【西洋陶器を求めて】 0
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ダイヤモンド、その名は「破壊できない(adamant)」に由来します。昔は、ダイヤモンドは、あまり価値がある石ではありませんでした。なぜなら、加工が難しくて扱いにくいためでした。加えて、かつての産地はインドしかなく、そのインドの産出量も枯渇して、その利用すらされなくなりました。それから長い年月が過ぎ、南アフリカで産出され、加工法も発達。ようやく、ダイヤモンドの価値が認められました。硬い、珍しい。そのダイヤモンドの長所が、かつてはアダとなっていたのです。長い時間が必要です。本当の価値が認められるには。それは、対象が人であっても変わりません。
2013.04.04
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拝啓、水戸光圀様。貴方様の御名前は、とても珍しいということをご存知でしょうか。つきましては、御名前の「圀」の漢字について、説明させていただきます。昔、中国の唐の時代、第3代皇帝、高宗の御后は、大層な漢字マニアでいらっしゃいました。夫、高宗亡き後、その御后、則天武后は自ら帝位に就かれました。則天武后は、自ら新しい漢字を考案されました。そればかりか、689年から705年まで、その漢字「則天文字」を使うことを強要されました。則天文字、それはそれは、奇妙な文字でした。その文字は、17文字。そのうちの一文字が「圀」の文字でした。「圀」は、四方八方が自国の意味で、くにがまえの中に「八方」の文字があります。そして、華厳経経典に書かれたその則天文字は、遣唐使によって日本に持ち帰られました。漢字マニアの則天武后が亡くなられますと、則天文字の使用も廃せられます。そして、日本に唯一残った則天文字が、光圀様の「圀」の文字なのです。光圀様、貴方様の御名前は、それほど貴重なものなのです。国内を四方八方とされるその文字も、貴方様におふさわしく思います。光圀様、則天文字は、貴方様の知名度によって守られているのです。末永く、御名前をお伝えなさいますように。
2013.03.18
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日本の万葉集は、世界最古の植物学の資料でもあります。「この里は 継げて霜や置く 夏の野に 我が見し草は 黄葉たりけり」(この里はいつも霜(しも)が降りるのでしょうか。夏の野で私が見た澤蘭(さはあららぎ,ヒヨドリバナ)は、色づいて(黄葉,もみじ)いました。)万葉集に収録された歌。孝謙天皇は、藤原仲麻呂の家を訪れた時、この歌を詠みました。夏なのに、黄色くなったヒヨドリバナ。これはヒヨドリバナがウイルスに感染して、黄色くなったものとされています。752年のこの歌は、世界最古のウイルスに感染した植物の資料です。世界最古の植物学の資料を残した、孝謙天皇。天皇は、それがウイルス感染と知っていたなら、この風流な歌を残したでしょうか。
2013.03.17
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奈良南部、大和の地域には3つの特徴的な神社があります。水分神社、山口神社、御県神社が、その3つの古社です。この3つは、地名を冠したいくつかの神社があります。奈良の水分神社には、下記の様なものがあります。・葛木水分神社(かつらぎみくまり じんじゃ)・吉野水分神社(よしのみくまり じんじゃ):同名が3社・天水分神社(あまのみくまり じんじゃ)・水分神社(みくまり じんじゃ):吉野に同名7社・宇太水分神社(うだみくまり じんじゃ):同名2社・都祁水分神社(つげみくまり じんじゃ)ところで、水分をなぜ「みくまり」と読むのかの質問がありました。水分は「水配り」の意味。水が分かれる場所を示します。水分は、水配りから「みくまり」と読まれます。そのため、祭られている水分神は、水の分配を司ります。大和には、この様な古い神社が多くあります。新年を想う頃。皆さんの初詣はどちらの神社でしょうか。
2012.12.15
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氷山に接触して沈没した不沈艦、タイタニック号。1991年の船体の調査で、タイタニック号の欠陥が明らかになりました。氷山への接触で、大きな穴が開いた理由。その理由は、船体の鋼材にありました。タイタニック号の鋼材は、リンや硫黄の不純物を多く含みます。この鋼材は、現代の鋼材より、はるかにもろいものでした。さらにこの鋼材には、零度以下で急激に、さらにもろくなる性質がありました。事故当時の水温は、マイナス2℃。一見、丈夫に見える船体も、大きな衝撃に弱くなっていました。この鋼材の性質を、低温脆性と呼びます。そして、時代はまだ、船体に溶接が使われていない時代。船体の鋼材は、もろいリベットで止められていました。氷点下での氷山との衝突。もろいリベットは外れ落ち、鋼材も割れて大穴が開きました。その結果、タイタニック号は、急激に沈没してしました。今の鋼材なら、衝突でも変形する程度。特に低温でもろくなる船体のタイタニック号は、冷たい海を航海するには向きませんでした。低温脆性、それはその頃、知られていなかった知識。知らないことが、命取り。だから、学ぶことが、必要なのです。
2012.12.01
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また、彼らが忙しくなるのかもしれません。平成元年、消費税増税。おつりの小銭が不足しました。その時、1円玉が増産されました。平成9年、消費税が5%に。今度は、5円玉が増産されました。次に消費税が上がるとき、増産されるのはどの硬貨でしょう。普段は扱いの軽い小銭たちも、時代が変われば、重視されます。人の世も、時代とともに、変わるもの。しずかに、あなたのときを、待ちましょう。いつかきっと、順風が吹く、そのときを。
2012.11.29
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文字を並べると、読みにくい日記になります。先回の日記は、ちょっと読みにくかったかと思います。特に、カタカナは読みにくい文字。カタカナの読み間違えで、起きた悲劇もあります。明治初年、鹿児島に送られた、明治政府の視察役人。役人の使命は、西郷隆盛の真意を知ることにありました。政府は、鹿児島の役人に電報を打ちました。「シサツヲトケタラハヤクカエレ」 (視察を遂げたら早く帰れ)それを西郷は「”刺殺”を遂げたら早く帰れ」と読み間違え。激怒した西郷は、西南戦争を起こします。読み間違え、早とちりは、怖いもの。あせれば傷つくのは、自分自身なのです。
2012.07.10
