2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全17件 (17件中 1-17件目)
1
本日は優勝戦。最終日だった。いやあ、凄い客の入りだった。ガクトファンも目立ったけど、家族づれも多かった。小学生のポケバイレースもあったから、それの関係かも。そのポケバイレースが面白かった!本物より面白えんじゃねえ? の声しきり。是非、継続していただきたい企画である。しかし、……実は昨日飲み過ぎて二日酔い&寝不足。頭は痛いわ、気持は悪いわ、それでいて日差しが強くて、暑くて、くらくらして、ひとが多いから坐るところもなくて、立ちっぱなしで……。と、最悪のコンディションで、とてもじゃないが、車券のことなどに集中できなかった。腹がやたらに下って、レースごとにトイレだし。今日は早めに寝よう。
2007年04月30日
コメント(0)
本日のオールスター準決勝戦10R。1着と2着が明日の優勝戦に進出。そして1着入線は永井、以下2着は片平、3着金子、4着有吉。すなわち永井と片平が優勝戦進出かと思いきや、両者ともに反則失格となり、金子と有吉が繰り上がって優勝戦進出となった。と言ってもオートに関心のない方にはなんのことやらだろうが、以下勝手に書く。片平巧とはどういう選手か。SGタイトル15冠。つまりSGレースで優勝15回である。これがどれだけ凄いかというと、現役選手でSGを1回でも取ったことのある選手は23名しかいない。その内訳は、1回 7名2回 5名3回 4名4回 1名5回 1名7回 1名10回 1名13回 1名そして片平巧の15回 1名である。如何に片平が凄い選手であるか、この数字からでもわかるだろうが、片平の強さはこの数字以上のものがあった。ある時は、優勝戦の他7名が0ハンデで片平ひとりが10mハンデのときがあった。つまり片平ひとりだけが10m後ろから走るのである。それでも7人を抜いて優勝した。同じ条件で勝つのではない。ハンデがあってもなお勝つのである。さて、しかし、そのように強い片平であるが、最後のSG優勝はというと、2001年の全日本選抜とスーパースター王座決定戦を最後とする。つまり、かくも強い選手ではあるが、それも5年前までの話となってしまっていたのだ。もう終わった。もう片平の時代ではない。いまのスピードレースでは片平の技は通じない。そう思われていた。「強い」選手とは書いたが、実のところ片平は全盛期でも「強い」というイメージではなかった。「上手い」選手だった。絶対に入れないようなところに切り込んで、ハラまずにきれいに回るテクニックは芸術品とも言われた。しかしそれも5年前までの話だ。それが今回のオールスターで片平は復活した。そして準決勝戦2着となり、優勝戦進出を果たした。あの片平がSG優勝戦に帰ってきた。涙が出た。男の生きざまを感じた。それが、失格。しかもその失格判定場面は、まさしく片平の芸術的なインさばきが現前したものだった。抜かれる相手が下手だからスッ飛んだのである。あれが失格なら追い抜きなどはできない。安全運転だけでレースしろとでもいうのか。いや、判定自体にはあれこれ言うまい。しかし、片平が出る優勝戦を見たかった。優勝は無理だろうと思いつつも車券は買っただろう。オグリキャップの最後のレースのときの競馬ファンの気持ちに近いと言えばおわかりいただけるだろうか。しかも馬は数年の付き合いだが、片平とは20年以上の付き合いなのだ。すべては無常とこれ観ずるか。ネットの掲示板には「片平信者」の悲嘆があふれている。私もその一人である。
2007年04月29日
コメント(1)
オールスター二日目である。実は昨日はマイナス(負け)だったが、今日は堂々のプラスだった。やっぱりプラスはいい。気持の張りが違う。明日、明後日は所用で行けないので、最終日優勝戦に参戦の予定。ポケバイレース(模擬レース)もあって、楽しみだ。
2007年04月27日
コメント(0)
