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ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』を読了。舞台は1980年代のニューヨーク。主人公兼語り手は、ウォール街に勤める20代半ばの若きエリートビジネスマンであるパトリック・ベイツマンだ。彼は表面的な生活を送っている。彼が関心があることと言えば、ブランド物を身につけること、ブランド物のハイテク製品を所有すること、体を鍛えること、などなど自分の表面を繕うことだ。彼は中身なんてものは信じられなくなっており、表面にしか意味を見いだしていない。そんな彼は数々の残虐行為を犯す殺人鬼だ。あるいは妄想の中でそのような残虐な殺人を犯し続ける。生々しい殺人の様子が本書の中であからさまに描写されているのだが、それが実際に犯された犯罪なのか彼の妄想の中での出来事なのかは最後まで曖昧なままだ。ベイツマンの精神はかなり崩壊しているようだ。常に精神安定剤を服用し、コカインもやっている。飲み屋で知り合いに出会っても、それが誰であるのか正確に判断することが出来ない。飲み屋で仲間と飲んでいる時に別のテーブルで顔見知りが飲んでいることが言及されるが、その際のベイツマンの語りは、「誰それが私に気づいて手を挙げた」という具合にはならずに、「誰それに似ている男が私に気づいて手を挙げた」という具合に、「誰それに似ている男」だとか「誰それと思われる男」というふうに言及される。彼は半分は妄想の中に生きており、現実との接点を半分失っている。実際に殺人を犯しているのであれ妄想であれ、ベイツマンの残虐さは非道であると言えるだろう。しかし、ベイツマンは好きで残虐殺人を犯しているのではなく、強迫的に犯している。現に、自分が殺人魔に変化しそうな兆候を感じると、一緒にいる女を家に帰したりするし、慌てて精神安定剤を服用したりする。また、殺人を犯したところを見つかって警察に追われれば一応逃げはするものの、知り合いの留守電に自分がこれまでに犯してきた数々の殺人を打ち明けたメッセージを残したりと、みすみす自ら捕まるようなことをしたりもする。こういうタイプの殺人魔は実際に存在するだろう。いくつもの残虐な殺人を犯したあとに逮捕された犯人が、「これで自分はもう殺人を犯さなくて済む」と安心の声を漏らした例を聞いたことがある。そういう殺人魔の心理を本書は上手く描いているのではないかという気がする。ベイツマンのような人間がいるということが現代に特徴的なことなのかどうかはよく分からない。昔からこのような人間が今と同じくらいの割合でいたのかもしれない。本書の新しさは、そのような人間が現代社会の成功者として我々の中一人(one of us)として完全に溶け込んで存在する様を示していることではないだろうか。外から見ただけでは殺人魔だとはまったく分からず、ただのエリートビジネスマンにしか見えない。印象に残ったベイツマンの言葉をいくつか挙げる。「おい、聞いてくれよ、みんな。俺の生活は生き地獄なんだぜ」「知性が一体何を教えてくれるんだ? 理性って何なのか教えてくれよ。欲望? そんなものに意味なんてないさ。知性なんてあったって何の解決にもならない。正義は死んじまった。恐怖、非難、無垢、同情、罪悪感、無駄、失敗、苦悩--そんなものは、今やもう誰も本当には感じることが出来なくなっているんだ。内省したって何の役にも立たない。世の中には意味なんてないんだ。世界に永遠に残るものなんて悪くらいさ。神はもはや生きていない。愛なんて信じることは出来ない。表面、表面、表面--人が意味を見つけられる場所なんて表面しかないんだ。これが俺の目に映る文明ってものさ。巨大で、ギザギザしていて・・・」「俺がもはや失望なんてすることができないってことを、どうやったらこの女は理解することができるのだろう? 俺にとってはもはや期待するに値すると思えるものなんて何もないんだから、失望することなんでできないのに」
2006/09/25
