【西洋陶器を求めて】 0
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火事と喧嘩は江戸の華。江戸時代、江戸は火事が多い街でした。記録に残る大火だけでも、1,800件あったという。例えば、日本橋の三井本館。「越後屋」開業以来、190年で12回焼けています。16年に一度は、建て直し。江戸の火事は、不景気対策。江戸は大工が多い街。火事があると、大工の日当が2倍になりました。だから、不景気になると火事が増えます。いわゆる火付け、つまりは放火です。厄介なのは、火消しも放火をしたこと。江戸の火消し、いろは四十八組。彼らは火消しであり、また幕府お抱えの「火付け」でもありました。幕末、勝海舟は、西郷隆盛を脅します。江戸城を明け渡さなければ、子分持ちの火付け48人が、江戸を火の海にすると。いろは48組は、幕府勅命の火付けでした。12万2千人の死者を出した明暦の大火。火元の寺も処分なく、それ以降も幕府から資金援助が出ました。なぜならこれは、江戸の都市開発のための火事だからと言われます。火事を予測し、長屋は3年住めば元が取れる安普請にしました。これが後に、地震などでの災害を大きくしましたが。不景気で燃える、江戸の街。火事と“放火”は江戸の華。よく似ていませんか?景気が悪化すると起きる、現代の戦争と。
2008.09.25
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生類憐れみの令は、かなり見直されてきました。天下の悪法として知られる、徳川綱吉の生類憐れみの令。初めは、「捨て馬禁止令」として出されました。旗本や農民で横行していた、老馬の足を切って捨てるを禁じたのが初め。捨て犬禁止でも、忘れられていることがあります。それは、江戸時代の犬は、武家でしか飼えなかったということです。しかし大名屋敷の犬の管理は悪く、野犬化することが増えました。野犬狩りの鉄砲隊も出ましたが、1688年には山犬が荒れ狂い、現在の埼玉県所沢市で4人が食い殺され、6人が負傷しました。犬愛護令は、武家の犬の無管理を禁じた法でした。さらに犬での武士の試し切りも横行し、動物虐待は続きます。それは人の精神にも悪影響します。1672年、9歳と11歳の子供による切り合い。1673年、14歳の子供同士の切り合い。いずれも双方とも無残に命を落としましたが、民衆はあっぱれと讃えました。動物虐待は、人の心もむしばみました。生類憐れみの令では、「捨て子、捨て病人」も禁じています。ついには、人の命も軽んじられていたのです。生類憐れみの令で裁かれたのは、22年間で69件。年3件にすぎません。しかも46件は武士で、裁かれた町人は主に動物の売却の罪でした。そして同罪なら、武士は死罪、町人は遠島と、武士に厳しい法律でした。生類憐れみの令は、人と動物の命を守る法。しかしそれを推進する中で、生類憐れみの令は悪法とみなされました。さらに、ないがしろにされた、徳川光圀の反抗もありました。江戸時代の動物愛護。それは素晴らしい考え方だったことでしょう。しかしその考えは、320年経ってようやく理解されつつある、多くの問題を含んだ、極めて難しく困難な課題への挑戦です。【参考図書】 古川愛哲:江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた,講談社,2008年,190P
2008.09.22
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私を悩ませる漢字。毎日使う漢字。その漢字の日本への伝来は、5世紀ごろと言われます。もちろん、西暦57年に日本に伝わったとされる金印にも、「漢委奴国王」の文字があります。天理市東大寺山古墳出土の太刀にも、2世紀の銘が刻まれています。しかしこれらは、日本で使われた漢字ではありません。事実、4世紀後半の銅鏡に刻まれた漢字にも、誤りが多くあります。この頃は、まだ漢字は使われてはいませんでした。5世紀から使われた漢字は、今も私たちの生活に欠かせません。しかし漢字の習得は世界の文字の中でも難しく、悩ましさもあります。ワープロに頼るこのごろ、私も漢字忘れに悩まされています。ありがたく、そして悩ましい漢字との付き合い。これは一種の腐れ縁かもしれません。*遠方におり、PCに触れることができませんでした。コメントの返事など、遅れましてすみません。今日はお返事にうかがいます。
