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今日は境内にある『力石』のご紹介を致します。まず、力石とは何なのか・・・力石とは、力試し、力競べをするために使われた石のこと、およびその競技をさす言葉です。昔の農村の青年は米俵を担ぐなど力仕事をすることが多く、力試しをよくしたと伝えられています。江戸時代中期から明治にかけて、各地の神社やお寺の祭の際には、力自慢を競う競技が行われていました。 力石は、番持石、重軽石、バンブチ、ハカリ石、沖縄ではサシ石などと呼ばれ、石の形は丸型か楕円形で、重さは60~70kgから250kg近く、大きいものでは300kg近いものもあり、「力石」のほか、「鶴亀」、「雲龍」といった縁起のいい名前や、持ち上げた人の名や重量を刻んだものもあります。元来、力石は石占の一種で、石を高所に投げ上げたり、石を持ち上げたときの軽重の感じで神意を判断するものであったのが、しだいに若者の力試しに転化したと考えられています。信州(長野県)には、病気のときなどに石を持ち上げて軽ければすぐに全快し、重ければなかなか治らないと判じる重軽石が各地に残っています。岡山県真庭郡八束村には、大小4種類の力石があり、頭上まで上げるのをサシ石、肩までのものをカタゲ石、膝まで上げるのをヒザトリ石、いちばん重いのをチギリ石といって地面から離せばよいとしたそうです。堺市の開口神社には、関西で最古とされる天保4年(1833)の切りつけのある力石が残っています。当社の境内にある力石社殿に向かって左側の狛犬の前辺りにあります。力石には「五拾貫余 汐留 兵吉 車屋 英治 芝土橋 久太郎」と縦に彫られてあります。いわれや、いつからあったのか・・・は今のところ不明です。機会があれば、古い書物などを調べてみたいと思っております。
2005年11月30日
ここ新橋「烏森」の地名の由来をご紹介いたします。烏森の地は、古くこのあたりが武蔵国櫻田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は松林でありました。その為、当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていました。しかも、この松林には、烏が多く集まって巣をかけていたため、後には「烏の森」とも呼ばれるようになりました。それが『烏森』と言う名の起こりであります。「烏」は熊野の神使として有名なように、神鳥でありました。ここで「烏」について少しお話いたします。「烏」は、狩猟する人間にとって、先を見通す目をもった賢者であり、獲物のありかまで導いてくれる先導者であり、特別な存在であり、神格化もされました。 熊野の神々は、もともと猟師によって祭られたと伝えられています。猟師によって祭られた神だから、「烏」が神使をつとめるのでしょう。 「烏」は、世界中の様々な民族の間で創世神話や建国神話の上で重要な役割を果たしています。現代では「烏」というと、大変嫌がられる存在になってしまっていますが、神代の時代ではそうではなかったようすが伺えます。お話を戻しまして・・・ここ「烏森」の地名は、「烏森神社」にちなんで、明治以降、昭和7年までは町名として使われておりましたが、その後現地名の「新橋」に改められました。今ではJR新橋駅の「烏森口」として、また当社の氏子町会で「新橋二丁目烏森町会」と町会名としても、「烏森」はその名をとどめております。「新橋」⇔「烏森」の歴史を、これからも伝えていきたいものです。
2005年11月29日
烏森神社の相殿の神として、お祭申し上げている、『天鈿女命』についてお話いたします。この女神様は、「天の岩戸」のお話でも有名な神様です。「天岩戸伝説」とは、その昔 天照大神が怒って天岩戸(あめのいわと)にこもってしまい 地上には光が差し込まなくなり草木が枯れ悪鬼が悪さをする、という困った状態になったので、やおよろずの神々が話し合ってある試みを行いました。天岩戸の前で賑やかで楽しいことをし、天照大神の気をひこうという試みです。天鈿女命(あめのうずめのみこと)が面白おかしく舞いを舞う姿に 天照大神がちょっと天岩戸を開けたところを 天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)が いっきに岩戸を開け、無事に光を取り戻した(天照大神様がお出ましになった)というお話です。ここから『天鈿女命』は祭司と舞踏の女神、俳優の起源、芸能の神とされております。他に、未知との神との交渉役も見事に果たしたことより、天鈿女命の神性は力による対立や恐怖に対し、笑いや融和の優位を示しております。「日本書紀」では「天鈿女命」、「先代旧事本気」では「天鈿売命」と表記されます。「受売」とは簪の意味がある事から、「髪飾りをして神祭りをする女神」の意です。天照大御神の孫、天津日高日子番能邇邇芸命(当社相殿の神=瓊々杵尊)の降臨(=「天孫降臨」)に付き従いました。そこで天宇受売命は道案内に参上した猿田彦命と出会い、彼の妻となったのです。それから天宇受売命は猿女君と、その末裔は猿女氏と呼ばれる様になり、芸能を司った。ーとされております。この「天鈿女命」をお祭する神社は、都内では数が少なく、「天鈿女命」のご利益を御求めになり、わざわざ参拝に来られる方もいらっしゃる程です。また、「芸能の神」ということで、舞台・映画などの大入り祈願や、番組の成功祈願、芸名名付けの依頼など過去にございました。
2005年11月28日

