2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全6件 (6件中 1-6件目)
1
ビル・クロウ『ジャズ・アネクドーツ』(村上春樹訳、新潮文庫)を読了。ジャズ・ミュージシャンたちの面白い逸話を集めたもの。ほぼ全てが笑い話。声を出して笑ってしまうような可笑しな話が満載なのだが、著者が「まえがき」で用意周到に断っているように、尾ひれをつけられ誇張されたものが殆どなのではないかという気がする。ちょっと信じがたいような、馬鹿みたいで、古い漫画かコントに出てきそうな話が多い。ジャズ界には奇人変人が多いようなので、ある程度は実話に基づいているのだろうとは思われるが。登場人物の多くは、ジャズに詳しい人にとってはお馴染みの人物なのだろうが、あまり詳しくない私には知らない人が殆どだった。それでも話自体は面白く読めた。ジャズに詳しい人の方がより楽しんで読めるだろうが、詳しくない人がジャズ・ミュージシャンに親しむのにも役立ちそうだ。本書を読みながら、ちょうど読んでいるところに出てくるミュージシャンのCDを聞いたり、村上春樹さんの『ポートレイト・イン・ジャズ』の該当項目を読んだりした。ジャズへの親しみ度がいくらか増した。こういう逸話集の日本作家版などがあれば面白いだろうなと思う。また、ジャズ界には興味ぶかい人が多いので、ジャズ・ミュージシャンたちの伝記や自伝なども折に触れて読んでみるつもりだ。
2006/12/30
コメント(0)
ナボコフ『ロリータ』を読了。例によってきちんと読み込めなかったので、覚え書き的に感想を書きます。ナボコフ好きのある人の言によると、『ロリータ』はナボコフ作品の中では三番目くらいに読みやすいとのことだが、実際読んでみるとかなり読みにくかった。『セバスチャンナイトの真実の生涯』は、細かいところまで読みとるのにはかなりの熟読を要するにせよ、それさえ諦めればテンポよくしかも楽しみながら読むことが出来る。だが、『ロリータ』はスムーズに読むことが出来ず、絶えず引っ掛かりながら四苦八苦して読み進めることになる。以前に大学で『ロリータ』をテキストとした授業に参加したことがあり、その時に半分くらいまでは読んだのだが、どこが面白いのかまったくわからず、またその文体に悪趣味を感じさえし、途中で投げ出してしまったのだった。今回は、『セバスチャンナイト』でナボコフの面白さの一部を知った後であることもあり、以前ほどの拒絶反応はなかったのだが、それでもやはり何でこんな書き方をするのだろうと最後まで疑問に思い続ける読書行程だった。本書ではしばしばフランス語の文が挿入されるのだが、私はフランス語は読めないし、わざわざ辞書を出してきて調べる気も起こらない。また、他の文学作品への言及や言葉遊びなどに逐一反応できるほどの教養は持ち合わせていないので、そういう箇所はなんだかよく分からないままに読み飛ばしてしまうことになる。ナボコフの小説を読むことの醍醐味の一つとして、そういう箇所にぶつかった時に、これはどういうことを言おうとしているのだろうと考え込み、考えたり調べたりした末に理解に達することが出来た時の喜びを挙げることができるようだ。しかし、そこまでナボコフ小説の世界に付き合おうとするのには、この世界への愛情が不可欠だろう。それほどの愛情がないと、「こんな悪趣味には付き合いきれないな」と嫌気がさしてしまうことになる。私も、今回読み終わった後、ナボコフの中で三番目に読みやすい小説がこんなにも取っつきにくいのだったらナボコフ小説とのお付き合いはもうこれっきりかなと思ったのだったが、読後、ナボコフ好きの人たちの書いた文章を読んでみて、これに懲りずにまたいつか読んでみようかなという気になっている。しかし、今度読むときは注釈本を脇に置きそれを参照しつつ読むことにしよう。英語力も上げておこう。また、フランス語も少しは勉強しておいた方がもちろんいいし、文学的な素養も少しは高めておきたい。そんなわけで、再挑戦するなら今から二年後以降だ。できれば、その前に自伝か他の簡単そうな作品を読んでおきたい。読後感は悪くない。特にクィルティを殺す章なんかは非常に読み応えがあるし、他にもハッとさせられる文章が多くあった。『ロリータ』を恋愛小説と見る向きもあるようだが、それはどうなのだろう。