2008.09.17
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高価な貴金属、プラチナ。プラチナ、つまり白金は、かつてはゴミにすぎませんでした。欧州の人々は、プラチナを知りませんでした。正しくは、金鉱石に混ざる役に立たないゴミとしてなら、知っていました。16世紀、スペイン人が、南米インカ帝国を侵略します。プラチナの価値を知るインカ人が持つ、多くのプラチナ製装飾品。それをスペイン人は、銀と間違えて略奪します。しかしプラチナを溶かして加工しようとした、スペイン人は驚きます。銀の融点961度でも溶けないからです。ならばと、金の融点1064度に上げますが溶けません。それは当然です。プラチナの融点は1770度なのですから。銀に似た、使えない石。スペイン人はプラチナをそう考え、次々と廃却します。スペイン人は、知りませんでした。自分達が馬鹿にしている南米のインカ人が、欧州人より高い金属の加工技術を持つことを。インカ人は、プラチナの高い価値を知ることを。だから欧州の人々は、もちろん知り得ませんでした。プラチナの金を溶かす王水にも溶けない高い耐食性を。プラチナの抗菌作用や抗癌作用を。プラチナの触媒作用を。プラチナを捨て続けた欧州人が、その価値に気づくのは約100年後でした。ひとは、思い込むことで、そのものの価値を見出す力を失います。そして、その力を失えば、その人自身の価値も失われます。いつかその取り戻し様のない過ちに気がついた時、後には深い後悔のみが残ります。こころがくもれば、なにもみえません。価値を見出すことも、そして自らの価値を高めるのことも、すべては、公平な目をもつことから、ようやく始まるのです。【参考】 菅野照造:「貴金属の科学」,日刊工業新聞社,(2007年)144P
2008.08.29
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御訪問先で、亜細亜号が話題になりました。そこで今日は、亜細亜号のお話。昭和9~18年、南満州鉄道の象徴として走り続けた大型機関車、亜細亜号。高さ4.8mの流線型大型車両。2mもの大型動輪で、82.5km/hの高速運行を可能としました。豪華な客室と食堂車。曲面を生かしたデザインの展望車。当時の日本鉄道技術の高さを物語る亜細亜号。しかし満州国成立の混沌とした世界情勢は、亜細亜号を汚名に塗れた大日本帝国の象徴であることを要求しました。大陸を走る豪華超特急。高速を得るための大型動輪は、力強く鋼鉄の軌道上を駆ける。亜細亜号は夢を求めて走る。しかしその走りは悲壮感に満ち、やがて敗戦とともに消えてゆく。21世紀、新幹線は、200km/h以上の高速運行を平然とこなします。そしてそれらの高速電車が、あの大型動輪を必要とすることはありませんでした。
2008.08.16
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1938年10月30日のハロウィン前夜。H.G.ウェルズの「宇宙戦争」が、オーソン・ウェルズにより「火星人来襲」としてラジオ放送されました。当然の宇宙船の落下。空を飛び回る火星人からのレーザー光線。その生々しい放送に、アメリカ国民がパニックを起こしたことは有名です。逃げ惑う人に、心臓発作を起こす人。ガスマスクを買いあさる人に、毒を飲み自殺を図る人。銃を手に、火星人に立ち向かおうとする人もいました。パニックは、偶然の出来事から起きました。そもそもこのラジオ番組シリーズ「マーキュリー・シアター」は低聴取率3%。この「火星人襲来」も、「ナンセンスで現実味がない」として放送中止されるところでした。しかしオーソン・ウェルズは、無理に放送に踏み切りました。裏番組のエドガー・バーゲンとチャーリー・マッカーシーのショーは、空前の聴取率35%の人気番組。この「火星人襲来」を聴く人は、ほとんどいないはずでした。「火星人来襲」は、冒頭でフィクションであることを伝えてから放送されました。しかし午後8時12分、奇跡が起きます。裏番組に人気がない歌手が登場し、13%もの聴取者がこの放送にチャンネルを変えたのです。そのため大半の聴取者は、冒頭のフィクションの通知を聞き逃していました。慣れない番組を聴いたこともあり、空前の大パニックが起きたのです。人気番組の聴取率を一気に落とした裏番組の歌手。ラジオ放送関係者にとって、この歌手こそは、火星人より恐い存在だったに違いありません。
