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在原業平(ありわらのなりひら)ちはやぶる神代かみよも聞かず龍田川たつたがは からくれなゐに水くくるとは古今和歌集 294 / 小倉百人一首 17いにしえの霊威なる神々の時代でさえも聞いたことがない龍田川が深紅色に水をくくり染めにするとは。註川面を流れてゆく一面の紅葉を川の水を括り染めにしたものと見立てた、濃艶唯美で洒落た趣向が楽しい、人口に膾炙した名歌。ちはやぶる:「神」「氏」などに掛かる枕詞(まくらことば)。一般に「千早振る」と表記するが、語源は「逸早(いちはや)振る」とされる。■ 龍田川水くくる:「水を括(くく)り染めにする」の意が定説だが、古来「水を潜(くぐ)る」(当時は濁点表記はなかった)の説もあり、もともと作者が両義性 ambiguity を意図したとの見方も可能と思う。
2010年10月30日
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菅原道真(すがわらのみちざね)このたびは幣ぬさもとりあへず手向山たむけやま 紅葉の錦にしき神のまにまに古今和歌集 420 / 小倉百人一首 24 この度の旅はあわただしくて幣ぬさも取りあえずこの手向けをする山の紅葉の錦を代わりに捧げますのでどうか神意のままに(お納め下さい)。註幣ぬさ:神に捧げる供え物。また、祓(はらえ)の料とするもの。古くは麻木綿(あさゆう)などを用い、のちには織った布や紙を用いた。みてぐら。にぎて。幣帛(へいはく)。御幣(ごへい)。玉串(たまぐし)。秋季の「初穂」(初めての稲)もこのたぐい。まにまに:随意に。意の儘に。現代語「ままに」の語源。
2010年10月27日
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栗木京子(くりき・きょうこ)夜の壁にサキソフォンたてかけられて 身をふた巻きにする吐息待つ歌集「中庭パティオ」(平成2年・1990)註作者は、(たぶんジャズの)ライブ演奏が行われる場所にいて、手練(てだれ)のサックス奏者の登場を待ちながら、すでに壁に立て掛けられてあるその楽器を見ている。艶やかでハスキーなサックスの音色を指して「身をふた巻きにする吐息」という下の句が、思わず吹き出しちゃうぐらいスゴイ。繊細さと豪快さが同居している作者らしい表現。畏友、アルトサックスプレイヤー・亀和田國彦君亀和田國彦クインテット
2010年10月27日
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くまんパパ 月天心管くだとしてアルトサックスにんげんの息吹を伝へ響く朝顔サクソフォン夏のをはりに奏でられ月天心の街を帰りぬ *1川沿ひのしもた屋の窓一面に風鈴のごと風船葛白亜紀の石灰岩の侵蝕はわが歯のややに溶けゆくに似き旱天と炎暑ののちの洪水は神の裁きのソドムとゴモラふとももの虫に食はれし痕癒えて人を白痴となしし夏往く古臭いものと思つてゐましたとコメントありき やまとうたはも地は毬のごとくにまろく口づけをいつまでできる森蔭ならむ帯見せの斜はすにかまへて澄ましたる数へ七つの吾子をいとしむ *2わが子らの罵りあへば免疫と抵抗力の鍛への時間給食のピザのうまきをいふ吾子に鯨の龍田揚げを言ひ立つ落ち鮎を妻にねだりき卓袱台にはつ秋の風吹くはずなれば栄養にほぼ無関係なるきうり無用の用の真夏の果実妻と意気投合せしはげにわれらいかに貧しき食にて成れる脈々とズンドコ節は受け継がれドリフターズよとこしなへなれ*1 以上2首、友人でジャズ・アルトサックス奏者の亀和田國彦君に。*2 帯見せ:絵画・写真用語。肖像(ポートレート)で、着物の華やかな帯を見せる斜に構えたポーズ。「見返り美人」の類い。2010年9月上旬作著作権を有します。(c) 2010 Daddy Bear Nohara Sakamoto All rights reserved.
