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2023.08.07
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カテゴリ: 広井勇
旧友広井勇君を葬るの辞  内村鑑三 その2

 私は広井君と同時にキリスト信者となりし名誉を有します。

今よりちょど50年前、明治の10年6月2日北海道札幌において、私ども青年6人は米国宣教師エム・シー・ハリス氏よりパプテスマを受けました。

広井君はその当時殊に信仰に燃えまして、日曜ごとの我らの小なる集会において君の教理研究の結果を我らに供して我らの信仰を助けられました。

まことに一時は君自身が伝道師になられて、不肖私が今日居るべく余儀なくせられし地位に君が立たるるのではあるまいかと思われたくらいでありました。

然し君にくだりし神の命は他にあったのであります。

君は伝道師になられずして土木学者になられました。

そして君は一日正直にその理由を私に語られました。

『この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る』と。

私は白状します。

君のこの告白は私の若き心に強き感動を起こしました事を。

私はその時思いました。

『もし広井が伝道をやめるならば我らの仲間の中より誰かが起ってその任に当たらなければならない。

自分は嫌である、さて如何にしたならばよろしかろう』と。

そして後に至りて種々のやむを得ざる事情よりして、私が広井君に代わりて、キリストの福音を我が国に唱えざるに至り、その困難の多きを味うて、時には旧友を怨まざるを得ませんでした。

然しながら神はすべてを知り給いました。

広井君が工学に入りしは君にとりて最善の事でありまして、そしてまた私が伝道に入りしは私にとり最善の事でありました。



ボーイズ・ビー・アンビシャス:映画・つぶやき

ハリスは、1846(弘化3)年7月9日、北米オハイオ州モンロー郡ビールスヴィルに父・コルバート、母・キャサリンの10人の子供の9番目として生まれる。両親はバプテスト教会員であったが、12歳のときメソジスト教会で洗礼を受ける。ハリス5歳にして、父が死亡、23歳にして母も召天するという不幸に遭う。

ハリスは、南北戦争のとき17歳で北軍に参加し、1865(慶応元)年戦争が終わるまで勤め、長官の推賞を受ける。高校卒業後、学資を得るために2年間小学校の教師をし、1866(慶応2)年メソジスト教会の定住伝道師となって、実地の伝道に従事した後、ペンシルベニア州のアレガニー大学に入学。

文学及び神学を修め、1873(明治6)年3月卒業、同年10月23日同窓の友フローラ・リディア・ベストと結婚、この年に開かれたピッツバーグ年会で宣教師として日本派遣の任命を受ける。11月17日、サンフランシスコを出て12月14日の朝、フローラを伴って横浜に着く。

1874(明治7)年1月24日横浜を出帆し、26日にハリス夫妻は函館にその第一歩を印した。この頃の函館は開港場とはいえ、まだ小漁港で適当な家屋もなく、横浜より乗船した船長蛯子宅に宿泊する。その後、開拓史の好意で日本家屋を借り受けて住むが、1875(明治8)年上汐見町123番地に地権を取得し、大きな家ではないが、港の見下ろせる西洋館を建築する。

伝道に燃えていたハリスは、言動不通で非常に困難するが、どうにか福音を伝えようとまち中を歩き回り会う人ごとに、丁寧に「今日は」と挨拶したので、「人さえ見れば今日はというおかしな異人だ」と大評判となる。

この年の8月11日、函館駐在ドイツ領事ルードウィッヒ・ハーバーが函館公園の裏道で秋田の藩士・田崎秀親に暗殺される事件が起こり、在留外国人の恐怖は一方ではなく、必要な用事以外は外出せず、武器を備え戸締まりを厳重にして用心を怠らなかった。

ところが弘前の東奥義塾の学生珍田捨巳がハリス夫妻を訪ねたところ、この家のみは何の用心もなく門戸を開放して、未知の青年を歓迎して迎えいれたという。

ハリス夫妻は、「私たちは日本を救うために来たのであって、不幸にして日本人の手にかかって死ぬことがあったとしても本望である。武器をもって備えることは恥ずべきことだ」と語り、英国領事館などでも礼拝を守った。



ハリス夫妻の北海道における伝道事業は着々としてその功績をあげていく。
ハリス夫人は函館に4年位滞在。この間西洋の日常生活を伝え、婦人会を作り、自宅に子女を集め英語などを教え、伝道に努め、日本と日本語を学ぶ。また、文学に秀れ、日本の古典にも親しみ、「土佐日記」を英訳して出版している。

1878(明治11)年頃、アメリカの婦人外国伝道協会誌「ウーマンズ・フレンズ」に函館での女学校設立の必要を寄稿、これに共感をもったドイツ駐在のアメリカ公使夫人のカロライン・ライトが献金をし、この寄附を基に遺愛女学校が創設される。最初の校名はカロライン・ライト・メモリアル女学校と名付けられた。

この年、日本に同化して昼夜心血をそそいで日本人に尽くすが、病弱のためやむなく東京に転居する。

ハリスは転居後、青山学院の源流である美会神学校、耕教学舎で教鞭を執り校長となる。1886(明治19)年、アメリカヘ帰国するが、1904(明治37)年、日本・朝鮮の宣教監督として再来日する。

1909(明治42)年9月7日、病弱だったハリス夫人は、59歳にして青山学院宣教師館にて天に召された。夫人はその生涯を日本人、特に婦人の向上救いに捧げられた。

ハリスは日本の親友から招かれて隠退後も再び来日して、青山のハリス館で余生を送る。すすめる人があり、1919(大正8)年、米国にてハリス夫人の姪エリザベス・ベストと再婚し、平和な晩年を過ごしたが、1921(大正10)年5月8日、青山学院構内において昇天する。





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最終更新日  2023.08.07 20:02:21


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