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福田善之の 『真田風雲録』 といえば、40年以上前の作品であり、戦後戯曲作品の中でもすでに伝説となっている作品である。その名を耳にしてからすでに30年ほど経っているが、先日ようやくこの作品に触れることができた。 噂によれば、豊臣氏が滅んだ大阪の役を題材にしながらも、60年安保闘争の高揚と挫折を踏まえて書かれた作品ということであったが、実際に読んでみると、なんとも抱腹絶倒かつ痛快無比な作品であった。手にしたのは、図書館の新刊本コーナーから借りてきた、今年三月に早川書房 「ハヤカワ演劇文庫」 の一冊として刊行されたものであったが、ほんとうに、今まで生きていて良かった。 この作品がいかに斬新であるかは、たとえば、真田十勇士の一人である根津甚八の次のような台詞からも明らかだろう。浮浪人政権を打ち立てたとき、浮浪人はすでに浮浪人ではない。そのときおれたちがなんであるかは、そのときになりゃわかるのだ。以上、要約すれば次のとおり。一、このたびの戦いを徳川対浮浪人のたたかいと規定する。二、われわれは豊臣勢を利用して徳川を倒しさらに豊臣をも倒し、 おれたちのおれたちによる政権を打ち立てるために豊臣勢に 参加すべきである。浮浪人を評価せよ!このさい関が原残党的感傷は無益かつまったく有害である。 以上。 あるいは、もう一つ、同じ根津の台詞から従って、これからの課題をこう規定すべきである。大野(治長)、織田(有楽斎)らの支配する最高幹部会の否認、いや、打倒!そして明確な綱領と政権構想を持った新幹部会の樹立、すなわち全篭城軍の指導権を浮浪人の手に!どうだ、明確だろ。 以上のように考えます。 言うまでもなく、このようなことを17世紀の侍が言ったり考えたりしたはずはない。そんな言葉も概念も、400年もの昔にあったはずはない。また、この口調が60年代のいわゆる 「急進的左翼活動家」 のそれを模したものであることも言うまでもない。この作品では、そのような煩わしい時代考証など、はじめから無視されている。 実のところ、ここに書かれているのは、情況の停滞を嫌い、最終的な目標達成まで先鋭的少数派の行動によってたえず情況を切り開きつづけていこうという、60年代に登場した一種の 「永続革命」 的思考であり、挫折した夢なのである。 つまり、この作品では、大阪の役の戦いで、豊臣方として唯一鮮やかな戦いを見せた真田幸村率いる真田隊が、60年安保闘争の中で最も戦闘的に戦った当時の学生らに、その一方で大野治長ら豊臣方の幹部らが、「統一と団結」 という言葉で、彼らの先鋭な行動を抑えようとしていた既成左翼勢力に擬されている。 この作品、はるか昔に角川文庫に収められていたということは知っていたが、これまで30年間、どこの古本屋を探しても、ついぞ見かけたことがなかった。ところが、ちょっと調べてみると、なななんと六年前に新潮文庫で出た、ミステリー作家である北村薫編の 『謎のギャラリー 愛の部屋』 なる題のアンソロジーに収録されていたというではないか。 おいおい、そんなの聞いてないよ! という話である。そもそもミステリー作家編集の 『謎のギャラリー 愛の部屋』 なんて甘い題のアンソロジーに、かの名作 『真田風雲録』 が収録されているなんて、いったい誰に想像できる? 不親切にもほどがあるというものだ。 北村薫によれば、彼がこの作品を 「愛の部屋」 に収録したのは、他人の心が読め、姿を消すこともできるという猿飛佐助と、霧隠才蔵 (じつは 「むささびのお霧」 という名の女性ということになっている。そういえば、つかこうへいは 「沖田総司=女性」 説をとなえていたが、それもここからヒントを得たのかもしれない) の悲恋、さらには政治的には対立しながらも、心の中では真田十勇士らの破天荒な生き方に憧れていたとされている、「大野修理の十勇士たちへの愛」 (北村) をこの作品のポイントとして捉えたからだという。 うーん、そう言われると、そうなのかもしれない。まあ、なにはともあれ、そのおかげでこの作品の面白さに触れたという人もいるだろうから、それについては文句は言わない。でも、さっそく本屋に行って聞いてみたら、もう品切れじゃん。 ところが、昨日、近くのBOOK OFFになんの気なしにぶらりと寄ってみたら、これがたった105円で売っていたのだった。まさに、天の助け、天はわれを見捨てず! ともいうべき事件であった。真田隊マーチ (劇中歌) 作詞:福田善之 作曲:林光 わッわッわッ ずんぱぱッ 織田信長の謡いけり 人間わずか五十年 夢まぼろしのごとくなり かどうか 知っちゃいないけど やりてえことを やりてえな わッ てンで カッコよく 死にてえな ぱッ んぱ んぱ んぱ ずんぱぱッ追記: あるところの情報によれば、福田善之はウルトラマンとウルトラセブンに、ちょい役で出演していたらしい。なんでも、「科特隊の隊員たちと、代々木のオリンピック競技場にあらわれた怪獣にむかってスーパーガンを放つ大活躍」 だったのだそうだ。ほほぉー。
2008.05.31
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先日、ある若いフリーの女性アナウンサーが自殺した。川田亜子というその名前を聞いても、たしかに聞いた覚えはあるが、顔はちょっと浮かばない、という程度であるから、とりたてて衝撃を受けたというわけではない。自動車内での練炭による自殺というのも、最近はなんだかよく聞くなあという程度のことである。 ただ、ひとつ気になったことは、この女性が自殺する二日前まで、『Ako's Style』 なるブログをつづっていたことである。たとえば、死の4日前にはこんなことを書いている。仕事の合間一番苦痛であります。昔は本を読んだりお茶をしたり、ぽーとしたり。楽しかったのに…今はせつないです。豪華なホテルのロビーで優雅に幸せそうにしている方々を眺めてながら、移りゆく景色に胸がきゅーとしめつけられます。2008年05月22日 いかにも、いわゆる 「女性らしい」 感覚的な記述である。短い文章ではあるが、その中に本人の素直な感情が、なんの飾り気もなくナイーブににじみ出ていると言えばいいだろうか。 昨今はまさにネコも杓子もブロガー時代である。「一億総ブロガー」 というのは、いささか大げさだが、とにかく小中学生から高年齢者まで、いろいろな人がパソコンや携帯を使ってブログを書き、一般に公開している。むろん小生もその一人であり、時代の流行にちゃっかり便乗しているわけではあるが。 多くのタレントや芸能人らも、「公式ブログ」 のようなものを書いている。おそらく、その背景には好感度アップやファンサービスを狙った事務所の方針とかもあるのだろうが、人気タレントなどのブログは、その熱烈なファンらにとっては、その人の生の感情とか内面とかにリアルタイムで触れることができ、「憧れの人」 と直につながっているかのごとき感覚を味合わせてくれるだけに、たまらない魅力があるのだろう。あえて言うならば、そこには「憧れの人」 のプライバシーを覗き見ることにも近い快感のようなものも、あるのかもしれない。 たしかに、上で引用したような 「飾り気のないナイーブな感情」 というものには、人の胸を打つものがある。だが、そのようなナイーブで、しかもいささかナルシスティックな感情の表出は、ときには多くの人が無意識のうちに抱えている 「匿名の悪意」 のようなものを刺激し、発動させることもある。実際、そのような例は、過去にもあちらこちらで見られる。 とりわけ、有名人が実名で公開しているブログは、多くの人の読むところであり、また本人がばっちり特定できるだけに、そのような 「悪意」 (それはときには、「社会正義」 であるかのごとき仮面を被っていることもある) の標的になりやすいように思える。 