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だんだん100日信行を達成した人が出てきています。この人たちが、次には、どのような修行に取り組むのか。こちらも楽しみにしています。100日信行のおかげは、確実に出ていると思います。神様は、ただ取りはされないなあ、と思わされます。そして、次なる信行は、100日信行の成果、お徳をもって考えられますから、より神様の御心に適ったものになるように思います。こうして、前向きに修行に取り組めることは、ありがたいことです。どのようなおかげになるだろうかと、ワクワクします。信心辛抱して、おかげにならないことはありません。本当にあらたかな神様を信心させて頂いているのですから。
2008.10.30
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今日は、母の75歳の誕生日です。母も後期高齢者になりました。今朝、母にお祝いを渡しました。今までは、家内がご馳走を作ってくれたり、プレゼントを用意したりしてくれていました。今回は、お祝いを包ませてもらおうと思いました。今まで、親にしてもらうことが多かったので、これからは、少しでもさせてもらえればと思っています。ちょっと遅い感じもしますが、まあいいでしょう。神様も親孝行を喜んでくださっているように思います。
2008.10.28
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今、流行の特定健康検査を受けてきました。私は、健康検診を殆ど受けてこなかったので、この機会に受けようと思い、受けました。尿検査と、血液検査、後、血圧や、身長、体重測定、おなか周りの測定などだけですが。結果は、どれも異常なし。問診で、運動はしていないし、朝食は食べないし、睡眠不足だし、あまり健康にいい生活はしていませんが、おかげで、血液の数値なども、すべて標準値におさまっていました。人のことを祈らせていただくと、お徳がいただけます。そのお徳で、健康のおかげもいただけます。そして、神様が、信心以上のおかげを下さっています。とにかく、問題なしでよかったです。また、月末で忙しくなり、ブログを書けなくなるかもしれませんが、元気ですので、ご安心ください。
2008.10.25
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びろうなお話ですが、朝の便を見たら、半分ぐらいが黒くなっていました。昼にも、少し排便がありました。今度は、真っ黒になっていました。私は、出血があったのだろうか、と不安になりました。大腸癌かもしれない、と不安がよぎりました。ご神前で御祈念をしていると、前日食べたものが頭に浮かんできました。そして、イカ墨スパゲティーを食べたことを思い出しました。それを口を真っ黒にしながら、みんなで食べたのでした。あの黒さは結構、強力ですね。それを思い出して、「なあ~んだ。イカ墨だったか」と安心しました。しかし、思い出すのが遅いような、記憶力の方が心配です。
2008.10.24
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「松田東吉師伝」に次のような箇所があります。三代金光様に、次のようなお言葉がある。「天地のことは、人の力に及びませんでなあ。神信心には、何事も辛抱することが一番大切でございます。教祖様がなあ、欲をはないて(離して)、神様のお取次をお受けなされ、四神様が、おあとを十年、夜に昼に欲をはないてお座りなされ、早うお国替えなされてなあ。それから、何も知らぬわくしが、座りさえすれば楽じゃ言うて、座らしてもらいました。初めのうちは、辛うて辛うてよう泣きましたがなあ。親様の教えを守らしてもろうて、泣く泣く辛抱しいしいに座っとりましたら、ほしいものも、考えることも、いつの間にかなくなりましてなあ。ありがとうてありがとうてならぬようになり、なんぼう御礼を申しても、足りませんのじゃ。御礼の足りませぬお詫びばかりしておりますが、もったいないことであります」これは、昭和十一年八月六日、一身上の問題を抱えたある教師が御取次を頂かれた折のお言葉であった。東吉師は最晩年、このお言葉に涙を流した。「三代様が、十四歳から七十年間、泣く泣く辛抱しいしいに御用なされたのは、この松田東吉ひとりを救わんがため、そのような御用、ご辛抱をくだされたと思うと、ありがとうて、ありがとうて、涙が出て祝詞が上げられなかった」と、教会最後の月次祭に落涙してはばからなかった。もちろん、三代様の御用は、東吉師ひとりのためではありませんでした。しかし、東吉師には、自分ひとりのために、というのが実感だったのです。この感覚が大切だと思います。私も、三代様は、私一人を救うために御用くださった、と感じています。座りきる、ということを見せて下さいました。そして、私を座ることに促してくださいます。それが、とてもありがたいです。
