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土曜・日曜と刺激的な週末を過ごしての月曜日。基本、月曜を休日としているのでぽけっとしてます。洗濯して、布団を干して、部屋に閉じ込めたままだったヒヤシンスの球根にたっぷり日を浴びさせたり。前の日にギャラ代わりにいただいた、まい泉のサンドイッチをトースターで香ばしく温めて、オレンジジュースと一緒にベランダで食べたり。午後はふらっと出かけました。途中幼稚園のグラウンドでリューがサッカーの練習中でした。(全然気が付かねえでやんの)ふらっと出かけて、土曜日のギャラ(と言っても交通費ですが)がお財布に入っているのを確かめて、iPodのケースを買いに。iPhoneのケースの売り場ばかりで困ってしまい、お店の人に訊いたら、iPhoneケースは携帯アクセサリー売り場、iPodケースは音楽機器のアクセサリー売り場になるんだそうです。なるほど。しかし既に購入1週間目にして、適当にバッグに突っ込んだり、ほぼ日手帳のポケットに挟んだり手荒く扱ったiPodの表面は傷だらけです。たいていのことは出来るようになったのですが、写真を撮るってことに全然慣れなくて、多分薄くてすごくツルツルしているからだと思うので、やっぱりケースは必要なのかと。小島慶子さんも最近使っている無料のフィルターもダウンロードしたし。でもそうまで加工したいならLOMOで撮るよなあという回帰思考にもなっています。最近服と言えばブルー。小物と言えばライムグリーンに惹かれるのでその路線で。それから花屋さんで、花ではなく花器を購入。最近お花をいただく機会が多くて、昨日分けていただいた楽屋花も家じゅうの花瓶・空き瓶に生けたのですが、お気に入りの花器が水漏れするようになってしまったので。ケースを買った残りのお金を確認しつつ、一番小さいのを。ニューシャトルの切符をSuicaの残高と小銭で払ったら、キレイに財布の中に入っていたお金を使い切りました。まさに宵越しの金は持たない状態。本来は万馬券でも当てたような金額を使うことをいうんでしょうけれども。まあでも可愛い買い物で心を満たされたのではありました。早速ケースをつけて、エディット・ピアフをダウンロード。これまでお酒にかけていたお金を、そのまま音楽に使っている感じ。わりとちゃんとした(わたし的に)ワイン1本分で、エディット・ピアフのアルバムが聴けるのだもの、師匠が元気になってもしばらく飲まなくてもいいかなと思ってます。
2012.01.30
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ちょっとプライベートで保留というか未定という状態が続いていて、別居生活というのはどこへ行くのかとか、(どこにこれから住むのかも含め)仕事はどうなっていくのだろうかとか(女優業もライター業も)、今年はどんな舞台ができるんだろうかとか、はっきりしなくて。でも一人の生活で、向き合わなければいけないこと、今しかできないこと、どんなチャレンジや苦手克服も課題もひっくるめて今は楽しくもあるんだけど。そんな気分を反映したように、iPod touchを買いました。本当はMacbook Airを買うつもりだったんですが、生活と仕事が定まらないので。で、本当は音楽とFMラジオが入ればいいのでnanoでよかったんですけれど、一人になってずいぶん音楽を聴く機会が増えたのもあって、ピアノ(ジャズ)の練習にはすごくiPadが便利なんですけど、でも原稿書きにくいよなぁとか。auだし、いっそiPhoneという選択肢もあったのですが、やっと今の携帯使い慣れたし。結局、メールも通話もできるiPod touchという微妙なところに、気分的な落としどころをつけたわけです。家電量販店って本当に苦手なので、やはり買うまでにすごく時間がかかりました。一応調べていったんですが、一番高い容量の大きいのが抱き合わせで90%引きになってたりすると訳がわからなくなったりして。店員さんも、こういう商品に関しては「説明するまでもないっすよね」みたいな感じだし。