過去に、彼女のブログで、いわゆる 「炎上」 が起きたことがあるのかどうかは知らないが、イージス艦と衝突して沈没した漁船の乗組員についての発言が原因で炎上にいたった、「しょこたん」 こと中川翔子の例など、芸能人のブログがちょっとした 「失言」 で炎上にいたった例はいくらでもある。 小生のような無名の人間にとっては、自費出版のような金もかかり、面倒なことと違って、ブログは簡単に自分の文章を公開することができ、その結果、いろいろな欲望を手軽に満たすことを可能にするツールでもある。だが、たとえ匿名であろうと、ネットにブログを公開するということは、「悪意の人」 をも含めた、多くの人々の視線と欲望の前に自己をさらすということでもある。 たとえば、かつてならば親にも見せなかったような 「秘密日記」 に書いたようなことを、実名であれ匿名であれ、ネット上に公開するということには、どのような意味があるだろうか。たしかに匿名であれば、それを書いたのが誰であるかは他人には分からない。しかし、言うまでもなく、少なくとも本人は、それを書いたのが自分であることを認識しているだろう。 それは、親にも見せない机の中の 「秘密日記」 の場合でもむろん同じではある。しかし、自己以外の他者の視線がまったく介在しないそのような場合と、たとえどこの誰だか分からず、また書いている本人のことについてもなにも知らない 「赤の他人」 であるとはいえ、不特定の他者の視線が介在してくるウェブ日記の場合とでは、おそらくなにかが違ってくるはずである。 そして、そのようなナイーブな文章に、たとえばまったくの赤の他人である未知の誰かから、「感動しました!」 とか 「負けないで!」 などという、いささか無責任なコメントが寄せられれば、書いた本人のナイーブな自己像は、いわば 「他者による承認」 を得たことになり、無意識のうちにさらに強化されることになるだろう。それがとくに 「苦悩するわたし」 とか 「可哀想なわたし」 というような自己像であれば、そのような自己批評性を欠いたナイーブな自己表出は、いったいどこへ向かうことになるだろうか。 二週間ほど前、内田樹さんが 「被害者の呪い」 というエントリーでこんなことを書いていた。自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。 (中略)「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。 内田さんがここで論じていた問題とはやや異なるが、そのような 「苦悩するわたし」 とか 「可哀想なわたし」 といった自己イメージをネット上に公開することもまた、やはり同じように自分自身に呪いをかけることであり、自分をそのようなものとして、そのままの位置に釘付けにすることではないだろうか。 中国の古い言葉に、「綸言 汗のごとし」 という言葉があるが、いったん発した言葉は二度と取り消せないというのは、なにも天子や貴人のみに限られたことではない。むろん、自殺したフリーアナウンサーが、いったいどういう悩みを抱えていたのかは分からないし、彼女がブログを書いていたことと、彼女の自殺とを直接結び付けようという話をしているわけでもない。http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080526/1211790646
2008.05.28
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暑い! まだまだ五月だというのに、とにかく暑い。イギリスの詩人、エリオットは 「四月は最も残酷な季節だ」 とうたったが、日本ではやはり 「四月は最もやさしい季節」 のような気がする (『荒地』 の誤読だ、などという野暮なつっこみはなしでお願い)。 ところで、「五月病」 なる言葉が人口に膾炙するようになったのは、いったいいつ頃からだろうか。これも、いささか記憶にない。自分が大学に入った30余年前にはすでにあったような気もするが、あまり定かではない。 十年一昔という言葉があるが、まことにそのとおりで、テレビなどでときおり十年以上前の出来事などが話題になると、「えっ、あの話って、そんな昔のことだっけ」 みたいな、軽いショックに襲われることもしばしばである (「老化の始まりだ」 なんて言わないでね)。であるから、30年以上も前の話ということになると、まさに 「忘却の彼方」 のようなものである。 しかし、そのような 「五月病」 というようなものを感じた覚えはたしかにある。入学して1月たち、講義もひととおり進むと、なんとなく失望感のようなものに襲われて (もっとも、最初からそれほど期待していたわけでもないが)、講義をサボっては、大学近辺に並ぶ古本屋をはしごしたり、キャンパスの芝生に寝転んでなにやら読みふけっていたものだ。つまりは 「青春」 真っ只中だったのである (なんだか恥ずかしい)。 で、そのあげくに、純真な新入生を引っ掛けんものと虎視眈々と待ち構えていた邪悪なお兄さん・お姉さんにつかまり、とうとう4年で済むはずのところを5年かかって卒業する破目になったのであった。今頃謝っても遅いが、1年分の学費を余計に負担させた親には、まことに申し訳ないことをした。 先日、いささかある人とバトルを演じた 「事象の地平線」 の主宰者であるapjさんは、ネットでのコミュニケーションを円滑に進めるための原則として、「書いてあることのみを読み、書かれていないことまでは読み取らない」 ということを重要視されている。 「書かれていないことまでは勝手に読み取らない」 ということの重要性については、まったく同感である。それは、こちらの言葉で言えば、「過剰に主観を投影しない」 ということだ。ただ、いささかお互いの行き違いのようなものが生じたのには、おそらく 「書いてあること」 という言葉の理解に、多少の違いがあったからのように思う。 「書いてあること」 というのは、多少屁理屈を言えば、パソコンのモニター上に並ぶただの虫のような黒い染みにしかすぎない。そこから意味を汲み取るには、それまでに蓄積してきた自己の 「言語体験」 にもとづいて、自分が有するそれぞれの言葉についての観念 (意味) と一つ一つ引き合わせ、さらには文脈を押さえ、文章全体の意味も押さえながら、書き手の意図を推測するという作業は欠かせない。 そもそも、書き手と読み手の言語体験は、必ずしも同じではない。同じ言語体系に属する者どうしであっても、その言語体験は、年齢や地域、社会環境などによって様々である。その場合、辞書はたしかにお互いの 「共通理解」 を担保するうえでの貴重なツールではあるが、残念ながら、この世には完全な辞書などというものも存在しない。 いささか話をはしょるが、結局すべての言葉は文脈に依存しているのであり、同じ言葉が場合によっては 「ほめ言葉」 にもなり、「嘲弄」 や 「見下し」 のための皮肉や反語としても機能する。それは日常、誰もが経験することだろう。皮肉でもなんでもない正直な言葉を、邪推して勝手に腹を立てるのは馬鹿馬鹿しいが、かといって、皮肉として言われた言葉を正直に受け取って喜ぶのも阿呆なことである。 であるから、その意味においては、「読む」 という行為には、つねになんらかの 「解釈」 が必要なのである。文を読むとき、人は意識的であれ無意識的であれ、つねになんらかの 「解釈」 を行っているのであり、言葉の 「解釈」 をすべて禁止すれば、人は結局 「書いてあること」 すらまともに読み取れなくなるだろう。 「読む」 ということは、言うまでもなく読み手の主観の作用である。「書いてあること」 を読むのにも、主観(主体)の働きかけは必要なのであり、空っぽの頭脳で 「文字づら」 ばかり眺めていては、その内容を理解することなど不可能である。