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今日の屋久島は、太陽は出ているけれども雲が多い。山の頂上は、雲に覆われている。ここのところ連日、庭仕事をしている。庭と言っても・・・自分の庭ではない。隣に住む大家さんの庭。しかし、大家さんは、最近引っ越して来たばかり。この家のことは、こちらが一番知っている。長く管理人のようなことをしていた隣のY翁は、2月に引っ越した。その後、Y翁が住んでいた家の増改築に取り掛かった。それが、ゴールデンウイーク明けにやっと完成した。これまでと見違えるようになった。これまでは、みすぼらしいプレパブ?それが、今では豪邸!大きなベランダがあり、見晴らしは抜群。山も海も滝も見える。増改築が終わると、次は庭の整備。以前から庭に置いてあったもので、必要のなくなったものがかなりあった。そういうものを新しいオーナーバージョンにする作業が始まった。暇な借家人の出番となった。何日もかけて庭の整備をしている。今年はガイドが暇なので、こちらも体が鈍(なま)っている。ちょうどいいので手伝っている。手伝っていると言っても、オーナーは女性なので、実質的にはこちらがメイン。だいぶ片づいて、日毎にスッキリしている。もう7年も住んでいるので、まるで自分の庭のよう。この敷地に3人住んでいるけれども、自分が一番長い。なんとなく自分がオーナーのような気分。別に自分のものである必要はない。住めれば、それでいい。何の不足もない。オーナーは親しい知り合いなので、追い出される心配もない。庭仕事をして、風呂で汗を流して、夜、なんとなく庭に出た。月がきれいだった。月が明るいので、電気は必要なかった。星もたくさん煌めいていた。大家さんも庭に出てきた。隣の女性は、外泊中でいなかった。のんびり庭に立って星を眺めていると、猫がやってきた。モーモーとおにいちゃん。モーモーは、昼間に散歩した時も、ずっと付いてきた。限りなく犬に近い猫。足下にすり寄って来る。可愛い!大家さんのベランダの下には、小さなソーラライトが付いている。その隣で何か光るのものが・・・ソーラライトとは違う光。盛んに点滅している。その光の色は、グリーン。もしかして?近づいてみると、やはり蛍だった。丸7年いて、初めて庭で蛍を見た。屋久島には、いろんなところに蛍がいる。これまでにも、たくさん見てきた。しかし、庭では見たことはなかった。近くに水場はないはずなのに・・・蛍は、一匹だけだった。どこから飛んできたのだろうか。下の方に水場があるのだろうか。今年は雨が多いので、水溜りができているのだろうか。それにしても、美しい。生きた光。まさに星とそっくり。天に星、地に蛍。平和な日々。肉体労働をすると、あまり頭を使わない。頭は、空っぽ。何も考えない。汗をかいて、風呂に入って、おいしい水を飲む。のんびりと猫と星を眺める。蛍が飛ぶ。ただそれだけで十分幸せ。『夜空(そら)に星 地には蛍の 光あり 海には月の 明かりが映える』これが日記を書き始めて1974日目の心境。
2010.05.30
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「1966日目 - 人類史」の続き。今日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、双子座の水晶祭りが始まっている。双子座的な雰囲気のあるものが、28組登場している。水晶祭りが始まって、改めてパソコンにストックしてある水晶の写真を眺めてみた。すると・・・すてきな水晶たちが、次々と現れる。美しい!見飽きない。この世には、なんと美しいものがあるのだろうか・・・これらの美しい水晶たちは、偶然に存在しているのだろうか。水晶に限らず、美しい花々も数知れない。それらも偶然の産物だろうか。それとも・・・新種を創り出すことは、古くから行われていた。バラなどは、多くの新種が創られている。犬も、いろいろ掛け合わせて新種が創られる。それらは、意図的に創り出されたもの。この世に意図なしで存在するものがあるだろうか。偶然の産物があるだろうか。すべては、何らかの意図が働いているのではないだろうか。美しい水晶を創り出す天使たちがいるのではないだろうか。人は、自己保存の本能をベースに生きている。生きることを最大の命題としている。それは、必要なこと。しかし・・・肉体を維持するだけでは、十分とは言えない。それだけなら、動物と変わらない。動物たちも必死に種の保存のために生きている。本能のままに生きている。人が花や犬の新種を創り出すのさえ、生活のため。自分自身を守るため。純粋な創造行為とは言いにくい。それも自己保存の一部。しかし、天使たちが美しい水晶や花を創るのは、少し違うかもしれない。それは、宇宙の創造行為の一環かもしれない。自己保存のためではなく、地球創造?趣味のガーデニングみたいなもの?人は、パンのみにて生きるものにあらず!人が肉体を維持するのは、必要条件。それとともに、宇宙創造の一翼を担うのが十分条件だろうか。それでこそ、神々の末裔と言えるのではないだろうか。自分の肉体を維持したうえで、地上で現実創造を行う。宇宙創造の一環としての地球創造の一翼を担う。それが、人の役割ではないだろうか。それでこそ、必要十分条件が満たされるのではないだろうか。人は、天と地をつなぐもの。天とは、宇宙の意志。地とは、地球の創造。天の意志を地上に実現するのが、人の役割ではないのだろうか。人とは、霊止(ひと)。霊が肉体に止まっている存在。それは、霊(天)と物質(地)を融合させるための存在形態。天にあるごとく地にもあらしめるためのもの。天の意志は、自分の魂を通してやって来る。この地上での自分の使命。自分の役割。それが、宇宙創造の一翼を担うということ。自己保存だけでは、動物と同じ。それでは、神々の末裔とは言い難い。最も大切なものが、欠落している。それは、霊性。天と地を肉体を通して融合させる。天の意志を地に実現する。宇宙創造の一翼を担う。それが、人の生きる道ではないだろうか。これまでの人類は、自己保存ベースで生きてきた。肉体を維持することを第一命題としてきた。それも必要なことだけれども、それだけでは不十分。天の意志が欠落している。天の意志とは、霊性。自分のなかに生きる神。魂やグループソウル。八百万の神々。そういう存在と一つになって生きることだろうか。自我という宇宙の孤児になって生きないことだろうか。肉体限定バージョンの意識で生きないことだろうか。無限につながる意識と共に生きることだろうか。人は、肉体のみにあらず。自分のうちに無限の可能性を宿すもの。神々の末裔。宇宙創造の一翼を担うもの。深く深く自分自身と一緒に生きることだろうか。意識の奥の声を聞きながら生きることだろうか。魂や神々とつながって生きることだろうか。自分の真実を求め続け、自分の真実を生きることだろうか。『地を守る 天使の意図(ゆめ)が 花となり 水晶となる 地球創造』『肉体を 守るだけでは 不十分 天の御国を 地にも実現』『何のため 人は生きると 問われれば 宇宙の意志を 実現するため』『人はみな 地を這うものに あらずして 天に羽ばたく 翼持つもの』『真実に 生きるためには 自(みずか)らの 意識の奥と 共にあるべし』これが日記を書き始めて1972日目の心境。
2010.05.28
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今日の屋久島は、かなりの雨が降っている。風も強く、雨が流れているのがわかる。台風の時に潮が上がってくる感じに似ている。山の方は、まったく見えない。人は、自己保存の本能をベースに生きている。人類史を振り返れば、保身のための歴史とも言える。我が身を守ることが、第一。その延長として、家族、民族、国家などがある。あくまでその根底にあるのは、我が身の保全。この命を守ること。これまでの人類史は、ほぼ肉体ベースと言っても過言ではない。自己保存最優先。そのために、いろんなものを所有する。土地も物も動物も人も。身を守るために所有してきた。それは、支配してきたとも言い換えられる。自分を守るために配偶者を支配し、家族を支配する。一族を支配し、地域を支配する。やがて、民族を支配し、国を支配しようとする。その支配欲は、とどまるところを知らない。できるだけ多くのものを支配することが、自分の安全に繋がる。自分で支配できなければ、支配者にすり寄る。寄らば大樹の陰。身を任せることで、身の安全を図る。従属することで、一家、一族の安全を確保する。これまでの歴史は、支配、従属の歴史とも言える。早く言えば、弱肉強食。支配と被支配の歴史。その権力闘争が、人類史のようなもの。その根底にあるのは、自己保存の本能。我が身を守ることが、最重要課題。そのための支配と従属。人生は、重き荷を負うて行くが如し。人生、ガマン。支配者は、常に少数。大多数の人は、生き残るために耐えることを強いられる。支配者と被支配者。強き者と弱き者。