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一月も今日で終わりで、今年も残すところ、あと11ヶ月ということになってしまった。そこで、ちょっと思い立って、今月に買い集めた本を調べてみた。 ゲド戦記 影との戦い ル=グウィン 岩波同時代ライブラリー 錬金術と無意識の心理学 C.G.ユング 講談社+α新書 科学論入門 佐々木 力 岩波新書 信長と天皇 今谷 明 講談社現代新書 梶井基次郎全集 ちくま文庫 トクヴィル 小山 勉 ちくま学芸文庫 木橋 永山 則夫 河出文庫 定本 奇人研究Z 奇人研究学会 ちくま文庫 由熙 ナビ・タリョン 李 良枝 講談社文芸文庫 渋江抽斎 森 鴎外 中公文庫 気流の鳴る音 真木 悠介 ちくま文庫 ドラコニア奇譚集 澁澤龍彦 河出文庫 夢の宇宙誌 澁澤龍彦 河出文庫 ヨーロッパ文化と日本文化 ルイス・フロイス 岩波文庫 日本の歴史をよみなおす 網野善彦 ちくま学芸文庫 たぶんもうちょっとあるような気もする。ただし、白状すると、このうちちゃんと最後まで読んだのは、一番下の一冊だけであり、残りは全部机の上に重ねたままである。ううっ、悲しい。 なんとか、まとまった時間が欲しいものである。だったら、やくざなブログ記事なんか書くなって。まさにそのとおりであって、そう言われると、まことに返す言葉がない。 で、これだけの本を買うのにいくらかかったかというと、たった3,150円である。というのも、最後の2冊を除いて、すべて近くのブックオフで、一冊105円で買った本だからである。 ちなみに、以上の本をすべて定価で買ったとすれば12,366円である。したがって、差し引き9,216円儲かったことになる。ただし、古本の中には今はもっと高い値がついているのもあるだろう。むろん、儲けといってもあくまでも想像上の話ではあるが。 さて、ずらりと並べた書名を眺めてみると、われながらその統一性のなさにあきれてしまう。まさに、濫読・雑学のきわみである。しかし、こういう特定の分野などにこだわらない手当たり次第の読書にも、それなりの効果はあるものである。 それは、いわゆる 「トンデモ」 説とか 「トンデモ」 本の類に、引っかからずにすむようになるということである。また、「トンデモ」 本の類でも、日頃からいくらか読んでおけば、自分で自分に免疫をつけておくということにもなる。 ところで一ヶ月の間に10冊以上の本を買って、そのうち実際に読んだのはたった1冊にすぎないとすれば、どう考えても月に10冊を超える未読の本が溜まっていくことになる。 これは、細い下水管に大量の汚水がどどっと注ぎ込んで、あふれ出すのと同じ理屈である。実際に、わが家の書棚からは、すでに書物が収まりきらずにあふれ出しているのであり、溜まっている古い本からいくら読んでいっても追っつかない状況である。 ほんとうは、未読の本をちゃんと消化してから、次の本を買うべきなのだろう。すでにもう、残りの人生を過ごすのに十分なくらいの未読の本が溜まっていて、なかには高校時代に買ったまま、30年以上もの間、すやすやと眠っているままの文庫本とかもあるくらいなのだ。 だが、仕事の合間の息抜きといったら、散歩をかねたブックオフ巡りぐらいしかなく、そこで、面白そうな本を見つけたらついつい買い込んでしまうのだ。なにしろ、古本との出会いは、まさに 「一期一会」 とも言うべきものであるから。 とにかく、1冊105円といえば、缶コーヒー1本よりも安いのだから、これという本を見つけたら買わない手はない。 というわけで、わが家には未読の本が次々と溜まってゆくのであるが、これは、すべてそのような安値で本を売っているブックオフの責任なのであって、けっして私の責任ではないのである。
2008.01.31
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大阪府知事選では、かの橋下徹弁護士が当選した。いささか落胆した人も多いようだが、これも大阪の有権者の選択であるからしかたがない。とりあえずは、橋下氏のテレビ出演がいくらかは減ることでも期待するしかないだろう (もっとも、宮崎の東国原知事はあいかわらずテレビにも出ているが)。 聞くところによれば、今回の立候補者の出馬表明は、橋下氏が先で、それを受けて民主党は大阪大大学院教授の熊谷氏に立候補を打診したのだそうだ。いやはや、ちっとも知らなかった。じつを言うと、橋下氏が出るとか出ないとかいう話しか聞いてなかったので、つい最近まで、出馬表明は熊谷氏のほうが先だとばかり思い込んでいたのだ。 だって、知名度もあり、口も達者なうえに笑顔さわやか(?)、肌もつやつや、白い歯もきらきらという38歳の青年候補に、こう言っちゃ失礼だけど、顔に皺はあり、眉はたれているという62歳のおじいさん候補をぶつけるというのは、どう考えてもありえない話だからである。 これって、後出しじゃんけんで、わざわざ負ける手を出すような話である。まあ、ようするにそれだけ人がいなかったってことだろうけど、民主党にはどうも最初から勝つ気などなかったのではないかとすら思ってしまう。 さて、最近思うのは、ネット上での議論がしばしば不毛に終わり、徒労感だけが残るのはなぜかということである。まあ、そういうことを考えるにいたったのには、いろいろ経緯があるわけだが。 言い換えると、それはネットでの議論とリアルな世界での議論とどこが違うのかということになるわけで、それは言うまでもなく、相手の顔が見えないということである。 人はみな固有の歴史と経験を持っており、なにがしかの意見を言うときは、当然のことながら、そのような個人の固有の背景というものが、そこに反映されるものである。言うまでもないことだが、どんな議論も無色透明な論理だけで成り立っているわけではない。 そういうことはお互いによく知った間柄ならば、ことさら口に出す必要もないことだし、また、そうでなくとも、相手の顔が見えるリアルな世界であれば、言葉の端々などからある程度は推測することもできるし、身振りや表情、語調などから、言葉に込められた相手の感情について判断することも可能である。 ところが、困ったことにネットでの議論では、それがほとんど不可能なのである。いやいや、ほんと。 ネットの議論で相手にしているのは、目の前の画面にちらちらと並んだ文字にすぎない。(笑)とか(泣)みたいな記号的表記は、そこに筆者の感情が少しでもうまくのせられるようにと工夫され、広がったものなのだろう。 これが同じ文字でも、書物に印刷されている文字であれば、多少かちんとするようなことが書かれていたりしても、自分に宛てて書かれているわけではないことは分かっているから、普通そう気にはならない。それに、書いている人は、もうとうに死んじまっているとか、海の向こうの人だとかいう場合もある。 つまり、書物の場合はたとえ筆者が明らかだとしても、読者にとっては必ずしも身体を備えた具体的存在としてはイメージされないということだ。それは、テレビの画面に映る、アイドルや雲の上のスターなどの場合と同じである (最近はちょっと違うかもしれない。とくに芸人さんなんかは、街で会ってもいきなり友だち扱いされて、蹴りを入れられたりするそうだ)。 ところが、ネットの議論で画面に浮かぶ文字は、それを書いた固有の人間の 「存在」 というものを感じさせる。顔も名前も分からないにもかかわらず、とにかくそこに息をしていて、ときには額に青筋立てたりしながらキーを打っている誰かがいることをリアルに想像させる (自分のことかも)。 しかも、なお厄介なのは、相手の具体的な顔が見えない分だけ、かえって読む人自身が無意識に持っている、いろんな先入観や偏見、思い込み、ときには自分自身の悪意などがそこへ投影され、対象とは無関係に増幅されてしまいがちだということである。つまり、ネットでの議論というものには、完全にリアルでもなければ完全なバーチャルでもない、コウモリのような中途半端なところがある。 そして、そのような中途半端なリアルさこそが、人間の主観的な想像力(妄想力)をもっとも発動させる契機になる。ちょうど、なにもかも見せまくったあけっぴろげなヌードよりも、見えそで見えないというように、一部を微妙に隠した写真のほうがしばしばはるかにエロチックであるように。 おそらくは、そのようなネットの中途半端なリアルさが、多くの場合に相互のコミュニケーションの不全をもたらすのだろう。であるから、ネット上での議論には、本来リアルな世界での議論よりも、その分さらに高いリテラシーとコミュニケーションの能力が必要なはずなのだ。ところが、現実は必ずしもそうではない。それどころか、むしろ逆な場合のほうが多いわけで、それが一番困ったことなのである。
2008.01.29
