全14件 (14件中 1-14件目)
1
![]()
正倉院の宝物の中に、謎の卵形の石「雄黄(おおう)」があります。雄黄は、鉱物で言えば鶏冠石。その成分は、硫化ヒ素。ヒ素の成分が示すように、雄黄は毒物。雄黄は、何に使われたのでしょう。雄黄は顔料として使えます。しかし、当然、毒に侵される覚悟は必要。毒は、薬になるかもしれません。ヒ素中毒を恐れなければ。雄黄を使ったその者は、雄黄を毒と知っていたのか。知りながら、それを薬として天皇に渡していたら。正倉院に伝えられた、謎の雄黄。皇族の宝物庫に眠る毒物に、古からの怨念を感じます。「正倉院 雄黄」
2013.10.30
コメント(24)
![]()
明日香で誰もが訪れる、猿石をご紹介します。猿石も、飛鳥時代から伝わる石です。明日香を鬼の雪隠,亀石などから巡ると,どうしても猿石の訪問は帰り際となってしまいます。そのため猿石訪問は、私の場合はやや暗くなってから。今回も、夕日が眩しい夕方になりました。4つの猿石は、吉備姫王墓(きびのひめのみこのはか)内にあります。柵に囲まれ近寄れず、夕日で照らされて上手く撮影できず、すみません。4つの猿石には呼び名があります。まずは「山王権現」。とても立派な猿石です。次は「僧」。やや平面的な感じがします。「女」は猿石と呼ぶにふさわしい姿をしています。最後に「男」。夕日に照らされて、分かりにくくてすみません。「僧」以外の3個の猿石は、背面にも顔がある2面石です。しかし近寄れないので、見ることはできません。明日香の遺跡紹介が好評でしたので、続けてみました。次は本題の、明日香に行かなかった理由を書くことにします。
2013.10.28
コメント(17)

約1週間お休みしましたが、明日からブログに復活します。またよろしくお願いします。
2013.10.27
コメント(12)
![]()
今日は、この写真から。言わずと知れた「亀石」。1000円/日のレンタサイクルで、久しぶりに奈良の明日香を巡りました。今回のめあては「亀形石造物」。かつて私が明日香を旅した時には、まだ発見されていませんでした。「亀形石造物」亀形石造物は、謎だった「酒船石」の用途に答えを出しました。酒船石とつながる思われる亀形石造物は、水を使った施設です。道教を信仰した、斉明天皇が造ったと考えられます。「酒船石」女帝、皇極天皇は一度は天皇を退き、再び斉明天皇として天皇になります。そこには大化の改新で蘇我入鹿を暗殺した、中大兄皇子の思惑がありました。中大兄皇子は、母を政治の道具の様に扱い、斉明天皇に祀り上げます。しかし政治の実権は、中大兄皇子にありました。暴走する中大兄皇子は、朝鮮に出兵します。斉明天皇は、さらに九州の前線に送られ、飛鳥に帰ることなく九州で亡くなります。それでも止むことのない中大兄皇子の暴走は、白村江の戦いでの日本の大敗を招きました。我が子である中大兄皇子、後の天智天皇に、政治の道具にされた斉明天皇。彼女は、亀石、猿石や亀形石造物などの、石造作りに奔走したと伝わります。彼女の石造作りは道教に傾倒し、ただ現実から逃避したかったからかもしれません。かわいい亀石や、亀形石造物を見ていると、彼女の人柄が見えてくる気がします。ところで、なぜ私が今まで、亀形石造物を見に行かなかったのでしょう。それは、明日香の遺跡保護への姿勢の疑問からですが、その詳細は後日語ることに致します。
2013.10.21
コメント(20)

