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あづいー。頭上からは刃のような日差しが照りつけ、大気中には眩しい光の粒子が散乱し、下を向けばコンクリートとアスファルトからの放射熱がじんわりと頬をやく。 夏はまさに光と影というマニ教的二元論の世界であり、街を行く人はみな、故なき罪で罰せられている罪人のように、蒼ざめた顔でうつむきながら歩いている。 今日は仕事がなかったので、積読解消のために、まず中公文庫から出ている石原莞爾の 『最終戦争論』 を手に取った。奥付には1993年発行とあるが、ずっとただ書棚に飾っておいただけなので、表紙も中の紙も新本同様にぴかぴかである。 石原といえば、関東軍の参謀として満州事変を起こした首謀者であり、したがっていわゆる15年戦争と、出先機関の独走という旧軍内部の下克上に道を開いたという意味では、昭和の戦争の責任者の一人と言うべきだが、東条との対立によって日米開戦前に現役を退かされたことが幸いして、極東裁判での戦犯指名からは免れたという。 世界統一のための東亜と米州による 「最終戦争」 を30年後(それは、くしくも米ソ冷戦が激しかった1960-70年代に当たっている)と想定し、それに向けた国力の増強と軍備の近代化を当面の目標としていた石原にとって、日中戦争の泥沼化は彼の理想である東亜協和の障害であり、また東条による時期尚早な日米開戦は、彼の苦労のすべてを画餅に帰す愚挙に他ならなかった。 しかし、言うまでもなく、彼の描いた天皇の下での 「五族協和」 という理念自体が、そもそもただの絵に画いた餅にすぎない。それは、いわば世間知らずの軍人が描いた、あまりにも現実性を欠いた、理想という名にも値しないただの空論でしかない。 また、強力な兵器の登場が戦争に対する抑止力となるという理屈には一定の現実性はあるものの、「一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力」 の破壊兵器や、「無着陸で世界をぐるぐる周れるような飛行機」 を備えた二大勢力による、徹底的な 「最終戦争」 ののちに現れる世界とは、マッドマックスやケンシロウの世界以外のなんであろうか。 Wikipediaによると、戦後の彼は、「日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した」 とのことだ。それは、たしかに広島と長崎の惨状を目撃したことによる、「最終戦争論」 への反省と受け取ることも不可能ではあるまい。しかし、同時にそれは、相も変らぬ 「日本民族」 の世界的使命なる、夜郎自大な意識の現われと見ることも可能だろう。 『最終戦争論』 の中で、彼は 「正法」、「像法」、「末法」 という仏典の言葉を引き、はては日蓮が生まれた時代は、「像法」 の世だったのか、それとも 「末法」 の世だったのかなどと大真面目に論じながら、彼の言う 「最終戦争」 の時期について議論している。こういった箇所については、正直に言って苦笑を禁じえない。 石原にはさまざまな逸話があり、彼が優秀な頭脳と権威に屈せぬ豪胆さを持った、人格的にも魅力ある人であったことは確かだろう。しかし、こういった箇所は、きわめて優秀な頭脳と個性の持ち主が、ある場合には、きわめて蒙昧な思想やイデオロギーとも十分に共存できることを示している。 それはむろん、なによりも尊皇精神の育成に重点が置かれていた、かつての軍人教育の成果であり結果ではあるだろう。しかし、人が 「蒙昧」 に転じる道はどこにでもあり、彼のように自らを恃む者であってすら、そのような蒙昧に転落する怖れはあるのだ。世の中には、「知的選民階級」 などという言葉で、誰かを嘲笑しているつもりの人もいるようだが、そんな呑気なことを言っている場合ではないだろう。 なお、中公文庫には、そのほかにも田中隆吉の 『日本軍閥暗闘史』 や大川周明の 『復興亜細亜の諸問題』、『高橋是清自伝』、石光真清の 『城下の人』、荒畑寒村の 『平民社時代』、『大杉栄自叙伝』、杉山茂丸の 『児玉大将伝』 など、近代史の勉強にはたいへん役立つ歴史的資料がそろっている。 こういった資料の文庫化は、とうてい利益の上がるものとは思えないが、講談社文庫や角川文庫などのように、利潤追求のみを至上命題としている出版社が多い中、まことに頼もしい限りである。中央公論社は、もともと明治に京都・西本願寺の有志らによって設立されたそうだが、9年前の経営危機によって新社が設立され、現在は読売新聞の子会社となっている。 若者の活字離れが叫ばれる中、出版界をめぐる状況は相変わらずたいへんのようだが、今後とも中公文庫の健闘を陰ながら応援する所存である。参考サイト:石原莞爾平和思想研究会