で、AppleCareとかiTuneとかのもろもろの設定が終わって、音楽だけは聴けるようになりました。メールとかサファリとかネットの接続には難航してますけど。今までこういうことは、全部ダンナさんに頼りきりだったから、ちょっと達成感。先日、友人とお茶をしたときトム・ウェイツのアルバム『Closing Time』がかかっていて、わたしも、友人もトム・ウェイツが大好きなことがわかって、好きなのに持っていないアルバムだったので、まずはこの曲を入れました。一人でできることを少しずつ。よいしょって買うと、働かなきゃって思うし、元気にもなります。今夜は雪の夜。『Closing Time』を聴きながら眠りにつきます。
2012.01.23
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甥っ子のリューが地元の幼稚園に通っていることもあって、もちろん自分の年齢からいってもそうなのだけれど、子供はいなけれどママトークをする機会も多いのです。そろそろ年度末の学芸会の季節です。リューも、今年の劇での役が決まり、妹は衣裳づくりに戦々恐々としています。昨年は「さるかに合戦」の臼役だったリュー。日本に来たばかりで「臼」がなんであるかもわからず立候補したときいて、なかなかいいところをつくではないかと思ったのですが、後日写真を見てびっくり。今時当たり前のことかもしれませんが、臼も栗もカニも何も数人ずついるんですね。全部の役が複数体制だとは思っていなかったので…。…ま、叔母さんも最近は一つの役をみんなでシェアする芝居にばかり出ているから。。同じ衣裳を着て同じ役を演じるチーム臼、AKBが支持されるのもわかる気がする。で、ママ友さんから聞くところによると、本番当日は、熱を出そうと、インフルエンザになろうと絶対に休んじゃいけないんですって。卒業写真とかそういうこと?って訊いたら、セリフが全部分割されているから、一人でも欠けたらいけないそう。10分前に来て、自分のセリフだけ言ったら帰ってもいいって言われているんだそう。やっぱり本番は先生が代読する訳にはいかないんですね。そのときふと思い出したのが、友達の女優さんのブログにあった話。ミュージカル女優である彼女は、子供向けのレッスンを持っています。その年に数回の大事な発表会の日にどうしても病気で出演できない子が出てしまったのだそうです。歌って、踊って、セリフもある演目。彼女は小学生の共演の女の子たちを集めて、「出られない子が一人いるけれど、今までみんなでお稽古してきたのだから、このままやりましょう。見に来たお客さんに、お休みの子がこのセリフを言うはずだったんだなってわからないように、誰がどのセリフを代わりに言うのか、踊りの位置をどうするのか、自分たちで決めなさい」と言ってみたと。言われて動くことに慣れている子供たち、最初はあまり乗り気ではない感じだったらしいのですが、本番では、最初からその人数で稽古を積んできたように、きっちりやってくれて、彼女はそのことにとても感動したという話です。大人だって、急に対処しろと言われれば、なかなかね。子供って、びっくりするくらい侮れないものかもしれないんだなって。セリフだって、繰り返していたら面白いように覚えちゃうし。それをコミュニケーションを持って、力関係とか優劣じゃなくて、いい形に考えるってことが子供でも可能なわけで、それができるのは一緒に稽古した時間と、彼女の歌や踊り・芸事というものの指導の仕方がうわべだけのものではなかったからだと思います。だからカタチだけ、学芸会で晴れ舞台を平等につくってあげるっていうのは少しさびしいなと。もちろん完成されたベストな状態を見せるために稽古するんだけど、それでも何が起こるかわからないっていうのが、お芝居の面白いところなのよ。誰かの穴や、何かのアクシデントを埋めるために、思いもよらぬ子が頑張ったり、みんなで団結するところを見てみたい気がするけれど。親が死んでも、インフルエンザになっても、みたいな厳しさじゃなくて、自分や友達との自信や安心感や、何が起こるのかというドキドキや、アクシデントも柔らかく受け止める遊び心も「ショー・マスト・ゴー・オン」なのだと子供にも、世の中の人にももっと知ってもらえたらいいなあと思ったりしたのでした。
