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河合隼雄、吉本ばなな『なるほどの対話』(新潮文庫)を読了。河合さんと吉本さんとの対談集で、非常に読み応えがある。話の内容があまりに深すぎてどういうことを言っているのか分からない箇所も多かった。二人の共通認識に、現代は深刻な時代だというものがある。二人の話の多くが、現代という時代の深刻さという問題に割かれており、本書はかなりシリアスな内容となっている。いまの時代について、単に頭で考えているのではなく、鋭い直感と感覚で感じ取り、心で深く体験している二人であればこその対談となっている。吉本さんの本は数冊しか読んだことがなく、しかも自分にはあまり合わないなと思っていたのだったが、この対談を読んで、とりあえず『TSUGUMI』と『アムリタ』ぐらいは読んでみようと思った。吉本さんは気質的に神経症になりやすいタイプらしく、本人曰く、職業柄神経症の症状が出ることがよくあったらしい。彼女が書く小説も、どうやらそういうタイプの読者に向けて書かれているという部分も大きいようだ。そういうタイプとの共通点の少ない読者には彼女の小説をきちんと味わうことが出来ないのかもしれない。吉本: 私など、深刻さにかけては右に出るものはいないというぐらいに深刻なはずなのに、今の若い人たちはもっと深刻ですね、実際に話をすると。将来を憂えているし、不安もすごく持っている。「そんなに素直じゃダメだよ」というぐらい素直だし、「そんなに深刻でどうする」というぐらい深刻で。でも、これがいまの時代。本当に深刻な時代なんだなと思う。河合: 大人が若い者の、いま言ったような実情をもっと知るべきでしょうね。大人はちょっと安閑として、「我々は一生懸命やってきたけれど、いまの若い人たちはいい加減にやっている」と、単純に思っているわけでしょ。実際はそうじゃない。吉本: 彼らが混乱しているのは社会のせいで、子どもたちのせいじゃないと思います。もし私が、いまの時代に中学生、高校生だったら、ああいうふうに考えるのは無理もないって、なんとなく気持ちがわかるので。すごい髪の毛にしたり、こんな厚いサンダルを履いたりでもしないとやってられないよって。(36-37頁)女子中高生の多くのあのスカートの丈の短さは常軌を逸しているのではないかとずっと考えていたのだが、これもまた「すごい髪の毛」や「こんな厚いサンダル」と同類ということなのだろうか。社会が常軌を逸しているからこそ、このような現象が生じているということなのだろうか。私は、すごい髪の毛をしていたり、むやみに厚いサンダルを履いている人たちの深刻さというものがどういうものなのか理解していない。私は、どちらかというと社会がこれを良しとする筋書き通りの道を歩んできたところがあり、高校までは授業をさぼったことなんてないし、眉毛を剃ったりなんてことももちろんしていなければ、タバコを吸ったりもしていない。一部の教師たちに反発を覚えることはあったにしても、特に何の不満もない学生時代を過ごしたと言える。というわけで、私は吉本さんの小説をきちんと理解するのには向いていないのではないかと思うのだが、なんとか理解できればよいなと思う。
2006/08/27
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河合隼雄・梅原猛 編著『小学生に授業』を読了。国際日本文化研究センターに勤めている学者たちが、近くの小学校に出向いて授業をする、その実況中継だ。講師には、梅原猛、山折哲雄、河合隼雄といった錚々たる名前が並んでいる。中でも印象に残ったのが梅原猛さんの授業だ。授業の題目は「学問の楽しさ」。梅原さんはニーチェの言葉を紹介する。人生には三つの段階がある。最初はラクダの段階、次にライオンの段階、最後に赤ん坊の段階、という言葉だ。ラクダの段階は忍耐の時期で、この時期には、しんどくても勉強を頑張らないといけない。ライオンの段階は批判精神の時期で、この時期には、習った知識を鵜呑みにするのではなく、疑い、自分で考えないといけない。しかしこれだけでは駄目で、最後には赤ん坊になり、自分でモノを作り出さなければならない。つまり、赤ん坊の段階というのは創造の時期というわけだ。創造には赤ん坊の無邪気さが要るということらしい。このニーチェの言葉を紹介した後、梅原さんは授業の中で創造の大切さを繰り返し説く。「最後には、モノをつくらなければいけないよ。人生においては、創造することが大事なんです。」「人生は、最後はやはり創造ですよ。」「みんなも、最終的には創造の人生を送らないといけないね。」「勉強をするのは、みんなしんどい。