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その夜は仕事が終わって、店で飲み会を行っていました。我々のようなレストランは、仕事が終わってから飲みはじめるので、始まるのが12時位から、お開きになるのは明け方近くになるのもしばしばです。 飲み会がお開きになって、少々小腹がすいた私は、同僚のスタッフ2人を誘ってなんか食べに行く事にしました。明け方近くで、さほどお腹がすているワケでもないので、ラーメンなど一杯ほど食べて帰るつもりです。 道すがら、カレー屋さんが目に入ったので、気分が変わってラーメンをカレーに変更。大手チェーン店のカレーショップでした。私たち3人はそれぞれ別のモノを注文。いざ、運ばれてきて食べはじめると、どうもいつもより辛いような気がします。私はあまり辛いものが得意ではありません、だったら最初から「甘口」を注文してもよかったのですが、何回かその店のカレーは食べていたので気にせずに「普通」で注文しました。他のふたりも同じく「普通」で注文しています。「なぁ、今日のカレー、エラい辛ないか?結構口の中ヒリヒリしてるんやけど、いつもこんなんかぁ?」「ホンマですねぇ。こんな事無いですわ。ボクもごっつい汗かいてきましたし、こんな辛いコトなかったですよ。」それでもしばらく黙々と食していたのですが、やっぱりいつもの辛さではなかったようです。 同僚のキュイジニエM君は「やっぱ一言いいますわ、いつもと違いますやん。…すいませ~ん、今日のカレーって随分辛いンですけど、いつもと一緒?」アルバイトの女子に尋ねてみました。「…当店のカレーの『普通』は中辛くらいの辛さなんですよぉ。それが『普通』なんですケド。」 いやいや、答えが的外れですやん。「いつもと違うんじゃないの?」って聞いてるんですから。少々インチキ臭くても、ソムリエとコックなんですよ。まぁ、別に制服きてる訳じゃないんで、そんなコトは彼女には知る余地もありませんが。なんだかんだ言いながら、結局は完食してしまったのですが、当のM君は不満が残ってまだブツブツ言ってます。「お、ここにアンケート用紙があるやん。これに書いて送ったら?ほら、『お客様の声をお聞かせ下さい』って。」卓上にアンケート用紙がありました。私も2.3枚もらって帰りましょう。もしかしたら抽選で3000円の食事券も当たるかも知れません。「ホンマにっ!なんか腹の虫がおさまりませんわ!ウチに帰ってアンケート用紙書いて送ってやります。」 M君は意気込んでいます。普段は小心者で通っている彼なのですが少々お酒も入っているせいか、クレイマー・クレーマ-な気分のようです。店を出て一同は解散。各々の方向へ家路を辿ります。私は駅まで来たところで、用を足したくなりました。明け方の爽やかな空気の中、爽やかでない空気の駅の個室へと向かいました。JR三●宮駅の東口のトイレにはペーパーは併設されていません。慌ててバッグの中を探りましたが、使えるものと言えばひとつしかありませんでした。そう、先程のアンケート用紙です。…まぁ、「水に流す」ちゅうのはこういうコトやね。流れていくアンケート用紙を見つめながら、自らの心の広さにあらためて感慨深くなった私です。
Oct 31, 2005
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最近、「宮大工千年の知恵」(松浦昭次著:詳伝社黄金文庫)という本を読みました。フレンチのメートル・ド・テルがそんな本読むのかァ?と思われる方もいらっしゃいますでしょうが、大変面白かったです。この中で宮大工職人の見習いの頃の話が出てくるんですが、昔の職人というのは、手取り足取りモノを教え込むのでは無かったという事。「…あえて何も教えない。すると弟子は困って何とかして仕事を覚えようとする。ああではないか、こうではないかと自分の頭をはたらかせながら仕事を覚えていけば、頭と身体で覚えていく事になります。それでなくては応用もきかないし、自分なりの工夫というものも出てこない。だから教えないというのも教育法なのです。」料理業界というのも職人気質が根強く残った世界です。フランス料理においてもそうでした。私がこの業界に入った頃は、「仕事は盗んで覚えるんだ!背中を見て学べ!」 と、「上司は部下に教育を、時にはほめ上手で無ければなりません。」という時代の端境期。私は職場において部下をあまりほめません。というか、ほめ言葉をあんまり知らないようです。この年になれば、部下も後輩も出来てきます。努力する人は好きです。しかし、努力は結果を伴わないと意味が無いのも社会のシビアさです。仕事における結果は、一歩越えたところにまた新しい結果が求められます。では、「結果を求める人」とは誰を指すのでしょう?求めるのは経営者や上司ではありません。結果を出した「本人」です。そんな人ほど、ほめてあげたい。となれば「ほめてあげたい人」に与えるべきものは、クリヤーすべきバーの高さを上げてやる事ではないでしょうか。それがその人に対する評価だと思います。昨日今日、この世界に入ってきた若い人でも、彼等がこの仕事を続けていく以上、彼等にも後輩が出来ます。今現在の時点では、専門学校生かも知れません。小中学生かも、また、もしかしたらまだ生まれてない子かも知れません。しかし、我々がそうであったように、あとから来る「人」が存在するのは確実なのです。 若い人は周りに充分な環境があっても、初めて社会に入った職場が自分の知るすべてになってしまいます。高級ワインがバンバン売れてても、フランス語が飛び交ってても、面倒な事だとばかり思えてメリットの部分にはなかなか気付かないものです。「馬を水飲み場に連れて行っても、 馬が飲みたがら無ければ水を飲ませることはできない。」中国の諺だったでしょうか。はっきりとは覚えていないのですが。確かに、馬が水を飲みたく無いのなら水飲み場が目の前にあっても水は飲まないでしょう。…ならば、水が飲みたくなるようにすれば良い。馬に跨がり、鞭を入れるのもひとつの方法です。なだめすかして一緒に並走するのもひとつです。いづれにしても咽が乾くまでつきあわねばなりません。いつか、彼等が我々を越える時が来ます。その時、初めて我々は自分にかせた「結果が出た」と感じられる。そうありたいと思います。
Oct 30, 2005
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女性のグループでのお客様。1、2、3、4、、、4人でテーブルを囲まれていました。コースが終わって、お茶が出てからもう3時間近くお喋りに華が咲いています。長くゆっくりして頂くのは、レストランが快適である証!なんですが、、、け~っこう、ながいなあ~お茶のおかわりも出しました。水もちゃんと注いでいます。いらないお皿は下げきっています。メートル・ド・テルとして精進は努めているのですが、緊張感が少々ダレる時もあります。するとそのグループのお客様からお呼びがかかりました。(お勘定かな?もういい時間やしねぇ)「すいませ~ん、このお菓子もって帰りたいんですけどォ」卓上に残っているのはプティ・フール、食後のお茶菓子です。今日のプティ・フールはアーモンドのチュイル、チョコレートのトリュフショコラ、フルーツのパウンドケーキ、ガトークラシックショコラ。4種類がありました。豪華ですね。人数分それぞれを4個づつ。「なんかに包んでいただけます?。紙ナプキンか、無かったらラップでもいいんですけど。」(ムッ、紙ナプキンくらいあります。せっかく造ったお菓子をラップとは。)「あ、別に人数分、分けて頂かなくていいですよ。私達、あとで分けますンで」(ムムッ、なんか厭味な言い方です。)「デザート食べたらお腹いっぱいになっちゃってぇ。残して帰るのもお店に悪いですよねぇ。」(ムカッ、ってか。デザートワゴンサービスやからめっちゃ注文して食べてるやん。しかも、プティ・フールも半分ぐらいしか残ってへんやん。食べかけて歯形付いてるのもあるし。。。)「はい、かしこまりました。(ニコッ:食らえ!俺の微笑みビーム!)では、ご準備してまいりますので、少々お待ちを。」下げてきました。どうしましょう、、、どうする!?どうする!?君ならどうする~!?…仕返ししまっす!そう、「仕返し」です。パウンドケーキは時間が経って、表面が乾いてきていましたので全部取り替えます。ガトーショコラは新しいのを切って、ショコラも取り替えましょう。