると分かり寂しさが押し寄せる。他の誰かを探して拠り所にする? 人が変わっても、それが他人であろうと家族であろうと同じこと。外に探して、掴んだと思っても、それは一時的なものに過ぎなくて、自分以外の何かにしがみつこうとするたびに、同じ寂しさが繰り返される。掴むのは自分以外の何かではなく、自分の中心にある確かなもの。それが愛なのだと思いました。外に愛を求めようとする心が、自分の中から愛が溢れ出すのをブロックしているように思います。自分の中心にある愛をしっかり掴み信頼することができれば、周りに翻弄されない自分が生まれ、自分の中から愛が溢れだすのではないかと思いました。自分自身、未消化に終わっていた前回のテーマですが、寂しさの感情を見つめることで少し分かったように思います。鈍行列車ですみません。】赤ちゃんは親に守られ、親に依存して成長します。そのため、不安や心配の時は、どうしても誰かに頼ろうとするのですね。それは子供時代だけでなく、大人になっても続きます。なかなか完全な自立は難しいのですね。それが恋人や配偶者に依存することを引き起こします。セミナーや教祖依存というのもあります。何らかの拠り所がほしいのですね。拠り所がないと、不安や心配で居たたまれないのです。一人では寂しい。何かにすがっていたい。何か不動の拠り所がほしい。まだ自分にグランディングできていないのですね。外に愛を求めることが、内側から愛が湧き出すのをブロックしているのは確かです。ハートの中の愛を感じて、愛ベースで生きてみるのもいいかもしれませんね。でも、自分の中に思い込みがある限り、押しつけの愛になる可能性があります。同時に自分自身を見つめていくことも必要なのです。自分の中がクリアーでないと、ピュアーな愛はそのまま外には出れないのですよ。どうしても人格を通して表現されますからね。ありのままの自分と一緒にいて、ありのままに書けばいいですよ。無理をすることはありません。ありのままベースで生きてくださいね。「562日目 - 憎しみと寂しさ-4」に続く
2006.07.17
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「562日目 - 憎しみと寂しさ-1」の続き次は、あとりさんですね。【私は過去を消したく、過去とは違う自分を作りあげ、自分を隠し続けるのが苦しかった。ありのまま受け止めてほしい。それは幼い私の願いだったような気がする。最近初めて親戚の方々にお会いしたのですが、前だったら、歓迎されていない感覚に寂しくなっていたと思う。でも、その時は、私の胸がぽっと暖かく、自然に、自分を作ろうとせずにいられた。一回、相手の方のやることを先読みし、気の利く私を演じた。その時は相手の役にたてたと満足し、その後でしゃばったのではと不安になった。私はその時、親のふさわしい子供であるように、との過去の寂しさからの思いから行動した。でも他は、喋りたい時は喋り、無理して話に入り込まなくても静かに聞き、ムッとせず悲しくならず、静かにいられた。そして、その穏やかな後、感謝の気持ちがうまれた。今までだったら、普通言葉かけてくれるだろうに、とか、そんな話しするか?とか、自分や周りの状況の判断に逃げたりして、その事実を見ようとしなかった。(この事実からの逃げが健康から離れていった)日記で、エネルギーを充電してもいいと書いて下さり、初めてきづいた。疲れたら休んでもいい、そうなのか!!そして無理が生まれるのは、自分の思いこみから。今までは罪悪感で、休息や自分へのいたわりがたえられなかった。私が完璧を求め、汚れの塊だと枠をつくり、自由を奪っていた。自由の中では、恐れ寂しさがなかった。ありのままでいい。不思議とそういう時、身構えの姿勢がない。孤独と一緒にいると、奥から柔らかで穏やかが包み、恐怖と一緒にいると、自分が生きている感覚を感じた。痛みが全てだと思っていたその奥は、変わらない何か溢れたい輝きみたいなものがあるような感じがした。見守る意識と、それらは同じ??まだわかりませんが、深く胸を開いて呼吸し生きたい、そこから見えていく流れにのって。 私はこうやって生きたかった気がする。それが子供の頃できなかった。不快に苛立ち、満たされなかった。そう生きたいために、色々なことを作為的にしてきた。奉仕や、傷つけられる人を守ろうとしたり。時に人を傷つけ。でも、そういう作為の中で感じるものは最終的には寂しさで、ごまかし続けた先はもう見えなくなった。そうやって、私は生きてきた。それはよくも悪くもなく、ありのままの事実。体に対して少し優しくなれてきました。思考で決めないで自然に体に伝えられ、結果として優しい行動を取っています。前は健康法でさえ、私を追い詰めるものだった。今までは、役に立ったから許される、役立たずだから罰と。私はまだ、意識が精妙とか、溢れ出しているものの感覚はうけません。でも判断せず事実をみていると、私は静かに居られる。その先に何があるかわかりませんがゆっくりいきたい。 】立派な親にふさわしい子供であろうと、自分に完璧を求めたのでしょうか。そして、それができない自分に罪悪感を感じたのでしょうか。その罪悪感から、自分を責め、自分を処罰してきたのでしょうか。本当は、ありのままの自分を受けとめてほしかった。でも、受けとめてもらえなかった。そのため、作為的にあるべき自分を演じようとした。人のために奉仕しようとしたり、人を守ろうとしたり・・・でも、作為的な行為の中にあるのは、寂しさだけ。ただ自分を誤魔化しているだけ。そうやっているうちに、自分が何をしているのかわからなくなってしまった。自分を見失い、闇の中に沈んでしまった。その原点にあるのは、親に気に入られる子供であろうとしたことでしょうか。親に認められたかった。親の期待に添いたかった。そのために、ありのままの自分で生きることができなかったのでしょうか。無理をして完璧な子供であろうとしたことが、すべての始まりでしょうか。完璧であろうとしたけれども、完璧にはなれなかった。その葛藤と苦しみ。自分を誤魔化して生きたことから、とうとう自分を見失ってしまった。それがこれまでのあとりさんの人生でしょうか。自分自身を見つめ、意識を整理整頓することでしょうか。無理をしないで、ありのままの事実と共に生きることですね。それが一番楽な生き方です。孤独や恐怖からも逃げないで、一緒にいるといいですよね。痛みとも一緒にいてあげるといいでしょう。逃げないで、踏みとどまって一緒にいることによって、別の何かが開くでしょう。これまでの人生は、ありのままのものから逃げ回っていたのですね。事実と共に生きてはこなかった。それは今生だけの問題ではありません。もっと根深いものがあります。今生の子供の頃の出来事は偶然ではありません。すべてを体験し、理解し、クリアーするためのプログラムです。自分自身と一緒にいてください。ありのままの自分から逃げないで、今のありのままの自分を理解してください。そうすれば、人生が転換するでしょう。次は、藍&aiさんですね。【きょうのコメントを書いているうちに、なぜか今回のホームワークへとぶつかってきました。ほんとうは、このホームワークが出された時は、藍は、最近憎しみや寂しさを感じる機会が少ないから、実感として感じられずにいて、自分の奥にあるものにも気づくことができなかった。でも、昨日から今朝に至るまでの思春期の息子とのやり取りでしっかりと、今回のワークを体験しました。。。子供の時、両親の夫婦間や子供たちに対しての暴力や憎しみの言葉ばかりを受けて育っているとその恐怖や憎しみの気持ち。。こころは、しっかりと刻印されていくものですね。。。結婚した当初。。毎晩のように親に暴力を受けて殺されそうになる夢を見続けましたが、次第にそのような夢は見なくなりました。でも、恐怖や憎しみ、人に対する不信感、そこからくる恐れや寂しさはしっかりと藍のこころにタトゥーのように刻印されたようです。その染みは、なかなかすっきりと消えてくれずに、時折。。縁に拠って現れてくるのです。息子が思うように育ってくれない。。藍に対して、非常に反抗的な辛辣な言葉を浴びせてばかりいる。こんな筈じゃなかった。。反抗期の思春期の息子ならありがちな行動かもしれない。でも、藍は。。旦那のように黙っていられない。息子以上の攻撃的な言葉の数々を浴びせ掛ける。相手がうちのめされるまで言い続ける勢い。。自分でも言い出したら止まらない。。正直。。このときの藍は、息子を憎いと思っていたんだよね。暴力こそはないけれど、子供に浴びせる言葉の数々は。。藍が、子供の頃に親から浴びてきた憎しみの言葉と同じもの。。。後悔しても遅いよ。。息子のこころには、しっかりと藍の酷い言葉が刻印されたでしょう~。。3人息子がいるなかで、この真ん中の子が、一番むずかしい。。妊娠中の胎教があまりよくなかったんだ。。姑にさんざん虐められていた暗黒の時期と重なるから。。妊娠中。。藍は、毎日姑を憎んでいました。死のうと思ったことさえあるよ。。その時が、この真ん中っ子の妊娠している時でした。きっと、お腹の中で、とても居心地が悪かったのでしょう~。。生まれてきてからは、3人の中では、一番可愛がりました。年子で弟がいたので、この子のことはより大切に育てたんです。でも、しだいに息子が変貌してきました。子供の頃のような素直な優しいところが、時折変わって来たの。。そして、もうすぐ18年。。。この息子から、しょっちゅう。。「死ね!」「死んでください。。」と言う言葉を聞くとは思わなかった。憎しみの心は連鎖されていく。。親から子。。子から孫へと。。勢いは弱まりながらも。。。藍が憎しみを抱く時は、相手への不信感だったり、思うようにならない苛立ちだったりする。あるいは、自分の思いを分かってもらえない寂しさもある。なんで!親の言うことが素直に聞けないのだろう。。この子にとって良いことと思っているのに。。恩着せがましい?余計なお世話?いま受験期の息子。。大事な時期。。よけいに苛立つ。心配しているだけでも苛立ってしまう。。なんで、藍が言っていることと、ことごとく反対のことをするんだ~。。でも、こういうこころが噴き出てくるときは、もう咄嗟で自分の暴発は止められない勢いだ。何がおこたっておかしくない状況だ。いま、子供の親殺しの事件がよくあるけれど、我が家に起こっても不思議じゃないかも。。でも、よく考えてみると。。息子のこころも同じなのだ。藍に対する不信感や思うようにならない苛立ち。。それが咄嗟に火山のごとく噴出してくる。もしかしたら。。受験に対する不安もあるのかもしれない。。藍に似ているんだ。そして、藍も親に似てしまったんだ。。この連鎖を断ち切るには、どうしたら良いのでしょう。。?そんな自分を見つめて。。なんて思う前に、気持ちが暴発しちゃうんだもの。。相手の出方に素直に気持ちが出てしまう。。Kimiさん、こういう息子とは、どのように付き合っていったら良いのでしょう~。。?旦那さまは、息子たちのことはなァ~んにも言いません。藍に任せっきりです。藍が、言わせないようにさせちゃったのかなあ~。。でも。。息子3人を育てるのは、正直。。母だけじゃ厳しいです。旦那さまは。。ほんとうになあ~んにも言いません。たとえ親子で大喧嘩していても、その場にいない感じです~。。完全無視。それも見事なくらい。。新聞やワイドショーに載る前に。。ここのワークがあって良かったかも。。きょうは。。お恥ずかしい藍家の痴話話をしてしまいました。ホームワークからはずれてはいないですよね。。?はァ~。。今回は、長々と書いてしまった。まだ完全に、自分を見つめられていないような気がしますが。。と言うか、藍は鉄面皮。。本心を書いていても、あとからあとからもっと、違う藍が、いくつもあって。。Kimiさんに次第に皮は剥がされていくけれど、まだ本当のところまで至っていないのかも。。自分でも最近、自分のことが恐ろしくなってきました。】「562日目 - 憎しみと寂しさ-3」に続く
2006.07.17
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今日も晴れている屋久島。完全に真夏モード。室温は午前中で33度もあり、パソコンの前に座っているだけで怒濤のような汗が出る。でも、この汗が冬場の健康を保証してくれる。これだけ汗が出るということは、体内の老廃物も一緒に流れ出ているということ。屋久島へ来て三年。まったく風邪を引かなくなった原因が、ここにもあるのではないだろうか。それではホームワークを見ることにしよう。今回もたくさんの回答が寄せられている。テーマは次のようなものだった。【自分の中の憎しみ、自分の中の寂しさの奥には何があるでしょうか。自分自身を深ーく感じてみてください。】最初は、たろうくんですね。【今の自分の中には、憎しみや寂しさを感じることはありません。ただ寂しさで一つ思い出すのは、4人兄弟の末っ子だった私は、小学校低学年のころ、父が遊び(キャッチボール)に連れてくれるとき、いつもお留守番をさせられていました。嬉しそうに父と出かけていく兄・姉を羨ましそうに見送り、連れて行ってもらえなかった寂しさを、母にぶつけていましたが、母が父の変わりにたくさんの愛で包んでくれたので、父への憎しみが湧くことはありませんでした。そして次に出かけるときは、寂しい思いをしないでいいように、置いていかれる前に自分から、一番に車に乗り込んで連れて行ってもらっていました。でもキャッチボールを楽しんではいたものの、出かける前の繰り返す私からの行動に、心の片隅で父に愛されていないのでは。。。という思いが生まれていました。自分を一番にかまってもらえないことで、孤独さを感じ愛がないと思っていたのです。みんなと同じように接してくれることで、愛されていると思っていたのだと思います。中学生になり、その思いを父に伝えれるときがあって、父は私への愛情表現を上手く伝えられなかっただけで、私を愛していないのではなく、父は父なりに私をいっぱい愛してくれていたのだと感じることができ、それまで心の片隅にあった思いが、たくさんの涙であふれ出し解き放たれたのです。そして、私を愛していないんじゃないか?と思っていたことを父に謝りました。それ以降は、父だけでなく誰であっても、私への言動が一番でなくても、他の人と同じでなくても、それを寂しいと感じることはなく、それ以外のことでふっと寂しさを感じることがあっても、その感情に囚われることはないように思います。 】両親の愛に包まれて育つことが、どれほどその後の人生に影響を与えるか・・・たろうくんの場合は、両親の愛を自分で確認できて安心したのですね。そのバックボーンがあるからこそ、本気で寂しくなることがないのでしょう。豊かな愛に守られて育ち、それを本人もしっかり自覚していることは、人生の安定に繋がります。今生の存在のベース。心の故郷みたいなものでしょうか。アメリカ映画を見ていると、子供に対して親が頻繁に「愛しているから」と言っています。子供に限らず、恋人や配偶者、両親にも、絶えず「愛している」と言うのですね。日本ではあまり見かけないことです。日本はほぼ同一民族なので、言葉に出して言わなくても、なんとなく通じ合っているみたいな前提があるのですね。ところが・・・子供は不安になったりすることもあるのですね。自分は本当に親に愛されているのだろうか・・・子供を愛していない親はいないでしょうが、それが子供に伝わっているとは限らないのですね。そこから親子の悲劇が生まれます。今、子供を育てている方は、心して愛していることを伝えた方がいいかもしれませんね。そうすると、子供の心が安定するでしょう。親に自分が愛されていることがわかると、子供は安心して健やかに育ちます。「愛しているよ」と自分の子供に伝えてあげてくださいね。次は、えっちゃんですね。【憎しみという想いを持たずに来れた事を、ある時期とてもうれしい事だと思った。離婚や、仕事でのトラブルで、憎しみを抱いてもおかしくない状況の時、私はいとも簡単に敗北を認め、相手の想いに従った。それは何も大きな愛があったわけではないだろう。太刀打ちできないとあきらめたからに過ぎない。ただ少なくともそのことを憎しみの気持ちにすり替える事はしなくて済んだ。しいて言えば不条理に負けたと思う敗北感が残っただけ。ところが、ある時憎しみというのはこういう気持ちか、という感覚を味わった。40歳を超えてから、何度か失恋をした時です。嫉妬心が憎しみを呼び起こしたのです。解決策はあり得ない状況だから、自分の気持ちの中で嫉妬心が行き場のない妄想を構築して、それに対して憎しみを抱くのです。なぜか、人に対して憎しみを抱くわけではないのです。だから、その当事者に出会っても、憎しみは出て来ないのです。自分がないがしろにされた状況に憎しみが湧くのかも知れません。今の職場で、理不尽とか不条理だと私には思える扱いをされると、憎しみが湧いてくる。憎しみの向こうにあるものは、ないがしろにされた口惜しさでもあるようです。それは自己愛ということになるのでしょうか。寂しさの向こうにあるもの。完全な甘え、開放を味わえなかったこと、そして今でもそういう事を切望しているということですね。私の場合、親というより、かっての夫との事が大きいかも知れません。いつも、身構えていた。いつも、萎縮していた。いつも、不安を感じていた。いつも、相手の顔色を見ていた・・・いつも、他に満たされたいと願ってきたわけですね。無防備に満たされようとすると肩透かしの目に会う・・・。寂しさの向こうには、他に満たされたいと願うさまよえる甘えん坊の私がいるようです。】えっちゃんが憎しみを抱かない時は、敗北を認め、相手の想いに従う時ですね。それは太刀打ちできないと諦めたから。えっちゃんが憎しみを抱く時は、嫉妬心がある時、理不尽や不条理と思う時。太刀打ちできると思う時でしょうか。諦めてしまえば、憎しみは沸かないのですね。今の現状を認められない時、憎しみとなるのでしょうか。認められないと、どうして憎しみに変わってしまうのでしょうか。誰かのせいにして、自分を納得させようとしているのでしょうか。それとも、不満のはけ口として憎しみがあるのでしょうか。自分の満たされない思いを相手にぶつけているだけでしょうか。えっちゃんは、どう思いますか。どうして憎しみが生じるのでしょうか。憎しみって何?寂しさについては、甘えですね。満たされたいのに満たされないと、寂しくなる。他の人から満たされたいという甘え。寂しさの奥にあるものは、甘え。でも、その奥にも何かありそうですね。満たされていない自分・・・満たされていない自分が、満たされたいと願う時、満たされないことによって寂しくなるのですね。自分を満たし続けてくれる相手がどこかにいる?それとも、いない?いればいいけど・・・いないと・・・寂しいまま?さてさて・・・次は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【<自分の中の憎しみ>どうしても思い当たりません。強い憎しみを抱かずにいられない時期も何度かありましたが、今は遠く思い出すことさえ出来なくなっています。<自分の中の寂しさの奥には何があるでしょうか>寂しさは、大切な人と心が通わない時です。「人にどう思われるか」より「自分がどう在るか」を意識してきた私は、誤解されることに傷ついたり動揺する事は少ない方だと思います。けれど家族に対してだけは「自分を理解して欲しい」という想いが人いちばい強い気がします。実母の他界を契機に命をつなぐこと、想いをつなぐことの大切さを感じている時、私の身体が子供を産めなくなった事を知りました。20年程前に卵巣癌を患い、手術→抗がん治療2年→手術をして、不妊治療も散々して、子供が産めないことくらいで傷ついたりしないけれど…母になりたかった。