SGオールスターの初日である。なんだ? という方もいるでしょうが、競馬で言えば天皇賞とか菊花賞とか、ああいう大きなレースなのです。平日だというのに結構お客さんが入っていて、盛り上がっていた。が、午後、突然の雨。雷も鳴った。そしてすぐに止んでこんどは太陽が燦々と。オートではこういうのが一番困るんだよね。オートは公営競技のなかで最も天候に左右されるレースで、だから予想紙には通常の予想のほかに「雨予想」の欄があるくらい。180°レースが変ってしまう。それでもどしゃぶりの雨なら雨で予想するのだが、今日みたいに走路が完全に濡れているのかそれとも乾くのかわからないというのではどっちで予想していいか困るのだ。車券を買ったときには濡れていてもいざレース本番のときは乾いていたなんてのもよくあることで。今日がまさにそれ。だから走路が完全に乾くまで3レースほど「見(ケン)」しました。ま、楽しかったけど。
2007年04月26日
コメント(0)
『文学部唯野教授』(筒井康隆)を読んでいる。面白い。105円はお買い得だった。ところで、作中に文芸批評の講義の場面が章ごとにあって、そのなかに哲学に関する話が多い。当方は哲学には縁なき身なのだが、先日の『小説の自由』『小説の誕生』に続いて、図らずも哲学話を読むこととなった。これを偶然と見るのか、必然と見るのか、これも哲学の考察になるかもしれない。もっとも『小説の自由』『小説の誕生』で繰り返し語られていたことは、哲学は(文学もそうなのだが)考察している時間の中にしか存在せず、その考察の結論だけを聞いただけでは屁のつっぱりにもならないとのこと。音楽は聴いている時間のなかにしか存在せず、料理は食べている時間のなかにしか存在しない。そう言われればなるほどと思う。美味い料理を食べて美味いと思うのは食べているあいだ(時間)であり、食べ終わってからあれこれ言っても、あるいは美味しかったと思い出しても、それは料理そのものではない。だから料理は食べている時間にしか存在しない。もちろん食べる前の料理もまた料理そのものではない。哲学も文学もしかりで、哲学は考えている時間にしか存在しないし、小説は読んでいる時間にしか存在しない。目の前に本があっても、それは楽譜のようなもので、楽譜が音楽そのものではないように、本は小説そのものではない。
2007年04月25日
コメント(0)
『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆)と『あらゆる場所で花束が……』(中原昌也)を読了。『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆)は『大いなる助走』以来27年ぶりの「文壇物」という触れ込みでもあったが、さて『大いなる助走』を愛読した身としては、考えることが多い。『巨船ベラス・レトラス』はメタフィクション構造を取っているが、筒井康隆なら意外でも奇妙でもなく、むしろ古典的な形式にさえ見えてしまう。そのあたりがどうなんだろか?素直な形式の(といっても工夫はもちろんあるのだが)『大いなる助走』のほうが内容の濃さでは優っているように見えてしまう。早い話が『大いなる助走』の登場人物は生身の人間のようにひとりひとりの顔が見えたが、『巨船ベラス・レトラス』のほうでは揃って作者のあやつり人形のような存在感しかないのだ。『あらゆる場所で花束が……』は果して読み通せるものか自信がなかった。わずか200枚の作品だが、とてもじゃないがまともに読める文章ではない。パラパラと開いたが読む気が起こらない。三島賞の選考の場で高樹のぶ子と宮本輝が「全否定」したのもよくわかる。しかし義務のように覚悟を決めて読み出したら、あら、読めてしまった。それでずっと思い浮かんでいたのが「ある種の映画」で、どういう映画かというと、観客の評価が「途中で観るのをやめた」と「面白かった」に二分される映画である。観客を置き去りにして、意図もよくわからない映像が断続的に流れて、観客に意味を探すことを強要する映画。たとえば、『マグノリア』(1999年)とか。そう思って読むと作文以前のような安手の文章も映像のイメージをダイレクトに伝えるもののように思われてきて、これでいいのかと納得したりもした。だからいい小説だとは言わないが。今日はブックオフで5冊購入。単行本『文学部唯野教授』(筒井康隆)105円単行本『日蝕』(平野啓一郎)105円単行本『蹴りたい背中』(綿谷りさ)105円文庫本『イッツ・オンリー・トーク』(絲山秋子)250円文庫本『無情の世界』(阿倍和重)250円綿谷りさは『インストール』も未読なのだが、105円だから買った。筒井康隆以外は初読の作家ばかりである。