それに耐えて、批判精神を持つようになる。そして、最終的には創造する。人生は、そうならないとダメなのです。」「人間の一生においては、やっぱり創造が大事です。」こういった考え方は、梅原さんの宗教であり病気であるとも言えるわけだが、こうやって繰り返し説かれると、ああそうだそうだという気分にもなってきたのだった。これに乗っかるのも一つの手だなと思った。勉強し批判するだけでは自分の中だけで終わってしまう。創造にいかほどの価値があるのかという疑問は当然あるのだが、「勉強」「批判」「創造」と3つの言葉を並べてみると、勉強と批判だけで終わってしまっては意味がないなという考えに納得してしまうところがある。いつまでも勉強、批判ばかりしていては駄目だ、創造をしないといけないよ。確かに、なるほどと思う。
2006/08/27
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ひと月前くらいから肋骨の下部中央あたりに痛みと違和感が出始め、これは何か悪い病気なのではないだろうかと気になり始めたのだった。悪い病気なのであればもちろん早く医者にかかって治療してもらうべきなのだが、どうも億劫で、「どうせ人間一度は死ぬんだから、30才前後で死のうと80くらいで死のうと同じではないか」などとぐずぐず考えながら、病院に行くのを先延ばしにしていたのだった。その後病院に行き、どうやら何もないらしいことが分かったのだが、この間に色々と死について考えたのだった。宮沢賢治の童話に「フランドン農学校の豚」という作品がある。農学校の校長は豚を殺して食べようと思っているのだが、家畜を殺すためにはその家畜から判子付きの死亡承諾書をもらわないといけないという法律がある。校長は豚に判子を押してもらおうとして次のように話しかける。「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ。」仮に余命3ヶ月と言われたとしたら自分はどうするだろうと想像したのだが、あまり意味のある三ヶ月の過ごし方は思い浮かばなかった。3ヶ月が50年だとしたらどうだろうという連想も働いたわけだが、これもまた同様だった。人生なんてそんなものだと言ってしまえないこともないのだが、やはり別の考え方が出来るのならそれに如くはないとも思える。これはやはり今の自分の生き方を変えるべきなのではないかと最近よく考えている。人生は短いのだから生きている間に楽しめるだけ楽しんでおこうなどと考えるのは、健康的なことなのだろう。しかし、楽しむことに価値を見出さない人はそういう生き方は出来ない。「ああ楽しかった」で済ませばよいのだが、楽しかったけど一体何になったのだろうと頭で考えてしまうといけない。別に私は自らをニヒリストをもって任じているわけではないが、何に価値を置いているのかと問われれば、答えに詰まってしまう。ずっと昔は使命感に燃えていたし自分の人生に意味を与える価値観を持っていたのだが、今ではそれはなくなってしまっている。結局のところ、価値観とは宗教(信仰)か病気のようなものなのだろう。確かな根拠もなく信仰するか、患うものなのだろう。宗教も病気もある意味似たようなものとも思われ、そういった病気だかなんだかにかかっている人は、ある意味恵まれていると言えるのだろう。また、私はある程度のところで思考をストップしてそういった病気にかかるように努めた方がいいような気がしている。
2006/08/27
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税金対策と老後の生活のことを考えて、新しく年金に入ることにした。年金はある程度長生きしなければもらえないし、もらえるのは何十年も先のことでもあるしで、これまであまり深く考えずに来ていたのだが、自分の老後のことを真剣に想像してみるとやはり便利な制度であり、私のような安定志向の者にとっては欠かせないもののようだ。国民年金を払っていない人がかなりの数にのぼるらしいが、そのような人たちはきちんと対策をしているのだろうか。年金が不十分だと恐ろしいのは、なんといっても長生きをし過ぎてしまうということだ。長生きをし過ぎてお金が尽きてしまったらどうしたらよいのだろう。もちろん生活保護などは今から当てにするべきではない。お金がなくなれば、自殺でもするか、黙って死を待つか、人を頼るかするしかないだろう。自殺などは遺された人たちに傷を残す恐れがあるし、野垂れ死にというのは相当嫌な死に方だし、人を頼って生きるのはまずもって人迷惑だ。となると、お金がなくていいことなんて何もない。当たり前の結論だが。