アーモンドのチュイルは食べちゃってるので新しいのを追加します。4種類のお菓子が再び4個づつ揃いました。もう一種類、手持ちにマカロンがありましたので、これも4個追加です。それぞれのお菓子をセロファンと紙を用いて包み、それぞれを4つの小袋に詰め分けます。小袋と包材で100円くらいは掛かっているでしょう。何よりも私の手間賃は?出来上がったものをお客様にお渡ししました。袋に包まれているので、中身がすべて新しいものに替わり、追加まで入っているのはお客様には分からないことです。一応は、「あーら、ありがと。じゃ、そろそろ出ましょうか。」とは、言って帰って頂けました。さて、翌日、当のお客様からお電話がありました。「…プティ・フールは入れ間違いでは無かったのか。とても嬉しかった。また食事に伺います。」とのこと。「仕返し」成功です。我々サーヴィスマンにとって、お客様に喜んで頂くことが何よりの「勝ち」なのです。目的が何かであることにブレがあってはいけないのです。我々の仕事の目的は「お客様が喜んで頂くこと。それによって顧客となり得ること。」なのですから。自宅に帰って小さな袋を開けた時に、それぞれのお客様が喜んで頂いたこと、少なくとも驚きを持って頂けたことでしょう。新しく入れ替えたプティ・フールも、紙の小袋も包材も、私の手間賃も些細なものですが経費です。しかし、「損害」ではありません。「投資」だったのです。 些細な投資ですが、この投資でお客様がリピーターとして次に来店されるかも知れません。その時、私たちは心の中でそっとガッツポーズをすればいいのです。「勝った…」と。…あ、「ガッツポーズ」って言っても、お猿のコトではありません。それはガッツ石松だけで、、、
Oct 28, 2005
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レストランに訪れるお客様は実に多種多様に富んでいます。 誕生日を祝いにくる人、食事を楽しむためだけを目的とする方、品のいいご夫婦。会社の社長、医者、フリータ-、クラブのママ、、、 IT関連の企業の経営者がネット上で充分過ぎるほどの情報を集められる立場にありながら、なお知りたいことがある時どうするか?人に会いに行く。ということだそうです。本日付けの読売新聞の紙上で、以下のような記事が掲載されていました。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「ネット族は勉強不足」敵対的な買収でSBI・北尾氏 SBIホールディングスの北尾吉孝CEO(最高経営責任者)は26日、2005年9月中間決算を発表した記者会見で、敵対的な買収について、一般論とした上で「企業風土や文化が違えば、難しい」と述べ、否定的な見解を示した。 さらに、「最近のネット族は勉強不足。野心だけで成功するのはたまたまだ」と述べ、暗に、楽天の三木谷浩史社長やライブドアの堀江貴文社長らを批判した。(読売新聞)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 敵対的な買収うんぬんに関しては私も門外漢なので触れないでおきますが、ここで北尾氏が言う「勉強」とは何を指しているのでしょう? 会社の資産価値という点から見れば、暗に指摘された方々は、もうすでに十分に勉強した上で成功を収めているように見えます。また、数々の有用な人脈も持たれているのでは無いでしょうか。 あくまでも私の想像に過ぎませんが、ネット上の取引であれ、最終的に商品を購入するのは「人」つまり顧客です。 それが例えばテレビ局であったとしたら、番組、その中に流れるCMという間接的な手法を用いた延長上に、視聴者という名の顧客がそこに存在しているのです。 お客様の顔を見なさい。ということでは無かったかと考えます。お客様の喜ぶ顔が見えなければ、不十分なのです。 サービス業、接客業はその名の通り、直接的に顧客に接する機会に恵まれています。 レストランで働くとは、大げさに言えば、そういう意味での「勉強」ができる場所でもあります。 街の雰囲気、景気の業種、流行のファッション、、、20人や30人程度のお客様でいっぱいになるような料理店でさえ、顔を近づけて小さな穴から覗いてみれば実に様々な事が見えてくるのです。
Oct 27, 2005
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レストランに携わる業界人向けのセミナー。「売上げを伸ばす接客術。」「リピーターをつかむサーヴィスとは。」などのテーマが花盛りです。書店に足を運んでも、「このサービスで勝ち組になる!」「感動を呼ぶサービス」などの書籍が目に付きます。さて、本当に 「サービスを向上させると売上げは上がる」 のでしょうか? 「サービス」が形の無い「商品」である以上、お客様の評価もまた形の無いものであると言えます。 感動するサービスを行えたとしても、涙でも流して頂かない限りは、他者の目には宣伝効果はありません。もちろん、お客様の笑顔が満足の表れではありますが、評価基準を「売上」におくと対価としては見えてきません。 答えとして帰ってくるのに、時間がかかるのは確かです。お客さまがリピーターとして帰って来ていただけるか、あるいは、「サービスの良い」お店としての第三者の評判を得て新規のお客様の来店を図るか。 宮大工という職業があります。「宮大工」とは通称で、正しくは社寺大工と言うそうですが、日本の社寺の建築の美しさは「宮大工」によって築かれました。中世からの日本の社寺の建築物は、すべからく材質は木を用いられています。地震や台風の多い日本において、このような建築物を後世まで残す技術は相当に高いものと言えます。 宮大工の技術は、築造から200年、300年の時を経たのち、建造物が残って初めて評価されるのです。 我々がお客様に向かって「サービス」の品質の向上を訴えることは、非常に難しいのです。 料理の説明において、ワインのプレゼンテーションにおいて、レストランの調度品においてもサービスマン達はいかに美味しく表現するかに努めます。しかし、自らの心遣いについては口に出すことはできません。「今日はいかがでしたか?こんな風にサーヴィスマンは気を使いました。」と言ってしまったら、その時、サービスではなくなってしまうのです。 しかし、確実に言えることは、 「サービスが悪いと売上げは落ちる」 と、いうこと。 何年か前の公共広告のテレビCMで元巨人の清原選手が口にしていました。三振したらどやされる。ホームラン打ったら誉められる。どっちにしてもバットを振らなアカン。 難しい球もあり、速い球もあります。しかし、プロの野球選手である以上、結果を出さねばなりません。 観客は打者がバッターボックスに立つ時、十分な練習と努力を積んできたことを期待しているのです。(つづく)
Oct 26, 2005
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私のブログも今日、5000アクセスを迎えるのでしょう。思えば、、、サーヴィスのテクニカル・ノートのつもりで始めたこのブログ。知らぬ間に読者も増え、励ましのお言葉をも頂いたりもする。一日平均40アクセスとわずかづつではありながら、マニアな日記におつきあい頂きありがとうございます。おまけに、私の愛機は98年製iMac。。。ブラウザーも弱く、リンクもまともに貼れません。ああ、そして時々聞こえるブラウン管からのパチッ、、、パチッ、、、という不穏な音…爆発する?皆様!このブログ、楽しんで頂いてますでしょうか?あー、感慨深い。どんな方が5000アクセス目を踏むのでしょう?ログインしてる人だといいな、返信もできるから。。。と、思っていたのも今日の午前中まで。私の同僚にリオンさん(35・仮名)というのがいる。「リオンさぁん、私のブログもね、今日でやっと5000アクセス行きそうんですよぉ。そやからね、しばらくの間、アクセスしたらあきまへん、、、」やおら携帯を取り出すリオン氏何をする!!!「あ~、そうなん?携帯で見てもアクセスカウンター出てるんかなぁ…おぉ、、、なんやぁ、昨日更新してへんやん。ほら。」誇らし気に私に携帯の画面を見せるリオンさん、、、時を同じくして、私の携帯にメールが、、、【楽天広場】アクセス数のお知らせ「メートル・ド・テル徒然草」が5000アクセスを突破…次は7777アクセスを超えた時にお知らせします。この、オッサンかぁ~~~い!!!