搾取する者と搾取される者。歴然とした弱肉強食の世界。別の表現をすれば、人類史とは戦いの歴史。権力闘争の歴史。支配と反逆の歴史。持てる者と持たざる者との争いの歴史。これまでは、多くを持つことが安全の保証となった。多くの土地、多くの金銀、多くの物品、多くの奴隷、そして多くの武器・・・その延長としての多くの知識や経験。物質的にも精神的にも、より多くを持つことが安全に繋がった。所有することは、支配すること。自分のコントロール下におくこと。しかし・・・支配することは、支配されることでもある。多くの土地や物品を持てば、その管理をしなければならなくなる。多くの人を支配すれば、いつ反乱が起きるかわからない。多くの知識や経験を持てば、それらに縛られる。多くを持つことは、逆に自由が少なくなることを意味する。所有することは、所有されること。支配することは、支配されること。所有したり支配したりしたものに、逆に拘束される。偉くなればなるほど、敵に狙われるために自由に外出できなくなる。所有するものがなければ、奪われるものもない。多くを所有することは、常に失う危険と共にいること。持ちものが多ければ多いほど、失う危険も多くなる。持てば持つほど、失う恐怖が増大する。支配することは、いつ逆の立場になるかわからない恐怖を生み出す。支配し続けることは、心の平安を放棄すること。そもそも弱肉強食の世界に心の平安は望めない。しかし、それでは心のやすらぐ時がない。そのために、多種多様の宗教が生まれた。この世の苦しみから救われるために、天国や浄土が用意された。念仏や祈りの言葉によって救われようとした。信じることが、救われる唯一の道だった。宗教は、この世の悲苦から生まれた。現世の苦しみから逃れるために、多くの人が信仰の世界に逃避した。死は、支配者でさえ免れることはできない。多くの支配者も、最終的には信仰に帰依するしかなかった。救いとは、何だろうか。永遠の命とは、何だろうか。それもまた自己保存の本能の延長だろうか。自分を守るために、信仰の世界に入るのだろうか。この世の苦しみから救われるために、あの世の安楽を求める。この世で栄耀栄華を満喫している人は、信仰を求めない。それでも、死ぬ間際になると、救いを求める人も出てくる。自分がなくなるのが怖くなる。死とは、自分が消えること。それは、肉体の死と共に精神の死でもある。自分とは、肉体と精神。それが消え去ることが、何よりの恐怖。その恐怖から逃れるために、永遠の命を求める。永遠の命を保証してくれるものにすがりつく。保身!以外の何ものでもない。生まれてから死ぬまでの保身人生。我が身を守るための人生。この世で生き残るための生活。ただ生きるためだけの人生。それが、これまでの人類史ではないだろうか。そして、今もその歴史が続いている。確かに文明の利器は、発達した。しかし、それもこれも、すべて生活の手段。すべての文明が、自己保存にその源を持っている。人類史を色濃く支配するのは、自己保存の本能そのもの。我が身を守ることが、人類史の最大のテーマ。自分を守ることが、全歴史を動かしてきたようなもの。それが、まぎれもない事実ではないだろうか。自己保存の本能が思考と合体し、自我を形成する。その自我が個人を支配し、人類を支配してきた。自我とは、自分というイメージ。その自分を守ることが、最重要命題。それが、まぎれもない事実。自分を振り返って、それを否定できる人がいるだろうか。自分のことを考えないで、世のため人のためだけに尽くしている人が何人いるだろうか。自分のことが、最優先。それが、今の社会では当たり前。人類史的に見れば、家族や一族が個人よりも優先した時期もある。家のために政略結婚させられた例は、枚挙にいとまがない。しかし、それも元を辿れば、自己の安全のため。自己の安全の延長としての一家や一族の安全。そのベースにあるのは、自己保存。動物次元の自己保存の本能が、深く人類を支配してきた。これが、これまでの人類史。さて、これからは?この延長?でないのは、明らかだろう。このままでは、人類に未来はない。このままでは、人類に救いはない。もっと根底的に何かが変わる必要がある。もっと根源的に・・・ (続く)『身を守る ことが何より 重要と 思い込んでる 地球人類』『人類の 根底にある 自己保存 我が身を守る ための人生』これが日記を書き始めて1966日目の心境。
2010.05.22
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朝、水を汲みに行く。水場の近くに、野イチゴが咲いていた。白い花には、ミツバチが止まっていた。もう赤く色づき始めた実もあった。コメント欄に、自尊心について書き込みがあった。自尊心とは、何だろうか。自分を尊ぶ心とは?・・・それは、自分の拠り所だろうか。自分が、依って立つ基盤だろうか。自尊心こそが、自分を支えているものだろうか。「自分は、○○○」仕事が遅いと言われても、自分は丁寧にやっているというのが自尊心。商品が高いと言われても、自分は質の高いものを売っているというのが自尊心。成績が悪いと言われても、一生懸命努力しているというのが自尊心。食事がまずいと言われても、インスタント食品ではないというのが自尊心。自分は、できる。自分は、大学を出ている。自分は、大きな会社で働いている。自分は、管理職をしている。自分には、やさしい配偶者がいる。自分には、頭の良い子供がいる。自分には、持ち家がある。自分には、お金や財産がある。自分は、信頼されている。自分は、尊敬されている。自分は、認められている。自分は、信用されている。自分には、友達がいっぱいいる。自分には、少ないけれども親友がいる。自分には、才能がある。自分には、才能はないけども人気がある。自分は、失敗したけれども誠実にやった。自分は、批難されているけれども間違ってはいない。自分は、悪く言われても世の中のためにやっている。自分は、間違ったけれども誤魔化したわけではない。自分は、自分は、自分は・・・数え上げたらキリがない。それらすべての「自分」が、自分というものを支えている。それこそが、まさに自分自身。その自分というのは、自己イメージ。これが自分という思い込み。自分という客観的なものがあるわけではない。それは、自分が自分に持つ自己イメージに過ぎない。その自己イメージこそが、自分の正体。その自己イメージこそが、自分のバックボーン。「貧乏でも、後ろ指を指されるようなことはしていない」というのが、自分を支えているもの。「たとえ出世できなくても、人を裏切ったりはしない」というのが、自分の拠り所。人は、たくさんの拠り所を持っている。仕事ができないと非難されれば、趣味に拠り所を見い出す。才能がないと言われれば、努力していることに価値を見い出す。美しくないと言われれば、スタイルのよさでカバーする。容姿に自信がなければ、才能で自分をキープする。才能にも自信がなければ、人柄で自分を維持する。人柄にも自信がなければ、お笑いで自分の存在感をアッピールする。お笑いも苦手なら、カラオケでみんなに認められるようにする。どんな些細な事でも自分の拠り所となる。小学生の頃は、成績が良かったとか。運動会で一番だったとか。親が地域の有力者であったとか。たとえ今は落ちぶれても、昔はお金があったとか。以前は、会社を経営していたとか。ある時期、大きな家に住んでいたとか。贅沢三昧をしたことがあるとか。有名人と握手したことでさえ、自分の誇りとなる。同じ町に著名人がいるだけで、自分のことのように誇れる。母校が甲子園で優勝すれば、自分が優勝したように話す。自分の子が有名校に受かりでもしたら、自分自身が受かったよりも鼻高々。外車に乗っているだけでも、自尊心は十分満たされる。ブランド物を持っていることは、自尊心をくすぐる。人が持っていないものを所有していることは、何よりも誇らしい。高級な香水を付けているだけで気分が高揚する。誰も行ったことのないところへ行った。多くの外国を旅した。有名人をたくさん知っている。病気をしないことさえ、自分の誇りとなる。たとえ病気がちであっても、それに負けないで頑張っていることが自尊心。たとえ貧しくても、万引きしないのが自尊心。たとえ万引きしても、捕まらないのが自尊心。たとえ捕まっても、もっと悪い奴がいるというのが自尊心。自尊心は、どこまで行ってもあり続ける。もしこれがなくなると、自己の存在が危うくなる。自尊心を手放せば・・・自信は消え、自分を信じられなくなる。そこには、死が待っているかもしれない。事業に失敗し、債権者にボロクソに言われ、自尊心がズタズタになって・・・自殺する人は、後を絶たない。失恋で自殺する人もいる。失恋こそは、まさに自尊心が傷つくことの最たるもの。まるで自分が否定されたかのよう。自信を喪失し、生きる気力が失せてしまう。そうならないためには・・・相手を否定し、自分をキープするしかない。相手の欠点を数え上げ、人を見る目がないと非難する。自分のことを何もわかっていないと、慰める。相手でなくても、周囲や状況のせいにすることもできる。