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最近、御霊様のことをよく書いていますが、御霊のことが気になるのです。これは、御霊様方が、自分たちのことを、もっと気にかけてくれよ、と呼びかけておられると感じるのです。今の人は、先祖のことを、あまり気にかけなくなってしまいました。お墓参りをする人が少なくなったとも聞きます。それでは、命が分断されてしまいます。先祖から子孫へ、命は続いているものです。その全体を見なければいけません。そういう見方がなくなってきました。これは、危険なことです。信者さんのところでも、子孫が信心をしなくなったり、先祖のお祭りをしなくなったりしています。そのことを、御霊様が寂しく思われているような気がするのです。それで、御霊様のことが気になるのでしょう。もっと、御霊様のことを気にかけるようになるよう、呼びかけていきたいと思っています。
2007.01.31
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御霊のことにかかわって、今回も書きます。小倉教会初代の桂松平先生は、四神様から、かねて「取次をしている者は、あの世のことも知っておかねばならんから、いつか教えてやる」と約束なさっておられました。ある時、四神様から「ついて来い」という声を頂かれました。その声を頂かれて、桂先生はついていかれました。今風に言えば、幽体離脱ということでしょう。桂先生がついて行かれると、沢山の御霊様方が、足を押さえ、腹を押さえ、頭を押さえて苦しんでおられる。可哀想だな、と思いながら、その中をどんどん進んでいかれると、今度は場面が変わって、春の野原のようなところに、泉もあり、大人も子どもも、男も女も、みんな楽しそうに遊んでいる。大変な違いだな、と思っておられると、桂先生の背中を、ぽんと叩く方がおられるので、振り向くと、亡くなったお母さんでした。そして、お母さんが、「今、お前が見てきた、あの御霊様方は、生前信心をせずに徳を積んでいないから、ここに来れない。ああいう方々は、子孫の者が信心して、御霊の神としてやらねばならん」と言われた、と言うことです。ですから、生きているときに、信心して徳をいただくことは、死んでから大きな違いが出来ることになるのです。セルリアンブルーさんが、「若いときの信心は老いての楽しみである」というみ教えを引かれましたが、生きているときの信心は、死んでからの楽しみである、と言えるでしょう。
2007.01.31
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教会の会計も出来、月刊誌「洗心」もでき、ちょっとホッとしました。また、ブログもボツボツ書いていこうと思います。私たちには、御霊様、神様が深くかかわっています。病気の7割は、御霊に関係しているとさえ言われます。病気だけでなく、財の問題、人間関係の問題も、御霊のかかわりは大きいです。御霊様には、先祖の御霊もありますが、自分自身の本線の御霊もあります。本線の御霊というと、自分の前世、前々世と考えてもらってもいいと思います。大体自分の運命は、本線の御霊が生きていたときと同じような過程をたどるといわれています。ですから、アル中で困っているとすると、前世の本線の御霊も、アル中で苦しんでいた可能性があります。ですから、今、アル中と戦っているとするならば、前世の御霊様も、自分のところにきていると考えていいのです。そして、その他の、アル中で苦しんだ先祖の御霊様方も来ている可能性があります。そこで、信心して、神様にアル中を治していただけると、本線の御霊様も、先祖の御霊様も同時に、アル中の苦しみから解放されるのです。ですから、自分が信心して、今の問題のおかげを頂くと、先祖の御霊様を助けることにもなるのです。ですから、信心させていただき、おかげをいただくということは、御霊様を助けることでもあるのです。そういうことを、少し前に気づかせていただきました。
2007.01.30
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今日は、月例祭の後、総会と新年会がありました。そして、その時、み教えの書かれた短冊を引きます。その教えを、この一年間の心にかけるみ教えとします。不思議とその人にピッタリの教えを引きます。私は、タイトルに書いたようなみ教えでした。まさに、私にとって、今一番必要なみ教えである、と思わせていただきました。信心は、日々成長していかなければいけません。成長が止まったときは、信心が死ぬときでもあります。成長するためには、改まることがいります。最近、深刻な問題のお届けが多くあります。どうなるだろうか、と心配になるような問題ばかりです。