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https://www.rikujyokyogi.co.jp/archives/205832ついに人類が42.195kmを2時間未満で走る日が訪れてしまった。かつては「運動生理学的に不可能に近い」と言われたサブ2を達成したケニア出身のサウェはこれで歴史に名を刻んだ。しかし、このレースではもう1人サブ2でゴールした者がいた。2位のエチオピアのケジャルチャはサウェの10秒後に1時間59分40秒でゴールしていたのである。しかし、人類初の月面着陸といえば誰しもがアームストロングの名を想起しても、アームストロングと同じくアポロ11号で月面に降りたったバズ・オルドリンの名前を挙げる人がほぼ居ないのと同じで、ケジャルチャはきっと50年後にその名を想起されることは無いのであろう。タイミングというのはホントに大事なのである。ところでぼくは30代後半にマラソンにハマっていた時期があり、39歳の時に出した自己ベストは3時間40分である。ちなみに10kmレースを本気で走った時の自己ベストは42分台で、そのペースで42.195kmを走ればサブ3、つまり3時間をギリギリ切れる速さであった。2時間の1.5倍の3時間を切るのでさえそのくらい大変なのである。ちなみにボクはマラソンにハマっていた当時に400mを全力疾走した時のタイムは1分18秒くらいであった。サブ2ペースは400m1分8秒ペースなので、ボクは彼らには400mでさえついていけない。いや、400m1分8秒とは100m換算で17秒ペースなので、今やボクの100m全力疾走より速いかもしれない。短距離の人類最速はボルトの100m9秒52だかだが、自分は全盛期に100mを13秒くらいでは走れたから、世界最速の1.5倍以内の短距離能力はあった。アイアンマントライアスロンの世界最速は8時間を切る程度だが、ボクは12時間で完走したことがあるから、こちらもまあ、世界最速の1.5倍の実力はあった。こうして考えると、マラソンのサブ2というのは、ボクが逆立ちしても歯が立たない、いかに尋常ではない境地であるかが痛感される。
2026.04.27
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黒柳徹子がかつて何かのインタビューで、若い頃に医師から「嫌な仕事をしなければ病気にはならない」と言われたのをずっと守り続けた結果、この歳になっても病気をせずに仕事をして来れた、という趣旨の発言をしていた。私はそれを聞いた時「なるほど」と思った。なぜかと言うと、人間は、ウソを信じ込んだり、自分で納得していないことを嫌々やるたびに老化したり病むと感じていたからだ。尊敬に値しない教師であってもその権力に頭を下げたり媚びを売るようになるのがオトナへの一歩だし、何のためのルールか分からなくても疑問を抱かず順守できるようにならないうちはコドモなのである。いわば童話『裸の王様』で素っ裸の王様を見ても「なんと美しいお召し物でしょう」と思えてしまうのがオトナであり、「王様は裸だ」と言ってしまうヤツを社会はコドモと呼ぶ。「オトナになる」ということは一般に「成長」することであり良いことだと思われがちだが、実際は物事をありのままに見れなくなっている、すなわち「老化」である可能性が高い。「病は気から」というが、それは老いにも言えることで、「そういうものだ」と諦めて挑戦しなくなるたびに老いが進んで行く。また、納得していないことを「そういうものだ」と受け入れるたびに自分を文字通りちょっとずつ殺していき、いずれ病に至る。多くのオトナはもはやウソをウソだと認識することさえ難しい領域に達している。単に舞台上で与えられたキャラクターを完全に自分だと信じ、またオカネとかジョーシキとかいった単なる記号と約束事にも疑問や違和感も持たない。それはある意味、バーチャルリアリティに入り込んで抜け出せなくなった患者である。日本語だと「共同幻想」とか英語だと「mass myth」みたいな概念というか言葉があるということは、人間は観念的にまたは心の奥底で「これは幻想だ、約束事に過ぎないんだ」と認識しているはずで(笑)、おそらくは聡いオトナはそれをウソだと承知しながら社会的・家庭的な便宜上そのウソに付き合っているだけで、いざとなれば舞台を降りて「な〜んちゃって!」