何であれ、自分以外のもののせいにして自尊心を守ろうとする。自尊心とは、自分そのもの。どんな些細なことであれ、自分を支えているもの。それこそが、実は「自分」の正体。「自分」とは、自尊心の集合体。自尊心を支えているものこそが、自分の中身。そんなことはない?自分は別にある?それでは、自尊心以外の自分とは?どこにあるのだろうか。自尊心ではない自分は、どこに・・・愛?愛した人が自分を非難したら?愛した人が自分を傷つけるようなことを言ったら?愛した人が他の人と親しくしていたら?愛は、自尊心に勝るだろうか。自尊心が否定されても、愛し続けることができるだろうか。自分を否定されても、愛は継続するだろうか。自分というものは、自尊心で成り立っているのではないだろうか。自分から自尊心がなくなったら、自分も消えるのではないだろうか。自分には、何の才能もありません。自分には、恋人も友達もいません。自分には、仕事も家もありません。自分には、何も誇れるものはありません。と言う人でさえ、人に迷惑はかけていないと主張するかもしれない。悪いことはしていないと言い張るかもしれない。悪事をさんざん働いた人でさえ、家族を守るためにやむを得なかったと言うことだろう。会社の犠牲になっただけと言うに違いない。最悪の状況になっても、何とか自分を維持しようとする。その拠り所が、自尊心。自尊心こそが、自分自身。自分そのもの。自己否定する人でさえ、自己否定することによって自分を維持しようとする。自殺する人でさえ、世の中のせいにして自己正当化しようとする。最後の最後まで自尊心を持ち続ける。自分というものを持ち続けようとする。自分、自分、自分・・・自分こそが、この世を生きる基盤。自分こそが、自分そのもの。その自分の実態は・・・本当は、よくわかっていない。自分の中身を吟味している人は、ほとんどいない。自分とは?・・・自分の実態をよく理解することだろうか。自分の中身を深く理解することだろうか。それは、意外と浅いものかも?ブランド物や外車が自分を支えていたりして・・・いやいや、そんな浅いものではない?もっと深い精神世界が自分を支えている?魂?神?しかし、ほとんどの人は、神も仏も知らない。知っているのは、そのイメージだけ。思い込みという偶像。自分の都合のよいようにアレンジされた神や仏。自分より偉大と思えるものを拠り所にしているだけ。自分より安定していそうなものを拠り所としているだけ。それもこれも自分を維持するため。自分を守るために他ならない。神も仏も自尊心も、その根は同じ。自分を守るため。突き詰めれば、自己保存の本能。動物と同じ。人は、動物と同じ次元で生きているのだろうか。ただ自己保存の本能だけで生きているのだろうか。長い人類史を振り返ると、それを否定するのは難しい。人生に自己保存の本能が占める割合は?今日は、このあたりにしよう。あまり自尊心を傷つけると、この日記を読んでもらえなくなるかもしれない。自己否定されて喜ぶのは、マゾヒストだけ。普通は、自尊心をくすぐられる方が気分がいい。この日記は、間違っても自尊心をくすぐることはない。自己否定される場面の方が、圧倒的に多い。ハー、この日記の読者は、みんなマゾヒスト?自分は自己否定している、という自尊心も・・・『ささやかな イメージ頼り 身を守る 自尊心とは 自己維持装置』『ズタズタに されても何か 見つけ出し 自分支えて 自分を守る』『依って立つ 基盤は己が 自尊心 自分支える 最後の砦』『身を守り 維持するための 自尊心 傷つけること 誰も許さず』『自尊心 なければ楽に 生きられる あれば傷つく ことが絶えない』『守ろうと しているものは 自尊心 その実態は ただのイメージ』これが日記を書き始めて1965日目の心境。
2010.05.21
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自我というのは、絶海の孤島のようなもの。小さく凝り固まっている存在。その凝り固まったものが、自分の拠り所。自分の存在基盤。それは、自分の所有物。執着しているものであり、依存しているもの。地位、名誉、財産。信念、信条、信仰。家族、会社、作品。知識、経験、技術。体力、容姿、評判。恋人、友人、顧客。それらのトータルとしての自己イメージ。自分というイメージ。自分というこだわり。自分という囚われ。それらのものを、しっかり握っている。握って放さない。自分というイメージを握りしめている。逆に言うと・・・それらに縛られている。それらに条件づけられている。それらに制限されている。「私は、○○だから・・・」その小さな自我を守るために、自分の周りに柵を設ける。鎧を付けて、いつでも戦えるように身構えている。しっかりガードを固めた小さな小さな塊。肉体をベースとしたイメージの集合体。何もない状態とは、それらがないこと。何にも依存していないこと。どんな拠り所もないこと。自己イメージがないこと。心理的に、何も所有していない。何も握りしめていない。どんな執着もない。いかなる囚われもない。それが、何もない状態。即ち、空。しかし、それだけでは、この世を生きることはできない。この世を生きるためには、知識も経験もいる。記憶がなければ、この世で生きていくことはできない。現実創造など、及びもつかない。そういう意味では、知識も経験も必要不可欠。しかし・・・それだけでは、意識は常に条件づけられ、制限された状態となる。何もない空とは、ほど遠い。色の世界にがんじがらめにされる。色の世界にいながら、色の世界を超えることはできない。知識も経験も持ちつつ、それらに囚われない。財産や金銭があっても、それらに執着しない。地位や名誉があっても、それらに拘泥しない。家族や友人がいても、それらに支配されない。この世を生きるための技術は持っていても、それにもこだわらない。これまでの記憶や思い出があっても、それにすら囚われない。現世を生きるための仕事を持っていても、それにもこだわらない。いろんなものを持っていても、あらゆるものに囚われない。持っていてもいいし、持っていなくてもいい。あってもいいし、なくてもいい。必要なものは、持っていればいい。必要がなくなったら、手放せばいい。必要のないものは、必要のあるところへ回す。独り占めしない。循環させる。身軽に生きる。何もないということは、何も所有しないということ。たとえ所有するものがあったとしても、けっしてそれらに所有されない。持っているものがあっても、持っているものに縛られない。それらは、ひとときの借りもの。今、使わせてもらっているだけ。いつかは、お返しするもの。けっして自分のものではない。ただ一緒にいるだけ。それらと自己同一化しない。それらを掴まない。それらに縛られない。ただ活用するだけ。すべて一時的に使わせてもらっているだけ。知識も経験も、同様。記憶や思い出とさえ自己同一化しない。周りのために活用するのみ。それらを私的なものにすれば、自我となる。自分のものと思い込めば、それが自分になってしまう。小さな小さな自分になってしまう。すべて手放せば、無限の自分となる。個は、常に制限されている。肉体は、小さな制限された器。知識も記憶も、限定されたもの。言葉や食べものさえ、時代や地域に支配される。色は、制限された世界。色の世界で生きることは、制限のなかで生きること。制限された色の世界で、無制限に生きることはできるだろうか。軸足を色ではなく空に置けば、それが可能だろうか。制限の色の世界にいて、無制限の空の世界を生きる。制限された色の世界に囚われず、無制限の空にベースを置く。制限されたものを用いて、無限のものを表現する。心は無限の世界に住みながら、制限されたものを使いこなす。この世は、仮の宿。次々に移り変わるところ。その変化を楽しむところ。何ものにも囚われずに楽しむところ。この世のものは、すべて借(仮)りもの。ひととき活用するだけのもの。そのようなものに囚われないで、すべてを楽しむ。何も持たずに、色にあって空を生きる。『移りゆく 色の世界に 囚われて 所有する時 悲苦が始まる』『何であれ 色の世界は 仮(借り)のもの 借りて使って 楽しむところ』『借りるだけ 活用するだけ 使うだけ 所有はしない 執着しない』『握らない 愛でて楽しむ ひとときを 春夏秋冬(しゅんかしゅうとう) 過ぎゆくままに』『何であれ 自分のものと 思うのが 自我というもの 所有・執着』『手放して 何も持たずに 生きるのが 空ということ 自我がないこと』『自己という イメージなしに 生きるのが 空ということ 何もないこと』これが日記を書き始めて1963日目の心境。
2010.05.19