Oct 23, 2005
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(10月12日の日記からつづき) 今年は開催が見送られましたが、例年10月の末か11月の初旬にffcc「メートル・ド・セルヴィス杯」開催されています。 このコンクール、毎年全国合わせて100名前後が受験していました。 この第1次試験が筆記試験。答案用紙が郵送をされてきて自宅解答で競われる年と、会場に参加者が集合して筆記試験を受ける年とが有りました。 筆記試験の内容はレストラン・フランス料理に関する、食材、飲料、歴史、葉巻・バー、フランス語、レストラッションなど多岐に渡ります。「布製の絞り袋(ポッシュ)を考案した人を答えて下さい」「JOYEROSとは何か、簡単に説明して下さい。」「フルリーフの新芽から数えて3番目の葉は。」???????…何のことか分かります?この筆記試験を受験して点数順に上位16名が次のセミファイナルに出場します。セミファイナルの会場は東京・新宿にあります。全国からそれぞれ一次試験に通過したサーヴィスマンが集まります。 セミファイナルは「実技試験」。デクパージュ、フランバージュ、フロマージュ、ワインテイスティング、英語またはフランス語でのメニュー説明、シガーのサーヴィス、などなど。 各々の選手は試技を交互に受験する形になります。15人の内、2人1組づつが番号を呼ばれると、会場内に設えられたそれぞれのブースで試技を行います。 この時、次に試技を受験する選手達は控え室で待機する訳ですが、ひたすら緊張する人、次の試技を予測して参考書に目を通す人など、様々、ある意味ピンと緊張感の張り詰めた空間が生まれます。 各自の試技の順序が違うので、先にある試技を受験した人がつい口を滑らせてしまう、といったこともあります。また、ヒントを聞き出そうとして選手同士で心理的な駆け引きが行われます。「あ、フランバージュ終わったの。難しかったぁ?」何回か経験のある選手が、既に試技を終えた選手に何気に問いかけます。「いやぁ、全然できませんでしたぁ。あんな質問されるとは…」「へぇ~、実技している時に試験官に問いかけられちゃってもまいるよねぇ~」なかなか上手く誘導しているのでしょうか、、、「それで答えられたの?」「いやぁ、日本のイチゴの主要な産地なんって知らないッスよねぇ~…」(ナ・ル・ホ・ドぉ~!ナイス誘導尋問です。そっかぁ~、質問でイチゴの産地を聞かれるのかぁ。イチゴの産地といえば「とよのか!?」ちゃうちゃう、愛知県や、愛知県。)そばで聞き耳を立てていた私は心の中で小踊りしてます。これで、ちょっとだけ優位に立ったのかも知れません…いよいよ、私の番です。受験番号が呼ばれました。実技内容は「苺のフランバージュ」デザートの一種で苺をキャラメルで絡め、最後にブランデーを注いで炎を上がらせる演出の技量を問います。ジュー、ボォゥ。実技はまあまあです。そろそろお約束の「質問」が…「じゃ、エルネストさん、質問です。あ、エルネストさん関西の方ですね。それじゃぁ、関西人として「イチゴ」でなにか?」(へっ!?なにか、って?イチゴで何か?関西人って関係あんの?「何か?」ってナニ???「いちごの産地は?」とか、「いちごの品種は?」っとかの質問ちゃうん?い・ち・ごでなにかぁ~~~~!?) 動揺してしまいました。「…イ、イ、イチゴ、、、苺、いちご?…仮面ライダーいちごぉ、本郷猛!」「…減点っ!」オチがいまひとつだったようです。(一部フィクションです;つづく)
Oct 21, 2005
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今日は仕事の合間にネットを見ていました。 某yahoo!のトップページに、【リクナビNEXT】ビジネスパーソン生活実態調査2005 今日のランキング「ストレスを感じる業種ランキング」がありました。 眼を引いたので、ポチッと。 想像していたのは、サービス業は随分とストレス度が高いであろうと言うこと。飲食店は労働時間も長いし、一日中立ちっぱなしの重労働だし、いろんな人と関わらないといけない、おまけに給料も安い、、、さぞかし上位にランクされているでしょう。 ところが、、、1位マスコミ系、2位金融保険系、専門コンサル系、、、と続き、サービス業は12位。最下位です。 そういわれてみれば、もしかしたら私自身も他業種の人が感じるような「ストレス」は無かったのかも知れません。この業種を十何年と続けてこれましたが、これもひとえに「楽しかったから」 自らが専門職であることは、自分が提供する技術なり商品なりの価値をお客様から感じられたことにあります。自らの給料は安くても「プロフェッショナル」と感じて頂けることこそ「誇り」という価値であったのです。 サーヴィス業において専門職として、専門知識、技術を貯えていくことは不利なことなのでしょうか?「他にツブシが利かないので不利。」と考えられる方もいらっしゃいます。「ツブシが利かない」といっても、ある専門の職業において努力、達成できる人ならば少なくとも他の事をやらざるをえなくなった時もそれなりにできるのでは無いでしょうか? 私は学歴偏重主義ではありませんが、例えば東大を卒業した人は、やっぱりメチャメチャ頭がいいか、メチャメチャ努力家かどちらかだと思います。何も無い人と、頭がいいか、努力家の可能性のある人ならば、やっぱり後者を選びます。要は使う方の問題。 実際に、そういったプロフェッショナル受難の時代もありました。バブル経済が崩壊した後の日本がまさにそうでした。 当時、私の職種でもあるホテル・レストランサービスでも、多くのシェフ、メートル・ドテル、ソムリエがホテル・レストランを辞めました。幾らかはリストラという噂もありましたし、高級店であったところは不景気のあおりを受けて業態の転換も図られました。 経営者側の目でみれば、止むに止まれぬ事情もあったはずです。正直、多くの部課長職の方がリストラを推進することに気を病み、自ら命を断つと言った事件が新聞にも多く載りました。「年齢がいけばいくほど、給与もその分高くなるし、高級な技術、知識が必要なのか。無いよりはあったほうがいいが、あって給与が高くなるなら、資格がなくても、ある程度詳しいぐらいの人ではないのか?」 そういった雰囲気が蔓延していました。まさにそうかも知れません。「収支」だけを基準に考えれば、、、 しかし、そこには実際にご来店される「顧客への目線」は無かったのです。 お客様にワインを提供するにあたって、プロとして修練を経た人間と、雇用する側にとって都合のいい「ある程度詳しいぐらいの人」が提供するワインとは同じ値段でよかったのでしょうか? 「ある程度詳しいぐらいの人」が努力してソムリエ資格を取ったとき、給料が高くなるからもういいよ。とまた使い捨てるのでしょうか。 お客様に値段が安いからと、プロフェッショナルの仕事を排して、「ハイ、こんなもんでどうでしょう?この値段ですからね、、、」と言って退ける感性は「お客様」をナメているとしか感じられませんでした。 今にして思えば、当時流行った「価格破壊」も「激安」も一過性のブームであったことに気付きます。 バブル崩壊後の騒動が残したものは何だったのでしょうか? ハンバーガーを半額にして販売したマクドナルドは、商品の適性価格を露呈してしまい、値段を元に戻せなくなってしまいました。 プロフェッショナルの技術者をなおざりにしてしてしまったソニーは競争力が落ち、凋落が噂されています。 何よりも大きな弊害は、若い人たちに目標や憧れを抱かせる人物が不在になってしまったことです。「資格をとっても給料が上がらないのであれば何も意味が無い」「専門的な努力をして給料が上がるどころかクビになってはたまらない」「長く勤めたからっていって将来が保証されるとは限らない」…そんな言葉をよく聞くようになってしまいました。 資格とは「資格=給料のアップ」ではありません。プロフェッショナルであるならば当然もっているべき範囲の技術であると言えます。業務に携わる者の中から産まれてきたものなのです。プロとして研鑽を積んだ者が、研鑽を積んでいない「偽者」と区別してもらうために第三者的な目で判断するための材料です。 それがお客様に対する安心と信頼に繋がるために、専門的な知識を蓄えようと努力もするのです。多くの業種において、ストレスとなりうる要因は「プレゼンテーション」と「コミュニケーション」にあると言えます。「プレゼンテーション」とは、現代の日本においてほとんどすべての「製品・商品」の品質が上がってくると、差別化が難しくなり、いかに自社商品が上位であるように勧められるかの外向きな要因です。「コミュニケーション」とは主に内向きの要因であり、上司・部下など他者との人間関係が上手く行かない、といったことに起因します。考えてみれば、「プレゼンテーション」と「コミュニケーション」はサービス業、接客業の最も得意とする分野です。お客様に料理、飲料をお勧めする「プレゼンテーション」専門技術様々なお客様に対応する「コミュニケーション」専門技術 先の「ストレスを感じる業種ランキング」のフリーコメントの中に「ありがとうと言われることが喜び」といった意見があったそうです。「ありがとう」と言われたところで、ポケットの中の現金は別に増えてはいきません。「収支・金銭」を基準に考えるのならサーヴィス業は非常に生産性が悪いとも言えます。 しかし、これこそが目に見えませんが「価値・財産」なのです。サービス業は「ストレスが少ない」とは、言い変えれば、自らの手によって「満足度の高い」職種にすることができることなのでは無いでしょうか。 時代はいつも振り子のように振れてきました。 次の時代は「仕事の価値観」そのものが変わっていくかも知れません。 サービスのプロフェッショナルの技術、「お客様の喜びが自分の満足」となる術を他業種へフィードバックする時代が近付きつつあります。