新橋駅前のこんなににぎやかな場所にある、当社の境内には少しではありますが、樹木を植えてあります。こんな都会でも、少しは色付くのですね・・・。
2005年11月27日

烏森神社の御主祭神である、「倉稲魂命」について、稲荷社の総本社とも言える、京都『伏見稲荷大社』のお話を交えながら、お話いたします。稲荷の神「倉稲魂命」について「倉稲」の意味は、稲束を倉に収蔵した為で、それを「ウガ」と呼ぶのは、清浄で立派な食物と考えているからです。「稲」は元来「生き根」のことで、人々の生命の根本を養い育てる力を持っています。そしてその奥に潜む根源の力は「ミタマ」と名付けられました。つまり、神名のというのは、人の生命を養い育てる根源の力を称えた名なのです。この稲荷の神を祭る神社は、全国三万稲荷社といわれ、少祠、邸内社を入れるとその数は更に増え、諸神のうちで最も数が多いとされております。この稲荷の神「倉稲魂命」が稲荷山(伊奈利三が峰のこと)に和銅四年(西暦711年)二月の初午の日に光臨されたとされており、京都「伏見稲荷大社」が稲荷社の総本社とされているのです。当社「烏森神社」は明治六年に「烏森稲荷社」の社名を改めました。江戸の地誌には芝愛宕下久保町の「烏森稲荷」としてしばしば登場しており、『祠曹雑識』によると百余の稲荷番附の中で、「烏森稲荷」は東の関脇に位置付けられています。
2005年11月26日
本日は当社が19日に行いました、大祭、本来の「新嘗祭」当日でございます。今日まで何度か「新嘗祭」についてご説明してまいりましたが、もう一度・・・「新嘗祭」(にいなめさい) 宮中では古くから11月の下旬の卯(う)の日に、その年とれた穀物を皇室の先祖や神がみに供するための祭りが行われてきました。その年にとれた米や粟のご飯とお粥、白酒、黒酒が神饌として供えられ、その後には直会(なおらい)の儀式があり、天皇は神がみとの共食を行ったのです。新嘗(=新しい五穀を食べるの意)の儀礼は宮中だけでなく、伊勢神宮や出雲大社をはじめとした全国各地の神社においても行われ、一方、民間では田の神が山に入る日としておこなわれた秋祭り、石川県の「あえのこと神事」にみられるような各地独特の祭りとして残っています。 と言う訳で、本日は、宮中でも天皇陛下が御自ら水田にお田植えをなされ、刈り取られた新穀を神嘉殿にお供えされ国の繁栄を願い、お祭を行われます。
2005年11月23日

烏森神社の「社紋」は『三つ巴』(左三つ巴) です。また、別に当社にちなんで「烏」と「森」と「稲」をあしらった紋を使用しております。少し細かいので分かりづらいかも知れませんが、烏が稲穂をくわえ、森を飛んでいる様子の紋となっております。このような、独特の社紋を持つ神社は少ないので、2月節分の「福豆」の袋など、この社紋が入った授与品などを現在、検討中でございます。その都度、お知らせ致したいと思います。
2005年11月22日
神社では、祭事の際に『榊』を用いてお祭を行います。今日は榊について少しお話を致します。『榊』・・・椿(つばき)科「栄える木」が略されて「さかき」になったとも、神が鎮座する地の境の木とのことから「境木(さかき)」になったともいわれております。漢字の「榊」はまさに「神」の「木」と書いて「榊」なのです。 古事記のお話にもある、天の岩戸の一説の中に「榊」が登場します。弟神・スサノオの悪行に困り果てた太陽神・アマテラス(天照大神)が「天岩屋戸」の中に閉じこもってしまい、天地は暗闇となり災いが続きました。困った他の神々は話し合い策を練りました。知恵者・オモヒカネ(思兼命)の案により、鶏を鳴かせたり、まが玉の数珠や鏡を作り、天香具山から抜いてきた榊に飾り付けたり、祝詞を唱えたりしました。・・・・という、お話です。このことからも、神代の時代より「榊」は神事になくてはならないものとされてきました。年中緑の葉を繁らせ、生き生きとした状態を保っている「榊」は強い生命力の象徴とも言えるでしょう。烏森神社の境内には榊の木を10本ほど植えてあります。神社の境内に植えることで、神様の神聖な力をより強く受けて成長した榊を神籬・大麻・玉串等に祭典で用います。丁度、境内の榊の何本かの木には「榊の実」が熟れて実っています。この実を食べに、山鳩やメジロなどの野鳥もこんな都会の新橋のビルの谷間に訪れたりもします。可愛らしい鳴声を披露してくれます。自然や季節を感じ、心和みます。
2005年11月21日