年金を払うくらいなら貯金しておいた方が得だなどとも以前はぼんやりと考えていたのだが、貯金をするくらいなら年金を払う方が得だと今では思う。貯金は何も節税効果がないし、利息も大したことがない。一方年金の方は、早死にしてしまえば無駄になるわけだが、長生きをすれば80才くらいで充分に元がとれるだろうし、100才くらいまで生きてしまう可能性もあることを考えると年金のメリットは計り知れない。お金の管理にはもちろん分散投資をしてリスク管理をしておくのが賢い。株、外貨、債券、不動産、円預金などに適宜分散しておく。これらは必要とあらばいつでも使おうと思えば使えるお金だ。一方年金の方は、長生きをしなければ手に入らず、しかも年に一定額しか使うことが出来ない。しかし、人間何歳まで生きるのか分からない以上、何歳になっても一定以上の財産を持っておく必要がある。とすれば、その一定以上の財産を死ぬまで確保しておくことができる年金に入っておくことは、分散投資の一環として非常に便利なものだ。もちろん年金制度が破綻する恐れもあるわけだが、そうなればもう諦めるしかない。100才まで生きてしまう可能性があることを考えると、それくらいのリスクはやむを得ないかと思う。国民年金については、税金から一部賄われる(現在、確か3分の1)こと、また将来国民年金用の増税がなされる可能性が高いことなどを考えると、払っておかないと馬鹿な目を見ることになる可能性が高いように思う。さて、そんなことを考えながら、一体自分は何歳まで生きることになるのだろうかと想像してみたのだが、もちろん答えは出なかった。明日死ぬ可能性だってあるし、還暦ぐらいで死ぬ可能性は充分にあるし、80くらいまで生きる可能性もあるし、100迄も生きるかもしれない。さすがに生きてもせいぜい80くらいまでだろうという気がするのだが、もちろん人生何が起こるか分からない。なんて言うと、変な物言いだけれども。私が70才を過ぎた時、仮に物価水準が現在と同じだとすれば、年金月々20万円分はせめて確保しておきたい。一人暮らしをしているとすれば、介護のおばさんに来てもらう必要があるかもしれないし、家族と同居しているとすれば、家族に生活費をたくさん渡せる身分でありたい。体は不自由だわ、お金はないわ、人に迷惑をかけているわでは堪らない。晩年、体は弱くなり頭は錆びついてしまったとしても、せめて気持ちだけは晴れ晴れと健やかにありたいものだ。年金さえ充分に払っておけば、年金制度に何かが起こるリスクに備えて多少多めに余剰資金を残しておくにしても、他の部分は心置きなく使ってしまっていいということになる。とりあえず年金がもらえる歳になってしまえば一安心、お金の心配はしなくていいということだ。
2006/08/22
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ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(Through the Looking-Glass, 講談社英語文庫)を読了。アリスと言えば、『不思議の国のアリス』の方が有名で、本書の方は一般に二次的な見方をされる傾向にあるような気がするのだが、かく言う私も実はそのような見方をしていた。ところが読んでみると、『不思議の国のアリス』に負けず劣らず面白い。ナンセンスな可笑しみに前作よりも一層磨きがかかっているような気すらする。前作にも面白いキャラクターが沢山登場した。その中で、チシャ猫が抜群の存在感を示している。言わば、チシャ猫がいっとう抜きん出ていて、他はさほどインパクトがない。ところが本作の方には、チシャ猫並みのインパクトのあるキャラクターが多数登場する。ハンプティ・ダンプティ、赤の女王、白の王、トイードルダムとトイードルディー、騎士、などなど。個人的にはハンプティ・ダンプティが一番好きなのだが、彼の登場の仕方なども心憎い。本作の長所の一つは、前作と同様、言葉遊びと駄洒落の可笑しさにあるのだから、英語で読むとなお一層面白いのではないかと思う。それらをきちんと理解して楽しむためにはそれなりの英語力が必要なわけだが、幸いなことにアリスシリーズの英語は簡単だ。駄洒落と言葉遊びは前作よりも本作の方が分かりやすいのではないかと思う。ただし、マザーグースなどのイギリスの読者には周知のものを前提としたところもあり、注がないとわけが分からないところがあるかもしれない。私が読んだ講談社英語文庫版の注は英文解釈のレベルの注に留まっており、物足りない。なお、英語リスニングの練習がてらにアリスシリーズのオーディオブックをよく聴いています。オーディオブックのナレーションには、すべて同じ声で朗読するタイプのものと、登場人物毎に声を変えて朗読する一人芝居のようなタイプのものとがありますが、私が聴いているもの(Alice's Adventures In Wonderland And Through The Looking Glass (Classic Collection (Brilliance Audio)) (CD))は後者のタイプのもので、もうこれ以上の完成度は望めないのではないかと思うくらいに楽しい朗読になっています。これを聴くと、アリスの世界がより立体的に感じられてきて想像力がふくらみます。アリスファンの方、英語のリスニングの練習をしたい方などにお勧めです。