継父が娘をレイプするというケースは、例えば現在のアメリカでは社会問題にもなるくらいに珍しくないことのようだが、ハンバートとロリータのケースもこれに当てはまるようにも思える。本書を読んでいても、ハンバートとロリータとの感情的な関係がどのようなものなのか今ひとつはっきりとはしないのだが、普通に考えるならやはり娘の無力さを利用したおぞましい犯罪行為を続けていたのだと見るのが自然なのだろう。だとすれば、そんな極悪人に対して、読者である私はどのような感情で接すればよいのか。本書では、ハンバートはけっして悪人としては描かれていないように見える。そもそも本書は、本文のほぼ全体がハンバートの手記という体裁をとっている。よって、当然、ハンバートの気持ちに寄り添いながら読み進めることにならざるを得ない。ハンバートを突き放していては読むことが出来ない。ここは、ハンバートの気持ちに寄り添いつつ読み進めながらも、ハンバートの道義的な欠陥についてはこの際問題にはしないという読み方をするしかないのか。モラルは抜きの芸術として読めということなのかもしれないが、これを熟読玩味しつつ読むということは、上に述べたように、多大な時間と努力をハンバートの気持ちに寄り添うことのために費やすことを意味しており、果たしてそんなことをしてもいいのかなという気がしないでもない。ハンバートがロリータへ寄せる愛情の深さは時に心を打つほどのものであるし、それはそれで感じるところはあるわけだけれども。喜劇の主人公として笑い飛ばすという読み方もあるみたいだけれども、そのようなものとしてのみ描かれているとはどうにも思えないし、かといってシリアス一辺倒というわけでもない。結局のところ、どういう態度で本書を読めばよいのか、読者としての態度を定めるのが難しいなというのが、私の読者としての現状だ。結局色々とごちゃごちゃと書いてしまったが、まとめようがないので、こんなところでやめときます。
2006/12/30
コメント(0)
(続き)中野好夫の文章は素晴らしい。意味不明なところはほとんどないし、翻訳であるにも関わらず熟読に耐える。訳者解題によると、「訳文だけを読んでもらっても、できるかぎりオースティン文学の面白さがわかってもらえるような、いわば一人歩きのできる翻訳をというのが念願だった。したがって英和対照用の訳ではない(といっても原文を離れたつもりは毛頭ないが)」とのことである。高級なハーレクイン・ロマンスとしても読めそうな、堅苦しさの全くない小説だ。
2006/12/25
コメント(0)
ジェーン・オースティン『自負と偏見』(中野好夫訳、新潮文庫)を読了。あまりに面白いので、ほぼ一息で読み終えてしまった。この面白さは夏目漱石の面白さにも似ているし、やはり、金井美恵子さんはオースティン的だなと感じた。よく指摘されるように、オースティンの小説にはドラマチックな出来事はほとんど起こらない。特に異常な人物が登場するわけでもなく、ごくありふれたどこにでもいるような人物が登場するだけだ。前々から何か優れた家庭小説はないものかと考えていたのだが、思えばオースティンの小説なんかその恰好のものだった。主人公であるエリザベスが属するベネット一家の家族構成は、エリザベスの両親であるミスタ・ベネットとミセス・ベネットに、その娘であるジェイン、エリザベス、メリー、キャサリン、リディアの五人姉妹を加えた計7人の構成だ。この内特に一癖もふた癖ある困り者はミセス・ベネットとリディアだ。ミセス・ベネットは、自分は不幸だ不幸だといつも考えているような女で、近所の悪口を言ったり、つまらないことに大げさに騒いだりしながら生きている。「娘の幸せのことばかりを考えて生きているのだ」というようなことをいつものように言い、自分でもそれを信じて疑っていないのだが、実際のところは娘の幸せのことなんかほとんど考えていないといってもいいくらいで、とにかく世間体ばかりを気にしている。自己認識が正しく出来ていない人というのは誠に厄介なものだ。リディアはまだ15歳くらいの娘なのだが、士官だか兵士だかの見栄えの良い男達が集まるパーティーに行くことばかりが楽しみで、たしなみというものが全くない軽薄な女だ。終まいには碌でもない男と駆け落ちまでして、家族や親戚などに散々な迷惑をかけた挙げ句、願い通りにその男と結婚をすることになるのだが、自分が人に迷惑をかけたことになんて気がついていないかのようである。