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■ 森喜朗元首相 内閣不信任案で「政治空白」回避せよ【産経新聞 28日付】この人自身、いろいろと毀誉褒貶の多い人物ではある。失言なども多く、私も決して古参政治家「シンキロウ」殿に全幅の信頼を寄せているわけではない。 ご本人も、そうした悪評は重々分かっているだろう。 ただ、こと「政局」的な読みにかけては、非常に鋭い職人的なカンがあると思っている。そこはやはり評価しなければ失礼だろう。長年に亘って政界中枢を遊泳してきた超ベテラン政治家の冷静な提言に、聞くべきものは確かにあると思われる。福田赳夫元首相の愛弟子同士の盟友で、三度のメシより政局が好きとまで評される森元首相と小泉元首相の二人が時折洩らす、数手先まで織り込んだ読みはいつも鋭利を極め、唸らされることが多い。政局が次第に風雲急を告げつつある今、虚心坦懐に受け止めてもいいだろう。自民党内では、28日から29日にかけてこの記事の内容が大きな反響を巻き起こしたと伝えられている。おそらく、細かい手順などを抜きにすれば、この発言の読みに近い形で、まもなく政変が起こるのではないだろうか。■「ポスト菅」めぐり水面下のシナリオ【産経ニュース 30日 12:00配信】
2011年04月30日
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現政権が相手なら自民300議席復活だって【日刊ゲンダイ 29日付】「日刊ゲンダイ」は、一貫して強硬な反自民党だが、その一方で現在の民主党主流派執行部にもきわめて批判的で、あろうことか悪評サクサクの小沢グループ寄りのスタンスを取る、珍妙な絶滅危惧種的存在の夕刊紙だが、時々ワサビの利いた鋭い記事を書くのは事実であり、その力量は決して無視出来ない。政界において、日本共産党のプレゼンスが決して無視できないのと酷似している。政局でも選挙でも、共産党は「敵の敵は味方」(孫子の兵法にいう「遠交近攻策」)的に利用されてきた歴史があり、そこにユニークなレゾンデートル(存在理由)がある。メインディッシュの「刺身盛り合わせ」にはなり得ないが、「刺身のツマ」にはなり得るといったところだろうか。さて、この記事もなかなかよく書けている。「このまま菅にしばらく続投してもらって、日本中の有権者がトコトン民主党政権を嫌いになればいい──。これが自民党のホンネであり、狙いだ。菅で民主党の支持が下がれば下がるほど、相対的に自民党が浮き上がる。統一選の民主惨敗結果を見れば、それはハッキリしている。『国民は自民党政権の復活なんて望んでいない』と考えている民主党議員が多いが、“時代”は変わったのだ。」なるほど、鋭い分析だと思う。このくだりにはほぼ同感だ。自民党としては、最も書いてもらいたくない種類の記事だったかも知れない。「国民は自民党政権の復活なんて望んでいない」と、民主党議員や支持者が極上スイーツのごとく甘~く考えて油断している隙に、着々と党勢を回復するのがベストなシナリオだったからだ。自民党筋は、「全く『日刊ゲンダイ』め、余計なこと(本当のこと)を書きやがって」と思っているに違いない。こうした情勢の変化で菅降ろしが本格化するのは、自民党にとって痛し痒しの面がある。サンドバッグ状態の菅首相をやりたい放題叩いているのは心地よく、理想的な状態だったが、これでいよいよ重い腰を上げて、現下の重大な国政の舵取りの責任を分かち合わざるを得なくなったともいえる。ともあれ、政局激動の嵐は近く、静けさの中に緊迫感が漂ってきた昨今である。
2011年04月30日
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時田則雄(ときた・のりお)蹠にうれしかりけり春の土命あづけてゐると気づきぬ歌集「夢のつづき」(平成9年・1997)註蹠:「あしうら」と読むのだろう。踏みしめた「蹠(あしうら)にうれしかったなあ、春の土が」「その春の土に命を預けていると気づいた」とは、ぬくぬくと暮らしているわれわれ都市生活者から見ると少し大げさな言い回しのような気もするが、厳しい大自然の北海道・十勝平野で長年農業を営む作者には、まさに春の訪れの実感なのだろう。それが、引き締まった緊密な表現を通して伝わってくる秀歌。
2011年04月29日
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富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)服あふれ靴あふれ籠にパンあふれ 足るを知らざる国となり果つ* けさ29日付読売新聞朝刊1面コラム「編集手帳」で紹介。東日本大震災は本当に不幸な出来事だったが、発生以降、われわれの意識や感覚に明らかに変性が生じ、この歌が嘆いているような気持ちも沁み入るようになった。その点にだけ限っていえば、辛うじていいことだったといえるかも知れない。なお、この一首は各種アンソロジーなどに収録されておらず、出典(掲載歌集)が確認できていないが、ネット上の情報によると、晩年の作といわれる。
2011年04月29日
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時田則雄(ときた・のりお)汗のシャツ枝に吊してかへりきし われにふたりの子がぶらさがる歌集「北方論」(昭和56年・1981)註北海道に生まれ育ち、短歌の鬼と謳われた地元の歌人・野原水嶺に師事し、「男歌」の巨匠・佐佐木幸綱の影響を受け、長年に亘って十勝平野の広大な平原で農業を営みつつ歌を詠みつづけ、自ら「野男(のおとこ)」を誇らしく自称する作者の「骨太短歌」の名歌。その生き方も、明朗で豪快な歌風も、私は深く尊敬している。
2011年04月28日
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くまんパパ ヴェロニカ独り子を遣つかはしたまふほどに世は出来損ひと神懺くいたまふ真理とは何ぞと問ひて総督は手を洗ひたり補助線としてその人の汗をのごひしヴェロニカの涙聖顔布に零こぼれたり犀利なるパウロの予定調和説毛ほどの隙もなきこと緻くはし月は姉日は兄なりとアッシジのフランチェスコは野良にうたへり教会の鬻ひさぐ免罪符のごとく浅き夢みてゑひもせずけりひとり来ていと貴あてやかにかぐはしく宮崎あふひ野原に坐います *アヂフライにまさるものなしこの猫もわれもつくづく安上がりなりおのが名をタベナと思ひ込めるらし食べな食べなと言つてゐるゆゑ大阪と京都と奈良の化かしあひ馬鹿にしあひをあづまより見るたまかつま近江の海のうるほひが鮒を熟なれしむ衣褻なれしむ馬鹿だから反省せぬの言や佳し戦いくさのあとの小林秀雄十三で田山花袋を読みしとふ富岡多恵子阿修羅のごとく* 「オリンパス ペン・ライト」コマーシャル・フィルム(CF)ジョルジュ・ルオー「ヴェロニカ」価格:4,800円(税込、送料無料)自註今回はちょっと小難しい歌が並んでしまった。僕はクリスチャンではないし、たぶん一生入信とかはしないと思うが、もともと割と聖書は好きで、思春期の頃からけっこう読み込んできた。また、鴛鴦の契りを結んだ妻は、偶たまたまだが敬虔なクリスチャンである。その辺りの関心から、これまでも時々キリスト教がらみの歌を作ってきたが、今回は少しまとめて詠んでみたところである。なお、脱稿したのは3月上旬だったので、その直後に発生した今回の大震災は、テーマやモチーフに全く反映していない。2011年3月上旬作著作権を有します。(c) 2011 Daddy Bear Nohara Sakamoto All rights reserved.
2011年04月27日
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坂本野原 「短歌人」5月号掲載作品独り子を遣はしたまふほどに世は出来損ひと神懺くいたまふその人の汗をのごひしヴェロニカの涙聖顔布に零れたり教会の鬻ひさぐ免罪符のごとく浅き夢みてゑひもせずけりひとり来ていと貴あてやかにかぐはしく宮崎あふひ野原に坐います *馬鹿だから反省せぬの言や佳し戦いくさのあとの小林秀雄十三で田山花袋を読みしとふ富岡多恵子阿修羅のごとく* 「オリンパス ペン・ライト」コマーシャル・フィルム(CF)ジョルジュ・ルオー「ヴェロニカ」価格:4,800円(税込、送料無料)自註今回はちょっと小難しい歌が並んでしまった。僕はクリスチャンではないし、たぶん一生入信とかはしないと思うが、もともと割と聖書は好きで、思春期の頃からけっこう読み込んできた。また、鴛鴦の契りを結んだ妻は、偶々だが敬虔なクリスチャンである。その辺りの関心から、これまでも時々キリスト教がらみの歌を作ってきたが、今回は少しまとめて詠んでみたところである。なお、締め切りは3月上旬だったので、その直後に発生した今度の大震災は、テーマやモチーフに全く反映していない。2011年3月上旬作著作権を有します。(c) 2011 Daddy Bear Nohara Sakamoto All rights reserved.