2010年10月26日
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坂本野原 「短歌人」11月号掲載作品管としてアルトサックスにんげんの息吹を伝へ響く朝顔サクソフォン夏のをはりに奏でられ月天心の街を帰りぬ *1ふとももの虫に食はれし痕癒えて人を白痴となしし夏往く帯見せの斜はすにかまへて澄ましたる数へ七つの吾子をいとしむ *2わが子らの罵りあへば免疫と抵抗力の鍛への時間脈々とズンドコ節は受け継がれドリフターズよとこしなへなれ*1 以上2首、友人でジャズ・アルトサックス奏者の亀和田國彦君に。*2 帯見せ:絵画・写真用語。肖像(ポートレート)で、着物の華やかな帯を見せる斜に構えたポーズ。「見返り美人」の類い。2010年9月作著作権を有します。(c) 2010 Daddy Bear Nohara Sakamoto All rights reserved.
2010年10月26日
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今野寿美(こんの・すみ)木染月こそめづき・燕去月つばめさりづき・雁来月かりくづき ことばなく人をゆかしめし秋第一歌集「花絆はなづな」(昭和56年・1981)陰暦の月々にはそれにまつわるさまざまな言葉がある。木が紅葉に染められる月、燕が去る月、雁が渡って来る月。けれども秋に言葉はなく黙って人を去らしめた。註青春の客気溢れる凝った言い回しになっているが、失恋か別離を詠んでいるのであろう。ただ、この佳品では意味の穿鑿はたぶん二義的というか割とどうでもよくて、端正な調べ(言葉の音楽性)や韻律の優美さを楽しむべき一首である。木染月こぞめづき、燕去月つばめさりづき、雁来月かりきづき:いずれも陰暦八月(葉月はづき、陽暦の9月上旬~10月上旬頃)の異称とされるが、陰暦九月(長月ながつき、陽暦10月上旬~11月上旬頃)とする説もある。・・・季節の実感からすると、個人的には後者の方が合っているような気もする。■ 月の名称・異称
2010年10月25日
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所属している結社「短歌人」の第3回インターネット歌会が、きのう22日から堂々開催されております~っ■ 短歌人ネット歌会会場はこちら今回は参加作36首の盛況で、力作揃い。一瞥して壮観だと思いました。皆さまも、どうぞご自由にご閲読下さいませ~。(ただし、「短歌人」会員以外の方の書き込みやトラックバックは出来ませんので、ご了承下さい。)僕自身も(どれとは言えませんが)作品を出品していますが、実は今回は推敲不足でちょっと失敗したと思っているので、開催期間中はおとなしめにしているつもりです~
2010年10月23日
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若山牧水(わかやま・ぼくすい)吾木香われもかうすすきかるかや 秋草のさびしききはみ君におくらむ歌集「別離」(明治33年・1910)吾木香われもこう、芒すすき、刈萱かるかや秋草の寂しさの極みを君に贈ろう。註若き日に、恋人・園田小枝子に贈った歌とされる。■ ワレモコウ* 可憐なワレモコウの写真を撮りたいと思って歩き回りましたが、見つかりませんでした。北関東の当地では、もう時季が終わっちゃったのかも~
2010年10月21日
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若山牧水(わかやま・ぼくすい)かたはらに秋ぐさの花かたるらく ほろびしものはなつかしきかな長野・小諸にて、明治43年(1910)秋作。歌集「路上」(明治44年・1911)路傍に咲く秋草の花が語ることには「滅び去ったものは懐かしいなあ」。註短歌表現で最も大事な要素が、哀切に言い当てられている、ちょうど100年前に詠まれた秀歌。あえて言うならば、それは「今ここに生きてあることのかけがえのなさ」というようなことであり、古く「もののあはれ」といわれた感覚と表裏一体のものかも知れない。この歌の「ほろびしもの」とは、直接には、歴史に翻弄された信州小諸城(数年前のHNK大河ドラマ「風林火山」にも出てきた)の歴代城主たちを指しているとされるが、さらに普遍的なものを表現していると取ることも十分に可能だと思う。かたるらく:今ひとつよく分からないのだが、これは「語る」のク語法「語(かた)らく」の誤用だろうか?ただ、文法的には誤りだとしても、意外なほど違和感はない。韻律の魔力というべきか。ク語法は、活用語に「く」が接続して体言化する用法。「曰(いわ)く」などに痕跡が残る。僕の知る限り、文法上のミスは大家の著名な作品でもたまにあることだ。僕の古典文法の知識では判然としないが、どなたかお分かりの方はご教示下さい。作者が下敷きにしたと思われる大伴旅人の歌「梅の花夢いめに語らくみやびたる花と我思あれもふ酒に浮かべこそ」はこちら。