Oct 20, 2005
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接客業とは、様々な人々をお客様と呼び、「客」と「接」する職業が接客業であると言えます。 本日ご来店のお客様は外国人のお客様。 ごくあたりまえの事なのですが、お客様が多種多様である以上は、不特定多数のお客様に対処できるようにあらかじめ備えをしておく必要があるのです。「いつどこで、どんな相手とも闘う!」とは、私が尊敬を止まない、師アントニオ猪木の言葉です。 外国からのお客様は、当然絶対数は少ないのですがゼロではありません。「心のこもったサーヴィス」を提供するのであれば、レストランで使う用語は限られてきていますし、また、食材の名前等は英語、フランス料理店ならフランス語で覚えておくことも「おもてなし」のひとつと言えます。今日のオードブルは「戻りガツオのサラダ」英語で説明します。「Mm,,,1st dish is "Salada of come back SAZAEs brother!"」「……?」 うーん?どうも通じなかった模様です。やはりカツオは "NAMIHEI & FUNEs Son" が正しかったのでしょうか、、、
Oct 19, 2005
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「阪神タイガースが村上ファンドに買われた。」っちゅうニュースが最近新聞紙上を賑わしてますなぁ。なんでも球団を株式にして経営するとかしないとか。 株式を公開するってコトはビジネスとしてとらえるなら、会社に値札を付けるようなもの。値段がとてつもなく高いから普通の人は手を出さないだけで、まぁ「商品」になるということですね。 大阪人は「儲かりまっか?」が挨拶になっていると思われがちですが、ホンマです。 額面通りに受け取ると「お金が沢山入ってきていますか?」って聞いているようにも取れます。関西人はお金にうるさいんではないかと。しかし、実はそういうニュアンスでもないんです。「儲かる=大勢のお客さんの支持がある。」ということで、「儲かる=お金がジャブジャブ入ってくる」ということでは無いんです。 そやからホンマに儲かってる村上ファンドの社長を大阪人は「儲かってるエラい人」として拍手喝采では迎えなていないんですわ。 今期優勝した阪神タイガース。ビジネスで測ってみたら、そら生産性はものスゴいいいはず。一番人件費に投資してみた球団はずっと低迷して5位のまんま終了。それが、「野球」という名の「文化」なんですなぁ。 プロ野球を文化として考えるンやったら、儲からんで当たり前なんですわ。「ビジネス」はお金を儲ける行為。「文化」はお金を使う行為。ですから、なかなか両立は難しい。 飲食業なんていうのも似たようなトコロがあります。「食文化」の担い手であると自負すればする程、文化ですからホンマに儲からん仕事やと思います。 そやけど、「起業家」やとか、「ニッチなビジネス」やとか「オンリーワン」やちゅうて「文化」の中に手ぇ突っ込んで来はる人多いですけど、お金探したってなかなかお金は見つかりませんなぁ。 といっても、もちろん自己満足でもあきませんねん。サービスの本来の目的はお客さんに喜んでもらうことであって、その結果お客さんの評価は店の売上げとして表れる訳ですんで。お客さんに「サービス」を買ってもたれあってるンで、両方成立させればホンマハッピーですわ。 車の車輪と一緒ですわ。右のタイヤと、左のタイヤが一緒に回ってこそ初めて前へ進んでくれます。どっちか片方では同じところをグルグル回るだけ、、、両方のスピードが上がったらそれこそ遠くへ行けるんですな。でもね、そんな文化が私は好きなんですわ。自分で勉強してて思います。そんなん勉強して何になるねん。と。 うーん。分かりませんなぁ。この勉強が必要、不必要って取捨選択できる程まだまだ賢くは無いですもん。何になるかはお客さんに評価を委ねないと。私のサービスをナンボで買いますか?ウチの店の料理の値うちはナンボですか? 何年か前、ゴッホの絵が何十億円で取引されてましたなぁ。ニュースにもなってましたけど、一枚の絵が何十億円でっせ。…原価ナンボですかぁ?紙と絵の具ですやん。(つづく)
Oct 18, 2005
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フランス・ブルゴーニュ地方における赤ワイン用の葡萄品種としてもっとも代表的なものに「ピノ・ノワール」があります。 ロマネ=コンティもシャンベルタンもポマールも「ピノ・ノワール」から造られています。ブルゴーニュはボルドーと比較すると単一の品種で造られると知られています。そのため、それぞれのワインを特徴付けるのがテロワールと呼ばれる子細な土地の変化であると言われてきました。 実はピノ・ノワールは単一の品種ではあるのですが、その中に多くの「クローン」が存在しています。実際にはピノ・ノワールだけでなくカベルネ・ソーヴィニヨンにもシャルドネにも人間の手によってクローンが選別されています。 フランスのブドウは19世紀のフィロキセラ禍以来、苗の枝葉の部分と土の中の根の部分はまず違う品種であるといえます。 同じブドウ品種と一口に言っても、皮の厚いもの、大きな房をつけるもの、実の小さいものなど様々です。 根の部分も同様に、毛根の細かいもの、深くまで根の張るもの、根の太く育つものなどこちらも様々です。 クローンというと、DNAを操作して、顕微鏡で遺伝子の組み替えを変えて、、、と思いがちですが、ブドウ栽培でいう「クローン」は少々事情が違います。 基本的にはそれぞれのブドウの木から、新芽の部分、これから成長する部分を切り取って苗として成長させたものが「クローン」です。同じブドウ品種と言う意味でなく、同じ一本のブドウの木であると言うことです。 「ブルゴーニュの黄金の丘で」(辻啓一著;ホーム社発行;集英社発売)という本があります。著者である辻啓一氏がフランス・ブルゴーニュのヴォルネー村の葡萄栽培農家、ブレーさんと共に一年間ブドウ畑の様子を詳細に記録した本です。 一年を通してリアルなブドウ生産の様子が記述されていますので、非常に参考になる本でした。 この中で、ブドウ栽培家のブレーさんがブドウの苗木を買ってくる様子が描かれていまして、ブレーさんは「ピノ・ノワール115号の束を購入し…ブレーさんの畑は115号を中心に113号と114号を合わせて植えている…」とあります。この記述が書かれたのが1990年とあり、また、ブレーさんもそれほど大きくない生産者であることからも、クローンの選択は既に2、30年前には普通のブドウ栽培農家の中でも一般的だったことが伺えます。 ピノ・ノワールにある多数のクローン群で、特に際立った性質を持つ一族も存在し、いくつかの既に別の名称の存在するものもあります。ピノ・ファン(Pinot Fin)ピノ・ブーロ(Pinot Beurot)ピノ・リエボー(Pinot Liebault)等があり、例を挙げれば、昨今のコート・ド・ボーヌに見られるジャムの様な果実味の凝縮感はこの中で「ピノ・ファン」の率が高いことが考えられるのです。 ピノ・ノワールひとつとっても、苗の枝葉の部分だけで約300種類のクローンが、また根の部分にしても、別々の種類ではあるにせよ、およそ300種類から選択肢があるとも言えます。 これが理論的には300×300の90000通りのピノノワールの組み合わせがあるということです。 これらの90000分の内の一本を植えるブドウ畑の土壌に合わせて選択すると言うのが最近のブドウ栽培者の腕の見せ所のようです。 これを、現代的な手法で行っているのが「フィリップ・パカレ」であり、経験とカンによって行っていたのが「アンリ・ジャイエ」であったと言えます。(つづく)
Oct 17, 2005