2008.07.31
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そう言えば数日前、原子力空母ロナルド・レーガンが佐世保に寄航したというニュースがあった。原子力空母と言えば、なんと言ってもかのエンタープライズが有名であるが、最初の寄航は68年で中学生であったし、二度目の寄航の83年にはすでに大学を出ていたから、二度とも歓迎には行けなかった。 佐世保には、78年に原子力船むつがどういうわけだかやってきたことがあって、そのときは歓迎に行ったのだが、なぜかあちらには迷惑だったようで、あまり歓迎してもらえなかった。駅を出たとたんに、盾をずらりと並べた青いヘルメットの屈強なお兄さんらに小突き回されてたいへんな目にあった。 名前が空母についているぐらいだから、と思って調べてみたら、レーガンはすでに四年前に亡くなっていたのだった。93歳だったというから、とりあえずは大往生である。各国の元首相や元大統領らが列席した盛大な国葬が執り行われたそうだが、まったく覚えていない。困ったものである。 今年の夏の最大の目標は、なんといっても体重を20年ぶりに60kg以下に落とすことである。今年の春にメタボ健診が始まる前の64kgが最高で、以来外食を極力控えるなどの方法で、なんとか61kgまでは下がったのだが、そこから下にはなかなか下がらない。 最近、いろいろと調べたついでに分かったのだが、15年前に日本新党や新党さきがけを率いて、1955年の 「保守合同」 以来の自民党長期政権にわずかではあれ区切りをつけた、かの細川護熙氏の母親が、終戦直後、戦犯容疑で逮捕される直前に服毒自殺した近衛文麿の娘であることを知った。 つまり、細川元首相は近衛文麿の孫にあたるわけで、これも知っていた人は当然その当時から知っていたのだろうけど、ちょっと驚いた。近衛の長男の文隆は、蒋介石との 「和平工作」 をひそかに進めようとしたためか、軍に目を付けられて満州に招集され、終戦後はソビエト軍によりシベリアに連行されて、そこで亡くなっている。 跡継ぎを失った近衛家には、細川元首相の弟である細川護てるという人が、名前を近衛忠てるに改めて養子に入って後を継いだそうだが、この人の奥さんが三笠宮の長女で、つまり、昨年アルコール依存症による入院で世間を驚かせた 「ヒゲの殿下」 の姉にあたる人なのだそうだ。自分が迂闊なだけかもしれないが、世の中にはたしかに 「華麗なる一族」 というものがまだまだ存在するようである。 むろん、そのような細川氏の出自と彼の政治行動との間に、なんらかの関係があるのかどうかは分からない。鳩山一族もそうだが、今のこの国に、さまざまな 「華麗なる一族」 が存在するとしても、その事実から、日本を裏で支配する 「陰の一族」 のようなものの存在を仮定するのは、いささか早計に過ぎるだろう。 「ユダヤ陰謀論」 でも、最近流行りの 「地球温暖化」 陰謀論でもよいが、単なる偶然や、さまざまな原因、さまざまな人々の意思の連鎖による結果にすぎない事象の背後に、見えざる神の手のような、すべてを操作している何者かの意思が存在しているかのごとくに妄想するところから、すべての 「陰謀論」 は始まる。 そして、そのような 「陰謀論」 にはまり込んだ者は、やがて自らも、自らが 「敵」 とみなした者らへの、組織的な中傷・誹謗、デマといった陰謀的手法の行使を躊躇わず、いとわなくなる。 あちらこちらに潜んでいる、姿の見えない敵がそのような手段を使っているのに、われわれが同じ手段を行使することをためらう必要がどこにあるだろうか。いや、そのような敵と戦い、そのような敵を倒すためには、われわれも同じ手段を行使することを躊躇ってはならない。これは、当然の論理であり、その論理的帰結である。 ある敵と闘っている者、あるいは闘っているつもりの者らが、そのような敵、というよりも勝手に妄想した空想上の敵としだいに姿形が似通い、区別がつかなくなっていく。そういった例は、中世の魔女狩りや、20世紀の 「赤狩り」、現代の 「反テロ」 戦争など、いくらでもあげられる。 たまたま先々月ごろに、「続シベリヤ俘虜記」 という題の抑留者らの俳句を集めた書を購入した。定価は2500円となっていたが、ブックオフでの価格が消費税をいれてわずか105円であったというのは、著者らに対してまことに申し訳ない限りである。銃口に急かされ歩く寒夕焼 井口?子独房の寒夜を蜘蛛の生きてゐし 長谷川芋逸韃靼のカザンの街をただ疾る 仁智栄坊トラックの屍に乗りて 屍積み上ぐ 鎌田翠山
