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テレ朝「松本清張二夜連続ドラマスペシャル」を見ました。どちらも女性脚本家によるシスターフッド的な物語で、松本清張を意外な面から捉え直した形ではある。◇第1夜は「顔」。浅野妙子の脚本。後藤久美子&武井咲の主演。オスカー「国民的美少女」の先輩と後輩。顔を隠して生きてきた殺人犯の女性が、やっぱり最後はバレてしまうという話。なぜ逆光のシルエットを見て、顔まで思い出したのかは解せなかった。後藤久美子にかつての美少女の面影はなく、ただの色黒のオバサンかと思っちゃったw演技もあからさまにぶっきらぼうでしたが、なかば意図的なのかしら?なお、原作のほうは、女性じゃなくて男性の物語だったらしい。◇第2夜は「ガラスの城」。大森美香の脚本。木村佳乃&波瑠の主演。大森ドラマ常連女優の先輩と後輩。途中で語り手が失踪するのは面白かったけど、真犯人はまあ予想した通りだった。なお、原作では、波瑠の役どころのほうが年上の設定らしい。◇2作品とも、サスペンスとしての意外性には乏しく、ドラマとしての脚色も、可もなく不可もなしって感じでしたね。
2024.01.21
NHK大河「青天を衝け」。おくにとの不倫が描かれて以降、渋沢栄一の女性問題に多くの関心が集まりました。まず、くわしい史実については、河合敦の以下の記事があります。https://president.jp/articles/-/45236また、この手の話にいかにも詳しそうな鹿島茂が、より歴史的な観点からこのテーマを相対化しています。https://bunshun.jp/articles/-/49391とりあえずの事実確認。渋沢は、1858年、尾高千代と結婚して、手はじめに一男二女を産ませ、1871年、大内くにに不義の娘を産ませて、ここから「妻妾さいしょう同居」の第1期を開始します。その後さらに、千代に一男一女を、くにに一女を産ませていますので、ひとつの同じ屋敷のなかで、妻とも妾とも性生活が営まれていたことになります。1882年に千代がコレラで亡くなると、渋沢は、伊藤兼子と再婚して、妻妾同居の第2期を開始します。なんと兼子には七男二女を産ませています。そのうえ、家の外にも、多くの妾(愛人)を囲って多くの子供を産ませたらしい。なお、妾の大内くには、1888年ごろに渋沢家を出て、渋沢の友人だった織田完之と再婚しています。こちらでは、妾ではなく後妻だったようです。◇渋沢の女たらしは、自他ともに認めるところでした。地位が高くて金持ちだっただけでなく、パリ留学時代にフランス流のエレガンスやモダニズムに触れ、レディファーストの習慣を身につけるなどして、見かけ以上に、当時の女性からモテたかもしれない。また、文人でありながら、じつは武闘派でもありました。つまり、沢山の事業を起こしながら、沢山の女性に沢山の子供を産ませ、91才まで生き抜くという異常なほどのバイタリティがあった。モンゴル帝国の初代皇帝チンギスハンは、65年ほどの生涯のうちに、とんでもない数の女性ととんでもない数の子供を作り、その子孫がいま世界に3200万人ぐらいいるらしいのですが、渋沢もこれに負けてなかったかもしれない。◇渋沢が好色だったのは間違いないけれど、脚本家の大森美香は、それをことさら否定的に描くのではなく、すくなくとも千代・くに・兼子との関係については、つとめて肯定的に描こうとしていたようです。これは、もともとの大森美香の脚本手法でもあります。彼女のドラマには、本質的に「悪者」が登場しない。すべての登場人物に愛情を注ぐのが彼女の流儀だから、たとえ幕府側の人間であろうと、新政府側の人間であろうと、根っからの「悪人」として描くことはないし、千代はもちろん、くにであれ、兼子であれ、けっして「悪い女」にはしない。そして、それは案外、渋沢栄一の生き方にも則した人間観だったかもしれません。つまり、男女や善悪や敵味方を問わず、合本によって適材適所へ配置すれば、全体的な繁栄を目指すことができる、という考え方ですね。実際のところ、渋沢と3人の女性たちとの関係は、意外に安定的で良好なものだったように思います。つまり、大森美香が描いた千代・くに・兼子との関係は、あながち美化された脚色というわけではなく、それなりに事実に即したものだったように思うのです。◇千代、くに、兼子に共通して言えることがあります。彼女たちの存在意義は、あくまで家のなかでの役割によって測られていて、夫から「女として愛されているかどうか」には、さほど依存していない。とくに千代が血洗島の中ん家にいたころ、栄一はほとんど家にいなかったわけなので、千代は、女所帯である渋沢家の嫁の役割だけに徹していました。