人間の意識とは、ぼおっとしていても目の前のものを映し出す鏡のようなものではなく、程度の差異はあれ、主体的で指向的な意識作用の働きがなければ、そこにはなにも反映されはしない。 つまり、文章を読むという行為には、そのような言葉の 「解釈」 が多かれ少なかれ必要である以上、「書いてあること」 と 「書かれていないこと」 との間に厳密な線を引くことなど、現実には不可能だということでもある。 文字だけによるコミュニケーションで、「書いてないことまで勝手に読むな!」 を原則とすることはもちろん正しい。しかし 「書かれていないこと」 まで読み取るという行為は、自分の読解力の低さを補うために行われることもある。また、多くの場合、人が無意識のうちに 「書かれてもいないこと」 を勝手に読み取るのには、それなりになんらかの根拠があるものでもある。 であれば、そのような行為に陥らないようにするために必要なことは、自分の 「読解力」 を上げる努力をすると同時に、そのような 「過剰な主観の投影」 が発動される根拠となっている、自身が無意識のうちに抱えている様々な偏見や心理的バイアスなどを自覚すること以外にないだろう。 どんな問題であれ、根本的な問題というものは、日々新たに再生産されている問題でもあって、一朝一夕に解決できるようなものではない。これまた当たり前の話であり、いささか身も蓋もない話ではあるが、そのような問題に対しては、万全の特効薬のようなものも存在しない。関連記事: ちょっとばかり反省
2008.05.27
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先日、ある場所で、ある人が発した 「私闘」 なる言葉について、黒猫亭と名乗る別の人から 「長文コメント」 による質問という 「長文テロ」 攻撃を受けてしまった。なので、やむをえずこちらも先方に匹敵する、総計10000字に達する長文レスでお返しをしたのである。まことに 「疲労困憊」 と 「徒労感」 でいっぱいの一日であった。 問題になった発言というのは、そもそも次のようなものである。わたしは、個人ブログには、そのように社会を動かすほどの影響力はないと思っていますので、むしろ、興味の合うかたとお話するという、趣味を意識してサイトを作っています。よそのブログとの論争なんて、その意味で、みんな「私闘」だと思っていますたんぽぽのなみだ これはまことにすっきりした文章である。国士気取りでなにやら 「天下国家」 を一人でしょった気になっている人や、「世のため、人のため」 とかいうご立派な看板を掲げるあまり、かんじんの自分の主体性や責任をどこかにおいてきたかのような人などより、はるかに個人としての 「覚悟」 を感じさせる文章である。 こちらに 「長文テロ」 攻撃を仕掛けてきた人は、「お前の解釈は、発話者を弁護することを目的として、恣意的に行われた解釈だ」 みたいなことを仰っていたのだが、そんなことはない。そもそも、もともとの言葉を読んだときに、なにも違和感も抵抗感も感じなかったということが、すでにそのことを証明している。 しかし、この言葉に違和感を感じる人も確かにいるようだ。そのことは理解できないわけではない。たしかに、「私闘」 なる言葉は一般には否定的な意味があり、否定的なイメージがともなう。 しかし、上の文章を書いた人だって、そのくらいは百も承知のことだろう。それを承知で、ことさらに 「私闘」 なる言葉を使っているとしたら、当然、そこにはなんらかの肯定的意味が込められているととるのが、むしろ普通ではないだろうか。そのように解釈することが、はたして 「書かれてもいないことを読み取る行為」 だとか、「発話者を弁護するために行われた恣意的解釈」 ということになるだろうか。むしろ、そのように言う人は、言葉や文章に対する 「感性」 や 「想像力」 の重要性というものを、あまりに無視してはいないだろうか。 たしかに特定の相手を対象とした論争文とかであれば、意味を可能な限り一義的に確定できる、曖昧さのない文章を書くことが求められるだろう。そのような必要性についても、否定はしない。しかし、相手の意図を推測しながら文を読むということも、やはり現実の 「対話」 においては必要ではないだろうか。そうでなければ、「対話」 などとてもまどろっこしくてやってられない。 むろん、それは、勝手に自分の主観を投影することではなく、文章全体から読み取った発話者の意図にそって、個々の言葉の意味を推測するということだ。言葉の解釈などまったく無用な、すべての言葉の意味が一義的に確定される文章など、結局は 「これはペンです」「あれは鉛筆です」 といった、ほとんど無意味で単純な文に限られる。複雑な構成によって一定の主張を行う文章を、つねに一義的に意味が確定されるように書くことは、目標とすべきではあっても、現実にはほとんど不可能なことである。 そもそも、どこの誰とも徒党を組まず、いかなる組織や団体にも参加しないことを、長年のモットーにしてきた自分としては、別に問題にされたもとの発言があろうとなかろうと、自分があちこちでやる議論などについて、「私闘」 と表現することになんのためらいもない。 まさに、「私闘」 でけっこう、「私闘」 でなにが悪いと、こっちのほうから積極的に言いたいくらいである。 「私闘」 であればこそ、その戦いにおける責任はすべて自分が負わねばならない。「私闘」 なる言葉にこだわる人たちは、どうしてもそのへんの感覚が理解できないようだ。結局、そこに示されているのは、単語一つをとっても、その単語に対する感じ方や感覚はひととおりではない、というまことに単純な事実である。 たとえば、この黒猫亭という方は 「私闘として主張された 『正しさ』 など他の誰にとっても意味はない」 と仰るのだが、そんなことはない。その責任を 「正義」 だの 「世のため人のため」 などというなにやらりっぱな理念に預けることが許されず、自分ひとりで負わねばならないからこそ、「私闘」 においては、自己の主張の正当性、論拠の正当性の一般性に細心の注意を払わなければならない。 たしかにこの広い世の中には、そのような責任感をそもそも持たない、でたらめな言いっぱなしの放言を趣味にしている人、根拠もない中傷や罵詈雑言の類をあちこちで振りまいている、胸の悪くなるような 「露悪趣味」 をお持ちの人とかも、いらっしゃるようだが、こちとら、そこまでは落ちぶれていない(つもり)。 聞くところによれば、論争になった相手の方たちは、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということを、文字による 「対話」 におけるモットーにしているらしい。 まことに 「その言うや良し」 である。そのモットーに対しては、寸毫も異議を唱えるつもりはない。しかし、実際には 「書かれている」 単語一つをとっても、その意味には幅や揺らぎがあり、人によって言葉の受け取り方や感じ方は微妙に違い、またその言葉が使われている文脈によっても微妙に変化するものである。 学術的に定義された言葉や概念ならともかく、普通に使用される言葉というものは、『広辞苑』 であれなんであれ、そのような辞書に示された 「語義」 にしたがって使われているわけではない。辞書に示された 「語義」 をいちいち参照しながら言葉を使っている人などは、少なくとも 「母語」 に関する限り、そうはいないだろう。 辞書に示された 「語義」 なるものは、そもそも言葉の定義などではない。日常語の意味は、辞書による定義によって生れるのではない。辞書での記述は、社会の中で多くの人々によって実際に使用されている様々な用例の中から事後的に抽出されたものであり、せいぜいのところ最も一般的な、いわば 「可もなく不可もなく」 といった程度の 「最大公約数」 的意味にすぎない。 