あるいは気がついていても、そんな事は気にするに当たらないことだとでも思っているのだろうか。いずれにしても同じことだが。このリディアのお相手であるウィカムは、相当な駄目人間ではあるのだが、実際にこういう人は今も昔も相当数いるものなのだろう。そういうごく当たり前に存在するタイプの人物を、大げさになることなくありのままに的確に描くことができるところにオースティンの才能が見られる。また、脇役たちにも興味ぶかい人たちが数多くいる。そういう様々な類型的人間をステレオタイプにならずに細かく的確に描くことが出来るということ、そういう才にかけてはオースティンは古今東西の作家の中でも随一と言ってもいいくらいだろう。いや、むしろオースティンの類型は細かいのだと考えるのが正しいのかもしれない。これまでに造形されてきた類型的人物が20種類くらいあるとすれば、オースティンはその大雑把な類型をさらに細かく細分化して、そのより詳しいサブ類型を精緻に造形したという言い方は出来ないだろうか。この小説を読んで誰に感情移入をするか、誰に共感を覚えるのかは、読者によって様々だろう。誰に感情移入をするのかによって、その読者の性質を知ることすらできそうだ。自分はどの人物が好きでどの人物が嫌いなのかをその理由と共に読者同士で話しあってみるのもなかなか楽しそうだ。私の場合、女性陣でいうならば、やはりジェインが一番好きだ。次いでエリザベスも悪くなさそうだ。ミセス・ベネットとは、なるべく付き合いたくはない。一緒に住まなければならないとなれば相当ストレスの溜まる生活を強いられることになるだろう。このミセス・ベネットという人物は、けっして憎めない人物ではあるし、彼女に感情移入する女性読者も少なくないのではないだろうかという気がする。しかし、この「憎めない」というところがとりわけ厄介なのだ。このミセス・ベネットの夫たるミスタ・ベネットは、作中では困り者扱いされている節があるが、私にとっては非常に共感できる人物だ。私が仮にミセス・ベネットみたいな女を嫁にもらうことになったとすれば、やはり書斎に閉じこもった生活をすることになるだろうし、嫁のあしらい方という点にかけては、彼のそれはこの場合の理想に近いようにすら思えるのだが、これは私が身勝手だからだろうか。さて、もう一人、私が非常な共感を覚えたのは、ミスタ・ダーシーだ。上巻の彼は嫌われ者で、下巻に入ると見直されていい男になるわけだが、上巻を読んでいる最中彼は私に似ているなと感じていた。彼が非難される原因となった行動の数々は私にも思い当たるところがあり耳が痛い感じがすることも多々あった。ダーシーは愛想が悪く、パーティーの席でも誰とも話をせずに長い時間を過ごすなんてこともしょっちゅうだ。そういうところから彼は高慢だと思われ評判が悪くなるのだが、そんなことぐらいで評判が悪くなるようでは堪らないなという気がする。そんな無愛想さをエリザベスから批判されてダーシーは次のように答える。「なるほど」とダーシーが答えた。「そりゃ、新しい紹介を求めたほうがよかったかもしれませんがね。ただわたしという人間はですね、知らない人に、わたしのほうからおつきあいを求めてゆくような柄じゃないんですよ」「あら、ダーシーさんに、その理由を伺ってみようじゃありません?」と、これはなおも大佐に訴えかけての言葉だった。「常識もあり、教育もある人間、そして世間もよく知ってきた人間が、どうして知らない方におつきあいを求める資格がないか、伺ってみたいもんですわ」「それなら、なにもダーシー君をわずらわすまでもない」とフィッツウィリアムが引き取った。「わたしでもちゃんとお答えできますよ。つまり、面倒なことは一切いやなんですねえ」「どうもわたしという人間はね」と、ダーシーもあとを受けて答えた。「ある種の人たちのもっているような才能に欠けている。たとえば、はじめての人とでも心安く話せるというあれですね。よくあるように、そういう人たちの話にうまく調子を合わせること、そしてまたそうした話に、自分もいかにも興味ありそうな顔をすること、それがどうもできないんだな」(上巻、260-61)ダーシーによるエリザベスへの求婚の言葉は、確かに一般的な見地から見ると、奇妙なものだろう。だが、私にはそのような求婚の仕方をしたダーシーの気持ちがよく分かるし、好もしく思いもするのだ。