2007年04月24日
コメント(0)

さて選挙の結果は、と言っても、ほんとにどうでもいいのだが、各地の結果を見るとなかなか面白いものがあって、たとえば、これ。1票差で落ちてますねえ。こういうのを見ると1票の重みをしみじみと感じます。これは新聞で見たのだけれど、日本一有権者数の少ない選挙だったそうで、トップが38票、落選が27票。ちなみに有権者は303名で棄権したのは入院中の2名だけだったそうです。 これは私個人がちらちらと見た範囲での話ですが、最下位の8票というのは全国最少得票ではないかと。親戚だけでももう少し入るような気はするのだが、なんで立候補したんだろう、この人。と書いたところで、鹿児島県の三島村に5票という人がいた。でもここはトップが45票だから、得票率で言えば上記の8票がやっぱりダントツのドベのよう。と、まあ、そんなことを考えながら見ると結構面白いです。
2007年04月23日
コメント(0)
昔、子供のころ、開票速報を見るのが好きだった。「開票率は60%。1位の田中さんと2位の斉藤さんの差は800票あまりですね。あ、いま新しい情報が入りました。田中さんが5825票、斉藤さんが5481票。また縮まりました」「斉藤さんの地盤の山田町の票が開くのはこれからですからねえ。逆転も十分ありえますねえ」とかなんとか。わくわくしながら見ていた。それがいつからつまらくなってしまったのかというと、各局が当確をとにかく早く打つようになってからである。開票率0%で当確は当り前。8時の投票終了と同時に議席数を発表したりする。はらはらどきどきもあったもんじゃない。大体、投票終了と同時に当確ということは、ぎりぎりの時間に投票しても無駄ということではないか。投票率の下落がどうしたとマスコミは言うが、その原因を作っているのはマスコミだろうが。あなたの一票は無駄ですよと宣伝しているのだ。開票率80%までは当確を出さないとかの取り決めを作ったらどうかね。
2007年04月22日
コメント(0)
『小説の自由』と『小説の誕生』をようやく読了。理解できて共感できたのが半分。理解は出来るが共感できないのが1/4、そもそも理解できないのが1/4。そんなところか。この本は著者も言うとおりに引用が多くて、かつ哲学関係の引用が多く、そのあたりで理解できない部分が多かった。アウグスティヌス、ハイデッガー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなど、そのあたり。それでつくづく思うのだが、哲学の文章の原文はほんとうにこんなに読みづらいものなのか? ということだ。つまり翻訳がおかしいのではないのかね?たとえばこういう文章。人格的摂理――生のある高い一点がある。われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。つまり、そのときこそ人格神の摂理という思想が心ゆすぶる威力をもってわれわれに迫り、事実上の証明という最善の弁護者を味方につけ、自分の遭遇する何から何までが、たえず最善なことになるということを、われわれがまざまざと経験するからである。単語自体は難解ではないのにすこぶる読みにくい。原文が英語かドイツ語かラテン語か知らぬが、早い話が直訳で、英語(かドイツ語かラテン語)の複文構造そのままに語順通りに訳しているから日本語になっていないのではないか?われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。これで一文にすること自体が日本語に翻訳する意思の放棄だと思う。ちなみに戯れに重訳してみると、私たちはそれに到達したときに、ふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面する。そして最も困難な試練に耐えなければならない。どれほどの自由を持っているにせよだ。また、日頃、生存の美しい混沌のなかにはいかなる配慮的な理性も善意も存在していないと考えてきたにもかかわらずである。これでもわかりづらいが、読みながらこんなふうに頭の中で重訳しつつ読まなければならないので、つまり、疲れた。良い本ではあったけれど。
2007年04月21日
コメント(0)