ようやく東京で暮らすようになって以降、いくばくか妻らしい地位を手に入れたように見えますが、まもなくすると妾との二世帯(?)同居になります。しかし、その妻と妾の立場も、夫から見て「本命か愛人か」で測られるような優劣ではなく、たんに家での役割分担の違いだったように思える。つまり、妻は「表の顔」という役割を、妾は「内助の功」という役割を負ったにすぎないのでは?こうした役割分担の発想は、渋沢家の男性たちにも適用されていて、たとえば篤二は、実子の長男でありながら、その無能さゆえに嫡男としての役割を認められませんでした。逆に、多くの妾や愛人のなかで、大内くにだけが渋沢家に入ることができたのは、彼女にそれだけの器があったからかもしれません。ちなみに大内くには、ドラマでは控えめな女性として描かれていますが、実際は、もっと男勝りで明るい女性だった気がします。◇…女の主体性って何なのでしょうか?それについて考えるとき、「本妻になる」だの「夫に愛され続ける」だのってことは、みじめなほど従属的な指標にしかならない。夫に愛されるか否かに関わらず、家庭や社会での自分の役割を生きることのほうが、よっぽど主体的というべきなのかもしれません。…まあ、ひとつの家のなかで、妻とも妾とも公然と性生活が営まれるってのは、いくら広い屋敷だとはいえ、なかなか理解しがたいものがあるのだけれど、実際のところ、夫に経済力があって、ちゃんと生活を保障してくれるなら、妻だろうが、妾だろうが、嫡子だろうが、庶子だろうが、さほどの違いも不満もないのかもしれませんし、案外、女所帯のなかで各自の役割分担をこなしていくうえでは、夫が忙しければ忙しいほど、妻妾ともども「亭主元気で留守がいい」ってのが本音だったかも。夫が留守であれば、そのぶん女たちが自由恋愛をする機会も増えるわけだし(笑)。昔だったら、夫以外の子供が出来てしまっても、それを「夫の子供」と称して産めちゃったかもしれないし。◇ドラマのなかで、姉の歌子は、弟の篤二にこう言います。あれほどの仕事をなすった父さまなら、品行上の欠点があっても「時代の通弊」として致し方ありません。しかし、その子たるものは違います。本心からそう思ってるかどうかはともかく、父の好色は「時代の通弊」として許される…というのが、ここでの歌子の考えです。たしかに渋沢栄一は、幕府に仕えたこともあって、一方では、大奥や吉原のような江戸文化の名残りを生きていた面があるし、他方では、鹿島茂が「メナージュ・ア・ラ・パリジェンヌ」と言うような、フランス流の自由恋愛の文化に触れていた面もある。いずれにしても、それらは、ひとりの妻だけを愛する「一夫一婦制」の価値観とは異なるものでした。◇敗戦後の日本は、米国流の「一夫一婦制」を取り入れ、一人の妻が一人の夫に愛される家族像を理想にしたのですが、これがかならずしも合理的なシステムだとはいえません。なぜなら、一夫一婦制の場合、妻ひとりの役割があまりにも多すぎるからです。およそ不可能なほどの無賃労働を強いられるハメになっている。これに対して、たとえば「一夫多妻制」は、家長の権力を強大化させたり、ヒエラルキーを硬直化させる弊害はあるけれど、女性側の拒否権や選択権が保障されるのならば、じつは多くの女性にとって都合のいいシステムだともいえる。むしろ一夫多妻制というのは、男性にとって不都合なシステムなのですよね。多くの男性があぶれるわけだから(笑)。◇一夫一婦制は、社会的な強制力がないかぎり実現しません。それはたしかに平等といえば平等であり、あらゆる遺伝子を残して多様性を確保する意義はあるかもしれないけれど、自然に逆らっているわけだし、悪平等と言えないこともない。べつに優生政策を支持するつもりはないけど、出来の悪い男の遺伝子まで満遍なく残す必要ってあるの?という疑念もある。むしろ、一夫多妻のシステムでなら、ほとんどの女はあぶれることなく経済的にも安定するし、女所帯のなかで、余裕をもって役割分担ができる気もする。◇一夫多妻制を想定する場合、つい「女の幸せ」がどうなのかを心配しがちですが、むしろ考慮すべきなのは「男の幸せ」のほうなのですね。あぶれてしまう大多数の男たちを、社会がどう制御するのか。実際、男の妬みは、女の妬み以上に凶悪です。たとえば猫の場合、あぶれたオスはとても凶暴化して、メスをふたたび発情させるために子殺しをするそうです。人間のなかにも、それに近いことをやる男がたまにいますよね。おそらく一夫一婦制というのは、公娼制度と同じように、あぶれた男たちの暴力性を抑制するための救済措置なのだと思う。◇近年の日本のテレビドラマやコミックでは、契約結婚や偽装結婚などの思考実験がさかんに行われていますが、これをたんなるフィクションだと笑うことはできません。実際のところ、地縁からも血縁からも切り離された一対の若い男女に、「恋愛」と「生活」と「経済」と「出産」と「子育て」を、すべて全うさせようとする現行の結婚制度のほうが、はるかに荒唐無稽なファンタジーだと言わざるをえないのです。とりわけ女性の負担が多すぎる。…いまさら一夫多妻に戻せとまでは言わないけれど、この期に及んで渋沢栄一の顔を紙幣にする意味があるとしたら、もうすこし、男女の役割を合理的・社会的に分担できるような新しいシステムの創出を喚起することにあるのかもしれません。