2006/08/16
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これは私のいつもの妄想の一つに過ぎないのかもしれないが、ここ10年かそこらの間に日本社会の女性化が進んできているように感じている。和を重んじるというのは日本文化の特徴だけれども、中でも女性に顕著な価値観なのではないかと思う。例えば、人と話をしている時に相手に話を合わせようとするという傾向は特に女性に顕著なことだろう。自分がどう思っているのかどうかで言うことを決めるのではなく、どんなことを言えば相手が心地よく思ってもらえるのかという基準で発言内容を決める。意見の一致、共感をまず第一とする。おそらく多くの女性は同じような価値観を男性にも求めているのではないかと思うのだが、果たしてそれは正しいことなのだろうか。男性には男性の価値観があって、何もそれを崩してまで女性に合わせることはないのではないだろうか。人に好かれたい、嫌われたくないと思うのが人情というものだが、自分の価値観を崩してまで人に迎合することはやはりあまりよいことではないのではないだろうか。みんなから好かれる人が正しい人だというわけではない。一昔前からテレビなどで「空気を読め」という言葉がよく使われるようになった。つまり個性を殺してでも周りの場に合わせるのがよいという価値観だ。そして、空気を読める人間は正しく、読めない人間は駄目だということになっている。そしてこうした価値観がテレビの中に留まらず、巷にも蔓延するようになっている。あるいは、巷で発生し、テレビの中で増幅され、再び巷へと返ってきたのかもしれない。また、テレビに出ているタレントたちは、よくニコニコと笑っている。誰かが笑いを誘うようなことを言えば、みんなで一斉に笑うということになっているかのようだ。もちろん、テレビだから、オーバーアクションがよしとされていて、無理して笑っているという部分も大きいだろうし、ニコニコしていた方が製作者にも視聴者に好印象だという計算もあるのだろう。でもいくらなんでもちょっと合わせ過ぎなのではないかという気がする。一つの出来事に対して、人それぞれ様々な反応を示すという方が当然自然なことだろう。もちろん空気を重んじよう的な前提のない番組もあるだろうが、むしろそちらの方がまれになって来ているのではないだろうか。いわゆるバラエティ番組でも、反応を各自に任せてみてもよいような気がするのだが、やはりそれだとうまく行かないのだろうか。テレビはいまだに日本社会最大の娯楽の一つであり、多くの人がテレビ番組を楽しんでいる。そしてテレビの中で繰り広げられていることが巷に反映されるということが往々にしてある。しかし、テレビという空間はあくまでも劇場空間であって、それをそのまま現実に適用することは普通正しくないものだ。テレビの中で流行り出したことやそこでしばしば見られることに伝染されてしまうことには用心する必要があるように思う。テレビの中のはやり言葉にも用心しなければならない。テレビの中の価値観はあくまでもテレビの中だけのことだ。巷の健全さがなるべくテレビなどに害されないように願いたいものだ。
2006/08/07
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リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読了。長らく気になる作家でありながらも、難しいという噂にしばらく躊躇していたのだったが、いざ読み始めてみると思っていたほどには難しくはなかった。とはいえ、難しいことには難しい。とりあえず通読はしてみたが、ちゃんと読んだとは言いがたい状態だ。本書は英語ネイティブにとっても難しい本らしい。どう難しいのかというと、まず気づくのは語彙の豊富さだ。私は意味の分からない単語はその場で逐一辞書を引いて調べながら読み進めるタイプの読者なのだが、本書では、辞書を引く頻度がかなり高かった。しかも辞書を引いても載っていないということも多かった。