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(「1961日目 - アート」の続き)人は、現実創造をしている。そのベースになっているのは、肉体の保持。自己保存の本能が、根底にある。しかし、それだけではない。それだけでは、アートの説明はできない。人は、パンのみにて生きるものにあらず。では、パン以外の何によって人は生きているのだろうか。アートの源は、何だろうか。閃きは、肉体ベースではない。肉体を守るための動物的な勘はある。しかし、芸術的な閃きや発明・発見のインスピレーションは、それとは異なる。その源は、この世とは別のところにある。人は、生まれてくる時、今生のビジョンを持ってくる。それが基本となって現実創造が行われる。そのビジョンは、魂が作成したもの。それは、魂がこの世で担う役割。そのビジョンは、人生の節々でインスピレーションとなって人に伝えられる。芸術と呼ばれるレベルのものは、多かれ少なかれインスピレーションの影響を受けている。それは、魂からのメッセージ。魂のビジョン。人は、魂の代理人。現地責任者。そこには、魂本体から常に連絡が入る。現実創造のための様々な示唆がある。心を澄ませば、そのような示唆が読み取れる。表面意識だけで生きていると、魂からのメッセージは届かない。物質オンリーでは、魂のビジョンは伝わらない。アートのベースが、物質レベルになってしまう。魂には、魂のビジョンがある。しかし、それを実行するのは、この世の意識。肉体を持った人間。成長過程で条件づけられた個人。天のビジョンをそのまま地に実現するのは、至難の業。天の純粋なビジョンを、この世的な意識が邪魔をする。自己の保身や利害を一番に考える。それでは、天のビジョンは実現しない。天のビジョンは、魂に源を発しているわけではない。魂は、グループソウルの代理人。グループソウルは、更に大きなエネルギー体の代理人。究極は、元の元のひとつに至る。人は、神々の末裔。八百万(やおよろず)の神々は、それぞれの役割分担の名前。下位の神々があり、高位の神々もある。子神もいれば、大神もいる。元を辿れば、唯一絶対の元神あるのみ。構造は、同じ。元神の根本ビジョンを、大神や子神たちが更に具体化しているだけ。人も、その末端に連なっている。人のビジョンの源は、元の元のひとつの存在。そこから分離し、具体化し、個別化したもの。人は、元の元のひとつのビジョンの末端を担っている。それをこの世的に条件づけられた意識で歪めているのが、今の現状。要は、人が物質化してしまったということ。肉体ナイズされているということ。本来の魂を忘れてしまったということ。そして、それを思い出す時が来た!ということ。人が本来持っているビジョンは、魂のビジョン。魂のビジョンは、元を辿っていけば、大いなるひとつのビジョン。それは、唯一絶対神の宇宙創成のビジョン。人は、宇宙創成の一翼を担うもの。八百万の神々にそれぞれ役割があるように、人にも役割がある。それは、魂の役割とも言える。その魂の役割のなかで、今生の肉体を持った意識の役割がある。それを忘れないために、時々、インスピレーションが送られて来る。厳密に言えば、常時繋がっているとも言える。しかし、肉体に入った意識が自覚できるのは限られる。表面意識が静まった時だけ。多くの人は、肉体人間として生きている。心を静めて、魂の声を聞くことだろうか。自分の本体に意識を合わせることだろうか。人は、肉体のみにあらず。宇宙の根源と繋がる存在。アートは、宇宙の根源に源を発している。何段階もの意識体を経て、人を通して表現される。人は、そのビジョンを三次元のものを媒介にして表現する。物質や肉体や精神を使って具現化する。宇宙は、同じ構造。分離し、具体化し、より詳細になっていく。その分、制限され、限定されるようになる。個別化すればするほど、固定化していく。個になり切れば、とても小さな意識体。肉体ベースの物質的な意識体。魂との繋がりを切断された、この世限りの限定バージョン。生まれる前も死後もわからない宙ぶらりんの存在。個だけでは、宇宙から断絶した生きもの。根なし草。歌を忘れたカナリヤ。自分の本質を忘却した泥人形。心静かに生きる時、人は宇宙との繋がりを取り戻す。魂との繋がりが復活する。自分の本来の姿を思い出す。個であり全体であるのを自覚する。そのような状態になると、すべてが繋がる。そして、今為すべきこともわかる。それが、人の本来の状態。今は、そこへ向かって流れている。『断絶の 個から繋がる 全体へ 意識広がる 時は来ませり』『魂と 繋がり持って 今生の 知識活かして 現実創造』『魂と 繋がり持って 現実を 生きれば調和 自ずから成る』『天にある 調和を地にも もたらして この世を創る それが役割』『神々の 末裔なれば 人はみな 役割を持つ 宇宙創造』これが日記を書き始めて1962日目の心境。
2010.05.18
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真っ暗の新月から、少しずつ光が満ちてくる。そのプロセスは、漆黒の闇から宇宙ができあがる姿を彷彿とさせる。満月になる時、宇宙は完成する。完成したものは、また欠けていく。それは、呼吸にも似ている。吸い切ったら、吐くしかない。いつまでも吸い続けることはできない。吸ったり吐いたりが、呼吸というもの。食べものも同様。食べてばかりはいられない。食べたものは、出す必要がある。この世のものは、すべて同じ。すべて循環している。その循環が、いのち。その変化こそが、色の世界の営み。集合離散の繰り返しが、宇宙の実態。それは、子供たちの波打ち際での砂遊びに似ている。日々、新しい砂の造形を創る。しかし、次の日には、跡形もない。その繰り返し。何のためにそんなことをしているの?と、子供に聞く人がいるだろうか。もしいたら、子供は何と答えるだろうか。?子供は、その答を知らない。ただ楽しいから・・・と、答えるのではないだろうか。遊びなのだから・・・始まりがあるものは、終わりがある。しかし、終われば、また新しい始まりが待っている。その繰り返し。永遠の繰り返し。同じことは、二度とない。常に変化している。無限の組み合わせの変化。限りない創造宇宙。人は、自分を基準に物事を判断する。変化の速い遅いも、人の一生が基準。サイズも、人の体が基準。美醜も、自分の感性が基準。人間の五感を基準にして、すべてを判断する。人間の感覚では、石は変化しないように見える。花が開くのも見えない。しかし、風に流される雲は、変化しているのがわかる。宇宙の周期は、人間の時間感覚を超えている。あまりにも長過ぎて、実感がわかない。水晶が結晶するのにさえ、数万年を要する。その感覚も実感できない。人が感知できる範囲は、限られている。目に映るものは、虹の七色の範囲。大き過ぎても、小さ過ぎても見ることはできない。自分の了見で判断しているだけ。その了見は、自分の経験の範囲に制限される。幼少時の影響を色濃く残している。それぞれが、自分の色眼鏡で世の中を見ている。カラフルな色の世界を、サングラスをはめて見ているようなもの。色の世界は、分離の世界。分離の世界は、限定の世界。限定の世界は、制限された世界。肉体も見識も、すべて制限されたものでしかない。そういう限定された肉体という器のなかで、人は生きている。肉体という器と共に成長することで、自分を肉体人間と思ってしまう。狼に育てられた少女は、自分を狼と思っているのと同じ。鳥でさえ、別の種類の鳥に育てられると、自分を育ててくれた鳥と思い込む。人は、条件づけられている。育った環境に強く影響されている。人は、極めて制限された存在。狭い狭い了見で生きる。神々や天使たちに比べれば、ほとんど盲目で生きているようなもの。この世限定の視野。生まれる前も、死んだ後もわからない。一分先のことさえわからない。次の瞬間、大地震が起きても、まったくわからない。動物たちは、避難できるが・・・人は、ごく限られた範囲で生きているだけ。何重もの制限の下で生きている存在。この肉体や五感の範囲。目に見えて、手で触れる範囲。耳や鼻や舌の範囲。小さな小さな領域が、人の生存範囲。しかし、その限られた範囲を創造するのが、人の役割。では、いかに創造するか。何を創造するか。どのように創造するか。その雛型(ひながた)は、どこにあるのだろうか。ビジョンは、どこからやって来るのだろうか。それとも、手探りの試行錯誤だろうか。さて、人は何を基準に現実創造をしているのだろうか。人が現実創造している基準は、肉体。この肉体を維持するのが、そのベース。その根底にあるのは、自己保存の本能。しかし・・・それだけでは、動物と変わらない。人と動物の違いは?知能指数?では、知能指数が低い人は?知能指数が高い人は人間的で、知能指数が低い人は動物的?しかし、知能指数が高い人も、悪事を働いて捕まることが多々ある。悪事を働くことが、人と動物の違い?まさか・・・人と動物の違いは、役割の違い。現実創造の役割分担の違い。動物たちも子孫を創って現実創造に参加している。他にも人には理解できない役割があるのかもしれない。人は、より高度な創造ができるように見える。いろんな材料から、いろんなものを創造している。しかし、そのベースにあるのは、あくまで肉体。肉体の保持が、基本。しかし、それだけでもない。芸術は、肉体の保持だけでは説明がつかない。アートをする動物は、見かけない。アートこそが、人の特徴?肉体の保持は、必要条件。しかし、それだけでは、動物と同じ。人の特徴は、アートだろうか。それでは、アートとは何?子供の砂遊びと、どう違うのだろうか。アートも、結局は遊びだろうか。アートも、子供の砂遊びと同じだろうか。多種多様のアートがあるが・・・今日も砂浜では、子供たちが砂のお城を創っている。波が来れば、それらは消えてしまう。それでも飽きずに創っている。そのビジョンは、どこからやって来るのだろうか・・・ (続く)『創っては 波に呑まれる 砂遊び 飽きることなく 子供は遊ぶ』『肉体の 器に入り 砂遊び 何を創るか いかに創るか』『現実の ものを使った 砂遊び 人は創造 するが役割』これが日記を書き始めて1961日目の心境。