2021.12.10
NHK大河「青天を衝け」。すでに第31話まで放送されましたが…先週の第30話では、廃藩置県のことが描かれていました。わたしはかねてから、廃藩置県が成功したのは大きな謎だと思ってたので、ここで先週の内容をふりかえってみます。◇なぜ廃藩置県は成功したのか。もともと天皇という中心的な権威があり、織田・豊臣・徳川による天下統一という前提があり、新旧勢力がぶつかりあう戊辰戦争を経たにしても、わりにあっさり中央集権国家を樹立できたのは驚きです。どの藩も、新政府に抵抗するだけの経済力や軍事力がなかったわけですが、それにしても、そんなに簡単に主権を手放すものでしょうか?いまでいうなら、さながら世界二百ほどの国々が一斉に主権を放棄して、国連みたいな世界政府に譲渡してしまう …ってな感じです。もちろん軍事的な主権も放棄しますから、武装解除を伴います。日本は、そんな大それたことをいとも簡単にやってしまったと、当時の海外メディアが騒いだのも頷けます。じつは新政府の人たちも、かなりの抵抗を予想していたらしいのですが、やってみたら、意外に簡単に出来ちゃったのですね。追記:藩は形式的には主権と軍事力を有していたけれど、徳川時代の封鎖政策のなかで極限まで弱体化させられて、それが明治の廃藩の前提になったともいえる。≫ 出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈(童門冬二)◇新政府は、廃藩をする代わりに、それまでの藩の借金を棒引きにしてやりました。といっても、べつに新政府が肩代わりをするのではなく、ただ政治的に「踏み倒す」というだけのことです。この結果、大損をしたのは大阪商人だといわれています。今回のドラマでは、イッセー尾形が三野村利左衛門を演じていますが、多くの大阪商人が転落していくなかで、三井のように新政府と結んだ商人だけが生き残るのです。いわば廃藩置県というのは、みんなで大阪商人の借金を踏み倒すための、大掛かりで政治的な共犯だったのかもしれません。◇今回のドラマを見ていると、東京に西郷隆盛が来ていたことも大きかったようです。西郷が東京に来たのは、べつに廃藩置県を断行するためではなく、たまたま岩倉具視が「新政府に協力しろよ」と言って、島津久光の代わりに連れてきただけなのですが。その時点では、岩倉も、廃藩置県をやるとは知らなかったようです。山内圭哉も「えええ~っっ?!」って驚いてましたよね。https://www.kutv.co.jp/evening_kochi/evening_kochi-1122153/新政府のメンバーも直前まで知らなかったし、まして各藩に根回しをしていたわけでもなく、むしろ不意打ちを食らわせて、天皇の詔を出してしまった。しかし、結果として、西郷隆盛に刃向かってくるような藩はありませんでした。唯一、島津久光だけが、いわば部下に裏切られた形だったので、悔しまぎれに花火大会をやったりしたらしいですが(笑)。◇今回のドラマを見ていても、各藩主の受け止め方はよく分からなかったし、日本中の藩士たちが、廃藩の翌日からどんな風に過ごしたのかも分からなかった。もしかしたら、廃藩の意味をあんまり理解してなかったのかもしれない。それとも、ちゃんと理解したうえで納得してたのか。あるいは、納得できないまま我慢してただけなのか。まあ、このあと西郷自身が戦争を起こすことになるので、きっとそこで藩士たちの気持ちも描かれるのかな、とは思います。
2021.10.20
NHK大河「青天を衝け」第28話。いわゆる「神回」だったと思います。ほかにもそう呼ぶべき回はあったけれど、あえて、この第28話を「神回」と認定したい。◇いよいよ新政府へ出仕するという大きな転機。実質的な明治編の始まりになる回です。裏を返せば、ここから先は完全な近代劇なので、もはや大河ドラマの本流に反し、完全に時代劇ではなくなってしまう。普通に考えるなら、それは大河にとって大きなハンデとなるはずです。しかし、むしろ面白くなっている。とくに大きな事件が起きるわけでもなかったけど、何故こんなにも味わい深くて、面白いのだろう。◇大倉孝二の演じる大隈重信とのコントに笑い、草彅剛の演じる徳川慶喜との対話にじんとしました。