2008.10.22
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金光教では、問題をお結界に持っていき、お願いします。それに対して、ご理解をいただきます。また、分からないことは聞くこともあります。そのように、取次者と一緒に、その問題に取り組みます。神様に向かうことで、お徳を頂くことができます。そのお徳を使って、神様は助ける働きをして下さいます。お徳がないと、神様は助けられません。ですから、信心をしてお徳を頂くことが大切です。お徳は、信心をすることでのみ頂くことができるのです。そして、神様は、お徳を使って、持ってきた問題を解決するだけでなく、先祖の御霊から助けようとされます。問題を祈ることで、神徳がいただけ、その神徳で、先祖を助けたり、他の喫緊の問題を助けたりされるのです。ですから、お願いに持って行った問題ではないところで、おかげを授けることもあられるのです。そのように、1つの問題を通して、信心を催促され、信心をすることで得られるお徳で、全体を助けようとされるのです。このようなことを、「洗心」11月号に書こうと思っています。先に、ダイジェスト版で、ブログに書きました。でも、書く段になったら、違うことを書くかもしれませんが・・・。
2008.10.21
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昨日の、ご大祭のお礼に、岡山教会と芸備教会、そして、笠岡教会、ご本部にお参りさせていただきました。11時には出発したかったのですが、色々と手間取り、12時に出発になりました。しかし、昨日参拝できなかったご家族4人が参拝されたりして、出発が遅れたことも、そういう御繰り合わせなのだろうと思わされました。今日は、いいお天気でしたが、昼食を頂くときには、曇り空になり、車の中がそんなに熱くならなくして下さいました。車の中には、食べ物を入れており、それらを持って降りるのは、ちょっと大変な量ですから。お天気の御繰り合わせを、神様にお礼申し上げました。そして運転は、殆ど家内がしてくれました。私は、大祭前日は2時間、昨日は4時間しか寝ておりませんので、居眠り運転を気をつけてくれています。ありがたいことですが、家内もあまり寝ていないようなので、居眠り運転の危険性が無きにしも非ずなのですが。しかし、私のように前科がありませんので・・・。
2008.10.20
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今日、生神金光大神大祭を仕えさせていただきました。沢山の参拝者があり、ありがたかったです。大阪からはるばる参拝された方もありました。りんどうさんやはらはんさんも参拝して下さいました。祭典でのメインは、祭詞奏上です。今回は、前日にやっと書き上げました。願いを前面に出させていただきました。そこに寛志先生らしさが出ていた、と言われた方がいました。それぞれの問題を読み上げているときに、その人の顔が浮かんでいるのだろうなあ、と感じたと言われました。確かに、問題を書くときに、信者さんの問題を思い浮かべていました。それを、神様に改めてお願いさせていただきました。御大祭は、ボーナスポイントがある、などと言われます。おかげが大きいのです。すべてがおかげになっていくと思います。
2008.10.19
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明日は、岡東教会の生神金光大神大祭です。なかなか準備が進まず、まだ御供え物も済んでいません。今、お餅を蒸しています。少し時間が在るので、ブログを書いています。1日の空いた時間で、準備を進めていますが、よくよく見てみると、空いた時間というものは、そんなにありません。ご祈念とお話、そしてお取次をしていると、ほぼ1日のほとんどの時間を使っています。ですから、大祭準備が進まないはずです。夜は、メールでのお取次をしていますから、これもまた、時間が取れません。そういうことで、準備が遅れていますが、神様はちゃんとして下さいますから、きっとできるでしょう。祭詞は、今日できました。願いを多く入れさせていただきました。どうしても叶えていただきたい願いが多くあります。神様は、神は願われるのが役だから、と受けて下さいます。懐の深い方です。
2008.10.18