2008.08.08
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静かに守り続ける人がいました。法隆寺のすぐ傍にある有名な円墳、藤ノ木古墳。小さな円墳からは、未盗掘の家形石棺が発見されました。その中には、寄り添う様に埋葬されたふたりの男性。ガラス玉15,000,銅鏡,刀剣,馬具など、多くの埋葬品も発見されます。天皇は葬られない円墳であることから、天皇陵ではないと分かります。物部氏に擁立され、蘇我馬子に暗殺された、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)が被葬者との説もあります。さらに、横乗りの女性用の馬具も埋葬されていたことから、宅部皇子は女装していたも言われます。注目の多くは被葬者にあつまる藤ノ木古墳。しかし私は、この石棺を未盗掘で守り続けた人のことを想います。古墳の石棺の前には、灯明芯の燃えた跡が残っていました。さらに江戸時代の灯明皿も、残されていました。江戸時代、誰かが石棺の前で、死者を供養していたのです。江戸時代、この古墳の南には、ミササキノ庵という小さなお寺、宝積寺が隣接していました。1854年、安政元年12月29日、この寺は炎に包まれます。そして寺を31年間守ってきた実操智真尼が焼死します。藤ノ木古墳を守っていたのは、まさにこの宝積寺の尼僧だったのです。ひとり石棺を守り続ける尼僧。毎日、暗い古墳の中で、死者を供養するその姿。誰も気に留めないその供養が実り、石棺は盗掘を免れたのでした。尼僧は何を想い、死者を守り続けたのでしょうか。その答えを知る人も、その記録も、一切残されてはいないのです。
2007.12.09
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いつまでも、亡き人とともにいたい。人は、そう願います。アンデスの人々は、ミイラとともに生きます。先祖のミイラに服を着せ、髪をとかし、会話します。ミイラも家族の一員であり、それは現代でも変わりません。古代インカ帝国がアンデスを征服する時、そのミイラは利用されます。アンデスの祖先のミイラを焼き払い、心の支えをなくします。心の支えを失ったアンデスの人々は、インカ帝国に支配されます。しかしインカもミイラに支配されます。皇帝はなくなった後も、ミイラとして政治に参加します。ミイラの管理者の口を借りて、歴代の皇帝は生きた皇帝に指示を出すのです。16世紀前半、12代皇帝ワスカルは、ついに我慢の限界に達します。11人の歴代皇帝のミイラからの口出しに、我慢しきれなくなったワスカル。彼は、ミイラたちの財産没収と墓への埋葬を宣言します。それはインカの内乱を招きます。そしてそこへ攻め入ったスペイン人により、強大なインカはあっさりと滅亡したのです。インカは、ミイラによって滅んだのです。ただ、スペイン人も、ミイラを恐れました。民間のミイラは焼き払ったものの、皇帝のミイラは人々の暴動を恐れ、どこかに隠したと言われます。そしてミイラを失った人々に、抵抗する力はありませんでした。支えを失った人は弱いもの。だから人は、心の支えを求めます。インカが滅び、長い年月、皇帝のミイラは探し続けられています。しかし、未だに皇帝のミイラは、見つかっていません。
2007.12.05
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山辺の道を行きつつ、途中にある黒塚古墳に立ち寄りました。ここは三角縁神獣鏡が、33面も出土した古墳です。三角縁神獣鏡、特に「景初三年」の年号がある鏡は、卑弥呼の鏡と呼ばれます。景初三年、卑弥呼は魏に遣いを送りました。その時、100枚の鏡を持ち帰ったと言われます。ところが三角縁神獣鏡には、「景初四年」の年号の鏡もあります。「景初」は三年までしかないことから、日本で中国の鏡を模倣して、年号を間違ったという説があります。中国では同様の三角縁神獣鏡が1枚も発見されないことも、その理由になっています。しかし一方で、「景初四年」の鏡は中国製という説もあります。