そして、きわめて効果的に差しはさまれる回想シーン!!この作品では、ひとつひとつの回想に深い意味があって、それが絶妙なタイミングで蘇ってきます。なぜ千代は平九郎にあんなことを言ってしまったのか。平岡が栄一に託した希望とは何だったのか。無謀にも馬で走る慶喜を追いながら、大声で「渋沢栄一です!」などと名乗った意味は何だったのか。そういうことの一つ一つが、必然的な因果として思い返される。よくある民放のクソドラマのように、たんなるお涙頂戴と埋め合わせのための回想ではありません。回想シーンとはこうあるべき、ということを学んでほしいですね。◇そして、わたしとしては、朝倉あきが美しいのもうれしい。朝倉あきが松坂慶子になり、大倉孝二が高橋英樹になるのでしょうか?…ちなみに大隈邸は、朝ドラのときよりもだいぶ広い感じがします。早稲田大学のサイト によれば、明治元年から4年までの大隈邸は、5,000坪もある広大な築地の屋敷(いわゆる築地梁山泊)で、その後、有楽町→神田→飯田町→早稲田へと引っ越したそうです。
2021.10.02
NHK大河「青天を衝け」。栄一はすでにパリから帰国したので、「一橋家臣編」と「パリ編」までが終わったことになります。第1部につづき、第2部・第3部も満足のできる内容でした。◇クドカンの「いだてん」では、ストックホルムを舞台にした海外編のときに、やや勢いが衰えた印象があったので、本作の「パリ編」がどうなるかを心配していました。ただでさえ、ヨーロッパのモダンな風景や、髷を切り落とした洋装の登場人物たちは、なかなか大河ドラマの世界に相容れないからです。実際、髷を落とした洋装の栄一の写真を見て、千代が思わず「浅ましい…」とつぶやくシーンもありました。あれこそが、まさに旧来的な大河ファンの反応でしょう。チョンマゲで戦をしてこその大河だという考えは根強い。しかし、それも一種の自虐ネタとして処理されて、結果的には、海外編もうまく切り抜けたように思う。◇大森美香の脚本による「あさが来た」は、平成期ではもっとも人気の高い朝ドラでした。しかし、朝ドラで成功したからと言って、大河でも成功するとは限らない。むしろ、朝ドラと大河は対極的だとさえいえます。まして大森美香は、これまで女性の物語ばかり書いてきたのだし、はたして男たちの歴史物語なんて書けるのかしら?…という余計な心配もしていました。しかし、今はそんな不安もすっかり消えて、むしろ大河ドラマの新境地が開かれていることに驚いている。◇旧来、NHKの大河ドラマは、あくまでも"戦国時代の武士の物語"を主軸にしてきました。たしかに、橋田壽賀子や田渕久美子は女性の物語も書いてきたし、「新選組」や「篤姫」では幕末の物語も書かれてきたし、「いだてん」のように近現代の物語も書かれるようにはなった。しかし、それでもなお、"戦国の物語こそ大河の主流"とする考えは根強い。そんななかで、女性脚本家である大森美香が、幕末から近代にかけての"文官・文民の物語"を成功させつつあります。これによって、またひとつ大河の新しい世界が切り開かれている。◇今回の大河には、それなりに合戦のシーンもありはするけれど、基本的には、男臭さや汗臭さや血生臭さが抑えられていて、どちらかといえば、美男美女たちのキレイ系の作品に仕上がっています。それこそが大森美香らしい作風で、女性の視聴者にも受け入れやすい要因だろうと思う。しかも、西洋化する近代日本が舞台とあって、テーマ曲のオープニング映像では、武士や平民たちが華麗なモダンダンスを踊ったりしてるし、冒頭に登場する徳川家康の背後では、パントマイムによるトリックアートも披露されたりしている。かつてなくオシャレな演出が取り入れられています。 くわえて言うなら、一橋家臣編における栄一&喜作の仲良しコンビには、さながら"BL漫画風"ともいえる味わいすら感じられました。◇ちなみに、語り部としての徳川家康さんは、今回の大森美香の最大の「発明」だったといえます。本来なら、語り部とは、「視聴者の日常」と「ドラマの非日常」をつなぐ懸け橋なのだけど、今回は、あえて戦国の大武将が、「大河の視聴者」と「幕末・近代の世界」をつないでいるという図式。これはかなり巧みな仕掛けだと思う。実際、旧来的な大河ファンの多くは、渋沢栄一よりも徳川家康のほうに親近感をもつのでしょうから(笑)。そんな家康さんに、「幕府が終わっても世の中はそう簡単に変わりません」などと説明されれば、そうか~!なるほど~!という気持ちにもなるわけです。◇今後、明治編に突入すれば、いよいよ「いだてん」と同じ近現代の領域に入ってきます。すなわち、それは「あさが来た」の舞台に重なるということでもある。ここから大森美香は、この新しい大河をどのように切り開いていくでしょうか?
