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仕事のあと、夫と日暮里で待ち合わせて、谷中のギャラリーで3週間公演をやっている芝居を見に行く。雨の日暮里、谷中の墓地の手前。ここにくると昔、第七病棟の芝居を見に来たものの入れなくて困っていたら、颯爽と麿さんが現れて、駱駝艦に出入りのあった連れが挨拶をしたので、これは入れてもらえるかもと思ったら、「お前ら入れないのかあ、オレは顔パスだ!わっはっはっは!」と上演場所だった銭湯に入っていったのを思い出してしまう。で、上演場所は駱駝つながりで、屋上にラクダのフィギュア(なんていったらいいの?張りぼて?)のあるギャラリーでした。「あさかめ」というユニットで、これが第三回公演かな。なかなか意欲的に活動していて、ずっとウチの公演とかぶっていたりして見に来れなかったの。制作的なところでは、進め方とか、パッケージとか、いいなあと関心したのですが、芝居自体が期待したものよりずいぶん「あれ?」となってしまって。演出とか戦略があるにせよ、ギャラリーというつるんと密閉された小さな空間で、生活感のない抽象的な世界を描こうとしてるにせよ、実感とか瞬間というものがずいぶんスルーされている演技で、それが見づらいのだ。劇中で知らない人に出会うのなら、出会った瞬間(その時点の距離感)がないと、ちょっと見づらい。初対面なのに、初対面らしからぬ態度の面白さも、その距離が基本にならないと半減してしまう。もちろんセリフの中で初対面だの、隠し事があるだのは説明されるのだけれど、それを全部瞬間という句読点で区切っていないので、非常に印象としては押せ押せに演じられているように思える。わたしも多分、20代は「押す」以外の芝居はできなかったのでまた別の感慨もあったのですけれど。「押す」しかできなくても、「押さない」ということは(という意志は)できるかも。「引く」はまだまだできませんけれど。こんな風に芝居を見るようになったのはロンドンの小劇場を見るようになってからかもしれないです。大作ミュージカルとか老舗ストレートプレイじゃなくて、パブの2階とかのフリンジシアター。怖ろしいほど自分たちと似たような芝居をしている人たちがそこにいて。限られた人数、転換できないセット、限られた空間、劇的に変化できない照明、身近な話題と設定。でも観客が目で追うのは、その変わり目なんですな。役者の美醜でも、意外な展開でも、可笑しいセリフでもなくて。狭いところで、じっと限られた人間を見続ける、そういう時間の中で見ていくものは。その瞬間さえ、きちっと見せられればどんなワンシーンを切り取ったってお芝居になると思います。ただ単にセリフが理解できないっていうだけのアレかもしれませんけれど、今は普段見る芝居でも、だんだんそういう目になってきているように感じます。とはいえ、ちょっと見て、「もう見るべきものなし!」っていうユニットではなく、頭の良い、貪欲な、それでいて可愛らしい人たちなので、今後何を出してきてくれるか期待し続けられると思います。
2006.12.09
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本日は離れの棟で、お坊さんの団体の接客につく。坊さん12人にコンパニオンさんが4人つく宴席でありました。どんな宴席だったかはさておき、坊さんもそしてコンパニオンさんも結構アバウトなところがあって、それぞれなんの相談もなく「焼酎中々一本ください」「シャンパン1本ください」「あれ、シャンパンなんて頼んでないよ。いいよでもここにおいといて」「すいません、こっちシャンパンください。あと白ワインも」「あれ、こっちの焼酎も麦?」なんて始末で、飛び石を踏みながら何度も何度も夜の庭を行き来しました。途中、12月のライトアップイベントで、8時に灯りを消し(0時にこれをカップルで見ると二人幸せになれるんだとさ)、そこから音楽とライトアップショーが始まるんだけれど(最後にハートマークが浮かぶのよ)、そんな遠くの音楽といつもよりキラキラ光る東京タワーを横目で眺めておりました。で、次の席は会社のお偉いさんとその部下たち。一番最後に来店したグループでした。