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「かがり火」135号36頁に 北海道「家庭学校」の記事が載っている。「この家庭学校の一番の特長は、子どもたちは、それぞれの寮で、寮長先生の家族と一緒に、食事や掃除の手伝いなどしながら、一般の家庭と同じように暮らしていることです。 寮長先生の子どもも同じ寮で寝起きしています。 ここに来て初めて、家庭の温かみを感じる子どもたちも少なくないんですよ」創立者留岡幸助は「家庭にして学校、学校にして家庭たるべき境遇」を目指して作ったのが家庭学校だった。 上甲晃氏の志ネットワーックにも家庭学校が紹介されている。2005年10月18日 上甲晃 北海道家庭学校の日曜礼拝で聞いた、小田島校長先生の話は、なかなか良かった。窓という窓からは、黄色く染まった木々と、はらはらと散る葉っぱが鮮やかに見える。黒い詰襟の制服を着た子供達が、少しばかり背中を丸めながら、校長先生の話に耳を傾ける。校長先生の話がいささか理屈に走り、お説教調になると、子供達の背中は、たちまちのうちにさらに丸くなり、目を閉じる。校長先生の話が身近に感じられると、途端に、背筋が伸びて、視線が校長先生に向かう。 校長先生は、「手」の話を始めた。 「この間、みんなで、研修旅行に行きましたね。その時、サーカスを見ました。サーカスの人達とみんなが握手をしましたね。私もまた、若い女性と握手しました。きっと柔らかい、優しい手だと思って、手を出しました。ところが、それは大変たくましく、ごつごつとした手でした。サーカスの厳しい訓練に耐えた手は、優しくなかった。その時に、人間の生き方は、手に表れるとしみじみと感じました」。子供達は、校長先生と一緒にサーカスに行ったから、思わず話に身を乗り出す。 「諸君、君達の生き方は手に表れるのです。私はかつて大阪に住んでいました。友達が大阪に来るので、大阪駅まで迎えに行ったことがあります。友達を待っている間に、見知らぬ人が来て、私の手を見せろと言う。私は手を見せました。そして、職業は何かと聞きました。私は、教師ですと答えました。ところがその人は、嘘を付けと言う。教師がこんなごつごつとした手をするはずがないと言うのです。確かに、当時の私は、ある施設で、手にタコができるほど、激しい労働をしていました。それを見抜かれたのです。手に、自分の本当の姿が現れます。私が在職した施設に、スリの名人と言われる子がいました。その子の手は、か細く、すんなりとしていました」。校長先生がそんな話をすると、子供達は、そっと自分の手を見ているではないか。私には、忘れられない光景であった。 万一、彼らが、出来心から、スリをしたくなる衝動に駆られるかもしれない。その時、この日の校長先生の話を思い起こすと、ふと自らの手を見るかもしれない。教育とは、そのような効果を願うものではないだろうか。 畑を耕し続ければ、ごつごつとする手、スリを働けば透明感が増す手、手はその人の人生を表している。どの手が良い、悪い、そんな問題ではない。手に人生が表れると考えることが、大切なのである。私には、校長先生の話を聞きつつ、自らの手を見つめている子供達の姿が、忘れられなかった。そして、改めて、じっとわが手を見つめた。 留岡幸助は、1864年(元治元年)岡山県高梁市で生れた。 キリスト教に目覚めて同志社の前身の神学校を卒業し、北海道の空知監獄で教誨師を務めるが、小さいうちから犯罪を繰り返し犯している収監者が多いことを知り、明治32年に東京の巣鴨に家庭学校を創設した。1914年(大正3年)に北海道に社名淵を開拓して家庭学校を創設する。作業中虻や蜂に襲撃されるなど大変な苦労があったという。 礼拝堂には「難有」という額がかかっており、これは金原明善氏が書いたものだ「報徳と社会」(留岡幸助)抜粋 香川県報徳講演集(明治42年12月) 私の考えるのには、世の中を難有(ありがた)く送るとういう事が、人間の幸福なる生活中の最も幸福なるものであろうと思う。その難有く送るという事は、財産の多寡や、あるいは学問の多寡によってではありませぬ。それは精神修養の如何(いかん)によって、難有くも送られる、難有くなくも送られるのであります。私はこの点に大いにつとめて見たいと思いまして、今現につとめつつあるのであります。で私は数年前から御県にも来られまして、同じ感化を与えました所のかの金原明善という老人とごく懇意でありますから、その金原さんに「どうか『難有』という額を書いてください」と言って頼んだところが、「それはおやすい事であるが、しかし『難有』の2字だけでは余り変がない。何か経書の中の語とか、あるいは有名な文章でも一句選んでお出ししたらよかろう」ということでありましたから、「イヤ私はこの『難有』という二字が結構である、どうかこの二字を書いてください」と言って頼みました。ところが金原翁はすぐにその二字を書いて持って来させてくれられました。私は早速これを額にして、私の宅の客室にかけました。ここに諸君の中で東京へお出になって、私の茅屋をお尋ね下さるならば、一番に良い部屋にその額がかけてあります。ところが多く訪問してくれるところの来客の中に、これを読む人もありますが、どうも難有(ありがた)いと読んでくれない。『なんいう』と読むのであります。『なんいう』というと難有(ありがた)いとは反対に、難儀があるということになります。これを難有(ありがた)いと読む人ははなはだ少ないのであります。なぜ少ないかというと、難有くはない心を持っている人が多いのであろうと思います。私どもの幼少の時には、難有い、勿体ないということをよく聞いた。たとえばご飯を食っておりますと、子どものことでありますから、過って飯粒を落とす。そうすると親父が「勿体ないぞ」と、こう言って叱る。それから今度は衣服をこしらえてくれる。この衣服は気に入らぬとかいうと、「勿体ないことを言うな」とこういうふうに言って仕込まれて参ったのであります。又何か言うと「難有く思え」などとよく言われたのでございますが、近頃は難有い勿体ないとは余り聞かないようです。聞くことは聞きますが、それは店舗にでも入って、何でも値切らずに買ってやると「難有う」とこう言う。それは私の言うところの難有いとはいうのとは大変に違う。とにかく難有い、勿体ないという言葉の使い方が減っている。八鹿町立八鹿中学校一年生の皆さんへ より抜粋 難有 この間雑誌を読んでいたら、この文字のことが載っていました。皆さんにも紹介したいと思います。 これは、「なんあり」と読みます。「難」が「有る」、難儀や難しいことや苦しいことが有るということです。この文字を、北海道のある学校では、講堂の正面に大きな額に入れてかけてあるのだそうです。それは北海道家庭学校というところです。北海道家庭学校というのは、前の言い方でいえば「教護院」です。今は、「自立支援施設」と言います。ここは、万引きとか、盗みとか、暴力とか、シンナーを吸うとか不良行為をしたような子どもや若者を鍛えなおしていくところです。こんな自立支援施設(教護院)は、全国のあちこちにあって兵庫県には明石市にあります。北海道家庭学校もその内の一つです。 そこの学校に来るのは、いろんな問題を起こしてしまった子どもたちです。そのような子どもは、難儀や難しいことからすぐに逃げ出そうとする、苦しいことは避けようとするような子が多いのだそうです。それで、「難有」という言葉をかかげて、難儀や難しいことが有るのは当たり前だ、それに負けてはいけないのだということを教えているのです。 とても大事なことだと思います。私たちは苦しいことよりも、面白いことをしたい、楽なことをしたいと思います。でも、生きていく上では、そんなことばかり有るわけがありません。苦しいことや難儀なことも有るのです。「難有」です。でも、「難有」であっても、それに負けてしまってはいけないのです。たくましく乗り越えていかなければなりません。 ところで、この北海道家庭学校では、「難有」をもう一つの読み方をしているのです。「難有」を「有難」と反対に読むことも教えているのです。「有難」は「有ることは難し」ということで、「有り難い(ありがたい)」という意味なのです。 少しだけ、日本語の「ありがたい」の言葉の説明をします。「ありがたい」といのは、この「有ることは難し」から来ているのです。お菓子を誰かからもらってありがたいのは、そんなことは「有ることは難い(めったにない)」から、ありがたいのです。生きているのがありがたいのは、ひとりの人間が生きているというのは、大変奇跡的なことで「有ることは難い(めったにない)」から、ありがたいのです。ですから、「難有」を、北海道家庭学校では「難有りは、有り難い」と読んでいるというのです。それは、「生きていく上では、難儀なことや難しいことや苦しいことはいろいろとあるだろう。でも、それは自分の心や考え方を鍛えてくれる大変有り難いことなのだ」ということなのでしょう。 私たちにも、難儀なことや苦しいことはいろいろとあるでしょう。これからだって、出てくるでしょう。そんなときに、弱音をはいたり、ぐちを言ったり、それに負けてしまったりしないで、それは、自分を鍛えてくれる有り難いことなのだと受けとめられるとどんなにいいでしょう。これはなかなか難しいことですが、そう考えることによって、難儀なことや難しいことに向かっていく勇気を持つことができます。
2024.02.18
六 技術者としての旅立ち 博士等の札幌農学校を卒業するや、同期生一同は、明治十四年七月二十九日付をもって、開拓使御用掛(準判任官月俸三十円)を申し付けられた。博士は最初、民事局勤務の命を受けて、三、四か月の間は、同局の勧業課に勤めていたが、同年十一月二十一日、煤田開採事務係を命ぜられ、鉄路科勤務となって、技術界に身を立てようとした年来の希望が達せられ、幌内鉄道建設工事の一部を担当することになった。 幌内鉄道は、北海道における最初の鉄道で明治十三年一月起工され、幾多の困難に遭遇したにかかわらず、同年十一月末、その一部を竣功した。ついで十五年十一月十三日、手宮幌内間五十六マイル三テーン〔一マイルは約一六〇九メートル、一チェーンは約二〇メートル〕を開通したこれは北海道開拓史上顕著な鉄道である。 博士が学窓を出でて実地に臨み、最初に手に掛けたものはこの鉄道の一小橋梁の建設であった。博士はこれに智能を傾注した。学理の上には十分の自信があっても、架設の実際に臨みてはある種の不安を感ぜざるを得なかった。それのみならず工事当事者として重大な責任を思うては夜間就眠の暇さえ念頭を去らしむることができなかった。 しかしながら、努力の効果はついに空しからず、まして博士の真摯なる努力は直ちに報いられ、首尾よく処女工事を竣成せしめる事が出来た。「我が造った橋、それが実際の荷重に堪えるであろうか」若き技術者の胸を刺すこの憂慮は技術家ならでは想像の及ばぬところである。いよいよ列車の試運転が行われようとした時、博士は顔色蒼然として四肢震うの有様であった。技術に欠点あるを憂えたのではない。万一の事あらば責任をいかにすべきかをおもんばかったからである。 やがて列車は驀(まっしぐ)らに走り去った。博士の技術を信頼するがごとくに、成功を祝福するがごとくに、前途を自信づけるがごとくに、・・・・・・幌内鉄道工事の主脳技術者は、我が国における鉄道の開拓者ともいうべき、松本荘一郎、平井晴二郎、ジョセフ・クロフォードの三氏であったが、真摯にして勤勉なる博士は、よくこれらの人々の信を得ることができた。 松本荘一郎氏は、当時開拓使庁の煤田開採事務副長であったが、広井の技量と堅実な精神とを認め激励した。広井がその門出において松本氏のごとき有力なる先覚者の知遇を得たことは、博士の前途をして赫々(かくかく)たる光輝あらしめ、後年世界的工学者として盛名を馳するに至らしめた大きな力の一つであったであろう。 その頃、広井はある家の二階を借りて自炊生活をしていたが、常に勉強を怠らず、片手にうちわをもって火をあおりながら、片手には書物をひろげて読書に熱中し、物の焦げ付くをも知らないというふうで、いつも満足のものを食うことができなかった。飯をたくに、火鉢の上に土鍋をかけて、研がない米を水と一緒に鍋に入れ、沸騰するにしたがってこれをかき回すという具合だった。できあがったものは粥とも飯ともつかないものであった。しかも博士はそれを常食として、少しも意に介さなかった。また副食などはたいてい安価な缶詰類で間に合わせていた。 勉強のために寸暇を惜しみながら、なぜこの不自由な自炊生活に甘んじていたか、その真意を解しなかった友人たちはただその辛抱強さに驚き、かつは平気な顔を怪(あや)しんだ。
2023.08.24
5 札幌農学校時代当時、政府の方針は、維新の直後、新興日本の経綸を委(ゆだ)ぬべき人材の養成にあって学問奨励のために、盛んに官費制度の学校を設置した。博士は既に工部大学に通学しながら、なおこれらの官費学校を片っぱしからたずねて試験を受けた。そして受けた試験には、ほとんど全部これに通過した。けれども、博士は規定の年齢に達していなかったために、いつも入学を許されなかった。当時、博士は陸軍士官学校の入学試験にまで及第した。(略)たまたま明治十年(一八七七)七月、札幌農学校は、工部大学の予科並びに東京英語学校の上級生中から、官費生を募集した。これは真に絶好の機会であった。博士は直ちにこれに応じ、入学を許可された。よって片岡氏に年来の厚遇を謝し、同邸を去りて暫らく芝増上寺内の開拓使官舎に移った。同時に選ばれた札幌農学校の第二期生となった人々は、内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、宮部金吾、岩崎行親、高木玉太郎、足立元太郎、藤田九三郎、佐久間信恭、南鷹次郎の諸氏で、博士は最も年少で十六歳だった。 この試験において博士は年齢一つを詐称した。幾度か年齢のために入学を許されなかった博士は、恐らく生涯唯一の嘘を言わなければならなかったのだろう。後年よく微笑を湛えつつ、この事を友人に語るのであった。 札幌農学校は、今の北海道大学の前身である。当時の北海道開拓使長官は黒田清隆氏であった。氏は蝦夷(えぞ)といわれた北海道を開発せんがためには、まず有為の人材を養成するにありとし、明治五年四月、学校を芝の増上寺境内に設けた。当時、維新後、日浅く、いわゆる豪傑をてらうの風あまねく、学生教師ともに挙動粗野にして開拓の趣旨にそわないので、明治八年八月これを札幌に移して札幌農学校と称し、学生としては比較的年少者のみを選抜した。ここにおいて黒田長官は大いに欧米の文化を移さんため、適当な教授を外国にもとめんと欲し、駐米全権公使吉田清成氏にこれが物色を依頼した。吉田氏は更にマサセッチュツ州アマスト農学校長コロネル・ウィリアムス・クラーク博士に諮(はか)った。クラーク氏はこの要求を聞いて、自ら決するところあるもののごとく、自ら日本に渡りこれに当たるべきことを申し出て、数名の教授を伴い札幌に来着した。(略) 札幌農学校はクラーク博士を迎えて第一世の校長とし、すべてマサチューセッツ州立農科大学の規模にならい、卒業生には農学士の称号を付与する事となった。クラーク氏は従来の複雑な学生心得を撤廃して単に Be Gentleman! の一句をもって、校則とし、学生の良心をして自発的に働かしめるような方法を採った。「紳士たれ!紳士たる者は、申し合わせを忠実に守らなければならぬ」 これがクラーク氏の教育の信条であった。今まで乱暴を極めた学生は、自ら紳士をもって任じなくてはならなくなった。遅刻は紳士の恥辱である。自然門限に遅れる学生もいなくなった。たまたま遅刻するものも必ず罪を門番に謝するようになった。農学校の門塀は低かったが、これを飛び越えて入るような者も全くなくなった。 クラーク氏は職業的の宗教家ではなく、真のピューリタンであった。毎朝授業開始に先立ちて聖書の講義をした。暫くして黒田長官は学校を訪れた。そして学生の態度が全然一変せるを見て少なからず驚いた。そしてそれがキリスト教的指導の結果なるを知って更に感嘆し、ついにクラーク氏にその布教を許した。クラーク氏はかねて用意したトランクを取り寄せ、これを開いた。中はいっぱいの聖書であった。しかも一々学生の名が記されてあった。氏はこれを一人一人の学生の手に渡し、各(おのおの)自ら、この書の中からキリスト教の真髄を会得するように諭した。 クラーク氏の在職はわずか八か月に過ぎなかったが、その間によく学生を教導し、氏の感化によって学生はいずれも熱心な教徒となり、あたかもキリスト教の学校でもあるかのごとき観を呈したほどであった。 クラーク校長は明治十年四月 Boys be ambitious! の有名な辞を残して帰国した。(略)広井博士等が入学した時は、クラーク氏はすでに去った後であった。氏の精神は、第一期生、佐藤昌介、大島正健等の諸氏によって継承され、博士等は間接にそのキリスト教的感化を受けたのであった。 明治十一年六月二日、博士は内村、宮部、新渡戸、高木、藤田、足立の同級諸氏と共に、米国宣教師エム・シー・ハリス(M.C.Harris)氏(函館メソジスト教会宣教師)からキリスト教の洗礼を受けた。これがやがて博士が全生涯を通じてよって立った信仰の礎(いしずえ)となったのである。 当時札幌農学校では、学生は文学でも、科学でも工学でも外交でも行政でも、各自好むところにしたがって、思い思いに学習する事が、自由であると言ってもよいくらいであった。したがってその卒業生は各方面にわたって、それぞれ社会に貢献している。たとえば、佐藤昌介氏は北海道帝国大学総長に、志賀重タカ氏は地理学に、新渡戸稲造氏は法学並びに農学に、佐久間信恭氏は英文学に、宮部金吾氏は植物学に、渡瀬寅次郎は動物学に、内村鑑三氏は宗教家に、早川鉄治氏は政治家となり、いずれも一方の権威である。これはクラーク氏の精神的感化の然らしめたところで、氏の遺徳と言うべきである。博士はこれらの人々と終生無二の交友があったのであるが、その中では唯一の土木工学者であった。土木工学を学ぶ博士にとって最も好都合であった事は、教師の中にアメリカの土木技術者ウィリアム・ホイラー氏のあったことである。同氏はクラーク氏の後を受けて教頭となり、土木工学、数学等を担任していた。その在職年限は三年半であったが、開拓使の嘱託を受けて、道路及び鉄道の測量、設計等を監督した。札幌豊平橋は北海道における最初のトラス・ブリッジで同氏の設計であり、また札幌における気象観測は同氏によりはじめられたものである。 博士は同級中の最年少者であったが、正義のためには師であれ、先輩であれ、教師であれ、先輩であれ、また友人後輩を問わず、忌憚なく直言した。ある朝、生理学の外国教師が講義室に入り、卓上にその引出しが載せられ、しかもその内容が散乱されてあるのを見て、直ちに学生のいたずらと誤認し、非常に怒り、「かかる行為は決して紳士のなすべきことにあらず、予に対して陳謝すべし」と言うや、博士は「一体、事の真相を調べずして、他人を非難するのを、あなたの国では紳士的と申されますか。まずよくお調べください。」と言い放った。 教師は自分がその引出しの修理を頼んでおいたことを思い出し、希望どおりの修繕が行われていたのとを見て、始めて大工の仕業と悟り、学生に対しその過ちを謝した。以来同級生は博士に対して少なからぬ敬意を払うようになった。明治14年7月9日に農学校を卒業して農学士となった。卒業生の中から選ばれて広井は「最高なる道徳の準備は北海道農家に緊要なり」という演題で卒業演説をした。 博士等は明治十四年七月九日に農学校を卒業して農学士となった。この頃の卒業式には卒業演説というものがあって、卒業生の中から選抜された幾人かが演説をしたものである。博士も選ばれた一人で『最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり』という演題のもとに、キリスト教的道徳の必要なことを力説した。当時博士の信仰がいかに熱烈であったかは、これによりても推測されるのである。しかし、これが恐らく博士が公衆の前で信仰に関して説いた最後であったろう。以後信仰については全く沈黙実行の人となってしまった。(略)〔札幌独立キリスト教会の創立事情(BBAp.44)〕
2023.08.23
四 片岡家の書生となる 片岡氏に伴われて上京した広井博士は、直ちに書生として同家に寄寓(きぐう)し、同時に英語、数学、漢学等の私塾に通うことができた。東京へ出て勉強することを念願としていた幼い博士の目的は、その一部が達成せられた。最初博士は非常な喜びと意気込とをもって勉学に精進した。 けれども、博士の感じたこの喜びははかなくも、瞬間的な喜悦に過ぎなかった。(略)この頃、片岡家には博士より一つ二つ年上の令息があった。博士はその令息のために、時には勉強の相手を勤め、また時には遊びの相手になっていたが、非常な腕白坊主で、乱暴な遊びを強(し)い、無理な命令を下して博士を困らせていた。けれども博士が最も悲しく思った事は、寸陰を惜しむ勉学の時間の大部分を少年のために奪われてしまうことであった。しかしこれはどうする事もできなかった。一方は。多くの女中下男にかしづかれる大家の令息であり、一方は、よし主人の親戚に当るとはいえ、単なる食客に過ぎないのである。ある時、令息のために、博士は掌(てのひら)に傷つけられた事もあった。けれども、密かに博士に同情を寄せていた下男すら、これを主人に訴えて、博士をその暴威から救おうとはしなかった。この傷あとは修生ついに消えないで 残っていたが、博士はその当時もただかりそめの戯れ事で自ら傷いたものと言い、決してその令息の仕業と言った事がなかった。あまりにその少年に悩まされた博士は、時には納屋に入って三日も出て来ない事すらあった。三日間も食を断って、ひたすらに勉学の時を守るのであった。(略)遂に博士は日夜怪しき高熱に悩まされるに至った。医者は診察の結果、腸チブスと診断した。けれども、医術は極めて幼稚の時代であり、かつ食客の身であった。病は恐るべき腸チブスであった。独り寂しく病床に伸吟する十一歳の少年であった。博士は絶えず母を呼び、勉学のことを譫言(うわごと)に口走っていた。 この頃、片岡家に出入りした外国商人にキンドンという人があった。博士は、片岡家の玄関番であったから、自然キンドン氏とはよく顔を合わせ、やがて親しい言葉を交わす間となった。キンドン氏は乱暴者の多い当事にあって、博士の真面目で鷹揚な態度を深く愛した。ある日、彼が片岡家を訪ねた時、そこに博士が顔を見せないので不審に思い、邸(やしき)のものに尋ね、始めて博士が腸チブスにかかって重態との事を知った。キンドン氏は非常に驚いた。 彼は早速博士を自宅に引き取り、病める小さな友人のために夫婦して神に祈るのであった。キンドン氏夫妻は進歩せる西洋の医術にのっとり、専門の医者にもまさる手当を施した。親身も及ばぬほど、親切をもって薬を与え、あるいはスープその他の滋養物を与える等、その介抱は真に到れり尽くせるものであった。これが少年を感激せしめないでおかれようか。それは人間的な愛より、もっと神に近いものと感ぜられたであろう。博士はそこに崇高な何ものかを感ぜずにはいられなかった。キンドン氏の献身的な介抱によって、博士は日に日に快方に向かった。ついに完全に病魔の手から逃れることができたのである。キンドン夫妻の厚い情は、博士の肉体を救ったばかりでなく、その精神に絶大な力を与えた。〔博士は晩年までキンドン氏の眠る横浜の墓地へ独り花を携えて墓参した。〕 博士はまず官費の学校に入学してその独立不羈(ふき)の道を求めんとし、明治七年三月、博士は勃々たる意気をもって、東京外国語学校の英語科下等第六級に入学した。語学に対する博士の素質は、既にこの頃から一頭地を抜いていたのであろう。この学校の入学試験は、かなり難しいものであったが、わずか十三歳の博士は優秀な成績で及第したのである。博士はここで宮部金吾氏等と知り合いになった。この英語科は、この年の十二月独立して東京英語学校となったが、博士は間もなく工部学校の予科へ転じた。博士が、工学界に転じた動機も恐らくこの時代ではなかったろうか。それは祖母によって語られた、野中兼山の物語もまたその遠因をなしていた事ではあろう。 『築港』緒言に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。「惟(おも)うに港湾修築の事たる、実に国家重大の事業にして、その施設の困難なる土木事業中の最たり。故にこれが計画を立つるに当りては、最も慎重に、最も周到を以てし、百年に竟(わた)りて違算なきを期せざるべからず。著者幼時、土州浦戸種崎に遊び、これを古老に聴く。該地海峡を扼(やく)する二個の波止〔はと・防波堤〕あり。これ我が邦(くに)工学の泰斗〔たいと・泰山北斗の略:その分野の第一人者〕たるの中野中兼山の築きしものなりと。その種崎村にあるものは、久しく堆砂(たいさ)のうちに埋没し、知るもの絶えてなかりしに、後二百余年を経、安政元年の震災に際し、怒涛襲来し、種崎の一村今や狂瀾(きょうらん)に捲き去られんとする一刹那(せつな)、彼の波止露出し、ここにこれを防止して僅かに一村を全うすることを得たりと言う。ここにおいてか、兼山の施設の永遠に迨(およ)び、その当を得たるを証するに足る。実に技術者、千歳の栄辱は懸かって設計の上に在り。これが用意の慎密遠図を要する、また以て了すべきなり。」「巻中に引用せし許多の試験及び観測を為すに当り工学士真島健三郎、遠藤善十郎、北村房次郎諸氏の補助を得たるもの少なしとせず。ここにこれを謝す 明治三十一年八月 著者識(しるす)」
2023.08.22
工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 前半 序【原文カタカナ】故東京帝国大学名誉教授正三位勲二等工学博士広井勇君昭和三年十月一日をもって薨去(こうきょ)せらる。 君、南海土佐の地に生まれ、年歯わずかに十一歳にして単身、笈(きゅう)を負うて東都に出て奮闘努力、蛍雪の苦を積むこと多年、終に札幌農学校に入り、その業を卒(おえ)るや、更に渡米の雄志を抱き苦辛経営、僅々二か年にしてここに遊学の資を蓄え、明治十六年をもって米国に渡り、河川・港湾・鉄道・橋梁等の実地を研究し、更にドイツ大学に入り、深く心を学理の研究に潜め、もってその得たるところを実地の経験に参照し、かたわら英仏諸国を巡歴し、常に智見をひろめ抱負を大にす。在留六年にして帰朝し、直ちに札幌農学校の教授に任ぜられ、ついで東京帝国大学の教授となり、子弟を薫陶すること三十余年、その平生己を持するや厳にして、人を待つや寛温厚の風貌篤実の資性よく同門の子弟をして愛慕、慈父のごとくならしむ。このごとく博士が高邁なる識見と豊富なる独創とは、しばしば築港・橋梁・河川・水力電気等の実地に現われ、さらにまた波浪・波力・橋梁力学・セメント等に関する四十有余種の著書となり、論文となり、日本土木工学の重鎮としてその雄名を欧米学者の間に賞揚せらるるに至れり。 君の忽焉(こつえん)として薨去せらるるや、君が生前の人格・識見・学殖を敬慕し、また多年の薫育の恩義を感謝する者相謀りて、故博士記念事業会を組織し、胸像建設・伝記編纂・工学辞典編集・奨学資金設定等の計画をたて、曩(さき)には博士の心血を注ぎて築港を完成せられたる小樽港に胸像の建設を終え、今またここに博士の偉業風格を追憶するの記念として伝記編纂の挙を完了せり。 想うに博士の卓越せる偉業功績は長えに不滅の好鑑を遺し、その勇剛なる気象崇高なる人格はよく後世の範たらしむるに足るというべし。ここに故博士を追懐し序文とす。 昭和五年九月 東京帝国大学名誉教授工学博士 中山秀三郎•第一章 広井博士の生涯(略出) 一 揺 籃 近代日本における土木工学界の先駆者にして、港湾及び橋梁技術の世界的権威たる、東京帝国大学名誉教授広井勇氏は、旧土佐藩士広井喜十郎氏の長男として、文久二年(一八六二)九月二日土佐国高岡郡佐川村に生れた。 広井家は代々土佐藩の主席家老深尾氏に仕えていたが、博士の曽祖父に当る遊冥翁は碩学の誉れ高い儒者として藩中に重きをなしていた。父の喜十郎氏は博士出生の当時、土佐藩の御納戸役を勤めていたが、生活は豊かではなかった。博士には春という姉が一人あった。 文久二年は、勤皇討幕の世論が沸騰し、徳川幕府の権勢もようやく衰えつつあった。この時、土佐藩では、勤王倒幕党の主領の武市瑞山が、同志の十三人を放って、中間派の吉田東洋をたおして以来、藩政は急転して武市派の手中に帰し、幾多の志士は、藩主山内容堂侯を説得して新撰組等と闘い、あるいは京都にあるいは江戸に、薩長の志士と提携して勤王に奔走し、積極的に徳川幕府の倒壊を企画しつつあった。 広井博士の父、喜十郎氏は、御納戸役を勤めていた関係上、直接これらの運動に参加して東奔西走することを許されなかったが、この時代における血気な若者として勤王に共鳴し倒幕を期待していたことはいうまでもない。そのためか、喜十郎氏は前後数回勤事差控を受けたということであった。 広井博士はかかる雰囲気の中に生い立った。 二 年少時代 明治維新後、一藩の御納戸役であった博士の父も、その小禄を召し上げられたので、悲惨なるものであったが、しかも不幸はこれに止まらなかった。明治三年十月九日、博士の父はこの窮乏の中に遂に不帰の客となったのである。父を亡くした博士父母の歎きは、外の見る眼も哀れなものであった。かよわき博士父母は、絶え間なき嵐の真只中に放り出されたも同様な惨苦を、今は何者の庇護もなく堪え忍ばねばならなかった。〔廣井数馬(幼名)は十一月三日家督を相続した。時に九歳だった〕 その年の暮、家老深尾氏が高知に移ることになったので、博士の家も佐川の屋敷を引き払って高知に移り住むことになった。高知在住当時の博士の家庭は、物質的に最も薄幸な境遇に置かれていた。禄を離れてからは、わずかな貯え物を売り払いつつその日その日を過していたが、もはや売り払うべき何物もなくなった。今は祖母や母の手内職より得る零細な金をもって、辛うじて糊口をしのぐより外にみちがなかった。数馬少年も家業の手伝いに大部分の時間を費さねばならなかった。その頃、博士の祖母は、木綿綿を糸につむぐことを内職としていたので、毎日綿からひきだされる糸がたまると、それを糸屋へ届けて鳥目〔銭〕に換えて来るのが博士の仕事になっていた。 ある日、博士が例のごとく数個の巻き糸を金に換えて帰る途中、子供心のあどけなきに近所の子供達と遊びに紛れ、ついにその大切な金を遺失してしまった。幼い博士は祖母の叱責を予期して心を痛めたが、いかんとも仕方がない。博士は草履(ぞうり)を脱いで空に放り投げた。もしそれが落ちて来て、表が出たら叱責を免れるものとの占いであった。落ちて来た草履はまさしく地上に表を現わした。博士はようやく安心を得て家に帰った。果たして博士の占いは的中した。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭すだけであった。〔士族は明治維新後、商業や農業についたが、子弟の教育に心を尽くした。勇も寺小屋に通った〕 祖母は名をお勇といった。早く夫に死別して舅(しゅうと)の遊冥翁(ゆうみょうおう)に仕え、孝養至らざるなく、藩主より三度まで表彰された人である。遊冥翁は学者に多く見る気質の難しい人であったが、彼女は何事にも温順に仕え、かつて翁を怒らしめた事がなかった。この温順豊かな祖母の慈愛の中に育(はぐく)まれた博士は、たとえ早く父を失って貧窮の中に人となったとはいえ、なお幸福であったといわねばならぬ。彼女はその愛する孫である博士の傍らで糸紡ぎ車を繰(く)りながら、昔話や人物伝等を語り聞かせる事を常としていた。あるときは山内一豊の武勇伝に、あるときは深尾重光の奮戦談に、ある時は野中兼山の大事業(1)に耳を傾けた。特に広井家について最も傑出した人物として語らるる曽祖父遊冥翁の物語りに至っては、恐らくその一句をも聞きもらすまいと、一心に聞き入った事であろう。(1) 『築港』に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。 二 少年立志時代 明治五年(一八七二)の夏、当時東京において侍従の職にあった、片岡利和氏〔母寅子の義弟〕が、郷里土佐へ帰省した。上京遊学の志に燃えていた博士にとって、これは絶好の機会であった。博士はまず片岡氏を訪ね、学問修行の希望を述べた。『いかなる労務にも服することをいとわないから、東京に連れ行かれたい』と歎願するのであった。片岡氏は、初め博士の人となりに嘱目(しょくもく)しなかった。かつ東京遊学にはいまだ年が早すぎると思ってこれを許さなかったが、博士の熱心なる願いは、片岡氏を動かさずにはおかなかった。。片岡氏はついに母や祖母が許すなら連れて行こうと答えた。この返事を受け取った博士は、飛び立つほどの喜びをもって家に帰った。そして母に上京の許しを乞うた。母はただ一人の男の子ではあるが、父を失ってから二年とも経たない時だったので、博士を手放す気にはなれなかった。けれども小賢しい性質を持たない、むしろ鈍重とも見られた少年時代の博士には、その肉親にさえ、上京などのできる人物だとは思われなかった。『そんなに行きたいのなら、行ってごらん』と(略)博士は欣然として片岡氏に伴われ、懐かしの郷関(きょうかん)を後にして船上の人となった。時に博士は十一歳であった。