2008.07.30
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久しぶりに仕事がすべて片付いたので、今日は運動をかねて、午後から暑い中を自転車で外へ出た。わが家には車もバイクもないので、外出するときは徒歩か自転車か、でなければ公共の交通機関を使う。 とりあえず、歩いて10分ぐらいの範囲にスーパーも食堂も書店もあるので、日常の用はそれですべて足りる。ようするに、半径1kmか2kmという、ごく狭い圏内で一年のほとんどを生活しているのだ。 家を出たときから、空には映画 「ゴーストバスターズ」 に登場した、巨大なマシュマロマンのような雲が聳え立っていたので、ちょっとやばいかなと思っていたら、案の定、帰宅途中のあと2-300mというところで、いきなり猛烈な驟雨に見舞われた。 自宅に辿り着いてテレビをつけると、神戸の都賀川での水難事故に、富山や石川、京都の水害、さらには琵琶湖であった 「鳥人間コンテスト」 や福井のイベント会場の風による事故など、さまざまな事故の報道があいついだ。 神戸はもともと平野がなく、市街のすぐ背後に高さ1,000 m近い六甲山地が迫っていて、そこから流れる川はどれも長さが数キロしかない。上流で大量に雨が降ると、川の水量は一気にまし、そのまま海まで猛スピードで流れ下る。地元の人らは、その危険性について普段から認識してはいたのだろうが、なんとも痛ましい事故だ。 先日、近くのスーパーの前で古書が並んでいたので覘いてみたら、集英社発行の古い 「昭和戦争文学全集」 というのが何冊か出ていた。その中から 「海ゆかば」 と題された5巻を購入した。奥付を見ると昭和39年の刊行となっており、全集の編集委員は、阿川弘之、大岡昇平、奥野健男、橋川文三、村上兵衛が務めている。 5巻に収録されているのは、ソロモン海戦を描いた丹羽文雄の 「海戦」 や中山義秀の 「テニヤンの末日」、撃墜王と呼ばれた坂井三郎の 「ガダルカナル空戦記録」、吉田嘉七の 「ガダルカナル戦詩集」、吉川英治の 「南方紀行」、サイパン玉砕の生存者である菅野静子という人の「サイパン島の最期」などで、全体の解説は鶴見俊輔が書いている。 この巻の題名の 「海ゆかば」 とは、言うまでもなく戦争中に、戦地での 「玉砕」 を伝えるときに流されたという、有名な曲の題名から採られており、詞は、もともと万葉集巻十八に収められた、「葦原の 瑞穂の国を あまくだり しらしめしける すめろきの」 で始まる、大伴家持の長歌の一節を典拠としている。 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ 曲のほうは信時潔という人が作ったそうで、ゆっくりと抑え目に演奏すれば、重々しく荘重な鎮魂曲であり、その芸術性はけっして低くはない。のちにGHQの総司令官として日本に着任したマッカーサーは、フィリピン時代にこの歌を聞き、その意味を知って、日本兵の精神と心理について理解したという話もある。 いじましいほどに思いつめやすく、いったんこうと思いつめると、単にその結果についての合理的な計算を忘れるだけでなく、むしろそのような計算をすること自体を 「卑怯」 だとして排斥し、そのような非合理的な行動を 「覚悟」 として賞賛するような心性。 それは、たとえば忍耐に忍耐を重ねた最後の最後に、たった一人白刃を抜いて敵地へ乗り込んでいく、高倉健演じる仁侠映画の世界とも通じる、心情の純粋主義とでも呼ぶべきものであり、映画の中などでの美学としてならともかく、現実においては単純に賞賛されるべきものではない。 振り返ってみると、今月は仕事が忙しかったせいもあって、あまりブログの更新ができなかった。冒頭に書いたように、そもそも日常がなんの変哲もない暮らしの繰り返しであるから、あまり題材にするようなことがない。それに、採り上げたくなるような大事故や大事件などの類は、そもそもあまり起きないほうがよい。 書くことがなければ、なにも無理に題材を探してまで書くことはない。ネタ切れになれば、いろいろと充電することも必要である。常連のお客さんがつくのはありがたいが、かといって、「あなたのファンになりました」 というようなお客さんの期待に応えるために、無理に自己コピーを重ねたような記事を書いていてもしょうがない。それに、そのようなコピーを重ねていけば、いずれ自家中毒による劣化は避けられないものである。