2011年04月27日
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「短歌人」5月号 「三角点」(随筆・論評欄)掲載文 「読む」と「詠む」のあいだ 坂本野原 みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ 大橋巨泉 子供の頃のある日、テレビからこのあやしげな呪文のごとき言葉が流れ出てきた時、すぐにそれが世にいう短歌というものを茶化したパロディらしいことに気づいたが、だから自分でどうこうしようとは思わなかった。ただ、五七五七七というものは凄いと思った。 思春期になると雑多な本を濫読しはじめ、とりわけ現代詩に読み耽った。谷川俊太郎、吉増剛造、富岡多恵子、高橋睦郎ら詩人たちは、今なお矍鑠としておられる。 彼らの近くには歌人・寺山修司がいて、初めて短歌というものと多少まともに向き合った。 十六、七歳になると塚本邦雄に触手を伸ばした。六〇年代に彫心鏤骨の絢爛たる異形の耽美を極めた塚本は、私が同時代的に読んだ七〇年代に入ると、ややゆとりを得て書斎派的な古典の逍遥に遊弋ゆうよくするようになった。その時節に、きらめく数千の鱒卵イクラのごとくに生み放たれた豊穣もまた圧倒的で、歌人という存在に激しく憧れた。 散文の文字や目に零ふる黒霞いつの日雨の近江に果てむ 『されど遊星』 俵万智に『短歌をよむ』という古典的名著があるが、この「よむ」に「読む」と「詠む」が掛けてあることは見やすい。が、実際にはその間に大きな懸隔がある。社会人としてのたつきの慌忙裡に、歌など忘れ去ってしまっていた私だったが、その俵が『サラダ記念日』を引っ提げて颯爽と登場した時にはさすがに衝撃を受けた。とはいうものの、まだ「詠む」に一歩踏み出すには到らなかった。 さらに十年近くも経ち三十代終盤を迎えると、徐おもむろに人生の残り時間を意識するようになり、得体の知れない焦燥に駆られ、結婚もした。短歌も試作しはじめた。ワープロ打ちの詠草をコピーして作った手づくりの「歌集」を、洒落を解しそうな友人たちに勝手に送りつけたりした。そのいささか奇矯な言動は、しかし受け容れられた、というより絶賛を浴びた。持つべきものは友である。今に至るも、ささやかな自恃の支えでありつづけている。(文中敬称略)自註「私の短歌との出会い」というテーマで一文をものせよという、歌誌「短歌人」編集部の求めに応じて書いた。われながら何の取柄もなく恥多きつまらぬ半生であり、身の上話みたいなのはなるべく願い下げにさせてもらいたいところだが、あくまで所与の主題に沿う形で何とかまとめた次第である。
2011年04月27日
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時田則雄(ときた・のりお)ロッキングチェアに凭れて妻がいふ 今日の空 ほら 水浅葱色歌集「夢のつづき」(平成9年・1997)註凭(もた)れる:寄り掛かって体を楽な状態にする。水浅葱色(みづあさぎいろ):ごく薄い藍色。
2011年04月26日
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「彼以外ならだれでもいい」 菅首相、なぜここまで評判が悪いのか【J-CASTニュース 25日】野党はもちろんのこと、与党・民主党内からも、プロの評論家・ジャーナリストたちからも、そして何よりも全国民から、澎湃として沸き起こっている「菅氏じゃダメだ~、もう替えてくれ~」の絶望的な怨嗟の叫び。もはやこれは国民の総意・コンセンサスといっていいだろう。・・・今なお存在するのかどうか知らないが、きわめてコアな民主党支持層を除けば。鳩山前総理によるPART Iは悪夢のホラー&ドタバタコメディ超大作だったが、このPART IIに至っては、愛想もサービス精神のカケラもない主演男優の独善的な一人芝居で、見るものの心胆を寒からしめている。期待の大きさに反して、稀に見る大失敗作である。幻滅・落胆・悪評は日々に高まり、いかなおとなしい日本国民といえども、もはや堪え難きを堪え難くなりつつある。ともかく、四の五の言わずに替えなきゃダメだ、この国が潰れると思うのは僕だけではなく、大げさでもないと思う。なぜ、これほどまでにダメなのか、われわれ国民は実人生で学んできた経験と直感で嗅ぎ取っているが、錚々たるプロの政治ジャーナリストたちは具体的にどこがどうダメだと見ているのか。ひと言でいえば、それはやはり首相自身の自業自得の人間的な問題だという。もはや裸の王様になった菅首相。辞めてもらうためにも、今後の政局を占う意味でも、短文だが必読の記事。
2011年04月26日
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山口素堂(やまぐち・そどう)目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹かつを「あら野」(延宝6年・1678)註同時代の俳人・各務支考(かがみ・しこう)評:「目には青葉」「耳には山ほとゝぎす」「口にはつ鰹」と、いづれも珍しきをならべて、これよこれよとこたへたるにその語分明なるものなり。(どれも珍しい題材を並べて、これだよこれだよと答えているわけだが、その言葉は万人に分かりやすいものである。)決して褒めていない。今の言葉でいえば「キャッチーな模範解答だね」といったあたりか。・・・ヒネリがないね、といった含みすら感じられる。私もある程度同感である。ただ、人口に膾炙するほどの“名句”への「玄人筋」の評価は、しばしばこういった嫌味な言い方になる。これは現代でも大して変わらない現象である。もしあなたが若い実作者であれば、さほど気にすることはないし、気にしない気の強さが肝要であると言いたい。
2011年04月26日
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水原紫苑(みずはら・しおん)死者たちに窓は要らぬを夜の風と交はる卓の薔薇へ知らせよ第一歌集「びあんか」(平成元年・1989)
2011年04月25日
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昨晩、NHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」第15回「猿の正体」を見た。つい最近までは、「のだめカンタービレ大河」だの「フェアリーテイル(おとぎ話)ファンタジー大河」だのと、世評はさんざんだったと記憶している(・・・あ、オレも言ってたか? )が、主人公・江の人間的成長に比例するかのごとく、しりあがり寿(ことぶき)に良くなってきていて、ここ2~3回で前半の佳境に入ってきたと思う。12歳の時、政略結婚で佐治一成(さじ・かずなり)に嫁いだものの、これまた秀吉の政治軍事的都合で早々に仲を引き裂かれ、強引に離縁させられた江が、実はまだ生娘(きむすめ)だったと知ってウハウハ喜ぶ浅井三姉妹「にねえちゃん」の初姫。この作品では今のところ徹底してコメディ・リリーフの扱いらしく、水川あさみさんの次女・お初が出てくるシーンは、相変わらずコント仕立てだが、けっこうスベリがなくて、毎回きっちりと笑わせてくれる。茶々、江のビルの谷間のラーメン屋みたいな僕の好きな初姫(拙作、歌誌「短歌人」3月号掲載)・・・それにしても、生娘、ヴァージン、乙女座 Virgo。・・・いずれ劣らぬいい言葉ではありますのうそして、江が秀吉という権力者の謎に挑む「独裁者側近極秘取材・大坂城潜入ルポ・独占スクープ・要人連続インタビュー」のジャーナリスト的展開が滅法面白かった。脚本・田渕久美子氏の独壇場。細かい伏線が縦横に組み合わされて徐々に期待が盛り上げられた中で、次第に浮かび上がってくる秀吉(この時「羽柴」、まもなく「豊臣」)という日本史上の一時代の寵児の底知れない凄さと魅力。以前にも絶賛したが、演技派・岸谷五朗が、一挙手一投足・一台詞一表情に至るまで計算し尽くした大胆かつ緻密な演技を見せ、それがいちいち見事なドツボにハマって心揺さぶられる。記憶に残っているだけでも、緒方拳、西田敏行、中村トオル、竹中直人、香川照之、柄本明など幾多の名優が演じてきた大役・秀吉に、岸谷によって今新たな1ページが開かれつつある。喧嘩腰で喋って、本音が飛び交って、江を演じる上野樹里の目がみるみる潤んで、大粒の涙が頬を伝った時、人間ドラマとして、前半の一つのクライマックスだったと気が付いた。泣けた。愛すべき直情径行の江を演じる上野の「ウハハハ~、ウへヘヘ~」みたいなベタな泣き方にはちょっと笑えてしまったが、人間、心底感極まると案外こんな風なマヌケな泣き方をするものだと、僕にも思い当たるフシがないでもないこのようにして、サル殿は当時の全ての人心を鷲づかみにした。何ともすごい政治家である。菅首相を筆頭に、今のスケールの小さい政治家たちは、爪の垢かヘソのゴマでも入手して煎じて飲むといいだろう。