血はつながっていなくても構わない。義父の生き方を、義母の生き方を、子供達と語り合いながら子育てしたかった。夫のイキザマ、子供と一緒に支え生きたかった。大好きな義父母の、愛しい夫の、命をつないで生きたかった。義父母や夫、私の生きる姿を誰かに見つめてもらいたかった。家庭がなくて寂しい思いをしている子供たちは沢山いるのに、ほんの僅かでも役に立てるかもしれないのに…夫も私も愛情豊かに育ててもらい、二つの命を育ててもらったのだから、立派な親にならずとも二つの命を育てさせて貰いたい。努力出来る事は、頑張らずにはいられない私。どんなに苦しい場面でも、現状の中に幸福を見出すことが得意な夫。彼の長所が、私の尊敬する彼のそんな所が、私の前に壁となって立ちはだかる。彼の持味を尊重したい気持ちと、絶望感とで私は混乱しました。そして何より、夫の耳に私の心の叫びはなかなか届かない。表現の仕方やタイミングを色々試みても、彼の心に届かない。 長い時間をかけてやっと夫が聞く耳を持ってくれ、私の考えに涙して感謝してくれた夫だったけれど、彼はアクションを避け二人の生活を望みました。私も納得しました。寂しさの奥には「支配したい」という欲求があるのだと気付きました。イライラも寂しさも、奥にあるものは「支配欲」みたい。謙虚でありたいのに、高飛車なのもここからきているのでしょうね。自分の関心事に猪突猛進する夫・実父・実姉に囲まれ、一人ヤキモキする私。どっぷりと愛情に包まれながら、自分の言葉を聴いてさえもらえないジレンマに苛まれ、家族の優しさが疎ましくさえ感じる自分に自己嫌悪。思考では「このうえなく幸福」でも心が寂しく途方にくれてしまう。贅沢な苦しみなんて誰にも言えず、心の居場所がなかった。そんな時期、ぴあのサンを介してkimiさんの御言葉に救われました。今はもう寂しくありません。kimiさんの御言葉にふれる度、私の築いてきた信念がコツンコツンと覆されるのです。長年私を支えてきた信念が、いともアッサリと…面白いほど。まだまだ頑なな固定観念があるでしょうし、気付いてもいないことが山程あろうと思いますが、心が軽くなった事で気持ちよく酔いしれています。記憶が薄い感じがして、ホームワークをしながら私は認知症?と心配に思えてしまう。さぁ「支配欲」どうして消えてくれるかしら?いけないいけない…また思考で解決しようとしています。】大切な人と心が通わない時、自分を理解してもらえない時、寂しいのですね。その奥にあるのは、わかってほしい、認めてほしいということでしょうか。その奥には、自分の思うようにしたいという支配欲があるのかもしれませんね。では、支配欲の奥にあるものは?それは自分を満たしたい。自分が満たされたいということでしょうか。ということは・・・自分が満たされていないということでしょうか。自分が満たされていないから、外に向かって自分を満たすようなことをしたがるのでしょうか。支配することによって自分を満たそうとする。認められることによって自分を満たそうとする。しかし、それが満たされない時、寂しくなる。自分の中に元々寂しさがあるのかもしれませんね。自分の中で満たされないから、外のもので満たそうとする。それでも満たされないので、寂しさに戻ってしまうのですね。その繰り返しでしょうか。この悪循環を根本的に解決するには?自分の奥へ奥へ入っていくことでしょうか。支配欲の更に奥へ。満たされない気持の更に奥へ。奥の奥の原点を感じることでしょうか。「562日目 - 憎しみと寂しさ-2」に続く
2006.07.17
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今日も屋久島は、さわやかに晴れ上がっている。山はクリアー。海はベタ凪。暑い!午前10時の時点で、軽く30度を越えている。シャワーを浴びても、汗が滴(したた)り落ちる。突然、後ろから首を絞められる。苦しい!死にそう!必死にもがく。次の瞬間、犯人がいなくなる。車が通りかかったのだ。やっと恐怖から解放される。危機は去った。しかし・・・心臓の動悸は収まらない。思い返せば恐怖が津波のように襲ってくる。今のは何だったの?訳がわからない。背筋が寒くなる。しかし、問題はこれで終わらない。現実的な危機よりも、もっと深刻な危機が待っている。それは・・・首を絞められた記憶が残ってしまう。潜在意識に、しっかりと刻み込まれている。それが、やがて夜ごと自分を苦しめるようになる。首を絞められる夢を見る。死ぬかと思ったところで、ハッと目が覚める。夢を見てうなされる毎日。おちおち安心して眠れない。もう不眠症かノイローゼになりそう。それは想定外だった。まさか自分がこんな目に遭うとは夢にも思っていなかった。あのまま首を絞められていたら・・・思うだにゾッとする。想定外、予想外、未経験、突然、強烈・・・ショック!それは激烈なインパクトで記憶される。心の傷として、潜在意識に深く刻印される。元々は、再発を防ぐために記憶される。危険を予防するために記憶される。ところが、それがあまりにも強烈だと、危険予防の範囲を越えてしまう。何らかの後遺症を残す結果となる。ショック症状から立ち直れない。それ以外のことが考えられなくなる。そればかりが気になって、怖くてしかたがない。精神の均衡を失う。このトラウマから解放される道はあるのだろうか。時間が解決してくれる?それも一理ある。しかし、長い間に渡って苦しめられるのも事実。もっと早く確実にクリアーする方法はないものだろうか。人は、なぜ何度も同じ夢を見てうなされるのだろうか。それは解放のプロセスだろうか。生体は、いつまでも記憶を保持しようとはしないのだろうか。それはだんだん薄れていくのだろうか。何度も意識に浮かべば浮かぶほど、記憶は解放されていく。生体は強烈な記憶を永遠に保持しようとはしない。危険が去れば、記憶は必要ではない。夢や思い出すことによって、強烈な記憶を薄めようとする。ところが・・・思い出すたびに、パニックの再現となる。更に恐怖が増し、フリーズしてしまう。事実としての危険は、とっくに去っている。しかし、思い出された記憶が恐怖感を掻き立てる。そこにはまり、そこから身動きができなくなる。想像が、更なる恐怖を掻き立てる。また首を絞められたら、どうしよう?また襲われたら、どうしよう?想像の中で、どんどん恐怖が増幅される。思い出す度に、恐怖が強く印象づけられ、記憶されていく。恐怖の記憶だけが独り歩きを始める。そうなると、いくら夢に出てきても、思い出されても、解放は起きない。記憶が解放されるどころか、逆に強固になっていく。それではいつまで経っても恐怖の記憶から自由になることはできない。生体は記憶を解放しようとする。ところが、思考がそれを阻む。解放されるために出て来る度に、思考はそれをしっかりと掴み、また記憶の倉庫へ送り返す。それではいつまで経っても堂々巡り。恐怖の記憶から解放される日は来ない。では、どうすればいいのだろうか。このプロセスを理解することだろうか。生体は恐怖の記憶を解き放つために夢を見させる。必要以上に強い記憶を薄めるために、時として思い出させる。その時に、再備蓄しないことだろうか。夢や思い出すことが、解放のプロセスであることを理解することだろうか。出て来る時は、消えている時。それを理解して、出て来る恐怖の記憶に囚われないことだろうか。恐怖の記憶をいつまでも持ち続ける必要はない。自然のままに解き放てばいいだけ。想定外の突然の出来事だったので、強く記憶されてしまったというだけのこと。それは再度の危険を防ぐための自己防衛本能。必要以上にこだわることはない。すべては過去の出来事。もう終わったこと。単なる記憶。冷静に検討し、二度と危険な目に遭わないように注意する。自分自身を見つめ直し、何が事件を引き起こしたのかを冷静に検討する。いつまでも過去を引きずらない。過去に囚われ、過去にのめり込まない。過去を必要以上に強調するのは、思考。過去の危険から未来の危険を予想し、必要以上に心を動揺させるのは思考の得意技。また同じようなことが起きたら、どうしよう?殺されそうになったら、どうしよう?考えれば考えるほど、思考停止状態に近づく。冷静な思考が遠ざかる。冷静にシュミレーションし、対策を考える。単なる恐怖の想像は何の意味もない。いつも恐れていれば、恐れた現実を招き寄せるだけ。きっぱりと切り替える。過去は過去。記憶は記憶。今現在の事実ではない。過去の記憶は、それがどんなに強烈であっても、やがて色褪せる。出て来る度に強化することをしなければ、消えていくだけ。そのままにしておく。消えるままにしておけば、何も問題はない。過去は終わったこと。ただ強烈な記憶が残っているだけ。それは想定外の突然の出来事が起きたから。ただそれだけのこと。すべて消えていく。過去に囚われない。消えゆくものを追わない。そのままにしておく。これは何も殺されそうになった場合に限らない。失恋したり、事業に失敗したり、人前で恥をかいたり・・・ありとあらゆることに応用できる。記憶全般に応用が利く。記憶のメカニズムをよく理解する。必要以上に記憶にウエイトを置かない。記憶は単なるメモリー。役にたつシステム。生体のメカニズムの一つ。すべての記憶は、やがて消えていく。その性質を理解して活用すればいいだけ。間違っても記憶に使われないように。記憶に振り回されれば、人生は過去ベースとなる。過去が今となり、目の前の今をいきいきと生きることができなくなる。記憶を理解し、記憶を超える。間違っても記憶に翻弄されない。しっかりと自分自身にグランディングして、主体性を確保する。記憶が主体ではない。記憶は道具。単なる道具。努力して恐怖を克服しようとする。それも悪くはない。しかし、それには並外れた精神力を必要とする。なぜなら、同じ次元で対立するから。恐怖と努力は、同じ思考の次元。それはまるでシーソーゲーム。どちらかが上がれば、どちらかが下がる。力による鬩(せめ)ぎ合い。いつ逆転されるかもしれない辛く苦しいゲーム。見守ることは、同じ次元ではない。恐怖を見守ることによって、意識のフォーカスが恐怖から見守る方へ変わる。恐怖ばかりに意識が行けば、恐怖の虜になる。恐怖を見守れば、意識の転換が起きる。恐怖もあるかもしれない。しかし、恐怖だけではない。恐怖を見守る意識もある。そうなれば、恐怖で身動きが取れないということはなくなる。思考の次元で葛藤している限り、苦しみが続く。見守ることで、その葛藤から解放される。恐怖と努力の綱引きは疲れるだけ。ただ静かに見守る。見守る中で恐怖のメカニズムが理解される。理解されれば、意識のフォーカスは恐怖から外れる。『突然の 想定外の 出来事に 強いショックが 記憶に残る』『夢を見る 度にうなされ 怖くなり 自分を忘れ パニックになる』『強烈な 過去の恐怖に 呑み込まれ 自分で自分 どうにもならない』『強過ぎる 記憶に心 奪われて 記憶の奴隷 身動き取れず』『思い出し 何度も恐怖 反芻(はんすう)し 更に強めて 記憶にしまう』『消えてゆく 記憶に心 奪われて 掴み直して 記憶に浸る』『恐怖から 抜けることだけ 考えて 更に深みに はまる毎日』『いつまでも 過去に囚われ 引きずられ 今の自分が どこにもいない』『引きずられ 恐怖のままに 支配され 弄(もてあそ)ばれて 終わる人生』『元々は 再発防ぐ ためのもの 記憶の機能 理解し使う』『身を守る ために恐怖は あるものと 肝に銘じて 生きてゆくこと』『何回も 夢に出て来る 恐怖感 出て来る度に 弱くなってる』『夢を見て 過去の記憶に 囚われて 今の自分を 見失わない』『恐怖感 出て来る時は 消える時 思い出す度 手放していく』『肉体の 傷は自然に 癒される 心の傷も 自然に癒える』『この今を 真に豊かに 生きるため 過去も記憶も 活用するもの』『注意して 生きていないと 引きずられ 振り回されて 恐怖の奴隷』『思い出す 度に恐怖を 掴まない 掴む限りは 自由になれない』『強烈な 記憶薄める ための夢 再び恐怖 掴まないこと』『甦(よみがえ)る 恐怖の記憶 強くとも 負けてしまえば 自由は消える』『しっかりと 意識のフォーカス 今に置き 過去の記憶に 振り回されない』『感情に 負けないために 感情を 常に見つめて 理解すること』『冷静に 見守る意識 弱ければ 感情のまま 振り回される』『自らを 見つめる意識 ないならば 恐怖に打ち勝つ ことはできない』『冷静に 見つめる意識 何よりも 恐怖に打ち勝つ ために必要』『泥沼に 足を捕られて もがいてる 自分見つめて 囚われ抜ける』『もがいてる 姿見守り 待つうちに やるべきことが はっきりしてくる』『いかように 強い恐怖で あろうとも 踏みとどまって 恐怖見つめる』『しっかりと 負けないように 注意して 恐怖見つめて 手放してゆく』『抑えない けれども負けない 恐怖には しっかり見つめ 今にフォーカス』『負けないで 静かに恐怖 見守れば 意識のフォーカス 自然に変わる』『過去は過去 記憶は記憶 今は今 今の現実 生きてゆくだけ』これが561日目の心境です。
2006.07.16
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「560日目 - 傷つくということ-1」の続き人は事実ベースでは生きていない。その証拠に、突然、癌の宣告をされるとショックを受ける。こんなはずではなかった・・・余命いくばくもないと知らされ、ショックを受けない人はいない。それはもっと長く生きると無意識のうちに思い込んでいたから。思い込みによる安定が破壊され、人は立ち往生する。ショックのあまり、茫然自失、自暴自棄になる人も出てくる。しかし、しばらくすると、別の思い込みによる精神の安定がもたらされる。残りの人生を大切に生きよう!余命いくばくもないという思い込みから生まれる、別の精神の安定。医者の予想通りに亡くなる人もあれば、予想を遙かに超えて生き延びる人もいる。思い込みという前提は、精神の安定をもたらす場合もあれば、それが裏切られて混乱する場合もある。思い込みワールドは、両刃の剣。安定と混乱。それは表と裏の関係。いずれにしても、思い込みの世界。思い込みによって自分を安定させようという世界。安定もするが、一方で掻き乱されて混乱もする。思い込みによって安定していた自分の世界が破壊される時、人は傷ついたと言う。そして、二度と傷つくことのないように、心を閉ざす。傷つくことを恐れ、心を開くことができなくなる。人は思い込みワールドを自分だと思い込んでいる。思い込みこそが自分自身であるという思い込み。二重の思い込み。ただ思いの世界で生きているだけ。思いの世界で安定したと思い、思いの世界で混乱したと思い、思いの世界で傷ついたと思い込んでいる。人は思いの世界で右往左往しているだけ。思い込みを自分自身だと思い、それが破壊されることを恐れ、思い込みワールドを必死で守ろうとする。客観的に見れば、滑稽とも言える。自作自演の猿芝居。すべて思い込みの世界。自分の実体を見極めない限り、人は思い込みワールドの中で一生を終わる。良いも悪いもない。それこそが事実。自分自身を見つめてみれば、それは明らかだろう。そういう生き方もある。思いに翻弄され、悩み苦しむ一生。それも人生。しかし・・・それだけが人生ではない。別の人生もある。思い込みワールドではない世界。思い込みワールドは不自由な世界。自分を気にし、周りを気にし、いつも現象に振り回されている。しかし、現象ではなく、もっと深い意識に立脚する世界もある。それは思い込みワールドが終焉(しゅうえん)した時に現れる。言葉を超えた世界。思いを超えた世界。傷つくも傷つけられたもない世界。クリアーで透き通るような世界・・・『安定を 掻き乱されて これ以上 傷つかぬため 心を閉ざす』『もう二度と 傷つかないと いう保証 あれば心を 開いてもいい』『この世には 死ぬこと以外 どのような 保証もなければ 安全もない』『自分だけ どうしてこんな ひどい目に 遭うと思えば 世間を恨む』『思い込み 強い程度に 比例して ショックを受ける 程度も決まる』『思い込み あれば必ず 裏切られ 傷つくことに なるは必定』『思い込み この世だけでは 足りなくて あの世のことも また思い込む』『傷ついた ことの中身は 思い込み 外れてショック 受けたに過ぎない』『思い込み 外れたことで 傷ついて 傷つけられたと また思い込む』『傷つくも 傷つけられるも 思い込み 強いショックが 刻まれただけ』『思い込み 破壊されると 傷ついた 傷つけられたと いうことになる』『これまでの 安定していた 思い込み 破壊されたら ショックで傷つく』『思い込み 破壊されては 傷ついて 不安になって 心を閉じる』『周り見て 安全そうなら 顔を出し 危なくなると 殻閉じ籠もる』『思い込み 破壊されると 自(みずか)らが 破壊されたと また思い込む』『傷ついた ものは単なる 思い込み ホントは何も 傷ついてない』『思い込み 粉砕された だけなのに 自分自身が 壊れた気分』『実体は 何かと問えば 思い込み それ以外には 私はいない』『思い込み 否定されては 傷ついて 思い込みこそ 自分そのもの』『私とは 思い込みとも 知らないで 後生大事に 守り傷つく』『思い込み 自分と思って いればこそ 否定されると 傷つきもする』『思い込み 傷つくことの メカニズム 理解されれば もう傷つかぬ』『傷つくと 思うことさえ 思い込み 誰も傷つく 者などいない』『思い込み 破壊されれば 傷つくと 思い込んでる それだけのこと』『よく見れば 自分自身も 思い込み 傷つくことも また思い込み』『思い込み ワールド内で 傷ついて 悩み苦しみ 苦悩の一生』『傷ついて いるものこそは 思い込み 思いの世界で 生きているだけ』『思い込み 破壊されない 唯一の 道は何にも 思い込まない』『思い込み 外して生きる ことだけが 傷つくことの ない過ごし方』『真実は 傷つくことも 何もない ピュアーな意識 そこにあるだけ』これが560日目の心境です。
2006.07.15