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鎌倉時代のモンゴル来襲。元寇と呼ばれる、歴史上の日本の危機。元寇では、神風が吹き、日本は救われたと言われます。1274年、文永の役。日本を襲ったモンゴル軍に、鎌倉武士は翻弄されます。「やぁやぁ、我こそは・・・」鎌倉武士が名乗りをあげる間に襲いかかる、モンゴル軍。火薬に、毒矢。あまりに違う戦い方に、敗走を続ける鎌倉武士。しかしその夜にモンゴルの船を強風が遅い、モンゴルは大損害を被ります。ただ11月のこの強風が、台風か否かは定かでありません。そして1281年の弘安の役。この時も、台風にモンゴル船は被害を受け、日本は救われました。日本を救ったのは、神風でしょうか。神風を崇める前に、なぜモンゴル軍が沖の船に戻ったかを考えなくてはなりません。元寇の時、鎌倉武士は臨機応変に戦術を変えています。ドラを使い、大将がモンゴル軍に指示を出しているのを見抜いた鎌倉武士。彼らは、モンゴルの副大将を弓で射て、軍の機能を麻痺させました。文永の役で、モンゴル軍が船に戻った理由に、この戦術変更があります。弘安の役では、モンゴルの上陸に備えて、土塁の防御壁を築きました。さらに日本の弓が、モンゴルの弓より長い射程を生かします。上陸に手間取るモンゴル兵を、長距離射程の日本の弓で攻撃しました。モンゴル兵の皮衣を切りやすく、改良した刀。火薬に驚かないように、大きな音に慣れさせた馬。鎌倉武士は、周到な準備をしていました。その結果、モンゴル軍は、2ヶ月も日本上陸できず、苦戦します。それは、6~7月の夏の2ヶ月。当然の様に、7月30日に、モンゴル軍は台風に襲われます。神風は、吹いたかもしれません。しかし、その神風を生かせたのは、鎌倉武士の巧みな戦術変更。鎌倉武士は、とても合理的な戦術家だったのです。少なくとも、ただ神風神話に憑りつかれて敗戦した、後の帝国陸軍よりは。
2012.06.26
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三角形の木材を組み合わせた、校倉造り。この校倉造りは、奈良の正倉院の特徴です。三角形の校木(あぜき)は、高湿度の夏は膨らみ隙間が締り、乾燥する冬は縮んで隙間が広がる。校木の隙間の変化による、温度湿度の調整機能。これが校倉造りの特長と、学んだ人も多いのではないでしょうか。しかし、正倉院の校倉造りには、校木の隙間はありません。温度や湿度は、校木のヒノキそのものの効果。さらにヒノキの箱に納められた宝物は、二重のヒノキにより守られました。校木の隙間が開けば、内部の宝物は雨風で痛みます。工匠たちは、むしろ校木の隙間をなくすために工夫をしました。隙間を防ぐ工夫が、広がる工夫に。がっかりしては、なりません。努力が、逆に伝わること。それは、よくあることだから。
2012.05.06
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エッフェル塔は、1889年のパリ万博のために造られました。工期は、わずか2年2ヶ月。作業手順、作業者の立ち位置も決めた画期的な工法で、一人の死者も出さずにエッフェル塔は完成しました。しかし、その評判は最悪。当時の石造建築になじんだ人々には、鉄骨組みの塔は”醜い”と感じられました。それでも、珍しさで人々はエッフェル塔へ。作家ギ・ド・モーパッサンも、よくエッフェル塔に登りました。「ここが、あのいまいましい塔を見ないですむ、唯一の場所だから。」そう語りながら。やがて、”醜い”エッフェル塔は、”鉄の貴婦人”と呼ばれるようになりました。今では、フランスを象徴する建物です。簡単に、あきらめないで。新しいものは、容易には認められない。それが、先駆者の宿命だから。
2012.05.04
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世界遺産、カッパドキア。そこには、高さ数十mの奇岩が立ち並びます。軟らかい凝灰岩の大地。大地の上には、まばらに硬い玄武岩がありました。雨は凝灰岩を削り、大地は深く削れてゆきます。硬い玄武岩の下の大地を除いて。長い年月の後、硬い玄武岩を乗せた、軟らかい凝灰岩の柱が立ち並びます。そしていつか、玄武岩も足場をうしない、深い谷に転げ落ちます。残ったのは、数々の凝灰岩の柱。それが、カッパドキアの奇観。大地を守り、いつか転げ落ちる玄武岩。守られて、後に残る大地。私たちが去り、子供たちが残り、そしてミーム(文化)が残る。カッパドキアの奇観が、人の世代の遷り変わりに思えています。【ウィキペディア】 「カッパドキア」
2012.05.02
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綺麗な服を飾るクローゼットには、ちょっと恥ずかしい過去があります。貴族の部屋のひとつ。その部屋は、クローゼットと呼ばれていました。水洗トイレがない頃、用をたすにはオマルを使いました。オマルを使うには、重ね着した服を脱ぐ必要もありました。オマルを使い、服を脱ぐ場所。それが、クローゼットでした。その後、クローゼットはトイレではなくなりました。しかし、トイレはWCと書かれます。WCは、”Water Closet”。つまり、水道のあるクローゼット。その名には、クローゼットの過去が隠されています。あだ名、書き物、過去の写真。恥ずかしい過去は、しっかり隠したいものです。・・・・・・・・・・・・・(継続中)・【 「7月31日 TM」:「血に啼く ホトトギス - 正岡子規 -」掲載】
2012.04.26
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オランダ、アムステルダム国立美術館。1988年から、そこには月の石が展示されていました。月の石は、元オランダ首相ウィレム・ドレース氏からの寄贈品。アポロ11号の宇宙飛行士からの贈り物として、ミッデンドーフ駐オランダ米大使を通じて元首相に渡された石。しかし、2006年、その月の石は「”質の悪い”木の化石」と分かります。5万ユーロ(約668万円)の保険を掛けていた石は、50ユーロ(約6700円)の価値と分かりました。その後、「ドレース氏の月の石」とその石は呼ばれました。元オランダ首相は、歴史に不名誉な名を残すことになりました。だれも正体に気付かなかった、木の化石。その理由は、元首相の所有物だったから。知名と、権威に、目がくらみ、気づけば、あわれな、はだかの王様。
2012.04.20
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人類は孤独でした。2万7千年前、ネアンデルタール人が滅んでから、ヒト属はホモ・サピエンスのみが生き延びてきました。その様に、誰もが信じていました。しかし、2003年、インドネシアのフローレス島で、新種の小型人類ホモ・フローレシエンシスが発見されました。それは、身長1mほどの小さなヒトで、現生のホモ・サピエンスとは異なる新種とされました。その人類が滅んだのは、1万2千年前。さらには、19世紀にも目撃の報告があるほどでした。人類ホモ・サピエンスは、ホモ・フローレシエンシスと共存していたかもしれません。ホモ・フローレシエンシスは、小型化した人類、つまりホモ・サピエンスの矮性化したものとの説もあります。しかし脳容量は380立方センチで、ホモ・サピエンスの1/4。体にも多くの違いがあります。ホモ・フローレシエンシスが、現生人類とは別の人類なのかは、まだ分かりません。スマトラ島には、小人「オラン・ペンデク」の目撃例が多くあります。これを、ホモ・フローレシエンシスの生き残りと信じる人もいます。今もなお、科学が探る、小人伝説。ホビットは、今も森にいるのでしょうか?