とイタズラな笑顔を浮かべてくれるものと私は信じているが、どうも周りを見るとそんな余裕がなさそうな感じで、どっちかというと思い詰めた狂信的な人の方が圧倒的に多そうな印象である。上述の「いざとなれば」の「いざ」というのは、もはやそのウソが便宜を果たさなくなる瞬間のことである。それまで丁重に大人の応対をしていた店員も、お客さまは神だと信じ込んでいる客が土下座を強要してきた瞬間、その「店員」というお面を外して「そろそろいい加減にしろよ、オヤジ。」と反撃すべきだし、自分の権威を勘違いした上司や教師が関係を強要してきたら、部下や生徒は「調子に乗るな。臭いぞジジイ。」と突き放して、告発・通報をしていいのである。同様に、納得していない仕事を嫌々やってメンタルを病むくらいならとっとと仕事を辞めるべきだし、まずその前に異論があるならそれを伝えて議論すべきなのである。また同様に、顔に出すくらいならとっとと帰宅すべきであり、どうせやらなければいけないことと納得している仕事であるならば、顔に出るのはおかしいのだ。オマエらの目が濁っているのは、納得していないことを堂々と相手に伝えて話し合う誠実さも度胸もなく、自分の考えや気持ちを押し殺したままその納得してないことを嫌々やっているから、魂が腐りつつあるのが目に顕れているのだ。オマエらの口が臭いのは、抱えたままの違和感や異論がずっと腹と喉の間にモヤモヤとわだかまって、腹の底に落ちて消化されずに発酵臭を放っているからだ。(…とジッチャが言ってた)。いずれそれは進行し、病に、そして死に至る…らしいよ、知らんけど。
2026.04.23
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成人向けのビデオ女優はエラいと思う。カメラの前でああいうことを撮影させて、かつ一般に公開されて平気なのがスゴイと思う。学生時代にデッサンのクラスのために完全ヌードのモデルをしていたことがあるワタシだが、体調によってインケイが極端に萎縮していたり、逆にリクライニングのポーズの時に居眠りしている間に大きくなってしまったらしく元の大きさに戻る際に先端から糸を引いている状態を20人のアメリカ人学生に注視される経験はさすがのワタシでも恥ずかしかった。ワタシのような恥知らずがその程度でも恥ずかしく思うのに、お嬢さんがアクロバティックな姿勢で獣のような声を上げたり体液を吹き出したりする姿を世界中に晒していながら平気で日常生活を送れるのはとにかくスゴイとしか言えない。恥知らずのワタシでさえ恥ずかしかったことというと思い出すのはやはりアメリカの学生時代、大学内のカフェテリアでランチを買って、あわよくばお茶代を浮かそうという魂胆でティーバッグをカップだか皿の下に置いてレジで精算しようとした際、ワタシの後ろに並んでいた教員とおぼしき白人男性にそのカップだか皿を無言で持ち上げられた時だ。その白人男性の視点から、たかだか1ドルやそこらのお茶代をチョロまかそうとするセコいアジア人学生の姿が脳内に浮かび、恥ずかしく思って反省した。こうして考えると、人は「自分はこういう人間である」という、実際より美化された自己イメージを持っていて、それに合致しない行為をした際に「恥」という感情が生じるんだと思う。ワタシは当時きっと「誇り高きニッポン男児」というセルフイメージを持ってアメリカで暮らしたので、自分の行為を恥じたんだろう。「自分はたかだか1ドルやそこらのお茶代をチョロまかそうとするようセコいアジア人学生でーす」というセルフイメージを最初から持っていれば、その白人男性に対し「余計なことしてくれるな」と立腹しておかしくなかったはずなのである。そういう意味では、前述のビデオ女優は「アクロバティックな姿勢で獣のような声を上げたり体液を吹き出す女性」というのがセルフイメージと矛盾しないんだろうと思う。つまり、圧倒的多数の女性が「自分はそんな女ではない」と思うような側面を受け入れているということなのだと思う。もう1つの可能性は、アクロバティックな姿勢で獣のような声を上げたり体液を吹き出す女性は「役柄、キャラクター」であって本当の自分の姿ではないという自信を持っている場合だろう。