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私がこれまでに影響を受けた本がいくつかある。大きな影響を受けたと思われる本はそれほど多くはない。まず一つ目は、小学5年の頃に読んだ山岡荘八氏の『伊達政宗』だ。横山光輝氏による漫画版が友人の家にあり、家に遊びに行くたびに読ませてもらっていた。山岡氏の本の中では、その後読んだ『高杉晋作』や『吉田松陰』にも影響を受けたと言えるだろうが、その中でも一番重要なのは一番初めに読んだ『伊達政宗』だというような気がする。山岡氏の作風は理想主義的で、青年の野心を刺激し掻き立てるところがある。教訓的な文章も多く、私が彼の本から受けた影響と言えば、道徳的倫理的なものだ。伊達政宗は天下統一への夢と野心があり、吉田松陰や高杉晋作には尊皇攘夷の野心があった。一つの夢、野心に燃え、それを成し遂げるために自分の全てを賭ける様は、若い頃の私の憧れであった。自分は世の中の役に立たなければならない、今の不完全で問題の多い世の中を少しでもよいものに変えるために自分の人生を捧げなければならない、といったいかにも若者らしい考えが中学生の頃から大学1年に至るまでの私を支配していたのだが、その契機としては『伊達政宗』の影響を第一に挙げることができるように私には思われている。2つ目には、高校1年の頃に読んだデカルトの『方法序説』とカミュの『異邦人』あたりを挙げてもよいかもしれない。『方法序説』からは哲学的態度を学んだ。『異邦人』からは人間は理性では測れないものなのだということを学んだ。だが、この二つから受けた影響はそれほど大したものでもないかもしれない。3つ目は、高校の2年か3年くらいに読んだマーク・トウェインの『人間とは何か』と『不思議な少年』を挙げることが出来る。これはトウェイン晩年の作品で死後出版されたものだ。きわめてペシミスティックな内容の小説で、前者では、人のあらゆる行動は全て自分自身のためになされるものであり、利他的に行われるものなど一つもないということが説かれている。分かりやすく極論すれば、人はみんな利己的なのだということだ。マザー・テレサだって誰だって例外はない。後者では人間機械論が説かれている。人はみな利己的なのだという認識を持っていることは健全なことだと私は思っている。他人のためを思ってやることであっても、これは本質的には自分のためにやっているのだという認識を頭のどこかに置いていることはよいことだ。「何々してあげた」だとか「お前のためにやっているのだ」などと全面的に考えることは間違っている。4つ目は、チェーホフの短編「中二階のある家」だ。これを読んだ時のショックは激しいものだった。大学1年の夏に読んだ。その頃の私は先程上で触れたような使命感にまだ燃えていた。人類のため、世界のために自分の人生を捧げようなどといったようなことだ。これはいわば普遍性への愛と言えるだろうか。チェーホフのこの作品から教わったことは、遠くへの愛よりも近くへの愛の方が大切だということだ。近くにいる、日頃自分がお世話になっている人への愛を、世界や人類への愛よりも優先させるべきだということだ。これを教わった時、これまでの自分が如何に思い上がりで嫌らしい人間だったかということを思い知らされ、激しいショックを受けたものだった。これまでの数年間の自分が全否定されたようなショックだった。大きな影響を受けた本に挙げてよいかどうか微妙なものとして、梶井基次郎「檸檬」、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』などが思い浮かぶ。
2006/09/22
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先日、年金に加入することはお得だということに気づきそのことについて書いたのだが、実は全然得ではないということにその後気づいた。私は個人事業主なので、厚生年金ではなく国民年金に加入しており、その不足分を補うために国民年金基金というものに先日新たに加入したのだった。国民年金基金の売りの一つとして、支払った保険料が全額、社会保険料控除の対象になるということが挙げられる。つまり、支払った保険料分の金額が課税対象所得金額から差し引かれ、その結果、所得税、住民税、国民健康保険の保険料が軽減されることになる。所得税と住民税の税率は、累進課税により、課税対象所得金額によって異なり、所得の多い人ほど税率が高くなる。国保の保険料も確か所得が多いほど高くなったはずだ。よって国民年金基金に加入することのお得度は、所得が多い人ほど高くなり、少ない人ほど低くなることになる。平均的な所得の人の場合、国民年金基金に加入し保険料を支払えば、大体、支払った保険料の15%から30%くらいは節税できることになる。つまり、年間100万円分の保険料を払ったとすれば、15万円から30万円ほど税金が安くなるわけだ。それに加えて、長生きをすれば、支払った保険料以上の金額が年金として返ってくることになる。これはお得ではないか、銀行に預金するくらいなら年金の保険料を払ってしまおう、と私は思ったわけだが、実はこれは早合点だったことに気づいたのだった。投資信託や外貨預金などで年利5%を超えるものがある。