で、客室と厨房を往復しながら、先刻の部屋から栓を抜いてほとんど減っていないシャンパンがゴロゴロ下げられるのを発見。ワインがそのまま下がって来ると「試飲、試飲!」と怖ろしく積極的になる酒豪のHさんに、「今日シャンパンたくさん下がってきてますよ」と教えてあげる。通常レストランや料理屋などでは、お客さんが高いワインを従業員のために飲み残す通例もあり、特にワイン類は種類んも多く試飲する機会は恵まれないので、ここでも上司の許可をとれば飲むことができるのです。とはいえ、人数少ないから楽っと思った次の部屋は、本当はラストオーダー以降の時間に入店したのに(予約制なので入れますが)リクエストが多い部屋で。接待で仕事の話ばかりするのはしょうがないけれど、会社の仲間で来て仕事の話しかしない食事の席って個人的には苦手なんですよね。あと本当に個人的なアレなんですけど、こういう席にいる外資とか金融とかの若いのに妙にツンツンした女子って苦手なんですよ。心づくしの目にも艶やかな料理になんの興味も感想もなく、仕事の話ばかりして、ワインやシャンパンにだけうるさい人。女性ってやはり、美味しいとか、きれいとかそういうことに反応できる人の方が絶対可愛いと思うんだけど。女らしさってなんかそういうことでしょって最近思います。そうじゃなかったら何週間も前に予約が必要なこの店に、なんであんたの上司は一席もうけたのよ?で、もう館内のバーにも入れない時間になっていて、近隣でいい感じのバーを探せとリクエストされる。ここオフィス街ですがな、基本的に。東京タワーのエントランス前に、気の利いたお店が並んでいたのを思い出して薦めると、じゃあ予約をいれろと言われる。店の名前も、あの辺の住所もわからない。フロントレセプションに相談すると、「そういう要求にはうちはお答えしていません」とにべもない答え。更衣室に駆け込み「あの東京タワーの前の男前揃いのレストランバーの名前なんでしたっけ?(←実は結構気に入っている)」と問うも誰も知らない。いっそ携帯で検索するかとマイ携帯で探し始めるけれど、ここは港区、気の遠くなるような作業。上司に相談すると(この時点でとうに閉店時間を過ぎている)、「調べたって、ここらへんの閉店は早いから無理だよ。タクシーで麻布十番か六本木方面まで出るように薦めなさい」と。近隣地図を取りだし、部屋へ行ってその旨をつげ、「あとはここから見えるパークタワーのバーですかね」なんて口を滑らすと、道順と歩いてどれくらいかかるかを聞かれる。目の前に見えてんだからいいじゃん!と心の中で絶叫しながら、「確認して参ります」と部屋を出る。行ったことがないので、たまたま廊下を歩いていたバー担当の人にすがるように問う。ちなみに支払いも部屋会計でこれまた部屋とフロントを2往復する。やっと引き上げて、社食に入ると、板場からお刺身が来ている。「こらこら○○さんにも分けてあげなさいよ」と言ってくれるけれど、笑顔で辞退して明日の早番のため帰り支度をしに更衣室へ急ぐ。「あら、すっごい遅かったのねぇ」とHさん。「シャンパン飲んだ?いっぱいあったからさあ、みんなで縞の湯飲みで何度もお代わりしたわよ。わたし4杯飲んだ」と。「え、飲んだんですか?」とわたし。「そうよ、あ、ごめん、あんた飲まなかったんだ」。。。Hさんから情報を聞いて、別の如才ないお姉さんが冷蔵庫で冷やし、上司を巻き込み楽しく試飲したそうだ。フロントや更衣室を駆け回って、厨房に全然戻らなかったので、気づかなかった。飲んだと聞かなければ、惜しくもなかったのだけれど、ああ!なんてこと。シャンパンはわたしの大好物なのだ。最も好きな飲み物なのだ。折々に自分で買って飲み、でもここ数年はお金がなくてずっと我慢してめっきり飲む機会がなかったのだ。わたしがこんなにシャンパンが好きなこと、誰も知らないんだ。別にいいけどさ。悲しい。わたしだけ飲めなかったなんて、ちょっと寂しいじゃないの!ちょっと悔しかったので、帰りにいつもの発泡酒をやめて、おビールを買って帰りました。
2006.12.08
