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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2008.07.24
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カテゴリ: カテゴリ未分類
日本には明治になるまで今私たちが使っている意味での“自由”という言葉はなかったそうです。それで、明治になって外国から様々な文書が入ってきた時“Freedom”とか“Liberty”という言葉を訳すことが出来なかったそうです。

それで似たような意味があった仏教用語の“自由”という言葉を充てて訳したわけです。でも、そのため私たちは“Freedom”、“Liberty”という二つの“自由”の概念を区別しないまま“自由”という言葉を使うようになりました。また、元々の仏教用語としての“自由”という概念との違いもはっきりとさせないまま一緒くたになってしまっています。

ですから私が“自由な子どもを育てる”という時、その解釈は人によって様々だと思います。日本語は意味を突き詰めない非常に曖昧な言葉なんです。というより、日本人がもともと意味を突き詰めるような考え方をしない民族なのかも知れません。

ちなみにgoo辞書には以下のように書いてありました。

「free・dom」
━━ n. 自由; 自由独立; (市民・会員などの)特権 ((of)); 解放; 免除 ((from)); (the ~) 自由使用権 ((of)); 自由奔放; 慣れ慣れしさ, 無遠慮; (動作の)自由自在.

「lib・er・ty」
━━ n. 自由; 解放; 使用[出入り]の自由; 上陸許可; 気まま, 勝手; 無遠慮; (pl.) 特権.
at liberty 監禁されないで; 自由[随意]で; 暇で; (物が)使われないで.


私はそれほど英語に詳しくないのでみなさんにお聞きしたいのですが、

○ボールを自由に操る
○水が自由に流れる
○体を自由に使う
○自由に生きる(自由な生き方)

○自由に楽しむ海外旅行

などの言葉は英語に訳した時にfree(freedom)やlibertyは使われるのでしょうか。使われたとしても元の日本語と同じ意味になるでしょうか。

英語の“Freedom”とか“Liberty”という言葉を使う時には必ず想定された相手(他者)がいます。両方とも“関係性の中の自由”なんです。ただ、“Freedom”と“Liberty”とではその関係性が違うと言うことです。

それに対して、日本語の“自由”という言葉が使われる時には必ずしも相手を必要としません。

あるサイトで

英語に訳してもらえますか?
「自分自身の障害を気にせず、自由に生きる」みたいな意味を、
できるだけ簡潔な文章で・・・
よろしくお願いします


という質問があって、それに対して

live freely despite one's handicap
or live free overcoming one's handicap


という訳がベストアンサーになっていました。

確かに、一見意味は似ています。でも、同じではありません。
この英訳ではhandicapがfreeの相手として考えられています。

でも、「自分自身の障害を気にせず、自由に生きる」という日本語では“障害”は“自由”の相手ではありません。むしろ“障害を相手にしないこと”が日本語的な意味での“自由”なのではないでしょうか。

この日本語の意味は、“障害があるにもかかわらず”でも、“乗り越えて自由になる”のでもなく、むしろ、“障害を受け入れて障害と共に生きていく”ということなのではないでしょうか。

きちんと調べたわけではありませんが、多分これが日本語のもともとの“自由”の意味なのではないかと思います。



“それを障害を乗り越えてと表現しているんだ”という言い方も出来ますが、でも“乗り越えて”と“共に”では全く意味が違うはずです。

欧米的には“死を乗り越えて自由になる”というように考えるのかも知れませんが、日本的(仏教的)には“死と共に生きることで自由になる”と考えるのではないでしょうか。対立する相手を自己の内側に取り込んで相手を消してしまうのです。それが仏教的な意味での“自由”なのではないかと思います。

だから、“Freedom”、“Liberty”と“自由”とは似ているけど違う言葉なのです。

“重力から自由になる”という言葉の意味は“無重力の状態になる”ことや“空を飛ぶ”ことだけではありません。重力と仲良くなることも自由になることなんです。野口体操はそのような“自由”を目的としています。

“からだが自由になる”ということは束縛がなくなるという意味だけでなく、自分の意志や心とからだがしっかりとつながって一体化するという意味もあります。すると、自在になるのです。 束縛がなくなっても自在でなければ自由ではないのです。



逆に言えば外見的にはどんな束縛の中にあっても、その環境の中で自在なら、自由なんです。両手両足を縛られて、牢屋に入れられていてもその環境の中で自分が自分の主体として自在なら自由なんです。

この“自由”には“相手”がいません。他者に束縛されない自由ではなく、最初から他者が存在していない絶対的な自由なんです。どこまでも“自分”しかいないのですから。

お釈迦様が生まれた時に最初に言ったとされる“天上天下唯我独尊”という言葉はその自由な状態を意味したものなのではないでしょうか。

自由になりたいと思っている人は多いでしょうが、実際問題として子どもやご主人や会社といった相手がいる場合にはなかなかそこを乗り越えて自由になることは困難です。“自由になりたい”と言って子育てを放棄してしまったり、離婚をしてしまったり、会社を辞めてしまっても、また新しい束縛につながれるだけの話です。

だったら、いっそのことそれをしっかりと受け止めることで自由になってみるという方法もあるのです。
そうすると愚痴や文句が出てこなくなります。自由なんですから。
嫌々振り回されているから不自由を感じるのです。

ちなみに私は、“子どもが自由になる”ということは、“自在になっていく”ということなのではないかと理解しています。

今日は面倒くさい話で申し訳ありませんでした。

PS)

今日、ちょっと人と話していて“調教されている子ども”と“自立している子ども”の違いを説明しました。

指示されればいろいろなことが出来るのに、“自分で考えてやってごらん”と言われた時、途方に暮れてしまう子は調教されている子です。

上手でなくても、うまくいかなくても自分なりに考えてやろうとする子が自立している子です。

どっちの子の方が自由でしょうか。

もっとも、最近指示されても出来なくて、自分で考えても出来ない子が増えてきています。生活の中での他者との関わり合いも生活体験も少ない子どもたちです。
こういう子が人間らしく生きていくのは困難なのではないでしょうか。





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Last updated  2008.07.24 11:26:58
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