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2×2=4、2×3=6、2×4=8。ににんがし、にさんがろく、にしがはち。小学生の頃に、九九を覚えたものです。しかし、江戸時代の九九は、36個しかありませんでした。2×3=6はありますが、 3×2=6はありません。2×4=8はありますが、 4×2=8はありません。数字を逆に並べた九九はなく、合理的に整理されていました。その一方で、「割り算の九九」がありました。そろばんで使う九九ですが、とても覚えにくいもの。掛け算の九九は36個、しかし割り算の九九は44個。両方足すと、覚える数はかなりあります。江戸時代に戻っても、覚える苦労は変わらないようです。しかし、そろばんを使わないなら、割り算の九九は不要です。ゆとり教育を目指すなら、九九を36個にしてはいかがでしょうか。【旭速算研究塾】 「割り算の九九」
2016.11.12
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急速に、カウントダウン、進行中。●10秒前 2011年、東日本大震災勃発。被害総額25兆円。 復興予算10年で32兆円を要す。●9秒前 2014年、日本の実質GNP前年比-0.1%。●8秒前 2015年、日本人口1億2千8百万人。 人口減少止まらず。生産人口減少。●7秒前 2015年、日本の65歳以上の高齢者比率26.7%。 人口比1/4を超える。 2025年には、75歳以上が3,657万人。 人口比約30%と推定。●6秒前 2015年、日本の対外資産負債残高954兆円。 25年連続世界一の最悪額となる。 負債残高は、国家一般会計予算の約10倍。●5秒前 2016年、熊本大震災勃発。被害総額4兆6千億円。 復興費は約7兆円の見込み。●4秒前 2016年、原発事故での福島からの移住者4万人超、いまだ復郷ならず。 原発関連死1368人。●3秒前 2016年、マイナス金利も流通資金増加につながらず。 3年半で250兆円を費やした量的緩和も、デフレを止められず。 国家一般会計予算の約3倍が消える。これが、今までの現実。そして、カウントダウンはまだ続きます。●2秒前 20xx年、活断層型群発地震、火山活動の活性化、 超大型台風、竜巻と、自然災害による被害の拡大が深刻。●1秒前 20xx年、南海トラフ巨大地震勃発。被害総額169兆円。 復興予算は国家一般会計予算の3倍に相当する、270兆円。 関西,中部の被害は壊滅的。日本は復興のための主要な経済基盤を喪失。●ゼロ 20xx年、日本の格付け急低下。 日本発の経済危機は中国に波及し、世界同時金融崩壊が勃発。・・・・・・。そして、もう何も残りませんでした。
2016.09.21
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昨日、NHKで戦艦武蔵に関する放送番組がありました。とても悲しい話でした。私は子供の頃、日本やドイツなど敗戦国の兵器についての本を多く読みました。特に、戦艦大和や武蔵は、とても空しい兵器と感じていました。戦艦大和・武蔵の46センチ主砲の最大射程は42km。日本国民は、その数値の大きさに酔いました。しかし、光学照準が主体の時代。42km先まで照準を合わせることはできません。命中率ゼロの主砲は、相手が当たりに来ない限り当たりません。「日本には浮沈艦、沈まない船があるから、負けることもない。」その迷信を国民に信じ込ませるために、巨大戦艦大和・武蔵は造られました。そのために、命中率ゼロの巨砲が巨大戦艦に搭載されました。使えない大和・武蔵は、終戦間際まで温存されました。航空機が主戦力の時代、巨大戦艦に勝ち目がないことは明らかでした。航空機が戦闘を左右することは、真珠湾攻撃で日本自身が実証していました。「心の支え」は必要です。しばしば日本国民は、強い精神力によって偉業を成し遂げます。例えば、スポーツ。負けてもそれを糧に自信を磨き、次戦で再起を果たす努力を日本国民は惜しみません。その結果、スポーツでは奇跡的な勝利も成し遂げます。今年のオリンピックでも、日本はメダルラッシュに沸きました。しかし、それは平和な世界であってこそのもの。戦争では、1回の敗戦は「死」を意味します。たった1回負ければ、死。常に金メダルを取らなくてはならないのが戦争です。そこでは、日本的な「負けを糧にする努力」は意味を持ちません。戦争にあるのは、死の確率計算と、その確率を補う物量。しかし、資源のない日本には、その確率を補う物量はありません。日本が戦争に勝つ力があると思う人がいたら、それは典型的な「平和ボケ」。資源のない島国に、戦争での勝ち目はありません。日本国民は、平和な時代にあってこそ、その真価を発揮します。「死」とは無縁な負けを糧に、切磋琢磨する日本国民はすばらしい。日本は、戦争をしてはなりません。平和の中にあってこそ、日本国民は強い。そのことを忘れないでいてほしい。
2016.09.04
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夏といえば、冷やしたキュウリ。キュウリは水分をたくさん含むので、熱中症予防にも効果的です。庶民の味方のキュウリですが、江戸時代の武士は、輪切りのキュウリを食べませんでした。理由は単純。キュウリの輪切り面が、徳川家の三つ葉葵の御紋に似ているから。キュウリさえも、うかつには食べられない。武士は不自由な身分でした。心置きなく、夏にキュウリを食べられる。この自由さに、感謝します。【徳川家 三つ葉葵の御紋】(ウィキペディア・フリーライセンス画像より)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2016.07.23
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熊本城は、非常に守りに優れた城でした。加藤清正は朝鮮出兵の苦労をもとに、熊本城を築城しました。特に熊本城には、清正の朝鮮での籠城の経験が生かされています。明治10年、熊本城は官軍の拠点となりました。西郷隆盛率いる薩摩軍は、熊本城に迫りました。薩摩軍の勢力は、1万4千人。それは近代兵器の砲撃による、50日にも及ぶ猛攻でした。しかし、熊本城は落城せず、薩摩軍を退けました。その結果、西郷隆盛は西南戦争に敗れたのです。敗戦後、西郷隆盛はこう述べました。「官軍に負けたのではなく、清正公に負けた。」熊本城は、籠城に強い工夫があります。例えば、畳はワラではなく、サトイモの茎で作られました。サトイモの茎は食用になり、兵糧攻めに強いからです。土壁にもワラではなく、サトイモの茎が使われ、壁にもカンピョウが練りこまれました。さらには、堀にもレンコンが植えられました。守りに強い熊本城は、人の攻撃には耐えました。しかし、あの大地震には、なす術もありません。自然の猛威は、人智を上回るものなのです。
2016.07.16
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徳川家康には、豊かな領国がありました。三河(愛知県),遠江,駿河(静岡県),甲斐(山梨県),信濃(長野県)がその領国です。しかし、豊臣秀吉の天下統一後、家康は江戸の地に異動となりました。当時の江戸は京都・大阪から遠く、湿地が広がる貧しい田舎。家康の力を恐れた秀吉による左遷でした。それにも関わらず、家康は天下統一後に、江戸の地に幕府を開きました。中心地の京都・大阪ではなく、豊かな三河地区でもなく、辺境の江戸を選んだのです。江戸の地は、京都の朝廷の介入を受けにくい。陸運・水運で、その要所となりやすい。他にも江戸にある利点を、家康は見出したのかもしれません。ただ言えるのは、家康にとって江戸は「住めば都」だったということ。そして、その事実を裏付けるように、東京は日本の首都となりました。どの環境、どの地にあっても、実力ある人は世界を変える。大切なのは、自分を信じ、希望を捨てないことなのです。