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最近、外出・買い物といえば三越アルコットによく行く。(にしか行かない)以前は自分が働いていたせいもあって、何でもルミネで済ませて「女子ってルミネ好きなのね」と夫に呆れられていたのだけれど、何しろ建物が新宿南口の大混乱の改札口を挟んで二つに分かれているし、文具や雑貨の類がないので最近は足が遠のいてしまう。わたしの買い物の大部分を占める本と文具とカード(イギリスに親戚がいると頻繁に必要になる)と花が買え、レディス向けの売場ここでは広くゆったりとしているGAPがあることを発見したし、以前に自分の働いていたカレー屋の支店もあるので、地下鉄の改札からそのまま三越に直行、建物の外に一歩も出ることなくまた地下鉄に乗って帰ることも最近はまあよくあることで。そんなことを繰り返しているうちに、目を付けておいたダウンジャケットを買いに今日も出かけた。服屋に行くときには、緊張して、化粧もするし、スカートもはいてしまうし、ブローだってしてしまう。ジャストフィットより、少し大きめの、目的のダウンジャケットを即購入する。(お正月に太りそうな気がするし、多分これからもっと着込むだろうし、ちょっと弱気な判断で)そのあと6階の文具売場でクリスマスカードを買う。妹夫婦と甥へのプレゼントを探さねばと思うけれど、ダウンの袋がかさばるので、今日は早めに帰ろうと下りエスカレーターへと向かった。と、わたしの真正面に上の階からのエスカレーターで降りてきたのは、師匠だった。はっとして「あ、」と言いかけたら、6階に降り立ち、くるっとわたしに背を向けて下りエスカレーターに乗る。わたしもそのまま続いて下りのエスカレーターに乗る。見事に前後に並んでしまった。なんだか後ろからでは非常に声がかけづらい。見下ろす形になってるし。しかしこの距離で声をかけないのもいかがなものか?やはり正面で遭遇したときにアクションを起こすべきだったのだ。師匠に街でばったり出会うのは初めてではない。夏にも某デパートでばったりとあったけれど、あの時は15メートル先からでも師匠が歩いてくるのがわかった。わかったけれど妙齢の女性と連れだっていたので、遠慮して声をかけられなかったのだった。通りを歩いているわたしを喫茶店でお茶を飲んでいる師匠が見つけて、呼び止められたこともあったし、散歩の途中で立ち寄った店ではち合わせすることもあった。同じ新宿界隈に住んでいるのだからあり得ることではあるけれど、こんなにもたくさん人がいるのに見知った人に出会えるのは不思議な感じがしてしまう。でも、二階の喫茶店の窓からわたしを見つけたように、なんでこの瞬間わたしをわかってくれないのだろうか?気の置けない人に会い、化粧と服で武装していたわたしが瞬間親しい人とと接する時の空気にばっと変化したときに、「あ、この人全くわたしに気づいていない」とわかり、ちょっとひるんでしまったのだった。いったん真後ろに立ってしまうと、声がかけづらいだけではなく、この人が本当に自分の知っているその人なのだろうかとどんどん不安になって確信が持てなくなってしまう。白いスニーカー、少しゆったりした青いジーパン、斜め掛けの鞄に眼鏡に腕時計。いつもの定番のスタイル。だけれど髪の毛こんなだったっけ?こんなに薄かったっけ?側面のガラスに映る姿を見て、こんなに顔年とったっけ、こんなに無表情だっけ?と不安になる。でも、還暦の誕生日を祝ってから何年が経つんだろう。きっともうあと何年かで師匠も70歳になるはずだ。そんなことを考えたら、なおのこと声がかけづらくなってくる。こんな短時間で何を話せばいいのだろうか?(大人だったらどこかお茶でもって話をするのが普通だろうけれどその時は思いつきもしなかった!)仕事を変わったこと、芝居のこと、体のこと、この年になって行き始めた外国のこと、友人の怪我のこと。話したいことが多すぎて、頼りたいことが多すぎて、この人がわたしにとって数少ない「大人」なのだなあと改めて思う。しかしわたしだって大人なのだ。それを誰かにどうしてもらおうというつもりはない。その覚悟がぐらつくから、わたしは時期が来て、師匠のもとを離れたのだとも思う。そうだとしたらこのまま声をかけない方がいいのかな?それとはまた別に、ちょっとこういう無防備な無表情な姿を見てしまったり、「年取ったなあ」と思った後で声をかけるのも、足元を見てしまったようで、なんだか悪いような気がする。どうしたもんかなあ?師匠は途中階には降りる様子がなく、誰もわたしたちの間に乗り込んでこない。