こちらに投資すれば、1年後には105%になり、2年後には110%以上になり、10年後には150%以上になり、20年後には倍以上になっている。この時点で倍以上になっているのだから、さらにその20年後である40年後には4倍以上になっているのだろう。年金の場合は、倍になるまで長生きする可能性は低いし、早死にしてしまえば元本割れしてしまう。おまけに、破綻やインフレのリスクを考えると、お金を自由に動かせない年金のリスクはかなり高いと言わざるを得ないのではないだろうか。他の資産運用にももちろんリスクはあるわけだが、分散投資を充分に行っておけば、問題とするにはあたらない。そんなことに気づいてみると、国民年金や厚生年金の保険料は、半分税金みたいなものに思われてくる。おまけに保険料の管理運用者も、現在未来の政治家たちも信用できないとなれば、年金保険料を支払うのはなおさら損なことに思えてくる。年金制度について深く考えたことはないのだが、公的年金制度はやはりあった方がよいのではないかという気がしている。お金がなくて生活できない老人が沢山出てくるということになれば、もはやそれは個人の問題ではなくて社会問題だと言えるだろう。そういう問題が起こらないようにすることは、やはり国の役目の一つに数えてよいだろう。ところで、生活保護と年金との関係はどうなっているのだろうか。国民年金にしか加入していない人であれば、きちんと保険料を収めてきていても、80万円弱の年金しかもらえない。これでは、必要最低限の生活をすることができるかどうかも怪しい。一方、年金の保険料をまったく払っていない人が老後生活するお金に困ったとすれば、生活保護の対象になるのだろうか。対象になるのだとすれば、きちんと保険料を収めていた人が報われない。世界規模で考えれば、現在の日本の貧困者の少なさは異常と言ってもいいくらいだろう。だが、国の借金の多さ、政治家の無能さ、国民の高齢化、後進国の経済的発展などを考え合わせると、日本国民が今の生活水準を維持し続けられる期間はそれほど長くはないだろう。貧困者は目に見えて多くなっていくだろうし、生活保護なんてことも不可能になるのではないだろうか。なんてことになれば、治安が悪化することも考えられる。日本の政治家たちは、日本の将来のことをどれくらい深く想っているのだろうか。影響力のある政治家たちはみんな老い先が短く、何十年も先のことはほとんど考えていないだろう。目先の選挙のことしか考えておらず、未来の日本を担う政治家を育てようという意識もないのではないだろうか。日本の優良企業は数多いのに、国会は組織的にも人材的にもどうしてこんなにも駄目なのだろう。自民党は駄目、民主党はもっと駄目、他にめぼしい政党はないしで、今のままだと日本に明るい未来は来そうにない。誰かちゃんとした人が新しい政党を作って、ちゃんとした人を集めて、ちゃんと選挙活動をして、政権を執って、ちゃんとした政治をしてくれたらいいのにと思ったりもするが、普通に考えるとそんなことはまず実現しそうにない。結局、自分の身は自分で守るべきということであり、私に出来ることはそれをすることだけなのだろう。
2006/09/18
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吉本ばなな『アムリタ』を読了。ところどころに面白いところがあり引き込まれもしたのだけれども、全体的な感想としては、吉本さんは私向けの作家ではないなと感じた。吉本さんの文章には吉本さんの素が強く出ている。物の感じ方、心の動き方などが、吉本さんっぽいなと感じる。それは大雑把な言い方をすれば、女性っぽいものであり、私の心にはフィットしない。むやみにハイテンションというわけではないがそれでも感情が軽快に動き、その動きを直接的な表現で言い表している。私は感情的に鈍感な方なので、心の細やかな部分を扱った作品にはあまり心が共鳴しない。そういう細かなところは自分も学ばなければならないとは思っているのだが、そういった作品を読んでいてもつまらないなと感じている時間が長い。自分に合った作品ではないと感じながらも、こういう作品に深く共感し感動する読者も大勢いるのだろうということは何となく分かる。少し前に読んだ『キッチン』と比べると、吉本さんは大分小説を書くのが巧くなったなと感じる。文章の足が地についているというか、しっかりと内省して言葉を選ぶことが出来ているような気がする。やっぱり力がある作家なのだろう。吉本さんの作品は、愛好して読むというわけには少なくとも当分の間は行かないだろうけれども、気が向いたときにまた読んでみようと思う。
2006/09/15
