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最近、pokopnにっきというところのしりとりにはまっている。仕事中も、いろいろ言葉が浮かんできて仕事にならない。というのは大げさだが、つぎつぎ投稿すると、前の人のが隠れてしまうので、いささか気が引ける。そこで、投稿しそこなった、「め」 で始まり 「め」 で終わる 「め」 のループ編を自分のところで披露することにする。ルールはひらがなで10文字以内。解説も付けます。 めんたいことおまめ とくに意味はありません めんでれえふはこまめ そういうロシア人がたぶんいるでしょう めんつゆはあまからめ 信長にまずいといわれた料理人もそうしたそうです めだまおやじはすがめ これも、とくに意味はありません めんちかつはこがしめ 揚げ物は少し焦がしたほうが香ばしさが増します めんをねらえばかちめ むかし、剣道をやってました。へっぽこですが めだかのこはぐるめ 本当かどうかは保証しません めんでるすぞんでしめ 音楽会の最後はメンデルスゾーンの曲で めにいれていたいめ 孫は目に入れても痛くないと言いますがどうでしょう めんちきるのはやばめ 相手かまわずメンチ切るのはやめましょう ああ、やっとすっきりした。『徒然草』 で有名な、かの兼好法師さまも 「物言わぬは腹ふくるるわざなり」 と仰ってますから。 というわけで、本題に入ることにする。本題は、ネットでの 「批判」 という行為についてである。このことについては、すでに何度か採り上げているが、まだまだ言い足りない気がするのだ。 そもそも 「批判」 とは、なにも一部で言われているような、無理やりな 「強固な団結と一致」 とやらを目的にしているわけではない。そのように言っている人は、そもそもの前提からして勘違いしている。 むろん、議論の結果一致できるなら、それはそれでよい。しかし、批判の目的は、1つは物事の理非を明らかにすることであり、次に、自分の立場を明らかにすると同時に、互いの違いを明らかにすることである。 たとえば、批判を行う人らに対して、「大人の対応」 だとか 「清濁併せ呑む」 といった言葉を持ち出す人がいる。なんだか、日本人の好きな聞こえのいい言葉である。たしかに、「リアルでの運動」 であれば、現実的な対応は必要だろう。だが、そんなことは分かりきった話である。誰でも知っている程度のことをしたり顔で言う人を見ると、こちらのほうが恥ずかしくなる。 たしかに、ネット上での議論は、「リアルでの運動」 とは違う。だが、むしろネットの世界はバーチャルであればこそ、リアルな世界では顧慮せざるを得ない、ややこしい人間関係や政治的配慮などの必要なく、純粋に言論活動が行える。 互いに縁のない同士であるネットでの議論に意味があるとすれば、まさにそこにこそあるだろう。そこで、「リアルでの運動」 そのままの流儀を持ち出す人がいるとすれば、それこそが筋違いな話である。それでは、せっかくのネットの意味がなかろう。 むろん、「リアルな運動」 を行っているという人が、自分はネットよりもそちらのほうを重視するというのは構わない。ネットでの言論に直接にそれほどの力があるとは、誰も思っていない。しかし、だからといって、ネットでの言論が無意味だということにはなるまい。 問題は、そこで自分がなにを学び、なにを身に付けるかだろう。「リアルな運動」 が大事だからといって、ただ近視眼的に、目の前のことばかり追っていてもしかたないのではないのか。 ネットでの言論といえど、そこで議論しているのはあくまで生身の人間である。物事の優先順位はともかくとして、そこで徹底して考え抜くことを 「リアルな運動」 を口実にして回避するような人らに、はたしてどれだけの 「リアルでの運動」 が務まるというのだろうか。それは、非常に疑問である。 それに、どんな 「リアルでの運動」 であれ、一定の主義主張に基づくものであれば、なんでもかんでも 「清濁併せ呑む」 というわけにはいくまい。どこかで線を引かざるを得ないのも、これまた自明のことだろう。であれば、そのような詰まらぬ言葉など、安易に持ち出すべきではない。 たしかに、他人への批判をするしないは、その人の自由である。人間の持てる時間は限られているのだから、それをどう使うかも個人の自由である。だが、そのことは、間違ったことを言っている者への 「批判」 を控えることが 「大人の対応」 であるということは意味しないし、間違いに対して批判をする人は 「子供っぽい」 ということにもならない。それは、ただの屁理屈である。 他人への批判であれ、批評であれ、人は良くも悪くも自分の尺度でしかものを言えない。そこで、顕わになるのは、その人が持っている尺度の是非であり、その人の甲羅の形と大きさということになるだろう。その意味で、批判や反論をするということは、どんな場合にも、おのれを他人の前にさらけ出すことを意味する。 「自分を棚に上げた批判」 をする人は、まさにその人がそのような人であることを暴露しているのだし、頓珍漢な批判をする人は、それによって、その能力の程度を示すことになる。くだらぬ嘲笑や罵倒しかできぬ人は、それによって自らがその程度の者であることを表明しているのだし、知ったかぶりや揚げ足取りばかりをする人は、それによって自らがそのようなくだらぬことしかできない人間であることを暴露していることになる。 だから、批判という行為によって明らかになるのは、対象と同時に、批判をする者自身でもある。自己というものは、なにも気恥ずかしい 「内面の吐露」 や演技めいた 「告白」 によってしか、顕わにならないわけではない。言葉というものには、すべてその人の人となりが表されるのであり、言葉を発するという行為は、すべてそのようなものである。 それに比べると、ことさらに 「大人の対応」 というような言葉を持ち出して、批判や論争に対し超然たるふうを装う人らは、むしろ、そのような議論を通じて、おのれの姿がたまねぎの皮を剥くようにしだいに顕わになることを怖れているだけのように見える。