2021.09.12
NHKの深夜のイッキ見配信で、「特撮ドラマ 超速パラヒーロー・ガンディーン」を見ました。かなり優秀なドラマでした。特撮が、はたして最先端なのかアナログなのか分からないけれど、スペクタクルの醍醐味も十分に味わえました。これは、もちろん、開催中のパラリンピックに当てこんだ企画なのでしょうが、身障者というテーマをクソ真面目に扱うだけでなく、さまざまなパロディの手法を駆使して、笑いとツッコミどころを散りばめながら、健常者にも楽しめる内容にする発想はNHKならでは。もちろん身障者との向き合い方など、社会的な側面もよく練り込まれている。モノローグの代わりに、小芝風花がカメラ目線で語りかけるEテレっぽいスタイルも、意外なくらい効果的でした。◇身障者の活躍をSF世界と結びつけていますが、これはかならずしも突飛な発想ではなく、事実、これまでにも先進国の技術力が身障者の可能性を広げてきたのだし、今後の新しいテクノロジーが地球の重力を超えることで、健常者と身障者をともに解放していく未来は現実味を帯びています。その意味で、SF的な発想は、むしろ身障者にこそ必要な夢なのですよね。◇身障者をテーマにしてパロディドラマを作るという企画が、結果としてユニークな物語を生んだのだろうけど、それがたんなる企画モノやイロモノで終わることなく、ひとつの新しいジャンルを成立させているようにも見える。そもそも、こういう作品を、たんに期間限定の企画で終わらせるのもおかしな話だし、せっかく人気があるのなら、これを機に、平時でのシリーズ化を積極的に進めるべきではないでしょうか?◇まなべゆきこの脚本は、あきらかに小芝風花の「トクサツガガガ」を踏まえています。しかし、もとをただせば、女子向けドラマに特撮ヒーローを取り入れる発想は、18年前の「ニコニコ日記」のガイセイバーZに始まっている。これは、おそらく大森美香の発明だったと思います。その背景には、当時の平成ライダーやイケメンの主人公に、子供のみならず、お母さん世代が熱狂したり、戦隊ヒーローや怪獣を「カワイイ」と思ったりする価値観があった。それが、ガイセイバーZからジュウショウワンを経て、今回のガンディーンにまで結びついたのだと思います。ついでにいえば、5年前の朝ドラで小芝風花を発見したのも大森美香でした。
2021.08.29
NHK大河「青天を衝け」第25話の内容が凄すぎて、いまだに受け止めきれない。経済人として知られる渋沢栄一の生きた時代が、これほどの「乱世」だったのか、ってことの驚きもあるし、大森美香の書くドラマが、かつてないほど凄惨なものになった、ってことの驚きもある。◇わたしは、いまから15年前、朝ドラ「風のハルカ」のときに、大森美香は、ただ不幸を遠ざけて回避してるだけじゃないかと批判したことがあります。主人公のハルカは、妹のアスカの不幸にも、親友の奈々枝や正巳の不幸にも向き合うことなく、ただそれらを遠ざけて、回避しながら、最後に自分の幸福だけを手に入れたからです。それと同じようなことは、朝ドラ「あさが来た」にも言えます。たとえば、加野屋に恨みを抱いた松造の不幸が忍び寄ったときも、結果的にそれを遠ざけることで、白岡家の安泰は守られました。つまり、不幸な登場人物たちは、ひたすら主人公や主人公の家族から遠ざけられるばかりで、救いがもたらされることはないのです。◇さすがに今回は、史実にもとづいているので、主人公の実家である渋沢家は、長七郎や平九郎の実家である尾高家の不幸と無縁ではいられない。それは、叔母の嫁ぎ先であり、妻の千代の実家であり、渋沢家の見立て養子の実家であり、妹のていの想い人の実家でもあるからです。…しかし、それでもなお、大森美香の基本的な世界観は変わらないだろうと思う。おそらく渋沢家の人々は、尾高家の不幸が静かに収まっていくのを待ちながら、あくまでも家内の安泰を守り続けるだろうと思います。◇そのような物語の作り方は「逃げ」だと言うことも出来ます。けれど、それが大森美香の世界観だということが、今ではだいぶ理解できる。実際、現実の人生を生きる人々にとって、不幸なんて、そうそう容易に立ち向かえるものではないし、まして、容易に乗り越えられるものではない。大森美香の場合、「不機嫌なジーン」の仁子が、最終的に不幸を乗り越えられなかったトラウマもあります。その竹内結子はほんとうに死んでしまったけれど、大森ドラマのなかで、竹内結子と水川あさみが例外的に不幸だったのは謎です。いずれにしても、不幸というものは、出来るだけ遠ざけながら、静かに過ぎ去って、収まっていくのを待つしかない。◇思えば「あさが来た」のときにも、あさが嫁いだ白岡家はとても幸福だったけれど、姉のはつが嫁いだ眉山家は、とても不幸でした。両家と姉妹は、ずっと付かず離れずの関係にあったけれど、結局のところ、眉山家の不幸は眉山家で乗り越えるしかありませんでした。かりに視聴者からの要望がなければ、大森美香は、はつを史実どおりに早逝させていたでしょう。しかし、宮崎あおいが演じたはつは、史実以上に強い女性でした。…今後、尾高家の運命がどうなるのか。そして渋沢家と尾高家の関係がどう描かれるのか。わたしにとっては、それがひとつの注目点になります。