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ジタン・マイス 此のご時世にも関わらず、私は毎日一箱づつくらいの煙草を吸い続けております。普段、吸っているのは「セブンスター」男一本、セブンスターです。 なんでもセブンスター喫煙者は頑固者が多いらしい。あまり他の銘柄は吸わないそうです。 時々、というか、ワインバーで赤ワインと一緒に吸いたいのが、この「ジタン・マイス」マイスとはトウモロコシの事で、その昔はトウモロコシを漉いた繊維で巻いていたとかいないとか。現在でも周囲を覆っているのは藁半紙のような古臭いとも言える黄色い紙です。此の紙で巻いてあるので、火を付けても吸ってる途中で置いておくと消えます。「消えます」とは、国内で流通してるほとんどの煙草、巻いてある紙をよく見てみると細い筋が幾重にも見えます。これが燃焼材で、この燃焼材があるために普通の煙草は火がついたまま放置しておくとどんどん燃えて灰になっていきます。 放っておくと火が消えるのは、葉巻(シガー)と同様です。葉巻(シガー)は純粋に煙草の葉だけで製造されていますので、燃焼材はもちろん含まれていません。どうもこの燃焼材が煙草の副流煙の中に混ざることによって、煙草の煙りの有害性は増幅されるのだと言う噂もあります。…と、言っても葉巻が体に良い訳ではありませんがね。 葉巻の喫煙ができるバーとかはどうしても限られてきます。やはり薫りが強いものですから、遠慮しないといけないシチュエーションも多くあるのです。 ジタン・マイスは先輩からアル・パチーノが映画の中でふかしていた煙草として初めて知りました。 でも、日本国内では販売されていません。売っていない商品を楽天ブログの中で紹介するのもどうかと思いましたが、私の手許には何箱かがまだ残っていますので紹介してみました。 濃い赤ワイン、ちょっとジャミーなバルバレスコとか、うーん、リオハのこなれたモノとか、バリックなボルドー、、、ジタンのシリーズは赤ワインと相性がいいです。フィルター付きの「フィルトレ」よりも両切りの「ノン・フィルトレ」の方が、「マイス」はフランスのエスプリを感じるので更に気分がいい。 日本に売ってないので、フランスで買ってくることになるか、フランスに行く知人にお土産で頼む。ところが一昨年くらいからでしょうか。フランス国内での煙草の税率が上がって一箱800円ほどになってしまいました。餞別でワンカートンというのが頼みにくくなってしまいました。初めてフランスを訪れた時、ジタン・マイスを求めにタバックへ行ったときの事です。「ボンジュール。おぉ~、ジャポネ?シノワ?」なんだか気前の良さそうなタバコ屋のオヤジです。「ムぅ、ジャポネ、ジャポネ」「そうか、そうかジャポネか。日本製のタバコなぁ、、、『イ・リットォ』くらいしか置いてないよ。」「『イ・リットォ?』なんじゃ、それ?」見せてくれた箱は hi-lite (「ハイ・ライト」やんか、じいさん!ナルホドぉ、「イ・リットォ」って発音するか。フランスでは、、、ってか、そんなん日本ではおっさんくらいしか吸わんわ!)気を取り直して、「『ジタン・マイス』ちゅうのが欲しいんやけど、シルブプレ~」「ブハハハハ~『ジタン・マイス』 !?そんなん、フランスではおじいさんしか吸わないよ~!」 …気前が良さそうだと思ったのは取り消します(つづく)
Oct 16, 2005
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ワインに関しても、また、ワインに限らずすべての食物において、そもそも美味しいとはどういうことなのでしょうか? 「美味い」「不美味い」はあくまでも主観的な感覚ですが、主観的な意見の集合が相対的な評価であるとも言えます。つまりは多数の「美味しい」という指事があればそれは「美味しいもの」とされます。 「美味しい」とは感動する、心に響くということでもあります。 しかし、感動する、心に響くとは、舌で感じる部分だけではもちろんありません。音楽しかり、絵画などもまたそうでしょう。では、音楽の世界においてモーツァルトとベートーベンはどちらが優れているのでしょうか?絵画の世界においてゴッホの絵とモネの絵はどちらがより大きな感動を与えるのでしょうか?オレンジジュユースと赤ワインはどちらが美味しいのでしょうか?「美味しい」と呼ばれるためのひとつの、また重要な要素として、「バランス」が挙げられます。 美味しいとはバランスの良いことに他なりません。上質な塩があっても、それだけでは料理とは呼べません。優れた素材を美味しいと思うのは、後に加えられる人間の手によって、さらにバランスのとれたものと成り得るからです。 「味」を構成する成分は様々にあります。甘味、酸味、渋味、アルコール分、水分、さらに分子の粒子の大きさ、香り、温度、歯ごたえ、咽越し、、、 無限の要素のバランスの良い中で、ダイナミックであるとか、チャーミングであるとかの差異が見られるのです。 人間は、というより。脳というモノは常に刺激を求めようとします。 それがDNAにあらかじめ刷り込まれた進化していくための本能と呼ばれるものです。 何もすることが無い、ということを人は嫌います。というよりその様に出来ているといった方が正しいのかもしれません。脳という器官は、神経の繊維が網の目のように張り巡らされ、ネットワークが形成されることに快感を覚えるように出来ているからなのです。常に刺激を必要としているのです。 刺激に対して、脳は「慣れ」を感じますのでより刺激的な複雑な要因を求めようとします。「慣れる」ということは、脳の中にある仕事。作業に対する神経のネットワークが出来あがった結果であると言えます。 例えば音楽を例に上げてみるとします。幼少の頃ならば、童謡、「おうまのおやこ」「イヌのおまわりさん」だとかに楽しさをおぼえるでしょう。しかし、青年期を迎える頃には興味はポップスやロックに移り、さらには幾重にも楽器の音の重なった交響曲にも感動と興奮をおぼえるかもしれません。 思い出して下さい。今、美味しいと感じるワインは小学生の頃にもし口にする機会があったとしても美味いと感じたでしょうか?子供の頃は、オレンジジュースとかを美味しく飲んだのでは無いでしょうか。コーラなどの炭酸系さえ口にできなかった頃もあったかもしれません。それが、時間の経過と経験を得ると、コーラやが美味しいと感じるようになり、コーヒーを美味しいと感じ、ワインも美味しいと感じるようになったはずです。 「複雑さ」が脳に刺激を与えるのです。それがごく自然な欲求で、「脳」は刺激を求め続けているとも言えるのです。 さらに複雑なものに出会って、美味しいと刺激を感じる時、それは必ずどこかに未知の複雑さを備えているはずです。自らが経験と記憶を持つ以上、常に目の前にあるワインは過去の物とは別物であるとも言えます。 …だから、ワインは分からないのです。 複雑さの中には、値段が高いから、とか、とにかく古いから、という「社会的」な理由も含まれます。これも経験と記憶が産み出すものです。「高いワインは美味しいはずだ」という先入観があるからこそ、私達はテレビのバラエティーを見てタレントを笑えるのです。値段がワインを美味しくしている、という事もあながち間違いでは無いとは思いませんか? 「あっさり」と表現するにせよ、「コクのある」と表現するにせよ、「さらに美味しい」事とは複雑さを含み、脳を刺激することが快感に変わることなのです。 それでは、ワインに限って言えば、ピノ・ノワールという葡萄品種1種類を使用するブルゴーニュの赤よりも、ボルドーのように何種類もの葡萄品種を使用した方が相対的に美味しいのか、という疑問も湧いてきます。 そうでもあると言えますし、またそうでは無いと言うのも正解です。 ブルゴーニュの赤は葡萄品種1種類だけで作られているように見えますが、上質とされるものは、実はものすごく複雑な味わいを秘めています。 フィリップ・パカレという生産者が「美味しいワインを作る」という点において、現在注目を集めています。が、このパカレのワインとは実は、ワインになる葡萄という植物に限ってみても、300×300=90000実におおよそ9万通りの組み合わせをモザイクのように組み合わせて得られる結果なのです。およそ9万通りの組み合わせとは…(つづく)
Oct 15, 2005
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「良いサービス」とはお客様が期待する以上の驚きがあるサービス とお客様の期待を裏切らないサービスの二通りしかないと以前にお話したことがあります。「期待を裏切らないサービス」と言ってもこれはお客様の単価、料理店ののスタイルにもよって基準が変わってきます。ファストフードでは速さが求められます。また、ファミリーレストランでは快く子供を迎えてくれる姿勢が求められます。カフェと名乗るのか、喫茶店と名乗るのかでお客様の期待は変わってきます。 フランス料理店で、あえてオーダーの通し方や、食材の名前をフランス語で言ったりするのは、格好だけではありません。厨房の声がホールに漏れた際にも雰囲気を壊さないようにするためでもあります。もちろん期待されるのはスタッフの所作だけではありません。ホコリの溜まっていない棚指紋の付いていないグラス清潔に保たれたトイレ。快適な空調適度なBGM来店を促すDMのデザイン。釣り銭の渡し間違いのないこと。 上記はあくまでもほんの一例です。「接客」業とはいっても、我々の終業時間の内、お客様と接する営業時間とほぼ同じくらいの時間が準備の時間にあてられます。お客様に対する想像力と準備の上で「期待を裏切らないサービス」が生まれ、「期待を裏切らないサービス」のなかに「時々」感動を与えるサービスが生まれるのです。「優れた指揮官ならば次の事を実行しなければならない。 第一は、敵方が想像もできないような新手の策を考えだすこと。 第二は敵将が考えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終わるように備えを完了しておくこと。」-政略論-より(マキアヴェッリ語録/塩野七生著/新潮文庫)(つづく)