他の多くの作家であればもっと一般に馴染みのある単語を使って表現するところを、パワーズは馴染みの薄い単語を使う。これが本書にとってどれくらい、そしてどれほど必要なことなのかは分からないが、パワーズが意味もなく難解な言葉を多用するとは思えないので、やはり意味のあることなのだろう。また、口語表現がわりと多く使われているのも、私には難しかった。パワーズはよく言われるように博覧強記で頭の非常に切れる秀才だ。ある程度知的レベルを落として読みやすく書いてくれているのだとは思うが、それでもまだ知的レベルが私には高すぎた。知的レベルのかなり高い読者にはよく理解できるのだろうが、一般的な読者でも理解できるように易しく、理解しやすくは書かれてはいない。哲学書や論文のような無駄のない引き締まった文章を読み慣れているというぐらいの知的レベルは必要なように感じた。これを訳した柴田元幸さんは、やはり大したものだと思う。理解するのすら常人には難しいものなのに、それを日本語にして意味を成すようにしてしまうのだから凄い。私も原書を読みながらこれを日本語にしたらどうなるのだろうかと頭の中で訳を試みてみることが何度かあったが、とてもまともな訳など思いつかなかった。柴田さんの翻訳は見ていないが、いずれ本書を再読するときには翻訳と併読してみたいと思う。かなりの英語の勉強になるのではないかと思う。それにしても訳す本の難易度と得られる報酬の多寡とが無関係だというのは、翻訳者にとって不合理なことだなと思う。パワーズの本を翻訳することが出来る翻訳者は多くはないだろうし、一人で何冊も訳してしまうというのは割に合わないこと甚だしいことだろう。パワーズの本には現在邦訳のないものがほとんどだが、一つにはそういった事情があるのではないかと思う。まもなく柴田さんが共訳でもう一冊出すようだし、若島正さんも2冊ほど翻訳の予定だとのことだ。柴田さんと若島さんというトップレベルの翻訳者に恵まれたのはパワーズさんにとっても日本人読者にとっても幸せなことだと思う。本書のテーマの一つは20世紀とは何かということのようだ。また、20世紀以降において、世界をどのように見ることが出来るのかという世界観、真実とは何なのかという認識論をも扱っている。本書の中には哲学的な議論が展開されている章も多く、全体としてみると小説らしくない小説だなという感想を漏らしたい気にもなる。登場人物もそれなりには描けているし、謎解きの要素など、小説らしいところも多分に持っているのだが、パワーズはむしろ、20世紀、および20世紀における世界観と認識論という、知識人的な関心・問題意識から本書を書いたのではないかという気がする。キャラクター作りとストーリー性には正直物足りなさを感じた。本書はパワーズがまだ20代のころの作者最初の作品であり、それでこの完成度というのはやはり凄いと思う。アメリカやイギリスのアマゾンのサイトを見ると、本書はあまり読まれていないようだが、以降の作品は結構読まれているようだ。以降の作品はおそらくもっと面白いに違いない。パワーズというと、知識の豊富さと頭のよさはもちろん、誠実さ、真面目さの印象が強い。いくつかのインタビューを聞いていてもそれは強く感じるし、私が彼に惹かれる理由の一つとなっている。また、彼は現実にしっかりとコミットしているという感じがする。知識人として、現代人が抱えている問題に真剣に取り組もうとしている。そのあたりのことは、『柴田元幸と9人の作家たち』所収のインタビューを聞けばよく分かる。そのようなパワーズがどのようなことを考え、どのような本を書いているのかということに非常に興味がある。他の作品も読んでみるつもりだ。以前にもここで紹介した柴田さん、若島さん、高橋源一郎さん、佐藤亜紀さんによるパワーズについての対談を読み直してみたのだが、やはり面白かった。(付記)この春に村上春樹さんについてのシンポジウムで基調講演をするためにパワーズが来日していたのですが、その時に青山ブックセンターでトークショーが行われていたようです。その時の模様はここで知ることができます。また、村上春樹シンポジウムでの基調講演は『新潮』2006年5月号に柴田さんによる翻訳が掲載されています。これを生で聞いた人達は度肝を抜かれたのではないかと思われる、かなり奇抜でありながらもかなり優れた村上春樹論になっていると同時に、パワーズという人がどういう感じの人なのかを知るのにもよいものだと思います。村上さんとパワーズの少なくともいずれかに興味のある方であれば楽しく読めるのではないかと思います。
2006/08/06
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