2016.07.14
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鎌倉時代の絵巻物、男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)。この絵巻物には、「八国一の醜女(しこめ)」が登場します。この時代、醜いとされて、国司にも相手にされなかった女性。その容姿は、出張った頬、金壺眼、眉を抜いて描き、天狗鼻、縮れ髪。好意的に解釈すれば、彫が深く、大きな眼。眉を整え、鼻は高く、ウェーブがかかった髪。現代ならば、美人なのかもしれません。時代によって、美的感覚は変わります。美的感覚もいつかは変わって、さて、私の時代はいつ来るのでしょうか。
2016.06.24
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鳥獣人物戯画に乱舞する「高山寺」の印。京都高山寺に伝わる、鳥獣人物戯画。鳥獣人物戯画は、甲・乙・丙・丁の全4巻から成ります。有名なのは、甲の巻。蛙と兎の相撲絵などで知られます。丙の巻,丁の巻には、人物も描かれています。だから、鳥獣戯画ではなく、鳥獣”人物”戯画が正式名称。残念ながら、鳥獣人物戯画は大きく損傷しています。有名な甲の巻も、本来は2巻だったのを、1巻にまとめたもの。1巻分の絵が失われ、張り合わせて巻物になっています。その際には絵の順番も入れ替わり、話の脈絡がありません。さらに巻物を見た人が、部分的に抜き取りました。そのため、さらに鳥獣人物戯画は、内容が分からない巻物になりました。さすがに高山寺も、絵の抜き取りに耐えかねました。巻物に乱舞する「高山寺」の印は、部分抜き取りを防止するため。ルール違反の抜き取りに耐えてきた、鳥獣人物戯画。そしてルール違反は、鳥獣人物戯画の中にもあります。蛙と兎の相撲合戦。なんと、蛙は兎の耳に噛み付きます。蛙が相撲に勝ったのは、ルール違反のおかげでした。(画像はウィキペディア・フリーライセンス画像より)文化財を大切に。鳥獣人物戯画に舞う「高山寺」の印は、文化財保護の難しさを伝えます。
2016.06.22
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「日本のピラミッド」を比べてみました。いずれも以前に訪れた場所です。まずは、奈良の「頭塔(ずとう)」。頭塔は、1辺30m、高さ10m、7段の石積みの塔。奈良時代後期、767年に東大寺の僧が築いたといわれます。瓦の下のくぼみには、石仏のレリーフが納められています。国の史跡に指定されています。春日大社の傍ですが、期間限定公開なのでまだ訪問されていない方も多いでしょう。最近、注目が集まっているとも聞きます。【頭塔】次は岡山の「熊山遺跡」。基底部が1辺12m、下段は7.7m、高さは3.5mです。奈良時代前期に築かれたといわれます。方形の竪穴があり、内部に陶製筒形容器がありました。この陶製筒形容器、奈良県の天理参考館に収蔵されています。やはり、国の史跡です。【熊山遺跡】陶製筒形容器も、天理参考館で観ています。天理参考館は、内部撮影可の嬉しい博物館。陶製筒形容器は、高さが1.6mもあります。【陶製筒形容器】熊山遺跡は頭塔に比べると小ぶりですが、この遺跡がある熊山に似た石塔は32基もあります。ただ、写真の熊山遺跡も山頂にありますので、アクセス良くありません。また周囲には、イノシシが土を掘った跡が、数多くありました。街中にあるけれど、通常非公開の頭塔。イノシシも多い、静かな山頂にある熊山遺跡。いずれも人を寄せ付け難いのが、仏教遺跡らしいところでしょう。 【 栗パイ 】< ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2016.02.13
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家猫が日本の歴史に登場するのは、弥生時代後期から奈良時代初期以降。平安時代になると、「源氏物語」でも家猫が登場します。しかし、奈良時代の「古事記」や「日本書紀」には家猫は登場しません。動物の歌も多い「万葉集」の4,500首の中にも、家猫は登場しません。日本人には家猫は、比較的新しい仲間です。弥生時代の遺跡からも、猫の骨の発見例があります。諸説ありますが、家猫は中国から渡来したと考えられています。家猫の登場は、稲作が始まり人々の生活に余裕が生まれてから。食料を蓄えた人間たちを、猫は見逃しませんでした。人間の食料をねらって歴史に登場した家猫。やはり家猫も、ハンターなのです。
2016.01.09
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線文字Aの解読が、期待されています。ギリシアで1400点を超える、多量の副葬品が発見されました。出土品には、ミノア文明様式のものも多く含まれています。ミノア文明の中心地、クレタ島。ここでは、今なお未解読の「線文字A」が使われていました。今回の発見は、この線文字Aの解読につながると期待されています。驚いたのは、クレタ島のクノッソスなどが世界遺産に認定されていないこと。教科書にも載るミノア文明の中心地が、世界遺産ではありません。ギリシアの経済情勢も影響しているのかもしれません。しかし文化財保護からは、世界遺産への認定が望まれるところ。最近、「○○遺産」認定の、不透明性が問題視されています。世界遺産の認定も、政治的要素や商業目的が強くなりすぎているでしょう。考えたい。世界資産の認定は、誰のためかを。【岐阜大学 小澤名誉教授のH.P.】 「クレタ島 ミノア文明とクノッソス」
2015.11.08
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青龍,白虎,朱雀,玄武。高松塚古墳の壁画でも有名な、中国の四神。四神の由来は、紀元前の中国の周の時代にあると言われます。周の政庁は、6つの官庁に分かれていました。そのうちのひとつに、礼法・祭典を司る春官がありました。春官では職域に応じて、4つの旗を使い分けていました。その旗の紋は、交龍,熊虎,鳥隼,亀蛇。その紋が漢の時代に伝わり、四神になったとされます。東の青龍,西の白虎,南の朱雀,北の玄武。古墳の被葬者は、四神に囲まれて眠りました。しかし、四神が実はお役人だと知っていたら、その眠りは穏やかではなかったに違いありません。
2015.09.30
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自動販売機の種類も増えました。その中でも、圧倒的に多いのはジュースなどの飲料の自動販売機。自動販売機の元祖も水の販売機でした。古代ギリシアのヘロンが考案した聖水の販売機です。参拝者が装置に硬貨を入れると、神殿で手を清める聖水が出てきます。硬貨の重みで水の弁を開く、単純な仕組みでした。単純ですが、参拝者は大変に驚いたと言われます。収益よりも、驚かすことに力点が置かれた自販機でしょう。さて今日も、自販機のスタートの声とともに、回り始めたルーレット。その結果は、驚きのない、いつもどおりのはずれでした。***9月のてんてこ舞い、相変わらず続いています。10月初めまではこの調子ですので、ご容赦ください。
2015.09.25