童謡「赤い靴」のモデルの日記、「それから」です。「赤い靴」にゆかりがある、東京,横浜,静岡の方は、ご存知の方も多かったようです。ゆかりの地には、銅像などのモミュメントもあります。それだけに、ご当地では有名らしいですね。【過去の日記1】 「すれ違う想い - 赤い靴 -」*靴つながりの日記、「ハイヒール」それから。主人公の名前、ルイ14世を書き忘れていました。失礼しました。絵の説明に書くつもりでしたが。当時はハイヒールは男性のファッションでもありました。次のルイ15世も愛用したので「ルイヒール」という言葉も生まれたほどです。【過去の日記2】 「ワタシ、キレイ? - ハイヒール -」*「しんこ」それから。「しんこ」はみなさんも、あまりご存じありませんでした。関東,東北の呼び方かと思いましたが、かならずしも一般的ではないかもしれません。予想外に鹿児島では「しんこだんご」と呼ぶとの情報をいただきました。みなさんのコメントにもありましたが、お菓子の呼び方は地域で様々ですね。【過去の日記3】 「和菓子に惹かれて - しんこ - 」*21日からの週は、日記の更新やご訪問が滞るかと思います。台風も接近していますが、ちょっと忙しくしておりますので。明日、21日は日記更新いたしますが。今回の台風27号は、925hPaと猛烈な勢力(10/20 15時現在)です。最大瞬間風速は、70m/sもあります。もし進路にかかった皆さんは、最大級の御警戒を。
2013.10.20
コメント(7)

少し前の日記「ツチノコ」の「それから」です。ツチノコの正体、私は「アオジタトカゲ」だと思っています。下記のリンク先に写真がありますが、足も分かりにくく、ツチノコそっくりです。下記のリンクは、トカゲの写真です。爬虫類が嫌いな方は、ご注意を。【ウィキペディア】 「ハスオビアオジタトカゲの写真」日本にも、輸入され飼育されています。ツチノコ説への反論としては、アオジタトカゲが日本で飼われ始めたのは、20世紀以降であることがあります。さて、このトカゲがツチノコでしょうか?【過去の日記】 「人間どもよ、捕まえてみよ - ツチノコ -」
2013.10.19
コメント(12)

その草は、場所を選ばず、よく育ちました。すくすくと茎が伸びる様から「すくすくくき」と呼ばれていました。秋になると、すくすくくきは野原一面に生えました。それはもう、見渡す限り、すくすくくきだらけです。ごらん、そこに、すくすくくき。ほら、あちらにも、すくすくくき。どこもいっぱい、すくすくくき。すくすくくき、すくすくくき、すくすくくき。すくすくくき、すくすくくき、すくすくくき。すくすくくきすくすくくきすくすくくき。あぁ、もう、めんどくさい。それから、その草は、すすきと呼ばれるようになりました。
2013.10.16
コメント(23)

秋の花、おみなえしの名の由来は様々ですが、粟飯(あわめし)にたとえる説がとても良い。おみなえしは、女郎花と書く。女郎の意味は、古くは「美しい人」だった。対をなすように、おとこえしという花もある。おとこえしは、男郎花と書き、白い花をおみなえしより背高く咲かせる。おみなえしの花は、小さく黄色い粟飯の様。働く夫に白飯を持たせ、妻は粟飯で我慢したという。現代の、街中を見渡そう。コンビニ弁当を食べる、男性サラリーマンがいる。たしかに、男は今も白飯を食べている。おとこえしは、今も男郎花。その時間、主婦はどうしているだろう。グルメランチを楽しんでいるだろうか。おみなえしが粟飯からというその説は、きっと忘れられてしまうことだろう。時が移り、女郎が美しい人の意味を失った、その郷愁に符合するかのように。【ウィキペディア】 「オミナエシ」
2013.10.14
コメント(15)
![]()
古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオ「クレオパトラ」こと、クレオパトラ7世フィロパトル。絶世の美女で知られる彼女は、毒の効果について数多くの人体実験を繰り返しました。クレオパトラは、その最期で、エジプトコブラに自らをかませたと伝わります。クサリヘビを使った説もありましたが、彼女の毒の知識から、その説は否定されています。エジプトコブラの毒は、神経毒。安らかに、眠るような死が訪れます。それに対してクサリヘビの毒は、びらん性の筋肉毒。かまれた箇所から多量の出血をし、皮膚はただれ、組織も壊死し、激しい痛みをともないます。血とただれにまみれた、醜いこの毒を、クレオパトラが選ぶはずはありません。最期まで、美を追及したクレオパトラ。その知識は、人体実験の結果から得たものでした。美の追求は、多くの犠牲をともなうもの。美しいものには、トゲではなく、毒がありました。【アレクサンドル・カバネル「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」1887年】
2013.10.12
コメント(16)