卑弥呼が送った使いは、景初三年12月頃に魏に着いたことでしょう。急いで鏡を作らなくてはなりませんが、来年の年号が決まりません。仕方がないので、年号の改正はないと考え、「景初四年」の鏡を造ります。しかし迷った挙句に朝廷は、1月を「景初三年」の「後12月」と呼ぶことにします。つまり景初三年は13ヶ月になったのです。そして、2月からを「正始初年」とし、「景初四年」はなくなったのです。困ったのは鏡職人。しかし既に鏡は造ってしまいました。止む終えず、そのまま間違った年号の鏡を渡すことになったというのです。今も昔も、行政の対応の遅れは変わりません。三角縁神獣鏡、それは行政に翻弄される、庶民の嘆きの記録なのかもしれません。○ 三角縁神獣鏡と黒塚古墳あまりに歴史の話が続きました。明日からは話題を変えましょう。
2007.11.03
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徳川五大将軍綱吉は、男子・徳末を失った後は、男子に恵まれませんでした。「かあさん、どうすればいい?」マザコンで有名な綱吉は、母・桂昌院に尋ねます。ところが桂昌院は、祈祷僧・隆光がお気に入り。病気になるたびに、桂昌院は隆光に祈祷してもらっていました。隆光はこう告げます。「前世の殺生のために、男子が生まれない。生き物を大切にせよ。」かくして1685年、生類憐みの令が出されます。それでも男子が生まれないため、ますます厳しくなる禁令。街は野犬にあふれ、肉屋,魚屋,料理店は失業状態に。結局男子は生まれず、娘の鶴姫の婿に世継ぎを託します。しかし鶴姫とその婿は早世し、綱吉の血は途絶えます。ご利益のない生類憐みの令でした。六代家宣は、綱吉が亡くなるとすぐに禁令を解除します。そして隆光はいっきに落ちぶれ、その年のうちに江戸を去ります。そして江戸への登城も禁止され、隆光は奈良県で寂しく亡くなります。隆光の生類憐みの令への寄与は、今日では否定する説もあります。それでも隆光が政治に影響を及ぼしたのは、間違いがないところ。自らの生き方は、自らで判断できなければ、未来はありません。生類憐みの令。おいぬさま、お帰りなさいませ。今日なら、メイド服のお嬢さんがお迎えするところでしょうか。それなら、罪はないかもしれません。
2007.11.02
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髭面の男の顔が描かれた土器。それを人面墨書土器と呼びます。8世紀前半から平安時代に作られました。その土器の男は、疫病神とも言われます。人々はその土器に、自らの厄や穢れを封じ込めて祓います。厄は土器に息を吹き込み、蓋をして川に流すことで祓われます。人は安らぎを求めて、この様な土器を多用したのです。そういえば、土器の男の顔にも、何かしら癒しを感じます。今日も、蓋物の陶磁器は使われます。残業で遅くなった貴方を迎える食卓。そこには料理が冷めないようにと、蓋をされた食器があるでしょう。古代に厄を封じ込めた土器。それは今では、愛情を保つ器に変わりました。そして陶磁器の持つ暖かなぬくもりがなせる業。人が気持ちを伝えるため、陶磁器は今も作られているのです。○人面墨書土器
2007.10.31
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もう海水浴もシーズンの終わり近くとなりました。今日ではごく自然な海水浴の風習も、かつては異例なことでした。海水浴がイギリスで定着し始めたのは19世紀半ば。レジャーというより、海水が病気の治療に効くとの認識から流行しました。海水浴場はランク付けされ、下位の海岸でリゾートをすごすことになった人は、他人にそのことを知られまいとやっきになりました。海水浴場には桟橋(ピア)が造られ、今日の海外にあるような水族館、食堂、遊歩道などを備えたリゾート設備となりました。そのピアの売り物のひとつは、「水浴機械」でした。水浴機械は、フードで囲まれた馬車。女性はこの箱に入り、水着に着替えます。その間に馬車は水辺まで移動。そして海側のフードから海に出ることで、他人に水着姿を見られずにすむのです。当時は首から足首までを覆う水着で、スカートも付いていました。しかし女性は水着姿を見られるのを恥じたのです。現代の水着で19世紀に泳ぐと、どの様な騒ぎが起こるのでしょうか。ちょっと、気になりませんか?
