撮影日記 0
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JR四国 121系電車:予讃線国鉄末期の昭和61年、四国初の電化路線用として投入された電車が121系です。窓の構造の関係から、その後開業する瀬戸大橋は通過できないそうで、あくまでも四国島内の電化区間で普通列車及び快速列車用として導入されています。編成はM+T’cの2両固定で軽量ステンレス製。片側3扉の近郊型ですが、裾絞りはない狭い車体で、車内はセミクロスシート。形態的には珍しいもので、言わば飯田線用119系のステンレス版といったところでしょうか?誕生から30年になり、機器や内装が老朽化したため、リニューアルにより延命を図っています。JR東日本のような会社であれば転用先もありますが、電化区間の短い四国でもそのようなことはできず、新車を導入する資金もなく、このような措置もやむを得ないところでしょう。リニューアル後は形式も7200系と変化、走行機器類や台車まで更新されることになり、全19編成のうち、平成30年8月時点での未更新車が最後の1編成となってしまいました。私個人は四国そのものへ1度しか行ったことが無く、その際にちょっとだけですが121系の記録を残すことができました。※撮影は、全て平成22年7月25日です。高松駅にて 第19編成当時は気にも留めませんでしたが、ラストナンバー編成でした。クハ120の台車は101系の発生品だそうで、当時は知りませんでした。国分~讃岐府中間にて 121系 第19編成 「快速サンポート」瀬戸大橋を渡って岡山へ出向き、まだ戻って来て立ち寄った国分駅付近で撮影したものです。構図は良くなかったのですが、快速でヘッドマークが付いていたので取り敢えず撮影していました。国分~讃岐府中間にて 121系 第12編成同じ区間でちょっと駅から離れた道路橋から撮影したものです。こちらは第12編成でした。強硬な1泊2日の撮影だったので時間がなく、121系はこれだけしか撮影できませんでした。それでも昔だったら普通列車の写真なんて撮影しないことも当たり前でしたので、デジカメになってかなり意識が変わりました。そのお陰で少しでも記録に残せてよかったです。
2024.09.28
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JR四国 113系:第1編成国鉄時代、全線が非電化であった四国ですが、瀬戸大橋の開業を控えて接続区間の電化が実施され、国鉄時代末期に111系電車が配属されます。この111系はそのままJR四国に継承されましたが、元々古い車両であったために車両の更新が必要となり、JR東日本から113系4両×3編成の譲渡を受けました。譲渡に当たってはかなり大掛かりな更新を受けたため、車体内外が大きく変わっており、個人的には113系最大の変顔車両だと思っています。平成22年7月25日 高松駅にて 第1編成 クハ112-1国鉄時代から四国を訪問したことがなく、この時が初めてでした。見る車両は全てが初めてとなりますので、とにかく目の前にいた列車はすべて撮るような感じで、偶然にもこの変顔113系に1度だけ会うことができました。導入された3編成のうち、第3編成が平成28年3月、そして平成31年3月31日にこの第1編成が廃車となりました。さらに、最後まで残っていた第2編成が令和元年8月6日に廃車回送され、JR四国から113系が消滅することとなりました。
2024.09.16
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101系:京浜東北線鉄道ファン誌のNo561(2008年1月号)とNo562(2008年2月号)で、「京浜東北線を駆け抜けた車両たち」と題して京浜東北線に使用された車両や時代背景など詳細に記された記事が載っております。この記事をお読みになった方はお判りと思いますが、京浜東北線にも都合3編成の101系が運用されていたことがあります。私も詳細については知らないのですが、昭和45年12月2日から運用開始され、昭和53年10月、現在の武蔵野線(新松戸~西船橋)延長開業による列車本数増に必要な車両として捻出されるまで、8年弱の期間に亘り京浜東北線を走っていたとのことです。昭和51年頃 南浦和~浦和間にてネガが露出不足のため、コントラストの欠ける寝ぼけた写真になってしまいました。原版は6×6の「リコーフレックス」という2眼レフで撮影したものです。夕方らしい上にレンズシャッター式なので、写真もブレブレな感じです。当時、103系の写真など全く撮る気の無い頃でしたので、おそらく、101系が来たことが判って慌てて撮ったものではないかと思われます。昭和52年 赤羽駅にて旧高架の赤羽駅です。おそらく・・・赤羽駅で特急列車を撮影した帰り、家に帰ろうとホームへ来たものの赤羽止まりに遭遇。しかもそいつが101系だったものだからたまらない。駅員さんがサボを回し始めたので、せっかくだからレアな幕の時に撮ってやれ!なんてシチュエーションだったのでしょうね。ネガから見つかった唯一のカラー写真であり、構図は悪いですが私的には大変貴重な1枚です。昭和53年頃 蕨駅にてこちらは最晩年の頃の写真と思われます。当時は、鉄道雑誌をお小遣いで買える頃ではなかったので、101系がなくなることも察知出来なかった筈です。おそらく、蕨駅で特急列車の写真を撮っているときに偶然来た101系を収めたのだと思います。時代的に判断して、この後間もなく武蔵野線用に1000番台化改造され改造され転出していったものと思われます。103系 京浜東北線:クモハ103103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM103系 京浜東北線:オレンジ色「京浜東北線」HM付き103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ209系500番台:京浜東北線
2024.09.15
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205系量産先行車:京葉線京葉線は、103系や201系の配置を経て、205系の新製配置もされるなど、E電線区としては比較的に型式混在の多い路線です。205系に関しては、後期車となる前面デザインのことなる車両が導入となりますが、これ以外に山手線のE231系500番代化で余剰となった205系の量産先行車が4編成とも終結することになります。4編成が出揃ったのは平成17年でしょうか。しかし、首都圏における新顔のE233の登場により、その活躍も僅かの期間で終わってしまうことになります。平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて ケヨ24編成平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて ケヨ26編成平成19年10月28日 新木場~潮見間にて 平成20年5月3日 潮見駅 ケヨ24編成平成20年10月26日 新木場~潮見間にて平成21年10月24日 潮見駅 ケヨ24編成平成21年10月24日 潮見駅にて ケヨ26編成平成22年7月17日 市川塩浜駅にて ケヨ25編成2段昇降式の窓が特徴の205系量産先行車。山手線時代に1枚しか撮っていなかったこともあり、京葉線では悔いを残さないように出来るだけ多く撮っておくことを心掛けました。しかし、以外にも終止符が打たれるのが早く、その活躍はあまりにも短かったように思います。
2024.08.23
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キハ58 秋田支社色:奥羽本線 普通列車JRになって、各地の普通列車は旧国鉄車を引き継ぎながらも、地域ごとに特徴のある塗装が施されるようになりました。そんな中、独身時代のほぼ最後の頃に撮影に出た際、あまり撮ることの無かった普通列車を撮った写真です。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間にて撮った時は良く知らなかったのですが、右側は秋田支社色と呼ばれるらしいですね。当時としても原色以外は邪道視していましたから、原色側を中心にとっているわけですが、今となってはキハ58自体が全廃になってしまったわけで、きちんと撮っていなかったのは非常に残念なことです。国鉄末期、「塗装合理化」称してタラコ色が全国に増殖し、グリーン帯まで消してしまいました。新色登場当時は、「民営化されて借金がチャラになったわけじゃないんだから・・・」と、元国鉄職員の私は憤慨していました。
2024.08.18
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キハ40系・キハ56系:札沼線(石狩川橋梁)札沼線は、札幌から函館本線の滝川に程近い新十津川を結ぶ路線です。正式には、函館本線の分岐点である「桑園」が始点になり、その昔、留萌本線の「石狩沼田」に接していましたが、新十津川~石狩沼田間は廃止となり、バスに切替えとなりました。「札沼線」の名前も「札幌」「沼田」の頭文字に由来するものです。比較的に距離の長いローカル線でしたが、札幌近郊区間として大学誘致や開発が進み、民営化後には新駅の設置、高架化、複線化、電化と、目まぐるしく発展しました。一方、北海道医療大学駅以北については開発から外れ、旧態然のままのローカル線として細々と営業されており、令和元年5月ゴールデンウィークを最後にとうとう廃止されてしまいました。北海道には11回も渡道していますが、札沼線に関しては1度も乗車したことがありません。しかし、北海道へクルマを持って渡道したことが2度あり、そのうち1度だけ札沼線の写真を撮ったことがありました。※平成2年9月6日 札沼線 釜谷臼~石狩太美間にて。北海道で一番長い橋梁として有名な石狩川橋梁です。ローカル然とした壮大な橋梁で、北海道の雄大な雰囲気が良いですね。石狩川橋梁は、平成13年に新橋梁に切替となり、全区間がトラス橋になってしまったようです。将来的な電化を見据えた工事であったようで、トラスも架線を設置する前提で背の高い構造になっているように見えます。そして、実際に電化されて、新型の電車が走るようになったのも周知のとおりです。民営化間もないこの頃は、未だキハ141系なども誕生しておりらず、急行形のキハ56系やキハ40系といった国鉄型の気動車ばかりでした。平成5年の渡道を最後に北海道へは行っていないため、沿線の発展振りは想像も付きませんが、30年の間にこの雄大な風景も別の風景になってしまったようです。
2024.08.14
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京浜東北線:蒲田駅120周年HM京浜東北線の蒲田駅が120周年を迎えるということで、様々なイベントが行われたようです。昨年は現場回りで蒲田駅へ行ったことがありましたが、今年は残念ながらこのイベント期間に訪問する機会はありませんでした。しかし、これを記念し製作したヘッドマークを掲げたE233系が1編成用意されたことにより、少しでも参加した気分になれました。このところあまり写真に撮ることがなくなってしまったので枚数はありませんが、ここにご紹介したいと思います。令和6年5月4日令和6年5月4日令和6年5月5日往復4時間を要する京浜東北線において、末端に近い地元では、1編成しか掲出のない編成を捉えるのは結構大変なもんで、GWにちょこっと撮っただけでした。運転期間は5月1日~7月末頃となっていました。実は、7月30日の帰宅時にちょうど大宮から折り返して来る同編成と蕨駅でかちあう見込みだったのですが、惜しくも到着寸前にすれ違ってしまい、これが最後の目撃となりました。最終日の7月31日夕方に運用を見てみたのですが、夕方以降運用されている様子は確認できませんでした。
2024.08.03
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キハ23:山陰本線 普通列車山陰本線には殆ど撮影に行ったことが無く、私が数回通った際もまだ客車の普通列車が多かったため、気動車の普通列車の写真と言うのは全然と言って良いほど撮ったことがありません。その中で、1枚だけですが気動車の写真がありました。昭和55年8月 山陰本線 揖屋~荒島間にて同区間の旧線を行くキハ23×3連の普通列車です。現在、同区間は電化され、さらに短絡した新線が出来たため、この場所自体の線路はなくなってしまいました。この時代は長距離の普通列車は全てが旧型客車、比較的に区間の短い普通列車に気動車が充てられていたようです。おそらく荷物車併結の関係でしょうね。キハ23も現役時代の写真は殆ど残っていなく、私の中では貴重な記録となっています