エリザベスに対して恋心を抱きながらも彼がなかなか求婚に踏み切れなかったのは、両家の家柄の差とエリザベスの両親と妹たちの品性の下劣さとが強く引っ掛かっていたからだった。求婚の言葉の中でダーシーはそのことをエリザベスに対して率直に打ち明ける。「彼女を一段目下の女と見、それはそのまま人間的低さと見る彼の考え--いくら好きでも、家柄ちがいということがあれば、やはり理性的に考えて、そう簡単に結ばれるわけにはいかぬという彼の結婚観--そうしたものは、じつに熱心に縷々として述べられた。しかもその熱心さは、おそらく彼がいま傷つけようとしている彼自身の身分、それを思ってのこととは思えるが、それにしても、求婚のために役立つとは、ちょっと思えなかった」(下巻、7)エリザベスは求婚を不躾に断り、さらに、ある誤解に基づいて、彼の人格を激しく非難する。それに対してダーシーは、「ありがとう、よくそれだけおっしゃってくださいました。なるほど、その計算によると、どうも僕は、たいへんな罪を犯していることになるな! だが、どうです?」と、そこで彼は足を止め、彼女のほうに向き直りながら、言った。「ついさっき僕は、長い間本気で踏み切りかねていた理由を正直に告白して、すっかりあなたの自尊心を傷つけましたがね、もしかしてそれがなかったらですよ、いまおっしゃった僕の罪などは、案外見逃していただけたんじゃありませんか? 僕がもっとずるくて、胸の苦しみなどはまるでかくし、ただひたすら純情一途で、いや、そればかりじゃない、理性の上でも、反省の上でも、とにかくありとあらゆる意味で、あなたを愛しなくてはいられないようになったかのようにでも、申し上げていたら、どうでしょう? いまのようなひどい非難は、なさらなかったんじゃありません? だが、僕という人間は、一切嘘が大きらいなのです。僕の申し上げたような気持を、いまだって恥ずかしいとは思ってません。自然な正しい感情ですものねえ。あなたのご親類の社会的地位の低いことを、僕がよろこぶとでもお考えになるのですか? 新しくできる親類関係が、みんなはっきり僕より低いことを、これは目出度い、結構なことだとでも思うように、お考えになるのですか?」(下巻、12)こういう彼の正直さに、私は愚かさとともに誠実さを感じ、好感を抱くのだが、彼のそのような態度はエリザベスの目には「尊大」であり「厚顔」(下巻、14)であるとしか映らなかった。もちろん、彼女の反応は至極尤もでありダーシーの求婚の仕方の方が滑稽なのだというのが大多数の意見なのだろうし、オースティン自身も同じ立場に立っているのだろうと思われる。しかしオースティンは、エリザベスの気持を理解しているとともにダーシーの気持の方もまた充分に理解しているのだろうと思われる。このように相対立するものを共に理解することができる複眼的思考が出来、それを作品全体にわたって生かすことが出来るところにオースティン作品の優れたユニークさがある。例えば、オースティンはまた次のようにも書いている。「もしエリザベスの結婚観が、すべて自分の家の経験から推して、つくられたものだとすれば、結婚生活の幸福や家庭の楽しみについて、あまり愉快な想像をもてなかったのは当然であろう。父親というのは、若さと美貌と、それにたいていの若い美人がもっているに決まっている表面だけの朗らかさに惹かれて、結婚してしまったのだった。ところが、その妻は、知能も弱く、心もさもしいとあっては、ほんとうの愛情は、結婚するとまもなくさめてしまった。尊敬だの、敬意だの、信頼だのというものは、永久に消えて、彼が考えていたような家庭の幸福は、完全にくつがえされてしまった。だが、ただミスタ・ベネットという人は、自分の無思慮からまねいた失望のかわりに、世上よくあることだが、己が不徳、己が愚かさから不幸に陥っておきながら、その慰めを、ほかのいろいろな快楽に求めるような、そんな性質の男ではなかった。彼は、もっぱら田園、そして本を愛した。そしてそうした趣味から、彼の主な楽しみは生まれていた。妻から受けているものといえば、彼女の無知と、そして愚かさが提供してくれる面白さというほかには、ほとんどなかった。もちろんこれは、普通世間の夫が、その妻に望む種類の幸福ではなかったが、ほかになにも楽しみの能力がないとすれば、ただ与えられるものだけを利用するという、それが真の悟達者の心境だったのだ」(下巻、71-72)女性でありながらこのような観察をできているというところはさすがにオースティンだ。