いつしかわたしが、笑いをこらえきれない顔のまま、側面のガラスに映っている。せめてそんな女を不審に思ってくれたらいいのに。わたしも師匠の思っているイメージとはかけ離れてきたのかなあ。見た目より若いと言われはするけれど、化粧をしたらクシュクシュしたりダラーンとした服はもう似合わなくなっており、今日のようにスカートにパンプスなんか履くしかない。そうなるとおばさんとまでは言わなくても、お姉さんとは言い難い容貌に成長(老いて)してはいる。仕事とレッスン通いで体つきも随分しっかりしてきたし。変わってしまったのはわたしなのかなあ?師匠このまま、地下まで降りて、地下鉄とか乗らないかしら?そしたらまた改めて、そこで会ったことにして声かけるのに。しかし1階に降り立った師匠はそのまま出口へと歩みを進めていったのでした。あまり早足だったので、少しわたしも歩いてからその背中を見送ったのでした。6階から1階まで、その背中を見ている間に、声をかけない決心はなんとなくかたまりかけていたのだけれど。昨年の12月、新宿でばったりあった男の子が、今はもう亡い人になってしまっている。そのことを少し考えないでもないけれど、今日のことを絶対にいつか話そうと心に決めて、地下鉄に乗り込みました。
2006.12.07
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わたしの働く職場は、人の出入りが激しい。気がつくと見知った人がいなくなっているし、昨日まで知らない人が何人も並んでいたりする。で、先々週にとある新人さんとちょっと話し込む機会がありました。開店準備作業を組んで一緒にしたのだけれど、手より口を動かす感じの人で。入ったばかりで「ここの店どうですか?」ということが聞きたいらしく。「できたばっかりだから、いじめも派閥もありませんって面接で言われたのにウソばっかりですよ」と彼女。かなり厳しいことを言われたらしい。「いじめて、いじめて、それでも耐えて、働かせて下さいみたいな人を残したいんですかねえ」「研修の○○さん、あのひと意地悪ばあさんですよねえ」と。「着物着れなくて教えてもらって、次の時も手伝ってもらったら、『そんなんじゃ一生着れないわよ』っていわれたんですよ。ひどくないですか?」そうやって、ぼやき続けるのは聞いていて面白くもあったし(悲壮なことを並べ続けるって本当に悲壮な感じしないし、どちらかといえばネタっぽくて)、仕事中あまり普段はお喋りをする機会もないので、なかなか楽しくもあって話していると、わたしと同じ年だということがわかる。30歳を過ぎて、自分に経験もプライドもあると、一からなにもできない新人として扱われる事に抵抗感を感じたりするのはとてもよくわかる。体もキツイ仕事だし、忙しくて人にかまっていられない雰囲気なので冷たくも感じるかもしれない。人生の先輩も多いので割と忌憚なくストレートな物言いをする人もいる。(若くてもいるけれど)わたしも最初は、人間関係キツイ職場だなとは思っていたけれど、意地悪をされたと思ったことはない。彼女がいう「意地悪婆さん」もいつも毅然としたたたずまいの人だけれど、マシンのように厳しい人ではなく、変な客には目を丸くし、忙しい時には慌てたりする分かりやすい人でもあり、困った時には助けてくれ、社食で近くに座れば誰にでも気さくに話しかけてくれる大人な人でもある。というような事を彼女にも話すのだけど、「でも、あなたもおとなしいから結構いわれるんじゃないですか?」なんて聞かれる。彼女は週に3日、昼だけ出勤するそうだ。それからすっごく結婚したいという話と、どこでもいいから引っ越ししたいという話を聞く。話をしているうちにたいへん申し訳ないのだけれど「負け犬」という言葉が浮かんできてしまう。ちょっと面差しが光浦靖子っぽいというのもあるのだけれど。それは彼女が結婚していないということではなくて、働くということについてとか、自分の天井を高くする努力みたいなことについて、関心が低いのではないかなあと感じたから。自分で垣根や壁を作っているようにも思うし。仕事に関しては、わたしは早く覚えたいし、慣れたいし、認められたいと思うから、最初のうちは頑張って働く(日数を働く)。