米の粉を水でこねて蒸した和菓子を、「しんこ」と呼ぶと知りました。米の粉は、うるち米を乾燥させた上新粉を使います。飴細工と同様に「しんこ細工」というのもあり、動物などを作ることも知りました。関東,東北などであるようです。ただ、見るうちに、「しんこ」と「ういろう」の区別がつかなくなりました。よく似た和菓子はよくあるもので、しんこもそうかもしれません。しんこは京都にもあるようですから、ちょっと探してみたいと思います。みなさんは、しんこ、ご存知でしたか。
2013.10.10
コメント(16)

切り裂かれ、あふれ出た鮮血は止まることを知らない。大穴を穿たれ、容赦なく打ち砕かれ、激しい力に引き裂かれる。激しい衝撃と振動に翻弄されつつ、ただ血の味を感じていた・・・。と、いうわけで、昨日、おやしらずを抜歯しました。中学生の頃に右下のおやしらずを抜きつつも、左下のおやしらずは放置していましたので。ご存知の方も多いと思いますが、下側のおやしらずは、抜歯が大変です。私の下のおやしらずも横向きに生えていましたので、簡単には抜けません。横向きのおやしらずの抜歯は、外科手術ですので、口腔外科で抜歯します。抜歯の手順をご紹介しましょう。麻酔後に、まず歯の側面からドリルで削り、歯を2つに割ります。口の中で大きな歯を割るために、恐ろしい音が頭に響きます。次に歯の根元の歯肉を切開します。そして残った歯の根元部分を除去します。最後に、縫合して終了です。今回の抜歯は、思ったより簡単でした。麻酔が良く効いていたためでしょう。ただ「歯が引っかかる時はあごの骨を削る」と言われた時は、帰りたくなりましたが。思えば中学生の頃の抜歯で苦労したのは、年齢の関係から、多くの麻酔を使えなかったためでしょう。ほとんど麻酔が効かない状態で、1時間以上に渡って歯を砕かれる痛みがトラウマとなって、今まで残りのおやしらずを抜けないでいました。麻酔は偉大です。食事には不自由していますが、腫れもひどくはなく、1週間後に抜歯をすれば終わりです。痛みはありませんが、鎮痛剤は飲んでいます。*ところで、先日、ルイ14世の日記を書いた理由をご説明しましょう。ルイ14世は、すべての歯を抜いていたことで有名です。それは主治医ダガンが、歯は万病の元と主張したことにあります。12回に及ぶ手術で、ルイ14生は、健康なすべての歯を抜きました。その際に、下あごを割られ、上あごにも鼻に抜ける穴が残ったと言われます。しかもこの手術を、麻酔なしで行い、消毒は焼け火箸で歯肉を焼いたと言うことです。王様でありながら、これでは酷い拷問です。さらに抜歯により、ルイ14世は流動食しか食べられず、絶えず下痢気味だったと言われます。医学や麻酔の進歩した、現代に生まれた私たちは幸せです。17世紀の王様になることよりも。
2013.10.08
コメント(19)
![]()
ねぇ、私の足を見て。綺麗でしょ。日頃の、バレエの成果なの。バレエの舞台には、15歳でデビューしてるのよ。わたしを「太陽王」と呼ぶ人もいるけど、バレエの舞台で太陽神アポロを演じたのがきっかけね。足がもっと綺麗に見えるように、ハイヒールをはいているの。貴族のみんなにも、ハイヒールを勧めているところ。最近ではハイヒールではなく、”ルイ”ヒールと呼ぶ人もいるほどよ。ねぇ、もう一度、綺麗なわたしの足を見て。ほんと、わたし、思うのよ。おとこの脚は、綺麗じゃなくちゃ。
2013.10.06
コメント(24)