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「ずばり言うわよ」 というのは細木数子女史の決め台詞であるが、この番組、3月で打ち切りになるという噂があるらしい。本当であれば、実にめでたいことである。 そういえば、みのもんたには 「みのもんたの朝ズバッ!」 という人気番組がある。こちらは、一般庶民の皆様にかわって、世の中の不正や間違ったことをずばずば指摘するという頼もしい番組らしい。ちなみに、どちらの番組もTBS系列である。 さて、「ずばり」 という言葉を 「広辞苑」 で引いたら、こんなふうに書いてあった。 ずばり 一 刀で勢いよく切断するさま ニ 相手の急所や核心を正確につくさま 用例: 「ずばりと言い切る」 「そのものずばりだ」 なるほど、なかなかずばりとした説明である。 ところで、こういう番組が人気を集めるのは、一方に 「あなたにかわってずばり言ってあげましょう」 という人がおり、他方に 「わたしのかわりにずばり言ってください」 という人がいるからだろう。むろん、そのさい、「ずばり言う」 のはだれであってもいいわけではなく、それなりの特異なキャラクターとか才能とかが必要なのではあるが。 つまり、そういう関係を成立させているのは、「だれかにずばり言ってほしい」 という多数の匿名の欲望の存在なのだろう。そこにあるのは、「無力なこの私」 に代わってだれかに 「ズバッと言ってほしい」 という欲求であり、彼らはそのようなだれかが自分の代わりに 「ズバッ」 と問題のありかを指摘し、明快にすべてを説明してくれることを期待しているわけだ。 それと同じような構造は、副島隆彦や太田龍のような、「アポロ陰謀論」 だの 「9.11陰謀論」 だのといった様々な 「陰謀論」 を宣伝している種々雑多な小教祖的 「カリスマ評論家」 と、彼らの熱狂的信者の間にも見られる。彼ら信者が求めているのは、世の中の複雑で多様な問題に対して、自分の代わりに神のお告げのごとき明快な断定的答を与えてくれる存在にすぎない。 また、それとは少し違って、自分自身に対して 「ズバッと」 言ってくれる人を求めている場合もある。しかし、こっちの場合には、権威を持った他者に対する依存的心性の存在はさらに明瞭だ。 サルトルは 『実存主義とはなにか』 の中で、ドイツによる占領下で、母親の世話をするために家に残るべきか、家を出てレジスタンスに参加するべきかを彼に相談してきた若者の例を引きながら、決定にさいして誰かに助言を求める者は、だれを相談相手に選ぶかで、じつはすでに答を自分で選んでいるのだというようなことを言っている。 つまり、細木数子やみのもんたに相談する人は、多くの場合、彼らが言うであるような答を予想しているのであり、最初からそれを求めているということになる。そのような相談者が欲しているのは、たんに自分の決定の正しさを彼らに保証して貰いたいということであり、もっと言えば、そのような決定を下したのは自分ではないという図式を作ることで、その責任を自分の代わりに負ってもらいたいということなのかもしれない。 最後に、フロムの 『自由からの逃走』 でも持ち出そうと思ったが、これは有名な本であるし、ちょっといま見つからないのでやめておく。まあ、ようするにファシズムを生み出した心理的基盤には、サディズムとマゾヒズムが融合した権威主義的パーソナリティというものが存在しているという話である。関連記事: カリスマとカリスマ性
2008.01.27
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今は亡きサルトル先生の 『嘔吐』 というと、主人公のロカンタンが公園でマロニエの根っこを見ているうちに 「吐き気」 をもよおすという場面が有名だが、この小説の重要な脇役に 「独学者」 という人物がいる。 むろん、これはロカンタンが勝手につけたあだ名なのだが、この人物は町の図書館に何年間も通い詰めては、そこの蔵書を著者名のアルファベット順にひたすら読み続けているのだそうだ。ロカンタンはこの 「独学者」 について、こんなふうに描写している。 七年前のある日、彼は意気揚々とこの部屋に入ってきた。そして四方の壁をぎっしり埋めている数限りない書物を眺め回して、ほとんどラスチニヤックのように、「ぼくたちだけで、人類の全知識を所有するんだ」 といったにちがいない。 それから彼は、最右端の第一段の本棚から、第一番目の書物を取ってくる。そして尊敬と畏怖の感情とともに確固不動の意思を持って、その第一頁を開く、今彼はLまで来ている。Jの次がKであり、Kの次がLである。彼は乱暴にも、甲虫類に関する研究から、量子論に関する研究に移り、チムールに関する著作からダーウィンに反対するカトリック派のパンフレットに移る。一瞬とても彼は戸惑ったりしない。彼はすべてを読んだ。 この 「独学者」 が語るところによれば、第一次大戦で捕虜として収容所生活を送ったことが彼にとっての転機であったらしい。終戦によって帰国し社会党に入党して社会主義者になると同時に、自らを教育するために図書館通いを始めたということだ。 この 「独学者」 を見るロカンタンの目は、かなり辛辣だ。 たとえば、こんなふうに。 彼は目で私に問いかける。私はうなづいて賛意を評するのだが、彼がいくらか失望したということ、彼が欲したのは、もっと熱狂的な賛同だったということを感じる。私に何ができようか。彼が私に言ったことのすべての中に、人からの借り物や引用をふと認めたとしても、それは私が悪いのだろうか。 言葉を質問形にするのは癖なのである。じっさいには断定を下しているのだ。優しさと臆病の漆は剥げ落ちた。彼がいつもの独学者であるとは思われない。彼の顔つきは、鈍重な執拗性をあらわしている。それは自惚れの壁である。 ある意味では、「学ぶ」 ということは本質的に 「独学」 である。そもそも、学校で学べることなどは、しょせん大したことではないということも言えなくはない。社会に出てからも 「学ぶ」 ということを続けるには、多かれ少なかれ 「独学」 によらざるを得ないものでもある。 だが、サルトルの分身であるロカンタンが断じるように、「独学」 にはしばしば 「独断」 と 「自惚れ」 という落とし穴がある。それは、「独学」 という行為が必然的に孤独な作業であることから来るものだろう。 当然のことだが、いかなる 「独学者」 であっても他人との交流を欲するものであり、他者による 「承認」 を欲するものである。そして、「独学者」 はしばしば、そのさいに独力で身に付けた言葉や論法を披瀝したがるものだ。それは、いうまでもなく当然の欲求でもある。 たとえば、「論理」 や 「論法」 というものは、武道でいう 「技」 に似ている。「技」 を身に付けたと自惚れた者が、機会さえあれば、相手かまわずにその技を使ってみたくなるように、なにがしかの 「論法」 を身に付けたと思い込んだ者は、ところ構わずにその 「論法」 を使用してみたくなるものだ。 武道で 「技」 を身に付ける場合は、まず型どおりの技の練習を飽きるほど繰り返して、自分のからだに徹底して覚えこませる。だが、それはまだ、その技が本当に身に付いた段階ではない。基礎練習がすんだら、次は柔道でいう乱取りのように、わら人形ではない生きた相手との実践的な練習に進まなければならない。 たぶん、「独学」 という行為に欠けるのは、そういう実践的な練習の場なのだろう。そこが不足していると、独学者はしばしば相手との間合いをはかったり、相手の力量を適切に判断するといった実践的能力を身に付けないままに、「独断」 と 「自惚れ」 に陥り、ひいては非合理的な言説にも捉われてしまいがちなのだろう。 かつて、吉本隆明も同じように、三浦つとむ (『日本語はどういう言語か』 の著者)への追悼文の中で、三浦を 「独学者の星」 と評しながら、「三浦つとむの弟子の中にはブルジョア科学など学ぶ必要がない、と言って天狗になってしまったものがいる」 と批判したことがある。追記: もちろん 「独断」 という病に罹るおそれがあるのは、「独学者」 にのみ限られるわけではない (念のため)。
2008.01.25
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娘: ねえねえ、リンゴってどうして木から落ちるの?親: それはね、地球が引っ張ってるからだよ。娘: ねえねえ、それじゃあどうして地球の裏側にいる人は、 逆さになってるのに落っこちないの?親: それはね、地球がその人たちを落っこちないように 引っ張っていてくれるからなのだよ。娘: ふーん、でもどうして地球はそんなにみんなを引っ張ってくれているの?親: それはね、地球がみんなをとても愛しているからなのだよ。 地球はね、みんなが宇宙に放り出されて迷子になったりしないように、 みんなのことを優しく気遣っていてくれてるんだよ。 冒頭から、いきなり 「いい話」 をしてしまった。ま、それはともかく、17世紀にニュートンが空間を超越して作用する 「万有引力」 という概念を発表したとき、機械的な世界観をよしとする、フランスなどの一部の合理主義者からは 「神秘主義」 の復活ではないのか、という批判を受けたそうである。 実際、通常の力というものは、互いに接触することで相手に力を及ぼしている。紐で結ばれているわけでもないのに、互いに引っ張り合う力というのは、よく考えてみれば不思議なものである。それは、相手の体に触れることなしに相手をふっとばすという、気功師の発する 「気」 というようなものにどこか似ている。 同じようにニュートンがまとめた 「慣性の法則」 にしても、物質を生命を持たない死んだものとみなす機械論的世界観の持ち主からは、やはり一種のアニミズム的で神秘主義的なものに見えたのかもしれない。空間の中を浮遊しながら互いに力を及ぼしあっているというニュートンの物質観には、たしかにドイツの神秘主義者であったベーメの 「物活論」 的な思想に通じるものがある。 さて、この不思議な引力というものの正体が、現在どこまで解明されているのかは、専門家ではないからよく分からない。自然界に存在する様々な力の統一を目指した、かのアインシュタインは、重力波なるものの存在を予見していたそうだが、その存在を示す直接的な証拠は、残念ながらまだあがっていなようだ。 ところで、ニュートンという人、今でいうこっくりさんのような降霊術に凝っていたらしい。エンゲルスの 『自然弁証法』 によれば、晩年のニュートンは予言書として知られる 「ヨハネ黙示録」 の解釈に懸命になっていたそうだ。まあ、それはともかく、そういった彼の傾向が、「万有引力」 という一種トンデモな発想を可能にしたということはあるのかもしれない。 また、電気や磁気などの現象に関する初期の研究者の中には、錬金術師として有名なパラケルススのような神秘主義者の影響を受けた人たちも多かった。たとえば、18世紀オーストリアの医師であったメスメルが提唱し、当時一世を風靡した 「動物磁気」 治療というのも、今から思えば一種の 「疑似科学」 のようなものである。 しかし、科学者というのも、われわれと同じごく普通の人間なのであるから、このような不思議な現象だとかについて研究しているうちに、いろいろと変な方向に想像力を刺激されたり、妙な名声欲などにかられたりして、結果的に道を踏み外してしまった人がいたとしても不思議ではない。 そういうわけで、近代科学の歴史を見ると、一種 「トンデモ」 な発想や関心から画期的な理論や成果が生れたという例も珍しくはない。また、とりわけ不確定なことが多い、発展途上の分野などでは、しばしば科学的な思考と非科学的な思考とが混在したりもするものだ。 いうまでもないことだが、想像力というものはどんな人間の活動にも欠かせないものである。