そこを、心配をせずに、神様が今度はどのようなおかげをくださるだろうか、と楽しみに待つような自分でありたいと願っています。そうならせていただくためには、自分が日々祈りをしっかりして、改まりを繰り返すことで、できていくのだと思います。日々の祈りが足りないことを感じます。そのことを改まらないといけないことを感じます。しっかり祈りが出来ますと、この神様は、とんでもないおかげをくださいます。天地を丸生かしにしておられる、そのお力を少しでも引き出すことが出来ますように。天地の懐に手を突っ込むことが出来ますように。そうできるためには、日々の改まりが第一なのです。それなくしては出来ないのです。そのことを肝に銘じる一年にしたいと思ったことでした。このみ教えの短冊は、まだありますので、今回お参りできなかった方も、今度お参りなさったとき、引いていただきます。楽しみにしておいてください。
2007.01.28
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ちょっと仕事のめどが立ってきましたので、書き込みます。芋たこなんきんさんも、過激なことを書いておられるので・・・。私がブログを少し休憩させていただいたことで、寂しい思いをされた方が、2,3おられました。本当は、もっとおられるはず、と信じていますが、少し控えめに言わせていただきます。そのうちの一人は、その寂しさを補う何かを求めておられるようでしたので、私は、朝の6時からのご祈念に参拝されたら、と言わせていただきました。その方は、昼も仕事をしなくてはいけないようになり、昼の参拝も出来ない状況になってきておられました。私のブログは見れないは、昼の参拝も出来ないはでは、どのようにして、信心を進めていったらいいか、途方にくれるところが見えました。私は、これは、神様の次のステージへの招きであることが分かりました。神様がされることは、はっきりしております。そこで、前に書いたようなことを言わせていただきました。しかし、その方は、ご主人が信心に反対されており、以前参拝禁止令が出た苦い経験もあります。そこで、躊躇されておられたのですが、お結界での言葉を聞いて、ご主人に頼んでみられました。その結果は、もちろんOKでした。そして、その方の、朝参拝が始まりました。自分にとって、嫌な、寂しいことがあっても、それも次なるステップへの神様の促しであることが多いのです。全て、神様がいいようにしてくださる働きなのです。神様にお願いしながら、お取次をいただきながら、辛いことにあたって行っていただきたいです。難はみかげであることを信じてください。苦しみは、お結界で吐き出してください。神様が引き取ってくださいます。そして、おかげにして渡してくださいます。
2007.01.25
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今月末まで、やらなければいけないことが山積してしまい、ちょっとブログを書くことが困難になってきました。ちょっと休憩させていただきます。私のブログを楽しみにしてくださっている人には申し訳ないですが、しばらくご辛抱ください。そうは言っても、2、3日後に書くかもしれませんし、その辺は適当です。私がお気に入りに入れていたASKANETさんは、ブログをやめる、と書かれていました。私は、やめはしませんので・・・、ちょっと休憩です。
2007.01.21
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今週は、5日連続で、御本部に参拝させていただきました。1日は、芸備春秋会の役員会が御本部であり、後の4日は、教務センターの御用でした。遠い人は、願いに願って、やっと御本部参拝をされるのですが、私は、こうして御用の関係で、たびたび御本部参拝させていただけることは、有難いことだと思います。「御本部へは、徳を仕入れにいくのぞ。ちょうど商売人が、品物を仕入れるのと同じである」と言われた先生がおられます。ですから、私は、御用の関係で御本部に参ったときには、センターに出る前に、お広前で30分ぐらいご祈念をすることにしています。しっかりお徳を仕入れさせていただかないと、もったいないですから。そして、お結界でお届けをさせていただきます。このお結界には、ものすごいお徳があります。そのお徳を、少しでも多く懐に入れさせていただきます。そのお徳によって、この前書いたような奇跡的なおかげが、どんどん現れるのです。
2007.01.20