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世界同時株安の様相を見せています。株式投資には「恐怖指数」という指標があります。恐怖指数は、株式の先行きに対する投資家の不安を示す指数。この値も異常な高値となっています。日経恐怖指数をグラフ化しました。8月25日の値は、47.07と危機的レベル。平常時は10~20で推移する値ですから、まさに異常値です。過去の高値を見てみましょう。・2001年9月のアメリカ同時多発テロ: 44・2003年3月のイラク戦争勃発: 34・2008年9月のリーマン・ブラザーズ破綻: 42・2008年10月の世界金融危機: 89.53本日の恐怖指数は、ついに同時多発テロも、リーマンショックも超えました。「恐怖」が株式市場を支配しつつあります。本当の恐怖は、これからかもしれません。
2015.08.25
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原爆の日のニュースを聴きながら、フライパンで調理する。科学の進歩とは何かと、その時に想う。焦げ付かないフライパン、その表面は黒いテフロンコート。汚れが付着しにくく、熱に強い、テフロンの特性が生かされている。デュポンの商品名テフロン、材料名ポリテトラフルオロエチレン(PTFE)は、当初は作りにくく高価なものだった。高価すぎて使われない、テフロンを救ったのは、戦争だった。当時、原爆開発のマンハッタン計画が進行していた。その原爆の製造では、六フッ化ウランを運ぶ必要があった。腐食性が高い六フッ化ウランを運ぶパイプや容器に、使われたのがテフロンだった。原爆開発を前にして、テフロンの高価すぎる欠点は問題ではなかった。マンハッタン計画を通じて、テフロンの製造法が改良された。製造法の改良により、テフロンの低コスト化と実用化が加速された。テフロン採用の成果で、原爆が完成した。原爆は2度も日本に投下され、無数の命が奪われた。戦争は終わり、安くなったテフロンは、フライパンにも使われた。もう誰も、テフロンを、殺人兵器のための道具とは思わない。テフロンの過去が忘れられ、原爆投下の記憶すら忘れられつつある。忘れてはならないことすら、忘れられつつある。原爆の日のニュースを聴きながら、フライパンで調理する。これで良いのかと、何度も想う。
2015.08.08
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寺が集まった場所が各地にあります。いわゆる、寺町です。かつて、寺の周囲には、多くの民家がありました。寺は地域社会と結びつき、強い発言力を持っていました。それを嫌った大名たちは、寺ばかりを集め、地域社会から孤立させました。そればかりか、寺町を城下町の周辺に置くことで、外敵の侵攻に対する防御壁としました。力をそがれ、防御壁とされた寺町。社会から孤立した寺町は、表舞台から降りました。夏の日に、静かに歩く、寺町の通り。少し暗い、通りの影に目を落とせば、寺院が歩んだ辛い歴史が見えてきます。
2015.06.27
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最近では、日本人の身長も高くなりました。しかし、過去に戻るほど、身長が低かったわけではありません。弥生時代、稲作が広まり、食生活が改善されました。その結果、古墳時代には、日本人男性の身長は163cm前後にまで伸びました。しかしその後は、身長が低くなります。原因は、仏教の普及により、肉食が避けられたためとされます。さらに平均身長は低下を続け、明治時代の男性は平均身長155cmになりました。その後も身長が伸び始めますが、古墳時代の身長戻ったのは昭和の戦後のことでした。食生活はバランス良く。歴史もその事実を伝えます。【社会実情データ図録】 「身長の推移」
2015.06.06
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お酒、飲んでいますか?「魏志」倭人伝には、倭人は「人性嗜酒」とある。つまり、日本人の性格は酒好きということである。奈良時代の「大隅国風土記」には「くちかみの酒」が登場する。その造り方は、まさに「口噛み」である。村の男女が家に集まり、米を噛んで酒糟に吐き入れる。そのまま発酵させて、できた酒を皆で飲むという。噛んで、吐き出し、造る酒。まるで、昔のアニメ「はじめ人間ギャートルズ」の「猿酒」のようである。古代の酒は、濁酒か果実酒だったという。くちかみの酒も存在した。古代と現代で、酒の種類は違ったかもしれない。ただ、変わらないのは、いつの時代も日本人は酒好きということである。
2015.06.04
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日本人の祖先、縄文人と弥生人。最近、その縄文人が話題になりました。縄文人は、人類でも特に古い遺伝子を、日本人に伝えているというのです。その結果、日本人男性の3割は、人類でも古いY染色体「タイプD」。アジアでは、とても特殊なタイプです。【NHKニュース おはよう日本】 「分かってきた縄文人のDNA」説明では、縄文人は日本に残った古い人類。縄文人が残ったのは、島国で他の人類が侵入し難いため。この島国に生きる、縄文人。その特殊性を示す遺跡に、石川県の真脇遺跡があります。真脇遺跡は、縄文時代の大集落。そこに住む縄文人は、イルカを食べたことで知られています。出土したイルカの骨は、285頭以上。食用の他、油や骨も利用しています。島国らしい生き方を、縄文人はしていました。【能登町】 「真脇遺跡公園」現代、日本人は、捕鯨やイルカ漁で世界の批判を集めています。島国の行き方は、いつも孤独なものでしょうか。【過去の日記1】 「安全のためのはずが - ソナー -」【過去の日記2】 「ときには休もう - イルカ - 」
2015.06.02
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10円玉の図柄にもなっている、平等院鳳凰堂。平等院鳳凰堂の、かなりの体積を閉める両翼。あの両翼を見て、奇妙だと思うでしょうか。両翼は、中央の本堂につながっていません。それなのに、上に昇る階段もありません。両翼の屋根は低く、内部の高さは1メートルもありません。人が普通に立って、歩くことはできません。あの両翼は、実用性のない建物。あの両翼は、見せるためだけの飾りの建物。すべては美しく魅せるため。質素倹約の仏法の世界でも、美意識の欲求を前には、贅沢も無駄も惜しまない。あなたが無駄遣いをしたとしても、阿弥陀様も許すでしょう。それが、美しくあるためならば。「Wikipedia GFDL+creative commons2.5」
2015.05.26
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ゾロアスター教と聞くと、明日香の酒船石を思い出します。「酒船石」松本清張氏は、著書「ペルセポリスから飛鳥へ」で、酒船石を取り上げました。その著書で松本氏は、酒船石がゾロアスター教の薬酒を作るために使われたと推定しました。また、手塚治虫氏は、漫画「三つ目がとおる」の中で、やはり酒船石を取り上げました。主人公の写楽は、酒船石が「薬の調合」に使われたと謎解きしました。酒船酒には、石取りノミで削られた跡があります。近くの高取城を築く時に、石材として削られたとされます。「ノミの傷跡」破壊の苦難を乗り越え、酒船石は残されました。そして、人々にその用途の謎を問いかけました。では、本当の用途は何でしょう?そのヒントは、下記の過去の日記に書きましたね。【過去の日記】 「亀石は語る - 明日香 -」 しばらく、日記更新,ご訪問が不定期で滞ると思います。時期の関係もありますので、皆さんご容赦ください。
2015.04.20