だが、そのような発想や想像から生れたものが、科学として整備されていく過程は、同時に、その中から不純な夾雑物が除去され、合理的な理論として純化されるという過程でもあるだろう。 近代化学が、「賢者の石」 を求めた中世の錬金術から発生したという話は有名だが、その意味では、近代以前の思想と近代の科学とは、確かにいろんなところで結びついている。だが、だからといって、現代に錬金術を蘇らせようなどという人は、たぶんいないだろう。 まっとうな科学と、そうでない科学との間に明確な線を引くことは困難であり、現実的には不可能なことでもある。それは、ときには複雑に絡み合っていることもあるし、どんな科学だって、最初から完全な形で現れるわけはない。それに、サルトルを批判したさいにレヴィ=ストロースが言ったように、未開人の思考と近代人の思考の間に、決定的な差異や対立があるわけでもない。 「水伝」 のような馬鹿話はともかくとして、ちゃんとした教育を受けた人であっても、ちょっとしたことで道を外れることはじゅうぶんにありうることだ。「科学」 を装ったオカルト話はそこらじゅうに転がっている。要するに、世の中というもの、いつの時代であれ、落とし穴はどこにでもあるのであり、そのような危険から免れている者などは一人もいやしない。 であるから、われわれ一般庶民としては、とりあえず、難しい話は専門家に任せるとしても、結局は 「科学」 とか 「科学的」 とかいう言葉を安易に持ち出したり、それらしく見せようとしている人々らを、軽率に信じ込まないということが一番必要なのだろう。そして、それこそが、本来の科学的な批判精神という言葉の意味にも適っているはずである。 なんであれ、安易でお手軽な道ばかりを選ぶことは、素朴な善意のみを頼りとすることと同様に、 「地獄」 へ通じる近道なのでもある。追記: 「陰謀論」 的発想と 「疑似科学」 的言説が融合している最近の例としては、ネット上で流布している、米軍がさまざまな 「超兵器」 を開発して、一般市民を対象にひそかに実験しているというような話があげられる。
2008.01.23
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大仏次郎の 『地霊』 という短編にも出てくるが、帝政末期のロシアに、のちに 「革命のユダ」 というあだ名がついた、アゼーフという人物がいる。表の顔は、ナロードニキの流れを汲む社会革命党(通称エスエル)の幹部であり、テロ部隊であった 「戦闘団」 の最高指導者でありながら、じつは内務省=警察のスパイであったという人物である。 かれは雇い主である内務省に情報を流して党の同志を売り渡しながら、同時に雇い主には内緒で、政府要人の暗殺計画をたて、実際に何人もの暗殺を成功させてもいる。そのひとつであった、皇帝の叔父でもあるセルゲイ大公の暗殺事件は、のちにカミュによって 『正義の人々』 という題で戯曲化されてもいる。 最終的に、彼の正体はブルツェフという人によって暴露され、党の査問を受けることになるが、決定が下る前に逃亡し、最後は第一次大戦中にドイツで死亡したということだ。このときに彼の査問に当たったのが、彼の副官であって、のちにロープシンという名前で 『蒼ざめた馬』 という小説を書いたサヴィンコフである。 アゼーフという人物は、もともと皇帝に対する忠誠心からスパイとなったわけではない。自分の個人的利益のみを追求していた彼にとって、スパイとしての職務をあまりに忠実にやりすぎて、革命勢力が壊滅し、政府にとっての脅威でなくなってしまえば、スパイとしての自分の存在価値も失われてしまう。 彼のスパイとしての価値は、彼の 「革命家」 としての地位の高さに比例していた。党内において高い地位を占め、「革命家」 としての名声が上がるにつれて、雇い主である警察にとっても、革命運動に関する情報源としての彼の価値は高まるようになっていた。だから、彼の計画が挫折や失敗ばかりして、その 「革命家」 としての権威が失墜してしまえば、警察としても彼をスパイとして育て上げたせっかくの努力が無駄になってしまう。 そのため、警察はアゼーフの党内での出世を後押しし、その声望を維持させるために、彼の 「革命家」 としての活動を黙認し、ときには内密に手助けせざるを得ないという奇妙な立場に追い込まれた。しかし、やがてアゼーフの行動は、そのような警察の当初の思惑を超えて暴走を始めるようになる。 この奇妙な 「二重スパイ」 事件をめぐって、彼と雇い主である警察がはまり込んでいた立場とは、そのようなものだった。彼が政府のスパイでありながら、同時に政府要人の暗殺を実行し成功させたことには、おそらくそのような背景があったのだろう。むろん、同時に、そこには政府と革命党の両方を自分の手で操るということに対する、暗い満足感のようなものもあったに違いない。 その結果、警察によって送り込まれたスパイが立てた計画によって、政府の要人が暗殺されるという、なんとも奇妙な事件が起きることになった。人はみなそれぞれの意志と利害を持って行動しており、その結果、だれも予想していなかったような奇妙な事件が生じたり、奇妙な結末を迎えたりもしてしまう。社会は、つねにそのようにして動いている。 この事件について、トロツキーは次のようなことを書いている。 社会革命党の戦闘団と中央委員会のメンバーであったエヴノ・フィリポヴィチ・アゼーフが、職業的挑発者だと宣言された1909年1 月以来、この人物をめぐって膨大な国際的文献が現われた。こういった文献は主としてセンセーショナルな調子のものであった。それも当然だ。事実そのものがすでにあまりにも異常にセンセーショナルであったし、事実そのものがすでにあまりにも想像力を刺激したのであるから。 ほとんどすべての人の頭の中には、とくに俗物の頭の中には、まるで絵に描いたようにこのロマン主義的な蛆虫が住みついている。この蛆虫は、日常の気苦労の中で麻痺しているのだが、ひとたびセンセーショナルな事件に刺激されると次々に新しい糧を、しかも、ますます異常なものを要求する。 それは、うずくような好奇心である。現代の情容赦のない新聞の時代には、あらゆる事件が莫大な量の報道を読者にもたらす。そして、その報道はますます、もともとの源泉から遠ざかっていく。 新しい糧をなくしたセンセーショナルな報道は、2次的、3次的……「N+1」次的な報道によって養われる。結局、一定の時間がすぎると、ロマン主義の蛆虫の心理的・生理的な性質に規定されて、センセーショナルな報道は飽きられ、このセンセーションを引き起こした事件は新聞紙の山の下に葬られる。 センセーショナルな報道に刺激された社会心理は、ますます異常なものを要求するだけでなく、こういった解説が事件を現実主義的な枠におさめていることに気づいて若干の腹立ちを感じさえする。一般に、社会心理がこうした場合に求めているのは、解説なのではない。それが求めているのは、謎めいた未解決のものなのである。トロツキー 「エヴノ・アゼーフ」 ここでトロツキーが指摘していることは、100年前とは比べようがないほどに、大規模なテロや暗殺といったセンセーショナルな事件が世界中で頻発し、それについてのセンセーショナルな報道や、いかがわしい情報があちらこちらに蔓延している現代には、なおのこと当てはまる。それは、ほとんど予言といってもいいくらいだ。 関連記事: 今日の収穫 (2)参考文献: サヴィンコフ 『テロリスト群像』
2008.01.22
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新年早々、一部ブログ界をにぎわした 「水伝」 騒動について、批判を受けた側の中に、あの批判を行った連中は 「陰謀論」 批判を展開した者らと同一であり、その本当の狙いは 「9.11自作自演」 説を封殺することにあるといった声があるようだ。 なかなか興味深い洞察である。「事実」 としては、たしかにまったくの間違いではない。だが、いつものことだが、彼らはその 「解釈」 を間違えている。つまり、事実と事実をつなぐ論理にまったく根拠がないため、ただの 「妄想」 にしかなっていないのだ。 そもそも、「事実」 はそれだけではなにも語りはしない。「事実」 から 「意味」 を引き出すために必要なのは 「理性」 なのだから、「理性」 に欠けた者は、いくら 「事実」 を集めたところでなにも見ていないのと同じである。 彼らの 「妄想」 とは異なり、そのような 「事実」 から明らかになることは、「疑似科学」 に対して批判的な立場、理性的な 「議論」 を重んじる立場、さらには 「陰謀論」 に対して批判的な立場には、互いに強い相関性があるということである。 そして、その逆に、「疑似科学」 に対して没批判的な立場、理性的な 「議論」 を軽視する立場、さらに 「陰謀論」 を受容しやすい立場との間にも、同様の強い相関性があるということだ。 たとえば、 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想が実際に結びついた例としては、「社会ダーウィニズム」 の影響を受けたイタリアの犯罪学者 ロンブローゾの 「生来的犯罪人説」 や 「優生学」、さらにはナチスのイデオローグであったローゼンベルクが提唱した 「人種理論」 などが 「ユダヤ陰謀論」 と融合した結果、ユダヤ人や男色者、障害者らへの迫害が行われたことなどがある。 そのような 「疑似科学」 的発想と 「陰謀論」 的発想との相関関係には、ちゃんとした根拠がある。それはつまり、理性に基づいた批判精神の欠如であり、非合理的なイデオロギー的言説に対する根拠を問わぬ軽信的な心性と言えるだろう。 「疑似科学」 が問題なのは、それが一見科学的な手法に基づいているかに見えるため (それは、意図的な場合もあれば、当人の過誤に基づく場合もある)、その専門性に通じていない一般の人々には、なかなか嘘を見抜くのが難しいからである。 実際、「劣等」 な者と断定された人々に対する断種や不当な隔離のような 「優生政策」 といった誤った政策を裏付ける根拠として、そのような 「科学」 の成果が持ち出されると、人はなにかおかしい、とは思っていても、正面から批判することが困難になってしまう。 