そういう言葉を盾にした超然たる態度には、なにかしら、あの阿Qの弁解や池乃めだかのギャグじみたところがある。 そのような、いささか強がりじみた言葉で議論を回避する人と比べれば、たとえ 「勘違い」 や 「誤解」、「誤読」 にみちた頓珍漢な批判であっても、敢然として批判や反論をする人のほうが、むしろ私は好きである。そこには、少なくとも自らを他人の視線にさらすことへの勇気と、反論を受けることへの覚悟がある。 「緩やかな連帯」 を口にするのはよい。だが、だからといって、それはなにも互いの違いを曖昧にしておかなければ成立しないというものでもあるまい。そもそも、互いの違いを明確にしては成り立たないというのであれば、それは 「緩やかな連帯」 でもなんでもない。 なんとはなしに曖昧なまま 「連帯」 しているつもりで、ある日突然、気がついてみたら、お互いの考えていることが全然違っていたなんてことも、その手の世界ではわりとよくある話だ。そのときになって、慌てふためいてもしかたないのではないのか。追記(8/30): たとえば、円柱を上から見た人は、それを円だと言うだろう。いっぽう、横から見た人は、それを四角だと言うだろう。その相違は視角の違いだけであって、そこに真の意味での対立はない。だからこそ…事実というものは多面的に検証され、共有されなければならない。それによって、人は「真実」を共有することができる。 (参照) まったく、そのとおりである。そのような立場の違いによる見え方の違いは、互いに共有しあうことで、当初の一面的で平面的な見方から、多面的で立体的な見方へと統合され、結果として、対象に対する理解もそれだけ深まるだろう。 だが、その場合にも必要なのは、徹底したお互いの議論である。 「私には、こう見えます。でも、あなたにはそう見えるのですね。ものの見方というものは人それぞれですね」 というような言葉で議論を回避していたのでは、お互いの理解を一つに総合し共有することもできはしまい。
2008.08.26
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天気図を見ると、すでにオホーツク海気団が列島の北端を覆っており、季節は秋に入ろうとしている。秋が来たと目にははっきりしていないが、風の音には驚いてしまう今日この頃である。もっとも、毎年毎年気をつけているわけではないので、これが例年に比べて早いのか、遅いのか、それとも普通のことなのかは分からない。 ところで、別に最近というわけでもないが、ネット上では、しばしば 「私は少数派だ」 とか、「おれは一匹狼だ」 とか、ことさらに言い立てている人を見かける。そういう人らを見るたびに、なにか、ちょっと不思議な気がする。 歴史を振り返ると、たとえば、性的志向に関しては 「少数派」 に属する人の中にも、しばしば権力志向が非常に強い人がいる。「長いナイフの夜」 と呼ばれるナチス内部の粛清で殺された、突撃隊の隊長だったレームなどはその典型だろう。もっとも、彼らの場合は、その男色趣味がそもそもマッチョという性格を帯びていたというべきだろうが。 世の中、「多数派」 であることが別に偉いわけでもないように、「少数派」 であることに特別な価値があるわけでもない。ことさらな 「少数派」 気取りが、「私はあんたたちとは違うのよ、一緒にしないでちょうだい」 といった単なる 「エリート意識」 や、他者との 「差別化」 指向、あるいはたただのナルシズムの表れでしかないことは別に珍しいことでもない。 そもそも 「少数派」 か 「多数派」 かを分ける軸など、世の中にはいくらでもある。食の好みに関しては 「少数派」 だけど、音楽の好みに関しては 「多数派」 だという人もいるだろう。どっちが多数でどっちが少数なのかは知らないが、作家では村上龍より村上春樹のほうが好きで、でも、歌では宇多田ヒカルより浜崎あゆみのほうが好きだという人もいるだろう。 むろんそういう嗜好は、すべてが互いにまったく無関係とは限らず、一定の相関性というものもないではない。とはいえ、どんなくくり方をしようと、それで、個人の全体を捉えることなど不可能な話だ。その軽重はたしかにいろいろだが、「少数派」 か 「多数派」 かの区別など、しょせんその程度のことである。 民族問題を例にとれば、たとえばセルビアは今の国際社会では 「少数派」 である。しかし、セルビア国内ではセルビア人は圧倒的な 「多数派」 である。とはいえ、コソボだけを見れば、今度は圧倒的な 「少数派」 である。結局、そのようなマジョリティ・マイノリティの区別などは、せいぜい枠の取り方の問題でしかない。 人はみなそれぞれ違うのは当たり前のことであり、それはわざわざ、「私はあなたたちとは違うのです」 などと、大声でアピールするほどのことでもない。そもそもそうやって、ことさらにアピールしようという身振りが、すでに今の社会においてはごくありふれた 「多数派」 の行動様式でしかない。 それに 「少数派」 を自称しながら、そのグループの中では恥ずかしげもなく 「多数派」 然として振舞っている人らも、世の中には珍しくない。「少数派」 だ、「多数派」 だなんて区別は、たいていの場合、そんなものである。群れたがる 「少数派」 なんてものは、なにかの拍子で 「多数」 になれば、間違いなく、今の 「多数派」 とまったく同じ行動をするようになるだろう。 たしかに、世の中には、何事につけ多数派に与したいという者もいるかもしれない。なにも戦後直後のような物資不足の時代でもないのに、列があればとりあえず並んでみたくなるとか、選挙になれば優勢と噂されている 「勝ち馬」 のほうに必ず投票するとか、大勢でなにか騒いでいたら、なんでもいいから一緒に騒いでみたくなるとか。 むろん、野次馬根性は誰にでもあるものである。夜の通りを疾走するパトカーや消防車のサイレンには、人の心をざわめかせるものがあり、子供ならずとも、ついていきたくなる。