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朝から栗生の小谷の滝へ行く。地元の集落の人でさえ場所がわからない人が多いという滝。今回は屋久島に15年ぐらい住んでいる人が案内してくれることになった。彼はフリーのピアニスト&ヒーラー。以前、彼がホテルでおこなった即興のコンサートを聴きに行ったことがある。その時は、そのホテルで働いている知り合いからチケットをもらった。今回は、たまに森へ連れて行ったりしている秋田から来た人が紹介してくれた。秋田の彼女は彼と広島のユースホステルで、たまたま同宿したらしい。その時に、そこの95歳になる霊感のある女性オーナーが、彼に付いて屋久島へ行くように彼女に勧めたとか。それで屋久島へ来て、彼に案内してもらった。その後、家族全員で屋久島に引っ越してきた。その彼女は秋田にいる古くからの友人の知り合いで、こちらを訪ねてきた。縁とは、そんなものだ。一週間ぐらい前に、彼女の長女の中三の女の子、その秋田時代の同級生とそのお姉さんをガイドした。今回も彼女と長女が同行。4人で滝へ向かった。一周道路から栗生の集落に入って、栗生小学校でトイレを借りた。春休みで子供たちはいなかった。宿直の先生がいた。気軽にトイレを貸してくれた。なんとなく懐かしさを感じる可愛い小学校。校庭のすぐ上にきれいなピラミッド型の山。新緑の緑が目に飛び込むほどきれいだった。以前、この滝に行こうとしたことがあった。しかし、入口がわからなかった。今回、その訳がわかった。これでは誰もわからない、というような入口だった。言葉で説明しても無理。実際に連れて行ってもらうしかない。滝自体はそんなに遠くはなかった。道路から20~30分ぐらい。それほどハードな道でもなく、川に沿って登っていくだけ。一部、岩を登るところで少し危険な箇所があった。滝は五段。右に左に折れて流れ落ちていた。かなり大きな滝。別名、五段の滝とも言うらしい。滝壺は広く深かった。水はすばらしく美しい。もちろん、誰もいない。岸の上の方から見ると、五段の滝がよく見えた。反対方向には栗生の集落も小さく見えた。岩の上でお昼寝したり、水遊びしたりして、しばらく自由時間。夏なら泳ぎたくなるような透明な水。飲んでみると、とても美味しかった。30分ぐらいその場にいて、ゆっくり引き返す。帰りは山側の道を歩いたが、少し危なかった。川沿いの道の方が安全。栗生の集落に美味しい蕎麦屋さんがあるとのことで、一緒に入る。東京で修行した人が、地元に帰って実家で始めたらしい。立派な家だった。広々として静かでくつろげた。蕎麦も本格的だった。屋久島には、もう一軒、宮之浦に蕎麦屋がある。屋久島の蕎麦屋は、この二軒だけ。本屋は、三軒。CD屋は、一軒。病院は一つ。パソコンを売っているところは、ゼロ。まあ、そんなところ。屋久島に15年いるだけあって、こちらより遙かに詳しかった。いろいろ学ぶことがあった。帰りにソフトクリームを食べる。春休みで、まあまあ混んでいた。来ているのは地元の人ばかり。観光客はほとんど来ない。観光案内の雑誌に出ない限り、観光客は来ない。「ここの抹茶のソフトは日本一だ」と彼は言う。彼は国内外を問わず、ピアノ演奏と治療で飛び回っている。友人知人も多いようだ。その中の一人を訪ねる。屋久島で月一万円未満で暮らしているという人。彼は陶芸家だが、年に一回ぐらいしか火を入れない。屋根は草ぼうぼう。家の中は暗く、所狭しと陶磁器が並んでいた。彼は煮炊きとかは、すべて囲炉裏でやっているらしい。もちろんガスはなし。水道は山の水。電気は一応あるが、電気代は月に300円とか。手作りの家は、囲炉裏の煤だらけ。鉄瓶を囲炉裏の上で支えている竹の燻(いぶ)し銀のような紫色が美しい。夏場は窓を外して暮らしているらしいが、囲炉裏のおかげで虫は入ってこないとか。近くで拾った薪を囲炉裏にくべてくれる。囲炉裏の火はやさしく、あたたかい。自宅を造るなら、囲炉裏があるといい・・・彼は畑も作っており、米以外は自給自足。手作りのお茶の葉を、すり鉢で擂って飲ませてくれた。まるでヨモギのような風味。なかなか味わいのあるお茶だった。ほとんど買い物にも行かず、自宅に篭もっているらしい。一風変わった人だが、人柄が良く、気楽に話ができた。屋久島には、いろんな人が住んでいる。山奥の電気もガスもないところで、子供と暮らしている若い女性がいるとか。なかなかユニークな人が集まっている。最後に、今日案内してくれた人の自宅へ行く。ここも手作り。二年ぐらいかけて自分で造ったとのこと。三階建ての木々に囲まれたステキな家。もっとも、車は車検切れで動かせない状態。リッチでないことは確かだが、とても心豊かに暮らしている感じ。これが屋久島暮らしというものだろうか。経済的には兎も角、心は豊か。屋久島でリッチになっても仕方がない。それは都会にいる時にやればいい。屋久島は自然と共に心豊かに暮らすところ。お金や時間に追われることなく、ゆったりと静かに過ごす。それを大きな自然はバックアップしてくれる。何も持たずに自然と共に暮らすには、屋久島はよいところだ。余計な欲を刺激するものも少ない。極めてシンプルな島。心・身・物共にシンプルに生きるには向いている・・・『屋久島の 豊かな水は 滝となり 激しく強く 美しく舞う』『屋久島は わずかばかりの 持ち物で 心豊かに 暮らせるところ』『屋久島の 自然の中で ゆったりと 自然と共に 豊かに暮らす』これが454日目の心境です。☆ 最後に、一週間前にガイドしたギャルたちからのメッセージカードをもらった。 そこにはお礼の言葉と共に、ギャルたちのプリクラと、手描きの木霊の絵と、カラフルなハートのシールが9枚も貼られていた。 やったね!
2006.03.31
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今日の屋久島は、晴。愛子岳を始め、屋久島の前岳がよく見える。朝、水を汲みに行くと、誰も住んでいない家に花がたくさん咲いていた。人がいないので、木々が家の周りを覆っている。なんとなく春が咲いているという感じだった。一昨日、次のような書き込みがあった。返事が長くなりそうなので、日記に書くことにした。「もし、私のメッセージで気を悪くしたのなら、ごめんなさい。だけど、それではなぜ、時代の移り変わりだとわかるのですか?それってなんですか?釈迦が何を悟ったのか知っていますか?どんなに修行、荒行しても、"悲しみ""苦しみ"はなくならないことを悟ったと聞いていますよ。釈迦にすら、できないことをなぜ、望むのですか?それよりも、目の前にいる人の"喜び""幸せ"を願いませんか?"悲苦"や"欲"がなくなるのは、死んだときです。でも、せっかく生を受けたのですから、一生懸命生きませんか?せきせきさんのように、心や体にハンディを背負った人を一人でも救えましたか?私だって、未熟でまだまだで何もできない人間です。だけど、一生懸命生きてますよ。ただ、それを言いたかっただけです。でも、Kimiさんには、特別の何かが見えているのかもしれないですよね。そうだったら、ごめんなさい。」いつも日記を読んでいただいて、ありがとうございます。それにカキコも頻繁にしていただいて、感謝しています。書き込まれたことについて、少しこちらの感想を書きますね。「それではなぜ、時代の移り変わりだとわかるのですか?」マヤ歴が2012年で終わるとか、数多(あまた)の予言書に書かれているとか、根拠らしいものもないではありません。でも、科学的根拠がある訳ではありません。ですから、誰もが納得できるように説明することはできません。極めて主観的な感じですね。ただ、小学校に入る前から、新しいすばらしい時代がやって来るという不思議な確信がありました。何の根拠もないのですが、それは生きる前提とも言えるような確信です。たぶん、それは未来の記憶とか、生まれてくる前のプランとかいう種類のものでしょう。それには論理的説得力はまったくありませんが、人を突き動かす力は持っているようです。この日記を読んでいる方の中にも、新しい時代の到来をなんとなく予感されている方もいらっしゃるでしょう。未来のことは確定したことは言えませんが、そういう方向性の中で生きている感じです。この日記もその流れの一環としてあります。でも、別に未来の変動を押しつけるつもりは毛頭ありません。自分の感性を大切にされればいいと思いますよ。「釈迦が何を悟ったのか知っていますか?どんなに修行、荒行しても、"悲しみ""苦しみ"はなくならないことを悟ったと聞いていますよ。釈迦にすら、できないことをなぜ、望むのですか?」釈迦が悟ったのは、どんなに肉体行をしても悟れないと悟ったのではないでしょうか。それがわかって断食行を中断し、スジャータからもらった一杯のミルクを飲み干します。その時に、楽器の弦は強く張りすぎては切れてしまう、弱くては音が出ない、ちょうどよく張った時にすばらしい音色を奏でるという、中道の教えを自覚します。その後、自分のこれまでの思いと行いを八正道を基準にして見つめ直し、大悟したと聞いています。だいぶ聞いている情報が違いますね。なにしろ2500年以上前の話ですから、確かなことはわかりません。ただ、残っている仏典を読んでみられれば、釈迦が非苦を超えているかどうかわかるのではないでしょうか。般若心経一つでも読まれれば、釈迦の意識の次元がわかるでしょう。非苦を超えられないのであれば、釈迦の説法は何の意味もないことになります。この世の真実をわかることによって人生の非苦を超える。そのための真理を釈迦は説いたのではないでしょうか。「それよりも、目の前にいる人の"喜び""幸せ"を願いませんか?"悲苦"や"欲"がなくなるのは、死んだときです。でも、せっかく生を受けたのですから、一生懸命生きませんか?」非苦や欲がなくなるのは死んだ時?もしそれが本当なら、目の前にいる人の喜びや幸せを願って何の意味があるのでしょう?どんな喜びも幸せも非苦の前では色褪せてしまいます。いや、真実の喜びや幸せ自体が存在しないでしょう。束の間の喜びや幸せを願うのですか。それではあまりにも切なく儚(はかな)い人生ですね。どうして非苦や欲がなくなるのは死んだ時と決めつけてしまうのでしょうか。そのように自分で決めつければ、生きている間は非苦の人生となるでしょう。それを望んでおられる訳ではないでしょう?非苦や欲がなくなるのは死んだ時と誰かから聞いたり、本で読んだりして、自分でもそのように思い込んだのではないでしょうか。それこそ何か論理的根拠がありますか。死の直前になって言うのであればまだしも、何年生きておられるのでしょうか・・・一生懸命生きるのは当然のことですね。改めて言われるまでもないことです。ただ、非苦や欲がなくなるのは死ぬ時だと思って生きるのと、非苦を超えて生きようとするのとでは、人生がまるで違ってくるでしょう。非苦の人生を生きるか、非苦を超えた人生を生きるかの違いが出てきます。非苦を超えられないという根拠はありません。もちろん、非苦を超えられるという科学的根拠がある訳でもありません。しかし、非苦を超えたと思われる人々は少なからず存在していました。そういう人たちが書き残した文献や伝承も残っています。非苦を超えられるという人たちがいる以上、非苦を超えられないと決めつけることもないでしょう。またそういう人たちがいなかったとしても、自分で非苦を超えようと意図することは可能です。できるかどうかチャレンジする価値はあるでしょう。チャレンジもしないで、どうして超えられないと決めてしまうのか不思議でなりません。「せきせきさんのように、心や体にハンディを背負った人を一人でも救えましたか?私だって、未熟でまだまだで何もできない人間です。だけど、一生懸命生きてますよ。ただ、それを言いたかっただけです。」せきせきさんは心や体にハンディを背負った人?確かに心身に闇があるのは確かですが、それは程度の差で、誰にでもあるものです。敢えてハンディを背負っていると表現するなら、先祖代々の闇を一身に背負い、一気に光に転換しようとしていると言った方がいいでしょう。それだけのキャパシティとパワーを彼女は秘めています。救う対象ではありません。彼女には他の人にはない豊かな人生経験があります。それはとても貴重なものです。やがて、その経験を生かして多くの人にアドバイスする立場になるでしょう。一人でも救えましたか?救えていないでしょう。なぜなら、最初から救うつもりがありませんから。人を救うなどということはできないと思っています。救おうとしたことがあれば、それがよくわかるでしょう。救うことができるのは、本人だけです。アドバイスやサジェッションはできますが、それ以上のことはできません。よく言われる、「馬を水場へ連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」ということですね。こちらでできることは、きっかけを提供することだけです。後は本人が決めることです。他の人は何もできません。それはさんざん経験してきたことです。人は自分で自分を救っていきます。それ以外にないのです。一生懸命生きることは、わかりました。それに関しては、まったく異論はありません。ただ、その中身ですね。一生懸命生きる前提や中身が問題です。非苦や欲がなくなるのは死んだ時だから、生きている間はささやかな喜びや幸せを願って一生懸命生きよう?それではあまりにも切なすぎますね。前提はいらないのではないでしょうか。前提は単なる思い込みです。何の根拠もありません。過去の経験や知識から自分が決め込んだだけです。前提はすべて過去を根拠にしています。しかし、未来のことはわかりません。未来は白紙のままにしておいたらどうでしょうか。別にそれで何も問題はありません。「でも、Kimiさんには、特別の何かが見えているのかもしれないですよね。そうだったら、ごめんなさい。」特に何かが見えている訳ではありません。霊能者でもなければ、超能力者でもありません。基本的に普通の人です。ですから、普通の言葉で誰もが理解できるように書いています。この日記は、宇宙人からのチャネリングや霊界通信ではありません。普通に生きてきて、自分の人生を通して学んだこと、気づいたことを書いているだけです。書くことによって更に気づきながら書いています。ただそれだけのものです。何も特別なものではありません。今のような非苦の人生ではない生き方があるかもしれない。今の人生とは違う自由な人生があるかもしれない。そういうことを提示しているに過ぎません。何の強制も押しつけもありません。ここに書かれていることを実行しなかったら不幸になるとか、三次元の地球に取り残されるとか、そんな脅迫めいたことを言っている訳でもありません。自由選択です。自分の生き方は自分で決めればいいのです。今とは違う生き方もあるということを提示しているに過ぎないのですから・・・どうしてこんな日記を毎日書いているのでしょうか。仕事がない時は、ほとんど日記を書いている感じです。毎日毎日、日記ばかり書いています。今とは違う自由な生き方を提示したいということでしょうか。いずれにしても、この一年は毎日、書いていくでしょう。その後のことはわかりません。でも、きちんと文章化して本にしたいと思っていますので、当分は書いていくことでしょう。気が向かれましたら、これからもお付き合いください。『非苦故に 釈迦は出家し 煩悩を 菩提に転換(かえ)る 真理見出す』『非苦こそが 非苦を超えゆく 道標(みちしるべ) 非苦を理解し 非苦を超えゆく』『欲望も 苦しみ悲しみ 何もかも 味わいきって 超えてゆくのみ』『非苦の世の 非苦を味わい 体験し 非苦を生ききり 非苦を超えゆく』これが453日目の心境です。
2006.03.30
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「452日目 - 非苦を超えて調和へ[1]」の続き次は、ぴあのさんですね。「個々が自由に生き、自分自身を花開かせることはオンリーワンのホームワークで見つめたように、一人一人が自分自身を生きること。そして比較の世界で満たされるのではなく、自分自身が真に内から満たされていること。このことに尽きるのだと思います。それでは、同時に社会全体も調和するには・・・社会全体が上に書いたような意識になれば問題ないと思うのですが・・・そして調和するためには、まず自我があっては調和はできないのではないでしょうか・・・人を、物事を、自我、過去の自分の条件付けで見るとき、どうしても判断が入ってしまい、自分の価値観に左右された意識でそのものの事実を純粋に見ることができなくなります。そういう意識で人や物事を見るとき、大なり小なり対象となる物事、人への不満が何かしら生まれます。一人一人が、自分の真実に目覚め、自分自身を生きることで満たされ、そうして、その意識を自分から社会へ(外へ)向けたとき、満たされた想いそのままに、今度は社会全体を観る。無条件に、比較相対を超えた次元で起こる現象を静かに見ることが大切なのではないでしょうか。そして、自分が自由であるように、社会も自由であることが大事だと思います。意識の世界であれ、現象の世界であれ、制限があるところに調和を生み出すのは難しいと思います。(この自由というのは 無秩序の自由ではありません。あたりまえですが)さらに、個人レベルであれ、社会レベルであれ、お互いを認め合う心、これなくしては調和はまずありえません。調和という言葉をイメージしているとき、まず自分の意識がとても静まり大きな見守りの意識が芽生えてくるのを感じます。個人が、社会が、そのような意識になれば 個々が自由に生き、花開かせ社会全体が調和すること、可能だと思います。」お互いがお互いを認め合えばいい?確かにそのとおりです。しかし、お互いがお互いを認め合うのは、口で言うほど簡単なことではありません。その証拠に、夫婦間でさえ口論や諍(いさか)いが絶えません。それは日常的に見られることです。利害や意見が異なる時、お互いを認め合うのは至難の業です。それが世界の現状です。その結果としての戦争と非苦の現実です。それを超えるには、お互いがお互いを認められない訳を知る必要があります。どうして人はこうも自分と違うものを排除したがるのでしょうか。これもまたホームワークになりそうですが、まあ、やめておきましょう。自分の過去から物事を見ている限り、価値観が異なり意見が異なります。つまり、自我にこだわる限り、諍いの種は尽きないということです。過去を超えて今に生きることができるでしょうか。アラブとイスラエルという幾千年の恩讐を超えて、今に生きることは可能でしょうか。今に生きれれば、平和に生きることは可能です。恩讐はすべて過去。恨み辛みをすべて忘れ、今この瞬間の白紙の状態でスタートできれば、即座に平和は可能です。しかし、それには過去=自我を超える必要があります。自我こそが過去を引きずっているものです。自我こそが過去のこだわりであり、過去の恨み辛みです。自我を超える時、真の調和が生まれるでしょう。それまでは、いくら思い方を変えればいいと主張しても、それもまた自己主張になってしまいます。お互いが自己主張する時、平和はありません。思考で考えて主張している限り、押しつけでしかないのです。それがどんなにすばらしい平和論でも、思考の次元を超えない限り、真の平和はやって来ません。自我が深く深く理解され、それが超えられる時、調和は望まなくても目の前にあります。ハートベースになる時、ハートそのものが調和です。人がハートベースで生きる時、調和以外のものは存在しません。そのためには、自我の理解が不可欠です。思考の次元を深く理解し、思考を自由に使いこなせるようになって、ハートベースへ移行する必要があります。自分自身を深く見つめていくことから自分自身の花が開き、社会の調和の花も開くでしょう。最後は、せきせきさんですね。「オンリーワンの花を咲かせるワークから余り進歩していないことを発見。進んだことだけ書きます。私の中には、残虐性が沢山ある。人が自由になった時、快楽殺人や性的衝動に走る人がいるのでは社会の調和を乱す者が現われると、私は自由になることは躊躇した。ルールは必要だと思った。でも、その楽しみの行為はただの、相対の世界からくる恐怖発信の自己満足だと自分を見つめてわかった。自分の持っているものを手放し始めると、物、心が大切になってきた。人と自分の垣根が低くなってきた。知らない人と知っている人による大切度の違いも、垣根がなくなってきた。肉体さえも、(少し)手放しはじめると、他の人の体も大切に思う、この不思議。個々が自由に生きるということは、周りと調和するために生きるということでない。周りを意識しているということは、私を意識しているということ。『周り』と、『私』を別々に捉えて、関係づけようとしている状態だから、沢山のズレが生まれる。それが今の非苦の世界。『調和』、それは、周りと調和する自分を探すのではなく、自分を深く見つめていった先に出会うもの。それがベースになっていったとき、周りとのトラブルもないだろう。自己主張するとき、お互い同士がぶつかり合うと認識するのは自我、思考の世界にいるときだけ。そこは、判断の世界、それに伴う恐怖、そこからまた作り出される価値観のエンドレスの過去の産物ベース。それはぶつかり合いから守ろうと生まれた世界。相対の世界。平和があって争い。辛さがあって、はじめて感じる幸せ。そのような思考の世界で延々考えていたら社会全体との調和はありえない気がする。 自我の世界は、もの、体、感情、思考、これらを所有する世界であるからぶつかり合わない方がおかしいような・・・。私が調和している時は、世界が調和する。私の内に全てがあるという時だけは・・・。ぶつかり合わない。周りと私の差が生まれない。私が風景のパーツになった感じのような・・・。凸凹がなくなるような・・・。そんな感触がするのですが、まだまだです。自分の花を咲かせる・・それもまだ見つけられませんが、自分の真実に出会う時、その時にわかるのでしょうか?たぶん私にしかわからないですね?オンリーワンの花をさかせることは自分しかわからないものでは?私の深くから溢れてくるもの。外の世界の価値観からではわからないもの。やりたいことはある。福祉関係。でも、まだ自我ベースの気がする。今私の中で福祉という価値観、暴力、貧、死、障害も辞書から段々消えかけているし。自分の内深くに目が向く時、溢れてくるもので自分の花をさかせることができるのでは。手放していき、自分自身が自由になるとき、社会全体は自由になり調和していくのでは。」自分自身が調和される時、自然に周りも調和されていきます。まるで波紋のように調和の輪が広がっていきます。調和とはそういうものでしょう。調和は求めるものではありません。それは結果です。一人一人が調和された結果が、社会の調和です。社会の調和を優先させれば、個人が社会に合わせることになります。社会に合わせて生きることは、自分を花開かせることとは懸け離れています。それでは社会全体が無理をしているだけで、誰も幸せではありません。自分自身が深く理解される時、自我が超えられる時、自己の調和が生まれます。それが社会の調和のベースになります。各人の調和なくして、社会の調和はあり得ません。いくら平和運動をしても、心が平和でなければ平和な社会はやって来ないでしょう。戦争の対極としての平和であれば、平和の次には戦争がやって来るしかないのです。延々とその繰り返しです。それがこれまでの人類史でした。死の対極としての生であれば、輪廻転生のカルマの輪から抜け出ることはできません。戦争があるから平和を望むのであり、死と比較するから生がすばらしいのです。それは相対的な世界です。絶対的な平和や絶対的な生きる喜びではありません。絶対的な平和は、戦争や平和を超えています。戦争や平和があっても、意識の奥は平和そのものです。生や死を静かに見守りながら、意識の奥はやすらぎそのものです。思考の世界は比較の世界。相対の世界です。その次元では絶対の平和はあり得ません。思考を超え、相対を超えなければ、揺るぎない調和は見出せないのです。個人が個だけである間は、社会の調和は望めません。各自が個であると同時に全体の意識にも目覚める必要があるのです。一人一人が個であると同時に全体である時、初めて調和された社会が実現します。色であると同時に空でもある必要があるのです。個別化している色だけでは、調和は実現しません。全体である空でもある時に、初めてすべてが調和します。個であり全体である。それが調和へのキーワードです。そのためには、個オンリーの自我の理解が不可欠です。個であると同時に全体である次元までシフトする必要があるのです。そのための日々の日記であり、日々の見守りです。『何であれ 自分のものと 思うから ありとあらゆる 非苦が生まれる』『喪失が 悲しみ苦しみ つくり出す 人もお金も 地位も名誉も』『所有(もつ)ものが 多くなるほど 喪失の 悲しみ苦しみ 多くなるだけ』『所有(もつ)ことが 自我そのものと 知らないで 溜め込むことで 非苦が生まれる』『欲を出し よりたくさんを 望む時 よりたくさんの 非苦が近寄る』『所有(もっ)ている つもりが実は 奪われる 準備ができて 非苦を待つだけ』『所有(もっ)ている ことが己の 安全と 思い込まされ 非苦の泥沼』『所有(もつ)ことが 非苦の源 奪われる 喪失感が 非苦を生み出す』『自我がある 限りは続く 非苦の道 所有するから 奪われるだけ』『奪われて 嘆き悲しむ 非苦の海 自我そのものが 非苦の人生』『流れゆく ものに棹(さお)さし 手に所有(もて)ば いつか必ず 奪われるはず』『所有(もつ)ことが 苦しみ悲しみ 引き寄せる 何も持たねば 楽に生きれる』『所有(もつ)ものが 何もなければ 奪われて 嘆き悲しむ こともまたなし』『何ものも 持たずに生きる 生き方が 非苦の世界を 超える生き方』『個であると 同時に全体(すべて)で ある時に 永久(とわ)の調和が 現れてくる』これが452日目の心境です。
2006.03.29
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屋久島は、昨夜から激しい風が吹き荒れている。朝になって、だいぶ静かになっけれども、まだ時折突風が吹く。天気自体は晴れていて、山は鮮やか。しかし、海はシケ。気温は低い。今日は新月。新しい始まり。今回はどんなサイクルが始まるのだろうか・・・ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「個々が自由に生き、自分自身を花開かせる。同時に、社会全体も調和する。そういうことは可能だろうか。それにはどうしたらいいのだろうか。」では、みみとみさんからです。「まず、“悲苦”を持っていることは悪い事でしょうか?ところで、善悪とは、なんでしょうか。もし、人間がいなくても、善悪ってあるのでしょうか?そう、善悪とは人間の思想の中だけに存在していて、絶対的なものではないのです。道徳と言われるもの、『人を傷つけない。』『人の命を奪わない。』無言の掟と言われるものは大切だと思います。その他は、ところ変わればという性質があり、どんなに本を読んでも、どんなに多くの人に聞いても、答えは定まりません。正しいことって、少ないのです。協調性があれば、独創性がない。人に合わせて意見を言わなければ、本音がわからず、本当には仲良く慣れなかったりする。このように、何が正しいという基準はあいまいで、全ては表裏なのです。だから、多様の価値観があることを認め、それを楽しむ余裕が必要だと思います。生けるものは、いつかは死す。そして、死というものは、悲しみや苦しみです。でも、それがあるから生きているのが尊いのだと思います。私は、花を見て『綺麗だね。』『うん、綺麗だね。』と言うような、一種の儚さ切なさ、好きです。そういう儚さ切なさがあるからこそ、生が活き活きと光るのです。だから、病気であと何年の命と宣告されると、急に周りのものが光り始め、『また桜が見れてよかった!!』と感動している映像を見たことがある気がします。挫折したときや病気になったとき、年をとって思うようにいかなくなったとき、自分の無力さに気づきます。そうすると、人間は悟るようです。全てのものに感謝できるようになるのです。自分の無力さに気づかず、全てをコントロールしようとするとき、それは、ニセモノの“悲苦”を生み出し、戦争に発展したりするのだと思います。もし、生死を見つめ、地球の歴史から見れば、一瞬のうちに出会った尊い命だと思えれば、そんなことはできないのだと思います。」非苦は、悪いことではありませんね。もちろん、良いことでもない。特に善悪はありません。ただの事実です。確かに、善悪は思考の中にだけ存在するものです。動物や赤ちゃんは持っていません。幼児は周りから躾(しつけ)られて、徐々に善悪観を持つようになります。道徳も似たようなものです。「人を傷つけない」や「人の命を奪わない」も、時代や場所によって異なります。「目には目を、歯には歯を」という世界もあります。仇討ちが美徳だった時代は、まだ200~300年前です。「無言の掟」などというものはありません。みんな誰かが決めたものです。ニセモノの非苦やホンモノの非苦があるのでしょうか。すべてを自分の思うようにしたい=コントロールしたい時に生まれる非苦はニセモノ?死に際しての悲しみや苦しみはホンモノ?自分の思うようにならない時、悲しみや苦しみがあります。死にたくないのに死が避けられない時、悲しみや苦しみがあります。どこが違うのでしょうか。死を身近に見る時も、悲しみや苦しみがあるとは限りません。テロリストは敵の死を喜ぶでしょう。テロリストに限らず、戦争中は敵の死を国民は喜ぶものです。「死というものは、悲しみや苦しみです。」というのも、もしかすると思い込みかもしれませんね。身内の死と赤の他人の死では、出て来る思いがまるで違います。家族の死と敵の死では、湧き出す思いはまったく逆です。死は必ずしもホンモノの非苦とは言えないようです。非苦は思いです。思い込みから生まれるものに過ぎません。餓死、戦死、交通事故死、病死、殺人、自殺・・・死はいくらでもありますが、自分から遠くなるに連れて非苦の感情は薄くなります。それはホンモノの非苦というようなものではなく、喪失感です。自分が持っていたものをなくした悲しみと苦しみです。それは人に限りません。地位や名誉や財産や金銭・・・自尊心やプライドやアイデンティティ・・・自分のものだと思っていたものをなくした時、悲しみや苦しみが生まれます。非苦とは、思い込みから来る喪失感に他なりません。確かに正しいという統一基準はありません。多様の価値観があるだけです。それを認め、楽しむ余裕?余裕がある人はいいのですが、圧倒的大多数はその余裕がありません。それがありのままの現実です。餓死しそうな人に多様な価値観を楽しむ余裕はないでしょう。裕福な人でさえ、多様な価値観を認めません。世界で一番裕福なアメリカは、アフガンやイラクの価値観を認めませんでした。それが世界中で起きていることです。みんなが多様な価値観を認めれば、平和になるかもしれません。でも、現実はそうではありません。餓死しそうな人を前にして、裕福な人が多様な価値観を認めろと言う方に無理があるでしょう。その前にやるべきことがあるのではないでしょうか。死があるから生きているのが尊い?儚(はかな)さや切なさがあるから、花は美しい?余命いくばくもないことを知って、すべてに感謝できるようになる?確かにそういう側面はありますね。生老病死によって自分の無力さに気づく?地球の歴史から見れば一瞬のうちに出会った尊い命だと思えれば、そんなことはできない?確かにそういうふうにも言えますね。でも、それだけで「個々が自由に生き、自分自身を花開かせ、同時に社会全体も調和する」というふうになるでしょうか。それはかなり難しいでしょう。なぜなら、それはまだ思いの世界だからです。花が枯れたり散ったりするのを見て、虚しく思う人もいるでしょう。余命いくばくもないことを知って、やけっぱちになる人もいます。感謝ではなく、世を恨み神を呪う人もいることでしょう。自分の無力さを知り、絶望の淵に沈む人も珍しくありません。最悪のパターンとして、自殺する人も数え切れないくらいいます。そういう人に、どうやって地球の歴史から見れば一瞬のうちに出会った尊い命だと伝えるのですか。どうやってそのように思ってもらうのですか。みんながみんなそのように思うとは限りません。思いの世界は、それこそ多様です。多様の価値観があることを認めるのであれば、虚無感や自殺も認めるしかありません。テロリストたちの価値観も認めるしかないでしょう。それによって社会全体が調和するでしょうか。思いの世界=自我の世界をもっと深く、根底的に見つめる必要があるのではないでしょうか。思い方を変えるだけでは、根本的な解決にはならないでしょう。それはあらゆる宗教や道徳が、これまでさんざん言ってきたことです。それによって世界は変わったでしょうか。アラブやイスラエルの人に、多様な価値観を認め楽しむ余裕を持ちましょうと言っても何の説得力もないでしょう。世界中のテロリストたちに、地球の歴史から見れば一瞬のうちに出会った尊い命だと言っても、誰が聞くでしょうか。思いの世界では価値観は異なります。統一するのは無理です。なぜなら、それぞれが自分の人生経験に裏打ちされた価値観を持っているからです。それは時代や場所によって異なります。これまでの価値観を超えるしかないでしょう。価値観という思いの世界を超える。個として存在する自我の世界にあっては、社会の調和はそれこそ儚い夢です。深く深く思いの次元=自我の世界を理解するしかないでしょう。次は、えっちゃんですね。「個が自分の回りにフェンスを張って個を主張しても個は自滅しかねない。フェンスを取っ払い、個である私が個を所有せず、のびやかに生きることが、周りとの摩擦もなく、更に、周りのフェンスを無力なものと出来る。私の職場での今日、その事を少し実践できたように思う。自分のフェンスを取り払うだけで、自分も自由に動ける、そして相手も自由にやってくる。相手のフェンスはどうでもいい。ただ、こちらのフェンスを取り払うだけで相手がやってくる。来る限りは、相手もフェンスの木戸位は開けただろう。自分の庭をもっとフリーな井戸端にできればいいな。相手がもっと気楽にやって来れるように・・・」実践に裏打ちされて、説得力がありますね。恐れから来る自分の周りのフェンスを取り払う?垣根がなくなれば、風通しがよくなります。でも、その分、プライバシーは守れなくなります。ずかずかと土足で家の中に入り込む人がいるかもしれません。それでも大丈夫ですか。バリヤーなしで生きれますか。何を守ろうとして人はバリヤーを張っているのでしょうね。自分?これ以上傷つかないように?守ろうとしている自分とは何でしょう?その辺りを深く理解しないことにはバリアーは外れないでしょう。バリアーが外れない限り、自由に自分の花を咲かせることはできません。社会が真に調和することも望めません。自分が守ろうとしているものは何でしょう?これは次のホームワークにしましょうか。締切は、4月1日午前9時。BBSに書き込んでください。参加は自由です。451日目の「ホームワーク」をよく読んで、自分自身を見つめてカキコしてくださいね。よろしくお願いします。「452日目 - 非苦を超えて調和へ[2]」へ続く