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今、9時半からのご祈念の後、南八幡教会の初代、松田東吉先生の本を読んでいます。今日は、修行のところでした。冬の寒いとき、池に入って、大祓いを何巻もあげるのです。身を切られるような寒さの中、池に飛び込むのです。あるとき、飛び込もうとすると、「待て」と声がする。あたりを見渡しても誰もいない。そこで、また飛び込もうとすると、「待て」ととめられた。そして、「池に長い棒をつけてみよ」とのこと。長い棒を探して、池に入れようとしたら、厚い氷がはっていた。飛び込んでいたら、頭を打って死んでいたかもしれない。「お前が入るところはあけてある」とのことで、探してみると、東吉師が入るだけ氷がはっていないところがあったとのこと。まさに神様に守られての修行であられたようです。「神様が働かれるのに、せめてこれぐらいの修行をさせていただかなければ申し訳ない」というお心での修行。いやはや、おかげを頂かれて当然、という感じです。私などは、何の修行もしていないのに、おかげを頂いている。借金状態といっていいでしょう。もしくは、先祖の貯金を食いつぶしている・・・。もっと修行をさせていただかねば、と思うことしきりです。しかし、なかなかできない・・・。(TT)
2008.10.15
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今日は、クリエイト21の例会がありました。今日も、活発な意見が交わされました。信心が生きているなあ、とありがたく思わされました。神様の働きが見えるようなお話が出てきます。私の話は、信心ほど生産的なものはない、ということですが、生産的な信心にしなければいけない、ということでもあります。信心すれば、健康になり、財もでき、子供も良くなる。これほど生産的なものはありません。しかし、そのような生産的な信心にするには、神様に動いていただけるほどの一心を出さなければいけません。その一心を出す稽古が要るのです。神様が受けて下さったかどうか分かるぐらいの信心をしなければいけません。それには、祈る稽古が必要です。ただ、ひたすら神に向かう稽古あるのみです。2週間前ぐらいから、教会の外の街灯が青色になって、ちょっぴり神秘的になったことに気づいていました。町内全部の街灯がそうなったのかと思ったら、今日、道まで出て見たら、教会を中心にして、左右それぞれ3,4本の街灯だけ青く、その向こうの街灯は、白いままでした。何か、教会の周りだけ、神秘的雰囲気がかもし出されているようで、不思議な感じがしました。これは蛇足です。
2008.10.14
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10月19日が、岡東教会の生神金光大神大祭です。今日は、大掃除をさせて頂きました。ご奉仕の人数が少なかったのですが、皆さん一生懸命してくださり、きれいになりました。それぞれの人が、神様へのお礼の気持ちを込めて、お掃除をされました。それぞれの人の思いは、色々でしょう。今日お掃除をしたくても、都合で出来ない方もおられました。それぞれ事情があられます。お掃除ができること自体が、大きなおかげでもあります。これから6日間、短いですが、神様に真をこめて、準備をさせて頂きたいと思います。
2008.10.13
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永井肝四郎先生が伝える越智常太郎先生は、厳しさに徹しています。殊に布教に出る前の烈しさときたら、全く人間では、ああは怒れまいと思われるほどのすさまじさであった。そんな時は、あたかも荒神が乗り移ったようで、時には結界の硯も飛び、肩の上をシースも舞ったという。論にも法にもかからんことをどなりまくって、それで一言も文句は言わせられなかった。それだけ先生は、自分にも弟子にも、仮借なく真剣で命がけであったのだ。古い弟子ほど、「先生は、ただ恐ろしいだけだ」と述懐する。親教会へ参るのも、叱られるのが怖いからで、今日は行ったら、また、叱られはすまいか、何かと言われはせぬかと、そればかりを心配しながら、戦々恐々として重い足を引いていたのである。もしも、病気でもするか、教会に問題でも起こるかしたら、それこそ目から火が出るどころの騒ぎではない。これではとても生きてはおられんと言うところまで、ひどいご理解があった。もちろん、どんな理由があっても、弁解や口返答はもってのほか、ただ私が悪うございましたと畳に食いつくより他はなかった。先生は、よく言われた。「わしは、わしのこの肉を、この骨を、皆に裂いてやりたいのだ。おまえたちはそれを取って食べよ」と。これが叱る先生の正体だったのだ。どのようなひどいことを言ってご理解しておられたのか、一度聞いてみたい気もしますが、まあ、むちゃくちゃだったのでしょう。しかし、何とか助けたい、一人前に育てたい、それのみだったのでしょう。
2008.10.12