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今度2月11日には、教区の「青年セミナー」で、四代金光さまを取り上げさせて頂きます。四代金光さまのことを、陶芸家で人間国宝になられた、藤原啓氏が、金光様の歌集を読まれて、次のように感想を述べておられます。「本当に噛みしめれば噛みしめるほど、味わえば味わうほど、無限の深さを持っていることに、私は今更ながら驚嘆した。事実、最初拝見したときには、何らの感動も受けず、かえって下手な歌だと思っていたが、今では、心からその非礼を悔いている。小説にしても、何かの本で珍しい言葉を見つけると、例え回り道をしても、その一句を使いたくなるのが普通だ。殊に短歌や俳句をやっている人は、その点もっとも甚だしい。その言葉を使って、得々としている。何かやる場合、誰しも多くの人たちに、上手だとほめられたいのが人情だ。金光氏といえども、人間である以上、そうした感情があっても不思議ではないのだが、実に淡々として、無造作であり、無技巧に、何のこだわりもなく作られている。私も作陶の上で、その心境を志して、すでに十年近い歳月がたっている。誰が何と言おうと、私は私だ。どんなにへたくそだと言われようと、もっとも私の好きな簡素で素朴な作品を作っていけばいいのだ。いつもそう思いながら、無意識のうちに、大衆に媚びようとする、そして、時代に迎合しようとする意識が働く」私も、どうしても相手に良く思われようとする心が働きます。我が力で、いい話をして、相手を説得しようとする自分がいます。そこを通り越して、無心になって、金光大神様のお手代わりとしてのお取次が出来るようになりたい、と思わされました。
2007.01.19
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朝の4時からのご祈念に、参拝しておられる人がいます。4時からのご祈念は、まだ公式のご祈念にしていませんので、私が寝過ごしたときは、4時20分や四時半になるときもあります。そういう時は、教会の周りを散歩されて、時間をつぶして、参られます。それから、6時のご祈念にも、9時半のご祈念にも参られます。そうした参り方をしておられると、やはり奇跡的なことが起きました。その方は、ある病院で、すぐ手術をしないといけない、と言われて、手術の日も指定されていました。しかし、手術を受けたくないので、何とか手術しなくていいようにお願いしておられました。そして、もう一つの病院で、診てもらいました。どちらの病院も一流の病院です。そのお医者さんは、その病院でも第一人者の先生でした。そのお医者さんの見立てでは、MRIで検査してみなければ何とも言えないけど、手術をしないでいい可能性もある、と言ってくださいました。その病院のような大病院では、すぐMRIの検査は受けられないのが普通ですが、尋ねてもらうと、空きがあって、その日のうちに、MRIの検査を受けることができました。そのことだけでも、奇跡のようなことです。そして、その結果、すぐに手術をしなくてもいい、という診断が下がりました。その方の願いどおり、手術をしなくていいおかげを頂かれました。まさしく、奇跡的なおかげを頂かれました。これからも、お参りを繰り返し、神様におすがりしていくと、手術をしなくても治るおかげになるのではないか、と思わされます。参れば参っただけ、一心になれば一心になっただけのおかげがある、と思わされました。本当に、そうしたおかげがよくあるようになって来ました。神様のお働きが起こりやすくなっていることを感じます。神様に向かうことに力を入れていると、神様が勇んでくださいます。命を懸けて向かわせていただくと、命がけで働いてくださいます。神様には、本当に向かい甲斐があると感じます。
2007.01.17
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自分がすることに自信がない人がいます。でも、それは、本当のことが分かっている人なのです。人間は、自分で出来るだけの甲斐性はないのです。健康にしても、いつ病気になるか分かりません。会社での取引先にしても、いつ、もっといい取引先に変わられるかもしれません。自分がしているようでも、神様のお世話になって、いろいろな人のお世話になって、出来ているのです。ですから、自分がする、と言っても、自分の力だけでは出来ないのです。そのことが、分かっている人が、自信を持てないのだと思います。それを、自信を持て、と言うほうが無理なのです。でも、自信がなく生きていくことは、苦しいことです。そこで、信心することが大切なことになってきます。信心をする、ということは、神様にお願いして、させていただく、ということです。神様にお願いすれば、神様が働いてくださいますので、自分が心配する必要がなくなります。そして、神様がしてくださるのですから、必ずうまくいくはずです。うまくいかないように思えることでも、最善のことをしてくださっているのですから、お願いせずにすることよりはいいはずです。