この文章は、ある種の夫のことを見事に説明していると共に、ユーモアもある文章だ。決してユーモアに流されることはなく、また深刻に流れることもない。絶妙のバランスを保っている。オースティンの人生もまた、その作品世界と同様、あまりドラマチックな出来事のない落ち着いたものだったという。その分小説はよく読んでいたというし、人間観察もよくし、人(生身の人物であれ小説中の登場人物であれ)の気持ちをよく考え想像していたのだろう。それで彼女のように、様々な人物の気持ちやら立場やらを公平に、主観的な好悪の念を混ぜることなく、観察し理解し記述することができたのだろう。そして彼女には文章力があったし、気質もまた作家となるに向いていた。
2006/12/25
コメント(0)
話はかわって。小林秀雄が面白いことを言っていた。「歳をとれば歳をとったなりの考え方をしよう。」いつまでもお気持ちが若いですねえなんてほめ言葉のように使われたりするが、そんな馬鹿な話はない。せっかく歳をとったというのにいつまでも若い気持ちでいるだなんて、それでは歳をとった甲斐がないではないか、と言うのだ。「若さ」ということが今では大変持てはやされているが、確かに持てはやされすぎのような気がしないでもない。歳をとったのなら歳をとったなりの生活をするのが「まとも」ということなのではないのだろうか、なんてことを思ったりもする。「若さ」がかくまでにも持てはやされるようになった責任の一端はやはりジャーナリズムにあるのだと思われるが、そのジャーナリズムに対しても小林秀雄は面白いことを言っていた。小林さんも、どうもジャーナリズムは嫌いだったようだ。「ジャーナリズムが流しているものが文化だというわけではない」と、小林秀雄は言った。ジャーナリズムは時局に従って言うことをころころと変える。こんな成り行き任せのものからは文化なんてものは生まれない。この言葉に動かされたわけではないが、私は、これからはますますジャーナリズムには背を向けるようにしようと考えている。私は元々テレビはほとんど見ず、時々スポーツ中継を見る程度だった。家族がみんなテレビ好きでいつもテレビがついているので、テレビのある部屋に用事がある時に短い時間だけ見ることになったり、そうしたきっかけで見始めたところからついつい長時間見てしまったりすることが時々ある、という程度だった。そうしたときに見るテレビのバラエティー番組なんかには、面白いものもたくさんある。タンメンがどうのこうのというギャグも、何でか分からないけれどもついつい笑ってしまう。もちろん良質のエンターテイメントもあるにせよ、そういったテレビを通じて提供されるエンターテイメントを楽しむことから、私は多かれ少なかれ悪い影響を受けているのではないかという直観がある。なんというか、そういったエンターテイメントには「まともでなさ」が多く含まれているような気がするのだ。というわけで、これからは意識的にジャーナリズムを遠ざけるようにしようと思っている。歳をとれば歳をとったなりにという話に話を戻す。小林秀雄が言っていたことだったかどうかは覚えていないが、年寄りが若者の考えに迎合するのは考えものだと思う。年寄りの考えと若者の考えとは違っていて当然であり、何も若者の考えに合わせる必要はない。意見の一致なんてことは必ずしも重要なことではない。年寄りと若者とは、ある意味対立して当然とも言えるのではないだろうか。若者に疎まれるくらいであってこそまともな年寄りとも言えるのかもしれない。同じようなことはおそらく親子関係にも言えるだろう。例えば、父と息子との意見が合わないのはある意味当然のことであり、父はこう思う、息子はこう思う、意見が違う、さてどうしようか、という段取りが少なからぬ場合において望ましいのではないだろうか。自分で書いていることが、どうも間違っているように思えてきたので、今日のところはこれくらいでやめておきます。
2006/12/17
コメント(0)