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越智常太郎先生のもとで、修行生たちは、絶体絶命の境地に突き落とされ、いかなる修行に取り組むかを問われたのです。永井肝四郎先生は、その様子を以下のように書かれています。炎天に奥城のコンクリートに座り込む者もある。雪解けの谷川へ夜遅く飛び込んで、首だけ出して大祓いをあげる者もある。氷解けの水をかぶる者、ふとんを敷かずに寝る者、徹宵御祈念をし通す者、大祓いをあげ通す者、断食する者、山へ座る者、思いつく限りのことは皆やったものだ。時には、神徳試験といって、「今から皆で御祈念をせよ。そしてご神座の綿布の色をあててみよ」と言われる。懸命にやってからお結界の先生に、白とか紫とかでたらめを言って叱られたものだ。また、外出の時など、お帰りの時刻をおっしゃらぬ。それが分からんようなことで御取次ができるか、と言われる。それで駅までお迎えに行っていなかったら大変である。先生が出られると、一生懸命だ。神様、何時に先生は帰られましょうか、お伺いしていると、とんでもない数字が眼の前へ出たりする。時には、あたることもあるのだ。なんとも、すさまじいと言うか、滑稽(失礼)と言うか、それでも、そのように一生懸命になるところから、少しずつ本物になって(して)いかれたのでしょう。こうした本気さが足りないのだろうと思わされます。
2008.10.11
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永井肝四郎師が、師匠の越智常太郎師のことを書いています。一日のご祈念が終わって、夜半近い頃、半里余りの河原まで駆け足をやった。そこへ座って大祓い数巻、手ごろの石を拾えとあって、それを肩に、ワッショイワッショイと走って帰る。そのままでまた山の上へ登る。息切れがして、どうしても先生にはついて行けなかったという。お広前に座っていると、「何をボンヤリ座っとるんじゃ。お掃除をせい」と言われる。お掃除をしていると、「掃除なんかほっといて拝め拝め」拝んでいると、「拝むばかりが能じゃない。参ってきた信者に、どんどん話をせい」話していると、「お前たちが話したんじゃ、信者の信心をぶち壊すようなもんじゃ、祈れ、祈れ」祈っていると、「何をしとるか、少しは体を働かせ」全く進退極まるというか、何をしていいかさっぱり分からん。中には、叱られても、怒鳴られても、神前へへばりついて、びくとも動かん者もできてきた。このようにして鍛えられた弟子は、やはりそれだけの気概があったのでしょう。修行と言っても、このように師匠に鍛えられるのと、自分で修行をするのでは、自分でするほうが、甘くなってしまいます。やはり、師匠がいるなあ、と思わされる瞬間です。
2008.10.10
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教祖様は、亡くなられる前日、つまり10月9日まで100日修行をされました。どういう内容であったかは、定かではありませんが、心の行であられたのではないかといわれています。私は祈りの行であられたのであろうと思っています。人民のため、総氏子を助けるための、すさまじい祈りを繰り返されたのであろうと思います。その結果、終生生き通しの取次の神様となられたのだと思います。
2008.10.09
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教祖様が、朝晩お願いされていた御文が伝わっています。その中には、細かなお願い内容が書かれています。私も、教会長となって、月例祭の祭詞の中身を、もう一度検討して書かせていただきました。それには、病気の人の快癒の願い、就職や仕事、財の問題解決、人間関係のおかげ、良縁、妊娠、出産のお願い、また、難儀な人をお引き寄せ下さるよう、そして、子孫への信心継承の願いを書いていきました。以前よりも、願いが強く打ち出されたと思います。教祖様の信心も、お礼よりも、願いが打ち出された信心ではなかったかと思います。何事も、実意をもって願え、です。しっかり、一心に、真を込めて願わせていただきたいと思います。そしておかげを受ければ、神もうれしい、と言ってくださる神様なのです。
2008.10.08
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今日は、ブログを開設して満2年です。2年間「いのち」が続きました。これからも、よろしくお願いします。それはどうでもいいのですが、今日は、岡山県東部教会連合会の教師研修会がありました。講師は、東京の中野教会、河井真弓先生でした。講題は、金光大神が見つめる「いのち」です。示唆深いお話でした。私たちは、自分の中に「いのち」があると考えているが、本当は、「いのち」の中に私たちが生かされているのではないか。なかなか示唆深いですねえ。高橋正雄先生が、山の家にこもって、自ら何もしようとしない生き方をされた。そうすると、自分を生かそう、生かそうとする「いのち」の働きがあることが分かられた。つまり、大きな「いのち」の流れの中に、我々は生かされているのです。私の「いのち」は、また、他の人の行動などに影響を受けるものでもあります。教祖様の実弟の彦助さんは、自殺しますが、それを、「母親が神の恩知らずゆえ、彦助も始終出世することなし。神が早うにくつろがしてやった」と神様は言われました。母親の恩知らずのために、自分のいのちがなくなる、ということがあるのです。不合理な話ですが、そういうところがあるのです。めぐりというのがそういうもので、子孫に影響を与えるのです。真弓先生は、「先祖のみならず生者の神への無礼はめぐりとなって家族や子孫など、その当事者とかかわる他者へと波及し、そうした「いのち」は絶える道をたどる」とかなり強烈なことを言われていました。金光教は、もっとめぐりを明らかにしていくことが、いるのでしょう。また、めぐりについて、言及していかなければ、力強い救済力は生まれてこないと思います。