2012.04.11
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人と手話で会話するチンパンジー、ニム。コロンビア大学のハーバート・テラスは、ニムに手話を教えます。4年間、のべ60人の調教者により、ニムを教育。手話による会話ができるようになったとして、テラスは研究に区切りを付けます。しかし、その後に、研究記録を再検討。テラスは、ニムが人の手話をまねしていただけと気付きます。ニムは手話での会話はできていませんでした。一度は天才猿と評されたニム。実験の失敗により、その後のニムは実験用動物として5年間、不遇の時間をすごしていました。ニムの将来には、実験用動物がたどる、悲劇だけが待っていました。ニムは、医薬用の実験動物として売却されることになりました。エイズの新薬実験など、その実験にあるのは、死か、重い後遺症。ニムの命は、風前の灯でした。しかし、ニムを覚えている人々がいました。ニムと時をすごした研究者が、動物愛護の人々が、ニムを危機から救いました。救われて、テキサスの牧場に引き取られた、ニム。伴侶も見つけ、ニムは幸せにすごします。26歳で命を終えるまで、ニムはその牧場ですごしました。ニムを助けたのは、ニム自身の過去。あなたのかがやき、あなたの努力。それらを、おぼえてくれている人はいます。あなたが不遇のときを迎えても、きっと今の努力が救ってくれます。不幸だと、あきらめないで。ひとを信じることを、わすれないで。そして、けっして、あきらめないで。・・・・・・・・・・ニムの話は、昨年「プロジェクト・ニム」という映画になったことを知りました。・・・・・・・・・・(継続中)・【 「悩んだとき TM」:「いつのときも かわりはしない - チャールズ・ダーウィン -」掲載】
2012.02.20
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南極物語で有名な、樺太犬、タロとジロ。隊員との再会したタロとジロですが、ジロは南極で衰弱死。日本に戻ることはありませんでした。悲劇の南極犬。それに対し、南極猫 タケシは幸せでした。南極観測船、宗谷に乗せられた、猫のタケシ。タロやジロが置き去りにされた時も、猫のタケシは宗谷で帰国できました。その理由は、タケシがオスの三毛猫だったから。めずらしい、オスの三毛猫。その乗る船は、沈まないと言われます。オスの三毛猫は、船の守り神。タケシは、南極基地でも暖かい部屋ですごしました。もちろん、樺太犬の様に、そりを引く重労働もありません。極寒の中、重いそりを引き、ついには置き去りにされた南極犬。暖房の部屋、眠って過ごし、みんなといっしょに帰った南極猫。ねこって、なんて、かしこいのでしょう!【過去の日記1】 「第3の 奇跡のおかげで - 三毛猫、そして2周年 -」 オスの三毛猫は、奇跡の第3の染色体を持つという日記。【過去の日記2】 「弱点を 長所に変えて - ペンギン -」 ペンギンの日記も以前に書いていました。・・・・・・・・・・・・「いぬのきもちトーナメント」、日記「きみに ちかう - 捨て犬 -」掲載中。【トーナメント】 「第1回 いぬのきもちトーナメント」
2012.01.26
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第1次朝鮮出兵失敗後、豊臣秀吉は石田光成の融和策を取っていました。強硬派の、加藤清正を謹慎処分として。1596年のその時、慶長伏見地震が起きました。大阪府東大阪市を震源とする、マグネチュード7.3のの地震。数万人の人命が失われました。地震直後、清正は伏見城の秀吉の元に駆けつけます。伏見城大手門の警備の兵士も地震で圧死。そのため、邪魔されることなく、謹慎中の清正も2番乗りで駆けつけることができました。これをきっかけに、秀吉はふたたび清正の強硬派に変更。泥沼の第2次朝鮮出兵へと進みます。朝鮮で苦戦する中、秀吉は病死、豊臣の支配体制が揺らぎます。結局は、関ヶ原の戦い以降、徳川家康が天下を取ります。それでも、豊臣家には莫大な遺産がありました。豊臣家には、国家財政の5年分があったと言われます。慶長伏見地震の震災復興。これを家康は、巧みに利用します。家康は、震災復興を利用して、秀吉の遺産を減らそうと企みます。淀殿、秀頼母子に対し、秀吉は寺社の造営を勧めます。被災した寺社を直し、国家の安泰を願うことを理由に。東寺、須磨寺、延暦寺、醍醐寺、相国寺、熱田神宮時など、秀頼は80以上もの寺社を復興,造営しました。その結果、家康の狙い通り、豊臣家の財政は悪化していきました。慶長伏見地震は、豊臣家滅亡の引き金となりました。さらに震災復興も、その道具に使われました。震災と闘い続けた日本の人々。今年、確実に進む復興が、政治の道具とならないことを願います。【参考】 外川淳,天災と復興の日本史,東洋経済新聞社,2011年,222P
2011.12.17
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日本の車は、左側通行。ヨーロッパでは、多くは右側通行。昔、ヨーロッパの軍隊では、左側に強い攻撃部隊を配置していました。これを変えたのは、ナポレオン。ナポレオンは右側に、強い部隊を配置しました。相手の意表を突き、戦闘を有利に進めるために。ヨーロッパの車の右側通行の起源は、その習慣。ナポレオンの力が届かなかった、イギリスは左側通行のまま。今に残る、ナポレオンの影響。彼は自動車さえも、見ることはなかったのに。思いもかけない、その影響。わたしたちの言動も、なにかに影響するかもしれません。まったく、思いもかけは、できないのに。・・・・・・・・・ご心配をおかけします。完全復帰には、もう少しお時間を。読み逃げ、ご容赦ください。
2011.12.05
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舒明天皇から、文武天皇。その古墳の形は、八角形。八角形は、道教で宇宙を示す形だから。亀石、猿石、須弥山石。飛鳥の石仏群も、道教的。斉明天皇が、道教を支持したから。天皇の、その名の由来は「天皇大帝神」。天皇大帝は、道教の神。北極星を示す神。中国の神の名を借り、天皇は日本の象徴に。北の空にきらめく北極星は、天皇が求めた天空の中心。今もその星は、天空の中心。空を見上げて、天皇大帝を見て。遠く悠久の、飛鳥の人の憧れを想い。
2011.11.26
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復元された、大仏様を見て思うこと。金色に輝く大仏様は、好きになれません。たとえそれが、金メッキなら当然の色としても。顔のおひげも、好きになれません。それが本来、あるべきものとしても。群青色の髪も、好きになれません。それが仏本来の色だとしても。私たちが目にする、現在の古銅色の大仏様。金色の輝きもなく、装飾もなく、極彩色を失った、落ち着きのある大仏様。いつしか私たちは、あの大仏様に魅かれてきました。日本の人が愛するのは、こころの内からの輝き。外観の、金色の輝きではありません。外観の過度の装飾は、むしろ内なる光を消してしまう。ひとはだれもが、内なる大仏様。こころを大きく、そしてその生き方が、輝いてさえいれば。【参考】 小林泰三,国宝よみがえる色彩,双葉社,2010年,145P「大仏復元」 ・・・昨日の「猫の手・犬の手アンケート」。また後日、集計結果を報告します。
2011.11.08
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同じ名の山はあるけれど、それがなぜかを考えてはいませんでした。私はいくつもの「茶臼山」を知っています。それがなぜか、考えもせず。茶臼山は、戦国大名の陣の跡。茶臼は、抹茶を作る茶磨。山の上に布陣した、戦国大名は、戦の前に、茶の湯を嗜み、心を落ち着かせました。茶臼山は、特に毛利配下の中国地方に多くあります。争いの前の、静かな一時。茶の文化は、流血と隣合わせにありました。人の文化は、争いとともに。人の歴史は、争いとともに。文化の高まりが、頂点を極めた、現代社会。その文化の極みが、隣り合わせの争いを招くあやうさに、ただ、思えてならないのです。
2011.09.26