2012.01.21
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お手製ファブリーズ。精製水とエタノール(よく考えたら寝室にエタノールをストックって危ないのか)を量って、ユーカリとペパーミントのオイルをブレンドして霧吹きする。前の晩、牛の匂いがしたような気がして、牛の夢を見てしまった。どうやら布団の上で眠ったチーさんの匂いがどこか牛の匂いに通じていたようなのだった。どうして晴れていないと午前中に掃除をする気にならないのか。そして用事があるのに、晴れているからと言って掃除にかまけてしまって、慌てて家を出る。エムズクルー事務所に寄って、契約金を受け取り、下北沢へと。本日今年の6月公演の契約です。2008年12月以来、久しぶりに「劇」小劇場での公演で復活することになりました。そして来年も「劇」小劇場で公演を行う予定です。ただ下北沢を歩きながら、自分の気持ちがこれまでよりだいぶ醒めてきたようにも感じていました。下北沢で芝居を打っているというだけで、関心度の高い人たちに認知されるという希望や期待。飛び込みのお客さんが来てくれること。演劇をしていることが、白い目で見られない街の雰囲気とか、同業者の多さとか。年齢のせいか、それとも埼玉に住むようになったせいか、あまりそういうことにメリットを感じなくなっている自分に気が付きました。どうしても下北沢でやることにこだわった時期もあったし、そこにアイデンティティを求めたことも、そりゃロンドンほどじゃないにせよ、演劇に対して寛容な雰囲気に助けられたことも、ここで競って認められていきたいと思ったこともあったのだけれど、今のわたしにはどうもしっくりこない。小劇場の芝居を観ることはなかなか大変なことだと、昨年末怒涛のように芝居を観て思いました。新劇やミュージカルや翻訳劇のように、だいたいの予測がつかない。観に行くまではわからない。笑わされるのか、泣かされるのか、怒らなくてはいけないのかさえ。自分の感想を持ったり、そこから次の選択を決めることがこんなに難しいとは思わなかった。自分たちが、本当にただ発信しているだけだったと思い知らされた。金銭面とか、世間的な体面とか、芝居をとりまく状況は厳しい。でもどこかとても厳しくないところで、わたしたちは芝居をしているんじゃないのだろうかと。普通に働いたり、営んだりしている人たちの手触りと、とても隔てられたところにいるんじゃないかと。そういうことが最近心配になっている。本当に時間をかけて、骨身を削って、いい芝居をつくる人たちがいても、例えばその価値が伝わっていかないような、別の価値に押しのけられるような。その通り道がつけられるだけでもずいぶん世の中への関わり方は違うと思う。わたしの卒論のテーマみたいになってしまうけれど、やっぱり小さくても劇場にしかできないこと、消えてしまう時間芸術である演劇にたいして、蓄積という機能の持てる劇場に糸口は持っていけそうな気がする。それとは別に、どこでも芝居はできるように思えてきたし、下北沢の環境に甘えてしまいたくないという矜持が出てきたのかもしれません。これまで厳しい目で見てくれた小屋番さん(支配人さん)の不在というのもあります。数年前から下北沢の往年のスタッフの方々が、世代交代して、地方の芸術監督などの役職につかれるような一連の動きがあって、この人に「いいね」と言ってもらえれば大丈夫みたいな目標みたいなものが今ないのですよね。意味なく下北沢に来て、事務所にふらっと寄って、そういう先輩たちとお喋りして帰るという習慣も、わたしの中ではなくなってしまいました。とはいえ、まだまだやり残したこともたくさんありそうな気がします。まだ劇場のまわりにずらっと行列を作ったことありませんし。頑張ります。まだまだ下北沢です。
2012.01.17