2006.03.29
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屋久島は、春の陽気が続いている。美しく晴れ上がって気持ちがいい。風が少しある。ホームワークで大切なことは、自分自身を見つめること。自分の心の動きを見つめ、自分の意識構造を理解する。自分自身に気づく・・・自分自身を理解するのが一番難しい。たぶん、何よりも難しい。目は外に向いている。自分を見るようにはできていない。意識も自分に気づくようにはできていない。常に外に向いている。動物は周りに注意を払っている。自分を見守っている動物などはいない。五感は自分を守るようにできている。生命を維持するのに最も相応しいようにつくられている。動物レベルでは、自分を理解するということはあり得ない。人間になって、初めて自己を意識する。それが思春期に芽生える自意識。「私」という感覚。しかし、それは自我。過去の記憶の総体。自分が自分と思い込んでいる自画像。それは実体のあるものではなく、イメージに過ぎない。そこまでは現在の人類の誰もが到達している。しかし、そこから先は大多数の人にとって、まだ未開の大地。それを切り開こうとしているのが、この日記。そして、ホームワーク。だから、ホームワークは自説を主張したり、意見を述べたりするスペースではない。自分自身を理解する場。自分自身を見つめ、思い込みに気づく場。生まれて成長する過程で、無数の思い込みが知らない間にインプットされている。それらに気づかないことには、いつまでも同じパターンの繰り返し。思い込みとは、無意識。意識化されれば、もう思い込みではない。意識してやっていることは、自分で変更できる。でも、無意識のままにやっていることは、意識的に変えることはできない。自分が延々と同じパターンを繰り返していることに気づかない。自分の中にある思い癖、行動のパターンに気づけない。自分をわかることは、ことのほか難しい。そのために、わざわざホームワークが設定されている。自分自身を見つめ、気づき、意識化し、文章化する。それによって明確に自分を理解することができる。そのための一つの方法。これまでの人類史は、自我の歴史。自我による自己主張と、その結果としての争いの歴史。でも、もうそれは終わる。新しい時代が始まる。その新しい時代を切り開くきっかけとして、この日記は存在する。縁のある人が日記やホームページを通して目覚めることが、この日記の存在意義。目覚めるとは、自我の眠りから覚めること。自我に安住し、自我の生を送ってきたのを改めること。自我を超えたまったく新しい生を始めること。そのためのきっかけ。別に使命感や特別な意識があってやっているわけではない。ただそのつもりで生まれてきたというだけのこと。人類史が切り替わる時代に生を受け、新しいページの第一歩を踏む。それをみんなと一緒にやりたい。共に新しい時代へ向かってシフトしたい。そういうプログラムで生まれてきている。それをこの世で実行しているだけ。たぶん、今この日記を読んでいる人も、多少なりともこの日記と関わることを自分でセットしてきたのだろう。お互いにプログラムして、今出会っている。その縁を大切にして、自分自身を理解していこう。自分自身を理解し、自我を超えていく。それがこの日記の存在意義。それは極めて明確。だから、そういうことを理解した上で、この日記を読んでほしい。読むことは強制ではなく、自由意志。読む読まないは自分で決めればいい。何の強制も特典もない。同様にホームワークも、そういう方向性の上でやってほしい。自分自身を理解する。結果として、自我をクリアーする。その流れの上で、ホームワークに取り組んでほしい。自分の意見を述べたり、自分の考えを展開しても、何の意味もない。それは自我の次元。それではホームワークをやる意味がまったくない。あくまで自分自身に気づく、自分自身を理解するという方向でやってほしい。他の人ではなく自分自身にフォーカスしてほしい。それ以外に自我を超える方法を知らない。現時点で、こちらで提供できるのはそれだけ。結果は後からついてくる。大切なのは結果ではなく、プロセス。プロセスの中にキーが隠されている。自分自身を見守ることそのものの中に、計り知れないものが含まれている。だから、自分自身を見守ってほしい。日々、見守りに始まり見守りに終わるぐらいの気持で取り組んでほしい。それがこちらの希望。あくまで希望なので、実行するかどうかは自分で決めればいい。『人類の 非苦の歴史を 見守れば 自分自身の 歴史そのもの』『人類の 非苦の歴史の 源は 自分自身の 内にあるもの』『人類の 意識の闇に 光当て 自我の構造 明らかにする』『明確に 理解されれば 人類の 意識が変わる シフトが起きる』『果てしない 永久(とわ)の意識の 彼方から 人類(ひと)の意識の 推移見守る』『真実が 心に灯る 新しき 時代のために 今ここにある』これが451日目の心境です。
2006.03.28
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今日の屋久島は、晴れて暖かい。春そのもの。春の花があちこちに見られるようになってきた。色の世界は豊かだ。ありとあらゆるものが存在している。バリエーションと変化に溢れている。悲しみや苦しみもあるけれども、喜びや楽しみもある。争いや憎しみもあるけれども、慈しみや愛もある。個性があり、創造があり、進化がある。宇宙の中で無数の生きとし生けるものが生を謳歌している。それはすばらしいとしか言いようがない。総論としてはすばらしい。しかし、個々に見ると、非苦の人生を生きている人が多い。多くの個があるが故に、バラエティに富み豊かなのは確かだ。しかし、各個が自己主張する時、お互いどうしぶつかり合っているのも、また確かだ。 個性を花開かせることはすばらしい。しかし、個性をお互いが主張しすぎると混乱の巷と化す。それが現実の社会だ。個々が自由に生き、自分自身を花開かせる。同時に、社会全体も調和する。そういうことは可能だろうか。それにはどうしたらいいのだろうか。これはホームワークにしよう。締切は、3月29日午前9時。BBSに記入してください。参加は自由。但し、自分の言葉で具体的に記入してください。抽象的では読む人は理解できません。読む人が理解できるように書いてください。『春の花 気づいてみれば あちこちに 春を楽しみ 祝うが如く』『お互いが 我を張り合えば お互いに 傷つけ合って 非苦の人生』『豊かさを 互いに楽しみ 喜んで 心豊かに 平和に暮らす』これが450日目の心境です。
2006.03.27
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一日中、小雨が降っていた。雨になると、まだ肌寒い。不思議なことに、お釈迦様もイエス・キリストも、ほとんど何も所有していなかった。着の身着のままで諸国を歩いた。そして、旅の空の下で亡くなった。お釈迦様は80歳の長寿を全うし、イエス・キリストは30代半ばでこの世を去った。悟ったと言われるような人は、この世のものをほとんど所有していない。ある時、お釈迦様は、この世の富と権力のすべてと、悟りのどちらを選ぶかの選択を迫られた。お釈迦様は、悟りの方を選んだ。もし、この世の富と権力の方を選んでいれば、今頃名前は残っていなかったかもしれない。あるいは、アレクサンダー大王のような感じで残っていただろうか。いずれにしても、今のように多くの人に影響を与えることはなかっただろう。悟ると、どうして富や権力を所有したいと思わないのだろうか。それらはこの世限りのもの、移ろいゆくものだと知っているからだろうか。富や権力に執着すれば、心のやすらぎは得られないとわかっているからだろうか。それとも、悟ればそういうものには興味が失せてしまうのだろうか。無常のものを留めようとして、所有する。流れゆくものを押し留めようとして、所有する。流れに棹さしてまで、自分のものにしておこうとする。それが所有だ。楽しかったことも、嬉しかったことも、自慢できることも、すべて過ぎゆく。富も権力も、名誉も地位も、すべて移り変わる。恋も愛も変わらぬものはない。しかし、それをいつまでも維持しようとする。そこから苦しみが始まる。移り変わるものを保持しようとすれば、流れに棹さすことになる。流れに棹させば、苦しみという抵抗が生まれる。所有することは、苦しみの始まりに他ならない。流れのままに、すべてを生かして使う。流す。回転させる。そうすれば、そんなに所有する必要はない。所有すればするほど、抵抗が増す。余分なものが多ければ多いほど、自由に生きることが妨げられる。お金がいくらあっても、使える額は限られている。いくらたくさんの物を持っていても、日常で役に立つ物はほんの少しだ。知識が多ければ、知識に溺れる。記憶が多ければ、過去に生きることになる。過去の栄光は、今に生きることを妨げる。すべてを生かして使えば、所有するものはそれほど必要ではない。たくさん所有したいと思うのは、所有することによって自分の安全が確保されると思うからだろうか。所有物に囲まれて生きることによって、安心するからだろうか。それが自分の拠り所となるのだろうか。実は、所有しているもの=自分だろうか。物も知識も生かして使う。肉体も感覚も感情も思考も、すべて生かして使う。それらに使われないで、使いこなす。個性でさえ、生かして使う。個性=自分だけれども、それさえも所有しない。所有すれば固まってしまう。固まれば死んでしまう。すべてを生かして使う。生かして使うためには所有しないこと。所有することは固定させること。つまり、死なせること。生きているものを所有することはできない。所有できるのは死んだものだけ。生きているとは、変化。刻々に変化しているものを所有することはできない。所有することができるのは、死んだものだけ。過去だけが所有できる。もう動かないもの。死んだものだけが所有できる。所有すれば、その時点で止まってしまう。流れがストップしてしまう。宇宙の流れが滞る。必要最小限のものを所有すればいい。所有しすぎると生命力が落ちる。死に近づく。生とは変化。いきいきと生きている時は、過去に拘泥(こうでい)していない。今を生きている時に、人はいきいきとする。何も所有していない時、人はいきいきと生きられる。所有物が多ければ多いほど、生のスピードは遅くなる。物や記憶に縛られ、波動は否が応でも落ちる。何も持っていない時、波動は最も速くなる。抵抗がないから。流れに棹さすものがないから。所有とは固定。過去。死んだもの。死蔵物が多ければ多いほど、人は死に近づく。赤ちゃんは何も持っていない。歳を取るに従って所有物が増える。動きが不活発になり、やがて死ぬ。所有という死蔵物に囲まれると、やがて身動きできなくなって死ぬしかなくなる。歳を取ると肉体には老廃物が蓄積され、それが死を招く。必要以上のものを体内に所有すれば、健全に生きることはできない。健康とは新陳代謝が活発なこと。いかにすべてが流れているか。変化しているか。滞れば病気になる。固定すれば死んでしまう。所有は健康を意味しない。物質的にも肉体的にも精神的にも、所有することによって、所有したものに所有される。所有したつもりが逆に所有される。今を生きるとは、死蔵物を持たないこと。今この瞬間を空っぽで生きること。その時、人は真に自由になる。何もない時、人は自由に生きられる。何もない時、人は何の抵抗も感じない。抵抗があるということは、肉体的に言えば病気。精神的にも同じことが言える。所有=自我=抵抗=病気。抵抗があるところに摩擦が起きる。物質的にも肉体的にも精神的にも・・・抵抗があれば、健全なバランスは崩れ去る。もっとも、すべての所有がいけないと言っているわけではない。今年のNHKの大河ドラマ「功名が辻」の原作者である司馬遼太郎は、2万冊の蔵書があったという。しかし、彼はそれらを駆使して数多くの小説をものにした。つまり、彼はそれらの本を生かして使ったのだ。生かして使えば、いくら所有しても何も問題はない。死蔵することが、心身共に死を招く。いくら食べても、体を動かして排泄すれば蓄積はされない。食べてばかりで動かなければ病気になってしまう。必要であれば、いくら所有してもいい。生かして使えるのであれば、いくらでも所有すればいい。すべてを生かして使う。重要なのは、ただそれだけ。所有しているものに囚われ、逆に所有されなければいいのだ。使いこなせれば、所有の多寡(たか)は問題ではない。すべてのものを生かして使う。所有しないで生かして使う。執着しないで、どんどん流す。滞らせない。宇宙の流れ、自然の流れを尊重する。自分の中の物の流れ、体の流れ、心の流れを尊重する。すべてを流す。現象に囚われない。すべてを流して活用する。何も所有しない時、意識は限りなく広がり、すべてと溶け合う。『現世(うつしよ)の 小さきものを 所有して 小さきものに 成り果てる我』『生きている 今を生きずに 死んでいる 過去を所有し 過去にこだわる』『所有する ものが増えれば 増えるほど 身動き取れず 生きる屍(しかばね)』『何ものも 手に持つものが ない時に 今をそのまま 体験できる』『物質も 体も心も 何もかも 回転させて 生かして使う』『今に居て 過去も未来も そのままに 意識の隅に 置いておくだけ』『今ここに 過去も未来も 現在も 森羅万象 抱き参らせ』『今ここの 意識の広がり 限りなく 何も所有(もた)ずに すべてと溶け合う』これが449日目の心境です。* 一日だけ抜けていた445日目をアップしました。 445日目 - 瞑想とは
2006.03.26
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「価値観[1]」の続き次は、小犬のロンさんですね。「様々な価値観が、わたしが生きる世界の光景を創り上げているのだと思います。意識できるものも意識できないものも含めて。わたしが『これが世界だ、世界そのものだ』と思っているのは、実は単なる『世界観』だったりします。kimiさんの言葉では、それが『思い込みワールド』でしょうか。それに気づかせてくれるのは、日々の行いの中で、何がしかの『価値観』が解けた時です。一つ一つ、一枚一枚、たまねぎの皮が剥けるように剥がれていきます。そのたびに、世界が違って見えてくる。何やら、ちょこっとだけど煌き始めるのです。その連続のわたしの歩みです。だいたいが、躓きから、間違いから、学んで歩む小犬のロンでした。(二回目の回答)わたしにとって、この一週間は、激動の毎日でした。長いブランクから戻ったばかりのわたくしでしたが、数々の色んな方々の、もごとの、お導きにより、幼子のように、嬉々として目の前の瞬間瞬間に向き合い生活を送りました。『大人になってなくしたもの』のワークには間に合わず、しかしみなさんそれぞれののワークに学びながら、心は既に小躍りしていました。やっとのことで、『記憶』のワークに初チャレンジ。思いの外、そこでは素晴らしい気付きとヒントをいただきました。そして、振り返り、『価値観なしで生きられるか』のワークが、並行して与えられていたことを知りました。ぴあのさんのお達しで。わたしが取り組めなかった、『大人になってなくしたもの』『幼子』のワークから生れた二つのワーク。運よくも、絶妙なタイミングでわたしは向き合うことが出来ました。振り返ってみると、『子供のように生きる』『今の瞬間瞬間に生きる』のワークに、混同するほどに何度も回帰していました。『価値観なしで生きることは可能か』。わたしは、日々の生活の中で、目の前の事象に向き合うことで、そのワークに取り組んでいました。何度も躓き、『あれー、とほほ』と言いながらも、何度もそのたび戻って来ていました。 瞬間瞬間の今に向き合い生きていくことが、価値基準の判断にとらわれず、嬉々として生きていくことにつながっていることを、身をもって体験した一週間でした。おかげで、気も心もくたくたになり、身体もずいぶんくたびれてしまいましたが、貴重な体験でした。いつもなら、焦って昨夜、夜更かしをしてでも、ワークの報告を書くところでしたが、もうくたくたで布団にもぐりこみました。すると今朝、ステキな夢と共にすがすがしい朝を迎えていました。ちょうど6時のことでした。そしてここへ参り、姉さんのワークに感動しつつも、自分の回答に取り組みました。久々に、流れるように言葉が出て来ております。抽象ごとで、具体の少ない回答となりましたが、今日は先ず、これくらいで。個々の事象を挙げると、切りがなくなってしまいそうで。。。えっ?答えになっていない?ああそうそう、『わたしには価値基準なしで生きること』は可能でした。それは思わぬ僥倖で、嬉々として今に生き、童心に回帰する体験でした。とても深きところで、魂が快感を覚えています。~あー、気持ち良かった~。このめぐり合わせに感謝いたします。ありがとうございました。ではまた、日々の現実、日常生活の冒険に戻ります。」気づきの世界は、タマネギの皮剥(む)きに似ています。剥いても剥いても出て来る。気づくほどに涙も出てくる。どんどん剥いていくと・・・何もなくなってしまう?皮とは、価値観であり思い込みです。それらのものに気づいて外していくと、自由になり楽になっていきます。しかし、皮は厚く、何層にも何層にもなっています。あまりにも厚くて、いったいどれくらいあるのかわかりません。どんどん剥いていくと、最後には何も残りません。タマネギとは、自我です。皮は価値観や思い込みです。それらに気づき、外していくと・・・自我は消えてしまいます。なぜなら、元々ないものですから。単なる思い込みです。自我は、思考によって創られた架空の存在です。イメージという幻です。価値観も思考が創った思い込みワールドのパーツです。自我を構成している主要部品です。まるで自動車みたい?自動車はいろんな部品を組み合わせて造ります。しかし、その部品を一つずつ外していくと、自動車の形は消えます。あるのは部品だけ。そう、個々の価値観や思い込みがあるだけです。人間の体も分子や原子からできています。分解すれば何も残りません。色の世界のものは、すべてそうです。あるようでない・・・確固として存在しているようで、なんとなくあやふや・・・色の世界は、空の世界の一時(ひととき)の現れ。あると言えばある、ないと言えばない・・・価値観は思考が創り上げているものです。思考の次元にのみ存在します。それは人が思考の次元で生きる時の支えです。しかし、思考の次元を超えれば、無用の長物となります。小犬のロンさんにとって、貴重な一週間の体験だったようですね。まあ、肩の力を抜いて、これからも楽しんでください。瞬間瞬間が煌めくように・・・次は、ぴあのさんですね。「ここ一週間、自分を注意深く見つめながら生活していましたが、特に、価値観らしき価値観はありませんでした。日々、目にするもの、感じるものに、価値観を付加しようとすればいくらでもできますが、物事をただストレートに見、ただストレートに受け止め感受すれば、そこには何の価値判断もありません。その物事、現象が ただあるだけ です。正邪も善悪も優劣も、私の意識の片隅に両者区別されたものとしてあることはありますが、そこに、何かの判断も わざわざの比較もしません。良いも悪いも、美しいも醜いも、そのままを受け取ります。そして、それらは、主観的なものであるため、いつどのように良いが悪いに、美しいが醜いに変化するかもしれません。そうしたら、そのときにまた、それらをそのまま受け取り、感じるだけです。過去の記憶や思考から自由になって物事に接するとき、見るとき、価値観 という条件づけられたものからも自由になれると思います。事実を 曇りのない意識でストレートに見て、ただ純粋に感じるとき、価値観というものの入る領域はないように思います。よって、価値観なしで生きることは可能 だと思います。」思考の世界から離れ、思い込みワールドを見守りながら生きれば、価値観に振り回されないということでしょうか。時間を要しない道は、それしかありません。一つ一つ気づいていって、タマネギの皮がみんな剥けるまでは自由ではない?それをやり出すと時間がかかります。永遠に終わらないかもしれません。それは時間の道です。つまり、思考の次元。それをやっている限り、不自由とも言えます。一気に思考の次元を飛び超えて、見守りの次元へワープするしかありません。そうすれば、潜在していた価値観が出てきても、それに振り回されずに生きることができます。一瞬、心が動揺したり、揺らいだりするかもしれません。しかし、次の瞬間、あるいは同時に、それに気づき、その動揺を見守ります。動揺そのものにならなければ、自分を見失うことはありません。意識が動揺の方にあるか、見守りの方にあるか、それがポイントです。色の世界を生きるとは、両方にあるという感じでしょうか。見守りつつ、価値観や囚われや思い込みを外していくのですね。それらがあるのは事実。事実は否定しないで認める。でも、それらに縛られない。出てきた時に、手放す。気づいた時に、離れる。現れてくる価値観や囚われや思い込みにこだわらなければ、即座の自由が可能です。 それは相対的な自由ではなく、絶対的な自由です。気づくことによって、だんだんと楽になる相対的な自由ではありません。気づく・気づかないにかかわらず、すべてを見守る絶対的な自由です。片足を色の相対の世界に置き、残りの片方を空の絶対的な自由の領域に置きます。今を生きるとは、そういうことではないでしょうか。自分の中に潜在する価値観や思い込みに気づきつつ、すべてを見守りながら生きてくださいね。最後は、えっちゃんですね。「価値観を把握できなくて、結局把握できない答えを遅ればせながら提出します。何処まで価値判断というのでしょう?好き嫌い、気分、記憶、感性・・・感動にいたっては、私に染み付いた価値観が、自分の内側から湧き出てくる・・・幼児は、価値観を持たないとしても、判断基準も価値観内とすると、危険度もキャッチ出来ず、道路にふらふら飛び出し、小さな川にでも溺れる・・・価値観がイマイチ確定できなくてこのホームワークは難しい。けれど、感動すら価値観で湧き出るとしたら、私は価値観なしはいられないし、断基準も含まれるとしたら、一歩も歩けないし、思考は物差しを失くしてさまよう・・・。」思い込みから感情が生まれたり、感動が生まれたりすることもあります。同じ価値観の人と意気投合するとか。一緒にいて楽しいとか。でも、逆の場合は悲惨ですね。ことごとく対立してしまいます。それが人間ドラマですね。えっちゃんが日々演じている世界です。その世界は悲喜交々(こもごも)。まさにこれまでの人類史そのものです。ハイ、これまで通りの人生を選択しますか。それは戦争と悲惨の歴史です。ハー、平和主義者の辛いところですね。思考の世界で、いくら平和を叫んでも、平和はやって来ません。なぜなら、個々の価値観が異なるからです。異なるところでは、必ず争いが生じます。自己を主張し、相手を認めなければ、残るのは争いしかありません。平和という価値観で統一できる?ところが、方法論で争うのですね。それがこれまでの平和運動の歴史でした。思考の世界の平和は、相対的な平和です。戦争があっての平和。戦争に反対するが故の平和。自分や身内の命が惜しいがための平和です。自分を守るために戦争するのと、そんなに違いません。ベースが自己保存である限り、真の平和は訪れないでしょう。心が平和でないと・・・心の結果の平和でないと・・・平和が目的の間は、平和は訪れないでしょう。心が平和であれば、世界は平和になるしかありません。平和を求めている間は、心は平和ではないということです。平和は求めるものではなくて、自分の中に実現するものです。心の中に平和が存在すれば、その結果として自然に世界の平和が実現するでしょう。価値観の世界を抜け、思考の次元を抜けないことには、平和は遠いでしょう。自分の中にある価値観を、ゆっくり見守ってみるといいでしょう。具体的に一つ一つチェックしてみるといいでしょう。それが自分を構成しています。それによって自分が左右されています。自分の元を理解した方がいいのではありませんか。理解しない限りは、それらに振り回されるのですから・・・思考の次元を超え、ハートベースになる時に、真の平和が訪れるでしょう。『価値観は 思考の世界の 思い込み 思いの中で 生きているだけ』『価値観が 認められれば 嬉しくて 認められねば 嘆き悲しむ』『価値観が 喜び悲しみ 創り出す ものの見方で コロコロ変わる』『価値観が なければ評価も あり得ない 正邪・善悪 優劣もなし』『価値観が 違えば互いに 反目し 争い合うのが 人類の歴史』『価値観が 自分そのもの 価値観を ベースに生きる 思い込み世界』『価値観で 世界を判断 解釈し 自分本位に 順番付ける』『思い超え 思考を超えて 価値超えて 行き着く先は 見守りワールド』『人類の 真の平和を 望むなら ハートベースに 変わるしかない』これが448日目の心境です。
2006.03.25