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それは、偶然の出来事でした。ケロッグ氏は、薄いパンを小麦粉で作っていました。限られた原料から、栄養のある食べ物を作るために。しかし油断して、小麦粉を放置。小麦は半ば乾いて、パンに使えなくました。あきらめないケロッグ氏。その小麦粉を、ローラーでさらに薄く引き伸ばします。食べ物を捨てる余裕はなかったから。結局は、その冒険が大成功。コーンフレークが、その失敗した小麦粉から生まれます。世界に知られる、コーンフレークの誕生です。失敗しても、あきらめないで。ただその価値に、気づいていないだけかもしれないから。あきらめず、よく考える。幸運は、考える人へのプレゼントだから。
2011.08.12
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掃除しないと、戦争も負けます。日本がロシアのバルティック艦隊を撃破した、日露戦争。その理由に、掃除があるとしたら。すでに、太平洋にいる。そう思われた、大国ロシアのバルティック艦隊。その時、反論を唱えたひとり。日本艦隊の司令官、東郷平八郎。彼は艦隊はまだ来ていないと判断し、対馬沖で待ち伏せます。理由は、フジツボ。ロシアから、アフリカ喜望峰を回ったバルティック艦隊。その艦艇には、多量のフジツボが付いていました。通常は、港に立ち寄り、艦艇を掃除します。しかしバルティック艦隊は、掃除できませんでした。日英同盟により、イギリス管轄の港に寄れなかったから。バルティック艦隊の船速の低下。それを東郷司令官は、看破しました。対馬沖の、日本海海戦。船速の落ちた、バルティック艦隊。対する日本は、艦艇を完璧に掃除。艦船の速度は、バルティック艦隊より、時速で3.7Kmも早くなっていました。遅いバルティック艦隊は、次々撃沈されます。艦艇を掃除できなかったばかりに。掃除は、健康を保ち、こころを変えます。そして、時として、あなたの人生すら変えるかもしれません。【参考】 倉谷うらら,「フジツボ 魅惑の足まねき」,岩波書店,2009年,118P
2011.08.04
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争わなくては、済まないのでしょうか。1853年からのクリミア戦争。この戦いでフランスは、暴風雨で戦艦を失いました。それをきっかけに、フランスは暴風雨の研究を始めます。担当したのは、パリ天文台のルベリエ台長。研究の結果、天気図による暴風雨の進路予想を提案します。これが後の、天気予報のきっかけ。天気予報も、戦争から生まれました。戦争が生み出す、文明の進歩。争い、進歩し、その技術でまた争う。それが今なお続く、人類の歴史。
2011.07.26
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あの事件から、10年。多くの本を、読んできました。なぜ旧石器捏造の主犯者、藤村氏に”氏”を付けるのか。それは、もっともな疑問だと思います。私も当初は藤村氏を批判し、今でもその「罪」を許したくはありません。しかし10年を経て、「人」を責める気持ちは揺らいでいます。藤村氏は多くの人をだまし、「捏造事件」の著者、岡村道雄氏も被害者でした。しかし岡村氏は文化庁の調査官として旧石器を認めたため、「共犯者」としてバッシングされ続けました。昨年末に発刊された「捏造事件」は、その岡村氏の反省と懺悔の記録。しかし本当に悪いのは、藤村氏でしょうか。藤村氏は「マジックショー」により、石器捏造を続けました。発掘現場に、多くの報道陣を集めます。「ちょっと掘ってみたい」と言って、報道陣の傍で、遺跡を掘り始める藤村氏。不思議なことに10分後。報道陣の目の前で、藤村氏は旧石器を新発見します。まさに、旧石器発見のマジックショーでした。それを見た報道陣は、嬉々として、その新発見を報道。同席した研究者が、その石器を検討、公認する前に、「新発見」は報道されました。しかし、捏造発覚。報道陣の姿勢は、一変します。ただちに、同席した研究者は「共犯者」として「報道」。一方で、同席した報道陣は、自らをだまされた「被害者」として「報道」しました。同じ場所にいた人たちが、なぜか「共犯者」と「被害者」に分かれました。その報道の中、藤村氏は入院、離婚、名前を変えます。病名は、解離性同一性障害。心を病んだ藤村氏は、ナタで30回も右手を切り付け、指を切断しました。もう2度と、右手が悪さをしないために。誰が本当の被害者でしょう。「毎日新聞社」は、隠しカメラで捏造発覚の「スクープ」をねらいました。「捏造の恐れあり」と研究者に告げるのではなく、あくまで「スクープ」がねらいでした。連日の、隠しカメラでの撮影。ねらいどおり、「大スクープ」は、日本新聞協会賞など、数々の賞を受賞。毎日新聞社は、この事件のおかげで「名誉」を手にしました。「岡村氏こそ主犯」と「神々の汚れた手」で書いた奥野正男。彼にも、毎日新聞社は、「毎日新聞出版文化賞」を授与しました。そのため、岡村氏は、自死までうながされました。さらに暴走する報道。週刊文春は、大分県の遺跡捏造の疑惑を3度も報道。その結果、責任者の賀川光夫氏は、抗議の自死を選択しました。文藝春秋は、後に名誉棄損で敗訴。しかしわずか慰謝料920万円の支払いで終わっています。旧石器発見を熱望し、それを検証前に宣伝したのは「報道陣」。そしてスクープにより、唯一、この事件で名誉を手にしたのも「報道陣」。さらなる被害者を生みながら、自らを被害者と名乗ったのも「報道陣」。おどらされた、藤村氏。共犯者にされた、岡村氏。命を奪われた、賀川氏。「犯人」と「被害者」。それらを分けたのは、事件後に「武器」を持っていたか、否か。ペンは剣より強し。【日記】 「なにもかもが うしなって - 旧石器捏造 -」【参考】 岡村道雄,旧石器遺跡「捏造事件」,山川出版社,2010年,245P ※ 旧石器捏造でお勧めは、この本です。 岡村氏の懺悔とともに、真理を見極める難しさがわかります。
2011.07.06
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遺跡の発掘は、考古学や地元を愛する愛好家に支えられています。炎天下での、長時間の発掘。土と汗にまみれる地道な作業は、多くが愛好家によるボランティア。宮城県の中学美術教員、遠藤智一さん。遠藤さんも自分の時間を割いて、発掘を支えた民間愛好家。発掘の案内に、現地説明。頭に手ぬぐいを巻き、黙々と、でもうれしそうに、発掘を続けていました。考古学の愛好会「談話会」を結成、発掘を進める遠藤さん。特に愛したのは、1949年の岩宿発見より前に、自力で石器を発掘していた、座散乱木遺跡の調査。得意の絵で、太古の復元図を描く遠藤さん。座散乱木遺跡は、遠藤さんが愛し、生涯をかけてきた遺跡。やがて、遠藤さんの努力も実ります。座散乱木遺跡は、宮城県で数少ない旧石器時代の遺跡として知られます。しかし、その知名度の高まりが、災いを招きました。東北旧石器文化研究所の藤村新一氏。藤村氏は、この座散乱木遺跡を利用しました。自らこの遺跡に石器を埋め、それを「発見」する藤村氏。藤村氏は、後にゴッドハンドと呼ばれた、石器捏造の主犯者。「研究所の人は、ぼくたち愛好家とは違うな」発掘を愛し、楽しむ遠藤さんは、成果を挙げる藤村氏をそう評し、信頼していました。しかし、2000年11月、藤村氏の石器捏造が発覚します。そして、座散乱木遺跡は、捏造遺跡の代表として報道されました。藤村氏の捏造の、さらに前から知られていた遺跡にも関わらず。生きがいを、数十年もの努力を、踏みにじられた遠藤さん。遺跡の「無実」を晴らそうと、それからも座散乱木遺跡に通いました。無念の時が過ぎ、2001年11月、捏造発覚から1年後。自転車の横で、倒れていた遠藤さん。遠藤さんは、その翌日、帰らぬ人となりました。いつものように、自転車のかごには、軍手と小さなスコップ。いつものように、発掘用の長靴を、はいたままの姿で。翌年、座散乱木遺跡の史跡指定は、取り消されました。その他にも、遺跡取扱い廃止は142遺跡にも上りました。ある人は、責任を問われ、将来を閉ざされました。ある人は、無関係な遺跡の捏造を疑われ、自死で抗議を示しました。ある人は、病床で生涯を捧げた発掘の捏造を知り、涙を流しながら帰らぬ人となりました。35年間続いた捏造で、すべてが無に帰してしまいました。【参考】 岡村道雄,旧石器遺跡「捏造事件」,山川出版社,2010年,245P