2008.07.28
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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 とは、言うまでもなく川端康成の名作 『雪国』 の冒頭の名文句であるが(正直に言うと、それしか知らないのだが)、ここ数日は、「玄関の扉を開けると亜熱帯であった」 とでもいうような暑さが連日続いている。おいおい、わが家の扉は 「どこでもドア」 かよ、とつっこみたくなるような暑さである。 連日の暑さのため、あちらこちらで、お年寄りや子供などの熱中症による死者が相継いでいる。夏といえば、昔から甲子園の季節であり、今も各地で出場権獲得を目指した予選が戦われているが、このような暑さが続くと、いずれ夏の甲子園というのも、考え直さざるをえなくなってくるかもしれない。 わが家も国の省エネ政策に協力すべく(嘘です)、なるだけクーラーを入れないようにしていたのだが、もはや限界である。クーラーがなくては、とても仕事にならない。困ったものだ。 正月に始まったネット上の一部業界での 「騒動」 は、まだ余波が続いているようだが、個人どうしであれ組織とかであれ、お互いに言論を公開している以上、互いの批判や揉め事などは、あるのが当たり前なのである。「仲間」 どうしでの批判はやめましょうとか、「内輪もめ」 はよくないとかいうのは、ただのムラの論理であるし、そもそもそのような人たちの言う、「仲間」 だとか 「内輪」 だとかいうのが、なんのことだか分からない。 だから、そのような論争の存在自体は、なんら問題ではない。むしろ、そのような議論が存在しなくなれば、ネット上の言論は死んだも同然である。そのような議論をつうじて、新たな問題が浮き彫りになることもあるし、その過程で、それぞれの考え方の違いや、それぞれが抱えている問題も明らかになることもある。また、いろいろなことに目を開かされる人も出てくるだろう。批判も論争も大いにやるべきなのであり、「結論が出ない議論は無意味だ」 というような話には、必ずしもならない。 もちろん、誰も彼もが、「批判」 なるものをしなければならないわけではない。つまらぬ問題やつまらぬ相手を批判することぐらい、つまらぬことはないのだから、そのくらいなら別のことをしたほうが有意義だという判断は、当然のこととしてあるだろう。それに、人の好みはそれぞれであるから、「私は他人の批判などしたくない」 という人は、それはそれでよろしい。 しかし、それは単なる好みや判断の問題なのであり、他人の批判をしないという人が、批判をする人より道徳的に優れているわけでも、倫理的に高いわけでもない。ただ、「批判」 という行為は、お互いに感情のもつれを生みやすいというのは否定できないから、それに耐えられないとか、論の是非と人の好悪などの問題を分けられないといった人は、最初から議論になど参加しなければいいだけの話である(おお、ちょっとエラそー)。 たとえば、レーニンの党というと、有名な 『なにをなすべきか』 で展開された 「民主集中制」 原理による 「一枚岩の党」 というイメージがあるが、実際には革命前はもちろん、革命後も、党内では、国内・国外の様々な問題をめぐって、つねに侃々諤々・喧々囂々の論争が闘われていたのである。とりわけ、ブレスト・リトフスクでの、ドイツとの単独講和をめぐった対立は、ほとんど党の分裂に近い深刻なものであった。 1921年のクロンシュタットの水兵らの反乱という危機的な状況を受けて、党の決議で「分派活動」 が禁止されたのちも、そのような党内の論争そのものが問題視されるようなことはなかった。それが大きく変わったのは、レーニン死後に、スターリンがトロツキーを排除して権力を握ってからのことである。 したがって、問題があると感じた相手に対して、そのような批判をぶつけたり、論争をすること自体が 「内ゲバ」 なのではない。そうではなく、「やつは敵である。敵を殺せ」 とばかり、相手を 「敵」 と認定して、議論や対立そのものを力で圧殺したり、あるいは相手の批判を意図的に歪曲し、没論理的な中傷やデマを振りまいたり、批判を封殺するために言論上のルールを無視した攻撃をかけるような行為こそが 「内ゲバ」 なのである。 もっとも、最近はあちこちで論争をやりすぎたせいか、どうもやたらと 「敵」 を作ってしまったようで、こうしている間も、なにやらどこかで、ごそごそいう声が聞こえるような気がするのだが(空耳か?)、罵倒というものにも由緒正しき作法というものがあるのであり、ただただ本人の下卑た劣情と、あからさまな敵意しか見いだせない罵倒ほど、つまらぬものはない。「文は人なり」 という言葉があるが、ほんのちょっとした罵倒にも、その人というものが表れるのだ。