2023.08.21
M.Mさんに先日メールを送った。「朝から蒸し暑い日が続いております(略)先日 会の○○センターのメールボックスに新潟市のIさんからの手紙がメールボックスに入っていました。収受が6月14日、この1か月ほどセンターには寄っていませんでした。読んでみると6月25日に開催される教会の有志の学ぶ会「バイブルワールド」で八田與一と恩師広井勇の生涯を30分ほど紹介したい、ついては「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の本をコピーし配付さえていただきたい。また「ボーイズ・ビー・アンビシャス」3冊の本、各2部づつ購入したしますとのこと。残念ながら残部は、さほど持ち合わせないのですが、「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあり、そういう志ならばと手持ちの第1集から第4集まで1冊づつ送りました。これらの本が生きて世に働けば嬉しいです。楽しみです。追伸返事が遅れた次第をご自宅に電話したところ 奥様が出られてさすがに夫婦でバプテスマを50年前に受洗されただけあって素敵なお人柄で「らんまん」の広瀬佑一郎のモデルが廣井勇博士ということも十分にご存知でした。蒸し暑い季節になってまいりました。熱中症には十分お気をつけください。」すると「メールをいただいておりながら、拝読しておりませんでした。お許しください。」とメールが届いた。台湾の台中に行って台風が近畿を直撃するということで、予定を早めて、帰宅したところという。「台湾はいつ行っても、人々が温かく迎えてくださり、訪問するのが楽しみな国です」とあった。11月18日(土)に袋井市で開催される鳥居信平記念行事では鳥居信平ドキュメンタリー映画が上映される。M.Mさんにも呼び掛けて、映画作成の団体寄付に賛同していただいたのでご都合がつけばとお誘いした。遠いからなあ(^^)
2023.08.19
工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 前半 序【原文カタカナ】故東京帝国大学名誉教授正三位勲二等工学博士広井勇君昭和三年十月一日をもって薨去(こうきょ)せらる。 君、南海土佐の地に生まれ、年歯わずかに十一歳にして単身、笈(きゅう)を負うて東都に出て奮闘努力、蛍雪の苦を積むこと多年、終に札幌農学校に入り、その業を卒(おえ)るや、更に渡米の雄志を抱き苦辛経営、僅々二か年にしてここに遊学の資を蓄え、明治十六年をもって米国に渡り、河川・港湾・鉄道・橋梁等の実地を研究し、更にドイツ大学に入り、深く心を学理の研究に潜め、もってその得たるところを実地の経験に参照し、かたわら英仏諸国を巡歴し、常に智見をひろめ抱負を大にす。在留六年にして帰朝し、直ちに札幌農学校の教授に任ぜられ、ついで東京帝国大学の教授となり、子弟を薫陶すること三十余年、その平生己を持するや厳にして、人を待つや寛温厚の風貌篤実の資性よく同門の子弟をして愛慕、慈父のごとくならしむ。このごとく博士が高邁なる識見と豊富なる独創とは、しばしば築港・橋梁・河川・水力電気等の実地に現われ、さらにまた波浪・波力・橋梁力学・セメント等に関する四十有余種の著書となり、論文となり、日本土木工学の重鎮としてその雄名を欧米学者の間に賞揚せらるるに至れり。 君の忽焉(こつえん)として薨去せらるるや、君が生前の人格・識見・学殖を敬慕し、また多年の薫育の恩義を感謝する者相謀りて、故博士記念事業会を組織し、胸像建設・伝記編纂・工学辞典編集・奨学資金設定等の計画をたて、曩(さき)には博士の心血を注ぎて築港を完成せられたる小樽港に胸像の建設を終え、今またここに博士の偉業風格を追憶するの記念として伝記編纂の挙を完了せり。 想うに博士の卓越せる偉業功績は長えに不滅の好鑑を遺し、その勇剛なる気象崇高なる人格はよく後世の範たらしむるに足るというべし。ここに故博士を追懐し序文とす。 昭和五年九月 東京帝国大学名誉教授工学博士 中山秀三郎•第一章 広井博士の生涯(略出) 一 揺 籃 近代日本における土木工学界の先駆者にして、港湾及び橋梁技術の世界的権威たる、東京帝国大学名誉教授広井勇氏は、旧土佐藩士広井喜十郎氏の長男として、文久二年(一八六二)九月二日土佐国高岡郡佐川村に生れた。 広井家は代々土佐藩の主席家老深尾氏に仕えていたが、博士の曽祖父に当る遊冥翁は碩学の誉れ高い儒者として藩中に重きをなしていた。父の喜十郎氏は博士出生の当時、土佐藩の御納戸役を勤めていたが、生活は豊かではなかった。博士には春という姉が一人あった。 文久二年は、勤皇討幕の世論が沸騰し、徳川幕府の権勢もようやく衰えつつあった。この時、土佐藩では、勤王倒幕党の主領の武市瑞山が、同志の十三人を放って、中間派の吉田東洋をたおして以来、藩政は急転して武市派の手中に帰し、幾多の志士は、藩主山内容堂侯を説得して新撰組等と闘い、あるいは京都にあるいは江戸に、薩長の志士と提携して勤王に奔走し、積極的に徳川幕府の倒壊を企画しつつあった。 広井博士の父、喜十郎氏は、御納戸役を勤めていた関係上、直接これらの運動に参加して東奔西走することを許されなかったが、この時代における血気な若者として勤王に共鳴し倒幕を期待していたことはいうまでもない。そのためか、喜十郎氏は前後数回勤事差控を受けたということであった。 広井博士はかかる雰囲気の中に生い立った。 二 年少時代 明治維新後、一藩の御納戸役であった博士の父も、その小禄を召し上げられたので、悲惨なるものであったが、しかも不幸はこれに止まらなかった。明治三年十月九日、博士の父はこの窮乏の中に遂に不帰の客となったのである。父を亡くした博士父母の歎きは、外の見る眼も哀れなものであった。かよわき博士父母は、絶え間なき嵐の真只中に放り出されたも同様な惨苦を、今は何者の庇護もなく堪え忍ばねばならなかった。〔廣井数馬(幼名)は十一月三日家督を相続した。時に九歳だった〕 その年の暮、家老深尾氏が高知に移ることになったので、博士の家も佐川の屋敷を引き払って高知に移り住むことになった。高知在住当時の博士の家庭は、物質的に最も薄幸な境遇に置かれていた。禄を離れてからは、わずかな貯え物を売り払いつつその日その日を過していたが、もはや売り払うべき何物もなくなった。今は祖母や母の手内職より得る零細な金をもって、辛うじて糊口をしのぐより外にみちがなかった。数馬少年も家業の手伝いに大部分の時間を費さねばならなかった。その頃、博士の祖母は、木綿綿を糸につむぐことを内職としていたので、毎日綿からひきだされる糸がたまると、それを糸屋へ届けて鳥目〔銭〕に換えて来るのが博士の仕事になっていた。 ある日、博士が例のごとく数個の巻き糸を金に換えて帰る途中、子供心のあどけなきに近所の子供達と遊びに紛れ、ついにその大切な金を遺失してしまった。幼い博士は祖母の叱責を予期して心を痛めたが、いかんとも仕方がない。博士は草履(ぞうり)を脱いで空に放り投げた。もしそれが落ちて来て、表が出たら叱責を免れるものとの占いであった。落ちて来た草履はまさしく地上に表を現わした。博士はようやく安心を得て家に帰った。果たして博士の占いは的中した。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭すだけであった。
2023.08.19
広井勇、母を札幌に呼んで一緒に暮らす 広井勇は札幌農学校着任とともに、当時東京にいた母を札幌に呼んで一緒に暮らした。広井は渡米にあたって、土佐にいた祖母や母の面倒を当時東京で侍従であった叔父の片岡に託していた。在米中祖母は亡くなる。内村鑑三の一八八七年(明治二〇年)二月八日付の広井あて手紙に「ご祖母様、ご逝去の由、ご悲嘆同情にたえない」とある。(「米欧留学篇」p.217)「工学博士広井勇伝」では次のように記する。「明治二十二年九月十一日、博士は帰朝と同時に札幌農学校教授に任ぜられ、直ちに札幌に赴任した博士はこの新設工学科のために容易ならぬ努力と苦心とを払ったのである。当時、大学と称せらるるものは東京帝国大学以外には無かった時代であるから、学士の称号を付与する札幌農学校の存在は、北海道全土の誇りであった。広井博士は、その学校の教授であり、殊には洋行帰りであるというところから、たちまち尊敬の的となった。この時、博士はまだ少壮二十八歳の青年であった。威あって猛からざるその風貌は、既に堂々たる紳士として、人をして犯し難き感を抱かしめたのである。 札幌へ赴任すると、博士は札幌区北一条西五丁目に一戸を構え、仲秋、母堂を東京から迎えた。父を失える十一歳の幼な子を片岡氏に託して旅立たせ、明け暮れその出世のみを楽しんで、自らは淋しく暮らして来た母堂は、十七年ぶりに、初めていとし子との楽しい生活を迎えることができるようになった。 博士の母堂は、明治十七年、片岡健吉氏と共に、同氏設立のキリスト教高知教会において、米国宣教師タムソン氏より洗礼を受け、熱烈な信仰生活に入った人である。母子のごときは互いに海山遠く離れて、それぞれ貧苦と寂寞とに勇敢に戦って来た。その総ての憂さも辛さも今は淡き過去の夢と消え去ったのである。博士は、母と共にただ天なる神に感謝の祈りを捧げるばかりであった。母堂を迎えて札幌に一家を構えた時には博士はまだ独身であって、母堂と共に東京から来た同郷の後輩、岡田虎輔、永野義直、山崎正馬(博士の甥)、奈良井多一郎を書生として寄寓せしめる事となった。この他博士の家庭に出入りした青年は数多い。その後、永野氏は札幌農学校実科に入りて寄宿舎生活をすることとなり、新たに高田武一氏が加わった。博士は元より、母堂がこれらの人々威対する』態度には少しも主従の隔たりなく、書生も召使も一緒に食事をとり、その親切、その撫育は至れり尽くせりであって、その恩愛の情はまことに親子もなお及ばぬごとくであった。 この頃の博士は帰朝早々で、元より貯蓄など全く無く、家具の購入を始め、将来夫人を迎うるの準備をも整えねばならず、経済的に非常に多難の時代であった。しかし、博士は一向に無頓着で、大勢の書生を教養する事を楽しみとした。博士の母堂は、熱心なキリスト信者であったから、この頃博士の家に寄寓し、または出入りしていた人で、その熱烈な信仰に動かされ、キリスト教の信仰の道に入った者も決して少なくない。」(p.38) 広井勇は母と妻に自分のために祈ってくれ、自分にはそれが必要だからと絶えず頼み、事業が成功すると、母と妻の祈りのお陰だと感謝したという。「『人間にとって祈祷は最も主要な事である。実際、人間には祈祷より外に施すべきはないのである。自分の如き者は素質において、決して天才という質でない。他人が三日にて成就する事も自分には一ヵ月もかかるのである。その点からしても、ただ祈りと努力があるばかりである、どうぞ自分のために祈ってくれるように、祈りにました援助はない』とは、博士が繰り返し家人に語っていた言葉である。人に対して毅然たる博士の一面には神に対し幼子のごとき謙遜があり、信頼があったのである。そしてことに母堂と夫人の祈祷をこの上もなき助力としていた。何事かを仕遂げ、または何事か災厄を免れ得た場合には、いつもこれを母堂と夫人の祈りによる賜であると心からの感謝を述べるのであった。」(p.93)2 広井勇の祖母・母と札幌での母との生活 広井勇は札幌農学校着任とともに、当時東京にいた母を札幌に呼んで一緒に暮らした。広井は渡米にあたって、土佐にいた祖母や母の面倒を当時東京で侍従であった叔父の片岡に託した。在米中、祖母は亡くなる。内村鑑三は一八八七年(明治二〇年)二月八日付の広井あて手紙で「ご祖母様、ご逝去の由、ご悲嘆同情にたえない」と悼んだ。(第二集p.217) 「広井勇伝」によると、広井家は土佐の筆頭家老深尾家に仕えた。広井勇の曽祖父は喜十郎といい、遊冥と号した。遊冥翁は幼い頃から優秀で「学問に出精し算術も伝授されるなど神妙の至り」と賞せられた。十八歳の時、御役所向見習勤、三十三歳の時、家中の子弟に手習方を命ぜられ「諸生取立て方よろしく」と賞せられた。寛政三年二十二歳で田村喜六の娘と結婚した。文政二年五十歳で深尾家の高知邸の「御留守居役」を命じられた。長子が虎之助(勘左衛門と称す)である。二十四歳で西田祐之進の妹と再婚した。これが広井勇の祖母お勇である。勘左衛門は四十二歳で亡くなり、お勇は老父、遊冥翁に孝養を尽し一子熊之助(喜十郎)の養育に勤めた。お勇は嘉永元年五月八日「父母に仕え方よろしく」、更に嘉永七年にも「貞節の暮し方・・・かつ喜十郎病中永々手入方行き届き」と二度も褒美を賜った。明治三年勇の父、喜十郎が亡くなり、祖母と母が手内職で広井家の生活を支えた。祖母は木綿綿を糸に紡ぐことを内職とし、その糸を糸屋に届け、代金を受け取るのが数馬(勇の幼名)の仕事であった。ある日勇が数個の糸巻を金に換えて帰る途中、近所の子供達と遊んで遺失してしまった。祖母にわびると「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭した。祖母お勇は糸紡車を操りながら勇に、昔話や野中兼山や遊冥翁など人物伝を語り聞かせた。明治五年、当時東京で侍従であった片岡利和(母の義弟)が土佐に帰省した折、勇は「いかなる労務にも服することを厭わないから東京に連れていかれたい」と嘆願した。片岡は祖母と母が許すなら連れて行こうと答え、勇は母の許しを得た。勇十一歳の時である。勇は片岡家の書生として英語・数学・漢学等の私塾に通った。片岡家には年長の令息がいて勇に乱暴な遊びを強い、無理な命令を下して勇を困らせた。掌に傷を受けても勇は自ら招いたとして令息の仕業と言わなかった。勇は腸チブスにかかり、高熱の中で母を呼び、勉学の事をうわごとに口走った。それを救ったのが、片岡家に出入りしていた外国商人キンドン氏である。キンドンは玄関番として親しく言葉を交わしていた勇の姿が見えないことを不審に思い、勇が重病と知り、自宅に引き取って夫婦で献身的に看病した。勇は晩年まで横浜のキンドン氏の墓に花を持って詣でて、その慈愛に感謝した。 明治七年十三歳で東京外国語学校英語科(後東京英語学校)下等第六級に入学し、宮部金吾らと知り合う。その後、勇は工部大学の予科に転じた。明治十年七月、札幌農学校は工部大学予科と東京英語学校の上級生から官費生を募集した。勇はこれに応じ、東京英語学校の宮部・内村・新渡戸らと共に二期生として入学した。勇が最も若く、一六歳であった。「広井勇伝」の「母堂寅子夫人」によると、勇の母寅子は那須檽蔵氏の娘で、土佐勤王党の那須信吾、田中光顕、片岡利和と姻戚関係にある。母子の前半生は多難だったが、勇が札幌農学校教授としてドイツから帰朝して以来、身も心も温かい家庭を得た。「明治二十二年九月十一日、博士は帰朝と同時に札幌農学校教授に任ぜられ、直ちに札幌に赴任した博士は新設工学科のために容易ならぬ努力と苦心を払った。当時、大学と称されるのは東京帝国大学以外に無く、学士の称号を付与する札幌農学校の存在は、北海道全土の誇りであった。広井博士は、教授で、殊に洋行帰りであることから、尊敬の的となった。この時、博士は少壮二十八歳の青年であった。威あって猛からざる風貌は、既に堂々たる紳士であった。 札幌へ赴任すると、博士は札幌区北一条西五丁目に一戸を構え、秋に母を東京から迎えた。父を失った十一歳の子を片岡氏に託し、明け暮れその出世のみ楽しんで、淋しく暮らして来た母は、十七年ぶりに、子との楽しい生活を迎えることができた。 博士の母は、明治十七年、片岡健吉氏と共に、同氏設立のキリスト教高知教会において、米国宣教師タムソン氏より洗礼を受けた。母子は互いに遠く離れ、貧苦と寂しさに戦って来た。そのすべての憂さも辛さも過去と去った。博士は、母と共に天なる神に感謝の祈りを捧げた。母を迎え、札幌に一家を構えた時には博士はまだ独身であって、母と共に東京から来た同郷の後輩、岡田虎輔、永野義直、山崎正馬(博士の甥)、奈良井多一郎を書生として寄寓させた。この他博士の家に出入りした青年は数多い。その後、永野氏は札幌農学校実科に入り寄宿舎生活となり、新たに高田武一氏が加わった。博士の母がこれらの人々に対する態度は少しも主従の隔りなく、書生も召使も一緒に食事をとり、その親切、その撫育は至れり尽くせりで、その恩愛の情はまことに親子もなお及ばないようであった。 この頃の博士は帰朝早々で、貯蓄など全く無く、家具の購入を始め、将来夫人を迎える準備も整えなければならず、経済的に非常に多難の時代であった。しかし博士は一向無頓着で、大勢の書生を教養する事を楽しみとした。博士の母は、熱心なキリスト信者だったから、この頃博士の家に寄寓し、出入りしていた人で、その熱烈な信仰に動かされ、キリスト教の信仰の道に入った者も少なくない。」(同書p.38) 札幌に住んだ初め、一竿のタンスで間に合わず新たにタンスを買い求めることを申し出ると、広井は、『衣類等は、一つのタンスに入るだけでたくさん故、余分の物は困る人々にお頒かちになられたら』と言う。母は直ちに実行した。後に夫人を迎え、『あの時、人に遣りすぎたから、今になって不自由で困る。私も何と正直者だったろう』と笑いながらも話したという。寅子は大正十二年一月四日、八十九歳で逝去した。
2023.08.19
広井勇、札幌農学校に着任 札幌農学校では、第一期生佐藤昌介がアメリカ留学から帰って母校の教授となっていた。佐藤はアメリカ留学の報告を岩村北海道庁長官に行い、北海道開発のためには、農学とともに工学が必要であると説いた。「工学博士広井勇伝」には次のようにある。「この頃、札幌農学校においては、既設の農学科と併立して、同程度の工学科を新設する事になった。これは同校の幹事であった佐藤昌介氏等の熱心な主張によったもので、当時米国にあって実地の研究に従っていた博士をその主任教授に推し、書を送って広井にその創業の任につくようにと勧誘して来た。広井にとっては元より母校の事であるから、快くこれを承諾した。ここにおいて明治二〇年四月一日、在米のまま札幌農学校助教授に任ぜられ、同時に満三ヶ年間土木工学研究のためドイツ国に留学を命ぜられ、始めて経済的苦境を脱し、専心研究学問の道に精進する事ができるようになった。」宮部金吾は『広井勇君小伝』において「ちょうどこの時代に君の生涯中の最も重大なターニング・ポイントが起った。それは当時札幌農学校の幹事であった教授佐藤昌介氏の熱心なる主張が入れられ、君が母校に既設の農学科と併立して、同程度の工学科が新設さるる事となってその主任教授として、創業の任に就かれん事の勧誘を受け君は快くこれに応じた。かくして君が爾後育英の業につくされた門戸が開かれたのである。明治二十年四月一日、君は札幌農学校助教に任ぜられ、即時土木工学研究のため満三年間ドイツに留学を命ぜられた。しかし同科開設の都合上、かの地に二年間滞留の後召還せられて、明治二十二年七月帰朝された。ドイツでは初めカールスルーへのポリテクニクムに次いで、スツツトガート・ポリテクニクムにおいて、土木工学、建築、水利工学等の諸学科を研究して土木技師の学位を受領された。卒業後約三ヶ月間、独、仏、英の諸国を巡歴して、土木工事の視察を成し、帰朝の途に就いたのである。 明治二十二年九月十一日札幌農学校教授に任ぜられ、新設の工学科のために容易ならざる苦心努力を尽された。同二十九年校則改正の結果、同科の廃止せらるるに至る迄八年間英才の育成に尽力された。この間の出身工学士十五名の内には岡崎文吉、大村卓一、真嶋健三郎諸氏その他今日斯界に雄飛している者が少なくない。」 札幌農学校は、開設以来主として外人教師を教授としていたが、次第に日本人教師、なかでも札幌農学校卒業生で置き換える方針で、明治十九年四月岩村道庁長官から内閣総理大臣伊藤博文にあてて「農学校卒業生米国へ留学の義につき上請」が提出され、翌年五月に認許された。その内容は次の通りである。「札幌農学校の学課は農学などを教授するために科目が多数にわたって適当な教員を得ることは非常に困難です。従来はアメリカのマサチューセッツ農学校の教頭以下その卒業生数名を雇い入れて本校の教授とし、日本人をその補助としていましたが、順次、日本人だけで教授できるようにしたい。しかし、教授としての学術と経験ともに具備するものでなければ、その任にたえません。ついては現在アメリカにおいて修学しております農学士荒川重秀、佐藤昌介の二名がこの秋に満期となります。更に本校の卒業生の内から二名を精選して植物学及び動物学研究としてアメリカへ三ヵ年留学を命ぜられ、日本に帰って後、本校の教授に従事させたい。」この方針により、まずジョンス・ホプキンス大学に学んでいた第一期生佐藤昌介がドイツ留学後帰朝し、札幌農学校教授に就任する。当時、「北海道三県巡視復命書」による札幌農学校廃止論があった。佐藤は岩村長官に面会し、札幌農学校の使命と成績、その発展の必要を熱弁を奮い、アメリカの農工科大学の組織と効用を説いて、農学科と同程度の工学科を設置することとなったのである。
2023.08.18
広井勇の信念―生きている限りは仕事をする― 広井勇の信念は「生きている限りは仕事をする。仕事ができなくなった時、その時が自分の死ぬ時である」であったという(「広井勇伝」p.77)。この信念は広井のキリスト信徒の義務の省察から出たように思われる。明治十六年(1883)六月広井が鉄道局に在職中、宮部金吾にあてた病気見舞状に、キリスト信者としての義務は努力することだとある。「科学研究に対する君の『激しい情熱』は僕にその方面での努力を促した。君は自然研究においてキリスト教徒の真の精神を培っている。生涯にわたり努力することを切望する。近いうちに君は二重に祝福されるでしょう。僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト信徒の最大の義務だ。神の教えを守るため努力あるのみ。暇があったら、『ヨハネの信書』を考えてみてくれ」(「評伝」高崎哲郎p.91)手紙の詩に歌う。「僕たちが信ずる救い主を固く信じ、生涯の長い間の闘いを戦い続けようとするついに勝利したとき戦いをやめ天国において神の栄光を分かち合う」広井はこの年十月三日に鉄道局を退職し、十二月十日渡米する。一年後、恩師ホイラーへ「働きながら懸命に学ぶ生活は、順調に進んでいます」と報告した。「私は厳しい仕事の後でも先生のご指導通り土木工学などの専門図書や歴史・文学の本を読むように努めています。毎朝五時に起床し三〇分聖書を読み神に祈りを捧げています。」(「評伝」p.107)。広井は常に技術者用のポケットブックを身辺から離さず、また視察の車中で英語の小説を読みふけっていた。 広井は同級生中、最も早く渡米しただけでなく、一八八八年に最初にニューヨークの科学技術専門図書出版社からサイエンス・シリーズの第九五巻として英文で本を出した。この『プレート・ガーダー・コンストラクション(Plate-Girder Construction)』という橋梁実務専門書は英米で高く評価された。ここでも、新渡戸の『武士道』や内村の『代表的日本人』などの日本人が英文で書いて世界的に評価された書籍の先駆けを、広井が果たしたのである。 広井は、小樽港北防波堤築港の難工事にあたって、「使用するセメントは、特に浅野セメントに限る」と指名した。浅野総一郎はその関係上、視察のため、たびたび小樽に出向いては、越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察した。そこで見た広井について、「現場監督の博士は、いつお見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる」と綴って「この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ」と感動した。広井は、横浜築港において、コンクリートが割れた事故について、問題はセメントの質にあったのではなく、セメントの製造過程がきちんと丁寧に行われていなかったからだと分析し、自らその施工過程に細心の注意を払ったのである。広井は小樽の工事で浅野を顧みて繰り返し言った。「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」と。広井は自らの責任を明言すると共に、施工業者も一体となった責任を求めたのである。 浅野は広井の回顧談を口述しながら涙を浮かべた。「実に想起すれば博士は惜しんでも、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。『仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである』と。晩年も、毎日のように『生きている間は仕事をする』と言われた。『社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい』が博士の持論であった。」(p.159)小樽築港工事報文 抜粋〔現代語表記〕総 叙小樽港は北緯四十三度十二分、東経百四十一度一分に位し、後志国(しりべしのくに)の北端に在り。その地勢は東に向かいて開敞〔かいしょう・港湾が外海に面して直接風波を受ける〕し、対岸の近きは東南東に当り、四里(一二キロ)にして、漸次東北に向かいて距離を加え、北二十三度東、雄冬岬(おふゆみさき)に十六里半向かい、(六六キロ)に達す。北西南の三方は山丘囲繞〔いにょう・周りを取り囲む〕し、高岡は湾の北端に当る茅柴岬(かやしばみさき)に起こり、西部の山脈に連なり、山嘴〔さんし・山麓の突き出た端〕は延(ひ)いて平磯岬(ひらいそみさき)に接し、湾の南端をなす。明治四年、開拓使、本庁を札幌に置くに当り、海陸運輸の接続を本港に期し、同年より十一年に至るの間に札幌・小樽間の道路を築造し、十三年に至り、鉄道を布設し、手宮に桟橋を架設する等、漸次運搬の便を開き、爾来(じらい)石炭輸出の増加すると、原野の開墾、水産その他万般の進歩に従い、一小漁村は変じて繁盛の地となり、大いに市街の狭隘を感ずるに及び、明治二十年において沿岸三万三千余坪(約十万平方メートル)の埋築(まいちく)を施し、二十三年に至り、面積約二千三百坪及び三千二百坪の船入場を築設して大いに市街の拡張を図り、最近の調査によれば現在人口八万五千余、輸出入の金額は三千万円余の巨額に達す。その長足なる進歩の状勢また想うべし。(略)本港は湾形大いに広濶〔こうかつ・広々と開ける〕に過ぎ、東風より起こる波浪はその高さ六尺(約一八〇センチ)を超えずといえども、西北風に際して起こる激浪は遠く大洋より颺動(ようどう)し、高島・茅柴の両岬を廻繞(かいにょう)して湾内を襲い、船舶の碇繋(ていけい)安全ならざるのみならず、余勢延いて陸上家屋を犯し、その惨酷(さんごく)実に名状すべからず。現に明治二十六年一月の暴風は、沿岸・道路・石垣及び船入場等を破壊し、また同年十二月に至り、未曾有(みぞう)の暴風激浪に遭遇し、港内停泊の船舶を覆没し、更に石堤・道路を撃破するに至れり。(略)