そのような 「擬似科学」 の不当性を暴くには、場合によっては、たしかに専門的な科学者による詳細な批判が必要なこともある。「疑似科学」 批判に対する一部のアレルギーは、たぶんそこから来ているのだろう。だが、「疑似科学」 批判は、なにも科学の万能を主張しているわけではない。ましてや、「おとぎ話を信じるな !」 などとは、だれも言っていない。 言うまでもないことだが、まっとうな科学者だって間違えることはある。当初は正しいと思われていた学説が、のちに誤りであったことが証明される例などはいくらでもある。そもそも、完全な科学などはありえないのだから、その意味では、まっとうな科学と 「疑似科学」 の間に、明確な線を引くことは不可能だろう。だが、だからこそ、必要なのは 「科学」 の権威を借り、「科学」 と結び付けて押し出される言説に対して、正当な懐疑の目を欠かさないということだろう。 「9.11陰謀論」 の信奉者らに言わせれば、「陰謀論」 への批判が最近とみに高まっているのは、9.11の 「真実」 が暴かれるのを恐れている人々が、躍起になって 「真実」 を叫ぶ声をふさごうとしているからなのだそうだ。どうやら、批判が強まれば強まるほど、彼らは 「自信」 と自らの主張への 「確信」 をますます強めているらしい。 だが、そういう論理は、うん十年前にもよく言われた、「権力による弾圧が厳しいのは、敵がわれわれを恐れているからだ ! 」 という、昔懐かしい論理の焼き直しにすぎない。そのような倒錯した論理は、せいぜい自己憐憫にしか役立たないものであり、政治的社会的な運動が最終的な袋小路に陥った場面では必ずと言っていいくらい出てくる、現実から目を背け逃避することを目的とした内閉的な論理である。 いまや、彼らには自分らを除いた周りのすべてが敵に見え、あちらこちらに、自分たちを攻撃する 「陰謀」 が網の目のように張り巡らされている、といったふうに見えているようだ。
2008.01.20
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竹内好が訳した 『魯迅評論集』(岩波文庫) に、こんな短い文章があった。 A きみたちみんなで批評してくれ。Bのやつ、無法至極にもぼくの上衣を剥ぎ取ったんだ。B Aは上衣なしのほうが格好いいからさ。ぼくは親切心からしてやったんだぜ。そうでなかったら、手間ひまかけて剥いでなんかやるものか。C いまや東北四省が失われたというのに、なんたるざまだ、じぶんの上衣のことばかり言い立てるとは。この利己主義者め!この豚め!C夫人 あの人、Bさんが合作のいい仲間だってこと、ちっとも考えてないのね。でくの棒! さて、魯迅はこんなことも言っている。 予言者、すなわち先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける。大人物もつねにそうだ。彼が人々から尊敬され、礼賛されるときは、かならず死んでいるか、沈黙しているか、それとも眼前にいないかである。 要するに、問いただすわけにいかぬ、という点がつけ目だ。 もしも孔子、釈迦、イエス・キリストがまだ生きていたら、その教徒たちはあわてずにいられぬだろう。彼らの行為にたいして、教主先生がどんなに慨嘆するか、分かったものでない。 それゆえ、もし生きていれば、迫害するほかはない。 偉大な人物が化石になり、人々がかれを偉人と称するときが来れば、かれはすでに傀儡(かいらい)に変じているのだ。 ある種の人々のいう偉大と渺小(びょうしょう)とは、自分たちがその人を利用する際の効果の大小を意味する。 『カラマーゾフの兄弟』 の中の、異端者狩りを職とする大審問官の前にキリストが再臨する話は有名だが、ここで魯迅が書いていることは、彼自身の死後の運命を予言しているようにも読める。 魯迅の生年は1881年だから、かりに結核で倒れなくても 「文革」 の時代までは生きられなかっただろうが、生きていればきっと、無知で幼く、素朴で疑うことを知らない紅衛兵たちに、「団結を破壊する分裂主義者」 などと言われて、つるしあげられていたことだろう。 私の経験によれば、表面だけ 「革命」 面をしていて、そのくせ軽々しく他人をやれ 「裏切者」 やれ 「反革命」 やれ 「トロツキイ派」 やれ 「漢奸」 などと中傷するものは、だいたいまともな人間ではないからである。 彼らは巧妙に革命的民族の力を絞め殺し、革命的大衆の利益を損ない、もっぱら革命を利用して私利を図るだけだからである。
2008.01.19
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「オッカムのかみそり」 という言葉がある。オッカムという人は、13世紀から14世紀にかけてイギリスで活躍した、いわゆるスコラ哲学者の一人であるが、本名はウィリアムという。オッカムというのは、もともと彼の出身地なのだそうで、ウィリアム・オヴ・オッカムという呼び方は、正確に訳すと 「オッカム村のウィリアムさん」 となる。 こういう呼び方は、かの 「モナリザ」 で有名な、ルネサンス時代の万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチもそうで、この名前も正確に訳すと、「ヴィンチ村のレオナルド」 ということになる。つまりは、「ペンギン村のあられちゃん」 などという呼び方と同じである。 「オッカムのかみそり」 というのは、本人の言葉で言うと 「必要が無いなら多くのものを定立してはならない」 ということらしいが、普通は、「仮説をたてるなら、ややこしいものより単純なもののほうがいい」 ぐらいの意味で使われている。 たしかに、ある現象を説明するのに、ややこしい仮説と単純な仮説の二種類があった場合、単純な仮説のほうがよさそうに見える。ややこしい仮説を検証するのは、単純な仮説を検証するよりも面倒であるし、なんといっても、ややこしいことを考えるのは頭が疲れるものである。 この格言の 「正しさ」 を説明するときによく引き合いに出されるのが、コペルニクスの地動説である。プトレマイオス以来の天動説が、惑星の複雑な運動を説明するために、「周転円」 という仮説 (惑星は小さな円を描きながら、地球の周りを回っているという理論) を導入することで、どんどん複雑化していったのに対して、コペルニクスの地動説は、きわめて単純な仮説で星の運動を一挙に説明できる。 おおっ、なるほど、目から鱗が ! というわけである。 しかし、よく考えてみれば分かることだが、この 「オッカムのかみそり」 という格言は、単に、あんまり複雑に考えすぎるのはよくありませんよ、という、思惟経済上の指針にすぎないのであって、それによって、単純な仮説のほうの優位が先験的に保証されているわけではない。 「地動説」 と 「天動説」 の問題にしても、どちらでも天体の運動を説明できるのなら、仮説としての権利と資格はほんらい同格のはずである。実際、この勝負が最終的に決着したのは、万有引力の法則を説いた、ニュートン力学の登場によってであって、たんに理論としての 「単純さ」 というだけで勝敗が決まったわけではない。 オッカムさんには怒られるかもしれないが、極端なはなし 「仮説は単純なほうがいい」 というだけであれば、物質の運動を説明するのに、ニュートン力学だの相対性理論だのといった、ややこしい理論を提唱する必要はない。それよりも、ただ一言 「すべては神様の思し召しです !」 といったほうが、よっぽど簡単である。 同様のことは、生物の進化についても言える。実際、「突然変異」 だとか 「淘汰圧」 だとかいうことを、ぐだぐだと時間をかけて研究するよりも、「すべての生物は、神様が6日間で創造したのです!」 といったほうが単純でよろしい。なにしろ、こういったややこしい問題は、「全知全能の神」 というたった一つの仮説を持ち出せばすべてが説明できるのだから、これ以上単純な仮説はない。 音速の単位として名前が残っているマッハという物理学者も、この 「オッカムのかみそり」 を盾にとって、原子や分子の実在性を否定しようとしたが、これも結局のちに、アインシュタインらによって誤っていたことが証明されている。 自然界においてすらこうなのであるから、大勢の人間が、それぞれの意志を持ちながら、がやがやとひしめいている社会においては、ますますそうである。ものごとはけっしてそんなに単純ではないのだから、「オッカムのかみそり」 などという格言をおいそれと持ち出すのは、かえって誤りのもとになる。 いわゆる 「陰謀論」 というのもこれとよく似ている。かげで誰かがすべてを統制している 「陰謀」 という仮説を持ち出せば、ただの偶然や、様々な人の意志が絡み合った結果として生じる、複雑な社会現象のすべてが、まさに 目から鱗が ! というように、単純かつ一挙に理解できるというわけだ。 もっとも、実際には、「陰謀」 という仮説が成立するには、小さな仮説がいくつも必要なのだが、これは 「陰謀」 というひとつの大きな仮説に内包されているため、「陰謀論」 者やその信奉者たちには、全体でひとつの仮説のように見えるのだろう。それに、単純さを好む人たちは、もともとそういったことはあまり気にしないもののようである。 ようするに、世の中には単純な仮説よりも、複雑な仮設のほうが正しいこともけっして珍しくはないのである。複雑に考えるということは、たしかに頭が疲れることではあるが、なんでもかんでも単純化すればよいというものではない。 追記 : ウンベルト・エーコの小説で、映画にもなった 『薔薇の名前』 に、バスカヴィルのウィリアムという人物が出てくる。映画では初代ジェームズ・ボンドのショーン・コネリーが演じているが、この人物はオッカムのウィリアムをモデルにしているらしい。追記の追記: オッカムの剃刀は真理ではありません。これは、せいぜい真理を導き出すための有用なツールのひとつにすぎません。ですから、当然万能でもありません。 オッカムの剃刀を真理と思っている人は、その時点で間違っているのです。そういう勘違いをした人によって、様々な誤謬も生み出されてきたわけで、その点でオッカムさんも罪作りだよ、といっているのであります。まあ、半分はねたですけど
2008.01.17