2011.07.04
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その時代に、あるはずがないもの、オーパーツ。アンティキテラの機械を、ご存知でしょうか?紀元前100年頃に、古代ギリシアで作られた、30個もの歯車からなる精巧な機械。それが、アンティキテラの機械です。あまりに複雑な、歯車の組み合わせ。そのために、その存在そのものが疑問視さえされました。事実、オーパーツの多くが、贋作であったり、抽象化された動物の絵を宇宙船の様に、とらえ間違ったものでした。わたしもアンティキテラを、疑問視していました。アンティキテラの機械は、1901年に沈没船から回収。その後、長く忘れられていました。だれもそれを信じず、だれも使い方を理解できなかったから。しかし、2005年ごろから急速に利用法が解明。ネイチャーなどでも報告されます。刻まれた文字などからも、古代ギリシア製と確認。アンティキテラの機械は、古代ギリシアに存在した最高水準の技術でした。しかし、その後、千年間、これ以上の歯車装置は現れませんでした。古代ギリシアの技術は、中世に完全に忘れ去られました。オーパーツは、あるはずがないもの。その思いは、わたしたちのおごり。ただ先人の知恵に、わたしたちが及ばないからでしかありません。【アンティキテラの機械】【参考】 ジョー・マーチャント,「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」,文芸春秋,2009年,285P ※ アンティキテラの謎解きに挑んだ技術者たちの物語。 頁数がありますが、科学史として面白い本です。 【ウィキペディア】 「アンティキティラ島の機械」 ※ アンティキテラの機械が何に使われたか。 それはあえて書きませんでした。 知りたい方は、推薦の本をお読みいただくか、上記記のリンクをご覧ください。【参考リンク】 「ネイチャー(英文): In Search of Lost Time」
2011.06.26
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世界最大のダイヤの原石、カリナン。1905年、南アフリカで発見された、ダイヤの原石の大きさは3106カラット。621.2gもの重さがあります。カリナンの、英国王室への輸送。郵便船の金庫にカリナン収められた、カリナン。何人もの警備が同行しました。しかしそのダイヤは盗まれます。でも、ご安心。これは、偽のおとり。本物のカリナンは、普通小包で英国に郵送されていました。次にカリナンは、オランダに送られます。理由は、カットのため。今度は、輸送船ばかりではなく、別送の小包まで盗まれました。やはり、ご安心を。いずれも、おとりです。本物のカリナンは、ひとりの男が、汽車、船に乗り届けました。621gのカリナンを、なにげなくポケットに入れて。技師の連日14時間の作業で、8か月の研磨。カリナンは、9分割にカットされました。1個目は英国王室の王笏(おうしゃく)に、2個目は英国王室戴冠式用王冠に。送り方は、普通郵便に、ポケットに。成功の秘訣は、平常心。もとめられるもの。それは、あわてない、ゆるがない、つよいこころ。
2011.05.29
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講演会「斉明天皇陵か!牽牛子塚古墳」を、GWに聴講しました。昨年秋、7世紀の天皇陵を示す八角形墳と判明した、牽牛子塚古墳。さらにその隣から、未知の古墳「越塚御門古墳」も新発見。近年、稀に見る、驚愕の発見。ぜひ、聴講しなくてはと思いました。しかし、マイナーなテーマを3時間。高名な和田萃先生、発掘者の西光慎治氏の講演とはいえ、聴講者は少ないのでは?しかし、会場は予想外に満員の聴講者。関心の高さを実感します。早く来場して正解でした。もちろん、面白い講演。書き始めると止まりませんので、要点を箇条書きします。【牽牛子(ケンゴシ)塚古墳】・天皇陵を示す、八角形墳と判明・最高級の夾紵棺(きょうちょかん)使用・巨石に2つの穴をくりぬいた、特殊な合葬墓 (大きさは違うが、謎の巨石 益田岩船に類似)・40代の女性の歯が出土・日本書紀記述の、斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女の合葬墓に、ほぼ確定【越塚御門(コシツカゴモン)古墳】・牽牛子塚古墳の隣に、未知の古墳発見・石室は、鬼の俎板、鬼の雪隠型 (明日香の鬼の俎板、鬼の雪隠は、古墳の石室とされます)・斉明天皇の隣に葬られたと日本書紀にある、大田皇女の墓と推定明日香の謎の巨石 酒船石など関連が指摘される、斉明天皇。そして、不遇の大津皇子の母、大田皇女。大田皇女が夭折が、大津皇子の不幸の始まりとも言われます。日本書紀の記述、そのままの発見。斉明天皇―益田岩船などの明日香の謎の巨石群との関連。大田皇女―鬼の俎板、雪隠のつながり。書きすぎになりそうなので、止めておきます。飛鳥時代の歴史、明日香の謎の巨石などに興味のある方は、ぜひご自分でも調べてみてください。参考までに、里中満智子さんのコメントのあるニュースを転載します。・・・・・・・・・・日本書紀の記述そのまま「画期的発見だ」 (産経ニューズ 2010.12.9)「斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬する。皇孫大田皇女(みまごおおたのひめみこ)を陵(みささぎ=斉明天皇陵)の前の墓に葬る」。奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前で発見された越塚御門古墳は、日本書紀のこの記述をそのまま裏付けた。大海人皇子(のちの天武天皇)の后になりながら20代で夭折(ようせつ)したとされる悲運のプリンセス、大田皇女。その終(つい)の棲家は、かつて女帝として権勢を振るった祖母・斉明天皇に見守られるかのような場所に築かれていた。「驚きを通り越して感動した。画期的発見だ」と話すのは、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)。「牽牛子塚古墳が斉明天皇陵である可能性は、99・9%から99・99%になった」-。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)も「日本書紀のこの時代の記述は、確実な史料に基づいて書かれているとみていい」との見方を示す。ただし日本書紀は、大田皇女の人となりについて多くを語らない。幼くして母を亡くし、後に謀反を名目に処刑された大津皇子(おおつのみこ)と姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の子供2人を残して亡くなったことを淡々と伝える。「当時の皇室で母親の存在は後ろ盾としても重要だった」-。飛鳥時代をテーマにした作品を手がける漫画家の里中満智子さんは、斉明天皇の墓とされる牽牛子塚古墳の前で見つかった石室について「斉明天皇の大田皇女に対する深い思いが伝わるよう。決して独りでなかったことが、彼女の切ないともいえる人生の唯一の救い」と感慨深げに話した。一方、今回の発見で、宮内庁による天皇陵の治定に再び波紋が生じそうだ。同庁陵墓課は「基本的には現在の斉明天皇陵と大田皇女墓をお守りしていく立場は変わらない」としており、河上邦彦・神戸山手大教授は「(治定を)見直すべきとの意見が出るかもしれないが、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵にしてしまうと、他の陵墓のように非公開になりかねない」と、公開性の点から陵墓の見直しに否定的な見解を示した。・・・・・・・・・
2011.05.07
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宮城県南三陸町のモアイ・レプリカ像が見つかった、ニュースがありました。南三陸町、松原公園のモアイのレプリカ像は、1991年に作られました。41人の命が奪われた、1960年のチリ地震津波を忘れないために。高さ3.5m、重さ20トンのモアイ像。それは、チリで作られ、46日かけて運ばれました。モアイにこめられたのは、防災への願い。今年、「南三陸モアイ化計画」が進んでいました。それは、モアイを使った、町興し。洋菓子、携帯電話ストラップなどのモアイグッズが、5月商品化予定で試作済みでした。しかし、現実は過酷。再び、街を津波が襲いました。モアイも頭をもぎ取られ、胴のみが残されました。人々の懸命の捜索。50m先のがれきの下で、ようやく、頭が見つかりました。鼻が欠けた、傷ついた姿で。もう一度、今から、このモアイで復興を目指します。人々の願いを、再び乗せて。次こそは、願いはきっと、かなうはず。「モ」は未来、「アイ」は生存。「モアイ」は、明日に向かって生きる、象徴だから。・・・・・・・・・