Oct 14, 2005
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FFCC(フランス料理文化センター)が開催する、レストランサーヴィスのコンクールに「メートル・ド・セルヴィス杯」があります。「メートル・ド・セルヴィス杯」はフランス料理に携わるサーヴィスマン向けに催されたコンクールで、サーヴィスやレストランの知識に関する筆記試験や、実際のレストランにおけるテーブルサーヴィスの審査が行われ、それぞれの技術を競います。 実は…私も過去6回ほど参加をし、うち何回かはセミファイナルなどへ進出も致しました。 おぉ~! (←読者の声) コンクールへ出場出来たからといっても、なかなかそれでお客様が増えるワケでもありませんし、また、お店を休んだりもしないといけなくなるので結構周りの理解がないと厳しい部分もあります。 これもひとつには「メートル・ド・テル」という呼称の認知度がまだまだ低い事にもあります。しかし、ソムリエという呼称も近年になってから田崎真也さんの世界大会の優勝などもあって、広く知られるようになりました。 コンクールによって私が得た最も大事なもの。それは、同じような志を持った方々と知り合いになれたことでした。「フランス料理のサーヴィス」という狭い枠組みの中ではあるのですが、自ら進んでサーヴィスを高めよう、後輩達に道を開こうとする意識の持ち主たちです。人は自分を中心に世界を考えます。「みんなとおなじように」「みんな」と同様に、「みんな」が出来るように。「みんな」が持っているものは自分も欲したいのです。しかし、この「みんな」が誰であるかで「あたりまえの目線」が変わってきます。「このくらい出来てあたりまえ。」「このくらい知っててあたりまえ。」 私の世間でさえも、少し視野を広げれば、スゴイ人がいっぱい居ます。パイナップルのデクパージュを行えば世界に右に出る者がいない人。日本語、英語、フランス語、スペイン語、4か国語を操るホテルマン。シガーについては超エキスパートのマダム。朝8時から夜2時まで毎日働き続けられる後輩。フランスからシストロンの仔羊をスーツケースに詰めて持ち帰るシェフ。何年も店を維持し続けるオーナー。ひたすら美味いワインを探し続けるソムリエ、、、そんなスゴイ人たちを自分にとっての「みんな」でありたいと思うのです。(つづく)
Oct 12, 2005
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とあるお好み焼き屋さんでの話。私が訪れたその日はいつになく混んでいました。人手も足りないのか従業員のお姉さんはバタバタ、こっちは食べたいものが決まったので、手を上げて「注文おねがいしま~ス。」「はぁ~い。」飛んできたお姉さん。顔は笑っているのですが、なぜか私達の目の前で、やおら手に持っていたスリッパを自分の靴と履き替えてそのまま去っていってしまいました。…かなりパニくってたんでしょうね。 忙しくなってきたところに、何か失敗をかましたりすると人は皆焦ります。どうしよう、どうしようと言う気持ちが先に立って、視野が極端に狭くなります。ウロがくるとか、パニックになるという状態ですね。 レストランはあくまでもお客様のペースに合わせないといけませんから、一気にオーダーが通ったりするとスタッフは焦ります。もちろん、お客様にその雰囲気を伝えてしまってはいけないんですが。 私も若い頃はキッチンで働いてましたので、よく忙しくなった上に叱られたりすると、しょっちゅうパニックになっていました。レストランのスタッフでもパニくりだすと不可解な行動を起こす事がよくあります。よく見られる例として、 無闇に冷蔵庫を開ける、でも何も取る必要のあるものはない やたらとオーブンを開ける、でも、そもそも何も入れていない パントリーへ何かを取りに行く。でも、何も持って帰ってこない… などなど、その他私の場合は極度に緊張すると眠くなる。本当なんですよ。何故か急に眠気が来て、あくびが出る。気分は緊張のピークなんですが、いわゆる「逃避行動」なんでしょうか。先輩なり上司なりは「ちゃんとせんかい!」って怒鳴ったりもするんですが、怒ったところでちゃんとなった事はないです。溺れてる人に「溺れるなぁ!」と声をかけるようなもの。溺れる前にちゃんと泳ぎ方を教えておかないといけなかったのです。 こういった事が起こるのは、スタッフ本人の予測と準備が足りなかったから。そして、経験の不足です。 もちろん、部下を追い詰めること、何回かパニックにならせる事もあえて大事な事だと思います。入ったばかりのペエペエでも何年か続ければ先輩になる訳ですから、未来の後輩に教える為にもしんどい経験が必要なのです。 この経験の内の何割かはこうやって何回かパニックになった上で、「予測できなかった事」が「現実に経験した事」に変化した結果、次回は失敗しないようになる事でもあります。 部下に100の仕事を期待するなら、ホントは一番最初から150くらいの物事を教えておかないといけません。ちょっとコイツには難しいかな?って思えるくらいの水準の事を。 仕事って、そのうち慣れてくることによってもレベルは下がって来るし、お客様に「いつも同じ水準」のサービスを提供するって事は、少しづつでも向上しておかないといけないのです。 すると、教える側の人間は150の物事を教えるために、200の引き出しを持っておかないといけなくなります。 自らが好むと好まざるに関わらず、誰かよりも上位の立場の人間は、部下よりも研鑽しておかないといけない。それが部下に対する「サービス」なんですね。(つづく)
Oct 10, 2005
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さて、テンプル騎士団とは、フランスの貴族でシャンパーニュ伯の家臣であったユーグ・ド・バイヤンがエルサレムへの巡礼者を保護するという名目で結成されました。しかし、騎士団の人数は9名。長い年月を経ても人数は変更されませんでした。この人数ではエルサレムへの年間何万人もの巡礼者の保護などできるはずがありません。 テンプル騎士団の本当の目的は聖遺物、つまり、キリストの聖杯、聖槍、の発見にあったと言われています。そして時を同じくして創設されたのが「シオン修道会」 歴史に封印されてきましたが、イエス・キリストには子孫が存在し、フランス王家の血筋に受け継がれました。その秘密を守るのが「シオン修道会」であり、この秘密が隠されていたのがレオナルド・ダ・ヴィンチ作の壁画「最後の晩餐」なのです。 …と言うのが小説「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン著、越前敏弥訳、角川書店)に描かれたストーリーでした。 シオン修道会は謎の秘密結社のなのですが、その総長を勤めた中に数々の歴史上の著名人の名が現れます。第11代総長サンドロ・フィリッピペこと、ボッティチェッリ。第12代レオナルド・ダ・ヴィンチ、第19代アイザック・ニュートン、第24代ビクトル・ユゴー、そして、第25代にジャン・コクトー。 ボッティチェッリはキリスト教の教義においては「異端思想」の持ち主でした。 ボッティチェッリの作品「春」には愛の女神ヴィーナスを中心に何人かの女神が描かれ、そして左端には知恵を表す杖を持った「ヘルメス」が描かれています。このヘルメスこそ、キリスト教会における異端思想のシンボルとされていたのです。 ジャン・コクトーはソムリエなら誰もが知っているであろう、「シャトー ムートン・ロートシルト」そのシャトー ムートンロートシルトにおいて毎年図案が変更されるラベルの作家の一人でもあります。 ジャン・コクトーがシャトームートン・ロートシルトのラベルを飾ったのが1947年。頭に角の生えた人物が、葡萄に手を伸ばす様子が描かれています。 この角は「ムートン=羊」をイメージした巻角を模したものである事は容易に想像できます。描かれた果物は葡萄です。コクトーはギリシャ神話の登場人物などのモチーフに好みました。 しかし、この人物こそボッティチェッリの「春」に描かれた、ヘルメスと同じ人物です。顔の方向、目線、果物に伸ばす手はムートンのラベルは横長の為、低く描かれています。しかし、眉の形、鼻の輪郭など、、、 1947年のラベルに隠されているもの、シャトー ムートンの所有者、ロートシルト家はユダヤの家系である事に由来したメッセージ。ジャン・コクトーがボッティチェッリの時代を経た後継者であった事。 「シャトー ムートン・ロートシルト1947年」のラベルはジャン・コクトーからボッティチェッリへのオマージュでもあったのです。(つづく)-----------------------------------------------------------------------------------ボッティチェッリの「春」http://sunsite.sut.ac.jp/wm/paint/auth/botticelli/botticelli.la-primavera.jpgジャン・コクトーの「シャトー ムートン・ロートシルト1947年」ラベルhttp://www.cyber-wineshop.com/news/saki/saki03.html------------------------------------------------------------------------------------