三浦つとむ風に言えば、辞書に記載されている言葉などは、生きた現実の言葉ではなく、夏休みの宿題として提出する 「昆虫標本」 や、レストランのウィンドウに飾られた蝋で作った料理の見本のように、せいぜいのところ収集された言葉の見本であり、標本にすぎないのだ。 であるから、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、議論における最低限のルールではあるが、現実にはそう簡単なことではない。なぜなら、「書いてあること」 を読むという場合にも、すでに一つ一つの文脈や単語の意味について、なんらかの解釈を行うことが必要であり、要求されるからだ。 つまり、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、対話におけるルールであると同時に、「書いてあること」 についての質問やそれに対する回答など、相互の対話を通じてはじめて達成される目標でもある。 まことに、「対話」 というものは難しいものであり、ちょっとやそっとの 「共感」 などで実現できるものではないのだな、とまたまた痛感してしまったのだった。 追記: 「私闘」 なる言葉が一般に否定的なものとして使われ、またそのようなイメージがついてまわるのは、現代では通常この言葉が、政治家のような公人が、「公益」 を建前とし 「公益」 を隠れ蓑としながら、実は個人の私的利益追求のために行う争いを指すものとして使われているからだ。その限りでは、そのような争いが忌むべきものであることは言うまでもない。 しかし、公人でもない私人により、「公益」 などの看板を掲げずに、その人個人の利益のために行われる争いが、「公益」 追求を看板に掲げた争いよりも、一義的に低いものであるとか、忌むべき劣ったものであるとみなされるべきではない。 そのように見ることは、ダム建設や空港建設などを名目にした国家による一方的な土地収用に抗議し抵抗した人々らのことを、社会全体の 「公共の利益」 に対して私的利害で盾突いたエゴイストとして非難することと同じである。 「封建時代」 や戦前の 「軍国主義」 時代ならいざ知らず、個人による自己の利益をかけた争いは、その利益が正当なものである限り、単なる私的な争いであっても、けっして忌むべきつまらぬ争いとして蔑視されるべきではない。 文脈も考えずに、ただ 「私闘」 なる言葉を聞いただけで眉をひそめるような人たちは、個人の私的領域を公的領域(共同的領域)よりも一段低いものとし、私的利害を 「公益」 よりも無条件で劣ったものとし、私的利害にもとづいた争いを無条件で忌むべきものとする、とうに黴の生えた 「滅私奉公的」 イデオロギーにいまだに侵食されているのではないだろうか。
2008.05.22
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言うまでもなく、このタイトルは今は亡き寺山修司の書名からぱくったものである。調べてみたら、俳人で歌人で、詩人で戯曲作家で、映画作家でエッセイストで、おまけに競馬評論家で東北弁の達人でもあった寺山が亡くなってから、すでに四半世紀が経っていた。 まことに、「月日は百代の過客」 であり、「歳月人を待たず」 であり、「光陰矢のごとし」 であり、「時は金なり」 なのである。んっ、最後だけちょっと違うかも。 もっとも、寺山の本で有名になったこの言葉も、もとはアンドレ・ジイドの 『地の糧』 という本 (訳者はなんと、今東光の弟で、初代文化庁長官を務めた今日出海である) にある言葉であり、腎臓を病んで大学を退学して送った長い入院の末にやっと病気が快方に向かったころの、「ブッキッシュな生活から遠ざかろうと思いはじめた」 という、寺山の気持ちを表したものだそうだ。 たしかに、入院生活というものは退屈なもので、本でも読んでいる以外にやることがない。それが1月や2月ならともかく、20歳から23歳まで3年間も続いたというのだから、寺山の気持ちも良く分かる (ような気がする)。 ところで、ネット上に様々な 「一般大衆」 のブログとかが溢れるようになったのはいつ頃からなのだろう。新参者の小生にはよく分からないが、ときどき訪問する人たちのブログを見ると、たいていの人は2年とか3年、長くてもせいぜい4年とか5年ぐらいのようだ。 学者でもタレントでもない一般の人々にとっては、ネットは基本的に匿名の世界である。そこでは、被ろうと思えばいくらでも偽の仮面を被ることができる。中には、自分は博士号を三つも四つも持っていて、おまけに数ヶ国語を読み書きできるなどと、あやしげな豪語をしている人もいるようだ。 しかも誰もが手軽に情報発信ができるため、かつての近所のおばさんどうしの 「井戸端会議」 や、おじさんどうしの 「床屋政談」 のたぐいでも、ネットを使えば広く社会一般に発信することができる。それは、現実生活では簡単には得られない、「達成感」 と一種の 「全能」 性を得ることを可能にする。どうやら、ネットのこういう手軽さは、一部の人らの大脳を刺激して、様々な妄想や妄想に近いものを育んでいるようだ。 たとえば、ただの 「床屋政談」 程度の記事を書いていて、現実政治に影響を与えられる、なにやら立派な 「政治活動」 をしているかのごとき気分になっている人。ネットのあちらこちらで繰り広げられる個々ばらばらな論争を、「○○○へ殴りこんだ×××」 みたいに、とても分かりやすく解説してくれる人。 たまたま、ある問題について何人かの意見が一致し、行動がシンクロしたというだけで、「一味」 だの 「徒党」 だのと、なにやら禍々しい 「陰謀」 が裏に存在しているかに妄想する人。そして、そのあげくに、○○○はどこそこの 「工作員」 だなどという虚偽をでっち上げ、隙を見てはあちらこちらに通報してまわっている 「陰謀家」 気取りのおかしな人とか。 むろん昔でも、作家だとか思想家だとかへの熱烈なファン意識が嵩じてからか、勝手な恋愛妄想にふけったり、ついには、「あの人の作品は本当は私が書いたもので、彼が私から盗んでいったものなのよ」 なんて、とんでもな妄想に走るような人もいたことはいた。(参照) しかし、こういう妄想の類は、ネットのおかげで誰もが顔を隠したまま、国内はおろか、海外在住の人らとも簡単に交信できるようになり、人と人とのリアルな距離感というものが消滅したために、なにやらイソップ童話に出てくる、お母さんガエルの破裂寸前のおなかのように膨らんでいく一方のように見える (むろんちゃんとした 「統計調査」 とかをやったわけではないから、ただの 「気がする」 である)。 かつての一般市民にとって、情報世界は、マスコミを除けば、隣近所や会社の同僚らとの付き合いのように、お互いに顔が見え手が届く身の周りの範囲に限られていた。しかし、ネットの世界はフラットであり、そこには、かの草薙少佐の名言ではないが、手触りのないバーチャルな情報空間が茫々と広がっている。 そこには、ナイーブで 「善意」 の人らの現実感を失わせ、頭の中でしだいに 「妄想」 を膨らませていくという魔物が住んでいるかのようだ。とりわけ、目の前でそういう 「妄想」 に捉われかけ、精神の安定を失いかけているような人を見かけたりすると、それがいったいどこの誰なのかも分からず、手の差し伸べようがないだけに、とても痛々しいものを感じる。 ようするに、ネットには様々な魑魅魍魎・妖怪変化の類が棲みついており、下手に足を踏み入れたら、もがけばもがくほどはまり込んでしまう、アリ地獄のような危険な罠があちこちに仕掛けてあるのだ。しかも、困ったことに、そういう危険地帯には 「危険、立ち入り禁止!」 といった立て札が立てられているわけでもない。 やっぱり、ネットに夢中になりすぎるのは、子供だけでなく大人にとってもよくない。バーチャルな世界での身体は、必然的にリアルな世界での身体より何倍にも膨らんでいくものであり、そこには 「現実感覚の喪失」 という危険性がつねに潜んでいる。 