しかも、お願いしてすれば、神様にパイプが通じるわけですから、そのパイプを通じて神徳がいただけます。うまくいく上に、神徳がいただけるのですから、こんなにうまい話もありません。世間では、「うまい話には気をつけましょう」と言われていますが、信心は正真正銘、うまい話だと思います。ただ、本当の信心でないといけません。ですから、信心してお願いしてさせていただきますと、そのことに自信が持てるようになります。神様にお願いしてさせていただいたことだから、大丈夫!!!と思えるようになります。そうすると、そうできる自分に自信がつくようになります。そういう自信のつけ方もあります。そして、それが、一番いい自信のつけ方だと思うのです。
2007.01.16
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教祖様は、「形に目をつけてはいけない。御霊の働きにおかげがあるのである」と言われましたが、信心する目的の一つが、御霊の働きに力をつけることにあります。ある信者さんが、危篤状態になられました。それで、その方の父親が、会いに行かれました。その時のお話ですが、その方のご主人は、御霊様などが見えるそうですが、その方の枕元に、教主金光様が来て下さっているのが見えたそうです。それは、教主金光様の御霊のお働きです。おかげで、その方は、危篤状態から持ち直されました。このように、生きながら、御霊として働けるようになれると、有難いと思います。教祖様は、「生きて神にならずして、死んでから神にはなれない」と言われました。生きている間に、信心の稽古をして、人を助けさせていただける御霊(=神)にならせていただくことを願いとしたいと思います。私たち人間は、神の子なのです。神の子ですから、成長していけば、神になるはずなのです。金光教は、生神の道である、とも言われます。教祖様の教えを実践していけば、生神になっていけるのです。心が成長することは、本人にとっても、楽しいものです。うれしく、楽しく、信心の稽古をさせていただき、御霊を成長させていただきたいと思います。
2007.01.15
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今朝、ある信者さんが、町内の新年会のとき、「金光教の教会では、どのようなことをしているの」とか、「お供えは、参るたびにしないといけないの?」とかの質問があった、と話してくださいました。それだけ、金光教に関心を持ってくださっていることを、有難く思いました。その方は、「定時には、ご祈念とお話があるけど、そうでないときでも、いつでもお参りすれば、お話をしてもらえますよ。金光教は、お話を聞いて助かると言われていますから」などと、説明されたそうです。聞かれた方も、お参りしたい気があるから、質問をされたのだと思います。どうぞ、お引き寄せこうむられるように、願っています。このお道では、人がどうすれば助かる生き方になるのか、を話させていただきます。金光教の教会では、そうした話が聞けるのだ、ということを知っていただきたいです。そして、もっともっと金光教に興味、関心を持っていただきたいな、と思わせていただきました。
2007.01.14
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今日は、「ありがとうございます」ということばについて考えたいと思います。「ありがとうございます」ということばを、何度も言えば、病気なども治っていく、という説を唱える人がいます。小林正観という人ですが、便所掃除とともに、「ありがとうございます」ということばを、何度も言うことを提唱しています。また、滋賀県の山奥に、「ありがとうおじさん」という「ありがとう」を唱え続けている方が住んでいます。この方も、「ありがとうございます」ということばの素晴らしさを、話しておられます。普通、ことばには、それを言う感情が大切で、ありがたくもないのに「ありがとうございます」と言ってもダメである、と考えるのですが、小林正観さんやありがとうおじさんは、ありがたくなくても、ありがとうと言っていれば、ありがたくなってくる、と言うのです。それだけ、「ありがとう」という言葉には力がある、ということでしょう。ありがたくなったら、「ありがとう」というのであれば、なかなか「ありがとう」と言えませんが、ありがたくなくても、いな、ありがたくなければ余計に「ありがとう」を言うようにすれば、「ありがとう」を言うことが多くなります。そのようにして、「ありがとう」のようないいことばを多く使うようにすれば、ありがたい世の中になっていく、と言うのです。私も、そのように思います。たとえ感情が入らなくても、「ありがとうございます」と唱え続けて行きたいと思います。