2008.07.26
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やつは敵である。 敵を殺せ。 いきなり物騒な出だしで申し訳ないが、これは超難解なことで有名な未完の小説 『死霊』 の作者 埴谷雄高がちょうど半世紀前に書いた、「政治の中の死」 というエッセーの中の一節である。この言葉のあとに、埴谷は 「いかなる指導者もそれ以上卓抜なことは言い得なかった」 と続けている。 これもまた古い話だが、大江健三郎がどこかで、逮捕された連合赤軍の兵士の一人が、「私はドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』 を読みたい。なぜならそこに私たちのことが書いてあるから」 と言ったという話を書いていた。 これはむろん、正しくは 『悪霊』 のことである。人間の自由を証明するために自殺するキリーロフを初めとして、奇々怪々な人物が多数登場する 『悪霊』 の主題の一つは、陰謀的な 「革命組織」 による同志殺しである。これはネチャーエフという実在の人物が起こした事件がモデルであり、ネチャーエフの言葉としては 「革命家とは予め死刑を宣告された存在である」 という一文が残されている。 一般に、連合赤軍のリンチ事件というと、森恒夫と永田洋子が起こした山岳ベースでの 「総括」 の名による同志殺しをさすが、実はその前、すなわち連合赤軍が結成される前に、その片割れである日共革命左派・京浜安保共闘を名乗るグループが、千葉の印旛沼で二名の 「同志」 を逃亡を図ったという 「罪名」 で処刑している。 このことを、組織統合後に革左の指導者だった永田洋子から聞かされた森恒夫は強い衝撃を受け、その結果、赤軍派の指導者として革左に負けてはいられないという対抗意識からか、「共産主義化論」 なるものを編み出し、組織内の粛清とリンチへと進んだのではないかという見方もある。 反日嫌米戦線「狼」という、いささかどん引きしそうな名前のブログを開いている 「死ぬのはやつらだ」 氏によれば、浅間山荘事件の直前に、近くの軽井沢駅で逮捕されて20年の刑を宣告され、ちょうど10年前に出所した植垣康博氏は、逮捕の翌年の正月に拘置所で自殺した森恒夫について、「他人の欠点を探し出す天才だった」 と語っているそうだ。 森はもともと一時期赤軍派の活動から離れていたのを、幹部の相継ぐ逮捕で指導部の層が薄くなったために、請われて活動に復帰したそうだが、その一時的な 「脱走」 という過去が一種のコンプレックスとなって、彼をその過去を知る古参幹部の排撃と、より過激な武闘路線へと走らせたのかもしれない。 森恒夫に限らず、植垣氏が言うような指導者というのはたしかに存在する。スターリンもそうだろうし、かの麻原彰晃もそうだろう。スターリンの場合は国家の指導者だから規模が全然違うが、一般にはその手の指導者というものは、組織の下部成員に対して事細かで、しかもいささか気まぐれな批判を行うことで、組織内に恐怖政治を敷いて組織を統制し、下部メンバーを自分の言うがままに動くただのロボットにしてしまう。 ネチャーエフが同志殺しを行ったのも、麻原が富士山麓のサティアンで秘密のうちに信者殺しを行ったのも、ひょっとするとたんなる 「粛清」 だけでなく、メンバーらを陰惨な 「悪」 に加担させて共通の秘密を持たせることで、もはや引き返せない状況に追い込み、それによって組織の求心力を高めるという目的もあったのかもしれない。 植垣氏はもともと弘前大の出身だが、「長征」 と称して組織再建のための全国行脚をやっていた赤軍派のオルグを受けて、赤軍派に加盟したのだそうだ。その後、組織の資金作りのために数人であちらこちらの郵便局や銀行を襲った、いわゆる 「M作戦」 にも参加している。 学生の頃、ずっと上の先輩から聞いた話によれば、わが母校にやってきた赤軍派のオルグは銃を構え指で引金を引くまねをして、「これからの闘争は、君たちこれだよ」 みたいな大法螺をふいたそうだ。おそらく、当時の植垣氏の心境は、「見る前に跳べ」 とでもいうようなものだったのだろう。 