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今日の屋久島は、快晴。久しぶりにさわやかな天気。愛子岳が輝き、落(おとす)の滝が白く糸を引き、その上に月が架かっている。自分を守るために心をクローズする。もうこれ以上傷つかないために。そうすると、愛が溢れ出す出口も塞がれてしまう。心をオープンにすれば、愛は溢れる。しかし、怖くて開けない。心を閉ざしていては、孤独地獄に落ちるしかない。心を開きたい。でも、開けない。傷つくのが怖い。どうすれば心を開けるだろうか。安全であれば・・・もう傷つかないのであれば・・・二度と同じ目に遭わないのであれば・・・心を開いてもいい。でも・・・そんなことはあり得ない。そんな保証はどこにもない。何が起きるかわからない。それがこの世。では、どうする?このままビクビクしながら自分の中に閉じ籠もっている?人と会う時は必ず心の鍵をかける?自分だけ、どうしてこんな目に遭うの?神も仏もない!恨み言を並べながら一生を過ごす?それも、また辛い。同じ辛いならば、思い切って外に出てみる?傷つく覚悟で?心さえ閉ざしていれば・・・感じることをストップしていれば・・・なんとかなるかもしれない。傷つくとは何だろう?侮辱された?恋人に捨てられた?友人に裏切られた?職場でリストラされた?すべてに共通するものは何だろう?自分の思い込みが外れたということだろうか。自分とは?思い込み?思い込みの集合体が自分?侮辱されるような自分ではないという思い込み。恋人に捨てられるはずはないという思い込み。友人に裏切られるはずはないという思い込み。自分がリストラされるはずはないという思い込み。その思い込みが外れた時、ショック!心の安定が崩れる。これまでの自信が揺らぐ。自分自身が不安定になる。そもそも傷つくとは、どういう現象なのだろうか。肉体的に傷つくとは、どういうことだろうか。それは何らかの事情により健全な細胞組織が切り裂かれるということだろうか。安定的な細胞の結合状態が破壊されるということだろうか。では、心理的に傷つくとは、どういうことだろうか。それは思い込みによって安定していた意識状態が、想定外の出来事によって攪乱(かくらん)されることだろうか。思い込みによる安定の破壊が、傷つくということだろうか。思い込みワールドを破壊した者は、人を傷つけたというレッテルを貼られる。思い込みワールドの安定を破壊された者は、傷つけられたと言って相手を非難する。それは傷つける意図がない場合にも起こり得る。相手の思い込みと異なる発言をすれば、結果的に傷つけることになる。実は、傷つく、傷つけられるというのも、思い込みに他ならない。その実体は、思い込みによる安定が破壊されたというだけのこと。そのショックを、心的外傷と呼ぶに過ぎない。実際は、何も傷ついてはいない。思い込みが破壊されただけのこと。傷つくとは---これまでの思い込みによる精神的安定が破壊されること。自分の思い込みワールドが粉砕されたショック状態。だからこそ、人は自分の思い込みワールドが攪乱されて混乱しないように、心を閉ざす。 そうすれば、自分の思い込みワールドに介入されて、動揺することは起きない。その代償として、心の交流を犠牲にすることになる。心の安定を得るためには、心を閉ざすだけでは足りない。傷ついた自分の心にふれないようにする必要がある。そのためには、趣味に打ち込み、自分を忘れる。仕事に没頭し、考えることをやめる。心の傷を見ないために、他のことで気を紛らわせる。しかし、それは逃げているだけ。根本的に問題が解消された訳ではない。潜在的には常に傷つくことを恐れている。心をオープンにすることは永遠にできない。それが長く続くと苦しくなる。なんとかこの苦境から逃れたいと望むようになる。そこで、精神世界のセミナーに出かけてみたり、各種心理療法を試みたりする。占いや霊能者に頼る人もいる。最後は宗教に走る人も出てくる。救ってくれるものなら、この際、何でもいいという気になる。本気で心の傷と向き合うつもりはない。怖くて、そんなことは到底できない。ただ、今の苦しさから逃れられればいい。何か楽にしてくれるものはないだろうか。誰か楽にしてくれる人はいないだろうか。自分の心の傷と対峙し、それをクリアーにするつもりはない。ただ救われたい。そのために、次から次といろんなところを渡り歩く。しかし、効果はない。あっても一時しのぎ。心の傷にはふれようとしないので、本質的に解決することはない。しかし、ある時、精神世界のセミナーで救われる。それは必然だった。起きるべくして起きた。あの事件によって成長することができた。すべては良かった。この世に悪いことはない。事後解釈によって救われる。少なくとも本人は救われたと思う。別の思い込みが自分を救う。新たに自分を肯定するようなことを思い込むことによって、心は安定する。しかし、それもまたいつか裏切られる。絶対と思っていたものが覆(くつがえ)される時、強いショックを受ける。そして、また心が傷つく。もう二度と信じない。何も信じない。心は更に硬くなる。思い込みは裏切られる。絶対的な思い込みはない。必ず事実と思い込みとの間にはズレが生じる。なぜなら、思い込みは過去ベース。事実は今ベース。前者は固定。後者は無常。ズレない訳がない。必ず裏切られる思い込みによって自分を安定させれば、それは薄氷を踏んで歩くようなもの。いつ思い込みが裏切られ、傷つくとも限らない。常に傷つく準備をして生きているようなもの。思い込みとは、そういうもの。思い込みから来る自信は、必ず崩壊する。現実は思い込みを超えている。思い込みは過去ベース。過去の記憶は限られている。そういう限定されたものでできている自信は、無限の変化に対応できない。自信を喪失して、人はまた傷つく。今度はニヒリズムに走るかもしれない。この世は虚しい。みんな、いつかは死ぬ。そんなことはない!死後の世界がある!精神世界に詳しい友人が主張する。死んだことあるの?ある訳ないだろう!ならば、どうして死後の世界があるとわかるの?精神世界の本に書いてある!でも、それって本と?霊界通信?チャネリング?幽体離脱?自分で確かめた?それは・・・また別の思い込み。死後の世界はあるかもしれない。ないかもしれない。生きいる間はわからない。死んでみなければ、正確なところはわからない。自分で確認しない限り、信仰か思い込みに過ぎない。では、どうする?そんな曖昧なことでは生きていけない。やっぱり人生は虚しい?虚しいというのも、また思い込み。事実ではない。虚しいと自分で決めつけているだけ。事実はわからない。わからないものから類推する限りは、すべて思い込み。わからないというのが事実。「560日目 - 傷つくということ-2」に続く
2006.07.15
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「558日目 - 愛のブロック-2」の続き最後は、ぴあのさんですね。【私はいつも愛があふれ出ない自分を裁いています。裁かない、そんな自分も暖かく見守るのだ ということはわかっていてもこの裁きは小学生の頃から延々やっています。小学生の時、愛のない自分に、『これではいけない』 と思い、近くの教会の門をたたいて日曜の礼拝に来させてください とお願いに行ったこともありました。日曜の礼拝や 聖書を読みながら過ごす時間は 少女の私にとって至福のときでした。今回のワークで気づいたことは、私が今まで生きてきた自分を振り返り、『内から溢れ出る愛』 というテーマは、今生の私が強くクリアしたい課題だった ということです。なぜ、そんな子供の頃から愛について自問自答して愛が溢れない自分を責めていたのか・・・たぶん、妹ばかり可愛がる母への憎しみと、母の愛を独り占めする妹への憎しみそれらが、まだ幼く純粋な自分にとって 耐えられないものだったのでしょう。人を憎む ということは自分のハートの奥では耐えられないもの、でも、憎んでしまう。その葛藤に苦しんでいたように思います。(それだけではなく、過去世の影響もあったのかもしれません)私は、いつも リーダーでいないと気がすまない自分がいます。小さいころから、遊び仲間の中でも、自分がリーダーでした。それは、中学、高校、大学、社会に出ても、そして、今現在、子供のママ友達の中でさえもずっと変わりません。自分が一番でいたいのですね。大勢の人前でスピーチをするのが大好きだったりします。注目されている というのがとても心地いいのですね。この、自分が一番でいたい 常に注目されていたい という気持ちが 私に愛が溢れ出ない一番の理由だということに今回のワークで気づきました。はっ としました。裏返せばそこに、とても自信のない、愛を渇望している、人から認めてもらいたい自分がいるのだということに気づきました。自分の存在を認めていてもらいたい という心の奥の想いが 人の前に立っていると心地いいそして、常にそういう自分を作ろうとして 作って、人生を生きたのだ ということに気づきました。私の最大のブロックは、得られなかった母の愛、母の愛を独り占めした妹への憎しみ自分の存在を否定されたような感覚をずっと抱いていた自分、そして、その寂しさを埋めようといつも人に認められていたい と、常に人の中でリーダー的存在でいたい という願望があること だと思います。今まで私の中で頑丈に根を張ってきたこれらの想い それらが溶けるとき、私の中から自然と愛が溢れ出るようになるかもしれない そう思いました。今回のワークは、一番わかるようでわからない自分の内面を掘り出せた感覚です。】確かに、これまでのぴあのさんのホームワークの中で、最も深い回答かもしれませんね。よく自分自身を見つめられていますね。子供の頃の思いが、今の根っ子にあるのですね。それは取りも直さず、同じようなものが過去世にもあったということでしょうか。愛を得られずに、憎しみの中で苦しんだ。愛を得るために、認められようと努力した。認められるために、いつも自分を意識していた。そのパターンを乗り越えられるかどうか・・・それが今生の課題でしょうか。過去世と似たような状況を今生でも設定して、愛の試練にチャレンジしているのですね。愛の試練とは、愛が自然に溢れ出すかどうか。教会に行き、聖書を読み、愛のノスタルジーに浸っていたのでしょうか。過去世では、教会や聖書を通した愛だったのかもしれません。それは愛の誘い水です。愛へ誘(いざな)う導管です。でも、今生は・・・自分自身が導管になるのですね。自分自身が他の人を愛に誘う導管になる。そのためには、自分の中から汲めども尽きぬ愛が湧き出して来なくてはなりません。そのために、これまで延々と準備してきました。これからですね。愛の導管になれるかどうか。愛の泉が湧くかどうか・・・憎しみや寂しさと一緒にいることでしょうか。憎しみや寂しさの奥にあるものを感じることでしょうか。そこに何があるでしょう。それが本当に自分で実感される時に、すべてが消えるでしょう。憎しみも寂しさも・・・ここから先は自分で進むしかありません。自分で自分を感じてあげるしかありません。実感だけが、すべてを癒すのですから。自分自身で実感するしかないのですね。奥の奥の奥まで感じてみてください。憎しみの、寂しさの奥には何があるでしょうか。これはホームワークになりそうですね。すべては愛が溢れるためにセットされています。憎しみも、寂しさも、悲しみも、苦しみも・・・すべては愛のために。それを真に活かすことができるでしょうか。現象に囚われないで、奥の奥を見つめてください。奥の奥の奥を・・・すべては愛のために。『真剣に 見つめて書いた ものからは 心浄める 波動あふれる』『自らの 醜い姿 隠すため 心閉ざして 愛をブロック』『身を守る ために心を 閉ざす時 愛も同時に クローズされる』『囚われて 愛があふれる 隙がない 振り回されて 思いの虜』『現象に 振り回されて いる限り 愛はあふれる ことができない』『現象に 振り回されずに 本質を 見極め抜いて 生きる真実』 『しっかりと 自分自身と 共にいて 静かな中で 愛はあふれる』『寂しくて 外の何かに すがる時 愛は出口を なくしてしまう』『囚われて 心が硬く なる時に 愛があふれる 隙間が消える』『囚われが 消えて心が 空(から)の時 愛は自由に 出入りできる』『身を守る ための恐れが 心まで 固く閉ざして 愛をブロック』『手を放し 心開けば 自(おの)ずから 愛はあふれる 何もせずとも』『死を恐れ 心が萎縮 する時に 愛も同時に 行き場をなくす』『心閉じ 愛の出口を 塞ぐのは 身を守るため 傷つかぬため』『身を守る ために心を 閉ざす時 愛はあふれる ことができない』『傷ついた 時は心を 閉ざすより 自分自身を ただ抱きしめる』『傷ついた 心があれば 癒すため 愛は自然に あふれ出すもの』『傷ついた 子供の心 癒すため やさしく見守る 愛が必要』『いつまでも 子供の心 引きずって 多くの大人 苦悩している』『傷ついた 子供の自分 抱きしめて 大人の自分 癒されていく』『恐れから 身を守るため 予防線 二重三重 もうわからない』『複雑に 入り組み過ぎて 自分でも 自分の心 訳がわからぬ』『一つずつ ほぐしていけば その元は 身を守るため 恐れが見える』『駆け引きの 愛はいつしか 消えていく 魅力消えれば 愛も薄れる』『所有する 愛は相手を 支配して 自分の支えに 利用するだけ』『所有する 愛が奪われ 憎しみに 変わる愛なら 愛憎の愛』『認められ 愛を我が手に するために 負けず嫌いで 無理に頑張る』『愛求め 生きるいのちの いじらしさ その奥にある いのちの輝き』『憎しみも 寂しさ悲しさ 苦しさも すべては愛が あふれ出すため』これが559日目の心境です。【ホームワーク】自分の中の憎しみ、自分の中の寂しさの奥には何があるでしょうか。自分自身を深ーく感じてみてください。締切は、7月17日午前9時。BBS蘭に記入してください。誰でも参加できます。但し、自分の言葉で、具体的にわかりやすく書いてくださいね。
2006.07.14
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「557日目 - 愛のブロック-1」の続き次は、Y@soleilさんですね。【愛をブロックしているものは、恐れ。死の恐れから始まり広がる私という自己イメージそのものです。私であることに、生きることに息が詰まりそうになります。私は死の恐れから、みずからの生命力にブロックをかけようとしています。本末転倒状態です。これが愛で、これは愛ではないという価値観があります。愛に関する様々な価値観が、私の中にただあるものをブロックします。神の愛、親の愛などの家族愛、男女の愛、友情や、ペットに対する愛に至るまで・・・。その価値観に当てはめるということは、その全てが自らを守るという隠された動機によるものです。私中に今溢れる色づけない何事に対しても、その価値観に基づき選別し、ブロックをかけてしまうということです。それは自然にあるがままに今に生きることを妨げます。これにとらわれている私は無邪気に愛する事が、無邪気に生きるということが、難しい状態です。愛されないということは、私には死を意味しました。それは前回のワークで伝えました。また、生きることの罪悪感。それは私として生きることの恐れを感じさせています。私は自らの生命力をどこかで認めていません。自らの生きようとする意志を時に醜いものだと感じます。それは恐らく、怒りから発されているものだと感じられます。自己保存本能に駆られて、私を殺そうとした母に対するもの。そして、そんな自分に対するものかもしれません。これは殺すこと、殺されることの歴史からの根深い印象かもしれません。食欲とか性欲とかの欲望のある自分が時折許せなくなります。生きようとする生々しい自分が怖いのです。だから、愛の価値観や、色んな道徳や善悪の価値観にしがみつき、生きようとする自分自身を制限します。そして、身体感覚まで素直に感じることが怖くなります。怖いので感覚を感じて生きることに葛藤が生まれます。それは私を今まで、感覚を排除しようとするか、耽溺するかの極端な行為へと駆り立ててきました。それは今、この瞬間に溢れた息吹きと生きる事も妨げます。誰かに抱きしめられても、それを丸ごと受け取ることが難しくなります。愛する人に去られる恐怖があります。それは私をとたんに無力感に満ちさせます。思いが強いと、とたんに失望した過去の記憶がよぎってしまいます。それは私一人で生きられないという想いがあることを意味します。私には愛が足りないという意識が潜んでいることが解ります。それは外部への依存と力を奪うことへの衝動を引き起こします。生きることを恐れる、しかし生きたい。生きたいが、生きることが怖い。そうして複雑で葛藤し倒錯した思考や感情を引き起こします。それらが愛が溢れることをブロックします。愛の息吹きをみるみるうちに歪ませてしまうのです。これが、とりあえず見えてきた私の中のブロックでした。ありがとうございました。】かなり複雑に錯綜していますね。この絡まった意識の糸をほぐしていく必要がありますね。よく見つめて整理整頓する必要があります。そうでないと、いのちがストレートに生きれません。愛がストレートに表現されないのですね。先ず死の恐れがあります。それは胎児の時に記憶されたものでしょうか。堕胎、抹殺、死というのは、どういうことでしょうか。それは自己存在の否定。マイナスエネルギーです。マイナスエネルギーには、自動的にプラスエネルギーが反応します。生きたいという意志です。先ずは、死と一緒にいることでしょうか。ただ死と一緒にいるんですね。何も言わないで、ただ死を感じてみる。良いも悪いもない。正も邪もない。事実としての死と対面してください。観念としての死ではなくて、事実としての死です。シンプルな死という事実。死の奥にあるもの。死のずーっと奥にあるもの・・・死を恐れている限り、真に生きることはできません。死を避けている限り、真実の人生ではないのですね。死を怖がらないで、死と直面することです。死を感じ、死と一緒にいる。死の奥にあるものを感じ、死を超えていくのですね。次は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【<愛をブロックしているものは何でしょうか。>一般的には、愛情の勝敗でしょうか?愛情の勝敗なんてある訳もないけれど、愛情の力関係を意識する人が多いと感じます。愛するよりも、愛されるが「勝ち」。愛情の度合いで力関係が発生してしまいがちなので、優位に立ちたいと考えれば愛することが弱点という見方も出来ます。愛しただけの見返りを求めてしまう。「愛情」は見えないから、なおさら形や成果を求めてしまう。「愛されたい」という欲求。私自身は、愛される事よりも「愛したい」と強く思ってきました。相手の気持ちなんてさておき、愛している自分に酔いしれる感じでしょうか…少々歪んだ感じがします。「愛したい」という欲求。「愛されたい」「愛したい」その欲求が、湧き上がる愛をブロックしているように感じます。<愛が溢れ出すのをブロックしているものは、自分の中の何でしょうか。>「愛」が何であるか、考えてしまう「思考」でしょうか?愛されたり愛することで、自分の存在を確認したり自信を培う事が多い。「大切な人にも自信を持ってもらいたい」「愛する事で、より深い関係を築きたい」など湧き上がりよりも、思考で「愛」を感じてしまいがち。思考で「愛」を感じているから、何かが不自然。もっと自然体で、湧き上がる愛を感じたいです。】愛情の勝敗というのは、愛の駆け引きという感じですね。愛の力関係で優位に立ちたい?それは相手を支配するということでしょうか。愛を勝ち取るとは、相手を自分のものにするということでしょうか。愛は所有でしょうか。愛は勝ち負けでしょうか。愛は所有できるものでしょうか。愛は勝ち取るものでしょうか。愛とは何でしょうか。この場合の愛は、相手を自分のものにするための手段という感じですね。相手の愛によって、自分を安定させる。相手を支配することによって、自分が満足する。愛は支配と満足のための手段でしょうか。愛を観念的に捉えているのでしょうか。愛を自分を確認するための手段と感じているのでしょうか。愛を何かの手段として使うのは、思考の行為です。愛を観念的に捉え、愛によって何かを得ようとする。愛は何かを得るための道具でしかないのですね。愛とは何でしょう?それはもちろん観念ではありません。生きて存在するものです。でも、それは所有したり、手段として使ったりできるものではありません。愛はそれ自身として存在しています。いかなるものの手段でもなく、道具でもなく、それ自身として存在しています。愛は愛として完結しています。ただ愛であるが故に、すばらしいのです。ただ愛であるだけでいいのです。それを何かのために使うことはできません。愛を利用することはできないのですね。愛をなんとかできるという思考が終わった時にのみ、愛は存在できるでしょう。愛は愛として、ただ存在するだけです。それが愛のすべてです。「559日目 - 愛のブロック-3」に続く
2006.07.13