2007.01.13
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今回は、ことばから受ける受け方について、考えたいと思います。特に、書かれたことばの受け方について、シュタイナーの本などは、10倍遅く読むように言われたりします。よく行間を読む、と言われますが、その行間に多くのことが盛り込まれているので、それだけ時間がかかる、と言うことでしょう。佐藤範雄先生が、金光教について書いた本をある青年に渡して読むように言ったら、すぐ読んで返しにきたそうです。佐藤先生は、この本は読み出したら、数時間は動けなくなるぐらいの内容があるのに、その青年がすぐ読んで返しにきたことで、書いたもので信心を分からせるのは難しいと感じたそうです。やはり、それだけのものを読み取る力がないと、受けることはできないのです。受けるにも力が要るのです。その力をつけるためには、そのことばにどのような思いが込められているのか、ご神意が込められているのか、真剣に伺うようにして受ける稽古をしていく必要があります。教祖様も、「神の一言には、船にも車にも積めぬほどの神徳がある」と言われています。受けるほうも、受け力をつけていかなければ、せっかくのおことばも、途中で落としてしまうことになり、もったいないことになってしまいます。
2007.01.12
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引き続き、ことばについて考えてみたいと思います。ことばは本当の気持ちを伝えるには十分なものではありませんが、限りなく本当のものを伝えられるものでもあります。ですから、本当の思いを伝えられることばを生み出すことがいるのです。それは、神様から頂くものでもあります。私もお取次をさせていただきながら、何を言わせていただこうか、と神様にお伺いすることがあります。そうすると、言わせていただくべきことが浮かんでくるのです。それは、神様がくださったものであります。ですから、前に、神様にこういわせていただきます、とお願いしてから言わせていただくように書きましたが、神様にどういわせていただきましょうか、とお伺いすることも大切なことだと思います。ある方の子供さんが、指を怪我して、手術をしましたが、元のようにはならず、形の悪い指になってしまいました。そのことで、その子は他の子供に冷やかされたのでした。その子は、家に帰って、落ち込んでいました。お母さんが、「どうしたの」と声をかけました。その子は、「僕はこの指が嫌いだ」と言いました。お母さんは、この指のことで、友達に何か言われたんだ、とピンときました。そして、神様に、どう言わせていただいたらいいでしょうか、とお願いしました。そして、次のようなことばが出てきました。「あのね、この指はね、怪我をしてとても痛かったの。そして、その後も、手術を受けて、何度も痛い目にあったの。でも、その痛さに耐えて、こうして元気に動いてくれている。ウルトラマンのような強い指なんよ」その子は、指を見ながら、「ウルトラマンの指か」とつぶやきました。そして、元気を取り戻しました。このお母さんのことばなどは、神様に言わせていただいた言葉なのです。ことばを言うのも、神様にお願いして言わせていただく、また、何を言わせていただいたらいいか、とお伺いさせていただく。そうして、すばらしいことばで世の中が満ちてくれば、すばらしい世の中になると思います。
2007.01.11
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朝日新聞の「夜回り先生の子どもたちよ」に、菅原文太さんのことが書いてありました。菅原さんは、考えてものを話す方だそうです。菅原さんが一言話す前には、必ず間があります。十数秒の事もあれば、数分にわたることもあります。ことばにことばを簡単に返さず、自分の中に刻み込み、そして自分の思いを乗せて、相手の目をきちんと見ながらゆっくりと返します。菅原さんの返すことばの重さに圧倒されるそうです。夜回り先生は、菅原さんから、ことばの怖さ、話すことの重さを知らされたそうです。そうした文章を読みながら、私はことばについて考えました。教祖様は、「悪いことを言うて待つなよ」「人の悪口を言うところからは、なるたけ逃げよ」などと、悪いことを言うことを極度に嫌われました。ことばで人を殺すこともあることを、よくご存知だからです。私も、人の悪いことは、極力言わないように気をつけています。人には、誰でも、欠点があります。でも、その欠点を言ってもいいことにはなりません。船井幸雄さんが、企業を伸ばすとき、その企業の得意分野を伸ばすようにするとうまくいき、不得意分野を良くするように指導したら、うまくいかないそうです。そこで、欠点是正法はダメで、長所進展法がいい、と言っています。何でも、いいことばを使うように気をつけたいものです。そして一番いいのは、ことばを発する前に、神様に、この言葉を言わせて頂きます、とお願いしてから言うことです。そうすると、そのことばに徳がついて、いい働きをしてくれると思います。そうした話し方を身につけたいものです。