Oct 8, 2005
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自分で言うのもなんですが、どうも私の顔は「恐い」らしい。確かにどちらかと言えば蒙古系です。人からは「外国人離れした顔立ち」と言われますが、それはそれで所謂ショウユ顔でいいんじゃ無いかと思います。男前は男前なのですが、どうも目つきがキツいらしい。…一重まぶたです。凛とした涼し気な目もとなのです。しかし、私の年代が少年少女達だった頃、アイドルと言えばお目々ぱっちり系が主流でした。少年隊にヒガシが現れた時は心から拍手を送ったものです。さて、職業が接客業となると、あまり強面の面構えというのもあまり誉められたものではありません。どちらかといえば、ソフトな感じの方が良いでしょう。 で、どうするかといえば、努めて笑顔を作ることになる訳です。レストランのホールは我々にとって舞台ですから、少々辛い事があったとしても、役者として振る舞わねばならない時もあります。さて、「笑顔」はドコで作られるのでしょうか?「表情」とは民族や言葉が違っても人間どおし変わらないコミュニケーションの道具のひとつです。 人が笑う瞬間をカメラで捕らえて、スローモーションで再生すると、最初に変化が見られるのは「くちもと」なのです。まず口角が左右斜め上に引っ張られて「笑顔」のベースとなるのです。それから、頬、眼へと筋肉は動きます。「くちもと」を意識して笑顔に見えるようにするには、話し方を変えれば笑っているように見えます。つまり、人は話す時に口を動かしますが、このとき、意識して縦方向に、あごを上下に動かすことによって表情が豊かに見えるのです。 では、「目」の使い方はどうでしょう? 「目は口程にモノを言う」という言葉どおり、目はあまりにも多くの事を物語ります。このことは人間特有のことであるのですが、人間の眼というのは眼球の白眼の部分がはっきり露出しています。 ほとんどの動物にとっては眼は急所ですから、どこに眼が付いてるか分からない様に進化してきました。パンダなんかそうですね。人間に近いゴリラなんかでも黒い顔に白眼の露出をなるべく少なくして、どちらの方向に視線が向いているかなるべく分からないようになっています。 これは、視線の方向が他者から分からない事によって、獲物とするものに警戒されないようにするためと言われています。 多くの動物の中で人間だけは視線が何処に向いているのか自ずから表そうとしてきました。これは、視線もまたコミュニケーションの方法の一つとして進化させてきた証なのです。 眼がキツいと言われるのは、「眼」そのものの形状に過ぎません。まゆ毛から下、下まぶたの辺りまでの形が如何であるかということ。と、いうことであれば、瞳で好意を表すとするのであれば、眼そのもので無く、誰しもがさほど大差の無い眼球の黒眼の部分に対峙した方の意識を持っていければいいのです。つまり、「相手の眼を見て話す。」ことこそが、「笑顔」であることの基本なのです。(つづく)
Oct 7, 2005
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シャンパーニュのボトルには様々なサイズがあり、またそれぞれのサイズに独自の名称がつけられています。○Bouteille(ブティーユ) 通常サイズ1本分 750ml○Magnum(マグナム) 2本分 1500mlこれ以上に大きなサイズが、○Jeroboam(ジェロボアム) 4本分 3000ml○Rehoboam(レオボアム) 6本分 4500ml○Methuselah(マチュザレム) 8本分 6000ml ○Salmanazar(サルマナザール) 12本分 9000ml○Balthazars(バルタザール) 16本分 12000ml○Nabuchodonosor(ナビュコドノゾール) 20本分 15000ml さて、ご存知でしょうか?マグナムボトルサイズ以上のボトルに付けられている名前は、全て人名なのです。 Jeroboam、フランス語を日本語読みして「ジェロボアム」ですが、日本語訳された聖書の中で登場する際の読み方は「ヤロブアム」。ヤロブアムはダビデ王が建国したイスラエル王国を継いだソロモン王の後、南北に分裂した北イスラエル王国の王となった人物です。 同じくRehoboam「レハブアム」こちらはソロモン王の実の子、分裂したイスラエル王国のもうひとつユダ王国の初代の王様でした。 Methuselah「メトシェラ」とは、洪水と箱舟で知られるノアの祖父。 Salmanazar「シャルマナセル」とは古代アッシリアの王であり、北イスラエル王国の首都サマリヤを包囲したシャルマナセル5世の事。この王の次の代で、北イスラエル王国は滅亡します。 Balthazars「ベルシャルザル」とは、一部の文献には新バビロニア王国の最後の王様とされていますが、実際に王位を得ていたのはベルシャルザルの父で、ベルシャルザルは王位には着かず、摂政の地位の時にバビロニア王国は滅びました。 Nabuchodonosor「ネブカドネザル」新バビロニア王国の2代目の王であり、エルサレムを破壊した人物です。 いづれも聖書の中に登場する人物です。しかし、聖書と言っても全て旧約聖書の中に表れる人物です。 マグナム以上の大ビンとなれば、使用上の実用性には乏しく専ら祝事用に用いられる事が考えられます。では、祝事用であるならば、なぜ、旧約聖書の登場人物の名が付けられ、シャンパーニュでは広くその名が一般化しているのでしょうか。 キリストその人より以前から存在したユダヤ教などは、神の存在はひとつでありイエス・キリストを神の子として認めない教義でもあります。そのため、ユダヤ教の教典は基本的には旧約聖書です。 また、世界に多く広まっているキリスト教の中には「異端派(グノーシス)」と呼ばれるいくつかの派があります。「全能の神」と言ういう言葉がありますが、神は全能では無いとする考えを持つ一派です。そのため敬虔なキリスト教徒でもありながら、イエス・キリストが神であるという教えを認めていませんでした。 カタリ派と呼ばれるのもその一派で、このカタリ派と秘密の結びつきがあったのがエルサレムへの巡礼者を守るという名目で組織された「テンプル騎士団」でした。 この「テンプル騎士団」の発祥の地が、実はシャンパーニュ地方だったのです。 テンプル騎士団とは11世紀末…(つづく)
Oct 6, 2005
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申し訳ございませんッ!お詫びしないといけない事があります。 実はこの10月4日の日記あてにコメントを2件頂いたのですが、あやまって消去してしまいました! コメントを頂いたお二方にはなんとお詫びしてよいのやら、、、 そう言えば、幼少の頃です。 テレビのニュース番組などで「あやまって子供が川に転落、、、」というニュースを聞く度、「ごめんなさぁ~い」と、あやまりながら川に落ちていく子供の姿を想像していました。(…そんなんだから、ダメなんじゃん。)こんなコトでは良いサーヴィスなど出来ましぇん!自己嫌悪です。。。…そもそも「良いサーヴィス」とはどのようなものでしょうか?今のところ私が思うには、2通りのサーヴィスでしかないのです。「お客様が期待する以上の驚きがあるサーヴィス」 と「お客様の期待を裏切らないサーヴィス」 数々の本の主題を見ても「感動するサーヴィス」といった事例でいくつものサーヴィスが例に挙げられています。これが「お客様が期待する以上の驚きがあるサーヴィス」に含まれると思います。しかし、なかなかそのようなサーヴィス事例はまわりの状況が揃わないと難しいものです。 得てして、本に掲載されたりするのは感動を与えたサーヴィスがクローズアップされたりする訳なのですが、これって例えて言うとプロ野球ニュースの「珍プレー・好プレー特集」です。 プロ野球で、めったに起こらない難しいファインプレーが賞賛されるのにも似ています。フェンスギリギリのダイビングキャッチ、ベンチへ飛びこむファウルボール、敬遠球をヒットしてのサヨナラ、、、しかし、当の野球選手たちはファインプレーを見せたいからと言って難しい球が飛んで来るのを待ってはいられません。 ある本の中の一章にお客様へのデクパージュの話が載っていました。 お客様の眼の前でオマール海老ののデクパージュ、つまり1匹丸ごとをローストしたものを切り分けしているところです。オマール海老を開いてみると適度に火が入っていない状態を示してます。そこでデクパージュを行っていたメートル・ド・テルは厨房に戻し、もう1匹を焼き上げるよう指示しました。2匹目のオマール海老が登場。同じくデクパージュを始めますが、また上手く焼けていない。さらにもう一度調理場に指示を出す。3回目にしてようやく満足のいくオマール海老が焼きあがって来ました。 お客様は飽くなき水準の追求と、メートル・ド・テルが厨房をコントロールしていることに賛美したとの事でした。 …ところがですね、よくよく考えてみるとオマール海老を焼き直すのはいいのですが、待たされたお客様の時間はどうするのでしょう?キッチンは1回できちんと料理が仕上げられぬようなシェフだったのでしょうか?2回も3回もやり直しせねば出来ないような料理であったら、最初からメニューに載せるべきでは無かったのではないでしょうか?。 もちろん。このエピソードはマスコミ向けに提供された話で、現実にあった話かどうかは定かではありません。あるいはこれも計算され尽くした「演出」であったのかも知れません。 レストランでお客様に「感動」を与えられるのは事実です。しかし、プロのスター選手が難しい球に追いつけるのも普段からの地道なトレーニングがあってこそのものなのです。