近くで煙があがっていたりしたら、箸を置いてでも駆けつけたくなる。しかし、これはもう本能みたいなものだろうから、しかたあるまい。 だが、たいていの人間は、一つや二つぐらい、これだけは譲れないという 「こだわり」 というものを持っている。その限りでは、誰しもが、どこかで 「少数派」 でありうる。しかし、そんなことはありふれているのだから、そう考えれば、別にことさらに 「少数派」 なわけでもない。 漱石の 『門』 は 『それから』 の続編のようなものだが、そこに出てくる昔の親友から妻を奪った宗助は、その負い目から、「ひさしに迫るような勾配の崖」 の下の家で、妻のお米と世間の目を避けるようにしてひっそりと暮らしている。 暴露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこに炎に似た焼印を受けた。そうして無形の鎖でつながれたまま、手を携えてどこまでも、一緒に歩調をともにしなければならないことを見いだした。 彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく言えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からはむろん棄てられた。ただ表向きだけはこちらから退学したことになって、形式の上に人間らしいあとを留めた。 漱石は、二人をそういうふうに描いている。どこにも属せないという疎外感を抱えた本当の少数者は、たぶんいつの時代でも、そういうふうに、社会のすみっこで 「小さく」 生きているものだろう。 たしかに、人はみなそれぞれ違うものだ。とはいえ、たいていの人間は、自分が思っているほど、他人と違っているわけでもないし、その逆もまた然りである。「井の中の蛙、大海を知らず」 という諺もあるが、他人との違いなんてものは、多くの場合、その程度のものである。 天才といわれたアインシュタインだって、難解な相対性理論を発表したことを除けば、ちょっとばかり変わったおじさんというだけのことだろう。むろん、あったことも話したこともないけれど。
2008.08.23
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先日、なんとはなしに youtube を見ていたら、レニー・リーフェンシュタールの記録映画 『意思の勝利』 と 『民族の祭典』 の画像を見つけた。 前者は1934年のナチのニュルンベルク党大会を映したものであり、後者は1936年のベルリンオリンピックを記録したものである。ヒトラーと個人的にも親しかった建築家のシュペーアが設計した古代ギリシア様式の党大会場に、鉤十字の巨大な幟が林立する光景は、本当にこれが20世紀なのかというような異様な光景である。 どちらの映画にも、ちょびひげの伍長の姿が映っている。軽く右手をあげて観衆の歓呼に応じるその姿は、チャプリン演じる独裁者にそっくりだが(いや、反対だ、チャプリンがヒトラーを真似したのだった)、背格好もどちらかといえば貧相であって、どう見てもカリスマ性のある人物とも思えない。ただし、彼の演説には、たしかに聞く者の興奮を高める力があるようだ(もっとも、なにを言っているのかはさっぱり分からない)。 どの映像で見ても、ヒトラーの姿にはいつもどこかに神経質そうな気配が漂っており、傍らで悠然としている太ったゲーリングのほうが、だれが見ても偉そうである。実際、映画の撮影などでは、腕を小刻みに震えさせたりといった、ヒトラーのそういう姿はなるべく映らないように、周囲や撮影スタッフが気を配っていたという話もある。 リーフェンシュタールはこの二本の映画のおかげで、ナチの協力者という烙印を押され、戦後は戦犯容疑で4年間投獄されたという。その後、裁判では無罪となったものの、いったん貼り付けられたナチの協力者というレッテルはなかなか消えず、長い間失意の状態が続いていた。 その彼女が再び脚光を浴びたのは、アフリカのスーダンに住むヌバ族の女性らを写した写真集によってだった。そのとき、すでに彼女は70歳を超えていたが、最後の映画を完成したのは、なんと100歳のときだったというから驚きである。彼女の場合、長命と健康もまた、偉大な才能の一つだったというべきだろう。 オリンピックの記録映画といえば、われわれの世代にとっては、もちろん市川崑の 『東京オリンピック』 である。小学二年のときに、学校の行事で近くにあった映画館で見た記憶がある。市川の映画は、いきなりオリンピック準備のために古いビルを解体する映像から始まるが、それは今思えば、まさに 「破壊への情熱は、同時に創造への情熱である!」 という有名なバクーニンのテーゼを映像化したもののようである。 東京オリンピックはもともと、ベルリン大会の次の1940年に予定されていたのだったが、日中戦争の長期化によって返上することとなり、結局は1939年のドイツのポーランド侵攻による第二次大戦勃発とともに、オリンピックそのものが中止に追い込まれた。 当時の経緯を知る者らにとっては、それから20年後の東京オリンピックは、戦後復興の証であると同時に、ひょっとすると、東洋初の五輪大会として、現実の前に脆くも潰え 「大東亜共栄圏」 へと変質せざるを得なかった、かつての 「東亜協同体」 という夢と理念の代わりだったのかもしれない。 たとえば、東京五輪で組織委員会の会長を務めた安川第五郎という人物は、戦前にファシズムにかぶれて東方会を組織し、最後には東条によって自殺に追い込まれた中野正剛と同郷であり、中学の一年後輩に当たっている。 前回のアテネ大会で金メダルを取った柔道の鈴木桂治は、今回は1回戦で敗退し、続く敗者復活戦でも敗れて、とうとう1勝もできなかった。同じように連続優勝が期待されていた女子マラソンの野口みずきは、左足ふとももの肉離れが原因で欠場した。 当人らは、むろん悔しいだろう。だが、そんなことは、どうでもいいではないかと思う。東京五輪で、競技場に帰ってきてからイギリスのヒートリーに抜かれ、銅メダルに終わった円谷幸吉をその後に襲ったような悲劇さえ起こらなければ。