2023.08.18
明治28年8月31日付 北海道毎日新聞(「小樽築港の礎 技師青木政徳」p.28)「小樽築港試験工事は最近ようやく進捗したそうで、人造石の製造は既に三日ほど前に完了し、捨石の投入が終わるのを待って直ちに据付ける予定である。しかし、人造石〔コンクリート塊〕はかつて横浜築港で亀裂した前例もあり、青田(政徳)主任は直接同地の現状を観察して大いに得るところがあって、最初からこの製造に注意していたので成績は良好であると以前から聞いている。同氏はなお念のため今回最初に製造した人造石のうちで最も不出来な一個を破壊してセメントの凝結力を試験したところ、果して好成績を得たそうだ。現に我が社員はその現場に臨み、その人造石破壊面で結合した小石が両分したのを多く発見した。このことからもその凝結力がいかに強固であるか確証できた。 一方海底の捨石は昨今毎日台車八台で銭函近傍より送り出し、北海道炭鉱鉄道の桟橋から艀(はしけ)に移しかえ、築港工場に運搬して海中に投入している。そして四人の潜水夫達がこの均(なら)しに従事し、工事主任青木属が時には潜水器を使用して海底に潜って工事の模様を監督している。しかし風波激甚の季節まで日時もあまり無いので当局者はしきりに捨石の投入を急ぎ、それが終わればいよいよ人造石の据付に着手する手はずになっているそうだ。 先にこの据付用に製造した起重機船がこの程出来上がったので、目下出張中の工事監督広井技師と主任青木属が立ち会って一昨二十九日この試験を施行したところ少し支障があり、再試験を行うそうだ」。小樽港北防波堤明治30年、小樽築港事務所初代所長として、わが国で本格的な港湾整備の第一歩となる小樽港北防波堤に着手し、その指揮にあたったのは、波力公式「広井式」の考察者としても知られるエンジニア、広井勇博士であった。北防波堤の構造は、投石マウンドの上にコンクリート方塊を積み重ねた混成堤であった。コンクリートブロックは水平に対して71度34分の傾斜をつけ、斜めに重なり合うように積んである。こうすると工事中に先端のブロックが脱落するのを防げ、さらには捨石の沈降に伴って隣接するブロック同士で噛み合わせが強くなり、局部的な波撃に対して応力を分散させることができる。この方塊は防波堤の延長方向に傾斜積みされていることから、「斜塊」とも呼ばれた。広井博士は、工事着工の前年から強度試験用の供試体(モルタルテストピース)の製作を開始した。比較のために3社のセメントを使用し、モルタルブリケット供試体を淡水と海水に浸し、耐久性試験を行った。基礎の捨石には針金で印をつけ、時化の後に移動状況を調べた。また、強い波浪の時は、波の高さ・長さ・速度と圧力を計測し続けるなどした。テストピース製作は着工後も継続され、総数は6万個にも及んだ。これらの大部分はすでに強度試験を終えているが、未だ5年ごとに当時と同じ方法で引張強度試験を行っている。製作後90年以上も経た供試体も含め、現在でもおよそ4000個が北海道開発局小樽港湾建設事務所に保存管理され、来たるべき100年目の強度試験を待っている。広井博士は職工・工夫の人選に注意を払い、少数の優秀な者だけを雇って品質管理を徹底させた。そして頻繁に現場に赴き、自らスコップを使って指導した。その甲斐あって、北防波堤は、打設後90年を経過した現在でも表面は美しく、まったく材齢を感じさせない。明治生まれのコンクリートはいまなお健在であり、小樽港第一線防波堤として立派にその機能を果たしている。
2023.08.17
広瀬佑一郎はアメリカでの治水工事と札幌農学校助教授としての留学を終えて帰国し万太郎の長屋を訪ねてくる。無事の帰国を喜ぶ万太郎に、佑一郎はアメリカで携わった工事のことやミシシッピ川にかかるイーズ橋の美しさについて語る。あの人だあれ?お父さんの大事なお友達佑一郎「人間の素晴らしさと同時に恐ろしさも知った」「大きな橋も鉄道も港も、巨大な建造物を造るのは人間の力や。けんど人間は対等に扱われちゃあせん」「人が人を差別するらあて…嫌じゃのう」万太郎「ほんまに…」その後、屋台でそばをすすりつつ、今後の仕事について話す。佑一郎は札幌農学校の土木工学科の教授に迎えられる万太郎が「いきなり教授かえ? あ~すごいのう佑一郎君は」佑一郎「おまんじゃち、すごいろう?」佑一郎は、万太郎が昔から草花に優劣を付けたことがなかったと指摘する。「当たり前じゃろう。それぞれがそれぞれに面白いき」佑一郎「そう考えられること、当たり前じゃないき。生まれた国、人種、どこでどう生きるか。それぞれに面白うて優劣らあない」米国最後の奴隷船、残骸を発見か アラバマ州2018/1/25(木)(CNN) 米アラバマ州沿岸のデルタ地帯でこのほど、アフリカから米国に到着した最後の奴隷船「クロティルダ」のものとみられる残骸が見つかった。150年以上にわたり歴史家を当惑させてきた謎の解明につながる可能性もある。クロティルダは1860年、密輸の証拠隠蔽(いんぺい)を図った奴隷売買業者が火を付けて沈没させた。これ以来、考古学者や歴史家の間でも正確な所在が分かっていない。残骸は潮位が低下した際に、水と泥に部分的に隠れた状態で姿を見せていた。地元ニュースサイトの記者がこれを発見し、現地で専門家に調査に当たってもらったところ、全員がクロティルダに関する歴史的な記録と一致するとの見解を示した。ウエストフロリダ大学で海洋考古学を研究するグレゴリー・クック氏は、「現地では残骸がクロティルダのものでないことを示す形跡は一切なかった」と指摘。残骸がクロティルダのものである可能性は高いとしつつも、現時点では明確に特定できないと述べた。米国への奴隷輸入は1800年代半ばには既に違法になって久しかった。ただ、南部をはじめとする地域では、一部の密輸業者が違法と知りつつ手を染めていた。歴史記述によれば、奴隷船を手配したのは地元のプランテーション経営者。連邦当局者の目を盗んで奴隷を米国内に輸入できると踏み、クロティルダを購入して船長を雇った。アフリカから戻った船長はスパニッシュ川を上り、奴隷を河川用のボートに移し替えたうえで船に火を付け、沈没させた。船に乗っていた奴隷の多くは5年後の南北戦争終結に際して自由の身となり、アラバマ州モービルに住みついた。奴隷の子孫の一部は今でもこの地域に居住している。クック氏によれば、今回の残骸がクロティルダのものと判明した場合、将来の取り扱いをめぐり奴隷の子孫と協議が持たれる見通しだという。110人密輸「最後の奴隷船」 米アラバマ州で残骸発見 1860年にアフリカから米国に奴隷を運び、最後の奴隷船とされるクロチルダの残骸が米アラバマ州モービル近くで見つかった。調査に加わったスミソニアン博物館系メディアのスミソニアン・ドット・コムなどが22日伝えた。奴隷にされた人の子孫は今も付近に多く住み、ルーツの証明に期待が高まっているという。 同サイトによると、クロチルダの残骸が見つかったのは、モービル川をさかのぼったトウェルブマイル島近くの川底。調査に当たった潜水士によると、2・5~3メートルほどの深さという。調査はアラバマ歴史委員会が中心となり、スミソニアンのアフリカン・アメリカン歴史文化国立博物館も協力した。米国では1808年に奴隷の輸入が禁じられたが、綿花生産の労働力確保の必要性から奴隷の需要が高く、南部のプランテーションのオーナーらによる密輸が続いた。クロチルダは現在のベナンから110人ほどの奴隷をモービルまで運んだが、到着後、発覚を恐れたプランテーションのオーナーに燃やされたという。 クロチルダをめぐっては昨年も「発見か」と伝えられたが、見つかった残骸が大きく、違う船と判断されていた。
2023.08.16
【8月16日のらんまん】第98話 佑一郎がアメリカから帰国、草花に優劣をつけない万太郎をたたえる8/15(火) 8月16日第98話アメリカから帰国した広瀬佑一郎(モデルは広井勇:中村蒼)が長屋を訪れ、万太郎と寿恵子は無事の帰国を喜ぶ。佑一郎は、仕事は順調だったが人種差別を目の当たりにしたと話す。そして、草花に一切優劣をつけない万太郎の姿を改めてたたえる。中村さん「佑一郎も誰も進んだことのない道を進んでいくのでぜひ注目してもらえるとうれしいです」💛それにしても質屋のおじさんの意味深な投書おそらくは新聞に多額の借金で困窮する世界的植物学者槙野万太郎と寿恵子を資金援助してというような内容になり、支援者が現れるという展開では・・・東京帝国大学も世界的学者を植物学教室出入り禁止にしたことで世間様(空気)から轟轟たる抗議を受けてたこともなり、徳永先生がドイツ留学から帰り教授となったのをきっかけに非常勤講師として正式に認めるという展開かな(^^)佑一郎の登場で番組を終わるとか、明るい予兆で終わるほうが朝ドラにはあうような佑一郎役の中村さんの言うとおり、偉大な工学者・技師 廣井勇に脚光が当り、顕彰されることを願う!「ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集」編集者自序 「明治初年日本の大学教育に二つの大きな中心があった。東京大学と札幌農学校で、日本の教育における国家主義と民主主義の二大思想の源流を作った。札幌農学校は民主主義思想の源流である。」東大総長矢内原忠雄の言葉である。二〇一三年は、鈴木藤三郎没後百年にあたり、本会は藤三郎プロジェクト(鈴木藤三郎氏顕彰)として日光市、静岡県森町、茨城県桜川市で講演を行い、小冊子二冊を発行した。また報徳精神と共に札幌農学校精神が日本近代化の源流ではないかという考えから「ボーイズ・ビー・アンビシャス」二冊を発行した。藤三郎の曾孫にあたる○○氏に「米欧留学篇」を送付したところ、氏は北大出身で「北海道大学恵迪寮 寮歌『都ぞ弥生』百年記念」のDVDを送って頂いた。二〇一三年十二月二一日、○○センター会議室でそれを本会会員全員で視聴した。「札幌農学校は民主主義の源流といっていたけど、国家主義の源流は東京大学なの」「矢内原忠雄は一九五二年の北海道大学講演において『札幌から発した人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発した国家主義、国体論などそう言うものが日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後日本の教育を作り直す段階に今なっている』と述べています」。「留学談」は、新渡戸が札幌農学校教授の時、学生寮の舎監・同窓会会長で、寮生に請われ「留学談」を語った記録である。「学生諸君から、往々外国留学に関して問われることが少なくないから、今日機会を得たので諸君に談じよう」とその趣旨を話す。「帰雁の蘆」に収録されていないエピソードも含まれ、「帰雁の蘆」が匿名が多いのに対し、「留学談」では実名で示した部分もあり、注目すべき資料である。大部分は「新渡戸稲造」松隈俊子著に収録されているが、全文を示す意義は大きいと考える。またベルリンの日本人学生の堕落ぶりへの警告など、学生への愛情に満ちた忠告が肉声で聞こえるようでもある。「留学談」は時系列で整然としているのに対し「帰雁の蘆」は一話完結で、古今東西の教訓が豊富だ。「米欧留学篇」で、新渡戸の「アメリカ留学の決意」、「渡米のエピソード『帰雁の蘆』」、「アメリカ・ドイツ留学の新渡戸稲造」等について紹介し、また「宮部金吾と新渡戸稲造の往復書簡抜粋」を収録した。共に読んで頂くならば理解が深まるであろう。 二〇一四年一月 二宮尊徳の会○○センター所長の○○と申します。三國先生と話をしていた際に、廣井勇博士の話が出て、◎◎さんを紹介してくださいました。そして、◎◎さんが編集執筆された「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの「米欧留学編」と「廣井勇と青山士 紳士の工学の系譜」の2冊を送っていただきました。そこに出てくるすべての偉人は、私の最も尊敬する方はかりで、この30年間さまざまな仲間に話して聞かせてきたところです。特に、2000年7月から12年9ヶ月働いた○○大学では日本人及び留学生に、廣井勇博士と青山士技師の話を毎年のように教えてきて、私の工学的思考のバックボーンにもなっています。2冊の本を読み、◎◎さんの丁寧な仕事に感服したところです。また、このたび貴重な1冊をお送りくださり、有難うございます。残部がなくなってしまったのではないかと心配しています。◎◎さんは廣井博士に関しては抜きん出て博識と愛情をお持ちと考えます。
2023.08.16
「札幌農学校 蝦名賢造」p172-174 広井勇 広井勇は在学中に教頭ホイーラーから数学と土木工学とを学び、卒業後開拓使の御用係となって、土木部門に進んでいる。しかし卒業式の広井の演説は「北海道農民には宜しく道徳を奨励すべし」という題目で、彼もまた農業に重要な関心をはらっていた。 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽ー幌内間の工事に従事している。その後開拓使の廃止とともに東京の工務部に転じ、22歳のとき自費によって同期生の先頭をきって渡米した。大島正健は「チャールス(広井勇)は吝嗇な奴だと同窓の間に悪評が立ち始めたが、聊か目的があるのだから黙っていて呉れ、と彼は囁いた」としるしている。 広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに、1883年12月10日、横浜を発って渡米する。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸(23歳)、つづいて11月には内村(24歳)、さらに3年後には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになる。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前触れともなっていくのである。 広井が渡米した当時、アメリカではすでに大陸横断道路が完成しており、5万2千マイルもの鉄路が張りめぐらされていた。広井は主にミシシッピー河の治水工事、鉄橋架橋などの実地研究に参加し、十分な知識を得る。現地で彼が刊行した「プレート・ガートル・コンストラクション」Plate GirdleConstruction という論文は、先進の米国人をして驚嘆させたという。 広井は渡米中の1887年4月1日、新渡戸とともに札幌農学校助教に任ぜられて、即時土木工学研究のため満3年間ドイツ留学を命ぜられる。しかし農学校に工学科が開設される都合上、召還されて1889年7月帰国した。ただちに教授に任ぜられ、翌年より北海道技師を兼務し、一時は土木課長として北海道の開拓に貢献した。 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠32歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最大の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところが多大だった。彼は1889年3月、工学博士の学位をさずけられている。 その後、同年9月に東京帝国大学工科大学教授に任ぜられ、1919(大正8)年にその職を辞するまでの約20年間、幾多の優秀な土木技師を輩出させるとともに、該博な学識と独創力をもって理論の研究につとめ、我が国の橋梁力学や築港学の進歩のために大きな業績を残した。東大教授として学生を薫陶していた際、「橋を架けるなら、人が安心して渡れるようなものを造れ」と教えたそうであるが、広井の面目躍如たるものがある、と島田清治はしるしている。 1921(大正10)年5月、上海港改良に関して、英、米、仏、中国、日本など7カ国による国際会議が開かれたことがある。英国からはかつてロンドン港の技師だったパーマ、アメリカからは元陸軍技監ブラック中尉、フランスからはスエズ運河技師ベリエー、オランダはフリー、スウェーデンはヘルネルなど斯界の権威者が選出され、日本からは広井が代表として出席する。 その会議での議論の中心は、揚子江流の長さ約35マイルにも及ぶ砂州を浚渫して航路を開設すべしとの英国委員の提案についてであった。他国の委員はみな賛意を表したが、広井はその提案の不備な点を見いだし、これを論駁したものの、いれられなかった。彼は、こういうことではわざわいをあとに残し、会議に責任を負う委員の一人として忍び得ないとし、約7日間みずから調査し、その根本的誤謬を指摘して工事を批判する論文を提出した。その論旨の正確さは全委員を傾聴させ、原案はついに保留になったといわれている。 広井勇の北海道開拓に残した業績は、小樽市の公園に銅像として象徴されている。1928(昭和3)年10月1日、東京牛込の自宅において狭心症により逝去した。享年67際であった。
2023.08.15
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」 66-67ページ 札幌農学校の洋風校舎は当初建坪411坪余、他に2階79坪であったが、書庫、講堂、温室その他の農学校用の諸施設が次々に増設されていった。(1坪は3,3平方メートル)。演武場(Militaly Hall)は明治11年(1878)9月に完成したもので、総2階、1階は113坪余の講堂、2階は操練場と武器庫の2つに区切られ、一隊50人ずつの訓練が行われるものであった。講堂と体育館を合わせたような建物であった。 明治14年(1881)7月、中央楼上に大時計が据え付けられ、開拓の街に時を告げるようになった。当時は時計も珍しいものであっただけに、この建物は「時計台」と愛称されるようになった。 この近代建築を設計したのがホイラーである。彼の肉筆の平面図が北海道大学附属図書館に残されている。設計の寸法はフィートである。建物全体がアメリカ風バルーン・フレーム構造で、軒桁から棟木に丈が高く、幅の狭い2本の合掌を架して、上部から約3分の1ほどの箇所にカラービーム(一種の梁)を水平に渡して合掌を堅く結んでいる。アメリカ・コロニアル様式の簡素で、しかも荘重な印象を与える建築であり、のちにこの時計台が札幌の標準時を伝えるようになる。バチェラー・オブ・サイエンスの学士号を持つホイラーは、札幌農学校では数学と土木工学を担当し、年俸3,000円を支給された。クラークが去った後には、彼は月額50円の増俸を受け、教頭心得として後に教頭として校務を処理した。彼は卓越した土木技術者であり、品行方正、温厚な紳士であった。💛「らんまん」第98回で 廣井勇がモデルの広瀬祐一郎 が留学から戻ってくる 教授は万太郎に東京大学に正式入学するか留学せよと正しい助言をしている万太郎はあえて、小学校を中退したときのように、茨の道を行く廣井勇は蘭光先生の「金色の道」を着実に歩む帰国後 札幌農学校工学部教授 → 東京帝国大学工学部教授そして小樽港始め日本全国の港湾整備を進める脚本の万太郎と祐一郎の描き方の対比が絶妙(^^)
2023.08.14
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」60-61ページ 札幌農学校創設時の明治10年代のカリキュラムによれば、4年間の修学期間中、語学と農学それに兵学が全期にわたって教授され、教育方針の基本が明確化されている。化学、数学の基礎理論を前期で行い、中期は図画法を集中して教授したり、生物学や化学実験の講義を行う。後期は応用的な工学などの学問と歴史・経済などの人文科目が配置されている。特に数学の実践として測量・器械の図画法に多くの時間をさいているのが特徴である。一日の科目の配置では、教室での講義を午前中に、午後からは製図の作業や野外での農業実習・測量実習、兵学(軍事教練)にあてられるのが一般的であった。この他、夏期休暇中に行われた測量や動植物採集の「調査遠征」があげられる。この修学旅行の意図としてホイラーは「最良の教師(実験)に従って最良の書籍(天地万物)を習う妙法である」(「第2年報」)と語っている。 明治10年(1877)夏に行われた修学旅行で、ホイラーが率いる組は「室蘭港から寿都(すっつ)に至る黒松内新道位置選定」の使命をおびていた。これは彼が道庁から要請された調査業務の現場出張としての役割を併せ持ったものであった。太平洋側から日本海側にかけての北海道の一大原野で行われたため、兵学の野営教育の意味も持っていたこの大旅行は「実地に学ぶ」札幌農学校の方針をよく現したものである。25歳の青年教師は土木技術者としての評価は高かった。第2期卒業生の一人(新渡戸稲造とされる)は以下のように懐古する。「ことに吾等の敬服せしは、ホイラーという人という人にて、数学・土木学の専門教師なりき。・・・・・かつ此先生は事務にも長じ、農学校のことはいうに及ばず、開拓使の命を受けて鉄道選定、道路見込みなどにも従事せし時にも、人の使い方といい、復命書の議論の立て方といい、又文章の規律の正しきことといい、今更懐古すれば、クラークを除きては、外国教師中この人の右に出づるはなかるべし」(「北大百年史編集ニュース」第2号)。
2023.08.12
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」59-60ページ「クラーク帰国により第2代教頭となったウィリアム・ホイラーは、数学・土木工学・図学・測量を教えた。いずれも北海道原野の開墾には不可欠な学問である。 彼はマサチューセッツ州立農科大学第1期生で土木工学を専攻し、在学中から大学内外の測量や土木設計を手がけた。卒業後は鉄道の線路敷設班長、線路区技師として実績を積み、来日前には設計事務所をボストンで経営するまでになった。25歳の青年教頭である。」「彼の工学観は当時アメリカの科学技術観を反映する進歩的なものであった。特に『Second Annual Report of Sapporo Agricultual College 1878』(「札幌農学校第2年報」)には、当時の日本と欧米の学問・教育を比較した論説を掲載した。『日本人はその好学心において欧米人にひけをとらないにもかかわらず、伝統的な学問観、方法と社会的束縛のため、学校卒業後の進歩が欧米人に遅れてしまう。日本の学問はほとんど中国の古典を文字からのみ学ぶ記憶中心のもので、模倣には長けているが自ら作り出すということをしない。そこで、理論的理解を基本とし、それに基づいて様々な事態に対して応用・実践できる能力を養うことを目的とする西洋式の教育を課することが急務である』(渡辺正雄『お雇い米国人科学教師』参考)。 ★日本の明治以降の科学技術化・資本主義化においてこうした西洋式な正規の教育 と 鈴木藤三郎や豊田佐吉に代表されるような発明・工夫改良による実業が相即して日本産業革命がいわば自生的に生長できたのかもしれない。 日本の産業は長らく「模倣には長けているが、自ら作り出すことはしない」と言われ信じられてきたが、遠州・三河を中心としておそらくは報徳思想を淵源とする発明・工夫改良により産業をおこし、社会や国家に貢献するという考え方は、トヨタ、スズキ、ホンダといった日本を代表する産業となり、また鈴木鉄工部や台湾製糖会社修繕部門などを通じて、多くのそうした人材を日本・台湾において育てていったようにも思われるのである。
2023.08.11
旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 その4広井君は今その意義ある生涯を終わりて世を去られました。君同級同信の友にして、藤田九三郎君第一にゆき、足立元太郎君と高木多摩太郎君とこれにつぎ、今また君がその後をおうてゆかれました。残るは宮部金吾君と新渡戸稲造君と私との3人であります。これを思うて淋しさにたえません。私ども50年前に高貴(ノーブル)なる生涯を誓うて共に学窓を出でました。そして神のお導きのもとにそれぞれその誓約に叛かざりし事を感謝します。為した事業の多少上下には差はありましたが、その賤しからざりし点においてはなおどの日本人中、何人にも譲らない積もりであります。そしてそれには理由があったのであります。私どもは聖書をもってイエスキリストの御父なる真の神を知るを得ました。これが私どもの性格の根底を築いてくれました。そしてこれに根ざされて私どもは世とともに移らざるを得たのであります。キリスト教のバイブルと人の手に触れざりし北海の天然と、それが広井君と私どもの友人とを育ててくれたのであります。【棺に向かいて】 広井君の霊に告げます。 僕はここに君の依嘱に従い、君の葬儀を行います。君は僕よりも一年の年少者でありて僕の葬儀を列すべきであって僕に葬儀を行わしむべきではありませんでした。しかし神の命です、僕は謹んで約束を履行します。ここに50年の友誼を謝します。しかし僕らの友誼はこれで終わるのではないと信じます。Over thereであります。河の彼方において継続せらるるのであります。我らはもちろん再会を期します。その時まで暫時サヨナラ。君の霊魂の我らの父なる神に在りて永久に安らかならん事を祈ります。(昭和3年10月4日告別式において朗読されたるもの)
2023.08.10
旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 その3かくして広井君は伝道を断念して宗教については沈黙の人となられました。君は滅多に教会にも出席せず、また人に対(むか)いて信仰を説かれませんでした。あるいは君の同僚にして君のクリスチャンたる事を知らない人もあるかも知れません。しかしながらです。一度は自身伝道師たらんと決心せられし広井君は終生信仰を棄つることはできませんでした。宗教は君の霊魂の深いところに堅い地位を占めました。君は常に人生の最大問題について考えられました。そして常に神とその独り子イエス・キリストを敬われました。かくして広井君はその心の奥底において工学博士であるよりもむしろ堅実なるクリスチャンでありました。私ども、君の友人はよくこのことを知っていました。そして君の生涯の友なる妻は誰よりもこの事を知っていました。君は私どもと一緒に50年前に学びし祈祷の習慣を死ぬまで忘れませんでした。君は毎朝毎夜、戸を閉じて、夜は灯を消して祈祷に従事しました。そして幾度となく祈祷の跡に涙の雫の残るのを見たと主婦の方は語られました。そしてこの隠れたる信仰、一時は福音の戦士たらんとまで決心せしこの神に対する信仰が、君が成し遂げしすべての大事業を深めたのであります。君は言葉をもってする伝道を断念して事業をもってする伝道を行われたのであります。小樽の港に出入りする船舶は、かの堅固なる防波堤によりて永久に君の信仰を見るのであります。広井勇君の信仰は私の信仰のごとくに書物には現れませんが、それにも遙かに勝りて、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。君は実に恵まれた人であります。 然しながら人は事業でありません。性格であります。人が何を為したかは神より賜りし才能によるのでありまして、彼自身でこれを定めるのでありません。西洋のことわざに『詩人は生まる』というのがありますが、詩人に限りません。工学者も伝道師も天然学者も政治家もすべて『生る』のであります。広井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したに過ぎません。然しながら、いかなる精神をもって才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。世の人は事業によって人を評しますが、神と神による人とは人によって事業を評します。広井君の事業より広井君自身が偉かったのであります。広井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学をもって現したのであります。工学は君に取り付帯性のものでありまして、君自身は君の工学以上でありました。そして我ら君の友人にとりては君の性格、君の人となり、すなわち君自身が君の工学または工業よりも遙かに貴かったのであります。そして今や君が君の肉体の衣を脱ぎ棄て、君の単純なる霊魂をもって神の聖前に立ちて、君は工学博士としてにあらず、単純謙遜なるキリスト信者として立ったのであります。君の貴きはこのところにあるとして、君の事業の貴きゆえんもまた、ここにあるのであります。事業のための事業にあらず。もちろん名を挙げ利をあさるための事業にあらず『この貧乏国の民に教えを伝うる前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。
2023.08.09
旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 その2 私は広井君と同時にキリスト信者となりし名誉を有します。今よりちょど50年前、明治の10年6月2日北海道札幌において、私ども青年6人は米国宣教師エム・シー・ハリス氏よりパプテスマを受けました。広井君はその当時殊に信仰に燃えまして、日曜ごとの我らの小なる集会において君の教理研究の結果を我らに供して我らの信仰を助けられました。まことに一時は君自身が伝道師になられて、不肖私が今日居るべく余儀なくせられし地位に君が立たるるのではあるまいかと思われたくらいでありました。然し君にくだりし神の命は他にあったのであります。君は伝道師になられずして土木学者になられました。そして君は一日正直にその理由を私に語られました。『この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る』と。私は白状します。君のこの告白は私の若き心に強き感動を起こしました事を。私はその時思いました。『もし広井が伝道をやめるならば我らの仲間の中より誰かが起ってその任に当たらなければならない。自分は嫌である、さて如何にしたならばよろしかろう』と。そして後に至りて種々のやむを得ざる事情よりして、私が広井君に代わりて、キリストの福音を我が国に唱えざるに至り、その困難の多きを味うて、時には旧友を怨まざるを得ませんでした。然しながら神はすべてを知り給いました。広井君が工学に入りしは君にとりて最善の事でありまして、そしてまた私が伝道に入りしは私にとり最善の事でありました。覚るところ、広井君も私も青年時代に相互に対し誓いし誓約を守る事ができたのでありまして、感慨この上なしであります。ハリスは、1846(弘化3)年7月9日、北米オハイオ州モンロー郡ビールスヴィルに父・コルバート、母・キャサリンの10人の子供の9番目として生まれる。両親はバプテスト教会員であったが、12歳のときメソジスト教会で洗礼を受ける。ハリス5歳にして、父が死亡、23歳にして母も召天するという不幸に遭う。ハリスは、南北戦争のとき17歳で北軍に参加し、1865(慶応元)年戦争が終わるまで勤め、長官の推賞を受ける。高校卒業後、学資を得るために2年間小学校の教師をし、1866(慶応2)年メソジスト教会の定住伝道師となって、実地の伝道に従事した後、ペンシルベニア州のアレガニー大学に入学。文学及び神学を修め、1873(明治6)年3月卒業、同年10月23日同窓の友フローラ・リディア・ベストと結婚、この年に開かれたピッツバーグ年会で宣教師として日本派遣の任命を受ける。11月17日、サンフランシスコを出て12月14日の朝、フローラを伴って横浜に着く。1874(明治7)年1月24日横浜を出帆し、26日にハリス夫妻は函館にその第一歩を印した。この頃の函館は開港場とはいえ、まだ小漁港で適当な家屋もなく、横浜より乗船した船長蛯子宅に宿泊する。その後、開拓史の好意で日本家屋を借り受けて住むが、1875(明治8)年上汐見町123番地に地権を取得し、大きな家ではないが、港の見下ろせる西洋館を建築する。伝道に燃えていたハリスは、言動不通で非常に困難するが、どうにか福音を伝えようとまち中を歩き回り会う人ごとに、丁寧に「今日は」と挨拶したので、「人さえ見れば今日はというおかしな異人だ」と大評判となる。この年の8月11日、函館駐在ドイツ領事ルードウィッヒ・ハーバーが函館公園の裏道で秋田の藩士・田崎秀親に暗殺される事件が起こり、在留外国人の恐怖は一方ではなく、必要な用事以外は外出せず、武器を備え戸締まりを厳重にして用心を怠らなかった。ところが弘前の東奥義塾の学生珍田捨巳がハリス夫妻を訪ねたところ、この家のみは何の用心もなく門戸を開放して、未知の青年を歓迎して迎えいれたという。ハリス夫妻は、「私たちは日本を救うために来たのであって、不幸にして日本人の手にかかって死ぬことがあったとしても本望である。武器をもって備えることは恥ずべきことだ」と語り、英国領事館などでも礼拝を守った。ハリスはアメリカ領事も兼ねて、北海道開拓使長官黒田清隆と親交があり、札幌にしばしば訪れた。札幌にはクラーク博士がおり、多くの青年にキリスト教的感化を与えていた。ハリス夫妻の北海道における伝道事業は着々としてその功績をあげていく。ハリス夫人は函館に4年位滞在。この間西洋の日常生活を伝え、婦人会を作り、自宅に子女を集め英語などを教え、伝道に努め、日本と日本語を学ぶ。また、文学に秀れ、日本の古典にも親しみ、「土佐日記」を英訳して出版している。1878(明治11)年頃、アメリカの婦人外国伝道協会誌「ウーマンズ・フレンズ」に函館での女学校設立の必要を寄稿、これに共感をもったドイツ駐在のアメリカ公使夫人のカロライン・ライトが献金をし、この寄附を基に遺愛女学校が創設される。最初の校名はカロライン・ライト・メモリアル女学校と名付けられた。この年、日本に同化して昼夜心血をそそいで日本人に尽くすが、病弱のためやむなく東京に転居する。ハリスは転居後、青山学院の源流である美会神学校、耕教学舎で教鞭を執り校長となる。1886(明治19)年、アメリカヘ帰国するが、1904(明治37)年、日本・朝鮮の宣教監督として再来日する。1909(明治42)年9月7日、病弱だったハリス夫人は、59歳にして青山学院宣教師館にて天に召された。夫人はその生涯を日本人、特に婦人の向上救いに捧げられた。ハリスは日本の親友から招かれて隠退後も再び来日して、青山のハリス館で余生を送る。すすめる人があり、1919(大正8)年、米国にてハリス夫人の姪エリザベス・ベストと再婚し、平和な晩年を過ごしたが、1921(大正10)年5月8日、青山学院構内において昇天する。
2023.08.07
工学博士 広井勇伝 旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 ここに私の同窓同級の友、広井勇君は永き眠りに就かれました。私には君の遺骸に対し感慨無量であります。君はその妻に対し真実なる夫でありました。その子に対して慈愛深き父でありました。早くその父を失われて、その老いたる母に対して優しき従順なる子でありました。その友に対して信頼すべき友でありました。そしてその上にその職務に対して最も忠実なる人でありました。君は明治大正の日本が生んだ大土木工学者中の一人でありまして、事に築港の学と術とにおいては世界的権威でありました。君はいずれの方面より見ても偉大なる人でありました。私は君のごとき人を私の同窓同級の友として持ちしことを誇りとし、また君と浅からぬ友誼関係を一生涯を通して続け得しことを感謝します。私どもは今の日本人に人物欠乏せる事を常にいい聞かせられるのであります。まことに私どもの周囲を見て、私どもは詩人と共に嘆ぜざるを得ないのであります。神よ助け給え、そは神を敬う人は絶え、誠ある者は人の子の中より消失せたり。と。(詩12篇)然しながらすべてが暗黒または失望ではないのであります。神はいずれの時代においても真理の証明書を世に残し給います。そして広井君のごときがその顕著なる一人であります。広井君は大なる建築家でありましたが、単なる建築家ではありませんでした。工学といえば今の世にありては、最も割のよい、富を作るに最も便宜なる技術と思われますが、我が広井君にとりては、君の専門はかかる浅ましき目的を達するためのものではありませんでした。君はその生涯において大工事を数多成就されましたが、それがために君自身のために得しところは算うるに足りませんでした。君のこの住宅その物がこの事の善き証拠であります。この質素なる家は、小樽、釧路、函館、留萌、その他の大築港を施されし大土木学者の住み家とは思われません。自家の産を作るに最も好き機会を持たれた君は、その機会を自分のために用いませんでした。広井君ありて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりという事はできません。日本の工業界に広井勇君ありと聞いて、私どもはその将来につき大なる希望を懐いて可なりと信じます。清廉にして寡黙なりし君はその仕事に忠実なりしはいうまでもありません。君が札幌農学校を卒業して後、間もない事でありました。君君は君の先輩の指揮の下に、北海道鉄道の線路に当たるある小なる橋梁の建設を担任させられました。君は君の当時の工学的知識の全部を絞りて、その任に当たりましたそして漸くにして橋はなりて、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で於呂曽田と聞きました。私はその当時、君と宿所を同じうし、君より直ちにその実験を聞きまして、君の技術の最初の成功を祝したのであります。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります。『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深心配があったのであります。そしてその良心その心配が君の工学をして、世の多くの工学の上に一頭地を抽んでしめたのであります。君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります。
2023.08.06
広井勇1862年9月2日、土佐藩の佐川内原に生まれた。父の熊之助は土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士で、主に土佐藩の会計を担当した。母は寅子、2人の子があり、勇は長男で数馬といった。明治3年(1870)父が37歳の若さでなくなり、家には祖母、母、2人の子が残された。長男の数馬は9歳で広井家の跡取りとなった。家族は高知に移り、赤貧の暮らしとなった。数馬はこのとき名前を勇に変えた。叔父の片岡利和は明治天皇の侍従を務めていた。片岡が帰省し広井家に寄ったとき、勇は叔父に東京へ出たいと懇願した。1872年、叔父と一緒に土佐の浦戸から東京に船で旅立った。姉は別れ際に勇に言った。「お前も侍の子です。『学、もし成らずんば、死すとも帰らじ』の気概を持ちなさい」勇は片岡家で玄関番を命じられた。日中は英語、数学、漢学を学ぶため私塾に通い、片岡家の書斎の本をむさぼるように読んだ。満12歳の最年少で東京外国語学校の英語科に入学。その後、工部大学校予科へ転学した。そこを中退して札幌農学校に向かう。片岡家に頼る生活を断ち切るためである。広井勇は1877年9月15歳で札幌農学校2期生として入学した。1期生は前年教頭として赴任していたウィリアム・クラークの感化によりほとんどがクリスチャンとなっていた。クラークはすでに帰国していたが、キリスト教信仰の熱気にあふれていた。2期生には内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾などがいた。2代目教頭はウィリアム・ホイラーで26歳だっったが、土木工学、測量、数学、図学などを教えた。広井ら2期生の大半は翌年6月にキリスト教の洗礼を受けた。彼らは毎週聖書研究会を開催し、広井の信仰は内村鑑三をして「一時は、私が今日おるべき地位に君が立つのではあるまいかと思ったくらいであった」というほどだった。しかし広井は「世俗の事業に従事しながら、いかに天国のために働こうか」を考え土木工学を通じて日本を富ますことを自分に与えられた天命とうけとった。1881年7月2期生は卒業した。広井は北海道に残り開拓使となったが、翌年には開拓使が廃止、工部省に転じ東京に移った。「ぜひともアメリカに渡って、土木工学を極めたい」と熱望し、渡航経費を捻出するため、生活費を切り詰め貯蓄につとめた。意味なく金銭を浪費する会合には一切出ず、同僚は彼を「守銭奴」と呼んだという。1883年12月21歳の広井は横浜からアメリカに渡った。海外生活はアメリカ4年、ドイツ2年に及んだ。セントルイスに下宿し、ミシシッピー川の河川改修事業に携わった。その後設計事務所に雇われ、設計と施工を手がけた。さらに鉄道会社や橋梁会社の技師となり、土木の実際の現場を体験し、土木技術者としての経験を積んだ。仕事のかたわら勉学に怠ることなく、同僚は「日本の青年はこうも勉強をするものか」と感心したという。広井が現地で英文で書いた論文「プレート・ガーター建設法」は橋梁工学者で必携のハンドブックとされた。25歳のときである。1889年7月帰国し、母校札幌農学校教授となった。北海道庁の技師を兼任し、小樽港など北海道の港湾建築など10年にわたって指揮した。小樽築港事務所長として指揮した「模範工事」は100年後の今でも機能している。1899年9月広井は東京帝国大学工科大学教授として招かれた。学生には「工学者たるものは、自己の真の実力をもって、文明の基礎付けに努力しておればいい」といって立身出世主義をたしなめた。仙台の広瀬橋、北海道の渡島水力電気工事、鬼怒川水力ダムなど顧問として広井が関わった工事は多く、新技術を導入して完成させた。金品を渡そうとすると「費用に余裕があれば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と拒絶した。還暦祝いも、母校の北大工学部と土木学会に寄付した。1928年10月1日66歳でなくなった。内村鑑三は追悼の辞で「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、広井君の事業よりも広井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました」と述べた。
2023.08.06
16 広井勇の死と内村鑑三-日記と手紙より-《日記》一九二八年(昭和三年)十月二日(火)晴 同窓同級の友、東京帝国大学名誉教授工学博士広井勇君、昨日突然永眠した。直ちに彼の家を訪い、彼の冷たきひたいに手を当てて、実に感慨無量であった。五十年前に、彼と同時にパプテスマを受け。共に福音宣伝のために働かんことを誓いしも、彼は日本第一の築港学の権威となり、直接に伝道に携わらざるように成り、その方面における事業は自分が一人でなさざるを得ざるに至り、堪えがたき寂しみを感ぜしことであった。これで、札幌農学校第二期卒業生十人の内、六人まで世を去りて、残るはわずかに四人である。それを思うて、さらに大なる寂しみを感ずる。しかし、わが救い主は生きていたもう。彼と共に働くのであれば、われは落胆してはならない。しかし肉は弱し。今朝、旧友の死に顔に接して、今日は終日悲歎に沈んだ。・・・一九二八年(昭和三年)十月三日(水)雨 朝五時に起き、明日行わるべき、旧友、工学博士広井勇君の葬儀において読むべき感想の原稿を書いた。万感胸に迫りて幾たびか落つる涙を拭うた。・・・一九二八年(昭和三年)十月四日(木)雨 広井勇君の葬儀を、市ヶ谷仲の町の君の自宅においておこなった。・・・同窓の友、大島正健君と伊藤一隆君とまた儀式の一部を担当してくれ、自分はかねての故人の依嘱に従い、funeral sermon(最後の説教=資料15)を試みた。実につらい役目であった。棺前に立ち、万感胸に迫りて男涙を禁じ得なかった。五十年来の信仰生活の回顧である。彼はいかにして大土木学者に成りしか、自分はいかにして福音の戦士に成りしか、その経路を述べて、わが心臓はくずれんばかりに震えた。近ごろ、こんなに感慨多き説教をなしたことはない。かくのごとくにして、旧友は続々と世を去りて、われはその葬儀をおこなわしめられる。つらい重い責任である。後でガッカリと疲れた。一九二八年(昭和三年)十月十五日(月)半晴 ・・・故工学博士広井勇君の遺言により、金五百円を、その遺族より聖書研究社へ寄付してくれてありがたかった。旧い同窓の友にして、かくのごとくわが事業を記念してくれた者は、今日まで彼一人ありしのみである。その事を思うて悲しくなると同時に、彼に対し深甚の感謝なきあたわずである。 《広井勇の死と内村鑑三の宮部金吾あて手紙抜粋》第一八四信(和文)昭和三年六月五日 愛する宮部君へ、今日は御書面並に電報に接し、有難く存じます。誠に幸ひなる日〔受先五十年〕でありました。十一時にNitobe,Horoi,Ito,Oshimaと僕と五人、雨を冒して青山墓地某茶屋に集合し、Bishop Haririsの墓前に花を供え、詩篇九十、九十一篇を英文にて読み、伊藤がMost impressive prayer〔実に心を打つ祈り〕を為してくれました。明後日新渡戸方に再び集合し、夕食を共にする約束を為して別れました。君がいないのはgreatest lack〔最大の欠除〕であります。Miyabeはなくてはならぬpersonage(人物)であります・・・四日の夜、新渡戸方の夕食を広井は欠席した。 愛する広井君 昨夜は発起人たる君を見る能わずして折角の会合が半ば興味を殺がれました。人生短かくして楽しむ日の尠きを歎じます。御病人の一日も早く御全快あらんことを祈ります。小生近頃特に旧友の為に祈るの必要を感じます。時々君の為にも祈ります。矢張り札幌時代に得た信仰が真理であると信じます。The Bible以上に深い貴い書は他に有りません。そして幾分なりとも此書を我国人に紹介し得たことを感謝します。May God bless you, Dear Friend. May carry our friendship to the Great beyond; meanwhile redeeming the time, the last part of our life being the best.〔愛する友よ、神、君を祝福したまわんことを。われらの友情をかの大なる彼方まで運び得んことを。われらの友情をかの大なる彼方まで運び得んことを。われらの人生の最後の部分は最善のものなれば時を善用しつつ〕・・・ 第一九一信(和文)昭和三年十月二日 愛する宮部君、先程電報を以て御知らせ致せし通り、広井勇君は昨夜十一時、僅かに十五分の軽い苦しみの後に永き眠りに就かれました。直に市ヶ谷の家を訪問し、彼の死顔を見ました。実に平和の顔でした。僕のgood-byに併せて、君の分を冷たき額に手を当てて言いました。実に感慨無量です。・・・第一九二信(和文)昭和三年十月四日 拝啓、今日無事に広井君の葬儀を終りました。伊藤、大島の両君も参加して呉れました。僕が相変わらず最も重い役を務めました。近頃此んな辛らい、悲しい役を務めた事はありません。僕の述べたReminiscences〔回顧〕とEulogy〔頌詞〕とは来月の雑誌に載せます。然し是れで過去を忘れます。又未来に向って進みます。・・・第一九四信(和文)昭和三年十一月二十一日 愛する宮部君・・・今日広井の未亡人の訪問あり、ユックリ話して行かれました。故人の事につき、色々の知らざりし事を話され、同情に堪えませんでした。何れにしろ広井は愛すべきヤツであったことが、克く判明しました。「佐藤(昌介)総長の手紙は棄てましたが、先生(僕を指して)の御手紙はハガキ一枚も残さず大切に保存してあります」と聞いて、涙がコボレました。人は死ななければ、本当の価値は判明りません。
2023.08.04
4 内村鑑三から広井勇への手紙〔英文『新希望』七二号 倉橋惣三訳 現代文表記〕一八八五年(明治一八年)八月□日 全集36p.199ボストンより 友よ、僕は、多くの疑惑と憂悶とを全くグロスターの地に残し去って、一週間前このボストンの地に来た。僕は今、親友宮部とともにハイデの公園にあって閑雅な休暇を楽しんでいる。閑雅という、これは僕が怠惰安逸な閑日月を有するというのではない。実にわが救い主の限りない恩愛を感ずること、今やいよいよますます大いなるをもってである。およそ僕が自らの翼に乗って、自力で超絶世界に高く飛ぼうとすることはとうてい無用の徒労であるとする。僕は常に単純な十字架の教えを哲理化しようとし、また僕と僕の理想を隔てるすべての暗闇をも哲理化しようとする。これ実に、僕は日々に善悪を知る禁断の木の実を食べつつある。そして、このためにエデンの園を追われつつある。帰れよ、幼い児童の心に帰って、自分の無知と無力とを覚(さと)れ。そうすればすなわちナザレのイエスが私たちの目を開きたまうだろう。ああ、人が迷信というところのもの、すなわち十字架の上の死の信仰、これこそが僕たちの千代の磐(いわ)、生涯の錨である・・・。〔ママ〕神が僕の行くすえをいかに導きたまうべきかは、僕が知らないところである。しかし、現在の僕は、僕が伝道者たらんとの決心によって非常な歓喜を感じている。宗教の実体に関して、しばしば僕の眼をくらましてきた奇怪な障害物は、今や眼のあたりに除き去られつつある。僕はこの霊眼の明瞭を得たことについて、実に実に感謝に充ちている。そもそも僕の最も要求するところのものは、進取的で快活なキリスト教である。他に関する批評の態度ではなく、あらゆるものに対して祈祷(いのり)にみち推奨(すすめ)の態度である。いたずらに自己に対する嫌い厭う憎悪の感情ではなくて、復活向上の主を仰ぎ見る喜び舞い踊る心である。もし、それ、悪魔的見解をもってすれば、実に人生は悲哀と不幸とに満ちていることを見るであろう。しかし視よ。死のトゲは除かれたりと記されているではないか。美術と科学とでこの世界を飾ることも、名誉ある事業に相違ないであろう。しかも一度僕らがこの死のトゲを除き去るならば、この人生はそれ自らすでに美しい世ではなかろうか。医術はその二十世紀の進歩をもってしても、まだ僅かでも人類の死滅を減じたことはない。僕らはいつになれば、この世が不死の国となることをまとう。しかし友よ、僕が伝道に従事しようとするのは、これを人類救済の唯一の法とするためではない。救いはただ神のみより臨(くだ)る、教師は彼が十万の精霊を救いに導いたゆえをもって、茅屋にいのっている寡婦以上に義とされるべき資格はない。私たちを義とするものは信仰である、事業ではない。」
2023.08.02
内村鑑三の広井勇への手紙 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」(「BBA」)の構想は、クラーク博士がこの言葉を発した旧島松駅逓と小樽港北防波堤(広井勇築造)の視察から広井勇を顕彰しようという試みから始まり、「クロムウェル伝」にならって札幌三人組と広井勇の手紙の時系列による整理から始めた。しかし広井勇が札幌三人組にあてた手紙で公表されているものは極めて少ないことから、膨大な手紙を残した内村と宮部・新渡戸往復書簡を中心にした資料集となった。BBAはそのコラムと資料の抜粋である。広井勇は米国留学中、内村鑑三に宗教について頻繁に手紙を寄越し、内村鑑三全集36に、内村の広井への返信が邦訳で載る。一八八五年十月の手紙では、「世に親しき友より誤解さるゝ程痛く悲しきことはあらじ、ヨブの患難は其よきためしならずや。吾等は吾等が土塊の身なることを互いに忘れじ、又吾等の弱き、争ひ易き人性は、互の咎責によらず只祈祷により、互の欠点の指摘によらず只懇なる勧奨によりてのみ、統御結合し得らるべきことを常に忘れじ」とある。これは新渡戸の叱責の手紙を念頭に書かれているのかもしれない。同年一一月の手紙に「君の実利的意見については、余は君の思想が其点に迄到達せることを喜ぶ。然れども、尚ほ一歩進め能はざるか(略)余は君の企てを以て貴からざるものなりとは敢ていはず。されど、只一事之を恐る(略)すすけたる眼鏡を以て此人生を視つゝあるにはあらざるか」とある。内村の「旧友広井勇君を葬るの辞」では、「君は伝道師にならずして土木学者になられました。そして君は一日正直にその理由を私に語られました。『この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る』と」。この論議は米国留学時にも継続され、広井の「業による福音」という実利的意見と内村の「信の福音」との対立と互いの宗教上の論議が続いたことが分かる。一八八六年一月一日付の手紙では、人間の意識ある精神がこの世界を眺め見る途は、プラトン的悟りと「総てをイエスキリストに於て理解」する二つあるのみ。後者こそ神の宝庫を開く唯一の鍵と述べる。三月には「如何なる学校、学術上の会合もイエスキリストを其第一の師とせざるものは多くの値なきものなり」。「キリスト化せよ」と勧告する。「余自身は伝道に従事せんとすれ共、之れ神が余に命じ給ひし使命と思へばのみ」と伝道に捧げることを述べる。六月には「余は君が宗教上の正直なる確信を書き送られたることを多謝す」、「余は、人は行ひによりて義とせらるてふユニテリアン的立説を到底解し能はざるなり」。人間は律法の行いを総て全うできない。キリストは人類の模範ではなく、彼にのみ真の生命はある、と。別便には「人生至上の渇望は、一つに彼キリストに似んとするにある」という広井の意見と同意見だが、「此渇望の、吾等われ自らの努力のみを以てしては、到底之れに達し得べくももあらぬことなり」「君よ、吾等は其罪キリストの血によって洗われたりと信ずる時、其時始めて真に心を崇高ならしめ得るは特段の事実にあらずや」と述べる。七月八日付で、エルウィンで測量に従事していると述べ、一九日付では、ユニテリアンの信仰は「ひたすら寛裕に、又限りなく博大にして-其代り、拡り大いなれば、水はひたひたと底浅き類の信仰なり」とし、広井の意見は同じだと言う。七月三一日・八月三日付手紙では、広井の「救ひの説」、「化体論」を批判し「友よ二人の討論は今日限りにせん」「こゝに到ってはお互いに只祈りあるのみ。神が各人に与へ給ふ処の賜をば、よく自ら祈りて維持し、自ら祈りて考究するの外あらざるなり」と論議を終了する。この手紙には「是は僕の実験なり」と日本文で書き入れられている。内村の生涯は実験であったのだ。八月一七日付手紙には「悲哀の期は既に去れり。総てこれ歓喜、総てこれ希望、総てこれ平和なり」と。翌年二月の広井あての手紙は「何様か何処で相見ん」と結ぶ。彼らの五十年もの信仰の友誼を思う。
2023.08.01
2 広井勇の海外留学の決意 「海外に出て欧米の土木工学の研究をやりたい」 広井勇の手紙はほとんど残っていない。「工学博士広井勇伝」には「博士が同窓の親友たる内村鑑三氏との信仰上の問題に関する往復の書信などは全部焼き捨てた」(p.186)とある。内村の昭和三年十一月二十一日の日記に、広井の未亡人が来て、「先生の御手紙はハガキ一枚も残さず大切に保存してあります」とある。内村が広井にあてた手紙は『聖書之研究』七二・七三号に邦訳で掲載されたが、原文(英文)は公表されていない。故人の意志を尊重し、世に出ていない広井勇の手紙が存在するのかもしれない。 「工学博士広井勇伝」で、米欧留学を年譜及び記述で追うと概略次のようになる。一八八三年(明治十六 二十二歳)一月十二日 任工部六等技手月俸金三十円 工部省三月十三日 鉄道局出勤申付候事 工部省三月十四日 東京高崎間建築従事申付候事 鉄道局十月三日 依願免本官十二月十日 横浜からCity of Rio deJaneiro号に便乗し渡米する。一八八四年(明治十七 二十三歳)一月二十日アメリカ合衆国ミシシッピ河改良工事雇員となる。九月十日 シー・シエラースミス工事事務所技手(月給60ドル)となり橋梁の設計に従事する。一八八六年(明治十九 二十五歳)一月二日 ノーフォーク市Nofork and Western 鉄道会社技手となり鉄道工事に従事する。 九月三日 Edge moor 橋梁会社技手となり、鉄橋の設計、製作に従事する。一八八七年(明治二十 二十六歳)四月一日 任札幌農学校助教ドイツ国留学を命ず 北海道庁(以下略) 明治十六年三月、広井は鉄道局出勤を申付けられ、日本鉄道会社の東京高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の建設を担当する事になった。昼は現場に出て、夜は勉学を続けた。広井は金銭を浪費する会合には出席しなかった。服装は粗末で屈託する色は無かった。収入の大半は貯蓄に努めた。友人は広井を守銭奴と呼び、彼を排斥したり、交遊を好まなかった。しかし広井は少しも意に介しなかった。「飛ばんとするものは、まず屈しねばならぬ」広井の抱いた志を察した者は無かった。札幌農学校で広井が渇仰したのはクラークの人格であり、親しく教えを受けたのはホイラー教授だった。社会に出てはアメリカに留学した松本・平井に接し、また技師クロフォード氏の優秀な技量を見て海外留学を志した。広井はその志を秘密にし、人に語らなかった。薄給を節制し渡航費用を貯え、渡航できるだけの金額に達した。広井は一日も早く渡米し、土木技術を究めたいと思い、先輩松本荘一郎を訪問し、その心情を打ち明けた。松本は「アメリカへ渡っても苦しいぞ」と容易に賛成しなかった。広井はいかに苦しくても修行を続けたいと説明した。ついに松本も賛成し、その斡旋でアメリカ政府のミシシッピー河改修工事雇員に雇われる内約を得た。広井は叔父である侍従片岡利和を訪問し、渡米の決意と松本の賛助を得たことを語り、渡米して工学技術を極め、将来日本の工学界に一身を捧げたいと抱負を打ち明けた。広井は渡米の準備はできていること、土佐に残した祖母や母には、渡米後も必ずその生活費を送ることなど誠意をこめて話した。片岡は賛成し奨励した。当時片岡とともに侍従であった藤波言忠は、広井のために渡航免状下付願の保証人の一人となった。当時、渡米は水盃をするほどの大旅行だった。広井は親戚や故郷の祖母や母の了解を得て、故国を出発できた。明治十六年(一八八三)十二月二日広井は横浜からアメリカへと旅立った。広井を守銭奴と呼んだ友人達は、ここに始めて彼の大志を知り、驚嘆した。広井の洋行は同窓中最初だった。
2023.07.30