2007.08.15
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1850年頃、人々を恐れさせたのは「生きたままの埋葬」でした。この頃に流行ったコレラは、死が訪れる前に極度の体温低下などの仮死状態を招きます。そのため誤診により、早すぎる死が認定されることがありました。実際に、納骨堂の隅で座った死体や、納骨堂の床に倒れた死体が発見されています。生きたままの埋葬の恐怖。これは一種の集団ヒステリーに近い状況を起こします。財産家には、医者に大金を積んで、自らのとどめを依頼する例もありました。1849年に亡くなった天才作曲家ショパンは結核でした。彼も生きたままの埋葬に怯え、不眠症にすらなっています。そしてこの中、1852年にジョージ・ベートスンが「ベートスンの鐘楼」を発明します。これは棺にベルが付いていて、蘇えった時にベルを鳴らして報せる棺。これは大好評で、大英帝国勲功章を授けられたほど。この発明で大金を得たベートスン。しかし彼の末路は悲惨でした。彼自身が自分の発明を信じられず、自らを火葬にするよう遺言を残します。しかしこの遺言が無視されるのではないかという恐怖から、結局は、焼身自殺を遂げるのでした。ベートスンの鐘楼の改良型には、多くの発明品が存在します。これらの棺に入った人は、孤独な人に違いありません。死に際してまで家族を信用できなければ、それ自体が死より恐ろしいことです。信頼なき人生は、自ら「生きたままの埋葬」を選択しているのと同じだから。今、本当に、生きているでしょうか?
2007.08.03
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選挙の後、消費税はどうなるのでしょう。そんなことを、つい考えてしまいます。かつてイギリスでは、窓にも税金がかけられていました。それは19世紀のこと。窓ばかりではなく、換気穴にも税金はかけられます。そのため貧しい人々は、窓のない暗い部屋で過ごさざるを得ませんでした。1825年にようやく窓が8個までは無税となりました。しかし税金の高さから、窓が8個以上の家はイギリスの1/7しかありませんでした。窓税が廃止されたのは1851年。この後に、ようやくイギリス国民は、窓ガラスからの陽光の射す部屋に住めるようになりました。イギリスの画家たちも、ようやく明るい部屋で絵を描き始めます。昔の絵が暗いのには、窓税の影響もあったのです。イギリス国民は窓税により、かえって光の恩恵を実感しました。もし消費税が増税されれば、私たちは物のありがたさを、感じることができるのかもしれません。
2007.07.29
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古い本を読んでいました。9・11事件で墜落したUA93便を描いた本です。当時はあまりの加熱ぶりに、読む気にならなかった本。乗員乗客44名を載せた93便をハイジャックした、テロリスト4名。ワシントンへの自爆テロを狙うが、未遂に終わり、シャンクスビル郊外に墜落。乗員乗客は全員、帰らぬ人となる。無数の携帯電話の通信やボイスレコーダーから、乗客が飛行機を取り戻すために抵抗したことが判明しています。柔道の全米チャンピオンやラガーマンなどのスポーツマンが、乗客にいました。アマチュア飛行機の操縦ができる乗客も2名いました。かれらは食事用カートを盾に、コックピットに突入。飛行機を取り戻そうとします。しかし通常1万メートル以上の高度を飛ぶこの航空機は、当時は300mの低空を飛んでいました。空気抵抗の大きい低空では、アマチュアパイロットでは93便の操縦は困難。ましてや93便は一時は音速を超えて飛行し、さらにひっくり返り背面飛行していました。93便は低空の背面飛行から、時速900kmを越える高速で、地面に45°もの急角度で墜落します。墜落現場には直径9mのクレータはあったが、エンジン1個と窓枠数個以外は飛行機の姿はありません。ましてや乗員は血の一滴も、そこにはなかったのです。全ては地表から10mもの深さに、機体ごと完全に埋まっていたのです。乗客がコックピット突入時に最後に残した言葉。「さあ、かかれ!(レッツ・ロール)」遺族基金はこの言葉が悪用されるのを防ぐため、登録商標を取得した業者から5万ドルで買い取ることになります。