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ホームワークを見ることにしよう。テーマは、次のようなものだった。【愛をブロックしているものは何でしょうか。愛が溢れ出すのをブロックしているものは、自分の中の何でしょうか。自分自身を見つめ、自分自身の言葉で、具体的にわかりやすく書いてください。】今回の回答を読んで感じたことは---きちんと自分自身を見つめて書かれた回答からは、クリアーなエネルギーが溢れているということです。読んでいるだけで、こちらまで浄められるような感じになりました。文章から明らかにエネルギーが流れ出ているのですね。クリアーでピュアーな、すばらしいエネルギーです。今回も、とても充実したホームワークになっています。最初は、藍&aiさんですね。【正直にいいですか?藍の何気ないコメントをKimiさんが拾ってくださりそこから、この愛のホームワークには、藍は少々戸惑いましたよなにから、この展開に?でも、このホームワークの宿題が出た時から、藍は、いろいろと自分のこころの奥を見つめてきました。毎日、考えるのはこのことばかり愛をブロックしているもの?愛は、いつも自然に溢れ出しているもの ほんとうは、そうですよね?身近な家族に対して、藍は、正直すぎるほど正直です。愛も憎しみもストレートに表現します。正直、恐妻家&恐ママ?男が多い家族の中、女ひとり藍が、いちばん強い?家族の中で、我儘放題ですねでも、藍は家族を、無条件で愛しています。ストレートにでも、ちょっと離れた他人になると、藍の愛の受け取り方は違ってきますまず、用心深くなり、恐れを感じます。自分の嫌なところや悪いところが、有り余るほどあるので正直、自分を恥じます。ここ数日間、自分の嫌なところばかり思い気づき、恥じました。自分の嫌な部分を思いっきり見つめていました。現実の藍は、非常に厄介で傲慢で残酷で鼻持ちならない人間でした。藍は、愛を受け取るにはふさわしくない人間だと嫌と言うほど思い知らされました。藍の、愛をブロックしているものとは自分の恐れと傲慢さだと思います。自分が変わらない限り、そのブロックは取り外せないでしょう~これは、身近なお友だちでもそうだと思います。自分が、自分で納得できていない傲慢さを隠し持っているので他人に対しては、藍は常に防御態勢です。自分の真実をさらけ出せない。常に、いい子ぶりっ子の藍がいます。たぶん、真実の藍を理解してくれる人はいないと思っているから】家族に対しては、オープンでストレートなのですね。でも、家族以外には、心をクローズしている。それは、愛を受け取るにはふさわしくない人間だと自分で思っているからでしょうか。そういう自分を知られたくない?厄介で傲慢で残酷で鼻持ちならない自分に気づかれたくない?自分の嫌な部分を見られたくないということでしょうか。そういう思いが、愛をブロックしているのでしょうか。心がオープンであれば、愛は自然に溢れ出すのかもしれませんね。でも、何らかの事情で心はクローズされています。そうなると、愛も溢れ出すことができません。しっかり自分を見つめられていますね。本当の自分を知られたくない。それが愛をブロックしています。人の前では、いい子ぶりっ子。それがありのままの自分です。さてさて・・・ここまで見えたところで、どうしましょう?事実から目を逸らさないで、しっかりと直視して・・・恥じることも嫌がることも必要ありません。なぜなら、それは自己正当化ですから。恥じたり嫌がったりすることによって、本当はそんな自分ではないと暗に示唆しているのですね。でも、それをやっていると、何も変化が起きないのですよ。言い訳だけで、すべてが終わってしまいます。これまで通りの日常が続くだけです。黙って直視する。そこから言い訳に逃げない。事実としての自分自身と共にいる。厄介で傲慢で残酷で鼻持ちならないという解釈も必要ありません。愛を受け取るにはふさわしくない人間という自己認定も必要ありません。ただ自己中心的な自分を見守っていることですね。言葉なしに、ありのままの自分と一緒にいる。そこから変化が起きます。言い訳はいりません。言い訳をしている限り、変化は起きません。自分自身を直視し、ギリギリまで自分自身と一緒にいることです。次は、たろうくんですね。【愛がブロックされているときの自分を見つめてみると、共通するのは、時間に囚われているときを感じました。同じ時間の中で過ごしていても、心にゆとりがあるときは、ひとつの愛に共鳴しているのに、時間に追われていると感じるときは、心にゆとりはなく、思考や感情に囚われている自分がいます。時間の中で過ごす環境は変わらないのに、この変化はなぜ?自分の予想外の変化が押し寄せてくると、時間に追われゆとりがなくなる?予想範囲内なら余裕ができ、ゆとりができる?こうして見つめていると、周り(外)に反応している自分を凄く感じました。心静かであれば、目の前に起こることを空の意識で見つめることができる。愛をブロックしているものは、周り(外)に反応している自分。目の前に起こることに反応せずに、そんなときこそ内なる自分を感じれるように、反応している自分を注意深く見つめていきたいと思います。 】愛がブロックされている時は、時間に囚われ、心にゆとりがない時。想定外の出来事が起きると、心の余裕がどこかへ行ってしまうのですね。想定内の出来事ならば、余裕を持って対処できる。でも、想定外だと、現象に心を奪われてしまう。心を喪失してしまうのですね。それは、思考の範囲内で生きているということでしょうか。想定内、想定外というのは、すべて思考ですよね。過去、記憶ベース。未知のものに対して想定があると、想定外の時に困ってしまうのですね。でも、実際は想定内の場合も問題があるのですが・・・なぜなら、想定内と認定すること自体が、過去の目線だからです。今に新鮮に出会っていないのですね。すべては想定外。すべては新しいものです。想定内と思っているのは、過去の枠で認識しているだけのことです。あらゆる想定を外すことでしょうか。すべては想定外。すべては新鮮。それでも心を見失わない。しっかりと受けとめ、心静かに対応する。それには日頃からの注意深さが問われますね。静かな注意深さです。日常の中で生きている精妙な意識エネルギーです。あらゆる想定が外れた時に、想定内・想定外で振り回されることもなく、自然に愛が溢れることでしょう。周りに反応する自分の内には、思い込みが隠れているのですね。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【前回のワークでは、真っ暗な蔵の奥から引っ張り出してきたものを十分に向き合うことなく提出してしまい申し訳ありませんでした。お詫びいたします。今回のワークは、愛を込めて提出させていただきます。ありがとうございます。<愛が溢れ出すのをブロックしているものは、自分の中の何でしょうか。>大事なものを失ない、絶望感や喪失感で心がゆがみ、奈落の底に突き落とされる。真っ暗な地の底で、苦痛の叫びに疲れ果て、空っぽになった自分がはっとする。自分に与えられている時間。自分に授かっている家族。そしてなによりも自分のいのちが今ここにある。今も生きている。今も生かされている。なんて豊かな自分。十分な自分。いったい何を失ったというのだろうか。とらわれの心を手放して、感謝の気持ちを抱いたとき、体の中心から温泉が湧き出すように愛が溢れ出てきて、私をまるごと包み込んでくれました。自分の中の「とらわれの心」が愛をブロックしていました。私にとってのとらわれの心とは、執着心であり、依存心であり、欲求の心。これらの心が、対象を掴んでいる時には、見えるもの、感じるものは、ただその対象のみ他には何も居られない、かたくなな心。私のなかに、とらわれの心はなぜあるの。何のためにあるの。自分を頼りないと決めつけて、一人で生きていると思っていて何かを掴んでおかないと、何かに寄り添っておかないと崩れてしまうという恐怖心。何かが起こったらどうしようと予防に準備。重ねに重ねて用意周到。不安はなくなった?なくならない。なぜ?自分を閉ざしたまま何をやっても通じはしない。そうじゃないから。一人じゃないから。一人で生きているわけじゃないから。たくさんの人たちに支えられているのに。たくさんの見えないエネルギーに見守られているのに。いつも愛されているのに。心を塞いで受け取らないのは私のほう。目を閉じて、耳を塞いで、一人の気分に浸ってご満悦? 違うよね。そうじゃないよね。目を開けば分かる。耳を澄ませば聞こえる。手を伸ばせばそこに。たくさんの見守りが私を支えていてくれる。溢れんばかりの愛がそこにある。信頼し、ゆったりと委ねたとき、とらわれの心が姿を消し、愛が内からあふれ出てくる。泉のように尽きることなくあふれ出てくる。内に愛を満たした私はもう頼りない自分ではなくなっている。私にとって愛は、暖かさという温度で感じられ、柔らかさという感触があるにもかかわらずつかむことの出来ないもの。ただそこにあり湧き出すもの。】前回のホームワークも、特にお詫びすることもないと思いますが。あれはあれでいいのではないでしょうか。頼りない自分を支えるために何かを掴む。しっかりとすがりつく。いつのまにか囚われている。執着が苦痛をもたらす。それを手放すと、愛が溢れる・・・ということでしょうか。一人だと思って、何かにすがろうとするのですね。自分一人では不安で、しっかりした何かがほしい。それが執着や囚われに繋がります。でも、何かに執着したり囚われたりすると、苦しくなります。自分を支えるつもりが、いつのまにか苦しくなっている。不思議ですね。自分を守るために心を閉ざし、心を閉ざすことによって愛も閉ざしてしまう。それらを全部手放すと、自然に愛が溢れる。自分で自分を守ろうとするのを手放して、すべてをゆだねた時に、心も自然に開きます。同時に愛も自然に湧いて来るのですね。きらきらハッピー☆さんの場合は、愛と感謝が一つになっている感じですね。共にハートから出て来るので、一体の場合もありますが、別々の場合もあります。愛は自分自身を満たし、やがて自分から溢れ出し、周りの人をも満たしていきます。そのためには、愛をブロックしているものを深く見つめることでしょうか。愛は愛そうとして出て来るものではありません。愛をブロックするものがない時、必要に応じて自然に溢れ出します。常に溢れ出す用意ができているのですね。その人の中に満ちているということですね。自分の中の不安や恐怖と一緒にいて、やさしく見守っていることでしょうか。黙って何も言わないで、自分自身と一緒にいることでしょうか。不安や恐怖を覆い隠すために、思考であれこれ説得しないことですね。守られているとか、大丈夫だとか・・・ただ静かに不安や恐怖と一緒にいることです。黙って何も言わないで・・・それだけが真に乗り越えていける道です。思考で説得している限り、思い込みワールドからは出られません。「558日目 - 愛のブロック-2」へ続く
2006.07.12
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今日の屋久島は、晴れている。しかし、風が強く、山の方は雲に覆われている。自分を守るための恐れが、どうして自分を苦しめることになるのだろうか。山を歩いていても、危険なところはたくさんある。ものすごく危険だと、怖くなる。足が竦(すく)んだりする。そういう場合は、注意しながらゆっくり進むことになる。危険な場所を過ぎると、ホッとする。もし、恐れという感覚がなかったら・・・危険な場所も普通に歩くことになるだろう。その結果、崖から落ちたり、滑ったりすることが起きるかもしれない。そういう意味では、恐れは役に立つ。山でなくても、危険なところはいくらでもある。都会では、交通事故が待っている。歩いていても、車を運転していても危ない。恐れは、注意信号。黄色信号が灯ったら、徐行運転。それで危険を回避できる。ここまでは何ら問題はない。では、どこから問題になるのだろうか。危険なところは記憶されている。次回通る時、記憶が甦って注意しながら進むことになる。これも問題はない。ところが・・・とても危険な目に遭う。あるいは、とても恥ずかしい経験をする。または、大ケガをしたり、強烈な恐怖体験をする。そうすると・・・また同じような状況になろうとすると、自動的に恐れの感情が沸いてくる。体が緊張する。身動きが取れなくなる。それは自分を守るための自然なリアクション。もう二度と、あんな辛い思いはしたくない・・・その記憶が、体をストップさせる。ストップするのはいい。そこからは、普段にも増して注意深く進む。最徐行。ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩、足下を確かめて進む。限りなく赤信号に近い赤の点滅。一旦停止、左右をよく確かめて、注意して進め。このルールを守っていれば、安全度は高くなる。この段階でも、恐れは有効に機能している。それでは何が問題なのだろうか。あまりの恐怖のために動けない。それが問題となる。怖くて先へ進めない。身動きが取れず、そこでフリーズしてしまう。それでは人生が止まってしまう。自宅に引き籠もり、外に出れなくなる。恐怖だけに意識が行き、他のことが考えられなくなる。恐怖で、すべてがストップしてしまう。これでは、まったく自由がない。恐怖に支配され、自分の人生を生きることができない。注意深く進むしかない。徐行運転。それ以外に恐怖に打ち勝つ方法はない。しばらく休んで、エネルギーを蓄えてから、恐怖に再チャレンジするのもいいだろう。いずれにしても、恐怖に負けたままでは話にならない。恐怖を克服するために、いろんなセミナーを受けたり、訓練を受けたりする。呼吸法、マントラ、ゲシュタルトセラピー、森田療法・・・ありとあらゆる心理療法がある。それも悪くはない。エネルギーを蓄えて再挑戦するつもりなら。ところが・・・それは現実逃避のための手段になることもある。事実に直面するのを避けるための時間稼ぎの役割を果たす。そうなると、いくらセラピーを受けても何の効果もない。次から次と新しいセラピーを渡り歩くだけ。やっぱりダメだったということを確認するために・・・元々、セラピーを受けて良くなろうという気はない。表面的には、そのように振る舞っているが、心の奥では良くなっては困ると思っている。恐怖に直面したくないのだ。ただ逃げ回っているだけ。最後は恐怖に直面するしかない。逃げていては埒があかない。何も高いお金を出してセラピーを受けるまでもない。注意して進むかどうか。ただそれだけなのだ。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とは、よく言ったもの。適度な恐れは自分を守ってくれる。まったく恐れの感覚がなくても困る。しかし、過度の恐れは、身を守るどころか自身を滅ぼす。やはり中庸ということだろうか。恐れの感覚を赤信号にしてしまうと、せっかくの恐れが生きない。黄信号か、せめて赤の点滅信号ぐらいにとどめておく必要がある。注意して、注意して、進む。けっして、そこで留まらない。危険そうであれば、方向を変える。フリーズするのが一番危険。同じ失敗は繰り返さない。そのために恐れを活用する。慎重に注意深く進む。そうすれば同じような危険を避けられる。しかし、同じ失敗を繰り返さないという意識が強くなり過ぎると、逆に身動きが取れなくなる。心身共にフリーズしてしまう。あるいは、現実から逃げまくる。病気に逃げる。心神喪失に逃げる。いずれかの方法を見つけて、安全なところに身を隠す。同じ失敗は繰り返さない。そのために恐れを活用する。恐れを無視しない。そうかといって、過度に恐れに囚われない。注意して進む。恐れを無理に抑え込まない。無理に抑えれば、恐れを活かすことはできない。抑えられたものは、いつか爆発する。そうかといって、恐れに負けない。恐れに負ければ、逃げ回るだけの人生になる。それは感情の扱い方と同じ。抑えない、けれども、負けない。注意して見守る。恐れも、無視しない、でも、負けない。注意して進む。あるいは、抑えない、けれども、負けない。注意して見守る。これが大原則。恐れに振り回されない。自分を見失わない。自分を見失うとは、冷静さを忘れ、恐れに翻弄されること。注意深さが消えている状態。グランディングとは、今の自分にしっかり意識がフォーカスされていること。過去の恐怖の記憶に振り回されない。未来の恐怖の予想に振り回されない。今、今を注意深く生きる。意識が過去に飛んだり未来に飛んだりすることが、グランディングできていないということ。グランディングとは、今に意識がフォーカスされていること。今に意識がフォーカスされているとは、今を注意深く生きているということ。周りを見つめ、自分を見つめ、注意深く生きる。すべてはそれに尽きる。周りの現象に負けない。そうかといって、周りの現象を無視しない。注意深く見極め、注意深く進む。肉体の自己保存の本能を活用する。でも、それに負けない。食べることもセックスも必要だが、それらに振り回されない。恐れも活用して生きる。恐れを無視すれば危ない。しかし、恐れに振り回されても危ない。恐れを意識しながら、注意して進むしかない。注意深さというのは、感覚や感情や思考よりも遙かに精妙なエネルギー。注意深さの中で、洞察が起き、直観が働く。思考よりも高次の意識が流れ込んでくる。注意深さが、これからのメインの意識となる。感覚、感情、思考に注意深さが浸透し、それらを見守っている。無意識に、無自覚に、イージーに生きない。注意深く生きる!『抑えない けれども負けない 恐れには 注意しながら 徐行運転』『無視しても 抑え込んでも 活かせない 恐れと共に 静かに見守る』『逃げないで 無視もしないで 注意して 恐れと共に 生きる人生』『こまやかに 見極めないと 感覚や 感情・思考に 振り回される』『注意して 見守る中で 洞察や 直観・閃(ひらめ)き 現れてくる』『こまやかに すべてのものを 見守って 見極めながら 静かに動く』『感覚や 感情・思考に 浸透し 見守りながら 注意して生きる』『思考から 注意へ移る 転換期 意識の次元 新しくなる』 『新しい 時代の意識 しっかりと 注意しながら 見守り生きる』これが556日目の心境です。
2006.07.11