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今日の屋久島は、家にいるのがもったいないような天気。春の芽吹きが日毎に広がる山が恋しい・・・ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「価値観なしで生きることは可能でしょうか。可能、不可能という回答ではなくて、もう少し詳しく回答してくださいね。実際に一週間ぐらい価値観なしの暮らしをしてみるといいでしょう。それが可能だったか、不可能だったか、どういう問題点があったか・・・無条件に自分が持っている価値観に気づいてください。具体的に自分が持っていた価値観を書き出してみるのもいいでしょう。無意識の価値観は、たーくさんありそうですね。一週間、じっくり自分を見つめてみてください。自分の中にどんな価値観が眠っているか・・・」最初は、せきせきさんですね。「価値観とは、必要でないものと必要なものを分けてしまう判断。ゴミとゴミでないものをわけてしまう、役立つものと役立たないものをわけてしまうシステム作り。私は、思い込みに気がついてきたら、価値観が少なくなっていたように思う。今まであった価値観は、『地球は大切にしなければ』『病人と弱者は大切に』『人を責めてはいけない』等、おぉまるで道徳の時間のようです。結果として、自分の家にゴミを捨てていく人に腹立ち、責められることに怯え、大切にされないと嘆き、病気で休めないことに苛立ち。価値観以外になることが、不幸であり、悪であり、敵であり、恐怖になる。この2日で気づいた価値観は『人を愛さなければいけない』であった。私は愛されなかったから、人を絶対愛したいと。孤独からの価値観。押し付けの愛であり、愛の見返りがない人には絶望。介入していた。結果として、子供時代の自分のなりたくなかった姿を延々再体験。自分から孤独を作りだしていた。高校の時、元々髪の色が茶色な私は、不良といわれ、先生に墨汁で染められたことがある。(私にとっては元々笑い話。復讐も車にアイドルシール貼りまくったし。暗すぎ?今なら現象を愛でるのだけど・・・)『黒』に染めないと、即退学。私の過去のことを持ち出されて、『最低な生徒』だと。不思議だな~と思った。茶色の髪は私の地毛をわざわざ黒に染める?不良?それで過去とくっついちゃう?時は過ぎ、今は茶髪だらけではないか。巡りめぐって今度は黒髪の時代の兆しもありそうだし。高校時代の友達は、高校時は『せきせき不良~』と言い、7年前位に会った時は『黒髪ださい。大人しすぎ』と言った(笑)私は一度もカラーリングはしていないし、同じなのですが・・・。価値観なんてそんなもの時代によって切腹が美徳であったり、自殺が弱虫だったり、キュロットがおしゃれであったり、ださかったり、相対である光と闇を経験して、転生しているのと同じ?被害者であったり、加害者であったりする世界と同じ。ゴミを捨てていく人を作り出す世の中に参加しているのと同じ。今はすべてそれらを優しく見ている。ありがとう、と。価値観がいらない世界から、ただ包んでいる。価値観は私にとって、なくてよいもの。でも、別に他の人があっても自由。他の人も価値観なくさないと、それは真理?ではないのよ!って思ってしまったときから、価値観を作り出してしまう。自分からまた非苦想念に埋没していく。kimiさんのサイトが価値のあるものと捉えたら、kimiさんのサイトが全体になってしまう。気づきと学びでさえ、それを前提に、天国と地獄を作り出す。kimiさんのおっしゃっていることは『正しいこと』『間違っている』それに縛られ色眼鏡により、正しい中にいる自分に安心したり、人を当てはめようとしたり、自分自身が日記で、引っかかる言葉自体を、kimiさんの間違いだと勘違いする。本当は自分の思いこみに引っかかっているだけなのですが。←私パターン。懺悔(懺悔によりせきせき自己満足)価値観自体を信じ込まない。それを越えて包む。自分の外に出さない。自分の内にある状態。そのような状態な時は、価値観ありません。余分ですが、色という現象を愛でているとき、もうその色は空であり、色であるような気になりますが。分離オンリーシステムの中で埋没した世界、分離分離分離・・・これが非苦の世界の原因?」価値観とは、観念。思考が創り出した思い込み。それは正邪・善悪の判断基準であり、自分が生きる指針。人は自分の価値観に従って生きています。それは自分の経験から生まれたものもあれば、知らない間に周りの影響で身につけてしまったものもあります。価値観は成長するにつれて変わり、社会や時代と共に変化します。現代の価値観があり、日本の価値観があり、個人の価値観があります。経済優先という価値観があり、親切という価値観があり、自己の成長という価値観があります。それは地球規模の思い込みであり、日本全体の思い込みであり、各個人の思い込みです。思い込み体系としての有形・無形の価値観があります。道徳も宗教も家訓も社訓も校則も法律も、人にとっては価値観となります。お金も財産も人生論も小説も漫画も価値観となります。ありとあらゆるものが思い込まれることによって価値観となります。せきせきさんは、価値観の世界から抜け出られたようですね。価値観に従っては生きていないようです。まだ自分でも気づかない価値観が潜在しているかもしれませんが、それも包み込んで見守っていけば問題はないでしょう。価値観とは、信念体系。言葉の体系です。見守ることは、信念体系でも言葉でもありません。実際のエネルギー状態です。価値観は思考の次元。思考が創り出す世界。思い込みワールドです。その世界を抜けた時に、価値観は無用のものとなります。次は、藍&aiさんですね。「自分の持っている価値観について考えていくと、それはほとんどが自分自身が感じていだいたものではないことに気がついて唖然としてしまいました。親だったり、教師だったり、過去の宗教だったりに教え込まれたもの。。?ただ本能的にある価値観もあります。人を苦しめるような言動はいけない。そのなかには人を殺めることもあります。人のものを盗んではいけない。人の不幸の上に自分の幸福を築いてはいけない。結婚したら他の人とのセックスはいけない。なんだか、禁止用語ばかりですね。この自分の最低限の価値観から外れようとは思わない。その掟のような価値観が崩れたら、自分自身の価値も失いそうだから。でも、これが時代や国が違っていたら保てない価値観なのかもしれない。正直、価値観と騒いでいたわりには、何にも解っていない自分に気がついてまたまた唖然としてしまった。」「・・・はいけない」が多いですね。まるで十戒の世界ですね。これらの価値観が崩れると、自分自身の価値もなくなりそう?ということは、自分とは価値観ということになりますね。自分は価値観によって支えられている?価値観がなくなると自分もなくなる?藍&aiさん=藍&aiさんの価値観?藍&aiさんは、自分の価値観によって成り立っているのでしょうか。それは観念体系です。ということは、藍&aiさんの存在自体が観念上の存在ということになりますが・・・藍&aiさんとは何?どこに存在しているの?あなたは誰?あなたは価値観?本能的な価値観?動物は価値観なんか持ってないでしょう?本能に価値観があるとは思えません。価値観は思考が創り上げるものです。だから、赤ちゃんや幼児は価値観を持っていません。価値観は本能ではなくて、後天的なものです。もしこれらの価値観が本能的なものであれば、誰も人を殺したりはしないし、不倫もあり得ません。しかし、実際は人類史は戦争の歴史だし、不倫のオンパレードです。これは本能的価値観というよりも、殺人や不倫などを抑えるための価値観です。本能の逆で、外側から人を抑圧することによって自分を保持したり、社会を維持したりするためのものです。藍&aiさんが本能的というのは、それが社会通念になっていたので刷り込まれてしまったということでしょうか。もしそれが本当に本能的なものであれば、価値観など必要ないのです。価値観がなくても人はセックスし子供をつくります。セックスしなければならないなどという価値観はありません。価値観がなくても人は食べます。食べて寝なければならないなどという価値観はないのです。本能は価値観以前、思考以前です。逆に、本能を縛るものが価値観です。一夫多妻という制度は今も存在しています。フリーセックスを信奉している人たちもいます。「目には目を、歯には歯を」という価値観の元では、テロリストが英雄視されます。もちろん世界中が軍隊を持ち、大量殺人を正当化しています。現実世界は、藍&aiさんが言う本能的価値観の欠片(かけら)すらありません。藍&aiさんは、不倫してはいけないという価値観を持っています。そうすると、不倫している人を見た時、責めたりしませんか。夫が不倫したらどうでしょう?フリーセックスの人は、不倫を責めません。一夫多妻の人も責めたりはしないでしょう。藍&aiさんには、人を殺してはいけないという価値観があります。でも、動物は殺してもいいのかな?イスラム教徒は、豚肉を食べません。ヒンズー教徒は、牛肉を食べません。仏教では、あらゆる殺傷を禁じています。人以外は殺して食べてもいいというのは、人間にとって都合のいい価値観です。それぞれが異なる価値観を持てば、お互いが自分の価値観を主張する時、争いが起きます。それがこれまでの人類の歴史でした。価値観とは、別の言い方をすれば、争いを生み出す元凶です。価値観が異なるが故に、人は言い争い、殺し合います。それでも藍&aiさんは価値観を持ち続けたいのでしょうか。もちろん選択権は、藍&aiさんにあります。今回のホームワークで、価値観がなくても生きていけると言う人もいます。そういう人は藍&aiさん流に言うと、自分の価値を喪失しているのでしょうか。アイデンティティがない?藍&aiさんにとってのアイデンティティは、自分の価値観ということでしょうか。でも、もしかするとアイデンティティがなくても、人は生きていけるのかもしれませんね・・・「価値観[2]」へ続く
2006.03.25
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屋久島は、一日、さわやかな天気だった。今日は、昨日の三人のギャルと屋久島一周。まず昼食のパンを仕入れて、永田いなか浜へ向かう。かなり波があったけれども、風もなく春の海といった感じ。波打ち際を裸足で歩きながら、貝殻を拾う。春先は新しい貝殻がたくさん打ち上げられている。扇貝をたくさん見つけた。黄色、紅色、白色・・・いろんな色の扇貝があった。全部で20個以上拾っただろうか。こんなに拾ったのは初めて。今日は特に黄色が多かった。みんな小さい。1cm以内のものがほとんど。でも、きれい。時間を忘れて、みんなで貝拾い。貝拾いが一段落すると、足を砂に埋めて毒抜き。というより、砂遊び?中三コンビは、カニのお墓を作ったり、歌をうたったり、本当に楽しそう。おかげで今風の歌をたくさん聞かせてもらった。最後には歌いながら踊り出した。秋田と屋久島の子なので、都会の子みたいにスレてない。素直というか、まだ子供らしいというか、実に可愛い。こちらが冗談を言うと、よく笑ってくれる。ありがたいことに、「寒い」とか言わない。屋久島は暖かい・・・道路際ではラムサール条約に指定された記念碑の除幕式がおこなわれていた。町や地元の偉い人たちが集まって、なにやらセレモニーをしていた。こちらは風に吹かれて、海を見ながら日光浴。ヘルシーそのもの。二時間以上、永田いなか浜で遊んで、西部林道へ向かう。途中の屋久島灯台の白色が際立っていた。すれ違う車は少ない。代わりにサルやシカ達が、みんなで出迎えてくれた。所々で車から降りて、水を飲んだり、サルやシカを観察したり・・・子ザルがたくさん生まれていた。生まれたばかりの子ザルは、他のサルより色が濃い。そして、モンチッチのように可愛い。本当に無条件に可愛い。でも、すぐに母ザルが隠してしまう。さすがに見せるには小さすぎ?立神岩の上で降りると、沖にたくさんの漁船が出ていた。全部で17隻以上。こんなにたくさんの船が出ているのを見たことはない。たぶんサバを捕っているのだろう。彼女たちは初日の夕食で首折れサバを御馳走になったらしい。とても美味しかったとか・・・サルとシカに見送られて、大川の滝へ。ここもあまり人がいなくて、のんびり昼食を摂ることができた。こちらは岩の上でお昼寝。中三コンビは、滝の水を触るために岩を降りていった。岩の下は深くて激しい流れ。(泳げない人がそんなところへ行くなよ・・・)こちらはハラハラしながら見守る。男の子だったら心臓が止まるかも?次は栗生の海岸でサンゴ拾い。「お持ち帰りは、お一人様15個まで」の冗談も素直にウケてくれた。やったね!ここで中三コンビは、海岸で座ったまま寝てしまった。食後のお昼寝?健全としか言いようがない。それから、湯泊の海浜温泉へ。さすがに若いからか温泉には入りたくないと言う。温泉に入りたがらないお客さんは珍しい。若すぎ?やむなく、奥の方の海が目の前の温泉で足湯。でも、足湯は気持ちよかった。砂浜を裸足でたくさん歩いたので、足の裏が少し痛かった。それがゆっくり癒されていく。みんなで輪になって足湯をしていると、なんとなく幸せな気分。心も体もほぐれていく・・・20才のおねえちゃんが屋久杉の木工製品に興味があるとのことで、木工製品をたくさん展示販売している店に寄る。彼女は屋久杉の切れ端セットを買った。自分で加工するつもりらしい。屋久杉は香りがいい。削った屑もヒーリング効果がある。最後に抹茶のソフトクリームを食べるために、無農薬のお茶屋さんへ。彼女たちにはソフトクリームがよく似合う。店の奥さんが秋田出身で、今年は例年になく雪が多かったとか話が弾む。秋田の姉妹が泊まっている屋久島の中三の子の家に着いたのは、5時をまわっていた。昨日よりも遅い。でも、十分楽しんだという満足感が伝わってくる。夜、自宅でくつろいでいると、依頼した親から電話が入った。仕事から帰ってきたら、みんなの満足そうな顔が目に入って、とても嬉しいというお礼の電話。明日は仕事が休みなので自分が連れて行くつもりだが、もう山も海も十分満喫したようで、特に行きたいところはないと言っている・・・楽しかった!たまにはこういうのもいい。基本的に子供は好きなのだが、普通は父兄同伴が多い。今回のように子供たちだけというのは、これまではなかった。この子たちも、普段はあまり父親とは話さないらしい。今時の娘は父親を無視する傾向がある。そういう意味では貴重な体験?楽しかったなぁ・・・『若い子と 一緒に歩けば こちらまで 若い気分で 楽しく遊べる』『何しても 笑って楽しく 遊んでる 見ている方も 楽しく嬉しい』これが447日目の心境です。
2006.03.24
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今日の屋久島は、曇のち晴。白谷雲水峡のもののけ姫の森から太鼓岩まで行った。太鼓岩からは、少し靄(もや)があったものの、屋久島の山々がきれいに見えた。風が強かったので、下の方の岩で昼食を摂る。一時間あまり、のんびり景色が楽しめた。今日のお客さんは、高校が決まったばかりの中三の女の子二人と、そのうちの一人のお姉さん(20才)。(親から依頼されたもの)若いというのはいい。箸が転んでも笑いそうな年代。カラカラと可愛い。春になって森の中も鳥たちの声が聞こえるようになってきた。森の中に響き渡る鳥の声は、空っぽの頭の中にも響き渡る。それはもう言葉では表せない至福。ただの鳥の声。でも、それは何ものにも替えがたい喜びをもたらす。鳥の声そのものがストレートに飛び込んできて、頭の中に響く。ただそれだけなのだが、それがもう何とも言えない。ただ鳥の声がある。鳥の声そのものがすばらしいのだ。そのやさしさ、そのやわらかさ、透き通るようなクリアーさ・・・ただの鳥の声。でも、それはどんな音楽よりもすばらしい。なぜなら、それは自我の一欠片(ひとかけら)もない、いのちの響きだから・・・これまでの世の中は、富を持つ者、高い地位のある者、権力のある者、知識のある者が尊重されてきた。つまり、多くを持つ者。多くを持てば持つほど、偉いと思われてきた。しかし、いくら多くを所有しても、持てるものは限られている。それは有限の色の世界の一部を持ったに過ぎない。いくらたくさん持っても、有限の世界の外には出れない。自我とは、所有。価値観やプライドや心の傷や自己イメージ・・・それらの総体が「私」。つまり、自分が精神的に所有しているもの。成長とは、所有の拡大。経験、ものの見方、価値観、判断力、それらの能力の向上・・・自分という枠の拡大。しかし、そのいずれもが有限なものの拡大。有限の色の中での拡大。いくら拡大しても、有限という枠の外には出られない。所有できるものは、色。色は有限。所有=色という枠の中にいる限り、いくら所有しても有限の中。所有というのは、所詮、コップの中の嵐。有限というコップの中で右往左往しているだけ。限られたパイを取り合っているだけ。所有というのは、所詮、制限。所有するが故に、その所有したものに限定される。つまり、制限される。所有すること自体が、制限を自分に課すこと。所有とは、制限。多くの富を所有したつもりが、有限の富に縛られているだけ。所有することによって、無限から遠ざかる。悟りとは、差を取り払うこと。差とは、識別であり判断。識別や判断は色の世界。悟りとは、有限の色の世界から抜け出ること。差のない世界に飛び出すこと。有限のものを所有しないこと。何も所有しないこと。何も所有しない時に初めて、差がなくなる。何もない。すべてがある。色ではなく、空の世界に入る。空の世界には所有はない。なぜなら、すべてのすべてだから。所有すれば色の世界になる。何も所有しない。だからこそ、分離がない。所有することは、分離すること。無限の宇宙から一部を切り取ること。それを自分だと思い込むこと。無限から有限になること。空の世界を忘れて、色の世界に埋没すること。所有とは、所有したつもりが所有されること。色の世界の虜になること。色の世界の囚われ人になること。何も所有しないということは、自己限定を外すこと。何かを所有することは、自己を限定すること。所有することは豊かなのではなく、無限から自分を切り離すこと。頭が空っぽの時にだけ、この宇宙のすばらしさがわかる。何も所有しない時にだけ、この無限の恵がわかる。所有すれば、所有しただけの喜び。それは限定され制限された喜び。自分で枠をはめた喜び。無限の無限の限りない喜びは、所有することによって消え去る。無限の喜びは、何も所有しない時にだけある。所有すれば、限られた喜び。所有しなければ、限りない喜び。『鳥の声 空(から)の頭に 鳴り響く ただそれだけで 何もいらない』『所有した つもりのはずが 所有され 掴(つか)んだものに 縛られるだけ』『何ものも 所有しないで 掴まずに フリーハンドで 自由に生きる』これが446日目の心境です。
2006.03.23
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瞑想とはすべての相対が止んだところ動きのない世界絶対の静寂成長を求める心永遠を求める心悟りを求める心それらの心が止んだところあらゆる心の動きが止みあらゆる思いが止みすべてが静まるところ正邪 善悪 美醜 優劣それらすべての比較が止み相対・比較のない世界それはまるで宇宙空間のようなスペースすべての星々を包み込み在らしめている空間良いも悪いもなく無条件にすべてを見守っている空間色と同時に存在するところ色と別の空間があるわけではないすべての色に浸透しすべての色を包み込んでいる空間瞑想とは日常から分離したものではない日常と共にあるもの日常に浸透し日常と共に生きるものゆっくりとすべてを包み見守りながら生きていくそれが真の瞑想『刻々に 形を変えて 動く雲 見守る空は 変わることなし』『現象も 思いも浮かび 消えてゆく 変わらぬものは 見守る意識』『ゆっくりと すべてを包み 抱きしめて 無常の色を 見守り生きる』これが445日目の心境です。
2006.03.22
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屋久島の天気は下り坂。夕方から雨になった。でも、午前中は太陽から放射状に光が出て、きれいだった。4泊5日の屋久島の旅が終わった。鹿児島-屋久島間の飛行機を予約していなかったらしく、初日は到着が予定より一便遅れた。帰りは飛行機が取れず、高速船ロケットで帰ることに。そのため予定より3時間ほど早くなってしまった。実質3日と数時間。時間的にはもったいなかったけれども、内容は充実していた。初日は到着が3時半頃になったため、予定していたコースへは行けず、海に直接滝の水が落ちるトローキーの滝と千尋の滝を見て、JRホテルの温泉へ行った。ちょうど夕陽が沈む時間で、大きな夕陽を見ることができた。しかし、年末年始には海に沈んでいた太陽は、今は小高い丘の上に沈んでいた。ここから海に沈む太陽が見られるのは冬至の前後に限られるようだ。珍しく雲がなく、最後まで太陽が見れた。海に沈まなかったのが少し残念だったが、久しぶりのきれいな太陽だった。宿の天然村に着いたのは夕食の時間の7時近かった。天然村は珍しく団体さんが泊まっていて、賑やかだった。近所で取れた無農薬のタンカンが山積みされていた。二日目は木霊の森と、もののけ姫の森へ行った。一日中、小雨が降っていたが、苔の緑がきれいで少しも苦にはならなかった。お客さんはマイペース。ゆっくり自分のペースで森を味わっていた。自分の気に入ったところで立ち止まり、しばらく動かない。その繰り返し。そのため超スローペース。もののけ姫の森から帰ってきた時には、かなり遅くなっていた。木霊の森では誰にも会わなかったが、白谷雲水峡はかなりの人出だった。3月なので若い人が多い。春休みの大学生だろうか。ほとんどがデジカメか携帯で写真を撮っている。アッという間にフイルムカメラは駆逐されてしまった。99%以上がデジカメ。時代の変化が加速している。帰りには雨は止んでいた。またJRホテルの温泉へ行く。ぬるい温泉が好みとのことで、熱い尾之間温泉はパス。夕陽は雲間に入り、あまり見えなかった。天然村に着いたのは初日よりも遅かった。三日目は黒味岳(1831m)に登った。すばらしい天気だったが、風が強かった。黒味岳の山頂は普段でさえ風が強いので、少し心配だったが・・・現実は心配していた以上の風だった。もう立っていられない。座っているのがやっと。立ったら吹き飛ばされそうな強風。そのうえ冷たいので、長い間は頂上にいられない。登ってきた他の人たちも早々に引き上げていった。ほぼ快晴で強烈な風が吹いているので、見晴らしはバツグン。360度がきれいに見渡せた。1831mまで登ると、空気が違う。世俗感がまったくない。クリアーで透明感に溢れた空気。風の来ない岩陰に隠れて昼食。それでも長くは居られなかった。基本的な温度が低いのだ。黒味岳まで登るのに3時間かかった。思ったよりもハイペース。帰りも3時間。休憩なども入れて合計7時間の登山。普段、山に行っていない人にしては快調なペース。最後は、またJRホテルの温泉。湯泊の海浜温泉もぬるいので薦めてみたが、彼女はJRホテルの温泉が気に入った様子。最後はマッサージチェアーに揺られて体をほぐしていた。こちらは、たまたまcellist.mayumi♪さんに会って、立ち話。実は、前日も前々日も彼女のご主人と温泉の中で会っていた。天気が良かったので期待した夕陽は、最初は放射状の光を放っていたが、早めに雲間に沈んでしまった。天然村に着いたのは、更に遅い時間だった。毎日、どんどん到着時間が遅くなる。あんなにたくさんあったタンカンがかなり減っていた。団体さんが買って帰ったらしい。こちらも1000円で4kgほど買ってみる。ちょうど40個あった。1個約100gで25円。島の相場からすると高いが、無農薬なので、まあいいか。今年はタンカンは不作らしい。それでも無人販売のボックスには、たくさんタンカンが並んでいる。四日目は、前日たくさん歩いたので、リラックスコース。まず水晶などの浄化に行く。いつものところで、海水と川の水と太陽で浄化。ちょうど満潮時間で、海水にかなり石が揺れた。彼女自身も川や海に入り、横になって太陽を浴びて浄化。川の横の水たまりに、オタマジャクシが数百匹泳いでいた。これがみんなカエルになったら、すごいことになる。でも、カエルになって生き残れるのは、ごく少数だろう。この辺りでは、そんなにたくさんカエルを見かけないから・・・それから、屋久杉の木工所へ。ここで彼女はステキな屋久杉の花台や木霊のストラップなどを買った。樹齢千年を超える花台はすばらしかった。自宅にもここで求めたものがいくつかあるが、彼女が手にしたものも良い屋久杉だった。他にもたくさん買ったので、かなり値段を安くしてくれた。それから、木霊の森へ行った。二日目に行った時は雨でお昼寝できなかったので、今回はお昼寝用のマットを持っていく。穏やかな天気で、ゆったりとくつろげた。彼女は川の中の岩の上で横になったり、瞑想したりしていた。こちらはヤクゴンの写真を撮って回った。好きなように自由な時間を過ごしてもらう。森の中にいれば、普段の生活の疲れが自然に癒されていく。誰もいない森のせせらぎに包まれた空間にあれば、心身はいやでも浄化される。3時間ぐらい居ただろうか。帰りにサルの群に会う。木に登って、盛んに何かをもぎ取って食べていた。花のつぼみだろうか。それとも、新芽だろうか・・・それから、屋久島産のものだけを売っているお土産屋さんへ。ここではほんの少し買っただけ。お土産屋へ来る途中でパワーストーンの店を紹介したら、そこに寄ってみたいとのこと。しばらくぶりで行ったら、だいぶ石が増えていた。驚いたのは、屋久島で取れた大きな水晶が置いてあったこと。高さは10cmまではないけれども、横幅もあって、かなりの存在感。オーナーに聞いたら、水晶のある場所を発見したとのこと。小さな箱いっぱいぐらい取れたので、そのうちに販売するとのことだった。でも、残念ながらあまり透明感はない。形もきれいなものは少なく、少し研磨する必要があるとの話。収益金は屋久島のために使いたいとのことだった。このオーナーは屋久島水晶に関する情報をたくさん持っている。しかし、なかなかすばらしいものは少ないようだ。これまで見たもので最大のものは10cmぐらいらしい。縁があれば発見できるかもしれない。そのためには、もう少し誰も歩かない奥の方を歩く必要がある。彼女はここでもたくさんの石を買った。石からのメッセージを感じるらしい。最後は、いつものJRホテルの温泉へ。夕陽は紅くならず、白いまま沈んだ。雲の関係だろうか。こんな夕陽は見たことがない。夕陽は紅いと相場が決まっていたのだが・・・天然村に着くと、昨年の11月にガイドをした人が泊まっていた。4月から屋久島に住むために家探しに来たとのこと。彼女は30代の独身女性。一年ぐらいは遊んで暮らすつもりらしい。充電移住?しかし、空き家はなかなかなく、まだ見つからないようだった。10日ほど滞在して、なんとか家を見つけて帰るつもりらしい。最終日は、高速船ロケットに乗るために7時半に天然村に迎えに行く。泊まっていた他のお客さんから、どうやって帰るんですかと聞かれて、ロケットで帰ると答えたら驚いた様子。本物のロケットではなく、高速船の名前だと話す。ロケットの待合所は新築されていて、ちょうどオープン初日だった。真新しくて広い待合所に、お客さんが少しだけ座っていた。帰りに駐車場で、またcellist.mayumi♪さんのご主人に会う。出張仕事にロケットで出かけるところとか。なかなか縁がある。こうして4泊5日の屋久島の旅が終わった。5日間でかなり詰まっていたものが抜けた感じがする。日毎に顔つきが変わっていった。ゆったりとリラックスして、楽になる様子が見て取れた。彼女は毎日遅くまで働いていた。終末医療のカウンセラーをやっており、日本で一番働いているカウンセラーという自負があるらしい。今回の屋久島の旅でリフレッシュされ、終末期の患者さんの役に立つことだろう。ゆったりと屋久島の自然を味わうといい。山も森も海も、味わえば味わうほど、すばらしい。ゆっくりくつろぐのがいい。自然の中で人は自分本来の自然に還る。自然は自然にしてくれる。何の努力の必要もなく、ただゆったりと自然と共にいればいい。それだけで自然になれる。『ゆったりと 自然の中で くつろげば 自己本来の 自然に還る』『計らいを 捨てて自然に ゆだねれば 自然は自然に 戻してくれる』『何もせず 自然と共に あるだけで 自分自身に 自然に還る』これが444日目の心境です。
2006.03.21
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次のようなコメントがあった。「私、『今に生きる』を実践してるかも。ナチュラルヒーリングのコメントで、また朝陽と夕陽を間違えた。以前、おんなじマチガイをして、朝陽には輝きがある!って気付いたのに・・・性懲りもなく、『輝いてる夕陽ですね!』なんてシャアシャアと書いてしまった。これって、過去に囚われていない証では?・・・・単に物忘れがひどいだけか。やっぱり今だけにフォーカスしているだけでなく、後頭部に意識を置いて持ち駒も活用できなきゃ日々の体験に意味がないかな。今に生きてても、顔に意識があるだけでは、過去に囚われてるのとドッコイドッコイって事でしょうか?」たいした間違いでもないし、冗談半分のコメントだが、重要なポイントも含まれている。今に生きるということは、過去を忘れるということだろうか。しかし、過去を完全に忘れてしまえば、今に新鮮に出会えるけれども、同じ過ちを犯すことにもなりかねない。過去は記憶しておくべきか、それとも、完全に忘れるべきか・・・記憶しておかねば困ることもある。電車やバスの乗り方は記憶していないと、その都度聞かなければならない。お金の価値や使い方も記憶しておく必要がある。それ以外にも、ガスや水道や電気の使い方。時計や信号の見方、文字や車の運転・・・パソコンの使い方も記憶していないと、日記を読むことさえできなくなる。そういう意味では、記憶は必要ということになる。いくらコンピューターが発達しても、ある程度の記憶は自分の中にキープしておく必要がある。記憶なしでは生活できないと言っても過言ではない。では、何でもかんでも記憶していればいいかというと、そうとも言えない。過去の忌まわしい記憶を、いつまでも大事に持っていても仕方がない。屈辱の記憶も栄光の記憶も今を生きるのを妨げる。悲しみの記憶をいつまでも持ち続けていれば、幸せな人生にはならない。要は、事実としての記憶は問題ないが、自分の感情や思い込みが付加された記憶は人生の障害になり得る。評価され、解釈され、自我となった記憶はトラブルの元になる。それは自我の価値観を通過した記憶ということだろうか。事実を事実として記憶されたものは、特に問題はない。しかし、自我を通って記憶となったものは、今に白紙の状態で出会うことを妨げる。今を生きるためには記憶がいる。しかし、記憶に支配されてはいけない。過去の恐怖に支配されて、今を恐れても何の意味もない。事実を直視することを忘れ、事実を過去の目を通して見て恐れおののく。事実だけを見ればいい。恐れる必要はない。記憶されているものは似たような状況の時に思い出される。電車の切符を買う時には、それが役に立つ。その時は記憶は有効に機能する。ところが、過去に失敗したり、深く傷ついたり、事故に遭ったりすると、似たような状況になった時に、それが連想されて心が動揺し、同じような失敗を繰り返したりすることもある。その場合は、記憶は人生の妨害要因になる。また、以前に会った時にイヤな印象を持つと、次に会った時も以前の記憶で見てしまう。それは先入観や偏見となり、今の事実をありのままに見ることを妨げる。記憶は役に立つ場合もあれば、逆の場合もある。役に立つ記憶は保持しながら、役に立たない記憶には縛られないことは可能だろうか。本当はホームワークにしたいところだけれども、現在も一つ進行中なので、やめておくことにする。記憶に支配されない。記憶の虜(とりこ)にならない。記憶は生かして使う。記憶は必要なツール。でも、記憶に振り回されない。それは過去のデーター。単なるデーター集。そんなものに振り回されても仕方がない。自分の主体性をしっかりと持つ。記憶に支配されないと明確に決める。自分の意識の中の一部に記憶の領域を保持する。しかし、記憶に意識のすべてを明け渡さない。正確に言うと、記憶を元にした思考に自分の意識を奪われない。思考の独り歩きをストップさせる。思考の暴走を許さない。しっかりと記憶と思考の役割を理解する。記憶も思考も生きるには必要なもの。しかし、それらがすべてではない。それは意識の中の一部。自分の主体を思考に置かない。思考を超えた意識の主体を確立する。思考や記憶は意識の一部に留める。大きな主体が小さな思考や記憶を包み込む。まるで同心球のように。大きな意識が小さな思考や記憶を見守る。思考や記憶を超えなければ、思考や記憶に使われる。主体であるべき意識が、従体になってしまう。しっかりしないと、妄想の中で自分を見失う。意識をクリアーに保つ。それには、まず自分自身の意識の動きを見守る必要がある。自分自身を理解しないことには、思考や記憶から自由になることはできない。なぜなら、「私」=自我とは思考や記憶に他ならないから。それが今の意識の主体になっているものだから。思考や記憶中心の主体から、それらを超えた主体に切り替わる必要がある。そうならない限り、いつまでも思考や記憶に振り回される。自由はどこにもない。自分自身を見守ることによって、思考や記憶に支配されない主体が芽生える。見守る意識が育つ。それは思考や記憶の次元を超えている。主体が思考や記憶の次元からシフトする時、時代が変わる。戦争と悲惨の歴史が終わる。ハートベースの真の平和の時代が来る。それは一人一人の生き方にかかっている。メシアは現れない。一人一人がメシアになるしかない。一人一人が自分自身から自由になるしかない。自分を縛っているものは、自分以外にはいない。自分を縛っているものは、思考と記憶が編み上げた思い込みという縄。それが自分をガンジガラメにしているだけ。まさに自縄自縛(じじょうじばく)。その縄を解(ほど)くには、自分自身を理解するしかない。思考と記憶が中心になった自分という意識を深くわかるしかない。思い込みワールドでもがいている自分を深く深く理解する。それらが真に理解され、思考や記憶から自由になった時、新しい時代が始まる。今とは違う主体が確立する時、まったく異なる人生が展開する。それがこれからの楽しみ。記憶は意識のほんの小さな部分。思考も意識の一部。それらは必要に応じて活用するもの。間違っても使われるようなことがあってはならない。思考や記憶の奴隷になるのではなく、それらを使いこなす主体になる必要がある。それらを否定せず、それらを大きく包み込み、見守りながら生きる。必要に応じて使う。必要以上に使わない。けっしてそれらに支配されない。それらを超えた主体性を確立する。『包み込み 記憶も思考も 有効に 使えばいいだけ 使われないで』『記憶から 自由になるには 何事も 事実ベースで 記憶すること』『問題の 記憶が出たら 見極めて 事実ベースで 記憶し直す』『記憶超え 思考も超えて 自我超えて 大きな意識で ゆったり見守る』これが443日目の心境です。