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自分が重病なのかもしれないと心配していたことは以前書いたが、それを契機に生活態度を改めることにした。これを「怪我の功名」とでも呼ぶのかと思っていたのだが、調べてみるとどうも怪しい。広辞苑によると、「過失が思いがけなくもよい結果を生むこと。また、何気なしにやったことが偶然に好結果を得ること。」となり、国語大辞典によると、「(「功名」は、古くは「高名」)過失や災難と思われたことが、思いがけなく好結果をもたらすこと。また、なにげなくしたことが、偶然にも好結果を得ること。あやまちの功名。」となる。後者の説明には当たっているような気もするがどうもすっきりしない。閑話休題。病気の心配をしているときに思ったのは、今の生活態度を続けていては病気になるのもむべなるかなということだった。はやり運動不足は体によくない。というわけで一念発起して体を動かす習慣をつけることにしたのだった。運動不足だということは前々から気づいていたのだが、気づくだけではなかなか行動に結びつかないものだ。一度痛い目に会ってみないとなかなか人は変わらない。運動とは言っても、単に家の中で体を動かすだけのことだ。外に出てジョギングだなんて恥ずかしいし人に会うのは嫌だ。ジムで体を動かすというのも気が乗らない。だが、家の中で出来ることなんて限られている。腕立て伏せ、腹筋運動、背筋運動、握力といったところだ。私は膝があまり強くないので、スクワットみたいに膝に大きな負荷がかかる運動は出来ない。そこで、何か足腰を鍛えられる運動はないものかと思って思いついたのはボクシングだった。これなら心臓も鍛えられそうだ。そこで本屋に行き目に留まったのは、空手の本だった。これは盲点といえば盲点だった。ボクシングは腕だけだが、空手なら足も使える。これは護身術としてもより効果的ではないか。今の世の中便利なものでDVD付きの解説書が結構出ている。動きのあるもの故、文字と絵や写真だけの説明では今ひとつ分かりにくかったりするだろうが、映像付きなら一目瞭然だ。さっそく一冊購入し、少しずつ空手らしきものを始めた。腹筋運動や背筋運動にもいろいろとやり方があって、ものにより筋肉のつき所が微妙に異なる。私は、元々というわけでもないが、筋肉が付きやすい体質で、本格的に運動を始めると見るからに筋肉がついてきた。筋肉というものは、年少の頃に一度付けてしまうと、歳をとってから筋肉が衰えたとしても少しの運動で簡単に回復してしまうものらしい。これは知り合いのバイオ専攻のPh.D取得者に聞いた話だ。あまり筋肉がつき過ぎるのはかえって見苦しく好きでない。筋力というものは限界まで負荷をかけないと強くならないものらしい。腕立て50回出来る者がそれをずっと続けたところで筋力はアップしないらしい。単に持久力がつくだけだそうだ。持久力が付いたら外見的に筋肉がどうなるのかは不明だが、さほど大きくは変わらないのではないだろうか。とりあえずは今の運動量を維持して様子を見てみることにしよう。私は体の柔軟性が乏しく、かっこよいキックなんて出来ない。空手本に載っているキックはかっこいい。見ていると自分もあんなキックができるようになりたいものだと思う。柔軟体操というものも、動機付けがないとなかなか長続きしないものだ。かっこよくキックをしてみたいという思いはなかなかよい動機付けとなる。体が柔らかいとかっこよいキックは出来るわ怪我はしにくくなるわで良いことずくめだ。街を歩いていると、怖そうな人、おっかなそうな人に時々出くわす。黒いサングラスをしていたり、怖そうな服を着ていたりするような人達のことだ。彼等がどうしてそのような格好をするのかには色々な事情があるのだろうが、一つにはそうやって自分に自信をつけようとしているのではないだろうか。高い服や時計を身につけたりしている人にも似たような事情があるのではなかろうかと思う。それと同じではないにせよ、喧嘩が強いということは自信をつけるのに効果的だ。格好はみすぼらしく喧嘩も弱いとなると、やはり気弱になるものだろう。私はおしゃれというものが好きではないし、高いものを身につけるのも性に合わない。贅沢は私にはかえって空虚感を与える。喧嘩の強さには、高校生くらいまではそれなりに自信があったが、今はまったく自信がない。もちろん喧嘩なんてしないに越したことはないわけだが、万一そういう状況になった場合自分はうまくその状況を切り抜けることが出来るのだという自信があるということは、精神衛生上好ましいことだろう。というわけで、空手の練習はしばらく続けてみるつもりだ。
2006/09/12