2024.07.31
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東北本線 上野発:旧客普通列車3兄弟(上り編)東北本線 上野発:旧客普通列車3兄弟(下り編)に続き、上り列車編をまとめました。下り列車は、早朝・昼間・夕方に121レ・123レ・125レと規則的に分かり易い設定になっているのですが、上り列車は非常に厄介でした。まだ小中学生の頃でしたので、当時は時刻表を見ても全く理解できませんでしたね。今回、時刻表や他の方の記事等を見て、やっと骨子が掴めた状態です。ただ、昔の客車運用は、気動車急行の運用と同様に、東北地域内における非常に複雑な運用を伴っているため、全貌を掴むまでには至りませんので、その点はご勘弁ください。※時刻表は、交通公社時刻表 昭和50年7月号から拝借しました。まずは福島6:36発の上野行き122列車です。列車番号が下り列車と対になっているため、分かり易い列車です。この列車には何回か乗ったことがあります。編成は下り列車に準じますが、この列車には機関車次位(上野方荷物車のさらに機関車寄り)に回送車2両が連結されています。私が実際に見たものでは、スハフ32の確率が高かったように思います。この車両には客室に鍵が掛かっている時と掛かっていない時があり、中に入れれば貸切を味わうことができました。この回送車ですが、残念ながらどこから連結されているのかは知りません。おそらく、翌朝の121列車の白河回転車になるのではないかと思われます。※一番右端にある124レを覚えておいて下さい。後程出てきます。昭和52年3月21日 栗橋駅にて 122レ確か、有名な利根川橋梁に初めて写真を撮りに行った帰りに撮ったように記憶しています。日付はもしかしたら誤っているかもしれません。唯一保存されているEF577が牽引しており、機関車の次位が荷物車ではないことが判ります。その状況もこの時に初めて知りました。昼間の良い時間帯ながら、地元では本当に撮ったことのない列車でした。それにしても、宇都宮の停車が48分間も。一体何をしているんでしょうか?黒磯19:18発に2126列車というのがあります。列車番号が4ケタなので分かりづらいですが、126レで区間が黒磯発となっているため2000番台を名乗っているものと思われます。黒磯までこの列車に充当されそうな列車が見当たらず、時刻表からは推測できませんでした。東北本線の最終上り列車は大宮止まりとなっているため、同列車が上野着の最終列車となっています。おそらくはこの列車が翌日の125レになるものと思われますが、こんな時間のため実列車は見たこともありません。ここで、通常の時刻表では上りの客車列車は2本しか見えず、謎を解くことは難しいのですが、夏号にだけこの謎を解くカギがあります。宇都宮14:08発に48列車という荷物列車の番号を名乗る列車が上野行きとして設定されています。これは多客期のみに設定される快速のような客車列車ですが、実は最初の時刻表に載っている124列車からの続きになっています。つまり、普段は仙台発上野行きの列車を宇都宮~上野間の客扱い無しとして運転し、多客期のみ停車駅を設定して客扱いをしていたようなのです。なぜ荷物列車の番号としているのか?実は、青森~隅田川間に48列車という急行荷物列車が設定されているのですが、同列車が仙台から38列車と名前を変えてしまっています。走行時間帯もこの客車列車の48列車はかなりズレていますし、そもそも上野行きと隅田川行きを併結させることも不可能なことから、何故このような設定になっているのかは全く謎です。時刻表では黒ずんで分かりにくくなってしまいましたが、宇都宮で20分の停車中に、後続の黒磯発大宮行き普通列車に抜かれてしまいます。せっかくの快速運転による延長ですが、後続の列車の方が早く目的地に着いてしまいますので、どれほど意味があったのかはちょっと疑問です。昭和52年8月 EF58103牽引 48レ昭和53年10月頃? EF58牽引 48レ客車が短編成で、しかも郵便車が連結されているという滑稽な編成で、何者か良く分かりませんでしたが、本記事編集に当たってやっとその意味が判明しました。上のスハニ64と思われる車両を連結しているのは、検査等の回送を連結しているものと思われます。結局、この列車が一ノ関行き123列車の対になる列車であることが判明し、その目的が郵便輸送のためであることも明確となりました。今回の調査で、昔は知り得なかった概要を概ね掴むことができました。しかし、123列車の仙台回転車がどの列車で戻って来るのかまでは判明しなかったことだけがちょっと残念です。
2024.07.29
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東北本線 上野発:旧客普通列車3兄弟(下り編)かつての上野駅では、各方面に多くの客車列車が走っていました。115系の登場により、殆どの普通列車が電車化される中、東北本線では最後まで残った3往復の旧型客車による普通列車が残っていました。※時刻表は、交通公社時刻表 昭和50年7月号から拝借しました。1本目は、上野5:30発の121列車 郡山行きです。田舎に行く際、何回も利用した列車で、とにかく「遅い!」。途中までは追い抜かれる特急・急行が走っていないので小気味良く快走していきますが、宇都宮で機関車交換のため24分停車で、その場面から後発の特急・急行に次々と追いつかれ出します。やっと宇都宮を発車したと思ったら、次駅の岡本でまた10分停車と、とにかく進まないんです。終点の郡山まで、特急なら2時間半のところ、この列車では6時間以上も掛かってしまいます。今なら乗り継ぎ待ちがあっても4時間程度で行けてしまうのでは?この列車の特徴として、郡山方2両は途中の白河駅回転となっており、白河駅停車中の10分間の間に入換が行われます。昭和53年頃 白河駅にて ED751003 121レ残念ながら客車は写っていませんが、白河駅で入換中の121列車です。ここで先頭2両を持ったまま側線に転線し、留置後再び戻って元の121列車を牽引し郡山を目指します。なお、この回転車2両は白河13:47発の小牛田行きとしてミニ編成で出発し、仙台回転でこの日の運用が終るようです。この列車の小牛田行は白石駅から増結されるとされていました。時間が時間だけに、何度も乗った割に地元では一度も撮ったことがありませんでした。2本目は、上野11:19発の123列車 一ノ関行きです。あまりの長距離運行のため、終点の一ノ関駅には22:42着で、11時間半近くを要します。この列車の特徴は、荷物列車ではなく郵便車を連結していること。一ノ関方3両は仙台回転車になっていたということです。さらに、快速とはしていませんが、途中の宇都宮までは多くの駅を飛ばしています。おそらくですが、優等列車の多い時間帯に走っているため、ただでさえ遅い客車列車ですので、115系普通列車並みのダイヤを確保するために、利用客の少ない駅を不停車にしていたのではないかと思われます。金町のHさんからご提供いただいた写真です。不鮮明ではありますが、最後部は郵便車のようですね。時間帯と東北本線の定期列車であること、郵便車のみが連結されていることから、一ノ関行きの123列車に間違いないでしょう。この列車も地元では良い時間帯に走っているのですが、撮影した記録が見つかっていません。一度だけ乗ったような気はするのですが・・・。最後は、上野16:14発の福島行き125列車です。勤め人の帰宅には早い列車ですが、長距離を通う上野近辺の高校生は利用していたのではないでしょうか?この列車の牽引機は、上り「八甲田」で上京したカマが宇都宮に戻る仕業となっていましたので、「八甲田」にEF57が充当されると、学校が終ったら直ちに上野に向かうなんてことをしていました。それもたった1年弱でしたが・・・。上野~尾久間にて 125レ折しもEF57活躍末期の頃。冬場だと非常に厳しい時間帯でした。終着の福島が22:45ですので、旅行にはとても利用価値はありませんでしたが、EF57のデッキに乗りたいため(←良い子は真似をしてはいけません)、古河まで乗って行ったこともありました。昭和53年10月1日 EF651047牽引 125レEF57やEF58が牽引する定期客車列車として人気があった客車普通列車でしたが、時代の波には勝つことができず、昭和53年10月ダイヤ改正で一気に廃止されてしまいました。最終日のトリとなった125列車は、特急列車牽引機として人気のあったEF65PFを充当するという、心憎い演出がされました。
2024.07.25
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103系:中央総武緩行線(オレンジ色)中央線の201系化で捻出された103系が大量に中央・総武緩行線にやってきました。中央快速線は、古参101系よりも103系の方が早く撤退してしまった異例の路線です。おそらく、101系の冷改車を多数抱えていたので、非冷房車を中心に廃車するとともに、中央・総武緩行線の103系化(=冷房化)を優先させ、南武線への101系冷改車転属を目論んだためにタイムラグが生じたのでしょう。そんなことで、一時期、中央快速線の象徴であるオレンジバーミリオンの103系が大量に総武・中央緩行線に流れ込んできたのでした。昭和55年頃 総武本線 平井駅付近にて見づらいですが、オレンジの車体の前面に「中央・総武 各駅停車」と書かれております。これは、中央快速線と並行していることとあわせ、早朝・深夜は中央快速線の電車が緩行線を各駅停車で走る時間帯があるため、誤乗防止のための配慮でしょう。通常、正面ステッカーは白色のものが多いですが、このケースではさらに中央総武緩行線を主張するような黄色地ステッカーとしてあるのも特徴です。
2024.07.24
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EF651047牽引:普通列車(旧型客車)昭和53年10月2日、国鉄史でも非常に有名かつ大きなダイヤ改正がありました。「ゴーサントオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正です。それまでL特急にしか連結されなかった自由席がほぼ全ての昼行特急列車に連結され、幹線の急行列車を格上げ廃止のうえ特急列車を大増発、上下列車の号数を下り奇数・上り偶数にするなどの大変革を実施したのもこの改正です。地元東北本線では、新幹線開業前で既に特急列車は飽和状態。列車号数の整理以外には大きな動きがなかったようですが、一番の話題は電車特急のヘッドマークがイラスト化されたこと。そして、一番悲しかったのは東北本線の客車列車が消滅してしまうことでした。特に、福島の田舎へ行くときには好んで使用した客車普通列車。EF57人気からわざわざ乗るためだけに出掛けたことも数えきれません。昭和53年10月1日 EF651047牽引 125レ旧型客車の牽引と言えば、暖房装置を持ったEF57やEF58の印象しかない普通列車でしたが、改正前日の最終日・最終の客車普通列車となる夕方の福島行きは、なんとEF65PFが牽引してやってきました。地元では、EF65PFの位置付けとして、寝台特急「あけぼの」や臨時特急「つばさ51号」といった客車特急か、貨物列車の「北海ライナー」くらいしか見ることができず、臨時急行ですら牽引しているところを見たことがありません。もちろんこれらは、当時の急行列車車両の殆どが暖房を機関車に頼っていたことによるもので、例え夏場であっても旧型客車をPFが牽引することなどありませんでした。そんな中、突然現れたPF牽引の125列車でしたが、EF58の運用が数多く残っていた時代であり、ダイヤの移り変わりがあったとしてもPFを代走する必要性は全く無かったはずで、これはやはり鉄道ファン・旧客ファンへのサプライズ運用であったと思われます。当時はまだ鉄道ファンに対するサービス精神など殆ど存在しなかった時代で、一緒に見送っていた友人や沿線に集まったテツ達からも驚きの声・興奮が伝わってきました。
2024.07.13