2006.03.20
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「記憶を超える[1] 」の続き次は、ぴあのさんですね。「記憶そのものをストレートに見るとき、記憶の事実のみを注意深く見るとき、客観的に記憶を見るとき、記憶が生かされるように思います。逆に、記憶を元にいろいろと思考をめぐらせるとき、記憶を元に不安を想定するとき、記憶に想いが入るとき、記憶に感情が支配されるとき、記憶が今に生かされず、今が台無しになってしまう と思います。違いを生むものは、ただ、記憶の事実のみを見られるか どうか。シンプルな意識で、記憶に囚われず記憶を見ることができるか どうか。」記憶を生かすも殺すも、今の意識状態ということですね。事実ベースで客観的に現象が見られていれば、過去=記憶に振り回されることはありません。思考ベースであれば、過去=記憶の餌食になるだけです。思い込みの世界で生きるか、それとも思い込みワールドの外で生きるか。その違いですね。思い込みワールドにいれば、いくらもがいても過去=記憶から自由になることはできません。思い込みワールドこそが、現象を色づけして記憶する世界なのですから。すべての現象を色づけし、それによって振り回されているのが思い込みワールドです。色づけとは、評価や判断の別名です。比較によって色づけして記憶するのが、思い込みワールドなのです。事実+思い込み=思い込みワールドの記憶です。シンプルに事実ベースで生きることができるでしょうか。思い込みワールドから抜け出ることができるでしょうか。それが問われているのですね。最後は、藍&aiさんですね。「またまた遅刻してしまいました。。その上、あと5分で出かけなければならない。。きょうのKimiさんの日記をみて思うこと。。藍は、必要以上に子供たちのことを心配するわけがわかりました。それは過去の記憶によって恐怖が起こるからです。まさに記憶に妨害されて必要以上に心配をし恐怖を感じているのです。自分自身の思春期の挫折を味わわせたくない=自分と同じような思いを子供たちがしたらどうしよう。。。子供が自分と同じような苦しみをしたら耐えられない。。あ。。もう時間。。次のワークは遅刻しないようにします。」意識が過去に縛られているのですね。過去から自由ではない。過去が常に今に介入しています。その結果、不安や心配や恐れの人生になっているのですね。まさに思い込みワールドです。この思い込みワールドから抜け出たいですか。それとも思い込みワールドの住人のままでいいですか。どちらでも可能ですが・・・もし思い込みワールドから抜け出たかったら、もう少しじっくりホームワークに取り組むといいでしょう。真剣に自分の全人生をかけるくらいの気概がないと、なかなか思い込みワールドからは抜けられません。なにしろ全人類がはまりこんでいる世界ですから。その坩堝(るつぼ)から抜け出るのは至難の業です。もっとも、これから抜け出る人がどんどん増えてくるので、抜けやすくなるのは確かですが。早めに抜けたい人は、少し苦労するかも?ゆっくり後から抜ける?その方が抜けるのは楽ですが、抜けるまでは非苦の人生が続きます。どちらでもお好きな方をお選びください。こちらとしては、できるだけ早めに抜けられることをお薦めします。というのは、それが私達にできる人類への最大の貢献ですから・・・今回のホームワークを通して、またいろいろ整理されましたね。自分の頭の中を整理整頓することですね。そして、スッキリさわやかに生きることです。『思い込み ワールド抜ける 時までは 非苦の人生 続くしかない』『色づけし 記憶するのを やめる時 「私」は消えて シンプルになる』『ゆったりと 過去も未来も 現実も すべてそのまま 包み見守る』『思い込み ワールド超えて 過去超えて 思考の次元 遙かに超える』これが442日目の心境です。
2006.03.19
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(朝、四時過ぎに起きて書いています)今日の屋久島は、星と月がきれいだけれども、風が強い。ホームワークを見ていくことにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「記憶が生かされる場合と、記憶によって妨害される場合。その違いを生むものは何でしょうか。」まず、小犬のロンさんからですね。「お久しぶりです、すっかりご無沙汰してしまっていました。ところで『ホームワーク』わたしは初参加です。『記憶が活かされる場合と、記憶によって妨害される場合-その違いを生むものは何か?』kimiさんの前段の言葉にヒントが語られていますね。それは、失敗の記憶を例に挙げたものでしたが、そこでは緊張の度合いの差が、それを引き起こしていました。成功の記憶の場合を考えてみました。過去に成功した所に来ると、もう慣れていますからリラックスして更に大きな成功を生むこともあるでしょう。記憶が活かされた?しかし、過去の成功の記憶が過度のものであった場合などには、リラックスしすぎて油断して失敗したりもします。これは、同じく記憶のために今が台無しになった?成功でも、失敗でも、同じように違いが出てくるのですね。失敗では緊張の度合い、成功では注意深さの度合いでした。『度合い=バランス』が鍵のように思います。その違いを生むのは何か?今の状況に適度なバランスを取れているかどうか。あくまでも『今』が焦点であって、記憶は過去であり、似たような状況でしかないのですから。全く同じということはあり得ないのでしょうから、『今』と如何に向き合っているかが第一だと思います。その上で、過去の記憶がどう生かされるかが決まるのではないでしょうか。微細な差異に、瞬間、瞬間に気づいていけるかどうか。しかし、失敗も成功も心の判断、思いなしですから、油断や恐怖など持たなければいいのですがなかなかそうもいきません。感情に色付けされた体験の記憶や、身体に刻まれた痛みや快感に色付けされた体験の記憶が、自然な流れを妨害してしまうのではないでしょうか。所謂トラウマ体験というものでしょうが、反対の絶頂体験だって、『今』に在ることを妨げるかも知れません。記憶という貴重な能力を、上手く活かして日々を送りたいですね。」ポイントは、過去に引きずられないということでしょうか。過去と今の綱引きみたいなものですね。思考と注意力の綱引きとも言えます。緊張とリラックスの綱引きでもあります。今にしっかりフォーカスしていないと、過去に負けてしまいます。過去に振り回され、今を見失います。今の目の前の現実にきちんとフォーカスする必要があります。その時に注意した方がいいのは、意識が顔の方に来ると緊張になってしまうということです。意識のポイントを後頭部の方に置いて見つめることですね。そうすると、リラックスして全体が見渡せます。意識が顔の方に行くと、目先だけ、部分だけに目が行って全体が見えなくなります。意識は、ゆったりと後頭部の方にある必要があるのです。その時に、冷静に全体が見渡せます。今、今に真剣にフォーカスする。意識は後頭部の方に置いて、ゆったりと全体を見渡す。そういう感じで生きれれば、過去の記憶が生かされるのではないでしょうか。意識が顔の方に行くと、目先のことだけ、部分だけに目が行き、過度に緊張して、過去に引きずられてしまいます。それでは、過去の繰り返しです。記憶を生かせるかどうか、それは意識のポイントをどこに置くかにかかっているように感じます。次は、えっちゃんですね。「ネガティブ記憶に支配されてると、プレッシャーになる。ネガティブ記憶でも、今の前向き志向がそれも推進力に出来る。ポジティブ記憶も、図に乗るだけなら今をおろそかにする。歩でティブ記憶でも今をどうするという参考資料に過ぎない。記憶は、栄光も自負も失敗も落胆も、今に想いを持ち込めば妨害となる。記憶は、今のための虎の巻ではないから、鵜呑みにしてはいけない。記憶は、今のためのヒント集。記憶は、いいとこ取りするだけ。全ては、今のため・・・(なんて、ビールのコマーシャルに似てる?)今、この瞬間にフォーカスするかしないかが、記憶を生かすかどうかに繋がる。あ~~あ、理論は美しい。されど、この身、この心ついて来ず・・・・愚図な私。」すばらしいなぁーと感嘆しつつ読んでいって、最後の二行になって、愕然(がくぜん)!呆然(ぼうぜん)!唖然(あぜん)!開いた口が塞がらない・・・ホームワークは美しい理論を構築する場ではありません。学術研究の場ではないのです。あくまで実践。即座に日常生活に役に立たなくては・・・今ここに静かな注意力の集中が必要なんですね。今ここに意識の焦点を当てることです。そうしないと過去に負けてしまいます。過去とは記憶。過去の記憶に振り回されるのですね。冷静に今を見つめていられる時にだけ、過去の記憶が有効に生かされます。要は、今の意識状態なのですね。それがすべて。今に静かに集中する。意識のフォーカスを今に向けることですね。次は、せきせきさんですね。「苦しかった、傷ついた、幸せだったと記憶は残る。私達は、事実を価値観にふるいわけ、そこに感情をのせて色づけ記憶をストックさせる、悠長なことをしている?事実は事実でなくなって記憶されている?私にとって良かったか、悪かったか、自己保存バージョン記憶でしょうか。私は、人の言動をしっかり記憶して、相手に攻撃される(と色づけする)時の防御策として、記憶をストックすることに命かけてました(笑)攻撃されたと感じたら、過去を持ち出して人に勝つ。お互いにそういう感じであった。記憶も、コントロールゲームの最大の武器であった。暗すぎ?でも、今の各国の歴史の認識の争いも変わらない。お互い、『ああされた』から保障を、『こうしたから』謝罪を。延々抜けでない。自我で色づけされた記憶ベースの生き方。過去を思い出すと、寒気の走っていた私であったが、捉われをはずした今では過去はただの出来事である。恋人と幸せの時は良い記憶で、振られた時が悪い記憶?色の移り変わりの中でドラマを作っていただけ。犯罪にあったとき、ひどいと思った?警察と一緒にドラマを演じきってしまっただけ。今は空の状態から、その現象を愛でて、現象を生み出す仕組みを深く理解したい。そして、生かしていく。私の生き方に。記憶が妨害になるときは、その事実を握り締めてしまう時。捉えたものが『私』と思い込んでしまう時。そして、その記憶を生き方のベースにしてエンドレスの比較人生。結局、今の生き方が、記憶そのものを作り上げる気がします。私の体は2年前は、まだよかったのに。先月よりはよくなっている、安心。また少し悪くなったガーン。一喜一憂、疲れまくり。過去に生きている。自分で体の状態を色づけして、記憶をストック。医者を信じまた思い込みを深くし、記憶に振り回されているだけ。昔、法律に反してしまった人が、今は、人を助けている。どこで人を見るのだろう。その人はいい人?悪い人?昔、ひどい!と思う色づけと、今、助けてくれてありがとう、という色づけどちらかを選ぶ?過去は過去?今の色づけ記憶状態を選ぶ?でも、今もすぐ過去になる。色づけに振り回されているのではないでしょうか?そして、選んでいるのは自分ではないでしょうか?自我が入らないと、事実がたんたんとストックできるのでは?私は、日記を読むときにわからない言葉はストックする。でもその言葉には捉われないように・・・。これかな?kimiさんのおっしゃることは?と感じた時、ストックした日記の記憶を引き出す。記憶はただの道具なのではないでしょうか。記憶=私ではないともっとわかる時、うまく使いこなせるような気もします。過去を生きなくなるとき、『記憶』そのものが変わっていくのかな?過去という概念がなくなるかも?」記憶は色づけされてストックされています。だから、それが出てきた時に動揺するんですね。教科書の記憶みたいなものは色づけがないので、別にどうということもありません。しかし、既に色づけされてストックされているものは、今更どうしようもありません。出てきた時に、単なる事実に修正して記憶し直すしかありません。それには、事実を事実として捉えるという視点が身についている必要があります。日常的にそのように生きていられれば、過去に振り回されることもないでしょう。結局、今の生き方が問われるのですね。今の生き方が事実ベースであれば、記憶も事実ベースでストックされます。色づけされずに記憶されるのですね。いかに真剣に今にフォーカスして生きるかが問われているだけです。本当に今に生きていたら、過去は介入できません。今の方に意識のポイントが来ていたら、過去には振り回されないのです。それは思考を超えたところに意識のポイントがあることを意味します。言葉に引っかかったりしている間は、まだ思考の領域です。全体を見守っている視点、それが思考を超えた意識の状態です。そういう状態の時に、過去から自由なのです。現象に囚われ、現象を捉え、自分のものにしてしまう。それが色づけされた記憶となります。目の前の現象に囚われないことですね。流れゆくものは、流れゆくままに。過ぎ去るものは、過ぎ去るままに。そのように生きれたら、色づけされた記憶はできないでしょう。事実ベース。自分流に現象を色づけしない。現象に囚われない。思考の次元を超えた時に、記憶は道具となるでしょう。思考の次元を超えない限り、記憶に弄(もてあそ)ばれるだけです。今、今に静かにフォーカスすることですね。「記憶を超える[2] 」に続く
2006.03.19
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朝から雨。一日中、雨の森を歩いた。雨に洗われて緑がきれいだった。真っ赤なリンゴ椿がチラホラ咲き始めていた。気の早いサクラツツジも数輪咲いていた。新緑は二分から三分。これから日毎に美しくなっていくだろう。木霊の森と、もののけ姫の森を、これまでで一番遅いペースで歩く。今回のお客さんは、立ち止まって森を味わいたいようだ。おかげで疲れはしないけれども、超スローペース。温泉もゆっくりなので、自宅に帰り着いたのは8時近くだった。食事をして、電話の応対やメールチェックなどをしていたら、すぐに10時を過ぎた。パソコンに向かうと、ものすごく目が痛い。なぜか?これまでの目の疲れが一気に出ているから。久しぶりに森へ行くと、いつもこうなる。森によって癒される結果、目がものすごく痛くなる。そして、1~2日すると、ウソのようにスッキリする。それがこれまでの経験則。目が痛くて、これ以上とてもモニターを見ていられないので、本日の日記は、これで終了。寝るしかない。明日の朝、早く起きれたら、ホームワークをやろう。一応目を通したけれども、すばらしい回答。楽に感想が書けそう。4時ぐらいに起きれば、書けるだろうか・・・では、お休みなさい。今年一番のイージー日記?これが441日目の心境です。
2006.03.18
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今日の屋久島は、快晴に近い。さわやかで、すばらしい天気。風がやや強い。今日から4泊5日の仕事が始まる。今シーズンの仕事始め。仕事始めにしては絶好の天気。人の中には既にすべてのものが宿っている。愛もすべての人の中に宿っている。けれども、それが出てくる機会は限られる。なぜか?恐れが、それを阻(はば)んでいる。愛を素直に表現する勇気がない。そんな経験も少ない。だから、素直に表せない。でも、誰の中にもあるのは間違いない。表現し始めれば、どんどん出やすくなる。これまで目詰まりしていたものが外れ、スムーズに流れ出すようになる。恐れも減り、躊躇も減る。素直に出せば、何の問題もない。ブロックしているものは、恐れ、つまり、取り越し苦労。そんなことをしたら、どうなるだろう。周りの人は何と思うだろう。うまくいかなかったら、どうしよう。誤解されても困るし・・・心配し始めれば、心配の種は尽きない。心配をやめることはできないのだろうか。心配しても何の役にも立たないことはわかっている。にもかかわらず、すぐ心配する。それはパターン。単なるパターン。自分の中に刷り込まれているパターン。一切心配しないでも生きていける。むしろ心配などしない方が楽に生きていける。にもかかわらず、性懲りもなく心配する。そういうパターンにはまってしまっている。心配に安住している。心配の外に出ようとしない。心配している方が安全にきまっている。勇気を出して実行するより、心配して何もしない方が楽だ。楽なパターンを選択しているだけ?それによって、愛が自分から溢れるチャンスを逃している。自分最優先では愛の栓は閉まってしまう。保身第一では愛はほとばしれない。保身第一で心配だけしていれば、何も問題は起きない?亀さんスタイルで生きていれば、必要最小限の危険で済ませられる?でも、それでは人生のダイナミズムは味わえない。新しいことは何も体験できない。それでは何のために生まれてきたのかわからない。わざわざこの世に生まれてくる必要もない。この世に生を持つということは、新しいチャレンジをするということ。自分の中にある可能性を花開かせるということ。愛や叡智やいのちを輝かせてみるということ。それをしないのであれば、生きていても仕方がない。様々な経験をし、学び、成長し、楽しむ。この世とは、そのようなところ。心配するために生まれてきたのではない。でも、気づかないうちに心配している?ハイ、気づいてください。心配している自分に。そして、スパッと心配をやめてください。もし本当に心配が無意味だとわかったら。ぜひ心配のない人生を体験してみてください。心配はまったく必要ありません。一切なくても何も問題はありません。それでも心配?不安や心配を手放すと、当然、楽に生きていける。未来のいろいろな危険性はある。それに対する準備をしたければしてもいい。でも、心配からするのではない。可能性を感じて、冷静に備える。不安や心配は必要ない。不安や心配があると、それが現実化してしまう。感情はいらない。事実としての可能性で準備すればいいだけ。冷静に淡々と。人類は長い永い間、不安や心配と共に生きてきた。不安や心配と一緒に生きることが心地よかった?不安や心配が現実化することによって、いろんなドラマを体験できた?不安や心配があるからこそ、ハラハラドキドキのドラマが経験できた?そういう意味では、人間ドラマにとって不安や心配はなくてはならないもの。ハラハラドキドキをもっと続けたければ、不安や心配は必需品。そんなに簡単に手放してはいけない。大切にいつまでも持っていなくては・・・この現象世界の混乱は、一人一人の心の中の混乱から生じている。不安や心配が混乱を創り出しているとも言える。不安や心配とは、恐れの代名詞。人類は恐れと共に、これまで生きてきた。その恐れが人類の悲惨な現実を創り出してきた。そのことがわかったら、不安や心配を手放す?手放すなんて・・・不安で、心配で、とてもそんなことはできない?それでは堂々巡りになってしまう。不安も心配も恐れも、すべて思考が創り出すもの。実体のあるものではない。それは架空の幻。思い込みによる幻想に過ぎない。そういうものを手放しても、何も問題はない。みんなが不安や心配や恐れを手放したら、世の中はどうなるだろうか。今とはまったく異なる世の中になるのは間違いない。不安も心配も恐れもない社会。思っただけで心がやすらぐ。都会に住んでいたら、とても安心できない?都会に住んでいて安心できない人が、田舎に住んだら安心できるだろうか。確かに都会の方が圧倒的に危険度は高い。しかし、田舎にいても交通事故や病気の危険がないわけではない。自然災害は都会よりも田舎の方が多い。どこにいても不安や心配の種を見つけ出そうとすれば、いくらでも見つかる。やはり本人しだいではないだろうか。現実の危険があれば、対策を講じる。不安や心配におののいている場合ではない。しかるべき対応をする。できるだけのことはする。それしかできない。それ以上はどうにもならない。いや、一つだけそれ以上のことがある。それは不安や心配や恐れを持たないこと。これがあると危険度は遙かに高くなる。これがないだけで危険度は格段に低くなる。不安や心配や恐れがないところに、災厄をもたらすのは至難の業。縁がなければ、結果はやって来れない。たとえ災厄がやって来たとしても、それを災厄と捉えなければ災厄にはならない。すべての現象を生かして使えば、何も問題はない。結局、不安も心配も恐れも必要はないのだ。起きてくることをそのまま受けとめ、それを生かして使う。それさえ明確ならば何も恐れるものはない。不安も心配も恐れもいらない。今、今の事実と共にいればいい。事実によけいなものをくっつけなければいいだけ。どうして事実に不安や心配や恐れをくっつけてしまうのだろうか。過去が甦るから?たぶん、それ以外に答はないだろう。なぜなら、正当な理由はどこにもないのだから。ただ過去の経験からネガティブに連想しているだけ。どこにも不安や心配や恐れの正当な理由はない。過去の繰り返しをしているだけ。今に生きていないだけ。自分のパターンに縛られているだけ。それに気がついていないだけ。それ以上でも以下でもない。そういう生き方をしたければ、無理に止めはしない。しかし、そういう生き方をしている限り、心のやすらぎはない。同時に混乱の世の中も終わることはない。これまで通り非苦の巷で生きるしかない。不安も心配も恐れもいらない。そういうものは何もいらない。事実に何も付け加えないで、事実と共に生きる。シンプルに生きる。それで十分事足りる。不安や心配や恐れと共に非苦の人生を生きるか。それらのものをすべて手放し、まったく別の人生を体験するか。どちらでも選択可能。時が来て、選択可能な時代となった。はたして、あなたはどちらを選ぶのだろうか。こちらは一切介入しない。選ぶのはあなた。あなたの人生だから。自分で決める自分の人生。『心配や 不安と共に 生きてきて ハラハラドキドキ 身をすり減らす』『心配や 不安や恐れの 連想が それに見合った 現実創る』『ありもせぬ 想い付けずに 淡々と 事実と共に シンプルに生きる』『心配や 不安や恐れ ない時に 想ったことが そのまま叶う』『心配も 不安もみんな 手放して 事実と共に そのまま生きる』これが440日目の心境です。
2006.03.17
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今日の屋久島は嵐だった。朝から猛烈な雨と風。台風なみ。見ていた衛星放送が乱れた。大雨が降ると衛星からの電波が受信できなくなる。地上波はそういうことはない。もっとも、地上波も大風が吹くと、なんとなく画面が歪む。電波は風雨に弱い?激しい自然環境のところにいないと、そういうことはわからない。見ていたのは、写真家・白川員義さんの世界百名瀑のハイビジョン放送。それは目を見張るほどきれいだった。星と滝が同時に写っている写真を見ていた時、電話が鳴った。「こんばんわ」と思わず答えてしまった。現実の中にいなかった。滝に夕陽が当たって虹が架かる写真は、わずか10分間しか撮れない。太陽は刻々と動く。それは写真を撮っていて、よくわかる。長い準備期間を経て、撮影できるのは一瞬。そういうこともよくあるようだ。こちらはそんなに苦労して撮影はしていない。仕事のついでが多い。それでも、本気で気に入った写真を撮りたかったら、それなりの時間がかかるのはわかる。やってみたいと思わないこともない。でも、今年は日記最優先なので・・・山の中に一週間ぐらい泊まり込んだら、いい写真が撮れるだろう。誰もいないルートのない山がいい。屋久島の場合、水の心配はいらない。熊もいない。ただ雨が多いだけ。でも、デジカメはバッテリー切れになる恐れがある。予備のバッテリーがいるだろう。メモリーは予備を入れれば3ギガ分あるので、無駄遣いしなければ保ちそうだ。失敗作は削除すればいい。問題は、やはりバッテリー。もう一つ予備を買う必要がある。その気になれば、いつでも行ける。その気になるかな?今年も秋に会津や裏磐梯の方へ行くかもしれない。去年は知床へ行ったグループ。毎年どこかへ行っているけれども、今年は東北のリクエストが来ている。まだ会津や裏磐梯の方は行ってないので、行ってもいいかなと思っている。もちろん山に登る。紅葉の時がいいのだが、混みそう・・・天国と地獄がある。天国は国なのに、地獄はどうして獄なのだろう?地獄という言葉は、元々はサンスクリッドのnaraka(奈落)から来ているらしい。奈落の底が地獄ということだろうか。奈落とは、広辞苑によると「永久に浮かぶ瀬のないところ」とある。地獄に堕ちると浮かばれない?永久に出られない?まるで終身刑?だから、地の底の獄舎=地獄となったのだろうか。天国は国だから、人の住むところ?では、地獄は誰が住む?地獄の亡者?さてさて恐ろしい地獄物語の始まり始まり・・・これ以上読むのはやめる?それとも、怖いもの見たさ?選択は自由。これから先は自己責任で・・・天国も地獄も、あると言えば、ある。ないと言えば、ない。?これでは訳がわからない?では、聞こう。今、目の前に見えている夕景は、あるだろうか、それともないだろうか。あるに決まっている?そう言っている間に太陽は沈んでしまう。ほら、ないじゃない。え?そんな・・・あると言えば、ある。ないと言えば、ない。色の世界は、そんなもの。空に異ならず。あるようで、ないようで、どっちだろう?記憶の中や写真の中には、ある。でも、それも消えつつある。永遠にあるわけではない。磁気的・エネルギー的に一定期間形をとどめているだけ。それも微妙に劣化しているので、同じものが持続しているわけではない。放射性同位元素も劣化している。放射能として放出された分だけ変化している。この世に変わらざるものなし。無常。色の世界は無常。それ故に、あるようで、ないような・・・不思議な世界。まさに空そのもの。だから、地獄も現象に囚われれば存在するし、囚われなければ存在しない。地獄という非苦の世界の結晶も、人類の意識が創り出しているもの。現実と言えば現実。幻(まぼろし)と言えば幻。そこは物質世界ではないので、刻々に変化する。思いの次元が創り出す世界なので、思いしだいでどうにでも変わる。この物質次元よりも変化が早い。そういう地獄のような思いがなくなれば、地獄も即座に消えてしまう。ただそれだけの世界。宇宙の曼陀羅の一場面?そういう世界を創ってみただけ?天国だけでは面白くないので、地獄も創ってみた?ご丁寧に、いろんな地獄を創ってバリエーションまで持たせてある。誰が創った?神様?閻魔大王?サタン?それとも、人間?天国も地獄も人の想いが創り出す世界。良いも悪いもなく、ただの事実。あると言えばあるし、ないと言えばない。刻々にのみ存在するもの。それを掴まなければ、存在しない。掴んでしまえば、存在する。しかし、それは天国と地獄に限らない。この世のすべてのものも同じようなもの。あると言えば、ある。ないと言えば、ない。掴めば存在するし、掴まなければ存在しない。空の意識であれば、何もない。目に映る刻々のものがあるだけ。刻々であるが故に、あると言えばあるし、ないと言えばない。色の意識で生きれば、確かにある。空の意識で生きれば、何もない。地獄も、その現象を捉えなければ、何も恐れる必要はない。その現象を捉えると、捉えたつもりが捉えられる。地獄の囚われ人となる。そうやって地獄の住人が生まれる。ただ掴まえているだけ。地獄的現象に魅入られ、意識がそこから離れられなくなっているだけ。単なる意識の状態。何かに捉えられると、心は不自由になる。それが天国であれ地獄であれ同じこと。一方は天国から出られない。片方は地獄から出られない。出られないのに変わりはない。少しも自由ではない。行きたければ天国へ行き、気が変われば地獄へも行く。天国や地獄を超えた世界へも行く。現象に囚われなければ、それが可能になる。現象が何であれ、それに囚われれば、そこの囚われ人になるしかない。地獄を恐れることも、天国を敬うことも、特に必要はない。それは人の価値観。人間の判断の世界。思い込みワールド。自然の美しさを見、それに感動し、それを忘れる。何も所有することなく、自然の流れと共に生きる。良くもなく悪くもなく、事実と共に生きる。ある時は天国に住し、ある時は地獄を覗く。天国も地獄も飽きたら、また別の世界に遊ぶ。人間界のドラマに笑い、涙し、ただ静かに見守る。今生きて在ることを、生きる。『天国も 地獄もすべて 自(みずか)らの 想いが創る 思い込みワールド』『移りゆく 現象世界に 囚われて 天国へ行き 地獄へ堕ちる』『愛(いと)おしい 思いの世界 見守れば 色とりどりの 光煌(きら)めく』『人間の ドラマも自然も それぞれに ステキな姿 現し消える』『天国も 地獄も超えて 星々の 思いを超えた 世界で遊ぶ』『移りゆく 四季(色)を楽しみ 囚われず 人間として 静かに生きる』これが439日目の心境です。
2006.03.16