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なんだか、ずいぶんおっかないタイトルであるが、この場合の 「政治的」 というのは、政党だとか政治家だとかが関係するような、厳密な意味での 「政治」 ではなく、家庭の中での夫婦の争いや、学校、会社、同好会、その他いろんな組織や団体で、ごく普通に起こるもめごととか、勢力争いだとかを含めた広い意味で使っている。 さて、なんでもよいが、なにか問題が発生し、抜き差しならぬ 「対立」 が生じた場合に、いっけん局外の第三者という立場から、「どっちもどっちだよ」 みたいな発言をする人をよく見かける。 なるほど、「対立」 がにっちもさっちも行かず、しかもなんらかの 「解決」 を緊急に要するような場合には、そういう第三者的な立場からの裁定というのも、確かに必要ではある。 世の中の裁判所というものはそういう目的のためにあるのだし、企業どうしの契約などでは、紛争が生じた場合の解決方法などについて、仲裁人の選定だとか仲裁の進め方だとか、いろんなことが事細かに定められているものだ。 いうまでもないことだが、裁判所がそういう権限を有していることは法律で決まっていて、その権限には基本的に誰もが服さざるを得ない。また、仲裁人による和解や仲裁のような場合には、当事者どうしがまず仲裁人の選定について、あいつはいやだとか、こいつがいいとか、ぐちゃぐちゃ言いながら、最終的に合意することが必要である。 たとえば、喧嘩の真っ最中に、いきなり第三者が現れて、「待った、待った、その喧嘩、おれが買った」 などと、かっこつけて割って入ったところ、両方から邪魔者扱いにされて、袋叩きにあってしまったなんて話もよく聞く。もっとも、その結果、もとの喧嘩が収まって、両人が仲良くなったのなら、それはそれで、仲裁に入った者としては本望なのかもしれない。 要するに、なにが言いたいのかと言うと、仲裁者としての権限を行使するには、まず両方の当事者から、その資格と裁定のためのルールについて、同意を得ることが必要なのだということだ。 そうでもないのに、いきなり第三者が現れて、当事者の同意も得ずに、なにか勝手な 「発言」 をはじめれば、それはもうすでに 「局外中立」 でも 「公正な第三者」 のものでもない。 発言者は、その行為によって、すでにじゅうぶんに問題に巻き込まれた 「当事者」 になっているのであって、その発言はメタな立場にある 「公正な第三者」 によるものではなく、その人自身の一方的な意見と、一定の立場の表明にしか過ぎなくなってしまう。 ましてや、当事者のスタンスを無視して、実効性も乏しいルールを勝手にこしらえたうえに、問題の具体的内容や時系列的過程も配慮せず、当事者の承認もなしに持ち出してきて一方の当事者のみを裁くことは、すでに 「公正中立」 な立場とはとうてい言えまい。 それでも、あえてなにか言いたいというならば、「公正中立な第三者」 としての立場など表明せずに、最初からよく考えて、自分の旗幟を鮮明にしたうえで発言したほうがよっぽどよい。たいした根拠もないのに、「存在」 も 「不存在」 も証明不可能な類の推測を持ち出して、あとでぽろりと馬脚を現してしまうぐらいなら、そのほうが本人の信用にとっても、はるかによいことだ。 メタな立場にあるかに見える 「公正中立な第三者」 という、いっけん 「非政治的」 な旗印は、当人の意思がどうであれ、多くの場合、どちらを支持するかを明瞭にした旗印よりも、はるかに 「政治的」 に機能するものなのだ。(追記は削除しました)
2008.01.16
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豊臣氏が滅亡したのは、今から400年ほど前に起きた、冬の陣と夏の陣の二度にわたる大阪の役によってである。この役については、秀吉の息子 秀頼が方広寺に納めた鐘に刻まれた 「国家安康」、「君臣豊楽」 の銘に、家康側が難癖をつけたとか、冬の陣での約束を破って、家康側が城の外堀だけでなく、内堀まで埋めようとしたとか、いろんな話がある。 幕府を開いて、すでに天下を統一した家康にとって、大阪という重要な場所に天下の堅城を構えて、いまなお家康の権威を無視し続ける、秀頼と淀君の存在がうっとおしかったのは間違いない。しかし、この時点で、はたして家康に豊臣氏を完全に滅亡させようという意思があったとは、必ずしも断言できないようだ。 しかし、豊臣方と徳川方の間に不穏な空気が立ち込め始めると、大阪城には、夢よもう一度とばかりに、一旗あげることを目論んだ牢人らが続々と詰め掛け、無謀にも家康と一戦を交えようという雰囲気が醸成されてゆく。そんな中で、衝突すればとても勝ち目などなく、結局は豊臣の滅亡にいたることを気遣っていた、大阪方の中の和平論者らは、次々と城から排除されていくことになる。 この事件の場合は、たしかに淀君自身がとても誇り高い女性であったようだから、このような経過はしかたなかったのかもしれない。何万もの牢人を全国から集めて召抱えたのも、自分たちが意図してやったことであるから、豊臣の滅亡という最終的な結末も、いわば 「自業自得」 のようなものなのかもしれない。 いつの世も、争いが始まると、待ってましたとばかりに、どこからか頼みもしない援軍がぞろぞろと集まってくるものである。彼らは、争いのなかで手柄をたて、名を挙げるのが目的であるから、争いが沈静化してしまっては面白くない。であるから、こういう人々は、たいていの場合、争いをおさめることよりも、争いを煽り立てることのほうに関心を持つものである。 その結果、当の本人が、たとえ内心では、これはやばいかな、このまま行ったらまずいかな、などと思っていても、せっかく集まってくれた援軍の手前、弱気なことを言うわけにはいかなくなってくる。つまり、引くに引けなくなってくるのである。手を叩いて、「がーんば!」 などと励ましてくれる大勢の支援者の手前、あっさりと自分の非を認めてしまっては、大将の沽券にも関わるというものである。 世の中のもめごとというものは、たいていの場合、そういう 「無責任な援軍」 のおかげで、かえってややこしくなったりする。その結果、早めにわびをいれておけば大事にならずに済んだことまで、大変なことになって、かえって不利な結末を迎え、面目を失ってしまったりするのである。 当事者をそっちのけにして、支援者ばかりが盛り上がり、その結果、肝心要の当事者が置いてきぼりを食らうというようなことも、昔からあちこちの運動で見かけることであるが、それと同じように、なにかもめごとが起きたときも、基本的に周囲の人間は黙って見ていたほうがよい。少なくとも、無責任に争いを煽り立てるようなことはしないほうがよろしい。
2008.01.13
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「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」 という歌が、ほんとうにかの大盗賊 石川五右衛門の辞世の句であるかどうかは分からないが、この句をもじれば、「世に争論の種は尽きまじ」 ということが言える。 たしかに、そのとおりで、人間はいつの時代にもどこの世界でも、言い争いを好むものであり、そのような例は、古今東西、宗教や政治、哲学や思想、学問などの話から、遺産相続や男女の仲の話まで、枚挙に暇がないくらいである。 たとえば、そういった争論が極端に先鋭化すると、ときには言葉のかわりに石ころや拳骨がとびかい、あげくのはてには血の雨が降ったりといったこともある。さすがに、これは困ったものである。そのような経験、とりわけ近世の激しい宗教的対立が悲惨な結果を生んだことの反省から生れたものが、いわゆる 「寛容」 という考え方である。 むろん、それは悪いことではない。だが、このような 「寛容」 という態度が成立するのは、実はそのような 「対立」 などはもはや重大な問題ではないという了解が、お互いの間に存在しているからである。このことは、宗教を例にして考えればよく分かることで、「宗教的寛容」 が一般に成立するのは、すでに宗教がその社会におけるもっとも重大な関心事ではなくなっているからこそなのである。 さて、こういう 「対立」 の先鋭化を嫌う人たちによって、しばしば持ち出されるのが、「価値観の多様性」 という言葉である。 なるほど、人によって 「価値観」 というものは確かに多様である。世の中には、巨人ファンもいれば阪神ファンもいる、もちろん中日のファンやヤクルトのファンもいるだろう。いや、そもそも野球になんか関心がない、という人もいるだろう。そういう 「価値観」 というものは、まさに人それぞれなのであって、いやいや、読売巨人だけが唯一絶対の存在だ、などと主張する人はいないだろう。 だが、「価値観」 というものは、そもそも、たんなる趣味や嗜好だけに関わる問題ではない。いくら 「価値観の多様性」 を擁護する人であっても、「有色人種を差別する価値観」 や 「意味もなく他人に暴力を振るう価値観」、あるいは 「価値観の多様性を否定する価値観」 まで認めはしないだろう。 また、1+1=3 というような、明らかな計算間違いを犯した人が、その誤りを指摘してくれた人に対して、「いいじゃないか、これがおれの価値観なのだから」 などと言い返したりすれば、笑い者になるのは必定である。 真理を発見する方法としての 「対話」を重んじた、ソクラテスのことを持ち出すまでもなく、人は自分だけではなかなかその誤りに気付かないものであり、しばしば他人との対話を通じて、自己の誤りに気付いたり、新たな発見をしたりするものである。そして、「批判」 とは、本来そのような 「対話」 のきっかけとなるもののはずである。 むろん、ひとから自分の誤りを指摘されることは、けっして気分のいいものではない。それは、偉い学者さんなどでも同じである。生徒から計算間違いなどを指摘されると、むきになって言い繕ったり、ごまかそうとする教師なども、世の中には珍しくない。 しかし、たとえ一時的に気分を害したとしても、それによって最終的に自分の過ちに気付かされたとすれば、批判者に対してはむしろ感謝すべきことだろう。成長とは、本来そういうものである。批判などするとお互いに心が傷つくから、互いの 「価値観」 を尊重して、ここはひとつ穏便になどというのは、少なくとも大のおとなが言うべきことではない。 