連合赤軍事件にいたる闘争の過程で 「運悪く」 逮捕された者は、その結果 「同志殺し」 という大罪を犯すことから 「運よく」 免れ、逆に最後まで 「運よく」 逮捕を免れた者は、結果的に 「同志殺し」 という大罪を 「運悪く」 犯すことになってしまった。 すでに亡くなった作家の中上健次も、当時赤軍派からオルグを受けたというようなことを書いていたが、同時代の若者らにとっては、ほんのちょっとした決断や判断の差や、あるいはただの偶然だとかによって、その結果には大きな違いが生まれることになった。「人間 万事塞翁が馬」 という言葉もあるように、なにが良くて、なにが悪いかなど、あとになってみなければ分からないこともある。 熱気に満ちた時代というものは、それにわずかに乗り遅れた者らによって、しばしば憧憬の対象とされ、過度に理想化されがちである。しかし、あのような熱気にうなされたような時代にもし立ち会っていたなら、はたして自分が 「同志殺し」 や 「内ゲバ」 の当事者にならなかったなどという保証などどこにもありはしない。「時代」 の恐ろしさとは、そういうものなのだ。 ところで、森恒夫や永田洋子がやったような 「批判」 とは、言うまでもなく指導部の権威を振りかざした、上から下に向かってのみ行われるものであって、下から上に向かっての批判が行われることはありえない。また、そのような組織内での 「議論」 というものは、あくまでも指導部とその方針の正しさを前提としたものであって、指導部の 「正しさ」 自体を疑うことは許されない。 そういう意味で、そのような 「批判」 や 「議論」 などというものは、政治党派やカルト教団のような閉じた組織内で、ただ組織の統制と締め付けのためにのみ行われる、偽りの 「批判」 であり 「議論」 なのであって、本来の意味における自由で開かれた批判活動や議論とはまったく別物なのである。 その決定的な違いは、議論において外部が意識されているかいないか、外部に向かって開いているか閉じているか、また、そこにけっして疑ってはならないドグマやタブーが存在しているかいないか、ということにある。
2008.07.19
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一昨日、北朝鮮の観光地である金剛山で起きた韓国人女性の射殺事件に関連して、北朝鮮側は、「韓国政府の金剛山観光暫定中断措置については、『われわれに対する挑戦で耐えられない冒涜』とし『南側がきちんと謝罪し、再発防止対策を出すまで、南側観光客は受け入れない』と明らかにした。」 そうである。 北朝鮮政府は、韓国側が要求した事件に関する共同での現場調査も拒否したそうだが、さすがに二代続きの 「偉大なる将軍様」 が率いる革命国家に相応しい、いつもながらの超強気な発言である。金剛山は南北朝鮮の軍事境界線に近いところでもあるが、射殺された女性はおそらく早朝に海岸を散歩しているうちに、知らず知らず立ち入り禁止区域に入り込んでしまったのだろう。 これまたいつものことだが、事件についての北朝鮮の発表はきわめて不可解である。韓国政府が北朝鮮側から伝えられたとして発表した内容によれば、犠牲者である 「パクさんは観光客統制区域を越えて北朝鮮軍警戒地域に入り、哨兵が立ち止まることを要求したにもかかわらず逃走したという。そのため(北朝鮮側が)発砲した」 そうだ。 観光を計画した事業者も、「パクさんは観光客統制区域に設置されたフェンスを乗り越えて1キロほど北朝鮮側に入った。そのため停止命令を複数回出したがこれに応じず逃走したことから、哨兵が発砲した」 (参照)という北朝鮮からの説明を伝えている。 おそらく発砲した兵士にとってみれば、日頃上官から受けている命令どおりの行動を取ったにすぎないのだろう。たぶん、彼も金剛山に韓国人観光客が来訪していることぐらいは知っていただろうし、犠牲者である女性の服装から、そういう判断をした可能性もある。ただし、韓国人観光客が立ち入り禁止区域内に侵入した場合の対応まで、日頃から指示されていたかどうかまでは分からない。ただの推測にすぎないが、そのような場合の具体的な対応についてまでは、指示を受けていなかったということも考えられる。 本音を探れば、北朝鮮側も事件の発生には頭を痛めているはずである。金剛山観光事業は南北対話路線の象徴であるし、これによる北朝鮮の外貨収入は年間10億ドル近いという話もあり、これは現在の北朝鮮にとってはけっして無視できない額のはずだ。南北関係が一気に緊張し、観光事業を含めた経済関係が途絶することも望んではいないだろう。