昨日19日、午後一時責任役員・総代参列のもと、平成17年度 烏森神社「新嘗祭」を斎行申し上げました。御神饌には酒・塩・水は勿論のこと、毛蟹・乾物・野菜・果物を5台とし、「稲穂」と「白濁酒」、皆様からの「初穂料」をお供えしました。また、奉納酒もお供えいたしました。神事は滞りなく斎行申し上げ、直会では、神前にお供えしたお神酒の「白濁酒」を戴きました。この白濁酒は、毎年その年に収穫された米で作られるので、実は、毎年、少し味が違うのです。祝詞では、収穫の感謝の意と、かわらずの平穏無事など・・・祈願致しました。日本の現代の食生活は、「飽食な世」と言えるでしょう。お祭をとおして「米」のありがたさ、しいては食べ物を食べられるありがたさをより一層感じ、日々神様に感謝しつつ、生活したいものです。本来の新嘗祭の日は23日(水)です。
2005年11月20日
本日、烏森神社「新嘗祭」を午後一時より、責任役員・総代参列のもと斎行申し上げます。神事の様子などは、明日UP致します。
2005年11月19日
その一に加え、今日は「新嘗祭」<ニイナメマツリ><シンジョウサイ>について、加えてご説明したいと思います。ー「嘗」という漢字ーこの字を分解すると、一般的に「旨(うまいあじ)+音符尚(のせる)」で「食べ物を舌の上に乗せて味をみること」となります。この漢字の意味からも「食べる」や「餐」の意に通ずることが分かります。「食べる=米」から「米」の意味が生まれます。天照大神から瓊々杵命に授けられた神聖な「稲(米)」。米には神様から与えられたものであること。また、米が1年を通して神の恵みをもって成長、収穫されることからも、米には霊力が宿っていると言われております。新嘗祭は「新嘗をお供えして感謝する」だけでなく、その新嘗を食べることによって、米の秘めた霊力を戴き、1年を無事に過ごせるよう自らにその力を取り込む・・・といった意味もあるお祭なのです。当社では、今年収穫された米で作った、「白濁酒」をお供えし、直会で頂きます。また、今年収穫された「稲穂」をお供えし、新年の「開運御守」にその稲穂を付けて授与いたします。
2005年11月18日

本日『新橋ネット』にリンクさせて頂けることになりました。『新橋ネット』とは、新橋の街の情報が盛りだくさんの素晴らしいサイトです。「新橋の街」に関する情報はこのサイトが一番!!です。新橋をもっともっと多くの方に知って頂き、お越し頂けるよう・・・と願う気持ちは同じです。ここ新橋を今以上に盛り上げていきたいと思います。当社も多くの方にご参拝いただけるよう、行事や授与品等を検討しております。随時、この場にてお知らせいたします。この場をかりて、新橋ネットの方々のご協力に感謝致します。
2005年11月17日
「新嘗祭」新嘗祭は古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を天照大神をはじめとする天地の神(天神地祇(てんじんちぎ))に供え農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式でした。律令制度のもと11月の2番目の卯の日に新嘗祭を行うことになっており、天皇が即位した最初の新嘗祭を「大嘗祭」と呼び天皇の即位を天下に知らしめる大きな祭典となっています。明治以降、新嘗祭は11月23日に定められ国民の祝日となります。そして昭和23年より勤労感謝の日と名を変え「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日として国民にすっかり定着した祝日となっています。「新嘗祭」自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となりました。本来、この新嘗祭は宮中だけで行われていた儀式ではなく一般民衆の間でも新しい穀物を神に供えそれを食べて収穫を祝う習慣がありました。「新嘗祭」を簡単にいうなら・・・秋に収穫された新穀を神様にお供えして神の恵に感謝するお祭です。当 烏森神社では11月19日(土)午後一時よりに責任役員・総代参列のもと祭事を斎行致します。
2005年11月16日
朝から皇居、帝国ホテルに程近い当社の上空にはヘリコプターが。本日11月15日(大安)、紀宮様と黒田さんの結婚式の日です。帝国ホテル内の神殿には縁結びの神とされる「伊邪那岐命」・「伊邪那美命」が祭られております。このお二柱の神様は、男女の創始といえる神様です。今回の祭主をおつとめになるのは、伊勢神宮の北白川道久大宮司。伊勢神宮から「天照大神」の御御霊も今回ご一緒におまつりし、特別に祭壇を設け結婚式を行います。本当におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
2005年11月15日

今日は参道と社務所の紹介をさせて頂こうと思います。この参道は、新橋の駅前とは思えない情緒があります。毎日、多くの方がこの参道をお通りになってます。お社を背にしたこの写真の右手が社務所です。当社は普段参拝者の方に、社務所にて対応をさせて頂いております。社務所が分かりずらいこともあり、入り口を写真でご紹介致します。こちらが社務所入り口になります。御用の際はこちらまでお越し頂ければと思います。
2005年11月14日

今日は七五三に近い日曜日ということもあり、どこの神社でも七五三詣りで参拝される方が多い日です。三歳、五歳、七歳とお子様の成長の筋目に氏神様に参拝して無事成長したことを感謝し、これからの将来の幸福と長寿をお祈りするのが七五三の行事です。当社の参道・境内には七五三の幟を立てております。<七五三祝>男女児とも三歳を髪置、男児五歳を袴着、女児七歳を帯解の祝として、いずれも11月15日産土神に参詣する行事。
2005年11月13日
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