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今日の屋久島は、雨は降っていないけれども、風が強い。台風が西方海上を通過中。直撃しなくてよかったと思ったら、また次の台風が生まれている。台風シーズンに入ったようだ。今年は早い。昨夜、先日の赤面恐怖の人から、また電話があった。イメージングが2~3分しか続かないとのこと。白い顔や青い顔をイメージしてみるのだが、すぐに赤い顔に戻ってしまうらしい。イメージする時に、言葉をプラスしてもいいかという問い合わせだった。言霊から、いろんな話になり、1~2時間も話しただろうか。最終的には、ブログ日記を読んでみるということで終わった。しかし・・・赤面恐怖のまま、普通に外に出るように話す。そうすると、自分の顔を見て笑う人がいるとのこと。笑いたい人には笑わせておけば?それは・・・自宅にいる時も顔が赤いらしい。別に血圧は高くないとのこと。どうも赤面恐怖が日常化し、常に頭に気が上っている状態のようだ。体は動かしているの?ほとんど動かしていません。外に出てジョギングでもしたら?みんなに見られるので、とてもそんなことはできません。では、覆面でもしてやったら?そんなことをしたら怪しい人と思われてしまいます。まだ赤い顔の方がましですよ。それなら赤い顔のままでジョギングしたら?そんなこと・・・では、メキシコのプロレスラーのようにギンギラギンの覆面でもしたら?町中のウワサになりますよ。別にいいじゃない。よくないですよ。では、覆面はやめて、ありのままの自分で生きたら?それができないんですよ。赤い顔は事実なんだから、事実と共に生きたら?それは辛すぎます。別に赤い顔でも何も問題はないよ。そうですか。どこに問題があるの?ヘンですよ。みんなそれぞれでしょう。そんな人はいませんよ。黄疸の人は黄色いし、貧血の人は青いよ。でも、こんなに赤い人は・・・自分の赤い顔にばかり意識がいって、他のことに意識が回らない。四六時中考えているのは、赤面恐怖のことだけ。これでは赤面恐怖を24時間強化し続けているようなもの。意識がそこから離れない限り、良くなることはない。赤面恐怖のまま外に出るしかないよ。赤面恐怖が良くなったら外に出るつもりです。赤面恐怖を意識している間は、赤面恐怖は良くならないよ。そう言われても・・・赤面恐怖に対する特別な意識を外すしかない。それには、赤面恐怖のまま外に出ること。赤面恐怖を日常的な普通のことにする。普通のことになれば、特別に意識することもなくなる。最初は勇気がいるだろう。決断力がいるかもしれない。しかし、赤面恐怖を恐れて自宅に引き籠もっていても、良くなることは望めない。事実ベースで生きると決めることなのだが・・・周りから良く見られたい。悪く見られたくないという意識がある間は、事実と共に生きれない。居直るしかない。それが今の自分。それが今のすべて。今のありのままの事実から始めるしかない。赤面恐怖が良くなったらという仮定の話からは何も生まれない。事実ベース。ありのままベース。見栄や外聞や世間体に負けないだけの自分自身へのグランディングが必要となる。これまでの意識をブレイクスルーすることができるだろうか。これまでの習慣と化した生き方を変えることができるだろうか。真剣に変えたいのならば、勇気を出して、そのまま外に出るしかない。事実ベースで生きるしかない。赤面恐怖に限らず、顔に大きなヤケドの後があるとか、目立つようなアザがあるとか、傷が残っているとか・・・いろんな人がいる。みんながみんな家に引き籠もっている訳ではない。サリドマイドで両手が短い人も屋久島へ来て楽しんでいる。片足がない人も、両足がない人もいる。心身にハンディのある人は、いくらでもいる。自分だけが特別ではない。勇気を出して、外に出るしかない。事実ベースで生きるしかない。赤面恐怖というのは、事実ベースではない。人前で、また赤くなったらどうしよう?周りの人は何と思うだろうか。その思いが過度に増幅された結果が、赤面恐怖。思いベース。思い込みがつくり出す幻の世界。恐れれば恐れるほど、赤面恐怖が意識される。赤面恐怖が意識されるたびに、赤面恐怖が強化される。赤面恐怖を恐れることは、赤面恐怖を更に強固なものにする結果となる。元々、恐れというのは、身を守るためのもの。ところが、過度の恐れは、逆の結果となる。恐れのあまり身動きが取れなくなれば、「ヘビに見込まれたカエル」状態になってしまう。恐れて逃げれば逃げるほど、恐れは強くなる。逃げている限り、恐れから解放されることはない。恐れから自由になる唯一の方法は、恐れに直面すること。逃げないこと。恐れに負けないで、恐れに立ち向かう。そうすれば、恐れに直面した瞬間、恐れは消える。なぜなら、恐れとは、現実から逃げることから生じるものだから。逃げなければ、恐れはない。原初的な肉体的な恐れはある。それは自分の身を守るために必要なもの。安全のためのセーフティーガード。身の危険を感じて、その場から立ち去る。恐怖は自分を守ってくれる。そこまでは何ら問題はない。ところが・・・危険が去った後も、また思い出して怖がる。またあのような事態にならないだろうか。今度そうなったらどうしよう?それも冷静に検討するのであれば、問題はない。まだ恐怖に負けてはいない。しかし、過度に恐怖に意識がフォーカスすると、必要以上の恐怖をつくり出してしまう。ありもしないことを恐れる。取り越し苦労の世界にはまってしまう。冷静に検討している間は、事実ベース。しかし、恐怖に呑み込まれ、自分を見失うと、思い込みベースとなる。周りが見えなくなり、客観的に見ることができない。精神的視野狭窄状態。意識が恐怖にばかり囚われ、どんどん萎縮して身動きが取れなくなる。冷静さが消失する。恐怖にばかり意識が向く。人生に安全確実を求め過ぎても、恐怖が生じる。潔癖性などは、その辺りに原因がある。人生に安全確実なものなどない。一寸先は闇。先のことは何もわからない。予言者や占い師に聞いても、それが現実となるまでは確認できない。結局、安全確実なものなど、どこを探しても見つかりはしない。手探りで注意深く生きていくしかない。安易に安全確実を求めると、新興宗教の餌食となる。楽に金儲けができるという宣伝文句は、詐欺師の常套手段。簡単にセレブと出会えますというのは、最新の騙しのテクニック。不注意であれば、転んだりケガをしたりする。イージーに楽をして生きようとすれば、たいていは大ケガをする。そんな浅はかな生き方をしている限り、心のやすらぎは遠い。真剣に注意深く生きるしかない。一気に変われと言うことには、無理があるのかもしれない。なにしろ20年間の生活習慣なのだから。しかし、その習慣を続けていても、光は見えない。いつか、どこかで決断するしかない。事実ベースに舵を切るしかない。彼が今の生活を続けても、別に責めるつもりはない。人それぞれ。変わるタイミングというものがある。縁にふれても、花が開くには時間がかかることもある。これから彼がどのように生きていくか、それは彼の人生。こちらがとやかく言うことはできない。アドバイスを求められれば、事実ベースで生きるように話すだろう。でも、決めるのは彼自身。こちらは何もできない。ただ見守ること以外は・・・『恐れとは 事実を避けて 逃げまくる 心がつくる 幻のもの』『逃げている 限りは続く 恐怖感 逃げれば更に 強くなるだけ』『恐れれば 恐れるほどに 意識され 恐れることを 招く事態に』『身を守る ことから恐れ 派生する 恐れ過ぎては 身を守れない』『逃げないで 恐れと直に 直面し 中に入れば 恐れは消える』『恐れてる 事実と共に 注意して 進むしかない 勇気を出して』『安全を 求め過ぎれば 動けない 危険と共に 生きるしかない』『注意して 進むしかない 人生は 安全確実 そんなものない』『より深い 意識の奥に フォーカスを 当てれば人生 安全になる』これが555日目の心境です。
2006.07.10
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今日の屋久島は、強風が吹いている。台風が西側を通過しているため。里はお日様が出ているが、山の方は深い雲に覆われている。フェリーも高速船も、次々と欠航になっている。昨日、次のような書き込みがあった。【いまふたつのHPをやっていますが、じつは、ここ楽天のHPでは自分の心地よいと思えることしか書いていません。正直。。いい子ぶりっ子しています。自分を正直にさらけだすのが、ここ楽天では怖いんですね。&自分に心地よいことだけを書いていけば、自分のこころも癒されるんです。不思議と。。>自分好みベースで生きると、自分の好みに合わないものには拒絶反応を示します。>自分の好みに合うものだけの世界で生きることになります。>すべてを自分の好み流に解釈し、判断し、裁きます。自分だけの世界です。まさにそんな感じです。。。嫌だな~と思う世界は拒絶します。遠ざかります。。なるべく、嫌だと思える人とは自然と遠ざかろうとします。。自分に合う心地よい人とだけお付き合いします。自分の中の自分ワールドの中だけで至福のときを過ごしています。自分をごまかして生きているのでしょうか。。?Kimiさんのよく言われる。。事実ベース。。では生きていないということ。。?でも、確かにいまは、嫌な自分も嫌な周りの事実も見ないようにして暮らしているかもしれない。ふわふわとしているかも。。。?嫌なことには目を背けているので楽なことは楽ですが。。これじゃ成長しないかな。。いつまでも堂堂巡りかな。。】嫌なことには目を背け、心地よいことだけをしている?それによって心が癒され、自分ワールドの中で至福の時を過ごしている?そうしたいのであれば、そうすればいいでしょう。別に問題はありません。心地よい世界の中で癒され、充電されたいのでしょうか。エネルギーが満ちたら、嫌なことも見てみようという気になるかもしれません。あるいは、嫌なこと自体が消えているかもしれません。見たくないのであれば、無理に見ることはありません。自分の気持ちに正直に生きればいいでしょう。このサイトでは、どちらかというとネガティブなものを多く取り上げています。ポジティブなものだけを取り上げるというやり方もあると思います。特に子育てに関しては、褒め育てがセオリーです。小さい子に厳しくし過ぎると、伸びようとする芽が萎縮してしまいます。基本は、成長しようとするエネルギーを延ばしてやるようなサポートです。でも、それだけでは自己中心的で傲慢な大人に育ってしまう可能性があります。しっかり自分を見つめる意識を育てることも大切です。自分をはっきり見極めることができれば、やってよいことと悪いことの判断はつくでしょう。このサイトでは、大人の人を対象にしています。もう褒め育ては終わった人です。しっかり自分自身を見極めるということにポイントを置いています。そのため、ネガティブなことがたくさん出てきます。成長する過程でネガティブなものをたくさん抱え込んでしまったために、それが重荷になっています。ここは、それをクリアーするためのスペースです。愛を、いのちを、スピリチュアリティを延ばしていくというやり方もあるでしょう。それによってネガティブなものを克服していく。そういうやり方があるのもわかっています。ポジティブ、ポジティブ、ポジティブ・・・それによってエネルギーを充電し、いきいきと生きていく。それもOKです。ただ、究極のところは、意識的なポジティブでは辿り着けないのですね。意識的に愛する?愛するように努力する?そういうやり方もあるでしょう。きっかけとしてはいいかもしれません。でも、愛は努力するものでしょうか。愛は自然に湧き出すものです。愛は人為的なものではありません。訓練したり、努力したりする愛は、本当の愛でしょうか。愛には作為があるでしょうか。それとも、無作為でしょうか。愛には意図があるでしょうか。それとも、ただの愛でしょうか。愛は、その時、その時、必要に応じて自然に出てきます。訓練して、この時にはこのような愛を、というようなものではありません。ポジティブに愛する?意識的に愛するというのも、何か不自然な気がします。愛は、人の意識的な行為を超えています。自然に出るものです。訓練するものではありません。ポジティブ、ポジティブ、ポジティブで、愛が自然に湧き出すのなら、何も問題はありません。でも、それはややもすると、自己中心的な意識を生み出しかねません。自分ワールドです。本当には周りの人の気持ちをわかっていない世界です。自分の中のネガティブを見つめ、外していくプロセスは苦しいものです。見たくないものを直視しなければなりません。醜いものがたくさん詰まっています。それでも、そういうものを外さない限り、愛は自然に湧き出しては来ません。誰の中にも愛はあります。それをネガティブなものが途中で邪魔しているのですね。それを外せば、何もしなくても愛は湧き出します。ブロックしているものを外せばいいだけです。愛に個性はありません。愛は愛です。ただ、いろんな人から溢れ出す時に、出方が違うだけです。愛の本質に変わりはありません。愛は、規定することも定義することもできません。そんなことをしても意味がないのです。愛は生きているものだから。私達にできることは、ただ、それが溢れ出すような環境を整えることだけです。愛をブロックしているものを取り除く。それができることのすべてです。後は愛に任せるしかありません。必要に応じて、愛は自然に出てきます。一切の作為は、愛の発露を妨げます。愛を不純なものに変えてしまうだけです。自分の中のネガティブなものを直視するには、相当なエネルギーが必要です。エネルギーがなければ、ネガティブなものに呑み込まれてしまいます。ネガティブなものに負けないだけのエネルギーが必要なのです。そういう意味で、先ずポジティブから入ってエネルギーを蓄えるということも否定しません。でも、それだけでは愛に到達できるかどうかは何とも言えません。ポジティブによって、自分の中のネガティブが消えるでしょうか。すべてのネガティブを消すほどのポジティブであれば、愛に到達できるかもしれません。しかし、その時はポジティブも消えている必要があります。作為的なポジティブがある限り、愛が溢れ出すことはないでしょう。無作為になった時にだけ、愛は溢れ出します。自分でポジティブだけを選択している間は、無償の愛が出てくることはないでしょう。ポジティブもネガティブもすべて消えた時に、無条件の愛が溢れ出すでしょう。『見たくない ものは目を閉じ 目を逸らす 見たいものだけ 自分ワールド』『ポジティブに 心地よいもの 寄せ集め 至福の時は 自分王国』『選り好み している限り 都合よい 条件つきの 愛があるだけ』『ポジティブに 努力する愛 無理な愛 道徳的な 愛が出るだけ』『愛そうと 努める愛は 自我の愛 愛は自然に 湧いてくるもの』『ポジティブも ネガティブも消え 無作為の 意識の中に 愛はあふれる』これが554日目の心境です。【ホームワーク】愛をブロックしているものは何でしょうか。愛が溢れ出すのをブロックしているものは、自分の中の何でしょうか。締切は、7月13日午前9時です。記入はBBS蘭に。誰でも参加できます。自分自身を見つめ、自分自身の言葉で、具体的にわかりやすく書いてください。
2006.07.09
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屋久島は、はっきりしない蒸し暑い天気が続いている。台風の余波で、山は雲に覆われ、時々、突風が吹いている。朝、知らない人から電話があった。42歳の男性。赤面恐怖で20年ほど苦しんでいるらしい。光を送って治してほしいというもの。もう光を送ったりはしていないと言う。それでも、簡単には電話を切ってくれなかった。これまで、ありとあらゆる方法を試してみたらしい。しかし、効果はなく、仕事を首になり、毎月3~4万円の母親からの仕送りで暮らしているとか。外に出かける時は、精神安定剤を多めに飲む。そうすると、赤面はしても、それほど不安や恐怖は感じなくなる。頭がボーッとして、思考回路が麻痺するようだ。出かけるのは必要最小限。ほとんど自宅に引き籠もっている状態。薬をやめると、反応が出て耐えられないとか。不安と恐怖から全身が震えだし、居ても立ってもいられなくなる。薬は手放せない。仕事はできない。何をやっても効果はない。どうにも行き詰まって、最後の切り札を求めて電話してきたようだ。光がダメなら、何か良い訓練法はないかと聞かれる。訓練は努力。努力は緊張を強いる。ただでさえ緊張している人が、更なる緊張によって良くなるとは思えない。実際、あらゆる努力は水泡に帰している。すべてを諦め、赤面恐怖と一緒にいたらと話す。しかし、それは耐えられないと拒絶された。なんとか治したい。その一心・・・治したいと思えば、苦しくなる。自分で自分を治そうとすれば、無限地獄へ堕ちる。なぜなら、治そうとする自分こそが、治す必要のある自分。この絶対矛盾に気づいていない。自分で自分を変えようとすれば、ただ苦しくなるだけ。結局、何も変わらない。それなら、光の入れ方を教えてほしいと言われる。教えてと言われても・・・電話で話して、右から左に光が入れられるようになるのなら苦労はない。それでは、どうして光を入れられるようになったのかと聞かれる。いろんなセミナーをやっているうちに自然と・・・イメージを使ってやっているうちに、なんとなく光を流すことができるようになった。と話したところで、では、イメージを使って楽しんでみたらということになる。赤面恐怖が完治し、自分のやりたいことをやって楽しんでいるところをイメージする。そのイメージを心から楽しむ。以前にも何回かイメージ療法をやったらしい。ボールを見つめたり、絵を描いたりしながら・・・ユニークなのは、暗いイメージばかりを描くセラピーがあったらしい。苦しいイメージばかり描いていると、最後にはイメージの中で死んでしまう。その後に新しく再生する。ところが・・・彼もやってみたが、死ぬところまではうまくいった。しかし、再生はしなかった。イメージの中で自殺しただけに終わった。イメージの中で楽しむことだと話す。楽しんで、感謝して、完了させる。そういうのはやったことがないらしい。やれば、すぐに効果があるかと聞く。効果がないと思っていれば、効果はない。結果を求めないで、楽しむこと。楽しめば、結果は後から付いてくる。それは何にでも応用できるかと聞かれる。結婚とか仕事とか・・・もちろん、何にでも応用できる。それでも、まだ不安らしい。本はないのかと聞かれる。本はない。ブログ日記なら書いている。それでは、それをプリントして送ってほしい。プリント?全部プリントしたら何日かかるだろう?想像するだにゾッとする。自分で見てほしいと言う。パソコンがないらしい。ネットカフェにでも行って見てもらうしかない。読めばすぐに良くなるかと問われる。真面目に読めば、赤面恐怖は兎も角、人生は変わるだろう。しつこく秘伝が書かれているかと尋ねられる。秘伝はどうかわからないけれども、読めばわかるようには書かれている。それでも諦めきれない彼は、遠隔で特別な光を送ってもらうことはできないかと聞く。 それはやっていない!そこをなんとか。そんなに光にこだわるのなら、既に光は流れている。?この電話で、先程からいくらでも光は流れている。それなら、あなたの写真を飾っておけば、そこから光が流れてくるか。こちらは教祖様ではない!それなら、何かブレスレットとか、それを使えば特別な効果があるものはないか。ない!どうしてそんなに他力本願なの?どうしても救われたい!即座に赤面恐怖が治る方法はないか。即座に赤面恐怖が治ることがあると思っているの?思っていない。そうなら、即座に治ることはあり得ない!毎日鏡を見ることは効果があるか。どういう意味?今日も顔が赤い、まだ白くなっていないと確認している。それでは一生治らないだろう。?毎日赤い顔を確認して、赤面恐怖を強化しているようなもの。・・・人は、未知のものより、苦しくても既知のものに安住の地を求める傾向がある。赤面恐怖とは、基本的に自意識過剰。自分の良いところを見せたい。悪いところは見せたくない。人から良く思われたい。けっして悪くは思われたくない。ありのままの自分を生きようとはしていない。あるべき自分を生きようとしている。無理をして苦しんでいるだけ。その根っ子にあるのは、自己保存。良く思われて安定したい。悪く思われることを恐れ、小さくなって生きる。恐怖で極端にエネルギーが萎縮すれば、身動きが取れなくなる。その極端な例が、赤面恐怖。誰にでも、同じ根っ子がある。それが表面化するかしないかの違い。極端にそれだけに意識がフォーカスされると、病的な恐怖となる。根本的治療は、その辺りを深く理解すること。せっかく赤面恐怖になったのだから、そこまで理解すればいい。そうすれば、赤面恐怖になった甲斐があるというもの。そこまでいかなければ、赤面恐怖を活かしたことにはならない。結局、1時間以上も電話で話した。最終的には、イメージを楽しんでみることと、ブログ日記を読んでみることに落ち着いた。そして、何かあったら、また電話してもいいかと・・・42歳、本厄。一気に厄が出尽くして、変身できるだろうか。可能性がないわけではない。タイミングと、本人の覚悟しだい。彼を紹介したのは、東京で治療院をやっている古い知り合い。どうせ紹介するなら、若い女性にしてほしかった。若い女性なら光を送るの?送らない!なーんだ。その代わり、手取り足取り・・・危ない!こんなことを書くと、またブーイングを浴びそう。でも、これは本当のこと。身近でこまやかに注意していないと、すぐに過去のパターンに戻ろうとする。20年間のエネルギー場ができてしまっているので、なかなか一気に変わるのは難しい。毎日毎日、こちらの日記を真剣に読んでくれたら、変わるかもしれない。別のエネルギーを入れ続けるしかない。変身させるだけの光が必要なのだ。昨日のホームワークを見ながら、これではまるでネットワークショップだなと思った。ネット上であれば、無料。ネットは無料が常識化しつつある。それはそれですばらしい。いろんな情報がある。活用できれば、かなりの気づきが得られる。新しい時代は、基本的に無料という方向へ流れている。何かを与えることで利益を得るという時代は、終焉に向かっている。ネットを活用し、古い感覚、感情、思考を超えていく。過去の「私」を超え、新しい生き方を始める。そういう転換点に来ている。この日記を読み、真に理解するには、かなりの緻密なエネルギーを要する。持続するには相当のエネルギーがいる。しかし、読み続ければ、変わる。なぜなら、この日記は地上のエネルギーだけでは書かれていないから。明らかに別の次元のエネルギーが流れ込んでいる。別にチャネリングしている訳ではない。しかし、書きながら新しい気づきが次々と起きる。明らかにどこからかエネルギーが流れてきている。新しい時代を切り開くエネルギーが・・・『周りから 良く思われて 得したい 無理が重なり 自分を壊す』『治そうと 思う自分は 治すべき 自分自身と 気づいていない』『治そうと 努力するほど 治らない 努力している 自分は同じ』『ありのまま 事実のままに 生きる時 人は素直に 楽に生きれる』これが553日目の心境です。