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715系1000番台:普通列車(東北本線)国鉄時代末期、寝台特急が衰退し、余剰となって本来の使命から淘汰されてしまった一部の581系・583系ですが、地方線区の電車化という新たな役割を与えられ、近郊型715系へ改造されました。715系の0番台は九州地区、耐寒設備を装備した1000番台が東北南部~仙台地区に配置されています。583系大好き人間としては、このような改造をされてしまうことに対し嫌悪感を隠せないところですが、そんな最後の頑張りを見守るのもファンの役目と思ったこともありました。昭和60年9月10日 豊原~白坂間にて 715系4連先頭のクハ715は、元クハネ581。2扉化のうえ一部窓のサッシ化など行われていますが、原形の面影をたっぷり残しています。昭和62年6月14日 白坂~豊原間にて 715系4連こちらは、仙台方の先頭クハ714。サハネ581へ新製運転台を取り付けた改造車です。写真では判り難いかもしれませんが、改造当初の塗装はクリーム1号(横須賀線のクリーム色)と緑のラインでしたが、後に455系東北色と合わせクリーム10号(アイボリー)に変更されいます。手前から3両は旧塗装のクリーム1号ですが、最後部クハ715の1両と何故かクハ714の前面だけがアイボリーに変更されており、塗色過渡期の様子を見せ付けております。平成2年7月1日 高久~黒磯間にて 715系4連私が最後に撮った715系。こちらは全て新色に変わっています。715系については、九州地区の0番台も東北地区の1000番台も含めて、客車や気動車の普通列車を駆逐するために活用されたもので、急行列車の削減により余剰となった455系や475系の普通列車化改造が終わるとアッという間に引退となってしまいました。1度だけ奥羽本線の庭坂~福島まで実車に乗車したことがあるのですが、座席に座った雰囲気は往年の特急583系そのものでした。むしろ、少し車内が明るく感じましたね。2重窓の中に人工芝を敷き、人形を飾ってあったアイディアには感心したものです。419系(晩年):北陸本線
2024.07.08
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103系:仙石線東北地区では珍しい、直流区間となっている仙石線。かつては17m国電やモハ73系といった、首都圏で活躍していた旧型国電が走っていましたが、全国的な旧型国電の淘汰により、103系化されました。昭和55年 矢吹駅?にて 側線に留置されるウグイス103系昭和55年初頭、多分東北本線の矢吹駅だったという記憶です。逆光で見づらい写真で申し訳ありませんが・・・交流区間における103系の留置は、おそらく仙石線への異動待ちであるだろうという想像はつきました。側線には2編成が止まっており、両方ともクモハ103入りの4両編成。手前の編成は、3両目のサハだけスカイブルーとなっています。山手線ではクモハ103は使われていなかったと思いますので、おそらく、時期的にも横浜戦のATC区間乗り入れに伴う非ATC車の淘汰による押し出しと考えられます。ちなみに、仙石線で103系が使用されるようになったのは昭和54年頃からとなっているので、この時も置換え途上であったのではないかと思われます。平成15年9月19日 仙石線 下馬~多賀城間にて石巻線の貨物列車を撮影しがてら、仙石線経由で仙台に戻りました。当時、205系が導入され、103系は1編成か2編成くらいしか残っていなかったかもしれません。そんな中、あきらめかけた頃にやっと出会えたのがこの1枚です。1度は運用から撤退しながらも、2年ほどの休車期間を経て、復活したのも驚きでした。高架化工事により運用車が不足するための措置でしたが、工事終了後は余剰になり、2度目の撤退となりました。そして、それが東北地区における最後の103系となりました。『仙石線:73系アコモ改造車』
2024.06.27
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101系:中央総武緩行線総武中央緩行線と言えば、そのラインカラーはカナリアイエローが思い浮かびます。しかし、その起源は山手線であり、中央総武緩行線だけではなく、殆どの線区が茶色の73系などで占められていました。山手線のラインカラーであるカナリアイエローがあまり定着していないうちにウグイス色の103系に変わってしまい、中央総武緩行線のラインカラーとしての定着間が強いのかもしれません。以上3枚とも 昭和55年頃 錦糸町駅にてみんな同じような写真でスミマセン。複写したものではなくて、すべて違う電車です。この頃の黄色い101系は、冷房改造車が全く導入されておらず、全部が非冷房車の編成でした。ほとんどが7連+3連の10両編成です。そして、この写真を電子化するまで気が付かなかったのですが、1番目の写真の編成は、千葉方(編成の奥の方)が3連なのに対し、2番目と3番目の写真の編成は中野方(編成手前)が3連になっています。津田沼区と中野区で違ったのかもしれませんが、中央線や京浜東北線では分割編成でも組成が統一されているため、非常に違和感を覚えました。昭和56年12月頃 平井駅にて用事があって平井駅に行ったとき、急行列車の撮影のついでに撮った写真です。この頃になると、中央快速線から流れてきた103系の冷房改造車と、103系の最終新製車が入線してきており、101系の活躍の場が狭まっていました。正直なところ、私が中学生くらいまでは中央総武緩行線はすべて101系でしたので、希少な感じもしませんでしたし、写真を撮ろうという気持ちも全くありませんでした。中央快速線から101系が撤退を始めた頃、それなりに101系を意識するようになってはきて、やっと撮りに行ったという感じでした。101系の引退時期と高校時代が重なっており、モノクロ現像を自分でやっていたため、カラー写真が全然ありませんでした。
2024.06.20
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101系・103系:大阪環状線(昭和49年)平成31年、民営化から30余年が経過し、大阪環状線に残っていた元祖オレンジ色の国電もとうとう終焉を迎えてしまったようです。大阪は撮影でも馴染みがある場所に思っていますが、実は3回ほどしか行っていません。いずれもデジカメ時代ではないので、撮影は特急列車や旧型の電気機関車が中心で、普通列車など撮る余地はありませんでした。大阪で国鉄輸送の中心となる大阪環状線ですが、特に撮影してはいなかったのですが、偶然に写っていたものが2枚だけありました。撮影は、いずれも昭和49年8月、大阪駅にて101系 大阪環状線 外回り縦位置で撮影した写真から切り取りました。明るい時間における下り客車列車を撮影したものですが、画像が粗く、EF58はナンバーも判読できません。列車も何者か今となっては分かりませんが、この時間の下り列車だとすると、荷物列車の可能性が高いようです。環状2番線に停車しているのが大阪環状線外回りの101系で、当時の大阪環状線ではメインとなる形式でした。103系 大阪環状線 内回りこちらは581系特急「しおじ」を撮影したもので、ほんのちらっとですがオレンジ色の大阪環状線が写っています。数年前まで101系だとばかり思っていたのですが、読者からの指摘により、103系であることに気が付きました。当時の大阪圏の国電は、東海道緩行線がスカイブルーで103系となっており、大阪環状線や桜島線、関西本線も含めて101系ばかり。大阪環状線にわずかながら103系が配置されていたことを知ったのは、それほど前のことではありません。まさか、そんな稀少な103系の大阪環状線が自分の写真に写っているとは思いもよりませんでした。
2024.06.19
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国鉄旧型客車:高崎線 普通列車地元で鉄道写真を撮り始めた昭和48年頃~53・10改正くらいの時代、高崎線客車列車の記憶というのは殆どないのですが、時刻表によると昭和53年10月改正まで、上下2往復の客車列車が設定されていたようです。53・10以降は朝の下りと夜の上りの1往復になってしまいます。昭和50年頃 蕨~西川口 高崎線 上り普通列車 2322レ当時の記録は全くありませんので、編成と時間帯からの推測になります。EF58が牽引する客車列車で、次位からマニ37+オユ10(非冷房)と続き、10系客車ばかりが連なった編成です。今でも目玉列車が走ると賑わうことがある自転車橋。この区間の西側は線路に沿って幅2mくらいの水路があり、線路との間には柵もありませんでした。この写真では、それまでは設置されていなかった有刺鉄線の簡易な柵が設けられ、川にはドロが投げられているようです。沿線の道路に下水道が整備され、雨水の排水路としての機能が不要となったため、この後徐々に埋められていくことになります。そして埋め立てられた水路は拡幅の道路用地となり、現在の姿に変わりました。短命であった10系客車とともに、失われた過去の光景です。昭和53年頃 蕨~西川口間にて EF5886牽引 高崎線 2322レ上の写真と同じ列車のようですが、10系客車だらけだった客車は先輩の古い客車だらけになってしまいました。カマの次位にはマニ37とオユ10?が連なっており、昼間の郵便対応を行っていたようです。昭和57年8月 大宮駅 EF58175牽引 下り 2321レ大宮駅8番線に到着した高崎行きの客車普通列車。早朝に設定されていた下り普通列車で、115系化直前は12系に置き換えられてしまったようです。この列車、早朝に上野駅を発車しますが、次々と名前を変え、最終的にはその日のうちに信越本線経由で新潟駅まで到達していました。最後まで客車列車で残っていたのは、信越本線系統の郵便輸送を担っていたためと思われます。昭和53年10月以降は1往復だけ残っていた高崎線の客車列車ですが、上越新幹線大宮暫定開業の昭和57年11月改正で115系化されてしまいました。
2024.06.14
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211系:総武本線・成田線211系は、国鉄時代の昭和60年に誕生した近郊型電車です。それまで試験的なものを除いては鋼製車一色であった国鉄で、205系とともに本格的に導入を始めた、ステンレス時代のはしりとも言える立役者です。導入は、東海道本線(0番台及び2000番台)と東北・高崎線(1000番台及び3000番台)でしたが、平成19年3月、113系置き換え用として高崎地区の211系を房総地区に転用することになりました。転用にあたっては大幅な改造はされず、半自動ドアも生かされており、一部のクモハは2パンタ化されています。増設されたパンタグラフは201系の発生品が使用され、ひし形パンタとガチャパンになっていました。ちなみに、房総地区へ転用された211系は、既にLED化されていた前頭行き先表示を幕式に復元して使用されました。平成21年1月3日 成田線 佐倉駅にて クモハ211-3046平成21年1月3日 佐倉~物井間にて平成20年5月3日 総武本線 千葉駅にて 501編成平成20年5月3日 総武本線 物井~佐倉間にて積極的に撮りたい車両とは思っていなかったので、見たり乗ったりした割にはこんなもんしか撮っていませんでした。まだ転用が始まって間もない頃で、113系の運用が多かったこともあります。転用から間もなくして、京浜東北線の209系がE233系に置き換えとなり、あっさり廃車になるかと思われた209系が次々と房総地区へ転用され、まだ5年そこそこしか使用されていない211系は、また新たな活躍先へ旅立っていくことになりました。
2024.06.03
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201系:中央総武緩行線昭和50年代、首都圏では珍しく殆どの優等列車にヘッドマークが取り付けられる路線として、小学生高学年時代から良く撮影に行っていた総武線。国鉄退職後にも通勤で利用するなど縁があった路線にもかかわらず、当たり前の光景を記録することは殆どありませんでした。特に通勤車に関してはほぼ記録がありません。平成10年頃 新小岩~小岩間にて 201系 総武中央緩行線新小岩には昭和62年から4年間と、平成7年から3年間の2回通ったことがあり、後の3年間は新小岩操車場の至近で、新小岩車両センターの真ん前でした。転勤した直後から新小岩車両センターで検修を行っている貨車や、遠くで入換を行っている貨物列車を眺めながら仕事をしていましたが、ある時から急に貨車が消え始め、あっと言う間に線路が剥がされていく様子を目の当たりにしました。そして、その最終期に撮影したのがこの写真で、この直後には芝の植え付けなど、グランド化されて行きました。新小岩へ通っている時代は、103系の最終増備車に加え、201系や205系と言った通勤車が運用されていましたが、この頃は都心で駅撮りをするようなことも殆どなくなってしまったため、特にこの総武線では記録が全く残っていませんでした。その中で、偶然にも201系にシャッターを切ったものがこの1枚だけ残っていたのです。この平成初期には、都心のJR線や私鉄の写真を全くと言って良い程写真を撮らなかったため、この201系やレアな存在の205系の活躍する姿を残せなかったことが非常に悔やまれます。