「価値観の多様性」 ということは、たしかに認められるべきことであり、一概に否定されるべきものではない。しかしながら、すべての価値観がみな同様に相対的なわけではないし、互いにばらばらに存在しているわけでもない。もし、そうだとすれば、そもそも人と人の間には、結局 「対話」 など不要だし、成立しえないのというのと同じである。 たしかに、この言葉は、他人との対話を拒否して、自分の誤りを合理化したり、相手の批判を無視し、封殺するための口実とするのにも役立つ便利な言葉であり、実際にそのように使われている例も、しばしば見受けられる。つまり、「これはおれの価値観なのだから他人は口を出すな」 というわけだ。 だが、「価値観の尊重」 ということを本気で言うのであれば、自分の価値観のみに立てこもるのではなく、批判者の価値観をも尊重して、まずはその言葉にも率直に耳を傾けるというのでなければ、なんの意味もないのではないだろうか。参考サイト: 「多様な価値観の尊重」 が苦手 追記:批判方法の巧拙を問題にする論理は、結局、自分の意見を明確に述べられない人は、批判などせずに黙っていろということと同じではないのか。批判された者が批判者に対していっさい耳を貸さず罵倒で応えるというのは、完全なルール違反行為である。そのような 「違反行為」 は、批判した側にも問題があったというようなことで相殺されるものではない。ならば、どちらに非があるのかは、充分に明らかなはずだ。
2008.01.12
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ニューハンプシャー州の民主党予備選では、ヒラリーがオバマをわずかに抑えて勝利した。あいたた、予想を外してしまった。 もっとも、簡単に予想を当てられるぐらいなら、とうに真面目な仕事などやめて、株とか競馬で大穴を当てているのだけど。うーん、いままでの常識だと、選挙で感情をあらわにしたりした候補は、だいたい負けているのだが。 過去の歴史を振り返ると、1972年の大統領選挙で、「ベトナム戦争からの一方的撤退」 を訴えたマクガバン候補が、相手からリベラルさを攻撃されて、再選を目指した共和党のニクソンに大敗したことがある。 また、8年前の選挙では、クリントン時代の副大統領だったゴア候補がブッシュ現大統領と大接戦を演じた末に、後味の悪い敗北に終わったことも記憶に新しい。 そういったことを考えると、共和党候補との最終決戦で、確実に勝てる候補のほうを選ぶという判断がはたらいたのかもしれない。 はたして女性大統領と、父親がケニア人である大統領と、どっちのほうが社会全体の一般的な抵抗感が強いのか、ここんとこはアメリカ人の友人などひとりもいないので、ちょっと判らない。 黒人の重要閣僚といえば、ブッシュ政権下ではパウエルとライスの国務長官が二代続いている。 ライスは女性でもあるわけで、女性としてはクリントン時代のオルブライトに続く二人目なのだそうだ。つまり、女性国務長官も二人ならば、黒人の国務長官も二人でどっこいどっこいというわけだ。 国務長官というのは、大統領になにかあった場合の代役として、副大統領、下院議長、上院仮議長に次ぐ四番目の地位にある。ただし、就任には上院による承認が必要ではあるものの、選挙で選ばれるわけではないからあまり参考にはならない。 ざざっと調べてみたら、三ヶ月前にあった南部のルイジアナ州知事選挙で、インド系移民の二世であるボビー・ジンダルという人が、共和党から立候補して当選している。一方、女性州知事というのは、80年以上も前にワイオミング州で誕生して以来、すでに何人もいるらしい。 しかし、ヒラリーが民主党の候補に選ばれると、ブッシュ親子とクリントン夫妻だけで、世界唯一の超大国の政権を、ほぼ四半世紀にわたって独占する可能性が出てくるわけで、これはこれで抵抗感がありそうな気もする。 なにしろ、桂園時代といわれた、明治末から大正初期にかけた桂太郎と西園寺公望による政権たらいまわしだって、わずか10年にも満たぬのである。 どうも、いろいろと不確定な要因が多すぎる。やっぱり、下手な予想などしないほうがよかったかもしれない。
2008.01.09
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民主党の大統領予備選挙では、どうやらオバマ候補が優勢のようである。テレビで、ニューハンプシャー州の党員集会での討論の様子が映されていたが、どう見ても、ヒラリー候補の発言や顔つきには余裕が感じられなかった。実際、ここへきて両者の差はしだいに開きつつあるようだ。そのうえ、テレビでああいう醜態を、わずかとはいえ見せてしまったことは、ヒラリーにとって、今後に致命的な影響を与える恐れもある。 今回の選挙が注目を浴びている理由のひとつは、いうまでもなくヒラリーが勝っても、オバマが勝っても、初物の大統領が誕生する可能性があることである。つまり、ヒラリーが勝てば初の女性大統領が、オバマが勝てば初の黒人系大統領が、それぞれ誕生する可能性があるというわけだ。 たしかに、ヒラリー候補が女性であることは間違いない。なにしろ、ビル・クリントン元大統領の夫人であり、二人の間にはチェルシーという娘さんもいるわけだから。しかし、オバマ候補の方は、どうもそう単純ではないようだ。 話によると、オバマ候補はケニア出身の父親とカンザス出身のスウェーデン系の母親との間に生れ、幼い頃に両親が離婚してからは、母親の一家とハワイで育ったそうだ。ならば、彼は黒人の血と白人の血を同等に引いているわけだから、彼を 「黒人系」 と呼ぶのなら、論理的に言う限り、それと同等の権利をもって、「白人系」 と呼ぶこともできるはずである。だが、そういうふうに言っている人は、一人もいない。それは、なぜなのか。 いささか、けち付けというか、こじつけのように聞こえるかもしれないが、そういうわけではない。確かに彼の肌は褐色を帯びていて、容貌も白人よりも黒人に近いように見える。また、彼自身、自分を 「アフリカン・アメリカン」 と規定しているそうで、そのことをどうこういうつもりもない。 いずれにしても、明確に黒人の血を引いていることは間違いないのだから、その意味では 「初物」 であることも間違いない 。ただし、上述のように、彼はアメリカに多い、いわゆる 「黒人奴隷」 の子孫ではない。そのことには、アメリカの歴史が抱える 「良心の疼き」 を刺激しないという利点があるのかもしれない。 たとえば、先住民であるインディオと白人植民者、それにアフリカから連れてこられてきた黒人という三種類の 「人種」 が混在するラテンアメリカでは、白人とインディオの混血はメスチソといい、白人と黒人の混血はムラート、インディオと黒人の混血はサンボというそうだ。 それだけではない。白人と黒人の到来からは、すでに数百年も経過しているのだから、現実はもっとややこしいものであり、そういったややこしさを表す、もっとややこしい分類まで存在しているらしい。つまり、歴史的に言う限り、そこではだれがどの 「人種」 の血をどれだけ引いているかが、厳しい社会的評価の対象とされてきたというわけだろう。 また、非人道的なユダヤ人弾圧を行ったナチス・ドイツでは、その政策を進めるにあたって、祖父母4人のうち、一人でもユダヤ人がいればそいつはユダヤ人だというように定義していたそうだ。つまり、そこでは非ユダヤ人である3人の祖父母よりも、ユダヤ人であるたった1人の祖父母の存在のほうが重視されていたわけだ (もっとも、同様の困難は戦後のイスラエル建国のさいにも生じ、結局、皮肉にも似たような 「定義」 が行われることになったらしい)。 一般に、支配的なマジョリティと、被支配的マイノリティが混住する社会で、マジョリティとマイノリティの混血が進んだ場合、社会では、彼や彼女が受け継いでいるマジョリティの血よりも、たとえわずかでも 「混ざって」 いるマイノリティの血のほうが重要視される 。 その結果、彼らは社会的な意味で、マジョリティの側ではなく、マイノリティの側に分類されることになる。これは、世界中どこの地域をとっても、まず間違いなく同じである。もっとも、ラテンアメリカのように、かつての 「植民地」 帝国の名残がいまだ強い地域では、マイノリティとマジョリティの支配関係が逆になることもあるが、基本的な力学は同じことだ。 幼い頃に両親が離婚したあと、白人である母親とその家族のもとで育ち、黒人である父親の記憶はほとんどないというオバマ候補が、それもかかわらず、自らを 「アフリカン・アメリカン」 と規定するようになったということの背景に、そのような社会的視線だとかの存在を想像することは、おそらく間違いではないだろう。 むろん、そのような彼の出自と経歴が、多様な民族的出自を持つ人々が混住する中、8年間のブッシュ政権のもとで、社会を大きく分断した「緊張状態」 が続いたアメリカの人々にとって、「アメリカには黒人も白人もラティーノもアジア人もない。われわれは皆、星条旗とアメリカに忠誠を誓った一つのアメリカ国民だ」 という彼の言葉を、うわべだけのきれいごとではない、誠実味を帯びたものとして感じさせている要因になっていることも、確かなことではあるだろう。http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20081106
2008.01.08