2010年10月19日
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高野辰之(たかの・たつゆき)紅葉秋の夕日に照る山紅葉もみぢ濃いも薄いも数ある中に松をいろどる楓かへでや蔦つたは山のふもとの裾模様すそもやう 渓たにの流ながれに散り浮く紅葉波にゆられて離れて寄つて赤や黄色の色様々に水の上にも織る錦作曲:岡野貞一文部省唱歌明治44年(1911)6月刊「尋常小学唱歌 第2学年用」* 現在は4年生で習うようである。栃木・日光自然博物館 紅葉リアルタイム実況
2010年10月19日
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飯田龍太(いいだ・りゅうた)新米といふよろこびのかすかなり第一句集「百戸の谿」(昭和29年・1954)註「新米、今年米」の季語を用いた句の中でも、特に名句の誉れが高い。この句を詠んだ当時、実際に農作業に携わっていたという作者にとって、その年の新米を得た喜びというのは、もろ手を上げて大はしゃぎするものではなくて、かすかにほのかにゆっくりと、しかししっかりじわじわ~っと訪れる喜びなのだろう。・・・深い。こういうのに接すると、俳句というものは凄いもんだなあと、改めてまざまざと痛感させられる。この、ボソっと呟くように素っ気ない、わずか十七音の短い形式の中に、実に豊かで微妙で陰翳に富んだ感情が溢れていて、ひたすら感嘆するほかはない。・・・僕なんかには到底できません(笑)■ 飯田龍太の俳句 ―― 第一句集『百戸の谿』より 太田かほり(この句の詳細な解説を含む。)
2010年10月18日
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水原秋櫻子(みずはら・しゅうおうし)野沢菜の届きぬ焚たけよ今年米ことしまい
2010年10月18日
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この記事は、ある未成年者による詩歌作品の盗作(パクリ)受賞事件を扱い、かなり具体的な記述を伴って強い筆誅を加えましたが、将来のある若い当該人物を必要以上に叩くつもりはなく、一般的な警鐘を鳴らす意図はすでに達したと思いますので、全文削除いたしました。ご了承下さい。〔まとめ〕言語その他の表現において、盗作・剽窃・パクリはすごく悪いこと(犯罪・泥棒)であり、絶対にやってはいけません
2010年10月17日
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菅・民主党政権による、無法ともいえる前代未聞のタバコの大幅値上げに対して、生活(おこづかい)の自己防衛策という意味合いも含めて、ワタクシくまんパパめは、今回ついに禁煙(断煙)を決意しますた~っ!!!(・・・キッパリっ!)!!なにしろ、これまでセブンスター・メンソール・ボックス(値上げ前¥300、値上げ後¥440!!)を毎日40本の愛煙家。・・・世間ではこれをヘビースモーカーというのだろう毎月2万円はタバコに蕩尽してきた。一年で24万円。考えたら本当にバカバカしい話だ~。すでに昨日まで数日間、極力節煙に努めてきたが、どうやら為せば成りそうだと踏んで、・・・一応、「大安吉日」を期しまして、本日より禁煙実行中!!舘ひろしに続け~いっ!!決意は固く、今度こそは行けそうな気がしている。で、現在午後6時すぎ。ここまできょう一日、一本も吸っていない。何とかかんとか、曲がりなりにも着々と実行中。・・・が、キッツイ禁断症状の、極度の精神的イライラに苛(さいな)まれており、詳しいことを縷々書きつらねる気にはとてもならないので、もう少し結果が出たところで改めて書きまする~
2010年10月16日
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久米三汀(くめ・さんてい)新米を燈下に検けみすたなごゝろ句集「かへり花」(昭和18年・1943)出来たばかりの新米を燈火のもとで検査するその真剣な掌(てのひら)。註三汀は、小説家・久米正雄の俳号、すなわち同一人物。たなごころ:掌を示す古語。現在でも雅語的に用いる。語構成は、「手(て)」の意味の上古語「手(た)」+「の」の意味の古い格助詞「な」+「心」。平成22年産新米! 栃木のコシヒカリ厳選米 5kg 【ギフト対応 のし・宛名書き可】価格:3,129円 (税込、送料別)
2010年10月15日