2011.04.18
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東大寺の北西にある、転害門。それは、天平時代から残る、数少ない国宝。そのむかし、この門のそばには、白く美しい石臼がありました。石臼は、別名「碾磑(てんがい)」。そのため、この門は、碾磑門と呼ばれました。時が経ち、石臼は失われます。そしてこの門も、「転害門」に名を変えました。「害を転ずる」の縁起を担ぎ。東大寺の北西の外れ。そこは東大寺にあって、人通りの少ない場所。人知れず、静かにたたずむ転害門。国宝とは、思えぬほどに。時は夕刻、ますます人は、少なくなりました。転害門。まどろみゆく夕日に、寡黙に、どしりと照らされて。ああ、やはりこれは、「碾磑」でした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2011.03.30
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映画「ローマの休日」で有名な、真実の口。教会にあるその円盤には、海神トリートーンの顔があります。そして嘘をつく者の手を、その口は食いちぎると言われます。今は教会にある、真実の口。古代ローマ時代、それは下水用のマンホールの蓋でした。トリートーンも、そこでは下水の番人に。下水の蓋に、手を差し込む。あなたは、知らない。蓋のむこうに、あるものを。蓋のむこうで、手を食うもの。下水の中で、生きるもの。もしあなたが、正直者か不安なら、蓋に差し入れるのは、穢れをまとう手ではなく、お勧めするのは、おいしいチーズ。
2011.02.11
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1940年開通後、わずか4ヶ月で崩壊したタコマ橋。タコマ橋を崩壊させたのは、風と橋の共振。予想外の共振は、わずかな強風で、橋を崩壊させました。橋の設計者は、最高の橋梁設計と讃えられていたレオン・モイセイフ。彼は、この失敗で引退。その後、わずか1~2年で、失意のうちに世を去ります。幸い、この事故で失われた人命はありません。ただ、一匹の犬が、命を落としました。揺れる橋に残された1台の車。あの車には、コッカ・スパニエルが残されていました。恐怖のあまり、その犬は、逃がそうとする飼い主の誘いにも、応じることができませんでした。たとえ怖くても、おびえてばかりいては、なりません。動かなければ、ただ時の流れに呑まれるだけ。風を読み、強風に挑む。わたしたちを救うのは、きっと、その勇気。【Youtube】 「タコマ橋 崩壊」
2010.08.18
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最近読んだ本、「永遠のゼロ」。敗戦が濃厚となり、連日繰り返された特攻、カミカゼ。特攻機を、最新鋭の米軍機が待ち構える。ゼロ戦の2倍もの巡航速度を持つ米軍機。彼らは、レーダでゼロ戦を捕捉し、優位な高高度で待つ。本体の遥か手前、3重にも、4重にも待つ、米軍機。爆弾を積み、動きが遅く、装甲の薄いゼロ戦に生き延びる道はない。気の遠くなるほどの偶然に、米軍本体にたどり着いても、艦載の近接信管付き砲弾は、ゼロ戦を電波補足し、自動爆破する。何百もの近接信管付き砲弾。数千の機銃の弾幕。生存確率ではなく、接近確率ゼロの特攻。護衛機すら付かない特攻戦が、米軍艦船に近づくことすらなかった終戦間際の夏。その時、あのゼロが、米軍艦隊の前に現れた。・・・・戦史を何度も読んだ私には、「永遠のゼロ」を読むのは辛い。太平洋戦争の過ちを、何度を繰り返し聴かされるのは辛い。ミッドウェイで、ラバウルで、何が起きたか聴いている。「なぜ日本は負けなくてはならなかったか」を聴いている。取り返しの付かない過去の過ちを、何度を聴かされるのは辛い。いまさら、何も取り戻せない。戦後、耐えてきた人たちの苦しみ。その苦しみは、きっと、過去の過ちを、何度も聴かされることにある。・・・・大和神社に行きました。戦時中、「戦艦大和」の守護神として、大和艦内に分霊が祭られた神社。戦艦大和、第二水上特攻隊の英霊が祀られています。戦時は、期待と祈りに満ちて。今は、後悔と懺悔に満ちて。今日は、訪れる人もなく、切なくセミの声だけが響く場所。もう、この場所に来ることはない。ただ、そう思い、ただ、そう願う。【参考】 百田尚樹,永遠のゼロ,太田出版,2006年,445P
2010.07.24
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酒を飲まされ、寝首を掻かれた酒呑童子。酒呑童子は、絶世の美少年でした。だからこそなれた、越後の山寺の「稚児(ちご)」。稚児は、寺院の陰の存在。稚児は、女人禁制の寺院での、和尚たちの男色の対象。その仕打ちやいじめに耐えかねて、酒呑童子は先輩坊主を殺します。そして逃げた、比叡山。しかし比叡山にも、最澄が仏教を、さらに逃げた大江山にも、空海が仏教を持ち込みます。仏教から、稚児の立場から、逃げ続ける酒呑童子。しかし仏教を嫌う限り、彼は邪悪な存在。友好を信じた源頼光に、命まで奪われた酒呑童子。美しさは、罪。美しさが持つその悲哀は、美しいほどに、深く儚く。己の存在さえも、許さないほどに。
2010.07.12
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ブレーキが、なかったとしたら。初期の蒸気機関車には、ブレーキがありませんでした。慣性で止まるため、ホームさえもありませんでした。事故が続き、やがてアメリカで生み出された機関車のブレーキ。それは人力ブレーキ。各車両にあるブレーキを、複数のブレーキマンが引いて回ります。屋根を走り回り、ブレーキを引くブレーキマン。しかし急な危険には、とても間に合いません。ある日の、ブレーキの遅れによる悲惨な鉄道事故。それを見た一人の人物。それが、ジョージ・ウェスティングハウスでした。天才技術者ウェスティングハウスは、エアブレーキを開発します。全車両に一斉にブレーキをかけるシステム。このブレーキにより、機関車の安全性は飛躍的に向上します。走ることより、止まることは難しい。奔り続けるわたしたちにも、新しいブレーキが必要かもしれません。【参考】 はてな委員会 編、メカのはてな、講談社、2009年、159P
2010.05.12
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聖徳太子は、イヌがお好き。聖徳太子の愛犬、雪丸。雪丸は、人の言葉をしゃべる犬。お経さえも唱える犬。雪丸は、最期に自らの埋葬場所を指定しました。さすがに、聖徳太子の愛犬です。太子が作らせたいう雪丸像。その像が1月1日にワンと鳴けば、その年は豊作になるそうです。丸く、かわいい雪丸像。ただ残念なのは、その口は動きそうになく、もうワンと鳴いてくれそうにはないことでした。
2010.04.26
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身を守るため、人は情報を求めます。時として、その情報のため、スパイさえ操られます。スパイ、日本では忍者。忍者を操った最初の政治家。それが、聖徳太子。聖徳太子は、大伴細人に情報を盗ませました。細人の特技は、細い穴でも通れること。細人らのスパイ集団を、聖徳太子は「しのび」と呼びました。大伴細人は、後の甲賀忍者の祖先とも言われます。人々の情報をよく聴いたという聖徳太子。その由来は、スパイの活用にあったのかもしれません。命を狙われていた聖徳太子。事実、その子、山背大兄王は、蘇我入鹿に命を奪われます。スパイ。それは、身を守るための手段。懸命に情報を集める聖徳太子に、権力者の姿はありません。そこにあるのは、ただ生きるため、情報にすがる、ひとりの、おびえる人の姿にすぎません。