昔はわが家も亀のように遅く、おまけに通信料もかさむダイアルアップだったので、ネットに繋ぐ時間も比較的限られていたのだが、今は光を使った常時接続である。おかげで思う存分に 「ネット生活」 を楽しめるのだが、そこには思いもかけぬ落とし穴も待っているようだ。 自分で、「あっ、これはやばい」 と思ったら、PCのスイッチを切り、線も根元から引っこ抜いて、近くの海岸にでも行って、思いっきり大きな声で叫ぶのが一番である。誰かがブログを閉じたり、閉鎖を宣言したからといって、その人が死んだわけでも死ぬわけでもないし、それがその人の判断であるなら、いくら長年の熱烈なファンだろうと、他人はその人の判断を尊重して黙っているべきだ。 むろん、海が嫌いな人や、海が近くにないという人は、山に行ってもいいし、ジイドと寺山の最初の言葉どおりに、「町へ行こう」 でもいい。ただし、ディズニーランドはあまりお勧めしない。行ったことはないけど。 それから、「ネットを閉じよ、書を開こう」 でもいいだろう。ネット上にごまんと溢れる、「9.11陰謀説」 だの 「地震兵器」 だのといったあやしげな情報に踊らされるくらいなら、ネットなど閉じて、まともな本の一冊でも読んだほうが、はるかにましである。 えっ、お前が言うなって。いや、まったくそのとおり。 こうやって、いまネットで遊んでいる時間を減らして、かわりに読書にあてれば、山のようにたまっている買ったままの本も少しは減るはずなのだ。
2008.05.18
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一昨日は5.15事件66周年の記念日であった。なにか記念の記事でも書こうと思ったのだが、仕事が忙しくてついつい書きそびれてしまった。 5.15事件とは、言うまでもなく右翼思想にかぶれた海軍の青年将校らが、民間から調達した武器で当時の犬養毅首相らを襲撃し、暗殺した事件だが、「話せば分かる」、「問答無用」 という、犬養と襲撃した将校らとのやりとりでも有名である。 ところで、もともと「はてな」のIDを取ったついでに開いた、はてなの別館のほうで、最近こんな箴言めいたものを書いた。 すべての全体主義は 「共感」 を強要する共同体の上に成立している。 他者の名を借りた怒りとは、しばしば最も欺瞞的で不実な 「怒り」 である。 最も残酷になれる人間とは、おのれだけは汚れておらず、 またおのれだけはけっして汚れることがないと確信している、 「美しい魂」 を持った者らである。 「共感」 とはしばしば善意にもとづく誤解の別名にすぎず、 「優しさ」 とは、おうおうにして自らが 「優しい」 人間であることを表明し、 またそのような者として承認されたいという欲求の発現であるにすぎない。「やさしさ」 の全体主義 思いついたことを脈絡なく書き留めた程度のことにすぎないが、実は最近いろいろと思うところがあったのである。この中の、「美しい魂」 を持った者ということについて、少し書いてみたい。 たとえば、フランス革命を例にとれば、ダントンやエベールら多くの政敵を断頭台に送ったロベスピエールも、私生活においてはきわめて高潔で私欲のない人間であったという。ちなみに、彼の盟友であり、「テルミドールの反動」 によって、彼とともに処刑されたサン・ジュストは美貌の持ち主でもあったそうで、「革命の大天使」 というあだ名がついている。 また、ロシア革命で言うならば、KGBの前身であるGPU(国家政治局)と、そのまた前身であるチェーカー(全ロシア非常委員会)で長官を務めた、ポーランド出身の革命家、フェリックス・ジェルジンスキーもまた、そのような 「美しい魂」 を持った人間であった。 彼と同じポーランド出身のユダヤ人で、当時はトロツキー派の一員であり、のちにイギリスに渡った歴史家のアイザック・ドイッチャーは、トロツキー三部作の第二部 『武力なき予言者』 の中で、この彼についてこんなふうに記している。 彼は清廉で、私心のない、恐れを知らない人間だった。つねに弱い者、悩んでいる者への同情に心を動かされる、深い詩的な感受性の持ち主でもあった。 だが、同時に、主義へのひたすらな献身から一種の狂信者になっており、主義のために必要だと確信したかぎりはどんな恐怖行為でもやってのける人物でもあった。 自分の高い理想主義と日常の屠殺仕事とにはさまれた絶えまない緊張のうちに、神経を張りつめて暮らし、生命力を炎のように燃え尽きさせた感じだっただけに、同志たちからはサヴォナローラ型の風変わりな「革命の聖者」と見られていた。 そうした清廉な性格にたくましい判別力のある知力が結びついていなかったのは、彼の場合不運なことだった。 彼は主義に奉仕しないではいられない人間であり、彼はその主義と自分の選んだ党とを同一視し、やがてはその党とその指導者たちとを同一視するようになった。 この本によると、1926年、レーニン死後の党内闘争の第二幕として起きた、スターリン・ブハーリン連合と、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフらのいわゆる 「合同反対派」 の争いの中で、彼はスターリンを支持する激烈な演説を党中央委員会で行い、演説が終わって演壇を降りようとしたところで、興奮のあまり心臓麻痺を起こし、「中央委員会が見ている目の前で」 死んだのだそうだ。
2008.05.17
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数ある小泉前々総理の首相時代の 「名文句」 の一つに 「感動した!」 というのがある。これは言うまでもなく、ひざの大怪我をおして土俵に上がり、武蔵丸を倒して優勝した貴乃花に対して彼がかけた言葉である。いつのことだったかと思って調べてみると、ちょうど7年前の夏場所の表彰式でのことだった。 この場所、前日の大関武双山戦でひざを痛めた貴乃花は、千秋楽での武蔵丸戦で敗れて13勝2敗で並ばれたあと、優勝決定戦でその同じ武蔵丸を上手投げで破って優勝杯を手にした。このとき、彼に優勝杯を手渡したときに言ったのが、「痛みに耐えてよく頑張った!」「感動した!」 という小泉前々首相の言葉である。 このときの貴乃花が 「一生懸命」 であったことは間違いない。だから、彼の気迫とその結果としての優勝が賞賛に値することもそうだろう。しかし、このとき力士にとって大事なひざに重傷を負っている貴乃花と、二度にわたって対戦せざるを得なかった武蔵丸の胸中は、いったいいかなるものだったろうか。 対戦相手の貴乃花が自力では歩けないほどの大怪我を負っていることは、すでに報道でも発表されていた。下手な相撲を取って彼の怪我をさらに悪化させれば、その力士生命そのものを奪うことにもなりかねない。このときの武蔵丸の戦い方は、どう見てもそういう相手への気遣いを強いられたことによる、中途半端なものだったような印象がある。 さて、「感動をありがとう!」 なる奇妙な言葉が、素晴らしい戦いをしたスポーツ選手らに対する感謝の言葉として、マスコミやその他の人々らによって使われるようになったのは、いつ頃からだろうか。 はっきりとしたことは言えないが、どうもサッカーのワールドカップあたりからのような気がする。この小泉前々首相の言葉も、少し時期的に重なるのかもしれない。なんでも八柏龍紀という人が、三年前に出版された 『「感動」 禁止! - 「涙」 を消費する人々』 なる本で、この奇妙な言葉について触れているそうだ。 こういう奇妙な言葉をなんの違和感も感じずに使っている人たちにとっては、おそらく世の中は 「感動を与える人」 と 「感動を受け取る人」 の二種類で成り立っているのだろう。むろん、おのれの技と体力の限りを尽くして戦うスポーツ選手や、素晴らしい迫真の演技、感動的な歌などを披露する芸能人らは前者であり、自分はあくまで後者なのだろう。 