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高浜虚子(たかはま・きょし)新米の其その一粒の光かな平成22年産新米! 栃木のコシヒカリ厳選米 5kg 【ギフト対応 のし・宛名書き可】価格:3,129円 (税込、送料別)
2010年10月15日
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与謝蕪村(よさ・ぶそん)新米もまだ艸くさの実の匂ひ哉かな【お試しメール便】平成22年産新米! 栃木のコシヒカリ厳選米(お試し3合/450g)価格:525円(税込、送料込)
2010年10月15日
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正岡子規(まさおか・しき)をりふしのいさかひこそはありもせめ 犬がくはずば猫にやれこそ明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)折節(おりふし)の夫婦の諍(いさか)いはありもしようが犬が食わなければ猫にやるがよい。註俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の四首目。新婚の弟子に夫婦喧嘩を戒めている、というか、茶化して笑わせつつ夫婦の心得と達観を勧めている佳品。一見ナンセンスな言い草が面白い。ちなみに、この歌は私くまんパパめが金科玉条とし、拳々服膺(けんけんふくよう)する、終生の諳誦歌(あんしょうか)にして座右の一首であります~ありもせめ:「ありもせむ(ありもするだろう)」の、係り結びによる連用形。せめ・・・こそ:普通の係り結び「こそ・・・せめ」を顛倒(てんとう)させた形。洒落た技巧を弄しておどけて笑わせている。子規歌集 (岩波文庫)価格:420円(税込、送料別)
2010年10月14日
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正岡子規(まさおか・しき)君が庭に植ゑば何花合歓ねむの花夕ゆふべになれば寝ぬる合歓の花明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)君の庭に植えるならば何の花 合歓の花夜になれば寝る合歓の花註艶笑的なユーモアが微笑を誘う。俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の三首目。
2010年10月13日
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正岡子規(まさおか・しき)よき妻を君は娶めとりぬ妻はあれど殊ことにかなひぬ君が妻 君に明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)よい妻を君は娶った。妻にもいろいろあるけれども特にかなったね君の妻は君に。註俳句の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌・連作四首の二首目。
2010年10月12日
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正岡子規(まさおか・しき)米なくば共にかつゑん魚あらば片身分けんと此この妹いも此の夫せ明治32年(1899)作歌集「竹乃里歌」(明治37年・1904)米がなければ共に飢えよう魚があるならば半分に分けようとこの妻 この夫。註俳句・短歌にわたる巨匠だった子規の、俳句の方の弟子・福田把栗(ふくだ・はりつ)の結婚に際して贈った祝いの歌。「坂の上の一朶(いちだ)の雲を見ていた」明治人ならではの、豪快なユーモアと情味が楽しい連作四首の一首目。*「魚」は、普通には「うを(うお)」と読むが、万葉趣味だった子規の場合、上古語の「いを」と読ませるつもりかも知れない。「夫せ」の字は、原文では人偏に夫です。子規歌集 (岩波文庫)価格:420円(税込、送料別)
2010年10月12日