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世界最古の宗教とされる、ゾロアスター教(拝火教)。ゾロアスター教は、アゼルバイジャンのバクーで盛んでした。バクーでは、石油が産出します。自噴するガスを燃やす炎は、信仰の対象となりました。「一度に、船百隻分の油が出る」東方見聞録に、マルコポーロもバクーの石油の話を書きました。バクーの石油は、その地に富とともに、災いを招きました。18世紀、ピョートル大帝も、石油をねらってこの地を征服しました。近代では、ノーベル賞のアルフレッド・ノーベルの兄、ロベルト・ノーベル。彼は、この地の石油産業を拡大し、石油王となりました。世界の石油の半数が、バクーの石油という時代もありました。この巨大な利権を、他も黙って見ているはずがありません。ロスチャイルドも、この地の石油産業に乗り出します。ノーベルとロスチャイルドの、熾烈な石油事業での競争が繰り広げられました。しかし、石油労働者の労働条件は過酷でした。不満はストライキのきっかけとなり、さらに革命が起きました。そして、ノーベルもロスチャイルドも、バクーから排除されました。今では、バクーの石油産業は国有です。火があるところに富があり、そして災いあり。石油があるところには、富も災いもありました。そして今、私たちを翻弄するのは、原子力の火の力です。
2015.04.18
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教科書にも掲載される「漢委奴国王」と刻まれた金印。これほど有名で、これほど怪しげな国宝もないでしょう。まず、発掘の状況が不思議。金印は、江戸時代、福岡県の志賀島で発掘されたとされます。発掘者の百姓は、甚兵衛とも、秀治・喜平とも言われます。田んぼの溝を清掃中に、石の下に金印はあったとされます。しかし、その場所は海辺近く。発掘で田んぼの跡はありましたが、周辺に遺跡はありません。また、志賀島には、漢の時代に相当する弥生時代後期の遺跡もありません。福岡県は海底の調査もしましたが、海底にも遺跡はありませんでした。金印は単独で、海辺近くの田んぼの溝の底に、1600年も埋まっていたことになります。しかも軟らかい金でできた金印は、ほぼ無傷の美品です。そんなことがあるでしょうか。「漢委奴国王」の読み方、意味も謎。持ち手の模様が蛇なのも特殊。文字の刻まれ方も特殊。不審な点は、数多くあります。金印は、福岡県の細石(さざれいし)神社から持ち出されたという説もあります。これなら、金印が無傷な理由も納得できます。さて、この金印が本物か。最も有名な国宝の疑惑解明に、挑んでみてはいかがでしょうか?【ウィキペディア】 「漢委奴国王印」 ※ ウィキペディアでも、偽造説を見ることができます。 また、下記にある本「金印偽造事件」でも、詳しく偽造説が語られています。
2015.04.09
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1933年3月3日、昭和三陸大津波が東北を襲った。津波の高さは約29メートルにも達し、岩手県田老地区(現宮古市)は、ほぼ家がない更地に変わった。田老の人々は津波から身を守るため、高さ10メートル,総延長2433メートルの大堤防を2重に築いた。1960年、チリ地震の津波が再び田老を襲ったが、大堤防は田老の人々を津波から守った。その結果、田老の大堤防は、世界中に知られることとなった。しかし、その大堤防に対する信頼が、人々を油断させてしまった。2011年3月11日、田老を襲った大津波は、大堤防の2倍以上の高さに達した。津波は巨大堤防を軽々と越えるばかりか、中心部の堤防は跡形もなく砕かれ、姿を消した。堤防への信頼から逃げ遅れた人々は津波にさらわれ、市街地は壊滅した。災害の記憶には、”3”の法則があるという。災害後、3ヶ月後には防災意識が薄れ、3年後には忘れ始める。30年後には災害の伝承が途絶え、60年後には地域が忘れる。300年後には地域から社会から忘れられ、1200年後には災害があったことすら忘れさられる。災害後、知られた宮古市の石碑。「高き住宅は児孫に和楽 想へ惨禍の大津波 此処より下に家を建てるな」2011年の大津波は、昭和三陸大津波から78年後。津波の本当の怖さを、まさに地域が忘れた時だった。石碑より低い土地に、多くの家が建ち並んでいた。守るための努力、その成果への信頼が命を奪う。伝えたい記憶、忘れられる記憶。たとえ、どれほど悲しくても、忘れてはならない記憶がある。
2015.03.20
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ワインと言えば、フランス。今日のフランスでは、ワインが日常的に飲まれています。しかし、19世紀半ばまでは、庶民にとってワインは高嶺の花でした。それまで庶民は、ブドウの搾りかすから作ったピケットという安酒を飲んでいました。ピケットさえも飲めるのは特別な時で、普段は水を飲むしかありませんでした。ワインが入手できなかったのは、その輸送が困難なことにありました。重いワインを運ぶのは、とても大変なことでしたから。ワインは主に、川を使って運ばれました。高価なワインは、ポンパドゥール夫人ら、一部の富裕層に愛されました。その後、庶民がワインを飲めるようになったのは、鉄道の普及のおかげです。19世紀後半の鉄道網の発達が、ワインの安価な輸送を可能にしました。商品の価格では、送料がネックなのです。ネットショピングでお悩みの方には、送料の重みはよくおわかりなことでしょう。
2015.03.11
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1455年のグーテンベルクによる聖書の印刷が、活版印刷の実用例として知られています。そして、そのグーテンベルクが借金で苦しんだことも、過去の日記で書きました。【過去の日記】 「借金は、勝者のあかし - グーテンベルク -」活字自体は、11世紀に中国で発明されていました。その活字は陶器でできた、膠泥(こうでい)活字でした。しかし、漢字は種類が多すぎました。そのために、元の時代に中国では活字は忘れられます。忘れられた活字は、モンゴルから欧州に伝わります。文字数が少ないアルファベットでは、活字がとても役立ちました。この活字を改良し、実際に活用したのがグーテンベルクです。日本でも、活字の活用は遅れました。しかし、活字を使わない、世界最古の印刷物は日本にあります。764年に称徳天皇が作らせた、百万塔陀羅尼が世界最古の印刷物。印刷された陀羅尼は、100万巻にも及びます。世界最古の印刷物を作った日本。もし、漢字を使わなければ、日本でも活字が普及したかもしれません。漢字は、種類が多すぎる。国際化の時代、多すぎる漢字の数は、徐々に見直されることでしょう。
2015.03.01
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大航海時代、羅針盤が使われました。当時も羅針盤や方位磁石が、南北を指すことは知られていました。しかし、その理由は謎でした。有名な説は、磁石が北極星に引き付けられるというもの。北極星に「磁石山」という、強力な磁力を持つ山があるとされました。地球自体が磁石だと気付いたのは、16世紀末のイギリスのウィリアム・ギルバート。北に行くほど、磁石の針が下向きに傾くことから気付きました。原理を知らず、羅針盤で大海原を航海した人々。人々は羅針盤の謎の力に頼り、未知の水平線の果てを目指しました。道の力に導かれ、羅針盤に命を託し。あらためて、その人々の勇気に感服します。【過去の日記】 「洋食器? - 指南 -」
2015.02.18