さらに乗客を英雄扱いすることで、テロへの攻勢は強まり、レッツ・ロールを胸に刺繍した民兵が報復に参加します。遺族の苦しみは、事故の後に始まったのです。許されないテロですが、自爆まで決意するテロリストが出る背景は何でしょう。殺人訓練を受けていたとはいえ、40人を相手にカッターナイフを唯一の武器として命をかけるテロリスト。事実、その無謀な行為は、乗客の抵抗により阻まれます。テロは許されません。ただ次の遺族の言葉も、私の心に深く残りました。アメリカは、その行動が他の国に与える影響について、考える必要があります。時には穏やかな手段のほうが、他国の文化や信条、生活様式を無視したやり方より、はるかに有効なことを学ぶべきです。この事件をきっかけに、誰も成長しないなら、乗客の死は本当に無駄に終わります。乗客の死を無駄にするか、それとも同じことを繰り返すのか。それを決めるのは、アメリカという国の、反省と成長にかかっているのではないでしょうか。
2007.07.21
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先日、米政府ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使から、原爆投下を正当化する発言がありました。今日でも原爆を正当化する見解は、世界の主流です。昭和20年、天皇から和平への検討要請が告げられました。原爆投下45日前、日本はソ連に和平の仲介役を依頼します。しかしソ連には思惑がありました。アメリカと密約を交わし、北海道を占領する計画です。日本は大切なときに、和平の仲介役を間違えました。日本は天皇制さえ守られれば、降伏に応じるつもりでした。ポツダム宣言の下案には第12条として、天皇制の存続がありました。しかし最終的なポツダム宣言には12条はありません。ソ連は戦争が終わっては困るのです。そしてアメリカは、ソ連参戦前に戦争を終結させたかった。歴史学者ガー・アルペロヴィッツはこう述べます。「アメリカはどの選択肢よりも、原爆を使いたかった。」日本はポツダム宣言を黙殺するしかありません。そしてアメリカは言います。「戦争の終結には原爆の投下が必要だった。」世界の核抑止の理論、それは効率に基きます。「400機の戦闘機が必要なところを、原爆はたった1機で済ませてくれる。これほど効果的な兵器があるだろうか。」原爆投下は京都、広島、横浜、小倉に絞られました。そしてこの地域は、原爆投下の“効果”を確認するために、事前の空爆は避けられました。35万人の市民が暮らす広島。そのときには既に、日本には防空能力はありませんでした。エノラ・ゲイの乗員は述べます。「対空砲火なし。迎撃なし。ただ原爆を落とすのみ。それだけのこと。」広島の原爆の投下日は、落下傘につけた圧力センサで効果が確認できるように、風のない日が選ばれました。最も能率的な爆発の理論高度は790m。実際にはややずれて580mの高度で炸裂しますが、効果は絶大でした。原爆は瞬時に1000万度の温度を発生させます。太陽より熱い火球は、爆心から600mまでの地表を4000℃の高温にします。爆発の圧力は数百万気圧。それは毎秒260mの暴風を発生させます。それは時速940kmの乗り物に跳ね飛ばされるようなもの。爆心から2km以内の全てのものは、火災嵐で焼き尽くされます。そして計算されたとおり、死の灰が降り注ぎます。トルーマン大統領はこう述べました。「原爆によって、何千人ものアメリカ兵が救われた」一方で、現在までに広島、長崎でなくなった一般市民は、37万人に及びます。そして効率的なはずの原爆は、なぜか長崎にも投下されます。米政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使は先日、こう述べました。「原爆の使用が何百万人もの日本人の命救った。」たしかに何百万もの日本人は、アメリカによって奪われないですみました。37万人で許されたのです。原爆。それはたしかに極めて瞬時に機能し、かつ効率的な兵器でした。効率に基いて、今日でも原爆を正当化する見解は、世界の主流です。被爆した5歳の女の子の言葉が残されています。「その日もおとなりの猫に、牛乳を飲ませようとわくわくしていました。そして中庭に出た途端・・・・」せめて今日のフィギュリンで、あの時あげられなかった牛乳を。