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「なくしたもの[2]」の続き次は、えっちゃんですね。「私は幼い子供の頃が、純粋無垢で、屈託がなく、楽しそうな笑顔にあふれていたというような気がしない。もちろん、私は幸せな育ち方をしたと思います。末っ子で、年齢的に親は丸くなっていたし、経済的にも一番安定している時代だったし、ノビノビ育ててもらったように思います。ただ、年がちょっと離れた末っ子なので、子供の世界のない家庭でした。親兄弟のドラマを、巻き込まれることなく傍観している、いわゆるままっ子的子供。だから、短大に入った頃からの私の方が、子供時代の私よりイキイキ、ノビノビしていると思える。幼子が天使であるとは思えない。幼子の心の中に関係なく、見た目の幼子のかわいらしさやあどけなさで、大人が勝手に、または願いとして、幼子を天使のようにイメージしているのではないでしょうか?幼子はすでに大人の顔色を見ることが出来る・・・。」確かに幼子も大人の顔色を見ていますね。自分も天真爛漫であった記憶はないので、えっちゃんの気持ちはよくわかります。でも、、もしかすると天真爛漫な時というのは、あまり記憶が残らないのかもしれませんね。今の顕在意識とは異質のものでしょう。えっちゃんにも天使のような時代があったのでは?赤ちゃんや動物の子供は、みんな可愛いですよね。猫の子も犬の子も、猿や鹿の子もとても可愛い。無邪気です。邪気。つまり、よけいな計らいがないのですね。要は、自分の損得を計算していないのですね。ただ無邪気に遊んでいる。でも、南米などの貧しい国にいるストリートチルドレンは、日本の幼児とは明らかに違います。ストリートチルドレンの方が大人びています。子供らしさがありません。何が違うのでしょうか。日本でも、大人びていて子供らしくない子供もいます。それは生活感でしょうか。一般的に、幼児には生活感がありません。生活に追われる大人のようにあくせくしていません。現実から遊離した自分ワールドの中で安心して遊んでいます。胎児は母親を通して外の世界を感じています。幼児も自分なりに周りと関わる中で、周りの人の状態を見ています。周りの環境によって、幼児の中から出てくるものが違ってきます。豊かな愛情の中で育てば、豊かな愛情が育ちます。冷たい否定的な言葉の中で育てば、同じようなものが幼児の中で育ちます。その子が元々持っている素質もありますが、環境とのマッチングにより出てくるものは異なります。しかし、一般的には、親に愛されて育つ子が多いでしょう。周りの人に保護されているが故の、おおらかさや安心感があるのですね。赤ちゃんや幼児に辛く当たる大人は少ないものです。そのことによって、赤ちゃんや幼児は安心して成長します。動物の赤ちゃんを見ても明らかなように、いきいきと好奇心に溢れています。周りにいるものを自然に癒すエネルギーに満ちているのです。それが大人になるに連れて薄れていくのは、大人びるからです。大人びるとは、大人の価値観に染まること。つまり、損得勘定でしょうか。自己の利益最優先型に変わるのです。赤ちゃんは必要以上の母乳を飲むことはありません。母乳を将来のために蓄えたりはしません。その時、その時です。それが歳を経るに従って、大人のパターンに変化していきます。所有、蓄積・・・それは物質だけに限らず、精神的なものも同様です。お金、物、財産、学歴、地位、名誉、家系、知識、能力、プライド・・・それらによって、どんどん不自由になっていきます。社会の価値観にガンジガラメになり、社会の中で認められようともがきます。比較・優劣の価値観の中で、自己を際立たせようとします。競争の中に生き甲斐を見出し、消耗していきます。幼い頃の新鮮さは、もうどこにもありません。最後は、ぴあのさんですね。「幼い子供は、まだ 自分がないから。何事も、右脳で感知し、即、感受する。思考というパイプがないから。即、感動、即、驚き。大人のように その後に思考パターンに持っていかないので 瞬間、瞬間が持続する。 いつもいつも、透明な純粋な意識でいる。自由な、何にも束縛されない意識。成長するにつれて、周りの環境からの様々な概念のインプットにより 自由な意識が制限されてくる。思考の発達とともに。頭で考えるようになってくる。良い悪いの判断をし始める。自由な意識は、常に 何かを選択する意識へと変わっていく。限定された意識は不安なので、常に自分の身の安全を確保することに意識が向かうようになる。自由からの分離、孤独、それらに縛られて 自分の内にある純粋な感受性を全く忘れ去ってしまった。」思考力の発達と共に自我が形成され、頭で価値判断するようになります。そうすると幼児期の輝く感受性は失われていきます。感動や驚きが消失します。価値判断は、感動や驚きを生み出しません。すべてを比較するため、そのもの自体が持つエネルギーを感じることができなくなります。すべては比較による相対的な価値に変化します。その世界には美や愛はありません。すべて過去と比較され、今が判断されます。いのちの躍動感が失われてしまうのですね。思考が人の意識の主要部分を占めてしまったために、幼児期の喜々とした喜びを忘れてしまったようです。自己の損得勘定が前面に出ることによって、純粋な愛をなくし、美しさをなくしてしまったのです。自分の安全を考えるあまり、何か大切なものを忘れてしまったのです。 思考=価値判断が、すべてをおかしくしているのでしょうか。今となっては思考のない世界は考えられません。しかし、思考を超えた世界はあり得るかもしれません。幼児期に後戻りすることは不可能ですが、更に前進することは可能です。思考を使いながら、思考を超える。それが今の人類の課題でしょう。それにはどうしたらいいか・・・まだまだ日記は続きます。『価値観で 判断すれば 純粋な 煌(きら)めき輝き みな消え失せる』『比較して 価値を決めれば そのものの 固有の価値が なくなってしまう』『金という 統一基準で 判断し 金で計れぬ 価値を忘れる』『金という 大人の価値の ない世界 気の向くままに 楽しいままに』『世の中の 価値の奴隷に 成り果てて 気づかぬうちに 一生が終わる』『世の中の 価値を学んで 価値を捨て 価値判断の 地平を超える』『価値観を 超えた世界は それぞれの 存在自体が ただ美しい』これが438日目の心境です。
2006.03.15
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「なくしたもの[1]」の続きせきせきさんは、普通の人が体験していないようなことをたくさん経験していますね。 それは一般的に言うと辛い体験なんだけど、貴重な体験でもあるんだね。なかなかできない体験。それはこれからの人生で大きく役に立つことになるかもね。子供の頃も、はっきりと覚えていますね。それは、それだけ強烈な体験だったからでしょうか。いろんな子供たちと出会ったのですね。いろんな環境も体験した。それは宝でなくて何でしょう。その体験を生かせれば、宝になりますね。その体験につぶされれば、地獄になります。どちらでも可能です。すべて、せきせきさんしだいです。子供たちは大人の価値観に染まっていきます。染まるまでは、自由ですね。大人とはまったく違う世界に住んでいます。価値観や判断がありません。物事を真っ直ぐに見つめています。それが終わるのは、価値判断をするようになってからでしょうか。大人の価値観が導入され、それに添って生きるようになります。正邪、善悪、優劣・・・そういうものが気がつかないうちに刷り込まれ、吸収し、自分のものになっていきます。言葉を自由に話せるようになるのと同じように。無自覚のままに世間の価値観に染まっていきます。それによって子供時代が終わります。ここで、また次のホームワークを見つけてしまった。どうしよう?二つ平行でやる?のは、きついよね。では、次の次のホームワークにしましょう。テーマだけ出しておきますね。テーマは、「価値観なしで生きることは可能でしょうか」です。可能、不可能という回答ではなくて、もう少し詳しく回答してくださいね。実際に一週間ぐらい価値観なしの暮らしをしてみるといいでしょう。それが可能だったか、不可能だったか、どういう問題点があったか・・・自分の中の価値観に、たくさん気づけるでしょうか。無意識のうちに持っていた価値観・・・価値判断なしに気づいてください。これは価値のある価値観だ。これは価値のない価値観だ。これは持っていてもいい価値観だ。これは外した方がいい価値観だ。そういう判断自体が価値観です。無条件に自分が持っている価値観に気づいてください。具体的に自分が持っていた価値観を書き出してみるのもいいでしょう。このサイトを読むことは価値がある?それも価値観ですね。このサイトは読む価値はない。もちろん、それも価値判断です。無意識の価値観は、たーくさんありそうですね。締切は、3月24日午前8時にしましょう。17日締切のホームワークが終わってからでも一週間はあります。一週間、じっくり自分を見つめてみてください。自分の中にどんな価値観が眠っているか・・・楽しみですね。次は、藍&aiさんですね。「息子が3人いるなかで末の息子の変わりように心を痛めています。小さな頃は天真爛漫で、その頃の写真もニコニコしている写真が多かった。いつの頃からか、暗い雰囲気になって。。よく言えば、とってもシャイな子になってしまった。このホームワークのこともあり、ずーっとこの子のことを考えていたら思い当たる節がいくつか浮かび、思わずひとり泣いてしまった母です。この子の成長を通して思うことは、それまでの過程にいくつもの不安や失望、絶望。。そして人からの否定的なメッセージがいくつもあったと思う。自分に自信を無くすこと、思うようにならないこと、人へのましてや家族への不信感の芽生え。。いくつもの嫌なメッセージを16歳になるまでにたくさん受け取らなければならなかったこと。。あたしもこの子の大事な場面で、仕事の多忙から、思うように見つめてあげていなかった。本当に必要とする時に、いつも解ってあげていなかった。。愛が欠けていた。。。本来おとなしい性格の末っ子は、さらに寡黙になり。。すべてにやる気をなくしていった。反発するくらい訊かない息子だったら違うのでしょうけれど、ぐっと我慢して我慢してきたんだ。そう思うと、いま現在も涙があふれてきます。もう取り返せないのでしょうか。。?この子に、もっと人生を楽しんで生き生きと生きていって欲しい。自分自身をみつめても話すことはありますが、今回のワークは息子を見つめて答えてみました。。大人がどうして子供のような生き生きとした、なんにでも好奇心と驚きと喜びに満ちていないか。。それは生きるために仕方なく選択したものが苦渋に満ちているものだからだろうか。。? ある程度の生活をするために我慢するものがたくさんあるとか。。いまの子供たちも将来のためにと言われ学校に行って、好きでもない勉強をして、面白みに欠ける先生の退屈な授業を受けなけらばいけない耐え難き時間。。それも自分の将来は、延々と今の大人たちのような魅力のない生活を得るためだと言い聞かせられて。。もし、子供たちが。。物心ついた時から『あなたはあなたのままでいいのだよ』と言われてきたら。。『あれも駄目。。これも駄目』と言われないで。。他人と比べられることもなく、そのままでいい。。と深く見守られながら育てられたら。。。 きっと、藍のような子育ての失敗はしなかっただろうな。。そして自分自身も親のように否定されてばかりいないで虐待されることもなく、不安に陥れられることもなく育てられていたら、自分の子供たちの育て方も少しはマシだったのかな。。。なんだか、藍ったら過去を悔いてばかりいますね。。でも、やはり子供たちに生き生きと生きていって欲しいと願うと過去の悪いことばかりが原因として思い当たります。これを元に将来を変えられるだろうか。。。?」小さい頃は天真爛漫だったのが、いつの頃からか暗くなる。それはよく見られる変化ですね。不安、失望、絶望、否定的なメッセージ、不信感・・・失敗を繰り返したり、周りから傷つけられたり、ネガティブな言葉を浴びせられたり・・・我慢、我慢、我慢・・・暗くなる理由はたくさんあります。でも、その暗さが一生続くとも限りません。どこかで転換が起きる可能性はあります。そういう経験をしてきている人も多いでしょう。明るく楽しい青春時代を過ごした人もあれば、暗く淋しい青春時代を過ごした人もあるでしょう。どんな経験であれ、それを乗り越えることは可能です。生活のために苦渋の選択をすることによって、人は子供らしさを失っていくのでしょうか。将来のために好きでもない勉強や仕事に耐えることによって、本来の人間らしさをなくしていくのでしょうか。親の価値観が子供にも引き継がれていくのでしょうか。それを転換することは可能でしょうか。もちろん、可能でしょう。それがつくられたものならば、つくり変えることもできるでしょう。それは本人と周りの人たちしだいでしょうか。まず本人の気持ちがあります。本人の気持ちをよーく聞いてあげることでしょうか。それによって周りの人ができることも違ってくるでしょう。「将来のため」とか「我慢」とか「あれもダメ、これもダメ」とか・・・ 基本的には、これまでやってきたことの逆をやればいいのではないでしょうか。つまり、これまでやってこなかったことをやればいいわけですね。「あなたはあなたのままでいいのだよ」とか「他人と比べることもなく、そのままを深く見守って育てる」そういうことを今からでもやればいいのではないでしょうか。遅すぎるということはありません。気づいた時に始めるしかありません。それと同時に、自分の生き方を見直す必要があるかもしれませんね。子供は親の鏡です。子供は親の後ろ姿を見て育つものです。自分の中の暗い面。我慢しているところ。苦渋の選択。不安や失望や絶望。否定や不信。そういうものを彼はわかりやすく見せてくれているのかもしれません。そういうものを洗いざらい見直すことによって自分が変われば、周りの人も自然に変わるのではないでしょうか。周りの人を変えることはできません。自分が変わることだけができることです。「隗(かい)より始めよ」本気で取り組むのに遅すぎるということはありません。親子同時に変化していく道連れになればいいだけのことです。すべては藍&aiさんしだいでしょう。「なくしたもの[3]」に続く
2006.03.15
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今日の屋久島は、薄雲のある晴れ。気温もだいぶ上がってきている。海も穏やか。今日は満月。はたして見えるだろうか・・・ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「大人は何をなくしてしまったのだろうか。大人はどうして喜々として生きていないのだろうか。あの幼い子供たちの楽しそうな笑顔をいつの間になくしてしまったのだろうか。」まず、みみとみさんですね。「子供の頃って、何でも新鮮で、全てのものが輝いていたように思います。知らないことばかり、あれはなんだろう、これはなんだろう。ワクワクして。大人になると、いろいろなことを知ってしまうから、いちいち感動しないんだろうなぁ。 家々の塀を見上げながら道を歩いていた。日の光であたためられた地面のにおいがした。ブロック塀さえも日に当たって、あたたかく白く輝いていた。空が澄んで鮮やかだった。木の緑が萌えていた……。ちょっと、理想化しすぎていますか? 宝彩有菜さんの本で、『色に憩う』という言葉に出会ったことがあります。今一時、考えることをやめて、これは、本だとか、これは、壁だとか、そういうことも思わず、(大人っていうものは、一瞬で判断し、わかったと思って、ちゃんと見ていないものなんです。)全ては、『色』であると思って見て下さい。そうすると、全てが輝いてくるのが、わかると思います。今一時を感じることができます。たぶん、これが、大人が忘れた、子供の感覚なんだと思います。私も、東京に勤めていますから、人々の疲れた無表情の顔も、見慣れてしまいました。 ともすると、自分も怪しいところです。都会では、敏感な感性をもっていると、苦しくなります。空気が薄いとか、人との距離が近すぎるとか、周りの人の動きを察するとか、そういう感覚自体が、じゃまになってしまう世界です。私は、なぜか、昔から感覚が敏感なので、もう4年目だというのにちっともそのような感覚が鈍くなってくれません。(笑)東京や都会育ちの人は、そういうことに慣れてしまって、全然気づかないようです。私は、自然がある場所が好きだから、いつ、ここを抜け出すか、いつも考えています。」 大人になると、確かに感動が減りますね。すべての鮮度が落ちてしまう。見たつもり、わかったつもりということでしょうか。すべてを既に知っているという目で見てしまうのですね。それは過去の記憶で見ているということでしょうか。今をありありと新鮮に感じてはいません。都会では、敏感なことは苦しいかもしれませんね。あまりにも人口密度がありすぎるから。適度な距離が保てないのですね。ブロックしないと、自分の領域に侵入されてしまう。無意識のブロックがあるのかもしれません。それも感性を鈍くさせていることの一因でしょうか。すべてが色でできているという視点で見ていくと、確かに見慣れた景色も違ってくるかもしれません。鮮度が甦ってくるでしょう。判断・解釈以前の、素のままを見、聞き、感じることでしょうか。次は、優しい気持ち2005さんですね。「大人が無くしてしまったのは、心の自由さでしょうか。幼い頃は好奇心が自由に発露し、その心のおもむくままに行動できる、まさに心がニュートラルな状態。一方で、つかんでしまったのが生まれてからの『記憶』。小学生にもなると記憶の回路が発達します。1日前のことであれ、過去の記憶によって判断基準が生まれ、そこから行動が制約を受ける。外部から得た価値基準によって本来の心の動きが制約されるために笑顔が失われる。つまり、大人が喜々として生きていないのは、過去の記憶に縛られて、過去を生きているから?以上です。」 判断基準、価値基準・・・そういうものによって心の自由が制約されたということですね。過去の記憶に縛られ、過去を生きている・・・生きていく中で、いろんな経験をして学習します。それが記憶として蓄えられます。その記憶が今に出てきます。今に影響を与えるのですね。過去に失敗したところに来ると、過去の記憶がフィードバックしてきます。そこで、緊張して、注意して進むことになります。そうすると、今度は失敗しない。過去の記憶が生きたことになります。ところが、過去に手痛い失敗をしていると、似たような状況になった時に、今度は恐怖が生まれます。また同じ失敗を繰り返すのではないか・・・そして、恐怖のあまり過度の緊張が生じ、また同じ過ちを繰り返します。記憶が今に生かされるどころか、記憶のために今が台無しになってしまいます。この違いは何でしょうか。これはかなり重要なポイントですね。これは次のホームワークにしましょう。記憶が生かされる場合と、記憶によって妨害される場合。その違いを生むものは何でしょうか。これが今回のホームワークのテーマです。締切は、3月17日の午後6時まで。BBS欄に書き込んでください。参加は自由です。但し、自分自身を見つめて、自分の言葉で回答してください。本の知識や人から聞いたことは無効です。自分自身で発見することに意味があります。次は、せきせきさんですね。「幼い頃の自由と引き換えに私が今握り締めているもの、怒り、恐怖、不安、経験、価値観・・・自我。ずっと疑問だった、何故四葉のクローバーという、レアものはハッピー象徴で、人間の障害はハッピーではないか。生えている髪は綺麗で、抜けた髪が嫌だと感じてしまう心。できたご飯はおいしくそうで、残飯は見つめられないのか。町の浮浪者をみようとしないで、町の華やかさを見てしまう心。私の心のシステムがわからなかった。私は、本当に歩けない時、誰も見ていなければ、四つん這いになって、犬みたいだ~と本気で楽しく歩く(笑)外では歩けない。人目が怖い、噂、自分を意識する。私は、小さい頃、身体、知的、不良など様々の児童のいるユニークな場所にいくつかいた。まっすぐに歩けなくておもしろい友達もいたし、喋れない子やスローにしか動けない子は大好きだったし、車椅子に憧れた。その事が不幸だと知ったのは、福祉の守る権利が沢山あることを知った時。私達は弱者なのだと思った。食事は大人との取引で食べれたものだった。その中で、盗む子がいた。ほんの少しのおやつを部屋においとくと、かったっぱしから盗んでいった。でも、私達子供達は、誰もそれを悪いことだとは思わなかった。盗む子にわざわざとっておく子もいた。盗む場面を見ても、全然なにも思わなかった。 貴重なものだったが、それを盗られることは、ひどい、という思考に繋がらないし、言いつけることもしなかったし、その子自身にも繋がらなかった。知らずに、その子は盗み癖をやめた気がするが、それすらも気がつかないくらい、当たり前の出来事だった。今考えれば、皆偉かったなあ、ハグしたいよ。なんて思うけれど、褒められることも必要ないくらい、自然。お腹がすいているし、明日はもらえないかもしれないのに、食べ物を盗んだ、ひどい! そんな思考使う必要がなかった。それを意識する時は、大人が入る時。大人が罰を与え、恐怖を与え、これはひどいと嘆き、『問題』を作り出す。大人に褒められると『得』だと意識した時。(言いつける)自分が認められているのがいいのだ、と意識した時。(いい子ぶる)支配の枠の中に入ると争い、お互いを蹴落していく。自分を偽る。楽しさが生まれない。そう、大人は今の私です。この世界の非苦と思われているもの、それは、小さな私の捉われから始まっている。相手の行動がなんであれ、怒りや責めが生まれる時、もう非苦の世界に入っている。善と判断すれば悪を作る。悪を恐怖の対象にする。幸せと判断すれば、不幸な状態にならないよう、必死に逃れる。キリスト様は、その世界から抜け出なければ、天国にまた非苦の世界を作り出すから、入れないとおっしゃっている気がします。自由とは、相手や自分を判断しない子供のような心?汚いものも綺麗なものも関係なく、だから恐れもなくまっすぐ、見つめる。捉われがないから、一日一日が水の流れのように、自然に宇宙の摂理のように流れていく。それが、とても『尊いこと』と感じ出しています。何人に『愛している』といわれるよりも、もっと自分を大切に思える。何も持とうとしていないのに、満ちた感じがするような?まだまだ病気に捉われ中ですが。『言いつける』や『いい子ぶる』は大人の価値観の世界により、子供達がその世界で自分を偽った表現をして、それを大人がまたその子の状態を判断しているのですね。今きがつきました。思考の世界は複雑です。『わざと悪くふるまう』というのも自分の偽り、認められない自分をわざと演じて、気をひくという行為ですよね。自己否定感は、褒められなきゃということからも発生する。大人が子供に対していいことをしているつもりでも。そして、けなすということが、人を傷つける方法と学ぶ。そして、『いじめ』という現象を引き起こす。知り合いの小学校のクラスでの相当ないじめがあり、大人は現象だけをみて、子供を裁いたり、先生をせめようとします。その気持ちはわかります。子供のいじめはハード。周りはアパシー。その現象を先生が生み出したと関連づける。(実際先生は、3次元世界ではひどいと言葉づけられるけど)もうその心が、判断。悪者つくり。子供の今の現象と同じ土俵のパターンを持ち出している。『自分の子供がそういう目にあってないから、そんな悠長なこといえるのよ』そう言うとしても、もうその『自分の子供』だけ助けるということが所有。それが、今までのよくも悪くもないけど、事実であり、今までの当たり前の世の中。これからはそれを越える。自分が愛に満ちていく先に、キリスト様の仰る天国を作ることができるでしょうか。」「なくしたもの[2]」に続く
2006.03.15
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今日も屋久島は寒い。最近はかなり観光客が来ているようだ。レンタカー屋の車が少なくなっている。それによって観光客の多寡(たか)がわかる。ここのところ寒くて天気が悪い。少し気の毒な気がする。せっかく南の島に来たのに・・・温泉にでも入って、あたたまってくださいな。昨日のコメント欄に「祈り」について次のような書き込みがあった。「私は祈りをしますが、周りの人、出会った人、キリがないですよね。そう、先祖供養と一緒な感じです。おまけに、なんて祈っていいかわからなくなる。病気が治るように?とか、いい方向へ行くように?とか、幸せになりますようにとか、勝手ですよね?私自身が、その方が幸せではないとか、病気が悲しいとかの判断をしてメッセージを送っている気分になります。これって、本当の祈りなのでしょうか。私の外に出すと、なぜか自我になってしまいます。私自身が『祈り』になればよいのかな?でも祈りの本当の意味がまだわかりません。祈りって、外に出してしまうと、叶わないと思う気持ちもうまれます~。『まだ祈りがたりない』と、欠乏しているように感じる。祈りに操られている。日記の偶像崇拝と一緒のような気がします。外に祈るより、この前のホームワークみたいに、イメージ現実化やった方がよいかもですか?私は、昔は祈りを馬鹿にしてましたが、病気になって周りの悲惨(と決め込んでしまった)人達を見て祈りが復活しました。でも、途中で、不幸な人に祈るなんて嫌じゃ~!!とキレてしまいました。『誰が不幸って決めてるんじゃ、ご飯が食べれなければ?事故が重なれば?病気が重なれば?だまされ続ければ不幸?』そう、不幸って決めていたのは私だったです。自我を満たす祈りをしていた気がします。祈りという言葉さえいらなくなる、祈る主体がなくなるなんて!全てを抱き参らせている時でしょうか?愛の中のエネルギーのひとつなのかなあ?愛っていうのは、自分がどのエネルギーが相手に必要っかなあって判断しない時、自然に流れていくものなのかなあ。私が今までやってきたことは、小さい愛だったのかな。相手が苦しそうだから、励まそう、悲しそうだから同調しようとしていた私。おまけに、その人をそんな苦しめた相手をひどいって言ったりして。判断の先に出たエネルギーで包もうとしてましたが。それを越えた愛、その愛の種類でしょうか。愛が溢れるようになる自分に出会えば、わかってくるかな。まだ出し惜しみしてるのかな。自我様の砦で。」祈りとは何だろう?人はどんな時に祈るのだろうか。自分ではどうにもならない時?何かの助けがほしい時?なんとかしてほしい時?子供が病気の時?悲惨な現実を目の当たりにした時?死が避けられない時?苦しみが増す時?心理的に耐えられない時?現状をなんとか変えたい時に、人は祈るのだろうか。現状を認められない時に、人は祈るのだろうか。現状を見るに耐えないので、人は祈るのだろうか。現実逃避?人は何に対して祈るのだろうか。神に祈る?どんな神に?自分が信じる神に?仏に祈る?どんな仏に?御利益のありそうな仏に?天使に祈る?守護霊に祈る?御先祖様に祈る?祈りがかなえば、感謝する?お礼参りする?かなわなかったら?もう信じない?神も仏もない?必死の祈りが実現したという話は、たまに聞く。自分の命と引き替えに子供の命をお守りくださいという母の必死の祈りは、聞き届けられることもある。しかし、いつも聞き届けられるとは限らない。子供が自ら死を選べば、母親の願いは虚しく消えるしかない。子供にとっては、それで十分。母親も子供を亡くした体験を今生ではすると潜在意識で決めている場合もある。悲惨な現実が、必ずしも悪いということではない。必要があって、そのような現実を引き起こしている場合もある。交通事故によって、これまでの生き方を見直す機会に恵まれる。重病になって、生きていることのすばらしさに目覚める。障害児が生まれることによって、何が大切なのかに気づく。一般的に悪いと思われていることが、必ずしも悪いわけではない。現象の利害得失だけでは推し量れないものがある。「人生万事塞翁が馬」という諺もある。何が吉となるかわからない。表面の浅はかな気持で判断すると、大きな過ちを犯すこともあり得る。ただ事実と共に留まる。事実と一緒にいる。事実を直視する。事実から逃げない。事実と居切る。相手は苦しいだろう。早く楽になってほしい。楽にしてくださいと祈る。それも悪くはない。でも、もう少し深く相手と一緒にいることはできないだろうか。どうしてこんなに苦しんでいるのか。もっと深く感じることはできないだろうか。相手と一緒に居切ることによって、相手の状態を更に深く感じることはできないだろうか。本当に相手と一緒に居切れたら、相手の状態が手に取るようにわかる。それと同時に、こちらから相手へエネルギーが流れる。何もしなくても、一緒にいるだけでエネルギーが流れる。祈るまでもなく・・・祈りには、願いがある。その願いはどこから来るのだろう?自分の願望?愛?愛自体には方向性はない。相手と一緒にいれば、自然に相手に流れる。何もしなくても相手と一緒にいることによって、愛の方向性が決まる。愛のエネルギーは癒し。無条件の癒し。何の願望もない。自我の入る余地はない。ただ純粋な愛が流れるだけ。本当に深く人と居切れるだろうか。自分の思いの混じらない純粋な愛が流れるほど、相手と一緒に居切れるだろうか。目の前の現象に目を背(そむ)けないで、その現象と共に居切れるだろうか。目の前の事実から逃げないで、事実と共に居切れるだろうか。どんな悲惨な現実でも、どんな苦しい状況でも、それらと共に居切ることができるだろうか。安易な祈りに逃げないで、事実と共に居切る。それができるだろうか。できれば、人生が変わるかもしれない。思いの次元から自由になれるかもしれない。思いを超え、ただ静かに一緒にいる。深い深い静けさの中で、共にある。その時、思いを超えた次元から別のエネルギーが届く。その時、必要であれば必要な変化が起きる。自我の判断を超えた変化が・・・自我で判断し、祈る。一歩間違うと、欲望の祈りとなる危険を孕(はら)んでいる。もし祈るのならば、自分自身をよーく見つめながら祈るといい。それが意識のどのレベルから来ている祈りか・・・自我ではないという思い込みに注意しながら・・・できるだけ相手を尊重する。相手の存在を、そのまま尊重する。自分の希望を押しつけない。自分の祈りを押しつけない。相手の生き方を尊重する。ただ相手と一緒にいる。ただ事態と一緒にいる。その時、どれだけ深く一緒にいられるかが問われる。どれだけ意識の深いレベルで一緒にいられるか。意識のどの次元で生きているか。日々の生き方が問われる。思いを超えた次元で、ただ一緒にいる。いかなる思いもなく、ただ一緒にいる。共に苦しみ、共に泣く。ただ涙がこぼれる。苦しんではいない。泣いてもいない。ただ涙がこぼれるだけ。色の世界の苦しみや悲しみと共にいる。空の世界の、それらを超えた次元と共にいる。共に苦しみ、共に悲しみ、それらを見守る。苦しみや悲しみの心は伝わる。それは涙となって頬を伝う。それでも静かに見守る。ただ見守る。思いを超えて見守る。『人類の 非苦の事実を 逃げないで 思いの次元 超えて見守る』『現象に 囚われないで その奥の 深い意識を 静かに見守る』『必要な 変化はすべて 本人が 自分で決める 応援するだけ』『縁のある 一人一人の 生き方を ただただ静かに 黙って見守る』これが437日目の心境です。
2006.03.14