なにしろ秀吉の存命中は、さしものあの徳川家康だって本気で手は出せなかったのだから(「小牧・長久手の戦い」の鞘当てはあったが、互いの力量を見極めるや否や、すかさずシャンシャン手打ちしている)。江が長姉・茶々に言う。「サルは大嘘つきです。でも、その大嘘の中に『まこと』があるのです。そのまことに人は動かされるのです。心動かされてしまうのです。」歴史上稀なる「人たらし」秀吉を語りつつ、脚本の田渕さんは自らの作劇術についても語っているように思った。いわばドラマの形を借りた「豊臣秀吉論&言語表現論」である。そういえば、われわれ歌詠みも、ウソ(虚構)の中にまこと(まごころ)を詠むことがしばしばある。拳拳服膺するにふさわしい、含蓄に富んだセリフだと思った。なお、ストーリーを中断して歴史や思想の「論文」みたいなものが入るのは、ドストエフスキーや司馬遼太郎の長編小説にしばしば見られる専売特許的な手法だが、田渕女史はたぶんそういうのを読んでるんだろうな~とにらんだ。・・・っていうか、物書きならそりゃ当然か。ところで、主演の上野樹里、回を重ねるごとにキレイになって来ている。ナチュラルで奔放で華やかな安土桃山時代のファッション・髪型が本当によく似合っている。見るからに気の強そうなお姫様の役は、たぶんに地の部分でもあるのだろう。そういう演出もあるだろうが、何やら近寄りがたい貫禄と品格さえ漂って来たな~。天真爛漫な喜怒哀楽や得意満面や、深い苦しみ悩み悔しさの表情も、真に迫っていてすごくステキ~こりゃあ、薩摩・鹿児島の野育ち山出しの少女から、当時の日本のトップレディたる江戸城大奥の頂点に君臨し、その最後を見届けるまでを描いた「篤姫」の宮崎あおいの大女優道まっしぐらの再現だわいと思って、ますます楽しみに見ておりまする~
2011年04月25日
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宮柊二(みや・しゅうじ) わが歌は田舎の出なる田舎歌素直すなほ懸命に詠うたひ来しのみ歌集「純黄」(昭和61年・1986)
2011年04月24日
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宮柊二(みや・しゅうじ)焼跡に溜れる水と箒草ははきぐさそを囲めぐりつつただよふ不安歌集「小紺珠」(昭和23年・1948)
2011年04月24日
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宮柊二(みや・しゅうじ)苦しみて歌つくるわれ楽しみて歌つくるわれ いづれぞわれは歌集「緑金の森」(昭和61年・1986)
2011年04月23日
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宮柊二(みや・しゅうじ)むらさきに菫すみれの花はひらくなり人を思へば春はあけぼの歌集「緑金の森」(昭和61年・1986)
2011年04月22日
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土屋文明(つちや・ぶんめい)この丘も墳つかの南を耕してこまごまと葱ねぎをうゑ萵苣ちさを植う歌集「少安集」(昭和18年・1943)註萵苣ちさ:キク科の一年草または二年草の野菜。ちしゃ。語源は「ちちくさ(乳草)」といわれる。今でいうレタス類の総称だが、品種が多く、この歌の「萵苣ちさ」がどれに当たるのかは不明。いずれも、キク科植物特有の爽快な芳香があり、柔らかくて美味である。■ 四季の野菜「レタス」
2011年04月22日
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坪内稔典(つぼうち・としのり) *葉桜よ黒猫を抱き抱き殺す句集「猫の木」(昭和62年・1987)坪内稔典句集(抜粋) 坪内稔典全句集* 俳号として「ねんてん」とも読む。
2011年04月22日
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坪内稔典(つぼうち・としのり) *桜散るあなたも河馬になりなさい句集「落花落日」(昭和59年・1984)坪内稔典句集(抜粋) 坪内稔典全句集* 俳号として「ねんてん」とも読む。もっとも、ご当人は恬淡たるもので、どっちでもいいみたいである。■ カバに会う 坪内稔典さん【朝日新聞 2009年2月1日付】
2011年04月21日
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大江千里(おおえのちさと)照りもせず曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜おぼろづくよに如しくものぞなき新古今和歌集 55さやかに照り映えもせずそうかといって曇りきってもしまわない春の夜の朧月夜に及ぶものはないなあ。註和歌史上の傑作。曖昧模糊としたイメージに余情(余韻)を感じとる日本人の伝統的な美意識の典型。はてぬ:「果てぬ」だが、現代語と異なり「・・・しきらない」の意味。
2011年04月21日
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「もう帰るんですか!」「私たちのことを無視するんですか!」── 菅首相の福島被災地・避難所への震災後4度目の視察は、怒号と罵声が飛び交い、険悪な空気と冷ややかな視線に包まれて、あわや「首相つるし上げ」の様相さえ呈した。その様子をテレビで見ながら、あ~この人はもう終ってるな~と思ったのは僕だけではないだろう。これまで述べてきた通り、全て本人の不徳の致すところである。僕は決して人の悪口を好む性格ではない。悪口を言えば、ブーメランで自分に帰って来るという処世訓も、その通りだと思う。・・・「ブーメラン効果」は民主党の得意技であるが。しかし、どうもこの総理は本当に心底ダメな人物だと思う。「人間として」という枕詞が付くようなダメさ加減である。これはまぎれもなく悪口になってしまうが、やむを得ない。あの謝り方というか(?)、腰の後ろに手を当てたままお座なりのお辞儀をして「ごめんなさい、知らなかったものですから」はあり得ないと思った。ストレスで腰痛でも発症したのかと、やや好意的な憶測も飛び交ったようだが、なんか人間の基本が出来てないような感じがした。発する言葉も、具体的な中身が全くなくて、「頑張りましょう」とか言うだけ。もう絶望的だと思った。僕は、若い頃から割と政治談議が好きな方で、物心ついた頃から歴代の総理大臣を見てきたが、これほど悪い意味で脱力してしまう人は記憶にない。一刻も早く辞めてもらいたいと思っているのは、僕だけではないだろう。むしろ、今や国民世論の大勢になりつつあると見ている。・・・が、そういう保身的な方面だけはミョ~にしぶとく、粘着質のようである。も~、国民は「マジ無理」なのであるそして今回、四面楚歌の首相に追い討ちを掛けるごとく、あろうことか身内の閣内から、衝撃的で確信犯的な強烈批判が飛び出した。これはもうダメ押しに近い感じがする。あとは首相退陣・内閣総辞職のXデーのタイミングの問題だけとなったといえよう。■ 菅首相に内閣の一員から公然批判【ANNニュース 20日昼】〔ANNニュース全文〕内閣の一員から批判です。一昨日の参議院予算委員会で、震災後の対応について指摘された菅総理大臣は、「国民から一定の評価を得ている」、また、自民党からの原発事故に関する指摘には「全力を尽くしている」と話しました。 このやりとりを見ていた桜井財務副大臣が、自らのホームページで「総理は自分の正当性を主張してばかりいる」と批判しました。政治部・小池直子記者「大震災から1カ月以上が経ち、これまでくすぶっていた菅総理への不満が閣内の一部からも出るなど異例な事態となっています。」桜井氏「謙虚に耳を傾ける姿勢がないと、なかなか皆さんと折り合っていくことができないんじゃないかなと」 また、自身のホームページでは「(菅首相は)自分の正当性ばかりを主張していて、(中略)総理を交代させろという声が出るのは当然だ」と痛烈に批判しています。 小沢グループの議員からは公然と出ていた菅総理の辞任を求める声ですが、その不満が中間派にまで広がったことで、菅総理サイドは強い不快感を示しています。 枝野氏「直接の上司である財務大臣において、しっかりと調査をされて、しかるべき対応をしてもらえるものと思っております。」 小沢元代表と近い政務三役は、内閣不信任案の同調者を既に65人集めたと豪語するなど、菅退陣への包囲網は狭まりつつあります。財務副大臣、首相の人間性まで批判「人としてどうか、だ」【産経ニュース 20日】 民主党の桜井充財務副大臣は20日午前、自身が19日付で菅直人首相の退陣論を是認するメールマガジンを発行したことについて「(参院予算委員会で野党議員が)『このくらいはせめて認めたらどうですか』と問いかけた際に、全部突っぱねられたら、『辞めろ』といいたくなるのも当然だ。