2006.07.08
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「552日目 - 反応-3」の続き次は、ぴあのさんですね。【自分がバカにされた ということが思い当たらないのと病み上がりで頭がクリアでないためか深く見つめられないのとで今回のワークはいまひとつよくわかりません。ただ、見つめていくにつれ、ワークの出題とはずれるかもしれないのですが、バカにする意識 というのは自分の中にもあるなあ と思いました。人をバカにする という概念をはじめて知ったのは小学一年の頃。母が、私がいつも遊んでいたお友達の事を『ああいう子と遊んではいけません』と言ったこと。「あの子、学校でお勉強が一番できないんでしょ?あんな子と遊んでいたらあなたもお勉強ができない子になるわよ」と言いました。母のその言葉は まだまだ純粋だった小さな私に かなり強烈でショッキングでした。 母の言葉の奥にさらに広がる人への差別意識なども一緒に総括して感じ取った感受性の強い私でした。(その子の家庭はちょっと複雑でした)以後、私はその子をある種、バカにした目で見るようになりました。真の人の道の正しさ、美しさを知るまで そういう意識が私の中にかなり根強くありました。今でも恥ずかしながら ない とは言えません。人は一人一人、みなそれぞれ尊い存在だ ということはわかっていても時々、「はー?バカじゃないの??」 なんて思ってしまう私がいます。バカにする というのは自分が優越感に浸って自我を満足させようとする保身の術のような気がします。人を蔑んで 自分を優越感で満たし、自分というものの存在を誇示しているのかな・・・あと、人が会話しているのを聞いていて、会話中かなりのウエイトを占めているのが悪口。同僚の悪口、近所の人の悪口、姑の悪口・・・子供のママ友達とのお茶会などでも 必ず人の悪口がでます。悪口言わないと会話できないの? みたいな感じです・・・ そういう会話を聞くのは本当にイヤになってきます。それらの悪口って、必ず 対象人物をバカにしている要素があるのですよね。自分は正しい。悪口を言う対象は 自分から見ると理解できない、またはおかしい存在。 自分の価値判断で相手を見て、バカにしているのを感じます。やはり 自分にいろんな判断基準があると、人を差別の目で見てしまうことが往往にしてあると思います。何か、回答がずれてしまってすみません。】バカにするということは、相対的に自分を優位におくということですよね。それによって自分を安定させようとする。不安定な自分を安心させるための一つの方法なのですね。その裏には、バカにする人の寂しさが見え隠れしています。自分が満たされていないから、人をバカにするのですね。人をバカにすることによって、自分を満たそうとする。もちろん、そんなことをしても自分が満たされることはありません。それは一時しのぎでしかありません。また直に寂しくなるに決まっています。本質的には何も解決していないのですから。ただ気を紛らわせているだけです。人の悪口を言うのも同じことですね。それによって自分の不満を満たしているだけ。満たされないものを、悪口を言うことによって覆い隠しているだけですね。根底的な空虚感は、それに直面するまで残ります。意識の表面で生きている限り、空虚感が満たされることはありません。自分の深い意識にフォーカスしない限り、空虚感は消えません。空虚感も優越感も、元を辿れば、生きようとする意志から出ています。それが複雑に錯綜したのですね。その縺(もつ)れた糸を解(ほど)いてやる必要があるのです。自分の中の混乱した意識を見つめ、整理し、クリアーにする必要があるのですね。そうすれば、もっとシンプルに生きることができます。それが人類の錯綜した意識を整理することにも繋がるのですね。それが、やがて人類の平和にも繋がっていきます。長い道のりですが、一つ一つ解いていきましょう。最後は、たろうくんですね。【「人は自分がバカにされたと思うと、どうしてムッとしたり反発したりするのだろうか。」 自分を否定されたように感じ、傷つけられたと思い込む。 自分を正当化したいので、その言葉に反応したり反発しているのかと思います。「あなたは自分がバカにされたと思うと、どんな反応を示すだろうか。」 この問いに関しては、私の反応センサーが反応していない(誤作動?)をしている自分を感じました。 相手が人をバカにするとき、優越感をもちフクミ笑いをしているようなイメージがあるのですが、 その時の私は、自分がバカにされていると気づかずに、一緒にその時は笑っていて、 後になって他の人の言動で、私がバカにされてたのか~と気づき、 その時の反応していなかった鈍感さを思い出して、笑いが込み上げる。「なぜ、あなたはそんな反応をするの?どうして?そうしなければならないの?」「いつからそのような反応をするようになったの?いつその反応パターンを身につけたの?」 この問いは、反応していない自分を感じたので分かりませんでした。 提出時間を守れず、遅れて申し訳ありませんでした。 】自分自身について、自分の思い込みと違うことを言われると、バカにされたと思ってムッとするのですね。もっとも、良い方に外れると、ムッとすることもないのですが。予想以上に褒められたり、みんなから期待されたり・・・自分の想定以下だと、バカにされたと思うのですね。先ず自分の想定という思い込みがあり、次にバカにされたという思い込みが重なります。 二重の思い込みなのですね。相手は事実を言っているのかもしれません。でも、自分の基準と比較すると低すぎるのですね。高い分には問題ないのですが、低いと自分を否定されたと誤解するのですね。事前の想定=自己評価=思い込みがなければ、そのようなことも起きないのですが。自己評価が高ければ高いほど、バカにされる確率は高くなります。では、自己評価を低くしておけば?そんなことは自尊心が許しません。「私」こそが私にとって何より重要なのですから。自己イメージ=自己評価がある限り、周りの言動に左右されます。自分と同じようには周りは評価してくれません。自分が望むようには、自分をイメージしてくれないのですね。その結果、いつもそのギャップに悩まされることになります。「私」を理解しない限り、否定されたり傷つけられたりすることは終わりません。「私」という自己イメージを持つ限り、外側の評価に翻弄されます。心のやすらぎは期待できません。しっかりと思考を超えた次元にフォーカスするしかありません。深く深く自分自身を理解し、自分の根底にあるものを感じていきましょう。個々の氷山にフォーカスしている限り、全体は見えません。個々の氷山と同時に、海面下の氷全体にもフォーカスする必要があります。『バカにする バカにされるも 同じこと 寂しい心の 反応パターン』『バカにした バカにされたと 思うのは 自分の心 満たされぬから』『バカにして 満足している つもりでも 心はますます 寂しくなるだけ』『バカにして 寂しさ満たして いることを バカにする人 気づいていない』『満たされぬ 思いが人を バカにする バカにするたび 寂しさつのる』『バカにする バカにされるは 同じこと 共に寂しい 心の出会い』『バカにする 人の寂しさ 悲しさを 理解できれば バカにできない』『満たされて 充実すれば バカにする 行為は終わる 寂しさ消えて』『気に入った ことは受け入れ 気に入らぬ ことは反発 自我の人生』『期待した ものより評価 低ければ バカにするなと 自動反発』『自己評価 それより低い 評価では 不平不満が 尽きることなし』『「私」とは 自己のイメージ 評価され イメージ以下なら 受け入れられない』『無意識の ままに生きれば 反応の 波に翻弄 される人生』『気をつけて 自分の反応 見てないと 周り気にして 終わる人生』『身を守る ために自ずと 身につけた ものがいつしか 自分を縛る』『生きるため 不安も恐れも あるものが 強くなり過ぎ いのちを縛る』『純粋に ただ生きたいと 願うのが いのちの願い 変わらぬ願い』『根底に あるのは同じ 生きる意志 いつか歪んで 人苦しめる』『何ゆえに いのち素直に 生きられぬ 本能超えて 生きる必要』『氷山に フォーカスすれば 孤立した 寂しく辛い 人生となる』『氷山を ささえるベース 分離なし すべて繋がり ひとつの存在』これが552日目の心境です。* 今日の 「屋久島ナチュラルヒーリング」 のHPには、七夕クイズがありますよ。 正解すると、木霊の森スペシャルが見られるよ!
2006.07.07
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「551日目 - 反応-2」の続き次は、Y@soleilさんですね。【思うことがあって、再び参加させてくださいませ。実は、丁度このホームワークが出る頃、私はいじけてました。なんとなく、疎外感を自分の中に感じたのでした。そして、そっとその関係性から立ち去ろうとしていました。逃げようとしたのですね。 実際誰かに何を言われたわけではありません。周りの人はいつも温かいのです。そしてその方はいつも、私の傍にいて下さいました。でも、私が勝手にそう感じただけなのです。私は愛される価値のない人間ではないかと、そんな意識がいつもあったことに気づいたのでした。そして同時に、そんな自分に寄り添って欲しいと願ってもいました。私は、悪い人間ではないのか?そう思う自分に怒る。それが周りに投影されていました。 私は愛に対して、自らの存在自体に対して、罪悪感がありました。それが私の瞳と心を閉させ、自らを勝手に独りぼっちにしていたのです。実は、最近、胎児だった頃の記憶を思い出すような機会があって、その時に、私の思い込みはここから生まれていたのだなと感じたのでした。私の母は、色んな事情があって、私を生むことを望んでいませんでした。私は母のあらゆる感情を胎内でリアルに感じていました。それが私の無意識に蓄積されていました。彼女が何度も私をおろそうと考えるので、私は恐れました。なにより母自身も絶望し、何度も死を考えていたようです。 私は死の恐怖と、全てから切り離されたような孤独を不安と恐れと怒りを、母の胎内で感じていたようです。それは母の感じているものでした。母もとても孤独を感じていたのです。その印象が、私の孤独な自我の始まりでもあるようです。そして、望まれなかったのいのちという印象は、生きることへの罪悪感へ繋がったように思います。わたしの純粋な命は、ただ、生きたがっていました。ただ、愛され、包まれ、より添い守られたかったのです。本来はとてもピュアでもあった、幼子のいのちは、いのちの危険を感じ、恐れ、すこしの刺激でも自分を守ろうと働き、無意識の不安に駆り立てられて、私意識の増殖を招いてしてしまったように思います。それがこの数日の日々の中で段々と解ってきて、大分、心が軽くなったように思います。 前回のワークの、キラキラハッピー☆さんの言われるように、誰も悪いわけではありません。母も一生懸命だったと感じるのです。母も愛されたかった、守られたかった。とても寂しかった。そして、生きたかったのです。そして私たちはお互いにお互いの学びを計画しあっていたとも思います。そんなことをこの数日間見つめることになりました。言葉に出来ないのですが・・・。私の中の塊が、確実に軽くなっています。深々と感じるものがあります。ゆっくり感じたいです。ワークを提出するかどうか、迷い、丁寧に取り組めませんでしたが、再びワークの機会を、どうもありがとうございました。そして、みなさん、本当にありがとうございます。このご縁にこころから感謝しています。】胎児の頃の記憶を思い出せてよかったですね。胎児は母親と不離一体。母親の感情をダイレクトに感じます。あまりに強烈な感情は潜在意識に残ることになります。生命の危機に際し、不安と恐れが生じます。それは生命としての本能的なものです。生命とは、生きようとする意志。生きようとするが故に、危険に対して不安を覚え、恐怖を感じるのですね。自分の存在を否定しようとするエネルギーに対して、必死で抵抗します。そのため、過度の不安と恐れに陥ることも起きてきます。それは潜在意識に深く刻まれます。それが後々、いろんなところで影響してきます。母親に望まれなかったという意識は、無意識の罪悪感となります。自分の存在を全面的に肯定できません。肯定できるだけの愛に恵まれなかったということでしょうか。自分を肯定するには、幼少時からの愛が必要です。愛とは、肯定するエネルギー。生かすエネルギーです。生命を育むエネルギーであり、守り育てるエネルギーです。それが不足すると、自己肯定できない子供になってしまいます。過去の自分を理解することは、今の自分を理解することです。今の自分は、過去によって成り立っています。過去を理解することによって、今が変わります。今を理解することによって、過去が変わります。いずれにしても、変えることは可能です。永遠に不変ということはありません。理解されれば変わります。理解されない限り、潜在意識に翻弄されるままです。いのちとは、生きようとする意志です。生きんがために不安になったり恐れたりします。それもまた生きる意思の表れに過ぎません。生きるという生命の原点に還ることでしょうか。そこから派生するいろいろなものを理解することでしょうか。生きるということに関しては、すべての存在に共通しています。胎児を堕胎しようとする母親も、実の子を殺してしまった母親も、原点には生きようとする意志があります。すべては、生きようとする意志から派生したものです。生きようとする意志が、生きようとする意志を殺したりするのですね。どこでどう間違ってしまったのでしょうか。それを自分自身を通して理解しない限り、戦争はなくならないでしょう。根底にあるのは、生きようとする意志です。それはすべてのものに共通しています。でも、それが疎外される時・・・更に深く自分自身を理解していくことですね。その先に光が待っているでしょう。「552日目 - 反応-4」に続く
2006.07.07
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「550日目 - 反応-1」の続き次は、藍&aiさんですね。【馬鹿にされるようなこと。。。藍には、あまり思い当たりません。。気心の知れたお友達同士での馬鹿にしたような言葉を受けることはありますが、笑って聞き流せます。ジョークと受け取ることができます。実際、親しみをこめたジョークが多いのです。その反面。。藍は、ちょっと仲良くなると、気持ちが通じていると思い込んでしまい。。ジョークでよく言葉を発します。もしかしたら、それは相手にとって馬鹿にしたような言葉と受け取られるかもしれないな。。と思いました。藍は、あまり人を馬鹿にするようなことはありません。それに、人から馬鹿にされたと思うこともあまりないような気がします。】バカにしたり、バカにされたりすることはない?すばらしい!他の人の回答やコメントを読んで、心当たりがないのなら、何も問題はないでしょう。優越感や劣等感というのも、微妙に関係していると思いますが・・・次は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【「あなたは自分がバカにされたと思うと、どんな反応を示すだろうか。」相手が何を言いたいのかよく耳を傾け、その通りかどうかジックリ判断する。その通りなら、改める必要があるか見極める。改める為にどうすれば良いか考え、方向がみつかれば相手にお礼を言って目指す方向へ進む努力をする。その通りと思えない時には、相手の意図を確かめ前記を繰り返す。ピンと来なかったら流してしまう。「なぜ、あなたはそんな反応をするの?」相手にバカにされたかどうかは、あまり関心がないです。私のことについて、相手が教えてくれているのなら参考にしたいし、とっても嬉しい。心に響かない内容なら、その件は気にする必要もないと思ってしまいます。「どうして?そうしなければならないの?」自分勝手なのか、自分のプラスになる事にばかり関心が行ってしまうから。「いつからそのような反応をするようになったの?」「いつその反応パターンを身につけたの?」想いだせない。自分のことなのに…う~ん思い出せない。思い込みは繰り返していても、自分のことをじっくり考える時間を持たずに来てしまったから思い出せないのかしら?基本的にバカにされたと感じる事が少ないです。理由はふたつあると思っています。ひとつは、人に注意される事が好きだから。的を得たアドバイスには、本当に嬉しくなってしまいます。もうひとつは、高飛車な私に対して、バカにした態度をとりにくい空気感があるのだと思います。逆に、バカにする気持ちがないのにバカにしている様な態度をしてしまうことが多いらしく、注意を受ける事が多いです。本当に嫌味っぽい時もあるでしょうし、助言されるのが好きなので、相手も喜ぶと思ってしまうんですよね。人によって嬉しい事って違うのに…もっと丁寧に言葉を選ばないといけませんね。ホームワークの本筋から外れてしまいますね、ごめんなさい。】冷静、かつ、ポジティブですね。まさに理想的な対応の仕方です。相手が何を言いたいのか確かめる。それが事実かどうか見極める。改める必要があれば、改める。相手に感謝する。まさに非の打ちどころがありません。人に注意されることが好きな人も珍しいですね。