Ⅰ アメリカへ―それぞれの旅立ち―1 広井勇と札幌三人組のアメリカ留学 札幌農学校同級生は洋行熱があった(「宮部金吾」)。「在学中から燃えるような洋行熱を持っていた。そして寄ると触るとその頃から誰が先に行くか、それが興味ある一つの問題であった。その間に〔明治十六年十二月二十日〕洋行の先鞭をつけたのが広井勇氏であった。(中略)自費を以て意気揚々渡米の途につき同級生一同の羨望の的になった。次に太田稲造氏は明治十六年五月東京大学文科大学に入ったが不満を感じ、十七年九月一日渡米し、内村鑑三氏は十五年十二月北海道を去り十七年十一月米国に去った。その後これらの人々との通信がいかに博士〔宮部〕の遊学心をそそったかは想像に余りある。しかしこれら三氏は皆私費旅行であって、広井氏はその後、会社に入り幾分余裕があったようではあるが、新渡戸、内村両氏は実に甚しい苦労をされた」。三人の私費留学に対し宮部はハーバード大学へ正式留学した。広井勇の渡米は、新渡戸や内村にアメリカ行きのアンビシャス〔ambitious〕をかきたてた。新渡戸が書いた「帰雁の蘆」の「洋行の動機」によると、在米の友人がヘンリー・ジョージの『進歩と貧窮』を送ってくれた。東大の講義の合間に読んでいると外山教授が来て「何を読んでいますか」「この本です」と出すと、「これは有名な本だが、まだ日本に来ていない。私もまだ見ていないが、大意を書いて学芸雑誌に出しませんか」と勧めた。その本は出版後八年目でヨーロッパの各国語に訳されている。それが日本唯一の大学に来ていないとは、日本の学界は八年遅れている。こんな所に学問したなら最高位に達しても、鳥無き里のコウモリに過ぎない。学に志す以上、自分の知識を発展させ、心を修養し、自分を磨かなければならない。それには広い世界に出なければ遅れるだけだと思い定めたのが、洋行直接の動機であった。」とある。広井が渡米を札幌三人組に直接知らせる手紙はないが、新渡戸は宮部に渡米を手紙で知らせている。一八八四年(明治十七年)八月四日茨城袋田村にて「僕は、東京を去って米国に行くことになりました。充分な学資の用意もないまま行きます。いちかばちかやってみます。それはあまりに大胆すぎるかもしれないが、よく考えてみると、人生は結局のところ、思い切って冒険を試みる以外にないのです。僕は行くことに決心しました。(略)僕は行く。古き友よ、さようなら。おからだを大切に。輝かしい未来が、君の眼前にくりひろげられています。『植物学』に対する君の情熱を消すことなかれ。君の前途は希望に満ち、幸先よいように思われます。(略)さあ、それではさようなら、遥かに遠い国から書くまで。 さようなら、テー・シー・モンキュー〔新渡戸自称〕」内村も広井・新渡戸の渡米に気持はアメリカ行きにあったが、それは新妻との離縁という突発的な逃避の形で実現した。周到な準備など全くなかった。内村も宮部に離縁の苦悩と渡米を手紙で知らせた。一八八四年(明治十七年)十一月四日 東京にて「最も親愛なる金吾 今、なつかしい祖国を去って異国に向かおうとするに当り、一言、君に残したい。きびしい試練の人生が僕を苦しめた。人の心と顔とが、僕をあざむいた。しかし、今、僕は極めて静かであり、涙はつきないがわが救い主にいと近くあると聞いたら、君は僕の上に降りつつある天の祝福をたやすくみとめることができるだろう。(略)兄弟よ、僕を愛し、僕のために祈ってくれたまえ。僕は君のもの、君は僕のものである。本心を白状するが、僕にとり君より貴い人は一人もいない。それ故、いつまでも君のものたり得んことを。 サヨウナラ、サヨウナラ ヨナタン・内村鑑三」最後に宮部が、一八八六年(明治一九年)九月二日、横浜港を出帆し渡米した。ハーバード大学所在地、ケンブリッジに着いたのは、九月二八日である。一八八六年九月からの一時期、札幌三人組と広井はアメリカの地にいて互いに会い交流を深めたのだ。
2023.07.29
広井勇〔後列左より3人目、ハンチングをかぶっている〕と小樽築港事務所所員明治31年8月撮影 「小樽築港時代のシビルエンジニアー広井勇とその設計思想」1ページ 小樽港北防波堤の建設が始まったのは明治30年(1897年)だった。それ以前わが国における本格的な築港事業は、パーマーなどお雇い外国人の知識・経験・技術に依存せざるを得ない状況にあった。それにもかかわらず、明治25年(1892年)には、パーマー指導の横浜築港工事においてコンクリートブロックに亀裂・崩壊が生じたことが発見され、築港事業を推し進めていた明治政府に大きな衝撃を与えた。こういう状況の中で、日本人技術者が近代的な築港事業の調査・設計・施工全般にわたって指導することは、誰も想像できなかった。2ページ• 「小樽港湾調査報文」は広井が小樽築港に先立って、小樽の気象、海象などを調査し、北垣国道北海道庁長官に提出した報告書である。わが国における先駆的な報告書である。• 深浅測量、干満、温度、海底の地質、風浪、潮流等の調査とともに、試験工事による海底の積載力、捨石の挙動等、波浪の防波堤付近の海底における動作、波浪の高さ・長さ・速度・圧力の測定ならびにセメント及び抗張力試験等を実施し、それに基づいて築港の設計を行っている。 「小樽港湾調査報文」(浅田英淇現代語訳) 風浪 おおよそ、回浪は、旋回する角度によってその高さを異にする。 したがって、本港内に侵入する回浪は、各所でその高さに差がある。その一例として、明治28年12月29日に風速27メートルの西北風によって起った波浪の高さは左の通りである。 試験工事付近 4尺 立岩付近 9尺 本年1月21日、風速23メートル、北北東の強風のさい起った高浪は、左の通り、 試験工事付近 7尺 立岩付近 9尺 前後の強風は、その方向において67度半の差がある。そうして、試験工事付近のものに対して、左の割合で減殺された。 風向 減殺率 東北 0.69 北北東 0,75 北 0.67 北北西 0.57 北西 0.47
2023.07.26
『小樽築港工事報文』から工事概要を見てみる。「本港修築事業は左の3工事より成立するものとする。第一、 防波堤築設工事。第二、 浚渫工事。第三、 岸壁及び陸上設備工事。 防波堤の位置は、港湾の地勢及び本港将来の発達にかんがみてこれを定め、港湾の左右に起こり、延べて海面480万平方メートル〔原文146万坪〕を包囲し、また港内の平静を維持し得るを限りとし、船舶の出入りを自由ならしめんため、両堤頭間に272メートル〔原文900尺〕の離間を存せり。北堤は本港の北端に近き本泊崎に始まり、南28度東に向かい総延長1,288メートルにわたり、水深12メートルの箇所に達す。その途中起点より約150メートルの箇所において幅15メートルの通航路を設けるものとす。南堤は延長約2,363メートルとす。 北堤は本港の大半を被覆し防波の効用上緊急の工事とす。故に工事着手の順序を定めて、北堤を以て第一となし、南堤は北堤の竣工をまって更に企画するものとす。 すべて防波堤の築設は設計施工共に土木工事中至難の事業にして、その構造は最も僅少の工費を以てその効用の全きを期せざるべからず。 本防波堤の構造は陸地よりの遠近に従い、波浪の高さ及び海底の地質により、甲乙丙の三部に分かち、各部の設計を異にするものなり。 甲部は、陸地接近の部分延長48メートルに在りて海底ことごとく岩盤なるにより、場所詰コンクリートを以て左右各厚さ1.8メートルの壁を造り、干潮面上1メートルに達せしめ、割石を以て裏詰となし、上に厚さ1メートル・幅6.7メートルの場所詰を施し、堤頂の高さ、干潮面上1.8メートルに達せしむ。 乙部は、甲部の終端から始まり、延長132メートルにわたり、海底耐圧の度充分なるに依り、袋詰コンクリートを以て基礎を造り、上に重量16トンの塊を積畳し、割石を以て中詰を施し、上部は甲部に於けるが如く場所詰コンクリートを布設し、堤頂は干潮面を抜くこと1.8メートルないし2.1メートルとす。外側の塊上部二層は左右に凹凸を設け、栓を挿入して波浪の突入を防止せしめ、また内側において1.8メートルごとに径9.1センチ(3寸)の気孔を設けて圧気の排出に備うるものとす。 丙部は、捨石を以て基礎を造り、コンクリートを以て上部の構造を施すものとす。捨石は比重2.5を下らざる硬石を用い、各個の重量0.05ないし1.8トンとし、その軽小なるものは上部において激浪の衝に当たらしむるものとす。捨石はブイ及び立標をもってしるしたる位置に投入し、ほぼ所定の作工面にならし、なお1ヶ年間波浪の動作により、充分定着するをまってコンクリート土塊を積畳するものとす。 捨石の法は、外部に在りては2分の1ないし5分の1、内部は1割5分とし、上面は干潮面下5.7メートルに止むべきものとす。 かくのごとき防波堤の構造は、波浪の単純なるハイ動に変化を生ぜしめる不利ありと雖も、小樽港における激浪は、遠く外海より回旋するものにして、その湾内に入るや既に直動性を承け、波力全深に及べるをもって、専ら砕波(さいは)の効用を主とする構造を施せるものなり(以下略)」。
2023.07.25
9月14日早朝、札幌の街を散歩した。時計台前に行って、写真を撮る。時計の下に「演歩場」と表札が大きくある。「札幌農学校」蝦名賢造著には次のようにある。「1878年10月には、有名な演武場が建坪113坪、2階建てをもって落成し、16日黒田長官臨席のもとに盛大な竣工式が開催された。階下には博物標本陳列室、標本整理室ならびに2教室が設けられ、階上は操練にあてる大広間と武器室がおかれた。当時建築技術のうえから、操練室が2階に設けられ、階下の教室はその振動のために少なからぬ迷惑をこうむったという。この操練室というのは、農学校教育の特色として重視された兵式体操のためにおかれたもので、マサチューセッツ農科大学の教練室 Drill Hall になぞらえた重要な施設であったばかりでなく、当時札幌における唯一の大広間として、学校における主な行事はもちろん、札幌における大きな行事も多くここで行われるようになった。さらに1881年(明治14)6月、その演武場の搭上に、ニューヨークのホワード時計店に注文して取り寄せた大時計が備えられ、標準時を知らせることになった。」千歳空港から札幌に向かう幹線から北広島市に入ってまもなくのわき道沿いに「旧島松駅逓(えきてい)」があり、ここがクラーク博士がここで馬に乗って、生徒諸君に Boys be ambitious と去っていった場所である。「1877年(明治10)4月、クラークと北海道開拓使との雇用契約の期限が到来した。いよいよ農学校教頭としての任期を終えて、クラークはこれから帰国の途につかねばならないことになった。クラークが札幌を出発したのは、4月16日のことである。当時は陸路室蘭を経て森にいたり、そこから船で函館へ出るのが道順だった。(経路については、島松駅逓に掲示されていたものは上記と少し違う。陸路、苫小牧を経て室蘭までは同じだが、室蘭から船で森に渡り、陸路函館へと出る経路であり、途中、休憩、宿泊、馬の乗り換えなののために、一定の距離ごとに駅逓が設けられていたのだという) 当日、農学校はクラーク見送りのために、とくに臨時休校をし、全校こぞってクラークを見送ることになった。その朝、調所広丈校長をはじめ職員一同、佐藤昌介、大島正健ら第1期生など25名のものが、クラークの官舎にあてられていた創成橋ぎわの開拓使本陣前に勢ぞろいし、記念撮影をしている。みな、おもいおもい馬に乗り、馬をつらねてクラークを見送った。途中、札幌の郊外には、まだ、残雪のかたまりが黒ずんでその姿をあらわしていた。 一同はクラークを見送りつつ、札幌の南24キロにあたる島松駅にまで来てしまった。坂道を下ると、左側に駅逓中山久蔵の家があり、その前を小川が流れ、島松と恵庭の境をなしていた。 一行は中山の家の前の広場で休憩しながら、クラークを囲んで過ぎた日々の楽しい思い出を語り合い、名残を惜しんでいた。いよいよ別れのときがきた。クラークは、見送りのひとりひとりと握手をかわし、別れを告げていった。『諸君、どうか一片のハガキでもよいから、ときおり諸君の消息を知らせることをいつまでも忘れないでくれたまえ』と、何度かくりかえし、馬にまたがった。先導の者も馬上の人となった。クラークは生徒一同をふりかえり、『諸君、元気であってほしい。 Boys be ambitious』と力強く叫んで、馬に一鞭をあて、また数回ふりかえって坂道をのぼっていった。坂道の前方の雑木林のかなたにクラークとそのとものものの影は消えた」 島松駅逓の向かって右の広場に大きな石柱の記念碑がたち この言葉が刻まれている。宮部金吾が主として寄付を集めて記念碑を建てたもので、クラーク博士の子孫の方が訪問もされている。案内してくれた人が、「クラーク博士の銅像は羊が丘ののが有名ですが、実はあそこは関係はない。北海道大学の構内に胸像だけですが銅像が建っています」と説明する。ひそかに見に行こうと決意し、翌朝時計台を見学した後、札幌大学へと周り、広い緑豊かな校内を散策しつつ、クラーク博士の胸像を人に問いつつ、見つけた。せせらぎが背後に流れ、林の中を爽やかな風がふき、鳥が遠くで囀っていた。島松駅逓を案内してくれた人が、「私は実は土木屋で、土木の世界では『広井公式』という有名な公式があって、それを発表したのが、内村鑑三や新渡戸稲造などと同期の広井勇勇ですが、技術屋なものだから内村や新渡戸ほど知られてなくて・・・」と少し残念げにおっしゃった。「ああ、実は明日、広井勇が建造した 小樽港の北防波堤を 見学に行くところなんですよ。 あなたにご説明いただきたいところでしたね」というと、ニコリと笑われた。 北海道大学のクラーク博士の胸像も見た。この日の午後、一路T君の車で札幌から小樽港へと向かい、北防波堤を見学したのだが、結構大変だった。なにせ、地元の人が広井勇も北防波堤の場所も由来もよく知っていないようだった。 鈴木藤三郎もまた「上水道の開設者は都市の創設者といえる。しかし、日本人はその事業を始めた人を知らない。」と承応3年(1654年)に江戸市中の飲料水不足を解消するため、玉川清右衛門、庄右衛門兄弟によって開削された玉川上水 や 芦ノ湖から深良用水をひいた駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞のことを地元の人ですら知らないとなげいていたが、小樽でもまた、小樽築港という世界的にも記憶されるべき防波堤を築造した広井勇を知る人は多くはないようだった。
2023.07.23
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」 66-67ページ 札幌農学校の洋風校舎は当初建坪411坪余、他に2階79坪であったが、書庫、講堂、温室その他の農学校用の諸施設が次々に増設されていった。(1坪は3,3平方メートル)。演武場(Militaly Hall)は明治11年(1878)9月に完成したもので、総2階、1階は113坪余の講堂、2階は操練場と武器庫の2つに区切られ、一隊50人ずつの訓練が行われるものであった。講堂と体育館を合わせたような建物であった。 明治14年(1881)7月、中央楼上に大時計が据え付けられ、開拓の街に時を告げるようになった。当時は時計も珍しいものであっただけに、この建物は「時計台」と愛称されるようになった。 この近代建築を設計したのがホイラーである。彼の肉筆の平面図が北海道大学附属図書館に残されている。設計の寸法はフィートである。建物全体がアメリカ風バルーン・フレーム構造で、軒桁から棟木に丈が高く、幅の狭い2本の合掌を架して、上部から約3分の1ほどの箇所にカラービーム(一種の梁)を水平に渡して合掌を堅く結んでいる。アメリカ・コロニアル様式の簡素で、しかも荘重な印象を与える建築であり、のちにこの時計台が札幌の標準時を伝えるようになる。バチェラー・オブ・サイエンスの学士号を持つホイラーは、札幌農学校では数学と土木工学を担当し、年俸3,000円を支給された。クラークが去った後には、彼は月額50円の増俸を受け、教頭心得として後に教頭として校務を処理した。彼は卓越した土木技術者であり、品行方正、温厚な紳士であった。 ★札幌の時計台といえば観光スポットであり、もちろん私も行っている。最初、訪問したときは、館内の展示物を丁寧に見て回った記憶がある。今月9月、札幌と小樽に行く。北海道の友人から何度も来るよう誘われ、彼の町づくりボランティアの模様を見学させてもらうのが目的だ。折角だからと、時計台と広井勇が建造した百年堤防を見学しようと思う。日本における記念すべき土木建造物であり、広井山脈ともいわれる「人類のための仕事」に励んだ青山士や台湾の華南平野を現在でもうるおし後世の人々を益し続けている百年ダムを作った八田與一もまた広井勇の門下であり、それはピューリタン革命からもたらされた「業(work)による福音」に由来するのではないかと考えているがいかがであろうか。「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」59-60ページ「クラーク帰国により第2代教頭となったウィリアム・ホイラーは、数学・土木工学・図学・測量を教えた。いずれも北海道原野の開墾には不可欠な学問である。 彼はマサチューセッツ州立農科大学第1期生で土木工学を専攻し、在学中から大学内外の測量や土木設計を手がけた。卒業後は鉄道の線路敷設班長、線路区技師として実績を積み、来日前には設計事務所をボストンで経営するまでになった。25歳の青年教頭である。」「彼の工学観は当時アメリカの科学技術観を反映する進歩的なものであった。特に『Second Annual Report of Sapporo Agricultual College 1878』(「札幌農学校第2年報」)には、当時の日本と欧米の学問・教育を比較した論説を掲載した。『日本人はその好学心において欧米人にひけをとらないにもかかわらず、伝統的な学問観、方法と社会的束縛のため、学校卒業後の進歩が欧米人に遅れてしまう。日本の学問はほとんど中国の古典を文字からのみ学ぶ記憶中心のもので、模倣には長けているが自ら作り出すということをしない。そこで、理論的理解を基本とし、それに基づいて様々な事態に対して応用・実践できる能力を養うことを目的とする西洋式の教育を課することが急務である』(渡辺正雄『お雇い米国人科学教師』参考)。 ★日本の明治以降の科学技術化・資本主義化においてこうした西洋式な正規の教育 と 鈴木藤三郎や豊田佐吉に代表されるような発明・工夫改良による実業が相即して日本産業革命がいわば自生的に生長できたのかもしれない。 日本の産業は長らく「模倣には長けているが、自ら作り出すことはしない」と言われ信じられてきたが、遠州・三河を中心としておそらくは報徳思想を淵源とする発明・工夫改良により産業をおこし、社会や国家に貢献するという考え方は、トヨタ、スズキ、ホンダといった日本を代表する産業となり、また鈴木鉄工部や台湾製糖会社修繕部門などを通じて、多くのそうした人材を日本・台湾において育てていったようにも思われるのである。
2023.07.21
「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」62-64ページカリキュラムの4年最後の土木学講義に用いられた教科書は、2冊であった。 W.J.M.ランキン著”A Manual of Civil Enginiaring”(明治13年に『蘭均(ランキン)氏土木学』として文部省から翻訳本刊行) J.B.ホイラー著“An Elementary Course of Civil Engineering”J.B.ホイラーは、United Staes Military Academy(アメリカ陸軍士官学校)の土木工学教授で、この専門図書は士官候補生が土木技術の実践を簡潔な形で学べるように書かれている。・・・・・・この土木学講義ノートが、2期生の広井勇と宮部金吾の「土木工学受講ノート」として北海道大学附属図書館に保管されている。・・・・・広井のノートはペン書きで総ページ200ページ近くもある厚いもので、最終ページに索引が付されている。 学生の課外活動の集まり「開識社」が明治10年代に存在したことも札幌農学校の先駆的な特徴である。この「結社」は弁論や討論を通じて学生同士の知識や表現力を練磨することを目指しており、広井は入学直後から会員になった。「北大百年史」などによれば、弁論や討論はすべて英語で行われた。明治10年(1877)10月13日の会合に初めて広井の名前が登場する。 English speakerにI.Hiroi の名前があり、演題は”Friendship”である。同年11月24日の第37会では、Exercises で広井は“The imprortance of strengthening both brain and physical power”(能力と体力の強化の必要性)を演題としている。翌明治11年1月23日の第44会では、“People who are destitute of the Love of Country”(愛国精神を失った人々)を演題としている。同3月30日の第49会では“Advice to the Christian”(キリスト教徒への助言)を、また同10月19日の第63会では“Worst habit of Nation”(最悪の国民慣習)を演題にしている。そして上級となった明治12年6月7日の第85会で退会している。64-65ページチャールズ(広井)の学生時代の人物評やエピソードを同期の友人らが書き残している。「チャールズ(広井)は複合的性格であった。彼はその機敏な常識においてわずかにフレデリック(高木)に劣るだけであったが、しかしキリスト教に対する知識的態度においてはいっそうパウロ(太田)に似ていた。彼は多くの熱心な青年のように神と宇宙とを彼の知識の助けをかりて理解し、自分自身の努力によって神の永遠の律法に文字通り自分自身を一致せしめようと試みたが、それに失敗して彼はキリスト教のまったく異なった一面に傾き、「善きわざの福音」を信ずる彼の信仰に落ち着いた。彼は学識ある技術者となるようになった。そして実質的な形をもってする彼の同情は、教会の内部たると外部たると何か実際的の善事が意図されているとき、つねに信頼することができる」(How I Became a Christian内村鑑三)卒業間近になった時の「チャールズ」について書いている。「チャールズは世俗の事業に従事しながら如何に天国のために働かんと欲するかを語れり、而して彼はキリスト教徒の活動のこの面の重要性を強く主張せり」現在「技師鳥居信平著述集」で73大学館で蔵書となる。7月20日 73館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館、横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター、立教大学図書館玉川大学 教育学術情報図書館
2023.07.20
『築港』緒言に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。「惟(おも)うに港湾修築の事たる、実に国家重大の事業にして、その施設の困難なる土木事業中の最たり。故にこれが計画を立つるに当りては、最も慎重に、最も周到を以てし、百年に竟(わた)りて違算なきを期せざるべからず。著者〔広井勇〕幼時、土州浦戸種崎に遊び、これを古老に聴く。該地海峡を扼(やく)する二個の波止〔はと・防波堤〕あり。これ我が邦(くに)工学の泰斗〔たいと・泰山北斗の略:その分野の第一人者〕たるの中野中兼山の築きしものなりと。その種崎村にあるものは、久しく堆砂(たいさ)のうちに埋没し、知るもの絶えてなかりしに、後二百余年を経、安政元年の震災に際し、怒涛襲来し、種崎の一村今や狂瀾(きょうらん)に捲き去られんとする一刹那(せつな)、彼の波止露出し、ここにこれを防止して僅かに一村を全うすることを得たりと言う。ここにおいてか、兼山の施設の永遠に迨(およ)び、その当を得たるを証するに足る。実に技術者、千歳の栄辱は懸かって設計の上に在り。これが用意の慎密遠図を要する、また以て了すべきなり。」「巻中に引用せし許多の試験及び観測を為すに当り工学士真島健三郎、遠藤善十郎、北村房次郎諸氏の補助を得たるもの少なしとせず。ここにこれを謝す 明治三十一年八月 著者識(しるす)」💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.19
廣井勇と教え子たち http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/kikanshi0112/cover.htm中井 祐 (なかい ゆう) 東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学専攻・助手 戦前のエンジニアたちのデザインや文章に接していると、その随所に強い意志の力のような存在を感じることがある。彼らの仕事に私が惹かれる所以である。いつも、この力の秘密を突き止めたいと思いながら彼らの生涯をたどっているのであるが、ある時ふと、必ずといってよいほど登場する一人の教師の名前が気になりはじめた。明治後半から大正時代にかけて、札幌農学校と東京帝国大学で教鞭をとった廣井勇(一八六二~一九三八)である。私は、自分の惹かれる戦前のエンジニアの多くが廣井の教え子であるという事実に、気が付いたのである。 廣井は、日本の近代港湾技術を飛躍させた功労者として著名である。札幌農学校の第二期生で、卒業後アメリカとドイツに渡って実務および研究の経験を積み、一八八九年、母校に工学科が新設されたのを期に帰国、二十七歳の若さで札幌農学校教授に就任する。ちなみに、この時の工学科一期生、すなわち廣井の一番弟子にあたるのが、岡崎文吉である。その後廣井は八年間にわたって札幌農学校の教育に尽くすのだが、工学科の廃止と同時に辞職、以前から兼任していた北海道庁技師に専念して小樽築港工事を指揮し、その実力を世に知らしめるのである。 当初廣井は札幌に骨を埋める覚悟だったようだが、一八九九年、小樽での実績を買われて東京帝国大学土木工学科の教授に招聘(しょうへい)され、以後二十年にわたって学生を指導し、のちに日本の近代化を担う幾多の卒業生を社会に送り出すことになる。たとえば宮本武之輔、太田圓三、石川栄耀、樺島正義、増田淳。さらに、日本人技術者として唯一パナマ運河建設に身を投じた青山士、帝都復興橋梁の設計を統括してのちに多くの橋梁技術者を育てた田中豊、台湾の土木事業に貢献して今なお現地の人々に慕われ続けている八田與一。ほかにも多士済々といった趣で、廣井在任中、土木工学科は東京帝国大学の中でも異彩を放つといわれたほどであった。 学生にとって廣井は、決して共感を得やすいタイプの教師ではなかった。講義は下手くそで、生まれ故郷の土佐なまりでぼそぼそ喋り、板書はあちこち行ったり来たりで、学生を閉口させた。卒業設計の口頭試問では、検討の至らない部分に皮肉たっぷりの指摘をして、学生の表情を歪ませた。何か相談に行っても、一見ぶっきらぼうで無愛想に思えることが多かったという。 しかし、社会に出た教え子たちにとって、廣井の存在が精神的なよりどころとなっていた。青山士は廣井の写真を生涯机の上に置いて心の支えとしていたし、宮本武之輔は、技術者千歳の栄辱は設計の成否で決すべしという廣井の教えを座右の銘として、大河津分水の難工事に挑んだ。太田圓三*は卒業後初めて手がけた鉄道橋の設計を真先に廣井に報告に行った。*太田圓三(おおた えんぞう)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。親友の十河信二とともに巻き込まれた、土地売買に関わる贈収賄疑惑(復興局疑獄事件)にて自殺した。田中豊*は復興局橋梁課長に就任する際に心中の不安を廣井に告白して、逆に勇気づけられている。*田中 豊(たなか ゆたか) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。長野県長野市出身。元は鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。田中は東京大学の教授として多くの橋梁エンジニアの育成に貢献した。彼らはみな尋常ならざる努力で後世に残る仕事をなし得たが、その陰には、絶えず廣井という師の存在があったのである。 樺島正義は後年廣井のことを回想し、口数は少なかったが貴いものを直に肺腑におしつけるような人だった、と述べている。廣井が学生たちに伝えた貴いものとは、何だったのだろうか。それこそ、私が戦前の多くのエンジニアに感じる力の秘密かもしれない。 廣井は一八七八年の夏、十六歳の時に札幌農学校の同期であった内村鑑三、新渡戸稲造らとともに洗礼を受け、キリスト教信仰の道に入っている。当初、伝道者を志したほど信仰に燃えた廣井であったが、ある時突然、宗教を説くより先にやるべきことがある、と工学者の道を選ぶことを周囲に宣言し、以後一切信仰を説くことをやめてしまう。しかし廣井は、宗教が無意味であると考えたのではない。廣井は生涯、聖書と祈りを欠かすことがなく、敬虔さは晩年になるに従ってその深みを増した。特に後半生はひたすら内省的に自らを律することに徹し、道義的な訓戒めいたことを平素決して口にはしなかった。廣井がクリスチャンであることを知る人は稀であったとさえ言われる。 廣井がキリスト教を信仰するに至った経緯を、私は知らない。しかし、廣井自身は次のように語ったという。人間の存在など粟粒のごときものだ。しかしこの人間の内に神に通じるところのものがある、それ故に人生は貴いのだ、と。そして、人々の労働を少しでも軽減することによって、人をして静かに貴い人生を思惟せしめ、反省せしめ、神に帰す余裕を与えることが土木工学の使命であるとも語っていた。つまり、廣井にとって土木工学の道とは、まさしく伝道の道にほかならなかったのである。 廣井は、人の心と人生を豊かにするためにこそ、土木工学を追究し、その教育に力を注いだ。それは廣井にとって、祈りに等しい行為であったに違いない。そして、その廣井の祈りが、意志の力が、社会に出て場に臨んだ教え子たちに力を与え、その心を一層突き動かしたのではなかったか。晩年の廣井の写真に見られる優しくおだやかな眼差しは、私にそんな思いを抱かせるのである。参考文献『工学博士廣井勇伝』故廣井工学博士記念事業会、昭和五年
2023.07.17