こういう(自己正当化に終始する)ことをやっていたら政権がもたなくなるんじゃないか、という意味合いで申し上げた」と説明した。国会内で記者団の質問に答えた。 桜井氏は首相の政治姿勢に関し、「要するに人としてどうかだ」と人間性の問題を指摘。その上で、副大臣という政府の一員の立場で首相を批判したことついて「内閣の一員は全部、(首相が)間違っていようが何しようが、『その通りですね』と言わなきゃいけないのか。私はそうだとは思わない」と語った。ただ、「私は『辞めろ』とは一言も言っていない」とも付け加えた。■ 桜井充メールマガジン 4月19日付〔当該部分〕今回の原発事故に対しては、危機意識、そしてその後の対応が適切だったのか、今後の教訓とする為にも、きちんとしたチェックを行う必要があると思う。 総理の答弁を聞いていて、考えさせられることがあった。何か言われると、必ず自分の正当性を主張する。自分の非を認めると責任論につながると思っているのかもしれないが、今日の様な答弁では反発を招くだけで、総理を交代させろという声が出てくるのは当然のことのように思われた。 最近やたらと流れているACのコマーシャルの中で、「ごめんね」っていうと「ごめんね」と返ってくる。「こだまでしょうか?」という内容のものがあるが、相手を論破しようとするのであれば、相手から論破されるようになるだけである。 この国難の時代に、今のような姿勢を貫いていけば、大連立から始まって、与野党が連携できない、それだけではなく党内をまとめられないのは仕方がないとも思えた。今日の総理の答弁にあったように、今後も総理を続けていかれるのであれば、僭越であることはわかってはいるが、もう少し歩み寄る姿勢をみせていただきたいと思った。
2011年04月20日
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藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)人知れずむすびそめてし若草の 花の盛りも過ぎやしぬらん千載和歌集 888あの日あの時あの場所で人知れずひそかに結び初(そ)めた若草の花の盛りはもう過ぎ去ってしまったろうか(・・・それはまあ、お互いさまだけれどもね)。註てし:能動的完了の助動詞「つ」の連体形「て」に、一般的過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いたもの。若草:歌語として、若く親しい女性を含意。枕詞「若草の」は、「妻、新(にひ)」や古語の「思ひつく(心惹かれる)」などに掛かる。ルイーザ・メイ・オルコットの半自伝的長編小説の原題「Little Women(小さな女性たち)」を「若草物語」と訳した吉田勝江氏の見識とセンスに、改めて脱帽。(若草の花の盛り)も:この「も」に、「あなたもそうかも知れないが、私もそうだ。お互い様ですね」というニュアンスが込められていると読める。(や)しぬらん:動詞「す」の連用形「し」に、完了の助動詞「ぬ」の終止形と推量の助動詞「らむ(らん)」が接続したもの。その前に「や」があるので、全体として疑問形。
2011年04月19日
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若山喜志子(わかやま・きしこ) うす青き信濃の春に一つぶの黒きかげ置き君去いににけり「若山喜志子全歌集」(昭和56年・1981)註明治45年(1912)春、若山牧水と知り合って間もなく、作者(当時・太田)喜志子の故郷である長野・塩尻付近で山歩きの逢引きをした折のことを詠んだ。作者は当時24歳、すでに新進気鋭の歌人として世に出ていた牧水は27歳。その1か月後、二人は結婚している。
2011年04月19日
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若山喜志子(わかやま・きしこ) 春の野の下萌草したもえぐさの朝みどり危あやふくぞおもふ生おひ立つ子等こらを「若山喜志子全歌集」(昭和56年・1981)春の野に一斉に萌え出た草の朝の緑の上を走り回っている生い立つ子供たちを危なっかしいなと思って見ている。
2011年04月19日
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全国ニュースで伝えられている通り、けさ当地の隣町の栃木県鹿沼(かぬま)市で、登校中の小学生の列にクレーン車が突っ込み、児童6人が死亡する凄惨な事故があった。容疑者の供述や目撃証言から、居眠り運転だったと見られる。何とも言いようがないほど痛ましい惨事だった。亡くなられたお子さんたちのご冥福を心からお祈りします。■【栃木・クレーン車、6児童死傷】小6男児の死亡確認 犠牲者は6人に〔産経ニュース 18日〕■ 悲鳴、泣き崩れる女性・・・あたりを歩き回るだけ、呆然の運転手〔産経ニュース 18日〕■「まさかこんなことに・・・」声を震わす周辺住民〔産経ニュース 18日〕
2011年04月18日
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山部赤人(やまべのあかひと)春の野にすみれ摘みにと来こしわれそ 野をなつかしみ一夜ひとよ寝にける万葉集 1424春の野に菫を摘みにとやって来た私は野が懐かしいので一夜寝てしまったよ。註来こし:カ行変格活用の古語動詞「来(く)」に、過去の助動詞「き」(また、その連体形の「し」など)が接続する場合は、連用形でなく未然形の「来(こ)」に付くことがほとんどだった(厳密にいえば、きわめて少数の例外的用例はあるという)。理由はよく分からないが、「来(き)き」などでは語呂が悪かったこともあるだろう。この語法は、現在でも「来(こ)し方行く末」などに残っている。また、それとは別に、「来(こ)ぬ」(未然形・否定)と「来(き)ぬ」(連用形・完了)では意味がほぼ正反対になってしまうのも、この動詞の要注意点である。ルビ(振り仮名)が振られていない場合は、文脈で判断するしかない。野をなつかしみ:「・・・を・・・み」の形で、原因・理由の「・・・が・・・なので(ゆえに)」の意味を示す上古語語法。「を」は間投助詞、「み」は接尾語。現代語の「野を懐かしみ」と同じ形だが、意味・語構成は異なる。
2011年04月17日
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岡野弘彦(おかの・ひろひこ)すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり歌集「滄浪歌」(昭和47年・1972)
2011年04月17日
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佐藤佐太郎(さとう・さたろう)夕光ゆふかげの中にまぶしく花みちてしだれ桜は輝かがやきを垂る歌集「形影」(昭和45年・1970)註輝かがやきを垂る:輝きを(したたり落ちる水のように)垂らしている。自己にも他者にも、歌に取り組む姿勢をきわめて厳しく問うたことで知られる正統派大歌人の秀歌。その厳しさについては、作者の直弟子で私も蔭ながらファンである鎌倉歌壇重鎮の尾崎左永子氏が、数多くの著書などで折に触れて語るとともに、自ら拳拳服膺しておられるご様子である。「しだれ桜」というモチーフ(歌材)は、歴史的には比較的新しいものではないかと思うが、この歌をもって、双六でいうならば「上がり」になったとさえ思う。・・・かくも見事に詠まれてしまったのでは、後続の歌詠みたちは、ずいぶんと詠みにくいのである
2011年04月16日
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伝・徳川家康人の世は重き荷を背負うて遠き道を往くが如し註人の世:一世。一代。人の一生。「君が代」の「代」と同じ。日光東照宮、すなわち徳川家康公霊廟のお膝元である栃木県民の私は、しょっちゅう日光に遊びに行っているが、いつ行っても土産物店には、この言葉を彫り込んだ、あるいは刷り込んだ民芸品がずらりと並んでいる。生前の家康公が本当にこう言ったのかどうかはよく知らないが、いかにも言いそうな言葉ではあり、その波乱万丈と隠忍辛苦の生涯を見事に要約している。和歌・短歌ではないが、まことに名句であるというほかはない。なお、さらに「急ぐべからず、焦るべからず」の一行が添えられている場合もあるが、これはちょっと説明的であり、クドい感じがして蛇足だと思うのは、歌詠みの感じ方だろうか。今回日本人に降りかかった大震災の苦難に際して、偉大な「忍耐の先達」のこの言葉が、ふと思い起こされた。
2011年04月16日