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うろ覚えの話だが、その昔、レーニンがトロツキーに、冗談半分でこうささやいたことがある。 「おれは病気になったら、絶対に党の医者には診てもらわないよ。やつらはやぶ医者ばかりだからね」 さすが、夢想家であると同時に、リアリストでもあったレーニンである。党と革命の理念に忠実かどうかということと、医者としての腕の問題とは別のことであることをちゃんと見抜いていた (あたりまえか)。 たぶん、普通の皆さんだって、自分が病気にかかったときに、人はいいけど腕はだめな医者と、人は悪いけど腕は確かな医者と、どっちを選ぶかと聞かれたら、後者を選ぶだろう。いくら人柄がよくったって、腕の悪い藪医者に診てもらいたいなどという酔狂な人はいまい。 世の中には、それとこれとは別の問題だよ、ということがいくらでもある。人柄はいいけど腕は悪いという医者を、あの人は藪だからね、といったからといって、それは別にその医者の人格まで批判しているわけではない。ところが、このような、それとこれとは別の問題だよ、ということを、つねに意識しておくことは、残念ながらそう簡単ではない。 とくに、ある人のことを盲目的に崇拝しているような人などの場合、その人のことを少しでも批判されると、すぐに理性を失い、頭に血が上ってしまって、あなたはあの人のことを判っていないとか、一部だけ取り上げて批判するのはおかしいなどと、むきになって言い出すのだ。 しかし、その人の人格とか、その人の意見の全体がどうであれ、そこに間違いがあれば批判されるのは当然のことである。その人が、どんなに正義感にあふれた優れた人格者であっても、間違った評価や判断を下すことは、世の中にはいくらでもある。 その点を批判した人に対して、全体を見ろだとか、大筋で一致しているのだから批判するな、仲間割れみたいなことをするな、などというのはこれまたおかしな話である。間違いがあれば、それを見つけた人が批判するのは当然のことにすぎない。 まして、URLを記載して批判した相手に対して、 「悪意」 を持っているなどと言い出すのは、勘違いもはなはだしい。あくまで自分に理があると思うるのなら、「公平なご紹介、ありがとうございました」 とでも言っておけばすむことだろう。それに、そうやって相手に、ありもしない悪意をかぎとる人間は、そのうち自らが 「悪意」 を発するようになるものなのである。 これが医者の腕とか、科学者としての力量とかいうことだと、基準が比較的はっきりしているので、わりと判りやすい。しかし、社会的な問題や政治的な問題のように、そもそも基準が明確でない場合、どうしても人は自分が尊敬する人や、崇拝する人の考えを盲目的に受け入れたり、親しい人や仲間内のほうを庇いがちになる。 しかし、そのような態度というものは、ようするにひいきの引き倒しにすぎない。仲間内だから批判はやめましょうなんて言葉ほど、馬鹿げたものはあるまい。 批判を封じるための 「大同小異」 論など、くそくらえである。そんなことで作り上げた 「団結」 など、どうせ屁のようなものである。 もっとも、こういうことは昔からあることで、いまに始まったことではないのだけどね。
2008.01.07
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つらつらと考えるに、現代の科学・技術は非常に発展していて、そのため一般の人間にはなかなか理解しにくいところがある。たとえば、相対性理論による 「浦島効果」 だとか、量子力学による測定結果に対する測定の影響だとかいう話になると、われわれ一般の人間にはまったくちんぷんかんぷんである。 たとえば、私はいまこうやってキーボードをカシャカシャ叩いているわけだが、それがなぜ漢字だのひらがなだのといった文字となってモニター画面に現れ、さらにはブログ記事として表示され、多くの人々の目に留まることになるのか、正直言ってまったく分からない。 技術というもののよいところは、そのように、技術の基盤となっている科学的な原理というものが全然分からなくても、とりあえず使い方さえ覚えれば、だれにでも同じように使えるというところにある。そういうわけで、一般大衆の皆さんは、「なんでだろー、なんでだろー」 などと、難しいことに頭を悩ませる必要もなしに、日々ケータイやパソコンを操作し、テレビやビデオのリモコンを操作しているわけである。 これはむろん、ありがたい道具を発明し、難しい原理など分からない科学音痴の一般の人間にも使えるように工夫していただいた、科学者や技術者のおかげなのであるから、深く感謝しなければならないことである。 このような現象には、だいぶ昔に女権拡張論者の顰蹙を買ったCMの言葉をちょっと借りれば、「あなた作る人・わたし使う人」 といった、非対称的な関係がある。極端な話をすれば、多少知能が発達し、おまけに手先が器用なチンパンジーとかであれば、テレビのリモコンを操作して、見たい番組に切り替えるぐらいのことはじゅうぶんに可能なのである。 ところで、なんでも世の中には、「水からの伝言」 というお話があるそうである。この話を学校でとくとくと生徒にし、それってちょっと問題ありじゃねー、と父兄とかから指摘されると、「科学的に証明されてはいません」 という断りをつけて、謝罪をしたつもりの教師もいるという話である。 おいおい、ちょっと待てよ。それってどこかおかしくないかい。科学って、いちいちそんなことまで実験して、ありうるかありえないか、証明しなくちゃいけないのかい。 言うまでもないことだが、音声としての人間の言葉にしても、文字にしても、それ自体に意味なんかあるはずはない。水の結晶が人間の言葉の意味に反応するというのなら、少なくとも水には、人間が発した音声を単なる空気の振動としてではなく、日本語という言語規範にもとづいた表現として理解するという能力がなければならない。 たとえば惑星ソラリスの海ならば、人間の思念を探り出し、それに合わせた形象を作り出すことができるのかもしれない。ソラリスの海がどのような化学的組成でできているのかは知らないが、それと同じようなことが、水素と酸素という単純な原子が2対1で結合したにすぎない、ただの水に可能なのだろうか。 ようするに、こういう問題は、そもそも科学的に証明されているとか、いないとかいう以前の問題なのであり、それこそありえない話なのである。そこのところで、「科学的には証明されていません」 なんて断り書きをつけるのは、それこそ、問題のありかをぜんぜん理解していないことを示した、二度びっくりのおかしな話というべきだろう。 なにも、科学が万能だのといったことが言いたいわけではない。だが、そういうことを言っている人を見ると、なんじゃらほいという感じがしてならない。そもそも、「水伝」 の話など、相対性理論だの量子力学だのといった超難解な話でもない。そんなことがありえるかどうかなんてことは、いちいち科学的な実験などする必要もないことだし、世の中の科学者の皆さんだって、そんな仮説の検証をするほどひまでもないだろう。 思いっきり文系の人間が口を出すのもなんであるが、科学的な仮説というものは、いくら仮説だからといっても、なんでもありというわけではないだろう。世の中の2つの現象をテキトーに取り出して、その関係をいちいち実験で検証しなければ、ありうるか、ありえないか、なにも論じられないというのなら、そもそも人間の論理的で抽象的な思考能力など、いらないというのと同じである。 近代科学の成立というと、たとえばベーコンによる 「帰納法論理」 であるとか、ガリレオによる実験の利用だとかいったことがあげられる。たしかに、そうだろうが、そのような 「科学的手法」 だとて、ある日突然に成立したわけではない。 その基盤には、長い歴史の中で鍛えられてきた哲学や論理学というものがある。科学的方法論というのも、そのような思考を基盤にしているのだから、ただの思い付きではない、科学的仮説というならば、最低限の論理的な可能性ぐらいは、備えていなければなるまい。 これはどうも、しばしば、科学の方法論というものが、2つの現象を比較して、その間の 「関数的関係」 を探るという、中身抜きの機能主義に切り縮められ、その結果、「仮説」 とその 「検証」 という形式的な手続き論のみが科学であるかのように矮小化されて、理解されていることにも原因があるように思える。 現代の技術には、 「原因」 と 「結果」 をつなぐ連鎖があまりに複雑になりすぎたためか、素人にとっては、中身の見えないブラックボックス化しているところがある。 かつて、ナチの暴力を目の当たりにしたアドルノとホルクハイマーは、文明が野蛮に退行するという現象を 「啓蒙の弁証法」 という言葉で表現したが、いまや大部分の現代人にとって、科学技術というものは、なにやら昔の人が畏怖すると同時に、憧れもした、呪文を唱えさえすればなんでもかなうという、 「魔術」 と大差ないものに退行しているのかもしれない。
2008.01.05
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新年になったばかりであるが、正月に相応しい話題というものがない。なにしろ、年末も年始も仕事漬けで、おまけにお年玉をくれる人もあげる相手もいないのだから、正月といわれてもちっともぴんと来ないのだ。 さて、昨年の国会で民主党の山根議員がUFOについて質問し、UFOの存在は確認されていない、という政府見解が発表されたことや、石破防衛大臣や町村官房長官のUFOの存在を擁護する(?)発言が報道されたことは、まだまだ記憶に新しい。 ところで、この山根隆治という民主党の参議院議員、UFO論議に関してはなかなかのつわものらしい。調べてみたら、三年前にも当時の麻生外務大臣に対して同じような質問をしていた。 第162回国会 総務委員会 平成十七年三月十日(木曜日)山根隆治君: 雲をつかむような話のついでといってはなんですけれども、UFOの問題について少し聞いてみたいと思います。 国会では今までUFOを取り上げられたことがないということのようでありますけれども、未確認の飛行物体ということでございますけれども、大臣はUFOを見たことございますか。国務大臣(麻生太郎君): おふくろは見たといってえらい興奮して帰ってきたのがありますけれども、残念ながら私自身は見たことはありません。山根隆治君: 私もよく深夜散歩することが多いものですから、そのたびに空見て、深夜というのは、犬の散歩というのは私の日課でございますので、何があっても散歩しなくてはいけないと、犬を連れての散歩ですね。何かちょっと、事件がちょっとあったようですから、それとの絡みで思われては困りますが。空を見て、UFOを見てみたいものだなというふうにいつも思っているんです。一度も私、見たことがないんです。・・・ そういうことからすると、UFOが度々もう飛来、世界じゅうに飛来している、しょっちゅうそれはテレビで、先日も私、一週間ほど前テレビでまた見ましたけれども、これについて全く無関心でいるというわけにはいかない。