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2023.07.06
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カテゴリ: 広井勇
「札幌農学校 蝦名賢造」


 広井勇は在学中に教頭ホイーラーから数学と土木工学とを学び、卒業後開拓使の御用係となって、土木部門に進んでいる。しかし卒業式の広井の演説は「北海道農民には宜しく道徳を奨励すべし」という題目で、彼もまた農業に重要な関心をはらっていた。
 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽ー幌内間の工事に従事している。

その後開拓使の廃止とともに東京の工務部に転じ、22歳のとき自費によって同期生の先頭をきって渡米した。
大島正健は「チャールス(広井勇)は吝嗇な奴だと同窓の間に悪評が立ち始めたが、聊か目的があるのだから黙っていて呉れ、と彼は囁いた」としるしている。

 広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに、1883年12月10日、横浜を発って渡米する。
この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸(23歳)、つづいて11月には内村(24歳)、さらに3年後には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになる。
このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前触れともなっていくのである。
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広井は主にミシシッピー河の治水工事、鉄橋架橋などの実地研究に参加し、十分な知識を得る。
現地で彼が刊行した「プレート・ガートル・コンストラクション」Plate Girdle
Construction という論文は、先進の米国人をして驚嘆させたという。

 広井は渡米中の1887年4月1日、新渡戸とともに札幌農学校助教に任ぜられ
て、即時土木工学研究のため満3年間ドイツ留学を命ぜられる。
しかし農学校に工学科が開設される都合上、召還されて1889年7月帰国した。
ただちに教授に任ぜられ、翌年より北海道技師を兼務し、一時は土木課長として北海道の開拓に貢献した。

 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠32歳であった。
貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最大の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。
広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところが多大だった。
彼は1889年3月、工学博士の学位をさずけられている。


東大教授として学生を薫陶していた際、「橋を架けるなら、人が安心して渡れるようなものを造れ」と教えたそうであるが、広井の面目躍如たるものがある、と島田清治はしるしている。

 1921(大正10)年5月、上海港改良に関して、英、米、仏、中国、日本など
7カ国による国際会議が開かれたことがある。英国からはかつてロンドン港の技師だったパーマ、アメリカからは元陸軍技監ブラック中尉、フランスからはスエズ運河技師ベリエー、オランダはフリー、スウェーデンはヘルネルなど斯界の権威者が選出され、日本からは広井が代表として出席する。

 その会議での議論の中心は、揚子江流の長さ約35マイルにも及ぶ砂州を浚渫して航路を開設すべしとの英国委員の提案についてであった。
他国の委員はみな賛意を表したが、広井はその提案の不備な点を見いだし、これを論駁したものの、いれられなかった。

その論旨の正確さは全委員を傾聴させ、原案はついに保留になったといわれている。

 広井勇の北海道開拓に残した業績は、小樽市の公園に銅像として象徴されている。
1928(昭和3)年10月1日、東京牛込の自宅において狭心症により逝去した。享年67際であった。





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最終更新日  2023.07.06 06:35:45


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