「赤い靴はいてた 女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった」野口雨情作詞の童謡「赤い靴」。そのモデルは、明治35年、静岡県清水市に生まれた岩崎きみちゃん。きみちゃんのお母さんは、岩崎かよさん。当時は、未婚の母だったかよさんに、世間の風は冷たく、生活も楽ではありませんでした。かよさんは逃げるように、北海道開拓団に加わります。しかし、きみちゃんはまだ3歳。厳しい寒さと貧困に苛まれる、開拓団には連れて行けませんでした。かよさんはやむを得ず、きみちゃんを宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養子として託します。夫妻の帰国時は、きみちゃんもアメリカに渡るはずでした。「横浜の埠頭から ふねに乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった」遠くアメリカに渡っただろう、きみちゃんを、想うかよさんの親心。それを知った野口雨情さんは、「赤い靴」を作詞します。かよさんが、きみちゃんを思う気持ちを、雨情さんに語っていた時。きみちゃんは、意外にもアメリカではなく、東京麻布永坂町孤児院にいました。きみちゃんは結核に侵され、アメリカには渡れませんでした。そして、支えてくれる親もなく、ただ病魔と孤独に体を蝕まれていました。その悲しい現実を、かよさんは知りませんでした。大正11年、「赤い靴」が童謡になるその前に、きみちゃんは9歳で他界していました。もう一度逢いたかった、最期を看取る、母親もなく。「今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう」かよさんは、きみちゃんの死を知らず、異国での幸せを願っていました。きみちゃんの幸せは、お母さんといっしょにいることだったのに。「赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える」あの子のために、別れるのが良かったのだと、自分自身に言い聞かせる、かよさん。子の幸せを願う母の想いが、ただ空回りを続けます。
2013.10.04
コメント(25)
![]()
有名な海賊キャプテン・キッドこと、ウィリアム・キッド。彼は海賊になりたくはありませんでした。キッドは、私掠船の船長でした。その私掠船とは、イギリス政府が敵国フランス船の襲撃を許可した船。私掠船は戦力不足を補うために、民間船を利用する仕組みでした。1698年、キッドはクェダ・マーチャント号を襲いました。その船はフランス船である証明書をキッドに提示しましたが、実はイギリス船でした。キッドは誤ってイギリス船を襲い、海賊行為を働いてしまいます。フランス船以外を襲えば、それは海賊です。帰国後に、キッドは裁判にかけられます。キッドは無実を主張しましたが、無実の証拠「マーチャント号のフランス船証明書」は、政府の貴族によって隠されました。その理由は、キッドの私掠船のスポンサーにありました。キッドのスポンサーは、イギリスの著名な貴族たちでした。彼らの政敵は、キッドを海賊に仕立てることで、スポンサー貴族の責任を追及しました。さらに襲われた船が、東インド会社の関連であったことも災いしました。私掠船で利益を奪われていた東インド会社が、イギリス政府に圧力を加えたのです。事実、スポンサーの貴族たちも弾劾裁判にかけられます。そして無実を示す「フランス船証明書」は、数百年後に政府の証拠品の保管庫から見つかりました。裁判の中、キッドは別の船に対する海賊行為も余罪として追求されます。しかし私掠船と海賊船は区別し難く、他の私掠船も少なからず海賊行為を働いていました。そして最終的に、キッドは過去の部下のウィリアム・ムーアの殺害でも起訴されました。それはキッドに激しく抗議した部下を、反乱を抑えるためにバケツで殴り、誤って命を奪った過失致死でした。結果的にキッドは無実の証拠を隠されて、ありふれた余罪と過失致死から絞首刑に処せられました。そして「海賊キッド」を支援した貴族たちも、政界を追われることになりました。時代の波に翻弄された、キャプテン・キッド。彼の切実な願いが、聞こえてきます。「海賊王には、なりたくなかった。」(キャプテン・キッドの処刑)
2013.10.02
コメント(18)
全14件 (14件中 1-14件目)
1