2010.05.17
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今日は、新月。月光がない状態。この何もない状態から、徐々に月が満ちていく。それが、現実創造。満月になる時、すべてが完成する。満月から新月までは・・・瞑想。瞑想とは?瞑想とは、引き算。手放すこと。手放し抜いて、ゼロになること。何もない状態に戻ること。瞑想とは、空。何もない元の状態。創造以前。分離以前。ひとつから無限に分離するのが、宇宙創造。分離した末端が、人。分離の極にあって宇宙創造の一翼を担うのが、人の役割。しかし・・・分離した個のままでは、宇宙から孤立した孤児。個々バラバラに動いたのでは、全体の調和は望めない。個でありながらも、全体と繋がっている必要がある。それを繋げるのが、瞑想。瞑想とは、新月から満月まで蓄積してきたものを、一旦ゼロに戻すこと。これまでの人生で積み重ねてきたものを、一旦白紙の状態にすること。すべて手放して、元の状態に戻ること。何もない空っぽの状態になること。それが、人のベース。揺らぐことのない基盤。そこを中心に据えて、現実創造に取り組む。そうすれば、安心して日常生活が送れる。瞑想とは、自分の原点に還ること。すべての始まりに戻ること。新月の状態になること。全体と繋がること。生きることは、蓄積すること。経験を重ね、記憶が増えていく。それは、現実生活に役に立つ。しかし、同時に自分を縛る枷(かせ)ともなる。人は、安易に経験に頼ろうとする。経験は役に立つ。しかし、経験は新しい体験を歪める。過去に条件づけられた体験となる。過去ベースで生きていると、新鮮な驚きはなくなる。日々の生活がパターン化し、マンネリ化する。すべてが、過去の経験によって解釈される。幼子のような初々しさは消える。幼子のような初々しさは、ゼロベースからしか生まれない。何もない空の状態の時、最高の感受性が備わる。経験は、新鮮な感受性を阻害する。斬新な発想や発明、発見は、経験の領域にはない。それらは、すべて閃きを基本としている。閃きは、記憶の領域ではない。それは、経験を超えた次元にある。蓄積したものを一旦手放さないと、新鮮さには出会えない。瞑想は、日々を新鮮に生きる糧(かて)。常にゼロベースでないと、感動とは縁がない。全体と繋がっていない人生は、孤立無援。それでは、生きる意味が見い出せない。瞑想とは、ゼロベース。基本は、ゼロ。何もない状態。それが、空ということ。瞑想とは、自分の原点に還ること。日常の喧騒を離れ、本来の自分に目覚めること。何もない無限に帰依すること。空にあって色を生きること。『手放して また手放して 手放して すべて手放す それが瞑想』『何もない 手に持つものは 何もない 無所有こそが 真の瞑想』『瞑想は 色の世界の 元の元 時空を超えた 何もない空』これが日記を書き始めて1959日目の心境。
2010.05.14
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今日の屋久島は、雲一つない快晴。さわやかに晴れあがっている。気温も20度を超え、過ごしやすい。気分爽快!何もない空っぽの心境も、これと似たようなもの。心は、いつもすっきりさわやか。しかし、空だけでは、宇宙は成り立たない。この森羅万象は、存在しない。毎日快晴では、朝夕のあの黄金色の雲の荘厳さを見ることはできない。いわし雲やわた雲などの多様性も望むべくもない。ただ毎日毎日青空があるばかり。これでは、飽きてしまう。宇宙は、本当に豊か。色の世界は、豊饒の世界。人も動物も植物も鉱物も、多様性に満ちている。これこそが、創造宇宙の真実。しかし・・・意識のベースは、空におく必要がある。なぜなら、千変万化の色にベースをおいたのでは、心のやすらぎはない。あまりの変化の激しさに、心身は消耗してしまう。ベースは、あくまで空。ベースを空におきながら、いかに生きるか。どのように色の世界を生きていくか。それこそが、目の前の課題。空だけでは、足りない。色の豊かさを創造する必要がある。一人一人が、その役割を担っている。さて、どんな色を創造するのだろうか。この世に生まれてくる時、それぞれが人生設計を持ってくる。それは、魂やグループソウルが相談して決めたこと。魂とは、自分自身。自分以外のものが、決めたわけではない。生まれる時代、両親、深く関わる人たち、起きる出来事・・・肉体、才能、容姿、性格・・・それは、まるで映画や演劇のようなもの。時代設定があり、配役があり、筋書きがある。そのすべては、生まれる前に詳細に検討される。今生で何をしたいのか。何を創造するのか。一人一人が今生の人生設計をして、この世に生まれてくる。しかし、この世に生れてしまうと、その計画を忘れてしまう。忘れても、大筋では計画通りに事は運んでいく。予定した通りに、いろいろな出来事が起きる。いろいろな出会いがある。本人は忘れてしまっていても、設計図は生き続けている。しかし、その設計図は、完成品ではない。自由裁量の余地が残してある。日々の食事のメニューまで決まってはいない。大筋は、決めてある。しかし、細かな事は、生まれてみないとわからない。想定外のアクシデントも起きる。筋書き通りに、すべてが運ぶわけではない。映画や演劇にしても、いろいろアクシデントが起きる。ロケであれば、天気に左右される。俳優の体調によっても、その日の仕上がり具合が異なる。演劇であれば、観客の反応によって俳優の乗りが違ってくる。機械のようにはいかない。人間がやっていることなので、多少ニュアンスが違ってくることもある。しかし、基本のストーリーは変わらない。恋愛映画が、戦争映画に変わることはない。しかし、実際に演じるのは、俳優。俳優がシナリオ通りに演じてくれないと、映画も演劇も成り立たない。ところが、俳優も人間。セリフを忘れたりすることもある。逆にシナリオには載っていないアドリブが飛び出すこともある。キスシーンが濃厚な場合もあれば、あっさりと終わってしまう場合もある。監督の思い通りにはいかない。俳優の体調や好き嫌いは、監督といえどもどうすることもできない。人は、機械ではない。一応の人生のシナリオはあっても、実際に実行するのは一人一人。そのため、設計図通りにいかないこともある。計画と違う人生になってしまう場合もある。世のため人のために尽くすつもりが、私利私欲に走る。高い精神性を発揮するつもりが、肉体に翻弄される。健康で天寿を全うするつもりが、病気になる。人生は、実際に生きてみないとわからない。それこそが、人生の醍醐味。この世のことは、すべて任されている。一人一人は、いわば現場責任者みたいなもの。現場では、現場責任者が臨機応変に対応する必要がある。この世で、どのような現実創造をするか。それが、命(みこと)や使命と呼ばれるもの。それは、魂がグループソウルなどと相談して決めたこと。個の意識にとっては、それが神よりの命令に思えるかもしれない。実際は、自分自身が決めたこと。しかし、それは自分をどのように思うかによって違ってくる。自分を肉の身と思えば、現実創造は神から与えられた使命となる。自分を魂やグループソウルと思えば、自分自身が決めたこと。一人一人が、人生設計を持っている。そうでない人は、一人もいない。何の目的もなく、この世に生まれてくることはない。目的のない行為は、宇宙には存在しない。それでは、実際に自分がやるべきことは何だろうか。それこそが問題!という人も多いだろう。多くの人が、自分は何のために生まれてきたのかと思っている。それを見い出すには、いろいろトライしてみることが必要になる。いろんなことを体験するうちに、自分が本当にやりたいことがわかる。若くしてわかる人もあれば、年老いてからわかる人もある。いずれにしても、自分の本心を真剣に見つめる必要がある。いろんな人生がある。いろんな人生設計がある。しかし、一つとして同じものはない。それぞれが、オリジナル。一人一人が、自分だけの人生を生きている。その生きることが、現実創造そのもの。一人一人が、宇宙創造の一翼を担っている。一人一人が、神の分霊(わけみたま)。一人一人が、神々の末裔。元を辿れば、大神に行き着く。源は、ひとつ。色と空の元の元・・・一人一人は、個であり全体。宇宙創造を担うものであり、それを見守るもの。この三次元で自分を花開かせるヒーローであり、ヒロイン。そのすべてを見守る神・・・『空っぽに なって初めて 目の前の 色の世界の 豊かさわかる』『ゼロベース ゼロから見れば 物事の 本質見える 仕組みがわかる』『変わりない 空をベースに 変わりゆく 色を楽しむ 見守りながら』これが日記を書き始めて1957日目の心境。