工学博士廣井勇傳その7九 札幌農学校教授時代 七か年に渉る海外生活中、幾多の努力と涙ぐましき奮闘を続けた結果、早くも欧米の学界にその存在を認められた博士は、今ここに札幌農学校教授の栄職を得て故国に迎えられたのである。その帰朝は、ただ一人の少年に見送られた出発の時に比べて、どんなに晴々れしく華やかなものであったろう。広井博士が当時の得意の情は、まことに想うべきである。 片岡氏も洋行帰りの博士のために、洋卓やイスなど何かと自ら準備を指揮し、錦衣着て帰る博士を歓迎するのであった。 明治二十二年九月十一日、博士は帰朝と同時に札幌農学校教授に任ぜられ、直ちに札幌に赴任した。博士はこの新設工学科のために容易ならぬ努力と苦心とを払ったのである。当時、大学と称せらるるものは東京帝国大学以外には無かった時代であるから、学士の称号を付与する札幌農学校の存在は、北海道全土の誇りであった。 広井博士は、その学校の教授であり、殊(こと)には洋行帰りであるというところから、たちまち尊敬の的となった。この時、博士はまだ二十八歳の商社な青年であった。威あって猛からざるその風貌は、既に堂々たる紳士として、人をして犯し難き感を抱かしめたのである。 札幌へ赴任すると、博士は札幌区北一条西五丁目に一戸を構え、仲秋、母堂を東京から迎えた。父を失える十一歳の幼な子を片岡氏に託して旅立たせ、明け暮れその出世のみを楽しんで、自らは淋しく暮らして来た母堂は、十七年ぶりに、初めていとし子との楽しい生活を迎えることができるようになった。長い年月の間、何らの家庭的和楽をも味わうことなく、痛ましくも苦しみ多き生活のみを続けて来た博士にも、それはどんなに大きな喜びであったろう。神は常に最も多くの苦しみと、最も大いなる悲哀とを体験したものに最も大いなる歓喜と幸福とを与え給う。博士母子のごときは互いに海山遠く離れて、それぞれ貧苦と寂寞とに勇敢に戦って来た。その総ての憂さも辛さも今は淡き過去の夢と消え去ったのである。博士は、母と共にただ天なる神に感謝の祈りを捧げるばかりであった。 博士の母堂は、明治十七年、片岡健吉氏と共に、同氏設立のキリスト教高知教会において、米国宣教師タムソン氏より洗礼を受け、熱烈な信仰生活に入った人である。 全生涯を通して一刻も静止する事なく、ただ努力をもって一貫した博士ではあるが、この人格の基礎となったものは、札幌農学校教授となるまでの、いわゆる受難期であったともいい得る。博士はこの基盤の上に、その生涯の第二段を建設せんとしつつあった。 母堂を迎えて札幌に一家を構えた時には博士はまだ独身であって、母堂と共に東京から来た同郷の後輩、岡田虎輔、永野義直、山崎正馬(博士の甥)の産しを書生として寄寓せしめる事となった。この他博士の家庭に出入りした青年は数多い事であったが、今の朝鮮地方法院検事正、奈良井多一郎氏のごときもその一人であった。その後、永野氏は札幌農学校実科に入りて寄宿舎生活をすることとなり、新たに高田武一氏が加わった。博士は元より、母堂がこれらの人々威対する』態度には少しも主従の隔たりなく、書生も召使も一緒に食事をとり、その親切、その撫育は至れり尽くせりであって、その恩愛の情はまことに親子もなお及ばぬごとくであった。 この頃の博士は帰朝早々で、元より貯蓄など全く無く、家具の購入を始め、将来夫人を迎うるの準備をも整えねばならず、経済的に非常に多難の時代であった。しかし、博士は一向に無頓着で、大勢の書生を教養する事を楽しみとした。 博士の母堂は、熱心なキリスト信者であったから、この頃博士の家に寄寓し、または出入りしていた人で、その熱烈な信仰に動かされ、キリスト教の信仰の道に入った者も決して少なくない。岡田、奈良井氏などはその主なる者である。 博士は、このように久方ぶりに和やかなる空気の中に浸ることができたが、また一方においては予期せざる多忙を経験せねばならなかった。即ち札幌農学校教授として、博士は河川、港湾、鉄道、道路、橋梁、その他土木工学の全般を担当し、かつ明治二十三年二月からは北海道鉄道会社の技師長平井晴二郎氏の推挙により同社の嘱託となり、主として橋梁の設計を担当し、五月より北海道庁技師を兼務し、一時は土木課長の職について一般土木事務の監督に携わった。暫くして課長の任を辞し、兼任技師として専ら北海道港湾の基本調査に没頭するに至った。 これがため博士は出張、その他の都合で、学校を空けねばならぬ日が多かった。したがってその教授法等も、従来のものとは根本的に趣向を異にし、適当な教科書を与え、出張中、学生をしてこれを自習研究せしめ、まず自発的に疑問を起こさしめた。質疑あれば博士は喜んでこれを説明し、懇切至らざるなかった。しかし研究の不足なる質疑に対しては、博士は再びその研究を促し、決して直には答えなかった。 当時、学生は土木学科の一年生二名、二年生二名、合計四名の小数であった。教室では教師、学生の差し向かいというありさまで、自ずと学生の個性を十分に知ることができたから、上記のような教授法も有効のものとなったのである。 明治二十六年四月、博士は道庁技師を本官とし、農学校教授を兼ねるようになったが、明治二十八年六月、工学科が廃止される事になったので、博士は専ら函館港改良工事監督として、その実際的手腕を振るうようになった。続いて三十年四月、小樽港事務所長となるに及んで、博士は農学校とは直接の関係を断つことになった。 工学科創設以来八年間、博士の懇篤なる教育を受けた出身工学士はすべて十五名に達し、いずれも斯界に重きをなす人々となった。💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が 広く「世に働き」ますように と願う。
2023.07.17
工学博士廣井勇傳その6八 米国よりドイツに留学 明治十七年一月二十日に至り、漸くミシシッピー河の治水工事に勤むることができた。約八か月の間孜々(しし)として働いた後、九月に至り、シー・シエラー・スミス工事事務所に入り、専ら橋梁の設計に従事した。約一年半の後には月俸七十ドルを得るようになった。先には飢餓に瀕した博士も一変して紳士的生活を営み得るに至ったのは、ようやくその実力を認めらるるに至ったからである。 明治十九年一月ヴァージニア州ローノーク市のノーフォーク・ウェスターン鉄道会社に入り、設計製図の任に当たり、同社の技師長コー氏の厚き信任を得た。氏はいつも博士を珍しき勉強家であると誉めたたえた。また博士がローノーク市にて下宿していたCity Hotelの主人と家族は、いつも博士の紳士的な態度を賞揚してやまなかった。その当時同宿していた同会社の一書記は、次のように語った。『夜ふけて帰って見ると広井君の家がいつも明るいので、戸をたたいて入ると一生懸命勉強している。日本の学生はこうも勉強するのかと感心させられた』 明治十九年九月広井は転じてアメリカにおける橋梁の大会社エッヂー・ムアー・ブリッヂ会社(Edge moor Bridge Co.)に技手として奉職し、鉄橋の設計並びに製作に従事し、ますますその技能をみがき、時としては職工と共に鍛冶(かじ)に従事したことすらあった。博士の有名な著書「Plate Ginder Construction」はこの頃、ニューヨークのヴァン・ノストランド会社から Science Series No95 として出版された。本書はアメリカで広く教科書として使用されるにいたったほどで、我が邦人の著書にしてこのように賞賛を博したものは稀である。これは実に博士二十七歳の時の作である。初版は1888年(明治二十一年)に出て一九一五年には第五版が発行されたが、その後数版を重ねるに至った。 滞米中の前半は、博士の生涯において、経済的に最も苦闘を重ねた時代であって、その日常の生活の中には涙なしに語り得ないものがあった。博士は三度の食を二度に減じ、節して得た剰余を蓄えて、土佐に残した母堂に毎月送金し、一回もこれを絶ったことがなかった。 Wer nie sein Brot mit Tränen aß, Wer nie die kummervollen Nächte Auf seinem Bette weinend saß, Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Mächte.Goethe〔涙とともにパンを食べたことのないもの悲しみにみちた幾夜(いくよ)をベッドで泣きあかしたことのないもの そうした者には 天上の霊の力がわからないヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代第2部13章〕この詩のごとく博士は幾度か涙と共にパンを食い、また幾夜か床上に祈り明した事であろう。博士派後年永くこの詩を愛誦したのは故あることである。 この頃、札幌農学校においては、既設の農学科と併立して同程度の工学科を新設することになった。これは同校の幹事であった佐藤昌介氏〔一期生〕等の熱心な主張によったもので、当時あたかもアメリカにあって実地の研究に従っていた博士をその主任教授に推し、書を送って博士にその創業の任に就くようにと勧誘してきた。博士にとっては元より母校のことであるから、快くこれを承諾した。ここにおいて明治二十年四月一日、在米のまま札幌農学校助教授に任命され、同時に満三か年間、土木工学研究のためドイツに留学を命ぜられ、始めて経済的の苦境を脱し、専心研究の道に精進することができるようになった。 アメリカからドイツに渡った博士は、最初の一年間をカールスルーヘのポリテクニカムに送り、ついでスツットガルト・ポリテクニカムに半か年、土木工学、水理工学等の学科を研究し、バウ・インジエニユール(土木技師)の学位を受け、卒業後約三か月の間、ドイツ、フランス、イギリスの諸国を巡歴してあまねく土木事業を視察し、工学科開設の都合で、留学期間一か年を残して二十二年七月帰朝の途についたのであった。台湾の屏東科技大学の丁先生が今春、旭日中綬章を受章された。袋井市で国際会議があるのにあわせて 掛川でお祝いの会がもたれた。丁先生には『技師鳥居信平著述集』の裏表紙の地下ダムのイラストを新たに作成し寄せてくださっただけに、喜ばしいおめでとうございます㊗
2023.07.16
工学博士廣井勇傳その5 7 衣食を節して渡米を敢行 明治十五年二月、開拓使が廃止されて、松本氏は工部省に転じたが、広井もまた同氏の推挙によって、その年の十一月工部省御用掛(準判任官月俸三十円)を命ぜられて東京に移り、翌十六年一月同省の六等技手に任ぜられた。 東京へ移ってからも、博士はその極端な生活様式を改めようとはしなかった。 三月、博士は鉄道局出勤を申し付けられ、日本鉄道会社の東京高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の建設を担当する事になったが、昼は努めて現場に出て、夜は孜々(しし)として極度の勉学を続け、その間更にうむことを知らなかった。 博士はあえて交際を避けるのでは無かったが、金銭を浪費する会合には一切出席することが無かった。服装は元より粗末でむしろきたないと思われるくらいであっても更に屈託する色も無かった。そしてその勤労所得の大半はこれを貯蓄するに努めた。友人はこれを見て広井を守銭奴と評した。ある者はこれを排斥し、ある者は博士との交遊を好まなかった。 しかし博士はこれを知るがごとく、知らざるがごとく、いささかも意に介するところがなかった。共きらずともその奥に秘した計画は、徐々と進められつつあるを独り楽しんだ。「飛ばんとするものは、まず屈しねばならぬ」 博士の抱いた志を誰ありて察したものは無かった。普通の人であったら、こうした極端なことはできなかったであろう。かつ若年にして得たその地位に大いに得意となったかも知れない。あるいはその生活をその地位相当に高めたかもしれない。然るを胸中に何の計画があって、そうさせたのか。札幌農学校において広井をして渇仰置くあたわざらしめたものはアメリカ人クラーク博士の人格であった。親しく教えを受けて敬慕禁ずるあたわざらしめたものはアメリカ人ホイラー氏の学識であった。さきにはアメリカ人キンドン氏の慈愛を受け、社会に出でては、早くよりアメリカに留学して、かの地で研鑽をつんだ松本・平井両氏に接し、また招聘中の技師クロフォード氏の優秀な技量を見て、心密かに期したところは何であったであろう。碩学(せきがく)遊冥翁の血をうけ、祖母の訓育に浴し、早くも年十一にして郷関を出て東都に遊学した少年が齢(よわい)二十を越え、更に遠く海外に遊ぶの志を抱くに至ったことは決して怪しむに足らないところである。 博士は胸裏に胚胎(はいたい)したこの志望を深く蔵して語らず、薄給を節して渡航の費を貯えたのであった。しかして博士をしてますます発憤せしめ、その決心をいよいよ強固ならしめたものは、自らの腕によって積まれ行く金が、徐々に渡航費に近づくことであった。かくて幾多の涙ぐましき努力を続けた結果、辛うじて渡航しうるだけの金額に達した。 博士はもはや暫くも猶予できなかった。一日も早く渡米してかの地の土木工事を究めんと欲し、熱火のごとき意志抑えがたく、先輩松本荘一郎氏を訪(おとな)い、その心情を打ち明けたのであった。松本氏は『アメリカへ渡ってもずいぶん苦しいぞ』といって、容易に賛成を表する風も見えなかった。 博士は、自分の望むところが、決して享楽にあるのではなく、いかに苦しくとも、修行を続けることにある旨を真情を吐露して説明した。この熱誠はいつまでも松本氏を動かさずには置かなかった。ついに松元氏の賛助を得、同氏の斡旋によって、アメリカ政府のミシシッピ河改修工事雇員に雇われる内約を得ることができたのである。 松本氏の賛助を得た博士は、まさに雲を得たる龍のごとき喜びと勇気を感じ、雀躍(じゃくやく)して片岡利和氏を訪ね、渡米の決意と、先輩松本氏の賛助を得たことを語り、かの地に渡って工学の蘊奥(うんのう)を極め、将来斯界(しかい)に一身を捧げ、邦家のため邁進(まいしん)努力したい抱負を打ち明けた。片岡氏は事の意外にして、また急なるに驚かずにはいられなかった。(略)博士は、渡米の準備はすでに自分の手でできていることや、また土佐に残した祖母や母には、渡米後も必ずその生活費を送ることなど誠意をこめて熱心に話した。片岡氏はこれに賛成し奨励した。博士の計画には毫(ごう)も青年客気の勇にかられたものがなく、しかも年来の思慮を経た確実性に富むものである事を知った片岡氏は大いにこれに賛成し、その行いを壮として奨励の辞を与えた。当時片岡利和氏とともに侍従であった藤波言忠氏は、広井のために渡航免状下付願いの保証人の一人となった。 当時における渡米といえば、いわゆる水盃をするほどの大旅行であったが、博士は既に親戚にも、故郷の祖母や母にも了解を得たので、今はなんの不安もなく、身も心も軽く、しかも前途の希望に燃えつつ故国を出発する事ができた。 明治十六年十二月十日、小さな手荷物一個をさげて、歳末近い横浜のあわただしい人通りを抜けて行くのは博士であった。ただ一人の連れは見送りに来てくれた親戚の少年、杉野敬次郎氏であった。元町の大神宮社内に入った二人は、宝来豆をかじりながら、互いに将来を励ましあった。天涯の一孤客となる青年の名残は尽くるを知らなかった。博士の乗船はCity of Rio de Janeiro号であった。母国の陸地が夕暮れの霧の中に消え去る時、さずが前途の光明に輝いたとはいえ、博士の胸中は千万無量の感慨に迫られるものがあった事であろう。博士を守銭奴と呼んだ友人達は、ここに始めて博士の大志を知り、驚嘆しないものはなかった。広井の洋行は同窓中の最初のものであったのである。💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.15
小樽築港時代のシビルエンジニアー廣井勇とその設計思想(抜粋) 広井は、築港のためにする調査や、工事を実施するにあたり、先ず経済性を追及した、その代表的で典型的な事例としては、北防波堤の幅員24尺(7.3m)である。外洋防波堤としてはほとんど例が見られないといわれるほど細いものとしたことである。広井は東京での講演でこう言っている。【北防波堤から南防波堤を臨む。小樽港の外洋に面した防波堤の断面がよくわかる】 この断面は、24尺と言うのは、大海に向かって築く防波堤としては、ずいぶん小さい方でありまして、ほとんど例の無い位細いのであります。これは、非常に大きくしておけば、安全には相違ありませんが、小樽港に政府から出してくれる金は、おおよそ分っておりまして、それに対してやらなければならないのでありますから、思う存分なことは出来ません。つまり、波動の計算上、ようやく許すというだけの幅にしたのであります。 国庫の状況に鑑み、小樽築港で認められた予算の中で是非とも成功させなければならないという、広井の起業家精神の発露であった。 また、このように予算の枠ぎりぎりの設計を行うことを可能にしたのは精確な調査によるデータの採集による裏づけと、それを活かし切る能力があったからであろう。ずさんな調査のもとに行われ失敗した野蒜築港の成果が、その後のわが国の築港に及ぼした影響は計り知れないものがあろう。 「小樽港湾調査報文」では、その付録に調査方法の概要や数値とともに、実際に支出した費用を記録している。その記録は、「小樽港湾調査報文」に引き継がれ、防波堤建設に要した費用が項目ごとに細かく記載されている。小樽港北防波堤の建設は、途中で日露戦争が起るなど、国庫の状況はもちろん経済社会情勢は大きく変動し、材料価格等が暴騰するなど、完成まで長期を要する大規模公共工事にとっては、先例のないほど困難な時期での工事であった。このため、二度にわたって工期の繰り延べがあった。この結果、当初7か年の計画であったものが、その後10カ年へ、更に11カ年計画へと変更された。にもかかわらず、総工費は予算額(217万2,150円:7カ年計画時、218万8,618円:10カ年計画時、220万509円:11カ年計画時)に対し、最終決算額218万9,066円(11カ年)と既定範囲内におさまっている。広井が工学上の根拠に基づいて、時代の変動に飲み込まれないように、常に事業を総合的に把握し、指導した結果であった。予算枠の厳守は、公共事業を担当するシビルエンジニアーに必須の資質の一つに挙げられよう。
2023.07.13
工学博士 広井勇伝51-57 技術者として博士がこの工事に尽した功績は、以上述べたところによって想像できるであろうが、博士はまた経理上にも深く心を用い、年度割予算額の増減及び物価の騰貴等に伴って、事業経営の困難一方ならぬものがあったにもかかわらず、常に臨機応変の処置を取って工事の進行を円満にし、経費支払の確実敏速を図って購入物品の代価を低廉ならしめ、巧みに廃材古物を利用して費用を節約し、またセメント業者と特約して常に市価以内の低価をもってこれを供給せしめる等、諸般の設備においても、あるいは工事そのものについても、すべて質素実用を旨として、なんら虚飾にわたるような事はなかった。その他博士の功績はこれを挙げて一々ここに数うる事は到底不可能に類するものがある。「博士の謙譲なる、責はことごとくこれを己に負いて功はすなわち挙げて所員に帰し、へいぜい推奨至らざるところなく、既にしてそのこ工を竣るや確然防波堤の今日ある。一に所員一同のきっきょ精励の致すところに外ならずと称して毫も疑うところなく、自ら視る事かつて些かの功労なきもののごとし。名聞に淡く功利に冷ややかにして、その学に忠にその職に誠に、悠々としてその分に安んじその事を楽しむものに非ずんば、いずくんぞよくかくのごとくなるを得んや。今や居然たる東洋無比の一大防波堤は、静かに小樽築頭に横たわりて、永久に護港の守神ならんとす。世人多くはその外形を見てその内容を察せず、いたづらに波上一抹の長 よく激浪巨濤と健闘するの壮観を知りて、しこうして博士の雲髪ために半ば化して白髪となりしを知らず、空しく思へらく、防波堤は偉なり学問の力は驚くべしと、まことに深く憾むべきにあらずや云々。 右の文章は、時の北海道庁土木部長西村保吉氏の、『小樽築港に関する広井工学博士の功労一班』と題するものの末節であるが、博士の業績には誠にかくのごときものがあった。 当時この築港工事にセメントを供給していたのは浅野総一郎氏であったが、氏は工事の実状を視察しようとして朝早く現場に出て見ると、博士は毎朝、既に作業服に身を固めて自らショベルを取り、セメントや砂を配合して水で練っているので、『この博士なればこそこの難工事も事なく運ばれるのだ』と感嘆することを常としたという。 また博士は自ら率先して難に当り、常に責任をもって事を処理した。ある夜暴風突発して堤上に置かれた起重機の運命はほとんど絶望とも思われた時、博士は黒暗々たる闇夜、押し寄せる激浪を物ともせず、部下を督励して堤上にたどりつき、多額の国費を投じて造った起重機を、危機一髪の間に救うことができたという話は、博士を知るほどの何人もが口にするところであるが、しかもそれはたまたま表面に現れた一挿話に過ぎない。この時、博士の手には短銃が握られていたというが、それは防波堤が万一破壊の場合の堅き覚悟と知られた。博士は生前当時を追想して、『美談でもなくまた自慢話にもならぬ事なれど』と謙遜して、左の一文を雑誌工事画報に寄せているが、その自責的態度と崇高なる信念は、ただに技術界のみならず、またもって一世の師表と仰ぐに足るものと信ずる。(再掲)「自分はかつて北海道庁に在職して小樽築港に従事したるものにて、同工事は自分等が時の長官、北垣国道に施設の必要を説き、同氏も見る所あって計画されたものなるが、当時築港なるものはいささか事珍しく、先に野蒜(のびる)において失敗し、亦軽微ながら横浜港にありても蹉跌(さてつ)を来たしたる後にて、政府においては非常に危ぶみて容易にこれを受け容れなかったところ、長官及び有志者の百万尽力した結果により、井上〔馨〕内務大臣の視察するところとなり、また古市(ふるいち)技監の調査するありて200余万円の予算は議会を通過し、明治30年に起工の運びに至ったのである。 当時経験に乏しき自分の苦心は、一応尋常の事ではなく、漸く工事の進捗を見るに及ぶや、〔明治〕32年12月に至り防波堤の延長200間に達したる頃、一日にわかに暴風の襲うところとなりたちまち怒涛澎湃(ほうはい)として起こり、2、3時間の間に何もかも破壊して洗い去られ、残りたるものは出来上がった防波堤と、その上にありたる積畳機〔せつじょうき:クレーン〕のみとなり、これらもますます加わる風浪に耐え難き情勢に至り、多少の応急作業の外施す術なく、激浪のなすがままにまかし、傍観するうちに日は暮れ、何も見えなくなり、ただ遠雷の如き波撃の音を聞くのみであった。 ここにおいて自分は万事休し、居室に戻り思案に暮れ、心中すこぶる穏やかならなかった。もし既成の工事にして全然破壊せらるるに至らば、何の面目あってかその顛末を報告して予算の追加を請うべきやを苦慮し、この時ばかりは真に当惑を極め、事ここに至れば断然一命を以て自分が不明の至せるを謝す外なしと思い定めるや、心も静まり、横臥して古来工事失敗の責任を一身に負いたる人々の事などを回顧し、自分もやがてその数に入らねばならぬものかと思い、ただただ天佑を祈るその中に、いつしか終日の労のため仮眠するに至り、夜半過ぎて目を覚ましいよいよ時来れるかと気付きたるとき、意外にも波音大いに静まりおり、海上ようよう平穏に帰したるにより、兎に角現場に赴かんとし、外に出れば雪は降りいたるも風は大いに凪(な)ぎ、防波堤上に至れば、打ち越す余波のためその上を歩行する事は得ざりしかど、その存在はこれを認むることができ、その刹那の嬉しさは今に忘れ得ない。また貴重なる積畳機も残りおり、自分はその時天を仰いで神に感謝した。 翌朝に至り被害の程度を検したるに、今一度の強き波撃を受けたらんには、堤は破壊せられ、積畳機は墜落したるべき状態にありたる事歴然として現れ、その折自分の胸中には千万無量の感が往来した。以来寒燠(かんおう)殆んど30年、激浪の襲来を受けたる事、幾回なるやも知らざれども、以上の経験により得たる多大の教訓は堤をして今日に至らしめたのである」(雑誌『工事画報』追想文)生前かつて自分の功名はいうまでもなく、その経験した苦心をすら発表することを潔しとしなかった博士が、20幾星霜の後、自ら筆をとってこの文を草したのである。博士が当時苦心のほど、もって想い知ることができるであろう。この工事に対する博士の献身的な労力と苦心とは、到底筆紙の表現を許される範囲ではない。 なおこの工事について特筆せねばならないのは、コンクリート製造に当って火山灰を利用したことである。 海中工事に使用するセメントに適質の火山灰を混入する時は、建造物に耐久性を付与するのに有効なばかりでなく、費用を節約する利益のある事は、かつてドイツの碩学ミハエリスが唱道し、31年中プロシャ政府がシルト島において施した試験の結果によって証明されたところで、我が国においても理論上の問題としてその効用を認めまたは実用に供せんと試みるものはなかった。 学術の研究をもって生命とした博士は、当時における築港工事として我が国空前の大事業を統括し、工事施工上、あるいは事務の処理上、既に述べたような繁忙の中にありながら、研究は研究としてまた一日も怠ることなく、前後数回にわたって試験を施した結果、海水工事に効果の大なる事を確信し、35年に至って火山灰をセメントに混入することを断行した。その結果は、予期の如くコンクリートの強度並びに耐久性を著しく高め、ことに火山灰は小樽港近接のところから得られたので工費の点においても少なからざる節減をなし得たのである。 工学者としての博士の面目は、自らの研究を単なる研究の程度に止め置かず、断乎としてこれを実行に移すところにかかっている。 博士はまた所員を採用するに、まずその人の『人間』としての力を見た。しかして人物の長短を見分けてその長所を適用した。それ故従業員は技師を初め人夫に至るまで、各自がその担任箇所に全力を尽くすことを喜んだ。もし短所のある人夫があってもいつのまにか博士に心服し、博士の言を神聖視して、親のごとくに服従し、どんな難しい事を命ぜられても一言の不平もなく、ただ命に従うという有様だった。 かく小樽港において大成功を得たものは、博士の綿密なる科学的研究の成果にまつもの多い事はいうまでもないが、またその全生涯を通じて現れた。博士の牢固たる信念と英断の気風があいまって始めてこれをかちえたというべきである。 小樽港頭4250余尺の長見は、博士が苦心と献身的努力の記念として千古にわたって港内の平穏を保持するとともに、偉大なる博士の功績もまたこれによって永遠に伝えられるであろう。
2023.07.13
嘉南大圳建設工事簡介日本が残した水利大遺産呉 明韞 著 序文 1921年に起工し、1930年に完成した嘉南大圳烏山頭堰堤は当時アジア第1を誇った大水利事業の目玉であった。この工事は日本植民地時代に農産物の増産を目的とした国営工事で、勅任技師八田與一(YOICHI HATTA)によって成し遂げられた。灌漑面積は嘉義・台南を中心に15万ヘクタール及び、当時の台南州下の平原を網羅した。水源は曽文渓系統と濁水渓系統とに分かれていて、曽文渓の支流である官田渓を締め切ったのが、烏山頭ダム(アメリカの土木学会ではHATTA DAMと名付けている)で、濁水渓系統は現在の雲林内郷で直接取り入れた。 嘉南平原は昔から確かな水源がなく、運を天に任せた日和見の農業なので、田畑を「看天田」と称していたほどであった。日清戦争の結果、台湾を手に入れた日本は台湾の米・砂糖・木材に大きな期待を掛けていた。 今まで自然産業であった木材は人跡未踏の山奥にあったので、阿里山などの三大林場に早くも鉄道を敷設したが、農産物の獲得には大規模な水利事業の投資が必要だったのである。ここに嘉南大圳水利事業が企画された。 一般に水利事業といえば灌漑だけを考えられがちであるが、田畑が水浸しになっては作物も全滅するので、排水問題も並行して考えなくてはならない。こうしてこの広大な区域に灌漑。排水路がクモの巣のように張り巡らされたのである。そして灌漑は3年1期作(3年に1期だけ水稲作で他は雑作とした)、排水は3日排水の原則で企画された。雑作は水稲灌漑の時期以外に雑作灌漑・サトウキビ灌漑を施した。排水でも即日排水にすれば大きな排水路を必要とするが、3日排水の断面で十分に間にあってきた。このように灌漑・排水路共に水路断面を縮小して工事費と用地費の節約が計られた。この「3年輪作」の灌漑方式は受益面積が公平に恩恵にあづかれるばかりでなく、連作による地力の低下などを防止できる良い結果を生んで、今なお守られている。嘉南大圳の歴史はほぼ4分の3世紀<本書の発行は1998年>であるが、この工事に関係した者はほとんど日本人で、日本の敗戦に伴って建設当時の資料も散逸し、当時の工事関係者も幽明境を異にしてしまったので、概況をまとめることが困難であった。筆者は永年の間、しばしば日本を訪問して資料を収集し、このほど出版して日の目を見るに至った。本書は写真に重点を置いて、カッコ内のカタカナは台湾語のなかのミンナン語読みで表記した。今でもこの工事は人工によって完成されたと誤解する方もいるが、写真のとおり当時はアメリカから最新鋭の土木機械に多くの人々が目を見張ったが、筆者が生まれる前からこの工事に使われていたので驚嘆に値する。日本時代は搾取された時代ではあったが、日本は敗戦によって元の子も失って膨大な水利遺産を残して帰った。この事業は今も農産物も増産に拍車を掛け、相変わらず機能を発揮し続けている。 しかし、この業績は「蓬莱米の父」と言われる磯 永吉(NAGAYOSI ISO)博士ほどに台湾では知られていないばかりではなく日本でも余り知られていないのが遺憾である。でも当時東洋一の大水利事業を完成して、不毛の平原を台湾一の穀物の宝庫に変えた功績は、前者に勝るものであり、永久不滅である。現在なおも嘉南(嘉義・台南・雲林県)の農民に父のように慕われている八田技師の名は永遠に残るであろう。 八田技師の業績を知ると不思議な気持ちになる。100年を経て、現地の農民しかも他国の民衆に敬愛される事業に何かしらノブレス(高貴さ)を感ずるのである。これは何に由来するのか?最初は「報徳」に由来するのかとも思った。鈴木藤三郎の報徳全書を奉納したときの願書を読むとそうしたノブレス(高貴さ)を有している。ところが、八田與一のいくつかの評伝を読んで、共通するのが、東京帝国大学工学部時代の恩師広井勇の影響の指摘である。そこで札幌農学校で内村鑑三、新渡戸稲造と同期で信仰を共にした広井勇という人の生涯を調べてみると、八田ら多くの教え子に「工学的良心」「民衆のための工学」を植えつけたように思われてきて、その根源はニューイングランドのピューリタニズムに由来するように考えられ、本家のイギリスにおけるピューリタン革命を実現させたピューリタニズムにまで根本にさかのぼって調べている次第である。 「山に向かいて目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯」156-158ページ「自分はかつて北海道庁に在職して小樽築港に従事したるものにて、同工事は自分等が時の長官、北垣国道に施設の必要を説き、同氏も見る所あって計画されたものなるが、当時築港なるものはいささか事珍しく、先に野蒜(のびる)において失敗し、亦軽微ながら横浜港にありても蹉跌(さてつ)を来たしたる後にて、政府においては非常に危ぶみて容易にこれを受け容れなかったところ、長官及び有志者の百万尽力した結果により、井上〔馨〕内務大臣の視察するところとなり、また古市(ふるいち)技監の調査するありて200余万円の予算は議会を通過し、明治30年に起工の運びに至ったのである。 当時経験に乏しき自分の苦心は、一応尋常の事ではなく、漸く工事の進捗を見るに及ぶや、〔明治〕32年12月に至り防波堤の延長200間に達したる頃、一日にわかに暴風の襲うところとなりたちまち怒涛澎湃(ほうはい)として起こり、2、3時間の間に何もかも破壊して洗い去られ、残りたるものは出来上がった防波堤と、その上にありたる積畳機〔せつじょうき:クレーン〕のみとなり、これらもますます加わる風浪に耐え難き情勢に至り、多少の応急作業の外施す術なく、激浪のなすがままにまかし、傍観するうちに日は暮れ、何も見えなくなり、ただ遠雷の如き波撃の音を聞くのみであった。 ここにおいて自分は万事休し、居室に戻り思案に暮れ、心中すこぶる穏やかならなかった。もし既成の工事にして全然破壊せらるるに至らば、何の面目あってかその顛末を報告して予算の追加を請うべきやを苦慮し、この時ばかりは真に当惑を極め、事ここに至れば断然一命を以て自分が不明の至せるを謝す外なしと思い定めるや、心も静まり、横臥して古来工事失敗の責任を一身に負いたる人々の事などを回顧し、自分もやがてその数に入らねばならぬものかと思い、ただただ天佑を祈るその中に、いつしか終日の労のため仮眠するに至り、夜半過ぎて目を覚ましいよいよ時来れるかと気付きたるとき、意外にも波音大いに静まりおり、海上ようよう平穏に帰したるにより、兎に角現場に赴かんとし、外に出れば雪は降りいたるも風は大いに凪(な)ぎ、防波堤上に至れば、打ち越す余波のためその上を歩行する事は得ざりしかど、その存在はこれを認むることができ、その刹那の嬉しさは今に忘れ得ない。また貴重なる積畳機も残りおり、自分はその時天を仰いで神に感謝した。 翌朝に至り被害の程度を検したるに、今一度の強き波撃を受けたらんには、堤は破壊せられ、積畳機は墜落したるべき状態にありたる事歴然として現れ、その折自分の胸中には千万無量の感が往来した。以来寒燠(かんおう)殆んど30年、激浪の襲来を受けたる事、幾回なるやも知らざれども、以上の経験により得たる多大の教訓は堤をして今日に至らしめたのである」(雑誌『工事画報』追想文)