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日本にチョコレートが伝わった時期は、明確ではありません。ただ、1797年の「長崎見聞録」には、チョコレートが登場します。名前は「しょくらとを」と書かれています。「しょくらとを」は、砕いて熱湯で溶かし、卵と砂糖を加えて泡立てて飲む「薬」でした。「しょくらとを」は「私欲刺亜多(ショクラート)」とも書かれ、「回春剤」とされています。日本での回春剤としての紹介は、間違いではありません。アステカの王も妃と夜を共にする時、カカオを興奮剤・催淫剤として用いました。そして現代、チョコレートは愛の告白に贈られます。このバレンタインデーは、必然のイベントかもしれません。チョコレートメーカは、格言を思い出していたのでしょうか。「性の次なる、愛の文字を」【過去の日記】 「それでも飲み続けて - チョコレート -」
2015.02.05
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チョコレートの歴史は、紀元前1000年頃のオルメカ文明までさかのぼります。その後、チョコレートは、マヤ文明にも受け継がれました。マヤ族はカカオ豆をすりつぶし、湯で溶いて飲みました。さらにアステカ帝国では、ローストしてすりつぶしたカカオ豆を水に溶かし、トウモロコシの粉を加えて、泡立てて飲むようになりました。この時代、チョコレートを飲む特権は、王侯貴族たちだけに限られました。マヤ、アステカと、カカオ豆は高価なものでした。カカオ豆は通貨として流通し、優秀な奴隷ひとりは、カカオ豆100粒と交換されました。その後、アステカ帝国を滅ぼしたスペインのコルテスは、カカオ豆を欧州に持ち帰りました。そして、欧州で、チョコレートは再び変化しました。チョコレートは、熱い湯で飲まれるようになり、バニラやシナモンなども加えられました。さらに、チョコレートに砂糖を加えるという、大きな変化がありました。欧州でのチョコレートは、特別な高級品として扱われました。メソアメリカからのカカオ豆、そしてインドからの砂糖と、高価な輸入品が必要でしたから当然です。王族は高価な飲み物にふさわしい、高級陶磁器製のチョコレート・カップを使いました。太陽王ルイ14世と、その王妃マリー・テレーズは、チョコレートのステイタスを定着させました。そして、その王族のチョコレート文化は、さらに新たな文化を生み出します。それは、王族の暗殺の手段としてのチョコレートでした。味の濃いチョコレートは、毒を混入されても気づきにくい飲み物でした。青酸毒で変色する銀のスプーンも、チョコレートの色で変色が分かりにくくなりました。それでも王族は、毒におびえつつ、チョコレートを飲みました。王族はその特権を、それほど簡単に捨てようとはしませんでした。その後、食べるチョコレートが開発され、チョコレートはお菓子に姿を変えました。紀元前からのチョコレートがお菓子になったのは、1840年頃、ごく近世の出来事でした。貨幣として、ステイタスとして、暗殺の手段として、様々な時代を歩んだ、カカオ豆とチョコレート。カップなどの陶磁器や、銀のスプーンもチョコレートとともにありました。お菓子となった、チョコレート。これからチョコレートは、どの様な文化を残すことでしょうか。
2015.02.01
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やっと青石に出会えました。私は、マニアックな奈良の文化財の楽しみ方をしています。それは、リサイクルされた古墳の石材探し。奈良に数ある、古墳の石棺や石室。それらの石材が、様々なものに転用されています。石棺の蓋は、仏像や神社の踏み石などに、姿を変えています。そして、この青石は、橋板に使われていました。今まで出会えなかったのは、市座神社という知名度がない神社に置かれていたから。アクセスも良くはありません。「馬が踏み抜いた」という伝承がある穴は、運搬用の穴とされます。裏から見ると分かりますが、穴は勾玉などに見られる、ジョウゴ形をしています。この地域では珍しい、緑色の青石。どの古墳で、どの場所に使われたかはわかりません。やっと会えた青石は、静かな場所にありました。この青石を見に来る人は、今年、私以外に誰かいるのでしょうか。【過去の日記】 「病魔を封じよ - 緑と赤 -」
2015.01.14
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プロペラ列車があれば、ジェットエンジンを搭載したジェット列車もあります。写真は、旧ソ連のジェット列車ER22。1970年代に、時速250kmを達成しました。エンジンは、先頭車両の上部にあります。これなら客車も接続できます。これで採用かと思われましたが、あっさり開発は中止されました。理由は簡単。燃費が悪すぎるから。今日では、自動車ですら、ハイブリッドや電気駆動の時代。列車にジェット、間違いに早く気付いて良かったですね。【過去の日記】 「ロンリー・ウルフ - プロペラ列車 -」
2014.10.06
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1929年、ドイツで開発された列車、シーネンツェッペリン。その姿は、新幹線に良く似ていました。しかし、横から見た姿は、新幹線とは決定的に違います。この列車は、プロペラを使って走る列車でした。プロペラの駆動源は、なんと600馬力12気筒のBMWガソリンエンジン。シーネンツェッペリンが、1931年に達成した最高速度は230 km/h。この速度は、現在でも「ガソリン推進式列車」の世界最高記録です。この列車は、実用化はされませんでした。理由はいくつもありますが、分かりやすい欠点もあります。シーネンツェッペリンを後ろから見てください。どうやって、客車をつなげばよいのでしょう。列車も人も、つながりがあるからこそ生きるのです。
2014.10.02
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東大寺大仏殿は戦国時代に消失し、2度目となる再建は江戸時代に行われました。予算不足から、大仏殿の大きさを2/3に縮小。それでも予算不足に加えて、柱となる材木もありませんでした。特に3000トンを超える屋根を支える、2本の巨大な虹梁がありません。全国を探した結果、鹿児島県に2本のアカマツの巨木が見つかりました。霧島の白鳥神社にあった、高さ54mの2本のアカマツ。しかしその巨木を、船に乗せることもできません。そこで、奇策が採られました。輸送を任せられた、志布志の商人山下弥五郎。彼は満潮時に、千石船を海に沈めました。そして水面に2本の巨木を浮かべ、干潮時に再び船を浮かべて、巨木をすくいあげました。その奇策により、2本の巨木は船に乗り、奈良に運ばれました。材木不足の大仏殿。その窮地を救ったのは、逆転の発想。先人の英知と努力が、文化財には刻まれています。
2014.08.31
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古代中国の皇帝は、不死の薬を求めました。不死の秘術として練丹術が編み出され、不死の薬「丹薬」が作られました。その丹薬の赤色は、まさに不死を象徴する色でした。歴代の皇帝は、競って丹薬を求め、高額を支払いました。しかし、皇帝が不死の命を得ることはありませんでした。むしろ丹薬によって命を落としたと、「旧唐書」にあります。その赤い丹薬は、毒薬でした。なぜなら、その成分は、有毒な硫化水銀だったから。皇帝たちは、不死を意味する赤い色に惑わされ、自ら毒を飲み続けたのです。美しいものには、毒がある。ごく当然の戒めを、忘れた代償は甚大でした。・・・・・中国漢方では、硫化水銀(丹砂)は、今でも薬として使われています。「朱砂」,「丹砂」の名称で、鎮静,催眠のために処方されています。硫化水銀は、有機水銀より毒性が低いとは言いますが、私は飲みたいとは思いません。
2014.06.23