2024.05.30
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キハ58系:紀勢本線 普通列車キハ82系の定期特急列車が最後となった頃、特急「南紀」を撮影するために紀勢本線に出掛けたことがあります。平成になって間もない頃でもあり、JR車はまだ無く、殆どが国鉄から引き継がれた車両でした。特急列車の撮影の合間に撮影した普通列車の写真が2枚ほどありました。列車本数の少ない過疎路線ですので、これでも精一杯の撮影だったと記憶してます。平成2年7月24日 撮影場所不詳平成2年7月25日 撮影場所不詳クルマで行った行き当りばったりの写真なので、撮影区間を記憶していません。もしかしたら、1枚目の写真は伊勢鉄道線内かもしれません。紀勢東線区間は勾配の激しい区間が存在するためか、普通列車であってもキハ58の2エンジン車が使用されていたようです。ただし、最少2両編成になってしまう上でさらに冷房車が運用されていたためか、写真の様にキハ58+キハ28の編成をしようしていたようです。当時は、キハ40系以外は車齢の高い気動車が多かったこともあり、急行列車の廃止に伴って余剰となっていたキハ58が普通列車が全国で見られました。そういった意味では何の面白みもない絵面な訳ですが、時が過ぎてキハ58系オリジナル車は絶滅してしまいましたので、JR化過渡期の時代を映す写真となってしまいました。
2024.05.26
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209系3000番台:川越線・八高線平成31年3月、川越車両センターで最後まで残っていた209系3000番台ハエ64編成が運用から外れたそうです。平成8年3月16日に電化開業した八高線への乗り入れに際し、不足する電車運用に対応するため209系4連が4編成増備されました。基本性能は京浜東北線用0番代と同一ですが、ドアの半自動対応など仕様が異なるため、それまでの所属車と同じ3000番代が与えられました。川越線や八高線はあまり乗ったことが無いため、特に電化されてからの写真と言うのはあまり撮ったことがなく、ほんの少しだけ撮った写真でまとめにしたいと思います。平成20年9月6日 八王子駅にて ハエ64編成今回引退となったハエ64編成。臨時特急などの撮影で遠征した際にたまたま八王子駅で撮影したもの。このときがハエ209系初めての撮影でした。平成23年11月22日 川越車両センターにて ハエ63編成「川越車両センターまつり」で展示されたハエ63編成。行先は「箱根ヶ崎」。平成23年11月22日 川越車両センターにて ハエ63編成こちらも同じ日ですが、時間が変わって「立川」になっています。八高南線の電化当初は、103系や209系が拝島から青梅線へ乗り入れを行っていたのですが、いつの間にか無くなってしまったようです。短区間とはいえ4両編成は厳しかったのでしょうかね。そう言えば201系の4両編成も八高線高麗川まで乗り入れしていたような。平成30年8月26日 川越駅にて ハエ61編成209系3000番台の撤退が始まったため、防災体験の帰り道に大きく逸れて川越駅へ。30分に1本の過疎ダイヤで、3500番台が連続できたために心が折れかけたのですが、3本目に3000番台が入った運用があることを知り、やっと1本だけ撮影ができました。到着の「川越」と折り返しの「八王子」を撮れると思っていたのですが、既に折り返しに設定に。距離的には遠くない路線ですが、あまり訪れる機会もなく、現場でもたまには八王子辺りまで行くことはあるのですが、なかなか捉える機会の少ない車両でした。『205系3000番台:川越線・八高線』『八高線:キハ35系・20系』『キハ38:八高線』
2024.05.16
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キハ56系 キハ27:函館本線 普通列車北海道の急行と言えばキハ56系。キハ58系に先駆けて、北海道用に導入された2重窓を持つ急行形車両です。ローカルシーンではキハ22も急行列車として使用されていましたが、本線系の基本はキハ56系で結構な長さの編成で走っていました。そんな急行形のキハ56系も、急行列車の運用が縮小するにつれ、本線系の普通列車で運用されるシーンが多く見られました。昭和58年9月7日 大沼公園~赤井川間にて キハ27ほか4連函館運転所の気動車は北海道特有の正面ナンバーが無く、区別が付き難いのがイタイです。急行列車が次々と廃止になると、行き場を無くしたキハ56系は普通列車に使用されるようになります。元々キハ22もデッキ付きの2ドアクロスシート車ですから、グレード的にはあまり気にならなかったですね。車内の静粛さやキレイさは格段に違いますけど。この頃になるとキハ22もキハ40系の導入により廃車が加速し、キハ56系のローカル転用と地方交通線の廃止で急激に世代交代が進んだようでした。キハ27+キハ40:快速「マリンライナー」
2024.05.08
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113系:総武本線・成田線(晩年)昭和49年から房総各線で活躍を始めた113系電車。借入れを除けば、全てがスカ色で運用されていました。気動車からの置き換えや73形旧型国電等を駆逐した新性能近郊型電車も、銀色の211系や元京浜東北線209系に後進を譲り、2011年(平成23年)に引退となりました。総武快速線には地下線用難燃・ATC車である1000番台が使用されましたが、津田沼以遠のローカル運用には113系初期車が使用されていました。それら初期車も老朽化が進み、1000番台の転用を受けさらには冷房化、快速線への217系導入後は1500番台が転入するなどの世代更新がされてきましたが、時代の要請によりJR東日本管内から113系は姿を消すことになりました。房総各線における晩年の活躍はあまり記録する機会がありませんでしたが、総武本線物井~佐倉間に訪問する機会が度ほどあったため、辛うじて晩年を記録することが出来ました。1531M 鹿島神宮行き以上、平成21年1月3日撮影。1369M371M以上、平成20年5月3日撮影。平成18年7月30日 千葉駅にてこれのみ、おそらくポケモンスタンプラリーの際に撮った写真。過去未整理だったものです。晩年だったためか、意外に1000番台が少なく、1500番台や東海道本線から流れてきたと思われる車両ばかりでした。113系初期車(幕張区):房総地区普通列車
2024.05.07
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113系初期車(幕張区):房総地区普通列車首都圏東部南部平坦地域で一世を風靡した113系電車。房総地区で活躍した113系はスカ色が使用されていました。首都圏の旧型国電を置き換えるために111系が導入されたのは昭和37年でした。湘南電車(東海道本線)の導入に始まり、その後横須賀線にも導入。当初は湘南色であった横須賀線も、旧型国電時代のカラーであるスカ色に改められています。111系の出力を増強した113系が登場し、首都圏及び関西の平坦路線を中心とした路線に配置され、冷房改造車も誕生しています。冷房改造が遅れた首都圏の113系初期車は、房総地区の電化用及び73系の置き換え用として幕張電車区(当初は津田沼電車区?)に配置されました。今回は、房総地区で活躍していた113系初期車の写真を並べてみます。昭和55年頃 総武本線???駅にてこれは多分大回り乗車をしている時に撮った写真で、総武本線の成東駅辺りではないかと思われます。木造の駅事務室でしょうかね、古き良き雰囲気を醸し出しています。古いタイプの屋根付き跨線橋も懐かしいですね。昭和55年5月 内房線 五井~姉ヶ崎間にてこちらもデカ目です。ピンが甘いのかブレているのか、方向幕はハッキリ写っていません。113系の編成は全て幕張区に集中配置されており、4連か6連が在籍していました。この列車は4連のようですね。昭和55年 品川駅にて品川駅での駅撮りを楽しんでいると、意外な出会いというのが良くあります。こちらは房総地区以外で唯一出会ったスカ色のデカ目です。大井工場の入出場でしょうかね。昭和55年5月 千葉駅にて千葉駅における並び写真。右側の列車は列車番号からすると外房線の普通列車で、編成は113系1000番台となっています。この頃既に品川開業となっており、横須賀線との乗り入れも間近でしたから、1000番台の冷房準備車の抜き取りや組替がおこなわれ、4連・6連の普通列車運用にも使われるようになったのではないでしょうか。上の写真の左側の列車が発車していった場面のようです。内房線の列車ですが、列車番号が臨時列車のものになっています。シールドビームになっていますが、客窓がサッシ化されていないので、デカ目をシールド化した0番台の後期車(113系用クハ)ではないかと思われます。千葉以遠の普通列車には珍しく、6連に増結され10連になっているようです。横須賀線にE217系が配置され始めると、余剰となった1000番台冷房車がローカル運用に転用されることになり、初期車は転用されることもなく、たちまち姿を消していくことになります。
2024.04.24
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419系(晩年):北陸本線国鉄時代末期、寝台特急が衰退し、余剰となって本来の使命から淘汰されてしまった一部の581系・583系ですが、地方線区の電車化という新たな役割を与えられ、近郊型715系へ改造されました。715系の0番台は九州地区、耐寒設備を装備した715系1000番台が東北南部~仙台地区に配置されています。昭和59年のことでした。さらに翌年、フリークエンシーに耐えられない北陸本線においても同様の改造による導入が行われましたが、運用区間中に交直セクションを擁していたため、715系のような交流専用とはせず、交直流の設備をそのまま生かし419系が誕生しました。※撮影は、すべて平成20年4月22日です。クモハ419-12 増設改造された運転台側715系では先頭車が全てクハで構成されていましたが、3両編成の419系ではモハネに運転台を取り付けたクモハ419が存在しました。モーター音が運転席付近のダクトからか大音響で車内に洩れるため、静かな都心の電車になれた身には堪えます。クモハ419-12 車内の様子 寝台セットが残る座席側改造を最小限に抑えたため、特に車内中央部に寝台車時代の面影を色濃く残しています。クモハ419-12 無理矢理改造された開閉式の客窓普通列車への転用改造に際し、空調故障時における対策として窓が開閉式に改造されています。武生駅にて 236M クモハ419-12中間車を改造したクモハ419は、ドアがオリジナルのまま車端に寄っています。ドアの無かったトイレ側は、運転台と増設ドアがそのままブロックごと取り替えられました。武生駅にて 419系同士の並び 236M+231M今庄駅にて 316M初乗車の419系とはここでお別れ。今庄駅にて 235Mクハ419を狙っていたのですが、サハネ581改造のクハ418でした。419系では、元クハネ581改造のクハ419の方が少数派です。福井駅にて 上り352M(福井駅止まり)クハ418-9 ナンバーどこでどの時点で撮ったのか不明。記憶も無し。福井駅にて 419系 到着352M と 475系 上り240M(福井駅始発)の並び金沢駅にて今回の撮影では、何故か元クハネ581のクハ419が撮れなくて、陽のあるうちはこれが最後のチャンスだったのですが、またもやクハ418でした。あまり撮影するチャンスの無かった北陸の419系。残念ながら、最後まで元クハネ581改造のクハ419を記録に残すことが出来ませんでした。715系が改造当初の予定どおり短期間の活躍であったのに対し、交直流電車の製造費が高い419系においては想像以上に長く活躍することができました。結果として、本来の役目である寝台特急としての活躍期間よりも、永く普通電車として活躍できたのも皮肉なものかもしれません。平成23年3月12日の運転を以って、これら寝台特急からの改造車は全て運用から姿を消しました。
2024.04.17