ここ一ヶ月ばかりの間、音楽をたくさん聴いている。それは一つには村上春樹さんの音楽関係の著作を読んでの影響だ。村上さんがいいと言う音楽がどういう音楽なのかを確かめてみたいというのもあるし、私は村上さんの鑑識眼の高さを信頼しているので、村上さんがいいという音楽はきっといいに違いないと思うというのもある。そんなこんなであれやこれやのCDを買ったり借りてきたりしているのだが、お金もかかるし、聴く時間も長く必要だしで、本を読む時間がなくなってしまう。ただでさえ読みたい本がたくさんあり、それどころかどんどんその数が増していっているというのに、こんな具合を続けていくわけにはいかない。というわけで、これはなんとかせねばならぬと近頃よく考えていた。話が飛ぶようだが、この一ヶ月ばかり、図書館でカセットテープを借りてきて聞いている。カセットテープというのは、カルチャーセンターでの講義の録音であったり、ラジオ放送の録音であったり、講演会の録音であったりだ。川端康成、河合隼雄、三島由紀夫、小林秀雄、安部公房、大佛次郎なんかの話をこれまでに聞いた。また、戦争体験談も幾つか聞いた。どれもとても面白い。色々と音楽を聴いていて、音楽とはいったい何なんだろうというようなことをぼんやりと考えたりもした。ヴォーカルとは何なのか? ビョークや、ジム・モリソンや、サラ・ヴォーンなんかが歌うのを聞いていて、彼等の声は楽器みたいだななんてことを考える。洋楽やらオペラ音楽やらを聴いていても何を言っているのやら意味が分からない。分からないながらも気持ちよく聞くことが出来る。これは人間の声を意味を伝える言葉として聞いているのではなく音として聞いているのだという言い方をすることができるだろう。音といいながらも、ところどころで言っていることが理解できたりして、言葉として受容したりもする。音でもあり言葉でもありするわけだが、概括的に言うならば、音と言葉との混合体ということになるだろうか。ところで、私は、英語インタビューも日常的によく聞いている。これは主には英語の勉強のためなのだけれでも、それと同時に話を聞くのが面白いというのもある。話の内容も面白いには面白いのだが、面白いのはただそればかりではなく、会話の流れ方の妙だとか、話し手の感情の動きやなんかを感じるのも面白い。また、声を聞いて心地よいなと思ったりもする。要するに、人と人とが話しているのを聞いているだけなのだけれども、そこには音楽を聴いて楽しむことに通じるものがあるような気がするのだ。音楽とは何なのかという問いに対する、誰もが納得の出来る答えなどはもはやないのではないだろうか。4分33秒の間何も音を発しないことですら音楽になりうる。複数の人がそれぞれ違うことを話しているのを一つにくっつけてしまうだけでも音楽が出来うる。何を言おうとしていたのか分からなくなってしまった。私はどうも他人の影響を自ら進んで受けようとするところがある。自分では別に面白いとは思わないのに、他の誰かが面白いと言えば、きっとそれは面白いものに違いないと思い、自分もそれを楽しまなければならないと考えてしまう。私が最近考えているのは、そういうことはもうやめてしまおうということだ。自分は自分、他人は他人。自分の個性を追求して行こうということ。他の誰かが面白いと言ってもそう簡単にはその言葉に動かされないこと。結局のところ、私に与えられた時間は限られており、関心を持ったことすべてを行うことは不可能だ。生きていくということは取捨選択をし続けることであり、一部を取り、その他の大部分を捨てるということだ。誰かが言っていたが、他人の人生を生きるには人生はあまりにも短い。もっと自分に忠実に。取捨選択に自分の個性が現れるのだと知ること。自分とは何なのか、どんな自分になりたいのか、といったことがこの取捨選択に関わってくるのだろう。私は来年には30歳になる。孔子は「三十にして立つ」と言った。意味は、ある辞書によると「三十歳になり、自己の確固とした立場をもってゆるがず、自立する」ということらしい。その後に「四十にして惑わず」とくるわけだから、この定義が正しいのかどうかはかなり怪しい。ついでながら、国語辞典の定義の大抵は怪しいものだ。孔子がどういうつもりで上のように言ったのかはともかくとして、30歳にもなればそろそろ自分の方向性を定めて、狭いが確固とした領域に自分を追いいれて行かなければならないのではないか、なんてことを思ったりもする。そろそろ潮時、あれもこれもなんて言っている歳ではない、これだと決めた方向に迷いを追い払いつつ進むべき歳なのではないか。なんてことを書いてはいるが、少なからざる人は何歳になっても惑い続け、そして惑ったまま死んでいっているのだろうし、決してそれが失敗の人生ということでもないのだろう。