それに頑張って、厳しい人に認めてもらえた時はすごく嬉しいし誇らしいし、自分の場所ってそうやって作っていくのではないかと思う。とは思ったけれど、年が同じだし、彼女なりの仕事に対する考え方もあると思うので言わなかった。そして年が同じだから心配するのだけれど、できれば辞めないで続けて見て欲しいと思った。「次を探し始めている」と言っていたけれど、この年齢ですぐつける仕事は少ないだろうし、やはり体もきつくて、時給も下がるだろうから。そして誰にでもできて厳しいことを言う人もいないぶん、成長もない職場になるかもしれないから。次に彼女に会ったのは、ロッカールームで、例のぼやきをみんなにしていた。おおっぴらにそういう話ができるようなら、結構大丈夫かもと思ったけれど。「ストレスで吐いちゃいました。一人暮らしだからそのままの布団できちゃいました」って・・。後で、エレベーターで二人だけになった時、「来週辞めます」と告げられる。で、今日。彼女が辞めると宣言していた日。「そこのロッカーの人昨日辞めたんだってね」とみんなが話している。「文句ばっかり多かったもんね。面白かったけど、文句多すぎたよね」と。わたしだけじゃなく、みんなに、そんな話をしていたんだぁ。そして、「あの人最後にね、○○さんに鬼婆ぁって言って辞めたらしいよ」だって!「○○さん、がっかりしてたよ」・・・。34歳(あ、言っちゃった)、まずいだろうそれは。やっぱり彼女は負け犬だったのか。その「負け」感を引きずりながら、それが人をいらだたせたり、ちゃんとさせなきゃと厳しくさせたりすることにも気づかず、悪いのは他人だと思ってもうしばらく生きていってしまうのだろうか。あの屈託のないぼやき倒しは面白くもあったのだけれど。続けた方がいいんじゃないって言えばよかったなあ、それだったら。もう二度と会うことはないと思うけれど、彼女に会って、自分にとっての仕事観とか、自分で垣根を作ってしまうことについて結構考えてしまいました。わたしも他のことに対しては負け犬に甘んじていて気づいてさえいない、と思うし。出会うべくして出会った、そんな気もしないではなく。とりあえず元気でやっていって欲しいと思う。
2006.12.06
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夫の友人がまた一人亡くなった。電話があり、隣の部屋でなんとはなしに聞いていてもやっぱりその電話が訃報であるということはなんとなくわかってしまうものなのだなあといつもながらに思う。一昨年前に親しい友達がなくなった時の電話を受けた夫の第一声は「なに?○○、風邪でもひいた?」だったけれど、絶対これが風邪をひいた人からの電話ではないこと、身を固くさせる緊張感のようなものが伝わってきたのだった。大丈夫かな?と思ったけれど、大丈夫でもないけれど、取り乱すこともなく、仕事の段取りを調整し、告別式に出かけていった。亡くなったのは井上二郎さんという演劇評論家でも、劇作家でもある人で、先週麻布ディープラッツのヨシムラさんが飲みに来たときに、共通の友人ということで話題にも上り、これが一緒にやった最後の舞台だよとビデオ鑑賞会にまでなったばかりだけれど、わたしは面識がなく、高校生から購読していた演劇雑誌の劇評の人という印象だった。仕事から久しぶりに誰もいない家に帰宅して、ぼーっとしていると、終電間近、黒いスーツを着た夫がふにゃふにゃした顔で帰ってきた。(ものいいたげな時とかいろいろあった時、よくそんな顔をして帰るのだ)「切符を買ったら一枚多く出てきたから、ついてきてるかも」とお清めのお塩はいらないらしい。(先月わたしはお塩ブームだったのだけれど、この際それは引っ込めることにする)顔も人となりも、お付き合いの歴史も度合いも知らない人のこと。夫にそういう歴史や、その人を介するまた別のお友達たちがいるという、別の世界を持っていることを改めて思う。そうして直接には一緒に悲しむことはできないけれど、そんな話を聞くというのも、故人のその周りの人の、そのもう一周り外側にいる人の喪の仕事なのかのしれないと思う。いいお葬式だったらしい。2時頃まで、起きていました。
2006.12.05
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