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今年の正月に今年中に読む本のノルマを決めたのだが、ノルマを達成してしまってからは、歯ごたえのある本に挑戦しようというふうにはなかなか行っていない。というわけで、また目標を立ててみることにした。1.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『罪と罰』のいずれか一つを再読。2.トルストイ『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』のいずれか一つを読む。3.カルヴィーノ『見えない都市』を読む。4.夏目漱石『明暗』を読む。5.メルヴィル『信用詐欺師』を読む。6.ベケット『ゴドーを待ちながら』を読む。7.サルトル『嘔吐』を読む。8.セルバンテス『ドン・キホーテ』を読む。9.『ヨブ記』を読む。10.『源氏物語』を読む。11.ドイツ語で何か一冊読む。12.アプダイク、ピンチョン、ホーソン、ジェイムズ、ナボコフ、ユング、パワーズ、ソロー、ジョイス、紫式部、スターン、ディケンズ、オースティン、スタンダール、バルザック、フローベル、ドン・デリーロ、ガルシア=マルケス、フォークナー、コンラッド、ウルフ、ハーディー、サッカレー、ポー、モリソン、デフォー、ライト、ヴォネガット、エリスのうちのいずれかの作家の未読の長編作品を読む。とりあえず、年末までの上のうち5つはやってしまおう。
2006/09/12
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座右の銘と特に決めているわけではないが事ある毎に思い浮かべる言葉がある。まずは「バランス感覚」という言葉。これは20才頃からそういう言葉となり、この言葉が私にとっての座右の銘にあたるのかなと長い間考えてきた言葉だ。自分には座右の銘なんてあるのだろうかとつらつらと考えながら、「他山の石」という言葉に思い当たったのだった。この言葉は、思い返せば、かなり昔からしばしば思い浮かべている。初めて知ったのは中学生か高校生の頃だったろうか。これが座右の銘にあたるなどとは、これまでつゆ考えたことがなかったのだが、実質的にはもうかれこれ15年くらいも私の座右の銘であったのかもしれない。「他山の石」で一つの完成された言葉だと思っていたのだが、先日辞書を調べてみると、正確には「他山の石以て玉を攻(おさ)むべし」らしい。意味は、広辞苑によると、「(よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役には立つという意から) 自分より劣っている人の言行も自分の知徳を磨く助けとすることができる」となる。考えてみれば、「他山の石」とはなかなかいい言葉だ。他人のよくない言動を目にして、自分もやってやろうなどと皆が考えようものなら世の中はひどいものになっていく。逆に、自分はあんなことはするまいと皆が思ってそれを実行すれば、それほどひどい世の中にはなっていかないだろう。昔はどうあったのかは知らないが、今の世の中は、極端に単純な言い方をすれば、良い人が損をし悪い人が得をする世の中だ。もちろんこれは一面的な見方だけれども、そういう側面は確かにあり、昔よりも顕著になっているのではないかと思う。要は、悪いことをしても罰を当てる人がいなくなったからだ。天国で監視しているご先祖様、神様仏様もいなくなれば、死後最後の審判を下す閻魔様もいなくなってしまった。天国も地獄もない。悪いことでも何でもやって得した者勝ちということになってしまっている。「他山の石」という言葉があると、良い人も悪い人もみんな良き教師となる。周りには嫌な人、困った人がそれなりにいるのだが、彼らには嫌な思いをさせられながらも色々と学ぶことも出来る。例えば、父と母。二人とも勿論いいところもあるわけだが、悪いところもいっぱいある。小学校の卒業アルバムには尊敬する人を書く欄があって、そこには神様の名に並べて「両親」と書いた。別に尊敬していたわけではなく、なんとなく書いたに過ぎない。両親について考えるときにしばしば思い浮かべる言葉は「他山の石」と「反面教師」だ。こういう親にはなりたくない、年をとってもこういう感じにはなりたくないとよく思わせられる。私の両親は一応「ごく普通の親」ということになるのではないだろうか。特別悪い親だとも思えない。自分だって、人の親になれば、私の両親のような親にならないとも限らないわけだ。私がそういう親になった時に困るのは私の子供ということになる。昔自分がどのようなことを考えていたかということを正確に思い出すのはしばしば難しい。