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オオミヤ、すずらん通り、力(りき)。…基本である。そんな大宮くんだりで、エマエくんとカグミさんが飲んでいた。。禁酒中なので席に着く前にノンアルコールビールをお願いして、合流。昨年の『セレブレーション』以来、三人で顔を合わせる。二人とも、どこで飲んでも変わらない。好きな先輩俳優さんの話が今回の話題の中心。昨年の地震の日に『恋人』のオーディションにやってきた(中止になったのに)カグミさん、シンさんと出会って、同じくその場にいたエマエくん。そして『恋人』の稽古に参加させてもらい、一緒に飲むようになって(花見もし)、『イェルマ』『セレブレーション』とさらに飲むようになって。お三人は『袴垂れはどこだ』という舞台に出演して、さらに絆を深めたようで。その様子を見ているだけで、自分もやらなきゃって気持ちになる。次の河岸を求めて、大宮を散策する。カグミさんが「香ばしいだろ~」を連発する。大宮は実はとても都会で、そしてめちゃめちゃ香ばしい。競輪場に風俗街。今は愕然とするくらいチェーン店に侵食されているけれど、吉田類の一人や二人、うろついていたっておかしくない。カグミさんとエマエくんのその違和感のなさと言ったら。そして今回はカグミさんの歌声を聴くことになる。パンクバンドをやっていたカグミさんの選曲と声にしびれる。エマエくんもきちんと体重が乗るような、心ある歌を歌うことを知る。いいな。ノンアルコールで臨むには一番難易度が高そうな条件だったけれど、楽しかった。大宮の街をこの人たちと大笑いしながら歩くなんて。香ばしい大宮もちょっと見直しました。東京に行くんじゃなくて、友達が来てくれるってすごく贅沢なプレゼントのようでした。
2012.01.16
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日曜なのに、お休み。平日はまるまるお休みなのに日曜もお休み。とりあえず自転車に乗ります。週末サイクラ―。でも裏道のみ。大宮氷川神社へ。日曜とあって、大宮公園の遊園地が稼働しているところをうん10年ぶりに目撃する。妙にパキスタンの白と緑の国旗が映えているのが微笑ましい。池の水面には氷が張っている。(初めてみた)公園を抜けて、神社の正面に回り、会館の前に自転車を止めて、まずは参拝。月も半ばとはいえ、日曜だし、小正月だし、けっこうな混雑です。自分や家族の安泰みたいなことは、元旦に氏神さまにお詣り・祈願するのだけれど、氷川神社には仕事の無事を願うのがなんとなく習慣になっています。「さわやか大宮(ミス大宮)」時代は、この神社でもお仕事ずいぶんさせていただいたし。初めての映画で海に飛び込むシーンがあったり、その次の映画では鉈をガンガン振り回して人をたくさん殺す役だったり、そうでなくても演じる役の半分くらいは刃物持ってるし、いつのころからか必ず無事をお願いするようになっていました。上手くいくとか、売れるとかじゃなくて、隙だらけのわたしが、隙をつかれないように。神社とかお寺とかいうものに、信仰とはまた別に、きちんと敬意を払うようになったのは、舞台をやるようになってからです。自然な流れで、自分たち以外の存在とか、目に見えない空気とか過程とかを扱うようになるからか。でも、一個というか一手を、そういうところに預けておくことが必要なことは経験として学んできたような気がします。※ここで節分の豆まきをしたこともあります。今年は、師匠の快復と、お仕事のことを。でちょっと夫婦のことなど。おみくじを引いてみると、「このみくじ五十番のうちこれ以上のことなし」という強運の吉。身に余る光栄、神様ありがとう。そしてひたすら参道を散歩。最近は参道沿いにいいカフェもあると聞いたので。しかし歩いて歩いて、やっと一の鳥居のあたりに新しいカフェを3件ほど発見。文化って誰がつくるんだろう?ハコものって批判されるけど、建物を建てたくなる気持ちもよくわかる地方都市。いかにも居抜きってお店も多いのです。参道沿いの(しかも駅に近い側、しかも駅より東京に近い側にだけ建つ)タワーマンションに住む人がこういうカフェのお客さんなのだろうし、そういった人たちが増えるから心地よいカフェやバーも出来ていくのだとしたら、これまでの自分たちの生活ってなんなのかなあと思えてもきてしまう。