2007.07.09
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奈良は古墳の多い町。天皇陵も多くあります。しかし知るほどに、天皇陵の問題が見えてきます。宮内庁指定の天皇陵は39箇所。そして陵墓と天皇の名が一致しているのはわずかに2箇所。それは天武・持統合葬陵と天智天皇陵。それ以外は天皇陵ではないか、指定違いと見られます。また陵墓参考地という宮内庁管理の古墳もあります。いずれも学会では疑問視されながらも、調査は許されていません。例えば奈良県橿原市にある、初代天皇の神武天皇陵。そもそも神武天皇は存在が疑問視される天皇。母のタマヨリヒメは海の神。そしてその後の8人の天皇は欠史八代。一切の記述さえない、歴史の空白を埋めるために名を連ねるだけの天皇。しかし1~9代天皇にも天皇陵があります。それは江戸末期から明治に、小さな古墳を大きく改造、あるいは山を削り“造られた”からです。文久2年に神武天皇陵には、15,602両もの大金がつぎ込まれます。他の天皇陵の工事費は平均555両。大金をつぎ込み、今ある巨大な神武天皇陵を造りました。周辺の古墳も、元は小さな円墳や、自然の山が大半です。神武天皇に必要な即位宮として、橿原神宮を創建します。初代天皇の即位宮が、明治22年に造られたのです。そして畝傍山の洞村の人々は、強制移転させられます。なぜなら作られた霊山畝傍山に住み、天皇の即位宮を“見下ろす”から。それは住井すゑさんの「橋のない川」のモデルとなる部落問題となりました。今も宮内庁指定の陵墓240超は学術調査が許されず、宮内庁独自の発掘調査が非公開で行われています。まるで何かを隠すかの様に。天皇陵から薪を取ることも禁じ、堀の水も用水に使えない。生活路も通行止めになり、地域の人に大きな負担をかけてきた宮内庁指定陵。それは平成の今も変わりません。文化財の保護と真実の追究。明治の時代から脱却した、平成の時代の見方ができるはず。今は21世紀、真実の時代。(参考文献)「天皇陵とは何か」茂木雅博(同成社)
2007.06.12
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バイキングのアメリカの発見について、少しまとめることにします。先日のコロンブスのお話の関連です。「バイキングの新大陸発見の歴史」○986年 ビャルニ・ヘルヨルブソンが見知らぬ森のある陸地を発見。しかし上陸せず。○992年 ライフ・エリクソンが35名で葡萄のある島に上陸。ヴィンランド(葡萄の地)と名付ける。○エリクソンの弟トルワルドも上陸。しかし現地人に襲われ死亡。○トルフィン・カールセフニが160人でヴィンランド上陸。越冬し更に南下するが、2年目にインディアンと交戦。捕虜2名をつれて帰国。ヴィンランドとはどこでしょうか。ニューファウンドランドとする説が有力です。1000年頃にバイキングが、新大陸に上陸したのは確かな様です。しかし彼らは明確に新大陸を意識しておらず、本格的な新大陸探検はコロンブスの時代まで停滞することになります。ところで、バイキングの王の名前は面白いですね。ハーラル美髪王、ホーコン善行王、オーラフ柔和王は、好感が持てます。スウェイン巻き髪王、ハーラル灰色毛皮王、ゴハム老王は、どうでしょう。エリク血斧王は、ご遠慮したい。面白いのは、シャルル禿頭王、カール肥満王。王様にこんな名前をつけて良いのでしょうか。バイキングは王の名前にも、豪快な民族性がみえてきます。皆さんも身近な人に、バイキング風の呼び名をいかがですか。
2007.06.11
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われらにあだなせし者どもに災いあれ!火刑台の劫火に包まれた、テンプル騎士団のド・モレー総長から放たれた呪いの言葉。それは、フランス国王フィリップ4世の陰謀により、テンプル騎士団が滅ぶ瞬間。十字軍に起源をなすテンプル騎士団。彼らは修道士として、軍人として、聖地エルサレムへの巡礼者を守ります。そして清貧と謙譲の精神を貫き、キリスト教の教義のために戦います。しかしエルサレムがイスラム教徒に奪還されて、その存在意義は失われます。十字軍遠征費用を管理していたテンプル騎士団に残された巨額の資金。