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205系3000番台:川越線・八高線平成14年から16年に掛けて、老朽化した川越線・八高線用103系を置き換えるために改造により導入された205系3000番台。4両編成×5編成が川越車両センターに配置されました。いずれの編成も山手線のE231系500番台化により余剰となった205系を改造したもので、中間サハに運転台を取り付けた先頭化改造車のみ。半自動ドア化されています。改造から約15年が経過しましたが、やはり山手線のE235系化に伴う玉突きにより発生した余剰209系やE231系からの改造車により車両を一新することになり、平成30年7月中旬、最後まで稼働していたハエ83編成の運用離脱により、川越車両センターからすべての205系が撤退となりました。※本記事は、2018-07-25に投稿したもので、当時の表現になっています。※撮影は、平成23年10月22日、川越車両センター公開にて。箱根ヶ崎行き南古谷行き快速いずれも川越車両センター公開の際に撮影したものです。ハエ85編成で、平成30年5月頃に廃車されています。現場仕事の時に八王子や拝島で八高線を目撃する機会はありましたが、本数が少ないために写真に捉えることは殆どなく、205系3000番台もこの時に撮影したものが唯一となってしまいました。今回のハエ83編成の廃車により、川越車両センターに大量に配置されていた205系は全て消滅し、同時に3000番台は番台消滅となってしまいました。『八高線:キハ35系・20系』『キハ38:八高線』
2024.04.14
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103系(スカイブルー):青梅線前記事で青梅線の103系をご紹介いたしましたが、ここに1枚だけレアな写真があります。青梅線では、73系やクモハ40形による運転が行われていたようで、既に101系で統一されていた中央快速線とは別体の運用になっていました。このうち、青梅直通の快速のみ101系が使用されていました。首都圏における新性能化の過程の中で、昭和51年頃から103系の転入が行われ始めたそうで、これには京浜東北線のATC化準備で余剰となるスカイブルーのクモハを含む4両編成が続々と導入されたみたいでした。中央快速線でさえ103系が導入されていない時代でした。昭和53年2月19日 青梅駅にて スカイブルーの青梅線この時代は記念切符を積極的に収集しており、近場で発売されると分かったときは、わざわざ買いに行きました。この日は青梅マラソンの開催を記念した入場券が発売されることを知り、これを買いに行って初めて青梅線を訪れた訳ですが、乗る電車・留置されている電車の殆どがスカイブルー一色であることに大変驚きました。まだ中学生でしたので、京浜東北線・山手線のATC化などという高度な知識は持ち合わせておらず、何故このような事態になっているのか訳が分からなかったのですが、高校生になって色々な情報がアタマに入るようになり、やっとこの時の状況が理解できるようになりました。くやしいのは、この写真を撮ったときには72系が運用が残っていたようで、この翌月にさよなら運転があったということ。今となっては何の興味もないマラソンの記念切符などどうでも良く、旧型国電の記録を漏らしてしまったことに悔いが残ります。
2024.04.11
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103系:青梅線青梅線では、昭和53年の旧型国電さよなら運転まで、73系やクモハ40が走っていたそうです。その頃はまだ南武線や横浜線でさえ73系が活躍していた頃ですので、旧型国電にはまだ興味を示していない時代。新性能化が比較的に早かったため、興味を持ちだした頃には旧型国電は既に無くなっていました。その当時の運用体系は全然知らなかったのですが、青梅線内は旧型国電が基本で、東京からの直通に101系が使用されていた程度だったようです。旧型国電淘汰の際、101系を飛び越えて103系が転入してきたことにより、むしろ中央快速線よりも早く103系化が完了しています。昭和56年10月20日 青梅線 場所不明何処の駅で撮ったのか忘れてしまいましたが、ED16を撮影に行った時のものです。この頃は中央快速線も含めて103系が使用されていました。もちろん、ラインカラーはオレンジバーミリオンに変更されています。もっと沢山撮っていても良さそうなのですが、ED16牽引貨物列車の存在に押され、この1枚しか撮っていなかったようです。昭和61年3月17日 軍畑この頃既にED16は引退しておりました。どこかに撮影に行く途中に何故か青梅線に立ち寄った時のものです。貨物はEF640番台か1000番台が牽いていました。他の列車も大した成果が残っていないので、何故に立ち寄ったのか全く記憶がありません。何度か撮影に行ったことのある青梅線ですが、行った時に辛うじて1枚づつ103系の写真を撮っています。それだけメジャー過ぎて撮影の対象にはなっていなかったということでしょう。ED16が無くなり、さらには貨物列車が廃止になってしまったことも相俟って、冷房化後の103系ですら1枚も撮っていません。結婚するとき、仲人さんが河辺に住んでいて青梅線沿線へはかなりの頻度で通っていましたが、クルマでしか行ったことが無かったので、まったく触ることのない路線になってしまいました。
2024.04.10
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209系500番台:中央総武緩行線山手線からのE231系500番台の転入により置き換えが進んでいる中央総武緩行線ですが、このうち209系500番台が平成31年4月19日の運用をもってすべて運用から外れたそうです。国鉄を退職してからは、今の仕事で9年間ほど新小岩駅まで通勤したことがありましたが、101系が撤退して以降、総武緩行線の写真は殆ど撮ったことがありませんでした。103系、201系、205系の写真を撮り逃したこともあって、デジカメ導入後からは機会があればできるだけ記録するように気を付けていました。平成19年4月1日 市ヶ谷~飯田橋間にて平成19年7月30日 船橋駅にて 513編成ポケモンスタンプラリーの引率の際、船橋駅で突然の雷雨。あまりにも酷い状況だったので、雨の様子を記録するために撮った写真。たまたま209系でした。平成22年2月2日 新宿駅にて 507編成平成22年2月2日 新宿駅にて 511編成首都圏に大雪が降った朝、通勤ダイヤの乱れを予測して家を早く出ましたが、意外と遅れはなく早く着き過ぎたので、サザンテラスから通勤電車の様子を記録。「おはようライナー」の185系湘南ブロック塗装も懐かしい。平成22年3月6日 両国駅にて番号が不鮮明で判りません。新聞輸送列車の最終日。並び写真を狙って撮ったものですが、これも偶然に209系でした。平成22年4月4日 水道橋駅にて 516編成現場の仕事があって新宿に戻る際、サクラがきれいだったのでホームから記録。これも偶然に209系でした。平成22年7月1日 阿佐ヶ谷駅にて 506編成これも現場回りの途中で。この時は東西線の編成を中心に撮影していました。平成22年7月17日 東船橋駅にて クハ209-501臨時快速「白い砂」を撮影に行った際、見事にブロックしてくれた犯人。それはトップナンバー編成でした。平成30年1月10日 秋葉原駅にて 516編成最後に撮ったのは、買い物で下車した秋葉原駅。夜で条件は悪いですが、6ドア車の絶滅を危惧して撮影に臨みました。既に少数派になってしまった209系は、夕方のラッシュ帯でも全然来てくれず、かなりの時間を粘ってやっと1枚だけ撮ることができました。実は平成22年から30年の間も、何度となく中央総武緩行線の撮影ができる機会があったのですが、とにかく209系の遭遇率が悪かったようです。そんなこともあって、E231系に比べて大幅に少ないコマ数で終わってしまいました。
2024.04.09
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キハ40系:函館本線 普通列車(その2)令和2年3月のダイヤ改正において、函館本線の山線区間(長万部~小樽間)に新型電気式気動車H100形を投入することになり、キハ40系が撤退しました。今回は、同区間で撮影したキハ40系の写真をご紹介したいと思います。昭和63年6月28日 小沢~俱知安間にて キハ40178ほか2連 上り普通列車C623牽引「SLニセコ」を撮影するために訪れた山線。数少ない列車本数の中で、構図確認のために利用できる数少ない普通列車でした。なかなか顔を出さない羊蹄山で、数回の訪問の中でやっと撮れた日でした。平成元年7月 撮影区間不詳 キハ40222 単行普通列車この写真も俱知安~小樽間の普通列車ですが、平成になると単行列車も運転されるようになりました。ゾロ目が嬉しい同車ですが、コンパクトカメラ(AD-1)で撮影したためブレてしまいました。平成5年10月10日 銀山~小沢間にて キハ40249ほか2連結婚してから初めて訪問した北海道。やはりC623牽引「SLニセコ」を撮影するために訪れた山線。国鉄時代のタラコ塗装は消滅し、キレイな北海道色に姿を変えましたが、北海道の普通列車の主力であることには変わりありませんでした。この写真を最後に、北海道への訪問は途切れてしまいました。キハ40系:函館本線 普通列車(その1)
2024.03.29
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キハ10系・20系:国鉄 高千穂線高千穂線は、日豊本線延岡駅から内陸に向かって高千穂峡のある高千穂駅までを結んでいたローカル線です。開業当初は「日之影線」と呼ばれており、高千穂駅までの延伸開業時に「高千穂線」と改称されています。地図をご覧いただくとお判りいただけると思いますが、最終的には熊本側から来る高森線と接合し、延岡~立野(豊肥本線)を直通する計画でした。私は、高千穂から高森までバスで抜けたことがあるのですが、阿蘇の外輪山でしょうか、非常に勾配のきつい道路を「いろは坂」の如く延々カーブを続けながら相当な時間を掛けて降りていった記憶があります。このような人も住んでいないような地形のところに鉄道を通しても、経営の負担になることは目に見えています。要は無理のある計画であったということですね。昭和54年3月25日 キハ20系2連との交換風景どこの駅かは覚えていませんが、途中駅で交換がありました。赤字ローカル線ではありますが、結構乗客は乗っていましたね。この頃「首都圏色」は未だ居なかった時代で、気動車はすべて標準色でした。写真はキハ20の2連ですが、初期車のバス窓車と後期の2段窓車で組成されており、非常に興味深い写真だと思います。昭和54年3月25日 3両編成の普通列車私が延岡~高千穂間で乗車した3両編成の列車で、キハ11+キハ20+キハ11でした。キハ10系に乗ったのは初めてで、通路側に肘掛けが無かったのには驚きました。寝ていてコケたら通路に転がってしまいます。でも、戦前の電車や客車でも肘掛けがなかった車両って意外と多いんですね。標準色ばかりで大変好感が持てる時代でした。折角キハ10系や20系がゴロゴロ走っているのに、興味が特急列車に行ってしまっていて、ちゃんとした写真は撮っていませんでした。キハ10なんて他には写真を持っていませんから、自分的に非常に貴重な1コマなんです。平成元年に第3セクター化され、高千穂鉄道としてなんとか存続してきた「高千穂線」ではありましたが、不幸にも平成14年の台風により鉄橋が流失、そして全面運休となり、復旧に必要な莫大な経費を考慮した結果、残念ながら廃止となってしまいました。
2024.03.25