また先月始まったばかりの、アメリカによる 「テロ支援国家」 指定解除の動きへの影響も懸念しているに違いない。 いかなる国家においても、兵士とは命令と規則によって拘束された存在であり、そのとおりに行動することがつねに求められている。規則に従わなかった兵士が罰を受けるのは万国共通だが、そのような処罰は、独裁傾向の強い国家であればあるほど、一般に苛酷になる。北朝鮮のような国家であれば、わずかな違反でも銃殺刑に処せられる可能性もある。であれば、この場合、発砲した兵士を責めることはできないだろう。 おそらく、発砲した瞬間の兵士の脳裏には、その結果がもたらす南北関係への影響などは少しも思い浮かばなかったに違いない。いや、そもそもかの国においては、国際関係についてのまともな教育など行われてはいないだろうし、そのような知識も一般国民の間にはきわめて乏しいだろうから、そのような配慮を兵士に求めることなどは、土台無理なことでもあろう。 兵士と国民に対して、国家の命令に対する絶対的服従を常日頃から求めている 「革命国家」 の政府としては、命令どおりの行動を取った兵士はなにより賞賛すべきなのであり、いささかも非難するわけにはいかない。今回の兵士の行動について、政府がわずかでも遺憾の意を表したりすれば、一般の国民や兵士らの間に、国家の命令に唯々諾々と従うことへの疑念を呼び起こすことにもなりかねない。ましてや、かの国は 「偉大なる将軍様」 が率いる世界に冠たる革命国家なのである。そんな面目丸つぶれのようなことを、自国の国民の前でやるわけにはいかないのももっともである。 かつて、ドイツが東西に分かれ、東ドイツ内のベルリンが頑強な壁で隔てられていた時代にも、壁をこえることは命がけのことだった。昨年、旧東ドイツの国家保安省が残した大量の文書の中から、西側に逃げようとするものは子供であっても 「止めるか殺す」 よう求める明確な命令を記載した文書が見つかったというニュースがあった。作成者は分かっていないが、「たとえ越境者が女性や子供を連れていたとしても、武器の使用をためらってはならない。反逆者がよく使ってきた手だ」 と記載されていたとのことである。 ベルリンの壁での最後の犠牲者は、当時20歳だったクリス・グェフロイという青年だったそうだ。この事件が起きたのは1989年2月6日のことだが、ゴルバチョフの 「ペレストロイカ」 を受けて、東ドイツ国内での民主化運動も一気に加速した。9月には同じ東側であったハンガリーによるオーストリアとの国境開放を受けて、大量の市民が西側へ流出する騒ぎとなり、11月には東ドイツ政府による国境開放が発表され、翌年にはついにドイツ統一が実現した。 むろん、今回の事件はこのような例とはまったく異なっている。そもそも日本による植民地支配から、ソビエトによる占領と現在の 「社会主義」 国家成立へと、民主主義というものを一度も経験したことのない北朝鮮のような国家では、国家に対する公然たる抗議の運動が近い将来に生じる可能性はきわめて低いと言わざるを得ない。しかし、融通の利かぬ 「独裁政治」 というもののジレンマに悩まされているのは、いまやかの国の 「将軍様」 自身のようにも思える。
2008.07.13
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前回の記念すべき250本目の記事から、ずいぶんと間があいてしまった。仕事に追いまくられて、まとまった時間がとれなかったのだ。寝ている時間と飯の時間を除いて、一日中キーボードを打っていたので、しまいには腕がはれ上がりずきずきしてきた。それでも痛み止めを飲んで仕事を続けて、なんとか時間どおりにすべて仕上げたのだから、なかなかたいしたものである。とりあえずは、自分をほめてあげたい。 その合間に梅雨もあけてしまい、いよいよ本格的な夏になってしまった。いやはや暑い暑い。お天道様は連日エンジン全開。おかげで、夕方ともなると、あちこちで、小さな子供らがぎゃあぎゃあと泣き喚いている。まったく、たいへんな事態である。 先日、かつてはソビエト連邦の16番目の共和国と言われたこともあるモンゴルで、選挙をめぐって5人の死者を出す大騒ぎが起きた。現場にいた日本人の報道記者も騒ぎに巻き込まれて、重傷を負ったそうだ。 モンゴルのエンフバヤル現大統領は、まだ二期目に入ったばかりだが、彼の出身母体である人民革命党は 「社会主義」 国家であった人民共和国時代の独裁政党であり、ソビエト解体から始まった 「社会主義陣営」 崩壊の余波を受けた一党独裁の放棄後も、一貫して大統領を出し続けている。