2008.10.07
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父は一昨年の年末に、貧血で入院し、1ヵ月で退院できましたが、2週間に1度ぐらいのペースで、輸血を受けています。そうしたこともあり、教会長を交代してほしい、と言われていましたが、教務センター所長のお役がある間は無理、と断っていました。その任期も無事終わりましたので、教会長の願いを聞き、このたび教会長にならせていただきました。そのことを、ある先生に話すと、「最近は、教会長が生きている間に交代するところが多くなった。下克上と言うか、クーデターが起こりやすい。岡東も、クーデターが起きたのか」と言われました。確かに、少し前までは、亡くなるまで教会長、というのが当たり前でした。なぜ、代わるようになったのか。実質動ける人が、責任を持って遂行する、という考えもあるでしょう。また、早めに自覚を持って御用をする、ということもあるでしょう。私の場合、後者に当たると思います。やるべきことは、山ほどありますが、焦らず、ボチボチとやりますか。
2008.10.05
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今日は、笠岡教会のご大祭にお参りしました。笠岡教会の信子先生が、来年3月で100歳ということで、敬老の日に、総理大臣からお祝いを頂かれたそうです。(年度内に100歳になる方に、お祝いが贈られるそうです)信子先生は、祖父の博志の妹です。信子先生のお姉さんの愛子先生は、平成17年に、100歳で亡くなられました。高橋家は、長寿のお徳をいただいているようです。私も、あやかって、100歳を目指したいと思います。そうすると、今やっと半分来たことになります。やっぱり、やめときましょう。まずは、60歳を目指しましょう。
2008.10.04
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朝、ご祈念後、信者さん数人と御茶を飲みながらお話をします。8時前に皆さん帰られます。その後、中に入って、メールを見たり、ブログを見たりしています。ブログを書くこともあります。昨日は、8時半ぐらいにお参りがありました。朝日が差し込んで、お広前が素敵な空間になっています。ありがたいなあ、と思いますし、その中で、その雰囲気を楽しみながら、座っていたいように思いました。中に入るときは、チャイムがなるようにしているのですが、これが入りようによっては、ならないのです。今日も8時半ごろなったので、出て行きましたら、帰られていました。入る時はならず、出る時になったのです。がっかりします。やはり8時からも、休憩せず、ずっと座っていなければいけないのでしょうか。少し前に、みだりに休まず、と書いたばかりですから。そうすると、ますますブログが書きにくくなります。まあ、言い訳になりますね。
2008.10.03
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「おかげ」というものは、ほしいものですが、おかげを頂くとお徳が減るので、桂先生などは、「おかげめが徳を吸い上げる」と言っておられたそうです。「おかげめ」とは「おかげの奴」ということです。少し前に、家内が息子に、「これを買ってあげる」と言うと、「そんなもので徳が減るのはもったいない」と言ったとか。「おかげ」よりは、「お徳」がいいという感覚は、持っていたほうがいいと思います。
2008.10.02
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松山成三先生が、「参拝者がなくても、みだりに休まず、外出せず」と決心されたそうですが、私も、少し見習わせていただかなければならないと思いました。朝4時から5時までのご祈念が終わって、6時からの定時のご祈念までに、お塩とお水を替えたり、髭をそったりするのですが、5時40分の信者さんが参られる時間まで時間があれば、ソファに座って休むのです。しかし、お広前は武士の戦場と考えて、休まないようにしなければいけないと思います。「楽はせぬ」と書いてお結界に貼っていた先師がおられますが、その気持ちでおらなければ、ものにならないように思います。しかし、ついつい楽をしたくなる。凡夫の悲しいところです。
2008.10.01
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