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俵万智(たわら・まち)さくらさくらさくら咲き初そめ咲き終わりなにもなかったような公園歌集「サラダ記念日」(昭和62年・1987)註作者・俵さんの「推敲魔」ぶりは、短歌ファンにはかなりよく知られている。この歌の一見そっけない、ややすっとぼけた表現も、ここにたどり着くまでには相当な推敲・改稿を重ねたんだろうなと、実作者の端くれとして十分推測でき、惻隠の情(?)すら覚えてしまう。そして、出来上がった作品は、大げさにいえば、ある種の仏教的諦観のごとき「もののあわれ」さえ漂わせつつ、よりナチュラルな表現になっている佳品である。小野小町の現代的変奏曲とでもいうべきか。
2011年04月15日
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今回の大震災は、後世史家からは「平成東北大地震」「平成三陸大津波」などと呼ばれるのだろうか、歴史的に稀に見る天変地異であったことは疑いなく、平安時代に今回と同じ三陸地域を襲ったという貞観(じょうがん)地震(869年)が引き合いに出されている。加えて、福島原子力発電所のいつ果てるとも知れない危機的状況は今なお現在進行形であり、とりわけ東日本在住の国民の頭上には重苦しくのしかかり続けている。事態の一応の収束に数か月単位の時間が掛かる見通しだと聞くと、気が短い私などは本当にイライラし、気が滅入るばかりだ。アメリカという国にとって「9.11」という日付が画期(エポック)であったと同様、日本にとっては「3.11」が、それ以前とそれ以後をはっきりと劃(かく)する重大な日付になった。このような状況下で、この国の将来への不安感もあいまって、当然といえば当然だが、国民の心理状態は深層でかなり激しく動揺している。言葉を変えれば、殺気立っている、ヒステリックになっている。内閣調査室、公安調査庁、警察庁・警視庁をはじめ各道府県警察の公安部門は、厳重な警戒態勢を布(し)くようお願いしたい。一部マスメディアは危機感を煽り立てている。マスメディア(マスコミ)各社は、決してボランティア活動をしているわけではなく、それぞれ営利企業に過ぎない。平たい言葉でいえば「商売」である(NHKは除く)。悲観論的な危機感や、あることないこと書き立てて煽れば煽るほど売れる(視聴率が上がる)仕組みになっている。センセーショナリズム(煽情)の単細胞原理である。マスコミとは、本質的にブラック・ジャーナリズムの悪魔的側面を持っている。話半分ぐらいに聞いておいて間違いない。・・・が、中にはこれらの煽情的な報道などを真に受けて「臨界状態」となり、「炉心溶融(メルトダウン)」を起こして予測を超えた行動・実力行使に打って出る者や集団がいないとも限らない。現在、被災地では火事場泥棒的なセコイ犯罪の多発が伝えられており、それはもちろんけしからぬことではあるが、少し引いた視点から見れば、ジャン・バルジャン的な同情の余地のあるもの、または単純で可愛いものだとすら言い得るのではないか。1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の数か月後には、あの忌まわしい「オウム真理教事件」が発生したことは記憶に新しい。むろんそればかりではない。1923年(大正12年)の関東大震災後にわが国に起こった一連の歴史的出来事も、震災による何らかの深層心理的な影響がなかったとは言い切れない。公安組織は、潜在的に暴力指向性を持つ集団をすでにリストアップしており、それらへの監視活動はおさおさ怠りないと思うが、その他の不測の事態を含めて、警戒と予防に余念がないよう、衷心からお願いしておきたい。
2011年04月15日
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政局は、菅首相の退陣(=内閣総辞職)を前提条件に、民主・自民両党が「救国大連立」政権を組む方向で大勢が固まった模様である。すでに底流ではこの路線に沿って動き出しているという。4日付の読売新聞が掲載した全国世論調査によれば、今回の大震災を受けての大連立については64%の国民が支持している(不支持は27%)。私の周辺に多い自民党支持層も、おおむね支持または容認している。ただ、公明党は慎重、ないし難色を示していると伝えられる。13日付の読売新聞朝刊1面トップ記事によれば、政府・民主党は「子ども手当て」を(9月支給分を最後に)廃止すると決断した。このような、5秒でできるような当然の決断に1か月以上も掛かったことに、むしろ民主党政権の無能さを見る思いだが、まあ全く決断できないよりは幾分マシというべきか。その他の民主党「マニフェスト」政策も、早晩全て打ち切られる見通し。これによって、自民党への手みやげができ、大連立への道筋の露払いとなった。あとは最大の隘路(ネック)となっている菅直人首相の首級(くび)を取って差し出すだけの運びとなった。菅首相の無能さダメさ加減については、このブログでもやや執拗なぐらい書いてきたが、むろんこれは私だけが言っているわけではなく、信頼しうるあらゆる政治評論家や識者、ブロガー仲間も異口同音にボロクソに言っている通りだ。自分のこと(保身)しか考えない、考えられない、記憶にある歴代最悪級の首相と断じて間違いない。本質的にナルシシストでスタンド・プレーヤーである。その中身はスッカラ菅のカラッポである。首相の機能は、政府をはじめとする官民の、多岐にわたる役割分掌のチームプレーの総司令塔であることだが、それが全くできていない。国民は見抜いており、うんざりしている。1995年の阪神淡路大震災の際は、時の社会党・村山富市首相は発生後数日間の初動の遅延を強く批判されたが、すぐに連立を組んでいた自民党から大物・小里貞利氏を震災対策担当大臣に任命、ほぼ現場の全権を委任して官民を使いこなし、もちろん自民党も長い経験を生かして全面協力、全体として復興はスムーズにいったと評されている。■ 小里貞利・元震災対策担当大臣インタビュー「指揮系統、機能的ピラミッドに」「災害に強いまちづくりを」「与野党協力と大連立は別次元」【時事通信・時事ドットコム 14日】政治主導のお題目のもとに、何でも菅でも自分独りで抱え込み、トンチンカンな指示をわめき散らし、机を叩いて怒鳴りまくっていると伝えられるどこかの御仁と違い、周囲の進言を素直に受け止め、ノウハウを持つ専門の司々(つかさつかさ)に任せた村山首相も、器が大きかった。一定以上の評価ができるのではないだろうか。やはり、昔の政治家には、その政治信条・理念のいかんに関わらず、「この国と国民は俺が守る」「何かあったときには、俺が責任を取る」という強靭な気概があったような気がする。・・・いや、今の政治家にだって、それはあるのだろう。菅首相があまりにもヒドすぎるだけなのだろう。菅氏は首相就任前から、人望のなさと自己中心性、無意味な目立ちたがり癖を危惧されていたが、就任後、国民はそういった欠陥を毎日まざまざと見せ付けられることになった。全く、国民は高い授業料を払ったものである。従姉(いとこ)で猛女の伸子夫人の言うことだけは聞くらしい。宮川大助・花子の漫才なら笑って見ていられるが、こと政治の世界では全然笑えないのである。私も含め、もうテレビで首相の顔を見たくないという人は多い。不人気・不支持率も最悪水準である。国民はダメおやじ菅首相と心中するつもりなど毛頭ないので、できるだけ早く首をすげかえてスッキリサッパリすることが全ての大前提である。さて、その「使用済み菅燃料」の廃棄処理の手順であるが、いやしくも一国の首相に引導を渡す以上は、花道で見栄を切らせて多少は形だけでも顔を立ててやるのが武士の情けというものであろうから、とりあえず震災復興対策を盛り込んだ第一次補正予算案が成立し次第という辺りが妥当であろうか。いずれにせよ、この春のそう遠くない時期に断髪式の運びとなる。なお、大連立は1年間ぐらいの時限で実現され、その後速やかに衆議院解散・総選挙が行われ、政権が再交代する見込み。これによって日本は救われ、われわれは憂いなく国難からの脱出と復興への道を力強く歩みだすことになるだろう。
2011年04月14日
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ブログの本旨とは全然関係ありませんが、左サイドバー最上段に有無をいわせず強制表示されるPRコーナーが、4~5日前あたりから「大人気! セシールの『美映えパンツ』」になってます。・・・ふむふむ、なるほどキレイな脚してますね~。健康で元気なオヂサンといたしましては、これを気にするなという方が無理な相談でありまして、自分の書いた記事より先に目に入ってしまい、も~気になって気になって仕方がない(笑)3人のモデルさんが、いずれおとらぬ健康的な三美人で、思わずクリックしてしまいます。・・・う~む、大きな写真でも、やっぱりキレイだわ~。そう言っては悪いかも知れないが、美人すぎないところがリアルで、なおさら親しみが持てる。20歳若ければほっとかなかった、とか何とか言いつつ。今はまあ、目の保養ですね~・・・何をトチ狂ったこと書いてんだ、オレ?