たとえば、何かやむを得ぬ事情があってティーバッグをカップだか皿の下に隠して精算しようとしたのであれば、「あれは本来の自分ではないのだ。」という自信があるから恥の感情は湧かなかったというのと同じである。歳をとると、だんだん自分自身と折り合いをつけていく結果、「自分はこうあるべき」というセルフイメージが現実の自分に近づいていくため、恥の感情を経験する機会が減っていく。オッサンやオバチャンの「恥知らず」は、若い頃の「理想の自己像」が徐々に崩れて行き「等身大の自分」を受け入れた結果だと言える。理想を持つ誇り高き若者の目から見れば「恥知らず」に見えるかも知れないオッチャン、オバチャンは「真実の自分と向き合い受け入れた賢者」であるとも言える。しつこいようだが、「アクロバティックな姿勢で獣のような声を上げ体液を吹き出す自分」という圧倒的多数の女性が絶対に認めたくない一面をセルフイメージとして受け入れているらしい成人向けのビデオ女優は、そういう意味で「賢者」として一目置かざるおえないのだ。
2026.04.22
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数日前に投稿したウソやテレパシーの話に関連するのだが、インターネットがついに市井の人の手に降りてきた30年ちょっと前、「ついにオレの時代がきた!」とワクワクしていたことを思い出した。簡単にいうと、誰もが発信者となり、世界中の情報にアクセスできるようになれば、「情報の格差」は消滅し、真にオープンな世界が実現すると思ったのだ。それまでの資本主義経済のカラクリとは、いわば「情報の非対称性」を利用したセコい商売の積み重ねだった。隠すまでもない自明の事物を「機密」として囲い込み、情報を持たない側にアクセス料を払わせる。30万円出さねば得られなかった百科事典の知識が、今やウィキペディアで世界中の知恵として無償で更新されている。この「占有から開放へ」の流れこそが、ネットの本質だと直観したのだ。カネのためではなく熱意で動くオープンソースの世界、そして「公明正大に生きるなら、隠しごとのない世界は怖くない」という初期リーダーたちの潔い思想。ワタシはそこに、嘘つきや偽善者が淘汰され、ウラオモテのない人間が胸を張れる「トランスペアレント(透明)」な時代の到来を確信した。しかし、その後の30年で、ワタシの期待は少しずつ、確実に裏切られたのであった。まず、「情報の透明化」は、ナチスのような悲惨な歴史を持つ欧州を中心とした「個人情報保護」の壁に突き当たり、出自や居所といった個人の属性は再びブラックボックス化され、また知的財産や企業秘密のガードもネット以前と変わらぬ強固さを保った。さらに、善意のオープンソースを食い物にする「セコい連中」も現れた。誰かが無償で公開した知恵を、あたかも自分の手柄のように「登録したモン勝ち」で私有化するヤツが出てきた。かつてのギコ猫騒動や、どこかの広告代理店のアンチャンよるロゴ流用問題のように、情報の非対称性が消えたはずの場所で、なおも「情報の横取り」という歪んだ形での搾取が発生した。だが、最も誤算だったのは、情報の「濁り」である。ネット以前にも「誤報(misinformation)」はあった。しかし、真実を隠したい勢力が意図的に毒を放り込む「偽情報(disinformation)」の氾濫は、ネットという清流を、水道に毒を投入するが如き惨状に変えてしまった。ワタシが期待した透明な世界は、フェイクニュースという汚水にまみれてしまったのだ。…しかし、まだ諦めるのは早かった。昨今の生成AIやバイオメトリック技術の劇的な進化を見ていると、当初私が抱いた「トランスペアレンシー(透明性)」の理想が、予想だにしない角度から実現しつつあると感じるのだ。これまでの「外に出た情報」の真偽という地平から一気に進んで、「個人の内面」そのものが透明化される可能性が現実的になってきたからだ。「私は知りません」と強弁する殺人犯の背後で、脳波から読み取られた殺害現場のイメージがスクリーンに投影される。「どこに隠した?」と問われれば、本人の口が割れる前に、モニターには字幕で「〇〇町の山中」と回答が表示される。またこの技術は、社会のウソも根こそぎにする。大ボラを吹く政治家の答弁には、カッコ書きで「(愚民どもはワシらの嘘を信じていればいい)」という心中のモノローグがテロップで流れ、不都合を隠そうとするCEOの横では、投資家向けの生体分析モニターに「嘘(ダウト)」の赤ランプが点灯する。「ネットの時代、人に知られたくない行為はしないことだ」と言われてから30年。「生成AIの時代には、人に知られたくないことは考えないことだ」という、究極の「心中の透明化」が目前に迫っている。その日が来るまで、ワシは死にたくないと思っている(笑)。