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475系・457系:北陸本線 普通列車北陸本線の普通列車ですが、昭和60年度まではEF70形牽引による旧型客車で運転されていました。昭和60年3月ダイヤ改正において、旧型客車の老朽化及び都市型ダイヤ実施に伴い、特急格上げで余剰になった急行型車両である475系(457系を含む)や581系・583系改造の419系に置き換えられました。平成25年3月14日、北陸新幹線金沢開業に伴う在来線の3セク化により北陸本線の輸送体系も大きく変貌することとなり、ここに475系が承継されないことになりました。北陸本線で普通列車として長きに亘って活躍してきた475系電車は、導入時の赤電塗装から2代目となる塗装のままここに終焉を迎えることになります。その活躍は、本来の目的である急行列車としての活躍期間の2倍にも及びました。平成20年4月22日 今庄駅にて 318Mちょっと遠目で不鮮明なのですが、クハ455-61+モハ456-19+クモハ457-19の編成のようです。クモハ457は、交直流型急行電車の最終版で、広域移動を考慮して50Hz・60Hz共用の万能車として製造された車両です。新製時からの冷房車で、AU13×5搭載、モハ456のパンタ部にルーバーが無いのが特徴です。平成20年4月22日 南今庄駅にて クモハ475-50ほか6連 239M前編成は、クハ455-63+モハ474-50+クモハ475-50の編成のようです。こちらは竣工時に非冷房で製作されており、後に冷房車に改造されています。クーラーはAU12を6個搭載しています。比較的に早いうちに改造された車両のようです。後編成は残念ながら番号が読めません。もしかしたら、前述のクハ455-61を併結している可能性もあります。平成20年4月22日 いずれも金沢駅にて クモハ475-46ほか復刻塗装されていたクモハ475-46+ モハ474-46+クハ455-60の編成です。いやしくも金沢に着いた朝と、撮影を終えて金沢に帰って来た時に偶然に遭遇しました。サハ455-4この日の早朝に撮影したコマのようです。この当時は485系「雷鳥」や419系がメインであったため、457系はそれほど真剣に撮っていなかったようです。それでも、サハ455は東北線系からは早々に撤退してしまったため、常磐線で見た記憶があるくらい。多くが先頭車改造されてしまったこともあり、最後まで残ったサハは非常に貴重な存在でした。北陸には4度撮影に行ったことがありますが、475系の普通列車に遭遇できたのは平成20年4月22日に訪問した時だけであり、写真もこれだけしか残っていません。この時は419系も運用されていたため、普通列車の本数の少なさも相まって、走行写真を撮ることができませんでした。平成27年3月、北陸新幹線開業により最後の急行型として現役を貫いていた475系・457系が引退することとなりました。言い方を変えれば、今まで良くもっていたな、と思います。旧型国電でさえ50年程度活躍したものが最長ですから、先に製造された471系ともなれば正に旧型国電に匹敵する長寿でした。以下、金沢開業の直前に「トワイライトエクスプレス」などを撮影に行った時のものです。平成27年1月24日 津幡駅にて 475系 524M貨物列車を待っていたら、偶然にもデカ目の475系がやってきました。この回の撮影で2ドア車の走行写真を撮れたのはこれのみでした。平成27年1月24日 金沢総合車両所富山支所にて 457系他 6連この回の撮影では、この富山や金沢で複数の475系等を目撃し、パンタが上がって動きだそうな状態も見ましたが、運が悪いというか、走行しているシーンは本当に当たりませんでした。写真は帰路の特急「はくたか」の車内から撮影したもので、これが最後のお別れになった写真です。田舎が東北ということもあり、455系とともに育ったとも言える私。ヘッドマークの無い地味な存在でしたが、カラーリングとドアステップが長距離優等列車のイメージを彷彿させ、とても好きな車両でした。
2024.03.21
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205系1100番台:鶴見線(扇町へ)鶴見線205系1100番台撮影記の最終回で、終着の扇町駅へと向かいます。鶴見線には過去に3回か4回は来ていると思いますが、いずれも浜川崎駅で南武線浜川崎支線へと向かってしまっているため、扇町も今回が初踏破区間となります。※撮影は、令和5年11月11日です。浜川崎駅にて 扇町行 T11編成大川駅から徒歩で浜川崎駅へ。ちょうど扇町行の時間となりました。こちらのホームに来たのは21年振りですかね。こんなにホーム狭かったっけ?クモハ204-1101やってきたのは大川支線で乗った編成と同じT11でした。山手線のモハユニットのうちモハ204側に運転台を取り付けたもの。205系でも比較的に初期の車両となっています。扇町駅にて初下車となった扇町駅。記念写真を撮っていたらちょうど良いところに猫ちゃんが居たのですが、トイレに駆け込んで出てくると、もういなくなってました。残念。もう何枚か撮ろうと思っていたら、直ぐに発車。今回の撮影で一番せわしなかった。クハ205-1101帰りはクハに乗車。クハは元埼京線の車両で後期のため、ドア窓が大きいタイプです。浜川崎駅にてわずか数分で浜川崎駅に到着。時間調整が入ります。先に到着した浜川崎支線から客が何人も乗って行きました。最後にホームを離れるT11編成を撮って終了。この時点でもまだ9時ちょい過ぎ。せっかくここまで来て帰路に着くには早過ぎですね。鶴見駅に着いてから2時間弱ですが、久し振りに何だかスゴク楽しめました。普段はしない乗り鉄もできましたし。205系1100番台:鶴見線(鶴見駅)205系1100番台:鶴見線(大川支線)103系:鶴見線旧型国電 73系:鶴見線JR東日本 鶴見駅:鶴見線乗換口発行 区間変更券
2024.03.18
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DE1039+60系客車:日中線国鉄日中線は、磐越西線喜多方駅から分岐するローカル線で、朝、午後、夕方に各1往復の計3往復のみ設定されていた超赤字ローカル線として有名でした。おそらく政治的背景から線路が敷かれたのでしょうが、私が1往復乗った時も殆どが鉄道ファンであり、地元で乗降する人は全くと言って良いほどいませんでした。折りしも春休みの期間でしたので、高校がお休み。普段は高校生くらいしか利用者が居ないのでしょう。3往復とも客車列車による運行で、無煙化後はDE10型がその任に当たっていました。上野からの夜行急行「ばんだい」に接続し、始発列車は会津若松から直通で終点熱塩まで運転されます。私もこのセオリーに則り、季節列車の夜行「ばんだい」で日中線を目指しました。※撮影は、全て昭和57年3月21日 日中線 熱塩駅にて。編成は、DE1039+オハフ613034+オハ612926で機関車込みの3両編成です。客車は2両ですが緩急車は1両しか連結されておらず、後部標識灯が1個付けられる純然たるローカル線を醸し出しています。しかし、この日中線はたったこれだけの運転本数、両数なのになぜ気動車化されなかったのが不思議です。磐越西線は圧倒的に客車列車が多かったのは事実ですが、気動車列車もそれなりの本数があったので、乗務員が手配できないわけでも無い筈です。このあたりは組合との確執があったのではないかなどと想像してしまいます。写真をご覧いただけるとお分かりと思いますが、確かこの日中線はこの山を越えなくては山形方面へ抜けられません。殆ど乗客が望めないような状況の中で、どれだけ資金をつぎ込むことになるのか、結果は考えるまでも無く「無駄」であることは誰にでも想像できましょう。無くなるべくしてなくなってしまった日中線。無くすべきではないという意見も多々あると思いますが、作るべきではなかった路線が全国にどれだけあったことでしょうか。無くしてしまうことを罪に感じることもありますが、作ることが罪になったケースはこの日中線だけではない筈です。送料無料◆A3672 マイクロエース キロ59系 リゾートサルーンフェスタ 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】A3672 キロ59系 リゾートサルーン・フェスタ 3両セット[マイクロエース]【送料無料】《08月予約》ほんと、色んなもん出しますんね。しかも髙っ!
2024.02.29
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国鉄 キハ22:美幸線美幸線は、1964年(昭和39年)10月5日に開業した国鉄線で、宗谷本線美深駅からオホーツク海に向けて東進、沿岸から興浜北線北見枝幸駅へ接続する計画でしたが、工事半ばに国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、その計画は頓挫することになります。1日3往復のみの設定で、朝、午後、夕方に各1往復する、北海道では良く見られたローカル線の典型的なパターンです。高校生の通学を見込んだ設定ですね。もちろん、単行のみです。※撮影は、昭和56年3月14日です。美深駅にて美深駅にて出発を待つ、美幸線の始発列車。美幸線はたったの4区間のみが暫定的に開業になっていましたが、距離的には21.2kmもあります。これは、最後の1区間である辺渓~仁宇布間が15kmもあり、それだけ人が住んでいない場所を走っていることを示しますね。山手線でしたら、この駅間に15~20駅くらい出来てしまいます。サボ写真は美幸線のサボですが、良く見ると下地から「北見行」の文字が凹んで見えます。1列車分の左右2枚あれば良いので、新調するまでもなかったということでしょうか?それとも、盗難にでも遭ってしまったんでしょうかね?仁宇布(にうぷ)駅にて私は同行した友人と一緒に乗りましたが、確か乗車は8人くらいだったような記憶があります。終点では10分もしないで折り返しとなりますので、その間に入場券を購入したり、できるだけ美幸線と判るように写真を撮るなど、かなり慌しい時間で終ってしまったように思います。バックには鉄道とは比較にもならないほど立派な道路橋が写っていますね。この頃から自動車免許の若者総取得時代みたいな感じになってきたように記憶しています。1両編成のホームには駅名板が1つのみ。この角度からだと「こうふ」にも見えちゃいますね。乗っていた8人の乗客のうち、7人は折り返しの列車に乗っていました。下りに乗ってきた女性1人だけが、雪に閉ざされた町中へと消えていった姿が印象に残っています。同線は、深名線や白糠線、添田線とともに、日本の最たる赤字ローカル線として毎年話題になっていました。これを逆手にとって乗客誘致なども行っていたようですが、それでもこの路線に乗客が殺到することなど考えられる筈も無く、お金を落とすべき乗客が「ワイド周遊券」で当たり前のようにタダ乗りしてしまう訳ですから、収入が上がる筈もありません。何度も日本一に輝いた赤字ローカル線は、当然のごとく廃止の対象となり、1985年(昭和60年)9月16日をもってその短い歴史にピリオドを打っています。
2024.02.27
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E233系京浜東北線:根岸線 全通50周年記念ヘッドマーク令和5年、根岸線が全通50周年を迎えたということで、記念ヘッドマークを掲載した編成が運転されました。根岸線 全通50周年記念ヘッドマーク 掲出元々、現桜木町駅が日本最初の鉄道区間であり、当初の横浜駅だったそうです。東海道本線が現横浜駅から直進して西へ目指すと共に、桜木町を経由する線路は海へと向かって延伸され、昭和39年に磯子へ、昭和45年に洋光台へ到達します。私が初めて鉄道に興味を持ち、日本地図から駅名を覚えるようになった頃は、まだ西の終点が洋光台でした。この頃はまだ小学2年くらいでしたから、写真で記録する考えなど全くありませんでした。そして、昭和48年に大船へと到達し、それ以来50年にわたってほぼ変わらない運転形態が続いています。小学生のある日、突然に京浜東北線の行き先が「大船」に変わってしまった時は、何のことかさっぱり意味が分かりませんでした。令和5年7月28日EF641053牽引:団体列車「上野駅・高崎線開業140周年記念号」 の撮影の際、偶然に通りかかったヘッドマーク付きを撮ることができなかったので、40分程の時間ロスを覚悟で折り返しを待ちました。こうしたネタモノはいずれと思っているといつの間にか終ってしまうことが多いのです。令和5年9月22日もう撮ることはないかと思っていたのですが、また撮ることができました。その後ももしかしたらと記録したまま放置してしまったのですが、取り付けは10月末だったそうで、全然気が付きませんでした。こうした記念ヘッドマークは積極的には捕獲していませんが、さすがに地元ネタでもあり、洋光台時代の思い入れもあったため、記録とともに小学生時代を思い出す良いきっかけとなりました。送料無料◆A3672 マイクロエース キロ59系 リゾートサルーンフェスタ 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】A3672 キロ59系 リゾートサルーン・フェスタ 3両セット[マイクロエース]【送料無料】《08月予約》JR西日本キロ59系 リゾートサルーン・フェスタ 3両セット A3672 Nゲージ【予約】[鉄道模型]マイクロエース (Nゲージ) A3672 キロ59系 リゾートサルーン・フェスタ 3両セット
2024.02.25