確かに、的を得たアドバイスは役に立ちます。自分では自分のことがよく見えませんからね。そういう意味では素直ですね。自分にプラスになることに貪欲とも言えますが。いずれにしても、何事もポジティブに捉えることですよね。そうすれば、何でも活かして使えます。バカにされたくなかったら高飛車な私になればいい?確かに!でも、面と向かって言わないだけかも・・・次は、えっちゃんですね。【私はキャリアウーマンでなく、職業も転々としていましたから、うんと若い先輩に結構きつい事を言われてきました。けれど、今ほどムカッとする気持ちになったことがない。仕事が遅い、遅刻が多い、要領が悪い・・・と言われても、言われている事が事実だし、ゴメンナサイと言うしかないわけです。ある職場に過度にきつく言う先輩がいて、それでも気が滅入るくらいで、言ってることが事実でもあり、その人を憎く思うことはなかった。だから、そこを先輩に関係なくやめる時チーフに、彼女と何とかコンビを組んでくれる人が来てくれたと喜んでいたのに・・・と言われた。彼女の暴言に男性でも続かなかったらしい。それなのに何故、今の職場でこれ程の怒りの感情、不満の感情、攻撃的な感情が湧き出すのだろう?たぶん、納得の出来ない事を言われるからだと思う。・・・あれこれ昨夜は、納得できない事を列挙していて、疲れ果ててそのまま転がるように寝てしまい、すっかり寝坊してしまった。大失敗。でもその大失敗のおかげで、自分自身の至らなさに気が付いた。自分にも問題は沢山ある。そして、もうひとつ気付いた。みんなそれぞれ、自己保存の意識でイッパイなのだと。ひとりが私を言いなりに支配したいのも(事実です)、それによって自分の存在の重要性を感じたいから。もうひとりがわがまま勝手を言うのも(事実です)、信じられない位、自分は常に正しいと思っているから。そして、私がそういう人間関係から回避出来ずにいるのは、経済的自己保存のため。自分の都合でいるわけだから、ここに存在する条件を受け入れるしかない。>そうしなければならないの?同じ穴のムジナなんだもの、ムカッとするのはお終いにしなければ・・反応パターンだから、とりあえず条件反射で飛び出してしまうかも知れない。でも、自分を省みることはしようと思います。愛を解き放つ事は、傷つきたくない自己保存が阻止するだろうけど。いつか、すべてのことを、流れるままに受け入れることが出来るようになるまでは・・・。】えっちゃんは、相手が言っていることが事実であれば、ムッとしないのですね。でも、納得できないことを言われると、自動的にムッとしてしまう。理不尽なことに拒否反応があるのでしょうか。不正義は許せないとか・・・よりによって、どうしてこんな職場にいるのでしょうね。神様のいたずら?神様はいたずらはしない?ということは・・・何を学ぶ必要があるのでしょうか。理不尽なことを言う人の心の中?自分勝手な人の心の中?そういう人たちも理解する必要があるということでしょうか。理解があれば、自動的な反応はないでしょうか。自己保存の意識、自己重要性の意識・・・そういうもので自分を支えている人。人の意識の拠り所。それらを深く理解することでしょうか。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【貸していた本を返してもらった時、その本はとても感動したので気に入った箇所に線を引いていたが、「線を引いてたところ、あんなとこ感動するんだ。私はとっくの昔にわかってたよ。びっくり大したことないんだ。もっとわかってると思ってた。この本に書かれていること前から知ってたよ。」「ふ~ん・・・そう」と答える私。 ムッとする自分がいる。この本を読んでどう感じたかを聞きたかった。感動した。もしくは、何らかの気づきを得たとか、すごいね~の一言でも良かった。私の期待に反して、返ってきた答えは、「大したことないんだね。もっとわかってると思ってた。」「とっくの昔にわかってた。」 なぜわざわざこんなことを言うのだろう、でもこれが相手にとっての正直な感想。 相手が思ったこと感じたこと。これが事実。 気に入らない現実を拒絶するという私のパターン。期待はずれの感想、私の低い評価、相手の優越感、これらは私の思い込み、感情、反応…心の中にある自信のなさ。なのに、傲慢さも存在する。私の自信のなさに触れるような事実が起こるとバカにされたという思い込みにすり替わり、頼りない自分を保護するために、傲慢さが打って出てムッとするのだろうか。気に入らない事実を受け入れず、相手の自由な感情を制限することとなり、自分自身も相手との間に距離をつくる。生きる範囲を狭めている。自分にとって都合のいい世界だけで生きることになる。この反応パターン自体とても恐いと思うが、さらに恐いことに人の気に入る自分だけを見せて、人の気に入らない自分は見せない(不要)というパターンにもつながるように思う。これは、はっきり理解しているわけではないがアダルトチルドレンを生み出したパターン?自分の都合よく子供を受け入れる大人たちの基準に過剰に合わせ過ぎる子供。そうしなければ生きるすべがない。価値基準は都合のいい周りの大人。そこには、本来の自分は影を潜める。いったい誰の人生?子供の頃に刷り込まれた反応を今でも続けている。他人の基準を気にして生きること。 もううんざり。心が塞がれる。自分を生きてなかった。人の基準で生きてきた。何でも大切に持ってればいいってもんじゃない。もう手放そう。手放す時期が来た。不安だった自分に寄り添い、未完了の過去に寄り添い、過去を変えよう。今ならもう大丈夫。行き場のなかった本来の自分が出口を探している。本来の自分を生きよう。今の自分自信を感じて生きよう。】具体的でわかりやすい事例ですね。でも、こんなささやかなことでも、自分のパターンがしっかり出ていますね。相手の感想が気に入らない。自分が期待したものと、まったく異なる感想。まるで私をバカにしているような・・・とても受け入れられない。受け入れられるものと、受け入れられないものがあるのですね。その判断基準は何でしょうか。自分を肯定するものは受け入れる。自分を否定するものは受け入れない。でしょうか。自分にとって都合のいいものは受け入れる。自分にとって都合の悪いものは受け入れない。自分の都合とは何でしょうか。自分の気に入るものだけを受け入れて、気に入らないものは受け入れない。まるで頑なな老人みたい?事実ベースでは生きていないのですね。自分好みベースで生きています。自分好みベースで生きると、自分の好みに合わないものには拒絶反応を示します。自分の好みに合うものだけの世界で生きることになります。すべてを自分の好み流に解釈し、判断し、裁きます。自分だけの世界です。でも、その自分好みの実体は何でしょう?それは自分にとって心地よいもの。心地よかったもの。過去ベースでしょうか。自分を大切に守ろうとしていることは、過去を大切に守ろうとしているのでしようか。 一人自分の世界で生きているだけなのでしょうか。過去の小さな枠の中で自分を守ろうとしているだけなのでしょうか。自己保存ベースから、周りを気にし、自分を見失い、反応人生になっているのでしょうか。もう一度、すべてをゼロにリセットして、根本的に見つめ直す必要があるのかもしれませんね。ありのままの自分にグランディングして、事実ベースで生きることでしょうか。「552日目 - 反応-3」に続く
2006.07.06
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ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは、次のようなものだった。【人は自分がバカにされたと思うと、どうしてムッとしたり反発したりするのだろうか。 あなたは自分がバカにされたと思うと、どんな反応を示すだろうか。実際の自分の反応を振り返って、書き込んでほしい。なぜ、あなたはそんな反応をするの?どうして?そうしなければならないの?いつからそのような反応をするようになったの?いつその反応パターンを身につけたの?】最初は、優しい気持ち2005さんですね。【今回こそ参加させていただきたいので、早めに書き込みをいたします。これまでの自己観察も踏まえて、まとめてみます。>人は自分がバカにされたと思うと、どうしてムッとしたり反発したりするのだろうか。会社の中の自分が属する組織、もしくは友達・知り合い、近所づきあい、そのようなある単位の人の集まりの中で、「今の地位があるから、今の自分の評価があるから、自分はその集まりの中で安住できる」という保身的な思いがあるからでしょうか。自己防衛の発露?自分でその組織の中で築いてきた自己重要感のようなものが崩れると、安住できずに孤独を味わうことになるという思いがあるから。そのように感じます。ではなぜ反応するパターンを身につけたのか。過去において、自分を否定されたことで孤独や虚無感、不安を味わったのだと思います。そして、無理やりに抑えつけている、過去に経験したその不安感が表面化してくるのが怖いのだと思います。無意識にでも反射的に反応する理由はそこらへんだと思うのですが。反射的と言っても、体に痛みが走ったとき、目の前に何かが落ちてきたときの反射的とは違うような。やはり思い込みがベースにあるように思います。ムッとしたり反発したりして嫌な気持ちになったとしてもそのレベルは相手によって異なります。また、会社以外にも自分の居場所はいくつもあってその中の単なる1つ、などと自分に言い聞かせると結構楽になりますし。やはり思いの部分がフィルターとなって反射的とも思える反応をしてしまうのだと思います。】バカにされたと感じるのは、自己評価よりも遙かに低く見られた時ですよね。自己イメージとは、まったく異なる見方をされた。それは、まるで自分の存在を否定されたかのように思えます。自己重要性が脆くも崩れていきます。自分なりの自己イメージが、自分を支えています。つまり、アイデンティティです。それを否定されることは、自分にとって存亡の危機です。ですから、自動的に自分を守ろうとして反発します。ベースにあるのは、自己イメージです。つまり、思い込みですね。思い込みでしかない自己イメージが否定される時、人は必死に自分を守ろうとします。自己イメージ=自分なのです。自己イメージに過ぎない「私」を守ろうとする根っ子には、肉体の自己保存の本能があります。肉体の自己保存の本能が、いつの間にかイメージである「私」を守ることに変わってしまったのです。「私」が否定されると=バカにされると、自動的に自分を守ろうとして反応するのですね。「私」という思い込み。自己保存の本能と思い込みとの合体。そこから自動的に生まれる感情。その辺りを更に深く理解することでしょうか。注意深く自分を見つめながら・・・次は、あとりさんですね。【私は自分が攻撃を受けると信じ込んでいる。なのであからさまに汚い言葉、態度だけではなく、雰囲気でも、馬鹿にされているかの判断を使う。これは、育った環境の中で、世界は敵であると思いこんでいるから。相手が馬鹿にしたと怒り、攻撃をしてくる時の幼少児の恐怖がインプットされている。攻撃されると生命が危ない、その自己保存が出発点のような気がする。常に相手が馬鹿にしていないかとアンテナをはっていて、判断により感じると、その時の強烈な恐怖が蘇る。その恐怖を紛らわそうと、相手を支配する。いじめの場面を見て生まれる正義感もここから来ている。私自身が殺される、生きていけないと思う。その恐怖から結局、相手への攻撃性(相手を馬鹿にする)が生まれる。育つにつれ、認められたい欲求が生まれる。認められれば相手に見捨てられないという観念。相手の欲求が満足した様子を見て、愛をもらえたと信じ込んでいる。その為にあらゆる駆け引きを取得する。人との関わり合いは、このパターンを使い続けているだけ。相手の態度や状況だけを「全体」としており、相手の態度を判断し、自分を動かすので、自分を見失う。そして相手の感情が自分だと思いこんだり、自分のことがわからなくなる。私は人から馬鹿にされると感じる心を持っている。それは馬鹿にする心理と変わりないと思う。馬鹿にされたと思う事は、馬鹿にする満足感もあり、そのシステムを使って、自分を安定させようとするから。結局馬鹿にすることも、満たされないことの充足のためや、過去の欲求不満による憤りだったりする。馬鹿にされる=生命の危機、愛されていない 馬鹿にしない=生命の安全、愛されるという、私の思い。私は、生命を守り、まるごと愛し、生かしてくれる育みが欲しかった。それは過去の話。殆どの感情はそこから生まれている。そこから思考を絡めた複雑な自我ベース。 相手の態度を判断し、その枠内に自分を当てはめる必要はなかった。意識をどこにおくかで私の世界は変わる。自分が右往左往せず、相手とともにいて、静かに慈しみが溢れてくる意識。現象だけに関わらず、私と相手の感受性とが出逢って、感動が響く、一方的ではない双方の関わり、時間や空間制限がない感じ。そこには「自分」の命を守る感覚がないように感じる。全てが繋がって、誰一人切り離し出来ない、それがいのちそのもののような気がする。この意識からでる思考、感情は違ったものにならないか、そして本当に人と関われるのではという気がします。】バカにされるということは、攻撃される、自分の存在を否定される、と感じるのですね。 だから、恐怖であり、自動的に反発するのですね。自分を守るために。自分を守るというのが、反応の基本にあります。すぐに自分を守ろうとします。それは肉体の自己保存の本能とも言えます。そこから、感情も出てきます。それは物理的な危険に対しては必要なものです。しかし、現実的な危険がなくても、過去の記憶から自動的に反応してしまいます。それは、思考パターンであり、判断パターンであり、感情パターンです。それは無自覚のままに繰り返しているものであり、必要なものではありません。自分を守り、自分をキープするために、バカにされたと思ったら自動的に反発します。 同様に、自分を守り、自分を維持するために、人をバカにしたりもします。いずれも、自分を維持するための自己保存ベースです。肉体の自己保存の本能に思考や感情が合体することによってできあがっているシステムです。いかに自分を守るか。そのために、相手の態度に敏感に反応します。相手は自分をどう思っているか。相手の一挙手一投足に振り回されます。相手の状態に反応するだけの自分になりきっています。その反応は、過去から出てきます。過去の自分のデータファイルから、相手の状態に応じて出て来るだけです。その結果、相手に振り回され、過去に振り回される人生となります。自分を安定させようとすればするほど、意識は相手に向かいます。その結果は・・・自分を見失い、動揺と混乱だけが残ります。それが自分を守るための反応人生です。経済的安定を守るというのも、根っ子は同じです。生活のため、家族のため・・・自己保存ベースによって日常生活は成り立っています。しかし、よーく観察すると、それは必ずしも自己保存には繋がっていません。反応のままに生きることは、自分を見失うことです。それは自己保存そのものを危うくします。不思議なことに、自己保存が前面に出てしまうと、自己保存そのものが危うくなるのです。 自己保存の本能よりも、更に重要なものがあるのですね。それは冷静に事態を見極める意識でしょうか。自己保存という狭い視野だけでなく、もっと全体を見る視点です。それは同時に自己保存を超えたものを見る視点でもあります。広さと深さ。自己保存という小さなコップの中だけにいては、人生が視野狭窄に陥ってしまいます。自分と全体を同時に見る視点が必要なのです。自己保存ベースで生きている限り、真の意味では人と関わってはいません。ただ自分と関わっているだけです。自分の中の自己保存が反応しているだけです。ただ自分を守るために・・・自分を生かすという感覚も必要ですが、同時に全体を生かすという感覚も必要です。それは自己保存よりも更に深い感覚です。個々に独立している氷山の部分で生きるか、みんなが繋がっている更に深い意識で生きるか。そういう違いですね。個々の氷山で生きれば、全体から孤立し、自己保存のために汲々とした人生になります。 相手の状態を絶えず気にして、心の安まる時はありません。自己中心、自分本位の反応人生となります。もう少し意識が深いところにフォーカスされると、現象に振り回されることが少なくなります。意識が安定してくるのですね。安定は周りから認められることによってではなく、自分の深いところにフォーカスすることによってもたらされます。周りからの認知を求めている限り、周りに翻弄されるだけです。子供時代は、両親や周りの人から褒められ、認められることによって心が安定しました。 それを成長した後も引きずっているのが大半の大人です。周りの評価によって自分を安定させようとします。子供時代とまったく変わりません。その辺りを自分自身を通して深く理解することが、反応からの自由をもたらします。理解されない限り、反応人生が続きます。それは子供時代の延長以外の何ものでもありません。まったく成長していないのですね。人は自己保存の本能を超えることができるか。人は子供時代を超えることができるか。それが真に自立した人になるための課題なのです。「551日目 - 反応-2」に続く
2006.07.05
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自宅の近くで、夾竹桃(きょうちくとう)のピンクの花が咲き始めた。この花は暑い時期に咲く。これが咲き出すと、夏という感じ。長く同じ人と関わっていると、人間関係が変わることもある。変わってしまった人間関係を、元のように戻そうと努力する。しかし、ほとんどの場合は、うまくいかない。変わってしまった人間関係は、なかなか元には戻らない。元の状態を懐かしみ、今を嘆けば、人生は暗くなる。元へ戻そうとすればするほど、苦しみの人生となる。人の意識は変わる。変わることを認めるしかない。人の意識の中には、早く変化する部分とゆっくり変化する部分がある。興味や関心は、日々変化していく。表面的なものほど変化は早い。人と表面的に付き合えば、出会いと別れが早くなる。過去の関係へ戻そうとするのは、自我の我が儘。自分に都合のよい状態をキープしたいだけ。過去へ戻ることはあり得ない。人の意識は絶えず変化している。変化と共に生きるしかない。出会いがあれば、別れもある。必要な期間一緒にいて、必要でなくなれば自然に離れる。いつまでも一緒にいたいと思うこと自体に無理がある。今、今を味わうしかない。お互いに付き合うことで、波動は溶け合う。新鮮味を感じなくなれば、自然に離れるようになる。意識のどの部分で付き合うかによって、離れる・離れないも違ってくる。深いレベルで付き合っていれば、離れていても意識は繋がっている。フランスでは、事実婚が50%を超えたらしい。アメリカでは、離婚&再婚は日常茶飯事。日本の離婚率も上昇の一途。もう結婚という制度で人を縛る時代ではない。戸籍制度は、元々、権力者の都合。社会を安定支配するためのシステム。けっして個人を尊重しての制度ではない。一昔前は、一生添い遂げることが価値があるとされた。今、そんなことを思っている人は少ない。熟年離婚が増加し、結婚年齢も上昇し、結婚しない男女も増えている。一生共に過ごす人が見つかれば、幸せ。そうでなくても、別に問題はない。自分の寂しさを人と関わることによって埋めようとすれば、長くは続かない。一時しのぎにはなるけれども、やがて、求めていたものが満たされなくなって別れることになる。自立した関係でない限り、長く続くことは難しい。表面の満たされない意識の部分で付き合っている限り、長続きは望めない。深い本質的な部分で生きるしかない。時代と共に社会システムも変わる。意識の変化に応じて社会制度も変化していく。子育ても、これからはもう少し社会化していくだろう。コミュニティの中で、みんなで育てるような方向に進んでいく。核家族化は終わりを告げる。家族単位で孤立することもなく、そうかと言って、大都会で埋没することもない。顔がわかるコミュニティの中で、波動の合う人たちと暮らしていくようになる。自然と共に、豊かに、平和に。競争することもなく、一人一人の個性を尊重して生きるようになる。その中で、子供はみんなに大切にされる。深い意識をベースに、静かに豊かに暮らすようになる。それぞれが自立し、なおかつ共同して生きる感じになっていく。『どのくらい 深いところで 付き合うか それが互いの 関係決める』『寂しさで 人を選べば 寂しさで 人と別れる 寂しい輪廻』『お互いに 依存しながら 奪い合う やがていつかは 別れる運命』『制度より 互いの関係 重視して 生きるスタンス 決める時代に』『無理をして 制度で人を 縛るより 自然のままに 心のままに』『お互いに 自立しながら 満たし合う 関係ならば 静かに続く』『ゆっくりと 深いところで 付き合えば 繋がり切れる ことはあり得ぬ』これが549日目の心境です。