2010.03.05
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喫煙が嫌われる時代です。オスマントルコの皇帝、ムラト4世。彼は大変な煙草嫌いでした。17世紀初め、彼は禁煙令を出します。さらに自ら変装して街に潜入、違反者の首をはねました。厳しすぎる処罰。その結果、20万人の街で、3万人が死刑などの処罰を受けました。現代は、喫煙で死刑にはなりません。その代わり、喫煙者は高額の税負担を強いられています。その処罰は、時として死刑よりも効果的。じわじわと締め付ける。時とともに変わる厳しさ。オスマンの皇帝は、現代の方法を如何に感じることでしょう。
2010.01.06
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にほんブログ村 ツタンカーメンの妻、アンケセナーメン。昨日、NHKで古代エジプトの話題を放送していました。残念ながら、過去の番組のリメイクで、見た映像が。アンケセナーメンの話もありましたので、テレビになかった話を加えて。****アンケセナーメンは不幸でした。わずか10歳で、実の父と結婚、2年で死別。その後、10歳のツタンカーメンと結婚した12歳の彼女は、ようやく幸せをつかみました。年上らしく、ツタンカーメンの面倒を見る彼女。しかし彼女は、2人の子供を流産してしまいます。そしてわずか8年で、ツタンカーメンも謎の死を遂げます。ツタンカーメンの棺に置かれていた矢車菊は、彼女が別れを惜しんだものと言われます。その後、彼女の悲鳴に似た手紙が残されています。それは、敵国ヒッタイトに送られたもの。「私の夫が死にました。そちらの王子と結婚したい。 召使とは結婚したくない。恐ろしい。」しかしヒッタイトの王子は、エジプトに入国するなり虐殺。そして、かつての臣下のアイと結婚することになります。アイは、ツタンカーメン暗殺の犯人とも言われるのに。その時、アイは65歳、アンケセナーメンはまだ20歳でした。アイと結婚指輪を交わした記述を最後に、アンケセナーメンは歴史から姿を消します。そして王になったアイも、わずか4年で世を去ります。中世以降、ミイラは使い捨てられました。薬に、布は包装紙に、そして燃料として燃やされて。樹脂が多く含まれる貴族のミイラほど、好んで燃料に使われました。アイの墓も発掘された現代。それでも、今日に至るまで、アイのミイラは発見されていません。【日記】 その価値を知らず -ミイラ-< ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2009.12.26
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ミイラは、消費されていました。エジプトのミイラ。19世紀以前、ミイラは薬になると思われました。そのため薬として、ミイラは売られました。またミイラは、コレクションの対象でもありました。その時の流行は、ミイラを家に飾り客に見せること。ミイラは、包装紙にも使われました。褐色のその紙は、肉の包装として。その結果、コレラが流行し多くの命が失われました。そして同時に、多くのミイラも失われました。エジプトでは、さらにミイラは無謀に消費されました。そのミイラの用途は、機関車の燃料。機関車の窯に、次々と投げ込まれ燃やされたのです。20世紀、ようやく博物館で保管されたミイラ。乗り越えた数々の苦難。それは、価値を知る者のみが起こし得る、奇跡。
2009.12.24
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古代エジプト、ヒエログリフの解読で有名なロゼッタ・ストーン。ロゼッタ・ストーンには、古代エジプトのヒエログリフ、デモティック、そしてギリシア語が刻まれていました。同一内容が書かれた碑文。それはヒエログリフ解読の鍵となると思われました。しかし実際は、解読は容易ではありませんでした。ヒエログリフの解読者、シャンポリオン。彼はロゼッタ・ストーンに頼りすぎることなく、解読を試みました。彼が注目したのは、碑文の「プトレマイオス」の名のみ。この名前の対比には配慮しつつ、他の遺跡に着目します。フィラエ島のオベリスクの文字。誰も注目しなかった、オベリスクに書かれた「クレオパトラ」の名。彼はその文字に注目しました。ロゼッタ・ストーンに頼らなくても、人の名であれば遺跡で対比可能です。1822年、シャンポリオンはヒエログリフを解読します。壁画の文字は次々に解読され、古代エジプトは一気に雄弁になりました。しかしその解読に、ロゼッタ・ストーンはほとんど役に立ちませんでした。シャンポリオンの成功は、ロゼッタ・ストーンに頼らなかったこと。さらに天才的言語力が、それを支えました。頼れるものは、ひとつとは限りません。人が注目しないものにも、大きな価値が隠されています。望みを捨てない、強い意志。それが、私たちを幸福へと導くもの。
2009.12.19
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1863年のメトロポリタン鉄道の地下鉄は、下水鉄道と呼ばれました。ロンドンのパディントンとファリントンの間に走った地下鉄。下水流入による悪臭と、暗い地下ホーム。それでも一日平均26,000人が利用する人気でした。悪臭の理由は、もうひとつありました。この地下鉄は、蒸気機関車だったからです。地下鉄では煙を出せません。そのため蒸気の排出も、煙突には出せません。パイプで蒸気をタンクに導き、そこで冷却したのです。それでも人気だったのは、地下鉄に療養に訪れる人がいたから。硫黄の臭気が健康に良いと考えられたのです。その人たちが、健康になれたかは定かでありません。蒸気機関車の地下鉄。それは1890年に電化されるまでの、27年間の交通機関でした。******昨日は帰宅が遅くなり、ご訪問できずすみませんでした。
2009.06.10
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タイタニック号最後の生存者が亡くなった件は書かないのか。その問い合わせもあり、少しお話をします。タイタニック号最後の生存者ミルビナ・ディーンさんが、97歳で亡くなりました。介護施設で、生活に窮した晩年でした。生存者とはいえ、当時生後2ヶ月。当然、事故の記憶はありません。事故で父は死亡、母、兄とともに救出されました。しかし事故で全財産を失い、結婚することなく、秘書で生計を立てました。晩年は介護施設の費用捻出に困り、2008年10月には事故の思い出の品を競売にかけます。スーツケースなどを、53万円を期待しての出品でした。結果は550万円で落札され、一度は救われたかに見えました。しかし介護施設の費用負担は大きく、すぐに生活に困ります。2009年5月には映画「タイタニック」の監督や主演者から、285万円の寄付を受けていました。さらに寄付を呼びかける声も空しく、ディーンさんは他界しました。波乱万丈の人生。しかしそれ以上に、高齢者福祉のあり方に疑問を感じる出来事でした。思い出を捨て、ただ生きることに努力する。それでもディーンさんには、売るものもあり、寄付も集まりました。「タイタニック号最後の生存者」だったから。もしディーンさんが普通の人なら。彼女を最後に救ったのは、タイタニック号の事件そのものだったのかもしれません。【過去の日記1】 タイタニック号を 救えた者 -グリエルモ・マルコーニ-【過去の日記2】 タイタニック号沈没 ―その後に比べれば、小さな出来事―
2009.06.05