2026.04.20
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オレはさいきん外出するといつもニコニコしている。なぜかと言うと、目に入るもの、耳に入るものすべてから何かと楽しい記憶がよみがえり、自然に笑みが浮かんでくるのである。道端ですれ違ったカップルの会話から、当時2歳だった姪の名ゼリフを思い出したり、たまたま目に入ったカンバンの絵からアメリカの大学のガールフレンドとの楽しい日々を思い出したり、といったようにまるで余命が迫った臨終間際のお婆さんみたいな状態である。60年近く、しかもいろんな国のいろんな場所でいろんな人たちと生きてくると、いろんな記憶が蓄積されている。一方で、60にもなると、新しい切実な問題や課題や悩みといったエピソードが日々発生する状況にはない。いわば、好きなベテランミュージシャンが10年に1回しかアルバムを出さなくなり、日々懐かしの名曲メドレーを聴きまくっているような感じである。ただ、問題なのは、すれ違う人々がにあまりニコニコしている人がいないことである。あまりいない、どころか普通は一人で歩いていて上機嫌そうにニコニコしてる人なんて滅多にいないと思う。どちらというと声がかけづらいくらいにムスッとしているか不機嫌そうな顔で歩いている方が多い。注意が必要なのは、ムスッとしているか不機嫌そうな顔をしている人の中には精神的にかなり追い詰められている人がいて、こういう人と目が合うと「何が可笑しい!?」「オレのことを馬鹿にしているのか!?」といった曲解が生じかねない点である。これは自分にも身の覚えがあるが、孤独に思い悩んでいるワカモノの中には関係妄想に陥りがちなタイプがいて、例えば自分に全く関わりのない人が自分と全く関係のないことで笑っているのが耳に入っても、まるで自分が笑われているように感じてしまうのである。外出中にすれ違う何百人の人の中にこういった病域の関係妄想癖の持ち主が数人はいて、さらにその数人の中にたまたま攻撃的かつアクションに移せてしまえるヤツがいた場合、ニコニコとほくそ笑んでいるオレと目が合った途端、「オレのことを馬鹿にしているだろう!?」と掴みかかってくるとか、さらにたまたま凶器を保持していた場合は刺されたりしかねないと思うのである。つーか、こんな不愉快なことの多い世の中に、「景気のことなんて関係ありましぇーん」みたいな顔をしてニコニコしているオッサンとすれ違ったら、別に関係妄想の持ち主でなくとも「何が可笑しい!?」という怒りの感情が生じたとしても不思議はない。みんなが暑くて死にそうになっている状況で一人だけ涼しい顔をしているヤツに対して誰しもが抱くあの感情である。そんな人を相手に「…いや、2歳だった頃の姪の言ったことを思い出してて…」とか「35年前のアメリカの大学のガールフレンドのことを考えていて…」とか言い訳をしたところで、そんなニコニコオヤジに対する怒りは収まるどころか増幅するだけのような気もする。…ということで、外出時のニコニコを少し控え目にした方がいいかも、と思いつつも、いつか暗い目をした青年に路上で出し抜けに刺される覚悟はある程度しておかなければ…と割と真剣に考えている。
2026.04.19