2006.07.04
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屋久島は、蒸し暑い天気が続いている。梅雨が明けたのか明けてないのか・・・雨の多い天気になっている。魚座の二千年間、人類は感情に翻弄されてきたのだろうか。今もなお、感情のままに自分を見失う人が多い。それはどこから来ているのだろうか。その根っ子は、思い込みだろうか。思い込みから、いろんな感情が沸き出すのだろうか。では、その思い込みはどこから来ているのだろうか。それは肉体の中にある自己保存の本能だろうか。自己保存の本能と思考が合体し、自己中心的な「私」を形作る。それがほとんどの感情の源だろうか。人類は、これまで肉体に振り回されてきた。肉体にまつわる思考や感情に翻弄されてきた。それは紛れもない事実。それは今も続いている。現実社会は、自己保存のための経済戦争。自己の快楽を求める不倫や援助交際や出会い系サイト。肉体ベース、自己保存ベース、自己中心ベースに充ち満ちている。別にそれが悪いと言っている訳ではない。先ずは、ありのままの現状認識から。しかし、人類の意識は変わり始めている。これまでの曖昧な思い込みから、クリアーな意識へ転換し始めている。肉体の自己保存をベースとした自己中心的な思考から、ハートベースのクリアーな思考へ変わっている。そうなれば、感情も変わる。自己中心的な感情ではなくなる。自分を守るための感情ではなくなる。喜びを共に分かち合うための感情になる。共感共鳴の感情に変わる。私達は、そういう過渡期にいる。光のセミナー時代からの知り合いからメールをもらった。それには次のように書かれていた。「5月、6月と心(エネルギー?)の変化があっていよいよ私も魚座時代が終わりそうです。今は、アクエリアスに頭半分、突っ込んだ感じです。妙な実感があります。(ただの思い込みか?)さらに進むには、観念を捨てていかないとダメみたい・・・。」そのメールには、東京でワークショップのようなものを始めたとも記されていた。もう一人、光のセミナー時代に光のセッション(個人セッション)を受けた方からもメールをもらった。少し長いけれども引用する。【実はこちら(イギリス)に来てから、時折瞑想をしているのですが、瞑想中に「光のセッション」で出会った過去生の詳細が再度出てきたのです。以前に光のセッションで出てきた人物は 宗教革命の時代頃に時代にそぐわない思想を普及しようとして、カトリック教会側から弾圧され投獄された後、一人、孤独のまま真っ暗な独房で亡くなった、というものでした。今回瞑想中に出てきた人物は幼少時から亡くなるまでかなり詳細に出てきたのですが、どうも同じ人物といってよいと思いました。ただ違うところが数点ありました。投獄の理由:カトリックの修道士にもかかわらず、心の内では無心論者になっていた。神への冒涜、恨みの心で一杯だった。心の中では抑えきれず、彼はそれを教会に訴える。「神は本当にいるのだろうか? 何故世界は平等ではないのだ? 貧困と富が分かれているのは何故だ。どこに神の恩寵があるのだ?」そのために投獄された。。。投獄後:初めは相変わらず、神を恨み、自分を恨み、世界を恨んでいたものの、あるときふと気づく。「私は生きている。生かされている。これこそが神の恩寵。グレース(慈悲)なのだ。みな生あるものは、亡くなるまで精一杯生きることが出来る。これこそが与えられた平等な機会なのだ」と悟った以降、独房には光が満ち溢れ、彼は自分の体を体脱して過去・未来へと意識を飛ばすことが出来るようになります。その中で、私と次の生(来世?)の女性の人生を覗いて2年後に亡くなります。彼が独房に入ったのは34-36歳。今私は34歳です。これからの2年間、彼と同様に心の闇を見つめ光を見出す作業が待ち構えている?みたいなアドバイスがありました。(どこから?)さて、連絡したかったのは過去生は変わる、ということです。歴史は変わる?それは常識ではありえないことですが、変わっていました。私も頭では理解していましたが、自分で体験してみてやはりそうだったんだ!!と納得。ということは、kimiさんがいつも言っているように今、この瞬間だけが存在しているということに繋がりますよね。意識が変わると起こりうるすべてのことが変わってくる。身にしみて実感しました。kimiさんに受けた光のセッション。10年間ずーっとつながっていたのでしょうね。ある意味、あれが今現在の自分へのトリガーになったんだと思います。ありがとうございます♪】過去世は変わる。過去世に光を当てれば、過去世の意識は変化する。不思議だけれども、それは事実。宇宙に変わらぬものはない。今の意識が変わることによって、過去世にも影響が及ぶ。今の意識が変わることの波及効果は、想像を遙かに超えている。自分に関わる先祖代々の意識も変わる。自分の魂の兄弟の意識にも変化を与える。今、自分の周りにいる人や、その背後にいる存在にも影響する。一人の変化は、膨大な変化を呼び起こす。彼女は3月に会社を辞め、今はイギリスにアロマ留学しているらしい。これから2年間、自分の中の闇を見つめることによって、光へと変化していくことだろう。光の存在になって、周りの人にアロマなどのヒーリングを施すのだろうか。最初の男性は、以前からこの日記を読んでいるのは知っていた。でも、彼女は・・・【私自身も色々あって、今年3月で会社を退職し、今はイギリスにアロマ留学に来ています。で、ほっと一息ついたときに、そういえば古沢さんどうしてるかしら?と思って検索してみたら、「屋久島ナチュラル・ヒーリング」と「無色透明」の日記に出会いました。5月の下旬から毎日楽しみにして読んでいます。かなり自分に起こる事象とリンクしていて、それがまた楽しい。面白いですね~】こちらはまったく気づかなかったが、コメントも書き込んだことがあるらしい。【写真ブログも楽しく見ています。1年-2年後?機会があれば、是非屋久島に行き、ガイドをお願いしたいと思っています!】着実に変化が起きているようだ。そういう報告が、時々届く。肉体ベースから、ハートベースへ。物質ベースから、スピリチュアルベースへ。曖昧な思考から、クリアーな思考へ。自己中心的な感情から、共感の感情へ。時代は間違いなく変化している。既に一年半、日記を書き続けている。これから、まだ二年ぐらいは書くだろう。それと呼応して、多くの人が変化していく。別に日記の影響によってと言うつもりはない。すべてがリンクしている。今の時代に変化できる人は幸せだ。そのつもりで生まれてきている。当初の目的を達成し、時代と共に生きることになる。いつまでも自己中心的な感情に翻弄されている場合ではない。自分の感情を見つめ、理解し、超えていく。それが今という時代。今、生きているということなのだ。『感情に 翻弄されて 見失う 自分の光 内なる輝き』『いつまでも 過去の頸木(くびき)に 縛られて 後ろを向いて 闇路を歩く』『時が来て すべてのものが 変化する 時代と共に 生きる幸せ』『真実の 内なる光 輝けば 過去も未来も 光に満ちる』これが548日目の心境です。
2006.07.03
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誰かが自分をバカにする。バカにされたと思うと、無意識にムッとしたり反発したりする。それは、ほぼオートマチックに起きる。それが自分の反応パターン。しかし、冷静に考えてみると、相手は本当に自分をバカにしたのだろうか。それとも、自分がバカにされたと思っただけだろうか。事実は定かではない。事実確認がないまま、反応は自動的に起きる。もしかしたら、それは自分の思い込みかもしれない。相手はまったくバカにする気などなかったのかもしれない。それなのに、それなのに・・・なぜ、自動的に反応してしまうのだろうか。それは相手がバカにしたかどうかに関わらず、自分がバカにされたと思った瞬間に起きる。感情を引き起こすものは、事実ではなく、思い。感情にとっては、自分がどう思ったかが重要なのだ。事実が重要なのではない。不思議なことに、感情は事実に基づいては起きない。事実ではなく、自分の思いに基づいて起きる。感情は、事実を自分がどのように思うかに懸かっている。相手が実際にバカにしていても、自分がバカにされたと思わなければ、何も感情は沸いてこない。感情は、事実ベースではない。感情は、思い込みベース。では、自分がバカにされたと思うと、なぜムッとしたり反発したりするのだろうか。それは当然であり、必然なのだろうか。それ以外の選択肢はないのだろうか。これ以上書くのはよそう。この中には、たくさんの問題が含まれている。全部こちらで解き明かすこともない。読んでいる人に、自分で解いてもらおう。そう、この後はホームワークとしよう。人は自分がバカにされたと思うと、どうしてムッとしたり反発したりするのだろうか。あなたは自分がバカにされたと思うと、どんな反応を示すだろうか。実際の自分の反応を振り返って、見つめてほしい。なぜ、あなたはそんな反応をするの?どうして?そうしなければならないの?いつからそのような反応をするようになったの?いつその反応パターンを身につけたの?反応は必然ではない。しかし、ほとんど自動的に反応する。しかも、多くの人が似たような反応をする。不思議なことに・・・なぜ、人は同じような反応パターンを示すのだろうか。まるで文化人類学?現人類の行動パターンの研究?本当は、バカにされたと思う人の心理状態と、バカにする人の心理状態を、二日に分けて解明するつもりだった。それによって日記の遅れを取り戻す予定だった。ところが・・・まあ、いいか。独り芝居よりも、全員参加の方が面白いに決まっている。少なくとも盛り上がることは確かだ。どうぞホームワークを楽しんでほしい。実際に自分がバカにされたと思った時の反応パターンを確認してほしい。意外と無自覚なものだ。いつも無意識に反応している場合が多い。人は自分を振り返ることは意外と少ない。いつも無意識のままに流されている。たまには立ち止まり、自分を確認してみるのもいいものだ。無意識のままでは、いつまで経っても同じパターンの繰り返し。同じところを堂々巡りしているだけ。それでは進歩も成長も、夢のまた夢。『感情が 沸き出す基は 思い込み 思いしだいで どうにでもなる』『感情を 生み出すものは 思い込み 思いしだいで 感情変わる』『感情は 思いによって 切り替わる 思い変えれば 感情変わる』『どのような 思いを持てば どのような 感情出るか 予想つくもの』『泡沫(うたかた)の ように儚(はかな)い 感情に 振り回されて 終わる一生』『本当に 自由な人生 望むなら 自分自身を 見極めること』これが547日目の心境です。【ホームワーク】人は自分がバカにされたと思うと、どうしてムッとしたり反発したりするのだろうか。あなたは自分がバカにされたと思うと、どんな反応を示すだろうか。実際の自分の反応を振り返って、書き込んでほしい。なぜ、あなたはそんな反応をするの?どうして?そうしなければならないの?いつからそのような反応をするようになったの?いつその反応パターンを身につけたの?締切は、7月7日午前9時。BBS蘭に記入してください。誰でも参加できます。よーく自分を見つめて、自分の言葉で具体的にわかりやすく書いてください。
2006.07.02
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3泊4日の旅-3の続き3泊4日の旅の最終日は、屋久島一周。昨日の縄文杉の疲れや荷物の整理のために、いつもより30分遅く、9時半にホテルに迎えに行く。小雨の中、先ずポンタン館で屋久島のお土産を見る。館内には、マンゴーやパッションフルーツの甘い香りがたちこめていた。次に、湯泊の海浜温泉へ行く。天気が良ければ入りたいところだが、あいにくの雨。それでも、傘をさして足湯。しばらくすると雨も止み、海を眺めながらのリラックスタイム。温度は思ったより高く、気持ちよかった。黒毛和牛の牧場では、たくさんの子牛たちがのんびり遊んでいた。牛の近くにはシラサギもいたが、彼等は警戒心が強く、すぐに逃げてしまう。海が見渡せる牧場は、日頃の煩わしさをみんな吹き飛ばしてくれる。時間がゆったりと流れている。いつ来ても、のんびりできるところ。栗生の海岸でサンゴ拾い。たくさんのハマユウが咲いていた。その香りは、天国の香り?それとも、幸せの香り?写真を撮りながら、最高の気分に浸れた。久しぶりに自宅用に大きなサンゴを持ち帰る。サンゴは長い時間外に置いておくと、だんだん黒ずんでくる。カビが生えるのだろうか。時々入れ替える必要がある。大川の滝は、ものすごい水量だった。最高レベルの水量が青空をバックに流れ落ちていた。太陽も出ていたので、もしかして水煙に虹?ところが、水量が多すぎて滝壺の近くまで近寄れない。虹は幻に終わった。西部林道に入ると、たくさんのヤクザルがノミ取りをしていた。子供を抱いているサルもいたが、子供はあまり見せたくないようだった。西部林道の森のあちこちから、甘い香りが漂ってきた。まるでパッションフルーツのような・・・なんとなく幸せな気分。香りというのは、人を幸せにするのだろうか。更に進むと、今度はシカの子供が出てきた。そう、昨日も見たバンビー。次々と、二頭。これで2日間で五頭見たことになる。3年間屋久島に住んでいても、五頭もバンビーを見ていない。すごすぎ!西部林道の中で何度も下車して、シカやサルを観察する。昨日からの雨で、沢が滝のようになっている。人のいない自然はすばらしい。サルもシカも、たーくさん道路に出て大歓迎という感じ。雨が完全に上がって、きれいな青空が広がった。空気が澄み渡り、いつもは見えない島影がはっきりと見える。照葉樹林の緑と海の青がすばらしいコントラスト。すべてが新鮮にきらめいている。西部林道が終わり、永田の集落に着いて昼食を食べようとしたら、ホテルのランチタイムが臨時休業中。梅雨時だから?ラーメン屋もつぶれており、やむなく、コンビニのようなところでパンを買って済ませる。日陰でパンを食べて、永田いなか浜に下りる。ウミガメが産卵に来た足跡が、たくさん残っていた。今頃が産卵の最盛期だろうか。波打ち際を歩き、砂浜でお昼寝。紫外線が強く、日焼け止めを塗らないと、すぐに焼けてしまう。ほんの20分ぐらい横になっただけなのに、腕が真っ赤になってしまった。波がキラキラと輝き、口之永良部島がくっきりと浮かび上がる。海も空も砂も、すべてが美しい。もう少しゆったりしたかったが、まだ予定が残っていたので心を残しながら車に乗る。途中、布引の滝に寄る。普段はほとんど水量のない滝も、梅雨時だけはすばらしい滝となる。今日も一番上から山を割るように水が流れ落ちていた。しかも、背景は青空。最高のロケーション。無農薬のお茶屋さんに行く。再度、抹茶のソフトクリームを食べる。大人気!ここからが今回のスペシャルプログラム。二人のリクエストで、自宅の裏の海岸に水晶を見に行く。靴に履き替えてもらう。かなり危険なところ。でも、水晶が自然の状態で見られる。小さいけれども、明らかに群晶している。つまり、水晶クラスター。こんなところを案内しているガイドは、屋久島に200人近いガイドがいても、まずいない。危険だし、ここに水晶があることを知らないガイドがほとんど。でも、本物の水晶がはえているところを見ると、感動する。なぜか水晶が生きているのが感じられるのだ。二人は水晶を削り取ろうとしたが、うまくいかなかった。そんなに簡単に取れはしない。目立つほどの大きさのものは、既に誰かが持って行っている。残っているのは、みんな取れにくいものばかり。見て楽しむしかない。最後に自宅に寄って、こちらの水晶を見てもらう。これも二人からのスペシャルリクエスト。ほんの少しだけ、先程の場所から持ってきた屋久島水晶もある。しかし、極めて小さい。他のヒマラヤ水晶やゴールドルチル水晶などは、もっと大きい。みんなで何個あるだろう?数えてみたら、大小70個以上あった。既にかなりの数の水晶は他の方の手に渡っている。トータルで100個は軽く超えているだろう。なにしろ昨年は水晶を買いまくっていたから。今年も少しだけ買っている。もちろん、こんなにたくさんの水晶を使っている訳ではない。もう必要のなくなったものもある。そういうものの中から、自分の好きなものを幾つか持って帰ってもらった。自分で選んでもらうと、その人の今の意識状態がわかる。やはり、自分の意識に合ったものを選ぶ。今日は飛行機が最終便なので、時間に余裕があるつもりだったが、いろいろ盛り沢山すぎて、最後の方はあまりゆっくりできなかった。それでも超満足の一日だっただろう。すばらしく豊かだった。これだけ豊かな一日も珍しい。今回の3泊4日は、ほぼパーフェクトに近い。どうしてこんなにすばらしいの?よほど日頃のおこないがいいの?最初に益救神社に挨拶に行ったのがよかったのかな?そう聞いたら、屋久島へ来る前の一週間、ずっと祈っていたとのこと。その効果があったのだろうか。二回目の屋久島。今回は屋久島の自然に大歓迎された旅だった。繊細な羽神の滝、目玉のついた木霊の写真、縄文杉、五頭のバンビー、すばらしい水量の滝、青空と青い海、豪雨と緑の木々、そして、虹と流れ星・・・これだけのギフトは、ただごとではないかも?これまでにも、木霊の写真が撮れることを祈ってきた人や滝行をしてきた人たちがいた。結果はすばらしかった。祈り=自分の望みが叶う時代になってきているということだろうか。意識が現実化するスピードがますますアップしているようだ。屋久島で望みのものを体験するのも、すばらしい。でも、何も祈らなくても、ただただ感謝だけというのも、すばらしい。与えられたものに感謝して生きていければ、それ以上の幸せはない。祈ってもいいし、祈らなくてもいい。感謝をして、喜びと共に生きれたら、それですばらしい。『虹が出て 星が流れて 縄文杉(すぎ)を見て 豊かな恵み 祈りが叶う』『神々の 住みたもう島 屋久島の 豊かな恵み 尽きることなし』『祈っても 祈らなくても 感謝して 日々喜びと 暮らす幸せ』これが546日目の心境です。
2006.07.01
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