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それは、空から降りてくる。空からの爆撃、空爆。空爆は、一般市民も巻き込む無差別な攻撃。文化豊かな古都、ドレスデン。1945年、敗戦色濃厚なそのドイツの古都には、多くの市民が避難していました。軍事施設、工業施設のないドレスデン。その街の難民は、女性、子供、老人を中心に、人口の2倍の130万人以上がいました。大半はキャンプ生活。防空壕もありません。その状況を明確に把握した米軍は、ドレスデンに空爆を始めます。1945年2月13日。夜10時、市民の就寝を狙って空爆は始まります。第1次爆撃250機。第2次爆撃500機は、その3時間後。第3時爆撃316機は、その11時間後。投下された高性能爆弾は3,146トン、焼夷弾は1,481トン。街では「火の竜巻」が起こり、人や乳母車が吸い上げられ、上空で投げ出されました。文字通り人体は灰燼に帰し、跡形もなくなり、死者の数すらわかりません。推定では13~14万人の、女性、子供、老人がなくなったといわれます。米軍の爆弾には、遅延装置が付けられていました。それは消火活動に人が集まるのを待って爆発させる仕組み。さらに火の海の街から逃れようとした人々は、市外に待ち構える戦闘機で狙い撃ちされました。あまりの無差別さに、米英軍の捕虜26,000人まで、米軍自ら焼き尽くしてしまいました。これが戦史に残る、最も不必要で無差別な、ドレスデン空爆。桜咲き、花びらの舞う春。この春の、青く澄んだ空に感謝します。あの時の、あのドレスデンの人々が迎えられなかった、春の空に。【過去の日記1】 科学は 誤り続ける ― 誤爆 ―【過去の日記2】 極めて効率的 - 原爆の正当化 -【参考】 田中利幸,空の戦争史,講談社現代新書,2008年,253P
2009.03.26
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カビは、歴史を変えてきました。欧米の主食、麦。この麦が、クラビセブスというカビに侵されることがあります。すると麦は、角の様な形に変わります。それを「麦角(ばっかく)」と呼びます。麦角の混ざった麦を食べると、中毒を起こし死に至ることも。ヨーロッパでは、何度もこの集団食中毒が起きました。半狂乱で踊り続け、死に至る。絵画、音楽のモティーフとなった「死の舞踏」は、麦角中毒を描いたとも言われます。さらには、魔女裁判のきっかけとも。この恐ろしい麦角ですが、ドイツではこれを保存する人々が現れました。人々はそれを、エルゴットと呼びました。不思議に思ったのは、スイスの製薬会社の研究者アルベルト・ホフマン。そして研究の結果、麦角から誘導されるある物質を発見します。それは、リゼルグ酸ジエチルアミド、つまり有名な麻薬LSD。昔の欧州の宗教儀式では、秘薬として麦角が使われたことも分かっています。人々は、太古からこのカビに侵された麦に含まれるLSDに気がついていたのです。そして芸術家を初めとする、その後のLSDの乱用は、大きな社会問題となりました。麦とカビとLSD。欧米の食生活に、芸術に、歴史に。それらは常に、欧米の歴史の中心にあったのです。【参考】 佐々木正美,「カビの本」,日刊工業新聞社,2006年,159P
2009.02.07
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タイタニック号を救えたのは誰か。普遍の真理の発見に与えられることが多いノーベル賞。しかし実用化の研究に与えられることもあります。その第1号が、イタリアのグリエルモ・マルコーニ。電磁波を使えば、交信ができるのではと考えたマルコーニ。わずか20歳で、無線での送受信器を発明します。そして2年後の1896年には、2kmまで通話可能に。モールス信号の送信にも成功し、翌年にはイギリスに無線会社を設立します。1901年には、大西洋横断の無線交信に成功。1909年に、35歳でノーベル物理学賞を受賞します。そして世界に、無線が広がります。悲劇の年、1912年。不沈船と呼ばれたタイタニック号は、氷山に激突し沈没します。1,513名が帰らぬ人となります。しかしマルコーニの無線は、既にタイタニック号に搭載されていました。無線で救助を求め続け、700名が救われます。わずか前の無線のない時代では、この命も救われませんでした。残念なのは無線が珍しいあまり、乗客からの観光無線通信が多すぎたこと。乗客の自宅への乗船記念の無線交信が忙しすぎたため、通信士は氷山の存在を告げる警告の無線を、「うるさい、じゃまをするな」と切ってしまいます。そのため、タイタニック号は、氷山に最高速度で激突することになりました。人名を救ったマルコーニの無線。しかし、無線が役立ったのは、人命の救助。事故の予防には、役立ちませんでした。何かが起きてから、その価値に気づかれる。それが、新しい道具の宿命。【日記】 タイタニック号沈没 ―その後に比べれば、小さな出来事―【参考】 馬場錬成,「ノーベル賞の100年」,中公新書,2002年,227P
2009.02.04
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観光シーズン、古墳をご覧になられるかたはご注意を。宮内庁が天皇陵としている古墳。それらの大半が誤りであることは、以前も日記に書きました。さらに神武天皇陵の様に、明治政府が作り上げた古墳もあることも。最も残念なのは、単なる自然丘を天皇陵としているもの。これらは古墳ですらありません。「実は古墳ですらなく自然丘の天皇陵」3代 安寧(あんねい)天皇陵: 奈良県橿原市吉田町4代 懿徳(いとく)天皇陵: 奈良県橿原市西池尻町5代 孝昭(こうしょう)天皇陵: 奈良県御所市三室博多山6代 考安(こうあん)天皇陵: 奈良県御所市玉手宮山7代 孝霊(こうれい)天皇陵: 奈良県北葛城郡王寺町本町25代 武烈(ぶれつ)天皇陵: 奈良県香芝市今泉32代 崇峻(すしゅん)天皇: 奈良県桜井市倉橋44代 元正(げんしょう)天皇: 奈良県奈良市奈良阪町弁財天47代 淳仁(じゅんじん)天皇: 兵庫県南あわじ市賀集岡ノ前50代 桓武(かんむ)天皇: 京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎これらは単なる自然丘ですので、ご覧になるとがっかりすることでしょう。天皇陵は常緑木を植えますので、紅葉すら楽しめません。そして他にもあやしいものはあります。宮内庁管理の天皇陵は、それなりの管理費が必要です。自然丘を管理する宮内庁。管理されず破壊されていく真の古墳群。宮内庁は学術調査を推進し、守るべきものを守るべきでしょう。古墳を観にいく人はいないよと、声が聞こえてきそうな今日の日記でした。【過去の日記】 「今は21世紀、真実の時代 - 天皇陵とは何か -」【参考図書】 佐藤 實:「別冊歴史読本52 図説天皇陵」,新人物往来社,(2003年)216P
2008.10.25
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マルチーズは、ダーウィンによると紀元前600年が起源という。犬では、世界最古と言える起源です。ショック・ドック(衝撃犬)の別名は、毛繕いをしないとショックで毛が逆立つからといわれます。カムフォーター(慰め役)の別名は、マルチーズが湯たんぽ代わり腹を温め、痛みや病気を取り除いたことが起源。常に人の傍にいたこの犬は、人の歴史を見続けてきました。1793年10月16日、マリー・アントワネットの処刑の日。彼女の愛したマルチーズは、サン・ミシェル橋からセーヌ川に飛び込み、命を落としたと言われます。1587年2月8日、スコットランド女王メアリの処刑の日。愛犬のマルチーズは、彼女のペチコートに隠れていたと伝えられます。そしてやがて、悲しみのあまり命を落としたそうです。人を和ませ、笑顔にさせる、この陽気なマルチーズが見た歴史。それはなぜか、悲しみに満ちた人の歴史でした。マルチーズは、陽気に振舞います。その小さな犬は、悲しみを知っているから。2,600年も、悲しみばかりを見てきたから。***● 救いを待つ子達 ●● よし@兵庫さんのブログ ●
2008.09.30
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そういえばと、気になることがあります。江戸時代、武士が所有する武家地と、町民の町民地は、呼び名が違ったと言います。武家地である「麹町(コウジマチ)」,「御徒町(オカチマチ)」は、「マチ」と読みます。それに対し、町民地の「馬喰町(バクロチョウ)」,「大伝馬町(オオデンマチョウ)」,「小田原町(オダワラチョウ)」は、「チョウ」と読みます。そういえば、私の知る所にも「マチ」と呼ぶ地名があります。近くにも城もある。たしかに、武家地かもしれません。他に、「マチ」はないでしょうか。最近、「マチ」探しに目覚めています。
2008.09.26
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