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国鉄 キハ22:根室本線 普通列車昭和50年代、北海道の気動車と言えばキハ22が代表格で、荷物輸送が必要な長距離普通列車以外或いは地方交通線ではどこでも見られる形式でした。北海道においても、幹線には特急や急行列車が多数設定されており、輸送力が確保されていましたが、こと普通列車に関してはローカル線然としており、それほどの輸送力は求められていませんでした。根室本線も重要幹線ではありましたが、特に狩勝峠を挟む落合~新得簡は直通客が少なかったようで、荷物輸送主体の客車普通列車1往復の他は、わずか3往復のみしか設定されていませんでした。(昭和55年時刻表より)昭和56年3月13日 根室本線 落合~新得間にて 435D2回目の渡道で初めて着地した狩勝峠。初回は駅間撮影をしていませんでしたので、当時としては結構な冒険でした。あまり普通列車は撮影しませんでしたが、如何せん本数が少ないので撮っていた次第。キハ22がたった2両の本線普通列車。これでも輸送力としては過剰であったものと思われます。1日3往復の気動車による普通列車があり、撮影可能時間帯には午前中の上り2本と、午後の下りの1本のみです。この列車は下り列車でしたので、旭川発新得行きの435Dだけしか対象が無かったため判明しました。
2024.02.24
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キハ40系:函館本線 普通列車(その1)国鉄時代、旧型の10系や20系気動車を置き換えるために誕生した新鋭キハ40系。使い勝手や性能の良さ、故障の少なさなどから長年使用されてきましたが、近年は老朽化による廃車が進み、さらには財政状況の悪化から新車の導入も進まず、列車や編成の減便など厳しい状況に陥っているようです。しかし、JR北海道ではこのところ急速に置き換えが進み、2024年度中にすべて撤退することが発表されました。今回の写真は、あくまでもメインではない被写体でありながら、たまたま撮影していたキハ40系使用の普通列車2枚です。昭和58年9月7日 大沼~大沼公園間にて社会人になってからは初めての渡道。国鉄に入社して休みが取りづらくなったため、青函連絡船と特急「北海」と的を絞った撮影でした。とにかく、東京を出てから帰ってくるまで、1度も雨が止まなかったという最悪の撮影コンディション。誰一人として居ない公園施設が悲しいですね。昭和63年2月24日 石倉~野田生間にて青函連絡船の廃止が絡んで撮影に行ったとき。ちょうど「おおとり」も廃止がアナウンスされていたかもしれません。JR化されてから1年近くが経っていますが、全体の印象としてはまだ「国鉄」だった頃ですね。
2024.02.22
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キハ53500番台:深名線深名線は、函館本線深川駅から朱鞠内を通り宗谷本線名寄駅を結んでいた路線で、特定地方交通線が次々と廃止される中、道路事情が悪かったために廃止が遅れていた最後の超ローカル線です。北海道には過去11回も訪れていますが、鉄道が通っているとはいえ非常に不便な場所ですから、この撮影を合わせて2回しか訪れたことがありません。1回はマイカーで行ったと思いましたが、本数が非常に少ないため1本しか撮影できませんでした。乗ったことが無いまま廃止されるのも悔しかったため、敢えて雪のある時期に決死の覚悟で訪れたのです。※撮影は、平成2年3月12日 深名線 朱鞠内駅の前後にて。名寄発の朱鞠内到着列車朱鞠内発深川行き ここまで乗って来た列車の折り返し名寄から来た列車はそのまま折り返し 名寄行きとなるこの辺り道央部は、全国でも屈指の極寒に地です。ひどい時には零下30℃以下くらいまで下がることがあるくらいですから、クルマでの移動すら危険な場所であります。3月とは言っても北海道では真冬の気候となりますので、名寄本線~深名線の撮影では相当な覚悟が必要となるわけです。しかし、現地に行って驚きました。雨だったのです。一般的には、地表温度が4℃を下回わると雪になると言われていますので、まさかこの時期に雨に降られるとは思いませんでした。確かに、そんなに寒く感じなかったですね。撮影を続けているうちに雪に変わり、逆に何かホッとした感じがしました。昭和55年・56年と同じくらいの時期に北海道を訪れたときには、このようなことは考えられないほど何処に行っても寒かったので、当時はあまり騒がれていませんでしたが、既に温暖化の影響がかなりあったのではないでしょうか。朱鞠内を境界として、多少本数のある深川方面と、1日3往復しかない名寄方面は異なった表情があり、出来るだけ撮影に都合の良い時間帯を選定し、数時間の滞在で4カットの撮影をすることができました。雪が余り無かったので、除雪シーンを見ることが出来なかったのは残念でしたが・・・。使用車両がいずれもキハ53500番台のみで、変化が足りない気がしましたが、単行運転による暖房性能確保のためには止むを得ないのでしょう。結果的には最初で最後のような感じで終わってしまった深名線の撮影。極寒の地に存在した超赤字ローカル線の事実は、日本各地にあった赤字ローカル線と共にいつまで語り継がれるのだろうか。そんなことを考えてしまいました。送料無料◆10-1910 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) C編成 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】送料無料◆10-1909 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) A編成+B編成 6両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】10-1909 近鉄10100系〈新ビスタカー〉(改装形) A編成+B編成 6両セット[KATO]【送料無料】《06月予約》送料無料◆セット販売 10-1909/10-1910 KATO 近鉄10100系 (新ビスタカー) (改装形) A編成+B編成 6両セット+C編成 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】送料無料◆10-1911 KATO カトー 近鉄10100系 (新ビスタカー) 三重連 9両セット (特別企画品) Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】10-1911 近鉄10100系〈新ビスタカー〉 三重連 9両セット 特別企画品[KATO]【送料無料】《06月予約》
2024.02.07
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キハ40系:釧網本線 普通列車過去に11回渡道したことがあり、就職してからは時間の関係で道南・道央までが精一杯になっていましたが、個人的には道東の「なにもない」風景が一番北海道らしい風景と思っています。特に、本線とは名ばかりでも、単行気動車だけではなく貨物列車や客車列車が走っていた釧網本線が好きでした。娘が生まれてからは宿泊の撮影などもなかなか行く機会が無くなり、特に時間が掛かる道東などは近寄るチャンスすらありません。そして時は流れ、令和5年になって道東地区から国鉄型のキハ40系がなくなるそうです。平成2年3月15日 細岡~塘路間にて キハ40×2連JRに移行し、既にキハ54形が進出しており、キハ40系の写真はこれ1枚だけでした。他はキハ54が単行で運転されていました。キハ10系時代から暖房性能の問題が残っていたのか、キハ54は単行運転であるのに対し、キハ40系は2連が組まれていたようです。3月の北海道はまだ真冬です。この時だったか、帰路の快速「しれとこ」は2両編成でしたが、積み残しが出そうなくらいの満席で、終点の釧路までぎゅうぎゅうの立ち続けで参ったものです。平成3年7月7日 原生花園付近にて キハ40721単行翌年は夏に本州からクルマを持ちこみました。釧路から釧網本線~石北本線を経由するという強行スケジュール。その途中に立ち寄った原生花園で、1枚だけ撮影することができました。既にJR北海道色が派生してきたようで、キハ54ではなかったために貴重な記録が残せました。この時は、この撮影の際にクルマのカギを紛失してヒドイ目に遭いました。スペアキーを財布に入れてあったため、難を逃れましたが、一緒に付けてあった列車のカギを紛失しまったのも人生の痛手の一つとして忘れられません。釧網本線ではキハ40系どころかキハ54までが運用から撤退してしまうそうで、景色は何十年も変わりませんが、旅情は激変してしまいそうです。
2024.02.03
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キハ20系 キハ2177:函館本線?キハ21は、キハ20に耐寒装備を盛り込んだ寒地向けとして昭和32年に誕生しています。主に北海道への配置となりますが、一部は東北地方でも使用されていたようです。車内レイアウトがキハ20と同様でデッキがないため、構造的に寒冷地には向かなかったようです。そのため84両の製造にとどまり、翌33年からは耐寒・耐雪性能が強化された酷寒地向けキハ22へと製造がシフトされることになります。昭和56年3月 札幌駅にて 普通列車に運用されるキハ2177基本はキハ20ですが、二重窓やエンジンカバーなど耐寒装備がされています。写真でもお判りのとおり、既にキハ40系も導入されていますので、キハ21にとっても晩年の時代の写真ということになります。昭和57年までに殆どの車両が廃車され、昭和59年に最後の1両の廃車によって幕を閉じることになります。【トミーテック TOMIX】TOMIX 9460 国鉄ディーゼルカー キハ22-0形 T9460 TOMIX トミックス 国鉄ディーゼルカー キハ22-0形 (T) Nゲージ 鉄道模型(ZN106603)キハ22-0形(M)【TOMIX・9459】「鉄道模型 Nゲージ トミックス」TOMIX Nゲージ 国鉄 キハ22 200形 前期型 セット 98108 鉄道模型 ディーゼルカー
2024.02.02
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EF71牽引 50系客車:普通列車(JR改軌前)『EF71&ED78牽引 50系客車:普通列車(国鉄時代)』に続きまして、民営化後の50系客車による奥羽本線普通列車をご紹介したいと思います。平成2年2月18日 峠駅にて EF712+50系平成2年2月18日 板谷駅にて EF717+50系平成2年2月18日 赤岩駅にて EF71+50系このときは列車での訪問となったため、殆どが駅撮りでした。既にスイッチバックの廃止がプレスされていたので、各駅を訪問するのが目的でした。荷物輸送は廃止となり、さらに短編成化され、50系客車2~3両の編成となっていました。重連運転もなかったように記憶しています。平成2年6月30日 赤岩~庭坂間にて有名な庭坂の大カーブにて。最後の活躍を続けるEF71牽引の50系客車です。冬の写真から半年も経過していませんが、既に手前の線路(下り本線)は新幹線規格1435mmへの改軌工事が終わっています。客車を50系化したために遅くまで客車列車が存続した奥羽本線ですが、改軌とともに専用の車両しか走ることができなくなってしまい、スイッチバック共々その歴史にピリオドが打たれることになりました。
2024.02.01
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205系:山手線101系→103系と進化を遂げた山手線。国鉄時代の最後の新製電車はステンレス製の205系。昭和60年から導入が始まりました。なお、第1~4編成の計40両は205系の量産先行車であり、外見も2段窓になっているなど、特徴的で判りやすくなっています。第59編成第8編成第1編成6×4.5のブローニーサイズリバーサルからのスキャンです。正確な撮影日の記録が無いのですが、前コマから判断すると平成15年の1月か2月くらいじゃないかと思います。205系の撤退がアナウンスされ、何時かは撮りにいかなければと思っていたのですがなかなか腰が上がらず、ある休みの日に首都圏に雪が降ったため、一念発起して出掛けて行ったのです。結局のところ雪になったり雨になったりで雪中の写真を撮ることができなかったのですが、205系「山手線」の唯一のマトモな写真となってしまいました。一部のサハを除いては各地方にも散らばって元気に活躍している205系ですが、このオリジナルのウグイス色を使っている線区はないため、205系としては幻のラインカラーとなってしまいました。103系山手線を撮影したことの無い前科者としては、こんなくらい写真でも、貴重な山手線の歴史を残すことが出来て良かったと思います。