2007.01.09
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ブログで出会ったそみさんと初めてお会いすることが出来ました。昨年、会えたらいいのに、という願いを、神様が聞いてくださり、出会わせてくださいました。8日は、成人の日でしたが、岡山では、成人式は7日にありました。ですので、私の二女も、成人式に出席した翌日ですので、私も教務センターに出ることが出来ました。8日が成人式でしたら、教務センターに出たりしたら、一生うらまれます。これも、神様のお繰り合わせです。そして、セルリアンブルーさんとはらはんさんも、来てくださいました。これだけ女性が集まると、にぎやかです。楽しい時間を過ごさせていただきました。みんな神様のことが大好きです。みんな神様を頂いて、一生懸命生きています。それがありがたいことです。それぞれ、新たな学びもあり、ありがたい集いになりました。
2007.01.08
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今日は、岡山市では、成人式が執り行われました。私の二女・志織も成人式に出席しました。今日は朝から雪が降り、あいにくのお天気のように思いましたが、昼には雪もやみ、お天気になりました。志織が、髪を結いに行っている時、信者さんの娘さんが、着物姿でお参りになりました。そして、ほぼ同時に、弟の長女の沙紀さんも参られました。信者さんの娘さんが、お母さんとお届けをされたとき、お母さんが、成人式を迎えられたことのお礼を言われるとき、少し涙ぐまれていました。今まで、いろいろなことがありましたから、感無量の気持ち、ありがたい気持ちがあふれたのでしょう。こちらも、涙が出そうになりました。次に、沙紀さんが両親(弟夫婦)と一緒にお届けされました。その時、御霊様の水玉がカチッと音がしました。祖父母の御霊様が喜んでおられるなあ、と思わせていただきました。そして、すぐに私の娘も、髪を結ってもらって帰ってきました。ご神前で、みんなで写真を撮ったりして、にぎやかでした。神様のおかげで、みんな立派な娘さんになり、ありがたかったです。
2007.01.07
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毎日、金光様のお出ましを頂き、金光様に来ていただいていますので、お広前にお徳がいただけてきたように感じています。今日は、みんみんさん、セルリアンブルーさん、はらはんさんが偶然(必然なのですが)にお広前に集いました。その時、お参りもあり、お広前はにぎやかでした。今日は、今年になって2人目の初参拝者がありました。こうしたことも、お広前にお徳がいただけてきたからだと思います。そうしたお広前に、一日座ることが出来ることは、ありがたいことです。お広前では、毎日、うら若き女性たちが、神前拝詞をあげています。こうしたことも、お広前にお徳がつくことになります。祈りこみのされているご神前は、それなりの厳かさが出来てくるのです。祈りは、そのものにある神様を生き生きさせます。祈りあえれば、お互いが生き生きします。祈りあえる世界の実現を願っています。
2007.01.06
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今年の東中国教区の運動推進テーマは、「ーお取次をいただいてー人の助かりを祈らせてください」というものです。神様に心を向けていて、感じるものは、「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ」というものです。神様は、どこまでも、難儀な氏子を助けたい、と思われているのです。もし自分に、神様が、「難儀な氏子を助けてやってくれ」と頼まれたらどうでしょうか?「そんな大それたことは出来ません」「そんな力はありません」と断るでしょうか?それが、命を助けてくださった神様の頼みであれば、そんなにむげには断れません。考え込んでしまいますね。教祖様は、頼まれました。そして、受けられました。しかし、そこには、死んだと思って欲を放す、という思い切りが必要でした。欲と言っても、家族を養いたいという、当たり前の欲です。その欲さえも放されました。そこまでのぎりぎりの感情が込められています。神様の切ないほどの思いも込められています。そうした流れを、私たちは受けています。ですから、せめて、「人の助かりを祈らせてください」と願いたいと思うのです。