2010.05.12
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昨日のコメント欄に、次のような書き込みがありました。「屈辱も、苛立ちも、何にも感じない無感覚。プライドも何もない。なかなかなれないものですね。私も、時にかなりの状況を受け入れる器も持ち合わせている。けれど、屈辱と感じられるものに対して受け入れる器は小さい。寛容にさえ限度がある。本当は底の抜けたバケツのように、すべて私を通り抜ければいいのだけど・・・。これは、冷めているという心の状態と同じなのか?自分をなくすという事と、無感覚になるということは違うのか?そのあたりがうまくわからない。」自分がないという状態と無感覚とは、天と地ほど違います。無感覚というのは、厚い鎧を着て自分を守っている状態です。感覚遮断ですね。あるものを無理に抑え込んでいるのです。自分がない状態というのは、感覚も感受性も豊かです。ただ、屈辱感などを感じる自分がいないのです。自我とは、まさに屈辱感などを感じる自分そのものです。その部分こそが、理解を通してクリアーにされるべきものです。その自我をそのまま温存して、感覚だけを遮断しても何の意味もありません。ただ無関心、無感動の冷めた人間ができあがるだけです。ほとんどロボットですね。それでは、生きているとは言えません。豊かな感性と、瑞々(みずみず)しい感受性。この地上の豊かさを思う存分味わって、楽しむことです。どうして感覚を遮断したりするのでしょうか。このすばらしい世界を、どうして感じないようにするのでしょうか。それもこれも、自分を守るためです。これ以上、自分が傷つかないためです。その傷つくことを恐れる自分こそが、まさに傷つく元凶です。傷つく元凶を守ろうとするから、いつまで経っても傷つき続けるのです。傷つくとは、どういうことでしょうか。屈辱感を感じるとは、どういうことでしょうか。苛立ちとは・・・なぜそうなるのか、深く深く見つめてみることですね。それらは、抑圧されることによって生じるのでしょうか。それとも、自分の思うようにならないからでしょうか。しかし・・・それは、一方的な見方です。自分サイドだけの偏った見方に過ぎません。相手が、どうしてそんなことをしたり、言ったりしたのか・・・それを理解することです。そうすれば、一方的に傷つくということはなくなります。相手を理解することがないから、一方的に傷つくのです。理解するだけのキャパシティがないのですね。自己中心的に生きているのです。客観性に乏しいのです。主観オンリーでは、傷つくだけです。屈辱感を感じたり、苛立つことが絶えないでしょう。主観と共に客観も必要なのです。自分自身を見つめる冷静な目が必要なのです。行動する主体としての主観は、もちろん必要です。しかし、それだけでは、全体が見えません。小さな了見で一喜一憂するだけです。全体を見守る客観も、同時に必要なのです。主観と客観。それでこそ、必要十分条件と言えます。自分を抑え込んだり、我慢する必要はありません。そんなことをしても、フラストレーションが溜まるばかりです。結局は、自分を理解することに尽きます。すべては、自分を守ろうとするところから発しています。そういう自分を理解することですね。自分を守ることも必要ですが、それ以上に自分を理解することが必要なのです。そうでなければ、周りに振り回されるだけです。必要以上に警戒して、小さくなって一生を終ることになりかねません。自他の理解がないから、周囲に翻弄されるのです。深く見つめることをしないでイージーに生きているから、世間にもみくちゃにされるのです。しっかりと自他を見つめ、深く生きることですね。心身共に全開にして、のびのびと生きることですよ。そのためには、まず自他を深く理解する必要があります。深い理解が、真の自由をもたらすのです。自分がない状態とは、自分自身の深い理解によって自然に実現するものです。意図的になれるものではありません。意図がある限り、まだ意図する自我が残っています。ただ理解を通して、自然に所有するものが放棄されるのです。自我という所有が放棄される時、自分がない状態が実現します。何もない、けれども、すべてがあるという状態です。その時、地球の豊かさは目の前にあります。無限の豊かさが、眼前に展開するのです。『守ろうと すればするほど 傷ついて ボロボロになる 自我の人生』『身を守る ことも必要 理解する ことも必要 守る以上に』『主観だけ 客観だけでは 不十分 主観と客観 共に必要』『手放せば 肩の力も 抜けていく 楽に自由に 生きていかれる』これが日記を書き始めて1955日目の心境。
2010.05.10
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昨日は、水晶の浄化に行った。海の水はぬるく、泳げそうな感じだった。しかし、川の水は、まだ冷たかった。水量は少なく、藻がたくさん生えていた。「自分」というものをすべて手放すと、どうなるだろうか。全開すると、どんな感じだろうか。どんなこだわりも、いかなる囚われもなければ、人はどのような感じになるだろうか。・・・すべてを手放せば、「自分」はなくなる。「私」は、消える。それでも・・・意識は、ある。その意識は、どんな意識だろうか。何でもない意識。名もない意識。不特定の意識。特定され、限定された意識ではない。個性のない意識。何も過去を背負っていない意識。空っぽの意識。空っぽの意識は、気持ちがいい。何もない意識は、スッキリしている。実は・・・何もないということは・・・すべてが、あるということ。何も所有しないということは、すべてを持っているということ。一旦、すべてを手放してしまうと・・・すべてが、向こうからやって来る。それは、どういうことだろうか。「自分」を含めたすべてを手放すと、すべてがやって来る。これまで当たり前に思っていたことが、新鮮に映る。目の前にあるものが、その本来の輝きを取り戻す。あって当然。あるのが当たり前。これまで何も感じなかったものが、突然、存在感を現す。すべてが、見違えるような存在となる。一つ一つのものが、燦然(さんぜん)と輝く。これまで当たり前と思っていたものが、すばらしい個性を備えている。一つ一つが、すばらしい。この世の豊かさに目まいがする。それは、癌の宣告をされて、余命いくばくもないと自覚した人の心境に似ているかもしれない。残された時間があまりないと知ると、人はすべてが愛(いと)おしくなる。この世が、こんなにすばらしいところだったかと改めて感動する。すべてが、輝いて見える。それは、目が見えなくなった人が、目が見えることのすばらしさに初めて気がつくようなもの。手足を自由に動かせなくなって、改めて手足が自由に動くことのありがたさに目覚めるようなもの。家族を失ってみて、その存在がどれほど貴重だったかに真に気づくようなもの。当たり前と思っていたものを失くした時に、そのすばらしさがわかる。では、それらすべてを一度になくしたら?「自分」さえなくしてしまったら?どうなるだろうか。その時、この世は、どのように見えるだろうか。今、在ることのすばらしさ。目の前に森羅万象があることの、なんという豊かさ。それらが変化し、移り変わることの、言葉に尽くせぬ贅沢。まるで目の前で3D映画が、常時上映されているようなもの。失くしてみて初めてわかる、ありがたさ。すべてを失くせば、すべてがすばらしく感じられる。これまで当たり前と思っていたものの、その一つ一つがすばらしい。ただ生きているだけで、すばらしい。不平不満は、消える。当たり前、当然と思っていたものがなくなると、そのありがたさがわかる。こうあるべきだ、こうでなければならない・・・そのような観念が消えれば・・・人は、完全に自由となる。何にも縛られない自由。しかし、それは、何にも依存しないことを意味する。これまで依存してきたものは、すべて消失する。社会の枠のなかで安住してきたものが、すべて消えてしまう。これまで拠り所としていた観念や信念、道徳、常識、習慣、信仰・・・それらすべてが、泡のように消えていく。何も寄る辺がなくなる。何も頼りにできるものはない。「自分」さえ頼りにならない。何もない。この宇宙に頼りになるものは、何もない。ハイアーセルフも魂も神も助けてはくれない。チャネラーにも霊能者にも相談できない。親兄弟はもちろん、友人、知人にも頼れない。誰にも何にも頼ることはできない。何もないとは、そのようなこと。本当に何もない。まったく何もない。・・・それが、すばらしい。何もないのに、すばらしい。何もないということは、すべてがあるということ。あふれるような豊かさがあるということ。この全宇宙がある。宇宙は、自分と別には存在していない。宇宙と共にある。宇宙と分離していない。宇宙の呼吸が、自分の呼吸。宇宙の響きが、自分の響き。宇宙の豊かさが、自分の豊かさ。宇宙は自分であり、自分は宇宙。『野も山も 空・海・川も 滝までも 森羅万象 輝いている』『何もない 心に映る 豊かさは 一つ一つが 輝いて在る』『金持ちと 何もない人 比べたら 真の豊かさ 一目瞭然』『金持ちは この世の富の 一部だけ 何もない人 森羅万象』『所有する 豊かさよりも 所有せぬ 豊かさこそが 真の豊かさ』これが日記を書き始めて1954日目の心境。