2021.08.28
NHK「青天を衝け」。第二部の《一橋家臣編》がはじまりました。ディーン・フジオカも登場して、いよいよ大森美香ワールド全開って感じ?◇女性作家による大河というと、橋田壽賀子の「おんな太閤記」とか、田渕久美子の「篤姫」なんかがあって、それらは主人公が女性ということもあり、女性作家らしさが明瞭に打ち出されていたと思う。でも、今回の大森美香による大河は、それらにもまして、もっと女性らしい作品です。主人公は男性だけれど、おそらく世界観そのものが女性的なのです。◇大森美香は、それほど個性の強い作家とは思われてないけれど、実際は、かなり明瞭な作家性があります。端的にいえば、世界観が綺麗なのです。キレイ系の大河!よくもわるくも、本来の大河らしい泥臭さとは無縁なのですよね。もちろん、美男美女が多いということもあるんだけど、それだけでなく、世界観そのものが非常に女性的なのです。たとえば、不気味な暗い夜のシーンの後には、かならず昼間の青空のシーンが戻ってきます。そこには人々の生活があって、つねに平穏な日常が回復する。平穏な日常に対する信頼。どんな大事件があっても、それが根本から揺らぐことはない。それが大森美香の描く世界です。そういう作風は、かりに朝ドラ向きではあっでも、さすがに大河には不向きだと思っていました。(実際、戦国時代劇では難しいだろうと思う)でも、今回の「青天を衝け」は、朝ドラの「あさが来た」と同じように、おそらく近代が舞台だからこそ成立しているのですよね。◇深谷には村川絵梨がいて、江戸には木村佳乃がいます。すでにそれだけで大森ワールドの核は定まってます。さらには、田辺誠一も、玉木宏も、重要な役どころで出てきましたし、山内圭哉も、渡辺いっけいも、すでに登場済み。そして第二部では、ディーン・フジオカが五代役を演じるとあって、さながら大森美香風「近代サーガ」の様相を呈してきました。◇こうなると、波瑠や高橋英樹が出てきそうな気もしてくるし、そのうち沢村一樹とか内野聖陽あたりが、大事な場面で出てきそうな気もします。永井杏や長瀬智也は引退してしまったし、大杉漣や竹内結子ももういないけれど、たとえば、明治になったら、小芝風花や吉岡里帆の顔なんかが見れたり、場合によっては、小雪とか松本潤みたいな、モダンガールやモダンボーイが現れるかもしれません。今回の「青天を衝け」は、NHK大河の長い歴史のなかでも、とりわけ女性的な個性の強い作品になると思ってます。
2021.05.13
NHK『青天を衝け』第一部が終了。とくに第11~12話、「横濱焼き討ち計画」からの展開が、とてつもなくスリリングで面白かった。渋沢栄一って、こんなに過激でヤバい人だったの?という驚きもあります。もし、彼らが本当に横浜を焼き討ちにしていたら、その後の日本史は一体どうなっていたのでしょう?◇武士の真似事をして、「攘夷」などという理念を口にし、政治にのめりこんでいく農家の若者たち。まるで全共闘時代の大学生さながらです。しかし、攘夷決行を目論んだ主人公が、「俺を勘当して追い出してくれ」と父に頼むと、妻もそれに同調し、父もまた、「お前はお前の道を行け」と言って送り出します。大河ドラマなのですから、「百姓の生活」よりも「天下の大事」が優先されるのは、当然といえば当然の展開かもしれないけれど、攘夷の決行なんてのは、ほとんど死にに行くようなものだし、まして妻や赤子を置き去りにしていくなんて、とんでもないことですよね。すくなくとも、従来の大森美香脚本のドラマだったら、けっしてありえないような場面だったと思う。◇百姓としての「生活」を守ろうとした父や女たち。妻子を捨てて「政治」にのめりこむ血気盛んな若者。いまのところ、大森美香は、そのどちらに肩入れするのでもなく、それぞれの立場を相対化しています。さらには、過激な「攘夷派」の志士たちと、冷静な「開国派」の幕臣の立場も相対化される。