ショッピングモールで服を買いたくないとか、ファーストフードじゃない店でコーヒーを飲みたいとか、お酒を飲みながら、仕事の愚痴じゃなく、映画や演劇の話をしながら知らない人と交流したいという人が、東京まで行かなければいけなかったり、特殊な人という色味を帯びてしまうのは、残念なことだと思う。もしそういう環境に恵まれていたら、わたしは自分で芝居をしなくてもいいのかもしれない。「好き」ということを楽しみながら、働いたり、生活することに邁進できるかもしれない。などと夢想しつつ。長い長い参道をまた神社の方に向かって歩いて行くうちに、すっきりと洗われていくような気分にはなるのでした。今年も頑張ります。
2012.01.15
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今年初めての披露宴の仕事。接客中に担当していたテーブルの上品な老夫婦と、そのご兄弟に声をかけられる。「お嬢さん。鳳蘭さんに似ているって言われない?若いころの鳳蘭さんにそっくりだわ」って。これまでたいてい「中山エミリ」だったもので、新しい似ている人にちょっとびっくり。しかも鳳蘭さんといえば、以前ご一緒したことのある荘田由紀さんのお母さまではないですか。そうですね。もう「中山エミリ」って年齢ではないですね。もちろんエミリちゃんだって年はとっていくのですけれど。ともあれ光栄なことには違いなく、新しい発見でした。これまで似ている言われてたことで、とても驚いた経験があります。母方の祖母の葬儀の時に、生まれて初めて大叔母・祖父のお姉さんに会いました。わたしは20代前半で、大叔母は90歳を迎えようとしている頃。大叔母はわたしが自己紹介するなりとても驚いて、祖父に向かい、「このこ、わたしたちのお母さんにそっくり」と言ったのです。ちなみに祖父や大叔母のお父さんには、奥さん(お妾さん)が何人もいて、兄弟はそれぞれお母さんが違っていたそうです。90歳になろうとする人の、100年以上前に生まれたお母さんに自分が似ているという不思議。初めて会うおばあさんに、懐かしい愛おしい眼差しで見つめられる不思議。それまでわたしは、母方の親戚の中にあって、父方の血がとても強く出ていると言われていて、あまり親戚の中に似ている人がいなかったのでした。血が繋がっている以上、似ているのは当たり前かもしれないけれど、自分の中に本当にたくさんの人の人生が流れ込んでいるような、思いもよらないたくさんの要素で、とりあえず自分という像を結んでいるだけのような、自分が思って知っているものだけが自分でないことに気が付いた瞬間でした。だから似ているには、必ず時間を超えてきた可能性のようなものが、含まれていると信じています。
2012.01.14
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コンタクトレンズをソフトに変えて二日目。鏡の前で格闘しているけれど、どうしても黒目を指でつまむようにする行為ができない!明かりの位置を変え、鏡の角度を変え、ひたすら挑戦を続ける。時間ばかりが過ぎていく。。でも不思議とイライラした気持ちにならなくて、一人でなんどでもキャアキャア騒ぎながら頑張っているうちに、あることに気付いた。コンタクトレンズをはずす時の顔が、大好きな写真の顔に似ているんだ。写真の人物に、自分の造形が似ているのか、それとも好きだから無意識に似せていたのか。両目をぱっちりと見開いて、おでこにシンメトリーなしわが寄る。自分の顔も同じ表情にしてみる。真似てみたら、ただ目を真上に見開いて見せるんじゃなくて、さらに顔の筋肉が左右に引っ張られている状態だってことがわかった。これはただびっくりしている顔なんじゃなくて、その後、笑顔になる前の顔なんだって信じられる。いい顔。いい表情。いい思い出。芝居でよく「体を探せ」って言われる。逆に「体」(状態)を真似ることから、その人の感情を推し量ることもある。同じ表情をしてみることもまた興味深いことだと思う。