彼らにとっては、「感動」 とは自分で発見するものではなく、他人からきれいに加工され調理された出来合い品として与えてもらうものなのであり、彼らはそのような誰かが 「感動」 を与えてくれることを、まるで親鳥が与えてくれるエサを受け取るひなのように、ただ大きく口をあけて自分の巣の中で待っているのだろう。 これをいささかトンデモ経済学ふうに表現すると、前者は 「感動」 の生産者であり、後者は 「感動」 の消費者だということになる。後者の人々は前者の人々に対して、自分たちに 「感動」 を与えてくれることを日々求めており、前者から与えられた 「感動」 をむしゃむしゃと食べつくしては、その対価として 「感動をありがとう!」 なる感謝の言葉をかけているというわけだ。 その姿は、かつてのローマ帝国で、剣闘士と野獣との、あるいは剣闘士どうしの命をかけた戦いに拍手喝采し、ときには 「感動」 のあまり涙を流すこともあっただろう、ローマ市民らの姿にどこか似ている(もちろん映画でしか知らないけど)。 彼らも、おそらくは生き残るために力の限りを尽くしていた剣闘士の姿に、しんそこ 「感動」 していたことだろう。いや、それだけでなく、ひょっとすると戦いのすえに命を落として闘技場に横たわる剣闘士のむくろにむけて、「感動をありがとう!」 なる言葉をかけていたのかもしれない。 その種の人々は、ネット上でたまたま情緒的でナイーブな文章を書く人を見かけたりすると、「素晴らしい文章ですね。あらためて学ばされました」 とか 「感動しました。あなたのファンになりました」 といった、こちらの方が恥ずかしくなるようなコメントをなんの恥じらいもなく残していくような人らとも、なんとなく重なって見える。 多くの場合、そのような人らが求めているのは、相手との対話でも相互の理解でもない。本当に相手との対話とお互いの理解を求めているのなら、たまたまネットで出会っただけの見ず知らずの人に、そのような言葉を安易にかけられるはずがない。 ようするに、そこに表れているのは、相手を真に理解しようという人間的な欲求でもコミュニケーションの欲求でもなく、ただおのれの心の深い飢え、欠落を満たしたいという本能的な欲求だけであり、またそのような心の深い飢えを抱えている人の存在だけのように見える。 たとえば、プロジェリアという、常人よりも何倍ものスピードで老化が進む難病にかかったアメリカの少女、アシュリーの姿は、たしかに 「感動」 的である。彼女は同年代の少年少女はもとより、その2倍3倍の 「馬齢」 を重ねた世の多くの成人男女などよりも、はるかに透徹し成熟した精神を有している。 だが、彼女は言うまでもなく、世の中の多くの見ず知らずの 「赤の他人」 たちに 「感動」 を与えるために生きているわけではない。ただ、彼女は身近な人々に余計な気遣いをさせぬように、そしてなによりも限られた自分自身の命を、悔いを残さぬように精一杯生きているだけである。関連記事:「優しさ」 をめぐるちょっとした考察 今日はメーデーなのであった
2008.05.13
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恥を忍んで告白すると、実は先日某所で 「上から目線」 と言われてしまったのである。もちろん、こちらにはそんなつもりはまったくなかったのだが (とはいえ、そういう言葉が返ってくるかも、という予感はあったのだが)。 ことのきっかけは、あるひとがあるブログ記事につけていた、「私は権力は批判しますが 一般市民は批判しません! 」 という言葉について、いささか批判的なことを書いて送ったことにある。 それが誰の言葉であるかなどは、どうでもよいことなのでここでは言及しない。問題なのは、そのような言葉がなにを意味するのかということである。ところが、その人はなにをどう勘違いしたのか、これは 「上から目線だ!」、「自分の存在を否定するな!」 というような言葉で吼えまくってきたのである。 で、こちらとしては、ただもう、あぜーん、ぽかーんとするしかなかったのであった。 そもそも、その最初の言葉は、「権力」 ではなく 「一般市民」(ブロガー)に対する批判的な言及と考察を続けている人(参照) への明らかなあてつけであった。だから、そういう考え方はおかしいのではないかということを、指摘したにすぎないのである。 つまり、そこには、その発言をした人個人に対する攻撃のようなものは、いっさい含まれていないのだ (と自分では思っているのだが、どうもその人やその周辺にとってはそうではなかったらしい)。 人の感じ方というのはむろんそれぞれであるから、こればっかりはしょうがない。だが、そのような人が、日頃から他人への 「思いやり」 だとか、「やさしさ」 みたいなものを大事にしているというのだから、当方としては目が点になる。 どうやら、そのような人にとっては、「寛容」 とか 「優しさ」 とかいうものは、相手から自分に対して一方的に与えられるべきものなのであって、自分から相手に与えるというものではないようである。 「多様な価値観の尊重」 だとか 「多様な意見の尊重」 だとかいう言葉にしても同じことだ。 そういった言葉を日頃から掲げている人たちは、であるなら、お仲間どうしでの似たり寄ったりの言葉ではなく、自分たちとは違う視点や問題意識によって発言を続けている外部の人の言葉をこそ尊重すべきだろう。でなければ、「意見の多様性」 などという、ご立派な言葉をわざわざ言い立てる意味があるまい。 どれも同じようなことを書いた記事を仲間内でトラックバックしあい、「うんうん、私もそう思う」 とか、「××さん、がんばって」、「××さん、負けないで」 というような 「中学生の応援団長でも滅多に口にしない、歯の浮くようなこと」(「連赤」 事件の報を聞いた重信房子がアラブから寄せた 「隊伍を整えなさい」 という文章を評して、吉本隆明が言った言葉) を互いに言い合っていることに、いったいどれだけの意味があるのか。 いささか 「上から目線」 で言わせてもらえば、よりよい社会を目指して、「政治批判」 を主題にした言論を続けるというのなら、まずそのようなお互いのもたれあいや馴れ合い、ちょっと批判を受けるとすぐに 「上から目線」 だのと言って喚きだす惰弱な精神、さらには議論すること自体を嫌う怠惰な心性を克服し、「政治批判」 をする主体としての自己を確立することのほうが先ではないのか。 たとえば、正月の 「水伝」 騒動で、いったんは 「××に連帯します」だの 「××と共闘します」 だのというカッコいいスローガンをぶちあげた一部の 「政治」 ブロガー諸氏は、その後、形勢が不利になったとみるや、いっさい口をつぐんで知らんふりをし、まるで何事もなかったかのような顔をして、日々、新たな記事の更新に勤しんでいる。これが、いったい 「頽廃」 であり 「不実」 でなくてなんなのだろうか。(参照) そういう 「政治」 ブロガー諸氏の中身のない空疎な言動は、見ている人はちゃんと見ているのであり、そのような無節操な彼らの行動こそが、その言動に対する一般からの信頼を損ねているのではないか。いつの世にも、真の 「敗北」 というものは、他者や対立する相手などからではなく、みずからの思想と行動が招くものなのだ。 「寛容」 とか 「優しさ」 などという言葉をふだんは口にしながら、いったん他者から批判的な言及をされるや、頭に血が上り、見当違いのつまらぬ罵倒しかできぬような人らのいったいどこが 「寛容」 であり、「優しい」 のか。いささか狭量な人間である小生には、まったく理解できぬのである。 そもそも耳に心地よい言葉ばかりを言う人と、耳に痛い言葉を言う人と、どちらが信頼に値する人なのか。子供でもないのに、そんな簡単なことも分からない人が大勢いるということは、なんというかとても悲しいことである。 「多様な価値観」 とか 「意見はひとそれぞれ」 というような言葉で、たがいに議論しあうことを回避し、あるいは議論を封殺しようとする人たち。 また他人に対する「批判」は、相手を傷つけるからよくないなどと言っている人たち(本当は自分が傷つくのが怖いだけではないのか)。 こういう怯惰な精神は、結局は、議論をつうじて困難な問題を解決するという人間の能力と理性に対する不信を表明しているのと同じことではないのだろうか。