昔に自分が書いた文章を読み返して、こんなことを考えていたのかと驚くことがある。本当に自分がこれを書いたのだろうかと信じられない思いをしたりもする。年をとれば頭の働きも鈍くなり、物事の見方も変わっていくだろう。今考えていることを正確に未来の自分に伝えるためには、文章に残しておくことが必要だろう。そういう意味で、今の自分が不満に思っていること、考えていることなどを書き留めていこうかと思っている。それを読むことによって未来の私はよりバランスの取れた考え方をすることができることだろう。「他山の石」という言葉と15年くらいも共にありながらも、今の自分は別に高潔な人間というわけではない。これはどうしたことだろうか。陳腐な言い方をすれば「弱い」からだろう。自分のことは棚上げにして他人の批判ばかりしているなんてことは困ったことだし醜いことだ。
2006/09/09
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カフカ『アメリカ』(中井正文訳、角川文庫)を読了。カフカの長編のうち唯一未読だった『アメリカ』をようやくにして読んだ。カフカの長編を前に読んだのは随分前のことだから、きちんと比較することはできないのだが、印象としては、例えば『城』なんかよりは随分薄味になっていながらもカフカ的な特徴はやはり如実としてある、という印象だ。『城』を読んだ時に強く感じたのを覚えているのだが、カフカの書く小説には一義的、表面的なリアリティはない。登場人物たちの反応は妙に大げさだし、言うことなすことが奇妙で現実離れしている。しかしそこには、そういった書き方でしか伝えることが出来ないリアリティが感じられる。私はそれを「カフカ的リアリティ」と名づけ、こういった小説の書き方もあるのだなと知ったのだった。その「カフカ的リアリティ」の特徴が『アメリカ』においては希薄になっている。しかし、カフカの独自性は作品全体に見られる。登場人物は、主人公も含めて、かなり理不尽な感じがする。主人公の少年(カール)に散々理不尽な迷惑をかける二人のならず者たちは、奇妙な思考回路を持っており、こんな人が現実に存在してその相手をしなければならないとすれば、よほど理解に苦しむことだろう。理不尽な言動に怒りを感じるというよりも、まずは理解に苦しみ、自分が置かれている現実の状況にどう対処すればよいのか困惑するに違いない。カール少年もカール少年で、決してまともな人間ではない。簡単に言ってしまうと、善良で理性的な好青年という位置づけではあるのだろう。だが、彼の言動や思考回路にはやはり現実離れしたところがある。上のならず者たちは我々の感覚からすれば、明らかに頭のいかれた悪党なのだが、カール少年はどうもそういう認識はしていないらしく、友達づきあいみたいなことをしたり、あれこれ世話をしてやったりとする。そういったものを目の当たりにして、カフカっていう人は人間の心の動きをまったく理解していない人なのではないかなどという思いがふと浮かぶわけだが、もちろんそういうわけではないだろう。いわば、これがカフカの書法なのであり、この書法によってカフカ独自の味が出ることになるのだろう。そういう現実離れさを感じつつも、読みながらちっとも退屈することなく、一気に最後まで読んでしまった。読みながら、これはどうしたことなのだろうと考えてみたのだが、一つ気づいたのは、カフカの目の付け所は他の作家たちとは違うということだ。他の作家であればこんなことは描かないだろうということをカフカは終始描いている。カフカは独自の視点を持っており、その視点を通して描かれた世界はカフカしか描いたことのない世界であり、そして同時に我々読者の興味を刺激するというわけなのだろう。なお、中井正文氏の翻訳についてだが、非常に読みやすく不明な箇所はほとんどなかった。ただし、一つ気になったのは、会話文に変化が乏しいということだ。演劇に喩えると、棒読みなのだ。あるいはカフカの原作がそういう書き方になって、それを模したということなのかもしれないが、そうでないとすればやはり残念なことではある。カール少年は、少年らしい話し方をしているかと思えば、時に女っぽい話し方をしたり中年男性みたいな話し方をしたりする。ばらばらなのだ。とはいえ、全体的に見て、かなりいい翻訳だという印象だ。なにしろ、不明なところがほとんどないということは、有り難いことだ。私はカフカは特に大好きだということはないのだが、好きな作家の一人ではある。カフカを賞賛する作家は数多い。カズオ・イシグロは、自分が本当に賞賛している作家のリストはとても短いといい、そのリストにドストエフスキーとチェーホフとカフカとを挙げた。