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今日の屋久島は寒い。久しぶりに寒い。朝方は風が強く、屋久島発の高速船は欠航になった。飛行機は第二便は先程着いたが、第一便は音が聞こえなかった。えっちゃんから次のようなコメントが届いた。「観音様って、音を観るっていうことって聞いて、観世音大菩薩の略が観音様だとしたら、世の音を観ると言う事ですよね。これは、サンスクリット語の音訳でなくて、ちゃんと意味のあるお名前だとしたら、この世の、または人々の波動を見守る仏様といことでしょうか?波動はエネルギーのことかなあ?観音様は私たちの生きるエネルギーがいい波動をしているか見守ってくださってるのですか?子供の元気を見守る母親のように。手のひらの地球を見守る慈母観音・・・ちょっと、身近にかんじました。」観音菩薩は、観自在菩薩から転じたものらしい・・・本来はアボロキティシュバラーとサンスクリッドでは言う。すべてを見通せる存在という意味。般若心経の一番最初に出てくる。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色・・・」すべては空であり、苦しみは一切ないということがわかる存在。そのことを釈迦の十大弟子の筆頭である舎利子(シャーリープトラ)に説き聞かせたのが、600巻にのぼる大般若経。そのエッセンスが般若心経。日本で広まっているものは、西遊記の三蔵法師が漢訳したものがベースになっていると言われている。私達が観音菩薩に見守られていることは間違いない。しかし、私達一人一人がその存在でもある。観音菩薩と自分自身は別々ではない。自分の中にもそのエネルギーは流れている。ある次元で合流している。自分の外に見ない。自分の外に見ると、仏像やキリスト像を造ることになる。それは分離の意識。それらの偶像を拝み、願い事をする。そうすると、それらのものは自分から離れてしまう。遠い遠い存在になってしまう。ただ崇拝するだけに終わってしまう。一般衆生に普及する方便として途中からそういう方法が採られた。しかし、最初は偶像などはなかった。お釈迦様やイエス・キリスト本人が生きていたから、そういう必要はなかった。イスラム教では、今でも偶像は禁止されている。その部分に関しては、本来の姿を保持している。荒れてすさんだ衆生の気持を偶像に集中させることによって、やすらぎを見出させる。それが念仏であれ、お題目であれ、それなりの効果はある。御仏の慈悲にすがり西方浄土を求める。それはあまりにも厳しい娑婆世界から救われるための方便。それによって心がやすらぎ、癒されれば、それはそれで救い。そういう時代もあった。偶像を拝むことによって、自分の中にある仏心やキリスト意識が溢れ出るのであれば、それはそれでいいのかもしれない。偶像とはいえ、確かにエネルギーが来ているものもある。それはエネルギーチャージャーの役割を果たす。ややもすると自我に流れやすい意識を、仏心やキリスト意識の方へ向ける効果はある。そういう意味では、小さなロザリオですら否定することはない。しかし、自分の中に仏心やキリスト意識を直に感じれば、偶像は必要ではなくなる。元々、偶像は方便。自分の中の仏心やキリスト意識に気づくための方便。しかし、それを長い間やってきて、いつのまにか本来の意味が見失われてしまった。すべてを外に求めるようになった。自分自身の中にあるものを外に求めるようになった。それが西方浄土であり、天にまします我らが父になってしまった。今ここから遠く離れてしまった。遙か彼方の憧れになってしまった。まるで古い記憶ででもあるかのように・・・それでは青い鳥探しと変わらない。いつまで経っても青い鳥は見つからない。方向が違うから。外に求めているから。それでは逆に自分と仏心やキリスト意識とを切り離してしまう。真実は外には存在しない。自分の内にしか存在しない。外のものを崇(あが)め奉(たてま)っている限り、自分を低きに貶(おとし)めることになる。罪の子、罪業深甚救いなし。我らの罪を許したまえ・・・罪悪感の虜となってしまう。それは多くのキリスト教徒の潜在意識の中にある。それは教会権力の民衆支配の手段にもなってきた。贖罪(しょくざい)、免罪符・・・自分の外に権威を認めれば、支配されるしかない。一切の権威を認めない時にだけ、完全な自由がある。たとえそれが仏陀やイエス・キリストであろうとも、権威を認めた途端、従属することになる。その時、意識の自由は消失する。同時に真実の自分に出会うこともできなくなる。真実の自分は完全な自由。自分の外に権威は存在しない。完全な自由になるためには、偶像は邪魔者以外の何ものでもない。それはプロセス。人類の意識の発達史の途中経過。それは単なる憧れ。人類の憧憬。まだ人類が夢見ていた頃・・・もう夢から覚める時。自分が夢を創る時。自分の夢を実現する時。中心を自分自身に置く時。偶像も思い込みの産物。自我も思い込み。慈悲のエネルギーを、あんな小さな仏像に封じ込めることができるだろうか。自分という偉大な存在を、どうして小さな自我に閉じ込めてしまうのだろうか。いずれもエネルギーを歪曲しただけ。小さく小さく封印しただけ。イメージ。思い込みの世界。仏像もキリスト像も美しい。そこにはエネルギーが流れている。しかし、人から流れ出す愛や慈悲のエネルギーは、偶像から流れ出すものよりも遙かにすばらしい。偶像は、愛や慈悲が人から流れ出すためのきっかけであり、方便に過ぎない。これからは一人一人が仏像となりキリスト像となる時代。偶像を崇めたり、拝んだりする時代は過ぎた。一人一人が愛となり慈悲となる。方便はいらない。ダイレクトにそのものになる。観音菩薩も仏陀もイエス・キリストも、すべて繋がっている。それらは別々の存在ではない。自分を中心に同心円のようにひとつに繋がっている。自分自身を低からしめない。自分を小さく規定しない。自分の限定を外す。無限定。無制限。それが自分の真実。もうママゴトは終わり。思い込みの夢から覚めて、真実を生きる。偶像や自我という小さな思い込みから自由になって、無限定の宇宙に遊ぶ。自分の夢を実現させる。楽しく遊ぶ。夢と知りながら夢を楽しむ。無自覚の時代は終わった。無意識の時代は終わった。思い込みの時代は終わった。はっきりと目覚める時代。リアリティで生きる時代。『仏像も キリスト像も 人類の 非苦の歴史の 生み出せるもの』『観音の 願い生きれば そのままで 一人一人が 観世音菩薩』『現世(うつしよ)は 現れ消える 一時(ひととき)の 無常の夢と 知るや知らずや』『現世(うつしよ)の 夢とも知らず 夢を見て 夢に遊ばれ 夢に溺れる』『現世(うつしよ)の 夢と知りつつ 夢を見る 夢と戯(たわむ)れ 夢を楽しむ』これが436日目の心境です。
2006.03.13
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今日の屋久島は、朝から雨が降っている。今も強風が吹いている。気温も低い。明日はもっと寒くなるとか・・・早春は三寒四温。子供たちが波打ち際で遊んでいる。砂のお城を造って遊んでいる。明日になれば消えてしまうお城を楽しそうに造っている。子供たちは明日のことは考えていない。この城がなくなることは微塵も考えてはいない。今、城造りを楽しんでいるだけ。赤ちゃんや幼い子供たちは、好奇心に溢れている。見るもの触るものが珍しい。驚きと喜びに充ち満ちている。楽しくて仕方がないように、いきいきと遊んでいる。楽しさは外にあるのではなく、彼等の内にあるように見える。彼等は楽しさの素を持っているのだろうか。その楽しさの素が、楽しさを外に見出しているのだろうか。外に楽しさはない。大人が同じものを見ても、少しも楽しくはない。子供だけが楽しさを発見できる。何が違うのだろうか。大人になると感動する機会はめっきり少なくなる。子供の頃は興奮するものがたくさんある。ワクワクすることに満ちている。何が違うのだろうか。大人でも、たまに楽しそうに生きている人もいる。感動して喜びに満ちている人もいる。しかし、多くの大人は生気のない顔で毎日を過ごしている。特に都会に住む人は、その傾向が強い。何が違うのだろうか。子供の頃にあったものをなくしてしまったのだろうか。何をなくしてしまったのだろうか。楽しさの素をなくしてしまったのだろうか。魔法の何かを忘れてしまったのだろうか。それとも、夢が覚めたのだろうか。もしそうなら、夢の中にいた方が楽しかったのだろうか。大人は何をなくしてしまったのだろうか。大人はどうして喜々として生きていないのだろうか。あの幼い子供たちの楽しそうな笑顔をいつの間になくしてしまったのだろうか。これはホームワークにしよう。締切は、3月15日午前8時。BBSに書き込んでください。参加は自由。誰でも参加できます。但し、自分自身を見つめて回答してください。本の知識や人から聞いたことは無効です。自分を見つめることが何よりも貴重です。イエスは、幼子のようでなければ天国に入ることはできないと言った。幼子の心をなくした我々は天国へは入れないのだろうか。何が足りないのか、何をなくしてしまったのか・・・『パッチリと 瞳開いて 物事を 真っ直ぐ見つめる 恐れ知らずに』『幼子は 愛に守られ 健(すこ)やかに 幸せ振りまき 喜々として生きる』『いきいきと 生気に満ちて 生きていた 幼い頃は 夢のまた夢』『様々に 傷つく中で 素直さを なくしていって 心閉ざして』『幼子の 心なくして 忘失(ぼうしつ)の 海を彷徨(さまよ)う 行くあてもなく』『幼子は 愛を振りまき 生きるもの 嬉し楽しの 世界のように』これが435日目の心境です。
2006.03.12
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今日の屋久島は、外に出て野山を歩きたくなるような陽気。完全に春モード。目の前の山が迫力を持って迫る。山の大きさを感じる。大きい・・・自分の真の望みは何だろう?自分が光り輝くこと?みんなが光り輝くのをサポートすること?新しい時代を切り開くこと?光の時代とは、どんな時代だろうか。みんなが光り輝いている。光に満ちて幸せに生きている。誰もがハートベースなので、争いがなくて平和。それぞれが個性を輝かせている。自分の望むことをしている。自然と共に草花を育てる人もいるかもしれない。いろんな動物たちと一緒に暮らす人もいるかもしれない。未知の秘境へ冒険に出かける人もいるかもしれない。ユニークな建物を造る人もいるだろう。オリジナルの音楽を作曲する人もいるに違いない。千差万別、人の数だけの個性が輝く。人に教えることが好きな人は、教師になるかもしれない。スポーツのインストラクターもいい。映画や演劇のアクターやアクトレスになる人もいるだろう。ありとあらゆる仕事があり得る。自分がやりたいこと。挑戦してみたいもの。人の役に立つこと。喜んでもらえるもの。何でも可能。今の世は、生きるために働く。食べるために一日の多くの時間を費やす。動物次元の延長。肉体を維持するために生きるという生物次元の生き方。それがベースになっている。良いも悪いもなく、それが事実。エネルギー革命が起きれば、社会が変わる。有限な石油や原子力から、無限のフリーエネルギーになったら、エネルギーはほぼタダになる。そうなれば社会システムすべてが変化する。これほどまでに資源を求めて争い合うこともなくなる。生活が保障されれば、また生き方が変わってくる。今は、その過渡期。フリーエネルギーが実用化されるためには、人類の意識がもう少し自由になる必要がある。自我から解放される必要がある。自分のもの。自分という意識が、もう少し薄れる必要がある。そうでないとフリーエネルギーさえ自己所有しかねない。それではフリーエネルギーではなくなってしまう。フリーエネルギーというのは、個人的な所有のない完全自由なエネルギー。それは自己所有である自我とは矛盾するエネルギー。所有という概念がないのが、フリーエネルギー。フリーエネルギーと自己資産は矛盾する。所有しない。使用するだけ。フリーエネルギーとは、そういうもの。本来、エネルギーというのは、そういうもの。宇宙に無尽蔵に存在するもの。ただ、人類の意識の程度によって、それが使えなかっただけ。人類の意識レベルに合ったものが使えるだけ。人類の意識が解放されない限り、フリーエネルギーは遠い。意識を解放する人が増え、その中の先駆者がフリーエネルギーを開発する。そのエネルギー革命によって、残りの人類の意識も格段に進化する。たぶん、そういうストーリーだろう。これから人類の意識は飛躍的に深化する。自我から解放されていく。ハートベースに移っていく。それに伴って社会のシステムも変わっていく。フリーな時代になっていく。自我からフリーな時代。これまでのような物質ベースの意識ではなくなる時代。まったく異なる意識に変化する時代。意識は周りの環境によって形作られる。自然環境、家族環境、社会環境、地域環境、時代環境、人類の意識状態、地球のエネルギー状態・・・そういうものによって人の意識は規定される。しかし、誰かがそれをブレイク・スルーする。時代がそういう人を生み出す。これまでの社会の枠を破る人。最初は、そういう人は異端視される。しかし、そういう人たちが増えてくると、社会の方が変わっていく。これからはそういう時代になる。これまでの価値観が逆転する。自己所有が価値があると思われた時代から、フリーであることが何よりも価値があるという時代へ。もう自己所有の時代ではない。フリーな時代。自我という自己所有から解放される時代。何もないところに、すべてがある時代。フリーエネルギーという無限のエネルギーを手に入れる時代。小さな所有にこだわっている時代ではない。自我の時代は終わる。活用する。存在するものを生かして使う。所有しない。楽しむ。そういう時代になる。手放す。手を離して生きる。何ものも掴まない。フリーハンド。自己所有しない。持たないことが、自由。所有すれば、所有したものに縛られる。所有すれば、所有したものになってしまう。何も持たない時に、完全な自由がある。フリーな時代になる。意識も社会も。新しい時代が始まる。そのために生まれてきた。新しい時代を見るために・・・『何ものも 所有しないで 使うだけ 掴んでしまえば 苦しみの元』『空っぽの 意識ですべてを 見る時に 一つ一つが 鮮明に映る』『何であれ 掴んでしまえば 自我となる こだわり囚われ 非苦の源』『所有した つもりがいつか 所有され 虜(とりこ)になって 身動き取れず』『何事も 固執しないで 楽しんで フリーハンドで 自由に生きる』『何ものも 空(から)の意識で 使うだけ 物もお金も 記憶も思考も』『何もない 空の意識で 時々に フォーカスしながら 生きてゆくだけ』これが434日目の心境です。
2006.03.11
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今日の屋久島は、午前中は曇っていたけれども、午後からは晴れた。明日も良い天気らしい。春の草花が咲き始めている。自然の移ろいは美しい。それをながめて楽しむのもいい。月日は飛ぶように過ぎていく。ゆっくりと人生をながめながら暮らす。それもいい。でも、それだけでは、なんとなく物足りない。映画やテレビを見ているだけではつまらない。自分も同じように行動してみたい。人生をリアルに楽しみたい。自分も参加してみたい。そう、人生はながめているだけのものではない。自分も参加して一緒にクリエイトするもの。この地球を、この人生を一緒にクリエイトする。しかも、自分の望むようにクリエイトできる。望みのままに・・・・実際に手足を動かしてクリエイトする。しかし、その前にクリエイトするビジョンを描く必要がある。よりクリアーに、より鮮明に・・・リアリティがあればあるほど、実現は早い。自分だけの幸せを求めると、他の人から否定的なエネルギーが飛んで来る。それでは実現が妨害される。みんなの幸せをイメージすれば、どこからもネガティブなエネルギーは飛んで来ない。逆に、みんなが応援してくれる。実現はより早くなる。そのビジョンを心から楽しむ。心から・・・少しでも疑いや不安や心配があると、そちらの方が実現してしまう。ビジョンよりも不安や心配の方が強ければ、強い方が実現する。明確にありありと楽しむ。それに成りきって楽しむ。実現した状態をイメージして楽しむ。実現した状態をありありと感じていると、本当に実現する。もちろん、ビジョンができたら、体を使って完成に向かって努力してもいい。そうすれば更に早くなる。現実に作業して、それをフィードバックして、更にこまやかにビジョンをつめる。イメージの中で完全に完成させる。それを物質世界に映し出すだけの状態にする。毎晩、眠る時にイメージして楽しむ。イメージしたまま眠ると、それは更に現実化しやすくなる。イメージそのものに自分が成りきって楽しむ。他の人の人生には干渉しない。自分の人生を尊重するように、他の人の人生も尊重する。周りの人の自由意志を尊重する。自分の意のままに動かさない。彼等の人生の決定権は彼等に与える。一人一人の人生の選択を尊重する。四季の移り変わりをながめて楽しむ。その中に自分で種を播いたり、建物を造ったりして更に豊かにする。自分の望む世界を自分の回りに創造する。それが人生。この現象世界。気に入らなければ、創り変えればいいだけ。いかようにも自分の好きなように創り変えることができる。自分の周りの環境も人間関係も、自分の望むままにクリエイトできる。自然を生かし、周りの人を生かし、創り上げる。すべての人が幸せになるようにクリエイトする。静かに自分が望む世界をイメージする。自分は本当はどんな世界を望んでいるのだろうか。自分は本当はどんな人生を望んでいるのだろうか。自分は本当はどのように生きたいのだろうか。よーくよーく自分自身を見つめ、自分の生き方を決めるといい。いかようにも、どのようにもクリエイトできる。自分の人生は自分で決める。運命や環境や他人のせいにしない。自分の人生の主導権を自分に取り戻す。自分こそが自分の人生の船長。他の誰にも自分の人生行路の舵取りを任せてはならない。自分の人生は自分が決める。そして、その結果を楽しむ。自分のオリジナルの人生を創り上げる。無意識にではなく、意識的に。条件づけられ、刷り込まれた表面意識からではなく、深い意識が望むことをクリエイトする。真の自分の人生をクリエイトする。この現実世界にそれが現れるのを楽しみながら待つ。自分の人生を自分で創り上げる。最高に楽しいこと。ファンタスチックでロマンチックで、夢に充ち満ちている。作家であり、脚本家であり、演出家であり、主人公でもある。自分の望む役を自分で演じることができる。自分の望む世界を自分でクリエイトすることができる。それが人生。これからの生き方。これまでは無意識のままにクリエイトしていた。気づかないうちに自分の望む人生を創り上げてしまっていた。それは表面意識が望んだことではなく、潜在意識が強く望んだことだった。潜在していた恐怖や不安や心配が現実化してしまった。苦しみや悲しみの多い人生だった。争いばかりの人生だった。なぜ?それは自分の人生を理解していなかったから。周りの状況に翻弄され、流されるだけの人生だったから。自分で自分の人生をクリエイトしようとしてこなかった。周りの価値観を信じ込み、社会に流されて生きてきた。真の主体性を実現できていなかった・・・これからは、人生を深く理解し、自分の人生を自分の手に取り戻す。周りに流されるのではなく、自分の内なるビジョンを実現する。今生に生まれて来る時に持ってきたビジョンを実現する。意識の中心を外にではなく、内に置く。表面意識にではなく、深い深い意識に置く。そして、現実社会をクリエイトしていく。自分が真に望むように・・・『内にある ビジョンを外に 送り出し 創って見るのが 現象世界』『これまでは 無意識のまま なんとなく これから先は 意識して創る』『現実の 物質次元の ただ中に 自分の望む 世界を創る』『外側に 翻弄(ほんろう)されず 内側の ビジョンに気づき 実現させる』『船長に なってこの世を 楽しんで 自分の望む 航海をする』これが433日目の心境です。
2006.03.10
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今日は一日中、激しい雨が降っていた。飛行機も2~3便欠航になったようだ。たぶん視界不良だろう。有視界飛行の限界。夕方、買い物に行った。行きは激しく雨が降っていたが、帰りにはほとんど止んでいた。濡れた路面を車が滑るように走った。思考はほとんど動かない。ボーッとしているわけではない。意識ははっきりしている。まるで瞑想しているようだった。思考が動き回って煩(わずら)わしい時は、自然の中へ行くといい。自然の中で思いっきり動くと、思考はあまり働かなくなる。真剣にスポーツに打ち込んでも、思考はあまり働かなくなる。しかし、あまり自然の中にばかりいると思考力が落ちる。運動ばかりしていても思考力は落ちる。思春期に自然の中ばかりで育つと、思考力は発達しない。思考力が発達するには、適当な刺激が必要だ。自然の中で育てば直感力は鋭くなる。しかし、思考力はあまり発達しない。思春期までは自然の中で育てると、豊かな感性が育つ。その後は、思考力を発達させるためには少し刺激があった方がいい。刺激がないと思考力は発達しない。自然の中に浸ると、思考力は必要ではなくなる。自然の中で必要なのは、鋭敏な感覚。そして、直感。自然の中で自然と共に育ち、豊かな感性を身につける。思春期頃になったら、いろんな人と交わって刺激を受ける。相対比較の世界で思考力を発達させる。そして、大人になったら、自然と共に思考を超えた世界に入っていく。まず自然の中で肉体や五感を健全に発達させる必要がある。家族に守られた安心できる環境の中で、豊かな感性と感情を身につけるといい。右脳を発達させる時期だ。やがて思春期になり、思考力が発達し、異性や他人を意識するようになる。家族という守られた世界から、自立をめざし、多くの人と交わる。いろんな刺激を受ける中で、自意識が確立し、思考力が格段に発達する。具体的なものから、抽象的な思考へ移行していく。左脳を発達させる時期だ。右脳も左脳も発達すると、今度はそれを統合する必要が生じてくる。右脳だけでも、左脳だけでもアンバランス。両方を使いこなし、更にそれを超える必要がある。これまで身につけたものを削(そ)ぎ落とす時期が始まる。いろんな経験をしたことによって、必要のないものまで記憶してしまった。先入観や偏見や固定観念。恐怖やトラウマや価値観。ありとあらゆる思い込み。それらのものを整理する必要がある。そうしない限り、過去からの自由はない。成長過程で気がつかないうちに家族から刷り込まれた各種のパターン。教育の中で形成された常識や道徳。時代や環境による価値観や固定観念。人は無意識のうちに家族の子、教育の子、環境の子になってしまっている。それに気づかない限り、刷り込みと思い込みによって同じパターンを繰り返すだけになる。そのことに気づき、自分自身を理解しようという意識が生まれると、第三の時期のスタートとなる。右脳を発達させ、左脳を発達させ、それらを超える。それが瞑想の世界。これまで溜め込んできたものを整理する時期。自分の意識を整理整頓し、無意識のうちに条件づけられた意識から脱却する。今生に形成された意識を総括し、それに振り回されないようになる。今生だけの意識から、それを超えた意識を自覚する。そのためには、瞑想が必要となる。瞑想は、満月から月が欠けていくのに似ている。これまで蓄えてきたものを外していく。外して、外して、どんどん外していく・・・最終的には、光がなくなり新月となるように、何もない空の状態になる。それが瞑想の究極。何もないところに、すべての源がある。それが実感されるのが瞑想というもの。新月から月が満ちていく過程は、人が生まれて様々な体験をして記憶を蓄えていくのに似ている。何もない空の世界から、色の世界が生まれていく。この世に生まれ、白紙の状態からいろいろな経験をして複雑な色になっていく。色の世界はバリエーション。豊かな色彩の世界。しかし、それだけでは移り変わる現象に目が奪われ、浅はかな人生に終わってしまう。現象の世界は無常。いかなる価値も永続するものはない。永久不滅のものは一つとしてない。心でさえ一時(ひととき)として安定してはいない。色の世界に安住の地はない。色の世界では安心立命はあり得ない。ただ現象に目が奪われ、一生が終わるだけ。心のやすらぎを見出すことはできない。人は一時のやすらぎを求めて、心の旅に出る。しかし、世界の果てまで旅をしても、心の平和は得られない。信念や信仰にやすらぎを求める人もいる。しかし、それらのものは思考がつくり出した産物。ただ思い込んでいるだけの世界。思い込みは、やがて事実の前に終焉(しゅうえん)するしかない。それが相対的な色の世界の定め。色の世界に絶対はない。右脳と左脳という相対から、右脳や左脳を超えた絶対へ。色という相対比較の空間から、空という絶対不滅の次元へ。意識の中心がシフトしない限り、現世だけの不安的な片翼飛行となる。空という絶対の次元に片足を着け、色という相対の空間にもう片足を置く。その時にバランスのとれた人生となる。そうなるまでは、片方の翼だけの不安定な飛行が続く。現世だけでは、心のやすらぎはない。瞑想だけでは、この世を楽しむことはできない。両方が必要なのだ。色の世界の移り変わりを見て楽しみ、空の世界の無窮(むきゅう)の静寂の中で心やすらぐ。永遠の中で無常を見る。心が成熟するとは、色と空の両方を理解すること。それらの調和の中で生きれるようになること。今に囚われず、今を生きれるようになること。移り変わる色の世界の豊かさを心から喜び、その無常を嘆かない。無常であるからこそ、豊かな変化があり得る。無常の世にあって、永遠をベースに生きる。永遠の中に憩うが故に、無常に心を奪われない。個々の現象に囚われず、個々の現象を愛でる。ただ愛でる。無上の無常を愛でる。永遠という器の中で展開される無常の現象を楽しむ。豊かな豊かな色の世界。無限の空が有限の色となって展開する。限りない色の展開を無限の空が見守る。月は満ち、月は欠ける。新月があり、満月がある。無常の現象世界があり、永遠の瞑想世界がある。そのどちらも体験し、同時に生きる。『現世(うつしよ)の 無常だけでは 虚しくて 心の安定 何処(いずこ)にもなし』『移りゆく 色の世界の 美しさ 掴もうとすれば 悲しみ生まれる』『移りゆく ものをそのまま 見守って ただ楽しんで 掴まないこと』『移りゆく 流れに棹(さお)差し 押しとどめ 悲しみの渦 苦しみの渦』『掴まない 流れるままに 行くままに 楽しんだなら 感謝するのみ』『現世(うつしよ)に 変わらぬものは 何もなし 流れと共に 生きるしかない』『移りゆく その流れこそ いのちなり 生々流転 変わることなし』『新月の 闇はすべてを 包み込み 満ちる光を 眺(なが)め楽しむ』『人はみな 新月の闇 満月の 光でもある 今このままで』これが432日目の心境です。
2006.03.09
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朝から夕方まで、すばらしい天気だった。朝7時半に家を出て、帰って来たのは夕方の6時。一日中、山の中にいた。何もない空っぽの一日だった。知り合いと、彼女が数日前に知り合いになった夫婦。夫は23才のイスラエル人。妻は28才の日本人で、妊娠六ヶ月。彼女が妊娠中と聞いた時、とても天柱石は無理だろうと思った。ヤクスギランドの150分コースがちょうどいいだろうと言った。そのつもりでヤクスギランドへ向かった。ゆっくりコースを歩き始めた。150分コースと太忠岳の分岐点に来た時、彼女はまだ元気そうだった。では、行けるところまで行って引き返そうということになった。ゆっくり登った。途中から急な坂になる。ここが一番きついところ。でも、なんとかそこを越えられた。ここまで来たら、もう最後まで行かないともったいない。ということで、結局、天柱石まで行ってしまった。高校生の団体が10人ぐらい来ていた。他に3人。高校生はすぐに降りて行った。2人連れもすぐに降りた。残ったのは我々4人と若い男の子1人。彼は絵を描いていた。天柱石の真下で昼食。風は強かったが、青空が広がっていた。ちょうど安房の港に高速船トッピーが到着するのが見えた。どういう訳か、ここからよくトッピーを見る。トッピーとタイミングが合っている?靴を脱ぎ、裸足になって、のんびり昼寝。体がジンジンする。風が冷たかったので、わりと早めに岩から降りる。いつもはもっとゆっくりするのだが、今日は超スローペースで登ってきたので、あまり時間の余裕もなかった。普通3時間ぐらいで登るコースを4時間半近くかけて登った。下りも3時間ぐらいかかった。妊婦さんは、こちらが思ったよりも身軽だった。以前、器械体操をしていたとか。若い夫は、ぜんぜん楽勝の雰囲気。故国の鼻歌交じりでクライミングしていた。彼等の両親よりも自分の方が年上だった。ショック!知り合いも元気だった。自分が一番疲れた?なにしろ二ヶ月近く家に引き籠もっていたので、かなりハードだった。ウォーミングアップに150分コースを歩くつもりで来たら、突然、天柱石になった。少し無理をしてしまった。下りの途中から右膝が痛くなった。若い頃の古傷で、ハードになると痛み出す。驚きはしないが、妊婦さんと2人だけ杖をつきながら降りる。下りは杖があるとかなり楽になる。杖は適当に落ちている木を拾う。下りの途中で、屋久島に住むイギリス人の男性に会う。彼の奥さんは日本人で、2人の子供は地元の小学校に通っているとのこと。一年ほど屋久島に住んでいるらしいが、初めて会った。ところが、同行した夫婦は既にどこかで会っていたようだ。彼は超健脚で、頂上まで行って、また我々に追いついた。最後は5人で話ながら歩いた。イスラエル人の夫は、ほとんど日本語を喋れなかった。現在はイギリスに住んで、シュタイナー系の有機農業の勉強をしている。奥さんもそれに関係するところで働いていた。奥さんはアロマテラピーもやっていた。途中で会ったイギリス人は、屋久島では屋久杉の木工所で働いていた。日本語もかなり喋れた。イギリスでは針灸をやっていたらしいが、日本では日本の免許がないとできないらしい。日本語と英語のミックスで話したが、思ったよりも英語が理解できなかった。理由は、彼がナチュラルスピードで話してくれたから。そして、肉体が疲れると集中力がなくなって、聞き慣れない言葉は理解しにくかった。話したい単語も、突然、記憶から消えてしまった。肉体のエネルギー状態が、明らかに精神的なエネルギー状態に影響した。ただ、意識が頭の後ろにあるのは変わらなかった。ここ二ヶ月、毎日、自分を見つめながら日記を書いてきたことによって、意識はきちんと自分を見守る状態にキープされていた。ただ、朝から何も食べずにクタクタになると、食べることが唯一の楽しみとなるのがわかった。でも、頭は空っぽ。楽しく笑って、カラッとしたもの。悩みなどは何もない。ただ暑くて、汗がしたたり落ちるだけ。久しぶりの汗で、気持ちいい。天気が最後まで保ってくれて、さわやかな一日だった。仕事でもなく、知り合いなので、利害得失はゼロ。自我になりそうな記憶は何もできなかった。ただ事実だけが記憶されていた。帰って、食事をして、風呂に入って、寝た。極めてシンプルな一日だった。森の中では、屋久島固有種の大五加葉黄蓮(オオゴカヨウオウレン)がたくさん咲いていた。こんなにたくさん咲いていたのかと驚くぐらい。それから、本土の沈丁花の原種のような花も咲いていた。沈丁花に似た強い香り。しかし、花はあんなにたくさんはついていない。原種は、何であれシンプル。辺り一面に強い香りが満ちていた。春は花の季節。リンゴ椿も咲き始めていた。これからサクラツツジや山桜が美しい季節になる。新緑と共に、これからの季節は草木が楽しめる。初々しい春の初め。お薦めの季節到来。本格的なシーズンの幕開け。『そこここに 春の香りの 充ち満ちて 初々(ういうい)しさの 開く春かも』これが431日目の心境です。