2008.08.19
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手記の中から箴言風の言葉を集めたウィトゲンシュタインの 『反哲学的断章』 に、「自分を騙さないことほど難しいことはない」 という言葉がある。言い換えると、「自分を騙すことほど簡単なことはない」 となるだろうか。むろん、この程度のことを言うのに、わざわざ大先生の名前など出す必要はないのだが、ちょっと 「知ったかぶり」 をしてみたいのである。 誰が言い出したのか知らないが、インドの釈迦、中国の孔子と並べて三大哲人と言われているソクラテスが、デルフォイのアポロン神殿に刻んであった 「汝自身を知れ」 という言葉を、導きの糸としていたことは有名な話である。「自分自身を知る」 ということは、古来より多くの東西の賢人が課題としていたことなのである。 それはつまり、「自分自身を知る」 ということがいかに困難なことかということであり、翻って言うならば、人間はたいていの場合、本当の自分を知ることなく、自分自身を騙し騙ししながら生きているということでもある。もっとも、イソップの 「酸っぱいブドウ」 の童話にもあるように、乗り越えようのない困難にぶつかったときなどは、たしかにそのほうが気楽であり、精神衛生にとってはよいのかもしれない。 とはいえ、これは 「真の自己」 なんてものが、確固たる実体としてどこかに存在しているとか、現象とは別個の本質としてその背後に隠されている、というようなことではない。「真の自己」 といったものが、今こことは違うどこかにあるはずだみたいに実体化してしまうと、今度は 「自分探し」 みたいな話になり、最悪の場合には、オウムのような擬似グノーシス的な三流宗教にはまってしまうことにもなりかねない。 ウィトゲンシュタインの先生であり友人でもあったラッセルは、ベルグソンの直観哲学を批判する中で、こう言っている。 氏(ベルグソン)によると、絶対に誤ることがない直観のもっともよい例は、私たち自身に関して私たちが熟知していることである。しかし、自己を知るということは、諺にもあるように、まれにしかできない難しいことである。たとえば、たいていの人はその性質の中に、卑しさ、虚栄心、ねたみといった性質を持っているが、それを意識するということはまったくない。ところが、こういった性質は、もっとも親しい友人にさえ容易に感づくことができる。 直観には知力には見られない確信が備わっているということは本当である。さらに直観に確信が加わると、直観が正しいことを疑うことはほとんど不可能になる。しかし直観が、検討の結果、少なくとも知力と同じ程度に誤りやすいということになると、直観の持つより大きな主観性は欠点となって、直観をどうしようもないほど欺かれやすいものにするにすぎない。 単純な話、「本当の自分」 というものは、別に隠されているわけではない。それは、多くの場合、十分に現象しているのであり、周囲の者には分かるのだが、肝心の自分は気付かないというだけの話である。したがって、そのような 「本当の自分」 を見つけるのに、なにやら神秘的な体験や啓示、「隠された知恵」 などは必要ない。ただ、他人の声に真摯に耳を傾ければよいのである。 とはいえ、その 「他人の声」 にも、相手の偏見や独断、思い込みなどが含まれていることもあるので、それを見分けるのもたいへんではある。その見分けもまたこちらの主観によるわけだから、いささか堂々巡りにはなるが、最終的には、「信頼できる人」 をどう見分けるかの話に帰着するのではないかと思う。 話はとぶが、阿部和重の 『アメリカの夜』 という小説は、冒頭からいきなりブルース・リーの話で始まっている。彼の映画がヒットした頃には、多くの若者がリーになりきり、映画館から出てくると、みなアチョーという奇声を上げて街角の電柱を蹴りつけ、看板を蹴倒したそうである。 それは、高倉健の映画でも、中村敦夫が演じた 「木枯らし紋次郎」 でも同じである。健さんに憧れた者は、健さんの真似をして寡黙を気取り、紋次郎に憧れると、今度は紋次郎の真似をして、長い楊枝をくわえて、「あっしには関わりねぇことでござんす」 などと言ってみたくなるものである。 人は誰しも、「自分はこうなりたい」 というような理想を持っている。むろん、それはそれで構わないのだが、そのような 「自分はこうありたい」 という理想をあまりに長く強く念じすぎると、今度はそのまま 「自分はこうである」 という勘違いに陥ることもないではない。 これが、勉学やスポーツの世界のように客観的な評価が可能であれば、目標と現実の混同という勘違いに陥る余地はあまりない。記録というものは無情なものであり、100mを15秒でしか走れないものが、12秒で走る相手に対して、俺だって本気を出せば、などと言ってみたところでしょうがない。そのような強がりには、「今日はこのくらいにしといてやろうか」 という、池乃めだかの例のギャグほどの値打ちもない。 現実の世界というものは残酷なものであって、よほど頑なな人間でない限り、自分についての勝手な思い込みは、他人とのリアルな付き合いのなかで、脆くも崩れ去り、修正を余儀なくされるものである。それがつまり挫折ということであり、いささか偉そうに言うと、人はそういう挫折を重ねることで、大人になっていくのである。 それに比べると、ネットという世界には、そういうリアルな関係の場所でないだけに、自己についての幻想を保ちやすいところがある。実際、どう見ても、その人が掲げている自己イメージと実態の間にかなりのずれがあるとしか思えない人を、ネットで見かけることは珍しいことではない。 そういう人が、したり顔でとくとくと誰かに説教したりしているのを見ると、よせばいいのにお節介にも、ついつい 「それは、あなたのことじゃないのかな」 とか、言ってみたくなるのである。困った性分である。 嫌われるのは、そのせいなのだろう。 たぶん、そういうところが、しばしば小人(しょうじん)をネットに耽溺させるネットの誘惑であり、魔力なのだろう。むろん、これはひとのことに限った話ではなく、十分に自戒しなければならないことでもある。