2010.05.09
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今日の屋久島は、朝から激しい雨が降っている。昨日は、強い風が吹いた。ゴールデンウイークが終わって、自然は大浄化を始めている。怠惰な人の気を一掃するために・・・子供たちは、活き活きとしている。小さければ小さいほど、鮮度がいい。年寄りは、活き活きとしていない。年を取れば取るほど、鮮度が落ちる。この違いは、何だろうか。生命力が違う?確かに!新芽と老木では、生命力に格段の差がある。しかし、実は、それだけではない。子供たちは、今を生きている。では、老人は?そう、過去を生きている。子供たちは、今、今を生きている。だから、活き活きとしている。年を取ると、過去の惰性で生きるようになる。習慣やパターンのままに生きているだけ。自分というものは、ただの自己イメージ。厳密な意味での自分というものはない。肉体というエネルギー場はある。しかし、その肉体も日々変化している。すべては、変化している。自分も例外ではない。そういうところに軸足を置けば、日々、新鮮に生きられる。ところが・・・人は、過去にベースを置きたがる。年を取れば取るほど、過去に安住したがる。変化を恐れ、安定を求める。新しい生を切り開く気力が失せていく。惰性で生きれば、活き活きと生きることはできない。過去の習慣やパターンに流されるだけ。それでは、今を真剣に生きているとは言い難い。ほとんど過去の亡霊に近い。惰性が、人を不活発にする。過去に安住することが、人を動かなくさせる。安定を求めることが、新鮮に生きることを妨げる。色の世界に安定はない。色の世界で安定を求めることは、死に近づくこと。活き活きと生きるとは、不安定のままでいること。いくら金銀財宝を貯め込んでも、どれだけ名誉や地位を手に入れても、この世の安定は保証されない。なぜなら、色の世界は変化の世界だから。変化こそが、色の世界の生命線。変化がなくなれば、色の世界も終わる。色の世界に住む限り、変化を友とするしかない。色の世界に不動はあり得ない。にもかかわらず、年を取ると安定を求める。安定は、空の世界にしかない。いくら蓄財しても、いくら権力を手にしても、変化は免れない。生老病死は、待ってはくれない。「自分」の真実を知らない人は、安定を求める。安定とは、過去。過去は、確定している。今は、不確定。ほとんどの人は、多くの所有物で自分を守ろうとする。家も財産もある。名誉も地位もある。子供にも恵まれている。自分には、才能がある。大きな会社を持っている。何冊も本を出している。地元では有名人。そういうもので自分をコーティングして、自分を維持しようとする。隣よりも家が広いだけでもいい。自分の子が有名校に通っているだけでもいい。夫がリストラされないだけでもいい。人それぞれ、自分の拠り所がある。その拠り所こそが、自分に他ならない。自分とは、自分を支えているもの。自分とは、自分を形作っているもの。多くの人は、そういうものに支えられて生きている。と言うことは・・・逆に言うと、それらに縛られていることになる。自分を支えているものは、自分を縛っているもの。そういう不自由さによって、安定というものは成り立っている。安定と言うと聞こえはいいが、それもまた惰性の一種。過去に安住しているだけ。安定を求めること自体が、惰性そのもの。人は、価値観に安住する。理論武装によって自分を守ろうとする。知識や観念によって、自分を認めさせようとする。そういうものに依拠して、自分を保とうとする。しかし、依拠したものは、自分を縛る。自分が根拠したものが、自分を限定する。自分とは、自分が依拠したもの。何かに依拠すれば、今を白紙で生きることはできなくなる。今を白紙で生きなければ、人生は惰性と化してしまう。常にゼロの状態でなければ、すべてを新鮮に受け止めることはできない。ゼロだけが、人を新鮮にしてくれる。常にリセットしていることが、活き活きとした生を約束する。すべては、仮初めのもの。そういう心境で生きることだろうか。何かに依拠すれば、惰性となる。何かに安住すれば、若さは失われる。安住することは、固定すること。固定することは、限定すること。限定することは、無限の可能性を制限すること。宇宙という無限創造に反すること。色の世界は、無限の創造。色の世界は、無限の変化。色の世界に、安住はない。安心立命は、空の世界にしかない。若さとは、無限の変化。活き活きと生きることは、常にゼロポイントにいること。何も所有せず、常に白紙でいること。所有すれば、惰性の生となってしまう。両手を広げている時にだけ、新しいものを受け止めることができる。過去を大事に持っていると、新しいものを手にすることはできない。何も所有しない時に、新鮮な生が花開く。次々と流れる時に、無限の若さが共にある。『活き活きと していることは 今ここの 波動が速い ことを意味する』『安定を 求めることは 死出の旅 徐々に固まり 動かなくなる』『所有する ものがたくさん ある時は 過去に縛られ 身動きできず』『惰性とは 過去の自分を 生きること 安住求め 固定すること』『身を守る ものを一切 持たないで 手ぶらで生きる ゼロが原点』『何もない 時に最も 活き活きと 生きられるもの 縛るものなし』これが日記を書き始めて1952日目の心境。
2010.05.07
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朝、庭に出ると、どこからともなく馥郁(ふくいく)とした香りがしてきた。春の香り。自然の香り。香りの元を辿っていくと・・・そこには、ハマニントウ(浜忍冬)の花が咲いていた。これまで自宅では見たことがなかった。近くの野原には、たくさん自生している。いつの間に自宅で育ったのだろうか。春になって、あちこちで花が咲いている。誰が植えたのでもない野の花。目立つことなく、静かに咲いている。楚々として、力強く咲いている。自分とは、何か。自分とは、自己限定ではないだろうか。自分とは、自分で自分を規定したもの。それ以外に自分というものがあるだろうか。試しに、一切の自己限定を外してみる。そうすると、どうなるだろうか。自分は・・・なくなってしまう。もちろん、自分はなくなっても意識はある。それは、自己限定のない意識。名もない、ただの意識。今ここの意識。自分とは・・・ある時は、名前。別の時は、職業。他の時は、役割。父親であり、息子であり、孫になることすらある。会社ではOLであり、自宅では主婦。自治会の役員であり、ボランティアであり、母親。時と場合によって、自分は変化していく。ある人には、親切。別の人には、意地悪。自分は、良い人?それとも、悪い人?人に対しては、寛容。自分に対しては、厳しい。と、思っている人もいるだろう。ところが・・・他の人もそのように思っているとは限らない。自分勝手で、我がまま。周りのことを考えないで、何でも自分の好きなようにする。と、思われているかもしれない。自分が持つ自己イメージと他の人が持つイメージとでは、一致しないことも多い。それは、見る角度が違うから。見る人それぞれが、独自のイメージを持っているから。つまり、自分とは、自分が持つ自己イメージに過ぎないということ。その自己イメージも変化する。永久不変ではない。褒められれば自己イメージはアップし、逆の場合はダウンする。自分というイメージは、常に変化している。すべては、仮初(かりそ)めのもの。一時的なものであり、固定的なものではない。昨日と今日とで異なっている時もある。1時間前の自分とも違っていたりする。自分とは、可変的。一定の自分はない。ただ刻々に変わる意識があるだけ。次はどう変わるかわからない意識があるだけ。すべての自己限定を外す時、自分は消える。自分が消えれば、悩みも消える。自分があるから、いろいろ悩む。自分がなければ、見栄も体裁もいらない。ありのままの自分がいる。自分という自己限定のない意識がある。それは、もう自分とは呼べない。名もないただの意識。自分とは、何?それは、自己限定。自己イメージであり、自己定義。単なる思い込み。自分という、一定不変のものはない。自分は、常に変化している。常に変化しているものを固定的な名前で呼ぶのは、無理がある。にもかかわらず・・・すべてに名前が付いている。名前を付けることは、定義。特定し、個別化すること。変化しているものを固定すること。しかし、いくら名前を付けても変化は続く。その結果、成長するに従って名前が変わる魚もいる。人も、○○ちゃんから、○○君となり、○○さんとなる。自分というものも変化する。自分とは、仮初めのもの。一時的なもの。期間限定バージョン。賞味期限があるもの。あまり自分にこだわらないことだろうか。所詮、自分とは、仮初めのものなのだから。突き詰めていけば、今、意識があるだけ。今、今、今の意識があるだけ。一旦、すべての自己限定を外してみる。そうすると、どうなるだろうか。名なしになると、どんな気分だろうか。完全な自由があるだろうか。すべてを白紙に戻してみる。リセット。ゼロからの再スタート。その時、すべてが新鮮に見えるだろうか。『刻々に 変化変滅 する意識 固定する時 自分生まれる』『自分とは 過去の記憶と 思い込み 自分でつくる 自己のイメージ』『自分とは 自分で自分 定義する ことで成り立つ 仮初めのもの』『厳密に 定義する時 消えていく 自分は過去の 記憶・イメージ』これが日記を書き始めて1950日目の心境。