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昨日の日記の続きなのだが、オレが人一倍ウソが嫌いで何でも本当のことを言ってしまい、基本的に隠し事が無いのでプライベートとされることでも何でも暴露してしまうことと、オレが下戸で酒がまったく飲めないことは、どうも大きな相関がありそうである。昨日の日記の例で言うと、森友学園問題の改ざんを指示された人がおそらくモヤモヤを抱えながら書類を改ざんしながらも狂ったり赤木さんのように自殺せずに仕事を続けられたのは、おそらくそのモヤモヤを酒を飲んで誤魔化せたからなのである。児童に対し変態な性的興味を抱いているヤバい教師が児童に対し偉そうな顔で平気でモノを教え続けられるのは、心の中の良心との葛藤を酒を飲んで誤魔化せるからなのである(稀に、開き直って妄想を実行に移してしまうことで葛藤を解消することにより酒が不要になるケースはあるであろう)。これも昨日の例で言うと、教師は聖職であり児童に対し変態な性的興味を抱いたりしないとか、医師は聖職であり患者を触診や聴診しながら性的に興奮したりしないとか、部下は上司を尊敬すべきだとか、お客様は神様だとか、テンノウは万世一系だとか、日本は単一民族の神の国だとか、おカネに価値があるとか、出世しないと恥ずかしいとか、そんなのウソだと誰しもが薄々分かっているのに、あたかも真実であるかのようにみんなで信じ込んで日々ウソの維持に精を出すそんな偽りの自分を誤魔化すために、みんな何でもかんでも酒を飲んでウヤムヤにしてはいないだろうか(笑)。要は、人は真実と向き合うなんてシラフではとてもやってられないから酒を飲む(あるいはドラッグに手を出す)のではないか。もちろん、嘘も方便とか、英語だと white lie とか言うように、何もかも真実だけの世界というのは面倒臭くて窮屈で非効率なので、たとえば毎度 How are you? と尋ねられて、正直な心理状況を述べたりしないし、体調がイマイチであるという自覚があっても Fine. と回答したところで何ら信頼関係が傷付くわけでもないし、子供や配偶者に対してイラついていたとしても家を出る際に I love you. と言うのは挨拶のようなもので必ずしもウソとは言えない。そんな小さな葛藤を酒を呑んで誤魔化す必要もない。ウソ偽りが問題になってくるのは、あまりにもそのウソに浸り過ぎて、それが真実だと思い込み始めた時である。教師や医師が自分は児童や患者に対し性的興味を抱くことのない聖人であるとか、どんな部下も自分を尊敬して当然であるとか、自分はお客様で神様だから店員は土下座しなければいけないとか、日本は単一民族の神の国で純血を守るために外国人を入れてはいけないとか、おカネに価値があるとか、出世しないと恥ずかしいとか、本気で思って他人にも強制し始めたらヤバい。これは、開き直って児童に対する変態な性的幻想を実行に移すことで葛藤を解消してしまった教師と同じヤバさである。個人がそんなウソ依存症のヤバい状態になっても、そういうヤツを避けることで迷惑を被らずに済むかも知れないが、はるかにヤバいのは、自分の周りが集団でその「ウソ依存」の状態に浸ってしまう場合である。例えば戦時中は、みんなが恍惚として八紘一宇だとか万世一系だとか言って酔いしれている時に「そんなのウソじゃん(笑)」と言ってしまったシラフなヤツは憲兵に非国民呼ばわりされてボコボコにされた上に投獄された。現代社会でも、儲からないことがほぼ確定している社長肝入りの大プロジェクトのキックオフミーティングで社員たちが「エイエイオー!」とか言って拳を突き上げたその後に、ボソッと「…しかしまもなく、ライバル会社はその倍の効率を達成する同じサービスをその半分の価格で販売する予定なのであった。」などと田口トモロヲばりの声でつぶやいてしまうヤツは同僚から他人扱いされてしまうのである。なんと言うか、酒を飲む習慣のあるヤツはもともと嘘への耐性が高く、気がつくとウソ依存症になる可能性も比例して高いように思われる。酒宴でみんなで酔っ払って歌い始めるのと同じような感じで「ニッポンは聖なる神の国だ」とか「日本円は必ずまた復活する」とか「日本人は世界中から尊敬される」とか本気で言い出しそうな危うい感じがある。自分自身は日本のために何の尽力も貢献もしてないクセに(笑)。…ま、そういうヤツは、日本が衰退する元凶はそんなオレのようなシラフなヤツの存在だと信じていそうだけど(笑)。しかしオレは下戸で常時シラフな市民、社会人、会社その他の組織の一員として、周りのみんながウソがウソであるという自覚や認識を失い、ウソ依存症の常時ガン決まりの酔っ払い状態になりつつある時には、冷や水を浴びせて「…オイオイ、よく見ろ、王様は裸だろ?」と我慢強く訴え続ける責任があると思っている。酔うのはいいけど酔い続ける依存状態は迷惑なのでほどほどにして欲しいと下戸のオレは願っている。