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富山県の小林一生氏は、程よい重さの漬物石で、沢庵を漬けていました。1890年、その漬物石が、隕石と分かるまでは。重さ22.7kgの漬物石。隕石と判明後は、「白萩隕鉄」と呼ばれました。白萩隕鉄に惚れ込んだのが、農商務大臣だった榎本武揚。小林氏に頼み込み、白萩隕鉄を譲り受けます。榎本武揚は、その隕鉄から、長刀1振と短刀2振を作り上げます。刀を作ったのは、ロシアで見た、隕鉄製の刀にあこがれていたから。しかし、その刀剣に向かない隕鉄の鍛錬は、苦労の連続。最終的には、刀剣用の玉鋼を3割使い、刀が完成しました。そのうちの長刀は、1898年、明治皇太子、のちの大正天皇に謙譲されました。長刀は、名を「流星刀」と名付けられます。隕鉄でできた刀剣には、霊力があると言われます。流星刀を手中にした天皇は、霊力を得たのでしょうか。流星刀の霊力か、6年後の日露戦争に、日本は奇跡的に勝利します。ただ、「血の味」を覚えた日本は、その後、戦乱の地獄に向かい狂走します。流星刀は、力とともに、血の味を。この力、なからましかば。流星刀は、霊刀ではなく、妖刀だったのかもしれません。
2014.05.16
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古代中国にあった、不思議な石。鉄を吸い寄せるその石は、「慈石」と呼ばれました。S極とN極を、母親のふたつの乳房にたとえ、鉄を子供にたとえたから。その母に似たその石は、我が子をいつく(慈)しむ石でした。慈石は、今は磁石と呼ばれ。それでも今も、人の旅路を導くコンパスとなる。冷たく、硬い姿をしても、磁石は、慈しむ心を忘れない。むしろ、慈しむ心を、忘れたのは、温かく、柔らかなはずの、人かもしれない。【過去の日記】 「洋食器? - 指南 -」
2014.05.08
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今も、大阪城公園本丸跡の地下15mに眠る、タイムカプセル。大阪万国博覧会が開催された1970年、タイムカプセルが埋められました。埋めたのは、毎日新聞社と松下電器産業株式会社。ステンレスのカプセル内には、2098点の収納品。その中の銘板には、次のように記されています。「私たちは5000年後の人間の繁栄を信じ、20世紀の記録としてこのタイムカプセルを残します」タイムカプセルの開封は、5000年後。それは、西暦6970年のこと。このタイムカプセルを開くのは、本当に人類でしょうか。【Panasonic】 「タイム・カプセルEXPO'70」 ※こちらには、タイムカプセルの詳細が書かれています
2014.05.06
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タイタニック号の唯一の日本人乗客、細野正文氏は九死に一生を得ました。細野正文氏は、ミュージシャンの細野晴臣氏の祖父。その正文氏によって、事故から救助までの様子が、タイタニック号の便箋を使って残されています。長い手記ですので、抜粋で救助までの一部をご紹介します。・・・・・・4月14日10時、船が何かに突き当たる感じがあり、間もなく停船した。11時、知人がドアを叩き、甲板に行けと言う。甲板に行くと、知人は救命胴衣を渡して立ち去った。説明が何もなかったが、船員は3等デッキより下に降りろと言う。2等船客であると言って許されたが、荷物を取りに部屋に帰ると、甲板に来るなと船員に再び言われた。船員の指示を無視して甲板に上ると、救命ボートが降ろされていた。ここに至って、非常事態と分かったが、静かにボートの順番を待った。婦人が優先され、右舷から4隻のボートが降ろされた。ボートに乗ろうとする男もいたが、船員に銃で制された。船は45度傾き、最後のボートも降り始めた。「あと2人」の船員の声に、2人の男が飛び乗った。もはやこれまでと覚悟したが、もうひとり、男が飛び込んだ。船員に銃で撃たれるのを覚悟で、自身もボートに飛び乗った。幸い、船員は他に気を取られ、撃たれることはなかった。ボート内は、婦人や子供の泣き声に満ちていた。その後、他のボートとも合流したが、あることに気がついた。ボートには船員の割合が多く、乗客より船員を助けようとしているように見えた。タイタニック号からは、逃げるすべのない乗客の叫び声がすさまじかった。1時ごろ、爆発音が聞こえ、船は沈没した。海面からは、おぼれつつある者の叫び声が聞こえた。ボート内では、夫を気遣う婦人の声が響いた。しかし、4時ごろには、おぼれる者の声も聞こえなくなった。8時ごろ、カルパチア号という船に、ようやく救助された。聞けば、100マイルほど離れた場所から、無線を聞いて来たという。カルパチア号に700人、カルフォルニア号に70人が救助された。乗船していたのは3000人というから、約2000人が亡くなったことになるのだろう。・・・・・・1912年4月14日、今から100年以上前の事故でした。
2014.04.30
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昨日、今日、ひさしぶりに冷えました。でも、今日の部屋の温度を確認した方は、どれほどいらっしゃることでしょう?江戸時代、部屋の温度への関心が高まりました。技術者も、寒暖計を熱心に開発しました。異種の金属を貼り合わせた、新技術のバイメタル式寒暖計も作られました。江戸時代は、高精度の温度計測技術の発展期でもありました。寒暖計が必要だった理由。それは、蚕の飼育のためです。室温を上げると、蚕は早く成長します。しかし、暖めすぎると、蚕は死んでしまいます。室温管理のためには、高精度な寒暖計が必要でした。寒暖計のおかげで、日本の養蚕業は発展しました。明治になっても、日本の産業を牽引したのは養蚕業。部屋がほどよく暖まれば、景気も良くなります。春の冷え込み、増税の冷え込み。暖めてくれる、やさしい春風は吹くでしょうか。
2014.04.05
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江戸時代のの悪法、生類憐れみの令。江戸の各所に作られた、大きな犬小屋。その総工費は、20万両におよびました。さらに、お犬様一匹あたりの「養育費」として、奉公人の給料相当額が支給されました。そして犬小屋で収容できなくなると、「御犬御用」に任命された農民にお犬様は預けられました。時が経ち、綱吉が他界すると、この悪法は廃止されました。人々や財政の負担を考えると、当然のこと。ただ、かわいそうなのは犬小屋にいた犬たち。棒でたたかれ、石を投げられ、それまでの人々の鬱憤晴らしの対象とされました。さらに苦しんだのは、犬の世話係。それまでのお犬様の「養育費」の返還を求められたのです。返せといわれても、費用はえさ代に消えてしまっています。そのために、世話係は莫大な借金を背負うことになりました。ある記録には、48年かけて返金した記録も残されています。飼われていた犬、世話係。悪法の廃止は、新たな苦しみを生みました。改革のためだとしても、弱者を傷つけてはなりません。弱者を保護し、弱きを助く仕組みも忘れず。それが本当の改革だから。
2014.03.13