それはやはり政治家として国民の生命、財産というものをどう守るかということもありますし、防衛上の問題もある。 いやはやである。山根議員、おふくろどのがUFOを見たということで、麻生氏にちょっとジェラシーを感じているようだ。 それはともかく、フロイトと並ぶ心理学者の横綱に、ユングという人がいる。彼は自伝の中で、フロイトと話をしていたさいに本箱の中の大きな音がし、また起きると予言したら、実際にそのとおりになったという話を書いていたり、「超心理学」 に関心を示したりで、いささかオカルトっぽいイメージもあるが、UFOについては 『空飛ぶ円盤』(1958) の中で、次のように言っている。 UFO伝説のように世界中いたるところで聞かれる風説が、単なる偶然で、なんの意味もないとは考えられない。何千という目撃者があるからには、やはりそれ相応に広く根を張った根拠があるはずである。この種の証言がいたるところに認められる以上、やはりそれだけの理由があるとみなさざるを得ない。 幻視の噂は、もとよりなんらかの外的な状況によって引き起こされるか、外的な状況を伴っていることであろうが、本質的には、広範囲に存在する情緒的基盤の上に成り立っている。この場合は、現代の一般的な心理状況がそれであろう。この種の噂の基盤は情動的な緊張であって、緊張の原因は集団的な急迫や危険か、もしくは魂の死活にかかわる欲求である。 全世界がソ連の政治圧力のもとにあって、その予想もつかない成り行きにおびえている今日の状況は、この条件に充分かなっている。個人の場合でも、異常な思い込みや、幻視や錯覚などの現象が起こるのは、心理的分裂、すなわち意識の態度と無意識内容とが対立して、両者に分裂が生じるときに限る。 かのオーソン・ウェルズが、H.G.ウェルズの 『宇宙戦争』 を原作としたラジオドラマを放送し、そのあまりの緊迫したリアルな内容に、多くの聴取者がフィクションを真実と思い込んでパニックを起こしたという話は有名だが、この 「事件」 が起きたのは、ミュンヘン会談や、その後のナチスによるチェコの一部併合など、第三帝国の興隆によって、世界中が緊張状態にあった時期である。 一方、上で引用したユングの著書は、スターリンが死去してフルシチョフに代替わりし、「雪解け」 というような時期もあったものの、「ハンガリー動乱」 の勃発など、米ソの緊張状態がまだまだ激しかった時期に書かれている。 さすがに、昨年の国会でのUFO論議と、それを受けた閣僚の脳天気な発言には、あきれた人たちが多かったようだ。しかし、昨今の 「陰謀論」 ブームや、わけの分からぬ 「スピリチュアル」 ブームは、いったいなにを意味するのだろうか。 むろん、おかしな話は昔からあり、そのようなものに引っかかる人も昔からいるわけではある。だが、これはこれで、なかなか興味深いところである。もっとも、さすがに前世紀に一世を風靡した、かの 「ノストラダムスの大予言」 は、すっかり信用をなくしたようだが。
2008.01.04
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スタンリー・ミルグラム (1933 - 1984) というアメリカ人の心理学者がいる。彼の名前を最も有名にしているのは、「アイヒマン実験」 とも呼ばれる、「権威への服従」 に関する実験だろう。 この実験は、イスラエルで行われたアイヒマン裁判を受けて、なぜ彼のような一見平凡な人間が、「ユダヤ人虐殺」 のような非人道的行為をなしえたのかを、心理学の面から明らかにしたものである。 実験は、「生徒役」 を演じる役者と、そのことを知らされていない一般から募集された 「教師役」によって行われた。「生徒」 と 「教師」 は別室に分けられて、「生徒」 の声だけが、インターフォンによって 「教師」 には聞こえるようになっている。 「教師」 の質問に対して 「生徒」 が答を間違えると、「教師」 は罰として電流を流すボタン (実はうそ) を押すように設定され、さらに 「生徒」 が回答を間違えるたびに、強い電流を流すように 「教師」 には指示されており、一方 「生徒」 のほうには苦悶の声や叫びをあげるように指示されている。 実験の結果は暗澹たるものだった。途中でやめた者もいたそうだが、ほとんどはいっさい責任を負わないということを確認したうえで実験を継続し、中には、電流を流した後、生徒役の絶叫が響き渡ると、ひきつった笑い声を出すものもいたということだ。 この実験では、人間は自己の行為になんらかの 「正当性」 という根拠が与えられていて、自己の責任を解除されている場合、どこまで残酷になれるかが示されている。そのような 「残酷さ」 を可能にする根拠は、実社会ならば、たとえば、法律や規則、上司の命令、ビジネス上の必要性など、いくらでもある。 以前、内田樹さんがブログで、お師匠さんのレヴィナスについて触れながら、次のようなことを書いていた。システムが正義や理性を体現することがあってはならないし、そのようなシステムを構築しようと望んでもならない。というのは、もしそれが可能であったとしたら、それが完成したあと、もう個人にはする仕事がなくなってしまうからである。個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを 「道徳的な社会」 と言うことができるであろうか。レヴィナス先生、こんにちは ここで内田さんが言っている、「正義と理性のシステム」 とは、システムがすべての責任を負い、その結果、具体的な個々の人間は、その行為についていっさいの責任を解除された社会と言うことができるだろう。それは、言い換えれば、あらゆる人が 「アイヒマン」 になりうる社会と言ってもいい。 むろん、現実的には、そのようなシステムを構築することは不可能だ。システムを構成するのも人間である以上、そのような 「無関心」 な個人で構成されたシステムが、完全なシステムになりうるはずはない。 しかし、「ソビエト型社会主義」 のような、国家と唯一の党が社会のあらゆる領域に介入し、管理する社会とは、理論的にはそういうものであり、そこでは、匿名の顔を持たない党と国家がすべての責任を負うのだから、個人はいっさいの責任を負わなくともよいということになる。 だが、そこまでいかなくとも、国家と行政装置、社会システムが極度に肥大した、現代の社会には、多かれ少なかれ、そのような側面がある。「食品偽装」 問題でもそうだが、人々は、あらゆる問題について行政の介入を求め、些細なことについてまで行政の責任を追及する。 その結果、システムはますます肥大化し、屋上屋を重ねるような規制が設けられて、社会はますます窮屈になってゆく。むろん、世の中はいわゆる 「自己責任論」 で片付く問題ばかりではないし、政治には負って貰わなければならない責任もある。ただ、いまさら 「夜警国家」 に戻ることは不可能にしても、ここには考えるべきことがあるように思う。 さて、彼の名を有名にしているもうひとつの実験は、「スモールワールド問題」 と呼ばれていて、世間が実はいかに狭いかということを立証した実験である。 こちらの実験では、ある人からその人にとってまったく面識のないある人まで、友人の友人の友人というようにたどっていくとして、いったいどのくらいでメッセージが届くかが調査された。その結果、だいたい6人から7人め程度で、メッセージは無事に最終的な宛先まで到達したそうだ。 たとえば、各自がお互いに重ならない友人を20人持っているとすると、その人数は6人目では、20の6乗、つまりえーと、64,000,000人ということになる。30人なら、30の6乗、つまり729,000,000人である、 おおー。 ということは、いまネットでやりとりしている未知の方々も、ひょっとして「友人の友人の友人の・・・友人」 である可能性が大きいということだ、 うむむである。 以前、鳩山邦夫法務大臣は 「友人の友人にアルカイダがいる」 という発言で物議をかもしたが、一般の人間でも、ひょっとすると 「友人の友人の友人の・・・・友人」 ぐらいには、アルカイダがいるのかもしれない。
2008.01.02
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今朝は、いちじ雪が降った。もっとも、太郎の屋根や次郎の屋根に積もるほどではなかったが。 昨夜は、窓の下でずっと猫がにゃーにゃーと泣いていたが、今朝は声がしない。だれか優しい人にでもひろわれて、あったかいこたつの中で丸くなっているのだろうか。ちらっと見た感じでは、やや肥満したブタ猫ふうの三毛であったが。 正月と言えば、やっぱりこの歌である 正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休禅師 一休さんといえば、以前はあきるほど何度もくりかえしアニメが再放送されていたものだが、最近はさすがに見なくなった。一休については、評論家の加藤周一が、彼の想い人の回想という形式で、 「狂雲森春雨」 という短編を書いている。 ちなみに、Google でひいてみると、これを小林一茶の俳句と勘違いしている人が結構いた。これは五・七・五で終わる俳句ではなく、七・七の下の句がついているから短歌なのである。 といっても、人のことはいえない。 実はGoogleで確認のためにひいてみるまで、上の句しか思い浮かばず、自分も一茶の句だと思い込んでいたのだから。 一茶の句といえばこっちのほうだ。 めでたさも中くらいなり おらが春 さてさて、平成の御世もついに20年めを迎えたということで、昭和もいよいよ遠くなっていくようである。 昨夜は除夜の鐘を聞くのを忘れた。おかげで、煩悩は去年から持ち越したままのようだ。追記:さらに調べてみると、上の歌は 「門松は ~ 」 という形で引用されている例もあった。おまけに、そもそもの出典がはっきりしないらしく、一休本人の作ではなく、一休と親交のあった遊女から一休に送られたという説や、「一里塚」 という言葉が使われていることから、室町ではなく、江戸時代の誰かの作だという説もあるらしい。今のところ、これ以上は分からない。
2008.01.01
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