2026.04.18
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高校1年生頃にハマっていた筒井康隆の代表作の1つに『七瀬八景』という、人の心が読める家政婦を題材にした小説がある。おそらく当時はテレパスを主人公にしたSF小説という触れ込みだったのであろうが、この作品は別にSFなどというラベルを貼らなくても文学作品として通用すると思う。普通の文学作品では登場人物の心中を作者が「神の視点」から描写するところを、この作品では作中の主人公が作者に代わって読心してしまうのである。通常の世界では人の心を読めたりしないので、そんな超常的な能力をサイエンスフィクションとして扱ったのだろうけど、もともと通常の世界にも「神の視点」で心中が見える人がいるわけではない点で、どっちも「超常能力」なのである。文学論はさておき、AIだのの情報テクノロジーのおかげで、センサーで脳波や心拍や発汗や体温といった生理的データをリアルタイムで取得して人間の心理状態がかなりの精度で推察できるだけでなく、脳に直接電極を挿して、その人が抱いているイメージを映像化できるようになり、人の心中が見透かせる世界が現実になりつつあることで、七瀬八景がSFではなくなる世の中が実際に到来しそうである。ボクは人一倍ウソが嫌いで何でも本当のことを言ってしまうし、基本的に他人に隠したいことは無いのでプライベートとされることでも何でも暴露してしまう。そんな人間なので、世の中の犯罪や不正について見聞きするたび、「隠し事なんて出来ない世の中になればいいのに」と子供の頃から思っていたのである。人がウソがつけなくなれば、森友学園問題の改ざん指示者もとっくに明らかになってるし、京都府の小学生行方不明事件も初日に解決しているし、児童に対し変態な性的興味を持つ人はもはや教師になれなくなるし、脱税も無くなるし、政治家に騙されることもなくなるし、いいことづくめではないか。もちろん他方では、親や教師や上司の権威が失墜して子供や生徒や部下が言うことを聞かなくなるとか(笑)、恋愛や結婚の99%が不成立に終わるとか(笑)、お互いの本心を知ってしまった家族が崩壊するとか(笑)、友だち同士のケンカやいがみ合いが200%増加するとか(笑)、商品の50%が売れなくなるとか、社会秩序がかなり揺らぐ事態になるかも知れない。でも、ボクくらいウソが嫌いな人間になると、ウソで壊れるような関係は別に壊れていいじゃん…とさえ思っているので、社会が揺らいだところできっとせいせいすることだろう。…とは言うものの、親である自分のことを子供が心から軽蔑していたり、夫である自分のことを妻が早く死ねと祈っていたり、上司である自分のことを部下たちが口が臭い無能でダサいオッサンだと憐んでいたり、通勤電車で吊り革にぶら下がる自分を前の席に座る若者が生きてる価値の無い哀れな老ぼれだと蔑んでいたり、横断歩道を渡る際に停車したクルマの運転手がオッサン邪魔だくたばれと心中でつぶやいていたりするのを知ってしまったら、生きているのが即座にイヤになるのではないか(笑)。要は、そんなオッサンでもニコニコしながら生きながらえているのは、自分が実際に周りからどう思われているか、心中を察することが出来ないからなのだ。でもさ、ボクは思うんだ。お互いの心中が透明になってしまえば、不遜な相手の態度の背後にある不安感を知ったり、攻撃的な相手の背後にある恐れが見えたり、要するに敵対する相手も実は人間的なカワイイやつじゃん!…というのが分かると、同情が芽生えると思うんだよね。つ〜か、しょーもないこと考えている自分の脳内が相手に丸見えだって分かってたら、親も教師も上司も大統領もテンノウヘイカももはや恥ずかしくてエラソーなこと言えなくなるよ!(笑)相手に対する偏見も残虐行為も劇的に減少して、お互いをゆるし合えるヘイワな世の中になると思うんだ。お互いの心がスケスケに見えてしまう世界を、ボクは死ぬまでにぜひこの目で見てみたい。
2026.04.17
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