2008.05.10
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いわゆる左派・リベラル系などの政治批判をする人たちの間でしばしば言われるのが、「権力批判はいいが、一般市民に対する批判はよくない」 とか、「権力を批判する者どうしでの内輪もめはよくない」 といった言葉である。 「批判」 とはなにか、ということもそもそもの問題なのではあるが(批判とは、必ずしも相手を敵とみなして攻撃することを意味するわけではない)、このような言葉や発想は、いったいなにを意味するのだろうか。 むろん、「一般市民」 というものはそれこそ星の数ほどいるわけであり、間違ったことやおかしなことを言っている人らを、一つ一つしらみつぶしに探し出して批判するわけにはいかない。そんなことは分かりきっている。 だが、ここで問題にしているのはそういうことではない。また、上のようなことを言っている人らも、そのような意味で言っているわけではあるまい。問題になるのは文字どおりの無名の 「一般市民」 などではなく、たとえば匿名の私人ではあっても、ネット上などでそれなりに政治的な言論活動をしているような人のことである。 もちろん、ここで言う 「批判」 とは、ただの中傷や罵倒、個人攻撃や人格的な攻撃の類のことではない。あくまでも、その人が持つ、あるいはその人に代表されるような意見や考えに対する、冷静で論理的な批判ということである。 ここでまず指摘しておかなければならないのは、現代の 「民主主義国家」 における 「権力」 とは、社会の中の多数の支持を得ることによって、はじめて権力たりうるということだ。「権力」 なるものは、けっしてなんらかの目に見える 「実体」 として存在しているわけではない。「権力」 というものは、それを支え、それを容認する人々らがいるからこそ権力たりえているのだ。 であれば、「権力」 や 「権力者」 ばかりを批判することで、すべての政治問題や社会問題が解決するはずはない。ときにはそのような 「権力」 を支えている社会内部にまで、批判の矛先を向けることも必要になるだろう。政治というものは、つねに社会の反映なのである。 「権力」 を支持している人らは、ただ 「権力者」 に騙されているだけであり、したがって「権力」 の横暴を暴き出しさえすれば、彼らも目が覚めるだろうというような単純な話ですむのなら、誰も苦労はしない。「政治家のレベルは、その国民のレベルに比例する」 という言葉の意味は、そういうことである。 また、いま現に 「権力批判」 をしている者らの間にも、さまざまな立場や考えの違いはあるだろう。ただ 「権力批判」 をすること自体が目的なのではなく、その先の目標まで見据えるならば、そのような考えの違う者どうしで互いに意見を交換しあい、あるいは批判しあう必要があるのも、これまた当然の話である。 そもそも、現代の 「民主主義国家」 においては、ある意味 「権力」 を批判するぐらい簡単なことはない。言論の自由がいちおう保障された 「民主主義国家」 においては、誰もが政治について語ることができるし、「権力」 を批判することもできる。 しかし、当然のことながら、「権力」 の側はネット上などにあふれる様々な批判などに、いちいち反論してきたりはしない。「権力者」 も 「政治家」 も、それほど暇ではない。だから、誰もが 「権力」 に対しては安心して批判することができる。なにしろ相手から逐一反論されたり、自分の批判の弱点を突いてこられたりするおそれがないのだから。 ネット上にごまんとある、様々な 「権力」 批判や 「政治」 批判が、しばしば反抗期の子供による、親への甘ったれた反抗に似ているのはそのせいである。 批判した相手からの 「反論」 や、第三者からの 「批判」 といったことへの覚悟もなしに、ただ決まりきった言葉だけで 「権力」 なるものを批判したところで、そんな言論にいったいどれだけの力があるだろうか。そのような 「権力批判」 などは、せいぜい 「床屋政談」 にしかならないだろう。 もっとも、そのような人たちのやりたいことが、ただただ 「権力者」 や 「政治家」 らの 「不埒な悪行三昧」 を口を極めて罵倒することで、おのれが抱える様々な不平や不満を解消したいというだけであるならば、それはそれで構わない。 しかし、言うまでもないことだが、そのようないささか安易で無責任な 「権力批判」 などからは、しょせんどのような建設的成果も生まれはしないだろう。 そもそも、せっかくの誰もに開かれた広いネット空間なのである。そこで、ただ荒野に呼ばわるがごとき、壁に向かって叫ぶがごとき、なんの応答も返ってこない一方向的な言論しかしないというのでは、あまりにもったいないし、無意味ではないだろうか。 たしかに 「権力」 や公的性格の高い個人、団体に対する場合と、私人に対する場合とでは、「批判」 の仕方や姿勢に違いをつけなければならないときもあるだろう。また、個人個人が、それぞれに自分なりの方針を立てることは自由である。 それに誰しも、誰かに憎まれることになったり、おかしな人に絡まれたり、粘着されることになったりするような、ややこしくて面倒なことになど、巻き込まれたくはないのも、これまた当然である。 だが、であればこそ、そのような人に憎まれてしまうことも、面倒なことに巻き込まれることも意に介さずに、間違った言論やおかしな風潮に対して決然と批判を続ける人がいるとすれば、そのような人こそまさに貴重な存在というべきだろう。(参照1,2) もしも、「権力は批判するが一般市民は批判しない」 ということが、政治や社会批判を行う場合にとるべき正しい姿勢であり、普遍的な原則であると考えている人がいるとしたら、それこそがとんでもない間違いであり、大きな勘違いなのだ。 いささか 「正論」 ぽいことを言えば、そのような 「一般市民」 どうしでの、「おまえ、それはちがうだろ」、「なに、言ってんだ。この馬鹿やろう」(ちょっと口は悪いが)というような、活き活きとしたお互いの批判や論争、議論、言い合いなどがなくて、いったいどうして草の根からの民主主義というものが成立し定着するというのだろうか。 「議を言うな」 という昔の薩摩の言葉ではないが、内部からであれ、外部からであれ、他者の言論に対して批判を加えることそのものを 「内輪もめ」 だの 「内ゲバ」 だのと呼んでタブー視するような雰囲気や、他者からの批判をすべて自分への個人攻撃とみなしていっさい耳を貸さないというような狭量な精神が、本来の民主主義の理念とはまったく相容れないことぐらいは自明のはずである。
2008.05.07