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豪華客船タイタニック号に2台搭載された、最新型のマルコーニの電信無線。事故後の無線通信で700名の命を救いましたが、事故の原因も、その無線にありました。航海中、タイタニック号は南に進路を変えました。それは氷山発見の無線通信を聴いての進路変更でしたが、変更先にはさらに多くの氷山がありました。当然、更なる氷山発見の報せで、その進路は再修正されるはずでした。しかし、タイタニック号の通信士が、その後の無線を無視したために、氷山激突の事故が起こりました。「うるさい、じゃまをするな」なぜ、通信士は「氷山アリ」の報せを無視して、ブリッジにも報告しなかったのでしょう。いくら乗客からの、観光無線の送信に忙しかったとしても。その理由は、簡単でした。2人の無線技師が船舶会社の船員ではなく、無線のマルコーニ社の社員だったから。2人は利益にならない船舶間の通信より、大きな利益を生む乗客依頼の観光無線を優先したのです。そのために2人は、衝突40分前のカリフォルニアン号の無線も無視します。そればかりか、カリフォルニアン号の無線技師を怒らせてしまいました。怒ったカリフォルニアン号の無線技師は、通信をやめて無線を切って就寝します。その結果、最も近くにいたカリフォルニアン号には、救難信号のSOSは届きませんでした。そればかりか、目視で見えたはずの遭難照明弾まで認知されませんでした。安全よりも、利益を優先。命を救う道具を、娯楽のために無駄使い。そして、最も近くの友さえも怒らせてしまう。もし、無線技師がマルコーニ社の社員でなかったら。利益や欲に目がくらむ空しさを、タイタニック号と無線の話は伝えてくれます。【過去の日記1】 「知らないことが命取り - タイタニック号 -」【過去の日記2】 「タイタニック号を 救えた者 - グリエルモ・マルコーニ -」【過去の日記3】 「最後に 彼女を救ったもの -タイタニック最後の生存者-」
2014.02.28
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「今日は死ぬのによい日だ」戦闘を前に、インディアンのラコタ族が叫んだこの言葉は、数多くの文学の中でも語られてきた。家族同様に、一体感が強いこの部族では、英雄的死が讃えられる。私たちは今、軍靴の音を聴いている。日中関係を第一次世界大戦前に例えた発言は、激しく世界を動揺させた。それほど世界は、私たちの軽率な振る舞いを恐れている。領海問題、慰安婦問題、靖国参拝。引き金に指をかけているのは、他でもない私たち。そしてその銃口は、同時に私たち自身にも向けられている。世界の通貨危機が始まった。米国の雇用統計悪化に量的緩和縮小。中国のデフォルト危機。世界同時株安の、金融危機が今週にも迫っている。世界経済の混乱は、さらなる争いを誘発する。特定機密法は、争いを告げる言論さえも統制しかねない。制限範囲の不明確さは、言論統制の拡大解釈を可能にする。日本の軍事費は世界第5位。前年の6位から上昇した。さらなる増加を望むなら、憲法改正すればよい。争いを始める準備は整った。ナショナリズムの高揚は、英雄の死を讃えるだろう。カミカゼの、桜花の、回天の、悲しい特攻の記憶が蘇る。これだけ準備があるならば、今日は死ぬのによい日かもしれない。それでもまだ、わたしは、争いのために死にたくはない。
2014.01.26
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奈良の明日香の石舞台古墳。その巨石でできた石室は、被葬者の蘇我馬子の権勢を、今の私たちに伝えます。石舞台が、蘇我馬子の墓と、証明されているわけではない。ただ、有力なその説を、信じて話を進めよう。石舞台の土を削り、破壊したのは誰だろう。蘇我氏を憎む者たちか。改新で、権力を握った天皇か。いずれにしても、その試みは、蘇我氏の力の大きさを、今に伝える助けになった。土盛が失われ、巨石が露出することで、石舞台は日本一有名な古墳になった。多くの豪族や天皇が、名を残そうと古墳を作った。しかし古墳のほとんどは、誰の古墳かわからない。名を残すとは、なんだろう。消されるはずの蘇我の名は残り、名を残すことを願った、多くの者の名は消えた。わたしたちが、なすべきこと。それは、名を残そうともがくより、たしかな価値を残すこと。それは、たしかで、だれもが認めざるを得ない価値。削ろうとしても残り続けた、あの大きな、石舞台の石のように。
2014.01.15
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聖武天皇の四十九日に、光明皇后は天皇の思い出の品々を東大寺に納めました。それが今日まで伝わる、正倉院の宝物です。「思い出の品々を見ていると、泣いてしまうから。」正倉院の目録には、亡き天皇を想う光明皇后の心が記されています。皇后は正倉院に、60種類の薬も納めました。その薬の名を記した「種々薬帳」とともに、今も40種類の薬が正倉院に残っています。「この薬は必要とする病に苦しむ人に使って欲しい。」慈悲深いことで知られる光明皇后は、その様に記しました。今に伝わらなかった薬は、実際に使われたのでしょう。この薬が納められる3年前に、鑑真が来日しています。鑑真はとても薬に詳しく、正倉院の薬の中には、鑑真が伝えたものもあるかもしれません。「種々薬帳」の薬は、今日見ると奇妙なものも多くあります。先に述べた雄黄は、種々薬帳には記されていません。少なくとも、光明皇后は雄黄を薬物としては扱わなかったのでしょう。種々薬帳にある、「蔗糖(砂糖)」や「石塩(塩)」は、薬と呼び難いでしょう。「大黄(ダイオウの根茎)」は、当時有名だった下剤です。「狼毒(クワズイモの根茎)」や「冶葛(ヤカツ:断腸草)」は猛毒です。用途不明のこの毒も、かなり減り、使われた痕跡があります。政権争いに使われたのでしょうか。歴史の証人、正倉院。正倉院が伝えるのは、病に苦しむ人をいたわる、やさしい皇后の想い。そして、権力をむさぼる、残酷で醜い我欲のなごり。
2013.11.03
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正倉院の宝物の中に、謎の卵形の石「雄黄(おおう)」があります。雄黄は、鉱物で言えば鶏冠石。その成分は、硫化ヒ素。ヒ素の成分が示すように、雄黄は毒物。雄黄は、何に使われたのでしょう。雄黄は顔料として使えます。しかし、当然、毒に侵される覚悟は必要。毒は、薬になるかもしれません。ヒ素中毒を恐れなければ。雄黄を使ったその者は、雄黄を毒と知っていたのか。知りながら、それを薬として天皇に渡していたら。正倉院に伝えられた、謎の雄黄。皇族の宝物庫に眠る毒物に、古からの怨念を感じます。「正倉院 雄黄」
2013.10.30
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ねぇ、私の足を見て。綺麗でしょ。日頃の、バレエの成果なの。バレエの舞台には、15歳でデビューしてるのよ。わたしを「太陽王」と呼ぶ人もいるけど、バレエの舞台で太陽神アポロを演じたのがきっかけね。足がもっと綺麗に見えるように、ハイヒールをはいているの。貴族のみんなにも、ハイヒールを勧めているところ。最近ではハイヒールではなく、”ルイ”ヒールと呼ぶ人もいるほどよ。ねぇ、もう一度、綺麗なわたしの足を見て。ほんと、わたし、思うのよ。おとこの脚は、綺麗じゃなくちゃ。
2013.10.06
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誤解に苦しむ、ブーメラン。ブーメランは、投げれば戻ってくる武器と誤解されています。しかし戻ってくるブーメランに、武器になるほどの殺傷力はありません。ブーメランには、戻るものと、戻らないものがあります。武器になる投擲具は、カイリーまたはカーリと呼ばれます。カイリーは、投げる武器ですが、戻ってくることはありません。そもそも、殺傷力を持つカイリーが戻ってきたなら、投げた人も怪我をします。殺傷力を持つには、破壊力のある大きさと重量が必要です。投げると戻るブーメランは、祭りや娯楽に使われたのでしょう。戻るブーメランは、殺めることなく、ただ純粋に空を舞いました。今日では、ブーメランは競技にも使われます。競技用のブーメランは三又で、材質も樹脂や紙に変わっています。戻るブーメランは、平和主義。遊び、楽しむ、人の笑顔を糧に、空に舞う。あなたの笑顔が見たいから、ブーメランは、あなたのもとに戻ってくる。だから、おねがい。ブーメランを、もう武器だとは、呼ばないで。