2008.08.17
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連日の激しい日射と高温のせいか、このところ大気がきわめて不安定のようで、午後になると魔王のような黒雲がむくむくとわきあがり、雷もゴロゴロと呻りだして、にわか雨が降りだす。どうやら、空の上で龍と虎による激しい戦いがおこなわれているようだ。 グルジアとロシアの紛争は、わずか二日間で2,000人を超える死者を出したそうだ。グルジア側は戦闘を停止し、紛争地域である南オセアチアからの撤退をロシア側に通告して、停戦交渉を呼びかけたそうだが、ロシア側は通告の受理は認めたものの、「グルジア軍は攻撃を続けている」 として、停戦に応じていないとのことだ。 ロシアはグルジア共和国の首都トビリシを空爆し、黒海でもグルジア海軍の艦船を沈めるなど、すでに全面戦争の様相を呈している。コーカサス山中にあるグルジア共和国は、面積わずか7万平方キロにも満たない小国であり(北海道よりも小さい)、ロシアとの全面衝突になればひとたまりもないのは、最初から明らかだったはずだ。 紛争の舞台となったグルジア内の南オセアチア州には、主としてオセアチア人が住んでいるが、同じオセアチア人の住む北オセアチアはロシア連邦に属しており、ソビエト時代末期からのグルジアでのグルジア民族主義の台頭によって圧迫された南オセアチアのオセアチア人は、グルジアからの独立とロシア連邦への編入を要求しているということだ。 今回の衝突は、どうやらロシアとグルジア、それに南北オセチア4者によって締結された過去の協定を一方的に無視した、グルジア側の挑発が原因のようだが、自分から挑発しておきながら、「平和の祭典」 と称されるオリンピックの時期に、まさかロシアが全面的な武力行動に出るとは予測していなかったのだろうか。だとしたら、ずいぶんと考えが甘かったといわざるを得ない。 グルジアとロシアの間には、アブハジアの問題もある。ロシア自身が、チェチェンの問題を抱えていることは言うまでもない。コーカサス地域には、そのほかにも、ナゴルノ=カラバフをめぐる、旧ソ連の構成国どうしであったアゼルバイジャンとアルメニアの対立もある。 旧ユーゴスラビア内の問題は、どうやらいちおうの解決を見せているようだが、こちらはカスピ海沿岸の油田の問題や、地域の安定化と安全保障をめぐる大国ロシアの利害が直接に絡んでいるだけに、そう簡単には解決しそうもない。 ユーゴ問題もそうだったが、こういう問題の背景には、かつての 「社会主義」 共同体の崩壊に伴って自立性を高めた、この地域の多くの小国家内でのナショナリズムの台頭と、それに対抗する少数民族側の反発があり、そこへロシアやアメリカ、EUなどの利害が絡んで問題をさらに複雑化させている。 古い話になるが、かつてレーニンと、ポーランド出身でのちにドイツに移住し、ドイツ革命の過程で殺されたユダヤ系革命家であるローザ=ルクセンブルグの間で、「民族問題」 をめぐる論争が起きたことがある。 大ロシア主義的な民族排外主義を強く批判して、少数民族の 「自決権」 を擁護したレーニンに対して、ローザは民族の利害よりもプロレタリアートの利害を優先させるべきだという原則論を主張したわけだが、同時に彼女は、レーニンの言うような 「民族自決権」 は、多数の小民族が狭小な場所にひしめき合っているような地域には現実的に適用不可能であることも指摘している。 民族自治の問題が、その実施に当たって出会う困難のもうひとつの顕著な例が、カフカスに見られる。この地上のどこを探しても、カフカスほど、ひとつの地域に諸民族が複雑に入り混じっているところはない。太古の昔から、人々がヨーロッパとアジアの間を往来する場であったこの歴史的な地は、それらの人々の破片でちりばめられている。900万人を超すこの地方の人口は、以下の表のような人種や民族集団からなっている。ローザ=ルクセンブルク 『民族問題と自治』 より ここでローザが作成している表は、ロシアによる1897年の人口調査にもとづくものだが、外来のロシア人やドイツ人、ユダヤ人のほかに、アルメニア人やグルジア人、チェチェン人、その他カフカス系、トルコ・タタール系の諸民族など、20を超える民族の名前があげられている。 とはいえ、ローザもまた民族問題の複雑さと、その解決の困難さを指摘しただけで、解決へいたる道筋を提起しえたわけではない。「民族の利害よりも階級の利害を!」 という彼女の国際主義的な原則論が、歴史と文化の共有 (それは、しばしば幻想的なものでもあるが) にもとづいたナショナリズムの強さを過小評価したものであったことは、今さら指摘するまでもないことだろう。 ところで、グルジアはいうまでもなく、ヨシフ・ジュガシビリ、すなわちスターリンの出身地でもある。 ロシア帝国の辺境だったグルジアからは、スターリンのほかにも、メンシェビキの全国的指導者だったツェレテリやチヘイゼ、スターリンの友人で、30年代の大粛清の過程で不審な自殺をとげたボルシェビキのオルジョニキーゼなど、ロシア革命当時の有力な指導者や活動家が何人も出ている。 革命当初、グルジアでは、ボルシェビキと対立していたメンシェビキが権力を握っていたが、そのメンシェビキ政権を覆したオルジョニキーゼがスターリンの支持を得て、グルジアで高圧的な姿勢をとったことが、レーニンの怒りを呼んで、病床の彼に 「スターリンは粗暴である」 と指摘し、その書記長罷免を提案した有名な遺書を書かせることになった。 また、旧ソ連の末期に外相としてゴルバチョフの右腕を務め、ペレストロイカに協力したシェワルナゼもグルジア人であり、ソビエト解体後は独立したグルジアの最高会議議長、さらに1995年から2003年まではグルジア大統領も務めていた。 どうやら、グルジアとロシアの関係というのには、なにやら因縁めいたものがあるようだ。 エリツィンによるソビエトの解体後に成立した、CIS (独立国家共同体) という緩やかな国家連合は、すでにほぼ有名無実化しているようだが、一党独裁時代をそのまま引きずったような各国の小独裁者らの政治的思惑と、アメリカやEU、中国などの利害も絡み合って、結局は失敗に終わったというべきだろう。