昨日の浜松オートの開催が中止になった。その理由が、『前日に印刷配布した出走表の一部に過去のレース番組を記載する事態が生じ』たため。つまり、その間違った出走表を見て、電話投票をする人がいないとは言えず、それでどうしてくれるんだ? ゴルァ! となったら、対処のしようがないからということだろう。実際に、前日配布の出走表【だけ】を見て投票する人が果して何人いるものかというと、さてさて日本全国で10人いるだろうかね? 特にオートレースはレース前に「試走」があって、その試走タイムが判断の重要ポイントだから、そういう人はほとんどいないように思う。しかし、絶対にいないとは言えないのは確か。で、その日は浜松本場だけではなくて、川口と伊勢崎でも場外発売の日だった。開催中止ということは車券の売上がパーになるだけではない。浜松、川口、伊勢崎の従業員の給与、売店・食堂の売上、そして予想紙の売上、更には予想屋さんの儲け、と考えるだに恐ろしいほどの影響がある。実際に川口では仕込んだ食べ物を10円で売っていたとか。もちろん客もいい迷惑で、はるばる出かけて行って「中止です、理由は印刷ミス」では納得できまい。交通費出せとも言いたくなる。それでその原因は「印刷ミスに気づかずに配布した」から。誤発注で何百憶だかの損失を出した例の事件を思い出した。あれも原因は「クリックしたから」、つまりはそれだけだものね。恐ろしい時代である。
2007年04月20日
コメント(0)

室内飼いとなった白猫だが、あらためて「ぼん」と名付けられた。「ぼん!」または「ぼんちゃん」と呼ばれている。もっとも最近は「バカネコ!」と呼ばれることも多い。悪さばかりするし、ぎゅあおおうーーとか鳴きやがるし。それで「こら!」と怒ると、怒られていることは解っていて、そそそそとソファの裏へ逃げ込む。しかし本気で叱られはしないと高を括っていて、すぐにのそのそと近寄ってくる。それで先日は子供を押入れに入れるように物入れに押し込めたら、あら、静かなこと。あんまり静かなんで開けてみたら、中にある棚にまるまると収まっていて「なにか用ですか?」なんて顔をしてやがる。猫を狭い所に押し込めても喜ぶだけのようだ。ところで富士通の脱臭機を買ったことを以前に書いたが、本当に恐ろしいほど効果があるんだわ、これが。ネコ臭さがきれいに消えた。しかし近頃はこの脱臭機にバカネコが乗ることを覚えて、スイッチが上部にあるものだから、朝になると電源が切れていたり運転モードが変っていたりする。スイッチの位置は改良の余地がありますね。
2007年04月19日
コメント(0)
ネットカフェ難民がどうだから国としても実態を調査してなんたらするとかいう話が先週くらいのニュースにあった。ご苦労なことである。ネットカフェ難民により治安が悪化したとかいうのなら腰も上げて貰わねば困るが、そうではなくて、つまり一般市民を守るのではなくて、ネットカフェ難民自身をどうにかしてやろうという趣旨らしいから、早い話が大きなお世話だ。どこで寝ようがどこで働こうが個人の自由、というよりもその個人の生き方であって、そういう人生を送るのがいやならばそれなりに学ぶなり働くなりすればいいことである。少なくともおのれの全てをかけて努力したがネットカフェ難民にしかなれなかったというようなことはいまの日本ではありえない。どこかで甘えたか挫折したか家出したか変な交友をしたか馬鹿な恋愛をしたか(これを男または女にだまされたとかいうのは言葉のすりかえ)、何かがあったからそうなっているわけで、つまりは自分で選んだ人生なのである。その選択が間違っていたと後悔している人はもちろんいるだろうが、後悔だけなら猿にも出来る、ならばこそ人に数倍する苦労をして「復活」しなければなるまい。ところでネットカフェ難民とはずいぶんかっこいい言い方で、そのうち「おれ、ネットカフェ難民やってんだ」と自慢する馬鹿も出かねない。しかし別に漫喫乞食とも呼ばれているらしい。言い得て妙である。これなら成りたいというやつも出てこないだろう。良い名称だ。
2007年04月18日
コメント(1)