2011年04月13日
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穂村弘(ほむら・ひろし)終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて歌集「シンジケート」(平成元年・1989)註奇才の歌人として、説得力ある気鋭の歌論者として、今や歌壇をリードする梟雄の一人である作者を代表する秀作かと問われれば、たぶんそうではないと答えるだろう。穂村氏の真骨頂は、もっとクールでドライで理知的で、場合によってはある種冷酷な辛辣さすら感じさせるような抒情とユーモアだと思う。・・・が、好みでいえば、この歌はマイ・フェイバリット(お気に入り)な一首である。完全に愛誦歌となっている。ただ、どこがどう好きなのかといわれても明確には答えられない。とにかく、うっとりと陶酔してしまうのだ。惚れたハレたとか愛だ恋だとかはほぼ卒業した子持ちの中年男の私であるが、どうもそういう「ロマンティックな」ものへの憧憬は、今なおわが内にそこはかとなく燻(くすぶ)っているらしい。芸術作品などに関して、あまりにも好きすぎて客観的な評価が出来ないというのは、けっこうあり得ることだと思うが、僕の場合、この歌がそれに当たる。穂村氏の評価として、「今風」の表現上の意匠はともかく、本質的な部分に意外と古典的な感性があるという指摘が多いが、こういう歌を読むと、なるほど納得という感じである。なお、「紫の<降りますランプ>」は、言い回しとして的確であると同時に、いかにも作者持ち前のメルヘン的な「ドラえもん用語」という感じも漂い、微笑ましくもある。
2011年04月12日
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泉谷しげる春夏秋冬春をながめる余裕もなく夏をのりきる力もなく秋の枯葉に身をつつみ冬に骨身をさらけ出す昭和47年(1972)4月25日アルバム「春・夏・秋・冬」発売、発表■ 歌詞全文
2011年04月12日
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昨日投開票が行われた統一地方選挙の前半戦で、かねてからの大方の下馬評通り、民主党は惨敗した。特に、自民党とのガチンコ勝負となった選挙区では全敗という、この上ない恥さらしな結果に終った。全責任は、民主党代表である菅直人首相にある。直ちに責任を取って辞任(首相退陣、内閣総辞職)、または衆議院解散総選挙で民意を問うべきだ。・・・などと、こんなところで言ったところで、どうせ馬耳東風、柳に風を決め込んで今後も居座るつもりだろうけれども きのう首相は、周辺・党内のみならず全国民の反対を押し切って、被災地を訪問したらしいが、具体的な対策は一言半句も語ることなく、拳(こぶし)を空に高々と挙げて「ガンバロー!」って、それいったいどういうこと~?毛ほども理解不能な、スッカラ菅でアッケラ菅のパフォーマンスであった。■「がんばれしか言えないのか」菅首相が視察の石巻で住民が不満の声【産経ニュース 10日】首相失格というよりも、「人間失格」という感じが、ますますみなぎってきている春爛漫である。・・・案外、太宰治っぽくてカッコイイかも知れないが 国民は、もう限界、マジ無理~っ!という気分なのである。ちょっと言いすぎかも知れないが、日本の癌の「癌首相」なのである。国民の不幸のどん底は、まだまだ何年も続く。二年前にこんな政党を選んでしまったことは、悔やんでも悔やみ切れない、取り返しのつかない国民の失策であった。今、われわれ国民は天罰を受けているのかも知れないいつになるのか分からないが、主権者たる国民は、せめて次の衆議院総選挙では、この無為無定見無能無策な政権に必ず怨嗟の冷厳な一矢を報いなければならないだろう。
2011年04月11日
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けさの産経新聞にちょっと驚くべき記事が載っており、目が釘付けになりつつわが目を疑い、やがて目が点になった。■ 首相官邸機能せず 「開かずの扉」のその奥は・・・【産経新聞 10日付朝刊】うわ~、これは事実か? 本当なのか?一国の首相である菅直人という男は、ここまで無能なのか?・・・いや、かねてから無能だとは思っていたけれども、正直言ってこれほど真性とまでは思っていなかったこれはヒドイ、ヒドすぎる。現在、首相官邸をはじめ日本政府の中枢は全く機能していない。愕然としたというより、絶望感にうちひしがれてしまった。・・・ちょっと今日は忙しいのでこのぐらいにしときますが、皆さんにも上記リンク先のご一読をお薦めします。官僚、首相の指導力に不満「信用されてない」【読売新聞 10日付朝刊】 東日本大震災から1か月を機に、読売新聞は中央省庁幹部を対象に政府の対応に関する聞き取り調査を行った。 調査結果からは、菅首相の指導力や危機管理能力に対する危機感が霞が関を覆っていることが浮き彫りとなった。 「国難の時に、役人はいくらでも仕事をしたいのに、役所や役人を信用していない」。消費者庁幹部は、内閣官房参与ら民間スタッフに意見を求め、官僚への不信感を隠さない首相への不満を口にした。「こういう時に『小泉(純一郎元首相)待望論』が出る。この人になら命を預けてもいい、と思って仕事がしたい」と悔しがる幹部もいた。
2011年04月10日
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現在、所属結社誌「短歌人」の6月号詠草(短歌原稿)締め切り間際で呻吟しており、僕にとってすっかり毎月上旬の恒例行事となってしまった“急性短歌ノイローゼ状態”である。今ちょっとブログの方までアタマが回らないので、もうしばらく御免蒙(ごめんこうむ)りまする~。日頃から、時事詠(ニュース的な事柄を歌に詠む)とか題詠(与えられた題を詠み込む)とかのたぐいは大の苦手なのだが、今回ばかりは何が何でも震災という「時事」を詠まなくてはならないという心境である。「時事詠に秀歌なし」ともよく聞くが、今はそんなこた~どうでもいいやという、一種の緊迫感と義務感めいたものがある。・・・というより、こういった状況下では、ほかにテーマ(主題)とかモチーフ(歌材)が全く思いつかないのも実情である。特に、東日本に在住の方であれば、これはあながち僕だけの心持ちではないだろう。先月11日の大地震発生直後からぼちぼち作り始めて、はや1ヶ月近くになるので、試作(エチュード)はカレンダーの裏側にびっしりと、出来不出来を不問とすれば優に100首のオーダーになった。我ながら、本当に短歌という表現形式が好きなんだな~というプライベートな確認作業にはなったものの、表に出せる出来栄えの作品はほんの僅かだと思う。まことに、時事詠は難しいですのう。・・・やっぱり苦手だわ 真っ向まともな正統派震災詠は、ほかにいくらでも上手な歌詠みの方がいらっしゃるので、そういう皆さん方に任せることにして、できれば僕は発想にひとヒネリがあり、不謹慎にならない程度に変テコリンな味わい(「特殊抒情」?)がある歌を選んで出したいと、無い知恵を絞って腐心しているところです~
2011年04月09日