2008.08.11
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今日は、午後から激しい夕立が降った。空が急激に暗くなったかと思うと、雷がゴロゴロと鳴り出し、大粒の雨が、まるで機銃掃射のようにアスファルトの路面を叩きつけて激しく降り出した。 「土方殺すに刃物はいらぬ 雨の三日も降ればよい」 という文句があるが、これをもじれば 「フリー殺すに刃物は要らぬ メールの三日も来ねばよい」 ということになるだろうか。 もっとも、さすがに三日程度で死にはしないが、それでも一週間もどこからも連絡がなかったりすると、前の仕事でとんでもないミスをやったのではないかとか、ひょっとして、いつも仕事をくれていたあの会社は潰れちまったんじゃないかとか、いろいろと気になりだしてしまう。 中国では、いよいよ北京オリンピックの開幕ということで、開会式の華やかな様子がニュースでも中継されている。史上最多の204の国と地域の参加ということだが、それを見ているうちに、昔よく使われた 「壮大なゼロ」 という言葉を思い出した。 「壮大なゼロ」 という言葉を最初に使ったのが誰かは知らないが (注:どうやら60年安保全学連の委員長だった唐牛健太郎らしい)、たとえば改定安保条約の自然成立を阻止できなかった60年安保の6月の闘いであるとか、11月決戦を呼号して戦術の過激化に走り大衆の支持を失った70年安保、またたしか、東大全共闘の運動の中でも使われていたような気がする (むろんすべて書物による記憶だが)。 すでに、中国の新疆ウイグル自治区では警察への襲撃事件が起きているし、上海でも雲南の昆明でも、バスを狙った爆破事件が起きている。事件については、「トルキスタン・イスラム党」 という組織が、中国の 「東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)占領」 に反対する立場から起こしたという声明を出しているようだが、中国当局はその関与を否定しているらしく、真相はまだ藪の中だ。 また中国だけでなく、ともに旧ソ連を構成していたロシアとグルジアの間でも、ロシアへの帰属を望む住民の多いグルジア領内の南オセアチア問題をめぐって、両国軍による衝突の危機が高まっている(注:すでに戦闘は始まっている。死者も2日間で1500人を超えたそうだ)。 厳戒態勢がしかれている中、72年のミュンヘン大会で起きた、武装ゲリラによる選手村襲撃のような惨劇が起きることはまずないだろうが、すでにオリンピックは国際政治の中にしっかりと組み込まれている。ヒトラーのもとで開催された、36年のベルリン大会は、まさにその先駆であり予感であったと言うべきだろうか。 オリンピックの準備のために、北京では伝統的な街並みが破壊され、多くの住民が強制的な立ち退きを余儀なくされたということも聞く。しかし、そういったことへの不満は、中国国内ではいまのところ少数であり、多くの国民は、64年の東京と88年のソウルに続く、アジアで三番目の夏季オリンピックということで、日本と韓国に続く経済的 「離陸」 のきっかけとして、また国家と民族の威信を発揚させる場として、熱い眼差しで見つめているようだ。 とはいえ、国内全土に中継されるオリンピックに付随して映し出される、未来都市か異国の都市のごとくにモダナイズされた北京の風景は、それに見入る多くの国民の潜在的な意識に、いったいどのような影響を及ぼすだろうか。その答えは、今すぐには出ないだろうが、おそらくけっして小さなものではないだろう。 ところで、先日日本テレビ系列の 「世界まる見え」 という番組で、将来の金メダル候補を育てるために、10歳にも満たない幼い子らを集めて特訓をやっている中国の体操学校の様子が放送されていた。 その様子は、まさに漫画のタイガーマスクに出てきた、レスラー要請所である 「虎の穴」 を髣髴とさせるものだった。番組製作者は、幼い子らの奮闘を描き、彼らを応援しているつもりのようだったが、その子らの細い肩には、貧困からの脱出を夢見る家族や親族の期待が重くのしかかっているのだ。 それは、けっして 「お涙ちょうだい」 の美談などではあるまい。そもそも、中国のスポーツ界や体操界の指導者らの目に、そのような子供らが、将来のオリンピックで金メダルを獲るための 「道具」 として以上のものに映っているのかも疑問と言わざるをえない。 話はかわるが、先日、悪名高き人材派遣会社 「グッドウィル」 が廃業を発表した。昨年には、不正が発覚した同じグループの 「コムスン」 が介護事業の譲渡を行っている。 気になって調べてみたが、グッドウィル・グループの総帥だった折口雅博という男は、少年時代に父親が経営するサッカリン工場がその発ガン性による規制のために倒産し、以後、両親の離婚や父親の病気による貧困など、非常な辛酸をなめたらしい。 埼玉県の有名進学校である熊谷高等学校に合格したものの、経済的な理由で進学を諦め、陸上自衛隊の少年工科学校(陸上自衛隊生徒隊)を経て、防衛大学校に進んだということだ(参照)。 彼は防大卒業後、任官を拒否して実業界に入り、「グッドウィル」 での成功によって安倍元首相らとの親交を深めて、一時は経団連の理事を務め、なんと、2005年には紺綬褒章を受章したとのことだ。40代の若さにして、いわば栄誉と栄達の極みに達したと言えるが、その凋落もまた早かった。 そのような、金儲けのために生き急いでいるがごとき彼の行動の背景には、おそらく少年時代の貧困と屈辱という体験があるのだろう。だとすれば、これもまた、なんだか悲しい話である。