「意志は表情に宿る」っていわれたことがある。(「そして表情とは表情筋の動き」)意志さえも、たどれるのなら真似るという行為も捨てたものじゃない。顔で演技すると、怒られがちだけど。(一番顔で芝居してるって言われた昨年、もしかしたらわたしは懸命を相手にトレースしたり、レスポンスしようとしたりしていたのかもしれないと今となれば思えなくもない)前より数段ハッピーな写真に見えてきたし、そしてなにより、これから毎日続けていくソフトレンズをはずすという行為が、とても笑顔を生むシアワセな儀式として設定された気がする。もっともっとシアワセな顔になっていくよ。人の顔はとても美しいと今夜は思う。この写真を撮るとき、笑ってくれてありがとう。
2012.01.13
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オーディションで六本木へ。すぐに結果が出る類のヤツで、即日お役御免となる。雨がぱらついてきたのでミッドタウンで雨宿り。呼吸を整えて、師匠である伊藤昶さんに電話してみる。でも最初の一言で「ああ、モエさんか」と、3年半ぶりに声をきく。(なぜか10回に一回くらいモエがモエさんになるのだ)ちゃんと喋ろうと思うんだけど、この人の前だと「です」とか「ます」とか忘れちゃうんだよな。「手術するんだって?」「具合どう?」「一人で暮らしてるの?」「いつから悪いの?」「誰かお世話してくれてる?」「どこに入院するの?」「話すと疲れる?」たくさん質問してしまう。今まで知ってる話し方より、少しゆっくりめかもしれないけど、しっかりした声。結局10分間きっかり話した。わたしの話もした。今別居してること。わたしの方に非があること。昨年賞を貰って、今社長の事務所にいること。(社長は師匠と同じ劇団の出身で、先輩にあたる。その人柄を知っているのでとても喜んでくれた)「それなら頑張らないと」って。別居っていうのは、前にも後ろにも進んでいない保留のような状態。だけれど、別々に懸命になる時期でもあることを、よく理解していただいたと思う。師匠はわたしたちの婚姻届の証人になってくれた人なので、こんな状態なのは本当に申し訳ないんだけど。「でも好きなことだから、そうまでなっても続けていくんでしょ」って。でもね、わたし今回のことの発端や問題は、わたしが子供が欲しいって全然諦めきれてないってことにあったんだと思うよ。でも、今本当に頑張らなかったら、子供も好きなことも、両方手に入らない人生になっちゃうんだなって思うよ。師匠のように子供がいなくても、たくさんの人に出会って、たくさんの人を手助けして、育てて、人のために人生をちゃんと使える一生があるのを知ってる。目の当たりにしてきた。そこに行くためには、何かがすごく欠けている。だからそれを今つくるときなんだね。「恋なんていつでもできるぞ。さびしいだろうが今は頑張れ」って。「オレなんかたくさんの女性にほっとかれなくて、一人になる時間もないよ」でた!モテ自慢。わたしが人前でお酒をあおるのと同じように、師匠はモテアピールをするのだ。ありがとうってたくさん言われて電話を切る。手術する場所が難しくて、肋骨を開けるんだって。わたしと同じ開け方だ。稽古場で「体の力を抜くと、骨から、体がバラバラになってしまいそうでできません」って泣いたことを思い出す。手術の後、肩に腕がぶら下がっている重みときしみに体が耐えられなかった。あんな思いをして、かつ治療も続けなきゃいけないんだな。失恋したって、別居したって、一生会えなくなるわけじゃない。でもその人のかたちが崩れるくらい弱ってしまったり、わたしのことがわからなくなってしまったり、会えなくなってしまったりするのは、会わないでいることと全然違う。声をきいて、事情をきいて、安心もしたし、でも心配もつのり、顔がぐしゃぐしゃになる。このまま家には帰れないので、少し寄り道をして、森アーツセンターギャラリーの「歌川国芳展」に行くことにした。眺めても眺めても見飽きない。様式にも、政治的にも、約束事が山ほどあるのに、こんなに人を楽しませるってすごい。師匠のお見舞いに図録をプレゼントすることに決めた。そのあと新宿に出て軽い食事。シャンパンをたのむ。飲み干して決めた。師匠が無事手術を終え、退院できるまで、お酒は飲みません。師匠のためだけじゃなく、わたしは今やるべきことがあるみたいだから。何かを迫られているから。そのためにも。まずはここから始めます。