2024.01.22
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国鉄 キハ22:札幌駅にて北海道における標準型気動車と言えばキハ22。それ以前にもキハ12やキハ21といった車両もありましたが、いずれも大量増備がされることは無く、デッキ付き二重窓と極寒地向け機能を確立した気動車がキハ22でした。過去ログでローカル線など各地のキハ22をご紹介してまいりましたが、路線区別が出来ない1枚の写真があります。昭和56年3月 札幌駅にて2度目の渡道で撮影したキハ22型2連の列車。まだ高架化など想像も出来なかった頃の札幌駅です。当時の2連気動車を使用した列車を考えると、函館本線山線、札沼線、夕張線への直通などが考えられますが、サボも無く、ちょっと判断できません。内地ではほとんど見ることが出来なくなった気動車標準色ですが、北海道ではまだ各地で見ることが出来ました。キハ22222過去ログ『国鉄 天北線:キハ22・キハ40』でキハ2222のゾロ目をご紹介したことがありますが、こちらは更に上を行く2×5の壮観な車番です。残念ながら、どこで撮った何線のものだったか記録が無いのですが、同車は札幌圏から夕張線などで使用されていたようです。こうした車番を撮る時も、サボと一緒に撮るべきでしたね。
2024.01.21
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キハ45系 キハ46:普通列車(函館本線)大都市近郊向けの通勤形と地方線区向けの一般形気動車の特徴を併せ持つ気動車として、キハ20系の後を追って誕生したキハ45系。暖地向けの両開き扉を設備した車両の中で、ほんの少数ですが、デッキを付けて片開きドアを設備した酷寒地向けの車両が存在しました。その酷寒地向けのキハ45系の中で、両運転台のキハ24を片運転台の形態としたものがキハ46です。昭和56年3月19日 函館本線 銭函駅付近にて キハ46ほか縁起かつぎで有名な銭函駅の近くの崖上から撮ったものです。特定の車両を狙っていたわけでもないのですが、あとで確認してみて喜びに変わった写真です。おそらく、札幌行きの通勤列車だと思いますが、キハ46(首都圏色)+キハ46(標準色)+キハ27ほかと言った地方都市の通勤線区で見られる雑多な車両を連結した編成です。片運形のキハ46は、昭和41年にたった6両しか製造されておらず、JR北海道に5両が引き継がれましたが、地味な活躍の中で平成4年に全廃となっています。圧倒的に両数の多いキハ22と共通運用が組まれているため、逢えるかどうかでさえ微妙な車両でした。それが1編成に2両、しかも塗色が2通りともあるので、画材料としては文句無しですね。北海道では一般型気動車も多数撮影いたしましたが、同車を写真に撮ったのはこのとき限りとなりました。
2024.01.17
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国鉄 キハ22:渚滑線国鉄渚滑線は、これまた今は無き名寄本線渚滑駅から分岐する盲腸線。渚滑~北見滝ノ上間34.3kmを結ぶ路線でした。駅数は両端を含めても7駅しかなく、平均距離が5km以上もある閑散とした線区です。(ただし、同じくらいの数の仮乗降場があったようです。)列車は、下り8本に対して上りが6本。非常にバランスが悪いですが、大体においてこのような路線は高校生の輸送面でこのような現象を起こします。朝に渚滑~上渚滑の3駅間をノンストップの列車も設定されており、おそらく単行で、返しは上りに連結の上2両編成で戻ってきたのではないかと推測されます。休日運休であることから、高校生の専用列車と見て間違いないでしょう。私が現地を訪れたときは春休み期間中でもあり、「休校日運休」ではないこのダイヤがどのように運行されていたかは知る由もありません。昭和56年3月18日 渚滑線 北見滝ノ上駅にて キハ22136閑散とした雰囲気の終点「北見滝ノ上」駅。ローカル線では乗り鉄的に行って返ってくるだけですので、写真は記念写真として撮ったこの1枚だけ。天気も良かったようで、自分でも納得できる写りでしたね。写真を見て気になったのは、駅名票の表示は「北見滝の上」となっており、「ノ」と「の」に違いがあります。何故でしょう?町名も「の」になっているんですが。北海道のローカル線の中でも地味な感のある渚滑線ですが、第1次特定地方交通線に指定され、JR化を待たずに昭和60年3月31日をもって廃止となっています。
2024.01.15
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キハ45系 キハ24:普通列車(函館本線)大都市近郊向けの通勤形と地方線区向けの一般形気動車の特徴を併せ持つ気動車として、キハ20系の後を追って誕生したキハ45系。暖地向けの両開き扉を設備した車両の中で、ほんの少数ですが、デッキを付けて片開きドアを設備した酷寒地向けの車両が存在しました。その酷寒地向けのキハ45系の中で、両運転台の形態としたのがキハ24です。昭和56年3月20日 函館駅にて 函館口で普通列車に使用されるキハ243内地向けキハ23(キハ45系の両運形)の北海道版で、側窓の形態やドアの形状・位置などの特徴があります。もちろん、客窓は二重となっています。昭和42年度に10両のみが生産されましたが、その後は増備されず、新性能化は後に誕生するキハ40系までありませんでした。両数が少ないことからキハ22と共通のような形で使用され、平成7年度を以って全廃、消滅しています。
2024.01.10
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107系100番台:上越線民営化以降、高崎地区のローカル運用で永らく活躍してきた107系電車。平成29年9月末にすべての定期運用から離脱し、平成29年10月7日のさよなら運転をもって完全に撤退することになりました。昭和63年、急行形の165系の機器を流用して製造された近郊型の車両で、台車や冷房装置に種車の面影を色濃く残していました。先に誕生し、平成25年3月ダイヤ改正をもって運用を離脱した日光線用の107系0番台から4年半で後を追う形で形式消滅となります。撮影日未調査平成2年8月26日 八木原~群馬総社間にて平成6年2月13日 渋川~敷島間にていずれも上越線を行く2連で、需要の少ない上越線では2両編成が多く見られました。平成6年2月13日 渋川~敷島間にて上の写真と同日。マミヤC33の標準で撮影したために被写体が遠く、プリントからのスキャンなので画像が不鮮明です。雪景色の上越線を行く107系4連です。107系は101~105までが0番台と同様の窓配置ですが、106以降は扉間3枚でかなり趣きが異なります。この写真は前期と後期をそれぞれ連結しています。撮った枚数が少ないためか前期車の写真がこれしか見当たらないようでした。平成23年5月3日 群馬総社~八木原間にてこちらは「DD51重連レトロみなかみ」の撮影アングルを探していた際に来たもの。準備していなかったので構図が良くなく、結局はこれが最後のショットとなってしまいました。JRになってから誕生した107系ですが、デザインも思想も国鉄そのものといった車両でした。107系0番台:日光線107系100番台:両毛線
2023.12.26
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711系交流電車:函館本線(オリジナル塗装時代)711系は、函館本線の電化事業とあわせ、徹底した耐寒耐雪機能を考慮して開発された北海道内初の国鉄電車です。国内における在来線営業車初の交流専用であり、新性能車における1M方式としても初の量産車となりました。昭和55年3月14日 函館本線 銭函~張碓間にて量産車としては昭和43年から製作されました。711系には0番台、50番台、100番台があり、詳細は覚えていませんが、外観上では100番台以降が電動サボを装備しているので、側面から容易に区別することができます。また、50番台までが両栓構造(前向きにも後向きにも自在に連結できる)であるのに対し、クハ711-100番台は向きが固定され、反対向きのクハ711は200番台として区別されるようになっています。昭和55年3月 札幌駅にて 711系 急行「かむい」車両構造が、極寒地の気候を考慮した内地で言うところの急行形と同じスタイルであるため、普通列車を基本としながらも急行列車にも多用され、「かむい」を初め、札幌~旭川間をノンストップで結んだ「さちかぜ」でも活躍しました。昭和56年3月11日 白石~厚別間にて除雪した雪が線路間に山のように盛られていて、足回りが見えません。真っ白な景色の中なので、旧塗装の交流色の赤がアクセントになりますね。昭和56年3月11日 白石~厚別間にて 711系100番台初めて写真でみたときは、交直両用型のローズピンクとはまた一線を画す濃い赤色(交流色)で、当時このスタイルではまだ珍しかった小さく鋭い目のシールドビーム。そして、デザイン案の検討とかなされたのか疑問を持ってしまうような大雑把な全面警戒色と、どれをとっても厳つい不気味な電車に見えました。当時地元で見慣れていた115系や165・455系の目の大きいお茶目な顔とは違った異質の車両に見えました。何時の頃からか、京成電鉄にも似たファイアーレッドの塗装に変更され、通勤対応試作としてクハ711を3扉に改造したものも誕生しています。当初は不気味な感じのした711系ですが、こうしてみると、やはり誕生したときのデザインというのは吟味されていたんだろうな、と思えるほど交流色が板に付いている感じがします。初の交流専用型電車、極寒地対策車としてその地位を確立し、初の交流特急形781系の礎ともなった711系ですが、老朽化と新性能車によるスピード運転格差が災いし、2015年3月13日の運転を最後に引退となりました。【新品】鉄道模型 1/150 711系0番台 3両セット(特別企画品) [10-1329]711系0番台 3両増結セット 特別企画品【KATO・10-1329】「鉄道模型 Nゲージ カトー」KATO Nゲージ 711系0番台 3両増結セット 鉄道模型 10-1329
2023.12.25
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E231系山手線:東京駅開業100周年記念ラッピング※本記事は、2014-10-13に投稿したもので、当時の表現になっています。東京駅100周年記念イベントの一環として、東京駅のシンボル、丸の内駅舎のレンガがイメージしたラッピング編成が運行されました。プレス記事は以下のとおり。東京駅開業100 周年記念イベントについて○本年12月20日に東京駅は開業から100年を迎えます。開業以来、首都東京とともに歩み続けてきた東京駅は、歴史、伝統、文化、学術、ビジネス、先進性が融合した街(TokyoStation City)として、これからも魅力を高めてまいります。○JR東日本では、開業100 周年に合わせて、これまでのお客さまのご愛顧に感謝し、駅構内をはじめ様々な箇所で記念イベントを実施してまいりますのでご紹介します。この機会にぜひ東京駅へお立ち寄りください。~中略~4 山手線ラッピングトレイン・開業当時の東京駅と現在の東京駅の姿を並べ、赤レンガ色にラッピングした山手線が走ります。・さらに12月18日からは、車両内部に東京駅にまつわる過去から現在の写真等を展示して、100年の歴史を振り返ります。○運行期間 : 2014年10月11日(土)~2015年3月31日(火)うち2014年12月18日(木)~2015年1月1日(木) の期間、車内装飾も実施○編 成 : 山手線1編成11車両○イメージ : 別紙参照運転開始から2日目、最近はこの手の列車の画像を押さえないと気が済まない?衝動にかられ、ちょこっとお出掛けしてきました。いつも終盤に慌てて行き、運悪く撮り逃すケースもありましたので、今回は早めの対応です。※撮影は、平成26年10月12日です。以上、西日暮里駅にて 514編成 1152G側面も撮っておこうと思ったのですが、残念なことに外回りにカブられました。以上、田端~駒込間にて 514編成 1252G無難なところでこちらの公園から。ちょっとブレてしまったみたい。何故かな・・・不満です。以前のチョコ電の例があったためか、ちょっと明るい茶色?は何か落ち着かない印象です。
2023.12.20
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