統一地方選挙とかでこないだは県議選、いまは市議選の真っ最中である。私は20歳で選挙権を得てこのかた棄権というものをしたことがない。ただし、国政選挙に限っての話である。ちなみにいままで投票したことのある政党は、自民党、民主党、共産党、社会党、自由党、新自由クラブ、日本新党、民社党、新生党、新進党、そのほか参院選のミニ政党、と、無党派というか、ひと昔まえは浮動票と言われた典型というか。これはいい加減ということではなくて、その時その時で考えているということであって、**党一本槍というほうがよほど不真面目であろうと思っている。しかし地方選挙ともなると、仕事で転勤転居の連続の根無し草だったから、ほとんど行ったことがない。選挙があること自体も知らなかったりした。だが、終の棲家に戻ったいまは別で、先日の県議選も投票した。でもね、と思うのだけれど、いま選挙カーがやかましいが、あの「凹山凸夫です、凹山凸夫です! よろしくお願いします!」の連呼は意味があるのかね。あれを聞いて「よし、凹山凸夫に投票しよう!」などと思う人間がこの世に一人でもいるとは思えないのだが。政策を演説するならともかくも。電話もかかってくる。「凹山凸夫です、厳しい戦いです、よろしくお願いします」とか何とか。これも効果あるんだろうか。訪問も多い。「近所の**です、凹山凸夫さんにひとつよろしく」云々。わかりましたと返事はするが絶対入れてやるものかと腹の中では思う。迷惑なんだよ。いきなり来やがって。で、何を基準に投票するのかというと、選挙公報。これだけ。選挙公報を丹念に読んでそれだけで判断する。仮にも選挙公報であるからには適当に原稿を作る候補もおるまい。全身全霊をかけて作った文章であるはずで、それだけを判断の材料にする。可能ならば全員の演説を聞いて判断したいところだが、50人を超える候補全員の話を聞くなどは現実に不可能なので、これが一番公平な方法だと思う。ことほどさように真面目に投票しているともいえるが、どうせ誰を選んでも同じだからこうしているとも言えるんだけどね。
2007年04月17日
コメント(0)
どけちに目覚めたのか、本来のどけちが覚醒したのか、いずれにせよ、どけち精神が緩むことはない。たとえば自動販売機の缶やらペットボトルに入った飲料は買わない。というか買う気が起こらない。缶コーヒーだとして、私が得られるものは体内に入るコーヒーの液体、それのみである。しかるに支払う対価はというと、容器の缶代、自動販売機の減価償却費、電気代、缶コーヒーの運送費、梱包の段ボール代、製造・梱包・運送に関わる人件費、そしてメーカー・問屋・小売(自動販売機の設置者)のマージン。ざっと考えてもこれだけある。缶コーヒーの広告宣伝費もあるか。すべて無駄である。120円のうち、純然たるコーヒーの液体代は10円くらいなものだろう。10円のものに対して120円を払う。そしてその110円は空き缶とともに捨てられる。もったいない。理屈に合わない。納得できない。だから自動販売機の缶やらペットボトルに入った飲料は買わない。しかしどけちとは自分のお金だけではなく他人のお金に対してもどけちでなければならない。でなければただの守銭奴だ。何かと話題のスーパーのレジ袋を私は10回に1回くらいしか貰わない。レジ袋を縦に細く折って結ぶとかさばらずにポケットに入る。それをいつも持参する。10回くらい使うと寿命がくるからゴミ袋へ回す。オートレースで車券購入にはマークシートを使う。上質の厚い紙だ。これをタダだからとごっそり持ってゆくおやじがいる。というか大概そうだ。座席に束にして置いて場所取りするやつも多い。私はこれが我慢できない。使う枚数しか取らない。余れば返す。以前に購読する漫画雑誌の数をしぼったと書いたのも同様で、十何本かある連載のうち三本しか読むに値しなければ、たとえば300円のうち225円を捨てているのと同じことである。もったいない。無駄だ。だからイブニングとモーニングだけにしたが、いまはイブニングも止めた。モーニングだけはなんとか半分くらいは読める漫画なので買い続けている。『小説の自由』を読了。『小説の誕生』を読み始めた。
2007年04月16日
コメント(0)