2006.03.08
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今日の屋久島は、天気が良くて暖かい。もう春の陽気。家の中にいるのがもったいない感じ。この天気が続けば、明日は知り合いと森へ行くことになっている。軽やかに円運動で踊る。すべてのものを円運動化してみる。すべてを回す。回転させる。人間関係も、お金も物も回転させる。金銭というのは、元々「お足」というぐらいだから動くもの。これを一部の人が貯めすぎると、経済が回らなくなってしまう。お金も物もすべてが循環している時、すべてがうまくいく。お金がどこかで滞留すると、物も動かなくなってしまう。自分の安全だけを考えて誰かがお金を必要以上にストックすると、そこですべてがストップしてしまう。食料を必要以上にストックしても腐るだけ。一人が消費できる量は限られる。誰もが循環させようと心がければ、地球のみんなが幸せになれる。発想の転換が必要かもしれない。必要以上にストックできないような法律でもつくる?遺産相続は一定以上は認めないとか?貯金すると税金がかかるとか?しかし、人の意識が変わらない限り、いくら法律を作っても抜け穴を見つけるだけに終わる。不安だからストックする。自分の保身のために貯金する。でも、いくらストックしても絶対安心はない。ストックが増えれば増えるほど不安は増す。誰かに奪われはしないかという、よけいな心配まで加わる。体の中も血液が順調に循環していれば、病気はない。どこかで滞(とどこお)ると、病気になってしまう。食べるだけで排便しなかったら、たいへんなことになる。必要以上にストックすれば、病気になるのは目に見えている。体に入れるものは少なければ少ないほど、軽やかに生きていける。必要最低限+楽しみぐらいでちょうどいい。食べて、消化して、出して、循環させて軽やかに生きる。すべてが回転していれば、何も問題はない。体のことはわかりやすい。滞れば病気になる。ところが、物についてはわかりにくい。ついついストックが増えていく。それが安全と便利さにつながると思い込んでいる。しかし、家の中に家財道具が増えすぎると、ゆったりとした空間がなくなる。狭くて風通しが悪くなる。風水的には最悪の家相となる。気が滞れば、その家は繁栄しない。いかに新鮮な気を取り入れるかが風水の要諦。華僑のお金持ちは、たいてい金魚を大きな金魚鉢に入れて飼っている。金魚は動くので、金が動く?なにしろ気が動くものが珍重される。それが風水の世界。品物の回転が悪い店には、お客が寄りつかなくなる。お客の回転のよい店には、みんなが入ってみたくなる。結局は、回転のよい店が繁盛する。気が滞った店が繁盛するということはない。気が滞れば、家は断絶、体は病気。心もイライラして不安定になる。災難や事故も多発する。それらは滞った気を一掃するために起きる。ところが、それを不幸と嘆く悪循環。更に気が沈んでしまう。心機一転。災いを転じて福となす。何事も回転させれば、福が転がってくる。宇宙の森羅万象は回転。すべてを回転させれば、常に新しい気が流れ込む。その時、すべてがいきいきとしてくる。生とは、動。死とは、静。健康も財産も活性化させたかったら、動かすしかない。気学は、開運の方向へ動くことによって運を開く。動かなければ、腐ってしまう。いきいきと躍動させたかったら、動かすしかない。生命現象とは、そういうもの。囚われない、こだわらない。恐れない、妄信しない。執着しない、固執しない。サラサラと流れる川のように手放す。楽しんで、手放す。何かに執着すれば、滞る。心も体も物も、すべてに執着しない。すべてを流す。回転させる。循環させることによって、すべてを生かす。星の運行も、血液の循環も、すべて円運動。季節の移り変わりも、植物の生育も、すべて回転運動。すべてを回す。滞らせない。循環。回転。円運動。ダンスを踊るのも円運動。合気柔術も円運動。しなやかに流れるような円運動。自然環境も循環。宇宙の星々の運行も循環。地球も回転しながら、太陽の周りを循環している。日常の中で、まるく、まるく回ることを意識してみるといいかもしれない。回転運動。円運動。血液や体液の循環がよくなって、健康になるかもしれない。消化や排泄の循環がスムーズになって、スリムになるかもしれない。物忘れが解消し、必要なものは必要な時に必要なだけ思い出せるようになるかもしれない。記憶もまた、多ければいいというものではない。必要最小限+αぐらいでちょうどいい。ネガティブな記憶をいつまでも持っていても仕方がない。今ここで生きるためには、記憶はそれほど必要ではない。幸せに生きるためには、あまりよけいなものは身につけない方がいい。心も体も物も、原理はみな同じ。回転、循環。円運動。回すこと。生かすこと。すべては生かして使う。心理的にも、肉体的にも、物理的にも、幸せからは遠くなる。それでは調和は生まれない。自分だけお金を貯め込んだら、周りの人から妬まれる。毎日毎日食べすぎたら、病気になる。ネガティブな記憶をたくさん蓄積していたら、不安や心配が絶えない。いくらストックしても幸せになることはない。不安はストックによっては解消されない。すべてを手放して循環させる。必要な物を必要な時に使えばいいだけ。必要以上のものはいらない。それは人を豊かにしない。たとえ楽しかった記憶でも、それに固執すれば過去の虜(とりこ)となる。ストックしたものに人は縛られる。そこから身動きが取れなくなる。豊かになったつもりが、実は豊かさという幻想に囚われている。心も体も物も、身軽な方がいい。その方が自由に羽ばたける。頭の中がいっぱい詰まっていては、新しい閃きは起きない。頭の中が空っぽの時にだけ、直観が働く。これまでの価値観が逆転する。できるだけ多い方が豊かだったのが、まったく逆になる。クリアーに軽やかに生きる時代になる。幸いなるかな、心の貧しき者よ。天国は、汝らと共にある。幸いなるかな、体の貧しき者よ。健康は、汝らと共にある。幸いなるかな、物の貧しき者よ。自由は、汝らと共にある。富める者が天国へ行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。物が詰まっていては、博物館にするしかない。体が詰まっていては、病気になるしかない。心が詰まっていては、思い出に浸るしかない。物がない時に、物のありがたみがわかる。お腹が空いている時に、最高の味がわかる。心が空っぽな時に、新鮮な感動が起きる。何であれ必要以上にあれば、今ここを生きることはできない。シンプルで軽やかに生きるためには、多くを必要としない。お金や物も、ほどほど。食べものも、ほどほど。記憶も、ほどほど。必要以上に蓄積しない。必要以上に所有しない。すべてを生かして使う。すべてを循環させる。すべてを回転させる円運動。新しい時代が、もうすぐ回ってくる。『食べものも お金も物も 記憶さえ 囚われないで サラサラ流す』『所有して 蓄積しても 豊かには なれないばかりか 重くなるだけ』『楽しんで こだわらないで 手放して すべて忘れて スッキリ生きる』『空っぽに なればなるほど 新鮮な 驚き喜び 感動が湧く』『何ものも 持たないことが 最高の 美徳と言われる 時代が来るさ』これが430日目の心境です。
2006.03.07
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「429日目 - 非苦を超える道 [1]」の続き次は、せきせきさんですね。「非苦の歴史を繰り返さない自我発信ではないイメージングをする前提は、全ての枠、価値観、過去のパターンを使わないこと。愛があって憎しみ、悲しみがあって喜び、信じることがあって、裏切られる、という今の相対世界で出来ている言葉、成り立ち、意味、を全く信じないこと。思考の捉われをはずす、逃避するためにイメージをしないこと。自分と夢の間に距離をおかない。自分の外に出さない。夢は自分の内にもう存在するということを感じていく。そして、詳細に充分楽しみ、味わいつくし、満足しきる。そのイメージを、後にひきずらない。あと、自分のリラックスできる場所でイメージすることでしょうか。私の少ないほんのり楽しい現実化体験に照らし合わせると・・・私は洋服をほとんど買わない。時々着る服がなくなる。冬が越せない(笑)そうすると、服を着て、楽しんで、ぬくぬくしている自分をイメージする。その過程を楽しむ、そして、満足して終了。後にひきずらない。洋服がほしいということにもこだわらない。洋服がないから哀れとか、等自我発信イメージもしない。あせらない、楽しむ、わくわく、でしょうか。まだタイムラグありますが、かわゆい新品コートが届きます。あと、イメージして満足しきってしまうものは現実化の必要がないものもあるようです。人からもらうなんて惨めだ!思ってくれる方もいますが、私は関係ないのですね。買い物でオシャレを楽しむ方も素敵だし、私は頂いたものを見るのが楽しみ、好みでない洋服は、どう使おうか考えるのも楽しい。残念ながら私は、おめかしセンスはありませんが。楽しむってことは人と比べて発生するものではないのですよね。全ての人がそうやって夢を意識せず現実化していると思う。試験に合格したとか、気になっていた本を偶然本屋でみつけたとか、。。。ちなみに、屋久島上陸の夢があるのですが、まだ叶わず。何故かというと、私は大好きな屋久島とは、健康になり、豊かに交流したいと思っているから。今は、元気で島をサイクリングや、砂浜で風を感じたり、木と話している私を詳細にイメージしています。そのイメージを楽しみその都度終了させる。その後に、調子が悪くなっても「体が無理だ」とその夢に対して、否定的なエネルギーを持ち出さない。例え人に「屋久島には怪しいお猿さんが毎日水を汲んでいるから、危険??」とか、「屋久島行ったら勘当だ!」と言われようが、その言葉に捉われない、夢とその言葉を繋げない。私が屋久島行くのには、長時間移動しなければだし、マイナスからお金をためなければ。働く?誰が見ても無理らしい。でも私は現実化すると思っています。」確かに、みんな夢を現実化していますね。但し、それは無意識のために、かなり過去の影響を受けています。それでは人類の非苦の歴史は超えられないでしょう。やはり、顕在意識で自分自身を理解しないことには。過去の自我を超えていかないことには・・・せきせきさんは、既にビジョンの現実化を楽しんでいるみたいですね。本当に楽しむこと。比較ではなくて、純粋に楽しめるといいですね。自分の意識の深くから楽しめるビジョンは、過去を超えている可能性があります。その前提として、やはり表面に積み重なっているゴミやホコリに気づく必要があるかな。そうしないと、ゴミやホコリを深いものと間違えて現実化してしまう可能性があります。やはり、深く深く、静かに静かに生きることでしょうか。屋久島のビジョンも、楽しんでいれば実現するでしょう。深いところで楽しんでください。楽しみに待っています。次は、たろうくんですね。「今回のワークは、今まで光のkimiさんと共に自分を見つめてきたものの統まとめかなと感じました。今ままで色々気付かせてくださったことを、私なりに心静かに何の判断もない意識で見つめてみました。『いかなるイメージングをすれば、非苦の歴史を超えられるか。』イメージングをして、自分が非苦の歴史を越えられると感じるのであれば、イメージングしてもいいと思いました。でも、それも自分の作った今のイメージ。 真実は、一つ。真実をその時のイメージで覆ってしまって越えられたとしても、いつかその覆ったものを解き放つときが来るのではないかと感じます。それがいつか。。。その人のタイミングでしょうか?『過去に縛られないイメージは可能か。』可能だと思います。イメージしていることも自分の今までの思い込みだからです。 『それによって、まったく新しい未来をつくることができるか。』はいo(*^-^*)o 今ここにいる私は生まれたての私と感じると、どんなことが起きても、それは初めての体験。今ここから始まること。過去の自分を、ただその真実とともに何の判断もなく抱きしめてあげることで、今ここの私は縛られているものはないと感じます。あれ?これも過去に縛られないイメージになるのかな」最初の回答は、質問を違った形で理解しているのかな?過去の歴史をイメージによって変えるみたいな?真実は一つ?そんなに単純なものかな?人によって事実の見え方は違わないの?みんな自分の色眼鏡で見てない?二つ目の回答も意味が理解できないな。他の人は、この回答でわかるのかな?イメージが今までの思い込みなら、過去を超えられないのでは?質問を正しく理解しているのかな?質問は、過去に縛られないことは可能かではなくて、過去に縛られない『イメージ』は可能かなんだけど・・・最後の回答も、過去を見守り、今ここにいれば過去には縛られないということだよね。質問の主旨がよく理解されているのかな?質問は、過去に縛られないイメージによって、まったく新しい未来を創ることが可能かということ。少し回答がズレてる気がするけど。どうも、たろうくん流の理解で回答しているような気がするな。それとも、こちらがたろうくんの言いたいことがよくわからないのかな?もしこれがたろうくん流の解釈と理解であれば、今ここの私は過去に縛られていないという発言も、?ということになりますね。まあ、よーく他の人の回答と自分の回答を見比べてくださいませ。最後は、ぴあのさんですね。「自我が過去、自分自身が過去の産物なら 『私』 を手放さない限り、すべて過去の反応の上でのイメージングになってしまう。過去に縛られないイメージをするためには事実を直視して、まず、事実から遠ざかろう としないこと。自分に都合のいいイメージだけを求めないこと。逃避のためのイメージをしないこと。そして、”私 というイメージ” がない状態で、純粋な意識で動機や目的に縛られないで ただイメージする。比較の世界でイメージしない。人類の過去の悲苦の歴史は、自分という存在を 自分の定義づけで しっかり自己保存をしたいために起こってきたもの。個人的なものであれ、民族的なものであれ、宗教的なものであれ、すべて 自分を守ろうとするもの。そこには 他と融合、調和しよう という意識が感じられない。自分中心の世界。悲苦の世界を超えるためには、全体から分離された意識でイメージするのではなく 『ひとつ』 の意識でイメージすること。自他の区別のない意識。イメージの中心に 全体と溶け合う調和、愛があること。」「私」のイメージでは、人類の非苦の歴史を超えることはできないということですね。自他の区別のないひとつの意識や、調和や愛がイメージの中に必要ということですね。そのとおりでしょう。それにはどうすればいい?やはり、静かに自分の中に聞き入ることでしょうか。自分の深いところにあってイメージすることでしょうか。表面意識でイメージしても非苦の世界から抜け出ることはできないでしょう。いかに深く、いかに静かに自分の奥を感じるか。そして、そこからイメージできるかということでしょうか。過去を超えられるものは、表面意識の自我ではなくて、更に深い意識です。自己中心の人類の非苦の歴史を超えられるものは、自他という分離を超えた意識です。それは意識の表面にはなく、深い意識とつながる必要があります。表面の意識で生きる限り、過去の思い込みの中で生きているだけです。自分を見つめ、思い込みや囚われを外していくと共に、深く深く見つめる意識を育てる必要があります。顕在意識が深い意識とつながり、自我を超えて深く見つめられるようになる必要があるのです。その時に初めて過去を超えたイメージングが可能になるのではないでしょうか。『表面の 自我の意識で もがいても 非苦の歴史を 繰り返すだけ』『人類の 非苦の歴史を 超えるには 深く静かに 生きるしかない』これが429日目の心境です。
2006.03.06
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今日の屋久島は、強風が吹いている。天気は曇。時々、小雨が降っている。今、WOWOWでアカデミー賞の発表の生中継をしている。ロサンジェルスに現代を代表する美男美女が一堂に集まっている。きれいな人がたくさんいる。この世の美。それも悪くはない。それがすべてではないけれども・・・ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「過去の人類史は、非苦の歴史。それは今も続いている。過去ベースでイメージしても、実現するのは非苦の世界。では、どうする?どうすれば、非苦の世界を超えられる?これもまたホームワークにしよう。いかなるイメージングをすれば、非苦の歴史を超えられるか。過去に縛られないイメージは可能か。それによって、まったく新しい未来をつくることができるか。」いつもそうですが、特に今回のホームワークは正解を求めているわけではありません。それよりもプロセスを大切にしたいのです。ホームワークをやる過程で自分自身を見つめ直す。それが何よりも重要です。自分を見つめることによって、自分自身が更にはっきりとわかってきます。見つめる意識も研ぎ澄まされていきます。ただ書かれていることを読んでいるのと、実際に自分自身を見つめるのとでは天と地ほどの差があります。見つめることによって自分自身から自由になれます。過去の塊である自分自身を客観的に見守れるようになります。大切なのは答ではないのです。自分自身を見つめること。そして、自分自身に気づくこと。見つめている状態そのもの・・・最初は、水晶工房さんですね。「過去に縛られないイメージは可能かまったく新しい未来をつくることができるか・・可能、出来る考える考える・・自身の過去の枠組みを断ち切る必要自分で考える、選択する、行動する・・繰り返し新しい未来=新しい自分を創ること 」ちょっと答が短すぎて、よくわかりませんね。考えることによって過去の枠組みを断ち切り、新しい自分を創るということでしょうか。いろいろやってみて、またよーく考えて、行動する・・・それは成功者と呼ばれる人の多くがやっていることでは?それによって過去から自由になったのかな?少なくともその人たちは非苦の歴史から離れることができたのだろうか。もう少しわかりやすく書いていただけると助かりますが。次は、石ころ館店主さんですね。「過去に縛られないイメージが可能か。。ある意味、難しい部分もあると思います。知らないことはイメージできないのでは?と思うからです。知っている=過去に経験がある、ということなので。でも、そこに捕われず、乗り越えていく方法は、できるかできないかを考えない、ということかも知れません。今は知らなくても、自分でしっかりと、もう選択肢がなくなるくらい考えた結果、「こうしたい!」「もうこれしかない!」と思う状態があれば、そこへ向かって行く想いを持つ事が可能だと思うのです。「こうしたい」と思うとき、そこに過去からくる判断を持ち込まないこと。もちろん、それがついつい過去の投影になってしまうこともあるとは思いますが、それでもなお、新しくこれから、今ここの瞬間から、万人にとってあらゆる選択が自由なのだ、と確認しつつ進めば、希望は膨らむと思います。」結果を考えない。考え抜いて行動する。今ここの瞬間から、あらゆる選択が自由なのだと確認しつつ進む。そうすれば過去を超えられるということでしょうか。考えて考えて考え抜いて、思考が止んだら、その時に過去から自由なイメージが湧くかもしれませんね。それはインスピレーションみたいなものでしょうか。それは今生の過去ではない、未来の記憶みたいなものでしょうか。自分が今生でやりたいと思って計画してきた生まれる前のプランを思い出すのでしょうか。それとも、自我を超えた更に高い次元からの直観でしょうか。いずれにしても、過去を超えるためには思考が止む必要がありそうですね。次は、えっちゃんですね。「『過去に縛られないイメージは可能か。それによって、まったく新しい未来をつくることができるか』子供の頃、手塚治虫さんのアトムや、真鍋ナントカさんという方の近未来のイラストを見たとき、まったくの夢物語と思った。それでいくと、過去に縛られないイメージは可能かな?って気もした。けれど、全ての事は自分の中にあり、それを思い出すだけ、とか、ひとつというか、全てと光で繋がっている・・・となると、ひとつが持つ記憶をなぞっているだけかもしれない。ひとつが、人類の非苦の記憶を失くすには、三次元宇宙全部リセットしなければならないと考えたとする。けれど、色の世界を見守る火の鳥はひとつに願う。今一度人類にチャンスを!もし、次のリセットまでに人類が目覚め、自ら過去と決別し、クリアな存在となりえたら、五次元宇宙へと昇華出来るように・・・と。そして火の鳥は人類の、想いの届きうるものにささやく。一人だけ幸せになっても、真の幸せではない。みんなが幸せになってこそ、本当にすばらしい世界が開くのだと・・・。火の鳥は、kimiさんの言う慈母観音かもしれない。手のひらの地球が人類ごと五次元昇華するのをひたすら見守っている。『いかなるイメージングをすれば、非苦の歴史を超えられるか』自分自身が過去に囚われないクリアさを持ちえたなら、そして、みんなの幸せを願ってのイメージングなら、非苦の歴史を超えた新しい世界をイメージする事は可能かもしれない。自分自身で言えば、非苦の歴史にこだわらないとしても、過去のデータを踏まえてのイメージングしか出来ないと思います。」過去に囚われないクリアーさを持ち得たら、非苦の歴史を超えたイメージングが可能?でも、自分は無理そう?ということでしょうか。すべてのビジョンは自分の中にある、と言えば言えないこともないでしょう。でも、それらのビジョンが出て来るきっかけがいるのですね。縁が。タイミングが。そして、それらのものが出てきた時に、クリアーに純粋に受けとめられるかということもありますね。自我で受けとめてしまうと、三次元的に歪んだものになってしまいます。ピュアーなままでこの世に出すためには、自分の意識を浄化しておく必要があるでしょう。バッハやモーツアルトが宇宙や天上の響きを、この世の音で表現した時、彼等は過去からではなく、宇宙や天上の響きをそのまま楽譜に写したのでしょう。彼等は天才ですが、普通の人でも心が静まる時に、この世を超えたものが閃くことはあるでしょう。それは非苦の過去からは自由でしょう。夢の中でビジョンを見る人もいるかもしれません。いずれにしても、表面意識が静まった時に過去から自由なイメージが浮かぶのではないでしょうか。「429日目 - 非苦を超える道[2]」に続く
2006.03.06
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「428日目 - オンリーワン [1]」の続き次は、石ころ館店主さんですね。「誰でも、本来オンリーワン。同じ人はどこにもいないし、過去にもいなかったし、これからも出てこない。けれど、様々な価値観や固定観念で、人と一緒でなくては不安だったり、たくさんの情報に埋もれて、どれが自分かということすら、分からなくなっている現代かも知れませんね。だから、そういう表面的な情報、自分から発したものでないものを外していく過程が必要。それは必ずしも楽な作業ではありません。悪いと思っている部分は、外すのに抵抗は少ないかも知れないですが、自分がこだわっているもの、よいとさえ思っているもの、それすら本来の自分かどうか、考えてみれば怪しいものです。でも、そこを乗り越えて自分と向き合うとき、今までの自分の価値観とは違うかも知れないけど、芯の自分が見えてくると思います。そこまで行って、ようやくオンリーワンとはどんなものかかいま見る事ができると思います。オンリーワンの花を咲かせるには、自分の持てる限りの力を尽くすこと。全てを捨てるくらいの覚悟を持つこと。冷静に自分を見つめ直すこと。そこに出てくる、本当の喜びを味わうこと。。そう感じます。」本当は、今のままでも誰もがオンリーワンですよね。ところが、みんなそうは思っていません。自分は価値がないものだと思っている人が多い。自分はオンリーワンだと自覚している人は少ない。それは社会の価値観が刷り込まれているからですね。社会的な価値の尺度で自分を測り、それで自己評価している。それは相対的な評価ですよね。絶対的な評価ではない。オンリーワンというのは、絶対評価の世界です。周りとの比較ではない。そうなると、自分のオリジナルな価値を見出す必要が生じてくる。よく自身を見てみると、周りの人と大差はない。自分のオリジナリティはどこ?自分のオンリーワンは何?ということになってしまう。その段階で、石ころ館店主さんの回答が意味を持ってきますね。オリジナルでないものを剥がしていく。剥がして剥がして剥がし切ったところで、オリジナルが見出せる?まあ、それはやってみないとわかりませんが・・・少なくとも今生に生まれてきた目的は発見できるかもしれませんね。それこそが今生のオリジナル?オンリーワンの花ということでしょうか。まあ、自分で試してみてください。次は、ぴあのさんですね。「自分が心底、内奥から喜び、感動できることをすること。オンリーワンの花を咲かせるときに、否定的なエネルギーが一切ないこと。そして、自我がないこと。純粋な意識で ただ自分が喜ぶことをすること。」自分が本当に心の底からやりたいこと。嬉しくて楽しくて仕方がないこと。そういうものをやっている時が、オンリーワン?そのような生き方そのものが、オンリーワン?内容を問わない?自分自身を生きている時?自分の真実を生きている時?それがオンリーワン?さて、どうでしょうか・・・最後は、せきせきさんですね。「オンリーワンの花を咲かせるためには、まず、自分をよく理解すること。理解する方法は、全体(ひとつ)の中で、価値判断伴わず自分を愛の中で見つめる。自分がどんな価値観、傾向あるのか、過去の捉われに気づいていくこと。そして、その傾向に捉われないことが美しい花を咲かせる前提。全体(ひとつ)とは、全ての価値観、思い込み、自我をはずしてからみえてくる状態。 美しい花を咲かせることは、隣と比べて美しいのではない、隣が今満開であって、私は、もう枯れてきたから、がっかりする気持ちが生まれてこないということ。自分が何色で、どんな形で、どんな大きさで、どんな時期に咲くのかということを、隣のお花と競争しない。個性(オンリーワンの美しさ)とは、自我以外の自分。競争して、人と違う、優れている、良い悪いで決められる現在の個性ではない。自由な世界ではじめてオンリーワンが(個性)が生まれてくる気がする。それは、今、考え付かないような個性かも?そして、そのままの自分を何も制限なく、楽しめる。どのお花も素敵に見えるし、色々な花に囲まれているありのままの自分を感じてとてもハッピー?制限がないから、遊びで色々な色になったり、大きく咲いたり、小さく咲いたり、枯れてみたり、隣の花に巻きついてみたりしそう!時々は、どちらが速く、太陽向かってのびていくか、競争もするかも。でも遊びなので、現在の勝ち負けの悔しさはすでに生まれてこない。違う楽しさが生まれそう?今までの幸せや楽しさの何万倍もの幸せ、楽しさの種類が増えそう。(イマジネーション既に爆発(笑))そのような状態になるためには、全体の中で自分が咲いていることを理解する、全体を感じていく。全体を感じずに、花だけが自分を思っていれば隣のお花になれなくて悲しくなったり、陣地の取り合いしそう。 ひとつと1つ、全体と部分。何も信じない世界にいて、自分の夢を信じきる。ありのままの事実(全体)の中で、自分(部分)を生きる。ひとつの中で、オンリーワンの美しい花をさかせる。そういう時は、たぶんネガティブパワーや人をアンハッピーにさせる夢は、生まれようがない気がします。現在、夢を実現している人達で、環境汚染や、労働者の扱い方などで、アンハッピーを創りだしている人は、たぶん、ハート発信ではない夢なのでしょうね。 全体を知らず、過去の産物、思い込み=自分だと信じきっている。それを満足させるために、夢を実現させている。自我発信の夢。成功していると思われるのは、相対の世界だけのこと。本当のハッピーは?みんなハッピーになるために、まず、自分自身がハッピーなオンリーワンになりたいです。 私の今のこの状態は、小さい頃の夢をかなえている最中です(笑)ひょっとして、みんな、今生きていることじたいが夢をかなえている最中なのでしょうか。全てが夢をかなえている途中、それに自分自身が気が付くのも、オンリーワンという美しい花を咲かせる意味がわかるのかな~。。。。あ、これは余談です。」自我の花を咲かせる。それは美しいかもしれないが、毒がある。毒がなければ、トゲがある。自分が輝くことによって、誰かが傷つく。自我の花は、他との比較によって成り立つ。他の花がみすぼらしいことによって引き立つ相対的な美しさ。自分より更に美しい花が咲く時、自分は惨めになってしまう。自分より更に力強い花が咲く時、自分の非力を嘆くことになる。栄枯盛衰は世の習い。比較相対では、必ず惨めになる時が来る。死ぬまで惨めになることがないのは、オンリーワンであり続ける時。それは周りからの評価ではなく、自分自身の自覚。自分自身を生きていることで満たされていれば、それがオンリーワン。どんな生き方であろうと、自分が真に満たされていれば、それこそがオンリーワン。自分自身を生きるしかない。真の自分を生きるしかない。内なる深い願いを生きるしかない。それがオンリーワンということでは・・・『何であれ 自分にとっての 真実を 生き切ることが マイ・オンリーワン』『お互いの 比較の中の 幸せは ほんの束の間 仮初めのもの』『揺れ動く 相対的な 評価より 自分自身の 真実を生きる』『それぞれが オンリーワンで ある時に 一人一人が 幸せになる』これが428日目の心境です。
2006.03.05