2010.05.05
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屋久島は、晴の日が続いている。ゴールデンウイークで、観光客がたくさん押しかけている。車を運転すると、レンタカーに交じって各県のナンバーが走っている。日本全国から屋久島に人が来ている。自宅の周りは、車輪梅が満開。野性の車輪梅が、至るところに花を咲かせている。自宅に居ながらにして、お花見ができる。今日もたくさんのツバメが、自宅の周りを低空飛行していた。夢は、面白い。いろんな時代の知り合いが、一緒くたに出てくる。それに伴い、いろんな自分が出てくる。子供の頃も若い頃も出てくる。それぞれが、自分。今の意識とは違う自分。過去世の意識も出てきたりする。たくさんの自分がいる。それでは、本当の自分とは何だろうか。どれがいったい本当の自分だろうか。幼稚な自分?若い頃の未熟な自分?いやいや、今の自分こそが、本当の自分?しかし、しばらく経てば、また違った自分になってしまう。それでは、自分とは?何?気分や感情は、一日に何回も変化する。大人っぽい自分の時もあれば、子供っぽい自分の時もある。同じ自分?と、言えるのだろうか。笑っている時もあれば、泣いている時もある。怒っている時もあれば、悲しんでいる時もある。どんな時の自分も同じ自分だろうか。コロコロ変わる自分は、同じ自分なのだろうか。それとも、同じ自分というのは、幻想だろうか。真実は、一瞬一瞬異なる自分がいるだけだろうか。そうなると、自分という一貫性がなくなる。自分の存在そのものが問われる。自分とは、何?一定不変のもの?あるいは、変化してやまないもの?さてさて・・・一定不変でないのは、誰でもわかる。では、刻々変化している?となると、自分というものは存在するのだろうか。瞬間瞬間変わる自分は、はたして自分と言えるのだろうか。肉体は、刻々変化している。食べたり動いたりして、体重は常に増減している。細胞は、刻々に分裂したり死滅したりしている。髪の毛は、抜けるものもあれば伸びるものもある。肉体は、変化するのが常態。それでも自分の肉体だろうか。自分で自由に動かせるから自分の肉体?それでは、動かせなくなったら誰の肉体?刻々に意識も変われば、肉体も変わっている。にもかかわらず、自分であり、自分の肉体と思っている。はたしてそうだろうか。本当に自分や自分の肉体というものがあるのだろうか。一定不変ではない。それは、誰もが認めるだろう。自分の肉体や意識を自由にコントロールできないこともある。それもほとんどの人が、認めるだろう。ダイエットしたいのに、食べ過ぎてしまう。寝たいのに、なかなか眠れない。朝起きなければならないのに、布団から出れない。勉強しなければならないのに、テレビを見ている。自分の意識さえ、自分ではどうにもできないことがある。肉体にいたっては、更に歴然としている。いつも元気でいたいのに、病気になる。スリムでありたいのに、太ってしまう。ふさふさの髪の毛を維持したいのに、勝手に抜け落ちる。スベスベの肌でいたいのに、しわが増えていく。元気に動き回りたいのに、足腰が弱っていく。肉体の変化は、自分ではどうすることもできない。それでも自分の肉体?自分で自由にコントロールできないのに、自分の肉体?なに?自由に動かせるところもある。では、動かせるところは、自分の肉体?では、動かせないところは?誰の肉体?さてさて・・・色の世界に一定不変のものはない。色の世界は、無常。常に変化している。自分も例外ではない。そうなると、自分とは何?何を指して自分と言うのだろうか。常に変化しているものを、どうして固定的に自分と呼べるのだろうか。なぜ?赤ちゃんの頃の自分と幼児の頃の自分。小学校時代の自分と青春時代の自分。仕事を始めた頃の自分と定年間近の自分。生まれた時の自分と死ぬ時の自分。それらの自分に共通するものは?その共通するものこそが、自分?しかし、共通するものがあるのだろうか。魂?確かに魂は同じかもしれない。では、その魂は、一定不変?色の世界に一定不変のものはない。魂も例外ではない。そうなると、魂も常に変化していることになる。となると、自分の根拠がなくなってしまう。自分の根拠は何?何をもって自分と言うのだろうか。さてさて、難しい問題になってしまった。これに明確に答えられる人は、極めて少ないだろう。ほとんどの人は、そういうことを気にしないで生きている。気にしないでも生きていける。しかし、「自分」を気にする人は多い。いや、ほとんどの人が自分を気にして生きている。自分、自分、自分・・・いつも意識の原点には、自分がある。ところが、その自分が怪しい。自分の根拠が、はっきりしない。いやはや、とんでもない話。しかし、それが事実。かなりいい加減に人は生きている。自分、自分と言いながら、自分の根拠は曖昧模糊。明確な「自分」の定義をして生きている人が、はたして何人いるだろうか。自分とは、何?『自分とは 何だろうかと 思う時 自分の根拠 曖昧になる』これが日記を書き始めて1948日目の心境。
2010.05.03
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朝8時に宿に迎えに行く。そのまま木霊の森へ向かう。白谷雲水峡の駐車場には、8時半頃に着いた。それでも、駐車場は、ほぼ満車状態だった。人盛りのする駐車場を後に、木霊の森へ歩く。木霊の森には、誰もいない。白谷雲水峡とは、対照的。ただ自然が、そこにあるだけ。木霊の森は、サクラツツジが満開だった。こんなにサクラツツジがあったの?と思うぐらい咲いていた。どこを歩いても、サクラツツジのピンクが目に入った。淡いピンクもあれば、濃いピンクもある。サクラツツジと一口に言っても、微妙な色の濃淡がある。これは、今回発見したこと。ゆっくり横になったり、沢の音を聞きながら進む。森の霊気が漂うところで、この森のすばらしさを実感。自然があるだけ。人気はない。屋久島の自然そのものが、息づいている。新緑も生き生きとしていた。特にヒメシャラの新緑が、瑞々(みずみず)しかった。ちょうど緑の葉が、開き始めたところ。深い苔の緑とは違う、透き通るような緑色が空を覆っていた。水量は、かなりあった。数日前まで連日雨が降っていたからだろう。但し、苔には、既に水気がなかった。ここ2~3日、雨が降っていないため。風もさわやかだった。鳥たちも楽しそうに囀(さえず)っていた。アリドオシが、白い蕾を付けていた。紅いリンゴツバキの花も、まだ苔の上に落ちていた。シカは何回か鳴いたが、姿は見えなかった。天気は良く、暑くもなく寒くもない。しかし、水は、まだ冷たかった。時々、木漏れ日が射し込んだ。今日のお客さんは、午後1時半の高速船で帰る予定。そのため、森にいられるのは、午前中だけ。そのつもりで早く宿を出たが、やはり最後の切り株までは行けなかった。最後の滝を見て終了。それでも、十分満足してもらえた。もう一度、ゆっくり出直すとのこと。暖かい時期に、のんびり昼寝をしたいらしい。ぜひ再会したいもの。安房の高速船乗場まで送っていく。待合室には、けっこうな人がいた。さすがにゴールデンウイーク。早目に帰る人たちだろうか。森は、いい。いつ行っても、いい。パソコンで溜まったものが、アクビで一掃される。スッキリして自宅に戻れる。森のなかでは、あまり考えることもない。空っぽになって、森の美しさに感動する。特に春の森は、カラフル。一年中で最も美しさが際立つ。お客さんも、メンテナンス。こちらも、メンテナンス。心身を本来の状態にリセット。新たに生き返る森。『新緑の なかに際立つ ピンク色 木霊の森も 春の装い』『静けさの 森で静かに くつろげば 心身共に リセットされる』これが日記を書き始めて1946日目の心境。
2010.05.01
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