◇大森美香が過去に書いた、『不機嫌なジーン』にも『里見八犬伝』にも、『エジソンの母』にも『あさが来た』にも、あくまで物語の後景としてならば、なんらかの「政治」の要素はあったかもしれません。しかし、彼女がこれまで書いてきたのは、(たとえ広岡浅子のような人物が主人公だとしても)基本的には「女性」や「家族」の物語だったので、前面にまで「政治」の要素が出てくることはなかった。どちらかといえば、彼女は「政治」や「男性」の物語を避けてきたともいえる。しかし、今回は大河です。さすがに「政治」や「男性」の問題を避けられない。そもそも、大森美香が大河を書くなんて想像もしなかったけれど…。◇かりに、朝ドラが「庶民の物語」であるとするならば、大河というのは「天下国家の物語」にほかなりません。つまり、前者は「生活者」の話であり、後者は「政治家」の話です。でも、今回の大河ドラマでは、「生活者」の視点と「政治家」の視点がぶつかりあい、そのこと自体が、物語にとっての最大のダイナミズムの源泉になっている。これは、過去の大河にはなかったことです。大森美香が大河を書く、ということの意味は、まさにこの点にあるのだと思う。それはとりもなおさず、渋沢栄一という人物が、「生活者」でありながらも「政治家」であった、「百姓」でありながらも「武士」であった、ということでもある。そのような人物を描くうえで、大森美香ほどふさわしい脚本家はいなかったのだと思います。
2021.05.03
第1シリーズでは、百々瀬佐智(谷村美月)が「未解決の女」でしたが、第2シリーズでは、牧野孝蔵(竜雷太)が「未解決の男」になりました。◇牧野は、ヒイラギ製薬の株価が下がるのを恐れて、会社に粉飾決済を強制しました。不正を知った経理部の野田と釘本は、内部告発を試みましたが、弁護士の若林に雇われたチンピラ2人によって、野田が殺され、その野田殺しの罪が、釘本に着せられました。釘本の取り調べに同席した大川刑事は、それが冤罪だと気づきましたが、小野塚(筧利夫)がこれを握りつぶしました。釘本は獄中で自殺して、大川刑事も死にました。釘本の娘でバイオリニストの貴子は、父に冤罪を着せたチンピラへの復讐を企て、まずは"梵字入墨"の入沢を殺害しましたが、入沢が死に際に「主犯は西松だ」と言ったので、5年がかりで西松を探して、殺害しました。◇以上が事件の真相です!…と言いたいところですが、半分以上は、鳴海(鈴木京香)の推測にすぎません。真相は藪の中です。釘本の冤罪は、ほんとうに晴らされるのでしょうか?真犯人は捕まるのでしょうか?おそらく、野田殺しの実行犯は"梵字入墨"の入沢ですが、入沢を利用したのはチンピラ仲間の西松で、西松を金で雇ったのは弁護士の若林で、若林に指示したのはラスボス黒幕の牧野です。つまり、四重構造になってます。またしても警察の上層部で握りつぶされて、小野塚でさえ軽い処分に終わるのでは?だとすれば、貴子の無念はほとんど報われないのでは?◇真相にたどりつく手掛かりは、大川刑事が残した釘本の証言記録と、若林がチンピラ2人に振り込んだ数千万円ですね。あとは、粉飾決済と薬物横流しの真相の解明。そして、小野塚と若林の供述です。鳴海が牧野に逮捕状を突きつける日は来るでしょうか?そもそも、ここから先は「6係」の管轄でしょうか?捜査一課長(内藤剛志)は出てこないのでしょうか?ちなみに大川刑事はなぜ死んだんでしたっけ?彼も牧野によって殺されたんですか?いろいろと腑に落ちません。◇最終回のエピソードは、安倍政権のモリ・カケ問題も意識して、権力による文書隠蔽と捏造がテーマになるのは、おそらく既定路線だったと思うけど、ちょっと事件を複雑にしすぎたあまり、いちばん粗の多い内容になった気がします。そもそも、逃走した富野(市原隼人)は、古賀室長(沢村一樹)を拳銃で撃つ必要があったでしょうか?弁護士の秘書が尾行していることに気づいたら、古賀と二人でそいつを取っつかまえて、すべて白状させればよいのでは?二人とも刑事なんだし。拳銃もあるんだし。◇◇それはそうと…、高田純次がいたころは、6係はいかにもさびれた「日陰の部署」って感じで、まさしく「倉庫番」の名にふさわしかったけど、谷原章介が赴任して来てからは、だんだん「日の当たる部署」みたいになってきて、明るい屋外で捜査することが増えた気がします。最終回のエピソードでも、地味に昔の文書を調べていたのは、もっぱら逃走していた富野(市原隼人)のほうで、6係の人たちは、ほとんど文書を調べてません。鳴海は梵字の謎に気づいただけだし、矢代は試し書きの謎に気づいただけです。まあ、最後におまけで、脱法ドラッグの捏造文書にも気づきましたけど。◇もし続編があるのなら、もういちど隠居した高田純次も巻き込んで、ひたすら地味でマニアックな文書捜査に戻って、谷村美月と竜雷太の悪事を暴いてほしいです。波瑠/鈴木京香/沢村一樹/遠藤憲一/山内圭哉/工藤阿須加高田純次/谷原章介/皆川猿時/光石研/大森美香/麻見和史市原隼人/筧利夫/竜雷太/北乃きい/谷村美月