Oct 5, 2005
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「社会」という言葉、小中学校の教科の名前ではありません。辞書を引くと「人間の共同生活の場」と、あります。 「人間社会」、「現代社会」と頻繁に使われますので、随分昔からあった言葉のような気がしますが、実は「社会」言う言葉が使われだしたのは明治10年頃。一説には福沢諭吉が英語のSocietyを訳した際の造語であったともいわれています。 という事は、明らかに「社会」とは江戸時代末期に西洋諸国の圧力で日本が開国してから後に生まれた認識であったという事です。それまでの日本には「社会」は存在していなかったのです。 では、それまでの日本において「人間の共同生活の場」を何と呼んでいたか。それが「世間」です。考えてもみて下さい。古くからの格言・諺に「世間」という言葉は度々登場しますが「社会」という言葉は出てきません。 日本人は人と会った時、最初の挨拶として「今日は暑いですね。」「今日はいい天気ですね。」声をかける事が多いのです。これは、お互いが同じ世間を共有している事を確認している事の表れと言えます。 手紙をしたためる時に「残暑とはいえ、まだまだ暑い日が、、、」と書きはじめたりしますが、宛先がオーストラリアだったりしたら季節は逆ですので暑いどころか冬の真っ最中のはずですよね。 フランス料理店で、「お箸で食べるフランス料理」を謳うお店があります。ただ、いつも思うのは日本人が苦手意識を持つのは、ナイフ・フォークの扱いがあるからだけでは無いと思うのです。 フランス料理店において敷居が高く感じられるのは、また、ホテルのロビーにおいて日本の旅館におけるようにくつろげないのは、そこにあるのが「社会」であるからです。 日本の料亭においては、高級店であれば皆個室を与えられます。個室は他者が介在しない空間ですので、上着を脱ごうが、ネクタイでねじり鉢巻きをしようが個々の自由です。サーヴィスを行ってくれる中居さんも個室という世間に入ってくる人なのですから、何ら気兼ねする事は無いとも言えます。 対して、レストランのホールは「社会」です。各個に与えられる空間はテーブルの上だけ。サーヴィスマンは他のお客様も相手にしますし、公の人ですから独占する事も他者の眼が気になります。 また、レストランのホールにおいては、自分達以外の他者、レストランのスタッフだけでなく他のテーブルの、違う世間から来られたお客様に見られる事も意識しなければならないからなのです。 例えば、日本で一流のレストランで食事と言えば、少々の緊張も伴います。しかし、同じレストランでもこれが知人の結婚披露宴で招かれた場合など、フランス料理店だから緊張するというような事は少なからず無くなります。貸切になる事によって生まれる、「社会」であったレストランのホールが、皆旧知の人間、あるいは同じ「世間」に属する人どおしの集まりである事がホールを「世間」に変化させるからなのです。 サーヴィスは心であるというのは確かなのですが、サーヴィスにおける「心」とは「記憶と経験から生まれてくる行動力」だと私は考えます。同じ世間であれば皆同じような経験を持っているだろうという考えが大前提に、日本人はサーヴィスにやたらと「心」を強調する節があります。 日本へ外国のお客様を招いたある会社が、よかれと思って日本で最も高級とされる料亭旅館を手配しました。さぞかし喜んで帰ってくれただろうと思いきや、後々随分とクレームを述べられる事になったそうです。 お客様が言うには、まず、プライベートが尊重されていない、という事。食事の時間も個人を尊重することなく勝手に決められるし、知らない間に勝手に部屋に入ってきて布団を敷いていくとはなんたるプライバシーの侵害だと。 日本のサーヴィスにおけるホスピタリティの部分は非常に優れていると思います。それを再構築していく術は欧米諸国から導入されたファストフード、ファミリーレストランの興隆を見ても明らかです。また、サーヴィスにおけるテクニックにおいても、日本人のほうが明らかに綺麗で器用であるともいわれています。 しかし、「サーヴィス」を「奉仕・つとめ・給仕」と日本語で訳した時に、それが意味するものの成り立ってきた過程が違っているのです。-----------------------------------------------------------------------------------と、ここまで書いて、オチを考えて無い事に気付きました。こむずかしい話は私には似合わないでしょうか…(^^;)
Oct 4, 2005
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本日ご来店のお客様はとある日本の大手企業の部長クラスの方々。あらかじめ予約の際に接待の席と言うので割とよい席も用意しました。 接待の席ですから、お客様の会話は自然と仕事の話に向かいます。その企業の方々は最近中国への進出したらしく、現地での指導にあたって、採用した中国人の姿勢を非難していました。グローバル化がなされていないんじゃ無いかと。 ところが、皆様の食事の姿勢こそが全然「グローバル」じゃないんですね。 脚を組んで椅子に腰掛け、パンはちぎらずにかぶりつく。目下の社員の方が食べ終わるのが遅い。食事の合間に喫煙とホールでの携帯電話。いい席と言うのは、レストランのホール内においては他からもよく見える席ですから、別卓のお客さまの目にも見栄えがよく無いです。 以前、中国、上海からの留学生をアルバイトで雇い、共に働いた事がありました。彼女は中国におけるいわゆるエリート階級で、日本語はまだまだ上手く話せませんでしたが、英語のスキルは欧米人と大差無い。 海外に進出する日本の大手企業でさえ、中国人の採用にあたっては、「日本語を必須」を条件としているそうです。彼等にとって世界に出ていくのならば、欧米諸国は英語が出来れば仕事上は不自由は無いのに、日本企業だけが日本語が出来ないと就職できない事に疑問を感じているそうです。 過去、日本の西洋料理、フランス業界は、飛躍的な発展を遂げた出来事があります。ひとつは1968年、東京オリンピックともうひとつは1970年の大阪万博です。当時、世界を垣間見た我々の諸先輩方は、刺激を受け現代とは全く条件の違う中、ヨーロッパに修行に出られました。また、東京オリンピックでの日本の料理長の奮闘はNHK「プロジェクトX」にても取り上げらるまでになっていました。 私にとっては2世代前の方々なのですが、現在のフランス料理の礎になった事は間違いありません。 日本は自動車、電気製品など西洋で産まれた物を精緻化、大衆化し、海外に輸出する事において経済の発展を遂げました。古くはトランジスタ、もちろん車、ビデオ、カメラ、などなど フランスにおいてシェフと呼ばれる人々は、聖職者や医者に次ぐ尊敬されるべき職業として社会的地位が高いと言われています。これはとりもなおさず、フランスにとってフランス料理は形の無い文化でありながら、世界に向けて発信できる輸出品であり、また、シェフとはその担い手でもあるからなのです。 2008年にオリンピックを控えた中国も今、外国人を迎えるためにホテルが次々と建設されています。しかし、ハード面での施設の充実は出来ても、サーヴィス、つまりソフト面での向上はまだまだ間に合ってはいないようです。「サーヴィス」への広い認識がまだまだ不十分なようです。 さて、北京オリンピック、35年前の日本の様子と同じ事が起こりうるかも知れません。日本は西洋の文化を受け入れてきた事においては、少なからず歴史が余分にあります。また、家電製品の例を引くまでも無く、ヨーロッパの文化をリコンストラクションする能力にも長けている国であるともいえます。 中国はやはり欧米から学ぶのでしょうか?隣国である日本から「サーヴィス」というソフトを輸入するに至ってはまだまだ日本のサーヴィスは不十分なのでしょうか?
Oct 3, 2005
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