そして、これと決めた方向に何の迷いもなく突き進むというのも、正直どんなものかという気がする。またまた話がそれたようだが、そもそもの書き始めから、まとまったことを書けるとは思っていないし、無理してまとまったことを書くのもよくないことだと思っているので、当初の想定通りと言ってもいいのだ。河合隼雄さんのユング心理学についての講義をカセットテープで聞いて思ったことがある。ユングのタイプ論というものがあり、それによると、人にはそれぞれに生まれながらの傾向というものがある。まずは、二種類の態度。つまり、外向的か内向的か。そして、四種類の機能。「思考」、「直観」、「感覚」、「感情」。人はそれぞれ、外向的か内向的かのいずれかに分類され、また、四種類の機能のうちの何れかが特に発達している。そして、「思考」と「感情」とは対立した関係にあり、「直観」と「感覚」もまた対立した関係にある。つまり思考に優れた人は感情が未発達で、感情の発達した人は思考が未発達である。直観と感覚の対についても同じことが言える。河合さんの話を聞きながら、私は明らかに内向的思考型だなというふうに考えた。つまり感情が未発達なのだ。感情が未発達だということは随分前から感じていたことなのだが、今回改めてそれを強く意識するようになった。というのも、先月に大学時代の知人たちとの集まりがあり、いつものことながら私ははみごっぽくなってしまい、これは私の性格に何か問題があるのかもしれないななどと思い考えていたのだった。私は、どうも話を話としてただそれだけで楽しむということができない。私にとって、話をするということは何かを学ぶための手段であり、知りたいという好奇心を満たすためのもののようなのだ。興味のない話に興味を示すことなんてできず、興味のない話だとすぐに顔に出てしまうらしい。私が言葉を発する場合、それは大抵は何か知りたいことを知るために質問をする時だ。集まりがあった直後は、この性格を変えないといけないななんてことを考えたりもしていたのだが、今では基本的には自分らしくやっていくしかないなと考えている。私には私なりの会話の楽しみ方があり、無理してそれを変えようとしてもそう簡単にはうまく行かないだろうし、そもそも変えたいという気持ちがあまりない。私は大抵いつもテンションが低く無口だ。話している相手がしゃべる方だと大部分の時間を聞き役として過ごす。しゃべるのが好きな人は一人でしゃべるのは別に苦にならないのかもしれないが、自分がずっと黙って聞いているだけだと、どうも相手に悪い気がしてきて、さすがにそろそろ何か言わないとなと感じ始めると、無理に何か言うことを考え出して口を挟んだりしている。おそらく大抵の人にとっては、私は物足りない話相手ということなるのだろう。だが、それはもうそれで仕方のないことだと考えている。私はそういう性質なのだし、そういうものなのだと諦めるしかない。私の感情機能が未発達だという話に戻るが、私が思考タイプに属するのだとすると、感情機能が未発達だということは私の個性の一つだとも考えられる。感情機能が未発達だということは、何も劣等感を持つべきことなのではなく、思考機能が発達しているということの裏返しに過ぎず、単に私の個性の一要素なのだということだ。と知ったとして採りうる二つの道は、感情機能が劣っているということは、もうそういうものとして諦めてしまって、思考機能を生かす方向に進むという道、そして、劣っている感情機能を発達させようと働きかける道だ。ところで、私の知る限り、偉大な哲学者の多くは感情機能も極度に発達しているように思える。このことからも、思考機能が発達している人はみな感情機能が未発達だということではなく、思考機能が発達している人は感情機能が未発達である傾向にあるという意くらいに受け取るべきだということが分かる。感情が激しいということは、人生を生きる濃度が濃いということでもあるだろう。と同時に、思考派の人であれば何とも感じないようなことに辛い思いを味あわされたりと、生きる苦労も多くなるのではないだろうかと思う。どちらも一長一短ということなのか。そんなことが分かったところで、さて私はどうしようと考えているのかというと、今のところ特に定見はない。
2006/12/17
コメント(2)
全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()