2020.09.18
未解決の女~警視庁文書捜査官。第4話。かなり印象深い内容。男性どうしの友情、そして父と娘の物語でした。やはり大森美香の単独脚本だと力があります。もともと大森美香の「父」の描き方は独特です。◇当初、彼女が刑事ドラマを書くのは意外に思えたけど、ふたを開ければ、やっぱりその作家性が際立ってる。『あさが来た』の波瑠や山内圭哉が出てて、『ニコニコ日記』の沢村一樹が出てるのもあるけど、やはり最大の特徴は「女性の物語」になっているところ。とくにオタク的な才女への「萌え」が半端ない。声フェチの波瑠(矢代朋)が、文字フェチの鈴木京香(鳴海理沙)に抱く感情は、ほとんど恋愛に近いもので、いわば"百合"です。◇このドラマは、テレ朝の《警視庁サーガ》のなかでは、珍しく作家性の強い異色作になっていますが、今後もその作家性は維持できるでしょうか?『捜査一課長』のほうは、いまや水戸黄門的な定番ネタドラマと化していて、事件の内容はたいてい意味不明だけど、とりあえず定番のネタさえ押さえてあれば、誰が脚本を書いても大差ないような枠になってます。実際、わたしにでも書けそうだし、たぶんフォーマットさえ打ち込めば、AIにでも書けるだろうと思う。視聴率的にも、水戸黄門的なもののほうが歓迎されやすいから、ややもすると内容がルーティン化しがちだし、まして脚本が分業になると作家性が失われますよね。そのことを心配しています。◇ちなみに、本作の「才女萌え」がもっとも炸裂したのは、第1シリーズの最終回で、谷村美月の演じる百々瀬佐智が登場したときでした。15才の女子中学生のときに、完全犯罪を計画して実現させてしまった恐るべき才女。波瑠たちは、その決定的な証拠をつかめず、彼女を逮捕できないまま第1シリーズを終えています。その意味でいえば、「未解決の女」ってのは、ほかならぬ谷村美月=百々瀬佐智のことなのです。洗脳メールで人を殺させた話にはちょっと疑問が残ったけど、(ふつうなら、あのメールから足がつくはず)あの百々瀬佐智にまつわるストーリーは、いっそ映画化してほしいぐらいに魅力的なものでした。今回の第2シリーズで、はたして決着がつくのかどうかわかりませんが、いずれかならず「才女vs才女」の文字フェチ対決になるはずです。わたしにとっては、それが最大の注目点です。波瑠/鈴木京香/沢村一樹/遠藤憲一/山内圭哉/工藤阿須加高田純次/谷原章介/皆川猿時/光石研/大森美香/麻見和史市原隼人/筧利夫/竜雷太/北乃きい/谷村美月
2020.08.27
滝沢馬琴だから、滝沢くんを主演にしたってワケでもないんだろうけど、つい、『義経』と比べてしまいました。◇脚本家(美香ちゃん)も、演出家(『Mの悲劇』の人)も、時代劇なんてやったことない人たちだと思うけど、この映像的想像力の自由な使い方を見たら、日に日に保守化しつつあるNHKなんかより、時代劇も民放のほうが期待もてるなーと思ってしまう。・・滝沢くんは、確かにしゃべるのが上手くありません。でも、映像ですべてを明快に表現してしまう知恵や、それを実現する演出上の創造力があれば、そんな役者さんでも、じゅうぶんに主役をまかせられる。『義経』のときよりも、滝沢くんには主演としての威風があったし、その点でも、この民放ドラマのほうに軍配があがってしまうと思います。映像が美しくて、スペクタクルがあるだけで、明快に伝わってくるものってあります。物語やテーマの内容にかかわらず、結局、映像に想像力ってものがなかったら、クドクドしたものになってしまうことに変わりないです。映像の美学ってのは、それをどうやって映像の言語で表現するかってことであって、「五条大橋のシーンをどう美的に再現するか」みたいなことじゃないしね・・。問題は、史実をもとにした歴史ドラマなのか、小説にもとづいたフィクションなのかってことじゃなく、結局、大事なのは、どっちにしても映像的な想像力なんじゃないでしょうか。
2006.01.03
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