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今日の屋久島は、ほぼ快晴に近い。まだ少し風が冷たいが、これだったら十分山へ行ける。いよいよ新しいシーズンが始まろうとしている。プロ野球と同じ?ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。「オンリーワンの美しい花を咲かせるためには、どうすればいいか」最初は、水晶工房さんです。「1、競争相手を《自分自身》に設定2、全て自分で決める、考える&行動3、何かに依存しない4、決してぶれない=フォーカスを定める一番大事はあきらめないことかな^0^頑張ります!」極めてシンプルな回答ですね。他の人と競合しないということですね。他に依存しないで自分でやる。そして、諦めない・・・競争相手を自分自身に設定するということは、以前の自分よりも更に向上しようということでしょうか。最後まで諦めないということであれば、それでいいのかもしれませんね。何かを極めるみたいな感じなのでしょうか。ただ、敢えて老婆心までに付け加えると、以前の自分より劣った場合はどうなるのでしょうね。体力的に老化した場合、記録が落ちていきます。頭のシャープさも20代前後が最高です。それはスポーツ選手や将棋のタイトルホルダーを見れば一目瞭然です。もちろん、時間と共に成熟するものもたくさんあります。ただ、以前と比較すると、タイミングによっては、うまくいかないことも起きてきます。そういう場合は、辛くならないでしょうか。常に向上していれば問題はないのですが・・・成長を楽しむのもいいですが、あまりシリアスになりすぎると疲れるかもしれませんね。その時その時を楽しむ方が楽でしょう。でも、それではオンリーワンになれない?極めるという意味ではそうかもしれませんね。でも、極めるにこだわりすぎると、今度は自我になってしまう危険があります。余裕が必要なのですね。自分自身を見守る余裕。楽しむ余裕。そして、遊び心。すべてを楽しむ。そのプロセス自体がオンリーワンなのかもしれませんね。オンリーワンを達成目標に設定すると、きつくなります。楽しみながら、結果的に美しい花が咲く方が楽ですね。そのあたりは自分でいろいろトライしてみれば、また気づくこともあるでしょう。次は、えっちゃんですね。「今朝の新聞に草薙君がクローズアップされてた。オンリーワンという主題歌のドラマに出てたと思う。シンクロ?彼のコメントはオンリーワンらしく爽やか。生と死に関わるドラマに出会うたびにシンプルな生き方を意識すると言う。今のスター達はかってのスター像のようにナンバーワン的ギラギラがない。オンリーワンって何だろう?今回のホームワークはちょっと引っ掛け問題のように思う。オンリーワンは孤立した一つと言うことではなくて、一パーツということ。私達はコンピューターの端末機。ネットで繋がっている。回線を切って、ひとりだ~~~!といっても、人サイトを閉じただけで、あらゆる物質(自然界のものであっても)と繋がっている。切るとか出来るシステムではなく、もう繋がりっぱなし状態らしい。かって、唯我独尊と言った人がいたけれど、天涯孤独と言った訳ではない。オンリーワンの花とは自分と言う花を精一杯開く事で、すばらしい花園の一輪となるということ。沢山の花が咲き乱れる花園で、他をへし折って一人華麗に咲いても、花園は美しくない。でも、先日のフィギアの静香さんのように、大きく花開く事で、周りの花たちをもイキイキさせる一見ナンバーワン的花もある。けれど、彼女もすばらしいオンリーワンなんですね。自分のパーツを精一杯輝かせて、周りのパーツをも輝かせる。少し萎れ気味だった日本人にとってのオリンピックの花園を、静香花は、オリンピック選手の花束ごと輝かせました。メダルなんて取れなくても、すばらしい演技に精一杯が輝いて、そうみんなステキだったよ!っていう花園に変えましたね。オンリーワンの花ってそういうことなんですね。・・ていうことで、ホームワークやります。『オンリーワンの美しい花を咲かせるためには、どうすればいいか。』ク~~~ウ、難しい!!花を咲かせられてたら、こんなおばあちゃんになってまで、しおたれた蕾をぶら下げてウロウロしていないわけで・・・自分自身を精一杯生きる・・・こんな事を言っても、で、どうなン?と言うと、具体案がないわけで・・・でも、やってみよう。もっと自分をのびやかな心で見つめよう。他者のことものびやかに。そして開放された心で思い描こう!アラスカにいる私♪オーロラ観る私♪大氷原を観る私(まだ間に合う?)♪大森林を列車で突き抜ける私♪そして屋久島に住む私♪木の香りに包まれたやさしいスペースを作りたい♪誰もが羽を休めに来るところ、心の癒しどころ、明日の元気の素になるところ、そんなスペースにいつもニコニコ座っている、にこやかおばあちゃん、それが私♪・・・そう思ってみるだけでも、蕾がウズウズし始めた。咲くかな、私のオンリーワンの花。そうだ想っている事はかなうかも知れない。4年ほど前、一年ほど住んだ屋久島。いつもいつも、屋久島に憧れてるんだといってた私に、一緒に移住する?って誘ってくれた人がいる。奇跡じゃないか?って思った。彼女の期待に添えなくて仕事は挫折したけれど、屋久島は私のふるさとのようなもの。きっと想い方がおんぶに抱っこだから、一年で満期終了の花だったんだ。しっかり自分の夢として思い描こう、そしたら私のオンリーワンの花が咲くかな。」オリンピックの静香花は、きれいだったね。確かに、あれはオンリーワンでしょう。周りの評価よりも、自分自身を生き切った。その結果、No.1にもなった。すばらしい!パーフェクトに自分を演じ切ればいいのかな?後は、天のみぞ知る・・・えっちゃんも、ぜひオリジナルの屋久島暮らしをクリエイトしてください。明確に、クリアーに思い描き、それに感謝をして、それを楽しんでください。楽しみ切れたら、実現しているかも・・・次は、藍&aiさんですね。「恥ずかしながら。。ほんとうに恥ずかしいのですが。。藍の青春時代の夢&ヒーローは。。ジャンヌ・ダルクでした。。キャー!はずい。。アニメの世界で言えば『あんぱんまん』『セーラームーン』etc.つまり正義の味方。。平和の使者。。世の中の良いことに少しでもお役に立てる人になりたい。。。それが藍の理想であり、オンリーワンの夢です。。。少しでも少しでも人の心のなかに優しさや安堵。。平和の気持ちを届けられたら。。。 常に心に願っていることなんです。。Kimiさん、意外でしょう~。。?でも、そういう藍だから、きっとここに辿り着いたのでしょうね。。そんな気がします。。。でも、これも藍の思い込みであり自我のなせる業でしょうか。。?毎日手を合わせ願っている。。自分本来の姿になりたいって。。仏教で言うと菩薩道の道。。。」願っている場合ではないかもしれませんよ。実行しないと。願っている限りは、実現しないかも?なぜだかわかりますか。願っているということは、まだ実現していないということですよね。逆に言うと、願っている限りは実現していないということになります。実現した時は、もう願ってはいません。つまり、願うことをやめない限り、実現はしないのですよ。このパラドックスがわかりますか。「・・・になりたい」「・・・でありたい」というのは、現実からの逃避の場合が多いのですね。「私は・・・である」でないと、実現はしないでしょう。「私は・・・になれて、ありがとうございます」でしょうね、現実化するのは。「・・・になりたい」と思っている限りは、「私は・・・ではない」と言い続けているようなものです。ですから、実現するわけがないのです。自分が望む状態になって実際に活動しているイメージを創らないと、実現はしないのですよ。それから、「ジャンヌ・ダルク」や「あんぱんまん」や「セーラームーン」のように生きたかったら、今しかありませんよ。もうすぐ、そういう時代は終わるのですから。そういうヒーローやヒロインがいるということは、虐げられた人や悪が存在するということです。悪の存在なしには、ヒーローやヒロインは存在しません。それらは相対的なものです。けっしてオンリーワンではありません。子供の頃の憧れ?カッコいい?自己満足?みんなに認められたかった?どうでしょうか。それとも、深い深い願いでしょうか。心の底からの魂からの願いでしょうか。もしそうなら、なぜそのように生きないのですか。願いは、生きなければ意味がないでしょう。実際に生きないならば、ただの現実逃避です。どうぞ自分の真の願いを生きてください。心の底から魂から感動できるような人生を送ってください。それは可能です。それが人生というものです。「428日目 - オンリーワン [2]」へ続く
2006.03.05
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今日の屋久島は、一日中、さわやかな天気だった。海もベタ凪。静かで平和な一日だった。夜、「AIKI アイキ」というDVDを見た。合気道の映画かと思ったら、更に古い大東流柔術の映画だった。主人公の青年は、ボクシングをやっていた。しかし、バイクに恋人を乗せて運転している時、交通事故に遭った。その結果、脊髄が損傷し、下半身不随となり、車椅子生活になってしまった。当初は、自暴自棄になり、荒れまくっていた。しかし、大東流柔術に巡りあって再起する。最終的には、車椅子に座ったまま合気柔術ができるようになる。まず、相手を受け入れるように言われる。敵であっても受け入れる。受け入れなければ、合気は起きない。お互いの気を合わせる。敵の呼吸と合わせる。そして、相手のエネルギーで相手を転がす。自分の力でねじ伏せるのではない。円運動。相手の力を回転させるだけ。相手を拒絶している限り、気が合わない。結果、相手にやられてしまう。気を合わせて、相手と一つになる。それによって相手の力を回転させることができる。敵は自分の力で転がる。敵も素直に転がればケガをすることはない。円運動にケガはない。力と力がぶつかる時、お互いが傷つく。合気道の創始者、植芝盛平も学んだという古武術が大東流柔術。柔の道。けっして剛の道ではない。剛は、力と力の対決。それはお互いを破壊する。エネルギーを相殺してしまう。柔とは、円運動。お互いを生かす道。けっして破壊しない。地球の自転も、太陽の周りを回る公転も、すべて円運動。太陽系も銀河系の中を回っている。宇宙自体が、螺旋の円運動。本来は、すべてが円運動で循環するようにできている。自分を生かす。それぞれを生かす。今の環境を生かす。今起きている事態を生かす。すべてを生かして活用する。エネルギーを回転させる。エネルギーをストップしない。エネルギーを破壊しない。それは生き方だけでなく、社会のあり方にも適用できる。すべてを循環させれば、今のように自然を破壊しなくても済む。基本的な生き方を円運動にすれば、すべてが生きる。すべてを生かして使う。役に立たないからと、人や自然や物を破壊しない。可能な限り生かして使う。円運動。循環。活用。生かす。それはオンリーワンのホームワークにも通用するものがあるかもしれない。今日はホームワークの総括ができなかった。それは明日やることにする。今日は、円運動。すべてを生かすということ。敵でさえ拒絶しない。受け入れて、生かす。すべてを否定しない。すべてを肯定する。すべてを生かす。拒絶する限り、摩擦が生まれる。いかに円運動に変えるか。それには相手の呼吸と合わせること。合気。気を合わせて、回転させる。ひっくり返す。世界中の人が合気柔術をやれば、世界は平和になる?生き方がそうなれば、世界は平和になるだろう。すべてを生かす。円運動。きれいに転がす・・・気持ちよく回転させる。円は、ひとつ。平和そのもの。『敵もまた 拒絶しないで 受け入れて 回転させて すべてを生かす』『受け入れて 合わせることが 生かすこと 破壊しないで 生かして使う』『攻撃を まともに受けず 方向を 上か下かに 回転させる』これが427日目の心境です。
2006.03.04
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今日の屋久島は、不思議な天気。霰(あられ)が降ったかと思うと、今度はお日様が照り出す。そうかと思うと、雨が降ったり・・・今年最後の寒さらしいが、本格的に寒い。イメージングで最も大切なことは何だろうか。それは、みんなが幸せになるイメージをするということだろうか。自分だけが幸せになれば、他の人はどうでもいい?それでは、これまでの社会と何ら変わらない。それでは、結局、自分も幸せになることはできない。そのくらいは、もう人類も理解してもいい頃だろう。これ以上みんなが自己本位をやっていたら、地球が保(も)たない。競争原理や適者生存では、人類全体の存続さえ覚束(おぼつか)ない。自分もハッピーになる。他の人もハッピーになる。それが真のハッピーだろう。自分だけハッピーになって、他の人は不幸でもいい?むしろ、他の人がハッピーでない方が自分のハッピーが際立つ?そう思っていると、妬(ねた)まれて、いろんなトラブルに巻き込まれることになる。極端な場合、財産や生命さえ危うくなる。それでは、とてもハッピーとは言えない。結局、みんながハッピーにならない限り、自分も真のハッピーになることはできない。そのあたりを人類全体が理解できれば、この混乱の世の中も終わるだろう。しかし、道は遠い・・・とりあえずは、わかった人からスタートするしかない。百匹目の猿を目指して・・・みんなが幸せになるためには、競合しないこと。比較の幸せを求めない。相手より自分が優れているからハッピーという生き方をしない。相対比較の中で生きている限り、優劣がつく。優劣の世界になると、劣等のレッテルを貼られた人はアンハッピーになってしまう。一位の人がいれば、必ず二位以下が生まれる。二位以下の多数派は、アンハッピーとなる。そんな世の中がハッピーなわけはない。みんながハッピーになるためには、相対比較の世界から抜けること。自分のオリジナルの花を咲かせる。自分の個性を大切にする。それには自分を見つめ、自分を理解する必要がある。自分の特徴や個性を理解しないことには、自分を生かすことはできない。自分を理解するためには、いろいろトライする中で、注意深く自分を見守る。そうやって、自分が本当にやりたいことを見出す。自分が本当にやりたいことが見出せたら、すぐに現実の社会の中で挑戦してもいいし、まずイメージの中で試してみてもいい。自分の本当に実現したいものが見出せなくても、イメージの世界の中で、いろいろトライすることはできる。その中から本当にやりたいことを見出せばいい。みんながハッピーになるイメージの次に重要なのは、楽しむことだろうか。逆に言うと、自分が楽しいイメージを膨らませる。イメージの中でいろいろ遊んで楽しむ。それは無限に展開する。それにはお金もいらないし、何の制約もない。イマジネーションの世界は、誰にでも開放されている。誰でも自由に遊ぶことができる。ありありと鮮明に、まるでそこにあるかの如くイメージできれば、実現は早くなる。イメージがリアルであればあるほど、現実味が増す。よりリアルにするためには、楽しむことだ。イメージを心から楽しむ。自分の一番望むイメージを思いっきり膨らませる。何よりも楽しむこと。それがリアリティとなり、実現へつながる。でも、ただ遊んでいるだけでは、幼児と変わらない。それでは童話やおとぎ話の世界で終わってしまう可能性がある。それでは単なるファンタジー。クリエイションではない。イメージングによって現実を創造するためには、重要なキーがある。それは確定させること。イメージを一つ一つ完了して確定させる。そのためのキーワードは、感謝。「ありがとう」or「ありがとうございます」実際に実現したものとしての感謝。それによってイメージが完了し、確定する。それが極めて重要となる。完了させないことには実現しない。願ったり楽しんだりしているだけでは、不十分。感謝をして完了させ、確定させる。その都度、完了させ、確定して終わらせる。いつまでも引きずらない。執着しない。完了、完了、完了・・・楽しんで、感謝をして、完了させて、確定させる。その繰り返し。毎日、同じイメージでも、その都度、完了させる。けっして引きずらない。固執したり、囚われたりしない。一切執着しない。それはイメージの世界だけでなく、実際の現実世界でも同じこと。その都度、完了させる。引きずらない。実は、イメージの世界も現実世界も、生き方は違わない。競合しないで、みんながハッピー。心から楽しむ。その都度、完了させる。それらはすべて、この世でも通用する。イメージングについては、まだまだ細かい留意点もあるけれども、基本はこの三点。自分もみんなも幸せになる。競争しないで、楽しむ。その都度、感謝をして終わらせる。何も後に残さない。すっきり、さわやかに生きる。自分が最もいきいきと生きているイメージをする。自分が幸せな時、周りの人も幸せなイメージをする。そのイメージをありありと楽しむ。楽しんでいる状態、実現している状態に感謝する。感謝することによって、そのイメージが確定する。ただの願望では実現するとは限らない。実現しているところをイメージして、実際に感謝する。それでイメージが定着する。同時に、完了する。イメージの中で楽しみ、感謝し、確定させる。そうすれば、そのイメージはやがて現実化する。タイムラグは伴うけれども、必ず実現する。但し、競合するイメージを抱くと、他の人たちの否定のエネルギーを受けて実現しにくくなる。No.1になりたい人は一人ではない。みんながNo.1をめざせば、お互いのイメージが相殺し合う。それはエネルギーの無駄遣い。結局、一人を除いて大多数の人のイメージは実現しないことになる。競合しないで、オリジナルの幸せをクリエイトする。そうすれば、他からの妨害はない。みんなが幸せになれる。ところが・・・実は、もう一つ大きな問題が残っている。それは自らの否定のエネルギー。「そんなことができるわけがない」「そんなことが実現するわけがない」「きっと途中でダメになるに決まっている」「幸せになんかなれるわけがない」それらの思いが潜在意識にある限り、幸せのイメージは実現しない。ネガティブな思い込みが、幸せの実現を妨げる。プラスのイメージがマイナスのイメージによって相殺されてしまう。一切否定しない。ただ楽しむ。不安や心配が出てきたら、そのままにしておく。それを無理に否定しようとしない。否定しようとすれば、それに囚われてしまう。ネガティブにこだわらない。そのままにしておけば、やがて消えていく。それに引っかかると、いつまでも存在し続ける。それよりも、幸せのイメージを楽しむ。自分が最も望む自分の姿を精一杯楽しむ。そして、感謝して確定させる。「・・・ができて、ありがとう」「・・・が実現して、ありがとうございます」「・・・になって、嬉しい。本当にありがとう。ありがとうございます」必ず最後は感謝で完了させる。後は物質次元に現象化するのを待つだけ。棚からボタ餅?何でも実現できないものはない?濡れ手に粟?まるで夢のような世界?それがこれからの時代?まあ、気長に楽しめばいい。すぐには実現しないけれども、やがて実現する。イメージの中で楽しみ続け、感謝し続ければ、必ず実現する。その都度、完了させ、何ものにもこだわらず、ただ楽しむ。ただ楽しみ、感謝して暮らす。すっきり、さわやか、そして、さりげなく・・・『棚ボタと 濡れ手に粟の 掴(つか)み取り 好きなイメージ すればいいだけ』『楽しんで お礼を言って 囚われず イメージすれば 何でもかなう』『イメージの 中で楽しみ 喜べば 後は自然に 実現するだけ』『いかような 制約もなし イメージは 自由自在の 無限創造』『次々と 新しいもの クリエイト 古いものには こだわらないで』『競わずに みなの幸せ 願いつつ 自分のイメージ 楽しみ生きる』『幸せが 深まるような イメージを 更に創って 更に楽しむ』『ありがとう またありがとう ありがとう 感謝で生きれば 物事は成る』『事々に 囚われないで 掴まずに 楽しみ手放し 刻々に生きる』これが426日目の心境です。
2006.03.03
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今日の屋久島は、久しぶりに寒い。明日まで寒いようだ。その後は、冬完了?ここのところ、WOWOWで「Happy Together」という韓流ドラマを見ている。見ながら、ドラマが音楽に似ているのに気づいた。別々の事件が同時に進行する。主旋律と副旋律みたいに。それがどこかで一つに重なる。そして、また分かれる。それが細分化し複雑化し、また統合される。オーケストラの演奏と似ているように感じた。韓流ドラマというのは、実にストーリーが面白くできている。ブームになるだけのことはある。しかし、その中身は一昔前のメロドラマとたいして変わらない。誤解とすれ違い・・・愛と金と欲・・・それが複雑に味付けされ、脚色され、ハラハラドキドキのドラマを生み出している。これまでの人間ドラマと基本的に異なるところはない。見ても見なくても特に影響のないレベル。ただ韓国女性は美しい。世界で最も美しいのは朝鮮の女性と昔から言われている。それは今も変わらないようだ。最近、スペインやチェコやフランスなどの映画を見た。もちろん、言葉はまったくわからない。しかし、人の気持はそんなに違わない。似たような気持を別の言葉で表しているだけ。だからこそ同じ映画が世界中でヒットする。まず気持がある。それを言葉で表現しようとする。表現の仕方に個人差が出てくる。言葉のニュアンスには個人差がある。その拡大バージョンが外国語?そう考えれば、人類共通のベースも見えてくる。けれども、文化の壁は厚い。気候、風俗、習慣、宗教の違い・・・それらによって相互理解の道は遠い。気持はそんなに変わらないのに・・・地球に生まれ落ちて成長する過程で身につけた常識。無意識のうちに刷り込まれた固定観念。同時代の共通の思い込みもあれば、個々の環境による個人的な思い込みもある。国により地域により思い込みは異なる。時代により世代によっても思い込みは違ってくる。個人という生地の上に、時代や地域や環境などが次々と上積みされる。そうやって、固有の個人ができあがる。普通は、それを自分と思って生きることになる。それは無意識のうちに刷り込まれた固定観念の塊。これまでの人生の思い込みの集大成。良いも悪いもなく、それが事実。まずそのことを理解しないと、すべてが過去の反応となってしまう。自分の行動原理は、過去の刷り込みから出てくる。過去に満たされなかったものを、これから満たそうとする。それも悪くはないけれども、それでは過去のロボットに過ぎない。過去の栄光や心の傷によって、今が動かされる。人にどう思われるかを意識して行動が決まる。自由はどこにもない。すべてが過去に規定されている。インナーチャイルドは生き続け、心の傷もあり続ける。親から無意識のうちに引き継いだ価値観は厳然とした影響力を持ち、学校教育で植え付けられた固定観念は潜在意識に大きなスペースを占めている。宗教から来る倫理観は罪の意識を生じさせ、行動の自由を縛る。子供の頃からの習慣や癖は、大人になっても形を変えて持続する。欲望でさえ、過去の記憶からやって来る。もう一度あの快感を再体験したい。物、金、人を支配して、自由に動かしたい。あの晴れやかな気分を、再び味わいたい。基本的な行動原理は過去からやって来る場合が多い。なぜなら、自我とは過去だから。過去を理解しない限り、過去から自由になることはできない。自分自身が過去の産物。そのことを真にわからない限り、過去の反応の世界に住んでいるだけ。いくらイメージトレーニングを受け、ポジティブシンキングを心がけても、過去の枠の外に出ることはできない。未来をイメージしたつもりが、過去の投影でしかない。過去の満たされなかった思いの充足。それで一生が終わってしまう。過去の人類史は、非苦の歴史。それは今も続いている。過去ベースでイメージしても、実現するのは非苦の世界。では、どうする?どうすれば、非苦の世界を超えられる?これもまたホームワークにしよう。いかなるイメージングをすれば、非苦の歴史を超えられるか。過去に縛られないイメージは可能か。それによって、まったく新しい未来をつくることができるか。締切は3月5日午前8時。記入はBBS欄。参加は自由。個々の違いこそが、個性とも言える。しかし、その違いによって争いが起きているのも、また事実。違いを尊重し、違いを超えて平和に生きることは可能だろうか。そのこと自体は、極めて単純なこと。ところが、いまもって人種差別があり、男女差別があり、学歴や門閥による差別があり、その他数え切れない差別がある。家庭内ですら、諍(いさか)いが絶えることはない。過去から自由になって、新しい世界を創ることは可能だろうか。争いのない平和な世界をクリエイトすることはできるのだろうか。それは今この日記を読んでいる一人一人の双肩に懸かっている。『何故(なにゆえ)に 非苦の歴史と なったのか わからなければ また繰り返す』『それぞれが 自分自身に 固執(こだ)われば 平和に生きる ことはできない』『お互いの 違いを超えて 尊重し 平和に生きる 道を求めて』『人類の 非苦の歴史を 直視して 徹底的に 非苦と留まる』これが425日目の心境です。
2006.03.02
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今日の屋久島は、風が強い。雨も少し降っている。ここのところの天気は、まるで梅雨のようだ。スッキリしない毎日が続いている。今日から3月。早い!今年も、もう二ヶ月が過ぎてしまった。アッという間。これでは一年もすぐに終わってしまいそうだ。日記の方は1月+2月=59日間、完全に書けている。しかも、連日、かなり長い。ホームワークもたくさんやれた。シーズン・オフ、様さま。しかし、そろそろウォーミングアップを始めないと・・・仕事の季節が近づいている。体はコチコチ?少なくともシャープではない。かなり鈍(なま)っている。シェイプアップしないと・・・昨夜は新月。新しいスタートの時。今回は何を新しく始める?この世のことは、まず構想、それから実行。二段構えで成り立っている。思いが現実化するのには時間がかかる。しかし、肉体を動かすと現実化が早くなる。この世は物質の世界。物質である肉体を動かすと、物事が早く動く。構想だけでは実現するとは限らない。明確なビジョンと、その確定。そして、実行。曇のないクリアーなビジョンは、やがて現実化する。想いの次元から、タイムラグを伴って現実化=物質化する。その現実創造を楽しむこともできる。スポーツ界ではメンタルトレーニング=イメージトレーニングが盛んだ。一般社会でも願望実現セミナーが繁盛している。自分の夢を実現したい人は多い。若い頃は、ほとんどの人が夢のある未来を思い描いている。歳を取るに従って、夢は萎(しぼ)んでいく。やがて夢破れ、夢も希望もない人生となる。諦(あきら)め、世を拗(す)ねる人も出てくる。ストレートに生きることを忘れ、常に裏側を考えて生きるようになる。子供の頃の素直さは影を潜める。現実の中から自分なりの人生観を持ち、自分なりの人生を歩む。最後まで夢のある人生を生きれる人は幸せかもしれない。早くに夢をなくした人は何を楽しむのだろう?自分の夢を子供に託す?自分の夢をヒーローに投影する?夢も希望もなく、時間の移りゆくままに残りの人生を過ごす?趣味に生き甲斐を見つける?日々のささやかな楽しみをさがす?いろんな人生がある。日々是好日という生き方もある。瞬間・瞬間を楽しんで生きれば、何をしようと問題はない。でも、夢を諦める必要もない。もう歳だから?体力がないから?お金がないから?暇がないから?いろんな理由はつけられる。でも、夢を諦める理由にはならない。生きている限り、夢を諦める必要はない。諦めた時、夢は終わる。諦めなければ、夢は続く。そして、やがて実現する。確かに、タイムラグはある。それは思いの次元と物質次元に波動の差による。しかし、思いの次元で確定したものは、やがて物質次元で現実化する。それは法則。そういうふうになっている。爬虫類をいつも観察していた子供が、事故で足をなくした。しかし、爬虫類の尻尾が再び生えてくるように、子供の足も再び生えてきたとか。永久歯が抜けて、また生えてきた子供は身近に知っている。現実は信じたとおりになる。自分が信じている現実が目の前に展開する。そんなバカな?と思う人は、そういうことは起きない。自分が信じた現実しか展開しない。信じた中身は問わない。自分が信じたことが現実化するだけ。信じたこと?それは思い込みではないの?そう。まさに思い込み。思い込みが現実化しているだけ。では、単なる思い込み人生では?そう。この世は思いが創り出す世界。それを逆手にとって、自分の夢を実現するということもできる。それって幻では?そう。次の瞬間には消えてしまう幻。人生は夢のまた夢。そんなの虚しい?すぐに消えてしまう夢なんて・・・しかし、この世に変わらぬものはない。いくら栄耀栄華を極めようとも、月は必ず欠ける。秦の始皇帝でさえ、不老不死の霊薬を手に入れることはできなかった。奢(おご)れる者は久しからず。まさに春の夜の夢のごとし。移り変わる無常の世にあって、夢を追いかけて何の意味があるの?楽しんでいるだけ。自分のビジョンを現実化して楽しんでいるだけ。人生とは、そのようなものでしょう?違う?もっと真剣なもの?命懸けでやるもの?それも夢を追いかけているのでは?忠臣蔵も主君の仇討ちという封建時代の夢に殉じた。それは今の視点から見れば、単なる思い込み。思い込みの美学。それはそれで肯定も否定もできない。単なる事実。しかし、討たれた吉良側に立つと、なんとなく釈然としないものが残る。できれば、被害者のいない夢がいい。みんなが幸せになれる夢がいい。スポーツ選手がNo.1の夢を描く時、結果としてNo.2以下の人が生まれる。No.1になった人は何も問題はない。しかし、それ以外の人は悔し涙を流す。とてもハッピーとは言えない。みんながハッピーになるためには、競合しないこと。それには、みんながオンリーワンを目指すこと。自分の個性を生かすこと。自分らしさを表現すること。そうすれば、それぞれの花が美しい。それにはどうするか。どうすればオンリーワンの美しい花を咲かすことができるか。ここまで書いて、気が変わった。これから先は、ホームワークということにしよう。オンリーワンの美しい花を咲かせるためには、どうすればいいか。これが今日のホームワークの課題。締切は3月4日、午前8時。書き込みはBBSへ。参加は自由。この世は夢をかなえるところ。一人一人が自分の花を咲かせるところ。何の制限もない。まったく自由。ただ自分の思い込みが、自分を制限しているだけ。無限の創造を制限しているのは、自分自身の思い込み。逆に言うと、その思い込みが、制限という現実を創り出している。無制限、無限定。それが宇宙の実相。完全自由。それ以外の何ものでもない。不自由は、自分が創り出している思い込みワールド。その創造をやめることは、いつでもできる。制限から無制限へ移動することは、いつでも可能。元々無制限なのだから。自分が望む現実を創り出すことは、可能。これからはそういう時代になる。これまでは無意識のうちに自分の望む現実を創り出していた。これからは意識的に自分の望む現実を創り出していく。無意識か意識的かの違いだけ。クリエーションすることに違いはない。それぞれが自分の望む現実をクリエイトしていく。それをお互いに楽しむ。極めて単純。競争しなければ、何の問題もない。お互いに平和のうちに楽しめばいいだけ。ゆっくりと無限創造を楽しむ。『この世とは 心の中に あるものを 外の世界に 映し出すところ』『競わずに 自分の中に あるものを 咲かせてみよう この現実に』『お互いに 学び合いつつ 現実を クリエイトする 望むとおりに』『それぞれが 自分の望む 現実を 創造しながら 共に楽しむ』これが424日目の心境です。
2006.03.01
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