川口オートへ行ってきた。なんつーか遊びに行くあるいは勝負に行くというよりも様子を見に行くという気分が強い。つまりは気合いが入っていないということなのだが。儲けようというより損しないように遊んでいる。それが長く続けるコツとは思うけれども、淋しいことではある。『小説の自由』が読みかけなので持っていきたいところだが、如何せん厚過ぎて重すぎるので、文庫本の『物語が、始まる』(川上弘美)を持参。川上弘美の小説を読むのはこれが初めてで、短編4篇のうち一番短い『トカゲ』をレースの合間に読んだ。びっくらした。それで表題作の『物語が、始まる』も読みだして、帰りの電車のなかで読了。これもびっくらした。伊達や酔狂で現代を代表する作家ではないやね。ところでいままで川上弘美を読む気がしなかったのは、理由のひとつが名前だった。字画が少なくてスカスカなんだよね。川も上も弘も。なので、と言っても何がなのでなのかよくわからないが、いままで読む気がしなかった。食わず嫌いはよくないなと思った次第。試し食いしても駄目だったのが島田雅彦。『僕は模造人間』を刊行当初の買ったが、どうしても読み通せなくてぶん投げ。しかし一作だけで判断するのもと後年『君が壊れてしまう前に』を買ったがこれも駄目。どうにもこうにも文章に乗れない。読むのが苦痛なだけでぶん投げた。もう二度と手に取ることはないだろう。
2007年04月15日
コメント(0)
筒井康隆の『巨船ベラス・レトラス』を買うべく本屋に行ったが生憎なくて、棚を眺めるうちに『小説の自由』(保坂和志・1700円)が目について手に取った。ぱらぱらとめくるうちに本物であると文章が語りかけてきて、続編である『小説の誕生』(1900円)と共に購入。読み始めると『小説の自由』は本当に本物の本で、巻末を見れば著者は『書きあぐねている人のための小説入門』(1400円)なる本も出しているらしい。これも読みたくなって、翌日、別の本屋へ『巨船ベラス・レトラス』(1143円)と共に買いに行き、両方あったが、金井美恵子の『目白雑録(ひびのあれこれ)』(1500円)も目について購入。『小説の自由』は読みかけのまま『書きあぐねている人のための小説入門』を読了。それでやはり川上弘美とかのいまどきの作家も読まねばならぬかと思い至って更に次の日ブック・オフへ。そこで買ったのが、文庫本『あらゆる場所に花束が』(中原昌也・250円)文庫本『物語が、始まる』(川上弘美・350円)単行本『蛇にピアス』(金原ひとみ・105円)単行本『インストール』(綿矢りさ・105円)単行本『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広・105円)ほかに絲山秋子の本(『沖で待つ』)とかもあったけど、105円じゃなくて650円とかしかなかったから買うのはやめた。眺めた感じでは、どこがいいんだか。105円なら買ったけど。もちろん、上記の105円の本も105円だから買ったのです。『天気の好い日は小説を書こう』を一日で読了。うん、これは105円ならお買い得の本だった。定価は1400円ですか。それだとビミョー。三田誠広は芥川賞を取った『僕って何』は昔読んだが、それだけ。この本は早稲田の文芸科での講義録のようなもので、自分でも「基本の基本の基本」と言っているけど、まあその通りの内容で、しかし何よりも作り物の小説の作り方の講義だね。そういう意味ではいい講義だけど、三田誠広という作家の底の浅さもなんだかなと長嘆息させられました。ということでいまは『小説の自由』を読んでいるところだが、『小説の誕生』と合わせて800頁を超える量で、かつ中身がとてつもなく濃いから、しばらくは他の本は読めそうにもない。でも実はこの著者・保坂和志の小説はまだ一冊も読んだことがない。なにせつまらなくて退屈なことでは定評があるらしいから。
2007年04月14日
コメント(0)
ということで、「株ひとりごと日記」を「オトキチ日記」に変更しました。「株」を掲げて、株以外のことを書くのは羊頭狗肉ではないかという忸怩たる思いがあったからで、そうなると今年は全く、ただの一回も取引していないので、書くことがなくなってしまった。それで新装開店というわけです。ほんとはHPの閉鎖も考えたのだけれど、北朝鮮旅行記もあるし、継続することにしました。しばらくは株はお休みすると思いますが、これもどうなるやら。それでいて映画のレビューのほうはひと月30本近く書いています。右のブックマークの「映画レビュー<オトキチ>」から入れますので、興味のある方はお越しください。
2007年04月13日
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1