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われわれが思っている以上に、中国国営メディアが自らの置かれた立場を意外にも正確に認識していることを、イギリスに本拠を置く世界的通信社・ロイターの最新の記事(下記参照)が問わず語りに語っており、思わず哄笑した。この記事をなぞって言うとすれば、僕らの本音は、■ われわれは、共産党一党独裁体制下の中国の国家発展は受け入れられない。■ われわれは、劉氏が呼び掛けている民主化が実現し、中国の運命が旧ソ連や旧共産圏・東欧諸国と同じようになり、共産党独裁体制が崩壊することを心から待ち望んでいる。■ 劉氏のノーベル平和賞受賞は、最高の芸術的表現たる「ブラックユーモア」とも言い得るものであり、中国共産党独裁体制を内部から崩壊させる端緒になる。中国政府は、多数の民主化活動家たちへの苛酷な弾圧を直ちに中止し、政治犯として不当に収監されている劉暁波氏と、軟禁状態におかれているその妻・霞さんを速やかに解放せよ。「一部の人々を常に、あるいは全ての人々をしばらく騙だますことはできるが、全ての人々をいつまでも騙し続けることは出来ない。」エイブラハム・リンカーンYou can fool some of the people all the time and all the people some of the time, but you can't fool all the people all the time.(Abraham Lincoln 1809-1865) 中国メディア、劉氏への平和賞は「欧米による恐怖の表れ」【ロイター通信 11日】 中国の国営メディアは4日、今年のノーベル平和賞に中国の民主活動家、劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏(54)が選ばれたことについて、欧米諸国が中国の国家発展を受け入れられないことの表れだと批判した。 同国の新聞「環球時報」は、「反体制派」である劉氏に平和賞を授与することは、中国の拡大する富と力に対する欧米諸国の偏見と恐怖を象徴していると指摘。劉氏が呼び掛けている民主化が実現するならば、「中国の運命は旧ソ連やユーゴスラビアと同じようになる可能性があり、国家は崩壊するだろう」と強調した。 また中国政府系の香港紙「大公報」は、劉氏の受賞を「ブラックユーモア」だとし、ノーベル平和賞は真剣さに欠けると非難した。 一方、劉氏の弁護士はロイターに対し、劉氏の妻である劉霞さんと連絡が取れない状態であることを認め、外部との連絡は許されておらず、自宅で軟禁状態に置かれているとの見方を示した。〔ロイター 2010年10月11日 15時4分 日本標準時〕
2010年10月12日
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)秋霖あきづゆの地上へ出いでて傘をさす人ひとりづつ貌かほをなくせり第一歌集「水陽炎」(昭和62年・1987)註敬愛する歌人の、研ぎ澄まされた感性の発露。大都市の地下鉄や地下街などの出口の光景の写実であろうか。傘をさすと、人それぞれの顔が隠れて個性が失われる。日常よく目にする現象である。しかしながら、それをこのように詠むと、何ごとか終末的・黙示録(アポカリプス)的な隠喩(メタファー)と寓意の象徴的な世界が現出する。確かに、生物の一員である人間も本能的に感じる、緩慢な滅びに向うごとき秋の憂愁(メランコリー)に似合うイメージだと思われる。*「秋霖(しゅうりん)」は、秋雨前線・寒冷前線によってしとしとと降り続く、冷たい秋の長雨をいう漢語的表現。訓として当てた「あきづゆ」は、手許の広辞苑その他の辞書にない。あるいは気鋭の歌人の造語だろうか?・・・もしそうだとしても、すばらしいセンスだと思う。完全に詩的許容(ポエティック・ライセンス)内。ちなみに、「秋入梅(あきついり)」は載っており、俳諧では秋の季語である。
2010年10月11日
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村祭村の鎮守の 神様の今日はめでたい 御祭日おまつりび ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる 笛太鼓年も豊年 満作で村は総出の 大祭おほまつり ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 夜まで賑にぎはふ 宮の森治おさまる御代に 神様のめぐみ仰ぐや 村祭 * ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 聞いても心が 勇み立つ文部省唱歌「尋常小学唱歌 第三学年用」明治45年(1912)3月刊* 昭和17年(1942)、初等教育の言文一致化(口語化)方針の一環として、3番の歌詞2行を下記の通りに改訂。現在も踏襲されている。「稔みのりの秋に 神様の めぐみたたへる 村祭」(旧歌詞では「仰ぐや」が文語体。)
2010年10月10日