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穂村弘(ほむら・ひろし)ハーブティーにハーブ煮えつつ 春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり歌集「シンジケート」(平成元年・1989)* 「シンジケート」連作50首の「角川短歌賞」次席入賞(初出)は、昭和61年(1986)。註こういった感じの歌がずらりと並ぶ穂村氏の初期作品群には、おそらく、深い形而上学的な意味が隠されているのかも知れない。あるいは、もしかすると何の意味もないのかも知れない。・・・などと、とつおいつブツクサ考えつつ、ネット上で調べてみると、こういうのに突き当たった。■ 高柳蕗子氏による、この歌の読解おわ~っ、 なるほど、完璧だ~。確かに、間違いなく、こういう風に読むべきに相違ない。世の中には、頭がいい人がいるもんだな~。・・・というか、穂村氏の歌ってのは、こういうレベルの解釈を普通に要求するってことだろうか。こりゃとてもじゃないが、住んでいる世界が違いすぎて、お手上げどす~・・・とはいうものの、意味が分からないなら分からないなりに、何となく面白く楽しめてしまうのも事実で、そういうところもスゴイとしかいいようがない。しかも、ぶっ飛んだ言い回しの中に、きちんと「春の夜の」春風駘蕩とした感じさえ醸し出されているのが犀利。改めて体勢を立て直していえば、少なくともここには、まぎれもなく一つのドライで硬質で濃密な抒情があり、それはやはり詩歌の本質的なものに迫っているのだと思う。
2011年04月08日
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宮柊二(みや・しゅうじ)一本の蝋燃もやしつつ妻も吾あも暗き泉を聴くごとくゐる歌集「小紺珠」(昭和23年・1948)註蝋:蝋燭(ろうそく)。
2011年04月07日
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前川佐美雄(まえかわ・さみお)野にかへり幾億万の花のなかに 探したづぬるわが母はなし歌集「白鳳」(昭和16年・1941)註たづぬる:現代語「尋ねる」ではなく、古語「尋ぬ」の連体形なので、この形になる(意味は同じ)。例えば、「足りぬ(足りない)」(現代語「足りる」の未然形)と「足らず(足らぬ)」(古語「足る」の未然形)の関係のようなものである。短歌などの文語的表現では、古語の活用形は現代でも普通に用いられ、しばしばきわめて効果的なニュアンスをもたらす。この歌の意味内容については、リアル(現実)なのかシュール(超現実)なのか寡聞にして知らないが、美しさと寂しさの抒情を兼ねそなえた、モダニズム歌人の面目躍如の秀歌といえるだろう。
2011年04月06日
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日曜夜、いつものようにNHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」の第12話「茶々の反乱」を見た。結論からいうと、かなり楽しめた。「評判悪いけど面白い」というpopy5333さんの意見に一票。評判が悪いのは、ひとえに田渕久美子原作・脚本の時代考証・歴史解釈(歴史改変・・・捏造?)が奔放すぎる、あるいは戦国時代を描くのに現代の民主主義・男女同権的な価値観を安易に持ち込みすぎているといった側面であり、「フェアリーテイル(お伽話)ファンタジー大河」と揶揄されていることにも、かなり同意する。今回も、身分こそ高いが寄る辺なき哀れな孤児(みなしご)の三姉妹が、秀吉に反抗して「ハンガー・ストライキ」だって!?深く考えなくたって、それ絶対あり得ませんから。田渕氏が、古代ギリシャ喜劇、アリストパネス「女の平和」を読んでいることは分かったが、これを戦国乱世に換骨奪回するのはどう見ても強引すぎると思った。女の平和価格:2,100円(税込、送料無料)・・・とはいうものの、「NHKスペシャル」の歴史捏造・政治的偏向問題などとは異なり、娯楽時代劇としては、諸手を挙げて賛成とまでは言わないが、ストーリーの膨らませ方としてはギリギリ受忍限度内といえるかな~?ホームドラマ風予定調和的な展開だったが、面白かったことは面白かったし、クライマックスでは泣けもしたので、まあ今回は不問に付すとしよう。・・・すいません、なんで俺こんなに上から目線なんだろ?閑話休題、それにひきかえ、役者の演技面では今年の大河は相当スゴイなと思う。まず、なんと言っても岸谷五朗の“チョイ悪”秀吉。全てのシーンで、一挙手一投足、一台詞一表情に至るまで研究し計算し尽くされ、ほとんどの芝居においてリアルさの上に微妙なデフォルマシオン(意図的誇張)を乗せていることがありありと分かる。気合い入りまくりである。それでいて、全体の間と流れは全く不自然さがなく、超スムーズ。かねがね上手いとは思ってたが、ここまでとはね~。独壇場ではないか。こりゃ「男杉村春子」だと感服。多少やりすぎ・作りすぎ・コミカルすぎという意見もあるし、見る人それぞれの好みもあろうが、何せまだまだ伸びしろのある演技派俳優の岸谷のことである。あまたの名だたる歴代名優が演じてきた豊臣秀吉という「超大役」を演じるに当たって、これぐらいやらなくちゃ埋没してしまうぞよ~という、芸能「業界」的な玄人筋の評価の“大人の事情”があることも斟酌しなくては気の毒であろう。そういった消息は、どこの世界にもあることだ。わが「歌壇」(短歌業界?)といえども、もちろん例外ではない。俵万智さんが「サラダ記念日」を引っ提げて颯爽と登場した直後、たちまち多数の熱心な信者を獲得する一方、守旧派のバッシングたるや凄まじいものがあり、25年経った今もなお記憶に新しい。「こんなものは短歌でない」という、旧陸軍内務班系、もしくは小姑お局さま系の定番新人若手いびりはもちろんのこと、「いい子ぶりっ子」などの人格攻撃や「タヌキ顔のクセに~」なんていう顔面攻撃まであり、俵さまフリークの僕としては同情を禁じえなかった当時、誰が俵さんをいじめたか、ファンはきちんと記憶している。その後、声望高まる一方の歌の女神の前に、理不尽な攻撃者は全て滅んだ、自滅した。ちなみに、当時も今も歌壇重鎮の岡井隆「未来」主宰が、俵さんをいち早く評価して、自らも批判者のとばっちりの火の粉を満身に浴びた武勇伝は、改めて特筆大書に価するといえよう。この事績によって、岡井氏の選歌眼も評価されたという「逆七光り効果」があったのは事実と思う。このように、誰が勝利者であるかは、時の流れが解答する。表現者は、すべからく気を強く持つべきだ。気が強いことは、あらゆる表現者の「いろはのい」の要諦である。現在では、思想史的な観点から、俵さんはたった一人で「反体制的な全共闘運動の余燼とジェンダーフリー・フェミニズムにとどめを刺したジャンヌ・ダルク」といったあたりが、彼女の驚異的な業績の最大公約数的評価であろう。このように、新基軸には賞賛と批判は常に付いて回る。岸谷も戦っているというべきだ。ともあれ、岸谷の表現意欲と意気込みを、もちろん僕は評価する。まだ先は長い。彼の大胆な挑戦と冒険を温かく見守りたいものである。そのやんちゃな秀吉の正妻・お寧を演じる、現在日本演劇界のトップ女優・大竹しのぶの落ち着いた演技も、定石通りながら巧まざる巧みの極み。彼女の手綱の締め具合が、役柄の上でも演技の上でも成否を握っているといえる。加えて、萩原聖人の、ちょっと気弱でオロオロしがちだが、ソツなく知的で気が利いて心優しいナンバー2の三成が、破天荒秀吉とのベスト・マッチングで、まさに天の配剤。そしておあとに控えしは、北大路欣也の家康のさすがの貫禄。ただ黙って坐って映ってるだけでも、何を考えているのか分からないが最後には必ず勝者となるだろうな~と思わせる圧倒的なカリスマ感を醸し出して、重量感溢れる人物造形。・・・僕は性的には全くノーマルだが、こりゃ男も惚れますわ~石坂浩二の千利休は、この人については常に言われる通り、やや優男の二枚目にすぎるが、余人を以て代えがたいというほかはないハマリ役。現在のベストなキャスト。・・・鑑定士・中島誠之助さんもご納得だろう。そしていよいよ、輝く女優陣 鈴木保奈美のお市の方亡きあと、ここ2回ぐらいは実質的な主役といえる宮沢りえさまのお茶々様の、楚々として凛たる意志の強さを秘めた美しさが、もののあわれの極致。