つまりは、わが国の自民党のようなものと見ればいいのだろうか。 いっぽう、南部アフリカのジンバブエでは、3月末に行われた大統領選で現職候補を上回る票を得ていた野党候補が、その後の政権側による露骨な弾圧で決選投票への出馬を断念し、その結果、1980年のジンバブエ成立以来のムガベ長期政権が維持されるという、なんとも珍妙なことになっている。ジンバブエの大統領の任期は5年だそうだから、新たな任期が終了するときには、すでに84歳のムガベ氏は89歳になるというわけだ。これまた、いやはやという話である。 今から半世紀近く前、フランスの植民地だったアルジェリアの独立闘争に参加したフランツ・ファノンは、白血病による死の直前の残されたわずかな時間を惜しむようにして書き上げた 『地に呪われたる者』 を、次のような文で結んだ。 ここ数世紀ものあいだ,ヨーロッパは他の人間の前進を阻み,これをおのれの目的とおのれの栄光とに隷属させた。数世紀来,いわゆる「精神の冒険」の名において,ヨーロッパは人類の大半を窒息させてきたのだ。…… ヨーロッパの真似はしまいと心に決めようではないか,われわれの筋肉と頭脳とを,新たな方向に向かって緊張させようではないか。全的人間を作り出すべくつとめようではないか――ヨーロッパは,その全的人間を勝利させることがついにできなかったのだ。 同志たちよ,われわれには第三のヨーロッパを作るほかになすべきことがないのか。〈西欧〉は〈精神〉のひとつの冒険たらんとした。〈精神〉の名において ――西欧精神という意味だ――ヨーロッパはその罪業を正当化し,人類の五分の四を隷属化したのも正しいことにしてしまった。…… だがこの場合に、能率を語らぬこと、仕事の強化を語らぬこと、その速度を語らぬことが重要だ。 いや、〈自然〉への復帰が問題ではない。問題はきわめて具体的であり、人間を片輪にする方向へ引きずってゆかぬこと、頭脳を摩滅し混乱させるリズムを押しつけぬことだ。追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない、人間を自分自身から、自分の内心から引き離し、人間を破壊し、殺してはならない。 1960年は 「アフリカの年」 と呼ばれている。第二次大戦前にはリベリアなど数ヶ国を除いて、アフリカのほとんどの地域が西欧の植民地であったが、現在は53の独立国が存在しており、国連の中では最大勢力となっている。しかし、アフリカがいまなお多くの問題を抱えていることは、いまさら指摘するまでもないだろう。西欧の侵略によって暴力的に世界史の中へ引きずり込まれたこの地域は、植民地支配の傷を抱えたまま、いまもなお血を流し続けている。 かつての独立の闘士は、いまや権力と富にしがみつくただの亡者になりはててしまった。「革命」 という理念を掲げた多くの国家や党派は、ただ現実の困難の前に座礁しただけでなく、道義的な正当性すらも失ってしまった。いや、むしろ、「理念」 などという安っぽいメッキがはげて、もともとの地金が露出したといったほうが正確なのかもしれない。 いったん国家が成立し、国家と国家の間に境界が引かれれば、民衆の上に立って独裁的な権力を握った者らは、権力の維持と拡大のみを自己目的化して、民衆の具体的な幸福よりも、隣接する諸国家との争いや、国内の対立勢力の弾圧や抑圧に血道をあげるようになる。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」 という有名な格言から逃れえる指導者や体制など、どこにも存在しはしない。 「能率を語らぬこと、仕事の強化を語らぬこと、その速度を語らぬこと」 「追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない」 たぶん、このような言葉は、36歳で死んだファノンが残したけっして多くはない言葉の中でも、いまなお重要な聞くべき価値があるものだろう。 ところで、今日は七夕である。七夕とは、言うまでもなく天の川をはさんだ織姫と彦星の年に一回だけ許された待ち望んだ逢瀬の日なのだが、織姫ことベガと彦星ことアルタイルの間の距離は、約15光年なのだそうだ。一方の星から光で合図を送り、その返事を受け取るのに、ほぼ30年かかるということになる。なんとも、壮大な遠距離恋愛ではないか。 おお、そういえば今日から北海道では 「洞爺湖サミット」 なるものも始まったのだった。
2008.07.07
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