2008.08.08
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先日、赤塚不二夫が死んだかと思ったら、こんどはソルジェニーツィンが死んだそうである。もっとも、まだ72歳だった赤塚と違って、こちらは1918年生れの90歳になる直前だったというから、とりあえず大往生である。ノーベル文学賞も貰ったことだし、この世に思い残すことはなかっただろう(断言はしないが)。 ソルジェニーツィンといえば、みずからも8年間の収容所生活を送り、その経験に基づいて、大作 『収容所群島』 を始めとする作品を書いた人であり、ソビエト時代の反体制派文化人として、なんとトロツキー以来、45年ぶりという国外追放の憂き目にあった人でもある。 ただ、追放後の彼は、欧米の 「物質文明」 を批判して、キリストへの信仰を強調するなど、しだいに保守的宗教的な傾向を強めていく。その姿勢は、欧米と同様のロシアの民主化を指向するグループとは、明確に異なったものであり、昨年には、すでに独裁化傾向を強めていたプーチン大統領とも面談し、選挙でもプーチン支持を明確にしたという話もある。 追放後の20年に及ぶアメリカでの生活が、生粋のロシア人たる彼にとって、けっして居心地のよいものではなかったということは理解できる。拝金主義や商業主義が横行する西欧とその文明への嫌悪感や批判というのも分からないではない。 また、若い頃には外国の先進的な文明に憧れていた人が、齢を重ねるごとに民族的な伝統や文化への回帰を強めるということは、日本を含めて、一般に 「後進国」 や 「後発国」 の知識人にはよくあることであり、それもまた一概に否定されるべきことでもない。 たしかにロシアにはロシアの進むべき道があるだろう。欧米流の民主主義がすべてではないし、それだけを基準にして、今のロシアの政治を非難するわけにもいくまい。しかし、それでも、強権性を強めているプーチンを支持したという晩年の彼の姿勢については、やはり疑問が残るところだ。 ロシアの近代化はピョートル大帝による改革から始まるが、それ以後の歴史は、ほとんどつねに民族の固有性を重んじるスラブ派と、西欧流の近代化を志向する西欧派との対立で彩られている。むろん、それは単純な対立ではなく、西欧の社会主義的な思想や運動の影響を受けながらも、「資本主義的発展」 の道をたどらない独自の革命の道を求めた 「ナロードニキ」 のように、両方の要素が入り混じっている場合もある。 バクーニンは、もともとマルクスと同じくヘーゲル左派というドイツ哲学の一派の影響を強く受けた人であるが、同時に 「破壊への情熱」 や強烈な無神論を特徴とするその思想と運動には、やはりロシア的なもの、いわばロシア精神ともいうべきものが強く感じられる。 有名な話であるが、ドストエフスキーもまた若い頃に社会主義者のサークルに加わっていたことがあり、そのためいったん死刑の判決を受けながら、執行の直前に恩赦による減刑を受けて(皇帝の慈悲を示すための芝居だったそうだが)、四年間シベリアで暮らしている。 シベリアから帰還してからの彼は、小説家として様々な作品を書きながら、同時に 『作家の日記』 に収められた時事評論などで、ロシア正教とスラブ=ロシア民族の歴史的使命を称揚して対トルコ戦争を主張し支持するなど、大ロシア主義的な姿勢を強く打ち出している。 キリストへの信仰と、ロシア的なるものへの回帰に至ったソルジェニーツィンは、まさにそのような意味で、革命前のロシア文学の歴史と伝統に連なる、最後の一人だったのかもしれない。 ソルジェニーツィンは、最終的には革命後の70年の歴史を全否定し、革命前の伝統への復帰を唱えていたようだ。しかし、そもそもドイツとの戦争によって生じた帝政と社会の全面的な崩壊という中で、口先ではなく実際に広大なロシアを統治するだけの能力を持った勢力が、あの時点でレーニンの党以外に存在していたかは、きわめて疑問である。 彼の党が内戦とその後の危機の中で、農民からの強制的な食料徴発や、テロルによる弾圧など、様々な過ちを犯したことは否定できない。とはいえ、彼と戦った帝政派の貴族や軍人らが、かりに内戦で勝利していたとして、蜂起した農民らを彼以上に優しく扱っただろうとか、その後の社会の再建と近代化に成功しただろうなどと想像する根拠も、それほどあるとは思えない。 破局的な危機の中でレーニンの党による黙示録的な革命が勝利したという事実も、その後のスターリンの暴政もまた、けっしてロシア的なものと無縁だったわけではあるまい。独裁者スターリンが西側の批判者からしばしば 「赤いツァーリ」 と呼ばれたのも、ただの偶然ではないだろう。 1947年、レーヴィチというクラスノヤルスク収容所群の懲罰収容地点に、約40人の日本人の将校たち、いわゆる 《戦争犯罪人たち》 が運ばれてきた。酷寒が続いていた。ロシア人にも無理な伐採作業だった。否定分子たちはさっそく彼らのうちの何人かを裸にして、数回にわたって彼らのパンを箱ごと盗んでしまった。何が何だかわけの分からない日本人達は、いつ当局が介入してくるかと待っていたが、当局は当然のことながら、このことに目をつぶっていた。 すると、日本人の班長だったコンドウ大佐が班員の中の古参将校を二人伴って、ある晩収容地点の地点長の部屋を訪れ、もしこの暴挙をやめさせなければ、翌日の夜明け前に志願したこの二人の将校が切腹すると警告した。しかもそれはことの始めにすぎないと言った。地点長はこの問題で失敗しかねないと気づいた。その結果、日本人の作業班は二昼夜作業へ連れ出されず、普通の食事を与えられ、その後は懲罰収容地点から別なところへ移された。「収容所群島」 新潮文庫版の3巻P436より なお、このコンドウ大佐とは、訳者である木村浩氏の注によれば、元陸軍大佐である近藤毅夫という人のことではないかということだ。彼がこの大作を書き上げるに当たって、膨大な量のエピソードをどのようにして収集したのかは判然としないが、この逸話の正しさがそのように確認されたということは、この大作に収められた様々なエピソード一つ一つの事実としての正確さを証明するもののように思える。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080805/1217905285