2023.07.13
広井勇の授業 広井勇伝に、札幌農学校、東京帝国大学時代の授業についての逸話がいくつか載っている。○明治二十三年頃のことであった。ある日、ドイツの艦隊が小樽に寄港し司令長官が幕僚数名を随えて札幌へ来て、北海道庁を訪問した。適当な通訳がいない。北海道庁の永山武四郎長官は、使いを札幌農学校に走らせ広井教授を呼ぶことにした。当時広井はドイツ留学から帰朝したばかりの青年教授で風貌態度も立派だった。永山長官からの急使となった書記はちょうど建築学の授業中であった広井の教室に飛び込んで、長官からの命令を伝えた。『今、授業中です』と広井はただ一言答えたまま、平然と授業を続けた。その態度に面食らった書記は電話室へ行って道庁へ電話をかけた。そして教室へ来て『ドイツ艦隊司令長官が来訪したが、通弁がなくて困っている。長官の依頼だから、すぐに道庁に来てもらいたい』と繰り返した。しかし広井は取り合わず、『今、授業中です』と力を入れて繰り返した。『それは分かっています。しかし長官からのご命令です。それでもよろしいのですか』『行けません』広井は力強く言い放って、二人の学生に向かって講義を続けた。書記はついに憤然として出ていった。その時の二人の学生は十川嘉太郎、小野常治の両氏で、難しい問題に悩まされていたので、早く教授が書記と共に道庁へ行ってくれればいいがと思っていた。授業は続けられ、学生は少なからず失望したが、広井教授に対する尊敬の念はますます高まった。(伝記p.126)○東京帝国大学教授時代にも、授業を自らの使命とし、学生に、ジェントルマンであれ(Be gentleman!)というクラーク以来の札幌農学校精神を教えている。「東京帝国大学における博士の授業時間は、たいてい朝の九時から十時までで、九時十分か十五分くらいから講義を始めた。学年の始め、いまだ博士の授業に馴れない学生中には、時々遅刻する者があった。一人二人の遅刻者があると大変なことになった。博士は真赤な、そして恐い顔をして、その日の講義は全然聴き取れないものとなってしまい、いつもより講義を早く切り上げて、さっさと教授室に引き上げてしまう。しばらくして級の総代は呼びつけられ、『教室は寄席ではない、学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講すべきものである』旨を一同に伝えよと言い渡される。このような時にも博士は直接一般の学生に小言を言わなかった。学生はこうした経験の後は、どうしても紳士的の行動をしなければならなくなって、その授業時間には、いつもより早く、腰掛に着いて、静かに博士を迎えるようになるのが常であった」(伝記p.59)「ある時、博士が教壇に立つと、講義机の上に制帽を置き放しにしたものがあった。博士は黙ってこれを鷲づかみにし、いきなり壁にたたきつけた」(伝記p.59) ○広井は製図が得意だった。札幌農学校教授時代、広井が自分の控え室で北海道鉄道の標準鉄桁を設計したが、写布に直接描き、烏口やコムパスの使い方が迅速で巧妙を極めていた。学生等が傍らで見ていると、広井は「このくらい早く書かなきゃアメリカ辺りでは、ドラフトメンとしてパンには有りつけない。計算でも間違ったが最後一日二日の仕事は全く水に流されるのだ。エンジニアとなるには、まずドラフトメンを卒業しなければならない」と独り言のようにつぶやきながら学生に諭した。(伝記p.146)。当時の北海道白仁武参事官は会う人ごとに「広井という男は恐ろしく製図の早い男だ」と言っていた。広井は学生にも製図に重きを置くようにさせた。しかしそれは実質的な製図で、飾り気等に意を用いることを好まなかった。輪郭などを丁寧に書いていると「乞食(こじき)が表付の下駄(げた)を履いているようだ」と皮肉を浴びせたり、余りギリギリに計算された華奢な橋梁の図面等を見ると「こんな橋では烏画止まっても墜(お)ちるぞ」と戒めた。「エンジニアには墜ちる橋をかけるのが難しいのだ」と一流の警句を吐いた。(伝記p.146)💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.13
工学博士廣井勇傳その4六 技術者としての旅立ち 博士等の札幌農学校を卒業するや、同期生一同は、明治十四年七月二十九日付をもって、開拓使御用掛(準判任官月俸三十円)を申し付けられた。博士は最初、民事局勤務の命を受けて、三、四か月の間は、同局の勧業課に勤めていたが、同年十一月二十一日、煤田開採事務係を命ぜられ、鉄路科勤務となって、技術界に身を立てようとした年来の希望が達せられ、幌内鉄道建設工事の一部を担当することになった。 幌内鉄道は、北海道における最初の鉄道で明治十三年一月起工され、幾多の困難に遭遇したにかかわらず、同年十一月末、その一部を竣功した。ついで十五年十一月十三日、手宮幌内間五十六マイル三テーン〔一マイルは約一六〇九メートル、一チェーンは約二〇メートル〕を開通したこれは北海道開拓史上顕著な鉄道である。 博士が学窓を出でて実地に臨み、最初に手に掛けたものはこの鉄道の一小橋梁の建設であった。博士はこれに智能を傾注した。学理の上には十分の自信があっても、架設の実際に臨みてはある種の不安を感ぜざるを得なかった。それのみならず工事当事者として重大な責任を思うては夜間就眠の暇さえ念頭を去らしむることができなかった。 しかしながら、努力の効果はついに空しからず、まして博士の真摯なる努力は直ちに報いられ、首尾よく処女工事を竣成せしめる事が出来た。「我が造った橋、それが実際の荷重に堪えるであろうか」若き技術者の胸を刺すこの憂慮は技術家ならでは想像の及ばぬところである。いよいよ列車の試運転が行われようとした時、博士は顔色蒼然として四肢震うの有様であった。技術に欠点あるを憂えたのではない。万一の事あらば責任をいかにすべきかをおもんばかったからである。 やがて列車は驀(まっしぐ)らに走り去った。博士の技術を信頼するがごとくに、成功を祝福するがごとくに、前途を自信づけるがごとくに、・・・・・・幌内鉄道工事の主脳技術者は、我が国における鉄道の開拓者ともいうべき、松本荘一郎、平井晴二郎、ジョセフ・クロフォードの三氏であったが、真摯にして勤勉なる博士は、よくこれらの人々の信を得ることができた。 松本荘一郎氏は、当時開拓使庁の煤田開採事務副長であったが、広井の技量と堅実な精神とを認め激励した。広井がその門出において松本氏のごとき有力なる先覚者の知遇を得たことは、博士の前途をして赫々(かくかく)たる光輝あらしめ、後年世界的工学者として盛名を馳するに至らしめた大きな力の一つであったであろう。 その頃、広井はある家の二階を借りて自炊生活をしていたが、常に勉強を怠らず、片手にうちわをもって火をあおりながら、片手には書物をひろげて読書に熱中し、物の焦げ付くをも知らないというふうで、いつも満足のものを食うことができなかった。飯をたくに、火鉢の上に土鍋をかけて、研がない米を水と一緒に鍋に入れ、沸騰するにしたがってこれをかき回すという具合だった。できあがったものは粥とも飯ともつかないものであった。しかも博士はそれを常食として、少しも意に介さなかった。また副食などはたいてい安価な缶詰類で間に合わせていた。 勉強のために寸暇を惜しみながら、なぜこの不自由な自炊生活に甘んじていたか、その真意を解しなかった友人たちはただその辛抱強さに驚き、かつは平気な顔を怪(あや)しんだ。💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.12
工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 5 札幌農学校時代当時、政府の方針は、維新の直後、新興日本の経綸を委(ゆだ)ぬべき人材の養成にあって学問奨励のために、盛んに官費制度の学校を設置した。博士は既に工部大学に通学しながら、なおこれらの官費学校を片っぱしからたずねて試験を受けた。そして受けた試験には、ほとんど全部これに通過した。けれども、博士は規定の年齢に達していなかったために、いつも入学を許されなかった。当時、博士は陸軍士官学校の入学試験にまで及第した。(略)たまたま明治十年(一八七七)七月、札幌農学校は、工部大学の予科並びに東京英語学校の上級生中から、官費生を募集した。これは真に絶好の機会であった。博士は直ちにこれに応じ、入学を許可された。よって片岡氏に年来の厚遇を謝し、同邸を去りて暫らく芝増上寺内の開拓使官舎に移った。同時に選ばれた札幌農学校の第二期生となった人々は、内村鑑三、太田(新渡戸)稲造、宮部金吾、岩崎行親、高木玉太郎、足立元太郎、藤田九三郎、佐久間信恭、南鷹次郎の諸氏で、博士は最も年少で十六歳だった。 この試験において博士は年齢一つを詐称した。幾度か年齢のために入学を許されなかった博士は、恐らく生涯唯一の嘘を言わなければならなかったのだろう。後年よく微笑を湛えつつ、この事を友人に語るのであった。 札幌農学校は、今の北海道大学の前身である。当時の北海道開拓使長官は黒田清隆氏であった。氏は蝦夷(えぞ)といわれた北海道を開発せんがためには、まず有為の人材を養成するにありとし、明治五年四月、学校を芝の増上寺境内に設けた。当時、維新後、日浅く、いわゆる豪傑をてらうの風あまねく、学生教師ともに挙動粗野にして開拓の趣旨にそわないので、明治八年八月これを札幌に移して札幌農学校と称し、学生としては比較的年少者のみを選抜した。ここにおいて黒田長官は大いに欧米の文化を移さんため、適当な教授を外国にもとめんと欲し、駐米全権公使吉田清成氏にこれが物色を依頼した。吉田氏は更にマサセッチュツ州アマスト農学校長コロネル・ウィリアムス・クラーク博士に諮(はか)った。クラーク氏はこの要求を聞いて、自ら決するところあるもののごとく、自ら日本に渡りこれに当たるべきことを申し出て、数名の教授を伴い札幌に来着した。(略) 札幌農学校はクラーク博士を迎えて第一世の校長とし、すべてマサチューセッツ州立農科大学の規模にならい、卒業生には農学士の称号を付与する事となった。クラーク氏は従来の複雑な学生心得を撤廃して単に Be Gentleman! の一句をもって、校則とし、学生の良心をして自発的に働かしめるような方法を採った。「紳士たれ!紳士たる者は、申し合わせを忠実に守らなければならぬ」 これがクラーク氏の教育の信条であった。今まで乱暴を極めた学生は、自ら紳士をもって任じなくてはならなくなった。遅刻は紳士の恥辱である。自然門限に遅れる学生もいなくなった。たまたま遅刻するものも必ず罪を門番に謝するようになった。農学校の門塀は低かったが、これを飛び越えて入るような者も全くなくなった。 クラーク氏は職業的の宗教家ではなく、真のピューリタンであった。毎朝授業開始に先立ちて聖書の講義をした。暫くして黒田長官は学校を訪れた。そして学生の態度が全然一変せるを見て少なからず驚いた。そしてそれがキリスト教的指導の結果なるを知って更に感嘆し、ついにクラーク氏にその布教を許した。クラーク氏はかねて用意したトランクを取り寄せ、これを開いた。中はいっぱいの聖書であった。しかも一々学生の名が記されてあった。氏はこれを一人一人の学生の手に渡し、各(おのおの)自ら、この書の中からキリスト教の真髄を会得するように諭した。 クラーク氏の在職はわずか八か月に過ぎなかったが、その間によく学生を教導し、氏の感化によって学生はいずれも熱心な教徒となり、あたかもキリスト教の学校でもあるかのごとき観を呈したほどであった。 クラーク校長は明治十年四月 Boys be ambitious! の有名な辞を残して帰国した。(略)広井博士等が入学した時は、クラーク氏はすでに去った後であった。氏の精神は、第一期生、佐藤昌介、大島正健等の諸氏によって継承され、博士等は間接にそのキリスト教的感化を受けたのであった。 明治十一年六月二日、博士は内村、宮部、新渡戸、高木、藤田、足立の同級諸氏と共に、米国宣教師エム・シー・ハリス(M.C.Harris)氏(函館メソジスト教会宣教師)からキリスト教の洗礼を受けた。これがやがて博士が全生涯を通じてよって立った信仰の礎(いしずえ)となったのである。 当時札幌農学校では、学生は文学でも、科学でも工学でも外交でも行政でも、各自好むところにしたがって、思い思いに学習する事が、自由であると言ってもよいくらいであった。したがってその卒業生は各方面にわたって、それぞれ社会に貢献している。たとえば、佐藤昌介氏は北海道帝国大学総長に、志賀重タカ氏は地理学に、新渡戸稲造氏は法学並びに農学に、佐久間信恭氏は英文学に、宮部金吾氏は植物学に、渡瀬寅次郎は動物学に、内村鑑三氏は宗教家に、早川鉄治氏は政治家となり、いずれも一方の権威である。これはクラーク氏の精神的感化の然らしめたところで、氏の遺徳と言うべきである。博士はこれらの人々と終生無二の交友があったのであるが、その中では唯一の土木工学者であった。土木工学を学ぶ博士にとって最も好都合であった事は、教師の中にアメリカの土木技術者ウィリアム・ホイラー氏のあったことである。同氏はクラーク氏の後を受けて教頭となり、土木工学、数学等を担任していた。その在職年限は三年半であったが、開拓使の嘱託を受けて、道路及び鉄道の測量、設計等を監督した。札幌豊平橋は北海道における最初のトラス・ブリッジで同氏の設計であり、また札幌における気象観測は同氏によりはじめられたものである。 博士は同級中の最年少者であったが、正義のためには師であれ、先輩であれ、教師であれ、先輩であれ、また友人後輩を問わず、忌憚なく直言した。ある朝、生理学の外国教師が講義室に入り、卓上にその引出しが載せられ、しかもその内容が散乱されてあるのを見て、直ちに学生のいたずらと誤認し、非常に怒り、「かかる行為は決して紳士のなすべきことにあらず、予に対して陳謝すべし」と言うや、博士は「一体、事の真相を調べずして、他人を非難するのを、あなたの国では紳士的と申されますか。まずよくお調べください。」と言い放った。 教師は自分がその引出しの修理を頼んでおいたことを思い出し、希望どおりの修繕が行われていたのとを見て、始めて大工の仕業と悟り、学生に対しその過ちを謝した。以来同級生は博士に対して少なからぬ敬意を払うようになった。明治14年7月9日に農学校を卒業して農学士となった。卒業生の中から選ばれて広井は「最高なる道徳の準備は北海道農家に緊要なり」という演題で卒業演説をした。 博士等は明治十四年七月九日に農学校を卒業して農学士となった。この頃の卒業式には卒業演説というものがあって、卒業生の中から選抜された幾人かが演説をしたものである。博士も選ばれた一人で『最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり』という演題のもとに、キリスト教的道徳の必要なことを力説した。当時博士の信仰がいかに熱烈であったかは、これによりても推測されるのである。しかし、これが恐らく博士が公衆の前で信仰に関して説いた最後であったろう。以後信仰については全く沈黙実行の人となってしまった。(略)〔札幌独立キリスト教会の創立事情(BBAp.44)〕💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.11
工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 四 片岡家の書生となる 片岡氏に伴われて上京した広井博士は、直ちに書生として同家に寄寓(きぐう)し、同時に英語、数学、漢学等の私塾に通うことができた。東京へ出て勉強することを念願としていた幼い博士の目的は、その一部が達成せられた。最初博士は非常な喜びと意気込とをもって勉学に精進した。 けれども、博士の感じたこの喜びははかなくも、瞬間的な喜悦に過ぎなかった。(略)この頃、片岡家には博士より一つ二つ年上の令息があった。博士はその令息のために、時には勉強の相手を勤め、また時には遊びの相手になっていたが、非常な腕白坊主で、乱暴な遊びを強(し)い、無理な命令を下して博士を困らせていた。けれども博士が最も悲しく思った事は、寸陰を惜しむ勉学の時間の大部分を少年のために奪われてしまうことであった。しかしこれはどうする事もできなかった。一方は。多くの女中下男にかしづかれる大家の令息であり、一方は、よし主人の親戚に当るとはいえ、単なる食客に過ぎないのである。ある時、令息のために、博士は掌(てのひら)に傷つけられた事もあった。けれども、密かに博士に同情を寄せていた下男すら、これを主人に訴えて、博士をその暴威から救おうとはしなかった。この傷あとは修生ついに消えないで 残っていたが、博士はその当時もただかりそめの戯れ事で自ら傷いたものと言い、決してその令息の仕業と言った事がなかった。あまりにその少年に悩まされた博士は、時には納屋に入って三日も出て来ない事すらあった。三日間も食を断って、ひたすらに勉学の時を守るのであった。(略)遂に博士は日夜怪しき高熱に悩まされるに至った。医者は診察の結果、腸チブスと診断した。けれども、医術は極めて幼稚の時代であり、かつ食客の身であった。病は恐るべき腸チブスであった。独り寂しく病床に伸吟する十一歳の少年であった。博士は絶えず母を呼び、勉学のことを譫言(うわごと)に口走っていた。 この頃、片岡家に出入りした外国商人にキンドンという人があった。博士は、片岡家の玄関番であったから、自然キンドン氏とはよく顔を合わせ、やがて親しい言葉を交わす間となった。キンドン氏は乱暴者の多い当事にあって、博士の真面目で鷹揚な態度を深く愛した。ある日、彼が片岡家を訪ねた時、そこに博士が顔を見せないので不審に思い、邸(やしき)のものに尋ね、始めて博士が腸チブスにかかって重態との事を知った。キンドン氏は非常に驚いた。 彼は早速博士を自宅に引き取り、病める小さな友人のために夫婦して神に祈るのであった。キンドン氏夫妻は進歩せる西洋の医術にのっとり、専門の医者にもまさる手当を施した。親身も及ばぬほど、親切をもって薬を与え、あるいはスープその他の滋養物を与える等、その介抱は真に到れり尽くせるものであった。これが少年を感激せしめないでおかれようか。それは人間的な愛より、もっと神に近いものと感ぜられたであろう。博士はそこに崇高な何ものかを感ぜずにはいられなかった。キンドン氏の献身的な介抱によって、博士は日に日に快方に向かった。ついに完全に病魔の手から逃れることができたのである。キンドン夫妻の厚い情は、博士の肉体を救ったばかりでなく、その精神に絶大な力を与えた。〔博士は晩年までキンドン氏の眠る横浜の墓地へ独り花を携えて墓参した。〕 博士はまず官費の学校に入学してその独立不羈(ふき)の道を求めんとし、明治七年三月、博士は勃々たる意気をもって、東京外国語学校の英語科下等第六級に入学した。語学に対する博士の素質は、既にこの頃から一頭地を抜いていたのであろう。この学校の入学試験は、かなり難しいものであったが、わずか十三歳の博士は優秀な成績で及第したのである。博士はここで宮部金吾氏等と知り合いになった。この英語科は、この年の十二月独立して東京英語学校となったが、博士は間もなく工部学校の予科へ転じた。博士が、工学界に転じた動機も恐らくこの時代ではなかったろうか。それは祖母によって語られた、野中兼山の物語もまたその遠因をなしていた事ではあろう。💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.10
工学博士廣井勇傳 抜粋【現代語表記】 前半 序【原文カタカナ】故東京帝国大学名誉教授正三位勲二等工学博士広井勇君昭和三年十月一日をもって薨去(こうきょ)せらる。 君、南海土佐の地に生まれ、年歯わずかに十一歳にして単身、笈(きゅう)を負うて東都に出て奮闘努力、蛍雪の苦を積むこと多年、終に札幌農学校に入り、その業を卒(おえ)るや、更に渡米の雄志を抱き苦辛経営、僅々二か年にしてここに遊学の資を蓄え、明治十六年をもって米国に渡り、河川・港湾・鉄道・橋梁等の実地を研究し、更にドイツ大学に入り、深く心を学理の研究に潜め、もってその得たるところを実地の経験に参照し、かたわら英仏諸国を巡歴し、常に智見をひろめ抱負を大にす。在留六年にして帰朝し、直ちに札幌農学校の教授に任ぜられ、ついで東京帝国大学の教授となり、子弟を薫陶すること三十余年、その平生己を持するや厳にして、人を待つや寛温厚の風貌篤実の資性よく同門の子弟をして愛慕、慈父のごとくならしむ。このごとく博士が高邁なる識見と豊富なる独創とは、しばしば築港・橋梁・河川・水力電気等の実地に現われ、さらにまた波浪・波力・橋梁力学・セメント等に関する四十有余種の著書となり、論文となり、日本土木工学の重鎮としてその雄名を欧米学者の間に賞揚せらるるに至れり。 君の忽焉(こつえん)として薨去せらるるや、君が生前の人格・識見・学殖を敬慕し、また多年の薫育の恩義を感謝する者相謀りて、故博士記念事業会を組織し、胸像建設・伝記編纂・工学辞典編集・奨学資金設定等の計画をたて、曩(さき)には博士の心血を注ぎて築港を完成せられたる小樽港に胸像の建設を終え、今またここに博士の偉業風格を追憶するの記念として伝記編纂の挙を完了せり。 想うに博士の卓越せる偉業功績は長えに不滅の好鑑を遺し、その勇剛なる気象崇高なる人格はよく後世の範たらしむるに足るというべし。ここに故博士を追懐し序文とす。 昭和五年九月 東京帝国大学名誉教授工学博士 中山秀三郎•第一章 広井博士の生涯(略出) 一 揺 籃 近代日本における土木工学界の先駆者にして、港湾及び橋梁技術の世界的権威たる、東京帝国大学名誉教授広井勇氏は、旧土佐藩士広井喜十郎氏の長男として、文久二年(一八六二)九月二日土佐国高岡郡佐川村に生れた。 広井家は代々土佐藩の主席家老深尾氏に仕えていたが、博士の曽祖父に当る遊冥翁は碩学の誉れ高い儒者として藩中に重きをなしていた。父の喜十郎氏は博士出生の当時、土佐藩の御納戸役を勤めていたが、生活は豊かではなかった。博士には春という姉が一人あった。 文久二年は、勤皇討幕の世論が沸騰し、徳川幕府の権勢もようやく衰えつつあった。この時、土佐藩では、勤王倒幕党の主領の武市瑞山が、同志の十三人を放って、中間派の吉田東洋をたおして以来、藩政は急転して武市派の手中に帰し、幾多の志士は、藩主山内容堂侯を説得して新撰組等と闘い、あるいは京都にあるいは江戸に、薩長の志士と提携して勤王に奔走し、積極的に徳川幕府の倒壊を企画しつつあった。 広井博士の父、喜十郎氏は、御納戸役を勤めていた関係上、直接これらの運動に参加して東奔西走することを許されなかったが、この時代における血気な若者として勤王に共鳴し倒幕を期待していたことはいうまでもない。そのためか、喜十郎氏は前後数回勤事差控を受けたということであった。 広井博士はかかる雰囲気の中に生い立った。 二 年少時代 明治維新後、一藩の御納戸役であった博士の父も、その小禄を召し上げられたので、悲惨なるものであったが、しかも不幸はこれに止まらなかった。明治三年十月九日、博士の父はこの窮乏の中に遂に不帰の客となったのである。父を亡くした博士父母の歎きは、外の見る眼も哀れなものであった。かよわき博士父母は、絶え間なき嵐の真只中に放り出されたも同様な惨苦を、今は何者の庇護もなく堪え忍ばねばならなかった。〔廣井数馬(幼名)は十一月三日家督を相続した。時に九歳だった〕 その年の暮、家老深尾氏が高知に移ることになったので、博士の家も佐川の屋敷を引き払って高知に移り住むことになった。高知在住当時の博士の家庭は、物質的に最も薄幸な境遇に置かれていた。禄を離れてからは、わずかな貯え物を売り払いつつその日その日を過していたが、もはや売り払うべき何物もなくなった。今は祖母や母の手内職より得る零細な金をもって、辛うじて糊口をしのぐより外にみちがなかった。数馬少年も家業の手伝いに大部分の時間を費さねばならなかった。その頃、博士の祖母は、木綿綿を糸につむぐことを内職としていたので、毎日綿からひきだされる糸がたまると、それを糸屋へ届けて鳥目〔銭〕に換えて来るのが博士の仕事になっていた。 ある日、博士が例のごとく数個の巻き糸を金に換えて帰る途中、子供心のあどけなきに近所の子供達と遊びに紛れ、ついにその大切な金を遺失してしまった。幼い博士は祖母の叱責を予期して心を痛めたが、いかんとも仕方がない。博士は草履(ぞうり)を脱いで空に放り投げた。もしそれが落ちて来て、表が出たら叱責を免れるものとの占いであった。落ちて来た草履はまさしく地上に表を現わした。博士はようやく安心を得て家に帰った。果たして博士の占いは的中した。祖母は「失うたものは仕方がない。以後気をつけなされ」とやさしく諭すだけであった。〔士族は明治維新後、商業や農業についたが、子弟の教育に心を尽くした。勇も寺小屋に通った〕 祖母は名をお勇といった。早く夫に死別して舅(しゅうと)の遊冥翁(ゆうみょうおう)に仕え、孝養至らざるなく、藩主より三度まで表彰された人である。遊冥翁は学者に多く見る気質の難しい人であったが、彼女は何事にも温順に仕え、かつて翁を怒らしめた事がなかった。この温順豊かな祖母の慈愛の中に育(はぐく)まれた博士は、たとえ早く父を失って貧窮の中に人となったとはいえ、なお幸福であったといわねばならぬ。彼女はその愛する孫である博士の傍らで糸紡ぎ車を繰(く)りながら、昔話や人物伝等を語り聞かせる事を常としていた。あるときは山内一豊の武勇伝に、あるときは深尾重光の奮戦談に、ある時は野中兼山の大事業(1)に耳を傾けた。特に広井家について最も傑出した人物として語らるる曽祖父遊冥翁の物語りに至っては、恐らくその一句をも聞きもらすまいと、一心に聞き入った事であろう。(1) 『築港』に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。 二 少年立志時代 明治五年(一八七二)の夏、当時東京において侍従の職にあった、片岡利和氏〔母寅子の義弟〕が、郷里土佐へ帰省した。上京遊学の志に燃えていた博士にとって、これは絶好の機会であった。博士はまず片岡氏を訪ね、学問修行の希望を述べた。『いかなる労務にも服することをいとわないから、東京に連れ行かれたい』と歎願するのであった。片岡氏は、初め博士の人となりに嘱目(しょくもく)しなかった。かつ東京遊学にはいまだ年が早すぎると思ってこれを許さなかったが、博士の熱心なる願いは、片岡氏を動かさずにはおかなかった。。片岡氏はついに母や祖母が許すなら連れて行こうと答えた。この返事を受け取った博士は、飛び立つほどの喜びをもって家に帰った。そして母に上京の許しを乞うた。母はただ一人の男の子ではあるが、父を失ってから二年とも経たない時だったので、博士を手放す気にはなれなかった。けれども小賢しい性質を持たない、むしろ鈍重とも見られた少年時代の博士には、その肉親にさえ、上京などのできる人物だとは思われなかった。『そんなに行きたいのなら、行ってごらん』と(略)博士は欣然として片岡氏に伴われ、懐かしの郷関(きょうかん)を後にして船上の人となった。時に博士は十一歳であった。💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、7月7日七夕の夜、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。山形県立図書館に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本は全5巻が蔵書となっている。I・Mさんも 県立図書館でこれらの本を借りて読まれたという。まことに、どうかこれらの本の一冊一冊が広く「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.08