ポール・オースターも、レベッカ・ブラウンもカフカを賞賛しているし、柴田先生は英語作家以外で翻訳したい作家のトップにカフカを挙げていた。そんなことからすると、私はカフカの真価におそらくまだ気づいていないのだろうという気がする。そういうわけで、ドイツ語の勉強でもしようかとよく思うのだが、そんなことをしている時間があるのだったらもっと英語の勉強をした方がよいと思い直したりとぐずぐずしている。そもそも、ドイツ語作家で、読みたいと思う作家の数が少ない。とりあえずまずはカフカが読みたくて、せっかくドイツ語が読めるようになったのだから、ホフマンぐらい読んでみようかと思う程度だろう。もうちょっと足を伸ばす気になればゲーテやトーマス・マンあたりが思い浮かぶ程度だ。
2006/09/07
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柴田元幸著『生半可な學者』を読了。今やアメリカ文学の紹介者と言えばまずこの人の名前が思い浮かぶというくらい有名な柴田先生がまだ30代だった頃に書いたエッセイ集だ。息抜きがてら読み始めてみたのだが、面白くて一気に読み終えてしまった。全篇軽い調子で書かれていて軽い笑いを誘うようなエッセイとなっている。しかも一篇読むごとに些細なことであれ少し賢くなれる。ユーモアの質としてはいささかセンスがないなと思われるようなものも多く、しばしば苦笑失笑してしまったのだが、そのくだらなさ具合もまた可笑しかった。たまたま本の後ろから読み始めたのだが、本の後半にはつまらないエッセイが多く、前に近づくにつれて面白いものに出会う割合が上がった。後半を読んでいる間は、柴田先生ほどの人でも若い頃はこの程度のエッセイしか書けなかったのだなと、ちょっと安心したりもしたのだったが、読み進めるにつれて面白くなっていったので、やはりさすがだなと思ったのだった。
2006/09/05
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『ブッダの夢 河合隼雄と中沢新一の対話』を読んだ。二人の対談だが、なにもブッダや仏教についての話に限定されているわけではない。話の広がりはかなり広範で、心理学、仏教、民俗学、科学、歴史、哲学、現代論、宮沢賢治などなどと多岐に渡る。かくまでも話の範囲を広げたのは勿論中沢新一氏の方だ。河合氏は彼の話を大抵頷きながら聞き、時に話を展開する役も買っている。一部内容が難しく何を言っているのかよく分からないところがあるが、総じて非常に面白く読んだ。知識欲、学習欲を刺激される本だ。中沢新一氏の本を読むのはこれが初めてだったのだが、非常に興味深い人だなと思った。なにより知識が豊富だし言っていることがまともで深い。河合氏は自称うそつきであるからどこまで信用していいのか分からないのだが、河合氏は中沢氏を認めているようだし、実際個人的なことを漏らしたりもしているから、やはり学識者としても人としても認めているということなのだろう、多分。その河合氏が漏らした個人的なこととは次のようなことだ。中沢氏: 河合さんは、ユング主義者とは言えない、別種のものです。河合氏: 僕のは、ユングとはだいぶ違ってきている。ユングのことをやっているんじゃなくて、僕のやりたいことをユングによってやっている。中沢氏: でも、共通しているのは、さっき言った、悪の問題です。河合氏: ほんとうにそうです。自分の中の悪をどのように位置づけるか。今でも本当はちょっとわからないです。中沢氏: 河合先生は、今でもうそつきですか。河合氏: それはそうですよ。だから、ほんとうに自分の考えていることは本には書かないです。中沢氏: 河合先生の魂の、そういう真実を奥さんは知ってますか。河合氏: 奥さんは知ってると思う。(朝日文庫、175頁)なんだか意味深な発言で、一体どういうことなのだろうと気になるのだが、このようなことを感じ取ることが出来る中沢氏はやはり只者ではないように思える。今ふと思ったのだけれど、河合氏が本には書かないという「ほんとうに自分の考えていること」とは、もしかしたら悲観的なこと虚無主義的なことなのではないだろうか。そうだとすれば、単に良心的なうそつきに過ぎないということだ。何も深い意味があると考える必要はないのかもしれない。まあ、もう一度上の引用文を読み返してみると、どうもそんな単純なことではなさそうだと思えてきたわけだが。少なくとももう一度は読み返す価値のある本だ。心に留めておきたい。
2006/09/04
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