2008.08.05
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無政府主義とか無政府主義者などというと、一般にはなんだか恐ろしい、あまりお近づきになりたくない人たちというイメージがある。無政府主義者すなわちアナーキストとは、今ここでの国家の転覆を目的として、陰謀やテロ、暗殺などの破壊行為に明け暮れる人たちだというわけだ。 そのようなイメージは、たとえば 「無政府状態」 といった言葉が、一般にはなんの秩序もルールも存在していない、すべてが実力や裸の暴力だけで支配されているような状態を意味するものとして使われていることからもきているだろう。 たしかに 「破壊への情熱は同時に創造への情熱である」 と言い、「総破壊の使徒」 などという恐ろしいあだ名を献上されたバクーニンのように、生涯のほとんどを陰謀に明け暮れた人もいる。また、無政府主義が勢力を誇った地域が、たとえばスペインのように、いささか血の気の多い人たちが多いところであったというのも否定できない。 それは、おそらく 「一切の権威の否定」 と 「絶対的な自由の追求」 という無政府主義の理念が、そのような近代化が遅れていて、社会内部の 「共同体」 的意識がまだ強かった地域の抑圧された人々にとっては、いわば宗教的と言ってもいいようなユートピアへの情熱をかきたてる魅力を持っていたからでもあるだろう。 無政府主義者の活動が、実際にしばしば過激な方へ走りがちだということについては、彼らの思想からは、議会や選挙といった政治活動そのものが否定され、また統制された厳格な組織性も排除されるため、結果として、種々の直接行動や少数の個人による先鋭な行動に傾斜しがちだという点に原因がないわけでもない。 とはいえ、無政府主義も一つの社会思想である限り、それはたんなる権威への永遠の反抗のみを意味していたわけではない。ましてや、無政府主義者たちが理想としていた社会が、無秩序な破壊や略奪をこととする、盗賊団や山賊団が横行するような社会であったはずもない。これはまあ、当たり前すぎるぐらい当たり前の話ではあるが。 そもそも無政府を意味するアナルシという言葉は、19世紀フランスの人であるプルードンによる造語である。たとえば、彼はある手紙の中で、自分の思想について次のように述べている。 わたしの考えでは、無政府とは秩序の維持と、またあらゆる種類の自由の確保が、科学と法律との発達によって形成される公私の意識のみで十分な、一つの政治形式もしくは結合のことであり、強権の原理、警察制度、圧制と抑圧の手段、官僚主義、租税などがもっとも単純なるものにまで制限され、君主制と高度の集権化が連合制度と共同体に基づいた生活様式で置き換えられることにより消滅した政治形式もしくは結合をいうのである。 また、彼は別の著書では、アナーキズムとは 「各人による各人の統治、すなわち英語でいう self-government (自己統治)のことであり...」 とも述べている。 つまり、無政府主義とは、国家や政府といった社会を上から支配・統制する権力なしに、人々が自らの社会を自らの手で統治しうるということ、すなわちそのような強制的権力なしに人々は自らの行動を律しうるという、民衆の自治能力に対する全面的な信頼の上に成り立っているのであり、その根底に横たわっているのは、いささか楽観主義にすぎる人間観だということになる。 であるから、無政府主義者を名乗るのであれば、自らの行動は自らで律するという能力を有していることをまず率先して示すことが、最低限の資格だということにもなるだろう。少なくとも、後先も考えず、また他人への迷惑や影響も考えずに、ただおのれの欲望や暴力的破壊的な衝動のおもむくままに行動するというだけで、無政府主義者を名乗れるわけではない。 アナーキズムとは、一言で言い表すなら自己統治=自己権力の思想であり、アナーキストに必要なのは、他律を拒否すると同時に、他律を必要としない自立=自律の精神なのである。 もっとも、社会思想としての無政府主義が、現代においてほとんど現実的な影響力を失ったのは、そのあまりにユートピア的で非現実的な楽観主義のせいでもある。社会運動としての無政府主義が最後に輝いたのは、スペイン市民戦争においてであるが、フランコ率いる軍の反乱という状況の中で、スペインのアナーキストらは国家とすべての政治的手段の否定という本来の信条にそむいて、社会主義者や共産主義者とともに人民戦線内閣に協力せざるを得なくなった。 つまり、無政府主義はその活動の頂点において、自らが抱える根本的な矛盾を露呈してしまい、その結果一気に勢力を失ってしまったのである。そのため、無政府主義という看板が、今ではたとえば 「自分の死を恐れないハケンは最凶兵器である」 などといった、はったりじみた言葉や大げさな身振りだけをこととするような者らに簒奪されるということになったのも、それはそれでしかたがないのかもしれない。 しかし、それはやっぱりプルードンやバクーニン、クロポトキン、あるいは幸徳秋水や大杉栄といった、理想を追求した過去の無政府主義者たちと、そのユートピア的な思想を貶めるものではないかと思う。もっとも、本人にすれば、アナーキストを自称しているのもただの洒落であって、そもそも最初からたいした意味などないのかもしれないが。
2008.08.03
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