広井博士を憶う(『父の抱負』抜粋 浅野総一郎(昭和三年、八十一歳の時)編者註:本編は工学博士広井勇氏のご逝去後、同氏の追悼録発刊に際し、寄稿されたる原文にして、これを記稿せしむべく口述されながら、眼に一杯の涙を湛えられしほど愛惜極まりなき風情あられしものであった。) 広井博士と私とは、交友ここに数十年、しかも相見たる初めより晩年に至るまで、その間少しも変ることなき誠心誠意の交わりであった。 広井博士を私が初めて知ったのは、明治三十年、小樽築港のかの難工事を博士が引き受けられた当時のことである。小樽港は水深五十三尺、冬は防波堤上一丈五尺の怒涛おどるという難工事中の難工事にして、これに使用するセメントは、特に浅野セメントに限るという博士のご指名を受けて、御用を被ることとなった関係上、私はこの難工事の実況を視察するため、たびたび小樽に出向いた。そうして越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察するのが例であった。現場監督の博士は、何時(いつ)お見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる。この光景を眺めて私は実に感に打たれた。この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ。博士は私を顧みてよくいわれた。「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」と極言しておられた。かくまで責任を明らかにされる博士のことであるか、したがって絶対に他のセメントを使用するを禁ぜられたことはいうまでもない。かくて博士苦心の小樽港はみごとに完成し、数十年の今日もなお、打ち寄する怒涛の中に厳として、港内の平穏を維持している。のみならず、北海道拓殖の大計画案は、この小樽港をもってその策源地とするに至ったというではないか。小樽港の真価は今後においてなお一層に発揚されるであろう。 これが縁故となって、博士監督の函館、留萌、釧路、稚内等、ほとんど北海全道の築港工事は、ことごとく浅野セメントが御用を果たすこととなり、自然博士と私との間をますます密接な関係に結びつけるに至ったのである。(略)実に想起すれば博士は惜しみても、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。「仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである。」と、実に良い覚悟の持ち主である。晩年、私が「大学はお辞めなさい。私もこれからは余り無理なお願いはせぬから、今後は十分体を大切になさらなければいけない」と再三再四申し上げたが、博士は頑としてうなずかれなかった。そうして毎日のように「生きている間は仕事をする。大学にいけなくなれば死ぬるほかはない」と主張されていた。「社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい」というのが博士の持論で、私はいつも尊敬すべき言葉として拝聴していた。博士は現代に珍しい硬骨漢にして、しかもその半面には豊かな情味を有する人であったから、その逸話美談も多かろうが、以上述べたごとく、人間生活に徹底した覚悟を持った人としての博士は、実に珍しい人傑だと思う。 博士と隔意なき交誼数十年に及んだ私としては、博士の死は到底慰め得られぬ名残を有し、想起するごとに感慨さらに新たなるを覚えるのである。廣井博士が浅野総一郎に「常に言われた」という言葉も身に沁みる。超高齢化社会に生きる私たちの指針にもなろうか。「仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである。」
2023.07.08
工学博士 広井勇伝 旧友広井勇君を葬るの辞 内村鑑三 ここに私の同窓同級の友、広井勇君は永き眠りに就かれました。私には君の遺骸に対し感慨無量であります。君はその妻に対し真実なる夫でありました。その子に対して慈愛深き父でありました。早くその父を失われて、その老いたる母に対して優しき従順なる子でありました。その友に対して信頼すべき友でありました。そしてその上にその職務に対して最も忠実なる人でありました。君は明治大正の日本が生んだ大土木工学者中の一人でありまして、事に築港の学と術とにおいては世界的権威でありました。君はいずれの方面より見ても偉大なる人でありました。私は君のごとき人を私の同窓同級の友として持ちしことを誇りとし、また君と浅からぬ友誼関係を一生涯を通して続け得しことを感謝します。私どもは今の日本人に人物欠乏せる事を常にいい聞かせられるのであります。まことに私どもの周囲を見て、私どもは詩人と共に嘆ぜざるを得ないのであります。神よ助け給え、そは神を敬う人は絶え、誠ある者は人の子の中より消失せたり。と。(詩12篇)然しながらすべてが暗黒または失望ではないのであります。神はいずれの時代においても真理の証明書を世に残し給います。そして広井君のごときがその顕著なる一人であります。広井君は大なる建築家でありましたが、単なる建築家ではありませんでした。工学といえば今の世にありては、最も割のよい、富を作るに最も便宜なる技術と思われますが、我が広井君にとりては、君の専門はかかる浅ましき目的を達するためのものではありませんでした。君はその生涯において大工事を数多成就されましたが、それがために君自身のために得しところは算うるに足りませんでした。君のこの住宅その物がこの事の善き証拠であります。この質素なる家は、小樽、釧路、函館、留萌、その他の大築港を施されし大土木学者の住み家とは思われません。自家の産を作るに最も好き機会を持たれた君は、その機会を自分のために用いませんでした。広井君ありて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりという事はできません。日本の工業界に広井勇君ありと聞いて、私どもはその将来につき大なる希望を懐いて可なりと信じます。清廉にして寡黙なりし君はその仕事に忠実なりしはいうまでもありません。君が札幌農学校を卒業して後、間もない事でありました。君君は君の先輩の指揮の下に、北海道鉄道の線路に当たるある小なる橋梁の建設を担任させられました。君は君の当時の工学的知識の全部を絞りて、その任に当たりましたそして漸くにして橋はなりて、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で於呂曽田と聞きました。私はその当時、君と宿所を同じうし、君より直ちにその実験を聞きまして、君の技術の最初の成功を祝したのであります。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります。『我が作りし橋、我が築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや』との深心配があったのであります。そしてその良心その心配が君の工学をして、世の多くの工学の上に一頭地を抽んでしめたのであります。君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります。私は広井君と同時にキリスト信者となりし名誉を有します。今よりちょど50年前、明治の10年6月2日北海道札幌において、私ども青年6人は米国宣教師エム・シー・ハリス氏よりパプテスマを受けました。広井君はその当時殊に信仰に燃えまして、日曜ごとの我らの小なる集会において君の教理研究の結果を我らに供して我らの信仰を助けられました。まことに一時は君自身が伝道師になられて、不肖私が今日居るべく余儀なくせられし地位に君が立たるるのではあるまいかと思われたくらいでありました。然し君にくだりし神の命は他にあったのであります。君は伝道師になられずして土木学者になられました。そして君は一日正直にその理由を私に語られました。『この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る』と。私は白状します。君のこの告白は私の若き心に強き感動を起こしました事を。私はその時思いました。『もし広井が伝道をやめるならば我らの仲間の中より誰かが起ってその任に当たらなければならない。自分は嫌である、さて如何にしたならばよろしかろう』と。そして後に至りて種々のやむを得ざる事情よりして、私が広井君に代わりて、キリストの福音を我が国に唱えざるに至り、その困難の多きを味うて、時には旧友を怨まざるを得ませんでした。然しながら神はすべてを知り給いました。広井君が工学に入りしは君にとりて最善の事でありまして、そしてまた私が伝道に入りしは私にとり最善の事でありました。覚るところ、広井君も私も青年時代に相互に対し誓いし誓約を守る事ができたのでありまして、感慨この上なしであります。かくして広井君は伝道を断念して宗教については沈黙の人となられました。君は滅多に教会にも出席せず、また人に対(むか)いて信仰を説かれませんでした。あるいは君の同僚にして君のクリスチャンたる事を知らない人もあるかも知れません。しかしながらです。一度は自身伝道師たらんと決心せられし広井君は終生信仰を棄つることはできませんでした。宗教は君の霊魂の深いところに堅い地位を占めました。君は常に人生の最大問題について考えられました。そして常に神とその独り子イエス・キリストを敬われました。かくして広井君はその心の奥底において工学博士であるよりもむしろ堅実なるクリスチャンでありました。私ども、君の友人はよくこのことを知っていました。そして君の生涯の友なる妻は誰よりもこの事を知っていました。君は私どもと一緒に50年前に学びし祈祷の習慣を死ぬまで忘れませんでした。君は毎朝毎夜、戸を閉じて、夜は灯を消して祈祷に従事しました。そして幾度となく祈祷の跡に涙の雫の残るのを見たと主婦の方は語られました。そしてこの隠れたる信仰、一時は福音の戦士たらんとまで決心せしこの神に対する信仰が、君が成し遂げしすべての大事業を深めたのであります。君は言葉をもってする伝道を断念して事業をもってする伝道を行われたのであります。小樽の港に出入りする船舶は、かの堅固なる防波堤によりて永久に君の信仰を見るのであります。広井勇君の信仰は私の信仰のごとくに書物には現れませんが、それにも遙かに勝りて、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。君は実に恵まれた人であります。 然しながら人は事業でありません。性格であります。人が何を為したかは神より賜りし才能によるのでありまして、彼自身でこれを定めるのでありません。西洋のことわざに『詩人は生まる』というのがありますが、詩人に限りません。工学者も伝道師も天然学者も政治家もすべて『生る』のであります。広井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したに過ぎません。然しながら、いかなる精神をもって才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。世の人は事業によって人を評しますが、神と神による人とは人によって事業を評します。広井君の事業より広井君自身が偉かったのであります。広井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学をもって現したのであります。工学は君に取り付帯性のものでありまして、君自身は君の工学以上でありました。そして我ら君の友人にとりては君の性格、君の人となり、すなわち君自身が君の工学または工業よりも遙かに貴かったのであります。そして今や君が君の肉体の衣を脱ぎ棄て、君の単純なる霊魂をもって神の聖前に立ちて、君は工学博士としてにあらず、単純謙遜なるキリスト信者として立ったのであります。君の貴きはこのところにあるとして、君の事業の貴きゆえんもまた、ここにあるのであります。事業のための事業にあらず。もちろん名を挙げ利をあさるための事業にあらず『この貧乏国の民に教えを伝うる前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。 広井君は今その意義ある生涯を終わりて世を去られました。君同級同信の友にして、藤田九三郎君第一にゆき、足立元太郎君と高木多摩太郎君とこれにつぎ、今また君がその後をおうてゆかれました。残るは宮部金吾君と新渡戸稲造君と私との3人であります。これを思うて淋しさにたえません。私ども50年前に高貴(ノーブル)なる生涯を誓うて共に学窓を出でました。そして神のお導きのもとにそれぞれその誓約に叛かざりし事を感謝します。為した事業の多少上下には差はありましたが、その賤しからざりし点においてはなおどの日本人中、何人にも譲らない積もりであります。そしてそれには理由があったのであります。私どもは聖書をもってイエスキリストの御父なる真の神を知るを得ました。これが私どもの性格の根底を築いてくれました。そしてこれに根ざされて私どもは世とともに移らざるを得たのであります。キリスト教のバイブルと人の手に触れざりし北海の天然と、それが広井君と私どもの友人とを育ててくれたのであります。【棺に向かいて】 広井君の霊に告げます。 僕はここに君の依嘱に従い、君の葬儀を行います。君は僕よりも一年の年少者でありて僕の葬儀を列すべきであって僕に葬儀を行わしむべきではありませんでした。しかし神の命です、僕は謹んで約束を履行します。ここに50年の友誼を謝します。しかし僕らの友誼はこれで終わるのではないと信じます。Over thereであります。河の彼方において継続せらるるのであります。我らはもちろん再会を期します。その時まで暫時サヨナラ。君の霊魂の我らの父なる神に在りて永久に安らかならん事を祈ります。(昭和3年10月4日告別式において朗読されたるもの)
2023.07.07
マキシモヴィッチと宮部金吾の往復書簡 高橋英樹(抄録) 「マキシモヴィッチ、長之助・宮部金吾」北海道大学総合博物館2010年3月31日発行宮部金吾は一八八五年一一月九日付けで始めてマキシモヴィッチ宛の手紙をしたためた。「マキシモヴィッチ教授:私が専攻する植物学において名声高き先生に自己紹介させてください。私はこの農学校の卒業生で、卒業後すぐに東京大学に行き、矢田部教授の下で二年間、植物学を修めたものです。私はこの農学校にいる間に北海道否、札幌周辺に生育する植物のほぼ完璧なコレクションを作成しました。一八八三年の秋に、東京から再び農学校に帰ってきました。私はこの島のいくつかの場所で、義務の合間合間に、北海道植物のコレクション作成を再開しました。 昨年(一八八四年)には、東海岸沿いに旅行しながら釧路そして北見にまで行き、さらには択捉島や色丹島にまで生きました。この旅行の中で、北海道本島だけでおよそ六一〇種の植物を採集しました。そして択捉島で約二〇〇種、色丹島で八五種の宿物を記録あるいは採集しました。あなたの研究のために、農学校が割愛できる、できるだけ多くの種を送付します。 その中には様似産のカラマツソウ属の一種、オダマキ属の一種、ヤマハタザオ属の一種、タネツケバナの一種、ハコベ属の一種などなどがあります。日本のフロラに続く注目種としては以下のものがあります。(略) これらの植物の名前が同定されたならば、お教え願えれば幸いです。 最初の手紙なのに、あまりにも自由に書きすぎたようです。お許しください。もしあなたが乾燥標本以外に北海道植物の種子を望むのでしたら、私の力の限りそのために尽すつもりです。 あなたの従順なる生徒 宮部金吾」この手紙にマキシモヴィッチからの返事はなかった。宮部は一八八六年七月七日付けで、マキシモヴィッチに宛てた二通目の手紙をしたためる。この年の九月にはアメリカのハーバード大学留学へと旅立つ。「マキシモヴィッチ教授 拝啓 一緒に送ったのは北海道のさまざまな場所、特に札幌近郊で採集された標本です。数は五四四枚で、同定と確認のために農学校よりあなたに送ります。 各標本には場所と採集年月日と、名前がついています。 あなたは多くの間違いを見つけると思いますが、お暇なときに訂正し、私にその結果を連絡くだされば、大変ありがたく思います。 お送りした標本はあなたのコレクションとして保管いただいて構いません。 敬具 宮部金吾 札幌農学校」 留学中の宮部にマキシモヴィッチの一八八七年三月二一日付けの手紙が届く。「拝啓 確かな住所がなかったため、大変すばらしくよく作成され正確に名前が付けられ、私にとってはまことに興味深い北海道産植物一式に、感謝の意を表する手紙を書くことができませんでした。 様々な急を要する性質の仕事があり、なかなかあなたの植物を十分に調べる時間が取れませんでした。しかし、いまや始めることができ、今回のようなリストを時に応じて、確実にあなたに送ろうと思う。 あなたは、私に送ってくれた植物のリストを手元に残していないようだし、あなたの最初の手紙に名前のあった大変興味ある植物のいくつかは標本がなかったが、あなたは多分、時間の余裕があるときに、十分な量の追加の植物種を送ろうと思っているのだろう。それは私にとって大変ありがたいことです・・・・。 あなたが研究のために選んだハーバート大学は、あなたにとってなじみのある英語で教育が行われ、すばらしい教授陣がおり、確かに推奨されるところではあるが、日本や満州、中国の植物相を研究するには、ペテルブルグに勝るところはない・・・・・。 しかしながら我々には日本国籍の生徒もいるし、我々は全てドイツ語かフランス語を話す(英語ではないとしても)ので、もしあなたがいつの日か我々を訪ねてくるようなら、うまくやっていけるだろう。 修正をつけたリストです。私が正しいとした場合には貴君の植物名に下線を引き、あなたの名前が間違っていると考えるときには私の植物名に下線を引く。(略) まもなく次のリストを送ります。」マルシモヴィッチ 個人的にも知っているファーロー教授、グレイ教授、そしてワトソン氏によろしくお伝えください。」この最初の手紙から間もなく二回目の手紙(一八八七年四月三〇日付)(1)をハーバート大学の宮部宛に送る。マルシモヴィッチの最初の手紙で、クロビイタヤの果実標本を所望されていた宮部は、新冠御料牧場の場長だった黒岩四方進にその採集を依頼した(2)。黒岩は同年八月に果実標本を採集し宮部に送った。宮部は翌年一八八八年四月三〇日付けの六回目の手紙に、この果実標本(断片)を入れてマルシモヴィッチに送った。マルシモヴィッチの一八八八年八月二二日出版の論文中でクロイタビアが正式発表されている。 一八八九年にはマルシモヴィッチから宮部への手紙が四通、宮部からマルシモヴィッチへ四通ある。宮部はアメリカ留学を終えて一八八九年七月二日から一三日の間にペテルブルグを訪れている。 一八九一年二月一六日に、マルシモヴィッチは満六三歳で逝去する。1 マルシモヴィッチの第二便以降の内容(『書簡集から見た宮部金吾』)一八八七年四月四日「先便の到着を期待。前回同様同定リストを送る」同年五月一三日「同定リストの続きを送付。札幌およびそれ以北の地方の球果のついた針葉樹の標本が欲しい。私の照会にに対するご回答有難う。あなたの照会には今のところ答えられないので、次回お答えしたい。」同年六月二四日「まずあなたの照会に回答する。Paeonia obovataは札幌近傍の円山で採集したもの。Trollius japonicusについての質問は、あなたの貴重な指摘に留意して再考した・・・・・・」同年八月二九日「手紙と共に受領の植物標本を直ちに点検し、寄贈のものを除き、この手紙と共に返却。それらについての私見は次の通り。・・・・・・」同年一〇月一二日「あなたが千島植物に関心を持っておられることを喜ぶ。私も一八六八年以来千島植物に注目しているが、千島列島については気象や地理条件のためにロシアの植物学者でも同地を訪れた者は皆無であるが、かつてロシアの調査船の士官たちが北千島で収集した植物標本がロシアの化学アカデミーや植物園にあるので、貴君に対する尊敬の証としてウルップ島以北の北千島の一〇九種の植物リストを送る」
2023.07.06
「札幌農学校 蝦名賢造」p172-174 広井勇 広井勇は在学中に教頭ホイーラーから数学と土木工学とを学び、卒業後開拓使の御用係となって、土木部門に進んでいる。しかし卒業式の広井の演説は「北海道農民には宜しく道徳を奨励すべし」という題目で、彼もまた農業に重要な関心をはらっていた。 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽ー幌内間の工事に従事している。その後開拓使の廃止とともに東京の工務部に転じ、22歳のとき自費によって同期生の先頭をきって渡米した。大島正健は「チャールス(広井勇)は吝嗇な奴だと同窓の間に悪評が立ち始めたが、聊か目的があるのだから黙っていて呉れ、と彼は囁いた」としるしている。 広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに、1883年12月10日、横浜を発って渡米する。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸(23歳)、つづいて11月には内村(24歳)、さらに3年後には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになる。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前触れともなっていくのである。 広井が渡米した当時、アメリカではすでに大陸横断道路が完成しており、5万2千マイルもの鉄路が張りめぐらされていた。広井は主にミシシッピー河の治水工事、鉄橋架橋などの実地研究に参加し、十分な知識を得る。現地で彼が刊行した「プレート・ガートル・コンストラクション」Plate GirdleConstruction という論文は、先進の米国人をして驚嘆させたという。 広井は渡米中の1887年4月1日、新渡戸とともに札幌農学校助教に任ぜられて、即時土木工学研究のため満3年間ドイツ留学を命ぜられる。しかし農学校に工学科が開設される都合上、召還されて1889年7月帰国した。ただちに教授に任ぜられ、翌年より北海道技師を兼務し、一時は土木課長として北海道の開拓に貢献した。 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠32歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最大の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところが多大だった。彼は1889年3月、工学博士の学位をさずけられている。 その後、同年9月に東京帝国大学工科大学教授に任ぜられ、1919(大正8)年にその職を辞するまでの約20年間、幾多の優秀な土木技師を輩出させるとともに、該博な学識と独創力をもって理論の研究につとめ、我が国の橋梁力学や築港学の進歩のために大きな業績を残した。東大教授として学生を薫陶していた際、「橋を架けるなら、人が安心して渡れるようなものを造れ」と教えたそうであるが、広井の面目躍如たるものがある、と島田清治はしるしている。 1921(大正10)年5月、上海港改良に関して、英、米、仏、中国、日本など7カ国による国際会議が開かれたことがある。英国からはかつてロンドン港の技師だったパーマ、アメリカからは元陸軍技監ブラック中尉、フランスからはスエズ運河技師ベリエー、オランダはフリー、スウェーデンはヘルネルなど斯界の権威者が選出され、日本からは広井が代表として出席する。 その会議での議論の中心は、揚子江流の長さ約35マイルにも及ぶ砂州を浚渫して航路を開設すべしとの英国委員の提案についてであった。他国の委員はみな賛意を表したが、広井はその提案の不備な点を見いだし、これを論駁したものの、いれられなかった。彼は、こういうことではわざわいをあとに残し、会議に責任を負う委員の一人として忍び得ないとし、約7日間みずから調査し、その根本的誤謬を指摘して工事を批判する論文を提出した。その論旨の正確さは全委員を傾聴させ、原案はついに保留になったといわれている。 広井勇の北海道開拓に残した業績は、小樽市の公園に銅像として象徴されている。1928(昭和3)年10月1日、東京牛込の自宅において狭心症により逝去した。享年67際であった。
2023.07.06
広井勇「らんまん」の広瀬裕一郎(ひろせ ゆういちろう)を 演じるのは中村蒼さん。広瀬は名教館(めいこうかん)という学校に通う慎野万太郎の学友でした。広瀬裕一郎のモデルになった人物は広井勇(ひろい いさみ)です。「港湾工学の父」といわれる土木工学の権威です。広井勇のアウトラインを「ボーイズ・ビー・アンビシャス 第4集 札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士」から紹介。1862年9月2日、土佐藩の佐川内原に生まれた。父の熊之助は土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士で、主に土佐藩の会計を担当した。母は寅子、2人の子があり、勇は長男で数馬といった。明治3年(1870)父が37歳の若さでなくなり、家には祖母、母、2人の子が残された。長男の数馬は9歳で広井家の跡取りとなった。家族は高知に移り、赤貧の暮らしとなった。数馬はこのとき名前を勇に変えた。叔父の片岡利和は明治天皇の侍従を務めていた。片岡が帰省し広井家に寄ったとき、勇は叔父に東京へ出たいと懇願した。1872年、叔父と一緒に土佐の浦戸から東京に船で旅立った。姉は別れ際に勇に言った。「お前も侍の子です。『学、もし成らずんば、死すとも帰らじ』の気概を持ちなさい」勇は片岡家で玄関番を命じられた。日中は英語、数学、漢学を学ぶため私塾に通い、片岡家の書斎の本をむさぼるように読んだ。満12歳の最年少で東京外国語学校の英語科に入学。その後、工部大学校予科へ転学した。そこを中退して札幌農学校に向かう。片岡家に頼る生活を断ち切るためである。広井勇は1877年9月15歳で札幌農学校2期生として入学した。1期生は前年教頭として赴任していたウィリアム・クラークの感化によりほとんどがクリスチャンとなっていた。クラークはすでに帰国していたが、キリスト教信仰の熱気にあふれていた。2期生には内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾などがいた。2代目教頭はウィリアム・ホイラーで26歳だっったが、土木工学、測量、数学、図学などを教えた。広井ら2期生の大半は翌年6月にキリスト教の洗礼を受けた。彼らは毎週聖書研究会を開催し、広井の信仰は内村鑑三をして「一時は、私が今日おるべき地位に君が立つのではあるまいかと思ったくらいであった」というほどだった。しかし広井は「世俗の事業に従事しながら、いかに天国のために働こうか」を考え土木工学を通じて日本を富ますことを自分に与えられた天命とうけとった。1881年7月2期生は卒業した。広井は北海道に残り開拓使となったが、翌年には開拓使が廃止、工部省に転じ東京に移った。「ぜひともアメリカに渡って、土木工学を極めたい」と熱望し、渡航経費を捻出するため、生活費を切り詰め貯蓄につとめた。意味なく金銭を浪費する会合には一切出ず、同僚は彼を「守銭奴」と呼んだという。1883年12月21歳の広井は横浜からアメリカに渡った。海外生活はアメリカ4年、ドイツ2年に及んだ。セントルイスに下宿し、ミシシッピー川の河川改修事業に携わった。その後設計事務所に雇われ、設計と施工を手がけた。さらに鉄道会社や橋梁会社の技師となり、土木の実際の現場を体験し、土木技術者としての経験を積んだ。仕事のかたわら勉学に怠ることなく、同僚は「日本の青年はこうも勉強をするものか」と感心したという。広井が現地で英文で書いた論文「プレート・ガーター建設法」は橋梁工学者で必携のハンドブックとされた。25歳のときである。1889年7月帰国し、母校札幌農学校教授となった。北海道庁の技師を兼任し、小樽港など北海道の港湾建築など10年にわたって指揮した。小樽築港事務所長として指揮した「模範工事」は100年後の今でも機能している。1899年9月広井は東京帝国大学工科大学教授として招かれた。学生には「工学者たるものは、自己の真の実力をもって、文明の基礎付けに努力しておればいい」といって立身出世主義をたしなめた。仙台の広瀬橋、北海道の渡島水力電気工事、鬼怒川水力ダムなど顧問として広井が関わった工事は多く、新技術を導入して完成させた。金品を渡そうとすると「費用に余裕があれば、その資金で工事を一層完璧なものにしていただきたい」と拒絶した。還暦祝いも、母校の北大工学部と土木学会に寄付した。1928年10月1日66歳でなくなった。内村鑑三は追悼の辞で「君の堅実な信仰は、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。しかし、広井君の事業よりも広井君自身が偉かったのであります。君自身は君の工学以上でありました」と述べた。
2023.07.06
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