フィリップ4世はこの資金の没収をもくろみ、フランスの5000人の騎士団を逮捕します。それは1307年10月13日の金曜日。それ以来、13日の金曜日は不吉な日とされます。彼らの容疑は、悪魔崇拝、魔術の使用、偶像崇拝、男色、そしてイスラム教と手を結んだ罪。すべては虚偽の罪状。想像を超える拷問の数々で、彼らは獄中死、刑死します。ついにテンプル騎士団は滅びますが、その精神は秘密結社フリーメーソンに引き継がれます。そして1793年のフランス革命。ギロチンに処せられたのは、フィリップ4世のカペー王家の末裔ルイ16世。処刑の直後、ひとりの男が、ルイ16世の血のりに両手を浸します。彼はフリーメーソンの一員。500年を経て、ド・モレー総長の呪いは現実となったのです。しかし、これはあまりに血塗られた歴史。全ての悲劇は、秘密主義という騎士団の排他的な性格によります。互いに理解しあうことの大切さ。忘れられていたのは、そんな当たり前のことでした。
2007.05.18
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1912年4月14日深夜、豪華客船タイタニック号は氷山に激突して沈没します。小学生の頃、この事故を書いた子供向けの本を読んで以来、この事故の理由が知りたくて様々な本を読んできました。映画タイタニック以来、市場の本は急増し、今では多くのことが分かります。氷山の発見が遅れたのは、波がない海で目視での監視だったから。氷山を回避できなかったのは、舵が小さくスピード重視だったから。回避行動がさらに遅れたのは、機関停止し更に舵が効かなくなったから。他船の氷山の警告無線を無視したのは、乗客の私用の電報を打つのに忙しかったから。氷山を無視したスピードは、商業広告用のスピード記録を狙ったから。不沈船が沈んだのは、回避行動で側面に5区間に浸水する長い傷を作ったから。大きな傷ができたのは、溶接技術のないリベット構造の船は脆かったから。意外に脆い船体の材料は、低純度で低強度の金属が船内火災で劣化していたから。乗員乗客1,513人が犠牲になったのは、救命艇が足らなかったから。救命艇が足らないのは、甲板の美観のために撤去されたから。1178人分の救命艇で705名しか救えなかったのは、定員分載せると沈むと思われたから。死者に3等船客や給仕等の船員が多いのは、身分差別がある時代だったから。最初の定員65名の救命艇に12名しか載らなかったのは、名士が優遇されたから。救難信号が近くの船に届かなかったのは、船の無線士が寝ていたから。救助に向かう船が遅れたのは、周囲の氷山での二次災害を恐れたから。救命艇に余裕があるのに救助活動しなかったのは、人の重みで沈むのを恐れたから。最後の救命艇に乗った人の半数が助からなかったのは、4時間の漂流で凍死したから。そして全ての原因は、不沈船という驕りがあったから。しかしこの事故で、人は多くのことを学びます。救命艇や無線の整備、氷山の監視、人命救助の徹底等が進みます。しかし本当の悲劇はこれからでした。姉妹船オリンピック号は長く就航しますが、もう1隻の姉妹船ブリタニック号は客船として使われることはありませんでした。病院船として第1次世界大戦に徴収され、魚雷に触れて沈没したのです。乗員乗客1,513人の死者を出したタイタニック号の沈没。それは数年後に始まる2つの世界大戦での死者3,000万人以上に比べれば、とても小さな出来事でした。
2007.04.15
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陶器にとっても重要な青。かつて、青は黒と同様に嫌われた色でした。ローマを攻撃したケルト人やゲルマン人が青く体を染めていたから。つまり青は不吉な色。当時の人気色は赤。それが不吉な色、黒の人気向上と共に、青も大流行し始める。そして染料もタイセイからインディゴに改良される。デニムに使われるインディゴだが、ジーンズとの正確な歴史はリーバイスの火事により失われている。プロテスタントは今でも色を嫌う。ヘンリー・フォードが当初は黒以外の車を売らなかったのもそのため。後に革命でも象徴的に使われた青。歴史の中で色は様々な意味合いを持ってきたことが分かるね、ねこさん。
2007.01.12
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