2007.01.05
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金光教には、参拝者は神が引き寄せる、という考えがあります。ですので、取次者は、じっと座って待っているのです。神様が引き寄せられるのを待っているのです。今日は、次々と参拝者がありました。お昼を食べる暇もないほどでした。私は1日1食で6年ほどきました。ここに来て、少し緩めて、1日2食を頂く日を多くしています。今日も、頂くようにしていましたが、参拝者が続いたので、お昼を頂いたのが午後3時過ぎになりました。でも、1日1食に慣れているので、何ともありません。それがありがたいことです。そうしてみると、やはり昨日の午後、時間をあけてくださったのも、神様のご配慮だと分かります。参拝者を引き寄せるのも、引き寄せないのも、神様は自由にされます。そして、今日は、初参拝者がありました。何度も鳥居をくぐる夢を見られたそうです。参拝の促しを神様がされたのです。その促しを感じられて、お参りになりました。ありがたいことです。
2007.01.03
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1月2日は、午後のお参りが少なかったです。寂しい感じがしましたが、神様と一緒ですから、楽しいです。時間がありましたので、年末から忙しくて出来なかった年賀状を書かせていただきました。そして、ほぼ全て書くことが出来ました。この時間は、神様が、年賀状のために、あえてくださったもののように感じました。でも、年賀状のために、参拝者に影響させるようでは、取次者の御用としては失格ですね。しかし、いいようにとって、このことも、神様のおかげと感謝したいと思います。
2007.01.03
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御本部では、元日祭が午前4時から仕えられます。金光様の4時からのご祈念にあわせて、1年で、最初の祭典をされるのです。岡東教会でも、数年前までは、午前6時に仕えていました。それを、午前10時からに変えました。そして、その日の午前6時からのご祈念はなしにしました。それがいいかどうかは分かりませんが、楽にはなりました。でも、1日も4時の金光様のお迎えはさせていただきたかったので、起きようと思ってはいたのですが、元日祭の準備が終わったのが、午前3時でしたので、これは、もう寝れないと思いましたが、1時間ほど、少し横になりました。そして、4時に金光様をお迎えし、ご祈念をして、ご神前のしつらえ、椅子の準備などをさせていただきました。そして、時間がありましたので、掲示板に、「謹賀新年 今年もよろしくお願いします」と筆で書いて、貼りました。書初めです。これも、また、ありがたいことでした。そして、年賀状も、結局、書けませんでしたので、少し書きました。年賀状は、まだ、持ち越しております・・・。トホホホ・・・・。そして、10時から、元日祭。里帰りした若い人たちも参拝され、たくさんの参拝者で、ありがたかったです。神様に、御礼される人が、もっともっと増えるように、御用に精進させていただきたいです。
2007.01.02
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。しかし、気持ちよく新年を迎えられたかと言うと、少し不本意な状況です。まだ、元日祭の準備が出来ていません。年賀状も書けていません。でも、年末からずっと、睡眠時間3~4時間ぐらいで突っ走ってきました。昨日などは、2時間半ほどです。ですから、自分なりに納得しております。おかげで、「洗心」は出来ました。4時の金光様のお迎えは、15分ほど遅れながらも、お迎えすることが出来ています。夜の神前拝詞10巻もあげれています。お取次も、次々とさせていただけました。祈りとお取次は充実してきたように思います。それでいいのだと思います。それで、年賀状が遅れても、ブログが書けなくても、お掃除が行き届かなくても、祭詞やお供え物が遅れても、それはそれでいいと思います。祈りとお取次が、最重要なのです。そこに命を懸けなければいけません。そういうことで、これから、祭詞を書いて、お供え物をしなければいけません。ちょっと厳しいですね。でも、神様がさせてくださる修行だと思って、取り組ませていただきます。やっと、ブログを書かせていただきました。ありがたいです。
2007.01.01
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