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常陸(ひたち)我ひとり鎌倉山を越え行けば 星月夜ほしづきよこそうれしかりけれ永久百首(永久4年・1117)私ひとりで鎌倉山を越え行く心細い道行きにまばゆいばかりの星月夜が本当にうれしかったなあ。註本日は、旧暦の九月(長月)朔日(ついたち)。新月(無月)の夜である。星月夜ほしづきよ:よく晴れて澄み渡った秋の空に、星の光が月のように明るく見える夜。星夜。流行歌風にいえば「星の降る夜」か。「星月夜」が「鎌倉」に掛かる枕詞(まくらことば)になったのは、この名歌に因(ちな)むものかとも思うが、詳(つまび)らかではない。・・・すみません^^;
2010年10月08日
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土屋文明(つちや・ぶんめい)選者やめぬならと責め来るに返しやる 何をぬかすかこの馬鹿野郎歌集「続青南集」(昭和37年・1962)註上2句の字余り破調が、怒りのほどを物語る。1980年代半ばぐらいまで(?)の歌壇や短歌結社内の論争は殺気みなぎり苛烈を極め、しばしば互いの人格否定の域にすら及び、大の大人が取っ組み合い寸前の大喧嘩も日常茶飯事だったと、僕らもその一端を読んだり聞いたりしている。なにしろ、僕の祖父母が事務局のような立場で携わっていた当地の田舎歌壇でも、そうした激論の記録が残っているぐらいだ。短歌ごときでそこまで言うか~!? みたいな。・・・強気でなければ短歌は詠めない(笑)現在でも、結社によってはそうした気風がけっこう残っていると仄聞する。くわばらくわばらであるが、少しズームダウンした視線で見れば、どこか懐かしく微笑ましい場面といえなくもない大歌人・文明は当時、歌壇主流派の大結社だった「アララギ」の主宰格幹部・選者で、72歳。この歌の詳しい背景は知らないが、戦後世相の思想的混乱や「下克上」的風潮もあって、長老的な“権力者”に突っかかって行く、怖れを知らぬ“馬鹿野郎”な青年がいたのであろう
2010年10月07日
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けさ撮影。今野寿美(こんの・すみ)夏ゆけばいつさい棄てよ忘れよと いきなり花になる曼珠沙華まんじゅしゃげ歌集「若夏記」(平成5年・1993)註「いきなり花になる」が表現上のツボ・キモといえるだろう。曼珠沙華(彼岸花)の咲き方をご存知の方もいらっしゃるだろうが、初秋のある日、枝も葉も節も何もないのっぺらぼうの土筆(つくし)みたいな茎だけがニョキニョキと伸びてきて、「これはいったいなんじゃらほい?」などと言っている間に、上掲写真の左下のような蕾(つぼみ)が出てきて、ある朝いきなり強烈な真紅の花を咲かせる。何とも奇妙な、見ようによっては不気味といってもいいような生態である。花から放たれる、一種凄愴な印象も相俟って、これは何らかの哀しみの墓標、もしくは祟り(?)のようなものではないかといった感慨さえ湧く。そうした感覚を上手く織り込みつつ、清冽な一首に仕上げている。
2010年10月05日
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寂蓮(じゃくれん)野分のわきせし小野をのの草臥くさぶし荒れ果てて 深山みやまにふかきさを鹿のこゑ新古今和歌集 439嵐が去った小さな野辺の草の褥(しとね)は荒れ果てて今宵は山の奥深くで若い牡鹿の鳴く声がする。註野分のわき:秋の嵐、暴風。野を分けて吹くような風の意。今でいう台風など。「分き」は、古語動詞「分く(分ける)」の連用形。草臥くさぶし:草の寝床。草枕。さを鹿:小男鹿。牡鹿の雅語的表現。
2010年10月05日
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くまんパパ 禁煙宣言怨みつつわれ禁煙を決意せり手籠めにされしをとめのごとく憎みつつわれ禁煙のやむなきの不承不承の秋の煉獄さやうなら七つ星セヴンスターよ十代で喫のみ始そめたりし友垣ともがきさらば病める時も健やかなりし時にてもつねに野生の呼び声なりき「おとうちやんお口くさい」と言はれしが動機付けモティヴェーションの此度こたびの知命北辰とカシオペア座に向きて佇たち最終ラスト一本吸ひ畢をはりたりやめる気は毫がうもなかりき焼け石に水の財政補填とされぬ暴政の怨み晴らさでおくべきか庶民いぢめの無体のお上かみ民主党菅政権に禁煙を強ひられしこと一生ひとよ忘れじ2010年10月3日深夜作
2010年10月04日
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この夏から秋口の記録的な猛暑のせいもあったのでしょうね、今年のアサガオは生命力が強いというかしぶといというか、アンビリーバブルなほどに長寿でありまして、とっくに10月に入った今朝も、ご覧の通りたくさんの花を咲かせています~さすがにこのところは、葉っぱなどはいくぶん弱り始めて黄変しはじめましたが、も~こうなったら、行けるところまで行かせてやりたいと思っていますよ~ん けさ写す。