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ここ二日ばかりはやたらと暑かった。すでに暦の上では夏にはいっているとはいえ、一部では最高温度が30度を越え真夏日を記録した地域もあるそうで、この先いったいどうなることやらと心配になってしまう。 ところで、心理学に 「共依存」 という言葉がある。この概念はきちんとした学問的概念とは言えないらしいが、もともとは、アルコール依存症の治療過程で発見されたことに基づいており、これを一言で表すと、「他者に必要とされることで、自分の存在意義を見い出すこと」(参考) ということになるそうだ。 それによると、施設のような家族から隔離した環境での治療によって、せっかく症状が改善した患者が家庭に戻ると、ふたたび以前の状況に戻ってしまうという事例があまりに多かったため、その家族環境を調査してみたところ、アルコール依存症患者と彼/彼女を世話する人間との間に、一種の 「依存関係」 が成立していることが発見されたということだ。 しかし、最近での説明としては、むしろ暴力ダメダメ男と、その暴力の被害者であり、何度も何度も別れることを決意しながら、男から 「俺はお前がいないと生きていけないんだー」 などと泣きつかれると、「この人を支えられるのは、やっぱり私しかいないのね」 てなことで、またもとのさやに収まってしまう女性との関係というような例がいちばんよく使われているようだ。 こういった共依存の関係は、参考にした上のサイトでは、次のように説明されている。 共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を (ひいては他者自身を) コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。 (加藤篤志) もっとも、人間と人間の関係というものは、多かれ少なかれ、なんらかの形で互いに依存しあうものであり、また 「他者による承認」 というのは、誰もが持っている人間の本源的な欲求でもある。したがって、これとよく似た関係は、その強さを問わなければ、さまざまな場面で普通に見られるものでもあるだろう。 たとえば、あちらこちらにいる、トンデモ系の 「評論家」 とその熱心な弟子や、小宗教の 「教祖」 とその信者、テレビで人気の 「人生相談回答者」 とその熱烈なファンというような関係も、やはり一種の共依存に近いものがあるように見受けられる。 さらに、もうちょっとこの関係の閾値を低くすれば、一対一や集団での友人関係などのような様々な場面での、「世話を焼きたがる人」 と 「世話に依存する人」 といった、「優しさ」 を与える人と 「優しさ」 を求める人との関係にも、いく分かは当てはまるかもしれない。 そこでは、「優しさ」 を与える人は 「優しさ」 を求める人から、まるで大食いのひなに餌を与える母鳥のようにつねに 「優しさ」 を与え、「優しさ」 を求める人に対して、どんな場合にも 「優しさ」 をもって接することが求められている。 いっぽう 「優しさ」 を与える人は、そのように 「優しさ」 を求める人らの欲求に一貫して応え続け、彼らから依存され頼りにされることに自らの存在意義を見いだし、そのことで自らの自尊心を満足させることもできるというわけだ。 しかし、このような関係では、「優しさ」 を与える人は 「優しさ」 を求めている人らから、つねに 「優しい」 人間であることを求められているのだから、当然ながら、そのストレスはきわめて大きいに違いない。 そのような関係がいつまでも続けば、いずれ 「優しさ」 を与える人は、「優しさ」 を求める人らの 「優しさ」 に対する欲求の餌食として食い尽くされ、自らを見失ってしまうということにもなりかねない。したがって、そのような関係は、たぶんいつかどこかで破綻せざるを得ないだろう。 言うまでもないことだが、お釈迦様かキリスト様でもない限り、人間には 「優しさ」 ばかりを振りまいていることなどできはしない。その反動は、たとえばそのような特殊な自閉的関係の 「外部」 に対する、無意識の敵意や過度の猜疑心といった形で、かならずどこかに現れざるを得ないだろう。 たぶん、こういった一種の共依存に近い関係を終わらせるには、「優しさ」 を与え続けてきた側の人が、どこかでそのことに気付いて、そのような役目を降りる以外にないだろう。あとは、「優しさ」 を与える役を引き受けていた人に対して、ただただ 「優しさ」 を求め続けてきた人らの側の問題なのである(*)。ちょっと関連している過去記事: 断言する快感と断言される快感 カリスマとカリスマ性
2008.05.05
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17世紀オランダの哲学者であったスピノザという人は、人間の 「自由」 というものを徹底的に否認したそうで、人間が自分の意志で行動しているというのならば、「宙を飛んでいる石だって、意識を持っていれば、いま、自分は自分の自由意志で飛んでいると思うだろう」 などと言ったそうである。 彼はまた、「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら努めた」(『国家論』 より) という言葉でも、知られている。「定義」 と 「公理」 に基づいた論証という数学的方法で書かれた、「エティカ」 に代表される彼の哲学は、一時の感情に流されることを拒否し、冷徹な目と論理で世界を理解しようとするという彼の精神の表れでもある。 しかし、そのような彼でも、生涯にただ一度だけ、イギリス・フランスとの戦争の中で、友人であった有力な政治家が興奮した暴徒らに殺されたときは、激高のあまり、自分の身の危険も顧みずに、 「汝ら野蛮人の中でももっとも陋劣なる者ども」 という暴徒らを激烈に非難する文書を、その殺害現場に張り出すという無謀な行為に出ようとしたという。 「論理的」 であることを大事にしようとする人は、しばしば周囲から、「優しさ」 や 「共感」、「寛容」 に欠けた、冷たく傲慢な人間だというふうに見られがちだ。だが、そこでそのような 「論理」 に対置される 「共感」 とは、多くの場合、金太郎あめのように、自分や自分たちと同じ顔をした者どうしの狭い輪の中での 「共感」 にすぎないように見える。 だが、世の中というものは、けして優しさを売りにしている人だけが優しいわけではないし、繊細さを顕わにしている人だけが繊細なわけでもない。ただ、その違いは、自分の言葉や行動に対する自覚=自意識の有無と、安きに流れること、低きに流れることを拒否して自分を律しようとする態度があるかどうかにある。 優しさを売りにしているサイトに人気が集まるのは、今の世の中、それだけ 「優しさ」 に飢え、「優しさ」 を求めている人が多いことの表れなのだろう。つまり、そこには 凸 と 凹 の関係、言い換えれば需要と供給の関係があるわけだ。しかし、そのような誰にでも分かる程度の 「優しさ」 や 「共感」 など、たいていは、たかだか半径3メートルの優しさにすぎない。 カメのゲンタ君の飼い主さんが言うように、人は「むかついた」とも「腹が立った」とも言わずに、怒っている時がある。「悲しい」とも「傷ついた」とも言わずに、悲しんでいる時がある。 だからこそ、だいじなのは、「分かりやすい」言葉以外も読み解く努力をする ということなのだ。 であれば、「他者への寛容」 ということを説く人は、自分が理解できない 「行動」 をする人に出会ったのならば、それを自分のありあわせの 「カテゴリー」 に押し込めて、安直な言葉で批評する前に、世の中には自分にはなかなか理解できない人もいるのだという事実をまず認め、そのうえで、その人がどういう 「思考」 と 「行動原理」 によって行動しているのか、じっくりと自分の頭で考えてみたほうがいい。(参照) それに、まず自分の頭でじっくり考えようともせずに、ただその場で思いついた程度の質問を次々と相手に浴びせたり、同じことを何度も何度も蒸し返したりするのは、けっして相手との 「対話」 を求める姿勢とは言わない。(参照) どこにでも転がっているにすぎないような自分の物指しと、自分の身の丈に合わせた甲羅だけでしか他人を判断できないのでは、「人との違いを容認する寛容さ」 だとか「他人へのやさしさ」 などというご立派な看板が泣くというものだ。 ところで、書き忘れたが、今日はメーデーなのであった。 立て、万国の労働者 !
2008.05.01
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