2012.01.11
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12月の21日に突然決まったこの朗読。2012年GALA展でのオープニングパーティにその場を設けていただきました。でも作品選びには、本当に難航しました。最初は震災に関連したものを読もうとしていたのですが、昨年出版されたばかりのものには感情や距離感の定まらないものがあり、もちろん読むわたしの方も、直接的でなくても、このことを共有できる手段というか作品があるのではないかと思い始め、本当に枝葉を広げるというか、脱線するというか、存分に本に溺れました。最後には短編で好ましいジャンルなら片っ端からという感じになってしまいましたが。でも結局、前日に友達と話をしていて、「最初はこれから始まって、これ読んで、あれ候補にして、でそれにもあたってみて…」といきさつを説明しているうちに、そんなのも候補に考えていたんだっけというものを思い出し、朝目が覚めたら、着々とそれを読む心の準備になっていて、小道具なんか考えだしていて不思議な感じでした。これまでの銀座や神楽坂のギャラリーのパーティーとはまた違う、自由でリラックスな雰囲気の中、なんと着席でパーティーは始まりました。そして一角で朗読。藤原新也の『六十二本と二十一本のバラ』です。これを却下していたのは、ここに出てくる会話にすごく似た会話を数か月前に自分がしたことがあるからだと読みながら思い出しました。照明の調整ができないので、ロウソクがあまり効果的に使えなかったのが残念。朗読中にマッチで火を灯すのですが、間合い的には3本くらいつけてもよかったかも。自分の癖でもある超ハイペース。やはり冒頭ちょっと走りました。タイム的にはゆっくり読んでもいけるのはわかってるんですけど。画家が主人公のお話だったこともあり(画家が書いてるし)、作品のチョイスは好評をいただきました。で、同じ事務所の女優さんである細谷さん、浦川さんの歌へとつなぎました。二人ともとてもキュート。28日の竹ノ塚でのイベントにもまたご一緒します。※帰宅してほっとしている図。今回は越谷で開催したにも関わらず、遠くから応援して下さるかたにお運びいただきました。また高校の英語劇の先輩のリコ先輩がお嬢さんといらしてくださいました。お芝居は観に来ていただいたことはあるのですが、ちゃんと話したのは卒業以来。mixiなどでわたしの近況を心配していただいていて、20年ぶりくらいに話すのにいきなり身の上相談みたいになってしまって可笑しかった。すごく嬉しかったです。だって先輩たちが、大宮ソニックシティ―の大ホールでの新入生歓迎会の短い舞台に、王子様役でわたしを抜擢していなかったら、今のわたしはないと思う。(大喝采が癖になったという話じゃなくて。女子高でタキシードにヅカメイクの王子様。騒がれないハズはないんだけど、誰もその王子様をやっていたのはわたしだって知らないの。王子様の話で盛り上がっている横にいるメガネのわたしがその本人だって誰も知らない快感!)越谷では市報の記事を書かせていただいているのですが、その越谷周辺のアーティストの方々とも仲良くなれて、それも心強かったです。選ぶのも、どう読むのか、どう見せるのか、当日誰に何をしてほしいのか自分が決める。なかなか結構な鍛錬なように思います。何をやるのか、ちゃんとできるのか、絵画展の主催者でもある社長も見ているわけですから。翌日は元気にたくさんの人とたくさん飲んだにも関わらず、気持ちの良い目覚め。『六十二本と二十一本のバラ』を読むときに置いていたバラと、リコ先輩からいただいた花束を翌日生けてみました。本当にありがとうございました。
2012.01.08
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