2010年10月03日
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野口雨情(のぐち・うじょう)七つの子烏 なぜ啼なくの烏は山に可愛七つの子があるからよ可愛 可愛と烏は啼くの可愛 可愛と啼くんだよ山の古巣にいつて見て御覧丸い眼をしたいい子だよ作曲:本居長世「金の船」大正10年(1921)7月号註誰もが知る、日本童謡の傑作。童謡だから、子供が歌うのは当然似つかわしく微笑ましいが、一流の歌手が歌った場合、余韻嫋々たる情感溢るる堂々の名曲と感じられることがしばしばある。個人的には、大御所演歌歌手・田端義夫さん(現在、91歳にしてご健在だという)の若き日の名唱が驚くほど心に沁み、今なお忘れがたい。ところで、歌詞の「七つの子」が「七歳の子」の意味なのか、はたまた「七羽の子」なのかは、諸説紛々、侃々諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうごう)である。僕はかねて、作詞者・野口雨情自身が、「七羽の子の意味である」と言明したという情報もあったように記憶しており、かつては「七羽の子」説がほぼ定説だったと思っていた。その場合、「たくさんの子」ぐらいの意味であろう。が、最近の言説では(ネット上で調べた限り)「七歳」説が有力になっているようで、いささか驚いているところである。それによると、この歌詞は雨情のご子息が7歳の頃に作詞され、「七つの子」とはその隠喩であるという。この説は、そのまた娘、すなわち雨情の孫娘に当たる方が主張されているという。・・・う~む、そうなのかな~?僕としては、やや疑問符の点滅が消えないが。ともあれ、「しゃぼん玉」の恐るべき2番の歌詞(失った乳児を詠んだともいう)や、「赤い靴」の“横浜・児童国外拉致事件”のような歌詞など、ミステリアスで謎めいた、時に怖い歌詞が津々たる興味を誘ってやまない野口雨情ワールドである。
2010年10月02日
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山上憶良(やまのうえのおくら)秋の野に咲きたる花を 指および折りかき数ふれば七種ななくさの花萩の花尾花葛花くずはな撫子の花 女郎花をみなへしまた藤袴ふぢはかま朝顔の花万葉集 1537-1538註滋味・情感あふるる歌人・山上憶良の面目躍如たる名歌。万葉集で、長歌と短歌(反歌)の組み合わせの連作形式は多いが、短歌と旋頭歌(せどうか)の連作はきわめて珍しい。・・・というか、もしかするとこの一例だけか?1537は、5・7・5・7・7の短歌形式。1538は、5・7・7・5・7・7の旋頭歌の形式で、民謡風の野趣があり、いわゆる「鄙(ひな)ぶり」(意図的に田舎ぶる表現)であろう。尾花:薄(すすき)の古語。雅語的表現としては現代でも用いることがある(「枯れ尾花」など)。撫子:ナデシコ科の多年草。セキチク、カーネーションと近似種。女郎花をみなへし:オミナエシ科の多年草。秋に黄色い可憐な花を咲かせる。語源は「美人(をみな)・減(へ)し」であるとされる。美人も真っ青になるぐらい可愛いというわけか。朝顔:桔梗(ききょう)のこととされる。現在言うアサガオ(ヒルガオ科)は、まだ(中国から)伝来していなかった。ナデシコハギこれは、オミナエシ、・・・ではないようです(・・・ちょっと似てるけど)。
2010年10月01日
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大伴家持(おおとものやかもち)秋さらば見つつ偲しのへと妹いもが植ゑし やどの石竹なでしこ咲きにけるかも万葉集 464秋が来たらこの花を見ながらわたしを偲んでくださいねと君が植えた庭の撫子が咲いたんだなあ。註天平11年(739)旧暦6月、亡くなった妾(しょう)を悼んで詠んだ。家持、数え22歳。さらば(さる):現代語「去る」の語源だが、当時は方向を問わず移動することを指した。主に「来る、訪れる」の意味で用いる。妹いも:妻、恋人。男が親しい女性を呼ぶ語。現代語「いもうと」の語幹だが、意味は異なる。やど:「屋外」または「屋戸」で、庭・庭先の意味。万葉集に頻出する。動詞「宿る」と同根と思われる「宿」とは別語。石竹なでしこ:万葉仮名原文は「石竹」と表記されており、「なでしこ」と訓(よ)む。現在では、秋に咲くものをナデシコ、春に咲くものをセキチクという(いずれもナデシコ科の近縁種)が、当時はさほど厳密に区別しなかったらしい。
2010年10月01日
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