最近少しダイエットしすぎではないかと、女性週刊誌などで陰口を叩かれていたりえさまだったが、この役柄には全くもってうってつけ・もってこいのはまり役となった。・・・で、ここまで環境諸条件が整っていて、しかも今やおのれの掌中にある珠玉のごとき彼女を、手付かずでほっとくわけがないだろうな~と、完全に秀吉の目線に同化して見てしまった(笑)そういえば、お市の方、淀殿(茶々)、お初の方、お江与の方(江)には、それぞれよく知られた立派な肖像画があり、今に伝えられている。詳しくはないが、戦国時代当時の係累の女性の肖像画が、これほどまとまって残っているのは珍しいことなのではないだろうか。やはり美人親子・三姉妹として当時から有名だったのだろうな~と想像を逞しゅうしてしまう。江の肖像画も、剃髪後の晩年のものだろうが、当時の美人の条件である切れ長の眼と下ぶくれの輪郭を備えており、母・お市の方の面影も確かに感じられる気がする。伝えられる通り、さぞや気が強くて気位の高いお姫様だったろうなと思わせる美しさと凄みを湛えている。敵に回したくない感じだ。その江を演じている上野樹里さんは、今のところ錚々たる役者の芝居の狂言回し的な役どころであり、まあ当分はこんなもんでいいんじゃないんですか~と思って見ている。わがまま勝気な次女の初姫は、後に天下を巡って対峙した徳川方と豊臣方の調停・つなぎ役に奔走した誠実・真摯さを思えば、たぶん史実の人物像とはまるっきり違うんじゃないかと思うが、演じている水川あさみさんは可愛くてキュートでお茶目、見ていて楽しい
2011年04月05日
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永井荷風(ながい・かふう)震災今の世のわかい人々われにな問ひそ今の世とまた来る時代の藝術を。われは明治の兒こならずや。その文化歴史となりて葬はうむられし時わが青春の夢もまた消えにけり團菊だんぎくはしをれて櫻痴あうちは散りにき。一葉いちえふ落ちて紅葉こうえふは枯れ緑雨の聲こゑも亦また絶えたりき。圓朝えんてうも去れり紫蝶してふも去れり。わが感激の泉とくに枯れたり。われは明治の兒なりけり。或年あるとし大地俄にはかにゆらめき火は都を燬やきぬ。柳村りうそん先生既になく鴎外漁史おうぐわいぎよしも亦姿をかくしぬ。江戸文化の名残烟けむりとなりぬ。明治の文化また灰となりぬ。今の世のわかき人々我にな語りそ今の世とまた来こむ時代の藝術を。くもりし眼鏡をふくとてもわれ今何をか見得みうるべき。われは明治の兒ならずや。去りし明治の兒ならずや。詩集「偏奇館吟草」(昭和18年・1943)註(われに)な問ひそ:(私に)問うなかれ。訊(き)くな。「な語りそ」は、「語るな、言うな」。とくに(枯れたり):疾(と)くに。とうに。とっくに。「特に」ではない。われは明治の兒ならずや:私は明治の児ではないのか(反語的強調表現)。明治という時代の子なのだ。(・・・このくだり、ちょっと山下達郎「アトムの子」の歌詞を連想した。)大正・昭和前期の文豪・荷風が、和歌的・擬古的な文体でその真情を吐露した、近代詩の名篇。大正12年9月に発生した関東大震災を、江戸期から脈々と受け継がれて明治期に大輪の花を咲かせた歌舞伎や落語や戯作(げさく)などの庶民文化や、荷風自身もその一翼を担った新時代の文学・芸術などの「喪失」として捉えた視点が鮮烈である。喪失感は、いつの世も詩歌の大きな源泉の一つである。もちろん、そこに「失恋」も含まれることは言うまでもない。現代のJ-POPの歌詞などを見ても何ら変わりはない。・・・そういえばこの詩の詠みぶりは、荷風が育まれ魅惑されてやまなかった明治の文化への失恋の歌といってもいいぐらいにも思える。こういった、ある意味文弱な内容の詩集を、あの戦争中に出していたらしい。公然たる検閲のあった時代、すでに広く知られた「老大家」だったから黙認されたのだろうが、本当に凄い「非国民」である。僕は健全な保守主義に則りたいと願っており、明治以降のわが国のいち早い近代化は世界に誇るべきものだったと総括するが、昭和の大戦に到る10数年間ほどは、やはり日本人は少し正気を失っていたと思っている。昭和天皇陛下の宸襟(しんきん)を悩ませたもうたことは、当時の軍部・政治家、そして付和雷同の新聞(今でいうマスメディア)の万死に価する大罪だったと言わざるを得ないだろう。谷崎潤一郎も、戦時中ずっとあの繊細優美にして軟弱な「細雪」をシコシコ書いていたらしい。私にとっても、小説の中で五指に入るほど好きな作品である。当時の苛烈な時局柄、伝統的な美意識への屋内退避という限界はあるが、時代そのものが充血していた中ではやむを得なかったろう。その反骨精神は、これもまた紛れもなく一つの日本男児・益荒男(ますらお)の決意と行動であると、特に強弁しなくても優に言い得ると思う。改めて尊敬してしまう。
2011年04月04日
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前川佐美雄(まえかわ・さみお)国のまはりは荒浪くわうらうの海と思ふとき 果てしなくとほき春鳥のこゑ歌集「白鳳」(昭和16年・1941)
2011年04月03日
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前川佐美雄(まえかわ・さみお)いきものの人ひとりゐぬ野の上の 空の青さよとことはにあれ歌集「白鳳」(昭和16年・1941)註とことは(とことわ):永久。悠久。
2011年04月03日
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岸上大作(きしがみ・だいさく)坂多き街に一日ひとひを吹きて来てすでに湿りを奪われし風歌集「意志表示」(昭和36年・1961)註半世紀以上も経ち、私もリアルタイムで見たわけではないが、戦後という時代が若かった頃の出来事として語り継がれる「60年安保闘争(1960年・日米安全保障条約反対闘争)」の渦中に、学生の一人として参加後、自死した作者の伝説的な歌集より。政治的な立場としては、彼らが打倒の目標とした自民党政権の怜悧な判断が全く正しかったことは、歴史の審判を経た現在ではますます火を見るより明らかであり、彼らの左翼的な主張に鴻毛ほども与(くみ)することはできない。・・・にもかかわらず、作者が遺した歌の数々には、珠玉のような青春の墓標の清冽な抒情が満ち満ちている。そのことのみは疑う余地がないだろう。それにつけても、昭和14年(1939)生まれの岸上大作が、あの時もし逝かなかったとすれば、現在は72歳前後ということか。光陰矢のごとしというほかはない。
2011年04月03日
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吉井勇(よしい・いさむ)いまの世をいかにか思ふ かく問へど人にあらねば比叡は答へず今の世をどう思うか。こう問うてみても人ではないので比叡山は答えない。
2011年04月02日
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斎藤史(さいとう・ふみ)くろぐろと裂けし谷間の夜よのふかさ 照りてとどかぬ月渡りつつ歌集「うたのゆくへ」(昭和28年・1953)
2011年04月02日
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斎藤史(さいとう・ふみ)白い手紙がとどいて明日は春となる うすいがらすも磨いて待たう第一歌集「魚歌」(昭和15年・1940)
2011年04月02日
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