2013.09.23
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2020年オリンピックが、東京に決まりました。一方で最有力と思われた、マドリードは落選しました。日本のスピーチは、すばらしかったと思います。特にパラリンピック選手の佐藤真海さんのスピーチが印象的でした。19歳で骨肉種で右足膝下を失い、しかしスポーツで生きがいを取り戻したこと。再び、震災の津波で実家が襲われ、過酷な現実に立ち向かわなくてはならなかったとき、被災地を支えアスリートの姿に、スポーツのすばらしを実感した旨を語りました。「私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではない」という言葉が、こころに残ります。スポーツのすばらしさを伝え、またスポーツにより平和の実現を目指す夢の祭典、オリンピックの理念にふさわしいプレゼンテーションでした。一方、マドリードは、スピーチでも失敗しました。マドリードでオリンピックが開催されなければ、スペインの財政が破綻すること。そうすれば、欧州の経済危機が起きることを語りました。その結果、最有力と思われたマドリードは最下位となり、落選しました。スピーチが、スペインの経済不安をかえって強調することになりました。経済効果を前面に出したスピーチが、オリンピックの理念から程遠いものであったのは言うまでもありません。オリンピックの招致活動は、スピーチで決まるものばかりではありません。それは1回目に同点となり、最下位決定のために行った再投票にも見ることができます。マドリードが最下位になったのは、東京を支持する委員が、あえてライバルのマドリードを落とすために、イスタンブールに投票をしたためと思われます。東京は、スポーツがもたらす夢と希望を語り、オリンピックを誘致しました。世界に安全を約束し、日本人の「おもてなし」の心も語りました。2020年、世界情勢は予想すらできません。ただ、2020年に向けて東京が、夢と希望に満たされることを祈念します。その時、世界が、いかなる情勢にあったとしても。・・・・・・・・・【オリンピック招致スピーチ 佐藤真海さん】会長、そしてIOC委員の皆様。佐藤真海です。私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです。スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました。それは、2020年東京大会が世界に広めようと決意している価値です。本日は、そのグローバルなビジョンについてご説明いたします。 19歳のときに私の人生は一変しました。私は陸上選手で、水泳もしていました。また、チアリーダーでもありました。そして、初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに骨肉種により足を失ってしまいました。もちろん、それは過酷なことで、絶望の淵に沈みました。でもそれは大学に戻り、陸上に取り組むまでのことでした。私は目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました。私はアテネと北京のパラリンピック大会に出場しました。スポーツの力に感動させられた私は、恵まれていると感じました。2012年ロンドン大会も楽しみにしていました。しかし、2011年3月11日、津波が私の故郷の町を襲いました。6日もの間、私は自分の家族がまだ無事でいるかどうかわかりませんでした。そして家族を見つけ出したとき、自分の個人的な幸せなど、国民の深い悲しみとは比べものにもなりませんでした。私はいろいろな学校からメッセージを集めて故郷に持ち帰り、私自身の経験を人々に話しました。食糧も持って行きました。ほかのアスリートたちも同じことをしました。私達は一緒になってスポーツ活動を準備して、自信を取り戻すお手伝いをしました。そのとき初めて、私はスポーツの真の力を目の当たりにしたのです。新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。200人を超えるアスリートたちが、日本そして世界から、被災地におよそ1000回も足を運びながら、5万人以上の子どもたちをインスパイアしています。私達が目にしたものは、かつて日本では見られなかったオリンピックの価値が及ぼす力です。そして、日本が目の当たりにしたのは、これらの貴重な価値、卓越、友情、尊敬が、言葉以上の大きな力をもつということです。
2013.09.08
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ずいずいずっころばし。その歌が、ちまたに流行ったのも無理はありません。江戸時代、年に1回、お茶壺道中がありました。お茶壺道中とは、徳川将軍家のお茶を、京都の宇治から江戸まで運ぶ行列です。その時期は、4月下旬から5月上旬。多いときには100を超える茶壺が運ばれ、行列も1000人を超えました。行列が来ると大変です。庶民は土下座をさせられます。たとえそれが、お茶にすぎないとしても。そればかりか、葬式も農作業も中止させられます。台所の煮炊きで、煙が立つことも禁止です。庶民はその姿を自嘲して、この歌を歌いました。「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ」ゴマ味噌をすっていたら、お茶壺道中が来てしまった。あわてて、扉をどっぴんしゃんと閉めて、家の中に隠れましょ。やっと行ってしまったら、一息つけるよ、どんどこしょ。「俵のねずみが 米食ってちゅう、ちゅうちゅうちゅう おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、 行きっこなしよ 井戸のまわりで、お茶碗欠いたのだぁれ」家の中に隠れていると、ねずみの声が聞こえてくる。おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも、出てはだめ。おや、井戸の傍でお茶碗が割れる音が聞こえたけど、だれだろう?かつて、お茶が人より偉い時代もありました。それでも庶民がくじけなかったのは、そこに歌という娯楽を見出したから。ずいずいずっころばしの、その歌からは、庶民の生きる力が伝わってきます。
2013.09.02
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西暦64年、ローマの暴君ネロは、恐ろしい方法でキリスト教徒を迫害しました。ネロが広大な庭園に十字架を立て、縛り付けた数百人のキリスト教徒。その教徒らは、チュニカ・モレスタという、拷問シャツを着せられていました。その拷問シャツに染みこまされていたのが、原油から取れるナフサです。ナフサは、粗製ガソリン,直留ガソリンと呼ばれる、ガソリンの原料です。付着性が高く、高温で燃えるため、その炎に包まれれば、致命的な火傷を負います。暴君ネロは、古代で最悪の化学兵器ナフサを染みこませたシャツを着させ、キリスト教徒を焼きました。燃える数百のキリスト教徒の十字架群は、「人間たいまつ」として語られました。これは暴君ネロに「獣の数666」が与えられた事件のひとつです。その惨状は、想像に耐えません。ガソリンの原料のナフサですら、最悪の化学兵器でした。燃えるガソリンが招く惨劇は、どれほどのものだったことでしょう。京都の花火大会での、ガソリン爆発事故。亡くなられた方の、ご冥福をお祈りします。【過去の日記】 「その数は人を指す - 獣の数 666 -」 ※ この日記では、「666」が暴君ネロを意味することを書きました。
2013.08.20
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